***1***
原稿の上をペンが走る。けれど、いつもと比べるとその足取りは非常に重い。休み、動かし、休み、動かし……駄目だわ。これは、進まなさそうね。射命丸文は天井を仰ぐと、ペンを置いて手を小さく揉み合わせる。
…寒い。
今日原稿の進みが悪いのは、ひとえにこれが原因だった。
冬。あらゆる動物が食糧をためこみ、自らの巣に籠ってしまう季節。それは鴉天狗と言えど例外ではない。
まして、ここは幻想郷で最も天候が弄ばれる山。おまけについ昨日、今年入ってから初めて吹雪が山を押し寄せたと来た。今日は空は青々透き通った晴天だが、地面は銀雪がすっかり枯葉を覆い隠してしまっている。外にちゃんと出た訳ではないが、きっと屋根や枝も重い白を背負っていることだろう。そんな時期なものだから、さすがの文も原稿に集中出来ずにいる。
とはいえ。"寒さで家での時間が長くなる冬、読書にはもってこいの季節です"とは、貸本屋を営む少女の名言である。文とて、購読者を増やすこの契機を見過ごすことは出来ない。まして今書いているのは、いつも追いかけている巫女の記事。気合が入ろうというものである。
そういえば、天狗の里の方に、珈琲を扱う店があったっけか。冴え冴えとした空気を切りながら飛ぶのは億劫だが、店内はここよりもきっと暖かいだろう。いっそ、そこで書けないか試してみるか――
…こん、こん。
「…?」
戸が叩かれる音に、眉を顰める。
文は、天狗の里から少し離れた場所に一人居を構えている。もちろん天狗であれば里からこの家までひとっ飛びなど訳ないのだが、こんな"はぐれもの"のところまで積極的に来るような者などほとんどいない。厳密にいえば全くない訳ではないのだが――紫色のライバルが頭をよぎる――アイツなら、戸を叩いた後、こちらの返事すら聞かずにムカつく笑顔を見せながら入って来るだろう。彼女はそういう奴なのだ。
「はーい。なんでしょう」
ぴとり、何かが落ちた音。どうやら、軒に凍り付いている氷柱から水が滴っているらしい。
聞こえた反応は、それだけだった。
「…?」
首を傾げる。
風の音とか…ではなかった。それだったらこの射命丸文が気付かないはずがない。もしくは、山の動物が誰か迷い込んだか。それならあり得ないことはないが、それでも、鳴き声は聞こえても良い気はする。目を細め、足音を立てぬように気を付けながら、ゆっくり戸を開ける。
「……?」
ますます首を傾げる。
誰もいない。小鳥の鳴き声が、ちらちら陽光に反射する白が、小路の静寂を際立たせる。
下を見れば、ざらめ雪が積もったその時のまま。人型どころか、小動物の足跡すら存在しない。
呼気が景色に溶けていく。…もしかしたら、本当に気のせいだったのだろうか。あるいはまた妖精がいたずらでもしに通ったのだろうか。再度首を傾げながら入口をゆっくり閉じ、そのまま部屋へ踵を――
「――お邪魔してます」
いきなり聞こえて来た鈴の転がるような声に、肩が強く震える。自分しかいなかったはずの部屋には、一人の少女が、炬燵でぬくぬくお茶を嗜んでいた。
雪から生まれたと言われても頷いてしまう白磁の肌。絹のような光沢で靡く銀色の髪。瀟洒という表現がふさわしい彼女を、文は良く知っていた。
「さ、咲夜さん!?どうしてここに」
「あら、私の能力はご存知でしょう?」
勝手知ったるとばかりにくつろぐ少女――十六夜咲夜は、にこりと微笑む。
「ノックの後、あなたが扉を引く直前に、時間を止めて先に家に入った。タネもシカケもある、メイドの手品ですわ」
「…あの」
「ちなみに足跡に関しては、空を飛んだままここまで来た、それだけのことです。ただ、直前まで迷いましたの。やはり足跡を付けておいた方が"謎"が出るのではないか、と。…ふむ、文の反応を見るに、やはり足跡はあった方が良かったかもしれませんね」
「尋ねたいのはそういうことではなく」
「そうですわ、あなたのお茶も淹れましたの。これでも私、緑茶を淹れるのも上手いと評判ですのよ?」
「話を聞く!!」
呑気にお茶を注ぎ続ける咲夜を一喝。そのまま傍まで歩み寄ると、しゃがみこむことで目線を合わせる。
「…あなた、ここがどういう場所かご存知ですね?」
「妖怪の山です」
「そうです。そして、そこに住む妖怪がどういう妖怪かも、ご存知ですね?」
「はい。縄張り意識が強く、排他的であるとか」
「その通り」
大きく頷く。
「そんな山にあなたが単身で入るとは、何か重要な言伝でも?レミリアさんから我らに何か相談でもあるのですか」
刹那、沈黙が走る。紅魔館から直接、しかも一人で使者として来たのなら、今まで例がない出来事となる。何か急な連絡かもしれない。であれば、仲介として自分が役目を全うしなければならない。
「いいえ。私はただ、」
けれど、固唾を飲む文の問いかけに、咲夜は柔らかく首を横に振る。
「壁を登っていただけですわ」
――あぁ、そうでしょう。そんなことだろうと思ってましたよ!!!
「大体、今は冬ですよ!?山は既にあちこち冠雪しているんですよ!?なのになんでそんな夏に着る薄手の格好しているんですか!!」
さて、咲夜がどんな格好しているか言ってみよう。上は黒の半袖シャツ一枚、下は動きやすい半ズボン、それだけである。つまり、メイドの白い細腕も魅惑の太腿も、ずっと寒空の空気にさらけ出されていた、という訳だ。こんな格好で山を駆けずり回っていたなんて、こうしてけろりとしている様子を見せられても、こっちは気が気ではない。
鴉天狗にとってもこの寒さはきついとは、先程話した通りである。ましてこのメイドは、紛うことなき人間だ。種族が異なる自分には全てが分からないからこそ、この格好が人間をいかに凍えさせるのか、考えるだけでも恐ろしいのである。
「文もお嬢様みたいなこと言うのね」
そんな文の様子がとにかくおかしいみたいで、咲夜はくすくすと破顔する。
「お嬢様も、この季節、買いものとかで外に出ようとすると、目くじらを立てながらこっちに来てね。マフラーとか巻いて、もっこもこにさせようとなさるの」
あぁ、あの方ならきっとそうするだろうな、と文は頷く。咲夜に最も生きて欲しいと思っているのは、他でもないあの吸血鬼だ。体を壊しそうな格好しているなどと見たら、言い訳無用とばかりに止めに入るだろう。
こんなこと知ったら、あの方はどんな顔するだろうか。また一つため息をつくと、文はすくりと立ち上がる。
「あら、どちらへ?」
「湯屋です」
替えの服などを見つけ出そうときびきび動きつつ文は即答する。
「薬湯を沸かして来ますから、そちらで先に体を温めてきてください。話はその後で聞きます」
「まぁ。気を使わなくて良いですのに」
「だーかーら」
苛立った声。険しい顔と、きょとんとした顔の睨めっこ。
「私が気にするんです」
咎める妖眼を、幼いどんぐりのような瞳がまじまじと覗きこむ。細め、広げ、首を傾げ、雛鳥のような仕草で顔を動かすメイドに対し、鴉天狗は決して顔を動かさず、じっとメイドを見つめ続ける。
気が付けば息すら忘れていた時間。
「…ふふ」
先に表情を崩したのは、メイドの方だった。
「では。匿ってもらった上のお気遣い、感謝します」
「…私はまだ"匿う"とは言っていないんですがね」
優雅に頭を下げる咲夜に、文はため息をつきながら、再び湯屋へと向かう。薪をくべるために外に出れば、凍てつく空気に思わず手をこする。そのまま白い呼気を手に吹きかけ、またこすって。
ほんの少しだけ温まった手を開く。虹色の艶をたたえた立派な黒羽が一枚、掌におさまっている。
…さっき本人には、あぁ言ったけど。
――こうなったからには、この羽根で温めてあげる以外に、選択肢はないのだ。
文は青天を仰ぎながら一息つくと、親鳥の眼光と共に、重々しく積もる雪へ足を踏み込んだ。
***2***
ふぅ、ふぅ、朽葉色の湯呑に吐息が吹きかけられる。そしてそのまま、くるり、くるり、器を回して、優雅な所作でごくり。
「結構なお点前ですわ」
「どうも」
瀟洒な賛辞に文は淡白に返事すると、淹れ直したお茶を再び咲夜の湯呑に注いであげる。そして咲夜はまた器を回して一服。天狗秘蔵の薬湯に浸かりすっかりほかほかなメイドは、今は藤紫の浴衣に浅葱色のどてらを着せられている。どてらに関しては綿を中にたっぷり詰めた冬仕様だ(ちなみに「こんなに厚着しなくても大丈夫ですわ」という自己申告は当然ながら無視した)。
「さて。では改めてお話をうかがいましょう」
「はい」
良い返事。けれど、明るく弾んだ声音。これから何回ため息をつくことになるのか、途方もないことを考えながら、文は土色の手帖を取り出す。
「壁を登りに来た、というお話でしたが」
「そうです」
温かいお茶で再び口を潤してから、咲夜は小さく頷く。
「月虹市場の件でここを訪れました時に、登るのにぴったりな絶壁がこちらにあるのを見つけましたの」
「まぁ、確かにここには数寄者が惹かれそうな崖は多そうですね…そういえば、あなたも」
「はい。単独(そろ)で気ままにどこかへ出かけてみる、しがない数寄者ですわ」
と、ここで咲夜は青々とした目を輝かせながら、文へ身を乗り出す。
「そうですわ。もしよろしければ、私のこの趣味のこと取材してみません?人里に時折現れる謎めいたメイド。彼女が持つ、想像も出来ない趣味――ふふ、良い記事になりそうでは?」
「…それはなかなか魅力的な話ですが、今は控えます」
本当だったら確かに惹かれる話、こんな殺風景な手帖には書き留めたくなかったのだが。
「さすがの私も、山の掟を破ることを推奨する記事は、書く訳にはいきませんので」
「そうですか……残念です」
耳をぺたんと伏せた小犬が表情から連想されて、つい唇が綻んでしまう。
「それで、ここまで来た訳ですか」
「はい。あの壁を見て以来、寝ても覚めても、登ってみたいという欲求にむずむずしてしまいまして。ほら。念入りに準備しましたのよ?」
咲夜は置いていた鞄から折り畳まれたマットのようなものを取り出す。
「なんですか、それ」
「確か……"ぽおたれっじ"だったかしら。たとえ一日で登りきれなかったとしても、これを組み立てれば崖で夜も明かすことが出来るのです。メイドお手製の特注品ですわ」
「泊まり込みまでして登るつもりだったのですか…」
というか、それ手作りなのか。クライミングには明るくないが、なるほど生地から縄の使い方まで、重量に耐えうる頑丈な作りになっていることは何となく分かる。なるほどこれがあれば、断崖での寝泊まりくらい豪胆なメイドには何ということ無いだろう。
手触りの良さが、却って眉をハの字にさせる…"才能の無駄遣い"とは、まさにこういうことを言うのではないか。
「大体、空を飛べるあなたなら、その気になれば壁をもひとっ飛びで越えられるでしょう。どうしてそこまで」
「あら。あなたらしくもない発言ですわね」
咲夜は刹那意外そうに目を丸くさせた後、にっこり、小首を傾げる。
「――"人間のろまん"てやつですわ」
ぐ、と喉で息が詰まる。邪気のない笑みに、紅い瞳が小さく揺れる。
…正直に話そう。それは、こと"射命丸文"に対するには、あまりに卑怯だ。
「まぁ、良いでしょう。なんとなくですが、その気持ちは分かります」
「ふふ。さすが、話が早い」
再びお茶で一服する咲夜を前に、文は小さく息をつきながら、手帖をめくる。
「それで、本日お休みをいただけましたので、それはもう足を弾ませながらこちらに向かいましたの」
「なるほど」
「もちろん、お嬢様にも内緒で、こっそり」
「…でしょうねぇ」
「歩いて、歩いて、誰にも見つからないように気を付けながら山を登り続け、ついに目的の壁まで到着したのです」
「時間は止めなかったのですか?」
「そこも包み込んでこその"ろまん"ですわ」
「…」
やっぱり卑怯だ。
「いざ壁を前に見上げると、抑えていた胸の鼓動がもう止められなくなってしまいました。…あぁ、今でも鮮やかに思い出せます」
そっと咲夜は胸に手を当て、目を閉じる。
「雲をも越え蒼天を貫く、どこまでも高くそびえる壁。冷たい空気が溶け込むその世界には、生の息吹など許されない」
「…あのー」
「ただ白、白、白、ゴッホの油絵のように岩が厚く塗り重ねられた壁。あぁ今からこの芸術に刃物を突き立てながら私はここを登るのか、そう思うと、私の胸にどうしようもない背徳感と高揚感が」
「あのー!」
天井を仰ぎ、手を高々と挙げ、舞台俳優となって朗々と続く語りを、声を張り上げて強引に断つ。
