黒々とした世界から目を背けるように上を向くと、私の頭上には白くぼんやりとした世界が広がっていた。ゴボゴボ、ゴボゴボと気泡が弾ける音を拾う両耳は、芯のほうがツンと詰まった感じがしてむず痒い。
うすぼんやりと光る世界の端に黒い影が映る。明らかな浮力を持つ黒い影を掴むようにして、私は両手を伸ばした。
「あれ」
固い木材の感触を期待していた手は、しかし草の感触を伝えてきた。右手に持っていた柄杓を手放し水面に顔を出すと、自身が狙っていた獲物が姿を現す。
その獲物は、草船だった。見たところ葦舟のようだが、ここは三途の川だ。そんな舟を死神がわざわざ使うだろうか。
しかし舟の材質など関係ない。舟が動いているならば、その上には必ず漕ぎ手がいる。ならば沈める以外に道はない。手放した柄杓を掴み、水を船に投げかけようとした、その瞬間。
「こらーーーーー」
遠くから、少女の叫び声が聞こえた。数拍置いて後頭部に鈍い痛みが走る。
「いっ」
何かが岸辺から、それも彼岸ではなく、賽の河原から飛んできたようだった。振り向くと、賽の河原の水際に人影がある。ちゃぷちゃぷと揺れる波間からは、人影の主が少女であることしかわからない。
「はやくどきなさーーい」
ふわふわした白い髪を震わしながら、少女が振りかぶる。今度は、足下に石が積み上がっているのが見えた。
「お、おい、待て!」
とっさに潜った私の周囲に、白い筋が浮かび上がる。ひとつ、ふたつ、みっつ、バシャバシャという音と共にどんどん増えて行く。
私はしばらくの間、水中で投擲が終わるのを待つことにした。
水面が落ち着いたことを確認し、村紗は顔を出した。その先には、例の少女がいる。福耳が目立つ年端もいかない女の子だった。しかし、ただの女の子にもかかわらず、なんとなく少女を直視できなかった。
「あなた、一体何なのよ!」
少女が叫ぶ。村紗にしてみれば、突然石を投げられたのである。それはこっちのセリフだ!と心のなかで叫びつつ平静を装う。年下に怒るほど短気では無い。
「そっちこそ急になんなの。石を投げるなんて危ないでしょ」
「うるさい、あなたのせいでみんなが怖がってるの。謝って!」
少女は本気でキレていた。面倒くさいのと出会ってしまったと、内心呆れる。しかし、こういう輩相手には、さっさと自分の非を認めて謝るほかない。少女の待つ岸辺に向けて、ざぶざぶと泳いでいく。
自分に石を投げてきた危険人物は、陸に上がって相対するとより幼く見えて、少女というより幼女だった。
「わかったよ謝ればいいんでしょ謝れば。はい、どーもすいませんでした」
「なによその態度。もっと心を込めて謝ってよ」
「えー。––はい、私が悪かったです。もうしません気を付けますー」
この程度で充分だろう、人間の返事なんて待つ必要はない。第一、妖怪である私がどうして人間なんかに頭を下げないといけないのだ。いっそのこと、こいつも沈めてやろうか。
「そもそもね、私は船幽霊なの。あんな脆い草船のひとつやふたつ、沈めたっていいじゃん。当然の権利でしょ」
苛立った心を鎮めつつ、せめて口先だけでもと吐きつけた、その時だった。
「あなた、船幽霊なの」
謝れ、謝れと癇癪を起こしていた幼女の声音が、変わった。その声は、先ほどまでの激情に押し出された鋭いものとは全く違う。
「そう、だけど」
幼女の声は、哀れな存在に声をかけるような慈しみが宿した声に変わっていた。
「そう…船幽霊なのね…」
幼女の瞳が涙でうるむ。その姿は、もはや幼女ではない。
こちらに来い、共に歩もうと手を差し伸べる、道を外れた物を正しき位置へ連れ戻す小さな先導者が、そこにはいた。もちろん彼女はムラサに手を伸ばしてはないし、こちらへ来いと呼びかけてもいない。
しかし、その小柄な身体からは、見る者全てを優しく包み込む親愛の念が迸っている。
ここにきて村紗は悟った。彼女は、里の人間ではないと。
それからしばらくの間、只者ではない彼女と村紗は無言で見つめ合っていた。
(どうしよう。そろそろ戻って大丈夫かな)
彼女は、じっと村紗のことを見つめている。村紗もまた、困惑しながらも彼女を見つめている。否、視野に入れているだけで、実のところ川に戻るタイミングを見計らっていた。
「ねえ、こっちにきて」
突然、彼女が声を発する。そして返事を待たずに、踵を返した。岸から土手へ、歩き始めた。彼岸から此岸へ、歩み始める。
村紗もまた、黒く濡れた砂礫から白く乾いた小石へと、彼女の後を追った。
気が付けば、あたりには霧が立ち込めている。周りには、河原の石ころと、誰かが積み上げたであろう石積みと、そして先を行く彼女しか無い。
じゃりじゃりと、ざくざくと。二人の足音以外、村紗の耳には聞こえなかった。
「あなた、家族はいる?」
石と石がこすれ合う音に彼女の声が紛れ込んだ。
「家族でなく、友達でもいい。あなたにはいる?」
血のつながった家族はいない。私は妖怪なのだから、血縁なんて関係性に固執しなくとも、ひとりで存在できる。でも、家族と呼べる存在は居る。
