Coolier - 新生・東方創想話

湿原

2023/01/02 21:47:26
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湿原




×は言語である
言語であるからには、文法と文脈が必要だ
それを語るための習熟が必要だ









「こんなのも読めないのか。どれ……わたしに見せてみろ」

 友達の顔が自分よりもすぐれているのは結構だ。きれいな顔が近くにあると気分がよい。
 髪の色はどうだろう。博麗霊夢は金髪の自分を想像してみた。すると毎朝の鏡がまぶしそうだと思った。それなら金髪は別に要らない。
 料理の腕はどうだ。それこそ結構なことである。友達の飯がうまいことになんの不満があると言うのだ。
 友達の代名詞の魔法はどうだ。自分は魔法が使えない。似たようなことはできるけれども、御札だのと結界だのと古めかしく、どうにも芋の臭いがぬぐえない。しかし別に魔法をやりたいとも心底に思っているわけでもない。人間は精々が空を飛ぶくらいで充分である。
 やはり自分に不満はない。自分が友達よりも劣っているとは思えない。それなのに胸の内を去来する、この焦燥感はなんなのだろうか。
 気味がわるい。馬鹿だ。



 霧雨魔理沙が博麗の巻物を読みあげている。もちろん巫女になるためではない。霊夢が裏手の倉庫のほうから、それを持ってきたからである。それにも特に理由はなかった。倉の整理をしていると妙な物が見つかるのはよくあることだ。大抵は塵も同然の物が見つかる。それを持ちだしてきたのは単に暇をつぶせそうな塵だったからだ。
 しかし霊夢は巻物の中身を理解できなかった。もちろん急に巫女としての才覚が失われたからではない。字がきれいだったからである。つまり文字があまりに達筆なので読めなかったのだ。
 霊夢の目にはその文字は蛇どもが紙面でのたうっているも同然であった。以前に本居小鈴がふんふんと鼻息を高ぶらせて、この巻物と似たような書体の“高尚な”書物を、得意に読んでいるところを見たことがあった。
 何がそんなによいのだろう。何がそんなにありがたいのだろう。どうして普通に読めるだけで充分の文字を、右へ左へ酒乱の千鳥のようにくねらせるのだ。
 巻物をひらいたときも霊夢はそんなふうに冷笑的の気分でいたはずであった。しかし、そんなアイロニーを友達がぶちこわしにしてくれた。いつものように不意に現れてきて、彼女が巻物を読めないでいると───。

こんなのも読めないのか。どれ……わたしに見せてみろ

 こんな具合である。それから頼んでもないのに勝手に朗読しはじめる。しかも普段のように自分の無学を嘲弄するわけでもなく、そうするのが当然とでも言うように朗読してくるのである。易々と読みあげているその姿のさまになっているのがさらにむかつく。
 しかし、それは表面的のいらだちに過ぎなかった。仮に魔理沙が自分の不勉強を突いてきても、霊夢は平然としていられたはずなのである。そんな口撃はいつものことだし、別に学問に未練などなかった。
 むしろ霊夢は“咎められない”からいやなのだ。魔理沙が“さまになっている”のがいやなのだ。
 気味がわるかった。その振るまいは隣の世間の文脈であった。友達はそれを放棄してきたはずであった。だから魔理沙は隣に座っているのだろう。
 それなのに。
 どうして友達の根本はいつまでも“霧雨の娘さん”なのだ。









「ウーーン……ウーーーーン……」
「……」
「ウウウウ……ウウ……」
「うるさいですね……」

 小鈴は本をとじると霊夢をにらんだ。

「ふん。何が」
「うならないでください」
「誰が」
「霊夢さんのほかに誰かいますか」
「わたし……うなってた?」
「へえ。野良犬でした」

 指摘されると霊夢の頬がわずかに朱で染まった。それから彼女は手元の本を机に置いて、うとましいそうにそれを一瞥したあと、やわらかな来客用のソファにしなだれる。

「らしくないですね。哲学の本を読むなんて」

 霊夢が格闘していたのは“The Art Of Loving”と言うやつで、もちろん内容がいかにもむずかしいので彼女に分かるわけがない。彼女がその本でやれることなど、精々が妖怪をそれでしばきたおし、そのあと血だらけの本を返却して、小鈴を憤死させることくらいである。

「頭がよくなりたいんですか」

 と小鈴がおもむろに言った。

「頭?」 霊夢は指先で額の右側を掻きながら 「別にそう言うわけでも……」

 このまえ額の右側にふきでものができた。晩秋は季節の変わりを惜しむために盛大な宴会が増える。不摂生が肌を祟ったらしい。こう言うときに覿面なのが魔理沙の手製の軟膏で、霊夢は肌を大切にしろと彼女にそれを渡されていた。いつも寝室の棚に置いてあるのに、狙ったようにそれを切らしていた。
 魔理沙に会いにいくべきだろうか。しかし、どうにも会いたいと思えない。それに乞食のように薬を催促するのも癪であった。

「Qの本では不足ですか」
「Q? Qは……」 霊夢は逡巡すると 「Qは別に……頭がよくなるってふうでもないじゃん」

 一瞬間の沈黙が鈴奈庵を満たした。それから次の一刹那───馬鹿にしくさったような小鈴の爆笑が店に響く。

「ええ、ええ。そうですか、そうですか。Qは馬鹿ですか。ヒヒヒヒ、ヒヒ! ええ、ええ。そうですとも……馬鹿で……ひけらかしで。毒舌で。ちびで……」

 小鈴が急にまくしたてるので霊夢は気味がわるかった。妖魔本の悪影響で頭がおかしくなっているのかもしれない。やはり要注意人物である。

「だから……馬鹿とかじゃなく……別に頭は関係ないって」
「どう言うんです」
「魔理沙が……」
「あの人がどうしました」

 そこで霊夢は押しだまった。今の自分の胸を開かすのがどうにもはずかしいと思ってしまった。
 しかし、こうも考えられる───あるいは自分と小鈴の交友には共通点あるのではないだろうか。