「…これ、一応"職務"として聞いているのですが」
「申し訳ありません。つい熱くなってしまいました」
けろり、さっきまで本当に芝居していたかのように、咲夜はぺこりと頭を下げる。
見る者が見れば、まるで揶揄われているみたいで、怒りを露にしていただろう。けれど、本人にとっては、きっとそうではない。本当に"熱くなってしまった"だけだ。
「ですが、壁を半ばくらいまで登っていたところに、白狼天狗に見つかってしまったのです」
「なるほど」
「登りきれなかったのが残念でなりませんわ。見つからないと思っていたのですが」
「…」
とにかく不思議そうに首を傾げてみせる咲夜に、文はなんて表情を向けたら良いのか分からなくなる。
絶壁というのは、高く切り立った岩からなるから絶壁という訳で、外から地形上完全に丸見えなのである。ただでさえ視力が良い白狼天狗だ、そこにあんな目立つ格好で登ろうとしている人間など、即座に気付けただろう。
けれど、きっと咲夜本人としては本気で"見つからないと思っていた"のだ。
「そんなこんなで、起こってしまいました逃走劇。こうなったら仕方がなしと空を飛び壁から去り、そこらを駆け回っていたのですが。何せ相手はこの地のことを知り尽くし、どの妖怪よりも鋭い五感を持つ白狼天狗。川を飛び越え、雪を踏みしめ、なんとかして山から抜け出そうと思えども、気が付けば回り込まれ、逃げ場を失っていく。万事休す、か弱きメイドの行く末やいかに――」
「…」
「失礼。また熱くなってしまいました」
目で訴えかけるこちらに今度は気付いたのか、咲夜はまた小さく頭を下げる。
「まぁ、このままでは遠からず白狼天狗に捕まってしまうだろう、なので考えたのです。……そういえば、とても有益な話を聞いていたな、と」
ぴたり、文字を書きつけていた手が止まる。咲夜に向ける眼光が、ほんのちょっと険しくなる。
「…想像はつきますが、どなたから?」
「お察しの通り。魔理沙ですわ」
「あ~~~……」という声と共に、文の体が机上に崩れ落ちる。
霧雨魔理沙。人間の魔法使いにして、何度も山への不法侵入を試みている常習犯。その度に文の世話になり、ひたすら手を焼かされている、放っておけない少女。
「以前うちの館にしのびこんでいた魔理沙をもてなした時に、壁登りのことをちらっと話しまして。その時に聞きましたの。"いざとなったら、文の家に行け。きっと匿ってくれるぞ"と」
「あんの白黒め……」
突っ伏したまま、素が出てしまう。本当にあの子は。自分だけならまだしも、こうして他人にまで要らないこと言って、危ない場所への背中を押して。
「――今度家に引っ張り込んだら説教ね」
この文の言が聞こえた刹那、咲夜は目を丸くさせていた。
魔理沙の名前を出すことには、咲夜ながらに不安は抱いていた。たとえ今まで仲が良かったとしても、自分が文の立場だったら、この後どう魔理沙と接するだろう。もしかしたら、今後助けを求められたとしても、もう手を差し伸べることはないかもしれない。
それでも咲夜が魔理沙のことを話せたのは、魔理沙が真剣な目つきで"私の名前を出せ"と言ってくれたからだ。
そして、今の文の発言。決して繕ったりなどしていない、真面目な声音。
「ふふっ」
「…なんですか」
つい笑みがこぼれれば、文は不機嫌そうな声でこちらを見て来る。そんな様子すら、今の咲夜には愛おしい。こんな一面があるのに今まで気付かなかったのかと考えると"彼女たち"が羨ましくて、けれどほんのちょっとだけ、優越感を抱いていた。
「いいえ。なんでもありませんわ」
綻び続けるこちらの口もとに思うところがあるのか、文は唇を刹那尖らせる。それから、バツが悪そうにほんのちょっとだけ目を逸らすと、そのまま話を切り上げるように立ち上がった。
「事情は分かりました。そういうことでしたら、しばらくここで"保護"させていただきます」
土色の手帖をぱたりと閉じる。形式的な手続はもう良い。どうせこれを引き出すための"茶番"だ。
「日が暮れたら白狼天狗は交代の時間です。そうしたら短いですが隙が出来ます。そこを狙って麓までお送りしますので、そのつもりでいてください」
「ご厚意、痛み入りますわ」
「…本当、こういうことはこれきりにしてくださいね?」
「善処します」
さらり、瀟洒に頷いてみせる咲夜。…本当に善処してくれるのだろうか。口もとをへの字に曲げ改めて視線を向けてみても、咲夜はにこやかに微笑むだけ。
…これについては、今気にしても仕方ないか。
「本なども揃えていますから、暇はそちらで紛らわせてください。走り回ったのです、おなかも空いたでしょう?簡単なものになりますが何かお作りいたしますので、少々お待ちを」
「あぁ、そのことなのですが」
これからの献立など思考に巡らせる文の背中を見ながら、咲夜も炬燵から立ち上がる。
「私が何か作りましょうか?」
ぴたり、文の動きが止まる。
「…何のおつもりです?」
いつも見せる明るくとぼけた姿からは想起出来ない、重い声。感情を読ませない声音は、冬の室温をさらに五度程度冷やしていく。けれど咲夜は、それも気付いていないかのように、にこにこ笑みを浮かべ続けていた。
「文机の様子を見るに、文は、取材の原稿を書いている途中だったのでしょう?私はそこをお邪魔させていただいている訳です。お礼という話ではないですが、せめて何か奉仕をと」
「結構です」
「あら。私のお休みのことでしたら、別に気になさらなくても」
「そういう問題ではありません」
ばさ、と何かが散る音。いつの間にお互いの吐息がかかる距離にまで詰めてきた文に、咲夜は目を丸くさせる。
背中を柔らかく、けれど途方もなく強い何かがくすぐる。その何かは、そのまま咲夜を包むように文の方へ引き寄せていく。そこで咲夜は初めて、文の荘厳な黒翼が顕現していることに気が付いた。
「良いですか。どんなに特異な能力を持っていたとしても、あなたはか弱き"人間"。そして、私は誇り高き"天狗"なのです」
根雪のように冷たい指先が、咲夜の顎を撫でる。親指の腹が下唇に触れ、メイドの肩がほんの微かに跳ねる。その様子を見逃さず、鴉天狗は小鳥を捕食せんとする猛禽の如く口を歪める。
「"人間"は"天狗"から教え導かれるもの。ましてここは"天狗"のねぐら。そこに迷い込んだからには、黙って私の羽毛に護られてなさい」
妖眼の紅は、見開かれたままの人間の目を捉えて離さない。微動だにも出来ない少女の体を、黒翼が縛るように抱きしめていく。唇に触れていた妖怪の手は、そのまま白磁の頬を撫で、そして―――
「ふふふ」
弾けるように、咲夜が破顔する。最初から効いてなかったと説明しても頷けるいつも通りの態度に、文は手を止める。
「――そういうところ。"あの子"にも見せてあげれば良いのに」
あまりにも純粋な透き通った声。聞いた刹那、文はぐっと唇を結ぶ。妖気をまとわせた紅い眼に、人間らしさをたたえた光が滴り広がっていく。
その様子を逃さず、面白い動物を見つけたかのような幼い目が、文を捉える。むしろ自分から頬を寄せて来る咲夜に、今度は文が一歩引いてしまう。
翡翠の青々とした瞳には、戸惑う天狗が映し出されている。けれど、彼女が視線を向けているのは、彼女の表情だけではない。紅い瞳の向こう、さらにはるか東、東、その先のとある景色へ。そして、聡い文もまた、咲夜の視線の先に気付いて、ますます動揺が隠せなくなってしまう。
「…はぐらかさない」
頬に当てていた手を肩へ持っていき、吐息と共にゆっくりと引き剥がす。妖を雄弁に語る艶やかな翼も、山茶花が散っていくかのように緩んでいき、背中へと還る。何度か首を傾げようやく調子を整えた文の目線は、困った子供を見るそれに回帰していた。
「失礼しました」
咲夜は満足げに微笑むと、そのまま優雅に一礼し、何ごともなかったかのように元の場所へと歩く。途中、本棚の前で足を止め、まるでお買い物でもするかのように背表紙を品定めして、取り出して。どうやら、言うことは聞いてくれるみたいだ。
本当、人間は時折鋭くて、油断出来ない。ちっぽけな存在のくせに、思わぬところからこちらの急所を突いてくる。
"そういうところ。"あの子"にも見せてあげれば良いのに"
…そんなこと、出来るはずがないじゃないですか。
文は長いため息と共に胸の靄を誤魔化すと、そのまま足早に厨(くりや)へ歩を進めた。
***3***
はふはふ、息を吹きかけながら、柔らかなものを大きく開けた口に運んでいく。
それでもやはりまだ熱いのか、二、三度、口をすぼませ息を吹き、ようやく口の中へ。
にゅん、と伸びる白い物体。目が輝き、紅潮した頬をみるみるうちに緩ませていく。
浅葱色のどてらを身に、背中を丸くさせてぬくぬく餅を頬張っていく姿は、さながら子猫のよう。
いつもだったらなかなか見れない、脱力したメイドの姿。こんな時でなかったら、カメラに収めるんだけど。
徐に視線を下げてみたら、自分にも、と準備していた炙り餅。こんがり狐色、ふわふわ湯気を立てるそれを慣れた手つきでつかんで口へと運ぶ。
…ん。懐かしい。
想い出ごと咀嚼するように、口内のほの甘さをゆっくり噛みしめる。
いつだったっけ。幻想郷が出来る、ずっと前。私が、山々を巡り修行していた時に、狩で生計を立てて来た人たちから、教えてもらった味。
また一口。山菜と細肉の餡が餅から飛び出し、舌に染みこんでいく。あの里は、男女分け隔てなく狩りに参加する里。確か、若者が初めて狩に成功した時、お祝いとしてこの餅を作っていた、と記憶している。
あぁ、あの時は楽しかったな。旅をして、たまたま気まぐれで子供を助けただけの自分も温かく受け入れてくれて、狩にも混ぜてもらって。それで、自分が鹿を射抜いたことを皆が喜んでくれて、宴を開いてくれて。
子供たちに懐かれて、どこに旅するとも分からない自分に、しばらく手紙を書いてくれたんだったな。私が来てから数年間、麓の村で豊作が続いたんだ、とか、歓喜に弾けた内容。今でもそれは、誰にも見せられない秘蔵の書庫で、大切に保管されている。
ごくり、餅を飲み込む。熱が喉を通り過ぎ、時間となって呆気なく消えていく。
出会いを経た旅から、既に千年近くの時間が経っている。だから、あの時鍋を囲んでいた大人も、豊作を喜んで手紙に書いてくれた子供も、もうこの世にいない。それどころか、彼らが暮らしていた集落も、枯木のように朽ちてしまっているだろう。その中で、今も変わらず残っているかもしれないものといえば…
…あの山。今は、どうなっているのだろう…
――どん、どん。
鋭い光を瞳に戻す―――今、確かに、誰かが戸を叩く音をした。
未だ口をもぐもぐさせている咲夜に動かないよう手をかざしながら、文は玄関へゆっくり歩を進める。
戸口に手を置き、ぴたり、体を戸につける。
「…どなたです?」
誰が来たのか、吐息一つ聞き逃さないように、全神経を向こう側の空気へと注ぐ。
「私だ」
あっさり返って来た返事に、文は思わず唇を歪ませる。
固くて生真面目な、面白さの"お"の字もない声。こんな声を出す者を、文は一匹しか知らない。
「何の用かしら?」
「おや?まるで今は来て欲しくなかったみたいな言い方だな?」
「あや?鋭敏な"犬"の耳がそう"聞きたがってる"のではなくて?」
「フン。今日も"さえずり"だけは元気そうで何よりだ」
あーあー、本当この犬と来たら、目上への礼儀がなってないわね。相手が相手ならこれだけで懲罰ものですよ?何も言わない私の優しさに感謝することです。
…まぁ、今はそんなことどうでも良い。気にすることは、彼女が何故ここに来たか、この一点だ。
「まぁ良い…今、そこに人間のメイドが来ているな?」
ほら、やっぱり。聞かなくても本人からずばずば言ってくれるの、こういう時にはありがたいですね。さて、となるとどうするか。
「来てませんよ?」
「ふぅん?来るならここだと思ったんだがな?」
「残念ながら。彼女、今山に入ってるのですか?」
「一人で真冬の崖を登ろうとしていたところを見つけた」
「あやあや。さすが、あの方も酔狂なことをなさる。これだから人間は面白いですね」
「面白がっている場合ではない」
苛ついていることがすぐに伝わる、刺々した声。きっと、御自慢の白い牙も扉の向こうで覗かせているのだろう。
はぁ。ちょっとは話に乗る素振りくらい見せるものです。だからあなたは面白くないと言われるのですよ?