「家族、はいないけど。家族に等しい人たちはいるよ」
だから、こう答えた。命蓮寺の仲間たちは家族も同然だろう。
すると今までこちらを振り向くことのなかった彼女が足を止め、私の方に顔を向けて
「寂しかったでしょう、孤独だったでしょう」
慈愛に満ちたその視線を、私に投げかける。遠い昔、あの日の師と同じ顔色をしていた。
「……まあ、たしかに辛かったかな。みんな怖がるだけだったし」
ムラサとして、外の世界に在った時を思い出す。あの時は、いくら助けを求めても誰も耳を傾けてくれなかった。故郷へ戻ろうと、船べりに差し伸べた手は、罵声と共に殴打された。
少なくとも、初めはそうだった。
「実は私ね。あなたみたいな人のために、ここにいるの」
いつのまにか彼女は足を止めていた。踏み出しても、そこには土があるだけだった。
「えっと。そう、なんだ」
「あそこに石を積んでみて」
彼女の小さい指が宙をさまよい、やがて止まる。示す先には積み石があった。河原に散らばる小さな物ではない。その積み石は、高さ2mはある巨大な堆石だ。
「これ、あなたが作ったの?」
小さな幼女と、聳え立つ積み石を交互に見比べながら問う。
「この積み石はね、あなたたちのためにあるの」
聞いて、思わず考えこんでしまった。この積み石が、妖怪とどう繋がるのだろう。
「じゃあ、他の小さなやつとは違うってこと?」
「あの子たちとは関係ない。これはあなたと同じような人たちが作ったの」
彼女との問答は要領を得ないものだった。しかし、どうもこの積み石は妖怪が築いたものらしい。歪な石塔を形作る石の数は数えられない。
(少なくとも、害はないよね)
河原へ戻り、手ごろな大きさの石を拾う。崩れないよう、そーっと頂点に積み上げた。
「うわっ」
その瞬間。うなじを何者かに、悍ましい冷気に撫でられた気がした。
「ねえ、なにこれ。本当に大丈夫?」
間違いなく大丈夫ではない。あの感覚は尋常ではない。
「どうしたの?ほら、積もうよ」
彼女はきょとんとして、私を見つめる。しかし、私の本能が告げている。あれに触れてはいけないと。
「ごめん。やっぱりやめとくよ。私には関係ない」
なんだか不気味に感じてきた。はやくこの場を立ち去ろう。
「みんな初めはそう言うの。でも安心して、みんな最後には幸せになったから」
そういって彼女は微笑む。いつのまにか私と川岸の間に割り込むように立ち、ニコニコと笑っている。私が三途の川へ戻るのを阻むように、立っている。
その振る舞いには、私をこの場に繋ぎ止めようという明確な意思が見え隠れしていて、だからこそ余計不気味に感じられた。彼女の言う”みんな”も、こうして退路をふさがれたのだろうか。
「ねえ、その”みんな”って誰なの」
彼女の気をそらすため、再び問いを投げかける。しかし、彼女の反応は意外なものだった。
「なにって……あなた、船幽霊でしょ?」
何がおかしいのか、口元を手で隠しながらクスクスと笑いながら言う。その身に相応しい、きょとんとした可愛らしい表情を浮かべながら、彼女は言葉を紡いでいく。
「そんなの決まってるじゃない」
そこまで口にして、彼女は一旦口を閉じた。呼吸のためか、それとも溜めのつもりなのだろうか。次の言葉をじっと待つ。彼女の顔を、口元を、じっと見つめる。
そのおかげだろう、私は彼女の心が変わる瞬間を目撃した。
「教えてあげるから、あなたも石を積んで?この先は、あなたが石を積めば教えてあげる」
彼女の顔から可憐な笑みが姿を消し、悪戯めいた細い目が私を見つめながら、そう告げた。
「は?」
思わず言葉の端に怒気が混ざる。この少女は、どうしてこうも見た目相応な言動を繰り返すのだろうか。先ほど見せたあの菩薩の様な彼女は、いったいどこに行ってしまったのだろう。
どうやら私の方が折れるしかないようだ。足下に落ちていた、マーブル模様の石を掴んで、積み石のてっぺんに乗せる。石と石が擦れあうカチャリという音が霧に響いた。
「あなた、海で亡くなったのよね」
その様子を傍らで見ていた彼女が、口を開く。
「あぁ、そうだよ」
でも、そのあとに続く言葉は無い。振り向くと、彼女は積み石を指さしながら、ニッコリと笑った。
続きは石を積んだ後で、ということだろうか。手ごろな石を拾い、今度は真ん中あたりの隙間に差し込む。
「ということは。供養もされていないのよね、ご家族には」
「そう。……供養されなかったと思う。きっと」
村紗は生前、海辺の村に住んでいた。海に出た者がそのまま戻ってこなかったときのことを思い出しながら、うなずく。村紗が村で暮らしていたとき、家族を海で亡くした家が弔いの場を開いたことは、一度もなかった。
記憶にある限り、5軒はあった。
しかし、どの家も送らなかった。
誰一人、葬らなかった。
だから、私の家も。
きっと、私も。
それきり、口を噤む。
こみ上げてきた想いがあふれ出ないよう、口を噤む。
