Coolier - 新生・東方創想話

海の香を知らぬ者は

2023/03/03 21:44:53
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 拝啓。
 小春日和が続いております。と書いてしまったものの、小春日和というのは確か初冬の暖かな日のことを言うのでした。
 万年筆で書いてしまってはもう消すことはできないので、これは私のささやかな間違いだと思ってください。
 こんな時候の挨拶なんていうものは体裁にすぎないのです。この手紙を受け取った貴方のことだから、私からの急な手紙に、そしてこのような陳腐な文の始まりかたを怪訝に思うでしょう。
 小説が書けなくなりました。
 こう書くと、純粋で単純な貴方は驚くでしょう。お屋敷に何の考えなしにやってくるかもしれない。しかしその必要はないでしょう。今こうして貴方に手紙を書くことでこの憂いのようなものを発散させているのです。今まぎれもなくわたしは貴方を必要としている。だから私の手紙の読者になってほしい。いつも貴方がアガサクリスQの作品を読むように。
 シャルル・ボオドレエルだったか判然としないけれど、そんな感じの外の世界の作家が「大空重く垂下りて物蔽ふ蓋のごとく、久しくもいはれなき憂悶に歎くわが胸を押へ、」というのはこういうことだと分かった気がします。
 まず小説が書けなくなったというのが事実としてあるのだけれど、その理由がはっきりしない。
 なにかまずいものを食べてしまった覚えもない。侍女は非常によくしてくれます。春眠不覚暁とはよく言ったもので、睡眠が足りていないということもないでしょう。最低でも必ず睡眠はとるようにしているのです。いくら幻想郷縁起のほうが忙しくても、です。
 ついに人間的なガタが来たかとも思いましたが、いくら阿礼乙女とはいえ、こんなに早いとは思えない。
 環境の変化、思考の変化、最近起きたことをいろいろ考えてみました。ファンレターというものが時々届くようになった。それくらいでしょうか。
しかし考えてみると私は幻想郷縁起の編纂のほうも忙しく、それほど熱心にそのファンレターを読んでいなかったようにも思えます。ファンレターなんてなれない言葉を書くと、体中がかゆくなってくるのでこの言葉は控えたいのだけれど。
 しかしまあ人里には物好きもたくさんいるようなのです。二か月前ほどに出版された本、「予告的犯罪」にも、少なからず手紙、ファンレターが送られてきました。「面白い」だの「意外だった」だとか、それ自体は非常にありがたいのだけれど、本当にこの人たちはそう思っているのだろうか。そう思ってしまいます。
 貴方は多分笑うでしょう。
 しかし私にとってこれは自信作どころか、本当にこれを世に出してもよいのだろうかとも思える作品でした。私が小説というものが分からなくなった中、苦し紛れにうんうんとうなりながら書いたものだからでしょう。そこから良いものは生まれない。例えば羅針盤を失いながら、マゼランと同じように地球一周ができるだろうかということです。
 本当は発表するのもはばかられた。文さんに原稿を渡すのもどうかと思ったのです。
 しかしそれでも今まで通りにファンレターが届くものだから、これが分からない。
 もっと非難囂囂だと思ったら、非難されていたのは、文々。新聞だったという。お笑いです。(文々。新聞が叩かれていたのはまた別の話ですが)
