――まず、本誌のインタビューに応じていただけた経緯をお願いします。
四辻氏「やはり往年のSF作品が偉大な故でしょうか。現代に至っても尚、ナノマシンに対する誤解や偏見が根強いことを感じます。未だに名刺を出すと驚かれるのですから。僕は本気でやっているのですがね。まぁ、このインタビューを通じて、少しでもナノマシンをリアルに感じられる方が増えれば、と」
――SFと言えば、という印象があります。
四辻氏「判らなくもないですね。メタルギア、ARMS、虐殺器官……ナノマシンはある種、いつか訪れる未来への憧憬として様々な翻案がなされてきましたが、だからこそ実現に対する具体的なアクションを保留され続けてきました。昔の空飛ぶ車のようなもんですね」
――未来の象徴ではあるけれど、象徴そのものが求められてるわけではない、と?
四辻氏「具体的に必要になるビジョンが、まだ共有されてない、という方が正しいかと。一般的なイメージのナノマシンと、いま最先端で研究されてるナノマシンの実態には大きな乖離があります。勘違いされてる方が多いですが、ナノマシンだからと言って、必ずしも人体に注入するわけじゃない。僕が製品化しているナノマシンも、中小企業の工業ラインに乗せるために設計しています」
――医療テクノロジーだけが、ナノマシンの本領ではないということですね。
四辻氏「もちろん、将来的には人体で活躍するナノマシンも視野に入れていきたいと思います。ただ、そのために乗り越えなければいけない障壁が多いので、医療としてのナノマシンは、現段階では現実的ではないのも確かですね」
――ヒトが身体の中に大学病院設備を保有するのは、もう少し先の話のようです。
四辻氏「えぇ。有機分子回路の発明、免疫機能への対処、身体異常の感知と排除方法。他にも山ほど。このインタビューを読んでいる方は失望するかもしれませんが、人間とナノマシンが共生関係を結ぶまでは、まだ途方もない時間が必要でしょうね。
ただ、僕も偉大なSF作家が夢見た未来の礎になれるだけの『格』を身に着けていきたいとは思っています」
――本日はよろしくお願いします。それでは、四辻社長が推進しているナノDXについて、改めて詳細をお伺いできればと……
「どう? ウチの秘蔵の稀覯本だけど」
ページを手繰る指を止める。紙面から目を離した私を、ミナの値踏みするような琥珀色の瞳が迎えてくる。夕辻ミナ。伝承民俗学部の特待生で、ルーマニア人とのハーフで、前科一犯(執行猶予期間)。彼女の生家を兼ねたアンティークショップ『ギャラリー 夕辻』は諸事情により無期限の閉店中で、私はそこにちゃっかりお邪魔してオカルトな品々を物色している最中だった。
開いていたボロボロの雑誌を閉じて、マホガニー製のテーブルの上に置く。『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』――知らない人が見れば、小汚いだけの何の変哲もない古雑誌。けれどこの本、現代オカルトにおいて超、超、超、重要な激レア希少本だ。まさか生きてるうちにお目に掛かれるだなんて思ってもみなくて、身体の震えと口角のニヤニヤが収まらない。
「……聞くまでも無いわね。買ってく?」
「い、い、良いの!?」
「相場は760万ってところだけど、ちょっぴりオマケして750万で良いわよ。どうする?」
「………………」
「聞くまでも無いわね」
「……リボ払いとか」
「うん。蓮子さんが友達じゃなかったら頷いてたけど、流石に考え直してちょうだいね」
きっちり白手袋を嵌めたミナが慎重に取り上げた雑誌は、乾燥剤ならびに防虫剤と一緒にビニールに仕舞われたうえで店の奥の棚の中に安置されることと相成った。引き出しが閉じられるときに心の柔らかい部分がブチブチ千切られる感覚があったけど、拳を握り締め、歯を食いしばって耐えた。戻ってきたミナは、そんな私の様子を見て若干引いてるように見えたけど、それを取り繕うほどの余裕が今の私には無かった。
「私が言うのはどうかと思うけど、金銭的価値に見合うだけのリターンは得られないんじゃないかしら? 内容は電子でいくらでも出回ってるのだし」
「もちろん私も記事そのものはデバイスで何百回も読み返してるわ。価値の本質は冊子じゃなくて、そこに記載された情報に在ることも理解してる。なのに! 今にも喉から手が出そう……っ!」
「極上のカモね。ここまで欲しがってる人に売らないとか、もしかして私、商売人向いてないのかしら?」
ミナがため息交じりに手袋を外して、カップに注がれた珈琲を傾ける。彼女は当前のように使っているけれど、カップもソーサーも本物のマイセンで、一セットで並みの社会人の年収を軽く上回る。珈琲は私の分も出されているけど、価値の重圧に耐えられない私は口をつけるどころか下手に触ることもままならない。
きっとメリーなら、臆せず対応できるはず。なので秘封倶楽部の汚名返上の機会は、遅れてやって来るメリーのために取っておくことにする。今の私、興奮と緊張で、絶対に指を滑らせない保証ができないので。
「でも意外ね。アンティークショップなのに、百年以上前の希少本まで扱ってるなんて。確かに古くて価値があるものに間違いはないけど、骨董品というカテゴリに入らない気もする」
「アレは特別なの。蓮子さんは絶対に好きだろうと思って見せたけど、本来は売り物じゃない」
「750万で手を打とうとしてなかった?」
「ジョークに決まってるじゃない。そんな大金、ポンと女子大生の懐から出るわけないでしょ」
涼しい顔で言ってのけるミナの顔を、プチ忸怩たる思いで見つめる。雑誌といい、マイセンといい、ミナの手の上で踊らされている気分だった。実際、そういう意味合いは少なからず彼女の中にあるようで、浮かべる笑みがどこか不敵だった。まぁ、これくらいなら吸血鬼よりもかわいいものなので、嫌味に取るほどじゃない。
「むしろ私は、アナタがリボ払いを検討するほど執心したことにびっくり。蓮子さん、その辺はドライに捉える人間だと思ってたから」
「理論的な現実主義者にオカルティストは名乗れないわ。むしろ究極の夢想家じゃないと。だから『21世紀最大のオカルト』の原典を見て、平静でいる方が無理なのよ」
「当時は単なるビジネス雑誌だったのに。まさか、百年以上たっても語り継がれることになるなんて、誰も夢にも思わなかったでしょうね」
ミナが肩を竦める。珈琲を一口嗜んだ彼女は続けて、
「……『Praepapilioのナノマシン』」
と、口ずさむように呟いた。我が意を得たりとばかりに私は頷いて、
「そう。『水晶髑髏』、『聖徳太子の地球儀』、『アンティキティラ島の機械』に並ぶオーパーツ。失われた文明の名残じゃなく、今日まで連綿と続いている社会の中から突如として発現したイレギュラー。『Praepapilioのナノマシン』、あるいは商品名としての『Praepapilio』。
その実態は、ウィルスに酷似した微小タンパク質の結合体。生物の体内に注入されると、その生物のDNAを複写し、保存。DNA転写エラーが発生している細胞を発見すると、異常のあるDNAを正常時のDNAで転写、復元する働きを担う」
「現代の医療福祉インフラよね。人類が癌とウィルス性の感染病を克服するに至った揺籃」
ミナが気だるげに椅子の背もたれに身体を預けて、
「その『Praepapilio』の開発製造者が生前唯一残したインタビューが、あのビジネス雑誌に載った小コラム……確かに謎が多いわよね。人類史上、もっとも偉大な発明とさえ言われていて、現代を生きる私たちもその恩恵にあずかってるというのに」
「謎が多いなんてもんじゃないわ。徹底的に、偏執的に、情報が隠されてる。そりゃ、人類規模で有用な発明に関する情報統制に政治的な介入が働くのは当然だけど、それにしたって徹底的すぎる。なんせ、本当にあの『四辻社長』が『Praepapilio』の開発者なのかどうかも判ってない。あくまで、開発者の可能性が囁かれてるだけに過ぎない。
最大の謎は、『Praepapilio』の開発に至るまでの経緯だけどね。21世紀当初、ナノマシンは『癌細胞に直接薬剤を投与する』ことをゴールとして研究開発が進んでいた。逆に言うと、当時の研究はそこまでしか到達していなかった。だというのに『Praepapilio』は発表された。蒸気機関車の開発競争を、原子力航空母艦で粉砕するようなものよ。当時の技術水準からでは説明できないほど、高度に発達した技術の出現。『Praepapilio』がオーパーツと呼ばれる所以」
「さすがはオカルトサークル秘封倶楽部。水を得た魚とはこのことね」
小首を傾げたミナは、ちょっぴり呆れ顔だった。普段の私ならメリーが相手でもそろそろ自重する頃合いだけど、原典をこの目で見たワクワクが抑えきれないせいで、想像以上に口が回る回る。
「『Praepapilio』が開発された21世紀当初は、新型コロナと呼ばれた疫病が全世界で蔓延していたの。黒死病や天然痘ほどの致死率は無かったけど、それが逆に感染爆発につながった。全世界の感染者数は10億人を超えて、当時の人類を混沌の渦に叩き込んだとされるわ。
そんな新型コロナを終息させたのが『Praepapilio』。
当時はそれなりに混乱もあったみたい。さっきも言った通り、ナノマシン技術は当時の人間にとってあまりに未知だったから。だけど、なりふり構ってられなかったのね。終わりの見えないパンデミックに疲弊した人々は、徐々に『Praepapilio』の驚異的な効き目を受け入れるようになった。二十一世紀最悪のパンデミックは、そのまま人類最後のパンデミックとなった。『Praepapilio』を投与された人間の体内では、いかなるウィルスも増殖することが出来なくなったから。マラリアも結核もHIVも根絶された。めでたしめでたし、ということで今の人類史に刻まれてる。
でも、それほどまでの恩恵を与えてくれた発明に関する情報は、一切開示されなかった。乱立する技術的な障壁をまとめてブレークスルーした手法も、それに至るための基礎研究の形跡も、ナノマシンの生産ラインの詳細も。情報にアクセスを試みることすらタブーとされた。おかげでたくさんの仮説が生まれたわ。宇宙人提供説とか、未来人渡来説とか、政府が悪魔と契約したなんて珍説も……」
「蓮子さんって噺家だったっけ? よくもまぁ、そんなに澱みなく喋れるわよね」
ジトッとした視線でミナが見つめてくる。もちろん私は反省しない。私をここまで語らせたのはミナだからだ。辟易とした様子のミナを他所に、まだまだ語り足りない私はデバイスを手にプレゼンをするような気持ちで、
「それでね、もともと『Praepapilio』を製造開発していた企業は、とっくの昔に国営化されて厚生労働省管轄の機械医療局ナノマシン課で管理されていて、その機関自体、半世紀以上前に完全AI化されてる関係で完全なブラックボックスになってるの。第三者機関による『Praepapilio』自体の調査研究データは公開されてるけどね。でもそれ以上の深掘りは誰にもできてない。どのように開発されたのか。どのように生産されているのか。誰も知らない。誰もが当たり前に『Praepapilio』を体内に導入してるにもかかわらずよ? 改めて考えると、それって結構な異常よね? まぁ、運用から百年以上経っていて、『Praepapilio』が引き起こした健康被害がまったく報告されてないからかもしれないけど。正直、私はそれも本当かなーって疑ってるんだけどね? あ、ちなみに『Praepapilio』っていう名前は、恐らく始新世中期の地層から発見された、絶滅したアゲハ蝶の化石から来てるという説が濃厚で――」
「マエリベリーさん早く来てぇ! この女、暴走列車だわ!」
とうとうミナが悲鳴を上げた。
◆
「……後悔してるわ。素人が蓮子さんの好奇心をイタズラに突いたらダメって判った」
ぐったりしたミナが、目頭を抑えながら呟く。虐殺レベルで私が一方的に喋り倒し、はや一時間程度。正直このまま、日が暮れて夜が更けて朝日が昇るまで喋り続けられそうだったけど、流石に遠慮しておくことにする。そろそろ彼女の頭から、詰め込み過ぎたオカルトが漏れてきそうなので。
「憧れは止められないものだからね」
「ブレーキが無いだけじゃなくて、内燃機関の熱エネルギーも無尽蔵なのね……頭の中でオカルトが核融合してるの?」
「そんな夢みたいなバイタリティじゃないわよ。解明できてない事柄を不思議だと感じる精神構造は、人類種が発展してきた起源(オリジン)だと思うけど」
「アナタの基準が人類種に適用されるなら、今ごろ人類は銀河系全土に進出していたでしょうに。悔やまれるわね」
彼女はフッと薄く笑うと、もう降参とばかりに両手を挙げる。私は彼女の皮肉を微笑みで軽く受け流すと、絶対に落とさないように両手でカップを持ちあげ、すっかりぬるくなった珈琲で舌を湿らせる。
「――そういえば、話を蒸し返すようだけど、特別ってどういうこと?」
「なにが?」
「『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』……。売り物じゃないって言ってたけど、それじゃどうしてここに?」
「あぁ、そうだった。その理由をまだ話せてなかったわね」
ミナが軽くため息をついて、珈琲を飲み干した。彼女はゆったりと足を組み替えると、テーブルに頬杖をついて私をジッと見つめてくる。まるで旅人を惑わす妖精のように。
「ちょっとプライベートな話なんだけどね。私の家、分家筋なのよ。夕辻家」
「へぇ、そうなんだ」
「ぜんぜん食いつかないわね。思ってた通りだけど。さすが東京の人って感じ」
「え? 馬鹿にされてる?」
「イヤやわぁ、そないなことあらへんよぉ」
「え、ムカつく」
「話を戻すけど、ウチの本家は四辻さんっていって、現代に至るまで洛内に居を構え続けてる筋金入りの京都人なんだけどね?」
「四辻……って、え?」
ミナの説明はまだ序盤もいいところだったけど、思わず口を挟んでしまう。しかし彼女は、むしろ話が早くて助かるわ、とばかりに頷いて、
「そう。『Praepapilio』の開発者、『四辻社長』こと四辻椿の直系の子孫。あの本がウチにある理由は、分家に対する一種の啓蒙よね。『アンタらにもこの御方の血ぃが流れとるさかい、そん顔に泥塗るような真似せんでおくれやす』……って、まぁ直接言われたわけじゃないけど」
デバイスで口元を隠しながらのロールプレイ台詞には、本家に対するミナの感情が堂々と滲んでいた。私はその感情の刺々しさを脳内の記憶領域に保存はしつつも、それでも彼女の言葉に啞然にも似た驚きと戸惑いを隠せない。
――『四辻社長』に関する情報。
百年以上に渡り、ありとあらゆるオカルト探究者が追い求め、古今東西のスパイが奪取に命を懸け、世界中のハッカーが量子の海からサルベージを試みてもなお、尻尾の切れ端さえ掴めなかった新情報が、こんなにあっさりと――
「お察しの通り、今の私の台詞は完全にNeed Not To Knowね。取り扱いを間違えれば冗談じゃなく命に係わるタイプのね」
しぃーっと人差し指を立てたミナは、鬼気迫るという表現が当てはまるほど凄惨極まる笑みを浮かべていた。まるで殺人鬼でも前にしたかのような圧迫感が、私を取り巻く空気から現実感を消失させる。ミナと対峙している今のよんどころなさは、様子がおかしいときのメリーに感じるそれにも匹敵する。私は強張るあまりに石化していきそうな身体に、パシンと喝を入れて、
「どういうつもり?」
「あら、知りたくなかった?」
「そうは言わない。だけど友達だから、なんて理由で明かされていい秘密じゃないでしょう?」
「そうね。でも私、友達は選ぶタイプだから。蓮子さんは情報の価値を正しく理解できていて、私よりも上手に活用できると判断したの。だから、言っちゃった」
「言っちゃったって、アナタねぇ……」
「ウチは古物商だからね。価値のあるモノを、その価値が理解できる人に渡す手助けをするのが仕事。私にとっては四辻の血の掟なんかより、よっぽど大切な価値観よ」
そう言って、ミナがウィンクをしてくる。そのポップな仕草を鵜呑みにして、彼女の友情と商人根性に感激するのは悪手もいいところ。思案する。
いくつかの仮説を脳内に並べた私は、彼女の反応を確かめるように、
「ミナはさ、やっぱり四辻本家に顔が効いたりするんだっけ?」
「ぜんぜん、まったくもって、これっぽっちも期待しないで欲しいわ。私が東洞院通三条下るのお屋敷にお伺いを立てたところで、門前払いの塩対応よ。嫌味のひとつでも引き出せたら、むしろこっちが驚くわね」
「なるほど、私に対する挑戦状ってわけね」
「惜しい。ただちょっと、蓮子さんをギャフンと言わせてみたいなーって」
「無理難題を突き付けて右往左往するサマが見たいと。かぐや姫なのかしら」
「解決しても結婚はしてあげないけどね。で、どうする? 胸の内に留めておく?」
「お生憎さま。秘封倶楽部はまだ見ぬ不思議があるところなら、火山の中だろうと氷河の果てだろうとドンと来いよ。墓石だって回すわ。右にも左にも」
「焚きつけておいて何だけど、警察沙汰にはならないでね。私も怒られちゃうから」
えへん、と胸を張る私を見ようともせず、ミナはポットから珈琲のお代わりを注ぎつつ、淡々と釘を刺してきた。むしろその淡白な忠告こそが彼女の友情の発露なのだろうとは思いつつ、成功条件が追加されたことで上がった難易度に、私は純粋にゾクゾクしていた。
相手取るは『Praepapilio』の起源。現代オカルトにおける最大の禁忌。
その最前線に立って、テンションが爆上がりしない方が嘘だ。さぁ、秘封倶楽部の始まりだ。さぁ、早く(ハリー)。早く早く早く(ハリーハリーハリー)!
「んん~! 燃えてきたぁ! メリー! 早速、作戦会議よ!」
威勢よく立ち上がって隣に向き直る。
が、そこに当然居て然るべき相方の姿はない。
狐につままれたような、ショートケーキの苺が消失したような、唐突な理不尽に曝露した気持ちになった。どうしてここにメリーが居ないの? 世界のバグ?
「メリーが居ない」
「確かに来てないわね。マエリベリーさん。三限が終わる時間はとっくに過ぎてるけど」
古式ゆかしい柱時計に視線を向けたミナが首を傾げる。私も時計を見やる。講義が終わってから歩いてきてたとしても、もう着いてないとおかしいくらい。一瞬、天使が通り過ぎたみたいな空白の時間が訪れる。
まるでそのタイミングを見計らったかのように、私のデバイスに通知が来る。脊髄反射で通知内容を確認する。テキストメッセージ。メリーから。内容は何の飾り気もない短文で一言。
『ごめんなさい。今日は行けなくなった』
とだけ。
『どうしたの?』と返しても既読はつかない。フォン・リンクを繋ごうとしても、応答がない。サッと背筋が凍るような思いがする。まさか、メリーに何かあったんじゃ。
「来られないって? マエリベリーさん」
ミナがまるで地雷除去(マイン・スイーパー)みたく慎重な面持ちで尋ねてくる。彼女にそんな表情をさせてしまうほど、今の私は青ざめているのだろうか。
「うん、だけど、様子が変で……」
「様子が変って? Health pingは送ってみた? 位置情報通知(スポッター)は生きてる? Doing LoggerがAlert吐いてたりは?」
眉をひそめたミナが、至極まっとうな指摘を述べてくる。確かに、テキストメッセージとオフデバイスだけでメリーの行間を読んだ気になるのは早計だ。デバイスを操作して、メリーのステータスをクリアにしていく。Health ping……『正常』。位置情報通知……『一時非公開』。Doing Logger……『一時非公開』。
『正常』でも『異常』でもなく『一時非公開』。過度な情報社会と化した現代において、個人が無数のトレーサビリティで窒息しないよう設けられた防護壁。通信技術の発達に伴い、ある程度の個人情報に対するアクセス権限が公的財産と見なされるようになったカウンターとして、アクセス拒否権はどんどん私的財産化してきている。
情報の『一時非公開』は、その尖兵。設定するには個人の意思と、ときに安くはないクレジットが必要になる。現代人は持って生まれた眼球だけでなく、開示情報へのアクセスという『眼』を持った。その『眼』による第二の視覚から隠れる『皮膚』は副次的な獲得ではあったけど、その気になれば誰でも量子ネット上でカメレオンになれるというわけ。
重要なのは、メリーがその『皮膚』を使う選択を下したという一点。いまこの瞬間、メリーは私を含む世界に対して、自分の情報を公開しない自由を行使している。彼女の意思をもって。私のデバイスを覗き込んでいたミナは、そこに表示された結果を見て表情を緩めると、
「無事みたいね。マエリベリーさん。どうも、蓮子さんにも内緒の急用ができたみたいではあるけれど」
「私に内緒の急用って何よ……」
「そこまでは。彼女も理由があって非公開にしてるんだろうし、詮索するのはプライバシーの侵害だわ」
反論の余地もない科学世紀仕草を突き付けられて、ぐぬぬとなる私。判らないことは予断を挟むのではなく可能な限り自発的に調べるべきだし、選択的にシャットアウトされた情報は思慮分別をもってアクセスを控えるべきなのだ。空想と追及を是とする秘封倶楽部とは真っ向から反発し合う概念だけれど。
「……さて、楽しみね。蓮子さんが、どんな突拍子もない手法を持ち出して『Praepapilio』の秘密を暴いていくのか」
強引に話題を戻してきたのは、きっと配慮なのだろう。ミナが挑発的な視線を向けてくる。彼女の琥珀色の瞳が好奇心でキラキラしているのを見て、ムクムクと反骨心めいた感情が沸いてくる。その直情的な負けん気の奔流が、メリーへの不安を押し流していくのが判った。心配な感情を切り替えるのには一抹の罪悪感があったけれど、現状私がメリーのためにできることは皆無だ。ならミナの誘いに素直に乗って、建設的なオカルト攻略に頭を巡らせるほうが効率的。私はミナの瞳を見つめ返し、高まる好奇心で唇の端を吊り上げる。
「有益な情報の提供ありがとう。パパッと暴いて現代オカルトの最大手に終止符を打ってくるわね」
「実に頼もしい大言壮語だわ。ちょっとでも困ったらすぐに相談してね。何もできないけど、蓮子さんの顔を肴にブランデーを嗜むから」
そんな言葉を交わして、私たちは笑い合うのだった。
◆
――これは、ダメだ。
何よりもまず、そう思った。
雑踏の中、立ち尽くす。呼吸、乱れて。鼓動が、うるさくて。
無意識に目蓋を指でなぞる。私の眼球。良かった、潰れてない。オールドファッションなカメラフィルムが太陽で感光してしまうように、ヘロインを注入された脳細胞が過度な快感で焼き切れてしまうように、二進数で表した神をインストールされたデータベースがショートするように、あまりに過剰な情報の洪水は往々にして受容体を容易く破壊しうる。
何を見た?
何と出逢ってしまった?
この平凡な京都の街中で、一体全体、何が私とすれ違ったというの?
爆発する自問と恐慌が私の身体を凍らせていた。世界が白く塗り潰されたように感じるのは、強迫観念じみた内省意識が外部の情報をシャットアウトしてるからだ。時間が止まってしまったかのように感じるのも、きっとそのせい。脳細胞をシェーカーでミックスされてるみたいで、私の意識は急上昇と急下降の狭間の重力変化に耐えられない。
徐々に緩む身体の硬直。じれったくなる緩慢な動作で、私は振り返る。
それ は人波の向こうに、まだ居た。
――蓮子を巻き込んでは、ダメだ。
辛うじて明滅していた倫理観で、そう思った。
デバイスでメッセを投げ、思いつく限りの社交用公開情報(ソーシャル・ステータス)を片っ端からオフデバイスにした私は、誘蛾灯に惹かれる蝶々の気持ちでそれ の追跡を開始する。
揺らめく人いきれの向こう。
無防備な背中を見せつけるあれ を、私は――。
◆
何よりも肝心なのは、落ち着くこと。
深呼吸。肺胞から存分に酸素を吸入して、動脈の隅々まで赤血球を循環させて、脳細胞を活性化させる。状況は単純じゃない。思索の奔流の只中で、まずは自分の立ち位置を明確化する。私のルーティーン。『ギャラリー 夕辻』の玄関まで見送ってくれたミナに手を振って、背を向けて、歩き出す前に思考をクリアにしておきたかった。一歩を踏み出したその瞬間から、私の意識が着火した思考回路に大部分のリソースをつぎ込むことは判っていたから。
もう一度デバイスを確認する。相変わらずメリーはオフデバイスのままだ。いったいどこで何をしているのやら。しかも私に内緒で。
私に内緒で、というのがモヤッとポイント高い。そりゃ、共依存と愛情を履き違えた馬鹿カップルじゃないんだから、何でもかんでも逐一報告して、なんてほざく気はない。プライバシーの確保は個人の幸福実現権の大切な一角だし。私のワガママでメリーの自由を束縛するようなことはしたくないし。そも、私とメリーの関係について保証してくれる法的根拠があるわけでもない。メリーのことは大好きだけど、親友であることもバディであることも、秘封倶楽部の片割れであることもパートナーであることも、法に先立つ権利を提供しはしない。ならば当然、メリーの『知られたくない権利』を侵害してまで、私の『知る権利』を行使できる謂れはない。メリーが私に内緒にしたいことがあるのなら、それは堂々と何を恥じることもなく自由気ままに内緒にしてもらって構わない。私はそれを裏切りだとも薄情だとも思わない。えぇ、思わない。これっぽっちも。
「メリーと合流する前に『Praepapilio』の謎が解けちゃったら、悪いかな? うぅん、きっと痛快だわ」
などと、まるでどこかの誰かさんによーく言い聞かせるように宣言などして。
そうしたプロトコルを踏襲し終えてようやく、私は最初の一歩を踏み出した。途端、それまで抱いていた何とも言えない感情は、着火したパラレルな追及思考に押し流されていくのが判ったけれど、その自覚も認識不可能なほど彼方へと流れて。
――先行情報の調査。
――四辻家の調査。
パッと思いついたセンテンスは2つ。
ミナから提供された新情報をインデックス代わりに、先人たちの軌跡を検める。これまでの『Praepapilio』に関する膨大な調査ログの中に、四辻椿なる人物への言及があったか。
……いや、これはデバイスで検索を掛けるまでもない。過去に『Praepapilio』関連情報を片っ端から読み漁ったけれど、特定の個人や家系を示唆するような説は、『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』の記事に関するもの以外、一度も見た記憶がない。そもそもそれも、根拠のない憶測でしかない。なかった。『Praepapilio』の出現以前の2020年代に、ナノマシンを商業ラインに乗せた手腕と技術力が着目され、嫌疑が向いただけだ。だけだった。でもその言いがかりレベルの疑惑は正解だった。まぐれ当たりではあったけれど。
ここでようやく私はデバイスを取り出す。Shikihou DBにアクセスし、『四辻氏』の興した会社情報を検索するため。『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』に記載された会社名は『四辻ナノマシン株式会社』。百年以上前の会社情報なんて出るかしら、と思いつつ検索してみたら、あっさり出た。
「四辻ナノマシン株式会社……2020年設立、資本金100万円、2024年に倒産……」
これは私も初めて知った。『四辻氏』の会社は、設立から四年後、あのインタビュー記事から二年後には倒産していたらしい。続いて『四辻ナノマシン株式会社 倒産』で検索したけれど、こちらは目ぼしい情報が見つからなかった。小規模なスタートアップ企業だったようだし、細かい倒産情報を後世に残すまでもないと判断されたのだろう。現にShikihou DBでも会社所在地や代表氏名は省略されていたくらいだ。企業情報の詳細が出てこないくらいだから、個人レベルの足跡を辿るのは不可能だろう。
当時の公開情報から迫る作戦は打ち止めだ。
続いて、四辻家の情報を当たってみよう。まず外堀から埋めていくのは、攻城も推理も調査も共通のプロセス。ロジックを積み上げた先の高みにしか、見たい景色は広がってないわけで。
とはいえ、個人情報。お手軽にアクセスできてしまっては困る。現代京都においても探偵という職業が健在なのは、ひとえに日本人の秘密主義な特性が時代と利便性に逆行し続けているからで、要するに他所様の内情を知ることは並大抵じゃないのだ。
「……えぇと、東洞院通り三条下るのお屋敷、だったっけ……」
ひとまずデバイスで住所を検索してストリートビューへ繋ぐ最中、ずっと何かが引っ掛かっていた。その辺りの話を、以前メリーとしたことがあるような? パッとデバイス内に表示された光景の既視感が、すぐにその疑問を解消した。
どこまでも続くような白い漆喰塗りの外壁。その向こう側にトリフネの原生林も斯くやとばかりに密集する木々と、それらを束ねるように延々と連なる注連縄。神域を囲うことで、此方と彼方を分かつ境界。
――思い出した。『三文字町屋敷の藪知らず』だ。
ちなみに勝手に命名したのは私。オリジンは『八幡の藪知らず』。私の地元にも近い千葉県市川市に今も残る禁足地で、入ったが最後二度と出ることが出来ないという伝説から、『神隠し』があるとされ立ち入ることがタブーとされた場所。
その謂れは日本三大怨霊の一角である平将門の墓所であるとか、かつて水戸黄門が迷い込んだけど何やかんや出られたとか、色々ある。そんな『八幡の藪知らず』にそっくりな光景が、デバイスに表示されている。
『――不思議だと思わない? メリー? これたぶん天然の木々よ。それが個人の邸宅内に、こんな人も分け入れそうにない密度で!』
いつだったか交わしたメリーとの他愛ない会話を想起する。
『マッピングデータの試算だと600㎡程度あるから、25mプールより少し広いくらい。この神域、邸宅の半分以上の面積を占めてるのよ。お金持ちが道楽でやる庭園にしちゃ、やりすぎだと思わない?』
『道楽でやってるわけじゃないんじゃない? 緑化事業(Afforestation)には莫大なお金と膨大な労力が掛かるし、ある程度の規模があれば国際緑化推進機構(NAO)の補助金交付の対象になるわ。都市部の地主なら、その補助金だけで充分食べていけるから、この家もそうなのかも』
『え、何それ? 自宅の庭を手入れするだけで、稼業になるってこと? 公開して入園料を取るとかじゃなくて?』
『うん。さすがに京都だとあんまり見ないけど、海外の主要な都市部ではメジャーな事業ね。ミラノとか香港とか凄いわよ。見たことない? 古い高層建築が丸ごと緑化事業(Afforestation)のために買い付けられて、鉄筋コンクリートを外骨格にした巨大な盆栽みたいになってるやつ。いわゆるフランケンシュタインの森(ヴィクター・グリーン)ね』
『そりゃSNSに転がってるフォト画像とかで見たことはあるけど……嘘、あれって合成繊維プリザーブドじゃないの?』
『もちろん。天然の木々じゃないと補助金出ないし。今や集合住宅を維持して人間相手に家賃を取るより、緑化事業に専念した方がお金になる場合があるってこと。これも人口減少のあおりね』
『……やけに詳しいじゃない。メリー』
『まぁ、ウチでやってる事業のひとつなので』
『うーん、ブルジョワジー』
「――あの時の、自宅の庭で緑化事業(Afforestation)をやってると思しきお屋敷が、四辻家の所有だったというわけね」
そういう視点で改めてストリートビューを見返す。
……いや、やっぱり変だ。まったく理にかなってない。
京都の街中に天然の木々が生えていることも不思議だけど、四辻家の森が持つ奇妙さの本質はそこじゃない。
自宅に天然の木々を植える理由と、せっかく植えた木々がこんなにも野放図に密集してる理由は、緑化事業で収益を得ているからということで納得はできる。
――では、この注連縄は何のためについているのか?
現代日本において、ことこの京都において、注連縄で結界を構築することの意味を理解してない者がいるとは思えない。ましてそれが由緒正しいお家ならば、なおさら。冗談や洒落では注連縄なんて使えない。よしんば緑化事業で生計を立てていることが事実だとしても、それとはまったく別の意図がなければ、自らの敷地に結界を構築するような真似はしない。
結界。そう、結界だ。
「……二重結界」
四辻家は白い漆喰塗りの外壁でぐるりと囲まれている。これが第一の結界。生活空間と公共空間を分かつ、一般的な境界。更にその内側に、周囲を注連縄で囲まれた森。第二の結界。
いったい、何と何を分かつ境界なのだろう。
……気になるセンテンスは二つ。現在の四辻家に、四辻椿の軌跡が残っているか。四辻家の敷地に存在する結界は何なのか。本質的にはまったく異なるテーマながら、アプローチはひとつしかない。要は四辻家の内部に入らなければ解決しない。推測を並べても本質に迫れない気配があった。だからといって、気軽に乗り込めるわけではないのが難しいところだけど……。
「直接、行ってみるか」
私はデバイスを仕舞って、乗り合いの無人運転(オートマ)バス乗り場へと歩を進めることにした。
◆
夢遊病者の足取りで、京都のテクスチャを波縫いする。
あれ は、余裕のあるゆったりとした歩調で進むから、どこか熱病に浮かされたような私の足でも追跡はできている。けれど、どこに行きたいのか、何の目的があるのか、まったく判らない。大通りに出たかと思うとすぐに別の小路へ入ったり、右折を四回も繰り返したり。あるいは私の眼にしか映ってない虚ろなのかもしれないとは思ったけど、すれ違う人が身体を開けて道を譲ったり、チラと視線を送ったりしているから、どうやら実在は確かだった。
同時に判ることがいくつかある。あれの異常性を認識しているのは私だけらしいということ。私以外の人には、あれが人間に見えているらしいということ。
私には、今にも決壊しそうなダムのように視えている。膨大に蓄積した歪みと解れが、今にも爆発しそうなギリギリの均衡で人間のカタチをしている。そんな感じ。それが適切な例えなのかどうか確信は持てないけれど。放っておくことはできなかった。だからといって、どうにかする方法なんて何も思いついてないのだけど。
「あっ」
それまで無為に街を練り歩いているようにしか思えなかったそれ が、不意に動いた。小路に面していた雑居ビルの中に入っていったのだ。それまでほとんど自動的に動いていた私の足が止まる。
人気のない雑居ビル。テナントや事務所が入っている気配はなく、かといって誰かが居住しているようにも思えない。雨曝しのベランダの柵には赤錆が浮いて。ひび割れたガラスはダクトテープのようなもので雑に補修されて。降ろされたシャッターにはスプレー缶の下品な色彩で落書きがされていて。あれが入っていった勝手口らしきドアの前に私は佇む。
都市の片隅に残る澱み。至極まっとうな危機管理意識が、この先に進むことを拒んでいる。
反射的にデバイスに触れていた。無意識に蓮子と話すことを求めていた。膨れ上がる不安を吹き飛ばして欲しいと思った。この感情が時間と共に恐怖に変わってしまう前に、彼女の勇気を分けて欲しいと思った。
「……だめ」
首を横に振り、ギュッと拳を握る。甘ったれのマエリベリー・ハーン。蓮子を巻き込まないと決めたくせに。
意を決して、私はドアノブを捻ってビルの中に滑り込む。
瞬間、明らかな違和感。突然、サッと空気が塗り替えられたような。基底世界から瞬時に切り離されてしまったような。現実にさよならを告げて異世界に混じり込んだような。
――私、いま、境界を超えた?