「小鈴ちゃんは稗田の子としたしいでしょう」

 霊夢は質問に々々を返したけれども、小鈴は別に不満そうな様子もない。

「そうでもないです」
「そんなはずないでしょう」

 小鈴がその友達と一緒にいるとしあわせそうなのは見ているだけで明白であった。鈍感な霊夢にもそれと知れた。

「へえ……それなりでしょう」

 その返事を引きだされたのは不満そうにしていた。

「それで……阿求はその……」
「煮えきりませんか」
「だからさ! 阿求は良いところの子でしょう。でも、その……小鈴ちゃんの家はそれなりでしょう。失礼だけど……」
「そうですね」
「思ったりしないの……世間がちがうとか」
「それは金銭の話ですか」
「ちがう。いや……ちがわないかもしれないけど……それだけじゃないの。全部なのよ」

 小鈴は霊夢の傍の本を一瞥すると言う。

「それなら教養や振るまいですか」
「それもちがう。近いけど……ちがう」

 小鈴はすでに内心で霊夢の下手な言葉を分析しはじめていた。おそらく魔理沙の話をしているのだろうと彼女は解釈する。

「今さらそんなことは気にしませんよ。気にしても仕方がないでしょう。だから友達をやれるんじゃないですか。
 あいつも冗談で巾着袋の中身や知恵を自慢しますけど、それは別に本気でやっているわけではないですから。仮にあいつがうちの家に施しでもしたら、わたしたちは絶縁しなければならなくなる。それに……」
「それに?」

 小鈴が目をあやしげにひからせる。

「ほら……あいつは脆いからね。魔理沙さんとちがって」









「魔理沙ってさ……ピアノができるのよ」

 霊夢は素直に切りだした。魔理沙の話だと露見しているらしいので、すでに恥を隠すも何もなかったのである。

「そうですか」

 小鈴の反応は粗末であった。

「意外じゃないの?」
「成金の親は子供に舶来の楽器をやらせたがると相場が決まっていますからね」

 一度だけだ。紅魔館で宴会をやったとき、魔理沙のピアノを聴いた。もちろん霊夢はおどろいたし、周囲の妖怪も目を丸くしていた。それほど普段の彼女との仕草の差が大きかったのだ。今に考えると何匹かの妖怪がその落差に頭をやられていたような気もする。

「まあ……意外と言えばそうですね。あの人は悪童でしたから」
「悪童?」
「酒蔵の息子さんを大量の風船で飛ばして、親にぶんなぐられたりしてました」

 魔理沙のやりそうなことだな。と霊夢は内心で呆れた。

「大層に迷惑がられたことでしょうね」
「大人からはそうですね」
「子供はちがうの」
「あの人は同年代からはもてもてな人でしたよ」
「それこそ、なんでよ」
「つまり意外ってところがじゃないですか。ピアノもそうですけど……活発で闊達で……そのくせに野花でも見かけると不意に可憐で上品なところを見せる。それに男の子は一発でやられるわけですよ。あれは良いところの子にしかできませんね……どうにも」
「……ふん」
「それにしてもすごいですよね」
「何が」
「だって……あの人は豪商の娘さんだから、何も不足はないはずでしょう。それなのに独りで家を飛びだして、独学で魔女をやっていて───」
「ちがう。そんなのすごくないもん」

 霊夢は急に小鈴の言葉を切断した。額のふきでものをかゆそうにこすりまわす。気味がわるい。馬鹿だ。胸がむかついている。

「そんなの立派じゃない。小鈴ちゃんのように家で孝行するほうが何倍もすごいことよ」
「それなら魔理沙さんはすごくないんですか」
「ちがうけど……」

 ふきでものだけではない。全身がむずがゆくなったような気がしてくる。血管の中でなんらかの───“すさまじいこと”が這いまわっていた。霊夢はなんとしても小鈴の言葉を征服してやりたくなる。

「魔理沙のすごいところは……そんなことでもなんでもない。あいつの……あいつのすごいところはね……誰よりも箸の持ちかたがきれいなところよ。分かる?」
「霊夢さん」
「何?」
「きもちわるい」

 霊夢が小鈴をしばきたおしたので話はそれで終わった。









「それでわたしがしばかれたってわけ」
「そうか」

 魔理沙の対応はせつなかった。

「幻想郷の女は乱暴でいやですね」
「最近のおまえの口も大概だよ」

 後日になる。
 魔理沙が暇をつぶしに店へくると、小鈴は即座に先日のことを話した。霊夢の心中を勝手にさらしあげることで、頭の瘤を復讐しようとしたのであった。

「それで……どうですか」
「なんだよ」
「何って……箸ですよ! どうですか? 霊夢さんがそんなふうに想っていたと言うのは」

 当たりまえのように小鈴の襲撃は魔理沙にも向かった。
 霊夢の苦悶の種が魔理沙であるのだから、自分の瘤の遠因は眼前の悪質で陋劣な魔女である。と言うのが小鈴の回路であった。
 自分の弁舌で魔理沙がはずかしがりでもすれば、幾分かは気分が晴れるにちがいなかった。しかし当人は意外と平然に言葉を返してくる。