 編纂に忙しいとは言ったけれど、一つだけ里の読者(その人は文体からして若い女性のようでした)からのファンレターを読みました。
 勝手ながら引用すれば「伏線の張り方に、今までにない味を感じました。アガサクリスQの革命のようなものを感じます」だそうです。
何が革命だ。あなたには何にも解りはしないだろう!とその時は下品にも叫びそうになってしまいました。いけません。ファンレターとは有り難いものです。わかっています。冒頭でボオドレエルの詩を引用したけれども、この詩に書かれているような感情を持ち始めたのはどうもこのころからでした。何の因果かはわからないが、春になると幻想郷は、あれだけ雪が降った冬が嘘のように晴れの日が多くなる。これがまた私を陰鬱とさせるのです。自分の心象とは裏腹に日の光が燦燦と降り注ぐのですから。
 ボオドレエルは、この一節の続きに「夜より悲しく暗き日の光、四方閉ざす空より落つれば、この世はさながら土の牢屋か。」と詠んだけれど、あれは嘘です。天からの光明かと思えるような日の光が、心を陰鬱とさせるのです。この世がさながら太平であるから、心がざわめくのです。確かにそうだと私は思っています。
 小説というものが分からなくなった。
 なぜ小説を書くのだろうか。そんなことを思うようになりました。多分私は病んでいるのでしょう。少し休みたいのだけれど、休む間にもいろいろ考えてしまって、収拾がつかない。時には足を延ばしてふらりとどこかに行く(いつも貴方に会いに行っている気がしますが)と気分転換になるかと思いきや、そうでもない。時々貴方がどこかへ行ったということをあなたの母上から聞いたこともありました。そういう日は少し寂しくなる。
 お屋敷の庭は、季節の移り変わりが目に見えてわかるので、私は時々障子戸を開けて庭を楽しむのだけれど、そんなときにだって小説とは何なのか?なんて疑問が浮かぶから大変です。折角腕利きの庭師が作り出した庭も、たちまち目に入らなくなってしまいます。頭からとにかく消そうと思って自分の髪の毛をわしゃわしゃと撫でてみたのですけれど、まるっきり効果がなくて、髪の毛が数本抜けるだけでした。
 幻想郷縁起のほうは進んでいます。佳境の後半に入ってきたあたりでしょうか。なぜか小説が分からなくなっても、幻想郷縁起は書けます。そこは安心してください。
 何度も繰り返すけれど、小説とは何なのか?なんて考えているから、いいものを生み出そうにもできません。幻想郷縁起編纂の傍ら、執筆作業をやっていたのですけど、それも一旦お休みすることにしました。幻想郷縁起のほうは普通にやります。
 おそらくこの手紙が、文さんが始めたらしい郵便事業に乗じてあなたにもとに着くころは、おそらく私が鈴奈庵に行かなくなって、いや外に出なくなって二週間ほどが経っているでしょう。健康に悪いというのはわかっているけれど、どうも気が進みません。
 代わりに文々。新聞を読みながら、小説について黙考しています。
 以前は鴉の話で騒いでいたけれど、ついにネタがなくなったのか、最近の記事はあまり張り合いがない。あの鴉が結局何だったのかもう少し、記者なら掘り下げてほしいものです。
 それにしても郵便まで始めてしまうなんて、彼女は本当に物好きな人です。幻想郷最速の郵便を名乗って活動しているらしいですが、以前あった大雪の反動だと私は勝手に邪推しています。あの人は転んでもただじゃ起きない。
 いずれまた鈴奈庵には出向きたいとは思いますよ。
 春は体調を崩しやすいものです。何卒ご自愛ください。