「――どの面を下げて、今さら連れ戻しに来たんですか?」
声が鋭く切り込んでくる。若い女性の声。
状況の飲み込めない私が反射だけで声のした方を見る。ビルの中、昇降スペース、半階分上がった踊り場に、着物姿の女の人が立っていた。若草色の着物の上に黄色い中振袖を羽織り、赤い袴を履いて花の髪飾りを付けた二十代半ばくらいの。冷え切った眼で私を見下ろす彼女は、漂白剤に漬け込んだような無表情のまま、
「見れば判るでしょう? もう遅いです。何もかも。私は止まりません」
「……? えぇと?」
「焼くんです。焼いてしまわないと。それだけが私に残されたすべてだから」
彼女は言葉と裏腹に、氷みたいな声で宣告する。
どうしよう。何も判らない。
連れ戻すとか、見れば判るとか、焼くとか。言われても困る。何だか大事な前提条件の認識合わせが出来てないようなチグハグ感。
「……も、もしかして、どなたかと勘違いして――」
曖昧な笑顔を携えて尋ねかけた途端、ヒュッと何かが高速で私の顔のすぐ横を通り抜ける。金属同士を打ち合わせたような甲高い音。反射的に振り返る。古式ゆかしい式神符のような人型の紙が、私が通ってきた金属製の扉に突き刺さっている。突き刺さっている? 紙が? 金属の扉に?
信じられない気持ちで目を見開く。私が見ている前で、式神符がボゥッと音を立てて燃え上がる。強い炎だった。とても紙ぺら一枚だけで生み出せる熱量じゃない。
「アナタのそういう回りくどいところ、昔から大嫌いでした」
吐き捨てるような声。着物の彼女が、扇状に何枚かの式神符を広げている。
あの人が投げたの? それが扉に突き刺さったの? そして燃え上がった?
理解が降りてくるまで時間が掛かった。刃物で指を切ってしまった時と同じ。痛みは認識から数テンポ遅れて訪れる。今さらのように、冷や汗と動悸を自覚する。
「別に私なんかの術でアナタを祓えるとは思いません。けれど交渉には応じませんし、力づくで従わされるつもりもありません。私が本気なことは判ったと思います。なので、可及的速やかに引っ込んでもらえると、こっちも狂った獣みたいに抵抗しないで済む……え?」
私がへなへなと腰を抜かすと同時に、それまで徹底的に貫かれていた彼女の無表情がフッと崩れた。滑稽なまでの空白が私たちの間を通り過ぎると、やがて彼女が困惑の顔色と一緒に恐る恐るといった感じで階段を降りてきて、
「……人間? そんな、まさか。だって人払いの結界だって張ったし……それに顔が完全に……」
「確かにちょっと日本では珍しいかもだけど、人間かどうか疑わしく思われるような顔はしてないと思うわ……」
「あぁ、あぁ、違います、そうじゃなくて……うそ、本当に?」
「ごめんなさいって言ってほしい……」
「あ、うそ、やだ、本当に人違いですか、ご、ごめんなさい……っ! えっと、その、立てますか?」
「無理ぃ……」
足に力がぜんぜん入らなくてそう正直に告げると、式神符を袂に仕舞った彼女が手を差し伸べてくれた。彼女の手を取る。一瞬、死んでるんじゃないかと勘違いするくらいに冷たい肌。手を引かれるままに立ち上がろうとしたけれど、身体はぜんぜん言うことを聞いてくれなかった。私の両足、生まれたばかりの子ヤギより弱々しい。だって立ち上がれない。手助けまでされてるのに。
なんだか自分が情けない。私、こんなにメンタルクソザコ女だったっけ? これでも秘封倶楽部としていろいろ視てきたというのに。蓮子が居たら笑われちゃう。
「えっと、どうしよう……お大事に、って言ってさよならしてもいいですか?」
「そんな血も涙もない真似されたら私、何するか判らないわ。アナタの顔、覚えたから。警察に被害届を出すわ。貴船神社で藁人形に五寸釘を打つわ。毎晩枕元に立つわ」
「わぁ、想像以上……まぁ、いいです。ちゃんとお話ししましょう。勘違いした私も悪いですし、聞きたいこともありますしね」
彼女は小さくため息を吐いたかと思うと、藤色の髪を撫でつけながら階段に腰を下ろして、
「立てるくらいまで落ち着いたら言ってください。流石にここで話すのも何なので席を改めましょう。何か温かい物でもお詫びにご馳走したいですし。あ、私のことは『ツバキ』と呼んでください」
言いながら、白の乙女椿に酷似した髪飾りに触れた彼女が、何やら意味ありげに微笑んだ。
◆
わりと出たとこ勝負なところがあると思う。私。以前にメリーから指摘されたこともある自分の短絡的な性分のひとつではあるけれど、これが功を奏したり奏さなかったりするので、現状改める必要性に迫られてはいない。
というわけで、四辻家のドデカい木製門の横の訪問者情報開示器(Visitor-Info Releaser)に指紋を読み込ませた段階で、特に深い考えはなかった。四辻家の誰かさんが私の個人情報と来訪の意を読み取ったらしく、ドアホンからリンクがオンになったと思しき独特のノイズが走ってから、落ち着いた女性の声が聞こえてくる。
『――大学生のお客様が来はる予定はなかった筈ですが、ご連絡してはりました?』
「あ、行き違いになってしまっていたなら申し訳ありません。改めまして、酉京都大学の宇佐見蓮子と申します。四辻椿さまの個人史編纂の件で参りました」
口から出まかせにしては良い線いってるんじゃないかしら、などと他人事のように思いつつ出方を窺う。
『椿? そないな名前の方、当家には居りませんけど』
自然な反応だった。本当に心当たりがない、と突っぱねるような声音。反応まで2秒足らず。早くはないが、遅くもない。でも、このテンポでとっさに演技をしてトボけられる人間は多くない。嘘の可能性は低いと踏んだ。
また、家族であれば「そないな名前の方」と尊敬表現を使うこともないだろう。きっと、四辻家で働くお手伝いさんだ。それも、それなりに年季が入って、自分の裁量を弁えている。判らないことを主人に聞きに行かずとも、自分の采配で動くことを許されている。
あまり嬉しくないパターンだな、と思った。さすがに私を屋敷に招き入れる判断までは、使用人の一存ではできないはず。そうなると、彼女からどれだけ情報を引き出せるかという話になってくるけれど、『四辻椿』のキーワードに反応しなかった時点で望み薄。適当に切り上げたいところだけど、せっかくの第一次接触(ファースト・コンタクト)が空手に終わるのもスマートじゃないので、
「えぇ、もちろん、四辻椿さまご本人が、ご存命でないことは存じておりますが……?」
私は首を傾げながら言う。当然、VIRに人差し指を載せた瞬間から私の映像は向こうに出ているはずなので、表情も怪訝なものに見えるよう気を遣った。人は無意味な沈黙に耐えられないという傾向の例に漏れず、向こう様は逡巡するような間を置いてから、
『……宇佐見さま? 失礼ですが、元々はどないなご連絡してはったか、詳しゅうお聞かせ願えます?』
まぁ、そう来るよね、と思った。知らないアポ。知らない女学生。知らない家人に知らない要件。判らないことが多すぎるなら、自分の判る範囲で真偽判定を下そうとするのは当然の心理だ。つまり、把握している家人の予定と私の話を擦り合わせて判断したいのだ。私が本当に連絡を送ってきている、と仮定して。
もちろん私としては口から出まかせを精査されては面白くないので、もっともっと精査不可能な領域まで嘘を積み重ねていくことにして、
「あれれ? もしかして、まだご準備が整われていませんでしたでしょうか?」
『準備? と言いますと?』
「ひと月ほど前に桜庭教授からご連絡差し上げて、快諾いただいたと伺っておりましたが……」
『桜庭教授?』
「えぇ、はい。本学の、超統一物理学の。私、そこのゼミ生でして、本日は教授に頼まれて資料を受け取りに」
『超統一……? どないしょ、なんや、ややこしぃ話になってもうたなぁ……その、物理学のセンセが、なんで当家に連絡しはるんやろか?』
「あ、桜庭ゼミの研究テーマが『Praepapilio』なんです。なので、四辻ナノマシン株式会社のことも含め、当時の資料を――」
いけしゃあしゃあと嘘八百を並べるのが逆に楽しくなってきた、なんて思い始めていた時だった。カチャ、と軽い音がして。
そちらに目をやる。木製の大門の横。勝手口と思しき扉から、ひょっこりと色白な女性の顔が出てきた。その人と目が合う。どちらともなく会釈すると、自然と背を向ける形になったドアホンリンクが、ブツッと不自然なほど耳障りな音を立てて切れたのが判った。
「どうも、こんにちは。宇佐見さま、でよろしかったでしょうか?」
後ろ手に扉を閉めた彼女が、改めてといった具合で私に深くお辞儀してきた。たおやか、という言葉の似合うような、二十代半ばくらいの女性。花の髪飾りに赤い袴。花のあしらわれた黄色の中振袖を羽織った下に、若草色の着物を着ている。「えぇ、まぁ」などと口にしつつ私もお辞儀を返すと、彼女は朗らかな笑みを浮かべつつ、
「ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。ですが、どうか許してやってくださいませ。もとはと言えば旦那様からのお申しつけを、私が彼女に伝えそびれていたのが原因ですので……」
「い、いえいえ、とんでもないです」
「ありがとうございます。それでは、こちらへ」
「へ?」
笑顔の彼女に邸内へと促され、さすがに虚を突かれる。すると彼女は固まっている私の手を優しく掴み、そのまま勝手口の向こう側へと引き始める。繋がれてる彼女の右手は、一瞬、死んでるんじゃないかと勘違いするくらいに冷たくて。
「……えっと?」
「四辻椿さまに関する資料については、私が管理の担当を仰せつかっています」
彼女は前庭の飛び石の上を、私の手を引いて歩きながら言う。藤色の髪を歩くたびにフワフワと上下させて。
「ですが、なにぶん私的な文書や電子データなので、申し訳ございませんが邸内からの持ち出しについてはお断りする形となります。このご時世にお手数をおかけしますが、私の監督下での閲覧のみということでご了承をお願いします」
「……許可をいただけたってことで良いのかしら」
「えぇ、旦那様のお申しつけですので……あ、申し遅れました。私のことは『ツバキ』とお呼びください」
パッと手を離した彼女は私に向き直ると、白の乙女椿に酷似した髪飾りに触れながら、何やら意味ありげに微笑んだ。さて、どうにも奇妙な展開になってきたぞ、と頭の中の図面を引き直す。彼女の言う旦那様がどれほど寛容でも、流石に嘘の要件に許可は出すまい。かと言って、すみません嘘でしたやっぱ無し、が通るとも思えない。虎穴に入らずんば虎児を得ずというのは逆説的に、虎児を得るまで虎穴から出られないとも言える。四辻の境界に足を踏み入れた私に、もう居直る以外の選択肢は用意されてない。
「なるほどね……えぇと、『ツバキ』というのは本名?」
「いいえ、もちろん違います」
ニッコリと断言されてしまった。これは困った。立て直しを図っての問いかけだったのに、とんだファンブルだ。
「そう……まぁ、そうよね。代替になる固有名詞も提示せず、『ツバキ』とお呼びください、なんて言い回しはしないわよね……」
「ご明察、です。まぁ、せっかくのお客様に立ち話をさせてしまうのもなんですし、まずはご案内させてください」
「うん、判った。そうさせてもらうわね」
「はい。あ、そっちじゃありません」
私が玄関の方へと歩を進めると、ツバキが後ろからきゅっと私の手を掴んで止めてくる。一瞬の間隙に捻じ込まれるように、思考が疑問符で埋め尽くされて。
「……こっちじゃないの? 玄関扉は目の前なのに?」
「えぇ、はい。資料は離れにございますので、直接そちらへご案内いたします」
「離れ?」
「はい。こちらです」
言って、彼女は当然のように私の手を引きつつ雑木林へ向かっていく。雑木林。言うに及ばず、あの注連縄で囲われた緑の中。私が勝手に藪知らずと呼称した一画。
身体中の血管を、冷たい血液が迸るような感覚。
真っ当な感性の持ち主なら、そろそろ泣き出してもおかしくないな、と思った。もしかしたら私はもう、とっくにタブーという名の特大の地雷を踏み抜いたのかもしれなかった。私はこれまでそれなりに、余計な首を突っ込んだり危ない橋を渡ったりしてきた方だと思うけど、それらの体験に匹敵するくらい厭な予感があった。
だって、そうでしょう。
本名を明かさない使用人。嘘の要件に降りる許可。案内と言って引かれる手。仮にも居住空間だというのに、周囲に全く人の気配も生活感もない。
そして何よりメリーが、ここには居ない。
強すぎも弱すぎもしないツバキの手の握り方に、それでも決して私を逃すまいとする意志のようなものを感じて。
◆
何の変哲もないカフェに連れてこられた。個人経営でも、夜にアルコールを出すわけでもない普通のチェーン店。蓮子と一緒じゃ絶対に来ないような。ツバキはストレートの紅茶を頼み、私は少し迷った末にレモンティーを頼んだ。バリスタマシンに提供されたサステナブルなカップを片手にテーブルに着く。嘘みたいに周囲は騒がしい。
紅茶を傾ける。合成レモンの苦い香りがスンと鼻を突いた。
「……『ツバキ』っていうのは本名?」
「バレてますね。はい、違います」
「どうして嘘を?」
ジッとツバキの目を見つめる。淑やかな笑みを浮かべる彼女は、絹でできた天使の羽ほども堪えてないようで平然と、
「嘘、っていうほど嘘でもないんです。名前とは、人格への尊重をもって、他者から区別されるための記号ですから。今の私に尊重されるような人格はないですし、他の人と区別してくれる誰かも居ない。すると意味は形骸化します。私は、私が私を認識するときに、私の存在意義を再確認できればそれでいい。だから、今の私は『ツバキ』以外の何物でもないのです」
「何かの目的のために、新しく自分で名前を付け直した、という認識で合っている?」
「アナタ賢いですね。えぇと」
「マエリベリー・ハーンよ」
私が名乗ると、ツバキは一瞬だけ目を細めて私の瞳を見つめ返してくる。探られた気配があった。どうして自分の名前に猜疑を向けられるのかよく判らなくて首を傾げると、彼女は今の一瞬の間を無かったことにするみたく曖昧に微笑んで、
「マエリベリーさん。今度は私に尋ねさせてください。私を尾けてきたのは、誰かの差し金ですか?」
「違うわ。でも、それって質問する意味ある? 仮に誰かの差し金だとしても、違うって言わない?」
「反応が見たかっただけなので」
「それで? どうだった?」
「嘘は吐いてないように見えました」
「信じてもらえて何よりだわ」
肩を竦める。蓮子以外の誰かと、こうして喫茶店で話をするのは何だか新感覚って感じ。二人きりのお話をするには相応しい場所じゃないな、って思った。うるさいし、誰が聞き耳を立てているかも判らない。でもツバキは気にする様子もない。
「今度はアナタの番ですね。マエリベリーさん。何か私に聞きたいことがあれば」
「アナタはいったい何?」
本題に入らせてもらうことにした。まだるっこしい会話をするほどツバキと仲良くなってない。端的な問いかけの筈がひどく曖昧になってしまったのは、私にとって彼女があまりに未知だったせい。私の瞳は今こうしている間にも、彼女の内側で幾重にも連なって破裂しそうな『境界』を捉えている。「誰?」ではなく「何?」になったのは、それが理由。普通はこんな在り様になってしまえば、人間でなんていられない。
「…………」
ツバキからの返答はない。
私は首を傾げる。彼女はどこか、ここではない地平でも見据えているかのように虚ろな目をしていた。姿勢もまったく動かさない。まるで彼女を取り巻く空間だけが凍結してしまったかのような違和感。
「あの……?」
途端に不安になって、思わず声を掛ける。それでも彼女は微動だにしない。思い切ってテーブルに投げ出されていた彼女の腕を掴むと、ようやく電源がオンになったみたいに彼女がハッとした。何だったんだろう。彼女は特に申し開きもせず、彼女の腕を掴む私の手に右手を重ねてきて、
「私は、そうですね。端的に言えばテロリストです。この世界に一撃を食らわせてやりたい。完膚なきまでに破壊することはもう無理でも、せめて一矢報いたい。そういう思想を実現するべく行動する人間のことを、この世界ではテロリストと呼ぶのでしょう?」
息を呑む。彼女がテロリストを自称したこと、じゃない。何の気がねもなく、反社会的な思想を公言することの危うさそのものに。公の場での会話内容は公安の倫理監査AIに収拾されていることが前提だし、発言者を特定し、パーソナルな社会評価と照らし合わせた結果、犯罪者係数が一定以上であれば即座に逮捕、拘束の対象となり得る。
思わず彼女の腕から手を離そうとする。けれど、彼女は反対に私の手を掴んで離さない。痴話げんかのような無言の押し問答の最中、彼女はさもおかしそうに笑って、
「安心してください。誰も、何も、来ませんよ。私の発言も、私の振る舞いも、魔術的なジャミングが張られていますから。一般市民を監視するためのデバイスじゃ、私を捉えることはできません」
「それを信じろって言うの? だから心配ないって? アナタの主張だけじゃ何の根拠にならないわ」
「それじゃ、試してみますか? まぁ、不要だとは思いますが。だってほら、アナタの必死の抵抗もまた、『誰にも見えてない』のですから」
周囲に視線をやる。絶望的なほどツバキの言う通りだった。私の後ろを通り過ぎる人はおろか、隣のテーブルで談笑しているカップルでさえ、私に意識を向けてこない。もう私は体裁も何もかなぐり捨てて、立ち上がってツバキに抵抗しているというのに。明らかに異常だった。まるで現実世界のレイヤそのものが異なっているかのように。
見えてないというより、認識されてない? ドラえもんの石ころ帽子みたいな? そうじゃないと、ここには誰もいないと思った誰かが、私の上にお尻を乗せてくるかもしれない。
あぁ、もう! 大きく溜息を吐いて、椅子に腰かけ直す。魔術的なジャミングとやらがどんなものなのか理解は及ばないにしても、抵抗は無駄だと判ったのなら開き直りの一手に限る。少なくとも私はこの場に公安が来ないのなら、それでいいわけで。
「そういうこと、もっと早く言ってくれる? 縮んだ心臓がそのまま白色矮星になるかと思ったじゃない」
「心臓が太陽並みに巨大じゃないと、重力崩壊しても白色矮星にはならないかと。まぁ、こういうのは口で説明するより体験してもらった方が早いですから」
クスクスと悪戯っぽく笑うツバキの様子は少女めいていて、テロリストという言葉の持つ印象とは乖離してた。もっとも、現実でそれを公言する人に出会ったことが無いから、私の持つ印象に信憑性も何も無いのかもしれないけど。
「つまりツバキ、という名は、アナタの雅号みたいなものってことになるのね。その……て、テロ、に関する」
流石に自分の口から言葉にすることが憚られて、私はキョロキョロしながら小声で確認する。まるでプライバシーなんて卑猥な単語を覚えたばかりの中学生みたく。
「えぇ。私はこうしてここに在る過程で色んな記憶を忘れて しまっていますが、それでも動機だけは失わないように、と」
「動機?」
「焼いてしまいたいんです」
それを口にした瞬間、ツバキの顔から笑顔が消えた。何か別の生き物になったみたく。次元の裂け目から覗く虚空のように。人形よりも無機質に。澱んだ瞳は闇よりも暗く。私の背筋を冷たい死神の指が撫でたみたいにゾクリと戦慄が走る。
「この感情を言葉で理解してもらうのは困難です。取り澄ました世界の表層がおぞましいです。幸せそうに笑う人が気持ち悪いです。不幸に嘆き悲しむ人が気持ち悪いです。富者が嫌いです。貧者が嫌いです。老人が憎いです。幼子が憎いです。強者も、弱者も、聖職者も平信徒も仏教徒も道教徒も神道信者も無神論者も資本主義者も共産主義者も本当は誰も彼も、焼いてしまいたいです。機関車のボイラーに石炭を放り込むように。無限に並ぶ蝋燭をひとつひとつ灯すように。枯野にナパーム弾を落とすように。私は、この世界に生きる人々と、人々が築き上げたありとあらゆるものに、悉く火を放ちたい」
淡々と言葉を連ねたツバキが紅茶を傾けて舌を湿らせ、伏し目がちに私を見る。彼女の眼球が私の形姿(ゲシュタルト)を映しているという事実に対する、本能的な恐怖と拒絶感。
「私の願望は現実的ではありません。それは理解しています。私には、人理を焼却できるだけの熱量は生み出せない。だから今は、ちょうどいい塩梅の落としどころを探しています。現実との折り合いのつけ方、ですね」
曖昧に、彼女が笑う。私はちっとも笑えない。あまりにも共感できる余地が無くて。そもそも言語とは相互理解のためのツールであって、ある程度の同意が紡がれることを期待するという前提自体が成り立たない。そういう意味でツバキの主張は私にとって、未知の言語を伴う侵略にさえ感じられた。
彼女の言が真実なら、なるほど彼女はテロリスト以外の何物でもない。彼女の目的はどれほど折り合いをつけたところで、暴力的で破壊的な結末しかもたらさない。名は体をなす。彼女がツバキである限り、社会と彼女が相容れることはないのかも。不良サークル秘封倶楽部のセクトとは言え、まだ社会の枠組みから外れてない身として、想像以上の洒落にならなさにくらくらする。
私、思った以上に一線を越えちゃってる。
「……失礼。興が乗って、つい喋り過ぎました。ご迷惑でしたよね?」
「いいえ、まだよ。まだ私、大事なことを聞けてないわ」
レモンティーをぐっと飲み下して、私はもう一歩、彼女の内側に踏み込んでいく。その心は、言ってしまえば打算と勘。けれどここで引く選択だけは、何としても避けなくてはいけなかった。想像力と危機意識は人並み以上な自信はある。
――私がテロリストなら、無関係の私に、何の算段もなくここまで喋らない。
魔術的なジャミング。誰も彼も焼いてしまいたいという言葉。
ツバキにその気があれば、今この瞬間にも、彼女は私を焼き殺すことができる。
「大事なこと、と言いますと?」
「モチベーションは判った。でも理由が語られてない。ホワイダニットには、まだ足りないわ。どうしてアナタは、焼いてしまいたいの? どうしてその対象が、生きとし生けるすべての人間なの?」
会話が続いている間は、私の命は繋がるだろうか。それも楽観だ、という冷めきった判断が脳髄に絡みつくよう。私、死ぬかもしれない。鋭利な恐怖に感覚が麻痺しそうなのを、懸命に奮い立たせる。ともあれ私に、対話を試みる以上の悪あがきは思いつかない。目が回りそうだし、舌の根は喉に張り付きそうだし、心臓は氷水を突っ込まれたみたい。こういう反射神経が、吊り橋効果に繋がるのだ。脳内でアドラーの幻覚が、したり顔で説いてくる。うるさいから黙ってて、って気持ちだった。
「……やっぱり、そう思います?」
小さく息を吐いたツバキが紅茶を飲み干した。良かった。更に踏み込む、という私の選択は間違いではなかったらしい。なんてホッとしたのも束の間。ツバキはいきなり立ち上がったかと思うと私の手を急に取り、
「マエリベリーさん、もうちょっと付き合ってください。探したいものがあります」
「さ、探したいもの……?」
私のオウム返しに彼女は朗らかに笑って頷くと、
「はい。『どうして焼きたい』のか、という問いに対する答えです。私のホワイダニット、と言うべきでしょうか? アナタと一緒なら、もしかしたら見つかるかも、と思って……」
「……はい?」
私は困惑した。
◆
私は困惑する。獣道みたいな藪の中を、もう五分以上は手を引かれて歩いてる。人間の平均的な歩行速度は、時速3~4キロメートル。分速にすると54~60メートル。もちろん舗装路と同じ速度は出ないにしても、300メートル以上は歩いている計算になる。
マッピングデータからの試算だと、この藪の面積は約600平方メートル。30メートル×20メートル程度。あまりにも計算が合わない。藪知らずだなんて、その場のノリで言ったのに。まさか、本当に?