「いないというなら、部屋の中、見せられるな?」
眉を顰める。ここに来て、小さな違和感が、文の胸を刺す。
…そうだ。考えてみればおかしい。
魔理沙の件も、文の家で匿われていたのはほぼ知られている事実だ。それは文も承知している。けれど、こうして白狼天狗が文の家に直接訪ねて来たことはなかった。
それは、外交に明るい文が、魔理沙を"職務"として"保護"した、と書類上(半ば無理を押して)扱わせたからだ。これが文の"職務"である以上、コイツ初め白狼天狗は、今までこちらに直接干渉することはなかったのである。
それがなんだ…?今回はここまで訪ねて来た上に、ずかずか敷居を跨がせろと宣っている。
ぐっと、戸口にかけている手を強める。持てる限りの警戒をもって、戸を隔てた白狼天狗に意識を向ける。
「何の権限でそれを仰っているのです?」
「今さら何を言う。本来、これは哨戒として当たり前のことだ」
「あなた、"プライバシー"って言葉はご存知ですか?」
「ハッ。お前がそれを言うのか…ハハッ。滑稽だな」
こうして会話で引き延ばすのも、きっと長くは続かない。仮説だが、恐らく今回の件、山の中で何か動いている。堂々と白狼天狗がここに来れているということは、大天狗辺りから何か許しを得ているのかもしれない。となると、最終的には文もコイツの申し出を断ることは出来ないだろう。
…となると。文はぐるぐる思考を働かせる。今すぐにでも咲夜を逃がす他はない。
幸運なことに、咲夜は時間を操る能力を持っている。それを使えば、誰にも気付かれずにここを抜け出す"手品"も訳なく出来る。証拠隠滅は出来ず、誰かが家にいたことはバレるだろうが、そんなものは二の次だ。今は彼女が捕まらなければそれで良い。
さて。戸につけていた顔をこっそりと居間へと向け始める。方針は決まった。後はなんとか彼女に気付いてもらって、逃げ出すように誘導しなければ――
「文~」
そう猛回転させていた思考は、呑気な一声によって、粉々塵芥まで砕け散った。
「これ、とてもおいしいですわ!もう一つおかわりいただけます?」
ほくほく、お花でも咲きそうな笑顔で空の皿を差し出す咲夜に、呆れが雪崩を打って襲いかかる。
「今それどころではないんです!というか先程から思ってましたけど、ずいぶんと極端ですねあなたは!?」
「あら。"黙って私の羽毛に護られてなさい"なんて言ったのは文ですよ?私はそれに甘えてくつろいでいるだけです」
「それはそうですけど!良いから、すぐ持って来ますから、早く戻って!」
暖簾に腕押し、何を言っても響かない咲夜に、文の焦りは増幅していく。自分が今どういう立場なのか本当に分かっているのだろうか。あぁもう何とかしなければ。そうして、焦りのままに身振り手振り声音全てを試みて咲夜を何とか説得しようとする文は、
「――おい」
既に状況が筒抜けという瓦解をすっかり見落としていた。
「…さすがに今のやり取りを幻聴とは言わないな?」
白狼天狗の問いかけは、糸のような逃げ道をも容赦なく断ち切る。
ギリ、と文は歯を噛みしめると、咲夜の細い手首をがしりと捉える。
きょとんとした様子の咲夜を他所に、文の胸がばくばくと鼓動を早める――こうなったら強行突破だ。眼前にいる白狼天狗を蹴散らして、今すぐにでも麓に――いえ、紅魔館まで咲夜を引っ張っていく。
そんなことをすれば後からお叱りを受けるどころの話ではないかもしれないが、もうなりふり構っていられない。自分が"保護"した以上、最後までしっかり責任を見なければならない。
もうこれ以上。"アイツら"に人間を任せる訳にはいかない――
「大体、私はそのメイドを"捕えに来た"訳ではない」
戸を引こうとしたまさにその時、思いもしなかった発言に、文は手を止める。一先ず話を聞こうとする静寂が向こうに伝わったのか、白狼天狗は大きくため息をつくと、文の家まで来た本題を告げた。
「迎えが来たんだよ」
***4***
「この度はッ!」
綺麗な直角に勢い良く下げられた頭。薄藤色のくせっ毛が揺らめく滅多に見れない光景に、文はただただ目を瞬かせる。
「うちの馬鹿が!!本ッ当に迷惑をおかけした!!」
戸を開き、冬の寒気に刹那目をつむった文が視界に入れたのは、今文たちに向けて詫びの言葉を口にしている少女――紅魔館の当主であるレミリア・スカーレットだった。
彼女をここまで連れて来た白狼天狗――犬走椛の話をまとめると、こうだ。紅魔館にいたレミリアは、咲夜が山に不法侵入している旨を聞くと、すぐに大天狗に向けて手紙を書いて送らせたらしい。天狗に合わせ日本語で書かれた手紙には、咲夜の非礼に対する詫びと、寛大な処置をお願いしたい旨が丁寧に記されていた。そんな彼女の迅速な対応や、当の大天狗が市場の件で咲夜に一目置いていたことも幸いし、レミリアが迎えのために山へ入ることが特別に許可された、という訳である。
「あ、あの、レミリアさん、そこまで畏まらなくても。顔を上げ」
手を差し伸べようとする文を、ぎろり、椛が黄金の瞳で睨みつける。そして、固まってしまった手を軽く払いのけ、ずい、とレミリアの前に歩み出た。
「彼女がまた山で勝手することのないよう、あなたから言い聞かせてくださると助かります」
礼を尽くしたしぐさが却って温度も見せない、淡々とした声音で、椛はレミリアに説く。
「ことによっては、紅魔館と山の間での大きな問題に発展しかねませぬ故」
「もちろんだ。後でこいつにはきつく叱っておく」
レミリアは椛の目を見つめながら改めて一礼すると、横にいる咲夜へと視線を向ける。
「ほら!お前からも、言うことがあるだろう」
「えぇ、そうですわね」
良質な生地を使ってそうなコートにもっこもこにされた咲夜は、レミリアの言に頷くと、一歩、まずは文へ近付く。
「文さん。この度は、たいへんお世話になりました」
これ以上になく丁寧なお辞儀。洗練された優雅な立ち仕草は、瀟洒の一言。
「薬湯にお茶、炙り餅と知らないことばかりで勉強になりましたわ。今度お嬢様に振る舞ってさしあげたいので、餅の作り方教えてくださいますか?」
「そうだね!常に私のために何か考えてくれるの、とても良いと思う!本当に瀟洒なメイドだよお前は!けど、今言うべきことはそれじゃないかな!」
そして咲夜は、今度は椛へと歩を進める。
「椛さん。この度は、たいへんお世話になりました」
また一礼。
「地形と連携を活用した白狼天狗の追跡、お見事でしたわ。正直、文さんに匿われてなかったら、今ごろ私はすっかり捕まっていたことでしょう。まだまだ実力が足りません。精進しなければ」
「そうだね!持ち合わせた能力に満足せずさらに腕を磨こうとするの、とても立派だと思う!主として鼻が高いよ私は!けど、今言うべきことはそれじゃないかなぁ!!!」
どこまでも読めない従者を操縦しようと、レミリアははらはらこちらを見ながら身振り手振りを続ける。…あの家族をまとめあげるの、改めてすごいことだったんだな、と文はぼんやり考える。次紅魔館に取材する時は、彼女に何か差し入れてあげよう。
視線を横に向ければ、ちょうど礼を受けた椛と目が合う。さすがの彼女も、メイドの突拍子もない言葉に口もとが落ち着かずまごついている様子。ちょっと、何よその"どうしてお前のまわりには変な奴しか集まらないんだ"みたいな目は。私に聞かないでよ。
「こほん…まぁ、一先ずは良しとしましょう」
咳払いで己を落ち着かせながら、再び椛が二人を見据える。
「同行させていた白狼天狗に帰路を案内してもらいます。彼女について、麓まで送ってもらってください」
「何から何までかたじけない。後日、詫びの品を正式にそちらへお送りしよう」
「分かりました。その時には私が取り次ぎなどを担当いたします故、ご連絡を」
こうして二人は、椛が背後に控えさせていた白狼天狗に先導されて下山することとなった。
離れていく二人の背中を文はちらと見る。正直、自分が下山まで見てあげられない、という靄はあるものの、今回の場合は大天狗からの保証付きで、そもそも主である吸血鬼も共にいるのだ。…きっと、大丈夫だろう。
はぁー…っと。全く、天狗騒がせな出来事でしたねぇ、本当。くたくたです。…とはいえ、すぐに休息を取る訳にもいきません。これから書類とかをまとめなければ。
「…それで、」
伸びをしながら居間へと戻った文は、再び入口を向く。敷居を隔てた向こうでは、もう用事が済んだはずの椛が仁王立ちでこちらを見つめていた。
「何故あなたは残るのです?これから咲夜さんから事情を聞いていた旨を報告書に書かないといけないのですが」
「話がある。だから残った」
「ハァ…また職権がどうとか、ツマラナイお説教でもするつもりですか」
「そんなのはどうでも良い。些細なことだ」
「!…へぇ」
無関心だった文の瞳に、好奇の光が宿る。
「あなたの口からそれを"些細"とは、珍しいこともあるものですね」
「一つだけ聞かせろ」
面白がる文の声を聞き流しながら、椛は刹那、息を整える。ふと、椛の目がいつもと異なることに文は気付く。
「あのメイドは"どこから"お前の家のことを知った?」
瞳孔を鋭く細めた、黄金色の目。椛がこの目をしている時がどんな時かを、文はよく知っていた。
「…」
「言っておくが、"聞いてない"なんて言い訳は通用しないぞ。お前はそういう聞き込みをぬかるはずがない」
「あやや。これはこれは、評価されているみたいで何よりです」
「茶化すな。こっちは真剣に聞いている」
苛立ちで毛を逆立て始めた椛を一瞥し、文はため息と共に諸手を挙げる。
「はいはい、降参降参――魔理沙、ですって」
「やっぱりか!!」
雷鳴の如き声が部屋中に反響する。一瞬遅れて、小鳥が近くでばさばさ飛び去っていく音が、屋根に積もった雪がごっそり落ちる音が家に届く。ちらと窓の外を見た家主が、迷惑そうに顔を歪めるのが目に入る。
けれど、今の椛はそんなことには構わない。構っている場合ではない。わざとらしく耳をふさいでいる眼前の鴉天狗に、全てをぶつけなければいけない。畳をずか、ずかと踏みしめ、ふざけた奴の胸倉をつかむ。
「この際言っておくがな!お前がアイツらにしていることは"優しさ"でもなんでもない!お前は、ただ"甘い"だけなんだよ!!」
こういうことを言ったって、どこまでも我が道だけを進むこの馬鹿が話を聞くなんて、椛だって考えていない。今までの経験上、それはあり得ないことだ。分かっている。
「そうしていつまでも甘やかし続けるものだから、味を占められて、今回みたいなことが起こったんだ!!分かってるのか!?こんなことを続けてたら、取り返しのつかない災いが――」
自分だって言いたくない。こんなこと言いたい訳ない。けれど、哨戒として――白狼天狗という、天狗組織の下っ端として、椛が見て来た視線が、聞いて来た囁きがあるから。