五月七日  稗田阿求

本居小鈴様




 謹啓だとか前略だとか時候の挨拶だとか、そんな堅苦しいことを書くほどの間柄ではないので止めました。
 少し会えないとなると寂しいなんて、平安時代の恋歌じみたことを書くのはなんだか照れ臭いけれど、実際寂しいです。寺子屋の子供たちが長休みの間会えないことだって寂しいものだと、慧音さんが以前言っていました。そんなものです。当たり前のように会っていた友人の顔も見られないのは寂しい。
 自己本位だったかしら。
 もっと自己本位なことを言えば、以前貸した本がまだ帰ってきていないので、いずれ回収しにお屋敷には向かいます。その時また会いましょう。幻想郷とは意外と狭いところです。
 体は大切にしてください。お屋敷の中に閉じこもってしまうのは体に毒です。阿求があまりにも不健康な生活をしているものだから、デカダンにでも走って煙管でもふかし始めたらどうしようかと私はびくびくしているのです。今笑ったね。笑ったでしょう。もしかしたらもう煙管をくわえているかもしれない。その時は全力であなたを止めに行きます。
 冗談はさておき、「予告的犯罪」は読みましたよ。なんだか書き方が変わったなあというのは感じていました。しかしそんな理由だったとは思いませんでした。少々ブルーになっているところに「そんな理由」だなんて失礼に思われるかもしれないけど、ずけずけと物を言っているわけではありません。そんなに怒らないでください。
 単に面白かったからです。面白いだなんて簡単な言葉で言い表すのは勿体ないくらいです。手紙には、なんだかあの作品がとんでもない駄作だと書いてあったように思えたのだけれど(私の読解が正しければの話だけれど)、そんな意味のない謙遜はよしてください。私のほうがまごついてしまって、落ち着かなくなってしまう。出だし、オチが完璧でした。文句の付け所がないです。機智に富んでいるのはいつものことで、今更評価するのも変な感じだし割愛しますが、ハウダニットもいつになく磨きがかかっていた気がします。今作は布団の中で、まるで幼子が暗がりで冒険小説を読むような独特な高揚感を持ちながら読んだから、そんな評価になったのかもしれません。事実、オチが分かった瞬間、私は自分でも吃驚するくらいに身震いしてしまいました。犯人の動機が少し弱い気がしたのも正直に伝えておきます。だがそんなことは些末なことです。いい読書体験だった。
 しかしいつもどこかで聞いたような名前の人物が登場するのは、いただけない。マーガトロイドやらホワイトロックって、もう隠す気がないでしょう。まあそれもまた一興なのでいいのでしょうが、いずれ何処からか苦情がやってきたとしても、仕方ないと笑うしかないです。世の中には、「これはフィクションです。関係ないです」と言ったところで、理解してくれない人が多いものです。
 そういえば、霊夢さんが、アガサクリスQの新刊を求めてうちにやってきたのは伝えておきます。あの人はアガサクリスQのファンですよ。もしかしたら阿求が苦手なファンレターとやらを彼女も描いているかもしれない。「予告的犯罪」を貸したのだけれど、彼女はそれこそ貪り食うように読んでいました。彼女の最近の楽しみは、煎餅片手にアガサクリスQの本を読むことだそうです。
 閑話休題。
 小説とは何かなんて問われるから、店番の間に頬杖突きながら、蓄音機と睨めっこして、或いは目がさえて眠れなくなった夜に部屋の天井を眺めながら、答えをずっと考えていたのです。本を読む者として一つしっくりくる答えを得ました。
 小説とは思念体です。間違いないです。小説に限らず、詩も戯曲も脚本もすべて思念体です。
 思念体。つまりは書き手の思考の具現。幻想郷縁起の付喪神の項にある「使用者の念」とはまた違うものです。もしかしたら思念体の本来の意味とも違うかもしれない。
 よくよく考えれば小説とは何にせよ、書き手が何かしらのアイデアを練り上げてできる虚構の物語。少なくとも私はそう思います。
 だから小説内で起きるすべての事象(例えば悲恋や殺人、没落や冒険)、心情の機微の描写、作品のペーソスとパトスの塩梅、主張、全部ひっくるめて書き手の思念でしょう。そして思念が体をなしたものが小説です。だから私はそこに駄作とか良作という分別は発生しないと思っている。だから小説の進み方、内容自体に「オリジナリティがない」という暴言を吐くのは邪悪だと思っています。少なくとも私はそんな批判はしない。また「こんな拙作ですが、読んでもらえたらうれしい」というような文言は、個人的にはもう如何仕様もないくらいの惰弱で、矮小な遁辞だと思っている。思念を言語という強い力をもって、紙に書き起こす。紙の上に物語を動かすには、強い、それはもう河童印の発電機なんて目じゃないほどのエネルギーを必要とするものです。だれしも本好きは小さいころに自分で文を書いてみようとなる。それがどれほど難しいことか、ほかならぬ阿求、あなた自身よくわかっているだろうし、私だってよくわかっています。それを「駄作」だなんてナンセンスです。阿呆です。自分で「駄作」だなんてよしたほうがいいです。それは多分臆病です。保身です。
 強い言葉になりました。少々ブルーなっている人に対して、頑張れだとかほざくのは、よくないので止めました。あなたは私の無二の友人です。この世で一番あなたを理解しているのは私です。だから言いたいことを言わせてもらいました。
 まだ描きたいことがあるけれど、紙が足らなくなったのでここでやめます。
 少なくとも今は小説を書くことはお休みになるらしいですが、それがよいと思います。しかし外に出ないのはやめたほうがいい。晴れの日が憂鬱になるのは、それは多分、はやり病みたいなものです。少し放っておけば、いずれ外に出たくてうずうずしてきます。それが人間というものです。それでも陰鬱な場合のために、何冊か本をこの手紙と一緒に送ります。処方箋みたいなものです。これに関しては、いつまでに返してなんて言わないので心向くまで気分転換したらよろしいと思います。