「その話はなんの弱点にもなりはしないよ」
「どうして」
「その話は霊夢と一緒に酔っぱらっているときの定番だからだ」
「ふん? ……どう言うんです」
「馴れそめなんだよ。わたしも霊夢に興味を持ったのは箸の持ちかたがやばかったからだ」
「やばかった?」
「もう」 魔理沙は知恵の輪をほぐすように両手をわちゃつかせ 「最低だ」 両手を“おてあげ”してみせた。

「ヘエーー……」

 小鈴はつまらなそうに椅子へもたれた。自分が“だし”にされたように感じたのである。
 これは惚気の親戚だ。と小鈴は察していた。

「犬にやってください」
「いやだね。犬には高級だよ」

 皮肉まで受けとめられてしまう。魔理沙のほうでも惚気のつもりで話していたらしい。小鈴はついに内心で敗北を宣言するしかなかった。
しかし、そのうち小鈴は冷静になるとひとつの疑問に衝突した。それは霊夢の箸の持ちかたのことであった。今では彼女とのつきあいも長くなった。だから飯を一緒に食べたこともある。そのときの彼女の箸の持ちかたは別にきたならしくもなかったはずだ。逆にうつくしいわけでもなかった。言ってしまうと平凡であった。
 そうなると魔理沙の主張に齟齬ができる。齟齬を見つけると突きまわしたくなる。なので小鈴は純粋に疑問を声に変換した。すると図らずも魔理沙の顔に一種のはじらいが浮かんだのはまさにこのときであった。

「わたしが霊夢に普通の箸の持ちかたを教えたんだよ。いや……箸だけじゃない。何もかもだ。あいつに人間の何もかもを教えるのは一仕事だった」 さらには遠くを見ているような調子で 「わたしが霊夢を人間にした」

 このときの魔理沙の可憐な表情を、しばらく小鈴は忘れないだろう。しかし、それは彼女の顔がうつくしかったからだけではない。彼女の表情と声には無意識に不気味な含みがあったのだ。
 それは情念であった。また確信であった。

わたしが霊夢を人間にした

 そんな妙な言葉をあきらかに無謬と決めこんでいた。
 小鈴は荒肝をひしがれたような気分になった。



「そう言えばッ」

 小鈴は急に話をとがめた。
 気味がわるかった。魔理沙がと言うよりもふたりの関係が不気味であった。先日の霊夢の態度も今に思うと怖ろしいような気がしてきた。
 ふたりの互いへの無自覚で強烈な執着を小鈴は怖れた。その湿度を怖れていた。それを他者の触れえざる、心の粘膜のように感じた。彼女はなんとしても眼前の相手をいつもの活発で闊達な友達に戻したくなる。

「ピアノができるそうじゃないですか!」
「うるさいな」

 小鈴の声はあからさまに大きかった。

「このまえ……霊……誰かにそんなことを聞いたから、ぜひとも拝聴したいと思いまして。はい」
「はい?」
「はい」
「ヘンなの……かまわないけど。ピアノがありそうな家に知りあいはいるのか。うちの実家は無理だからな」
「阿求の家にありますよ」
「フーーン……」
「どうです?」
「ふん。仕方がないな」

 魔理沙の声は満更でもなさそうな調子がにじみだしていた。
 しめしめ。と小鈴は思った。
 もちろん話を掏りかえるための機転ではあったけれども、別に魔理沙のピアノに興味がないわけではなかったのだ。
 小鈴は蓄音機で店に垂れながすくらいには音楽が好きなほうであった。しかし彼女のこの機転も魔理沙の次の一言でけしとばされることになる。

「霊夢も呼んでやろう」
「えっ」
「なんだよ」
「いや……なんで霊夢さんなのかなって」
「なんでも何もおまえと共通の友達だろう」

 魔理沙は小鈴の愚問を即座に切りすてた。
 当然だろう。友達を呼ぶのに理由は要らない。と言うよりは友達であること自体が理由になるだろう。
 仮に魔理沙がピアノを弾くところが、友達の家ではなかったとしたなら、自分は阿求に声をかけるはずである。だから彼女の提案を否定できるわけがないのだ。
 小鈴は先日の霊夢の湿度を回想すると猛烈にいやな予感がした。彼女が話を取りけそうと決心したころには、魔理沙が阿求のところへ連絡に行くと、すでにことのはこびが決まってしまっていた。







 魔理沙がピアノをやると言うので霊夢の不機嫌はさらに暴走した。さらに機嫌がわるくなると分かっているのに、どうして霊夢は稗田阿求の屋敷に来たのだろう。
 もちろん魔理沙の誘いだからである。彼女が一番の友達だからである。だから霊夢は無条件で機嫌を自殺させるしかないのである。
 座敷。秋昼。茶の香り。
 “知識人ども”が本の話で盛りあがっている。そのかたわらで霊夢は高級そうな茶を凍りついたように眺めていた。しかし反対に思考は茶の湯気と同じように右へ左へ落ちつかなかった。



 魔理沙は好きだ。それでも霧雨の娘さんは“今では”きらいだ。と言うのが霊夢の漠然であった。



 今でもおぼえている。
 人里。茶屋。茶の香り。
 隣の席の“育ちのよさそうな娘さん”と目が合ったときのことを。
 どうして育ちのよさそうな娘さんと思ったのだろう。それは箸の持ちかたがあまりにきれいだったからである。
 それに箸だけではなかった。ふわふわの金髪。座っているときの姿勢。利発そうな顔の立ちかた。それを総合的にきれいだと思えた。
 だからこそ───そのあとの急転を今でも夢に見ることがある。
 育ちのよさそうな娘さんが自分のほうを見る。育ちのよさそうな娘さんが立ちあがり、自分のほうへのしのしと歩いてくる。それから育ちのよさそうな娘さんが言う。

