〇彼岸の貴方へ
夢の中で、神子は草の庵にいた。山奥なのであろう、深い木々に埋もれ古色蒼然とした粗末な渡殿に神子は腰掛けて池を眺めている。
夏の盛りはとうに過ぎたのに、澄み切った水を湛えた池にはいくつもの蓮が浮かび、薄紅を中心に白、黄色と色とりどりに美しく咲いていた。あたりは日差しが燦々と降り注ぎ、どこからともなく鹿の声が聞こえてくる。閑散としたわりにはのどかで平和な空間だった。
神子の隣には見知らぬ男がいる。剃髪にこれまた貧相な袈裟を着た、凛々しくも穏やかな雰囲気をまとった壮年の男だった。
「山奥のわりには暑いな」
神子がさりげなく文句を言えば、僧侶は短く真言を唱えた。神子の手元に水の入った古ぼけた鉢が飛んできた。僧侶の法力であろう。似たようなことをやる知り合いがいるのでさして驚きもせず、神子は鉢に汲まれた水をあおった。
蓮の不思議もさることながら、神子は隣の僧侶は何者だろうと考えた。かつて仏教を広めた身なだけあって僧侶の知り合いは多かったが、この僧侶は神子の記憶をすべて漁っても心当たりがない。顔を確かめようにも、笠をかぶっていてよく見えない。
「あの蓮に」
と、僧侶が朗らかな声で言う。僧侶は池に浮かぶ一輪の蓮を指差していた。薄紅の蓮に囲まれた中で、一際美しく咲く真っ白な蓮だ。
「あの蓮の上に私は一人で座っています」
「来世は同じ蓮の上にと約束してくれる女がいなかったのか?」
神子はからかうように笑った。
僧侶の言葉を口説き文句と取るか、待ち人の匂わせと取るか。言わずもがな後者だ。神子の問いに、僧侶は穏やかな笑みで返す。
「私は幼い頃より仏道一徹でしたから。けれど、あの蓮の半分を空けておりました。もう一人がいつ来てもいいように」
「もう一人とは?」
僧侶は微笑んだまま、答えない。この僧侶は誰の訪れを待っているのだろう。待ち人は生きているのか、死んでいるのか。もし死んだとしても、僧侶と同じ蓮の上にと願い、僧侶の元に来てくれるのか……考えているうちに、神子の目が覚めた。
◇
起床し、身支度を済ませ、朝の日課をこなしてからも、神子は夢の余韻で頭にもやがかかったような心地でいた。
目が覚めてから改めて考え直してみても、あの僧侶の正体は不明だった。神子を慕う後世の僧侶か、あるいは逆に恨みを抱く者か。夢の中で能力を使いそびれたな、と今更のように気づく。そもそも、なぜ神子が僧侶などと夢で会わなければならないのだ。部下達と違って仏教嫌いではないが、僧侶は商売敵だ。
「……考えても仕方ないか」
神子はもやを払うようにかぶりを振った。こんな不可解な夢を夢解きしても仕方ない。
ひとまず修行に励むか、と気持ちを切り替えたところで、神子はむくれた顔で廊下の隅にしゃがみこむ布都を見つけた。
「お前、こんなところで何をしている?」
「あっ、太子様」
布都は神子に気づくや否や、慌てて不機嫌な表情を取っ払って立ち上がった。
「いや、何、わざわざ太子様のお耳に入れるようなことではないのです」
「構わない、話してみよ」
「……その」
どうせ神子の前で隠し立てなど無意味だ。布都は気まずそうに目を泳がせながらぽつりと言った。
「一輪に遊びの誘いを断られまして……」
「ぶっ」
「わ、笑わないでくださいよ! だから申し上げるまでもないと言ったのです!」
「すまない」
神子は込み上げる笑いを噛み殺す。深刻な悩みではないんだろうなとは思っていたが、予想以上にくだらない。商売敵のはずが、布都はすっかりあの入道使いと仲良しになっている。
ようやく笑いが治った頃には、布都はまた膨れっ面に戻っていた。
「ずいぶん仲が良いんだな」
「普通ですよ。なんでも、大事な法会があるとかで、また今度と言われてしまったのです」
「お前もまだまだだな」
神子は布都の子供っぽい拗ね方がおかしくて口元が緩む。普段、神子の忠実な部下も、件の入道使いといる時は見た目の歳相応にはしゃいでいる。
「いくら仏教嫌いとはいえ、その辺りは理解してやりなさい。宗教とはどこも欠かせないイベントがあるものだ。あの入道使いにお前の修行を邪魔されたらどう思う?」
「……おっしゃる通りです」
相手の立場になってみよと告げれば、布都は大人しくうなずいた。あの入道使いも物分かりがいい奴だ、きっと何がしかの埋め合わせは考えているだろう。神子としては、過度に馴れ合わず適度な距離で付き合いを続けるなら、部下の交友関係に口を狭むつもりはなかった。