九日 本居小鈴

稗田阿求様





 障子戸を開ければ夏の風が入ってくるようになりました。ああ夏が来たのか。そんな心持です。
 本が送られてきたときには驚きました。ジャンルに規則もなさそうだった。
 昭和の文豪の短編集に、植物に関する学術誌、読むことすらもできない妖魔本(記憶することはできるのだけれど)、人里の不健康な小説家が書いたラヴロマンス、はるか昔の日本人が書いた古典。
 おおかた貴方の性格からして、無作為に選んだものかもしれないと勝手に思っています。もしそうでなかったらごめんなさい。短編は胸にしみました。その中に「風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ「芸術的」でないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは、一生かかったって何一つ掴めない」なんて書いてあったものだから、「はあ」だなんて間抜けな声が出て、これは私のことではないかしらと思って、部屋中うろうろしていました。いい運動になったと思います。
正確を期することが小説で最も努めなければいけないことだとも、その掌編には書かれていました。全くそうです。その通り。
 なんだか少し小鈴の話を聞けて楽になりました。小説とは思念体か。全く面白い人です。私もよい友を持ちました。煙管を持つほど、私は退廃してはいないです。その点に関しては安心してほしい。
 この本は早急に返す必要もないようだし、隅から隅まで読んでやろうという感じです。小説を書くときと読むときの心持というのはずいぶん違うもので、どうも忘れていた感覚を取り戻しに、脳内を冒険するような満ち満ちた体験ができる。やはり読書とはよいものです。読書をして、色々考えました。小説という、ただの文の連続体がどうしてこうも人を震わせ、人を感動させ、人を爽快にさせるか、あるいは、人に不満を与えるか、その仕組みを読者の目で考えるのは、久々のことでした。
 読書をして、思うことを書きつけておきます。
 小説の良作か駄作かを決めるのは、決まって表現だということです。
 小説は思念の具現化(思念体は厳密にいえば違う意味なので、やめようと思います)ならば、表現というのは、思念の修飾です。勝手にそう思いました。表現がないものは小説とは言えない。
駄作というのは読者が決めることです。読者がその小説の表現を分からなくなれば、それを駄作というものです。小鈴の言う通り、自分で自分の作品を駄作と呼ぶのはやめます。
駄作は忘れ去られます。そんなものです。人が死んで、記憶から消えゆくことと原理的には同じだと思います。
 良作というのは、いったい何なんでしょう。読書の傍ら、本を投げ出して縁側に出て足をぶらぶらさせながら、没になってしまった書きかけの原稿を紙飛行機にして飛ばしながらそんなことを考えていました。
 表現とは服みたいなものです。着飾ってパーティーに出ることが、人間の本質ではないように、小説も美辞麗句を並び立てるのが真実ではないような気がします。
 小説を書くにあたって、私が大切にしていたことを思い出しました。逆に言えば、いままでそのことを忘れていたのです。憂いとは恐ろしいものです。何も見えなくなります。五里先まで何も見えなくなって、必死に靄をかき消そうとするのだけれど、その靄が薄くなってくるにつれて、ただ自分がその場で一歩も動かずに赤子のようにじたばたしていただけなのです。憂いとはそんなものです。陥る割には、進歩性がない百害の塊のようなものです。
 思い出したのは、私は海の表現を書かなかったということです。拍子抜けでしょうか。私は海を見たことがなかった。だから書かなかった。そんな信条を思い出しました。深夜の松籟を波の響きと、池に浮かぶ満月を海亀と形容するのは、虚飾であって真ではない。見たことがないものを、まるで見たように書くのはよしたほうが良い。
 海の香を知らぬものは、海の、その香を知らぬままでいいのです。私はそう思います。
 そこで無理に、海を表現に使うのは無駄なことです。そしてそれが芸術であると思うのは、愚の骨頂です。むやみに花の名前を使うこと。詩的であろうとして、いらぬ描写を描くこと。そのすべてが要らぬ雰囲気を作り出す徒労に終わる作業です。小説が芸術なはずがないのです。小説は、あなたの言葉をそのまま使えば思念でした。それは作者の思想であり、幸福であり、憧憬であり、苦悩であり、悔恨である。それを読者ならまだしも自分で「芸術」だなんていうことはできません。
「芸術」だと思うことで、必ず小説には行き詰まりが訪れる。
 私はそう確信しました。なぜならおそらく、少し前の私がそうだったから、「予告的犯罪」は私の小説という「芸術」という誤った価値観のもとに生まれたものだったと、気づいたからです。
 アガサクリスQも有名になりました。外に出て和菓子を嗜むときだって、その名を聞くものですから、人知れずどぎまぎしていたことも今や昔。
有名というものは、人を変えてしまいます。有名になれば作品に読者から期待が向いて、作者は思念を描くことでなくて作品を作ることが小説の主になってしまう。小説とは思念の発露であるにもかかわらず、です。無意識のうちに私は小説という作品を作っていました。いけません。
 せめて自分の想像と表現だけでも正直でありたい。そんな信条を持っていた。いや、持っていたことに気が付いた。私は小さな人間です。正直ではありえないし、崇高な人格者でもない。だからせめて小説だけは正直にあろうと思うのです。そう言えば、貴方は笑うでしょうか。できれば笑わないでほしいなあと願っています。
かしこ