それこそ、耳を塞ぎたくなるような、頭にずっとこびりついて離れなくなるような。そんな想像を、決して現実にはしたくない。だから、そのためなら。
「お前に降りかかるかもしれないんだぞ!!!」
"嫌われ者"になど、いくらでもなってやる。
「…」
はぁ、はぁ、白い吐息だけが、二人を隔てる。荒く肩を上下させながら、けれど椛は文から目を離さない。
…さぁ、どう反応する。またふざけたこと言ってはぐらかすか?それとも、あなたには関係ないと迷惑そうに引き剥がすか?けど、そうはいくものか。もう、それで済ませられる話ではなくなりつつあるのだ。
「それで?」
文の口が開く。瞳孔をさらに細くさせ、続く言葉に身構える。今日という今日は、どんなことがあっても、この胸倉を離してやらない――
「"そんなこと"を言うために、あなたは残ったのですか?」
「そッ…」
全身の毛が逆立つ。それは、様々考えを巡らせた椛も思いつきもせず、そして最悪の底を突き抜けた反応だった。
「お前、今」
「"そんなこと"」
けれど、引き寄せようとした手は、ピタリと止まる。さっきまでとは全く異なる声音に、つかんでいる胸倉が、途端に重くなっていくのが分かる。
そうして緩んだ手をあっさり文が引き剥がせば、反動で椛の足は揺れ、躓いて。一歩、また一歩後ずさり、真っ直ぐ立つのがやっとで。
「……何度でも言いましょう。職権と比べてもさらに"些細"なことだ」
はぁ、とため息をつきながら服を直した文が、こちらを見つめる。その瞳には、さっきまで何かしらの形で見せていた光はもうない。
「分かってないと、本気で思っているの?」
いつもの椛だったら"あぁお前は分かっていない"と即座に反論していただろう。あまりにも自分のことに楽観的過ぎると憤慨し、再び胸倉をつかんで長々説教を叩きこんでいただろう。
…けれど今はどうだ、体は全く動かない。そんなこと、言う余裕もない。
「なら、何故」
「あや?それこそ、あなたも既に分かってるはず」
唇の端を微かに動かすだけの嘲笑に、椛の背中に悪寒が走る。
そう、だ。椛だって、本当は分かってる。
けど。
「それが私の"するべきこと"だからです」
なぁ。分からない。
お前が人間のことを気に入っているのは知っている。淡雪のように地に積もればあっさり融けていく、そんな儚い生に出会い、惹かれ、あまつさえ求め走っていく、そんな天狗だってことは、分かっている。
けど、何故だ?何故、お前がそこまでする必要がある?何故、一片の淡雪を大切に抱き留める、たったそれだけのために、お前は自分の背中を無防備にさらしている?
何故?何故?
見たくない。見てられない。
「…お前こそ、分かっているだろう」
「何がです?」
「あのメイドは、紅魔館という、強大な勢力に属する人間だ」
複雑に絡まった糸をなんとかほどくため、たどたどしく声を出す。
「山へ侵入したからとて、傷付けてしまえばあの館の者が黙っていないかもしれない。だから、たとえ我々が捕まえたとしても、決して安易に彼女へ手出しはしなかった」
「…」
「…なぁ」
瞳孔が震える。縋るように、身体を前に出す。
翻意させることが出来ないのであれば、せめて、せめて。そんな細い糸口を見つけるために、椛は手を伸ばす。
「私たちのこと、少しは信用して」
「出来ませんね」
即答。氷点下の声は、天狗風となって全身を殴りつけ、唇を凍りつかせる。差し伸べた手を固めたままの椛に、文は能面をつけたまま、首を傾げる。
「――出来る筈がない」
どんより濁った緋色の瞳に、呼吸が荒くなる。反発、とかそういう次元ではない。拒絶。憤怒。軽蔑。失望…そして、絶望。瞬きすら許されぬまま、澱んだ混沌に吸い寄せられていく。
昏い。あまりに、昏い、禍々しい赫の世界。どうにか浮き上がってまた反論しようと、もがいて。もがいて。
けれど、圧倒的な重力と共に、アイツの意志は渦となってこちらを押し流していく。ぐるぐる暴れ狂う渦巻に、足から、胴から、そして指先に至るまで、己の体は沈み――
叫び声をあげるのを喉の先でこらえ、やっとのことで視線を逸らす。ぐっしょり汗で濡れた体を、冬の空気が容赦なく冷やす。
「…そう、か」
もう、文の顔を見ることは出来なかった。彼女がどんな表情をしているのか、怖くて仕方がなかった。
伸ばしかけていた手も、力なくだらりと下ろす。……そう、だ。そうだった。
――コイツをここまで追い詰めてしまったのは、"私たち"なのだ。
くるり、と踵を返す。一刻も早く、ここから飛び出したい。…コイツから、離れたい。
けれど、足はどうしても床を蹴ることを拒む。このまま終わらせることを、良しとしない。
……このまま出ていったら、再び面と向かうことすら、きっと自分が許さない。
地を蹴りかけていた足を緩め、その場に腰掛ける。背を向けたまま、ぽすり、麻紐でくくりつけた経木(きょうぎ)を畳みに置く。
「なんですか、それ」
「鹿肉だ。今が狩の季節ということは、お前も知ってるだろう」
「…それをどうしろと?」
「鹿鍋。作ってくれ」
嫌そうな吐息。きっと今、形の整った眉を小さく歪めているのだろう。
「どうして私がそんなことをしないといけないのです?言ったでしょう?これから私は報告書を」
「迷惑料」
強い声が、白い吐息となってしぼり出される。
「お前の所業を哨戒の立場で揉み消しているのは誰だと思っている。せめて、それくらいしてもらう権利はあると主張するが?」
「…」
駄目だ。どうしてもこういう言い方しか出来ない。こういう言い方しか知らない。
「…それに。非常に癪だけどな」
分かっている。今自分がしていることは、立ち去ろうとする相手の裾を、つかんでいるようなものだ。きっとみっともなく倒れ込んだこっちの手に、アイツのお召し物は泥で汚れてしまっているだろう。嫌がられて当たり前だ。私だって嫌だ。
…けど。言わなきゃ。せめて、これだけでも。
「――お前の作る鍋が、一番あたたかくて、旨いんだよ」
冷たい沈黙。はらりはらり空を舞う風花のような時間が、しばらく流れていく。膝の上に置いていた拳をぐっと握る。
耳を立てる勇気すら出ない。アイツの吐息一つ聞くことすら、今の自分には怖い。けれど、この手を蹴り飛ばしてくれるなら、むしろ早い方が良い。そうして欲しい。どうか。どうか――
「…仕方がありませんね」
ため息まじりの声と共に、何かが椛の背中にかけられる。いきなり包み込んできた何かに固まっていると、ぽん、と何か温かいものが頭に置かれた。
「ご苦労様。冬場の哨戒、寒かったでしょう」
そうか。私に着物をかけてくれたんだ。頭を撫でてくれてるんだ。そう気付いたのは、励ましてくれた声が、地声であることを理解してからだった。
…はは。コイツ、誰かの髪を撫でてあげたことねぇだろ。いてぇよ…
「鍋が出来るまでの間、火鉢に当たって待ってなさい」
わしゃわしゃ、乱暴に髪を弄っていた手が離れていく。きっとその時間は刹那にも満たなかったはず。さっきまでの痛みも、泡沫の夢だったみたいだ。
経木をつまむ、細く整った手。そのまま、すたすた離れていく気配。程なく、葱を切る軽快な音を伴奏にヘッタクソな鼻歌が萎んだ耳をくすぐる。
綿が中に詰められているのだろう。表着の暖かさが背中を通して伝わる。袖をぎゅっとつまめば、インクのしみこんだ古紙の匂いが、爪から染みこんでいく。
動かない。動けない。指を一本一本、袖に強く絡ませるごとに、小さな嗚咽が、喉から漏れてしまう。
嗚呼。あの羽毛が、人間"だけ"を包み込むものだったとしたら…むしろどれだけ良かったか。
…だったら。だとしたら。
――私がこんなに苦しむことだって、なかったのに。
味噌が煮える穏やかな匂いが、湯気と共に彼女を誘う。
…くぅ。甘えたがっている気持ちが漏れ出すかのように、小さく腹の虫が鳴った。
原稿の上をペンが走る。けれど、いつもと比べるとその足取りは非常に重い。休み、動かし、休み、動かし……駄目だわ。これは、進まなさそうね。射命丸文は天井を仰ぐと、ペンを置いて手を小さく揉み合わせる。
…寒い。
今日原稿の進みが悪いのは、ひとえにこれが原因だった。
冬。あらゆる動物が食糧をためこみ、自らの巣に籠ってしまう季節。それは鴉天狗と言えど例外ではない。
まして、ここは幻想郷で最も天候が弄ばれる山。おまけについ昨日、今年入ってから初めて吹雪が山を押し寄せたと来た。今日は空は青々透き通った晴天だが、地面は銀雪がすっかり枯葉を覆い隠してしまっている。外にちゃんと出た訳ではないが、きっと屋根や枝も重い白を背負っていることだろう。そんな時期なものだから、さすがの文も原稿に集中出来ずにいる。
とはいえ。"寒さで家での時間が長くなる冬、読書にはもってこいの季節です"とは、貸本屋を営む少女の名言である。文とて、購読者を増やすこの契機を見過ごすことは出来ない。まして今書いているのは、いつも追いかけている巫女の記事。気合が入ろうというものである。
そういえば、天狗の里の方に、珈琲を扱う店があったっけか。冴え冴えとした空気を切りながら飛ぶのは億劫だが、店内はここよりもきっと暖かいだろう。いっそ、そこで書けないか試してみるか――
…こん、こん。
「…?」
戸が叩かれる音に、眉を顰める。
文は、天狗の里から少し離れた場所に一人居を構えている。もちろん天狗であれば里からこの家までひとっ飛びなど訳ないのだが、こんな"はぐれもの"のところまで積極的に来るような者などほとんどいない。厳密にいえば全くない訳ではないのだが――紫色のライバルが頭をよぎる――アイツなら、戸を叩いた後、こちらの返事すら聞かずにムカつく笑顔を見せながら入って来るだろう。彼女はそういう奴なのだ。
「はーい。なんでしょう」
ぴとり、何かが落ちた音。どうやら、軒に凍り付いている氷柱から水が滴っているらしい。
聞こえた反応は、それだけだった。
「…?」
首を傾げる。
風の音とか…ではなかった。それだったらこの射命丸文が気付かないはずがない。もしくは、山の動物が誰か迷い込んだか。それならあり得ないことはないが、それでも、鳴き声は聞こえても良い気はする。目を細め、足音を立てぬように気を付けながら、ゆっくり戸を開ける。
「……?」
ますます首を傾げる。
誰もいない。小鳥の鳴き声が、ちらちら陽光に反射する白が、小路の静寂を際立たせる。
下を見れば、ざらめ雪が積もったその時のまま。人型どころか、小動物の足跡すら存在しない。
呼気が景色に溶けていく。…もしかしたら、本当に気のせいだったのだろうか。あるいはまた妖精がいたずらでもしに通ったのだろうか。再度首を傾げながら入口をゆっくり閉じ、そのまま部屋へ踵を――
「――お邪魔してます」
いきなり聞こえて来た鈴の転がるような声に、肩が強く震える。自分しかいなかったはずの部屋には、一人の少女が、炬燵でぬくぬくお茶を嗜んでいた。