「しかし、命蓮寺の法会か。そういえば彼岸が近いものな」
「ええ、何やら此度は大掛かりなようで」
命蓮寺は今のところ幻想郷における唯一のお寺ということで、様々な法事を行っている。檀家の頼みだろうかと考えて、なぜか神子の脳裏に夢の僧侶が浮かんだ。
命蓮寺に男の僧侶は雲山くらいしかいない。しかし神子の勘は、夢の僧侶は命蓮寺の関係者であると告げていた。
◇
命蓮寺は忙しく修行僧達が駆け回っている。
「当日のお花は?」
「人里の花屋さんにちゃんと頼んであるわ」
「響子、掃除はいつもにもまして入念にね」
「はい! 塵一つ残しませんよ」
「ねえ、マミゾウさんとぬえはどうしようか」
「一緒にいてもらおうよ、せっかくだし」
「そういえば、小傘が倒した墓石……」
「またあ? いい加減本人に直させようよ」
神子が何気なく命蓮寺を覗けば、境内で一輪と雲山、ムラサ、響子がそれぞれ段取りを確認し合っているようだった。白蓮の姿はない。おそらく本尊の寅丸星と共に寺の中にいるのだろう。
「あれ? 神子様、何かご用でしたか?」
「あ、いや」
そこへ、神子に気づいた一輪が雲山を伴って駆け寄ってくる。特段用があるわけではなかった神子は、その場で口実を考える。さすがに忙しい商売敵の邪魔をするわけにはいかない。
「先日、布都が我が儘を言ったようで悪かったな」
「え? いやーそんな、神子様にフォローしていただくほどのことじゃありませんよ」
咄嗟に布都の件を持ち出せば、一輪は照れ臭そうに笑った。
「別の日に行こうって約束しましたから。大丈夫です、喧嘩とかしてませんよ」
「そうか。……命蓮寺はずいぶん忙しそうだな」
「ええ。何せ此度の法要は弟様の供養なんですから」
弟様と聞いて、神子は目を瞬く。弟様と呼ばれる人物なんて、白蓮の弟、この寺の名前にも取られた命蓮しかいない。
神子は命蓮について多くを知らなかった。優れた法力を持つこと、神子がかつて訪れた信貴山で修行をしていたこと、それぐらいだ。白蓮だって、弟についてわざわざ神子に語ろうとはしない。
また夢の僧侶が脳裏に浮かぶ。夢の中ゆえ顔をしかと覚えているわけではないが、まさか、あの僧侶は白蓮の弟その人だろうか。盆はとうに過ぎたが、亡き命蓮は彼岸から此岸に近づいているのだろうか。
「あー、大変申し訳ないのですが、さすがに神子様にご臨席いただくわけには……」
「誰がそんなことを頼んだ」
神子の沈黙を何と受け取ったのか、妙な気を利かせてくる一輪に神子はわざと素っ気なく言い放つ。
「私とお前達では仏教への向き合い方が違う。それになぜ私が聖白蓮の弟に手を合わせなければならない」
「うーん、貴方が商売敵でなければ有りだと思うんですけどねえ」
一輪は呑気に言う。どうも一輪は神子と白蓮の交流をそこまで深刻に捉えてはいないようだ。むしろ二人がいがみ合わなくなるのを好意的に受け入れている節がある。
「昔は聖様も聖徳太子が仏教を重んじた方だと素直に信じていましたから。信貴山の毘沙門天だって聖徳太子にゆかりがあるでしょう?」
それは事実だ。信貴山の名だって神子が名づけたのだし、古くは神子も毘沙門天を信仰していた。
とはいえ、やはり神子と命蓮寺の僧侶達には隔たりがある。その昔、白蓮が信じていたのは〝聖徳太子〟の伝説であり、現在の神子ではない。一輪が神子の名ではなく敢えて“聖徳太子”の名を持ち出すことからも明らかだろう。神子だって後世の僧侶にどう接すればいいのか聞かれても困る。
「一輪、何を油を売っているの?」
その時、奥から白蓮の声が聞こえてきた。気がつけば他の修行僧の姿もない。それぞれ法要に向けて準備に向かったのだろう。
「あ、いえ! ちょっとしたお客様でして……あれ、神子様?」
「邪魔をしたな」
神子は一輪に背を向けて参道を引き返した。
『あの蓮の上に私は一人で座っています』
僧侶は真っ白な蓮の花を指してそう言った。考えてみれば、あの蓮が示すのは白蓮そのものだ。
――もしかしたら、僧侶が空けている空座は白蓮のためではないか。
見当がついたからといって、神子はこの夢を白蓮に告げるつもりも法要に顔を出すつもりもない。
(そもそも、来る場所が違うだろう。……なぜ、素直に姉の元へ行ってやらない?)