「なんだその塵屑のような箸の持ちかたは。見ているだけで不愉快になってくるぞ」

 このとき霊夢は産まれてはじめての殴りあいを経験をした。



 ふたりがまともに会話をしたのは店を叩きだされたあとであった。もちろん店は半壊していた。それを背景にふたりはとぼとぼと夕方の人里の通りを歩いていた。
 人影はすくなかった。それは妖怪の時間が迫っているからだろうか。それとも霊夢が道を歩いているからだろうか。
 誰かと一緒に道を歩く。
 それは産まれてはじめてのことであった。

「ひどいの」
「何がだよ」

 魔理沙は痛そうに頬を揉みほぐして、唾と一緒に血を地面へ吐きだした。

「箸の持ちかた」
「だから塵だと何度も言ったんだ」
「そんなの誰にも言われなかった」
「親が馬鹿なんだな」
「いないわよ。親」
「嘘を言うな。親もなしに生活をできるわけがないだろう」

 魔理沙は幼少期の時点ですでに賢しかったので、親に反抗しているくせに親の必要を理解していた。

「できるわよ。だから生きているんじゃないの……それにわたしは神さまの子供らしいから」
「…………なんて?」
「だから神さまの子供なんだってば。妖怪をしばきたおしてあげると大人はそんなふうに言うわ。みんながそんなふうに話すわ」

 次の刹那に魔理沙は爆笑した。抱腹絶倒と言うような感じで今にも地面へころがりまわりそうでさえあった。
 ふたりは立ちどまった。
 霊夢の顔色が途端に林檎のそれになる。
 それは産まれてはじめてのことであった。

「何がおかしいの!」
「ウヒヒヒ、ヒヒ……おかしいね。箸も普通に持てないような神さまの子供がどこにいるんだ。それならわたしは造物主の子供になれるぞ」
「何よ……造物主って」
「馬鹿なんだな」

 霊夢はさらに憤然とする。
 それは産まれてはじめてのことであった。
 霊夢は気がつけない。自分が産まれてはじめてのことを次々に経験していると気がつけない。

「それならわたしはなんなのよ。なんだと言うの。馬鹿じゃないならそれが分かるはずでしょう」
「人間だろう」

 魔理沙は平然と言ってのけた。

「おまえはあきらかに普通の人間じゃないか」
「……」

 彼女は“ぴん”とこなかったらしい。呆然と無垢な目で魔理沙を見つめている。
 空白の瓶のような子供だな。と魔理沙は思った。
 この子供が山の巫女であることは格好ですでに気がついていた。そのうえで魔理沙は大人たちが霊夢を評するときの言葉を追想していた。彼女が別に妖怪のたぐいではないとしても、やはり彼女が人里の外の文脈にあることを。
 霊夢が妖怪をしばきたおせば、人々は尊敬こそするけれども、それはしたしみからではない。だから彼女は漠然と世間を忘れたような情緒を持っていたのだ。彼女は妖怪をしばきたおす。しばきたおすと道が割れる。道が割れると独りになる。独りになると手本がいなくなる。
 だからこんなふうになるのだろう。
 ときには霊夢と笑ってくれる。ときには彼女と泣いてくれる。ときには彼女をしばいてくれる。そんな大人が彼女の周囲にいなかったのだろう。
 霊夢の周囲には基準がなかった。また指標がなかった。彼女は人間の手本を必要としていた。
 霊夢は魔理沙の言葉を噛みくだくために長々と逡巡していた。
 内部に“すさまじいこと”が吹きすさぶ。
 それは物事を深くに考えさせる。
 物事を深くに考える。
 それは産まれてはじめてのことであった。

「分からないか」
「分からないわ」
「知りたいとは思うのか」

 魔理沙は初対面の自分に真剣な目で言ってくれた。彼女の瞳孔が霊夢の内部を捉えるためにひりついていた。
 それが視線の言語で霊夢の中心に穴を開けた。彼女は真剣な人間の瞳のうつくしさに呆然とさせられる。

「うん」

 その返事も呆然としていた。
 しかし、それはたしかに霊夢の“人間の言語”でもあったはずだ。
 魔理沙はそれに笑顔で返す。

「わたしが人間を教えてやるよ」









 雑談のさなかに霊夢が急に立ちあがったので、自然とほかの三人の視線は彼女へ向いた。
 沈黙、数瞬。
 霊夢はそれを痛々しいように感じた。尤もそれを針のように感じたのは彼女だけであったけれども。

「どうした」

 魔理沙が気を使った。

「風に当たってくる」

 霊夢は魔理沙を見もせずに幽霊の態度で室の外へ去っていった。開けっぱなしにされていった、硝子戸の外の縁側の景色から、寒色晩秋の風がはこばれてきた。
 阿求が咳をしたので小鈴が戸を閉めに立ちあがった。それを尻目に魔理沙は申しわけなさそうに言う。