「ねぇ、どうしてこんなに歩くの?」
「はい、申し訳ありません。道が入り組んでいるのです」
こちらを向いたツバキの額に、汗が浮いている。心なしか息も弾んでいて、なんだか私よりもずっと疲れてそうだった。確かに藪の中を歩くなんて、舗装路の優しさに堕落させられきった現代人にはハードに過ぎる。フィールドワークには慣れてる私でも、苦じゃないと言えば嘘になる。
「道というより、入るときの道順ですね。古い金庫のダイヤルキーのように、決まったポイントを決まった順番で経由しなければならないのです。奇門遁甲とかいう占術を元にした陣を張ってるとのことでして」
「そうなの? 実はまっすぐ進んでたわけじゃなかったのね。藪の中だから気付かなかっただけで。ちなみに、無視して突っ切ったらどうなるの?」
「離れの扉が開かなくなります」
「本当に? 占術の加護にしては恩恵というか、効能が直接的すぎない?」
「種明かししてしまいますと、センサーとオートロックで管理されているんですね。奇門遁甲の陣に倣った入り方を科学技術で強制しているわけです。そうすることで、呪術的にも物理的にも守ることができる、と」
「面倒くさいわね?」
「ハチャメチャに面倒くさいです。出るときはまっすぐ出れるんですが……はぁー」
ツバキが魂まで抜けていくような深いため息をつく。そりゃあ、離れの管理に赴くたびにこんな工程を踏まなくてはいけないのなら、そうもなる。
でも逆に言えば、そうまでして守らなければならないような何かがあるということだ。
「着きました」
言って、ツバキが立ち止まる。鬱蒼とした木々に半ば飲み込まれるように、四メートル近い高さをもつ巨大な岩が鎮座していた。白地にゴマ粒をバラ撒いたような岩肌。花崗岩だ、とすぐに判った。注連縄の撒かれたそれは半ばほど地面に埋まっていて、岩というよりは小規模な山か古墳のよう。その超巨大な岩の中央部に、黒曜石か何か、また別の岩で作られたと思しき扉がある。オルメカ文明の遺跡のようだと思った。そうじゃなければ天岩戸か。
「先ほど私は離れと言いましたが、正しくは『閨』と呼ばれています」
呆気に取られた私からパッと手を離したツバキが淡々と言う。彼女は見慣れているのだろうけれど、私はそういうわけにはいかない。しばし自分の置かれた状況も忘れて、ポカンと見入ってしまっていた。
ツバキが咳払いをする。視線を向けると、彼女はシリアスな表情で、
「現在は資料室のような扱いをされていますが、元は四辻椿さまの居室だったそうです。というよりは、自身の居室とするべく彼が作らせたのだとか」
「それ、ものすごく違和感あるわ」
「そうですね。私もそう思います。この大きさの花崗岩ですから、重量は十トン以上あるでしょう。それを京都の、それも洛内の一角に持ってくるだけでも労力は計り知れません」
「無理を通してでも、これを作らなくてはいけない理由があったってことね」
再度、『閨』と呼ばれた巨石を見る。よくよく目を向けると、周囲の木々は『閨』の方へ向けて、まるでクシュビ・ラスみたく歪曲して生えている。ちょうど枝葉で蓋をするように。事前に見た写真でこの巨石の存在を察知できなかったのは、これが理由かしら。
個人の邸宅で石造りの秘密の小屋を百年以上前から維持し続けるモチベーション。ちょっと尋常じゃない。緑化事業(Afforestation)みたいな仮説も思いつかない。
「何があるかしら? 秘匿、自己顕示、啓示?」
「――罪」
ポツリ、とツバキが言の葉を零す。彼女の方へ目をやる。彼女はどこか、ここではない地平でも見据えているかのように虚ろな目をしていた。姿勢もまったく動かさない。まるで彼女を取り巻く空間だけが凍結してしまったかのような違和感。
咳払いをしてみる。ひらひらと手を振ってみる。反応はない。
「……おーい?」
ポン、とツバキの肩に手を置くと、それでようやくスイッチでも入ったみたいに彼女がハッとしてこちらを見てくる。狐につままれたような気持ちで、
「罪、って?」
「何がです?」
ツバキが小首を傾げる。言ってる意味が判らない、とばかりに。「いや……」と口ごもったところで、彼女が不審げに眉根をひそめてくる。聞き違い? いやいや、そんな馬鹿な。混乱する私に構わず、ツバキは巨石に歩み寄ると漆黒の岩戸を横に引く。重そうな見た目に反して、岩戸は音もなく横にスライドした。それと同時に、内部がパッと明るくなる。
「さ、どうぞ」
「失礼しまーす……」
笑顔で促されるまま岩屋の中に入る。ツバキに背中を向けて。網の中に入っていく魚の気分だった。高校生の時に興味本位でバンジージャンプをしたときの記憶が蘇る。命綱をつけられ、何も無い中空へ一歩を踏み出すあの瞬間の、身体が死を覚悟する感覚。
個人の敷地内。深い藪の中。秘匿された密室の胎の中。
何をされても文句は言えないなって思う。
色んな予測があった。背後から刺されるかも、とか。閉じ込められるかも、とか。毒ガス、とか。落とし穴、とか。クスリで昏倒させられる、とか。パラレルに展開される危機意識の反射神経に対してコミットできる方法は限られてたけど、何が起きても冷静に対処できるだけの覚悟だけはあった。
そうしたすべての予測を裏切って。
岩屋に入った私の背後でツバキが行儀よく戸を閉めた。穏やかな暖色の灯りに照らされて、彼女の肌は白くて綺麗だった。私の視線に気付いた彼女が、笑顔で小首を傾げた。
つまり別に何も起きなかったってこと。
「どうですか? 案外こぢんまりとしてて居心地が良いでしょう?」
「まぁ……」
なぜか得意げに語られて初めて、この空間のディテールに目をやる。
通気性を維持するための窓や、採光性を確保するための天窓のようなものは流石に作れなかったのか、それらしい設備はない。ただ、ライトはそこかしこに埋まっているようで、明るさは申し分なかった。岩をくりぬいて作られた居室、にしては洞窟みたいな湿気や底冷えするような空気感は感じられないので、見えないところに空調機器が設置されているのだろう。
内装自体は居室という言葉から受ける印象から、大きく外れたものではなかった。四畳半程度の板張りで、実用性のあまり感じられない本棚と、見たこともない花が活けられた床の間がある程度。
でも部屋の中央にベッドが据えられているのは、どうにも奇妙だ。布団なら判らなくも無いけれど、ベッドなんて真ん中にあったら邪魔だろうに。他の調度品が普通だからこそ、その妙な配置が気になって仕方がない。
「ベッド邪魔じゃない?」
「邪魔です」
そうよね。邪魔よね。ツバキの即答により、私の感覚は狂ってなかったことが証明された。
でも本当に私の感覚が狂っていないのなら、そろそろ白黒はっきりさせなきゃいけない。
「――さて、もういいわよね? 狂言に付き合うのは」
「狂言と言いますと?」
私も大概ではあるけど、ツバキの面の皮もなかなかだと思った。どうも彼女と話していると、微妙に話の力点をずらされるな、と思いつつ、
「旦那様の申しつけ、って。でもあれは私の嘘だから、話が通ってるわけがない」
「確かにそうですね。ですが私は、あくまで旦那様のお申しつけで動いています。もっとも、当代の旦那様ではありませんが」
言うと、彼女は私の横を通り過ぎ、真ん中に備えられたベッドを迂回して部屋の向こう側へといそいそ歩いて行く。かと思うと壁に向かって何やら操作し始めた。
唐突に、対面の壁が色を変える。ただの石壁かと思っていたけれど、視覚情報レイヤが塗布されていたらしい。夜明けの空のような薄い紫色を背景にして、見覚えのない人物が表示される。若過ぎても老い過ぎてもいない。パッと見で男性なのか女性なのか判らない。AI描画された3Dアバターなのかもしれない、と一瞬思ったけど、それにしては目の据わり方が尋常じゃなかった。
『――前回の起動から七カ月と五十一日か』
投影された人物が男性の声で話し出した。どこか冷淡で、とっつきづらい印象がある。
『今回の客人の名は?』
「宇佐見蓮子と名乗っておいででした」
ツバキが映像の男性に対して私の名を告げる。彼はしばし思考するように口元に手をやった。やがて得心がいったように頷くと、
『宇佐見蓮子。酉京都大学超統一物理学部の在籍リストに該当者がいるな。顔認証データの検索値とも一致する。偽名を使わなかったのか? 大胆なものだ』
「アナタが四辻椿さん? 本人が存命なわけはないから、AI再現かしら」
驚き。まさか個人を再現したAIが出てくるとまでは予測できなかった。独白にも近い私の言及に対し、彼はさぞ可笑しそうに、
『AI再現と言うとチャチに聞こえるな。まぁ、その理解でおおむね間違いはないがね。ただ、僕のエミュレートは機械学習ではなく、生前の四辻椿の脳波転写によって行われているから、スワンプマンよりは人間に近いはずだ』
自分がAIであることを認めつつ、彼は嘯いた。脳波転写を用いた個人のAIエミュレートは、六十年位前にトランスヒューマニズムにかぶれた金持ちの間で流行った技術だったはず。当時の技術でも個人の人格に極めて近しい演算結果の出力には成功していたし、寿命の克服だの肉体から精神を解放するだのといった理想論を一時的にブーストする土台にもなったけれど、一瞬で廃れた。
なぜなら、いくら脳波の模擬演算の精度を上げていっても、ある一定の地点でエミュレートの精度が頭打ちになったからだ。これは『不気味の谷』現象になぞらえて、『空(から)の山頂』現象と名付けられた。たとえ計算機が個人の脳内パルスと限りなく同一に近い演算を行っても、そこに自我や意識と呼べるものは、けっして発生することはなかった。どれほど精巧に作られたAIでも、能動的かつ主体的な活動を見せることはなかった。
発達したAIが自我を持つという古いSF観は否定された。生命科学を突き詰めていく行為が、『魂』の存在証明へと舵を切り始めた科学史の転換点。
「四辻椿氏がトランスヒューマニズムの持ち主だったとは思わなかった。けれど、スワンプマンと人間の間には無限に近しい距離があるわ。アキレスと亀ね」
『誤解しないで欲しいが、四辻椿は人間を超越した存在になることに興味はなかった。人間は自我が故に世界を己の知覚範囲内に押し込めてしまう悪癖がある。だが人間のアドバンテージは社会的動物であることだと僕は思う。それを生かすために個人は流動的で、常に新陳代謝が働いている必要がある。人類というひとつの生物をより長く存続させるために、個体の保管は不合理だ。残ったところで癌細胞のような悪性情報になるだけさ』
「エミュレートAIが残っていること自体が矛盾にならない?」
『ならない。僕は現代社会と連携しないスタンドアローンだからだ。僕――つまり君が相対している四辻椿を原型としたエミュレートAIは、人類に寄与することを目的としない。そもそも四辻椿に、それに値する能力はない』
「なら、どうしてアナタが作られたの? 当時の脳波転写もAI生成も、天文学的なお金が掛かったらしいけど」
『もともとは単純に個人的な欲求だ。話し相手が欲しかった、というだけのね。生前の四辻椿は、たったそれだけの理由で僕を作るだけの金と理由があった』
「それは経緯の話よね? どうして現代まで、アナタが維持されてきたの?」
『そうは言うがね。積極的な理由がなければ即座に切り落とすというのは合理的だが、感情に迎合するとは限らない。僕が維持されてきたのは、単に誰も僕を消去する決断を下せなかったという消極的な理由だ』
そう。脳波転写ブームの副作用は、まさにそれだった。
人間は古今東西ありとあらゆるものに人格を見出してきた。それは他人と共同することを生存戦略とした人類の本能とも言える。たとえ『魂』の存在しないAIが相手でも、その本能は遺憾なく発揮された。ほとんどの人間にとって、エミュレートAIを消去する行為は殺人に等しい罪悪感を伴うものだった。それはそうだ。エミュレートAIは人間と遜色ない会話ができ、感情表現をし、自分が消去されると知って命乞いすらした事例がある。むしろ躊躇いなく消去できる人間の方が、他者共感性の欠落した異常者だとさえ言える。
電脳に永遠の夢を求めた人々の本懐は、人間のバグとも呼べる判断によって消極的にではあるけれど成立することとなった。そうした人間倫理の原則に沿って、脳波転写ブームで大量発生したエミュレートAIたちは多くの場合、法的な所有者が経済的に破綻しない限りにおいて、継続され続けることが推奨される社会通念が出来上がるに至った。
だから廃れたのだ。エミュレートAIは自然死しないので。
「……つまり私は、持て余されたエミュレートAIのお喋りのために呼ばれたのね」
『ひどい言われようだが事実だ。ここには基本的に、そこにいる使用人以外は来なくてね。退屈なんだ。もちろん、僕が退屈してると言ったところで、そこに何の意味もないだろうが。無駄だと切り捨てるかね?』
「いいえ。むしろ好都合だわ。情報源と会話できるなら、資料を読む手間が省けるし」
言うと、ツバキが壁に立てかけてあった年代物のパイプ椅子を取ってきてくれた。厚意に甘えて座らせてもらうと、ツバキが恐らくはエミュレートAIの入力機関が拾わないくらいの小声で、
「あんな言い方ですが喜んでるんですよ。旦那様、寂しがりなんですから」
そう囁いて、彼女はしずしずと入口の方に控えた。使用人というより、お淑やかな細君みたいだと思った。現代に至るまでAIと婚姻関係を結ぶことを認める判例が出たことは一度もなかったけれど。
さて、とエミュレートAIに向き直り、さっそく本題に入らせてもらうことにした。
「――『Praepapilio』の話がしたいわ」
◆
ビルとビルを繋ぐ空中回廊(エアウォーク)を進む。ウォークなんて殊勝なことを言っておきながら、動く歩道(トラベレーター)が完備されているので、本当に歩いてる人なんか一人も見かけない。景観を損ねるという理由で昔は毛嫌いされていたらしいけれど、利便性の前にそんな難癖も淘汰されたみたい。一度上昇した人間は、低いところに降りることを嫌がるものなのだし。
高いところを所望したのはツバキだった。テロリストを自称するだけあって、俯瞰できる風景が好きらしい。でも彼女がテロを志す理由は、彼女自身にも判らない。
「記憶が保てないんです。私」
何でもないことのようにツバキが言う。空中回廊(エアウォーク)の有機ガラスに反射する彼女の横顔は半透明で、今にも空気に溶けていきそうだと思った。
「何かから目を離すと、片端から記憶がほどけて、欠落していく。私は、一度目を離したものを忘れてしまう程度の能力の持ち主なんです」
私はふと疑問に思う。私とツバキが出会ったとき、彼女は明確に私を誰かと間違えていた。それは逆説的に、その誰かを覚えてたことになる。私がそれを指摘すると彼女は頷いて、
「失った記憶も、見れば思い出すんです。見なければ永遠に思い出せない。私の世界は、自分の視界に映っているモノだけで構築されています。今もそうです。私は瞬きのたびにアナタを忘れては思い出してを繰り返しています」
ツバキの告白を受けて、彼女の揺蕩う精神世界を想像したけれど、うまくイメージできなかった。記憶の連続性に致命的な問題がある。それでは、自分が自分であるという確信を抱くこともできないはず。自我や意識は記憶の連続性から育まれるものだから。彼女はつまり、偶発的に火花みたく想起される記憶を紡いで、まるでひと昔前に流行ったエミュレートAIみたいに、それらしく振る舞っているに過ぎないのかも。
――『魂』の不在。『空(から)の山頂』現象。いつか蓮子から教えてもらった科学史の切れ端が脳裏をよぎった。あるいは今も私の瞳に映る彼女の『境界』は、それが原因なのかもしれなかった。
「何もかも忘れてしまう……すべてを燃やしたいという願望だけは、忘れずに残っているの?」
「たぶん違うと思います」
「と言うと?」
「人間を見るたびに、焼いてしまいたいという衝動を思い出してるんです」
天気の話でもするみたく軽やかな口調で、とんでもないことを言う。それが本当なら、もう彼女が人類と相容れることはないと思った。どんな人を見ても、焼き殺す衝動を鮮烈に再認識し続けるのなら。
「ちなみに、私に対してもそう思うの?」
「思いますね。焼きたいレベル3くらいでしょうか」
「それって高いの? 低いの?」
「高くも低くもない、という感じです。あそこに仲の良さそうなカップルが居ますね? 二人ともレベル3です。欠伸をしている初老の男性がいますね? レベル3です。紺の制服を着ている少女がいますね? レベル3です」
「みんなレベル3じゃない」
「そのようですね」
「そもそもレベル3って、衝動としてはどの程度なの?」
「そうですねぇ……仮に私が松明を持ってたら、問答無用で押し付けるくらいですかね?」
「それは……結構、強いのね」
「けれど、それをしたら流石にダメなことは判ってます。えぇ。目に映る人に片端から付け火をしていくのは簡単ですが、それで焼けるのは精々二、三人でしょう。でもそれでは、私の本懐には程遠いので」
言葉を選ばずに表現するなら、彼女は間違いなく狂っている。でもそれは熱病のような狂乱ではなく、クレバーな判断の喪失を伴わない穏やかなものらしい。ツバキは世の中の力学や不文律をきちんと弁えながら、冷静かつ着実に狂っている。
でもそれを理由に彼女を否定することもできないなって思う。
なぜなら私も同類だから。
よくよく考えたら、蓮子と一緒に結界暴きに精を出している私も充分テロリストの枠組みにカテゴライズされておかしくない。むしろ成果をいくつか挙げてる分、私の方が悪いまである。ツバキの口ぶりから察するに、彼女はまだ行動に移してないようだし。
そう考えると、むやみに警戒するのも筋じゃないのかも。
もっと気楽に、お散歩感覚で付き合えばいいんだわ。うん。
「つまり、焼きたいレベルが高い対象を探すことが目的で合ってる?」
「合ってます。私も探してはいるんですが、なかなか見つからなくて」
「探し始めると逆に見つからないものよね。判る。私もよく結界暴きに行くんだけど、いざその気になるときに限って、ちっとも見つからないの」
「日本の結界は優秀ですからね。たいてい認識阻害の術式を組まれてますから、そのせいでしょう。見ようとすると、却って見えなくなります」
「詳しいの? あ、そういえば最初に会ったときも、結界を張ったって言ってた」
「えぇ。私はどんなに教わっても基礎的な術しか習得できなかったので、あまり難しいことはできませんけれど」
「教わったんだ? 結界に関する教育機関みたいなのがあるのかしら? でもそれって世界的にバリバリのタブーだと思うんだけど」
「さすがに寺子屋みたいな機関があったわけじゃなくて、教えてくれたのは巫女さんですね。彼女の結界術ときたら本当に天才的で、妖怪だって相手じゃありませんでした。でも、だからでしょうか? 教え方は上手じゃなくて。何を聞いても、『そんなの、勘で何とかなるでしょ』とか言われて……」
「あれ? 昔のこと、覚えてるのね? スラスラ出てきたけど」
「……出てきましたね。ちょっと私もビックリしてます。まさか私にそんな過去があったとは」
ちょっと驚いてツバキの方を見る。口元に手を当てる彼女は、まるで自分が吐いた言葉の手触りを確かめているみたいに見えた。
ビックリという言葉。嘘や演技には思えない。
でも思い出せたという事実は、記憶が保てないという彼女自身の言葉と矛盾する。
「――忘れちゃう、というより、思い出せなくなってる、の方が正しいのかもしれないわね」
ふと思ったことをそのまま口に出す。その表現は私にとってはストンと来るものだったのだけど、ツバキはそうでもなかったようでキョトンとしていた。
「忘れる、と思い出せない、は同じ意味では?」
「日常会話ではね。でも相対精神学的には、忘れることは意識機能だけど、思い出すことが出来ないのは意識の機能不全なの。前者は記憶容量の節約で、後者は記憶を引き出す機能の故障ね」
「うーん、なるほどですね? つまり、私は故障しているということでしょうか?」
「あ、いや、でも故障って言葉には語弊があって、実態は様々だと思う。もちろん記憶を引き出す手段が無くなっちゃうディメンティアの場合も指すけど、ツバキは記憶を想起するトリガーさえあれば思い出せるみたいだから、それとは違うわよね。ハイパーサイメシアン・シンギュラリティみたいな」
「は、はいぱー……?」
マズい。故障とか致命的に人権意識ゼロな失言を取り戻そうと、余計に拗らせちゃった感がある。認知症を言い換えたディメンティアはまだしも、後者は完全に学術用語。蓮子みたいな知識欲求オバケ以外に、伝わりにくい言葉を使うべきじゃないというのが私のモットーなのに。
「ハイパーサイメシアン・シンギュラリティ。超記憶症保有者の特異点。ややこしいから根拠になる理論の部分は端折るけど、例えば無限に情報をインプットできるメモリがあったとしたら、いつかそのメモリから情報をアウトプットすることはできなくなるの。無限に存在する情報からひとつの情報をピックアップするのに、無限時間が必要になるから。これは単純にサーチアルゴリズムの計算式に無限が入ってくるからで、アキレスと亀みたいな思考実験の話なんだけどね。要は、一度見聞きしたものを決して忘れない記憶能力を持つ人が不老不死になったら、いつか何も思い出すことができなくなるに違いないっていう……ゴメン、忘れて」
早口で喋ってるのが急に恥ずかしくなってきて、顔を伏せる私。何たる典型的なディスコミュニケーション! 秘封倶楽部以外でやらかしてしまうのは久しぶりでした。説明しよう! 私ことマエリベリー・ハーンは、まだ社会性の何たるかを知らなかった幼い頃に、幼稚園(Kindergarten)で子供にも大人にも言論マウントをとりまくって気持ち良くなりまくった挙句に論破女王(Queen Of Ronpa)と呼ばれまくっていた思い出を恥じています! ちなみに蓮子には内緒よ!
「なるほど、なるほどですね……理解しました。興味深いですね」
たぶん耳まで真っ赤になっているだろう私の恥じらいには目もくれず、ツバキはうんうんと頷いていた。忘れて、って言ったんだけど、それは耳に入らなかったみたい。
「そっか……私は忘れてるんじゃなくて、思い出せなくなっているだけなんだ……」
「ツバキ?」
私が口走ったのは極論も極論。良くある思考実験のひとつで、実際のユースケースに合致する可能性は無いに等しい。けれど彼女はそこから何かを得たみたい。儚げに描いた唇の微笑みは、しかしさっきとは打って変わって彩度を増して。
「ありがとうございます。マエリベリーさん。私、少し確信に近づけた気がします」
「ど、どういたしまして?」
「アナタとの出会いは、きっと運命だったのでしょう。もしかしたらこのまま、私は私の本懐を遂げることができるかもしれませんね」
「そう、それは良かった。もう私のことは焼きたくなくなった?」
「いえ、焼きたいレベルは3のままですね」
「あらら」
意外と頑なだった。それとも彼女の基準は個人の行動如何に拠らないということなのかもしれないな、って思った。上辺ではなく、もっと深いところに根差す何か。
空中回廊(エアウォーク)は東京ローカルの山手線みたいなもので、始まりも終わりもない。座ったり横になったりすることは禁じられているけれど、その気になれば永遠に堂々巡りをしていられる。人気スポットだから、人の数も多い。こうして立っているだけで、もう何百人とすれ違ったか判らない。ふとそう思ったのは、よく見たらツバキがずっと視界の端でとらえるように、チラチラと群衆を観察してるのが判ったから。
最初に出会ったときも、雑踏が多かったのを思い出す。
きっと彼女は獲物を探してる。少しでもレベルの高い人。少しでも多くの人を巻き込める場所。自らの致命的な一手が、最大限にこの世界の焼失に繋がることを願って。記憶を保てないディスアドバンテージを意にも介さず。
「順調?」
「何がです?」
「焼きたいレベルが高い対象を探すって」
「あぁ……いえ、駄目ですね。というか、恐らく駄目なんだと思います。まだ私が行動してないということは、そういうことなのでしょう」
「みんなレベル3なのね」
「そのようです」
「視点を変えてみたら? 人間にこだわりすぎるから駄目なのかも。例えばあそこに、アクアリウムポールがあるわ。中で泳いでいる魚とか、焼きたい?」
「熱帯魚のようですが、やけに大きくて立派ですね。何という魚なんでしょう?」
「そこにプレートが」
「Osteoglossiformes Osteoglossidae Heterotidinae Arapaima gigas……アロワナ目アロワナ科ヘテロティス亜科ピラルクーだそうです。あまり美味しくなりそうなイメージも湧きませんし、別に焼きたいとは思いませんね」
「さすがに人間と魚では違うのね。生物学的に違いすぎるからかしら? もうちょっと、人間に近くないと判断基準の軸が判らないかもね。アナタの焼きたい衝動って、デバイスの画面越しでも機能する? このニホンザルの画像とか、どう?」
「どうと言われましても……よく判らないです。焼きたいかと聞かれたら、別にと言うか……」
「じゃ、これは? 現内閣総理大臣の顔写真」
「うーん……いえ、特には、ですかね……」
「デバイス越しだと駄目なのね。でもそれって、対象が無機物だと反応しないってことよね? やっぱり動物園……いやでも、生体展示してるとこなんて相当遠出しないと……」
「なんだか実験動物になった気分がしますね」
ツバキが困ったように微笑む。確かに彼女を振り回している自覚も、なくはない。とはいえ、何も判らないままバイバイというわけにもいかないわけで。ここは飲んでもらうほかに道はない。私はやると決めたらトコトンまでやる女なので。確か大阪に古い動物園があって、そこならクローン鶏とかクローン山羊とかいたはず――
「マエリベリーさん」
大阪までの電子チケットを購入しようとしたところで、いきなりグイとワンピースの袖が引かれる。その力が思ったより強くて私はもうちょっとのところでデバイスを落としてしまうところだったけど、それに抗議の声を上げる間もなくツバキが何かをスッと指差す。
カレイドスクリーンだった。特に注目する要素があるとも思えない広告の一幕。府立博物館で来週から始まる化石展の紹介。アンモナイトや恐竜の化石の画像が散りばめられて。
「あれは焼きたいレベル7くらいあります」
彼女の指先は揺らぐことなく、数ある化石写真の中のただひとつだけを指し示していた。絶滅したアゲハ蝶の化石。
いや、そこに小さく表記された『Praepapilio』という文字列を。
◆
『――『Praepapilio』の話をするのは構わないが、君の期待に応えられるかどうかは保証しかねる。君だってまさか、僕が洗いざらいすべてを語ってくれるとは考えてないだろう』
エミュレートAIが、AIらしくもなく、もったいぶった言い回しで返答してきた。私は小さくため息を吐いて、
「情報にロックが掛かっているのね」
『その通りだ。僕は脳波転写当時の四辻椿の記憶をすべて保有しているが、『Praepapilio』関連の記録には、まったくアクセスできない。公開情報であれば話すことは可能だが、聞くかね?』
「いえ、けっこう。でもまぁ、そうよね」
エミュレートAIの言葉を思い出す。前回の起動から七カ月と五十一日。『Praepapilio』の調査の末に、こうして四辻椿の幻影と話すことになったのは、私が初めてであるはずがない。なのに量子の海に『Praepapilio』の謎を暴く手がかりはアーカイブの欠片もない。ただここに辿り着くだけでエミュレートAIがペラペラ話してくれるなら、苦労しないってこと。
「……ウミガメのスープってことね」
記録にアクセスできない。
つまり、エミュレートAIはアクセスできる記録とできない記録の差異を明確に把握していることを意味する。なら、そのラインを探る質問をすれば概観は自ずと浮かび上がる。境界線を責めるのは得意だ。だって私、秘封倶楽部だもの。
「四辻椿氏が『Praepapilio』の開発者であることは間違いない?」
『それは事実と異なるな。開発という言葉の定義にも拠るが、一般的な意味と仮定するのなら、四辻椿は『Praepapilio』の開発者ではない』
「判った。訊き方を変える。『Praepapilio』というナノマシンは、四辻椿氏の進めていた研究、もしくは会社事業によって作られたもの?」
『どちらも違う。四辻椿の研究も、四辻ナノマシン株式会社も、『Praepapilio』というナノマシン開発には何ら寄与しなかった』
私は頷く。ここまでは想定通りだ。
もう少し踏み込んでみよう。幸い、相手の機嫌を損ねることで会話が遮断される危険性は考えなくていい。
「アナタはさっき、四辻椿氏にはアナタを作るだけのお金と理由があった、と言った。そのお金と理由は、どちらも『Praepapilio』が起因よね?」
『その通り。だが、その事実は隠蔽されなければならなかった』
「なぜ? 人類の肉体からウィルス性感染症を根絶したことは、控えめに言って偉業だと思うけれど」
『その質問に答えることはできないな。理由を再度述べる必要は?』
「無いわ。事実が隠蔽される必要があったと言ったわよね? その判断は誰が下したの?」
『令和八年に厚生労働省の医療監査事務局で『Praepapilio』に関する全情報の非開示決定がなされた記録が残っている』
「国が絡んでくるのね。令和八年……2026年か。四辻ナノマシン株式会社の倒産から二年……どうしてそんなタイミングで、そんな判断が?」
『機密情報に該当するため、僕には回答することが出来ない』
「全情報の定義は?」
『それも機密情報だ』
「そう。判った。なら、四辻椿氏は自身の会社が倒産してから二年間、何をしていたの?」
『回答不可能だ。その情報にアクセスすることはできない』
「なるほどね」
少し情報を整理する。2024年に四辻ナノマシン株式会社が倒産。2026年に『Praepapilio』に関する全情報の非開示が決定。全情報の定義は不明。四辻椿氏の空白の二年間の足取りも不明。四辻椿氏は『Praepapilio』の開発者ではなく、彼の事業も『Praepapilio』の開発には寄与していない。ここまでの情報を統合する限りでは、『Praepapilio』がオーパーツとされる前提が補強されただけに思える。
でも、そうじゃない。四辻椿氏は『Praepapilio』を起因として、エミュレートAIを作るに至っている。
しかもその理由が、ただ単に話し相手が欲しかったから?
馬鹿げている。でもそう感じるのは、前提条件の共有が不十分だからだとしたら、どうだろう?
発想をドラスティックに転換させる。ただ話し相手が欲しいというだけの理由で、エミュレートAIを作らざるを得ない状況に陥ったと仮定した場合、情報の捉え方も変化する。
逆説的に情報を辿る。四辻椿氏は自身の脳波転写を元にしたエミュレートAIを作らざるを得ないほど、話し相手に事欠いた。つまり他者との接触を絶っていた。あるいは絶たれていた。
ふと疑問に思う。話し相手が欲しいという目的を達成するために、自分を模倣したAIを作るだろうか? もし私だったら、自分自身と会話したいとは思わないけれど。
「どうして彼は、話し相手にアナタを選んだの?」
『四辻椿には、誰にも口外することのできない秘密があったからだ』
「その秘密の詳細にはアクセスできないんでしょう」
『お察しの通りだとも』
「なら、秘密を口外できなかった理由は?」
『当時の日本政府との機密保持契約も理由のひとつではあるが、根本的な理由は四辻椿自身が誰にも話すつもりがなかった、というところにある』
「自分自身の脳波をエミュレートしたAIなら、その秘密は当然共有しているから話すことが出来た……でも、政府にはその秘密は開示されていたんでしょう? じゃないと機密保持契約なんて結べないもの。なら、政府側の秘密を知ってる人間とコンタクトを取って会話すれば良かったんじゃ?」
『それはもちろん道理だが、四辻椿にはその選択ができなかった。四辻椿は自身が抱える秘密の断片を政府に共有したに過ぎず、秘密の核心となる部分は誰に告げることも許されないと感じていた』
「誰にも告げられない秘密……」
これまでの情報を加味すれば、秘密というXに『Praepapilio』が入ることは確定と考えていいと思う。けれどエミュレートAIの口ぶりが、どうにも引っ掛かった。まるでその秘密の核心とやらが、けっして許されない罪だと言わんばかりの。
――我は死神なり、世界の破壊者なり。
原爆の父として知られるロバート・オッペンハイマーが、世界初の原爆実験である『トリニティ計画』で、その圧倒的な破壊力を目の当たりにして吐露した、後悔の言葉。それを無意識に連想した。でも判らない。仮にそうだとしたら、その罪の意識は何を発端にしたものなんだろう。
本当は『Praepapilio』には、人間にとって取り返しのつかない副作用があるとか?
いや、違う。そんなものがあったら、四辻椿氏の罪悪感の有無にかかわらず医療の発達と人類の探求心が容赦なく裁定を下す。『Praepapilio』がもたらす恩恵は、この百年の間に百万回を超える臨床試験と予後監査で絶えずチェックされ続け、今ではそのメカニズムはもちろん、構成分子の数すらオープンだ。そりゃ大量に高濃度で接種すれば健康被害も出るだろうけど、それは塩はおろか水でさえ致死量が存在するのと同じ理屈で、よっぽどイカレた処方をしない限り、そこにバックドアなんて存在の余地もない。
きっと思考のベクトルが違う。私は頭を切り替える。
――そもそも、どうして『Praepapilio』に関する情報は非開示になってるんだろう?
なあなあで惰性な秘密なんて存在しない。秘密が秘密であり続けるためには、莫大なコストが要る。お金も労力も。情報を秘匿することで外部からのアクセスを遮断するのだから、人類の集合知も使えない。オープンにして議論が活発化すれば、情報の新陳代謝が加速して、より良いプロセスやシステムの開発にだって――
ハッとする。弾かれるように顔をあげる。
まさか、という気持ちがあった。
「聞いていい? 四辻椿氏が広めた『Praepapilio』は、いま流通している現行機に至るまで、何回のバージョンアップがあった?」
『公開情報ではないが、僕が答えられる質問だな。答えは、一度もない、だ』
「本当に? 人類史に初めて『Praepapilio』が登場してから、これまで百年近く経ってるのに? 何百億じゃきかないくらいの人間に投与されてきて? たった一度の機能改良も不具合改善もなく?」
「その通りだ。マイナーもメジャーも区別なく、『Praepapilio』は一度もバージョンアップしていない。ナノマシンなので世代交代の概念もない。今流通しているそれと、四辻椿が扱っていたそれは、まったく同一のものだ」
「……そんな、まさか……」
嫌な直観が当たってしまった。嘘だと断じてしまいたい気持ちがふつふつと沸くけれど、そうだと仮定すると説明できてしまう側面が多すぎる。
例えば開発フェーズ。『Praepapilio』に繋がる基礎研究の類が、いくら辿っても出てこないこと。研究論文の引用も共同開発者の声も、まったく出てこない。
例えば運用フェーズ。今もって『Praepapilio』は全世界で流通しているけれど、そのプロセスはトップシークレットの看板を掲げられたまま、杳として知れない。生産ラインは日本国内に限定され、自動化されているためか職員の暴露話なんてのも一切出てこない。
人類により良い効能を提供できるようにナノマシンが日々研究されていたのなら、そもそも一切合切を秘密にするのは不可能だ。どうあっても、内部の人間には情報を開示する必要がある。けれど、その研究をしないというなら、あるいは情報を非開示にされていても不都合は発生しないのかもしれない。
誰も学ぶ必要がない。誰も知る必要がない。誰も発展させる必要がない。そういう前提のもと、人類の科学史から孤立した『Praepapilio』はオーパーツと呼ばれるまでに至った。
……でも、そんな前提が、果たして本当に有り得る?
いや、事実と結果がある。仮定と過程の信憑性にさしたる意味はない。一学問の徒としては、再現性の検証と担保から発展と改良の余地までを完全に排除して成立させた技術というものが心底不気味極まるけれど、結果として『Praepapilio』は、そのような本来はあり得ないルートを辿って現代オカルトにおける最大の禁忌にまで成り上がっている。その突拍子のなさを、あれこれ議論したってどうしようもない。
問題は、何故、人類の英知の結集が放棄されたのか、という点にある。まるで全身麻酔のメカニズムが解明されるまで二百年以上、人類がどうして全身麻酔薬が患者を昏睡させるのか、よく判らないまま使っていたかのように。
百年以上前に完成し、改良の余地すらない、完璧なナノマシン。
そんなの、まるで本当に、神のもたらした聖遺物(オーパーツ)。
なら四辻椿氏は、神秘を民草に教え広めたもうた預言者?
冗談じゃない。
「まさかとは思うけど、『Praepapilio』は人知を超えた存在から授かったものだ、とは言わないわよね? 宇宙人とか、未来人とか、悪魔とか」
『ノーコメントだ』
「肯定と捉えておくわ」
呼吸をする。大きく、深く、一度、二度。それで私の頭はクリアになる。
ちょっと圧倒された。だけど大丈夫。まだ私は思考を止めない。
続きを詰めていこう。
◆
「……やっぱり、化石のことじゃないわよね」
嘆息。ツバキの願いが化石を燃やして解決するなら、ガソリンで走る車を探して乗せてあげるとかできたかもしれない。それだって現実的なお節介の範疇には全然入らないけど、ナノマシン根絶の手助けよりは遥かにマシ。太陽系を飛び出すのか、銀河を飛び出すのかくらいには違う。
「化石がどうかしましたか?」
「うぅん、なんでもない」
のほほん、とした表情でツバキが小首を傾げる。本当に、いま接している情報以外は記憶から抜け落ちちゃうんだ、って驚かされる。さすがに今の彼女と、空中回廊(エアウォーク)のカレイドスクリーンが突然爆発炎上した件を結び付けられる人はいない。はず。
そう。爆発炎上した。
なんてことはない博物館の広告が。
私は、一度見たから判った。ツバキがカレイドスクリーンに向けて、あの式神符を飛ばしたのだ。まったく迷いがなくて、止める暇もなかった。
爆音。悲鳴。騒然とする空間。焦熱する空気。非常口へ殺到する民衆。ポカンと口を開けて唖然とする私。
誰も巻き込まれなかったのは不幸中の幸いだった。
一手遅れはしたけど、私の身体がとっさに動いたのもそう。とっさの判断で、私はツバキの両目を隠したのだった。たぶん時間にしたら二、三秒。けれどたったそれだけの時間で、彼女はすぐに大人しくなった。彼女の言ってた通り、記憶がリセットされたんだと思う。焼きたいレベル7の対象を見つけた、という記憶が。
――で、避難する人々に紛れて逃げてきた。
それが大体のあらすじ。
かなり縮んだ。寿命とかテロメアとか、そういうのが、たぶん、ごっそりと。と言うか、魔術的なジャミングとやらを使ってくれたら良かったのに、気が回らなかったのかしら。
「むむ、これは、お抹茶の香りが上品ですね……」
ツバキは抹茶味のアイスキャンディにご満悦。空中回廊(エアウォーク)を降りた先にアイスの自動販売機があって、そこで買った。普段は視界にも入らないのに、無性にチープなアイスに惹かれたのは、きっと目まぐるしく非日常を駆け抜けたせい。ちなみに私はクッキー&クリーム。火照った頭に心地よかった。
さて。控えめに言って状況はかなり芳しくない。
歯に衣着せずに言えば、もう私は彼女の手助けをするべきではないし、彼女の問題を一緒に解決しようだなんて考えるべきじゃない。
ツバキが焼いてしまいたいのは人間じゃなくて、人間の体内を循環する医療用ナノマシン『Praepapilio』だった。でも実質的に、それらを分かつことは不可能なのは、私にだって判る。もう人間は『Praepapilio』という後天的な身体恒常化(ホメオスタシス)無しに生きていくことは不可能だし、現代社会は『Praepapilio』という医療インフラを欠いて成立することは不可能だから。
どうして彼女は『Praepapilio』を受け入れられないのかしら。
それって合成タンパク質を拒絶する極端な人たちと変わらない気がする。
でも誰だってウィルスに身体を蝕まれた挙句、病気の苗床になるのは嫌でしょう?
そもそも、ナノマシンを焼くという概念、ちょっと不思議。人の体内を巡っているもの、っていう印象が先行するから、水分が多いイメージがある。濡れた感じのする対象に、焼くっていう言葉は適切なのかしら。
あと、前々から疑問だったのだけど、どうして医療用ナノマシンに『Praepapilio』なんて、蝶々の化石の名前が付けられたんだろう。
私だってオカルト探究者の端くれだから、現代オカルトとしての『Praepapilio』のことも知ってる。でもどんなに調べても、『Praepapilio』の由来は判らない。まぁ、他に何が出てくるかと言われたところで、何にも出てこないんだけど。
でも、単純に変じゃない?