神子は帰路について、一人疑問に思う。
◇
その夜、また神子は夢の中で例の草の庵にいた。隣にはあの僧侶がいて、並んで池を眺めて座っている。呆れ返るほど静かな庵は、いささか貧相が過ぎるものの、極楽浄土の一角だろうか。不老不死を求め、いずれは天人をも目指す神子には縁のない場所だ。
神子は僧侶の顔を見た。不躾に覗き込まれても、僧侶は何も言わない。それどころかわざわざ笠を持ち上げて神子と視線を合わせた。僧侶の年齢は少なく見積もっても六十を超えていて、当然ながら若い少女の姿を保っている白蓮とは比較しようがない。
けれど温和な微笑みが、白蓮のそれと似ていると思った。白蓮の身内だと思って見れば、顔立ちだけでなく、さりげない仕草やら癖やらまでが似通って見えてくるものだ。
「私はいつもあの蓮を手入れしています」
僧侶は昨夜とまったく同じ白い蓮を指差して、同じような文言を言った。蓮の花は露を乗せて輝いている。
「私は丁寧に露を払い、枯れないように池を清らかに保ち、水を絶やさないようにしているのです」
「それはいずれ訪れる姉のためか? 聖命蓮よ」
神子が思い切って尋ねると、僧侶、いや、命蓮は微笑むばかりだった。
命蓮が背後を指差すので振り向けば、寂れた建物の奥に見覚えのある毘沙門天像があった。何を隠そう、かつて神子が刻んだそれと同じで、これを見ればすぐに正体を見抜けたろうに、と悔しく思う。この僧侶は浄土をわざわざ信貴山に寄せているのだ。
「……信貴山もずいぶん様変わりしたものだ。浄土でまで質素な暮らしがしたいのか?」
「ようやく気づいてくださいましたか。今日は米俵も運んでみせようと思っていたのですが」
「さすがの私でも会ったこともない人間の正体など当てられるか。それも夢の中にしか現れぬ僧侶など」
改めて僧侶の正体がわかった後でも、神子はいつもの尊大な態度を崩さない。白蓮の身内だからと謙る必要はないし、そもそも自分は命蓮より遥か先の時代に生まれた聖人なのだ。命蓮は気にしてもいないようで、微笑みを絶やさなかった。
「なぜ私の夢に現れる? 姉の夢枕に立てばあいつは歓喜するだろうよ」
神子が続けて問いかければ、命蓮の微笑みが寂しげなものに変わった。
「私の死を機に、姉は不老長寿を求め外法に手を染めました。煩悩を断ち執着を捨てる仏の道とは異なる道です。いくら私が姉を遺して逝った悲しみゆえとはいえ……私は姉を赦すわけにはゆきませんでした。姉もそれは覚悟の上でしたのでしょう。私の墓前に一切の赦しを乞いませんでした」
命蓮は蓮の花を見つめて眉をひそめた。
立派な僧侶だな、と神子は半ば皮肉るように思う。血を分けた姉でも、道を誤る者には簡単に慈悲を見せず批判する。白蓮も弟に合わせる顔がないと思っていそうだ。
じきに命蓮寺では命蓮のための供養が行われる。白蓮は亡き命蓮に何を祈るのか。そして命蓮は、白蓮の祈りを何と受け止めるのか。
神子の疑問を見透かしたように、命蓮は視線を蓮の花から神子へと向けた。
「けれど悲しみの淵から立ち上がり、妖も人も、あまねく救おうと奮闘する姉を見守るうちに、私も血を分けた身内ゆえの甘さが出てきたようです。……私はここで、いつか訪れる姉を待っております。姉のために、蓮台を整えております」
「だから、それなら私ではなく姉に直接言えばいいだろう」
「いいえ。私が姉の前に現れれば姉の心を乱してしまいます。これ以上、姉に悲しみを刻みたくないのです」
「あいつの弟にしては殊勝で謙虚だな」
「――姉の心に貴方がいらっしゃいます。貴方を認めながら、すべてを受け入れられず反発して、それでも姉は貴方と共に歩む道を懸命に探っております」
命蓮の言葉に神子は息を呑んだ。命蓮の眼差しはどこまでも優しい。こんな形で心中を暴露されるなど白蓮も気の毒だ――などと考えを逸らさなければ、神子もみっともなく動揺を晒してしまいそうだった。