「わるいな」
「気分がわるいのでしょうか」

 阿求は自分の体調も気にせずに言う。

「機嫌がわるいんだよ。今日の朝に会ったときからだ」
「そうなんですか?」

 今度は小鈴の質問であった。彼女は戸を閉めきるといそいそと自分の座布団に戻ってきた。

「そんなの一目瞭然じゃないか」

 小鈴は先日の霊夢の妙な発作を見ていたので、魔理沙と彼女が一合することが不安であったのに、意外と今日の彼女の態度がいつもどおりなので、さいわいだと安心しきっていたくらいであった。
 しかし魔理沙に言わせるとそうでもないらしかった。

「ふたりとも好きな譜はあるのか」

 ふたりはなんでもよいと言うようなことを返した。

「それなら演奏は静かな曲にしよう」
「へえ。わたしたちはどちらかと言うとその派閥です」
「それはよかった」

 小鈴と阿求は典型的な読書屋として、静謐な音楽がこのみの人種であった。

「魔女ですね」

 そこで阿求がくすくすと笑いだした。しかし、そこに嘲笑の感じはなかった。むしろ大人が子供のいたずらに微笑するような調子であった。

「なんだよ」
「わたしたちのこのみなんて、どうでもよろしいのでしょう。霊夢さんをいつもの調子に戻したいから、静かな曲で慰めてあげたいのでしょう?」

 魔理沙は帽子を深くにかぶった。
 そして言う。

「どうかな」



 鍵盤の上で傷だらけの指が踊っている。その傷は魔理沙の今の生活の表現である。
 阿求の屋敷にピアノが置いてあるのはそれを設置することに一種の権威があるからに過ぎなかった。つまり富の誇示であった。人里の富家の舶来品は大抵がそのために存在していた。阿求のような特殊な立場の富豪の屋敷でさえもその法則をまぬがれているわけではないらしい。
 どこの家も一緒なのだな。と魔理沙はアイロニーを感じた。
 その感傷は音に乗りだし、静かな音楽をさらに沈めた。
 あの頑固で昔気質の親でさえも、その文脈を脱することはなかった。しかし、それがいやで魔理沙は家を出たわけではない。彼女は魔法がやりたかった。それが自分の文法であった。その文法が偶然にも実家の語彙と相性がわるいに過ぎなかった。
 だから皮肉を感じるのだろう。自分は久々にピアノを弾いている。
 その技術は今の自分の文法ではない。これは自分の指がこぎれいなころの文法であった。



 短針が東を見るくらいの時刻になっていた。その曲名を知らないのにソナタの第一楽章はのちの月夜を霊夢に連想させた。
 うまいのだろうな。と霊夢は思った。
 しかし、それは霊夢の感性の判断ではなかった。単に隣の知識人どもが魔理沙の演奏を沈黙で認めているからに過ぎなかった。
 自分に音のよしあしは理解できない。だからこう言うふうに他者の反応を慮って、それを目安に友達の力量を判別しているのだ。
 尤も昔の自分ではこうはできなかった。また不要であった。それは自分の傍にまことの交友がなかったからだ。
 霊夢は考える。すさまじいことに没頭する。

それなら教養や振るまいですか

 と小鈴は聞いてきた。
 霊夢は“ちがう”と答えた。これは絶対に魔理沙の教養や振るまいへの嫉妬ではなかった。さらに底のしれないことがあった。
 思いだせ。
 あるとき魔理沙が空を飛べるようになって、それを見せに一番に自分のところへ来て、彼女は 「同じになったよ」 と笑っていた。
 しかし霊夢には別の解釈もできた。魔理沙は空を飛ぶようになることで人里の文脈を切りはなし、自分の文脈へ勝手に“落っこちてきてくれた”のである。活発で闊達で可憐な霧雨の娘さんが自分の世間の文脈へ墜落してきたのである。
 それがどれほどにうれしかったことだろう。
 そのときすでにふたりは一定の交友をしていたころであった。互いに一番の友達であると言えた。それなのに霊夢は魔理沙との距離をどこかに感じとっていた。畢竟それは彼女がどこまでも人里の文脈の住人だからであった。
 そこに溝があった。そこに崖があった。そこに無情の断絶があるのであった。
 しかし、これからは同一の文脈で会話ができる。同一の文法で遊びができる。霊夢はそんなふうに感じたのだ。
 思いだせ。
 それが実際ではなかったことを。やはり魔理沙の根本が人里の文法で構成されていることを。それをいつかに実感した。人間になるほどに認めさせられた。
 それを箸の使いかたに見た。
 それをピアノの旋律に聴いた。
 だから以前は可憐だと思っていた、霧雨の娘さんの文法をきらいになる。

家に帰ろうと思うんだ

 単にこの一言を怖れた。また要因を怖れた。それが“すさまじいこと”を肥大させた。
 そんな要因は世間にいくらでもころがっていた。
 おそらく魔理沙はその気になりさえすれば、いつでも人里に回帰できるはずであった。いとも簡単に。
 魔理沙にはそれをできるだけの下地が充分にあった。容姿があった。教養があった。ほかにも様々なことができた。すべてが人里へ戻るには充分な技術だ。この可憐な友達が家出娘だからと言って、それがなんの保証になってくれるだろう。
 仮に人里の男としたしくなる。それから恋をする。すると所帯を持つ。もちろん子供ができる。急に友達は人里の文脈の人間へと逆転して、そうなると二度とこちらの文法を使わなくなる。いとも簡単に。
 魔理沙の魔法への情熱を信用していないわけではなかった。しかし、そんなことはいくらでも起こりうることであった。さらにはその判例は腹が立つことに自分であった。
 そうだろう───自分も魔理沙の箸の持ちかたに一発でやられて、生きかたが一変に変わってしまったくせに。
 それは価値観が簡単に変わるという、模範的な症例にふさわしかった。
 霊夢のふきでものは悪化して、ヘンな汁を溜めはじめていた。
 やがて演奏が終わった。
 残響。知識人どもの拍手。
 気味がわるい。馬鹿だ。
 思いしれ。









