Coolier - 新生・東方創想話

此岸を駆ける/彼岸の貴方へ

2023/03/12 17:41:01
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〇此岸を駆ける


ある日、境内から犬のけたたましい鳴き声を聞いた白蓮は、何事かと修行を中断して飛び出した。
「どうしたのです、騒々しい」
「あ! 聖様、そのー」
「この子、迷い子みたいなんですよ、聖様」
境内には箒を手にした響子と金輪を構えて雲山に指示を出す一輪の姿があった。そして彼女達の間には、雪のように真っ白な毛並みのむく犬が低い唸り声を上げて威嚇しているのである。白蓮は誰も近づかせん、寄らば噛み付くと言わんばかりに殺気を振り撒く犬を見て目を瞬いた。
「まあ、どこから迷い込んできたの? 生き物を無闇に傷つけてはいけませんよ」
「気がついたら境内をうろついていたんです。てっきり墓場荒らしかと思って近寄ったら、すごく怒っちゃって……」
「響子一人じゃ手に負えないみたいなんで、私と雲山も加わったんですけど、油断すると噛みつかれそうで」
「とにかく二人共、下がりなさい。そんな武器を振りかざしていたら余計に犬を興奮させるでしょう」
響子達を傍によけて、白蓮は犬に近づく。まったく人に慣れていないが、一方で毛艶はよく体格もがっしりしており、野良犬ではなくどこかの飼い犬と思われた。
白蓮が近寄った途端、犬は牙を剥いて飛びかかってきた。響子と一輪が悲鳴を上げるも、さっと身を捻ってかわす。
「そんなに怖がらないで。貴方はどこから来たの? 貴方のご主人は……あら?」
その時、白蓮は初めて犬の持つ違和感に気づいた。よく見ればこの犬、人魂を連れている。足はあり実体もしかとあるものの、犬はすでにこの世の者にあらず、つまり幽霊だった。
「幽霊犬の迷い子ってこと?」
「ええ。でもおかしいですよね、命蓮寺で犬の埋葬なんてやってませんし」
「もしかして例の畜生界から来た動物霊ってやつかなと思ったんですけど、どうもこの犬はそんな感じじゃないんですよ」
「そうね……もう動物霊は来ないはず」
白蓮はかの動物霊の侵略騒動を思い出す。あの動物霊達は人間に憑依できたが、目の前の犬は誰かに憑依する様子もない。この犬の攻撃性は主人ならざる者への警戒心としか思えなかった。
「なら幻想郷の誰かが飼っていた犬が亡くなって、未練を残して彷徨っているといったところかしら」
「どうします? 冥界か三途の河にでも連れて行きますか?」
「いいえ」
一輪の申し出を白蓮は断る。犬は相変わらず威嚇を続けていた。目は鋭く光り、睨みつける視線は何かを強く訴えているかのようだ。
「無理に成仏させようとしたってこの子は聞かないでしょう。それなら、この子の主人を探して会わせてあげようと思います」
「ええっ? 大丈夫ですか? この犬、本当に手のつけようがないですよ、大人しく従ってくれるか……」
「だからってこのままお寺にも置いておけないでしょう」
響子の心配をよそに、白蓮は再び犬に歩み寄る。怯えさせないようにしゃがんで目線を近づけても、犬は牙を剥く。
「落ち着いて。貴方のご主人を一緒に探しましょう……わっ」
その時、またも犬は白蓮に飛びかかってきた。本当に埒があかない、あまり手荒な真似はしたくないが、と思いつつ、白蓮は魔法で己の身体能力を上げる。そのまま犬を両腕で羽交い締めにし、噛みつけないよう顎を抑え込んだ。首輪も縄もつけてくれそうにないのだから仕方ない。
「すごい力で暴れるのねぇ。……そうね、まずは動物に詳しい人に聞いてみましょうか」
「だ、誰です?」
「いるでしょう、動物を簡単に手懐ける仙人が」
一輪の問いに白蓮は片目をつむる。もちろん神子ではない。彼女の愛馬は弱肉強食の畜生界で暴れていると聞く。
もがき続ける犬を痛めつけない程度に押さえて、白蓮は博麗神社へ飛んだ。