雪から生まれたと言われても頷いてしまう白磁の肌。絹のような光沢で靡く銀色の髪。瀟洒という表現がふさわしい彼女を、文は良く知っていた。
「さ、咲夜さん!?どうしてここに」
「あら、私の能力はご存知でしょう?」
勝手知ったるとばかりにくつろぐ少女――十六夜咲夜は、にこりと微笑む。
「ノックの後、あなたが扉を引く直前に、時間を止めて先に家に入った。タネもシカケもある、メイドの手品ですわ」
「…あの」
「ちなみに足跡に関しては、空を飛んだままここまで来た、それだけのことです。ただ、直前まで迷いましたの。やはり足跡を付けておいた方が"謎"が出るのではないか、と。…ふむ、文の反応を見るに、やはり足跡はあった方が良かったかもしれませんね」
「尋ねたいのはそういうことではなく」
「そうですわ、あなたのお茶も淹れましたの。これでも私、緑茶を淹れるのも上手いと評判ですのよ?」
「話を聞く!!」
呑気にお茶を注ぎ続ける咲夜を一喝。そのまま傍まで歩み寄ると、しゃがみこむことで目線を合わせる。
「…あなた、ここがどういう場所かご存知ですね?」
「妖怪の山です」
「そうです。そして、そこに住む妖怪がどういう妖怪かも、ご存知ですね?」
「はい。縄張り意識が強く、排他的であるとか」
「その通り」
大きく頷く。
「そんな山にあなたが単身で入るとは、何か重要な言伝でも?レミリアさんから我らに何か相談でもあるのですか」
刹那、沈黙が走る。紅魔館から直接、しかも一人で使者として来たのなら、今まで例がない出来事となる。何か急な連絡かもしれない。であれば、仲介として自分が役目を全うしなければならない。
「いいえ。私はただ、」
けれど、固唾を飲む文の問いかけに、咲夜は柔らかく首を横に振る。
「壁を登っていただけですわ」
――あぁ、そうでしょう。そんなことだろうと思ってましたよ!!!
「大体、今は冬ですよ!?山は既にあちこち冠雪しているんですよ!?なのになんでそんな夏に着る薄手の格好しているんですか!!」
さて、咲夜がどんな格好しているか言ってみよう。上は黒の半袖シャツ一枚、下は動きやすい半ズボン、それだけである。つまり、メイドの白い細腕も魅惑の太腿も、ずっと寒空の空気にさらけ出されていた、という訳だ。こんな格好で山を駆けずり回っていたなんて、こうしてけろりとしている様子を見せられても、こっちは気が気ではない。
鴉天狗にとってもこの寒さはきついとは、先程話した通りである。ましてこのメイドは、紛うことなき人間だ。種族が異なる自分には全てが分からないからこそ、この格好が人間をいかに凍えさせるのか、考えるだけでも恐ろしいのである。
「文もお嬢様みたいなこと言うのね」
そんな文の様子がとにかくおかしいみたいで、咲夜はくすくすと破顔する。
「お嬢様も、この季節、買いものとかで外に出ようとすると、目くじらを立てながらこっちに来てね。マフラーとか巻いて、もっこもこにさせようとなさるの」
あぁ、あの方ならきっとそうするだろうな、と文は頷く。咲夜に最も生きて欲しいと思っているのは、他でもないあの吸血鬼だ。体を壊しそうな格好しているなどと見たら、言い訳無用とばかりに止めに入るだろう。
こんなこと知ったら、あの方はどんな顔するだろうか。また一つため息をつくと、文はすくりと立ち上がる。
「あら、どちらへ?」
「湯屋です」
替えの服などを見つけ出そうときびきび動きつつ文は即答する。
「薬湯を沸かして来ますから、そちらで先に体を温めてきてください。話はその後で聞きます」
「まぁ。気を使わなくて良いですのに」
「だーかーら」
苛立った声。険しい顔と、きょとんとした顔の睨めっこ。
「私が気にするんです」
咎める妖眼を、幼いどんぐりのような瞳がまじまじと覗きこむ。細め、広げ、首を傾げ、雛鳥のような仕草で顔を動かすメイドに対し、鴉天狗は決して顔を動かさず、じっとメイドを見つめ続ける。
気が付けば息すら忘れていた時間。
「…ふふ」
先に表情を崩したのは、メイドの方だった。
「では。匿ってもらった上のお気遣い、感謝します」
「…私はまだ"匿う"とは言っていないんですがね」
優雅に頭を下げる咲夜に、文はため息をつきながら、再び湯屋へと向かう。薪をくべるために外に出れば、凍てつく空気に思わず手をこする。そのまま白い呼気を手に吹きかけ、またこすって。
ほんの少しだけ温まった手を開く。虹色の艶をたたえた立派な黒羽が一枚、掌におさまっている。
…さっき本人には、あぁ言ったけど。
――こうなったからには、この羽根で温めてあげる以外に、選択肢はないのだ。
文は青天を仰ぎながら一息つくと、親鳥の眼光と共に、重々しく積もる雪へ足を踏み込んだ。
***2***
ふぅ、ふぅ、朽葉色の湯呑に吐息が吹きかけられる。そしてそのまま、くるり、くるり、器を回して、優雅な所作でごくり。
「結構なお点前ですわ」
「どうも」
瀟洒な賛辞に文は淡白に返事すると、淹れ直したお茶を再び咲夜の湯呑に注いであげる。そして咲夜はまた器を回して一服。天狗秘蔵の薬湯に浸かりすっかりほかほかなメイドは、今は藤紫の浴衣に浅葱色のどてらを着せられている。どてらに関しては綿を中にたっぷり詰めた冬仕様だ(ちなみに「こんなに厚着しなくても大丈夫ですわ」という自己申告は当然ながら無視した)。
「さて。では改めてお話をうかがいましょう」
「はい」
良い返事。けれど、明るく弾んだ声音。これから何回ため息をつくことになるのか、途方もないことを考えながら、文は土色の手帖を取り出す。
「壁を登りに来た、というお話でしたが」
「そうです」
温かいお茶で再び口を潤してから、咲夜は小さく頷く。
「月虹市場の件でここを訪れました時に、登るのにぴったりな絶壁がこちらにあるのを見つけましたの」
「まぁ、確かにここには数寄者が惹かれそうな崖は多そうですね…そういえば、あなたも」
「はい。単独(そろ)で気ままにどこかへ出かけてみる、しがない数寄者ですわ」
と、ここで咲夜は青々とした目を輝かせながら、文へ身を乗り出す。
「そうですわ。もしよろしければ、私のこの趣味のこと取材してみません?人里に時折現れる謎めいたメイド。彼女が持つ、想像も出来ない趣味――ふふ、良い記事になりそうでは?」
「…それはなかなか魅力的な話ですが、今は控えます」
本当だったら確かに惹かれる話、こんな殺風景な手帖には書き留めたくなかったのだが。
「さすがの私も、山の掟を破ることを推奨する記事は、書く訳にはいきませんので」
「そうですか……残念です」
耳をぺたんと伏せた小犬が表情から連想されて、つい唇が綻んでしまう。
「それで、ここまで来た訳ですか」
「はい。あの壁を見て以来、寝ても覚めても、登ってみたいという欲求にむずむずしてしまいまして。ほら。念入りに準備しましたのよ?」
咲夜は置いていた鞄から折り畳まれたマットのようなものを取り出す。
「なんですか、それ」
「確か……"ぽおたれっじ"だったかしら。たとえ一日で登りきれなかったとしても、これを組み立てれば崖で夜も明かすことが出来るのです。メイドお手製の特注品ですわ」
「泊まり込みまでして登るつもりだったのですか…」
というか、それ手作りなのか。クライミングには明るくないが、なるほど生地から縄の使い方まで、重量に耐えうる頑丈な作りになっていることは何となく分かる。なるほどこれがあれば、断崖での寝泊まりくらい豪胆なメイドには何ということ無いだろう。
手触りの良さが、却って眉をハの字にさせる…"才能の無駄遣い"とは、まさにこういうことを言うのではないか。
「大体、空を飛べるあなたなら、その気になれば壁をもひとっ飛びで越えられるでしょう。どうしてそこまで」
「あら。あなたらしくもない発言ですわね」
咲夜は刹那意外そうに目を丸くさせた後、にっこり、小首を傾げる。
「――"人間のろまん"てやつですわ」
ぐ、と喉で息が詰まる。邪気のない笑みに、紅い瞳が小さく揺れる。
…正直に話そう。それは、こと"射命丸文"に対するには、あまりに卑怯だ。
「まぁ、良いでしょう。なんとなくですが、その気持ちは分かります」
「ふふ。さすが、話が早い」
再びお茶で一服する咲夜を前に、文は小さく息をつきながら、手帖をめくる。
「それで、本日お休みをいただけましたので、それはもう足を弾ませながらこちらに向かいましたの」
「なるほど」
「もちろん、お嬢様にも内緒で、こっそり」
「…でしょうねぇ」
「歩いて、歩いて、誰にも見つからないように気を付けながら山を登り続け、ついに目的の壁まで到着したのです」
「時間は止めなかったのですか?」
「そこも包み込んでこその"ろまん"ですわ」
「…」
やっぱり卑怯だ。
「いざ壁を前に見上げると、抑えていた胸の鼓動がもう止められなくなってしまいました。…あぁ、今でも鮮やかに思い出せます」
そっと咲夜は胸に手を当て、目を閉じる。
「雲をも越え蒼天を貫く、どこまでも高くそびえる壁。冷たい空気が溶け込むその世界には、生の息吹など許されない」
「…あのー」
「ただ白、白、白、ゴッホの油絵のように岩が厚く塗り重ねられた壁。あぁ今からこの芸術に刃物を突き立てながら私はここを登るのか、そう思うと、私の胸にどうしようもない背徳感と高揚感が」
「あのー!」
天井を仰ぎ、手を高々と挙げ、舞台俳優となって朗々と続く語りを、声を張り上げて強引に断つ。
「…これ、一応"職務"として聞いているのですが」
「申し訳ありません。つい熱くなってしまいました」
けろり、さっきまで本当に芝居していたかのように、咲夜はぺこりと頭を下げる。
見る者が見れば、まるで揶揄われているみたいで、怒りを露にしていただろう。けれど、本人にとっては、きっとそうではない。本当に"熱くなってしまった"だけだ。
「ですが、壁を半ばくらいまで登っていたところに、白狼天狗に見つかってしまったのです」
「なるほど」
「登りきれなかったのが残念でなりませんわ。見つからないと思っていたのですが」
「…」
とにかく不思議そうに首を傾げてみせる咲夜に、文はなんて表情を向けたら良いのか分からなくなる。
絶壁というのは、高く切り立った岩からなるから絶壁という訳で、外から地形上完全に丸見えなのである。ただでさえ視力が良い白狼天狗だ、そこにあんな目立つ格好で登ろうとしている人間など、即座に気付けただろう。
けれど、きっと咲夜本人としては本気で"見つからないと思っていた"のだ。
「そんなこんなで、起こってしまいました逃走劇。こうなったら仕方がなしと空を飛び壁から去り、そこらを駆け回っていたのですが。何せ相手はこの地のことを知り尽くし、どの妖怪よりも鋭い五感を持つ白狼天狗。川を飛び越え、雪を踏みしめ、なんとかして山から抜け出そうと思えども、気が付けば回り込まれ、逃げ場を失っていく。万事休す、か弱きメイドの行く末やいかに――」
「…」
「失礼。また熱くなってしまいました」