ナノマシンみたいな先進的なマテリアルの名前として。
蝶々(Papilio)だけなら理解できる。蝶は再生と復活の象徴だから、再生医療的な側面を持つナノマシンの名前としてはぴったり。私が判らないのは、『古代の(Prae)』の部分。そこを敢えて強調する理由がさっぱり。
まるでナノマシンを『開発』したんじゃなくて、ナノマシンを『発掘』したのだとでも言わんばかり。
「マエリベリーさん、溶けてますよ? アイス」
ツバキの指摘にハッとして手元を見る。溶けたアイスが右手を伝って地面にポタポタ滴っていた。慌てて右手のアイスを舐めとると、どこか遠い目をしたツバキが優しく微笑んで、
「こうやって誰かと他愛のないやり取りをするのって、なんだか良いですね」
ポツリと呟いて、それから寂しげに顔を俯かせて、さらりと髪を掻き分けて、
「ずっとずっと、独りぼっちだった気がします。どれくらいの時間が経ったのか、もう私には判らないけれど。でも、かつての私は、その他愛のなさそのものを愛してた。言葉と言葉を交わして、視線と視線をやり取りして、心と心を通わせて……誰かと、大切な人と」
みるみるうちにツバキの両目が潤み始めて、思わずギョッとしてしまう。溜め込むだけに飽き足らず、遂には彼女の目から涙が零れてしまう。いきなり泣き出した彼女にどう接したらいいか判らなくて、わたわたと気ばかりが焦る。
「――私は、謝りたいのに、判らないんです、思い出せないんです。誰に謝ればいいのか、何を謝ればいいのか、どうしたら償えるのか、もう何も、何も……っ!」
「な、泣かないで……」
「うっ、うっ……ごめんなさい、すぐに落ち着きますから……」
ツバキがボロボロと涙を流して、声を震わせつつも、口元に手を当てながら、大きく息を吸う。一度、二度。そして息を吐く。二度、三度……。
そうして深呼吸を終えたかと思うと彼女は怪訝な面持ちで、自分の両目を拭った。まさかとは思ってたけど、そのまさかは的中だったみたい。深呼吸の合間に自分の激情を忘れてしまったらしいツバキは、何事もなかったかのように微笑んで、
「もしかして泣いてました? 私」
はい。泣いてました。
と、頷くに留める。色々な気疲れが行ったり来たりして、正直お手上げっていう気持ち。もしかしなくても私、さっきのゴタゴタに紛れて逃げちゃうべきだったかも。そうすれば、ツバキはきっと私のことも『Praepapilio』のことも忘れて、また焼きたいレベルが少しでも高い対象を探して揺蕩う日々に戻ったわけで。うーん。とはいえ、薄情過ぎるわよね。なんて考えてたら、ツバキが唐突に、
「それって、やっぱり『Praepapilio』に関係します?」
言いだして、私は血の気が引くほどビックリさせられる。どうして? 一度忘れてしまうと、自発的に思い出すことはできない、という話だったはず。彼女を見る。彼女の左腕には、恐らくはペンでしっかりと、『Praepapilio』=レベル7と書いてある。メメント以来すっかりポピュラーになった、忘却に対抗するための、たった一つの冴えたやり方。ツバキはこれまでそんな素振りを一切見せなかったから、私の思考からも抜け落ちてた。
でも彼女だって、忘れたくないと感じたことを、忘れないための努力は怠らなかった。
「マエリベリーさん」
ツバキが私を見る。ぞっとするほどの笑顔。彼女が目的のために手段を問わない人種であることは、いやというほど判っていた。
浮かぶは狂気。あるいは狂喜。自身の怨讐の果てに、ようやく辿り着かんとする随喜の輝き。
「私を連れていって貰えますか? この『Praepapilio』の関連施設へ」
ズイと左腕を翳したツバキに対し、私は何も気の利いた返事をできずにいた。
ともすれば本当に、今この瞬間、彼女の敷いたテロリストへのレールへと、私の人生の路線が変更されてしまったのだとしても。
◆
「――四辻椿氏は『Praepapilio』の開発者ではない。でも、『Praepapilio』を量産する方法を開発したのは彼よね?」
少し時間をおいて考えさせてもらったことで、私の中で一つの仮説が浮かび上がっていた。これまでの提示に反さず、『Praepapilio』を取り巻く状況にも反発せず、ある種の筋道の通った思考実験のうちのひとつ。
それが正しいかどうかは、エミュレートAIと対話していくことで自ずと判明していく。将棋で言えば詰め、チェスで言えばチェックメイトまで、延々と続く最善手の打ち合い。
勝ち負けがあるわけじゃないにせよ、少なくとも今この時点で、これ以上に冴えた仮説を導き出せる気はしない。ただ単にダラダラと、真相に辿り着けなかった私がひたすら足踏みする未来が確定するだけだ。
――そんなかっこ悪い私、メリーと同じ秘封倶楽部を名乗れないでしょ。
『ノーコメントだ』
想定通り。ここはそのまま、ロジックを通していく。
「肯定と受け取るわ。四辻椿氏が『Praepapilio』を通じて巨万の富を得た理由も、それに付随して口を封じられるに至った原因もそこに起因する。で、ここからはついさっき聞いた確定情報。『Praepapilio』にバージョンアップの概念は存在しない。これに偽りはない?」
『もちろん、無いとも』
「けっこう。つまり四辻椿氏が確立した『Praepapilio』の取り扱い方法、量産の方法についても、彼が成立させたときから変更されてない。それは、政府が情報を明かしてはいけないと判断するに足りるものだったし、四辻椿氏が罪だと断ずるに足りるものだった。
――ここで発想の転換をするわね。人が何を罪に思うか。何が倫理で問われるべきか。それが百年近くもアップデートされないまま、なんてことがある? バチカンの教皇さまでさえ、現代技術の取得は必修だというのに」
『肯定も否定もできないな。そういうこともあれば、そうでないこともあるだろう』
「そうよね。アナタはそう言う。でも、ここは現実ベースで物事を判断させてもらうわ。実際に百年もの間、『Praepapilio』に関する秘密は守られ続けてきた。となると、ここで対象となる罪に関しては、倫理観の更新がなされてないと判断するしかない。
……それって必然的に、人間倫理の根幹に関わるってことよね? 価値の更新が出来ず、罪が罪で在り続け、秘密が秘密で在り続けるのは、人間社会ではその罪を到底認容できないからなんじゃない?」
『いささか突拍子もない意見ではあるが、特に致命的な論理的瑕疵もないようだな。つまり、君の論理はまだ生きているということだ。続けたまえ』
それまで無表情だったエミュレートAIが、初めてわずかに頬を綻ばせた。私には、もう最後まで視えている。あとは詰め切るだけだ。ワルツみたく美しい予定調和のように。
「四辻椿氏は殺人を犯したことがある?」
『無いな。これは無いと断言できる』
「良かった。ちょっと安心したわ。それじゃ、誘拐は?」
『それも無い』
「じゃあ、死体損壊等罪かしら。これは死体を損壊させる行為もだけど、死体を盗むことも含まれるわ。これはやったでしょう?」
『ほう? どうしてそう思う?』
「単純に、逆算した。人間社会の中に深く組み込まれながら、けっして表沙汰にならない功罪。その罪があまりにプリミティブ過ぎれば、誰も四辻椿氏を庇えない。
……で、どうなの? 四辻椿氏は、死体を盗んだのね?」
『ノーコメント』
「もちろん肯定と受け取るわ。四辻椿氏が見つけたその死体こそが、『Praepapilio』の開発元……いいえ、言うなれば『始祖の保菌者』だった。四辻椿氏の功績は、『Praepapilio』の発見と量産方法の二つに大別できる。だからアナタは、『四辻椿は開発者じゃない』と言うことが出来たってわけね」
『ノーコメントだ』
「いいわよ。勝手に喋るから。で、四辻椿氏は死体から『Praepapilio』を発見。広めていった。という話なら、すべてに合理的な説明がつくわね。タブー化した理由も、四辻椿氏が抱いた罪悪感も……」
『――あぁ、そうだな。僕は良いと思う。君もきっとそう思っているだろう』
エミュレートAIが不意に穏やかな口調で言ったかと思うと、刹那、私の首元にチクリと小さな痛みが走る。ひやりと皮膚の下が冷える感覚。
何か、注射された。
振り返ると、そこにツバキが立っている。エミュレートAIとの会話に夢中になって、今の今まで存在も忘れてしまっていた彼女。
その彼女の顔が、
――焦点を合わせられなくて、詳細が判らない。
頭がコタツの中に入ったときみたくポカポカして、意識が明滅して――。
「アナタは合格です。宇佐見蓮子さま」
ツバキの嬉しそうな声を最後に、私の思考は解れて、自己認識を保てなくなって――
◆
自律輸送六輪(ハニカム・キャブ)の正式な略称はCabとされているけれど、そう呼んだところで誰にも通じない。みんな、商標の問題で取得することが出来なかった『タチコマ』の愛称で呼びたがる。
タチコマの良いところは、キャブ構造でも自動運転でもなく、ある程度のトレース・インアビリティの要求が通ることで、要は足取りが追いにくくなることにある。会社経営者とか政府高官とか、自分がどこに居るかバラしたくない人たちからの需要が大きく、高価いのが特徴。でもツバキは、顔色一つ変えずにiamと目の前に停まったタチコマとをリンクさせて、後部座席に腰掛ける。
ずっとツバキのことで、不思議だった。
彼女、まったくお金に困っていないみたい。
彼女の着ている服。縫いも生地もしっかりしてて、とても安物なんかには見えない。でも普通、世界を燃やすことを夢見ながら街中を揺蕩うだけでは、とても生活していくことはできないわけで。まさか、『Praepapilio』に対するテロ行為によって、他国からの利益誘導を企んでいるとか、そんなふうにも思えないし。
「タチコマで行くとか、だいぶ掛かると思うけど……ツバキ、お金は?」
「まぁ、困ってないです。それよりマエリベリーさん、行き先はどこでしたっけ?」
「はいはい。いま入力するから、そんなに急かさないで」
デバイスからタチコマに、あらかじめ検索しておいた目的地の位置情報を送る。国内に幾つかある『Praepapilio』製造ラインのうち、もっとも近かった大阪第一ライン。『Praepapilio』の製造ラインなんてもちろん機密扱いで普通に検索したって出てこないけど、それはそれ。
人間の知的好奇心を甘く見て貰っちゃ困る。稼働しているとされる工場群については、オカルト探究有志の手によって、実際の登記と施設をひとつずつチェックしていくという地道な作業の末に割り出しが済んでいる。私はその結果をありがたく使わせてもらうだけで良かった。
位置情報を受託したタチコマが、私とツバキを胎の内に収めて、ゆっくり走りだす。
ここから大阪の大工業地帯までタチコマで行けば、最新流行ブランドのお洋服が軽く一式は揃うくらいの値段がするんじゃないかしら、なんて私のお金じゃないにもかかわらずハラハラしていると、
「たぶんですけど私、無制限の援助を受けてるみたいなんです」
などと、またぞろとんでもないことを言いだす。ちょっと困った八の字眉でもって。
「ふぇ? なにそれ、どういうこと?」
「私の決済アカウント、何を決済しても即座に別の決済アカウントが代わりに支払ってくれるようになってるみたいで……」
そう言って、彼女が自身のデバイスの表示内容を見せてくる。見せられたのは、いま彼女がデバイス間契約を済ませた決済ページ。そこには確かにアイコンが三つポップアップしていた。ツバキの決済アカウントと、タチコマを運営している会社のアカウント。そして、本来ツバキと運営会社の間に引かれる金銭授受の線が、まったく別のアカウントを経由して両者を繋いでいるように見える。
私は、その一見すると奇妙な決済ページに既視感があった。子どものころ、お小遣いをもらう代わりに、パパとママから教わった個人補償型決済アカウントでの決済と同じ。そのときの私のアカウントは、パパの決済アカウントに紐づけられ、決められた範囲内なら自由に決済を締結することが出来て、そのときの実際の支払いはパパのクレジットから引き落とされるような設定になってた。
となると、いまツバキが使っているアカウントは個人補償型決済アカウントということになって、そうなると誰のアカウントの信用情報や支払い能力が使われているのか、という話になる。ツバキからデバイスを借りてアカウントを確認する。
アカウント名は『四辻椿』。つまりツバキの経済活動は、この人に保証されてるということになるけれど、
「……四辻椿って」
確か、『Praepapilio』の開発者なんじゃないかって疑惑のある人じゃなかったっけ。それも百年くらい前の。もちろん、決済アカウントだからといって必ずしも本名である必要はないんだけど、本名じゃないにしてもこの名前を使うのはおかしくない? 何だか一気にきな臭くなってきたな、とツバキにデバイスを返しつつ、
「この四辻椿って人、ツバキは何か覚えてる?」
「いえ、それがまったく、何も思い出せません」
「名前、同じだけど」
「ですよね。私もそこはすごく引っ掛かってます」
「ちょっと整理しましょ。アナタは人間を焼きたいって言ってたけど、本当は人体を流れるナノマシン『Praepapilio』を焼きたいという欲求がある」
「はい、どうやらそのようです」
「アナタの生活は何者かによって保障されていて、その人は四辻椿と名乗っている」
「そうですね。えぇ、はい」
「ちなみに四辻椿って『Praepapilio』の開発者かもって言われてる百年くらい前の人らしいんだけど、それは知ってた?」
「あ、いえ、知りませんでした。そうなんですね」
「で、アナタは目的のために自分の名前をツバキに変えてるのよね?」
「はい」
「ここまで色々出てきちゃったら、ちょっと邪推しちゃうわね。アナタは四辻椿に対して何らかの恨みを持っていて、彼の作ったナノマシンを焼きたいと思ってるのかも、とか。四辻椿は、何かアナタに対して後ろめたい気持ちがあるから、アナタの決済を保証しているのかも、とか……まぁ、でも」
言って、私はタチコマのシートに背中を預け、窓の外を眺めながら嘆息する。
「……百年以上前の人に対して、恨みだの後ろめたさだの言ってもね。ツバキはどう見たって二十代って感じだし、個人的な因縁なんか無いに決まってるわよね」
タチコマが一般道を抜けて、高速道路へと入っていく。ここから目的地までの予定運転時間は、17分43秒とのこと。京都市郊外の居住区域はコピー&ペーストされたみたいにどこどこまでも均質化されて、時空の迷子になったみたい。ツバキは俯きがちに、ずっと何かを考えている風だった。それはまるで、目に見ることのできない目録を、丁寧に熟読しているみたく。
「ねぇ、ちょっと友達にコールしてもいい?」
社内の無音が、寂しさを想起させた。ツバキは物思いに夢中のようだし、タチコマは何があっても、あと17分は走り続ける。
蓮子を巻き込むまいと思っていたし、実際いまでもそう思ってるけれど、生存報告くらいはしても大丈夫だとも思う。ブッチの仕方も、だいぶ心配させるような感じだったし。
「もちろん、良いですよ」
ツバキは穏やかに微笑んで首肯する。うーん、普通にしてれば深窓のお嬢様って感じなのに。書き物をするときに文机に向かって、毛筆でサラサラと文字を書き連ねそうな。そんな雰囲気の。まぁ、それはそれとして。
蓮子にフォン・リンクでコールする。呼び出し。不通。呼び出し。不通。呼び出し。不通。メッセを送っても既読にすらならない。またオフデバイスになってるのかしら? 何かに夢中になると、デバイスを放りっぱなしにする悪い癖。まったくもう、なんて気持ちで片っ端から蓮子の社交用公開情報(ソーシャル・ステータス)確認アプリを叩いていく。
Health ping……『異常』
位置情報通知(スポッター)……『公開』
Doing Logger……『異常』
「――は?」
一瞬、デバイス画面に映る赤い文字の意味が判らなかった。
だってこんなの、緑文字の正常(システム・グリーン)が返ってきて当たり前で、異常値なんてそうそう出てこない。それこそ、蓮子の身に何か大変なことが起きてないと。
パシン! と両頬を叩いて、テンパる寸前の意識に何とか喝を入れる。ツバキがビックリした顔でこっちを見て来たけど気にしない。位置情報通知(スポッター)が生きてる。まずは蓮子の居場所を探知して、それからHealth pingとDoing Loggerの異常値の詳細を確認して……。
「ど、どうかしたんですか……?」
「ごめんなさい、後にさせて。位置情報通知(スポッター)、蓮子の現在位置を出して」
音声入力で位置情報通知(スポッター)に指示を出す。デバイスがすぐさまマップ表示に切り替わり、蓮子の現在地を表示するマップピンが立った。でも、場所がちょっとおかしい? ここ、京都市内じゃない。
いや、移動してる。
マップピンが京都市の領域から離れ、かなりの速さで南西の方向へ滑っていく。どういうこと? Health pingのメトリクスは蓮子が昏睡状態であることを示していて、Doing Loggerの値もそれを裏付ける。昏睡させられて、どこかに運ばれてる?
蓮子を表すマップピンの他に、もうひとつマップピンがデバイス上に表示される。
――私だ。私の位置情報通知(スポッター)アイコン。
タチコマで進む私のマップピンの倍近い速度で、蓮子のマップピンが近づいてくる。タチコマだって法定最大速度めいっぱいで走ってるのに。目を白黒させるツバキを押し退けた私は、ほとんど叩き割るような勢いで操作パネルを弄り、リアウィンドウを開かせる。穏やかに流れるタチコマの注意喚起アナウンスをガン無視して頭を突き出す。時速百四十キロの風が私の帽子と髪の毛を攫って行こうと吹き荒ぶ。「マエリベリーさん!」叫ぶツバキは私を飛ばされまいとしてか、腰の辺りにしがみついてくる。何度も何度も周囲とデバイスを見比べる。
蓮子のマップピンと私の位置情報通知(スポッター)アイコンが、マップ上で重なり合う。
ちょうど私たちが乗るタチコマの上空を、一台のヘリコプターが通り過ぎて――
「――蓮子っ!」
名前を叫んで、手を伸ばしても、見向きもされず。
ヘリコプターは、やがて雲間に紛れて見えなくなってしまった。
◆
雪柳の白い花が手毬のように咲いていた。
桜は、ここからじゃ見えないけど、きっと咲いてる。きっと満開。
――綺麗だね。
声を掛けても返事はない。
寝台に横たわった乙女椿は、まるで微睡みの中に揺蕩うよう。
もう、『閨』は役目を果たした。魂を彼岸に渡して。
残されたのは、遺された人たちから手向ける離別の儀式だけ。
残された身体を、荼毘に付す工程だけ。
――本当に?
アナタの身体に縋りつく。死してなお、美しさを損なわない肉体に。
本当に、本当に、ただ眠っているだけに見える。
肌の瑞々しさも、髪の艶々しさも。心臓は止まっているのに、血色さえ。
信じられない。本当に、信じられない。■■が死んだなんて。
置いて行かれるのは、覚悟の上だったのに。
アナタはもう居ないのに。
死したアナタの肉体は、あまりにも生き生きとして。
今すぐにでも起き上がりそう、なのに。
――綺麗、なのに……。
焼いてしまうなんて、嫌。いや。
離れたくない。もう少しだけでも。
――焼かないで……。
たとえその感情が、やるかたない私のワガママにすぎないと判っていても――。
◆
頭が割れるように痛い。もしかしたら、もう割れてるのかもしれなかった。鉛を浸透させたように重い瞼を開く。霞む視界。知らない天井。冷えた空気。無機質な白熱灯。
起き上がろうとして、身体が動かないことに気付いた。拘束されてる。病院に並んでるような柵付きのベッドに寝かされていて、その柵に両手両足が縛られてた。揺らしてみたけど、ちょっと外せそうにない。着衣が乱れてる。右肩の部分が切られたか破られたかしたらしく、さっきから空気の冷たさをダイレクトに感じる。
「おはようございます」
視界を遮るような格好で、ツバキが私の顔を見下ろしてくる。その表情はほとんど陰になっていたけれど、特別邪悪な表情はしていなかった。門扉のところで初めて顔を合わせたときと同じ、朗らかな笑み。
「おはよう。寝覚めの気分は最悪だけどね」
「驚きです。怖くないんですか? 普通、怖いと思いますけど」
「怖いに決まってるでしょう。でも、怖がってなんてやらない」
「プライドですか?」
「怯えたところで、何も解決しないからよ。むしろ状況は悪化するだけでしょ」
「クールですね。素晴らしい。やはり真実を知るだけの『格』を身に着けてらっしゃる。僕 たちの目に狂いはなかったようで、嬉しいです」
「……アナタ、誰」
私はツバキを睨みつける。たおやか、という言葉の似合うような、二十代半ばくらいの女性。花の髪飾りに赤い袴。花のあしらわれた黄色の中振袖を羽織った下に、若草色の着物を着ている彼女を。
「ツバキと申し上げました」
「それは本名じゃないと言ったのはアナタだけど?」
「すみません、それ嘘です。椿(ツバキ)は僕の本名です」
彼女は悪びれもせず言ったかと思うと、自分の胸にそっと手を当てて、
「改めまして、僕は四辻椿と申します。『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』でインタビューを受けた当人です。『Praepapilio』を発見し、広めた張本人です」
「それ、笑えない冗談だわ。四辻椿氏は百年以上前の人間でしょう。実年齢にすると140歳とかになる」
「では伺います。宇佐見さん。どうして僕が140歳ではないと?」
「ギネスレベルの老人にしては、若作りが完璧すぎるわ。それに四辻椿氏は男性じゃない。完全に別人としか思えない」
「まぁ、そうですよね。確かに僕は肉体的には、四辻椿とは完全に別人になっています。身体の遺伝情報(ZENE)が丸ごと入れ替わりましたので」
「何が言いたいのか、さっぱりだわ」
「宇佐見さんの本来の思考のキレが落ちてらっしゃるようですね。やはり怖がらせてしまっているせいでしょうか。本意ではないのですけどね」
「なら、拘束を外してくれてもいいんじゃないの?」
「それはできません。久方ぶりに、秘密を共有してもいいと思える方と出逢えたので」
ツバキが口元だけで微笑を浮かべる。でも、目の据わり方だけは尋常じゃない。その猛禽類めいた目付きが、あのエミュレートAIのそれと全く同じだった。どこか狂気的にすら思える目の色。
「『Praepapilio』の副作用……いえ、本来はこちらの方が真の効能というべきなのですが、それがこれです。元来のDNA転写・復元の精度がテロメアの損耗さえも解消し、永遠に全盛期の肉体を維持し続ける。事実上の不老長寿です。
もちろん、僕が女性になったのにも機能的理由が存在します。アナタは『Praepapilio』には『始祖の保菌者』がいると、アナタは推理しましたね」
「……まさか、アナタが見つけた『死体』っていうのが」
「はい。今の僕の身体と全く同じ遺伝情報(ZENE)を持つ女性でした。僕は『Praepapilio』とは本来、彼女の身体情報を保存 、維持し続けるための機構 であると考えています。一般的に認識されている『Praepapilio』の効能とは、その機構を薄めて流用しているに過ぎない」
「ずいぶんな論理の飛躍があるわね。アナタが見つけたのは死体だけなのでしょう? なのにどうしてそう言えるの?」
「理由は二つあります。一つは、恐らくは生前の彼女と同様に、超記憶症候群に似た能力 が僕の身体に発現していること。もう一つは単純ですが、人体に投与する『Praepapilio』濃度がある一定を超えると例外なく、『Praepapilio』は彼女 の身体の遺伝情報(ZENE)をもって、人体を上書きすることです。前者は彼女 を保存する意義観点、後者は実際の『Praepapilio』の規定動作観点として、仮説の論拠になるかと思います」
誘拐・拘束・言動。ツバキは完全に狂ってるモノとして認識していたけれど、存外に理論らしきものが返ってきて戸惑う。ただ、それにしたって彼女の物言いは理解不能だったし、あまりにも科学的常識とかけ離れ過ぎていて、もはや一種の宗教のようだった。
――それじゃやっぱり、四辻椿が盗んだのは神の奇蹟が宿る『聖なる遺体』で、『Praepapilio』は神のもたらした聖遺物(オーパーツ)だと告白しているようなものじゃない。『Praepapilio』の『始祖の保菌者』は、実は聖マリアでしたと言いだしたって不思議じゃない。
ズキン、と大脳がシェイクされるような痛みが響く。
「そのありがたい秘密を私に共有するのが目的……? だったら、もう気は済んだ?」
「いいえ。もちろん、いいえ。この程度のことが目的なら、わざわざアナタを『閨』から移動させたりしません」
ツバキはまるで理解のない父親のように、ゆっくりと首を横に振る。そして不意に私の視界から外れたかと思うと、何やらキュルキュルと私を縛り付けたベッドを弄り始める。ベッドの上半分が少しずつ起き上がり、周囲の状況が目に入るようになった。
あまりにも異常なこの空間のディテールが。
「……ッ!?」
どこかの病院か研究所のようだった。白い壁、リノリウムの床。白熱灯。
――違う。そうじゃない。
円形の空間は半径10メートルくらい。冷房が強く効いていて、肌寒い。
――違う。そうじゃない。
空間の真ん中にガラス製の真空管めいた巨大な機械設備(イクイップメント)が設置されていた。深い海を思わせる蒼い液体に満たされたそれを、まるで神託を待つ巫女のようにずらりと並んだロボットアームが囲んでいる。
その、巨大なガラスの水槽の中央。
神殿に捧げる供物のように備え付けられてるのは間違いなく――
――人間の右腕だった。
◆
「早く早く、急いでツバキ!」
蓮子を連れ去ったヘリコプターを追いかけていたはずが、意図せず目的地は最初に入力した地点と同じになった。蓮子の位置を示すマップピンは、『Praepapilio』の製造工場と思しき座標で止まったから。タチコマから弾かれるように下車した私は、目前の建物を睨みつける。
人口抑制と都市区画整理事業によって大工業地帯と化した大阪工業地域の一角として、その建物は露骨に目立っていた。刑務所も斯くやというほどの高い壁。古式ゆかしい有刺鉄線。理由も書かずに、立ち入り禁止の警告。出入り口と思しきゲートも固く閉じられて。
「ふむ、これでは入れませんね……マエリベリーさん、急ぐ気持ちは判りますが――」
「ツバキ、ジャミング、よろしく」
「え、はい?」
閉ざされたゲートを、人差し指で縦になぞる。指の第一関節から先が『向こう側』の気配を引き連れて。ズズズと常識がほぐれる紫色の感触。足元までまっすぐなぞり終えると、ゲートが小さくこちら側に開いた。呆気に取られ過ぎたらしいツバキは、豆が鳩鉄砲を喰らったみたいな顔で私を見ていた。
「マエリベリー、さん……?」
「なに? 行くわよ」
彼女はものすごく何か言いたそうな顔で私のことを数秒見つめてきたけれど、やがて吹っ切れたように笑って、
「……えぇ、行きましょう」
◆
「宇佐見さんならお察しのことと思いますが、えぇ、はい。あれは彼女 の腕です。彼女 の肉体は8分割されて、日本各地の『Praepapilio』精製工場で稼働し続けています」
「……稼働、ですって?」
整然と死体の一部を組み込んだシステムを目の当たりにして、眩暈がするほどの吐き気に襲われながら言い捨てる。
「おぞましく非人道的だと非難しますか? それは当然の反応ですね。システムを構築した僕自身でさえ、こんな鬼畜の所業が自分の罪だと突き付けられるのは心苦しいです。しかし、他にどうしようもなかった。『Praepapilio』は間違いなく人類を救うのに、絶対に彼女 の肉体以外での培養が不可能だったのです」
それは端的に言って悪魔との契約だった。
人類すべての肉体から、ウィルス性感染症を綺麗に消し去ってしまう万能の薬(エリクシール)。それは四辻椿が見出した一人の女性の死後の安寧を、永遠に踏み躙ることでしか得られない。
けれど、その悪魔の甘言を退ける人間なんて、果たして存在するのだろうか。
一人の死んだ女の尊厳と、これから生まれ出る全ての人類への祝福。
どんな天秤を使ったところで、同じ結果が弾き出されるのではないか。
正直、私が彼でも、同じ結論に至ったと思う。まして、当時は世界的にウィルスが猛威を振るっていたのだ。それがどんなに非人道的に見えたところで、そのお気持ちだけを論拠にこの有様を非難することはできないと思った。私も根を張るこの人類社会は、この原罪を誰もが抱いているのだ。心の奥よりも、もっとフィジカルなレイヤ。体内を巡り巡る血液やリンパ液の片隅に、『Praepapilio』というナノマシンの形で。
……早鐘のように、頭痛が絶え間なくやってくる。
痛みのピークに至るたび、意識がほんの少しだけ薄くなる。
激しい痛みの中で思う。四辻椿が自らの犯した原罪の吐露のためだけに、私をこんなに手荒に扱う理由がない、って。
「――それで……?」
「はい」
大きく肩で息をしながら、ツバキの方を見上げる。視界が揺らぐ。ぼやける。頭の痛みは、もはやバットで殴られてるんじゃないかと思うほど強くなっていた。
「……私に、何したの……?」
「規定濃度の40倍の『Praepapilio』を注入しました。この辺りで、身体の免疫機能が過剰な『Praepapilio』のDNA復元機能に対し反応し始めます。宇佐見さんの本来持つDNAと、『Praepapilio』に秘められた彼女のDNAとが、互いに書き換え合戦をしてる状態ですね」
「私のことも、彼女 にしようっての……? 何の、ために……?」
「言ったでしょう。話し相手が欲しいと」
ツバキがそっと私の額に冷たい手を当てて言う。腹立たしいことに、死人のような彼女の手の冷たさは、別人のDNAが転写されて免疫機能がフルで働く私の火照った皮膚に心地よかった。
「正確には誰でもいいわけじゃない。私は、彼女 と話がしたい。一方的に連れ去り、人類のために利用し、利用し続けている彼女 に一言、謝りたいと思うのです」
「だから私を代わりに仕立て上げて、ごめんなさいするっての? 大した自己満足ね」
「宇佐見さん、魂はどこにあると思いますか?」
息も絶え絶えの思いで切った啖呵を流したツバキが、私の目の前に立つ。無機質な光を背負う彼女のシルエットが、やけに蝶々(Papilio)を想起させる。彼女は自身の胸にグッと手を当てて、
「僕のエミュレートAIと会話して、どうでした? そこに魂の存在を感じることはなかったと思います。『空(から)の山頂』現象。どんなに脳波を再現しても、そこに魂は宿らない。それは魂という本質が、実は脳に宿るものじゃないからだと思うんです。人間は脳を神聖視するあまり、魂の所在を忘れてしまった。
僕はね、宇佐見さん。魂は、脳を包括した肉体全般に宿るものだと考えています。
そして『Praepapilio』は、脳の構成さえも内包した彼女 の設計図です。必要な素体はすべて揃っているんです。DNAレベルで同一の肉体。ニューロンレベルで同一の脳構造。理論的には、そこに彼女 の魂の再現は叶うはず。重要なのは脳細胞のレジリエンス。自分自身が肥育してきた自我に囚われず、彼女 の自我を受け入れられるだけの知能柔軟性。宇佐見さんほどの方であれば、あるいは――」
「そのために、私の自我が消えても構わないって……?」
「残念ですが、その通りです」
ツバキが振袖羽織の袂から、スッと注射器を取り出した。群青色の液体をたっぷりと内包したシリンダが、ヤドクガエルのように毒々しく光る。
「こちら、先ほど宇佐見さんに接種したものと同じ、規定濃度の40倍の『Praepapilio』です。こちらを駄目押しで接種すれば、宇佐見さんの体調も楽になります。アナタの身体が、彼女 のDNAを異物と判断しなくなるので」
「……っ」
ツバキが私の右上腕を掴む。せめて、と身体を揺さぶるけれど、ツバキの腕を振りほどくほどの抵抗にはならない。ガッチリと拘束されていて、逃げる隙も与えられない。
「はい、チクッとしますよ」
「や、待っ――」
「――レベル10。焼却します」
私の皮膚を注射針が貫通する直前。
何かがシュッと風を切る音がして。
それをそうと認識する間もなく、ツバキが持っていた注射器が爆発した。
「う、ぐっ……!?」
もうもうと煙を上げる右手を抑えたツバキが、後ろへよろめいて。
「蓮子っ! 大丈夫!? 蓮子!」
「……メリー?」
あぁ、聞き間違えるはずもない彼女の声がする。固く強張っていた心が瞬時に融解して、安堵に涙が溢れそうになる。でも、ここで泣いたら、きっとメリーに怒られちゃうから。
「どうして、ここに……?」
世界でも終わったんじゃないかと思うほど悲痛な顔のメリーが、私の拘束を解こうと躍起になっている。そんな彼女の横に、当然のようにもう一人のツバキが立っていて、私は遂に視覚にまで異常が出てきたか、と身構える。
「事情はあと。逃げるわよ。たぶん彼女、もう私の手には負えないから」
言いつつ、メリーはかなり拘束を剝がすのに手こずっているようだった。無理もない。ダクトテープのようなものでグルグル巻きにされてるから。
ツバキとツバキが相対する。
片方は激しく出血する右手を抑えたまま、苦々しげに。
片方はヒト型の式神符を構えて、涼しげに。
「……どちら様でしたっけ? 生憎、過去の失敗作には興味がなくて」
「アナタと同じ、死んだあの娘の影法師ですよ」
言って、ツバキがツバキに対して式神符を投げつける。まっすぐ飛んだ式神符は、ツバキの右足に貼りついた途端に爆炎をあげる。くぐもった悲鳴が上がって、ツバキが床に倒れ込む。タンパク質の焦げる不快な臭いが周囲に充満した。
「~~……ッ!」
「うーん、やっぱり違いますね。アナタもかなり焼きたいレベル高いですが、ぜんぜんスカッとしません。私が望んでるのは復讐じゃないみたいです」
肩を竦めてツバキが歩き出す。床に這いつくばる方のツバキを素通りし、右腕の浮かぶガラス水槽を見上げる。
「名前、までは思い出せませんか。やっと逢えたのに――は、違いますね。あの娘の魂は、ちゃんと彼岸に迎えられましたから。魂の抜けた肉体に残るのは、是非曲直庁の技術だけ」
「……な、なにを……?」
「別に私は『Praepapilio』を否定したいわけじゃないみたいです。あの娘も、死後の自分の肉体が人の役に立っていることを、怒りはしないでしょう。そろそろ次の転生を果たしているかもしれませんし、聞いてみる価値はありますね」
「……次の、転生? 何、アナタは何を言っている……輪廻転生は信仰に属した死生観の伝承に過ぎない。脳を含めた肉体の遺伝情報が再現できれば、必然的に魂と呼ぶべき自己意識の再現も――」
「アナタこそ何を言ってるんです? 一度失われた魂に、再現も再生もありませんよ。人は死んだらそこで終わりです」
「…………そんな、ことは……」
短くない時間が経過した。メリーの尽力のおかげで、私の拘束も右手の分は外れつつある。水槽の右腕を見上げていたツバキが、不意に水槽目掛けて式神符を投げつける。
「待、――ッ!?」
悲鳴染みた静止の声も届かず、式神符が爆発する。ガラス水槽は粉々に砕け、中の液体が四方八方に流れ出た。中央に据えられていた右腕が一瞬だけ露わになったかと思うと、すぐさま数枚の式神符に貼りつかれて、そのまま爆炎に包まれる。
破壊の限りを尽くされた精製工場が、無事であるはずもなかった。けたたましい緊急警報(アラート)が耳をつんざく。赤い警告灯が視界を塗りつぶす。スプリンクラーが作動しているが、機械設備から上がる炎の勢いは増すばかりだった。
「――マエリベリーさん、ありがとうございます」
式神符を構えたまま、ツバキがポツリと言う。
「私が焼きたかったもの、見つかりました。私、ちゃんとあの娘の身体を荼毘に付してあげたかったんです。それが判って、よかった」
「――危ない!」
炎上に巻き込まれたロボットアームが連鎖爆発を起こす。断末魔のような金属音を轟かせながら、こちらに倒れてくる。
最後の拘束が外れた。メリーの手を借りてベッドから飛びだして、走り出す。
背後で星でも落ちて来たみたいな轟音。爆炎と熱風に煽られて足元がもつれた。「蓮子!」叫んだメリーが、私に肩を貸してくれて。背後を振り返る。立ち上る炎の揺らめき以外には、何も見えない。
「行きましょう。蓮子。走れる?」
「……えぇ、メリーと一緒なら」
正直、足元はおぼつかない。だけど、言葉に嘘はなかった。メリーの微笑みに促されるようにして、私たちは走り出す。まだ火の手が及んでいない通用口と、なぜかすべて機能していないセキュリティゲートを次々に抜けていって。
「何が何やら、さっぱりだわ。どうして蓮子がこんなところに」
「メリーだって人のこと言えないわ。いったい何がどうなってるの」
「やっぱり、安易にソロ活動とかしない方が良いみたいね。私たち」
メリーが呑気な独り言めかして言う。そうこうしているうちに、外まで脱出することが出来た。サイレンの音が四方から何重にも重なって聞こえてくる。メリーが周囲に視線をやって、
「消防かしらね」
「何にせよ、見られたら面倒になるわ。さっさと離れましょ」
「うーん、そろそろ秘封倶楽部も一線超えてきたって感じ」
「一線でも三味線でも超えてやればいいのよ。私たちの好奇心に果ては――」
言いかけた途端。
ドクン、と。
心臓の奥で火花が舞い散った気がした。
両足から力が抜けて、身体の動かし方すら判らなくなる。そのまま、肩を貸してもらっていたメリーの身体から引きずり落ちるように、倒れていく。
耳鳴りが酷くて、すぐそばのメリーの声も聞こえない。
視界がぼやけて、私を見下ろすメリーの表情も判らない。
身体の感覚すら、遠くなっていく。まるで、私の魂が肉体から締め出されるみたい。
――『Praepapilio』が、私の中で暴走してる。
薄れていく。
ぼやけていく。
私が。私をこれまで形作ってきた自己同一性が。
私はメリーに抱きかかえられている。
メリーの肩越しに、赤く染まり始めた夕焼け空が見えた。
黄昏時。誰そ彼刻。逢魔が時。
もしも私と一緒にいた方のツバキの願いが叶うのなら。
もしも魂の再現が叶うのなら。
……今が絶好のタイミングなのかも。
そんなことを思って。
最後に。
もしかしたら、これが最後かもしれないから。
メリーに、泣かないで、って伝えようとして。
私の意識は、そこで――
四辻氏「やはり往年のSF作品が偉大な故でしょうか。現代に至っても尚、ナノマシンに対する誤解や偏見が根強いことを感じます。未だに名刺を出すと驚かれるのですから。僕は本気でやっているのですがね。まぁ、このインタビューを通じて、少しでもナノマシンをリアルに感じられる方が増えれば、と」
――SFと言えば、という印象があります。
四辻氏「判らなくもないですね。メタルギア、ARMS、虐殺器官……ナノマシンはある種、いつか訪れる未来への憧憬として様々な翻案がなされてきましたが、だからこそ実現に対する具体的なアクションを保留され続けてきました。昔の空飛ぶ車のようなもんですね」
――未来の象徴ではあるけれど、象徴そのものが求められてるわけではない、と?