   ◇

閑散とした神社の境内で、あからさまに落ち込む華扇、それを遠目に見る霊夢、当てが外れて苦笑する白蓮、離れた場所でそっぽを向いている犬、と奇妙な組み合わせが揃っていた。
「私ですら手懐けられない動物がいるなんて……」
「まあ、そういう時もあるでしょ」
「この子は特に警戒心が強いみたいですから。主人以外に心を開かないなんて忠犬の鑑じゃないですか。それで、手懐けられないのでしたら、せめてこの子の〝声〟は聞こえませんか?」
「……無理ね」
華扇は悔しそうにうなだれる。一応、犬が逃げ出さないように霊夢に結界を張ってもらっているので、犬は神社に留まっている。それが余計に犬の神経を逆撫でしそうではあるが、無闇に構わない限り犬は大人しかった。孤高に佇む様は犬というより一匹狼のようだ。
「喋れないわけじゃないみたいだけど、主人以外とは死んでも口を聞きたくないみたい」
「もう死んでるけどね」
「霊夢、混ぜっ返さないで。……こうも心を閉ざされては何も聞けないわ。単に〝声〟を聞きたいんなら、貴方のよく知る仙人の方が向いてそうですけどね」
「神子?」
「巫女ならここにいるけど」
「貴方はお呼びじゃない」
「いきなり押しかけておいてよく言うわ」
霊夢は肩をすくめる。さて、神子の能力は確かに対象の欲を聞けるが、彼女は華扇と違って動物を従えないので、それが有効かと聞かれると白蓮も疑問である。
「神子で大丈夫かしら。あの人、どうも自分から動物に歩み寄ろうって人には見えないのだけど……」
「いいんじゃない?」
霊夢はあっさり言う。霊夢は相変わらず白蓮達から距離を取る犬を指差した。
「さっきからあんたが神子の名前を出すたびに、あの犬、鳴き声が大きくなるのよ。理由はよくわからないけど、もしかしてこいつ神子に会いたいんじゃない?」
「神子に?」
白蓮が目を瞬くと、犬が呼応するように遠吠えを上げた。そして突然白蓮の元へ駆け寄り、服の裾を噛んで引っ張り出したのである。
「あ、ちょっと、急にどうしたの」
「当たりみたいね。ここでずーっと遠吠えされると客が寄り付かなくて迷惑だし、さっさとそいつ連れて出て行ってくれない?」
「どうせ客なんかほとんど来ないでしょうに」
「あんたは黙ってて」
呆れた眼差しを向ける華扇を霊夢が睨む。白蓮はまだ事情が飲み込めないが、とにかく今は神子のところへ行くしかないようだ。霊夢が結界を解いたので、白蓮は諦めて、再度犬を抱えて神霊廟へ飛んだ。

   ◇

「何じゃ、間が悪い。太子様ならたった今、演説のためお出かけになったところですよ」
「……何だか空回りばかりしている気がするわ」
出迎えた布都の言葉に白蓮は肩を落とす。これなら最初から神子を頼って真っ先に神霊廟へ来るべきだったか、なんて後悔は後先立たず。布都は白蓮の腕の中で暴れる犬を見てほうとため息をついた。
「しかし、犬ですか。懐かしいな、太子様も昔は犬を飼っていらしたものです」
「へえ、あの神子が。……あ、でも私も聞いたことがあるわ。何やら超人的な能力を持つ犬を聖徳太子が愛犬にしていたと」
「太子様の威光なら犬を従えるくらい容易いこと。そうそう、確かこやつと同じような白い犬で、名前は、えーと、何だったかな……」
布都は誇らしげに笑い、続いて首を捻り出す。これ以上自慢話を聞かされる前に、そしていい加減ストレスが溜まってきたのかますます機嫌が悪くなる犬のために、白蓮は早くも神霊廟を後にしようとした、その時だった。
「あ、ちょっと!」
犬が白蓮の腕から逃れ、しきりに布都や神霊廟の柱や建物やらを嗅ぎ回る。犬の鼻を寄せられた布都は困惑した。
「な、何じゃ、我は菓子など持っておらぬぞ?」
「神子のにおいを探っているのね。この子、神子に会いたがっているのよ。だからこうして訪ねたのですが……」
「ほう、太子様に惹かれるとはなかなか見どころのある犬だな、って、これ、裾を引っ張るな」
「やめなさい、今ここに神子はいません。私が必ず会わせてあげるから。神子はどこへ行ったの?」
「人里です」
「わかった。どうもありがとう」
そわそわ落ち着きのない犬を抱えて忙しなく飛び立っていった白蓮を見送って、「忙しい人だな」と布都はひとりごちた。
「太子様の犬……白い犬……雪のような……あっ、そうそう、雪丸だ! 何で忘れておったのだか、目の前に瓜二つな犬がいたというのに」
そこで布都ははたと気づく。
「……もしやあの犬、本当に雪丸だったのか?」
布都が顔を上げた時には、もう白蓮と犬の姿はどこにもなかった。

