桜の甘い甘い香りが鼻をつく。春の陽気が周囲一帯を包み込む。
淡いピンク色に覆われた木々が境内を埋め尽くしている。風に乗って小さな花弁がひらひら舞っているのがとても綺麗だと思った。
とめどなく景色を彩る花吹雪が、どこか初雪と似ていて、思わず冬の寒い日が脳裏にフラッシュバックする。
魔理沙は鳥居の前で箒を止めた。軽い足取りで飛び降り、花びらの絡み付いた箒を逆手に持ち、ぽんぽんと払う。
暖かく気持ちの良い春の陽射しを身体いっぱいに浴びながら、大きな欠伸をする。ずんずんと歩き出せば、呼応するように周りでふわりと舞い始める桜の花びら。
ぴたりと歩みを止め、軽く前屈みの姿勢になる。目を細めて前方を見るが、日の照りつける縁側に、いつもならお茶でも嗜んでいるであろう霊夢の姿は見当たらない。
珍しいなどと思いつつ、再び歩みを進める魔理沙。コツコツと響く足音。
視界が暗転した。
一瞬の出来事だった。
ドサドサッと鳴り響く重たい音。死んだ蛙のように倒れ込む魔理沙を覆い尽くす何か。息が出来なくなるほどの重苦しさを背中いっぱいに感じ、ようやく自分の上に何かが降ってきたのだと気付く。
「かかったわねぇ、ざまぁ見なさい!この悪戯妖精──って何だ、魔理沙かぁ」
木の上から猫のように飛び降りてきた霊夢は、身動きの取れない魔理沙を見るなり残念そうにがっくりと項垂れる。
ぷは、とどうにか顔を出した魔理沙は自分を覆い尽くす大量の花びらの存在に、ぎょっとする。まじまじと見つめ、顔を上げると怪訝そうに眉を寄せる。
「何だよ、コレ」
「対妖精用トラップ。最近賽銭箱への悪戯が多くてね」
ふんす、と鼻を鳴らしてみせる霊夢に、魔理沙は大きなため息をつく。私はイタズラ好きの妖精じゃないぞ、と。
「あ、でもここ案外気持ち良いかも」
自信を包み込む心地よい暖かさと甘い香りに、魔理沙は思わずそう口にする。重さで身動きが取れないことを除けば、案外悪くない。
ふかふかな桜の絨毯に身を預けているうちに、そのまま睡魔に襲われる魔理沙。春日和の温かい陽射しに包まれ、意識が段々と微睡みの中へと薄れていく。
「団子、食べちゃうわよ」
無慈悲な霊夢の言葉に、意識を一気に引き戻される魔理沙。くわっと目をかっ開き、自分を放そうともしない桜の花びらの中で必死に足掻く。
霊夢はまるで可哀想な小動物を哀れむかのような目で魔理沙を見下ろす。
「団子っっ!!」
花びらの群れの中から、ばさっと身体を起こす魔理沙。おお、と霊夢が軽く拍手したのがまるで馬鹿にされているように感じたので、むっと眉を寄せ怪訝そうな顔を作る。
「食べ物への執着心って凄いのね、やっぱり」
「こちとら久々の甘味なんだよ!」
はいはい、と呆れたように笑いながら、くるりと神社の方へ踵を返す霊夢。
魔理沙は服や髪に絡みついた花びらを払い落とそうとして、やっぱりやめておこうと手を止める。すたすたと歩を進める霊夢に追いつこうと走り出せば、桜の優しい香りが周りを包み込んだ。
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赤い絨毯の上をコツコツと足を踏み鳴らしながら歩く。紅魔館の廊下にも春のうららかな陽射しが差し込み、暖かい空気が辺り一面に蔓延っていた。
ふと窓の外から覗くピンク色に、レミリアは思わず歩みを止める。庭へ目を向ければ、そこに堂々と佇んでいたのは満開の桜。
まぁ、とレミリアは口元に手をあて、感嘆する。
「いよいよ春も本番ってわけね」
くす、と思わず笑みが零れる。それと同時に、ひとつの疑問が脳裏をよぎる。
「……って誰よ!!勝手にウチの庭に桜の木を植えたのはーー!!!」
そう、元々紅魔館に桜の木など無い。あからさまに可笑しいその光景に、レミリアは突っ込まずにいられなかった。
もしかしたら植物好きの妖精メイドが良かれと思ってやったのかもしれないが。
「お姉様?」
背後から呼びかける声に、ハッと我に返る。いつもの笑みを作り、何事も無かったかのようにくるりと振り返る。真っ直ぐな目でこちらを見つめている紅い瞳と目が合う。どうしたの、とニコニコ笑いながら問いかけるレミリアに、フランは不思議そうに小首を傾げた。
「今、何か叫び声が」
「気の所為よ」
「そう?なら良いけど……」