白蓮の心は、神子も薄々気づいていた。白蓮の欲をこの耳で聴いたからではない。白蓮と相対し、交戦し、手を組んだ果てに見出したものだ。神子がそっけなく協調など無意味だと突っぱねても、白蓮は知ったことではないと言わんばかりにまた歩み寄ってくる。
けれどそれを改めて他人に、ではない、白蓮の身内に口にされたら何だか居心地が悪い。
「私はもはや彼岸に渡った身。此岸で姉と共に過ごす、けれど姉の弟子ではない貴方を、この目で確かめてみたかったのです」
命蓮は神子を見つめて、にっこり笑った。笑い方といい物腰といい白蓮にそっくりで、神子は引き攣った笑いがこぼれた。
「前言撤回だ。身勝手で厚かましいところはよく似ている」
ようやく命蓮が夢枕に立った理由を知れたのはいいが、この聖徳王を品定めしようだなんて鉄面皮にもほどがある。どちらかといえば白蓮の方にそういう気があるのではと勘繰っていたが、こいつはこいつでシスコンかよと頭を抱えたくなる。
ならばせっかくの機会だ、神子からも命蓮に言っておきたいことがあった。
「あいつはもう不老長寿に未練を持っていない。そんなにいそいそ蓮台の準備をしなくとも、いずれはお前の元にやってくるだろうよ。だけどな」
神子は命蓮に詰め寄り、睨みつけた。こんなところを命蓮寺の妖怪達に見られたら激昂されそうだ。この蓮の池に神子と命蓮しかいなくてよかった、面倒事が減る。
「いいか? お前の姉を、聖白蓮をすぐには彼岸に連れて行くなよ。私はまだあいつと決着をつけていない。あいつは私にとって商売敵だ。いくら身内でも勝手に此岸の者を連れ去る権利など、たかだか一介の坊主にありはしない」
「……ごもっとも。貴方から見れば聖と謳われた私も小僧でしかないでしょう」
「それでも……あいつが望むなら、まあ、最後の最後は譲ってやる」
しりすぼみになりそうなのを堪えて、神子は終いまではっきりと言い切った。今すぐにと言われたら拒否するが、何も姉弟仲を引き裂きたいわけではない。神子にとって布都や屠自古などの大切な部下がいるように、白蓮にだって大切な者達が数多いるのだ。それに、白蓮が誰の元へ渡るかなんて、それこそ神子にだって決める権利はない。
神子の苦々しい表情を見て、命蓮は目を丸くしてから、声を立てて笑った。
「姉が望むなら私はいつでも迎えに行きます。けれど、まだ遠い未来の話ですね。今から姉の元を訪ねたところで、今度は私が姉に拒まれてしまうでしょう。……あの蓮をご覧ください。姉の悲しみが露となり溢れております」
「……明日、お前の法要が開かれるそうだ」
「私は露が浮かぶたびに何度も何度も露を払ってきました。しかし、この数年はその数もめっきり少なくなってまいりました。……どなたでしょう? 姉の悲しみを払ってくれるお方は」
「聖命蓮。あの蓮を手入れするのは結構だが、あいつが必ずしもお前と同じ蓮を選ぶとは思わない方がよいぞ? お前の察しの通り、あいつの大切なものはもはやお前一人ではないのだから」
命蓮はまた笑った。よく笑う男だ。白蓮以上の温厚さと寛大さを持ち合わせた、聖と呼ぶに相応しい僧侶である。
「恐れ入りました。さすがはかの聖徳太子。このような巡り合わせを授けてくださった御仏に感謝せねばなりません。……太子様。厚かましい私の願いを、一つ聞いていただけますか?」
「何だ?」
「姉に伝えてください。私のところへ来るのは、ゆっくりでよいと」
にわかに蓮の池に差し込む日の光が強くなって、微笑む命蓮の姿が霞んでゆく。「わかった」と答えた神子の声が命蓮に届いたのか否か、確認する間もない。
神子は目を覚ます前に件の白い蓮を見た。蓮は露もなく美しく花開いていた。
◇