   ◇

「ごめんなさいね、私のせいであちこち連れ回してしまって。もうすぐよ、もうすぐ神子に会わせてあげるから」
人里に降りた白蓮は犬を必死に宥めていた。犬は今にも白蓮を噛み殺しそうな鋭い眼光で白蓮を睨み、地を這うような唸り声を上げ、唾液に濡れた牙がギラギラ光っている。
さすがに中型犬くらいの大きさの暴れ犬をずっと抱え続けていたせいか、白蓮も疲れてきている。かといって、この犬を今手放したら大変なことになる。もし犬が人里の人間に噛みつき、怪我を負わせたら大騒ぎだ。
白蓮はひたすら犬に詫びるばかりだ。飼い主を見つけると言いながらこの体たらく、申し訳なさと不甲斐なさでいっぱいだった。飼い主と離れてどんなに不安だろう、気安く近寄る者がどんなに鬱陶しいだろう、何よりずっと羽交い締めにしている白蓮がどんなに憎いだろう。とにかく今は早く犬が会いたがっている神子を見つけなければ、白蓮が神子の姿を探していたその時だった。
「わあっ、犬だ!」
人里の子供がはしゃぎ声を上げながら近づいてきて、白蓮はぎょっとする。この犬に子供の相手なんてできない。子供は犬の不機嫌がわからないのか向こう見ずなのか、平気で手を伸ばしてくる。
「ねえ、撫でていい?」
「近づいては駄目!」
思わず大声を出してしまい、子供が怯んだがそれどころではない。案の定、機嫌を損ねた犬が子供を標的に定め、白蓮の腕から逃れて噛みつこうと身を乗り出した。
「お願い、大人しくして! 噛んだら駄目!」
尋常でない様子に、子供は怯えて即座に逃げ出してゆく。白蓮は子供が去ってなお、力の限り暴れて逃げ出そうとする犬を力づくで押さえつけた。
「落ち着いて、あの子はもういなくなった。貴方に危害を加えようとしているんじゃないのよ、何も怖くないわ、いい子だから……」
犬が腕の隙間からすり抜けそうになって、白蓮は体重をかけて犬を羽交い締めにする。怒りのままに抵抗した犬は、白蓮に思い切り噛みついた。右腕に痛みが走る。
「いい加減になさい!」
白蓮は低く鋭い声で叫んだ。人里の人間が何事かと遠巻きに見つめてくる。
真っ向から犬を睨みつける白蓮を見て、犬の表情が変わった。呆気に取られたように目を丸くしている。
「貴方が誰かを傷つけたら、貴方の主人の名誉に傷がつきます。それがわからないの?」
白蓮は懇々と言い聞かせた。白蓮ならいい、もう人間ではないし傷の回復も早い。けれど人に危害を加えたら、犬の主人に合わせる顔がない。
お願い、と白蓮は犬を押さえ込んだまま懇願する。やがて白蓮の祈りが通じたのか、はたまた白蓮を噛んで気が済んだのか、犬は急速に大人しくなった。血走った眼から怒りが消える。歯形が残り、痛々しく血を流す白蓮の腕を気まずそうに見つめていた。
「わかってくれたのね? ……いい子」
白蓮が頭を撫でようとすると、そっぽをむいてかわす。けれどもう犬は怒らなかった。白蓮が試しに拘束を解いても、犬は逃げもせず他の人間にも襲い掛からず、一定の距離を保ってそばにいる。白蓮は笑みをこぼした。いくら超人でも噛まれれば痛いが、この程度ならすぐに塞がる。傷跡を隠すために穴の空いた服をひとまず修復して、
「さ、神子を探しましょう。……といっても、このまま人里を歩いてはいられないわね」
白蓮と犬が目立ってしまったせいで人だかりができている。ほとんどはギャラリーだが、命蓮寺の住職が揉め事を起こしたなんて吹聴されるのは困る。
白蓮は空から神子を探すことにした。犬も幽霊ゆえか、問題なく空を飛べる。そのまま二人は並んで人里の空を飛んだ。
犬は付かず離れず、白蓮の一歩先を行く。相変わらず愛想のかけらもないが、怒っていない時の犬はクールで大人しい。白蓮の歩みなんか知らない、自分が従ってるんじゃない、お前がついてくるんだ……そう言わんばかりの犬の背中を見ていると、白蓮は笑いが込み上げてくる。
「ごめんなさい。貴方、なんだか神子に似ていると思って」
犬は怪訝そうに振り返った。犬はこちらが思っている以上に感情豊かで、すぐ顔に出る。そしてこの犬は霊夢の言う通り、神子の名前に反応するのだ。
「もう何度となく手を合わせているのよ。さすがに噛みつきはしないけどね。尊大で、プライドが高くて、私を振り回すところが似ているわ」