彼女が私の足下にしゃがみ込む姿が見えた。
そのまま、積み石の下辺を撫で、新たな石を立て掛けた。
その様子を、暗澹たる気持ちで見つめる。視界の右端に捉えて見つめる。昏い瞳で見つめる。
「じゃあさ。あなたは今、どんな状態なのかな」
「……何って。妖怪だけど」
「ううん、違う。」
「亡くなった、あなた。」
「溺死した、あなた。」
「あなたは今、どんな状態なの?」
「そんなこと、今の私と関係ないでしょ」
そう言いつつも、考える。まず第一に、私は供養されていない。供養されていないなら、つまり、ご先祖様の住む場所には行けていない。
「ね、気が付いたでしょ」
そう、私はご先祖様の住む場所にいない。私の村では、その状態を成仏とはいわない。
「あなた、今もそこにいるんでしょう」
なら、私は、わたしは、ムラサは。
「成仏できずに、漂っているんでしょう。そこで。」
「そんな!私はいま、ここに––」
世界が、暗転した。
いつの間にか少女の姿は消え、立ち込めていた霧も消えている。
それどころか、目の前の積み石も消えている。足下に広がる土も、その上に転がる石も、私の身体を支える大地すらも、この世界のなにもかもが消えている!
その代わりに、私の身体は冷たい液状のものに包まれていた。唇の隙間から流れ込んできたそれは、とても塩辛い。前後左右、視界に映るものは、闇。闇。全てを覆い隠す闇だった。
黒々とした世界から目を背けるように上を向くと、私の頭上には白くぼんやりとした世界が広がっていた。ゴボゴボ、ゴボゴボと気泡が弾ける音を拾う両耳は、芯のほうがツンと詰まった感じがしてむず痒い。うすぼんやりと光る世界の端に黒い影が映る。
それは、手だった。何者かが、こちらに向けてありったけの力で伸ばす、人間の腕だった。
海でもがく私に向けられる腕。私の命を助けようと差し伸べられる腕。あの時あの瞬間、私が心の底から願い欲した腕だった。それが、いま、目の前に!
明らかな浮力を持つ黒い影を掴むようにして、私は両手を伸ばした。
「ほら、そこに石を置いてごらん。」
彼女の左手が、私の右手の手のひらに絡みついている。わたしと彼女、二人の手のひらの間には石がある。
「ここだよ、ここ」
わたしの腕が積み石へと導かれる。彼女の意のままに動かされる。その手はとても温かい。
「やっぱり、あなた幽霊じゃない」
「妖怪じゃなくて、幽霊でしょう」
「いや、わたしは幽霊なんかじゃない。妖怪だ!船幽霊の、村紗水蜜だ!」
叫び腕を振り払う。ただ否定すればいいだけなのに、体が勝手に吼える。そして、言いきったあとなぜか、しまったと思った。
「あなたは妖怪じゃない。幽霊よ」
彼女が、笑いながら、言う。
「命を落とした無念の思念。それが幽霊」
すべてを寄せ付けない、圧倒的な笑みを浮かべて、言う。
「でも、それっておかしいと思わない?」
わたしは、その壮絶な微笑みを、ただ見つめることしかできない。
「死んだのにこの世に留まる死者。そんな存在を、あなたは何と呼んでいた?」
かつて、父から聞いたことがある。
血戦の舞台となった原、親子が辻斬りに遭った峠道、人が転落死した断崖、そして、難破した船が沈没した場所。人が無念の最期を遂げた場所。そこに住まう”なにか”を指して父は言った。
『いいかい、あそこに立ち入ってはいけないよ。あそこにはミサキがいるからね』
異常死が生み出された場所には”ミサキ”がいる。
ミサキ。ミサキ。ミサキ。ただ思い浮かべただけなのに心臓が縮みこむ。さっきから、全身が無性に冷える。四肢の末端も感覚が消えていた。
ミサキ。この言葉は、絶対に口にしてはいけない。
「ほら、石を積んでみて。そうすれば、みんなのことを教えてあげるよ」
そういうと、少女は、わたしの背後に回り込んだ。そして、わたしの脇の下に腕を差し込み、彼女の小さな掌がわたしの手首に触れた。
まとわりついて離れない海藻のように、今度は振り払われないように。わたしの右腕に、少女の両腕が絡みつく。
異常な状況にも関わらず身体は動かない。唯一、右手だけが震えている。決して石を掴むまいと、決死の抵抗を続けている。
「手、すごい震えてるね。寒いのかな?温めてあげる」
その右手に少女の指が重なる。上と下から挟み込んで、震えを治めるように。わたしの冷えた身体を、二人の体温で温め合うように。わたしの右手を、少女の両手が包み込む。
しっかりと重ね合わされた、わたしの右手と少女の両手。そのなかに納められた真っ白な石は温かい。いつの間にか手の震えは止まっていた。
「わ、わたしは…」
小さなシャコガイにも似た二人の手が、わたしの視界を上に上にと動いていく。
「わたしの、わたしの周りでは」
口が、口が止まらない。本能が危険信号を発する。口が言葉を紡ぎ続ける。
「そういう人のことを。成仏できない人のことを」
わたしの腰に少女がよりかかる。手を少しでも高く上げようと背伸びをしている。