 ピアノの演奏が終わったころには、すでに太陽が山の天辺へ腰を据え、空のカンパスを蜜柑色に染めていた。

「日も暮れてきたので今日は泊まっていきなさい」

 阿求が勧めるので三人は屋敷で夕餉をすることになった。食事は意外と鍋であった。たしかに晩秋の夜は寒いので選択としては妙ではない。妙なのは阿求のような家柄の人間が客人に鍋を振るまること自体であった。

「どうして鍋なの?」

 その不躾な質問をできるのは、もちろん友達の小鈴であった。

「……囲ったことがないから」

 阿求がはずかしそうに答えると小鈴は彼女の背中をばんばんと叩くのであった。



 食事のさなかでも霊夢は口が少なかった。会話に相槌ばかりを返した。魔理沙の手元も見ないように努力してもいた。今の自分が彼女の箸の使いかたをまじまじと見ると、何をしでかすかも分からなかった。
 しかし、こう言うときこそ───ことは万事に進まないと相場が決まっているのである。つまり知識人どもの会話は霊夢の粘膜を刺激するような方向へ舵を取ることになるのであった。

「この清酒は六軒先の酒蔵さんが造っているんですよ」

 阿求が不意に言った。

「へえ……あそこの」

 小鈴がしみじみと言う。

「どうかしたの」
「いや……じつは前にその家の息子さんの話を霊夢さんにしたからね」
「話って?」
「あんたにも言ったことがあるでしょう……風船の息子さん」
「あいつか!」

 叫んだのは魔理沙であった。それから昔の自分のやらかしを回想したらしい。急に大声でげらげらと笑いだした。

「懐かしいな。あのときは親にぶんなぐられたっけ」
「笑いごとじゃないですよ……知っていました? あのころの息子さん……魔理沙さんに首ったけだったんですから」
「知っていたさ。だからあの家の息子で実験したんじゃないか。人間は惚れているやつを無条件で許すようにできているんだから」
「余計にわるいですよ」
「何?」 そこで霊夢が口を入れる 「なんなの……いつ? どこで……惚れたって」

 その瞬間に室の温度が急激にさがった。質問の内容のためではない。霊夢の声があまりに剣呑な圧を含んでいたからだ。

「すこしは聞いたんだろう?」

 魔理沙は温度を回復するために明朗な調子で返した。

「惚れたの腫れたのは知らないわよ」
「昔の……子供のころの話だよ」
「今でもそいつは惚れているの」
「だから昔のことだってば。そんなの知らないよ」
「そいつと所帯を持つの」
「……所帯!、?、!、?」

 魔理沙は霊夢の唐突な発想に目を丸くした。爆弾をぶんなげられたような気分になり、彼女は一気に酒の酔いが抜けてしまった。

「そう言うことでしょう、惚れたの腫れたのって」
「飛躍しすぎだろう。昔のことでそんな……所帯がどうとか……」
「そう」
「納得したか」
「うん……よかった」 霊夢は安心したように 「あんたが所帯を持てるわけないもんね」

 途端に室が静まりかえった。



 霊夢の発言は特大級の爆弾として、室の雰囲気に空襲を落としていた。その沈黙は悲痛の一言に尽きた。絶対零度の沈黙であった。
 小鈴と阿求は息を詰まらせている。

「……なんて?」

 かろうじて───魔理沙は蒼白な顔で返事をしていた。声が寒がるようにふるえていた。霊夢の発言が信じられなかった。言葉をまちがえたのだと信じたかった。
 しかし、それなのに霊夢はさらにかさねる。

「あんたが所帯を持つなんて、考えるだけで気味がわるい」

 それは魔理沙の分水界を越えるに充分な言葉であった。机に拳が叩きつけられ、ついに彼女は立ちあがった。小鈴と阿求が子犬のような声を漏らした。

「……謝ったら……許してやらないでもないぞ」
「……」
「謝れ!」
「気味がわるい! 気味がわるいってば!」

 次の一刹那!
 腹のあたりを強烈に蹴りとばされて、霊夢は壁の近くへぶっとばされていた。猛烈な痛みが腹を襲った。もぞもぞと虫のように畳へうずくまった。そんな彼女の無様な姿を見ても魔理沙の憤りは冷めやらない。
 これほどの侮辱を受けたことはない。魔理沙が歯をぎしらせる。
 家出をしたことで人里の連中に皮肉を言われたこともある。野蛮な妖怪どもに人間と言うだけの理由で嘲笑されたのはかぞえきれない。
 しかし、霊夢の口から。
 まさか、こんな、唐突に。
 思いしれ。

「まともな親もいなかったような馬鹿な餓鬼は普通の礼儀も知らないらしいッ」

 普通の人間が言われてしまったら、泣いてしまうほどの侮辱である。それでも相手はあの霊夢だ。彼女はふらふらと立ちあがり、憤然と魔理沙に投げかえす。

「あんたのピアノ! 塵屑で! 無様で! 聴いているだけで不愉快だわ!」
「貧乏人が! 耳も腐ったか!」
「うるさい! 成金娘! 気味がわるい!」
「孤児!」
「馬鹿!」