犬はそっぽを向いてしまった。犬は自分に似ているから神子を探しているのか、と考えて、白蓮は布都が『神子は昔、犬を飼っていた』と話したのを思い出した。同時に、白蓮がかつて耳にした聖徳太子の愛犬の逸話も。
「豊聡耳神子。厩戸王。上宮。……聖徳太子」
白蓮は犬の背中に向かって、神子の尊称を並べ立てる。白蓮の言葉に犬は耳を動かして反応したが、最後の〝聖徳太子〟がとりわけ反応が大きかった。
まさか、と白蓮は目を見張った。
「貴方、神子の飼い犬なの?」
――今更気づいたのか? とでも言うように、振り返った犬は鼻を鳴らした。白蓮はどっと力が抜けてしまった。
「何なの、もう。最初から神子のところに連れていけと言ってくれればいいのに」
なぜお前らに言葉を合わせなければならない。心なしか犬の目はそう言っているような気がする。私は動物と喋れないわ、と白蓮は口を尖らせる。
「神子に文句言ってやらなくちゃ、ペットの躾はちゃんとしろって。……そんな顔しないで、貴方が噛んだのは怒ってないから」
白蓮は犬に語りながら人里を見下ろす。神子の姿はまだ見当たらない。これでまた入れ違いにならなければよいのだが。
「あの人、悪い人よ。仏教を厚く信仰した偉人だって未だに外の世界の人間を騙しているの。私が外のお寺にいた頃には観音様の生まれ変わりとまで言われてて、私も弟もすっかり騙されちゃって。蓋を開けてみたら真に重んじていたのは道教でした、しかもこの世界にやってきて復活しました、なんて」
つい愚痴めいたことを言えば、犬の機嫌がまた悪くなる。今度はもう白蓮も過剰に機嫌を取ろうとはしなかった。
「だから警戒していたのよ。野放しにできませんもの、そんな危ない人。……怒ってる? だけど貴方にごまを擦ったって仕方ないでしょう」
白蓮は自分でもなぜ犬に対して神子の話を続けているのかわからなかった。たぶんこんなこと、神子本人には直接言えない。けれど神子の愛犬になら一方的に話してもいいと思っているのかもしれない。
「それでも少しずつ、本当に少しずつだけど、前よりはお互いのこと、理解できるようになったのよ。あの人もちょっとは私のこと、認めてくれるのなら嬉しいけど……私はあの人を封印しようとしちゃったからね」
白蓮は声を落として言った。白蓮は自分の選択が間違っていたとは思わないし、後悔もしていない。何なら神子に悪いとすら思っていない。けれどなかったことにはできないのだ。
神子の実力や信念を認めるにつれて、あの出来事はほんの少し白蓮にブレーキをかけている。   
神子が白蓮を突っぱねる時、宗教や信念の違いによる断絶を目の当たりにする。私達相容れないのね、という諦観が否応なしに漂う。
「だからって私は諦めるつもりなんてありません。あの人、いつのまにか私の心に居座っちゃって。今更神子を単なる商売敵とは思えないんだもの」
気がついたら、犬がどこか訝しむように白蓮を見上げていて、白蓮は気持ちを切り替えるように明るく笑った。白蓮は仏教徒だがこの世に諦観ばかりを抱いていない。死後のため身の振り方に思いを馳せるのは、翻せば現世の明日をよく生きるためでもあるのだ。
神子との距離はまだまだ模索中だ。元より白蓮は無益な争いを好まない、神子といがみ合わなくていいならそれに越したことはない。
「そうね。だから今の私は、神子を……」
その先を言ってしまおうかどうしようか、迷っていたところで、突然犬が白蓮を振り切って勢いよく駆け出した。白蓮は慌てて速度を上げて追いかける。
犬の駆け抜けた先には、果たして探し求めていた神子がいた。かつての主人と再会を果たした犬は、突然現れた犬に驚く神子に構わず尻尾をちぎれんばかりに振って顔を舐め回す。
「わ、な、なんだお前、いきなり……こら、やめろ」
人里の出口で犬に押し倒されている神子を目の当たりにして、白蓮は思わず笑ってしまった。あの一匹狼のような面差しはどこへやら、すっかり愛想のいい忠犬の顔をしている。
「おい、聖白蓮、こいつは何なんだ?」
「貴方、その犬に覚えがないの?」
白蓮に気づいた神子が、犬を押し除けながら尋ねる。神子は改めて犬の顔を正面から見た。周りの人妖すべてを鋭く睨みつけた犬の黒い眼は今、真っ直ぐに神子だけを見つめている。神子に懐く白いむく犬、それも幽霊……はっと神子は息を呑む。聡い神子はすぐさま犬の正体を見破った。