「成仏できず、この世に留まり続ける死者のことを――」
「ミサキって、言うんだよね。あなたみたいな存在を」
石を積んだ瞬間、わたしと少女の声が重なり、聞こえた気がした。
「よく言えたね。そう、あなたはミサキ」
「成仏できない死者の霊、途中で止まった死者の霊」
「あなたは妖怪ではない。ミサキなのよ」
「この世に留まる死者の霊、輪廻を外れた死者の霊」
「あなたはミサキなのね」
力なく地べたにへたり込むわたし。耳元では、しゃがみこんだ少女が何事かをささやき続ける。
「知ってる?ここ賽の河原もね、ミサキなんだよ」
「ミサキがいる場所はミサキになるの。彼方でも此方でも無いからね」
「私ね、戎瓔花っていうの。水子のリーダーをしています」
「供養をされず、床下に埋められた水子たち。あの子たちもあなたと同じミサキだね」
「ミサキはね、あの世でもこの世でもない存在や場所を指すんだよ」
脳内に、少女の呪詛めいた囁き声が流れ込んでくる。その一方で、足だけでなく全身が脱力していく。視界もまた、クリアになっていく。
「供養され、成仏する。このルートを逸脱した存在をミサキと呼ぶの」
「私が初めに言ったこと、覚えてる?」
「私ね、水子のリーダーであると同時に、逸脱したあなたたちを連れ戻す神様でもあるの」
「マニ石って知ってる?今まで積んでもらった石は、あの石と同じ役割なんだ。石を6個置くと成仏できるんだよ」
「いまあなたは5個の石を積んだ。残すはあと1つ!さあ、極楽浄土へあなたも行こう!」
もう、ミサキでいい。
わたしは、ミサキだったのだ。
ミサキなんだ。
成仏できないわたしのために、この少女は親切にしてくれた。
瓔花ちゃんがここまで言うんだ。もう、いいだろう。
先ほどまでと打って変わって溌剌とした笑顔を振りまく瓔花ちゃん。わたしに向けて差し出された左手には、模様が書かれた平べったい石がある。
「これを、あそこに積めばいいんだよね」
返事はない。瓔花ちゃんは、ただわたしを見つめている。我が子を慈しむ母の目でわたしを見つめている。
その目に背中を押されるようにして、わたしはふらふらと積み石に近づいて、右手を天高く掲げると、絶妙なバランスで保たれた円錐形の積み石の頂点へ石を振り下ろした。
「やあやあそこのお二方。こんな場所で何してるんだい」
石が接地するその寸前。賽の河原に豪快な笑い声が響いた。ムラサは手を止め、戎瓔花は両手をグーにして応援しながら、声のした方向に向け、ほとんど同時に振り向く。
そこには、三途の川の渡し人、小野塚小町が明朗な顔色で立っていた。
「あ、小町さん!いまこの幽霊さんをそちらに送ろうとしているの。もう少し待っててね」
その言葉を聞いた小町の表情が曇る。そして、ズカズカと大股でこちらへ歩いてくると、わたしの右腕をガッシリと掴んで言った。
「なあ、こいつは特別なんだ。続きは私がやるから引き取らせてくれないか」
「うん、わかった。どうぞ!」
「ありがとね。じゃあ、また!」
小町は一方的にまくし立てると、わたしの手を引いて三途の川へと歩き始める。
「あ、あの、どうして」
急転した状況についていけず、困惑しながら声をかける。
「おい、自分の名前は言えるか」
「え、っと……ムラサ?」
勢いに押され、とっさに出た言葉の意味を私は理解できなかった。しかし、小町と呼ばれる女性の頬が緩んだのを見て、少なくともネガティブな意味合いでは無いことはわかった。
「それが言えれば大丈夫。ほら、とりあえず寝てな」
船底に横になると、小町が柄杓をくれた。相変わらず意味は分からないが、その柄杓に触れると途端に全身が脱力した。積み石の前で経験した脱力とは違い、安堵からくる脱力だとすぐに気が付いた。
「なんか、すごい疲れてる。海から上がった時みたい」
「そりゃそうだ。しばらく三途の川には近づくんじゃないよ」
これを最後に船上で会話が交わされることはなかった。
船幽霊を乗せた舟は、三途の川をスルスルと進んでいく。
うすぼんやりと光る世界の端に黒い影が映る。明らかな浮力を持つ黒い影を掴むようにして、私は両手を伸ばした。
「あれ」
固い木材の感触を期待していた手は、しかし草の感触を伝えてきた。右手に持っていた柄杓を手放し水面に顔を出すと、自身が狙っていた獲物が姿を現す。
その獲物は、草船だった。見たところ葦舟のようだが、ここは三途の川だ。そんな舟を死神がわざわざ使うだろうか。
しかし舟の材質など関係ない。舟が動いているならば、その上には必ず漕ぎ手がいる。ならば沈める以外に道はない。手放した柄杓を掴み、水を船に投げかけようとした、その瞬間。
「こらーーーーー」
遠くから、少女の叫び声が聞こえた。数拍置いて後頭部に鈍い痛みが走る。
「いっ」
何かが岸辺から、それも彼岸ではなく、賽の河原から飛んできたようだった。振り向くと、賽の河原の水際に人影がある。ちゃぷちゃぷと揺れる波間からは、人影の主が少女であることしかわからない。
「はやくどきなさーーい」