 そのうち両方が同時に言う。

「死にくされ!」

 それから壮絶な喧嘩がおこなわれた。
 技術も何もない。相手を征服するための単純などつきあいである。
 霊夢が頬を張る。魔理沙が耳元を殴る。
 霊夢が腕に噛みつく。魔理沙が髪を引っぱる。
 子犬たちが室の隅へ避難している。ふたりの喧嘩に。ふたりの顔に恐怖している。
 それはふたりが本気で妖怪を始末するときの表情であった。
 こうなると魔理沙のほうが得意だ。いつもの遊びとは原則がちがう。彼女は昔の素行のわるさで素手の喧嘩に馴れていたし、自堕落な霊夢よりも普段の活発な生活で体ができている。
 段々と形勢が魔理沙のほうへ流れはじめていた。流れるほどに霊夢はさらに意固地になる。止まれない。已めたいのに止まれない。
 自分は魔理沙に何も伝えられていない。
 だからこんなことになっているのだ。
 おそらく自分がわるいのだと思った。
 こう言うときに災いするのはいつも自分の口の下手さなのだ。
 それなのに原因が分からない。
 自分の感性の何がまちがっているのかも理解できない。
 どうすれば───自分の文法を。自分の文脈を。
 魔理沙と共有することができるのだろう。彼女が自分を人間にしたことで去来するようになったこの感情を───この焦燥と不安の漠然を───どうすれば。
 霊夢の苦悶は暴力で外部に変換される。
 想いしれ! と霊夢は心中で慟哭した。
 霊夢は急に猛然と頭を振りあげると、自分の額を魔理沙の額に打ちすえる。



「あっ」

 まぬけな声がした。
 その声を発したのは霊夢のほうであった。打たれたはずの魔理沙ではない。彼女のほうは声もださずに痛みで頭を押さえていた。
 霊夢は自分の額に手のひらを這わせた。魔理沙も痛みが落ちついてくると彼女の妙な様子に気がついた。冷静に彼女のほうを見た。

「えっ」

 魔理沙は目を丸くした。視界に霊夢の前髪で隠されていたはずの、額の無残なふきでものが映っていたのだ。それが額の衝突でぶっつぶされて、彼女の瞼にヘンな汁を垂らしていた。
 魔理沙の顔が今度は別の理由で蒼白になる。
 それが喧嘩の決着であった。

「ごめ───」

 魔理沙は反射で言おうとした。しかし霊夢がそれを許さなかった。彼女は言葉を封じるように 「ひどい、ひどい」 とわめきちらすと猛然と戸のほうへ走りだし、それから右足で戸を遠慮もなしにでぶちやぶると、靴も履かずに博麗神社のほうへ飛んでいった。
 魔理沙は呆然のあと不意に室の中を眺めた。その惨状は霊夢と最初に喧嘩をしたときと妙に様子が似ていると思った。



 盃に秋月が姿を現していた。盃を揺らすと秋月が溶けた。それを一気に飲みほすと喉がしびれた。どうにもうまいと思えない。鍋をみんなで囲っているときあんなにおいしいとおもったのに。どんなに上等な酒も誰かと時間を共有しないと意味がない。
 そのうち誰かの足音が聞こえてくる。魔理沙はそれに振りむこうともしなかった。さらに盃へ酒を注いだ。飲まないとやっていられなかった。

「自棄酒は毒ですよ」
「阿求か」
「よろしいですか……隣」

 魔理沙は返事をしなかった。なので阿求は勝手に座ることにした。自分の屋敷のどこに座ろうと彼女の勝手だ。
 ふたりの背後には霊夢が右足でぶちやぶった、件の硝子戸の“存在の空白”が残っていた。魔理沙はそれが妙に寂しかった。

「小鈴は寝たのか」
「はい」
「わるかったな……泣かせてさ」

 阿求はまずそうにうつむいた。霊夢が去ったあとの魔理沙の最初の仕事はふたりを慰めることであった。特に小鈴のほうに泣かれてしまった。ふたりの本気の顔がよほどに怖ろしかったらしい。

「薬になりますよ。あいつは……ほら……あなたがたの生活に憧れているから」
「いやなのか」
「いやですね。乱暴で……暴力で物事を解決するのに馴れすぎている。尤もそれをたよりにしているのは人里のわたしたちですけどね」

 耳が痛かった。たしかに霊夢の言葉があまりにひどかったとしても、言葉の意図を吟味せずに腕力を選んだのは自分である。

暴力で物事を解決するのに馴れすぎている

 その不器用さは人里の外の文脈に住みつく、すべての知的な生きものたちの弱点である。

「でも……あれは霊夢さんがわるいですよ。それはたしかです」

 それでも阿求は急に魔理沙の側へ味方をした。そこには霊夢への憤りがあるらしかった。この騒動の根本的の問題も結局は彼女の理不尽な言動に帰着するのだ。

「女に“所帯を持てるわけない”だなんて……」

 阿求の指摘は最もである。霊夢の言動はすべての女の怨敵なりえた。それくらいの威力があった。

「意図があるはずだ」

 魔理沙は霊夢を贔屓にそんなふうに擁護するわけではなかった。あのときは冷静になれなかったけれども、彼女は友達の口の下手さを経験で知っていた。

「機嫌がわるかったからではないですか。それであんな───」
「それはない」 魔理沙は即座に否定して 「霊夢は……わたしが好きすぎるからそんなことは本気で言えない」
「呆れた」
「知らなかったな……あいつの額にあんなふきでものがあるなんて」
「ふきでもの?」