「お前……雪丸か? 雪丸なのか?」
雪丸と呼ばれた犬は、返事をするようにワンと鳴いた。そういえば名前を知らなかった、と白蓮は今更のように思う。いじましく尻尾を振り、顔を舐め続ける雪丸を神子はそっと抱きしめた。
「そうか、そうか……久しいな。お前もこの世界に来ていたのか……ああ、そうだ。覚えているとも。忘れるわけがあるか」
神子は目を細め、しみじみと雪丸に語りかける。ようやく念願の再会を果たした雪丸も満面の笑みを浮かべて嬉しそうだ。二人の有様を見て、白蓮も微笑む。白蓮には何も聞こえないが、神子は雪丸の声を聴いているらしい。あの犬は聖徳太子と会話ができたのだ、と思い出した。
「お前、どうして聖白蓮と一緒にいたんだ?」
積もる話は済んだのか、神子が事情を尋ねると雪丸は急に尻尾を股の間に垂らす。耳も垂れ下がり、許しを乞うように神子を見上げている。神子の目つきが剣呑なものに変わってゆく。
「雪丸が粗相をしたか?」
厳しい声で問われた白蓮は少し考えて、
「いいえ、貴方が心配するようなことは――」
「戒律を破ってまで庇うのか?」
こういう時に誤魔化されてくれないから神子の能力や性格は面倒だ。白蓮は諦めて「ちょっと噛まれました」と右腕を差し出した。神子が服の裾をまくると、もうほとんど治っており、小さな窪のような噛み跡だけが微かに残っている。
「……すまなかった」
「大したことありません」
傷跡を見つめる神子の顔が歪んでゆく。こういう顔をさせたくなかったから隠すつもりだったのに。神子がそのまま雪丸に向かうのを見て、白蓮は念を押した。
「あんまり厳しく叱らないで」
「甘くするつもりはない。何、私だって犬の躾くらい心得ている」
神子は厳しい面持ちで雪丸と向き合い、目を合わせ、低い声で語りかけた。雪丸はしゅんと下を向きながらも神子の説教に耳を傾けている。手をあげたり、怒鳴ったりはしないようで白蓮はほっとする。
「わかったか? ……よし」
クゥン、と甘えた声を出す雪丸の顎の下を撫でる。今度は神子の手を舐め始めた雪丸を見て、神子も眉間のしわを少し緩めるのだった。
雪丸、と神子は呼びかける。何事かを雪丸の耳に囁くと、にやりと意味ありげに白蓮に向かって笑った。
「詫びといってはなんだが、雪丸、お前の特技を披露してやれ。こいつは卑しくも坊主だ。見てくれじゃわかりづらいがな」
雪丸が目の前にとことこ歩いてきた。見てくれは余計です、と口を挟もうとするより先に、白蓮は一度たりとも口を聞こうとしなかった雪丸の声を初めて聞いた。
『譬えば高原の陸地は蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥は乃ち此の華を生ずるが如し……』
――あ。
驚く白蓮をよそに、雪丸はそのまま維摩経の一説を諳んじた。そうだ、聖徳太子の愛犬はお経を唱えるとされる犬だった。そして維摩経は〝泥中の蓮〟の由来となった経典であり、また法華経、勝鬘経と並んで聖徳太子が注釈を施した経典でもある。
白蓮は雪丸の読経にすっかり感じ入っていた。犬が経を読むという物珍しさゆえではない。雪丸の淀みない、朗々たる読経は年季の入った高僧にも劣らなかった。
読経を終え、誇らしげに胸を張る雪丸を白蓮は素直に褒め称えた。
「お見事だわ。貴方はきっと浄土にだって渡れるでしょう」
「私が躾けたんだ、これぐらいはどうってこともない」
雪丸はまた神子の元へ戻ってゆく。白蓮の賞賛を受けても媚びずに主人一筋な姿勢はいっそ好ましかった。
雪丸がまた何事かを神子に語りかける。不意に神子は寂しげに眉を下げた。
「……そうか。行くんだな」
どこへ、など聞くまでもない。極楽浄土か畜生界か、どこだとしても雪丸の逞しさなら乗り越えられるだろう。元より白蓮だって、雪丸の未練を晴らすために主人を探そうとしたのだ。名残惜しそうに神子を見上げる雪丸を、神子はわざとぞんざいな口ぶりでけしかけた。
「そうぐずぐずするな。私とお前は一度別れた身だ。今更だろう。……ああ。達者で暮らしなさい。私の心配はいらない。――さらばだ、雪丸」
最後に雪丸は一度だけ白蓮をちらと見て、それから神子の手のひらを舐めた。やがて雪丸の体が透き通り、天から差してきた光に包まれて消えた。神子はいつまでも雪丸の昇っていった天を見上げていた。