ふわふわした白い髪を震わしながら、少女が振りかぶる。今度は、足下に石が積み上がっているのが見えた。
「お、おい、待て!」
とっさに潜った私の周囲に、白い筋が浮かび上がる。ひとつ、ふたつ、みっつ、バシャバシャという音と共にどんどん増えて行く。
私はしばらくの間、水中で投擲が終わるのを待つことにした。
水面が落ち着いたことを確認し、村紗は顔を出した。その先には、例の少女がいる。福耳が目立つ年端もいかない女の子だった。しかし、ただの女の子にもかかわらず、なんとなく少女を直視できなかった。
「あなた、一体何なのよ!」
少女が叫ぶ。村紗にしてみれば、突然石を投げられたのである。それはこっちのセリフだ!と心のなかで叫びつつ平静を装う。年下に怒るほど短気では無い。
「そっちこそ急になんなの。石を投げるなんて危ないでしょ」
「うるさい、あなたのせいでみんなが怖がってるの。謝って!」
少女は本気でキレていた。面倒くさいのと出会ってしまったと、内心呆れる。しかし、こういう輩相手には、さっさと自分の非を認めて謝るほかない。少女の待つ岸辺に向けて、ざぶざぶと泳いでいく。
自分に石を投げてきた危険人物は、陸に上がって相対するとより幼く見えて、少女というより幼女だった。
「わかったよ謝ればいいんでしょ謝れば。はい、どーもすいませんでした」
「なによその態度。もっと心を込めて謝ってよ」
「えー。––はい、私が悪かったです。もうしません気を付けますー」
この程度で充分だろう、人間の返事なんて待つ必要はない。第一、妖怪である私がどうして人間なんかに頭を下げないといけないのだ。いっそのこと、こいつも沈めてやろうか。
「そもそもね、私は船幽霊なの。あんな脆い草船のひとつやふたつ、沈めたっていいじゃん。当然の権利でしょ」
苛立った心を鎮めつつ、せめて口先だけでもと吐きつけた、その時だった。
「あなた、船幽霊なの」
謝れ、謝れと癇癪を起こしていた幼女の声音が、変わった。その声は、先ほどまでの激情に押し出された鋭いものとは全く違う。
「そう、だけど」
幼女の声は、哀れな存在に声をかけるような慈しみが宿した声に変わっていた。
「そう…船幽霊なのね…」
幼女の瞳が涙でうるむ。その姿は、もはや幼女ではない。
こちらに来い、共に歩もうと手を差し伸べる、道を外れた物を正しき位置へ連れ戻す小さな先導者が、そこにはいた。もちろん彼女はムラサに手を伸ばしてはないし、こちらへ来いと呼びかけてもいない。
しかし、その小柄な身体からは、見る者全てを優しく包み込む親愛の念が迸っている。
ここにきて村紗は悟った。彼女は、里の人間ではないと。
それからしばらくの間、只者ではない彼女と村紗は無言で見つめ合っていた。
(どうしよう。そろそろ戻って大丈夫かな)
彼女は、じっと村紗のことを見つめている。村紗もまた、困惑しながらも彼女を見つめている。否、視野に入れているだけで、実のところ川に戻るタイミングを見計らっていた。
「ねえ、こっちにきて」
突然、彼女が声を発する。そして返事を待たずに、踵を返した。岸から土手へ、歩き始めた。彼岸から此岸へ、歩み始める。
村紗もまた、黒く濡れた砂礫から白く乾いた小石へと、彼女の後を追った。
気が付けば、あたりには霧が立ち込めている。周りには、河原の石ころと、誰かが積み上げたであろう石積みと、そして先を行く彼女しか無い。
じゃりじゃりと、ざくざくと。二人の足音以外、村紗の耳には聞こえなかった。
「あなた、家族はいる?」
石と石がこすれ合う音に彼女の声が紛れ込んだ。
「家族でなく、友達でもいい。あなたにはいる?」
血のつながった家族はいない。私は妖怪なのだから、血縁なんて関係性に固執しなくとも、ひとりで存在できる。でも、家族と呼べる存在は居る。
「家族、はいないけど。家族に等しい人たちはいるよ」
だから、こう答えた。命蓮寺の仲間たちは家族も同然だろう。
すると今までこちらを振り向くことのなかった彼女が足を止め、私の方に顔を向けて
「寂しかったでしょう、孤独だったでしょう」
慈愛に満ちたその視線を、私に投げかける。遠い昔、あの日の師と同じ顔色をしていた。
「……まあ、たしかに辛かったかな。みんな怖がるだけだったし」
ムラサとして、外の世界に在った時を思い出す。あの時は、いくら助けを求めても誰も耳を傾けてくれなかった。故郷へ戻ろうと、船べりに差し伸べた手は、罵声と共に殴打された。
少なくとも、初めはそうだった。
「実は私ね。あなたみたいな人のために、ここにいるの」
いつのまにか彼女は足を止めていた。踏み出しても、そこには土があるだけだった。
「えっと。そう、なんだ」
「あそこに石を積んでみて」
彼女の小さい指が宙をさまよい、やがて止まる。示す先には積み石があった。河原に散らばる小さな物ではない。その積み石は、高さ2mはある巨大な堆石だ。
「これ、あなたが作ったの?」
小さな幼女と、聳え立つ積み石を交互に見比べながら問う。