目が覚めてからもずっと夢の余韻に浸っていたせいか、神子は布都にも屠自古にも様子がおかしいと心配されてしまった。
今日は命蓮の法要の日だ。神子が命蓮と会ったのはたった二度きり、けれどあんな鮮烈な印象を植え付けられたら忘れようにも忘れられない。姉弟揃って妙なことをしてくれる、と神子は嘆息した。
「……さすがにご老体の頼みは断れないじゃないか」
命蓮の言伝を神子はしかと覚えている。こうなったら腹を括って法要が明けた後、白蓮に命蓮の話を打ち明けるしかない。
翌日になって、神子は仏花と呼ばれる花束を携えて命蓮寺を訪ねた。さすがに手ぶらでは気が引けたのだ。
「お前の弟に手向けてやれ」
白蓮は神子が現れたのにも驚いていたが、弟にと言われてさらに両目がこぼれ落ちてしまうのではないかと思うほど目を見開いた。当然ながら白蓮の目元に涙の跡はない。泣かれなくてよかった、それは泣く女の相手が面倒だからだ、それ以外に理由なんてあるはずがない。
「知っていたのですか。それなら昨日来てくれればよかったのに」
「お前の弟子に止められた。商売敵の私が法要などに足を運ぶわけにはいかない」
白蓮は受け取った花を、白蓮の私室にある仏壇に供えた。本堂は毘沙門天を祀るための場所で、命蓮の法要が済んだ今はいつもの場所に戻ったようだ。
「私は夢でお前の弟に会った」
そのまま白蓮の私室で単刀直入に告げると、白蓮は手にしていた数珠を膝の上に落とした。
「どうして命蓮が貴方に……」
さすがの白蓮も、弟の話題となると心穏やかではいられないようだ。いつもなら見られない動揺をあらわにする。
「弟は、命蓮は貴方に何と?」
「そうだな。お前はしばらく〝こっち〟へ来るなと言っていた」
神子はわざと意地の悪い言い方をした。どうせ意味は同じなのだ、命蓮も多めに見てくれるだろう。
「そう……」
神子の言葉を何度も反芻しているのか、白蓮はしばし仏壇に目をやってから、うっすら微笑んだ。
「神子。私は、もう弟に二度と会えなくても、赦してくれなくても構わないと思っていた。私の所業が弟にとって赦し難いものだとわかっていたから。……それでも、いつかは会ってくれるのね。それで充分です」
「お前は会いたいと思うのか?」
「今すぐじゃなくてもいいの。いつまでも死んだ人間の思い出に縋っていたら今度こそ見放されてしまうわ。法要のたびに、私はこの世で私と歩むみんなを見守っていてくださいって祈りを捧げていたから」
白蓮の笑顔は穏やかで嘘偽りがなかった。命蓮の心配は杞憂だったようだ。白蓮は涙に濡れても、亡き弟を忘れられずとも、ちゃんと地に足をつけ、現に生きる人間や妖怪を見つめて生きている。焦って彼岸へ渡ったりしないだろう。
ふと、白蓮は口元をつり上げていたずらっぽく神子を見つめてきた。
「それで、貴方の夢の話を私にしてくれたのはどうして? 心配してくれたの?」
「思い上がるなよ。いきなり見知らぬ僧侶が私の夢に現れて、しかもお前の弟だというから、一言文句を言ってやらねばと思っただけだ」
「そう、ごめんなさいね、弟が迷惑をかけて」
そっけなく言い放っても、白蓮はにこにこ笑っている。まったく厚かましいことこの上ない。
「神子。命蓮は貴方を尊敬していたわ。かつての私もね」
「今は違うとでも言いたげだな」
「だって貴方は私の知る聖徳太子とは全然違うんですもの」
神子は別に思ってたのと違うと否定されても構わなかった。外の世界で否定されたからこそ、神子はここにいる。誰が何と言おうと神子は己の歩んだ道を間違っていたなんて思わない。
白蓮は神子の目を覗き込んだ。そっと目を細める仕草に思わず息を呑む。
「今の貴方は神子よ。道教を信仰する仙人で、私の好敵手。こんな形で出会うとは思っていなかったけれど、私も貴方もこの幻想郷に来たから会えたのよね。御仏の導きに感謝しなければならないわ」