四辻氏「具体的に必要になるビジョンが、まだ共有されてない、という方が正しいかと。一般的なイメージのナノマシンと、いま最先端で研究されてるナノマシンの実態には大きな乖離があります。勘違いされてる方が多いですが、ナノマシンだからと言って、必ずしも人体に注入するわけじゃない。僕が製品化しているナノマシンも、中小企業の工業ラインに乗せるために設計しています」
――医療テクノロジーだけが、ナノマシンの本領ではないということですね。
四辻氏「もちろん、将来的には人体で活躍するナノマシンも視野に入れていきたいと思います。ただ、そのために乗り越えなければいけない障壁が多いので、医療としてのナノマシンは、現段階では現実的ではないのも確かですね」
――ヒトが身体の中に大学病院設備を保有するのは、もう少し先の話のようです。
四辻氏「えぇ。有機分子回路の発明、免疫機能への対処、身体異常の感知と排除方法。他にも山ほど。このインタビューを読んでいる方は失望するかもしれませんが、人間とナノマシンが共生関係を結ぶまでは、まだ途方もない時間が必要でしょうね。
ただ、僕も偉大なSF作家が夢見た未来の礎になれるだけの『格』を身に着けていきたいとは思っています」
――本日はよろしくお願いします。それでは、四辻社長が推進しているナノDXについて、改めて詳細をお伺いできればと……
「どう? ウチの秘蔵の稀覯本だけど」
ページを手繰る指を止める。紙面から目を離した私を、ミナの値踏みするような琥珀色の瞳が迎えてくる。夕辻ミナ。伝承民俗学部の特待生で、ルーマニア人とのハーフで、前科一犯(執行猶予期間)。彼女の生家を兼ねたアンティークショップ『ギャラリー 夕辻』は諸事情により無期限の閉店中で、私はそこにちゃっかりお邪魔してオカルトな品々を物色している最中だった。
開いていたボロボロの雑誌を閉じて、マホガニー製のテーブルの上に置く。『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』――知らない人が見れば、小汚いだけの何の変哲もない古雑誌。けれどこの本、現代オカルトにおいて超、超、超、重要な激レア希少本だ。まさか生きてるうちにお目に掛かれるだなんて思ってもみなくて、身体の震えと口角のニヤニヤが収まらない。
「……聞くまでも無いわね。買ってく?」
「い、い、良いの!?」
「相場は760万ってところだけど、ちょっぴりオマケして750万で良いわよ。どうする?」
「………………」
「聞くまでも無いわね」
「……リボ払いとか」
「うん。蓮子さんが友達じゃなかったら頷いてたけど、流石に考え直してちょうだいね」
きっちり白手袋を嵌めたミナが慎重に取り上げた雑誌は、乾燥剤ならびに防虫剤と一緒にビニールに仕舞われたうえで店の奥の棚の中に安置されることと相成った。引き出しが閉じられるときに心の柔らかい部分がブチブチ千切られる感覚があったけど、拳を握り締め、歯を食いしばって耐えた。戻ってきたミナは、そんな私の様子を見て若干引いてるように見えたけど、それを取り繕うほどの余裕が今の私には無かった。
「私が言うのはどうかと思うけど、金銭的価値に見合うだけのリターンは得られないんじゃないかしら? 内容は電子でいくらでも出回ってるのだし」
「もちろん私も記事そのものはデバイスで何百回も読み返してるわ。価値の本質は冊子じゃなくて、そこに記載された情報に在ることも理解してる。なのに! 今にも喉から手が出そう……っ!」
「極上のカモね。ここまで欲しがってる人に売らないとか、もしかして私、商売人向いてないのかしら?」
ミナがため息交じりに手袋を外して、カップに注がれた珈琲を傾ける。彼女は当前のように使っているけれど、カップもソーサーも本物のマイセンで、一セットで並みの社会人の年収を軽く上回る。珈琲は私の分も出されているけど、価値の重圧に耐えられない私は口をつけるどころか下手に触ることもままならない。
きっとメリーなら、臆せず対応できるはず。なので秘封倶楽部の汚名返上の機会は、遅れてやって来るメリーのために取っておくことにする。今の私、興奮と緊張で、絶対に指を滑らせない保証ができないので。
「でも意外ね。アンティークショップなのに、百年以上前の希少本まで扱ってるなんて。確かに古くて価値があるものに間違いはないけど、骨董品というカテゴリに入らない気もする」
「アレは特別なの。蓮子さんは絶対に好きだろうと思って見せたけど、本来は売り物じゃない」
「750万で手を打とうとしてなかった?」
「ジョークに決まってるじゃない。そんな大金、ポンと女子大生の懐から出るわけないでしょ」
涼しい顔で言ってのけるミナの顔を、プチ忸怩たる思いで見つめる。雑誌といい、マイセンといい、ミナの手の上で踊らされている気分だった。実際、そういう意味合いは少なからず彼女の中にあるようで、浮かべる笑みがどこか不敵だった。まぁ、これくらいなら吸血鬼よりもかわいいものなので、嫌味に取るほどじゃない。
「むしろ私は、アナタがリボ払いを検討するほど執心したことにびっくり。蓮子さん、その辺はドライに捉える人間だと思ってたから」
「理論的な現実主義者にオカルティストは名乗れないわ。むしろ究極の夢想家じゃないと。だから『21世紀最大のオカルト』の原典を見て、平静でいる方が無理なのよ」
「当時は単なるビジネス雑誌だったのに。まさか、百年以上たっても語り継がれることになるなんて、誰も夢にも思わなかったでしょうね」
ミナが肩を竦める。珈琲を一口嗜んだ彼女は続けて、
「……『Praepapilioのナノマシン』」
と、口ずさむように呟いた。我が意を得たりとばかりに私は頷いて、
「そう。『水晶髑髏』、『聖徳太子の地球儀』、『アンティキティラ島の機械』に並ぶオーパーツ。失われた文明の名残じゃなく、今日まで連綿と続いている社会の中から突如として発現したイレギュラー。『Praepapilioのナノマシン』、あるいは商品名としての『Praepapilio』。
その実態は、ウィルスに酷似した微小タンパク質の結合体。生物の体内に注入されると、その生物のDNAを複写し、保存。DNA転写エラーが発生している細胞を発見すると、異常のあるDNAを正常時のDNAで転写、復元する働きを担う」
「現代の医療福祉インフラよね。人類が癌とウィルス性の感染病を克服するに至った揺籃」
ミナが気だるげに椅子の背もたれに身体を預けて、
「その『Praepapilio』の開発製造者が生前唯一残したインタビューが、あのビジネス雑誌に載った小コラム……確かに謎が多いわよね。人類史上、もっとも偉大な発明とさえ言われていて、現代を生きる私たちもその恩恵にあずかってるというのに」
「謎が多いなんてもんじゃないわ。徹底的に、偏執的に、情報が隠されてる。そりゃ、人類規模で有用な発明に関する情報統制に政治的な介入が働くのは当然だけど、それにしたって徹底的すぎる。なんせ、本当にあの『四辻社長』が『Praepapilio』の開発者なのかどうかも判ってない。あくまで、開発者の可能性が囁かれてるだけに過ぎない。
最大の謎は、『Praepapilio』の開発に至るまでの経緯だけどね。21世紀当初、ナノマシンは『癌細胞に直接薬剤を投与する』ことをゴールとして研究開発が進んでいた。逆に言うと、当時の研究はそこまでしか到達していなかった。だというのに『Praepapilio』は発表された。蒸気機関車の開発競争を、原子力航空母艦で粉砕するようなものよ。当時の技術水準からでは説明できないほど、高度に発達した技術の出現。『Praepapilio』がオーパーツと呼ばれる所以」
「さすがはオカルトサークル秘封倶楽部。水を得た魚とはこのことね」
小首を傾げたミナは、ちょっぴり呆れ顔だった。普段の私ならメリーが相手でもそろそろ自重する頃合いだけど、原典をこの目で見たワクワクが抑えきれないせいで、想像以上に口が回る回る。
「『Praepapilio』が開発された21世紀当初は、新型コロナと呼ばれた疫病が全世界で蔓延していたの。黒死病や天然痘ほどの致死率は無かったけど、それが逆に感染爆発につながった。全世界の感染者数は10億人を超えて、当時の人類を混沌の渦に叩き込んだとされるわ。
そんな新型コロナを終息させたのが『Praepapilio』。
当時はそれなりに混乱もあったみたい。さっきも言った通り、ナノマシン技術は当時の人間にとってあまりに未知だったから。だけど、なりふり構ってられなかったのね。終わりの見えないパンデミックに疲弊した人々は、徐々に『Praepapilio』の驚異的な効き目を受け入れるようになった。二十一世紀最悪のパンデミックは、そのまま人類最後のパンデミックとなった。『Praepapilio』を投与された人間の体内では、いかなるウィルスも増殖することが出来なくなったから。マラリアも結核もHIVも根絶された。めでたしめでたし、ということで今の人類史に刻まれてる。
でも、それほどまでの恩恵を与えてくれた発明に関する情報は、一切開示されなかった。乱立する技術的な障壁をまとめてブレークスルーした手法も、それに至るための基礎研究の形跡も、ナノマシンの生産ラインの詳細も。情報にアクセスを試みることすらタブーとされた。おかげでたくさんの仮説が生まれたわ。宇宙人提供説とか、未来人渡来説とか、政府が悪魔と契約したなんて珍説も……」
「蓮子さんって噺家だったっけ? よくもまぁ、そんなに澱みなく喋れるわよね」
ジトッとした視線でミナが見つめてくる。もちろん私は反省しない。私をここまで語らせたのはミナだからだ。辟易とした様子のミナを他所に、まだまだ語り足りない私はデバイスを手にプレゼンをするような気持ちで、
「それでね、もともと『Praepapilio』を製造開発していた企業は、とっくの昔に国営化されて厚生労働省管轄の機械医療局ナノマシン課で管理されていて、その機関自体、半世紀以上前に完全AI化されてる関係で完全なブラックボックスになってるの。第三者機関による『Praepapilio』自体の調査研究データは公開されてるけどね。でもそれ以上の深掘りは誰にもできてない。どのように開発されたのか。どのように生産されているのか。誰も知らない。誰もが当たり前に『Praepapilio』を体内に導入してるにもかかわらずよ? 改めて考えると、それって結構な異常よね? まぁ、運用から百年以上経っていて、『Praepapilio』が引き起こした健康被害がまったく報告されてないからかもしれないけど。正直、私はそれも本当かなーって疑ってるんだけどね? あ、ちなみに『Praepapilio』っていう名前は、恐らく始新世中期の地層から発見された、絶滅したアゲハ蝶の化石から来てるという説が濃厚で――」
「マエリベリーさん早く来てぇ! この女、暴走列車だわ!」
とうとうミナが悲鳴を上げた。
◆
「……後悔してるわ。素人が蓮子さんの好奇心をイタズラに突いたらダメって判った」
ぐったりしたミナが、目頭を抑えながら呟く。虐殺レベルで私が一方的に喋り倒し、はや一時間程度。正直このまま、日が暮れて夜が更けて朝日が昇るまで喋り続けられそうだったけど、流石に遠慮しておくことにする。そろそろ彼女の頭から、詰め込み過ぎたオカルトが漏れてきそうなので。
「憧れは止められないものだからね」
「ブレーキが無いだけじゃなくて、内燃機関の熱エネルギーも無尽蔵なのね……頭の中でオカルトが核融合してるの?」
「そんな夢みたいなバイタリティじゃないわよ。解明できてない事柄を不思議だと感じる精神構造は、人類種が発展してきた起源(オリジン)だと思うけど」
「アナタの基準が人類種に適用されるなら、今ごろ人類は銀河系全土に進出していたでしょうに。悔やまれるわね」
彼女はフッと薄く笑うと、もう降参とばかりに両手を挙げる。私は彼女の皮肉を微笑みで軽く受け流すと、絶対に落とさないように両手でカップを持ちあげ、すっかりぬるくなった珈琲で舌を湿らせる。
「――そういえば、話を蒸し返すようだけど、特別ってどういうこと?」
「なにが?」
「『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』……。売り物じゃないって言ってたけど、それじゃどうしてここに?」
「あぁ、そうだった。その理由をまだ話せてなかったわね」
ミナが軽くため息をついて、珈琲を飲み干した。彼女はゆったりと足を組み替えると、テーブルに頬杖をついて私をジッと見つめてくる。まるで旅人を惑わす妖精のように。
「ちょっとプライベートな話なんだけどね。私の家、分家筋なのよ。夕辻家」
「へぇ、そうなんだ」
「ぜんぜん食いつかないわね。思ってた通りだけど。さすが東京の人って感じ」
「え? 馬鹿にされてる?」
「イヤやわぁ、そないなことあらへんよぉ」
「え、ムカつく」
「話を戻すけど、ウチの本家は四辻さんっていって、現代に至るまで洛内に居を構え続けてる筋金入りの京都人なんだけどね?」
「四辻……って、え?」
ミナの説明はまだ序盤もいいところだったけど、思わず口を挟んでしまう。しかし彼女は、むしろ話が早くて助かるわ、とばかりに頷いて、
「そう。『Praepapilio』の開発者、『四辻社長』こと四辻椿の直系の子孫。あの本がウチにある理由は、分家に対する一種の啓蒙よね。『アンタらにもこの御方の血ぃが流れとるさかい、そん顔に泥塗るような真似せんでおくれやす』……って、まぁ直接言われたわけじゃないけど」
デバイスで口元を隠しながらのロールプレイ台詞には、本家に対するミナの感情が堂々と滲んでいた。私はその感情の刺々しさを脳内の記憶領域に保存はしつつも、それでも彼女の言葉に啞然にも似た驚きと戸惑いを隠せない。
――『四辻社長』に関する情報。
百年以上に渡り、ありとあらゆるオカルト探究者が追い求め、古今東西のスパイが奪取に命を懸け、世界中のハッカーが量子の海からサルベージを試みてもなお、尻尾の切れ端さえ掴めなかった新情報が、こんなにあっさりと――
「お察しの通り、今の私の台詞は完全にNeed Not To Knowね。取り扱いを間違えれば冗談じゃなく命に係わるタイプのね」
しぃーっと人差し指を立てたミナは、鬼気迫るという表現が当てはまるほど凄惨極まる笑みを浮かべていた。まるで殺人鬼でも前にしたかのような圧迫感が、私を取り巻く空気から現実感を消失させる。ミナと対峙している今のよんどころなさは、様子がおかしいときのメリーに感じるそれにも匹敵する。私は強張るあまりに石化していきそうな身体に、パシンと喝を入れて、
「どういうつもり?」
「あら、知りたくなかった?」
「そうは言わない。だけど友達だから、なんて理由で明かされていい秘密じゃないでしょう?」
「そうね。でも私、友達は選ぶタイプだから。蓮子さんは情報の価値を正しく理解できていて、私よりも上手に活用できると判断したの。だから、言っちゃった」
「言っちゃったって、アナタねぇ……」
「ウチは古物商だからね。価値のあるモノを、その価値が理解できる人に渡す手助けをするのが仕事。私にとっては四辻の血の掟なんかより、よっぽど大切な価値観よ」
そう言って、ミナがウィンクをしてくる。そのポップな仕草を鵜呑みにして、彼女の友情と商人根性に感激するのは悪手もいいところ。思案する。
いくつかの仮説を脳内に並べた私は、彼女の反応を確かめるように、
「ミナはさ、やっぱり四辻本家に顔が効いたりするんだっけ?」
「ぜんぜん、まったくもって、これっぽっちも期待しないで欲しいわ。私が東洞院通三条下るのお屋敷にお伺いを立てたところで、門前払いの塩対応よ。嫌味のひとつでも引き出せたら、むしろこっちが驚くわね」
「なるほど、私に対する挑戦状ってわけね」
「惜しい。ただちょっと、蓮子さんをギャフンと言わせてみたいなーって」
「無理難題を突き付けて右往左往するサマが見たいと。かぐや姫なのかしら」
「解決しても結婚はしてあげないけどね。で、どうする? 胸の内に留めておく?」
「お生憎さま。秘封倶楽部はまだ見ぬ不思議があるところなら、火山の中だろうと氷河の果てだろうとドンと来いよ。墓石だって回すわ。右にも左にも」
「焚きつけておいて何だけど、警察沙汰にはならないでね。私も怒られちゃうから」
えへん、と胸を張る私を見ようともせず、ミナはポットから珈琲のお代わりを注ぎつつ、淡々と釘を刺してきた。むしろその淡白な忠告こそが彼女の友情の発露なのだろうとは思いつつ、成功条件が追加されたことで上がった難易度に、私は純粋にゾクゾクしていた。
相手取るは『Praepapilio』の起源。現代オカルトにおける最大の禁忌。
その最前線に立って、テンションが爆上がりしない方が嘘だ。さぁ、秘封倶楽部の始まりだ。さぁ、早く(ハリー)。早く早く早く(ハリーハリーハリー)!
「んん~! 燃えてきたぁ! メリー! 早速、作戦会議よ!」
威勢よく立ち上がって隣に向き直る。
が、そこに当然居て然るべき相方の姿はない。
狐につままれたような、ショートケーキの苺が消失したような、唐突な理不尽に曝露した気持ちになった。どうしてここにメリーが居ないの? 世界のバグ?
「メリーが居ない」
「確かに来てないわね。マエリベリーさん。三限が終わる時間はとっくに過ぎてるけど」
古式ゆかしい柱時計に視線を向けたミナが首を傾げる。私も時計を見やる。講義が終わってから歩いてきてたとしても、もう着いてないとおかしいくらい。一瞬、天使が通り過ぎたみたいな空白の時間が訪れる。
まるでそのタイミングを見計らったかのように、私のデバイスに通知が来る。脊髄反射で通知内容を確認する。テキストメッセージ。メリーから。内容は何の飾り気もない短文で一言。
『ごめんなさい。今日は行けなくなった』
とだけ。
『どうしたの?』と返しても既読はつかない。フォン・リンクを繋ごうとしても、応答がない。サッと背筋が凍るような思いがする。まさか、メリーに何かあったんじゃ。
「来られないって? マエリベリーさん」
ミナがまるで地雷除去(マイン・スイーパー)みたく慎重な面持ちで尋ねてくる。彼女にそんな表情をさせてしまうほど、今の私は青ざめているのだろうか。
「うん、だけど、様子が変で……」
「様子が変って? Health pingは送ってみた? 位置情報通知(スポッター)は生きてる? Doing LoggerがAlert吐いてたりは?」
眉をひそめたミナが、至極まっとうな指摘を述べてくる。確かに、テキストメッセージとオフデバイスだけでメリーの行間を読んだ気になるのは早計だ。デバイスを操作して、メリーのステータスをクリアにしていく。Health ping……『正常』。位置情報通知……『一時非公開』。Doing Logger……『一時非公開』。
『正常』でも『異常』でもなく『一時非公開』。過度な情報社会と化した現代において、個人が無数のトレーサビリティで窒息しないよう設けられた防護壁。通信技術の発達に伴い、ある程度の個人情報に対するアクセス権限が公的財産と見なされるようになったカウンターとして、アクセス拒否権はどんどん私的財産化してきている。
情報の『一時非公開』は、その尖兵。設定するには個人の意思と、ときに安くはないクレジットが必要になる。現代人は持って生まれた眼球だけでなく、開示情報へのアクセスという『眼』を持った。その『眼』による第二の視覚から隠れる『皮膚』は副次的な獲得ではあったけど、その気になれば誰でも量子ネット上でカメレオンになれるというわけ。
重要なのは、メリーがその『皮膚』を使う選択を下したという一点。いまこの瞬間、メリーは私を含む世界に対して、自分の情報を公開しない自由を行使している。彼女の意思をもって。私のデバイスを覗き込んでいたミナは、そこに表示された結果を見て表情を緩めると、
「無事みたいね。マエリベリーさん。どうも、蓮子さんにも内緒の急用ができたみたいではあるけれど」
「私に内緒の急用って何よ……」
「そこまでは。彼女も理由があって非公開にしてるんだろうし、詮索するのはプライバシーの侵害だわ」
反論の余地もない科学世紀仕草を突き付けられて、ぐぬぬとなる私。判らないことは予断を挟むのではなく可能な限り自発的に調べるべきだし、選択的にシャットアウトされた情報は思慮分別をもってアクセスを控えるべきなのだ。空想と追及を是とする秘封倶楽部とは真っ向から反発し合う概念だけれど。
「……さて、楽しみね。蓮子さんが、どんな突拍子もない手法を持ち出して『Praepapilio』の秘密を暴いていくのか」
強引に話題を戻してきたのは、きっと配慮なのだろう。ミナが挑発的な視線を向けてくる。彼女の琥珀色の瞳が好奇心でキラキラしているのを見て、ムクムクと反骨心めいた感情が沸いてくる。その直情的な負けん気の奔流が、メリーへの不安を押し流していくのが判った。心配な感情を切り替えるのには一抹の罪悪感があったけれど、現状私がメリーのためにできることは皆無だ。ならミナの誘いに素直に乗って、建設的なオカルト攻略に頭を巡らせるほうが効率的。私はミナの瞳を見つめ返し、高まる好奇心で唇の端を吊り上げる。
「有益な情報の提供ありがとう。パパッと暴いて現代オカルトの最大手に終止符を打ってくるわね」
「実に頼もしい大言壮語だわ。ちょっとでも困ったらすぐに相談してね。何もできないけど、蓮子さんの顔を肴にブランデーを嗜むから」
そんな言葉を交わして、私たちは笑い合うのだった。
◆
――これは、ダメだ。
何よりもまず、そう思った。
雑踏の中、立ち尽くす。呼吸、乱れて。鼓動が、うるさくて。
無意識に目蓋を指でなぞる。私の眼球。良かった、潰れてない。オールドファッションなカメラフィルムが太陽で感光してしまうように、ヘロインを注入された脳細胞が過度な快感で焼き切れてしまうように、二進数で表した神をインストールされたデータベースがショートするように、あまりに過剰な情報の洪水は往々にして受容体を容易く破壊しうる。
何を見た?
何と出逢ってしまった?
この平凡な京都の街中で、一体全体、何が私とすれ違ったというの?
爆発する自問と恐慌が私の身体を凍らせていた。世界が白く塗り潰されたように感じるのは、強迫観念じみた内省意識が外部の情報をシャットアウトしてるからだ。時間が止まってしまったかのように感じるのも、きっとそのせい。脳細胞をシェーカーでミックスされてるみたいで、私の意識は急上昇と急下降の狭間の重力変化に耐えられない。
徐々に緩む身体の硬直。じれったくなる緩慢な動作で、私は振り返る。
――蓮子を巻き込んでは、ダメだ。
辛うじて明滅していた倫理観で、そう思った。
デバイスでメッセを投げ、思いつく限りの社交用公開情報(ソーシャル・ステータス)を片っ端からオフデバイスにした私は、誘蛾灯に惹かれる蝶々の気持ちで
揺らめく人いきれの向こう。
無防備な背中を見せつける
◆
何よりも肝心なのは、落ち着くこと。
深呼吸。肺胞から存分に酸素を吸入して、動脈の隅々まで赤血球を循環させて、脳細胞を活性化させる。状況は単純じゃない。思索の奔流の只中で、まずは自分の立ち位置を明確化する。私のルーティーン。『ギャラリー 夕辻』の玄関まで見送ってくれたミナに手を振って、背を向けて、歩き出す前に思考をクリアにしておきたかった。一歩を踏み出したその瞬間から、私の意識が着火した思考回路に大部分のリソースをつぎ込むことは判っていたから。
もう一度デバイスを確認する。相変わらずメリーはオフデバイスのままだ。いったいどこで何をしているのやら。しかも私に内緒で。
私に内緒で、というのがモヤッとポイント高い。そりゃ、共依存と愛情を履き違えた馬鹿カップルじゃないんだから、何でもかんでも逐一報告して、なんてほざく気はない。プライバシーの確保は個人の幸福実現権の大切な一角だし。私のワガママでメリーの自由を束縛するようなことはしたくないし。そも、私とメリーの関係について保証してくれる法的根拠があるわけでもない。メリーのことは大好きだけど、親友であることもバディであることも、秘封倶楽部の片割れであることもパートナーであることも、法に先立つ権利を提供しはしない。ならば当然、メリーの『知られたくない権利』を侵害してまで、私の『知る権利』を行使できる謂れはない。メリーが私に内緒にしたいことがあるのなら、それは堂々と何を恥じることもなく自由気ままに内緒にしてもらって構わない。私はそれを裏切りだとも薄情だとも思わない。えぇ、思わない。これっぽっちも。
「メリーと合流する前に『Praepapilio』の謎が解けちゃったら、悪いかな? うぅん、きっと痛快だわ」
などと、まるでどこかの誰かさんによーく言い聞かせるように宣言などして。
そうしたプロトコルを踏襲し終えてようやく、私は最初の一歩を踏み出した。途端、それまで抱いていた何とも言えない感情は、着火したパラレルな追及思考に押し流されていくのが判ったけれど、その自覚も認識不可能なほど彼方へと流れて。
――先行情報の調査。
――四辻家の調査。
パッと思いついたセンテンスは2つ。
ミナから提供された新情報をインデックス代わりに、先人たちの軌跡を検める。これまでの『Praepapilio』に関する膨大な調査ログの中に、四辻椿なる人物への言及があったか。
……いや、これはデバイスで検索を掛けるまでもない。過去に『Praepapilio』関連情報を片っ端から読み漁ったけれど、特定の個人や家系を示唆するような説は、『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』の記事に関するもの以外、一度も見た記憶がない。そもそもそれも、根拠のない憶測でしかない。なかった。『Praepapilio』の出現以前の2020年代に、ナノマシンを商業ラインに乗せた手腕と技術力が着目され、嫌疑が向いただけだ。だけだった。でもその言いがかりレベルの疑惑は正解だった。まぐれ当たりではあったけれど。
ここでようやく私はデバイスを取り出す。Shikihou DBにアクセスし、『四辻氏』の興した会社情報を検索するため。『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』に記載された会社名は『四辻ナノマシン株式会社』。百年以上前の会社情報なんて出るかしら、と思いつつ検索してみたら、あっさり出た。
「四辻ナノマシン株式会社……2020年設立、資本金100万円、2024年に倒産……」
これは私も初めて知った。『四辻氏』の会社は、設立から四年後、あのインタビュー記事から二年後には倒産していたらしい。続いて『四辻ナノマシン株式会社 倒産』で検索したけれど、こちらは目ぼしい情報が見つからなかった。小規模なスタートアップ企業だったようだし、細かい倒産情報を後世に残すまでもないと判断されたのだろう。現にShikihou DBでも会社所在地や代表氏名は省略されていたくらいだ。企業情報の詳細が出てこないくらいだから、個人レベルの足跡を辿るのは不可能だろう。
当時の公開情報から迫る作戦は打ち止めだ。
続いて、四辻家の情報を当たってみよう。まず外堀から埋めていくのは、攻城も推理も調査も共通のプロセス。ロジックを積み上げた先の高みにしか、見たい景色は広がってないわけで。
とはいえ、個人情報。お手軽にアクセスできてしまっては困る。現代京都においても探偵という職業が健在なのは、ひとえに日本人の秘密主義な特性が時代と利便性に逆行し続けているからで、要するに他所様の内情を知ることは並大抵じゃないのだ。
「……えぇと、東洞院通り三条下るのお屋敷、だったっけ……」
ひとまずデバイスで住所を検索してストリートビューへ繋ぐ最中、ずっと何かが引っ掛かっていた。その辺りの話を、以前メリーとしたことがあるような? パッとデバイス内に表示された光景の既視感が、すぐにその疑問を解消した。
どこまでも続くような白い漆喰塗りの外壁。その向こう側にトリフネの原生林も斯くやとばかりに密集する木々と、それらを束ねるように延々と連なる注連縄。神域を囲うことで、此方と彼方を分かつ境界。
――思い出した。『三文字町屋敷の藪知らず』だ。
ちなみに勝手に命名したのは私。オリジンは『八幡の藪知らず』。私の地元にも近い千葉県市川市に今も残る禁足地で、入ったが最後二度と出ることが出来ないという伝説から、『神隠し』があるとされ立ち入ることがタブーとされた場所。
その謂れは日本三大怨霊の一角である平将門の墓所であるとか、かつて水戸黄門が迷い込んだけど何やかんや出られたとか、色々ある。そんな『八幡の藪知らず』にそっくりな光景が、デバイスに表示されている。
『――不思議だと思わない? メリー? これたぶん天然の木々よ。それが個人の邸宅内に、こんな人も分け入れそうにない密度で!』
いつだったか交わしたメリーとの他愛ない会話を想起する。
『マッピングデータの試算だと600㎡程度あるから、25mプールより少し広いくらい。この神域、邸宅の半分以上の面積を占めてるのよ。お金持ちが道楽でやる庭園にしちゃ、やりすぎだと思わない?』
『道楽でやってるわけじゃないんじゃない? 緑化事業(Afforestation)には莫大なお金と膨大な労力が掛かるし、ある程度の規模があれば国際緑化推進機構(NAO)の補助金交付の対象になるわ。都市部の地主なら、その補助金だけで充分食べていけるから、この家もそうなのかも』
『え、何それ? 自宅の庭を手入れするだけで、稼業になるってこと? 公開して入園料を取るとかじゃなくて?』
『うん。さすがに京都だとあんまり見ないけど、海外の主要な都市部ではメジャーな事業ね。ミラノとか香港とか凄いわよ。見たことない? 古い高層建築が丸ごと緑化事業(Afforestation)のために買い付けられて、鉄筋コンクリートを外骨格にした巨大な盆栽みたいになってるやつ。いわゆるフランケンシュタインの森(ヴィクター・グリーン)ね』
『そりゃSNSに転がってるフォト画像とかで見たことはあるけど……嘘、あれって合成繊維プリザーブドじゃないの?』
『もちろん。天然の木々じゃないと補助金出ないし。今や集合住宅を維持して人間相手に家賃を取るより、緑化事業に専念した方がお金になる場合があるってこと。これも人口減少のあおりね』
『……やけに詳しいじゃない。メリー』
『まぁ、ウチでやってる事業のひとつなので』
『うーん、ブルジョワジー』
「――あの時の、自宅の庭で緑化事業(Afforestation)をやってると思しきお屋敷が、四辻家の所有だったというわけね」
そういう視点で改めてストリートビューを見返す。
……いや、やっぱり変だ。まったく理にかなってない。
京都の街中に天然の木々が生えていることも不思議だけど、四辻家の森が持つ奇妙さの本質はそこじゃない。
自宅に天然の木々を植える理由と、せっかく植えた木々がこんなにも野放図に密集してる理由は、緑化事業で収益を得ているからということで納得はできる。
――では、この注連縄は何のためについているのか?
現代日本において、ことこの京都において、注連縄で結界を構築することの意味を理解してない者がいるとは思えない。ましてそれが由緒正しいお家ならば、なおさら。冗談や洒落では注連縄なんて使えない。よしんば緑化事業で生計を立てていることが事実だとしても、それとはまったく別の意図がなければ、自らの敷地に結界を構築するような真似はしない。
結界。そう、結界だ。
「……二重結界」
四辻家は白い漆喰塗りの外壁でぐるりと囲まれている。これが第一の結界。生活空間と公共空間を分かつ、一般的な境界。更にその内側に、周囲を注連縄で囲まれた森。第二の結界。
いったい、何と何を分かつ境界なのだろう。
……気になるセンテンスは二つ。現在の四辻家に、四辻椿の軌跡が残っているか。四辻家の敷地に存在する結界は何なのか。本質的にはまったく異なるテーマながら、アプローチはひとつしかない。要は四辻家の内部に入らなければ解決しない。推測を並べても本質に迫れない気配があった。だからといって、気軽に乗り込めるわけではないのが難しいところだけど……。
「直接、行ってみるか」
私はデバイスを仕舞って、乗り合いの無人運転(オートマ)バス乗り場へと歩を進めることにした。
◆
夢遊病者の足取りで、京都のテクスチャを波縫いする。
同時に判ることがいくつかある。あれの異常性を認識しているのは私だけらしいということ。私以外の人には、あれが人間に見えているらしいということ。
私には、今にも決壊しそうなダムのように視えている。膨大に蓄積した歪みと解れが、今にも爆発しそうなギリギリの均衡で人間のカタチをしている。そんな感じ。それが適切な例えなのかどうか確信は持てないけれど。放っておくことはできなかった。だからといって、どうにかする方法なんて何も思いついてないのだけど。
「あっ」
それまで無為に街を練り歩いているようにしか思えなかった
人気のない雑居ビル。テナントや事務所が入っている気配はなく、かといって誰かが居住しているようにも思えない。雨曝しのベランダの柵には赤錆が浮いて。ひび割れたガラスはダクトテープのようなもので雑に補修されて。降ろされたシャッターにはスプレー缶の下品な色彩で落書きがされていて。あれが入っていった勝手口らしきドアの前に私は佇む。
都市の片隅に残る澱み。至極まっとうな危機管理意識が、この先に進むことを拒んでいる。
反射的にデバイスに触れていた。無意識に蓮子と話すことを求めていた。膨れ上がる不安を吹き飛ばして欲しいと思った。この感情が時間と共に恐怖に変わってしまう前に、彼女の勇気を分けて欲しいと思った。
「……だめ」
首を横に振り、ギュッと拳を握る。甘ったれのマエリベリー・ハーン。蓮子を巻き込まないと決めたくせに。
意を決して、私はドアノブを捻ってビルの中に滑り込む。
瞬間、明らかな違和感。突然、サッと空気が塗り替えられたような。基底世界から瞬時に切り離されてしまったような。現実にさよならを告げて異世界に混じり込んだような。
――私、いま、境界を超えた?