「この積み石はね、あなたたちのためにあるの」
聞いて、思わず考えこんでしまった。この積み石が、妖怪とどう繋がるのだろう。
「じゃあ、他の小さなやつとは違うってこと?」
「あの子たちとは関係ない。これはあなたと同じような人たちが作ったの」
彼女との問答は要領を得ないものだった。しかし、どうもこの積み石は妖怪が築いたものらしい。歪な石塔を形作る石の数は数えられない。
(少なくとも、害はないよね)
河原へ戻り、手ごろな大きさの石を拾う。崩れないよう、そーっと頂点に積み上げた。
「うわっ」
その瞬間。うなじを何者かに、悍ましい冷気に撫でられた気がした。
「ねえ、なにこれ。本当に大丈夫?」
間違いなく大丈夫ではない。あの感覚は尋常ではない。
「どうしたの?ほら、積もうよ」
彼女はきょとんとして、私を見つめる。しかし、私の本能が告げている。あれに触れてはいけないと。
「ごめん。やっぱりやめとくよ。私には関係ない」
なんだか不気味に感じてきた。はやくこの場を立ち去ろう。
「みんな初めはそう言うの。でも安心して、みんな最後には幸せになったから」
そういって彼女は微笑む。いつのまにか私と川岸の間に割り込むように立ち、ニコニコと笑っている。私が三途の川へ戻るのを阻むように、立っている。
その振る舞いには、私をこの場に繋ぎ止めようという明確な意思が見え隠れしていて、だからこそ余計不気味に感じられた。彼女の言う”みんな”も、こうして退路をふさがれたのだろうか。
「ねえ、その”みんな”って誰なの」
彼女の気をそらすため、再び問いを投げかける。しかし、彼女の反応は意外なものだった。
「なにって……あなた、船幽霊でしょ?」
何がおかしいのか、口元を手で隠しながらクスクスと笑いながら言う。その身に相応しい、きょとんとした可愛らしい表情を浮かべながら、彼女は言葉を紡いでいく。
「そんなの決まってるじゃない」
そこまで口にして、彼女は一旦口を閉じた。呼吸のためか、それとも溜めのつもりなのだろうか。次の言葉をじっと待つ。彼女の顔を、口元を、じっと見つめる。
そのおかげだろう、私は彼女の心が変わる瞬間を目撃した。
「教えてあげるから、あなたも石を積んで?この先は、あなたが石を積めば教えてあげる」
彼女の顔から可憐な笑みが姿を消し、悪戯めいた細い目が私を見つめながら、そう告げた。
「は?」
思わず言葉の端に怒気が混ざる。この少女は、どうしてこうも見た目相応な言動を繰り返すのだろうか。先ほど見せたあの菩薩の様な彼女は、いったいどこに行ってしまったのだろう。
どうやら私の方が折れるしかないようだ。足下に落ちていた、マーブル模様の石を掴んで、積み石のてっぺんに乗せる。石と石が擦れあうカチャリという音が霧に響いた。
「あなた、海で亡くなったのよね」
その様子を傍らで見ていた彼女が、口を開く。
「あぁ、そうだよ」
でも、そのあとに続く言葉は無い。振り向くと、彼女は積み石を指さしながら、ニッコリと笑った。
続きは石を積んだ後で、ということだろうか。手ごろな石を拾い、今度は真ん中あたりの隙間に差し込む。
「ということは。供養もされていないのよね、ご家族には」
「そう。……供養されなかったと思う。きっと」
村紗は生前、海辺の村に住んでいた。海に出た者がそのまま戻ってこなかったときのことを思い出しながら、うなずく。村紗が村で暮らしていたとき、家族を海で亡くした家が弔いの場を開いたことは、一度もなかった。
記憶にある限り、5軒はあった。
しかし、どの家も送らなかった。
誰一人、葬らなかった。
だから、私の家も。
きっと、私も。
それきり、口を噤む。
こみ上げてきた想いがあふれ出ないよう、口を噤む。
彼女が私の足下にしゃがみ込む姿が見えた。
そのまま、積み石の下辺を撫で、新たな石を立て掛けた。
その様子を、暗澹たる気持ちで見つめる。視界の右端に捉えて見つめる。昏い瞳で見つめる。
「じゃあさ。あなたは今、どんな状態なのかな」
「……何って。妖怪だけど」
「ううん、違う。」
「亡くなった、あなた。」
「溺死した、あなた。」
「あなたは今、どんな状態なの?」
「そんなこと、今の私と関係ないでしょ」
そう言いつつも、考える。まず第一に、私は供養されていない。供養されていないなら、つまり、ご先祖様の住む場所には行けていない。
「ね、気が付いたでしょ」
そう、私はご先祖様の住む場所にいない。私の村では、その状態を成仏とはいわない。
「あなた、今もそこにいるんでしょう」
なら、私は、わたしは、ムラサは。
「成仏できずに、漂っているんでしょう。そこで。」
「そんな!私はいま、ここに––」
世界が、暗転した。
いつの間にか少女の姿は消え、立ち込めていた霧も消えている。
それどころか、目の前の積み石も消えている。足下に広がる土も、その上に転がる石も、私の身体を支える大地すらも、この世界のなにもかもが消えている!