十七日 稗田阿求

本居小鈴様





 お屋敷に本を回収しに行こうと思ったのは、目が覚めてすぐのことでした。今日でなければいけないと不思議に思ったのです。思い立ったが吉日とはよく言うけれど、巡り合わせがよくなかったのか、お屋敷の前で声を張り上げて、「ごめんください」といっても、お屋敷は不気味なくらいに静かでした。我慢比べのように五回ほど「ごめんください」と叫んで、もう喉がつかれてうんざりしたころに、お屋敷の方がひょっこり出てきて、「今日は、阿求様は居られないよ」なんていうものだから、なんともいたたまれない気持ちになって、この手紙をしたためております。
 もしかしたら阿求は、あれだけ手紙で悟った風をだしておいて、まだ鬱屈としていて面会謝絶にしているのかもしれないだとかあらぬ妄想ばかりが捗ってしまいます。嫌です。冷静でいられません。そろそろ心配になってくるものです。
もしかすると、もしかするとの話だけれど、阿求の手紙には「どうして小説を書くのか」ということが一つたりとも書かれていなかった。阿求、あなたはまだ「どうして小説を書くのか」をまだつかめていないのではないかと推察しています。もしこれが杞憂ならばそれでいいのだけれど、もし私の推察が事実なら、「どうして小説を書くのか」なんて考えないほうが良いです。
意味を求めすぎです。それが人間の欲求というのは、少なからずわかっているけれど、意味を求めなくてもよいものがあるということを言いたいのです。
「意味ですって、今雪が降っている、それに何の意味があるんです?」
 どこかの本にもそう書いてありました。小説だってきっと同じです。無意味ではないけれど、決して意味を求められるほど、簡単なものではないはずです。
 そこに山があることにも、毎朝、人が起きて活動し始めることにも、意味を求めるべきなのだろうか。私はそうは思いません。
 そこに当たり前に山があって、当たり前のように朝が来て、当たり前のように人は活動する。それと同じように、呼吸と同じような感覚で、小説を書いていくのがよい。いや小説とはそんなものだと思います。
 だからそんなことで気負わないでほしい。そんなことでお屋敷に籠りきりにならないでほしい。
 一つだけ言わせてほしい。あなたの小説にはたくさんの読者が、しかもあなたの小説を楽しんでいる読者がいるのです。これは決して、阿求を気負わせるためだとか、小説家の自覚を持たせて責め立てようとして書いているのではないです。
 作者があって、小説があって、それを読む読者がいればそれでいいじゃないか。ほとんどの読者は、アガサクリスQと稗田阿求の関係を知らないだろうけど、それでも読んでくれる人間がいればそれでいい。そういうことです。もしこの世からあなたの本を読む読者がいなくなったって、私は、あなたの連ねた文を、そこにある思念の発露を、ずっと読んで、嗜み続けるつもりです。私はいつだってあなたの思念を分かっていたい。
だから、小説に意味なんて求めないでください。小説があって、それを読む者が一人でもいれば、小説の中の作者の思念というのは、月並みな言葉かもしれないけれど、永久に不滅なのです。
 意味なんか小説になくたって、私は貴方の小説の読者です。ずっと。それだけは約束する。
 だから意味なんかにとらわれないでほしい。そうやって病んでも何も起きない。
 海の香を知らぬものは、海を知らぬままでいい。その通り。私もそう思うけれど、実際大事なのは、そんな表現論ではなくて、小説には作者がいて思念があって読者がいて、というそれだけだと思います。だからそんなに思い悩まないでください。
 阿求のことが心配です。もう本の返却日とかどうでもいいです。一度くらい鈴奈庵に顔を見せてください。短い手紙だけれど、私の伝えたいことはこれがすべてです。
 待っています。