   ◇

「雪丸はどうしてお前の寺に現れたんだろうな」
「貴方がお寺に祀ったからじゃない? うちじゃ達磨大師は祀っていないけど、そうね、今度達磨人形くらいは飾ってみようかしら」
雪丸を見送ってから、何とはなしに白蓮は神子と命蓮寺までの道を二人で歩いていた。神子は二度目なのもあってもう雪丸との別れを吹っ切っているようだが、白蓮はまだ少し名残惜しい。しばらく白い犬を見たら雪丸だと思ってしまいそうだ。
「私の犬が迷惑をかけたな」
「いいえ。あの子、可愛かったもの」
「私以外にはちっとも懐かないのに?」
「ああいう孤高な感じがいいのよ。あとはそうね、ペットは飼い主に似るっていいますし」
「似ているか?」
「プライドが高くて偉そうなところが特に」
「お前な……」
神子は顔をしかめる。白蓮はこっちに背を向けて何も語らない雪丸の姿を思い出していた。一方的に相手の考えを読み取れるから、会話を必要としない。あるいは雪丸も神子のように白蓮の考えを見透かしていたのかもしれなかった。あれだけ聡明な犬だ、並の妖怪や人間の相手をしたがらないのもうなずける。
「神子。犬っていいわね。私、あの子と一緒にいて気づいたことがあるの」
「何だ、お前も犬の魅力に気づいたか」
白蓮はちょっとしたいたずらを思いつく。あの雪丸には散々振り回されたし、少しぐらい主人に意趣返しをしても構わないだろう。雪丸にも言いそびれた言葉を、雪丸にかこつけて言ってしまおう。
白蓮は神子の顔を覗き込み、真っ直ぐに目を見つめた。
「好きよ」
「へっ?」
「犬が」
呆気に取られた神子の顔が次第に苦々しいものへ変わってゆく様がおかしくて、白蓮は声を立てて笑った。

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