「――どの面を下げて、今さら連れ戻しに来たんですか?」
声が鋭く切り込んでくる。若い女性の声。
状況の飲み込めない私が反射だけで声のした方を見る。ビルの中、昇降スペース、半階分上がった踊り場に、着物姿の女の人が立っていた。若草色の着物の上に黄色い中振袖を羽織り、赤い袴を履いて花の髪飾りを付けた二十代半ばくらいの。冷え切った眼で私を見下ろす彼女は、漂白剤に漬け込んだような無表情のまま、
「見れば判るでしょう? もう遅いです。何もかも。私は止まりません」
「……? えぇと?」
「焼くんです。焼いてしまわないと。それだけが私に残されたすべてだから」
彼女は言葉と裏腹に、氷みたいな声で宣告する。
どうしよう。何も判らない。
連れ戻すとか、見れば判るとか、焼くとか。言われても困る。何だか大事な前提条件の認識合わせが出来てないようなチグハグ感。
「……も、もしかして、どなたかと勘違いして――」
曖昧な笑顔を携えて尋ねかけた途端、ヒュッと何かが高速で私の顔のすぐ横を通り抜ける。金属同士を打ち合わせたような甲高い音。反射的に振り返る。古式ゆかしい式神符のような人型の紙が、私が通ってきた金属製の扉に突き刺さっている。突き刺さっている? 紙が? 金属の扉に?
信じられない気持ちで目を見開く。私が見ている前で、式神符がボゥッと音を立てて燃え上がる。強い炎だった。とても紙ぺら一枚だけで生み出せる熱量じゃない。
「アナタのそういう回りくどいところ、昔から大嫌いでした」
吐き捨てるような声。着物の彼女が、扇状に何枚かの式神符を広げている。
あの人が投げたの? それが扉に突き刺さったの? そして燃え上がった?
理解が降りてくるまで時間が掛かった。刃物で指を切ってしまった時と同じ。痛みは認識から数テンポ遅れて訪れる。今さらのように、冷や汗と動悸を自覚する。
「別に私なんかの術でアナタを祓えるとは思いません。けれど交渉には応じませんし、力づくで従わされるつもりもありません。私が本気なことは判ったと思います。なので、可及的速やかに引っ込んでもらえると、こっちも狂った獣みたいに抵抗しないで済む……え?」
私がへなへなと腰を抜かすと同時に、それまで徹底的に貫かれていた彼女の無表情がフッと崩れた。滑稽なまでの空白が私たちの間を通り過ぎると、やがて彼女が困惑の顔色と一緒に恐る恐るといった感じで階段を降りてきて、
「……人間? そんな、まさか。だって人払いの結界だって張ったし……それに顔が完全に……」
「確かにちょっと日本では珍しいかもだけど、人間かどうか疑わしく思われるような顔はしてないと思うわ……」
「あぁ、あぁ、違います、そうじゃなくて……うそ、本当に?」
「ごめんなさいって言ってほしい……」
「あ、うそ、やだ、本当に人違いですか、ご、ごめんなさい……っ! えっと、その、立てますか?」
「無理ぃ……」
足に力がぜんぜん入らなくてそう正直に告げると、式神符を袂に仕舞った彼女が手を差し伸べてくれた。彼女の手を取る。一瞬、死んでるんじゃないかと勘違いするくらいに冷たい肌。手を引かれるままに立ち上がろうとしたけれど、身体はぜんぜん言うことを聞いてくれなかった。私の両足、生まれたばかりの子ヤギより弱々しい。だって立ち上がれない。手助けまでされてるのに。
なんだか自分が情けない。私、こんなにメンタルクソザコ女だったっけ? これでも秘封倶楽部としていろいろ視てきたというのに。蓮子が居たら笑われちゃう。
「えっと、どうしよう……お大事に、って言ってさよならしてもいいですか?」
「そんな血も涙もない真似されたら私、何するか判らないわ。アナタの顔、覚えたから。警察に被害届を出すわ。貴船神社で藁人形に五寸釘を打つわ。毎晩枕元に立つわ」
「わぁ、想像以上……まぁ、いいです。ちゃんとお話ししましょう。勘違いした私も悪いですし、聞きたいこともありますしね」
彼女は小さくため息を吐いたかと思うと、藤色の髪を撫でつけながら階段に腰を下ろして、
「立てるくらいまで落ち着いたら言ってください。流石にここで話すのも何なので席を改めましょう。何か温かい物でもお詫びにご馳走したいですし。あ、私のことは『ツバキ』と呼んでください」
言いながら、白の乙女椿に酷似した髪飾りに触れた彼女が、何やら意味ありげに微笑んだ。
◆
わりと出たとこ勝負なところがあると思う。私。以前にメリーから指摘されたこともある自分の短絡的な性分のひとつではあるけれど、これが功を奏したり奏さなかったりするので、現状改める必要性に迫られてはいない。
というわけで、四辻家のドデカい木製門の横の訪問者情報開示器(Visitor-Info Releaser)に指紋を読み込ませた段階で、特に深い考えはなかった。四辻家の誰かさんが私の個人情報と来訪の意を読み取ったらしく、ドアホンからリンクがオンになったと思しき独特のノイズが走ってから、落ち着いた女性の声が聞こえてくる。
『――大学生のお客様が来はる予定はなかった筈ですが、ご連絡してはりました?』
「あ、行き違いになってしまっていたなら申し訳ありません。改めまして、酉京都大学の宇佐見蓮子と申します。四辻椿さまの個人史編纂の件で参りました」
口から出まかせにしては良い線いってるんじゃないかしら、などと他人事のように思いつつ出方を窺う。
『椿? そないな名前の方、当家には居りませんけど』
自然な反応だった。本当に心当たりがない、と突っぱねるような声音。反応まで2秒足らず。早くはないが、遅くもない。でも、このテンポでとっさに演技をしてトボけられる人間は多くない。嘘の可能性は低いと踏んだ。
また、家族であれば「そないな名前の方」と尊敬表現を使うこともないだろう。きっと、四辻家で働くお手伝いさんだ。それも、それなりに年季が入って、自分の裁量を弁えている。判らないことを主人に聞きに行かずとも、自分の采配で動くことを許されている。
あまり嬉しくないパターンだな、と思った。さすがに私を屋敷に招き入れる判断までは、使用人の一存ではできないはず。そうなると、彼女からどれだけ情報を引き出せるかという話になってくるけれど、『四辻椿』のキーワードに反応しなかった時点で望み薄。適当に切り上げたいところだけど、せっかくの第一次接触(ファースト・コンタクト)が空手に終わるのもスマートじゃないので、
「えぇ、もちろん、四辻椿さまご本人が、ご存命でないことは存じておりますが……?」
私は首を傾げながら言う。当然、VIRに人差し指を載せた瞬間から私の映像は向こうに出ているはずなので、表情も怪訝なものに見えるよう気を遣った。人は無意味な沈黙に耐えられないという傾向の例に漏れず、向こう様は逡巡するような間を置いてから、
『……宇佐見さま? 失礼ですが、元々はどないなご連絡してはったか、詳しゅうお聞かせ願えます?』
まぁ、そう来るよね、と思った。知らないアポ。知らない女学生。知らない家人に知らない要件。判らないことが多すぎるなら、自分の判る範囲で真偽判定を下そうとするのは当然の心理だ。つまり、把握している家人の予定と私の話を擦り合わせて判断したいのだ。私が本当に連絡を送ってきている、と仮定して。
もちろん私としては口から出まかせを精査されては面白くないので、もっともっと精査不可能な領域まで嘘を積み重ねていくことにして、
「あれれ? もしかして、まだご準備が整われていませんでしたでしょうか?」
『準備? と言いますと?』
「ひと月ほど前に桜庭教授からご連絡差し上げて、快諾いただいたと伺っておりましたが……」
『桜庭教授?』
「えぇ、はい。本学の、超統一物理学の。私、そこのゼミ生でして、本日は教授に頼まれて資料を受け取りに」
『超統一……? どないしょ、なんや、ややこしぃ話になってもうたなぁ……その、物理学のセンセが、なんで当家に連絡しはるんやろか?』
「あ、桜庭ゼミの研究テーマが『Praepapilio』なんです。なので、四辻ナノマシン株式会社のことも含め、当時の資料を――」
いけしゃあしゃあと嘘八百を並べるのが逆に楽しくなってきた、なんて思い始めていた時だった。カチャ、と軽い音がして。
そちらに目をやる。木製の大門の横。勝手口と思しき扉から、ひょっこりと色白な女性の顔が出てきた。その人と目が合う。どちらともなく会釈すると、自然と背を向ける形になったドアホンリンクが、ブツッと不自然なほど耳障りな音を立てて切れたのが判った。
「どうも、こんにちは。宇佐見さま、でよろしかったでしょうか?」
後ろ手に扉を閉めた彼女が、改めてといった具合で私に深くお辞儀してきた。たおやか、という言葉の似合うような、二十代半ばくらいの女性。花の髪飾りに赤い袴。花のあしらわれた黄色の中振袖を羽織った下に、若草色の着物を着ている。「えぇ、まぁ」などと口にしつつ私もお辞儀を返すと、彼女は朗らかな笑みを浮かべつつ、
「ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。ですが、どうか許してやってくださいませ。もとはと言えば旦那様からのお申しつけを、私が彼女に伝えそびれていたのが原因ですので……」
「い、いえいえ、とんでもないです」
「ありがとうございます。それでは、こちらへ」
「へ?」
笑顔の彼女に邸内へと促され、さすがに虚を突かれる。すると彼女は固まっている私の手を優しく掴み、そのまま勝手口の向こう側へと引き始める。繋がれてる彼女の右手は、一瞬、死んでるんじゃないかと勘違いするくらいに冷たくて。
「……えっと?」
「四辻椿さまに関する資料については、私が管理の担当を仰せつかっています」
彼女は前庭の飛び石の上を、私の手を引いて歩きながら言う。藤色の髪を歩くたびにフワフワと上下させて。
「ですが、なにぶん私的な文書や電子データなので、申し訳ございませんが邸内からの持ち出しについてはお断りする形となります。このご時世にお手数をおかけしますが、私の監督下での閲覧のみということでご了承をお願いします」
「……許可をいただけたってことで良いのかしら」
「えぇ、旦那様のお申しつけですので……あ、申し遅れました。私のことは『ツバキ』とお呼びください」
パッと手を離した彼女は私に向き直ると、白の乙女椿に酷似した髪飾りに触れながら、何やら意味ありげに微笑んだ。さて、どうにも奇妙な展開になってきたぞ、と頭の中の図面を引き直す。彼女の言う旦那様がどれほど寛容でも、流石に嘘の要件に許可は出すまい。かと言って、すみません嘘でしたやっぱ無し、が通るとも思えない。虎穴に入らずんば虎児を得ずというのは逆説的に、虎児を得るまで虎穴から出られないとも言える。四辻の境界に足を踏み入れた私に、もう居直る以外の選択肢は用意されてない。
「なるほどね……えぇと、『ツバキ』というのは本名?」
「いいえ、もちろん違います」
ニッコリと断言されてしまった。これは困った。立て直しを図っての問いかけだったのに、とんだファンブルだ。
「そう……まぁ、そうよね。代替になる固有名詞も提示せず、『ツバキ』とお呼びください、なんて言い回しはしないわよね……」
「ご明察、です。まぁ、せっかくのお客様に立ち話をさせてしまうのもなんですし、まずはご案内させてください」
「うん、判った。そうさせてもらうわね」
「はい。あ、そっちじゃありません」
私が玄関の方へと歩を進めると、ツバキが後ろからきゅっと私の手を掴んで止めてくる。一瞬の間隙に捻じ込まれるように、思考が疑問符で埋め尽くされて。
「……こっちじゃないの? 玄関扉は目の前なのに?」
「えぇ、はい。資料は離れにございますので、直接そちらへご案内いたします」
「離れ?」
「はい。こちらです」
言って、彼女は当然のように私の手を引きつつ雑木林へ向かっていく。雑木林。言うに及ばず、あの注連縄で囲われた緑の中。私が勝手に藪知らずと呼称した一画。
身体中の血管を、冷たい血液が迸るような感覚。
真っ当な感性の持ち主なら、そろそろ泣き出してもおかしくないな、と思った。もしかしたら私はもう、とっくにタブーという名の特大の地雷を踏み抜いたのかもしれなかった。私はこれまでそれなりに、余計な首を突っ込んだり危ない橋を渡ったりしてきた方だと思うけど、それらの体験に匹敵するくらい厭な予感があった。
だって、そうでしょう。
本名を明かさない使用人。嘘の要件に降りる許可。案内と言って引かれる手。仮にも居住空間だというのに、周囲に全く人の気配も生活感もない。
そして何よりメリーが、ここには居ない。
強すぎも弱すぎもしないツバキの手の握り方に、それでも決して私を逃すまいとする意志のようなものを感じて。
◆
何の変哲もないカフェに連れてこられた。個人経営でも、夜にアルコールを出すわけでもない普通のチェーン店。蓮子と一緒じゃ絶対に来ないような。ツバキはストレートの紅茶を頼み、私は少し迷った末にレモンティーを頼んだ。バリスタマシンに提供されたサステナブルなカップを片手にテーブルに着く。嘘みたいに周囲は騒がしい。
紅茶を傾ける。合成レモンの苦い香りがスンと鼻を突いた。
「……『ツバキ』っていうのは本名?」
「バレてますね。はい、違います」
「どうして嘘を?」
ジッとツバキの目を見つめる。淑やかな笑みを浮かべる彼女は、絹でできた天使の羽ほども堪えてないようで平然と、
「嘘、っていうほど嘘でもないんです。名前とは、人格への尊重をもって、他者から区別されるための記号ですから。今の私に尊重されるような人格はないですし、他の人と区別してくれる誰かも居ない。すると意味は形骸化します。私は、私が私を認識するときに、私の存在意義を再確認できればそれでいい。だから、今の私は『ツバキ』以外の何物でもないのです」
「何かの目的のために、新しく自分で名前を付け直した、という認識で合っている?」
「アナタ賢いですね。えぇと」
「マエリベリー・ハーンよ」
私が名乗ると、ツバキは一瞬だけ目を細めて私の瞳を見つめ返してくる。探られた気配があった。どうして自分の名前に猜疑を向けられるのかよく判らなくて首を傾げると、彼女は今の一瞬の間を無かったことにするみたく曖昧に微笑んで、
「マエリベリーさん。今度は私に尋ねさせてください。私を尾けてきたのは、誰かの差し金ですか?」
「違うわ。でも、それって質問する意味ある? 仮に誰かの差し金だとしても、違うって言わない?」
「反応が見たかっただけなので」
「それで? どうだった?」
「嘘は吐いてないように見えました」
「信じてもらえて何よりだわ」
肩を竦める。蓮子以外の誰かと、こうして喫茶店で話をするのは何だか新感覚って感じ。二人きりのお話をするには相応しい場所じゃないな、って思った。うるさいし、誰が聞き耳を立てているかも判らない。でもツバキは気にする様子もない。
「今度はアナタの番ですね。マエリベリーさん。何か私に聞きたいことがあれば」
「アナタはいったい何?」
本題に入らせてもらうことにした。まだるっこしい会話をするほどツバキと仲良くなってない。端的な問いかけの筈がひどく曖昧になってしまったのは、私にとって彼女があまりに未知だったせい。私の瞳は今こうしている間にも、彼女の内側で幾重にも連なって破裂しそうな『境界』を捉えている。「誰?」ではなく「何?」になったのは、それが理由。普通はこんな在り様になってしまえば、人間でなんていられない。
「…………」
ツバキからの返答はない。
私は首を傾げる。彼女はどこか、ここではない地平でも見据えているかのように虚ろな目をしていた。姿勢もまったく動かさない。まるで彼女を取り巻く空間だけが凍結してしまったかのような違和感。
「あの……?」
途端に不安になって、思わず声を掛ける。それでも彼女は微動だにしない。思い切ってテーブルに投げ出されていた彼女の腕を掴むと、ようやく電源がオンになったみたいに彼女がハッとした。何だったんだろう。彼女は特に申し開きもせず、彼女の腕を掴む私の手に右手を重ねてきて、
「私は、そうですね。端的に言えばテロリストです。この世界に一撃を食らわせてやりたい。完膚なきまでに破壊することはもう無理でも、せめて一矢報いたい。そういう思想を実現するべく行動する人間のことを、この世界ではテロリストと呼ぶのでしょう?」
息を呑む。彼女がテロリストを自称したこと、じゃない。何の気がねもなく、反社会的な思想を公言することの危うさそのものに。公の場での会話内容は公安の倫理監査AIに収拾されていることが前提だし、発言者を特定し、パーソナルな社会評価と照らし合わせた結果、犯罪者係数が一定以上であれば即座に逮捕、拘束の対象となり得る。
思わず彼女の腕から手を離そうとする。けれど、彼女は反対に私の手を掴んで離さない。痴話げんかのような無言の押し問答の最中、彼女はさもおかしそうに笑って、
「安心してください。誰も、何も、来ませんよ。私の発言も、私の振る舞いも、魔術的なジャミングが張られていますから。一般市民を監視するためのデバイスじゃ、私を捉えることはできません」
「それを信じろって言うの? だから心配ないって? アナタの主張だけじゃ何の根拠にならないわ」
「それじゃ、試してみますか? まぁ、不要だとは思いますが。だってほら、アナタの必死の抵抗もまた、『誰にも見えてない』のですから」
周囲に視線をやる。絶望的なほどツバキの言う通りだった。私の後ろを通り過ぎる人はおろか、隣のテーブルで談笑しているカップルでさえ、私に意識を向けてこない。もう私は体裁も何もかなぐり捨てて、立ち上がってツバキに抵抗しているというのに。明らかに異常だった。まるで現実世界のレイヤそのものが異なっているかのように。
見えてないというより、認識されてない? ドラえもんの石ころ帽子みたいな? そうじゃないと、ここには誰もいないと思った誰かが、私の上にお尻を乗せてくるかもしれない。
あぁ、もう! 大きく溜息を吐いて、椅子に腰かけ直す。魔術的なジャミングとやらがどんなものなのか理解は及ばないにしても、抵抗は無駄だと判ったのなら開き直りの一手に限る。少なくとも私はこの場に公安が来ないのなら、それでいいわけで。
「そういうこと、もっと早く言ってくれる? 縮んだ心臓がそのまま白色矮星になるかと思ったじゃない」
「心臓が太陽並みに巨大じゃないと、重力崩壊しても白色矮星にはならないかと。まぁ、こういうのは口で説明するより体験してもらった方が早いですから」
クスクスと悪戯っぽく笑うツバキの様子は少女めいていて、テロリストという言葉の持つ印象とは乖離してた。もっとも、現実でそれを公言する人に出会ったことが無いから、私の持つ印象に信憑性も何も無いのかもしれないけど。
「つまりツバキ、という名は、アナタの雅号みたいなものってことになるのね。その……て、テロ、に関する」
流石に自分の口から言葉にすることが憚られて、私はキョロキョロしながら小声で確認する。まるでプライバシーなんて卑猥な単語を覚えたばかりの中学生みたく。
「えぇ。私はこうしてここに在る過程で色んな記憶を
「動機?」
「焼いてしまいたいんです」
それを口にした瞬間、ツバキの顔から笑顔が消えた。何か別の生き物になったみたく。次元の裂け目から覗く虚空のように。人形よりも無機質に。澱んだ瞳は闇よりも暗く。私の背筋を冷たい死神の指が撫でたみたいにゾクリと戦慄が走る。
「この感情を言葉で理解してもらうのは困難です。取り澄ました世界の表層がおぞましいです。幸せそうに笑う人が気持ち悪いです。不幸に嘆き悲しむ人が気持ち悪いです。富者が嫌いです。貧者が嫌いです。老人が憎いです。幼子が憎いです。強者も、弱者も、聖職者も平信徒も仏教徒も道教徒も神道信者も無神論者も資本主義者も共産主義者も本当は誰も彼も、焼いてしまいたいです。機関車のボイラーに石炭を放り込むように。無限に並ぶ蝋燭をひとつひとつ灯すように。枯野にナパーム弾を落とすように。私は、この世界に生きる人々と、人々が築き上げたありとあらゆるものに、悉く火を放ちたい」
淡々と言葉を連ねたツバキが紅茶を傾けて舌を湿らせ、伏し目がちに私を見る。彼女の眼球が私の形姿(ゲシュタルト)を映しているという事実に対する、本能的な恐怖と拒絶感。
「私の願望は現実的ではありません。それは理解しています。私には、人理を焼却できるだけの熱量は生み出せない。だから今は、ちょうどいい塩梅の落としどころを探しています。現実との折り合いのつけ方、ですね」
曖昧に、彼女が笑う。私はちっとも笑えない。あまりにも共感できる余地が無くて。そもそも言語とは相互理解のためのツールであって、ある程度の同意が紡がれることを期待するという前提自体が成り立たない。そういう意味でツバキの主張は私にとって、未知の言語を伴う侵略にさえ感じられた。
彼女の言が真実なら、なるほど彼女はテロリスト以外の何物でもない。彼女の目的はどれほど折り合いをつけたところで、暴力的で破壊的な結末しかもたらさない。名は体をなす。彼女がツバキである限り、社会と彼女が相容れることはないのかも。不良サークル秘封倶楽部のセクトとは言え、まだ社会の枠組みから外れてない身として、想像以上の洒落にならなさにくらくらする。
私、思った以上に一線を越えちゃってる。
「……失礼。興が乗って、つい喋り過ぎました。ご迷惑でしたよね?」
「いいえ、まだよ。まだ私、大事なことを聞けてないわ」
レモンティーをぐっと飲み下して、私はもう一歩、彼女の内側に踏み込んでいく。その心は、言ってしまえば打算と勘。けれどここで引く選択だけは、何としても避けなくてはいけなかった。想像力と危機意識は人並み以上な自信はある。
――私がテロリストなら、無関係の私に、何の算段もなくここまで喋らない。
魔術的なジャミング。誰も彼も焼いてしまいたいという言葉。
ツバキにその気があれば、今この瞬間にも、彼女は私を焼き殺すことができる。
「大事なこと、と言いますと?」
「モチベーションは判った。でも理由が語られてない。ホワイダニットには、まだ足りないわ。どうしてアナタは、焼いてしまいたいの? どうしてその対象が、生きとし生けるすべての人間なの?」
会話が続いている間は、私の命は繋がるだろうか。それも楽観だ、という冷めきった判断が脳髄に絡みつくよう。私、死ぬかもしれない。鋭利な恐怖に感覚が麻痺しそうなのを、懸命に奮い立たせる。ともあれ私に、対話を試みる以上の悪あがきは思いつかない。目が回りそうだし、舌の根は喉に張り付きそうだし、心臓は氷水を突っ込まれたみたい。こういう反射神経が、吊り橋効果に繋がるのだ。脳内でアドラーの幻覚が、したり顔で説いてくる。うるさいから黙ってて、って気持ちだった。
「……やっぱり、そう思います?」
小さく息を吐いたツバキが紅茶を飲み干した。良かった。更に踏み込む、という私の選択は間違いではなかったらしい。なんてホッとしたのも束の間。ツバキはいきなり立ち上がったかと思うと私の手を急に取り、
「マエリベリーさん、もうちょっと付き合ってください。探したいものがあります」
「さ、探したいもの……?」
私のオウム返しに彼女は朗らかに笑って頷くと、
「はい。『どうして焼きたい』のか、という問いに対する答えです。私のホワイダニット、と言うべきでしょうか? アナタと一緒なら、もしかしたら見つかるかも、と思って……」
「……はい?」
私は困惑した。
◆
私は困惑する。獣道みたいな藪の中を、もう五分以上は手を引かれて歩いてる。人間の平均的な歩行速度は、時速3~4キロメートル。分速にすると54~60メートル。もちろん舗装路と同じ速度は出ないにしても、300メートル以上は歩いている計算になる。
マッピングデータからの試算だと、この藪の面積は約600平方メートル。30メートル×20メートル程度。あまりにも計算が合わない。藪知らずだなんて、その場のノリで言ったのに。まさか、本当に?