その代わりに、私の身体は冷たい液状のものに包まれていた。唇の隙間から流れ込んできたそれは、とても塩辛い。前後左右、視界に映るものは、闇。闇。全てを覆い隠す闇だった。
黒々とした世界から目を背けるように上を向くと、私の頭上には白くぼんやりとした世界が広がっていた。ゴボゴボ、ゴボゴボと気泡が弾ける音を拾う両耳は、芯のほうがツンと詰まった感じがしてむず痒い。うすぼんやりと光る世界の端に黒い影が映る。
それは、手だった。何者かが、こちらに向けてありったけの力で伸ばす、人間の腕だった。
海でもがく私に向けられる腕。私の命を助けようと差し伸べられる腕。あの時あの瞬間、私が心の底から願い欲した腕だった。それが、いま、目の前に!
明らかな浮力を持つ黒い影を掴むようにして、私は両手を伸ばした。
「ほら、そこに石を置いてごらん。」
彼女の左手が、私の右手の手のひらに絡みついている。わたしと彼女、二人の手のひらの間には石がある。
「ここだよ、ここ」
わたしの腕が積み石へと導かれる。彼女の意のままに動かされる。その手はとても温かい。
「やっぱり、あなた幽霊じゃない」
「妖怪じゃなくて、幽霊でしょう」
「いや、わたしは幽霊なんかじゃない。妖怪だ!船幽霊の、村紗水蜜だ!」
叫び腕を振り払う。ただ否定すればいいだけなのに、体が勝手に吼える。そして、言いきったあとなぜか、しまったと思った。
「あなたは妖怪じゃない。幽霊よ」
彼女が、笑いながら、言う。
「命を落とした無念の思念。それが幽霊」
すべてを寄せ付けない、圧倒的な笑みを浮かべて、言う。
「でも、それっておかしいと思わない?」
わたしは、その壮絶な微笑みを、ただ見つめることしかできない。
「死んだのにこの世に留まる死者。そんな存在を、あなたは何と呼んでいた?」
かつて、父から聞いたことがある。
血戦の舞台となった原、親子が辻斬りに遭った峠道、人が転落死した断崖、そして、難破した船が沈没した場所。人が無念の最期を遂げた場所。そこに住まう”なにか”を指して父は言った。
『いいかい、あそこに立ち入ってはいけないよ。あそこにはミサキがいるからね』
異常死が生み出された場所には”ミサキ”がいる。
ミサキ。ミサキ。ミサキ。ただ思い浮かべただけなのに心臓が縮みこむ。さっきから、全身が無性に冷える。四肢の末端も感覚が消えていた。
ミサキ。この言葉は、絶対に口にしてはいけない。
「ほら、石を積んでみて。そうすれば、みんなのことを教えてあげるよ」
そういうと、少女は、わたしの背後に回り込んだ。そして、わたしの脇の下に腕を差し込み、彼女の小さな掌がわたしの手首に触れた。
まとわりついて離れない海藻のように、今度は振り払われないように。わたしの右腕に、少女の両腕が絡みつく。
異常な状況にも関わらず身体は動かない。唯一、右手だけが震えている。決して石を掴むまいと、決死の抵抗を続けている。
「手、すごい震えてるね。寒いのかな?温めてあげる」
その右手に少女の指が重なる。上と下から挟み込んで、震えを治めるように。わたしの冷えた身体を、二人の体温で温め合うように。わたしの右手を、少女の両手が包み込む。
しっかりと重ね合わされた、わたしの右手と少女の両手。そのなかに納められた真っ白な石は温かい。いつの間にか手の震えは止まっていた。
「わ、わたしは…」
小さなシャコガイにも似た二人の手が、わたしの視界を上に上にと動いていく。
「わたしの、わたしの周りでは」
口が、口が止まらない。本能が危険信号を発する。口が言葉を紡ぎ続ける。
「そういう人のことを。成仏できない人のことを」
わたしの腰に少女がよりかかる。手を少しでも高く上げようと背伸びをしている。
「成仏できず、この世に留まり続ける死者のことを――」
「ミサキって、言うんだよね。あなたみたいな存在を」
石を積んだ瞬間、わたしと少女の声が重なり、聞こえた気がした。
「よく言えたね。そう、あなたはミサキ」
「成仏できない死者の霊、途中で止まった死者の霊」
「あなたは妖怪ではない。ミサキなのよ」
「この世に留まる死者の霊、輪廻を外れた死者の霊」
「あなたはミサキなのね」