目で訴えかけるこちらに今度は気付いたのか、咲夜はまた小さく頭を下げる。
「まぁ、このままでは遠からず白狼天狗に捕まってしまうだろう、なので考えたのです。……そういえば、とても有益な話を聞いていたな、と」
ぴたり、文字を書きつけていた手が止まる。咲夜に向ける眼光が、ほんのちょっと険しくなる。
「…想像はつきますが、どなたから?」
「お察しの通り。魔理沙ですわ」
「あ~~~……」という声と共に、文の体が机上に崩れ落ちる。
霧雨魔理沙。人間の魔法使いにして、何度も山への不法侵入を試みている常習犯。その度に文の世話になり、ひたすら手を焼かされている、放っておけない少女。
「以前うちの館にしのびこんでいた魔理沙をもてなした時に、壁登りのことをちらっと話しまして。その時に聞きましたの。"いざとなったら、文の家に行け。きっと匿ってくれるぞ"と」
「あんの白黒め……」
突っ伏したまま、素が出てしまう。本当にあの子は。自分だけならまだしも、こうして他人にまで要らないこと言って、危ない場所への背中を押して。
「――今度家に引っ張り込んだら説教ね」
この文の言が聞こえた刹那、咲夜は目を丸くさせていた。
魔理沙の名前を出すことには、咲夜ながらに不安は抱いていた。たとえ今まで仲が良かったとしても、自分が文の立場だったら、この後どう魔理沙と接するだろう。もしかしたら、今後助けを求められたとしても、もう手を差し伸べることはないかもしれない。
それでも咲夜が魔理沙のことを話せたのは、魔理沙が真剣な目つきで"私の名前を出せ"と言ってくれたからだ。
そして、今の文の発言。決して繕ったりなどしていない、真面目な声音。
「ふふっ」
「…なんですか」
つい笑みがこぼれれば、文は不機嫌そうな声でこちらを見て来る。そんな様子すら、今の咲夜には愛おしい。こんな一面があるのに今まで気付かなかったのかと考えると"彼女たち"が羨ましくて、けれどほんのちょっとだけ、優越感を抱いていた。
「いいえ。なんでもありませんわ」
綻び続けるこちらの口もとに思うところがあるのか、文は唇を刹那尖らせる。それから、バツが悪そうにほんのちょっとだけ目を逸らすと、そのまま話を切り上げるように立ち上がった。
「事情は分かりました。そういうことでしたら、しばらくここで"保護"させていただきます」
土色の手帖をぱたりと閉じる。形式的な手続はもう良い。どうせこれを引き出すための"茶番"だ。
「日が暮れたら白狼天狗は交代の時間です。そうしたら短いですが隙が出来ます。そこを狙って麓までお送りしますので、そのつもりでいてください」
「ご厚意、痛み入りますわ」
「…本当、こういうことはこれきりにしてくださいね?」
「善処します」
さらり、瀟洒に頷いてみせる咲夜。…本当に善処してくれるのだろうか。口もとをへの字に曲げ改めて視線を向けてみても、咲夜はにこやかに微笑むだけ。
…これについては、今気にしても仕方ないか。
「本なども揃えていますから、暇はそちらで紛らわせてください。走り回ったのです、おなかも空いたでしょう?簡単なものになりますが何かお作りいたしますので、少々お待ちを」
「あぁ、そのことなのですが」
これからの献立など思考に巡らせる文の背中を見ながら、咲夜も炬燵から立ち上がる。
「私が何か作りましょうか?」
ぴたり、文の動きが止まる。
「…何のおつもりです?」
いつも見せる明るくとぼけた姿からは想起出来ない、重い声。感情を読ませない声音は、冬の室温をさらに五度程度冷やしていく。けれど咲夜は、それも気付いていないかのように、にこにこ笑みを浮かべ続けていた。
「文机の様子を見るに、文は、取材の原稿を書いている途中だったのでしょう?私はそこをお邪魔させていただいている訳です。お礼という話ではないですが、せめて何か奉仕をと」
「結構です」
「あら。私のお休みのことでしたら、別に気になさらなくても」
「そういう問題ではありません」
ばさ、と何かが散る音。いつの間にお互いの吐息がかかる距離にまで詰めてきた文に、咲夜は目を丸くさせる。
背中を柔らかく、けれど途方もなく強い何かがくすぐる。その何かは、そのまま咲夜を包むように文の方へ引き寄せていく。そこで咲夜は初めて、文の荘厳な黒翼が顕現していることに気が付いた。
「良いですか。どんなに特異な能力を持っていたとしても、あなたはか弱き"人間"。そして、私は誇り高き"天狗"なのです」
根雪のように冷たい指先が、咲夜の顎を撫でる。親指の腹が下唇に触れ、メイドの肩がほんの微かに跳ねる。その様子を見逃さず、鴉天狗は小鳥を捕食せんとする猛禽の如く口を歪める。
「"人間"は"天狗"から教え導かれるもの。ましてここは"天狗"のねぐら。そこに迷い込んだからには、黙って私の羽毛に護られてなさい」
妖眼の紅は、見開かれたままの人間の目を捉えて離さない。微動だにも出来ない少女の体を、黒翼が縛るように抱きしめていく。唇に触れていた妖怪の手は、そのまま白磁の頬を撫で、そして―――
「ふふふ」
弾けるように、咲夜が破顔する。最初から効いてなかったと説明しても頷けるいつも通りの態度に、文は手を止める。
「――そういうところ。"あの子"にも見せてあげれば良いのに」
あまりにも純粋な透き通った声。聞いた刹那、文はぐっと唇を結ぶ。妖気をまとわせた紅い眼に、人間らしさをたたえた光が滴り広がっていく。
その様子を逃さず、面白い動物を見つけたかのような幼い目が、文を捉える。むしろ自分から頬を寄せて来る咲夜に、今度は文が一歩引いてしまう。
翡翠の青々とした瞳には、戸惑う天狗が映し出されている。けれど、彼女が視線を向けているのは、彼女の表情だけではない。紅い瞳の向こう、さらにはるか東、東、その先のとある景色へ。そして、聡い文もまた、咲夜の視線の先に気付いて、ますます動揺が隠せなくなってしまう。
「…はぐらかさない」
頬に当てていた手を肩へ持っていき、吐息と共にゆっくりと引き剥がす。妖を雄弁に語る艶やかな翼も、山茶花が散っていくかのように緩んでいき、背中へと還る。何度か首を傾げようやく調子を整えた文の目線は、困った子供を見るそれに回帰していた。
「失礼しました」
咲夜は満足げに微笑むと、そのまま優雅に一礼し、何ごともなかったかのように元の場所へと歩く。途中、本棚の前で足を止め、まるでお買い物でもするかのように背表紙を品定めして、取り出して。どうやら、言うことは聞いてくれるみたいだ。
本当、人間は時折鋭くて、油断出来ない。ちっぽけな存在のくせに、思わぬところからこちらの急所を突いてくる。
"そういうところ。"あの子"にも見せてあげれば良いのに"
…そんなこと、出来るはずがないじゃないですか。
文は長いため息と共に胸の靄を誤魔化すと、そのまま足早に厨(くりや)へ歩を進めた。
***3***
はふはふ、息を吹きかけながら、柔らかなものを大きく開けた口に運んでいく。
それでもやはりまだ熱いのか、二、三度、口をすぼませ息を吹き、ようやく口の中へ。
にゅん、と伸びる白い物体。目が輝き、紅潮した頬をみるみるうちに緩ませていく。
浅葱色のどてらを身に、背中を丸くさせてぬくぬく餅を頬張っていく姿は、さながら子猫のよう。
いつもだったらなかなか見れない、脱力したメイドの姿。こんな時でなかったら、カメラに収めるんだけど。
徐に視線を下げてみたら、自分にも、と準備していた炙り餅。こんがり狐色、ふわふわ湯気を立てるそれを慣れた手つきでつかんで口へと運ぶ。
…ん。懐かしい。
想い出ごと咀嚼するように、口内のほの甘さをゆっくり噛みしめる。
いつだったっけ。幻想郷が出来る、ずっと前。私が、山々を巡り修行していた時に、狩で生計を立てて来た人たちから、教えてもらった味。
また一口。山菜と細肉の餡が餅から飛び出し、舌に染みこんでいく。あの里は、男女分け隔てなく狩りに参加する里。確か、若者が初めて狩に成功した時、お祝いとしてこの餅を作っていた、と記憶している。
あぁ、あの時は楽しかったな。旅をして、たまたま気まぐれで子供を助けただけの自分も温かく受け入れてくれて、狩にも混ぜてもらって。それで、自分が鹿を射抜いたことを皆が喜んでくれて、宴を開いてくれて。
子供たちに懐かれて、どこに旅するとも分からない自分に、しばらく手紙を書いてくれたんだったな。私が来てから数年間、麓の村で豊作が続いたんだ、とか、歓喜に弾けた内容。今でもそれは、誰にも見せられない秘蔵の書庫で、大切に保管されている。
ごくり、餅を飲み込む。熱が喉を通り過ぎ、時間となって呆気なく消えていく。
出会いを経た旅から、既に千年近くの時間が経っている。だから、あの時鍋を囲んでいた大人も、豊作を喜んで手紙に書いてくれた子供も、もうこの世にいない。それどころか、彼らが暮らしていた集落も、枯木のように朽ちてしまっているだろう。その中で、今も変わらず残っているかもしれないものといえば…
…あの山。今は、どうなっているのだろう…
――どん、どん。
鋭い光を瞳に戻す―――今、確かに、誰かが戸を叩く音をした。
未だ口をもぐもぐさせている咲夜に動かないよう手をかざしながら、文は玄関へゆっくり歩を進める。
戸口に手を置き、ぴたり、体を戸につける。
「…どなたです?」
誰が来たのか、吐息一つ聞き逃さないように、全神経を向こう側の空気へと注ぐ。
「私だ」
あっさり返って来た返事に、文は思わず唇を歪ませる。
固くて生真面目な、面白さの"お"の字もない声。こんな声を出す者を、文は一匹しか知らない。
「何の用かしら?」
「おや?まるで今は来て欲しくなかったみたいな言い方だな?」
「あや?鋭敏な"犬"の耳がそう"聞きたがってる"のではなくて?」
「フン。今日も"さえずり"だけは元気そうで何よりだ」
あーあー、本当この犬と来たら、目上への礼儀がなってないわね。相手が相手ならこれだけで懲罰ものですよ?何も言わない私の優しさに感謝することです。
…まぁ、今はそんなことどうでも良い。気にすることは、彼女が何故ここに来たか、この一点だ。
「まぁ良い…今、そこに人間のメイドが来ているな?」
ほら、やっぱり。聞かなくても本人からずばずば言ってくれるの、こういう時にはありがたいですね。さて、となるとどうするか。
「来てませんよ?」
「ふぅん?来るならここだと思ったんだがな?」
「残念ながら。彼女、今山に入ってるのですか?」
「一人で真冬の崖を登ろうとしていたところを見つけた」
「あやあや。さすが、あの方も酔狂なことをなさる。これだから人間は面白いですね」
「面白がっている場合ではない」
苛ついていることがすぐに伝わる、刺々した声。きっと、御自慢の白い牙も扉の向こうで覗かせているのだろう。
はぁ。ちょっとは話に乗る素振りくらい見せるものです。だからあなたは面白くないと言われるのですよ?