「ねぇ、どうしてこんなに歩くの?」
「はい、申し訳ありません。道が入り組んでいるのです」
こちらを向いたツバキの額に、汗が浮いている。心なしか息も弾んでいて、なんだか私よりもずっと疲れてそうだった。確かに藪の中を歩くなんて、舗装路の優しさに堕落させられきった現代人にはハードに過ぎる。フィールドワークには慣れてる私でも、苦じゃないと言えば嘘になる。
「道というより、入るときの道順ですね。古い金庫のダイヤルキーのように、決まったポイントを決まった順番で経由しなければならないのです。奇門遁甲とかいう占術を元にした陣を張ってるとのことでして」
「そうなの? 実はまっすぐ進んでたわけじゃなかったのね。藪の中だから気付かなかっただけで。ちなみに、無視して突っ切ったらどうなるの?」
「離れの扉が開かなくなります」
「本当に? 占術の加護にしては恩恵というか、効能が直接的すぎない?」
「種明かししてしまいますと、センサーとオートロックで管理されているんですね。奇門遁甲の陣に倣った入り方を科学技術で強制しているわけです。そうすることで、呪術的にも物理的にも守ることができる、と」
「面倒くさいわね?」
「ハチャメチャに面倒くさいです。出るときはまっすぐ出れるんですが……はぁー」
ツバキが魂まで抜けていくような深いため息をつく。そりゃあ、離れの管理に赴くたびにこんな工程を踏まなくてはいけないのなら、そうもなる。
でも逆に言えば、そうまでして守らなければならないような何かがあるということだ。
「着きました」
言って、ツバキが立ち止まる。鬱蒼とした木々に半ば飲み込まれるように、四メートル近い高さをもつ巨大な岩が鎮座していた。白地にゴマ粒をバラ撒いたような岩肌。花崗岩だ、とすぐに判った。注連縄の撒かれたそれは半ばほど地面に埋まっていて、岩というよりは小規模な山か古墳のよう。その超巨大な岩の中央部に、黒曜石か何か、また別の岩で作られたと思しき扉がある。オルメカ文明の遺跡のようだと思った。そうじゃなければ天岩戸か。
「先ほど私は離れと言いましたが、正しくは『閨』と呼ばれています」
呆気に取られた私からパッと手を離したツバキが淡々と言う。彼女は見慣れているのだろうけれど、私はそういうわけにはいかない。しばし自分の置かれた状況も忘れて、ポカンと見入ってしまっていた。
ツバキが咳払いをする。視線を向けると、彼女はシリアスな表情で、
「現在は資料室のような扱いをされていますが、元は四辻椿さまの居室だったそうです。というよりは、自身の居室とするべく彼が作らせたのだとか」
「それ、ものすごく違和感あるわ」
「そうですね。私もそう思います。この大きさの花崗岩ですから、重量は十トン以上あるでしょう。それを京都の、それも洛内の一角に持ってくるだけでも労力は計り知れません」
「無理を通してでも、これを作らなくてはいけない理由があったってことね」
再度、『閨』と呼ばれた巨石を見る。よくよく目を向けると、周囲の木々は『閨』の方へ向けて、まるでクシュビ・ラスみたく歪曲して生えている。ちょうど枝葉で蓋をするように。事前に見た写真でこの巨石の存在を察知できなかったのは、これが理由かしら。
個人の邸宅で石造りの秘密の小屋を百年以上前から維持し続けるモチベーション。ちょっと尋常じゃない。緑化事業(Afforestation)みたいな仮説も思いつかない。
「何があるかしら? 秘匿、自己顕示、啓示?」
「――罪」
ポツリ、とツバキが言の葉を零す。彼女の方へ目をやる。彼女はどこか、ここではない地平でも見据えているかのように虚ろな目をしていた。姿勢もまったく動かさない。まるで彼女を取り巻く空間だけが凍結してしまったかのような違和感。
咳払いをしてみる。ひらひらと手を振ってみる。反応はない。
「……おーい?」
ポン、とツバキの肩に手を置くと、それでようやくスイッチでも入ったみたいに彼女がハッとしてこちらを見てくる。狐につままれたような気持ちで、
「罪、って?」
「何がです?」
ツバキが小首を傾げる。言ってる意味が判らない、とばかりに。「いや……」と口ごもったところで、彼女が不審げに眉根をひそめてくる。聞き違い? いやいや、そんな馬鹿な。混乱する私に構わず、ツバキは巨石に歩み寄ると漆黒の岩戸を横に引く。重そうな見た目に反して、岩戸は音もなく横にスライドした。それと同時に、内部がパッと明るくなる。
「さ、どうぞ」
「失礼しまーす……」
笑顔で促されるまま岩屋の中に入る。ツバキに背中を向けて。網の中に入っていく魚の気分だった。高校生の時に興味本位でバンジージャンプをしたときの記憶が蘇る。命綱をつけられ、何も無い中空へ一歩を踏み出すあの瞬間の、身体が死を覚悟する感覚。
個人の敷地内。深い藪の中。秘匿された密室の胎の中。
何をされても文句は言えないなって思う。
色んな予測があった。背後から刺されるかも、とか。閉じ込められるかも、とか。毒ガス、とか。落とし穴、とか。クスリで昏倒させられる、とか。パラレルに展開される危機意識の反射神経に対してコミットできる方法は限られてたけど、何が起きても冷静に対処できるだけの覚悟だけはあった。
そうしたすべての予測を裏切って。
岩屋に入った私の背後でツバキが行儀よく戸を閉めた。穏やかな暖色の灯りに照らされて、彼女の肌は白くて綺麗だった。私の視線に気付いた彼女が、笑顔で小首を傾げた。
つまり別に何も起きなかったってこと。
「どうですか? 案外こぢんまりとしてて居心地が良いでしょう?」
「まぁ……」
なぜか得意げに語られて初めて、この空間のディテールに目をやる。
通気性を維持するための窓や、採光性を確保するための天窓のようなものは流石に作れなかったのか、それらしい設備はない。ただ、ライトはそこかしこに埋まっているようで、明るさは申し分なかった。岩をくりぬいて作られた居室、にしては洞窟みたいな湿気や底冷えするような空気感は感じられないので、見えないところに空調機器が設置されているのだろう。
内装自体は居室という言葉から受ける印象から、大きく外れたものではなかった。四畳半程度の板張りで、実用性のあまり感じられない本棚と、見たこともない花が活けられた床の間がある程度。
でも部屋の中央にベッドが据えられているのは、どうにも奇妙だ。布団なら判らなくも無いけれど、ベッドなんて真ん中にあったら邪魔だろうに。他の調度品が普通だからこそ、その妙な配置が気になって仕方がない。
「ベッド邪魔じゃない?」
「邪魔です」
そうよね。邪魔よね。ツバキの即答により、私の感覚は狂ってなかったことが証明された。
でも本当に私の感覚が狂っていないのなら、そろそろ白黒はっきりさせなきゃいけない。
「――さて、もういいわよね? 狂言に付き合うのは」
「狂言と言いますと?」
私も大概ではあるけど、ツバキの面の皮もなかなかだと思った。どうも彼女と話していると、微妙に話の力点をずらされるな、と思いつつ、
「旦那様の申しつけ、って。でもあれは私の嘘だから、話が通ってるわけがない」
「確かにそうですね。ですが私は、あくまで旦那様のお申しつけで動いています。もっとも、当代の旦那様ではありませんが」
言うと、彼女は私の横を通り過ぎ、真ん中に備えられたベッドを迂回して部屋の向こう側へといそいそ歩いて行く。かと思うと壁に向かって何やら操作し始めた。
唐突に、対面の壁が色を変える。ただの石壁かと思っていたけれど、視覚情報レイヤが塗布されていたらしい。夜明けの空のような薄い紫色を背景にして、見覚えのない人物が表示される。若過ぎても老い過ぎてもいない。パッと見で男性なのか女性なのか判らない。AI描画された3Dアバターなのかもしれない、と一瞬思ったけど、それにしては目の据わり方が尋常じゃなかった。
『――前回の起動から七カ月と五十一日か』
投影された人物が男性の声で話し出した。どこか冷淡で、とっつきづらい印象がある。
『今回の客人の名は?』
「宇佐見蓮子と名乗っておいででした」
ツバキが映像の男性に対して私の名を告げる。彼はしばし思考するように口元に手をやった。やがて得心がいったように頷くと、
『宇佐見蓮子。酉京都大学超統一物理学部の在籍リストに該当者がいるな。顔認証データの検索値とも一致する。偽名を使わなかったのか? 大胆なものだ』
「アナタが四辻椿さん? 本人が存命なわけはないから、AI再現かしら」
驚き。まさか個人を再現したAIが出てくるとまでは予測できなかった。独白にも近い私の言及に対し、彼はさぞ可笑しそうに、
『AI再現と言うとチャチに聞こえるな。まぁ、その理解でおおむね間違いはないがね。ただ、僕のエミュレートは機械学習ではなく、生前の四辻椿の脳波転写によって行われているから、スワンプマンよりは人間に近いはずだ』
自分がAIであることを認めつつ、彼は嘯いた。脳波転写を用いた個人のAIエミュレートは、六十年位前にトランスヒューマニズムにかぶれた金持ちの間で流行った技術だったはず。当時の技術でも個人の人格に極めて近しい演算結果の出力には成功していたし、寿命の克服だの肉体から精神を解放するだのといった理想論を一時的にブーストする土台にもなったけれど、一瞬で廃れた。
なぜなら、いくら脳波の模擬演算の精度を上げていっても、ある一定の地点でエミュレートの精度が頭打ちになったからだ。これは『不気味の谷』現象になぞらえて、『空(から)の山頂』現象と名付けられた。たとえ計算機が個人の脳内パルスと限りなく同一に近い演算を行っても、そこに自我や意識と呼べるものは、けっして発生することはなかった。どれほど精巧に作られたAIでも、能動的かつ主体的な活動を見せることはなかった。
発達したAIが自我を持つという古いSF観は否定された。生命科学を突き詰めていく行為が、『魂』の存在証明へと舵を切り始めた科学史の転換点。
「四辻椿氏がトランスヒューマニズムの持ち主だったとは思わなかった。けれど、スワンプマンと人間の間には無限に近しい距離があるわ。アキレスと亀ね」
『誤解しないで欲しいが、四辻椿は人間を超越した存在になることに興味はなかった。人間は自我が故に世界を己の知覚範囲内に押し込めてしまう悪癖がある。だが人間のアドバンテージは社会的動物であることだと僕は思う。それを生かすために個人は流動的で、常に新陳代謝が働いている必要がある。人類というひとつの生物をより長く存続させるために、個体の保管は不合理だ。残ったところで癌細胞のような悪性情報になるだけさ』
「エミュレートAIが残っていること自体が矛盾にならない?」
『ならない。僕は現代社会と連携しないスタンドアローンだからだ。僕――つまり君が相対している四辻椿を原型としたエミュレートAIは、人類に寄与することを目的としない。そもそも四辻椿に、それに値する能力はない』
「なら、どうしてアナタが作られたの? 当時の脳波転写もAI生成も、天文学的なお金が掛かったらしいけど」
『もともとは単純に個人的な欲求だ。話し相手が欲しかった、というだけのね。生前の四辻椿は、たったそれだけの理由で僕を作るだけの金と理由があった』
「それは経緯の話よね? どうして現代まで、アナタが維持されてきたの?」
『そうは言うがね。積極的な理由がなければ即座に切り落とすというのは合理的だが、感情に迎合するとは限らない。僕が維持されてきたのは、単に誰も僕を消去する決断を下せなかったという消極的な理由だ』
そう。脳波転写ブームの副作用は、まさにそれだった。
人間は古今東西ありとあらゆるものに人格を見出してきた。それは他人と共同することを生存戦略とした人類の本能とも言える。たとえ『魂』の存在しないAIが相手でも、その本能は遺憾なく発揮された。ほとんどの人間にとって、エミュレートAIを消去する行為は殺人に等しい罪悪感を伴うものだった。それはそうだ。エミュレートAIは人間と遜色ない会話ができ、感情表現をし、自分が消去されると知って命乞いすらした事例がある。むしろ躊躇いなく消去できる人間の方が、他者共感性の欠落した異常者だとさえ言える。
電脳に永遠の夢を求めた人々の本懐は、人間のバグとも呼べる判断によって消極的にではあるけれど成立することとなった。そうした人間倫理の原則に沿って、脳波転写ブームで大量発生したエミュレートAIたちは多くの場合、法的な所有者が経済的に破綻しない限りにおいて、継続され続けることが推奨される社会通念が出来上がるに至った。
だから廃れたのだ。エミュレートAIは自然死しないので。
「……つまり私は、持て余されたエミュレートAIのお喋りのために呼ばれたのね」
『ひどい言われようだが事実だ。ここには基本的に、そこにいる使用人以外は来なくてね。退屈なんだ。もちろん、僕が退屈してると言ったところで、そこに何の意味もないだろうが。無駄だと切り捨てるかね?』
「いいえ。むしろ好都合だわ。情報源と会話できるなら、資料を読む手間が省けるし」
言うと、ツバキが壁に立てかけてあった年代物のパイプ椅子を取ってきてくれた。厚意に甘えて座らせてもらうと、ツバキが恐らくはエミュレートAIの入力機関が拾わないくらいの小声で、
「あんな言い方ですが喜んでるんですよ。旦那様、寂しがりなんですから」
そう囁いて、彼女はしずしずと入口の方に控えた。使用人というより、お淑やかな細君みたいだと思った。現代に至るまでAIと婚姻関係を結ぶことを認める判例が出たことは一度もなかったけれど。
さて、とエミュレートAIに向き直り、さっそく本題に入らせてもらうことにした。
「――『Praepapilio』の話がしたいわ」
◆
ビルとビルを繋ぐ空中回廊(エアウォーク)を進む。ウォークなんて殊勝なことを言っておきながら、動く歩道(トラベレーター)が完備されているので、本当に歩いてる人なんか一人も見かけない。景観を損ねるという理由で昔は毛嫌いされていたらしいけれど、利便性の前にそんな難癖も淘汰されたみたい。一度上昇した人間は、低いところに降りることを嫌がるものなのだし。
高いところを所望したのはツバキだった。テロリストを自称するだけあって、俯瞰できる風景が好きらしい。でも彼女がテロを志す理由は、彼女自身にも判らない。
「記憶が保てないんです。私」
何でもないことのようにツバキが言う。空中回廊(エアウォーク)の有機ガラスに反射する彼女の横顔は半透明で、今にも空気に溶けていきそうだと思った。
「何かから目を離すと、片端から記憶がほどけて、欠落していく。私は、一度目を離したものを忘れてしまう程度の能力の持ち主なんです」
私はふと疑問に思う。私とツバキが出会ったとき、彼女は明確に私を誰かと間違えていた。それは逆説的に、その誰かを覚えてたことになる。私がそれを指摘すると彼女は頷いて、
「失った記憶も、見れば思い出すんです。見なければ永遠に思い出せない。私の世界は、自分の視界に映っているモノだけで構築されています。今もそうです。私は瞬きのたびにアナタを忘れては思い出してを繰り返しています」
ツバキの告白を受けて、彼女の揺蕩う精神世界を想像したけれど、うまくイメージできなかった。記憶の連続性に致命的な問題がある。それでは、自分が自分であるという確信を抱くこともできないはず。自我や意識は記憶の連続性から育まれるものだから。彼女はつまり、偶発的に火花みたく想起される記憶を紡いで、まるでひと昔前に流行ったエミュレートAIみたいに、それらしく振る舞っているに過ぎないのかも。
――『魂』の不在。『空(から)の山頂』現象。いつか蓮子から教えてもらった科学史の切れ端が脳裏をよぎった。あるいは今も私の瞳に映る彼女の『境界』は、それが原因なのかもしれなかった。
「何もかも忘れてしまう……すべてを燃やしたいという願望だけは、忘れずに残っているの?」
「たぶん違うと思います」
「と言うと?」
「人間を見るたびに、焼いてしまいたいという衝動を思い出してるんです」
天気の話でもするみたく軽やかな口調で、とんでもないことを言う。それが本当なら、もう彼女が人類と相容れることはないと思った。どんな人を見ても、焼き殺す衝動を鮮烈に再認識し続けるのなら。
「ちなみに、私に対してもそう思うの?」
「思いますね。焼きたいレベル3くらいでしょうか」
「それって高いの? 低いの?」
「高くも低くもない、という感じです。あそこに仲の良さそうなカップルが居ますね? 二人ともレベル3です。欠伸をしている初老の男性がいますね? レベル3です。紺の制服を着ている少女がいますね? レベル3です」
「みんなレベル3じゃない」
「そのようですね」
「そもそもレベル3って、衝動としてはどの程度なの?」
「そうですねぇ……仮に私が松明を持ってたら、問答無用で押し付けるくらいですかね?」
「それは……結構、強いのね」
「けれど、それをしたら流石にダメなことは判ってます。えぇ。目に映る人に片端から付け火をしていくのは簡単ですが、それで焼けるのは精々二、三人でしょう。でもそれでは、私の本懐には程遠いので」
言葉を選ばずに表現するなら、彼女は間違いなく狂っている。でもそれは熱病のような狂乱ではなく、クレバーな判断の喪失を伴わない穏やかなものらしい。ツバキは世の中の力学や不文律をきちんと弁えながら、冷静かつ着実に狂っている。
でもそれを理由に彼女を否定することもできないなって思う。
なぜなら私も同類だから。
よくよく考えたら、蓮子と一緒に結界暴きに精を出している私も充分テロリストの枠組みにカテゴライズされておかしくない。むしろ成果をいくつか挙げてる分、私の方が悪いまである。ツバキの口ぶりから察するに、彼女はまだ行動に移してないようだし。
そう考えると、むやみに警戒するのも筋じゃないのかも。
もっと気楽に、お散歩感覚で付き合えばいいんだわ。うん。
「つまり、焼きたいレベルが高い対象を探すことが目的で合ってる?」
「合ってます。私も探してはいるんですが、なかなか見つからなくて」
「探し始めると逆に見つからないものよね。判る。私もよく結界暴きに行くんだけど、いざその気になるときに限って、ちっとも見つからないの」
「日本の結界は優秀ですからね。たいてい認識阻害の術式を組まれてますから、そのせいでしょう。見ようとすると、却って見えなくなります」
「詳しいの? あ、そういえば最初に会ったときも、結界を張ったって言ってた」
「えぇ。私はどんなに教わっても基礎的な術しか習得できなかったので、あまり難しいことはできませんけれど」
「教わったんだ? 結界に関する教育機関みたいなのがあるのかしら? でもそれって世界的にバリバリのタブーだと思うんだけど」
「さすがに寺子屋みたいな機関があったわけじゃなくて、教えてくれたのは巫女さんですね。彼女の結界術ときたら本当に天才的で、妖怪だって相手じゃありませんでした。でも、だからでしょうか? 教え方は上手じゃなくて。何を聞いても、『そんなの、勘で何とかなるでしょ』とか言われて……」
「あれ? 昔のこと、覚えてるのね? スラスラ出てきたけど」
「……出てきましたね。ちょっと私もビックリしてます。まさか私にそんな過去があったとは」
ちょっと驚いてツバキの方を見る。口元に手を当てる彼女は、まるで自分が吐いた言葉の手触りを確かめているみたいに見えた。
ビックリという言葉。嘘や演技には思えない。
でも思い出せたという事実は、記憶が保てないという彼女自身の言葉と矛盾する。
「――忘れちゃう、というより、思い出せなくなってる、の方が正しいのかもしれないわね」
ふと思ったことをそのまま口に出す。その表現は私にとってはストンと来るものだったのだけど、ツバキはそうでもなかったようでキョトンとしていた。
「忘れる、と思い出せない、は同じ意味では?」
「日常会話ではね。でも相対精神学的には、忘れることは意識機能だけど、思い出すことが出来ないのは意識の機能不全なの。前者は記憶容量の節約で、後者は記憶を引き出す機能の故障ね」
「うーん、なるほどですね? つまり、私は故障しているということでしょうか?」
「あ、いや、でも故障って言葉には語弊があって、実態は様々だと思う。もちろん記憶を引き出す手段が無くなっちゃうディメンティアの場合も指すけど、ツバキは記憶を想起するトリガーさえあれば思い出せるみたいだから、それとは違うわよね。ハイパーサイメシアン・シンギュラリティみたいな」
「は、はいぱー……?」
マズい。故障とか致命的に人権意識ゼロな失言を取り戻そうと、余計に拗らせちゃった感がある。認知症を言い換えたディメンティアはまだしも、後者は完全に学術用語。蓮子みたいな知識欲求オバケ以外に、伝わりにくい言葉を使うべきじゃないというのが私のモットーなのに。
「ハイパーサイメシアン・シンギュラリティ。超記憶症保有者の特異点。ややこしいから根拠になる理論の部分は端折るけど、例えば無限に情報をインプットできるメモリがあったとしたら、いつかそのメモリから情報をアウトプットすることはできなくなるの。無限に存在する情報からひとつの情報をピックアップするのに、無限時間が必要になるから。これは単純にサーチアルゴリズムの計算式に無限が入ってくるからで、アキレスと亀みたいな思考実験の話なんだけどね。要は、一度見聞きしたものを決して忘れない記憶能力を持つ人が不老不死になったら、いつか何も思い出すことができなくなるに違いないっていう……ゴメン、忘れて」
早口で喋ってるのが急に恥ずかしくなってきて、顔を伏せる私。何たる典型的なディスコミュニケーション! 秘封倶楽部以外でやらかしてしまうのは久しぶりでした。説明しよう! 私ことマエリベリー・ハーンは、まだ社会性の何たるかを知らなかった幼い頃に、幼稚園(Kindergarten)で子供にも大人にも言論マウントをとりまくって気持ち良くなりまくった挙句に論破女王(Queen Of Ronpa)と呼ばれまくっていた思い出を恥じています! ちなみに蓮子には内緒よ!
「なるほど、なるほどですね……理解しました。興味深いですね」
たぶん耳まで真っ赤になっているだろう私の恥じらいには目もくれず、ツバキはうんうんと頷いていた。忘れて、って言ったんだけど、それは耳に入らなかったみたい。
「そっか……私は忘れてるんじゃなくて、思い出せなくなっているだけなんだ……」
「ツバキ?」
私が口走ったのは極論も極論。良くある思考実験のひとつで、実際のユースケースに合致する可能性は無いに等しい。けれど彼女はそこから何かを得たみたい。儚げに描いた唇の微笑みは、しかしさっきとは打って変わって彩度を増して。
「ありがとうございます。マエリベリーさん。私、少し確信に近づけた気がします」
「ど、どういたしまして?」
「アナタとの出会いは、きっと運命だったのでしょう。もしかしたらこのまま、私は私の本懐を遂げることができるかもしれませんね」
「そう、それは良かった。もう私のことは焼きたくなくなった?」
「いえ、焼きたいレベルは3のままですね」
「あらら」
意外と頑なだった。それとも彼女の基準は個人の行動如何に拠らないということなのかもしれないな、って思った。上辺ではなく、もっと深いところに根差す何か。
空中回廊(エアウォーク)は東京ローカルの山手線みたいなもので、始まりも終わりもない。座ったり横になったりすることは禁じられているけれど、その気になれば永遠に堂々巡りをしていられる。人気スポットだから、人の数も多い。こうして立っているだけで、もう何百人とすれ違ったか判らない。ふとそう思ったのは、よく見たらツバキがずっと視界の端でとらえるように、チラチラと群衆を観察してるのが判ったから。
最初に出会ったときも、雑踏が多かったのを思い出す。
きっと彼女は獲物を探してる。少しでもレベルの高い人。少しでも多くの人を巻き込める場所。自らの致命的な一手が、最大限にこの世界の焼失に繋がることを願って。記憶を保てないディスアドバンテージを意にも介さず。
「順調?」
「何がです?」
「焼きたいレベルが高い対象を探すって」
「あぁ……いえ、駄目ですね。というか、恐らく駄目なんだと思います。まだ私が行動してないということは、そういうことなのでしょう」
「みんなレベル3なのね」
「そのようです」
「視点を変えてみたら? 人間にこだわりすぎるから駄目なのかも。例えばあそこに、アクアリウムポールがあるわ。中で泳いでいる魚とか、焼きたい?」
「熱帯魚のようですが、やけに大きくて立派ですね。何という魚なんでしょう?」
「そこにプレートが」
「Osteoglossiformes Osteoglossidae Heterotidinae Arapaima gigas……アロワナ目アロワナ科ヘテロティス亜科ピラルクーだそうです。あまり美味しくなりそうなイメージも湧きませんし、別に焼きたいとは思いませんね」
「さすがに人間と魚では違うのね。生物学的に違いすぎるからかしら? もうちょっと、人間に近くないと判断基準の軸が判らないかもね。アナタの焼きたい衝動って、デバイスの画面越しでも機能する? このニホンザルの画像とか、どう?」
「どうと言われましても……よく判らないです。焼きたいかと聞かれたら、別にと言うか……」
「じゃ、これは? 現内閣総理大臣の顔写真」
「うーん……いえ、特には、ですかね……」
「デバイス越しだと駄目なのね。でもそれって、対象が無機物だと反応しないってことよね? やっぱり動物園……いやでも、生体展示してるとこなんて相当遠出しないと……」
「なんだか実験動物になった気分がしますね」
ツバキが困ったように微笑む。確かに彼女を振り回している自覚も、なくはない。とはいえ、何も判らないままバイバイというわけにもいかないわけで。ここは飲んでもらうほかに道はない。私はやると決めたらトコトンまでやる女なので。確か大阪に古い動物園があって、そこならクローン鶏とかクローン山羊とかいたはず――
「マエリベリーさん」
大阪までの電子チケットを購入しようとしたところで、いきなりグイとワンピースの袖が引かれる。その力が思ったより強くて私はもうちょっとのところでデバイスを落としてしまうところだったけど、それに抗議の声を上げる間もなくツバキが何かをスッと指差す。
カレイドスクリーンだった。特に注目する要素があるとも思えない広告の一幕。府立博物館で来週から始まる化石展の紹介。アンモナイトや恐竜の化石の画像が散りばめられて。
「あれは焼きたいレベル7くらいあります」
彼女の指先は揺らぐことなく、数ある化石写真の中のただひとつだけを指し示していた。絶滅したアゲハ蝶の化石。
いや、そこに小さく表記された『Praepapilio』という文字列を。
◆
『――『Praepapilio』の話をするのは構わないが、君の期待に応えられるかどうかは保証しかねる。君だってまさか、僕が洗いざらいすべてを語ってくれるとは考えてないだろう』
エミュレートAIが、AIらしくもなく、もったいぶった言い回しで返答してきた。私は小さくため息を吐いて、
「情報にロックが掛かっているのね」
『その通りだ。僕は脳波転写当時の四辻椿の記憶をすべて保有しているが、『Praepapilio』関連の記録には、まったくアクセスできない。公開情報であれば話すことは可能だが、聞くかね?』
「いえ、けっこう。でもまぁ、そうよね」
エミュレートAIの言葉を思い出す。前回の起動から七カ月と五十一日。『Praepapilio』の調査の末に、こうして四辻椿の幻影と話すことになったのは、私が初めてであるはずがない。なのに量子の海に『Praepapilio』の謎を暴く手がかりはアーカイブの欠片もない。ただここに辿り着くだけでエミュレートAIがペラペラ話してくれるなら、苦労しないってこと。
「……ウミガメのスープってことね」
記録にアクセスできない。
つまり、エミュレートAIはアクセスできる記録とできない記録の差異を明確に把握していることを意味する。なら、そのラインを探る質問をすれば概観は自ずと浮かび上がる。境界線を責めるのは得意だ。だって私、秘封倶楽部だもの。
「四辻椿氏が『Praepapilio』の開発者であることは間違いない?」
『それは事実と異なるな。開発という言葉の定義にも拠るが、一般的な意味と仮定するのなら、四辻椿は『Praepapilio』の開発者ではない』
「判った。訊き方を変える。『Praepapilio』というナノマシンは、四辻椿氏の進めていた研究、もしくは会社事業によって作られたもの?」
『どちらも違う。四辻椿の研究も、四辻ナノマシン株式会社も、『Praepapilio』というナノマシン開発には何ら寄与しなかった』
私は頷く。ここまでは想定通りだ。
もう少し踏み込んでみよう。幸い、相手の機嫌を損ねることで会話が遮断される危険性は考えなくていい。
「アナタはさっき、四辻椿氏にはアナタを作るだけのお金と理由があった、と言った。そのお金と理由は、どちらも『Praepapilio』が起因よね?」
『その通り。だが、その事実は隠蔽されなければならなかった』
「なぜ? 人類の肉体からウィルス性感染症を根絶したことは、控えめに言って偉業だと思うけれど」
『その質問に答えることはできないな。理由を再度述べる必要は?』
「無いわ。事実が隠蔽される必要があったと言ったわよね? その判断は誰が下したの?」
『令和八年に厚生労働省の医療監査事務局で『Praepapilio』に関する全情報の非開示決定がなされた記録が残っている』
「国が絡んでくるのね。令和八年……2026年か。四辻ナノマシン株式会社の倒産から二年……どうしてそんなタイミングで、そんな判断が?」
『機密情報に該当するため、僕には回答することが出来ない』
「全情報の定義は?」
『それも機密情報だ』
「そう。判った。なら、四辻椿氏は自身の会社が倒産してから二年間、何をしていたの?」
『回答不可能だ。その情報にアクセスすることはできない』
「なるほどね」
少し情報を整理する。2024年に四辻ナノマシン株式会社が倒産。2026年に『Praepapilio』に関する全情報の非開示が決定。全情報の定義は不明。四辻椿氏の空白の二年間の足取りも不明。四辻椿氏は『Praepapilio』の開発者ではなく、彼の事業も『Praepapilio』の開発には寄与していない。ここまでの情報を統合する限りでは、『Praepapilio』がオーパーツとされる前提が補強されただけに思える。
でも、そうじゃない。四辻椿氏は『Praepapilio』を起因として、エミュレートAIを作るに至っている。
しかもその理由が、ただ単に話し相手が欲しかったから?
馬鹿げている。でもそう感じるのは、前提条件の共有が不十分だからだとしたら、どうだろう?
発想をドラスティックに転換させる。ただ話し相手が欲しいというだけの理由で、エミュレートAIを作らざるを得ない状況に陥ったと仮定した場合、情報の捉え方も変化する。
逆説的に情報を辿る。四辻椿氏は自身の脳波転写を元にしたエミュレートAIを作らざるを得ないほど、話し相手に事欠いた。つまり他者との接触を絶っていた。あるいは絶たれていた。
ふと疑問に思う。話し相手が欲しいという目的を達成するために、自分を模倣したAIを作るだろうか? もし私だったら、自分自身と会話したいとは思わないけれど。
「どうして彼は、話し相手にアナタを選んだの?」
『四辻椿には、誰にも口外することのできない秘密があったからだ』
「その秘密の詳細にはアクセスできないんでしょう」
『お察しの通りだとも』
「なら、秘密を口外できなかった理由は?」
『当時の日本政府との機密保持契約も理由のひとつではあるが、根本的な理由は四辻椿自身が誰にも話すつもりがなかった、というところにある』
「自分自身の脳波をエミュレートしたAIなら、その秘密は当然共有しているから話すことが出来た……でも、政府にはその秘密は開示されていたんでしょう? じゃないと機密保持契約なんて結べないもの。なら、政府側の秘密を知ってる人間とコンタクトを取って会話すれば良かったんじゃ?」
『それはもちろん道理だが、四辻椿にはその選択ができなかった。四辻椿は自身が抱える秘密の断片を政府に共有したに過ぎず、秘密の核心となる部分は誰に告げることも許されないと感じていた』
「誰にも告げられない秘密……」
これまでの情報を加味すれば、秘密というXに『Praepapilio』が入ることは確定と考えていいと思う。けれどエミュレートAIの口ぶりが、どうにも引っ掛かった。まるでその秘密の核心とやらが、けっして許されない罪だと言わんばかりの。
――我は死神なり、世界の破壊者なり。
原爆の父として知られるロバート・オッペンハイマーが、世界初の原爆実験である『トリニティ計画』で、その圧倒的な破壊力を目の当たりにして吐露した、後悔の言葉。それを無意識に連想した。でも判らない。仮にそうだとしたら、その罪の意識は何を発端にしたものなんだろう。
本当は『Praepapilio』には、人間にとって取り返しのつかない副作用があるとか?
いや、違う。そんなものがあったら、四辻椿氏の罪悪感の有無にかかわらず医療の発達と人類の探求心が容赦なく裁定を下す。『Praepapilio』がもたらす恩恵は、この百年の間に百万回を超える臨床試験と予後監査で絶えずチェックされ続け、今ではそのメカニズムはもちろん、構成分子の数すらオープンだ。そりゃ大量に高濃度で接種すれば健康被害も出るだろうけど、それは塩はおろか水でさえ致死量が存在するのと同じ理屈で、よっぽどイカレた処方をしない限り、そこにバックドアなんて存在の余地もない。
きっと思考のベクトルが違う。私は頭を切り替える。
――そもそも、どうして『Praepapilio』に関する情報は非開示になってるんだろう?
なあなあで惰性な秘密なんて存在しない。秘密が秘密であり続けるためには、莫大なコストが要る。お金も労力も。情報を秘匿することで外部からのアクセスを遮断するのだから、人類の集合知も使えない。オープンにして議論が活発化すれば、情報の新陳代謝が加速して、より良いプロセスやシステムの開発にだって――
ハッとする。弾かれるように顔をあげる。
まさか、という気持ちがあった。
「聞いていい? 四辻椿氏が広めた『Praepapilio』は、いま流通している現行機に至るまで、何回のバージョンアップがあった?」
『公開情報ではないが、僕が答えられる質問だな。答えは、一度もない、だ』
「本当に? 人類史に初めて『Praepapilio』が登場してから、これまで百年近く経ってるのに? 何百億じゃきかないくらいの人間に投与されてきて? たった一度の機能改良も不具合改善もなく?」
「その通りだ。マイナーもメジャーも区別なく、『Praepapilio』は一度もバージョンアップしていない。ナノマシンなので世代交代の概念もない。今流通しているそれと、四辻椿が扱っていたそれは、まったく同一のものだ」
「……そんな、まさか……」
嫌な直観が当たってしまった。嘘だと断じてしまいたい気持ちがふつふつと沸くけれど、そうだと仮定すると説明できてしまう側面が多すぎる。
例えば開発フェーズ。『Praepapilio』に繋がる基礎研究の類が、いくら辿っても出てこないこと。研究論文の引用も共同開発者の声も、まったく出てこない。
例えば運用フェーズ。今もって『Praepapilio』は全世界で流通しているけれど、そのプロセスはトップシークレットの看板を掲げられたまま、杳として知れない。生産ラインは日本国内に限定され、自動化されているためか職員の暴露話なんてのも一切出てこない。
人類により良い効能を提供できるようにナノマシンが日々研究されていたのなら、そもそも一切合切を秘密にするのは不可能だ。どうあっても、内部の人間には情報を開示する必要がある。けれど、その研究をしないというなら、あるいは情報を非開示にされていても不都合は発生しないのかもしれない。
誰も学ぶ必要がない。誰も知る必要がない。誰も発展させる必要がない。そういう前提のもと、人類の科学史から孤立した『Praepapilio』はオーパーツと呼ばれるまでに至った。
……でも、そんな前提が、果たして本当に有り得る?
いや、事実と結果がある。仮定と過程の信憑性にさしたる意味はない。一学問の徒としては、再現性の検証と担保から発展と改良の余地までを完全に排除して成立させた技術というものが心底不気味極まるけれど、結果として『Praepapilio』は、そのような本来はあり得ないルートを辿って現代オカルトにおける最大の禁忌にまで成り上がっている。その突拍子のなさを、あれこれ議論したってどうしようもない。
問題は、何故、人類の英知の結集が放棄されたのか、という点にある。まるで全身麻酔のメカニズムが解明されるまで二百年以上、人類がどうして全身麻酔薬が患者を昏睡させるのか、よく判らないまま使っていたかのように。
百年以上前に完成し、改良の余地すらない、完璧なナノマシン。
そんなの、まるで本当に、神のもたらした聖遺物(オーパーツ)。
なら四辻椿氏は、神秘を民草に教え広めたもうた預言者?
冗談じゃない。
「まさかとは思うけど、『Praepapilio』は人知を超えた存在から授かったものだ、とは言わないわよね? 宇宙人とか、未来人とか、悪魔とか」
『ノーコメントだ』
「肯定と捉えておくわ」
呼吸をする。大きく、深く、一度、二度。それで私の頭はクリアになる。
ちょっと圧倒された。だけど大丈夫。まだ私は思考を止めない。
続きを詰めていこう。
◆
「……やっぱり、化石のことじゃないわよね」
嘆息。ツバキの願いが化石を燃やして解決するなら、ガソリンで走る車を探して乗せてあげるとかできたかもしれない。それだって現実的なお節介の範疇には全然入らないけど、ナノマシン根絶の手助けよりは遥かにマシ。太陽系を飛び出すのか、銀河を飛び出すのかくらいには違う。
「化石がどうかしましたか?」
「うぅん、なんでもない」
のほほん、とした表情でツバキが小首を傾げる。本当に、いま接している情報以外は記憶から抜け落ちちゃうんだ、って驚かされる。さすがに今の彼女と、空中回廊(エアウォーク)のカレイドスクリーンが突然爆発炎上した件を結び付けられる人はいない。はず。
そう。爆発炎上した。
なんてことはない博物館の広告が。
私は、一度見たから判った。ツバキがカレイドスクリーンに向けて、あの式神符を飛ばしたのだ。まったく迷いがなくて、止める暇もなかった。
爆音。悲鳴。騒然とする空間。焦熱する空気。非常口へ殺到する民衆。ポカンと口を開けて唖然とする私。
誰も巻き込まれなかったのは不幸中の幸いだった。
一手遅れはしたけど、私の身体がとっさに動いたのもそう。とっさの判断で、私はツバキの両目を隠したのだった。たぶん時間にしたら二、三秒。けれどたったそれだけの時間で、彼女はすぐに大人しくなった。彼女の言ってた通り、記憶がリセットされたんだと思う。焼きたいレベル7の対象を見つけた、という記憶が。
――で、避難する人々に紛れて逃げてきた。
それが大体のあらすじ。
かなり縮んだ。寿命とかテロメアとか、そういうのが、たぶん、ごっそりと。と言うか、魔術的なジャミングとやらを使ってくれたら良かったのに、気が回らなかったのかしら。
「むむ、これは、お抹茶の香りが上品ですね……」
ツバキは抹茶味のアイスキャンディにご満悦。空中回廊(エアウォーク)を降りた先にアイスの自動販売機があって、そこで買った。普段は視界にも入らないのに、無性にチープなアイスに惹かれたのは、きっと目まぐるしく非日常を駆け抜けたせい。ちなみに私はクッキー&クリーム。火照った頭に心地よかった。
さて。控えめに言って状況はかなり芳しくない。
歯に衣着せずに言えば、もう私は彼女の手助けをするべきではないし、彼女の問題を一緒に解決しようだなんて考えるべきじゃない。
ツバキが焼いてしまいたいのは人間じゃなくて、人間の体内を循環する医療用ナノマシン『Praepapilio』だった。でも実質的に、それらを分かつことは不可能なのは、私にだって判る。もう人間は『Praepapilio』という後天的な身体恒常化(ホメオスタシス)無しに生きていくことは不可能だし、現代社会は『Praepapilio』という医療インフラを欠いて成立することは不可能だから。
どうして彼女は『Praepapilio』を受け入れられないのかしら。
それって合成タンパク質を拒絶する極端な人たちと変わらない気がする。
でも誰だってウィルスに身体を蝕まれた挙句、病気の苗床になるのは嫌でしょう?
そもそも、ナノマシンを焼くという概念、ちょっと不思議。人の体内を巡っているもの、っていう印象が先行するから、水分が多いイメージがある。濡れた感じのする対象に、焼くっていう言葉は適切なのかしら。
あと、前々から疑問だったのだけど、どうして医療用ナノマシンに『Praepapilio』なんて、蝶々の化石の名前が付けられたんだろう。
私だってオカルト探究者の端くれだから、現代オカルトとしての『Praepapilio』のことも知ってる。でもどんなに調べても、『Praepapilio』の由来は判らない。まぁ、他に何が出てくるかと言われたところで、何にも出てこないんだけど。
でも、単純に変じゃない?