力なく地べたにへたり込むわたし。耳元では、しゃがみこんだ少女が何事かをささやき続ける。
「知ってる?ここ賽の河原もね、ミサキなんだよ」
「ミサキがいる場所はミサキになるの。彼方でも此方でも無いからね」
「私ね、戎瓔花っていうの。水子のリーダーをしています」
「供養をされず、床下に埋められた水子たち。あの子たちもあなたと同じミサキだね」
「ミサキはね、あの世でもこの世でもない存在や場所を指すんだよ」
脳内に、少女の呪詛めいた囁き声が流れ込んでくる。その一方で、足だけでなく全身が脱力していく。視界もまた、クリアになっていく。
「供養され、成仏する。このルートを逸脱した存在をミサキと呼ぶの」
「私が初めに言ったこと、覚えてる?」
「私ね、水子のリーダーであると同時に、逸脱したあなたたちを連れ戻す神様でもあるの」
「マニ石って知ってる?今まで積んでもらった石は、あの石と同じ役割なんだ。石を6個置くと成仏できるんだよ」
「いまあなたは5個の石を積んだ。残すはあと1つ!さあ、極楽浄土へあなたも行こう!」
もう、ミサキでいい。
わたしは、ミサキだったのだ。
ミサキなんだ。
成仏できないわたしのために、この少女は親切にしてくれた。
瓔花ちゃんがここまで言うんだ。もう、いいだろう。
先ほどまでと打って変わって溌剌とした笑顔を振りまく瓔花ちゃん。わたしに向けて差し出された左手には、模様が書かれた平べったい石がある。
「これを、あそこに積めばいいんだよね」
返事はない。瓔花ちゃんは、ただわたしを見つめている。我が子を慈しむ母の目でわたしを見つめている。
その目に背中を押されるようにして、わたしはふらふらと積み石に近づいて、右手を天高く掲げると、絶妙なバランスで保たれた円錐形の積み石の頂点へ石を振り下ろした。
「やあやあそこのお二方。こんな場所で何してるんだい」
石が接地するその寸前。賽の河原に豪快な笑い声が響いた。ムラサは手を止め、戎瓔花は両手をグーにして応援しながら、声のした方向に向け、ほとんど同時に振り向く。
そこには、三途の川の渡し人、小野塚小町が明朗な顔色で立っていた。
「あ、小町さん!いまこの幽霊さんをそちらに送ろうとしているの。もう少し待っててね」
その言葉を聞いた小町の表情が曇る。そして、ズカズカと大股でこちらへ歩いてくると、わたしの右腕をガッシリと掴んで言った。
「なあ、こいつは特別なんだ。続きは私がやるから引き取らせてくれないか」
「うん、わかった。どうぞ!」
「ありがとね。じゃあ、また!」
小町は一方的にまくし立てると、わたしの手を引いて三途の川へと歩き始める。
「あ、あの、どうして」
急転した状況についていけず、困惑しながら声をかける。
「おい、自分の名前は言えるか」
「え、っと……ムラサ?」
勢いに押され、とっさに出た言葉の意味を私は理解できなかった。しかし、小町と呼ばれる女性の頬が緩んだのを見て、少なくともネガティブな意味合いでは無いことはわかった。
「それが言えれば大丈夫。ほら、とりあえず寝てな」
船底に横になると、小町が柄杓をくれた。相変わらず意味は分からないが、その柄杓に触れると途端に全身が脱力した。積み石の前で経験した脱力とは違い、安堵からくる脱力だとすぐに気が付いた。
「なんか、すごい疲れてる。海から上がった時みたい」
「そりゃそうだ。しばらく三途の川には近づくんじゃないよ」
これを最後に船上で会話が交わされることはなかった。
船幽霊を乗せた舟は、三途の川をスルスルと進んでいく。
小町が止めなかったらムラサはミサキとして成仏して消えてしまっていたのかな……
(間違えて簡易評価入れてしまったので無評価となってますが、100点入れたい気持ちです……)
そういう意味では不気味さというか不思議さというか独特の雰囲気が楽しめました。
ミサキについてはよく知らないのと、村紗が極楽浄土に行くことが幸せになるかによってだいぶ解釈の分かれる話なような気はします。
船幽霊の幸せってなんなのでしょうね。
ホラーとして読みました
ありそうでなかった組み合わせに唸りました
途中の、水中で瓔花と手をつなぎ村紗が葛藤する描写が非常に克明で好きです。
石を積ませたことにゾクッとしました。
面白かったです。