神子は何だかむず痒いことを言われている、と思いつつ、姉弟で同じ台詞を言うんだなとひっそり笑った。
言われてみれば、今の神子を『あの聖徳太子だ』と見ない人物は貴重かもしれない。それはそれで悪くない気がした。
「それにしても、どうして命蓮は貴方の夢に現れたのかしら。私の夢には一度だって現れてくれなかったのに……」
白蓮の不満が命蓮に向かう。やはり命蓮は一度も白蓮には会っていないようだ。白蓮は眉をひそめてぶつぶつ文句を言っていたが、突然青ざめる。
「いえ……まさか、弟に限ってそんなことは……」
「どうした?」
「命蓮、貴方に好意を抱いたのではなないでしょうね」
「お前大丈夫か?」
深刻な顔をする白蓮にさすがに神子も呆れ果てた。平安の人間は夢に出てきた人物を、自分を好いている相手だと解釈したが、あの潔癖そうな僧侶に限ってありえない。まして神子もありえない。この幻想郷で清廉潔白な生き方を保ったってつまらないだろうが、白蓮は僧侶のくせに世俗の垢に塗れ過ぎてやいないか。
弟思いも大概にしておけと文句を言おうとした神子の耳に、思いもよらぬ言葉が飛び込んできた。
「いくらなんでも弟が恋敵になるのは……」
「え?」
白蓮は微かなささやきを神子に聞かれたと思っていなかったのか、一瞬凍りつく。その後すぐさまわざとらしい咳払いをした。
「いえ。貴方に弟は渡しません」
「いやさっきお前は」
「言葉の綾です。もしくは貴方の聞き間違いではないでしょうか」
「私が聞き間違いなんてするか」
白蓮は平静を装っているが、口調が堅すぎて不自然だ。必死に動揺を抑えているのだろう。
――そうか、お前はそっちで受け取るのか。神子の頬は自然と緩んでしまう。坊さんのくせにそんな俗っぽいこと考えるなよ、ともっともらしく諭してやればいいのだろうが、神子はこの姉弟に迷惑をかけられたのだ。どうせなら存分にからかってやろうと思いつき、神子はにやりと口元をつり上げた。
「そうだな。私も結構あいつを気に入った。美男とまでは言わずとも、坊主にしておくには惜しいなかなかの男ではないか」
「ちょ、ちょっと、神子、貴方まで? いけませんって!」
案の定、動転した白蓮は身を乗り出して神子に取り縋ってきた。
「おやめなさい、貴方にふさわしい相手なら他にいくらでもいるでしょう?」
「ほう、例えば誰が?」
「それは……とにかくいろいろです」
「その程度の諌めじゃ止められないね。和歌にもあったな、思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを……つまり私の夢はそういうことか。坊主に惚れる女は珍しくない」
「死人に恋したって不毛ですよ!」
「ならうちの屠自古やお前のとこの舟幽霊に惚れる奴は全員不毛だな」
「話を逸らさないでください!」
神子は慌てふためく白蓮を前に笑いを堪えるので必死だった。だって神子の耳には白蓮の本音が聴こえている。白蓮はそれを忘れているらしい。普段の白蓮ならこんな茶番を見抜くくらい容易いのに。
命蓮が絡むから? それとも神子だから? そんな二者択一を迫るのは酷だろう。白蓮にとってはどちらも大切で、けれど大切の種類が違うだけだ。
夢の中の命蓮はずっと笑っていた。此岸と彼岸に別れても、互いを大事に思い合う姉弟。神子は改めて命蓮が夢に出てきた意味を悟った。
お前の姉は息災だよ、と心の中で命蓮に告げながら、さて、いつ種明かしをしてやろうかと、神子はこの世の終わりみたく狼狽する白蓮を愉快に眺めていた。
神子以外になつかない雪丸がそれらしくてよかったです
命蓮も漠然と持っていたイメージにぴったりで違和感なく読めました
しかし雪丸にも命蓮にも二人がイチャついてるところは見せられませんな