あ、そうそう、と。何か思い出したように、ぽんと手を叩くフラン。
「パチェが面白い魔法見せてくれるって」
面白い魔法?と聞き返せば、うーんと首を傾げるフラン。「私もよく分からないんだけど〜」などと唸っている。
「パチェ本人が言ったの?」
「うん。あ、でも夜まで待って欲しいって」
「へぇ……そう」
パチュリーの気まぐれはいつもの事だが、こうもハッキリしない物言いは彼女にしては珍しい。今度は一体何が始まることやら、とレミリアはひとつ、大きなため息をつく。
ふとフランが外を覗き込み、「あ!」と声を上げた。すたすたと駆け寄り、興味深そうに窓の向こうを見つめる。
「パチェが小悪魔に植えさせたって言う桜はアレのことね!」
「綺麗〜」と目を輝かせながら、窓枠に手をつき、幼い子供のようにぴょんぴょん飛び跳ねるフラン。レミリアはその言葉に唖然とする。
「は、犯人はアイツか ─── ッ!!」
突っ込む声が再び屋敷じゅうに響き渡った。
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ふと風に乗ってきた花びらが鼻を掠め、そのこそばゆさに妖夢は目を覚ました。背を預けていた西行妖は春の柔らかな陽射しに照らされ、暖かい小麦色に染まっていた。妖夢の周りにはいつの間にやら降ってきた桜の花びらで織り成された絨毯が出来ていた。
「はっ、いけない!私ったら寝ちゃってた」
傍らに置いてあった白楼剣を慌てて手に取り、勢いよく立ち上がる。西の空を見やれば、太陽がきらきらと輝いていた。おそらく、陽が傾くまでもう時間が無い。
「早くお夕飯の支度しなくちゃ……」
屋敷に向かって走り出せば、縁側に腰を下ろす幽々子が目に入る。手には三色団子。彼女は妖夢に気付くなり、口の中の団子をごくんと飲み込み、
「おはよう。良い夢見れた?」
撫でる様な優しい声に、柔らかな微笑みは、見るもの全てを魅了してしまいそうだ。
「すみません幽々子様、今すぐご飯の支度をしますので……」
「あら、いいわよ」
「へ?」
「アレがあるでしょう、アレ」
あ!と妖夢はある事を思い出す。
宴会の残りものだ。捨てるのも勿体ないということで、持ち帰らせてもらえた料理が沢山ある。これで二、三日は手間のかかる食事の用意をしなくて良いのだと喜んでいた一昨日の自分を思い出す。
「妖夢はおっちょこちょいね。コレ、一緒に食べましょう?」
「い、いただきます」
えへへと恥ずかしそうに笑いながら、幽々子の元へ駆け寄る。差し出された団子を受け取ると、幽々子の隣にちょこんと腰を下ろした。ぱくりと一口食べれば、桜の甘い風味が口いっぱいに広がり、思わず顔がほころぶ。
くすっと面白そうにその様子を見ている幽々子に、妖夢はほんのり顔を赤くする。
「やっと暖かくなってきたし、紫たちを誘ってお花見でもしたいわねぇ」
「先日宴会でお会いしたばかりですよ」
「それはそうなのだけど。ほら、今度は私達だけで桜を見るってのも一興じゃない?私と、妖夢と、紫と藍、あと橙も」
確かにそれもそうですね、と納得したように頷く妖夢。度々集まってお茶をするくらいには親しい仲なので、幽々子言う通り一緒に花を嗜むのも悪くない。
「今年も沢山みんなと遊びたいです」
目を瞑り、春の空気を感じながら、妖夢は団子をまたひとつ口に運ぶ。
そうねぇ、と相槌をうちながら、幽々子は笑みを零した。
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「お姉様早く早く」
落ち着きのないフランが数歩先の距離で手招くが、レミリアは追いつくのがやっとだった。子供の体力には勝てないわね、などと考えるがフランが子供なら自分も子供なのではないかという考えに揉み消される。
ふと窓の外を見やれば、すっかり日は落ち、空は暗黒に染っていた。夜の闇が蔓延る廊下に、二人の足音だけが響く。
「お姉様ぁ〜待ちきれないよう」
「ご、ごめんってば」
先の位置でぎゃんぎゃん喚くフランに、レミリアは追いつこうと再び走り出す。
重い玄関扉を開けば、ひんやりとした風がレミリアを撫でていった。その肌寒さに、思わずぶるりと身体を震わせる。
「あ、来た来た」
屋敷から姿を現したレミリアとフランに、待っていたと言わんばかりに笑みを向けるパチュリー。