十七日 本居小鈴

稗田阿求様




 幻想郷縁起のほうも一段落ついたから、万年筆と原稿用紙を取り出して、原稿用紙に升目を無視して、大きく「驟雨」というやたら複雑な文字を書いては、二重線を引いて消して、それでまたやはり「驟雨」という題を書くという行為を繰り返しています。
侍女が「小鈴様から手紙ですよ」と言ってやってきたので、受け取る間もなく読んでしまいました。心配かけて申し訳ない。いずれ鈴奈庵には行きたいのです。ですがそれはこの手紙を書き終わってからにしてほしい。これで私が思い悩んでいたのも終わりにするから。
 まず、あなたには感謝しないといけない。小説を書く意味が分かった気がしています。どれもこれもすべて小鈴のおかげです。あなたは「意味なんか求めないで」というけれど、意味を求めることは人間の最低限の欲求です。意味を求めないなんて、それは進歩性がない人間です。
 小鈴に一つのお願いがある。これから書くことは一時の世迷言なんかじゃなくて、真剣な話です。
 小説とは何かなんてずっと手紙で、独りよがりなことばかり憂いに任せて書き連ねていたことはお詫びします。迷惑だったかもしれないと、ふと思うことがあるので、それをなくすためにも、其れだけはここに書いておきます。それに私の憂いに身を任せた手紙に真摯に返答してくれたことも感謝しています。
 何度も繰り返すけれど、本当にありがとう。
 小説を何故書くのか、その答えを、あなたの手紙が届いて私がそれを読み終わったとほぼ同時に知ったのです。それはまるで天啓でした。あるいは憂いを抜けだした人間だけがたどり着きうる境地にたどり着いた瞬間だったのかもしれません。憂悶とは百害の塊とは前に書いたけれど、実はそうではないのではないかとも思っています。話がそれた。
 小説とはたった四文字の言葉に集約されます。
 存在証明です。
 くどいようだけど、あなたの手紙で分かったのです。感謝してもしきれない。
 存在することへの欲求というのは誰しもあると思う。人間が富や名誉を求めるのは、長い目で見ればそこに自分が存在したことを示す欲求であるだろうことが、人が存在を否定される(無視されるだとかその類のことです)ことを最も嫌うであろうことがそれを示している。
 人間とは、生きてその足跡を残す。何も残さなかった人はいないでしょう。それは商才を生かして輝くことか、汗をかいて勤労するか、十人十色のやり方があるけれど、私はそれが小説だった。それだけです。たったそれだけでも、大きなことだと私は思います。
 人というのは二種類の死を持っている。一つは肉体的な死です。私は後先短いでしょう。いずれ十数年もすれば、私は死んでしまう。長生きしたいと思った時期もあったけれど、ただ虚しくなるだけなので止めました。私はどうしたって長生きはできない。それは天命みたいなものです。
だけれど、人間にはもう一つ死があります。それは「忘却されるという死」です。だれからもその存在を忘れられた瞬間に、人はもう一度、追い打ちをかけられるように死ぬ。人が死んでどうなるのかは知らないけれど、存在が消えた瞬間の感覚というのは、荒野に一人取り残された絶望感よりも、はるかに悲しいものであると考えると、私は身震いします。泣きたくなります。死にたくない!死にたくはない!
 だから小説を書くのです。いずれ私が死んで、百年後も二百年後も、小説という私の思念は残ります。妖魔本が、存在を否定された妖怪たちの最後の希望であったという話を以前魔理沙さんから聞いたのを思い出しました。それは私だって同じだったのです。
 存在を否定されているわけではないけれど、私の存在はいずれ消えゆくでしょう。しかし人間は長生きしたいものです。それは誰だってそう。私だってそうです。長生きしたいと思うのは虚しくなってくるとは書いたけれど、やはり永く生きたいというのは人間の当たり前の捨てきれない人間の欲求です。
 ここまでが前座です。そしてここからが私の願い。
 小鈴、どうか貴方に、私の、アガサクリスQではなくて私の読者になっていてほしい。貴方はいずれ成長してゆく。成長して、伴侶となるものができて、いずれ老いていくでしょう。そして、私の死はその過程で、突発的に表れて過ぎ去る。だけれど、私が生きたということを、ずっと貴方の中で記憶していてほしいのです。紙に書き起こしてでも、口ずさんででもなんでもいい。私が、稗田阿求という人間がいたということを、記憶していてほしい。
 一生です。後生です。
 私は貴方の「小説があって、それを読む者が一人でもいれば、小説の中の作者の思念というのは、月並みな言葉かもしれないけれど、永久に不滅」という言葉を頭から信じます。
 だから貴方には私の小説の、そして私の読者でいてほしい。私の思念が永久に不滅であるように。
 醜いでしょうか。我儘でしょうか。
 だけれどこれが私の一生に一度の願いです。
 部屋にこもりきりなのももうやめようと思います。この手紙ももうやめようと思います。もとはこの手紙は私の憂鬱を取り払うためにあったのです。独りよがりでした。
 そろそろ原稿用紙に向かおうと思います。「驟雨」という題を大きく書いたのにもかかわらず、小説の内容が思い浮かばないのは、まだ私が作品を作ろうとしているのに相違ないです。小鈴の返事の中にいつも真理はありました。小鈴の送ってくれた本のおかげで私は「海の香を知らぬ者」の思想、つまりは「自分の想像と表現に正直に、芸術を狙わぬように」という信条を思い出すことができました。
 貴方がいなければ、私はもっと憂鬱が深くなっていたと思うと、慄然とします。
 正直であろうと思います。今度はこの手紙のことを、この憂いのことを書こうかしら、なんて俄然やる気が出てきました。もう憂いは晴れたと思います。
 ここで手紙はやめにします。またいずれ小説の中で、私の思念に触れることがあるでしょう。「驟雨」と大きく書かれた原稿は、丸めて屑箱に入れてしまいました。無論、今までの憂いも一緒に。
 というのも、もう次の小説で何を書くというのは決めてしまいました。「驟雨」と書かれた原稿用紙を屑箱に入れたその瞬間にです。題材はこの手紙。
 貴方と私のこの五通の手紙です。
 題名はもう決まっているのですよ。正直にあろうと私は言いました。だから題名はこうです。