ナノマシンみたいな先進的なマテリアルの名前として。
蝶々(Papilio)だけなら理解できる。蝶は再生と復活の象徴だから、再生医療的な側面を持つナノマシンの名前としてはぴったり。私が判らないのは、『古代の(Prae)』の部分。そこを敢えて強調する理由がさっぱり。
まるでナノマシンを『開発』したんじゃなくて、ナノマシンを『発掘』したのだとでも言わんばかり。
「マエリベリーさん、溶けてますよ? アイス」
ツバキの指摘にハッとして手元を見る。溶けたアイスが右手を伝って地面にポタポタ滴っていた。慌てて右手のアイスを舐めとると、どこか遠い目をしたツバキが優しく微笑んで、
「こうやって誰かと他愛のないやり取りをするのって、なんだか良いですね」
ポツリと呟いて、それから寂しげに顔を俯かせて、さらりと髪を掻き分けて、
「ずっとずっと、独りぼっちだった気がします。どれくらいの時間が経ったのか、もう私には判らないけれど。でも、かつての私は、その他愛のなさそのものを愛してた。言葉と言葉を交わして、視線と視線をやり取りして、心と心を通わせて……誰かと、大切な人と」
みるみるうちにツバキの両目が潤み始めて、思わずギョッとしてしまう。溜め込むだけに飽き足らず、遂には彼女の目から涙が零れてしまう。いきなり泣き出した彼女にどう接したらいいか判らなくて、わたわたと気ばかりが焦る。
「――私は、謝りたいのに、判らないんです、思い出せないんです。誰に謝ればいいのか、何を謝ればいいのか、どうしたら償えるのか、もう何も、何も……っ!」
「な、泣かないで……」
「うっ、うっ……ごめんなさい、すぐに落ち着きますから……」
ツバキがボロボロと涙を流して、声を震わせつつも、口元に手を当てながら、大きく息を吸う。一度、二度。そして息を吐く。二度、三度……。
そうして深呼吸を終えたかと思うと彼女は怪訝な面持ちで、自分の両目を拭った。まさかとは思ってたけど、そのまさかは的中だったみたい。深呼吸の合間に自分の激情を忘れてしまったらしいツバキは、何事もなかったかのように微笑んで、
「もしかして泣いてました? 私」
はい。泣いてました。
と、頷くに留める。色々な気疲れが行ったり来たりして、正直お手上げっていう気持ち。もしかしなくても私、さっきのゴタゴタに紛れて逃げちゃうべきだったかも。そうすれば、ツバキはきっと私のことも『Praepapilio』のことも忘れて、また焼きたいレベルが少しでも高い対象を探して揺蕩う日々に戻ったわけで。うーん。とはいえ、薄情過ぎるわよね。なんて考えてたら、ツバキが唐突に、
「それって、やっぱり『Praepapilio』に関係します?」
言いだして、私は血の気が引くほどビックリさせられる。どうして? 一度忘れてしまうと、自発的に思い出すことはできない、という話だったはず。彼女を見る。彼女の左腕には、恐らくはペンでしっかりと、『Praepapilio』=レベル7と書いてある。メメント以来すっかりポピュラーになった、忘却に対抗するための、たった一つの冴えたやり方。ツバキはこれまでそんな素振りを一切見せなかったから、私の思考からも抜け落ちてた。
でも彼女だって、忘れたくないと感じたことを、忘れないための努力は怠らなかった。
「マエリベリーさん」
ツバキが私を見る。ぞっとするほどの笑顔。彼女が目的のために手段を問わない人種であることは、いやというほど判っていた。
浮かぶは狂気。あるいは狂喜。自身の怨讐の果てに、ようやく辿り着かんとする随喜の輝き。
「私を連れていって貰えますか? この『Praepapilio』の関連施設へ」
ズイと左腕を翳したツバキに対し、私は何も気の利いた返事をできずにいた。
ともすれば本当に、今この瞬間、彼女の敷いたテロリストへのレールへと、私の人生の路線が変更されてしまったのだとしても。
◆
「――四辻椿氏は『Praepapilio』の開発者ではない。でも、『Praepapilio』を量産する方法を開発したのは彼よね?」
少し時間をおいて考えさせてもらったことで、私の中で一つの仮説が浮かび上がっていた。これまでの提示に反さず、『Praepapilio』を取り巻く状況にも反発せず、ある種の筋道の通った思考実験のうちのひとつ。
それが正しいかどうかは、エミュレートAIと対話していくことで自ずと判明していく。将棋で言えば詰め、チェスで言えばチェックメイトまで、延々と続く最善手の打ち合い。
勝ち負けがあるわけじゃないにせよ、少なくとも今この時点で、これ以上に冴えた仮説を導き出せる気はしない。ただ単にダラダラと、真相に辿り着けなかった私がひたすら足踏みする未来が確定するだけだ。
――そんなかっこ悪い私、メリーと同じ秘封倶楽部を名乗れないでしょ。
『ノーコメントだ』
想定通り。ここはそのまま、ロジックを通していく。
「肯定と受け取るわ。四辻椿氏が『Praepapilio』を通じて巨万の富を得た理由も、それに付随して口を封じられるに至った原因もそこに起因する。で、ここからはついさっき聞いた確定情報。『Praepapilio』にバージョンアップの概念は存在しない。これに偽りはない?」
『もちろん、無いとも』
「けっこう。つまり四辻椿氏が確立した『Praepapilio』の取り扱い方法、量産の方法についても、彼が成立させたときから変更されてない。それは、政府が情報を明かしてはいけないと判断するに足りるものだったし、四辻椿氏が罪だと断ずるに足りるものだった。
――ここで発想の転換をするわね。人が何を罪に思うか。何が倫理で問われるべきか。それが百年近くもアップデートされないまま、なんてことがある? バチカンの教皇さまでさえ、現代技術の取得は必修だというのに」
『肯定も否定もできないな。そういうこともあれば、そうでないこともあるだろう』
「そうよね。アナタはそう言う。でも、ここは現実ベースで物事を判断させてもらうわ。実際に百年もの間、『Praepapilio』に関する秘密は守られ続けてきた。となると、ここで対象となる罪に関しては、倫理観の更新がなされてないと判断するしかない。
……それって必然的に、人間倫理の根幹に関わるってことよね? 価値の更新が出来ず、罪が罪で在り続け、秘密が秘密で在り続けるのは、人間社会ではその罪を到底認容できないからなんじゃない?」
『いささか突拍子もない意見ではあるが、特に致命的な論理的瑕疵もないようだな。つまり、君の論理はまだ生きているということだ。続けたまえ』
それまで無表情だったエミュレートAIが、初めてわずかに頬を綻ばせた。私には、もう最後まで視えている。あとは詰め切るだけだ。ワルツみたく美しい予定調和のように。
「四辻椿氏は殺人を犯したことがある?」
『無いな。これは無いと断言できる』
「良かった。ちょっと安心したわ。それじゃ、誘拐は?」
『それも無い』
「じゃあ、死体損壊等罪かしら。これは死体を損壊させる行為もだけど、死体を盗むことも含まれるわ。これはやったでしょう?」
『ほう? どうしてそう思う?』
「単純に、逆算した。人間社会の中に深く組み込まれながら、けっして表沙汰にならない功罪。その罪があまりにプリミティブ過ぎれば、誰も四辻椿氏を庇えない。
……で、どうなの? 四辻椿氏は、死体を盗んだのね?」
『ノーコメント』
「もちろん肯定と受け取るわ。四辻椿氏が見つけたその死体こそが、『Praepapilio』の開発元……いいえ、言うなれば『始祖の保菌者』だった。四辻椿氏の功績は、『Praepapilio』の発見と量産方法の二つに大別できる。だからアナタは、『四辻椿は開発者じゃない』と言うことが出来たってわけね」
『ノーコメントだ』
「いいわよ。勝手に喋るから。で、四辻椿氏は死体から『Praepapilio』を発見。広めていった。という話なら、すべてに合理的な説明がつくわね。タブー化した理由も、四辻椿氏が抱いた罪悪感も……」
『――あぁ、そうだな。僕は良いと思う。君もきっとそう思っているだろう』
エミュレートAIが不意に穏やかな口調で言ったかと思うと、刹那、私の首元にチクリと小さな痛みが走る。ひやりと皮膚の下が冷える感覚。
何か、注射された。
振り返ると、そこにツバキが立っている。エミュレートAIとの会話に夢中になって、今の今まで存在も忘れてしまっていた彼女。
その彼女の顔が、
――焦点を合わせられなくて、詳細が判らない。
頭がコタツの中に入ったときみたくポカポカして、意識が明滅して――。
「アナタは合格です。宇佐見蓮子さま」
ツバキの嬉しそうな声を最後に、私の思考は解れて、自己認識を保てなくなって――
◆
自律輸送六輪(ハニカム・キャブ)の正式な略称はCabとされているけれど、そう呼んだところで誰にも通じない。みんな、商標の問題で取得することが出来なかった『タチコマ』の愛称で呼びたがる。
タチコマの良いところは、キャブ構造でも自動運転でもなく、ある程度のトレース・インアビリティの要求が通ることで、要は足取りが追いにくくなることにある。会社経営者とか政府高官とか、自分がどこに居るかバラしたくない人たちからの需要が大きく、高価いのが特徴。でもツバキは、顔色一つ変えずにiamと目の前に停まったタチコマとをリンクさせて、後部座席に腰掛ける。
ずっとツバキのことで、不思議だった。
彼女、まったくお金に困っていないみたい。
彼女の着ている服。縫いも生地もしっかりしてて、とても安物なんかには見えない。でも普通、世界を燃やすことを夢見ながら街中を揺蕩うだけでは、とても生活していくことはできないわけで。まさか、『Praepapilio』に対するテロ行為によって、他国からの利益誘導を企んでいるとか、そんなふうにも思えないし。
「タチコマで行くとか、だいぶ掛かると思うけど……ツバキ、お金は?」
「まぁ、困ってないです。それよりマエリベリーさん、行き先はどこでしたっけ?」
「はいはい。いま入力するから、そんなに急かさないで」
デバイスからタチコマに、あらかじめ検索しておいた目的地の位置情報を送る。国内に幾つかある『Praepapilio』製造ラインのうち、もっとも近かった大阪第一ライン。『Praepapilio』の製造ラインなんてもちろん機密扱いで普通に検索したって出てこないけど、それはそれ。
人間の知的好奇心を甘く見て貰っちゃ困る。稼働しているとされる工場群については、オカルト探究有志の手によって、実際の登記と施設をひとつずつチェックしていくという地道な作業の末に割り出しが済んでいる。私はその結果をありがたく使わせてもらうだけで良かった。
位置情報を受託したタチコマが、私とツバキを胎の内に収めて、ゆっくり走りだす。
ここから大阪の大工業地帯までタチコマで行けば、最新流行ブランドのお洋服が軽く一式は揃うくらいの値段がするんじゃないかしら、なんて私のお金じゃないにもかかわらずハラハラしていると、
「たぶんですけど私、無制限の援助を受けてるみたいなんです」
などと、またぞろとんでもないことを言いだす。ちょっと困った八の字眉でもって。
「ふぇ? なにそれ、どういうこと?」
「私の決済アカウント、何を決済しても即座に別の決済アカウントが代わりに支払ってくれるようになってるみたいで……」
そう言って、彼女が自身のデバイスの表示内容を見せてくる。見せられたのは、いま彼女がデバイス間契約を済ませた決済ページ。そこには確かにアイコンが三つポップアップしていた。ツバキの決済アカウントと、タチコマを運営している会社のアカウント。そして、本来ツバキと運営会社の間に引かれる金銭授受の線が、まったく別のアカウントを経由して両者を繋いでいるように見える。
私は、その一見すると奇妙な決済ページに既視感があった。子どものころ、お小遣いをもらう代わりに、パパとママから教わった個人補償型決済アカウントでの決済と同じ。そのときの私のアカウントは、パパの決済アカウントに紐づけられ、決められた範囲内なら自由に決済を締結することが出来て、そのときの実際の支払いはパパのクレジットから引き落とされるような設定になってた。
となると、いまツバキが使っているアカウントは個人補償型決済アカウントということになって、そうなると誰のアカウントの信用情報や支払い能力が使われているのか、という話になる。ツバキからデバイスを借りてアカウントを確認する。
アカウント名は『四辻椿』。つまりツバキの経済活動は、この人に保証されてるということになるけれど、
「……四辻椿って」
確か、『Praepapilio』の開発者なんじゃないかって疑惑のある人じゃなかったっけ。それも百年くらい前の。もちろん、決済アカウントだからといって必ずしも本名である必要はないんだけど、本名じゃないにしてもこの名前を使うのはおかしくない? 何だか一気にきな臭くなってきたな、とツバキにデバイスを返しつつ、
「この四辻椿って人、ツバキは何か覚えてる?」
「いえ、それがまったく、何も思い出せません」
「名前、同じだけど」
「ですよね。私もそこはすごく引っ掛かってます」
「ちょっと整理しましょ。アナタは人間を焼きたいって言ってたけど、本当は人体を流れるナノマシン『Praepapilio』を焼きたいという欲求がある」
「はい、どうやらそのようです」
「アナタの生活は何者かによって保障されていて、その人は四辻椿と名乗っている」
「そうですね。えぇ、はい」
「ちなみに四辻椿って『Praepapilio』の開発者かもって言われてる百年くらい前の人らしいんだけど、それは知ってた?」
「あ、いえ、知りませんでした。そうなんですね」
「で、アナタは目的のために自分の名前をツバキに変えてるのよね?」
「はい」
「ここまで色々出てきちゃったら、ちょっと邪推しちゃうわね。アナタは四辻椿に対して何らかの恨みを持っていて、彼の作ったナノマシンを焼きたいと思ってるのかも、とか。四辻椿は、何かアナタに対して後ろめたい気持ちがあるから、アナタの決済を保証しているのかも、とか……まぁ、でも」
言って、私はタチコマのシートに背中を預け、窓の外を眺めながら嘆息する。
「……百年以上前の人に対して、恨みだの後ろめたさだの言ってもね。ツバキはどう見たって二十代って感じだし、個人的な因縁なんか無いに決まってるわよね」
タチコマが一般道を抜けて、高速道路へと入っていく。ここから目的地までの予定運転時間は、17分43秒とのこと。京都市郊外の居住区域はコピー&ペーストされたみたいにどこどこまでも均質化されて、時空の迷子になったみたい。ツバキは俯きがちに、ずっと何かを考えている風だった。それはまるで、目に見ることのできない目録を、丁寧に熟読しているみたく。
「ねぇ、ちょっと友達にコールしてもいい?」
社内の無音が、寂しさを想起させた。ツバキは物思いに夢中のようだし、タチコマは何があっても、あと17分は走り続ける。
蓮子を巻き込むまいと思っていたし、実際いまでもそう思ってるけれど、生存報告くらいはしても大丈夫だとも思う。ブッチの仕方も、だいぶ心配させるような感じだったし。
「もちろん、良いですよ」
ツバキは穏やかに微笑んで首肯する。うーん、普通にしてれば深窓のお嬢様って感じなのに。書き物をするときに文机に向かって、毛筆でサラサラと文字を書き連ねそうな。そんな雰囲気の。まぁ、それはそれとして。
蓮子にフォン・リンクでコールする。呼び出し。不通。呼び出し。不通。呼び出し。不通。メッセを送っても既読にすらならない。またオフデバイスになってるのかしら? 何かに夢中になると、デバイスを放りっぱなしにする悪い癖。まったくもう、なんて気持ちで片っ端から蓮子の社交用公開情報(ソーシャル・ステータス)確認アプリを叩いていく。
Health ping……『異常』
位置情報通知(スポッター)……『公開』
Doing Logger……『異常』
「――は?」
一瞬、デバイス画面に映る赤い文字の意味が判らなかった。
だってこんなの、緑文字の正常(システム・グリーン)が返ってきて当たり前で、異常値なんてそうそう出てこない。それこそ、蓮子の身に何か大変なことが起きてないと。
パシン! と両頬を叩いて、テンパる寸前の意識に何とか喝を入れる。ツバキがビックリした顔でこっちを見て来たけど気にしない。位置情報通知(スポッター)が生きてる。まずは蓮子の居場所を探知して、それからHealth pingとDoing Loggerの異常値の詳細を確認して……。
「ど、どうかしたんですか……?」
「ごめんなさい、後にさせて。位置情報通知(スポッター)、蓮子の現在位置を出して」
音声入力で位置情報通知(スポッター)に指示を出す。デバイスがすぐさまマップ表示に切り替わり、蓮子の現在地を表示するマップピンが立った。でも、場所がちょっとおかしい? ここ、京都市内じゃない。
いや、移動してる。
マップピンが京都市の領域から離れ、かなりの速さで南西の方向へ滑っていく。どういうこと? Health pingのメトリクスは蓮子が昏睡状態であることを示していて、Doing Loggerの値もそれを裏付ける。昏睡させられて、どこかに運ばれてる?
蓮子を表すマップピンの他に、もうひとつマップピンがデバイス上に表示される。
――私だ。私の位置情報通知(スポッター)アイコン。
タチコマで進む私のマップピンの倍近い速度で、蓮子のマップピンが近づいてくる。タチコマだって法定最大速度めいっぱいで走ってるのに。目を白黒させるツバキを押し退けた私は、ほとんど叩き割るような勢いで操作パネルを弄り、リアウィンドウを開かせる。穏やかに流れるタチコマの注意喚起アナウンスをガン無視して頭を突き出す。時速百四十キロの風が私の帽子と髪の毛を攫って行こうと吹き荒ぶ。「マエリベリーさん!」叫ぶツバキは私を飛ばされまいとしてか、腰の辺りにしがみついてくる。何度も何度も周囲とデバイスを見比べる。
蓮子のマップピンと私の位置情報通知(スポッター)アイコンが、マップ上で重なり合う。
ちょうど私たちが乗るタチコマの上空を、一台のヘリコプターが通り過ぎて――
「――蓮子っ!」
名前を叫んで、手を伸ばしても、見向きもされず。
ヘリコプターは、やがて雲間に紛れて見えなくなってしまった。
◆
雪柳の白い花が手毬のように咲いていた。
桜は、ここからじゃ見えないけど、きっと咲いてる。きっと満開。
――綺麗だね。
声を掛けても返事はない。
寝台に横たわった乙女椿は、まるで微睡みの中に揺蕩うよう。
もう、『閨』は役目を果たした。魂を彼岸に渡して。
残されたのは、遺された人たちから手向ける離別の儀式だけ。
残された身体を、荼毘に付す工程だけ。
――本当に?
アナタの身体に縋りつく。死してなお、美しさを損なわない肉体に。
本当に、本当に、ただ眠っているだけに見える。
肌の瑞々しさも、髪の艶々しさも。心臓は止まっているのに、血色さえ。
信じられない。本当に、信じられない。■■が死んだなんて。
置いて行かれるのは、覚悟の上だったのに。
アナタはもう居ないのに。
死したアナタの肉体は、あまりにも生き生きとして。
今すぐにでも起き上がりそう、なのに。
――綺麗、なのに……。
焼いてしまうなんて、嫌。いや。
離れたくない。もう少しだけでも。
――焼かないで……。
たとえその感情が、やるかたない私のワガママにすぎないと判っていても――。
◆
頭が割れるように痛い。もしかしたら、もう割れてるのかもしれなかった。鉛を浸透させたように重い瞼を開く。霞む視界。知らない天井。冷えた空気。無機質な白熱灯。
起き上がろうとして、身体が動かないことに気付いた。拘束されてる。病院に並んでるような柵付きのベッドに寝かされていて、その柵に両手両足が縛られてた。揺らしてみたけど、ちょっと外せそうにない。着衣が乱れてる。右肩の部分が切られたか破られたかしたらしく、さっきから空気の冷たさをダイレクトに感じる。
「おはようございます」
視界を遮るような格好で、ツバキが私の顔を見下ろしてくる。その表情はほとんど陰になっていたけれど、特別邪悪な表情はしていなかった。門扉のところで初めて顔を合わせたときと同じ、朗らかな笑み。
「おはよう。寝覚めの気分は最悪だけどね」
「驚きです。怖くないんですか? 普通、怖いと思いますけど」
「怖いに決まってるでしょう。でも、怖がってなんてやらない」
「プライドですか?」
「怯えたところで、何も解決しないからよ。むしろ状況は悪化するだけでしょ」
「クールですね。素晴らしい。やはり真実を知るだけの『格』を身に着けてらっしゃる。
「……アナタ、誰」
私はツバキを睨みつける。たおやか、という言葉の似合うような、二十代半ばくらいの女性。花の髪飾りに赤い袴。花のあしらわれた黄色の中振袖を羽織った下に、若草色の着物を着ている彼女を。
「ツバキと申し上げました」
「それは本名じゃないと言ったのはアナタだけど?」
「すみません、それ嘘です。椿(ツバキ)は僕の本名です」
彼女は悪びれもせず言ったかと思うと、自分の胸にそっと手を当てて、
「改めまして、僕は四辻椿と申します。『週刊ダイヤモンド 2022年9月17日号』でインタビューを受けた当人です。『Praepapilio』を発見し、広めた張本人です」
「それ、笑えない冗談だわ。四辻椿氏は百年以上前の人間でしょう。実年齢にすると140歳とかになる」
「では伺います。宇佐見さん。どうして僕が140歳ではないと?」
「ギネスレベルの老人にしては、若作りが完璧すぎるわ。それに四辻椿氏は男性じゃない。完全に別人としか思えない」
「まぁ、そうですよね。確かに僕は肉体的には、四辻椿とは完全に別人になっています。身体の遺伝情報(ZENE)が丸ごと入れ替わりましたので」
「何が言いたいのか、さっぱりだわ」
「宇佐見さんの本来の思考のキレが落ちてらっしゃるようですね。やはり怖がらせてしまっているせいでしょうか。本意ではないのですけどね」
「なら、拘束を外してくれてもいいんじゃないの?」
「それはできません。久方ぶりに、秘密を共有してもいいと思える方と出逢えたので」
ツバキが口元だけで微笑を浮かべる。でも、目の据わり方だけは尋常じゃない。その猛禽類めいた目付きが、あのエミュレートAIのそれと全く同じだった。どこか狂気的にすら思える目の色。
「『Praepapilio』の副作用……いえ、本来はこちらの方が真の効能というべきなのですが、それがこれです。元来のDNA転写・復元の精度がテロメアの損耗さえも解消し、永遠に全盛期の肉体を維持し続ける。事実上の不老長寿です。
もちろん、僕が女性になったのにも機能的理由が存在します。アナタは『Praepapilio』には『始祖の保菌者』がいると、アナタは推理しましたね」
「……まさか、アナタが見つけた『死体』っていうのが」
「はい。今の僕の身体と全く同じ遺伝情報(ZENE)を持つ女性でした。僕は『Praepapilio』とは本来、
「ずいぶんな論理の飛躍があるわね。アナタが見つけたのは死体だけなのでしょう? なのにどうしてそう言えるの?」
「理由は二つあります。一つは、恐らくは生前の彼女と同様に、
誘拐・拘束・言動。ツバキは完全に狂ってるモノとして認識していたけれど、存外に理論らしきものが返ってきて戸惑う。ただ、それにしたって彼女の物言いは理解不能だったし、あまりにも科学的常識とかけ離れ過ぎていて、もはや一種の宗教のようだった。
――それじゃやっぱり、四辻椿が盗んだのは神の奇蹟が宿る『聖なる遺体』で、『Praepapilio』は神のもたらした聖遺物(オーパーツ)だと告白しているようなものじゃない。『Praepapilio』の『始祖の保菌者』は、実は聖マリアでしたと言いだしたって不思議じゃない。
ズキン、と大脳がシェイクされるような痛みが響く。
「そのありがたい秘密を私に共有するのが目的……? だったら、もう気は済んだ?」
「いいえ。もちろん、いいえ。この程度のことが目的なら、わざわざアナタを『閨』から移動させたりしません」
ツバキはまるで理解のない父親のように、ゆっくりと首を横に振る。そして不意に私の視界から外れたかと思うと、何やらキュルキュルと私を縛り付けたベッドを弄り始める。ベッドの上半分が少しずつ起き上がり、周囲の状況が目に入るようになった。
あまりにも異常なこの空間のディテールが。
「……ッ!?」
どこかの病院か研究所のようだった。白い壁、リノリウムの床。白熱灯。
――違う。そうじゃない。
円形の空間は半径10メートルくらい。冷房が強く効いていて、肌寒い。
――違う。そうじゃない。
空間の真ん中にガラス製の真空管めいた巨大な機械設備(イクイップメント)が設置されていた。深い海を思わせる蒼い液体に満たされたそれを、まるで神託を待つ巫女のようにずらりと並んだロボットアームが囲んでいる。
その、巨大なガラスの水槽の中央。
神殿に捧げる供物のように備え付けられてるのは間違いなく――
――人間の右腕だった。
◆
「早く早く、急いでツバキ!」
蓮子を連れ去ったヘリコプターを追いかけていたはずが、意図せず目的地は最初に入力した地点と同じになった。蓮子の位置を示すマップピンは、『Praepapilio』の製造工場と思しき座標で止まったから。タチコマから弾かれるように下車した私は、目前の建物を睨みつける。
人口抑制と都市区画整理事業によって大工業地帯と化した大阪工業地域の一角として、その建物は露骨に目立っていた。刑務所も斯くやというほどの高い壁。古式ゆかしい有刺鉄線。理由も書かずに、立ち入り禁止の警告。出入り口と思しきゲートも固く閉じられて。
「ふむ、これでは入れませんね……マエリベリーさん、急ぐ気持ちは判りますが――」
「ツバキ、ジャミング、よろしく」
「え、はい?」
閉ざされたゲートを、人差し指で縦になぞる。指の第一関節から先が『向こう側』の気配を引き連れて。ズズズと常識がほぐれる紫色の感触。足元までまっすぐなぞり終えると、ゲートが小さくこちら側に開いた。呆気に取られ過ぎたらしいツバキは、豆が鳩鉄砲を喰らったみたいな顔で私を見ていた。
「マエリベリー、さん……?」
「なに? 行くわよ」
彼女はものすごく何か言いたそうな顔で私のことを数秒見つめてきたけれど、やがて吹っ切れたように笑って、
「……えぇ、行きましょう」
◆
「宇佐見さんならお察しのことと思いますが、えぇ、はい。あれは
「……稼働、ですって?」
整然と死体の一部を組み込んだシステムを目の当たりにして、眩暈がするほどの吐き気に襲われながら言い捨てる。
「おぞましく非人道的だと非難しますか? それは当然の反応ですね。システムを構築した僕自身でさえ、こんな鬼畜の所業が自分の罪だと突き付けられるのは心苦しいです。しかし、他にどうしようもなかった。『Praepapilio』は間違いなく人類を救うのに、絶対に
それは端的に言って悪魔との契約だった。
人類すべての肉体から、ウィルス性感染症を綺麗に消し去ってしまう万能の薬(エリクシール)。それは四辻椿が見出した一人の女性の死後の安寧を、永遠に踏み躙ることでしか得られない。
けれど、その悪魔の甘言を退ける人間なんて、果たして存在するのだろうか。
一人の死んだ女の尊厳と、これから生まれ出る全ての人類への祝福。
どんな天秤を使ったところで、同じ結果が弾き出されるのではないか。
正直、私が彼でも、同じ結論に至ったと思う。まして、当時は世界的にウィルスが猛威を振るっていたのだ。それがどんなに非人道的に見えたところで、そのお気持ちだけを論拠にこの有様を非難することはできないと思った。私も根を張るこの人類社会は、この原罪を誰もが抱いているのだ。心の奥よりも、もっとフィジカルなレイヤ。体内を巡り巡る血液やリンパ液の片隅に、『Praepapilio』というナノマシンの形で。
……早鐘のように、頭痛が絶え間なくやってくる。
痛みのピークに至るたび、意識がほんの少しだけ薄くなる。
激しい痛みの中で思う。四辻椿が自らの犯した原罪の吐露のためだけに、私をこんなに手荒に扱う理由がない、って。
「――それで……?」
「はい」
大きく肩で息をしながら、ツバキの方を見上げる。視界が揺らぐ。ぼやける。頭の痛みは、もはやバットで殴られてるんじゃないかと思うほど強くなっていた。
「……私に、何したの……?」
「規定濃度の40倍の『Praepapilio』を注入しました。この辺りで、身体の免疫機能が過剰な『Praepapilio』のDNA復元機能に対し反応し始めます。宇佐見さんの本来持つDNAと、『Praepapilio』に秘められた彼女のDNAとが、互いに書き換え合戦をしてる状態ですね」
「私のことも、
「言ったでしょう。話し相手が欲しいと」
ツバキがそっと私の額に冷たい手を当てて言う。腹立たしいことに、死人のような彼女の手の冷たさは、別人のDNAが転写されて免疫機能がフルで働く私の火照った皮膚に心地よかった。
「正確には誰でもいいわけじゃない。私は、
「だから私を代わりに仕立て上げて、ごめんなさいするっての? 大した自己満足ね」
「宇佐見さん、魂はどこにあると思いますか?」
息も絶え絶えの思いで切った啖呵を流したツバキが、私の目の前に立つ。無機質な光を背負う彼女のシルエットが、やけに蝶々(Papilio)を想起させる。彼女は自身の胸にグッと手を当てて、
「僕のエミュレートAIと会話して、どうでした? そこに魂の存在を感じることはなかったと思います。『空(から)の山頂』現象。どんなに脳波を再現しても、そこに魂は宿らない。それは魂という本質が、実は脳に宿るものじゃないからだと思うんです。人間は脳を神聖視するあまり、魂の所在を忘れてしまった。
僕はね、宇佐見さん。魂は、脳を包括した肉体全般に宿るものだと考えています。
そして『Praepapilio』は、脳の構成さえも内包した
「そのために、私の自我が消えても構わないって……?」
「残念ですが、その通りです」
ツバキが振袖羽織の袂から、スッと注射器を取り出した。群青色の液体をたっぷりと内包したシリンダが、ヤドクガエルのように毒々しく光る。
「こちら、先ほど宇佐見さんに接種したものと同じ、規定濃度の40倍の『Praepapilio』です。こちらを駄目押しで接種すれば、宇佐見さんの体調も楽になります。アナタの身体が、
「……っ」
ツバキが私の右上腕を掴む。せめて、と身体を揺さぶるけれど、ツバキの腕を振りほどくほどの抵抗にはならない。ガッチリと拘束されていて、逃げる隙も与えられない。
「はい、チクッとしますよ」
「や、待っ――」
「――レベル10。焼却します」
私の皮膚を注射針が貫通する直前。
何かがシュッと風を切る音がして。
それをそうと認識する間もなく、ツバキが持っていた注射器が爆発した。
「う、ぐっ……!?」
もうもうと煙を上げる右手を抑えたツバキが、後ろへよろめいて。
「蓮子っ! 大丈夫!? 蓮子!」
「……メリー?」
あぁ、聞き間違えるはずもない彼女の声がする。固く強張っていた心が瞬時に融解して、安堵に涙が溢れそうになる。でも、ここで泣いたら、きっとメリーに怒られちゃうから。
「どうして、ここに……?」
世界でも終わったんじゃないかと思うほど悲痛な顔のメリーが、私の拘束を解こうと躍起になっている。そんな彼女の横に、当然のようにもう一人のツバキが立っていて、私は遂に視覚にまで異常が出てきたか、と身構える。
「事情はあと。逃げるわよ。たぶん彼女、もう私の手には負えないから」
言いつつ、メリーはかなり拘束を剝がすのに手こずっているようだった。無理もない。ダクトテープのようなものでグルグル巻きにされてるから。
ツバキとツバキが相対する。
片方は激しく出血する右手を抑えたまま、苦々しげに。
片方はヒト型の式神符を構えて、涼しげに。
「……どちら様でしたっけ? 生憎、過去の失敗作には興味がなくて」
「アナタと同じ、死んだあの娘の影法師ですよ」
言って、ツバキがツバキに対して式神符を投げつける。まっすぐ飛んだ式神符は、ツバキの右足に貼りついた途端に爆炎をあげる。くぐもった悲鳴が上がって、ツバキが床に倒れ込む。タンパク質の焦げる不快な臭いが周囲に充満した。
「~~……ッ!」
「うーん、やっぱり違いますね。アナタもかなり焼きたいレベル高いですが、ぜんぜんスカッとしません。私が望んでるのは復讐じゃないみたいです」
肩を竦めてツバキが歩き出す。床に這いつくばる方のツバキを素通りし、右腕の浮かぶガラス水槽を見上げる。
「名前、までは思い出せませんか。やっと逢えたのに――は、違いますね。あの娘の魂は、ちゃんと彼岸に迎えられましたから。魂の抜けた肉体に残るのは、是非曲直庁の技術だけ」
「……な、なにを……?」
「別に私は『Praepapilio』を否定したいわけじゃないみたいです。あの娘も、死後の自分の肉体が人の役に立っていることを、怒りはしないでしょう。そろそろ次の転生を果たしているかもしれませんし、聞いてみる価値はありますね」
「……次の、転生? 何、アナタは何を言っている……輪廻転生は信仰に属した死生観の伝承に過ぎない。脳を含めた肉体の遺伝情報が再現できれば、必然的に魂と呼ぶべき自己意識の再現も――」
「アナタこそ何を言ってるんです? 一度失われた魂に、再現も再生もありませんよ。人は死んだらそこで終わりです」
「…………そんな、ことは……」
短くない時間が経過した。メリーの尽力のおかげで、私の拘束も右手の分は外れつつある。水槽の右腕を見上げていたツバキが、不意に水槽目掛けて式神符を投げつける。
「待、――ッ!?」
悲鳴染みた静止の声も届かず、式神符が爆発する。ガラス水槽は粉々に砕け、中の液体が四方八方に流れ出た。中央に据えられていた右腕が一瞬だけ露わになったかと思うと、すぐさま数枚の式神符に貼りつかれて、そのまま爆炎に包まれる。
破壊の限りを尽くされた精製工場が、無事であるはずもなかった。けたたましい緊急警報(アラート)が耳をつんざく。赤い警告灯が視界を塗りつぶす。スプリンクラーが作動しているが、機械設備から上がる炎の勢いは増すばかりだった。
「――マエリベリーさん、ありがとうございます」
式神符を構えたまま、ツバキがポツリと言う。
「私が焼きたかったもの、見つかりました。私、ちゃんとあの娘の身体を荼毘に付してあげたかったんです。それが判って、よかった」
「――危ない!」
炎上に巻き込まれたロボットアームが連鎖爆発を起こす。断末魔のような金属音を轟かせながら、こちらに倒れてくる。
最後の拘束が外れた。メリーの手を借りてベッドから飛びだして、走り出す。
背後で星でも落ちて来たみたいな轟音。爆炎と熱風に煽られて足元がもつれた。「蓮子!」叫んだメリーが、私に肩を貸してくれて。背後を振り返る。立ち上る炎の揺らめき以外には、何も見えない。
「行きましょう。蓮子。走れる?」
「……えぇ、メリーと一緒なら」
正直、足元はおぼつかない。だけど、言葉に嘘はなかった。メリーの微笑みに促されるようにして、私たちは走り出す。まだ火の手が及んでいない通用口と、なぜかすべて機能していないセキュリティゲートを次々に抜けていって。
「何が何やら、さっぱりだわ。どうして蓮子がこんなところに」
「メリーだって人のこと言えないわ。いったい何がどうなってるの」
「やっぱり、安易にソロ活動とかしない方が良いみたいね。私たち」
メリーが呑気な独り言めかして言う。そうこうしているうちに、外まで脱出することが出来た。サイレンの音が四方から何重にも重なって聞こえてくる。メリーが周囲に視線をやって、
「消防かしらね」
「何にせよ、見られたら面倒になるわ。さっさと離れましょ」
「うーん、そろそろ秘封倶楽部も一線超えてきたって感じ」
「一線でも三味線でも超えてやればいいのよ。私たちの好奇心に果ては――」
言いかけた途端。
ドクン、と。
心臓の奥で火花が舞い散った気がした。
両足から力が抜けて、身体の動かし方すら判らなくなる。そのまま、肩を貸してもらっていたメリーの身体から引きずり落ちるように、倒れていく。
耳鳴りが酷くて、すぐそばのメリーの声も聞こえない。
視界がぼやけて、私を見下ろすメリーの表情も判らない。
身体の感覚すら、遠くなっていく。まるで、私の魂が肉体から締め出されるみたい。
――『Praepapilio』が、私の中で暴走してる。
薄れていく。
ぼやけていく。
私が。私をこれまで形作ってきた自己同一性が。
私はメリーに抱きかかえられている。
メリーの肩越しに、赤く染まり始めた夕焼け空が見えた。
黄昏時。誰そ彼刻。逢魔が時。
もしも私と一緒にいた方のツバキの願いが叶うのなら。
もしも魂の再現が叶うのなら。
……今が絶好のタイミングなのかも。
そんなことを思って。
最後に。
もしかしたら、これが最後かもしれないから。
メリーに、泣かないで、って伝えようとして。
私の意識は、そこで――