「大集合ね」
中庭には、パチュリーに小悪魔、咲夜、霊夢、魔理沙がそびえ立つ桜の木を取り囲むような形で立っていた。
咲夜はレミリアに気付くなり、慌てた様子で駆け寄ってくる。自らの首に巻いていた赤いマフラーを取り、
「まだまだ夜は冷えますので」
などと労るような声色で呟きながら、レミリアの首元にそっと巻きつけた。
歩き出せば、花筵(はなむしろ)に足を取られそうになる。ふと地面を見れば、ピンク色の絨毯が広がっていた。わぁ、と感嘆するレミリア。
フランの方を見れば、全身花びらだらけの魔理沙が背後から抱き込むような形で暖めていた。きゃいきゃいと騒いでいるのを見れば、それなりに懐いているのね、と思わず笑みが零れる。何故桜にまみれているのかはこの際気にしないことにしておく。
「それでパチェ、何を見せてくれるって?」
「んー、まだちょっと待ってて」
開いた本を片手に、ちょこちょこと指を動かしながら空を見上げるパチュリー。曇り空なんか見て何をしているのかしら、などとぼそぼそ呟きながらレミリアは辺りを見渡す。
ふと目に付いた見慣れた顔に、目を細める。
「霊夢は何でここに?」
「紅魔館に桜があるって魔理沙が言うから、気になってついてきたのよ」
じと、と魔理沙のことを見つめれば、気まずそうに目を逸らされる。きっと図書館に侵入しようとした矢先でこの木を見つけたのだろう。いても立ってもいられず、霊夢に教えに行ったところまで読めたレミリアは、呆れたようにため息をつく。
「まあ、良いですよ。未遂ですし」
フォローを入れる小悪魔に、余計ダメージを食らったような、苦い表情を見せる魔理沙。「ちょっと、あんまり魔理沙を虐めないで頂戴」と頬を膨らますフランに、小悪魔は平謝りし、霊夢はバツが悪そうにそっぽ向いた。
「そろそろね」
パチュリーの声に、全員の意識が引き戻される。ただじっと空を見つめるパチュリーにつられ、レミリアの視線が上へと向けられる。そんなレミリアにつられるように、咲夜が、霊夢が、その場にいた全員が次々と空を見やる。
目に映るのは星一つ見えない真っ暗な曇り空。夜の静寂が周囲一帯を包み込む。これから何が起こるのか、静かな緊張感を覚える。空を見つめ、微かに目を細めるパチュリー。
「──今よ」
パチュリーが人差し指を振れば風が巻き起こり、地面に積もった花びらが一斉に舞い上がる。雲の陰から顔を出した月が空に舞う桜を明るく照らし出し、妖艶な雰囲気を織り成す。
息を飲むほど美しいその景色に、レミリアは呆気に取られる。空に舞う一枚一枚の花びらが、明媚な世界を作り出していた。
「わぁ……」
目をきらきらと輝かせ、世界観に引き込まれるフラン。同じように、迫力に圧倒され、呆然と見惚れる魔理沙。
「ね、綺麗でしょ?」
微笑んでみせるパチュリーの声色からは満足さが伺える。「ええ、とても」と手を合わせる咲夜も、「ふぅん」と返す霊夢も、壮観な景色にくぎ付けにされている様子だった。隣では、小悪魔が「流石はパチュリー様ですっ」などと言いながら、兎のようにぴょんぴょん跳ねていた。門の陰から見ていた美鈴も、口元に手を当て、見たこともない光景に感嘆していた。
「凄いわ、パチェ……」
思わず口から零れた言葉に、振り向いたパチュリーがほんのり頬を染め、照れくさそうに小さく笑う。
これが本物の夜桜。菖蒲色に光を放つ桜の木の周りで、花びらが風に乗って華やかに舞っている。
「パチュリーすご〜い!」
感動を表すように、ぱちぱちと手を叩くフラン。その横で、同じように称える小悪魔。見直したぜ、と親指でグッドサインを示す魔理沙の頭にすかさず一発入れるパチュリー。周囲に笑いが巻き起こる。
「本当、良いものを見せて下さり感謝ですわ」
「ええ……ここまでのものとは思わなかったわ」
咲夜も霊夢も、かなり満足したようだ。レミリアも、最初気が乗らなかったのが嘘のように充足感に満たされていた。美しい桜を見つめながら、パチュリーの傍へと歩み寄る。そんなレミリアに気づき、どうしたの、と声を掛ける彼女。
「今日はきっと良い思い出になるわ。ありがとう、パチェ」
レミリアは、くす、と柔らかく笑みを浮かべる。
パチュリーは心の底から嬉しそうに、はにかんでみせた。
春の訪れを感じられるような優しいお話でした
みんな楽しそうで何よりです