「いないというなら、部屋の中、見せられるな?」
眉を顰める。ここに来て、小さな違和感が、文の胸を刺す。
…そうだ。考えてみればおかしい。
魔理沙の件も、文の家で匿われていたのはほぼ知られている事実だ。それは文も承知している。けれど、こうして白狼天狗が文の家に直接訪ねて来たことはなかった。
それは、外交に明るい文が、魔理沙を"職務"として"保護"した、と書類上(半ば無理を押して)扱わせたからだ。これが文の"職務"である以上、コイツ初め白狼天狗は、今までこちらに直接干渉することはなかったのである。
それがなんだ…?今回はここまで訪ねて来た上に、ずかずか敷居を跨がせろと宣っている。
ぐっと、戸口にかけている手を強める。持てる限りの警戒をもって、戸を隔てた白狼天狗に意識を向ける。
「何の権限でそれを仰っているのです?」
「今さら何を言う。本来、これは哨戒として当たり前のことだ」
「あなた、"プライバシー"って言葉はご存知ですか?」
「ハッ。お前がそれを言うのか…ハハッ。滑稽だな」
こうして会話で引き延ばすのも、きっと長くは続かない。仮説だが、恐らく今回の件、山の中で何か動いている。堂々と白狼天狗がここに来れているということは、大天狗辺りから何か許しを得ているのかもしれない。となると、最終的には文もコイツの申し出を断ることは出来ないだろう。
…となると。文はぐるぐる思考を働かせる。今すぐにでも咲夜を逃がす他はない。
幸運なことに、咲夜は時間を操る能力を持っている。それを使えば、誰にも気付かれずにここを抜け出す"手品"も訳なく出来る。証拠隠滅は出来ず、誰かが家にいたことはバレるだろうが、そんなものは二の次だ。今は彼女が捕まらなければそれで良い。
さて。戸につけていた顔をこっそりと居間へと向け始める。方針は決まった。後はなんとか彼女に気付いてもらって、逃げ出すように誘導しなければ――
「文~」
そう猛回転させていた思考は、呑気な一声によって、粉々塵芥まで砕け散った。
「これ、とてもおいしいですわ!もう一つおかわりいただけます?」
ほくほく、お花でも咲きそうな笑顔で空の皿を差し出す咲夜に、呆れが雪崩を打って襲いかかる。
「今それどころではないんです!というか先程から思ってましたけど、ずいぶんと極端ですねあなたは!?」
「あら。"黙って私の羽毛に護られてなさい"なんて言ったのは文ですよ?私はそれに甘えてくつろいでいるだけです」
「それはそうですけど!良いから、すぐ持って来ますから、早く戻って!」
暖簾に腕押し、何を言っても響かない咲夜に、文の焦りは増幅していく。自分が今どういう立場なのか本当に分かっているのだろうか。あぁもう何とかしなければ。そうして、焦りのままに身振り手振り声音全てを試みて咲夜を何とか説得しようとする文は、
「――おい」
既に状況が筒抜けという瓦解をすっかり見落としていた。
「…さすがに今のやり取りを幻聴とは言わないな?」
白狼天狗の問いかけは、糸のような逃げ道をも容赦なく断ち切る。
ギリ、と文は歯を噛みしめると、咲夜の細い手首をがしりと捉える。
きょとんとした様子の咲夜を他所に、文の胸がばくばくと鼓動を早める――こうなったら強行突破だ。眼前にいる白狼天狗を蹴散らして、今すぐにでも麓に――いえ、紅魔館まで咲夜を引っ張っていく。
そんなことをすれば後からお叱りを受けるどころの話ではないかもしれないが、もうなりふり構っていられない。自分が"保護"した以上、最後までしっかり責任を見なければならない。
もうこれ以上。"アイツら"に人間を任せる訳にはいかない――
「大体、私はそのメイドを"捕えに来た"訳ではない」
戸を引こうとしたまさにその時、思いもしなかった発言に、文は手を止める。一先ず話を聞こうとする静寂が向こうに伝わったのか、白狼天狗は大きくため息をつくと、文の家まで来た本題を告げた。
「迎えが来たんだよ」
***4***
「この度はッ!」
綺麗な直角に勢い良く下げられた頭。薄藤色のくせっ毛が揺らめく滅多に見れない光景に、文はただただ目を瞬かせる。
「うちの馬鹿が!!本ッ当に迷惑をおかけした!!」
戸を開き、冬の寒気に刹那目をつむった文が視界に入れたのは、今文たちに向けて詫びの言葉を口にしている少女――紅魔館の当主であるレミリア・スカーレットだった。
彼女をここまで連れて来た白狼天狗――犬走椛の話をまとめると、こうだ。紅魔館にいたレミリアは、咲夜が山に不法侵入している旨を聞くと、すぐに大天狗に向けて手紙を書いて送らせたらしい。天狗に合わせ日本語で書かれた手紙には、咲夜の非礼に対する詫びと、寛大な処置をお願いしたい旨が丁寧に記されていた。そんな彼女の迅速な対応や、当の大天狗が市場の件で咲夜に一目置いていたことも幸いし、レミリアが迎えのために山へ入ることが特別に許可された、という訳である。
「あ、あの、レミリアさん、そこまで畏まらなくても。顔を上げ」
手を差し伸べようとする文を、ぎろり、椛が黄金の瞳で睨みつける。そして、固まってしまった手を軽く払いのけ、ずい、とレミリアの前に歩み出た。
「彼女がまた山で勝手することのないよう、あなたから言い聞かせてくださると助かります」
礼を尽くしたしぐさが却って温度も見せない、淡々とした声音で、椛はレミリアに説く。
「ことによっては、紅魔館と山の間での大きな問題に発展しかねませぬ故」
「もちろんだ。後でこいつにはきつく叱っておく」
レミリアは椛の目を見つめながら改めて一礼すると、横にいる咲夜へと視線を向ける。
「ほら!お前からも、言うことがあるだろう」
「えぇ、そうですわね」
良質な生地を使ってそうなコートにもっこもこにされた咲夜は、レミリアの言に頷くと、一歩、まずは文へ近付く。
「文さん。この度は、たいへんお世話になりました」
これ以上になく丁寧なお辞儀。洗練された優雅な立ち仕草は、瀟洒の一言。
「薬湯にお茶、炙り餅と知らないことばかりで勉強になりましたわ。今度お嬢様に振る舞ってさしあげたいので、餅の作り方教えてくださいますか?」
「そうだね!常に私のために何か考えてくれるの、とても良いと思う!本当に瀟洒なメイドだよお前は!けど、今言うべきことはそれじゃないかな!」
そして咲夜は、今度は椛へと歩を進める。
「椛さん。この度は、たいへんお世話になりました」
また一礼。
「地形と連携を活用した白狼天狗の追跡、お見事でしたわ。正直、文さんに匿われてなかったら、今ごろ私はすっかり捕まっていたことでしょう。まだまだ実力が足りません。精進しなければ」
「そうだね!持ち合わせた能力に満足せずさらに腕を磨こうとするの、とても立派だと思う!主として鼻が高いよ私は!けど、今言うべきことはそれじゃないかなぁ!!!」
どこまでも読めない従者を操縦しようと、レミリアははらはらこちらを見ながら身振り手振りを続ける。…あの家族をまとめあげるの、改めてすごいことだったんだな、と文はぼんやり考える。次紅魔館に取材する時は、彼女に何か差し入れてあげよう。
視線を横に向ければ、ちょうど礼を受けた椛と目が合う。さすがの彼女も、メイドの突拍子もない言葉に口もとが落ち着かずまごついている様子。ちょっと、何よその"どうしてお前のまわりには変な奴しか集まらないんだ"みたいな目は。私に聞かないでよ。
「こほん…まぁ、一先ずは良しとしましょう」
咳払いで己を落ち着かせながら、再び椛が二人を見据える。
「同行させていた白狼天狗に帰路を案内してもらいます。彼女について、麓まで送ってもらってください」
「何から何までかたじけない。後日、詫びの品を正式にそちらへお送りしよう」
「分かりました。その時には私が取り次ぎなどを担当いたします故、ご連絡を」
こうして二人は、椛が背後に控えさせていた白狼天狗に先導されて下山することとなった。
離れていく二人の背中を文はちらと見る。正直、自分が下山まで見てあげられない、という靄はあるものの、今回の場合は大天狗からの保証付きで、そもそも主である吸血鬼も共にいるのだ。…きっと、大丈夫だろう。
はぁー…っと。全く、天狗騒がせな出来事でしたねぇ、本当。くたくたです。…とはいえ、すぐに休息を取る訳にもいきません。これから書類とかをまとめなければ。
「…それで、」
伸びをしながら居間へと戻った文は、再び入口を向く。敷居を隔てた向こうでは、もう用事が済んだはずの椛が仁王立ちでこちらを見つめていた。
「何故あなたは残るのです?これから咲夜さんから事情を聞いていた旨を報告書に書かないといけないのですが」
「話がある。だから残った」
「ハァ…また職権がどうとか、ツマラナイお説教でもするつもりですか」
「そんなのはどうでも良い。些細なことだ」
「!…へぇ」
無関心だった文の瞳に、好奇の光が宿る。
「あなたの口からそれを"些細"とは、珍しいこともあるものですね」
「一つだけ聞かせろ」
面白がる文の声を聞き流しながら、椛は刹那、息を整える。ふと、椛の目がいつもと異なることに文は気付く。
「あのメイドは"どこから"お前の家のことを知った?」
瞳孔を鋭く細めた、黄金色の目。椛がこの目をしている時がどんな時かを、文はよく知っていた。
「…」
「言っておくが、"聞いてない"なんて言い訳は通用しないぞ。お前はそういう聞き込みをぬかるはずがない」
「あやや。これはこれは、評価されているみたいで何よりです」
「茶化すな。こっちは真剣に聞いている」
苛立ちで毛を逆立て始めた椛を一瞥し、文はため息と共に諸手を挙げる。
「はいはい、降参降参――魔理沙、ですって」
「やっぱりか!!」
雷鳴の如き声が部屋中に反響する。一瞬遅れて、小鳥が近くでばさばさ飛び去っていく音が、屋根に積もった雪がごっそり落ちる音が家に届く。ちらと窓の外を見た家主が、迷惑そうに顔を歪めるのが目に入る。
けれど、今の椛はそんなことには構わない。構っている場合ではない。わざとらしく耳をふさいでいる眼前の鴉天狗に、全てをぶつけなければいけない。畳をずか、ずかと踏みしめ、ふざけた奴の胸倉をつかむ。
「この際言っておくがな!お前がアイツらにしていることは"優しさ"でもなんでもない!お前は、ただ"甘い"だけなんだよ!!」