 「海の香を知らぬ者は」


十九日 稗田阿求


本居小鈴様
こんにちはみゆきのです。一か月ぶりです。二作目です。

この一か月間、阿求と同じようなことをずっと考えていました。

どうして小説を書くのだろう?

参考文献
シャルル・ボードレール「悪の華」
太宰治「風の便り」
アントン・チェーホフ「桜の園」
深雪野深雪
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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100きぬたあげまき削除
私も小説を趣味にしています。
ですから、この話に出てくるふたりの考え方には、激しく首肯できる部分も、ちょっと相容れないなという部分もあったのはその通りです。
ただそんなことはどうでもよく、とにかく、阿求も、小鈴も、これを書いた作者さんも格好いいと感じました。
素敵な作品を今後も楽しみにしております。
3.100東ノ目削除
二人の手紙からにじみ出ている、いかにも女学生といった感じの雰囲気が良かったです
4.9012club削除
良い作品に巡り会えた。
読み終えた感想はまずそうでした。素晴らしい作品をありがとうございます。
同じ文学を愛する者として自分にも意味があるのかと改めて考えさせられた次第です。
ただ少し、小鈴と阿求の間に妙なよそよそしさを感じました。それを抜きにしたなら自分は満点になったという感覚で、90点を付けたところです。
もちろんそこに作者様を誹謗するつもりは毛頭ありません。あくまで個人的な感想です。
重ねてですが、素晴らしい作品をありがとうございました。これからのご活躍を楽しみにしています。
5.80竹者削除
よかったです
6.100夏後冬前削除
何だかいろいろと思うことがありました。手紙形式でやり取りがなされている中で、まっすぐな感情の発露がとても鮮やかで胸に来ました。とても面白かったです。
7.100Actadust削除
手紙を通じて二人がどういう関係でどういう立場にあって、それがどう変わっていくのかというのが少しずつ見えてくるのが読んでいて楽しかったです。阿求のクソデカ感情ほんと好き。
8.100南条削除
面白かったです
お互い手紙を読んでから次の手紙を書き始めるまでの間にどんな思いがあったのか想像が膨らみました
とてもよかったです
11.100alias削除
とても良かったです
12.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。二人が手紙を通じて、各々の感情を美しい言葉で吐露するような、そんな場面の移り変わりにじんと来ました。互いを求めあっているけど、それを直接会ってぶつけることはできなくて、奥ゆかしい手紙という手段で小説という媒体について語る二人が愛おしく感じました。
13.100ローファル削除
まだ少ししか書いていない者ですが今まさに筆が止まっているところなので
悩む阿求と親身になって声をかける小鈴のやりとりに
とても引き込まれました。面白かったです。