こういうことを言ったって、どこまでも我が道だけを進むこの馬鹿が話を聞くなんて、椛だって考えていない。今までの経験上、それはあり得ないことだ。分かっている。
「そうしていつまでも甘やかし続けるものだから、味を占められて、今回みたいなことが起こったんだ!!分かってるのか!?こんなことを続けてたら、取り返しのつかない災いが――」
自分だって言いたくない。こんなこと言いたい訳ない。けれど、哨戒として――白狼天狗という、天狗組織の下っ端として、椛が見て来た視線が、聞いて来た囁きがあるから。
それこそ、耳を塞ぎたくなるような、頭にずっとこびりついて離れなくなるような。そんな想像を、決して現実にはしたくない。だから、そのためなら。
「お前に降りかかるかもしれないんだぞ!!!」
"嫌われ者"になど、いくらでもなってやる。
「…」
はぁ、はぁ、白い吐息だけが、二人を隔てる。荒く肩を上下させながら、けれど椛は文から目を離さない。
…さぁ、どう反応する。またふざけたこと言ってはぐらかすか?それとも、あなたには関係ないと迷惑そうに引き剥がすか?けど、そうはいくものか。もう、それで済ませられる話ではなくなりつつあるのだ。
「それで?」
文の口が開く。瞳孔をさらに細くさせ、続く言葉に身構える。今日という今日は、どんなことがあっても、この胸倉を離してやらない――
「"そんなこと"を言うために、あなたは残ったのですか?」
「そッ…」
全身の毛が逆立つ。それは、様々考えを巡らせた椛も思いつきもせず、そして最悪の底を突き抜けた反応だった。
「お前、今」
「"そんなこと"」
けれど、引き寄せようとした手は、ピタリと止まる。さっきまでとは全く異なる声音に、つかんでいる胸倉が、途端に重くなっていくのが分かる。
そうして緩んだ手をあっさり文が引き剥がせば、反動で椛の足は揺れ、躓いて。一歩、また一歩後ずさり、真っ直ぐ立つのがやっとで。
「……何度でも言いましょう。職権と比べてもさらに"些細"なことだ」
はぁ、とため息をつきながら服を直した文が、こちらを見つめる。その瞳には、さっきまで何かしらの形で見せていた光はもうない。
「分かってないと、本気で思っているの?」
いつもの椛だったら"あぁお前は分かっていない"と即座に反論していただろう。あまりにも自分のことに楽観的過ぎると憤慨し、再び胸倉をつかんで長々説教を叩きこんでいただろう。
…けれど今はどうだ、体は全く動かない。そんなこと、言う余裕もない。
「なら、何故」
「あや?それこそ、あなたも既に分かってるはず」
唇の端を微かに動かすだけの嘲笑に、椛の背中に悪寒が走る。
そう、だ。椛だって、本当は分かってる。
けど。
「それが私の"するべきこと"だからです」
なぁ。分からない。
お前が人間のことを気に入っているのは知っている。淡雪のように地に積もればあっさり融けていく、そんな儚い生に出会い、惹かれ、あまつさえ求め走っていく、そんな天狗だってことは、分かっている。
けど、何故だ?何故、お前がそこまでする必要がある?何故、一片の淡雪を大切に抱き留める、たったそれだけのために、お前は自分の背中を無防備にさらしている?
何故?何故?
見たくない。見てられない。
「…お前こそ、分かっているだろう」
「何がです?」
「あのメイドは、紅魔館という、強大な勢力に属する人間だ」
複雑に絡まった糸をなんとかほどくため、たどたどしく声を出す。
「山へ侵入したからとて、傷付けてしまえばあの館の者が黙っていないかもしれない。だから、たとえ我々が捕まえたとしても、決して安易に彼女へ手出しはしなかった」
「…」
「…なぁ」
瞳孔が震える。縋るように、身体を前に出す。
翻意させることが出来ないのであれば、せめて、せめて。そんな細い糸口を見つけるために、椛は手を伸ばす。
「私たちのこと、少しは信用して」
「出来ませんね」
即答。氷点下の声は、天狗風となって全身を殴りつけ、唇を凍りつかせる。差し伸べた手を固めたままの椛に、文は能面をつけたまま、首を傾げる。
「――出来る筈がない」
どんより濁った緋色の瞳に、呼吸が荒くなる。反発、とかそういう次元ではない。拒絶。憤怒。軽蔑。失望…そして、絶望。瞬きすら許されぬまま、澱んだ混沌に吸い寄せられていく。
昏い。あまりに、昏い、禍々しい赫の世界。どうにか浮き上がってまた反論しようと、もがいて。もがいて。
けれど、圧倒的な重力と共に、アイツの意志は渦となってこちらを押し流していく。ぐるぐる暴れ狂う渦巻に、足から、胴から、そして指先に至るまで、己の体は沈み――
叫び声をあげるのを喉の先でこらえ、やっとのことで視線を逸らす。ぐっしょり汗で濡れた体を、冬の空気が容赦なく冷やす。
「…そう、か」
もう、文の顔を見ることは出来なかった。彼女がどんな表情をしているのか、怖くて仕方がなかった。
伸ばしかけていた手も、力なくだらりと下ろす。……そう、だ。そうだった。
――コイツをここまで追い詰めてしまったのは、"私たち"なのだ。
くるり、と踵を返す。一刻も早く、ここから飛び出したい。…コイツから、離れたい。
けれど、足はどうしても床を蹴ることを拒む。このまま終わらせることを、良しとしない。
……このまま出ていったら、再び面と向かうことすら、きっと自分が許さない。
地を蹴りかけていた足を緩め、その場に腰掛ける。背を向けたまま、ぽすり、麻紐でくくりつけた経木(きょうぎ)を畳みに置く。
「なんですか、それ」
「鹿肉だ。今が狩の季節ということは、お前も知ってるだろう」
「…それをどうしろと?」
「鹿鍋。作ってくれ」
嫌そうな吐息。きっと今、形の整った眉を小さく歪めているのだろう。
「どうして私がそんなことをしないといけないのです?言ったでしょう?これから私は報告書を」
「迷惑料」
強い声が、白い吐息となってしぼり出される。
「お前の所業を哨戒の立場で揉み消しているのは誰だと思っている。せめて、それくらいしてもらう権利はあると主張するが?」
「…」
駄目だ。どうしてもこういう言い方しか出来ない。こういう言い方しか知らない。
「…それに。非常に癪だけどな」
分かっている。今自分がしていることは、立ち去ろうとする相手の裾を、つかんでいるようなものだ。きっとみっともなく倒れ込んだこっちの手に、アイツのお召し物は泥で汚れてしまっているだろう。嫌がられて当たり前だ。私だって嫌だ。
…けど。言わなきゃ。せめて、これだけでも。
「――お前の作る鍋が、一番あたたかくて、旨いんだよ」
冷たい沈黙。はらりはらり空を舞う風花のような時間が、しばらく流れていく。膝の上に置いていた拳をぐっと握る。
耳を立てる勇気すら出ない。アイツの吐息一つ聞くことすら、今の自分には怖い。けれど、この手を蹴り飛ばしてくれるなら、むしろ早い方が良い。そうして欲しい。どうか。どうか――
「…仕方がありませんね」
ため息まじりの声と共に、何かが椛の背中にかけられる。いきなり包み込んできた何かに固まっていると、ぽん、と何か温かいものが頭に置かれた。
「ご苦労様。冬場の哨戒、寒かったでしょう」
そうか。私に着物をかけてくれたんだ。頭を撫でてくれてるんだ。そう気付いたのは、励ましてくれた声が、地声であることを理解してからだった。
…はは。コイツ、誰かの髪を撫でてあげたことねぇだろ。いてぇよ…
「鍋が出来るまでの間、火鉢に当たって待ってなさい」
わしゃわしゃ、乱暴に髪を弄っていた手が離れていく。きっとその時間は刹那にも満たなかったはず。さっきまでの痛みも、泡沫の夢だったみたいだ。
経木をつまむ、細く整った手。そのまま、すたすた離れていく気配。程なく、葱を切る軽快な音を伴奏にヘッタクソな鼻歌が萎んだ耳をくすぐる。
綿が中に詰められているのだろう。表着の暖かさが背中を通して伝わる。袖をぎゅっとつまめば、インクのしみこんだ古紙の匂いが、爪から染みこんでいく。
動かない。動けない。指を一本一本、袖に強く絡ませるごとに、小さな嗚咽が、喉から漏れてしまう。
嗚呼。あの羽毛が、人間"だけ"を包み込むものだったとしたら…むしろどれだけ良かったか。
…だったら。だとしたら。
――私がこんなに苦しむことだって、なかったのに。
味噌が煮える穏やかな匂いが、湯気と共に彼女を誘う。
…くぅ。甘えたがっている気持ちが漏れ出すかのように、小さく腹の虫が鳴った。
咲夜さんが基本ぽややんとしてて可愛い一方、あやれいむをバッチリ見抜いてて聡明さを感じさせてくれました。でもやっぱり少しズレてますね。できる人なんだけど…。
好きなセリフは「今度家に引っ張りこんだら」「災いがお前に降りかかるかもしれない」です。こんな厄介が運ばれてきても魔理沙を匿うことはやめないつもりな文ちゃんと、文ちゃんの行いから文ちゃん自身を心配する椛の腹の底が見えるシーンでした。特に椛のシーンは天狗組織の末端とし天狗社会の心配をしているわけじゃないところが窺えて好きです。前作での椛の対文ちゃんの態度が一貫しているのもあって、椛の感情がすんなり頭に入ってきました。
白狼との間で何か確執があるらしいですが、餅のくだりも含め、本編で全部語らないところが個人的に好きです。この物語のために用意された舞台ではなく、ちゃんと世界に彼女らが生きているんだなと感じさせてくれるというか。読者がすべてを知り得ないが類推はできるという塩梅が人物と世界観に奥行きを与えているように感じました。
それとラストの文と椛のシリアス展開は個人的にめちゃくちゃ好きです。これ入れてくるか…!!と嬉しかったですね。知人を家に匿う時点で天狗社会と知人への情との間で文ちゃんが板挟みになってしまいますし、彼女がそこで何を思うかを描くことは人格の深堀りになると感じてるので…嬉しかったですね。
半ば自分への使命として人間を庇ってるような印象を文ちゃんから受けましたが椛との仲そのものは悪くないのが余計に心苦しくなります。ほんと椛報われて欲しい
素敵な作品をありがとうございました!
飄々としている咲夜も甘ちゃんの文もカリスマの詰まったお嬢様も素敵でした
とてもよかったです