 阿求は霊夢のふきでものを見ていないのでその呟きの意味が分からなかった。それを知らずに魔理沙は言葉をつなげる。

「いつもそうなんだ。言葉で伝えるのが下手で……それが妙な癇癪につながる」
「友達を已めようとは思わないんですか」
「馴れてるよ。あいつの癇癪が爆発するなんて、これまでに何度もあったことだ」
「寝ましょうよ」

 阿求は提案した。一見すると魔理沙は落ちついているように見える。しかし声色はあきらかに憔悴していた。それほどに霊夢の口撃がこたえたのだ。こう言うときは寝るしかない。少なくとも自棄酒を飲むよりはよほどよい。

「眠って、休んで……それで人間の問題なんて、半分は解決しますから」
「残りの半分はどうするんだ」
「もちろん言葉で解決するんです。暴力では駄目です。無理です。人間と々々の関係は畢竟……言葉で解決するしかないんです。人間は何千年もそれでやってきたんです」









 後日の朝になる。
 魔理沙は軟膏をたずさえて、神社の寝室の前で座っていた。
 寝室の襖には何重にも結界が貼られていた。いかにも自分を拒むと言うふうないでたちである。これに妖怪が触れてしまったら、一瞬間で蒸発してしまうだろう。

「おい」

 魔理沙は声を発した。返事はなかった。
 これはいつもどおり。霊夢が拗ねると大抵はこんな調子である。
 それにしても目のまえの結界が城壁に見えた。真面目に挑むのが億劫になる。壊せないことはないだろう。八卦炉で最大力をぶっつければ、なんとかなるにちがいない。もちろん神社と山が吹きとぶことを考慮しなければである。

「軟膏を持ってきてやったぞ」
「……軟膏?」

 今度は応答があった。

「切らしているんだろう」
「……遅いわよ」
「遅いも何も切らしているとおまえが言わないからだ」
「だって……あんたがこわかった」
「……こわい?」
「うん」

 もちろん魔理沙はその言葉を正面で受けとるようなことはしない。彼女は霊夢の下手な言葉の意図を慎重に解剖しなければならなかった。

「わたしがいやになったのか」
「ちがう。ちがうわ、ちがうわ。いやになんてならないわ」
「それなら開けてくれ。一生そこにいるつもりでもないだろう」
「……」

 数十秒の停滞があった。魔理沙はその時間がうとましくなり、喉の奥のほうがいやに渇いてきた。
 たしかに阿求の言うように言葉で解決しようとしていた。しかし、魔理沙はこの流れをなんらかの戦争に近しいと感じた。
 つまり言葉の戦争。あるいは言葉の冷戦と定義できた。
 そのうち霊夢が口をひらいて、魔理沙に一陣の爆風を浴びせる。

「それなら裸で踊ってちょうだい」
「……裸!、?」
「人里の往来で」
「往来!、?、!、?」

 魔理沙はあまりに突飛な霊夢の飛躍に鸚鵡を返すしかなかった。
 霊夢は自分に殺されたいのかな。と魔理沙の冷静な部位が告げた。
 もちろん別の部位は今にもはちきれそうであった。すでに脳の血管が何本もぶちぎれているような気がした。
 それでも魔理沙は根性で憤りを征服した。心中で“落ちつけ、々ちつけ”と平静の呪文を何度も唱えた。なんとしても会話が下手な友達の意図することを、日の当たるほうへ導かなければならなかった。昨日の繰りかえしになるのは勘弁である。

「どうして……その……人里の……往来で! ……その……裸で……踊ってほしいんだ」

 声が切れ々れになってしまった。途端に顔が爆発しそうな色に変わった。この屈辱は昨日の屈辱よりも別の方向へ先鋭であった。
 それでも口にするだけの甲斐はたしかにあった。魔理沙の屈辱は霊夢の返事でわずかに報いられることになる。

「だって……そうしたら……誰もあんたと所帯を持とうとは思わないでしょう」

 また“所帯”である。この熟語には昨日との関連があきらかにあった。魔理沙はそれを鍵にして、霊夢の穴を探そうと試みる。

「どうして所帯を持てないと思うんだ。おまえの中のわたしはそんなに器量がわるいのか。そうだとすると悲しいぞ」

 魔理沙は他者からの信頼の一部を器量で勝ちとれると信じるくらいには容姿に自負があった。さらには霊夢からの信頼の一部もそれで勝ちとったと思ってるほどであった。なのに肝心の彼女がそれを認めてくれないとすると心中への深刻な打撃であった。

「何? なんのことなの」
「だから……おまえが言うところ……わたしは所帯が持てないと思うんだろう」
「馬鹿なの? どこの男があんたと所帯を持つのをいやがるのよ」
「……?……?」

 魔理沙は目を白黒とさせた。まるで意味が分からなかった。昨日と言っていることが逆である。

「よし、よし……待て……時間がほしい」

 魔理沙は考えた。霊夢の回路を考えた。
 魔理沙は霊夢を考慮した。彼女の文法。彼女の文脈。彼女の感性。彼女との交友。彼女との歳月。それを総合的に考慮した。
 すると魔理沙の結論は終局的にはこうである。

「おまえ……理由は知らないけど…………その…………寂しかったのか───」
「寂しくないもんッ」

 雷の速さで霊夢の返事が飛んできた。それは彼女の図星を突いたと一般であった。
 ついに魔理沙は安心できた。



「仮にわたしが所帯を持ったら、おまえはそんなにいやなのか」

 それを機会に魔理沙はさらに攻めこんだ。

「……いやよ」
「それが“気味がわるい”のか」
「だから何度も言ったじゃないの」

 魔理沙は溜息を吐いた。本当にこの言葉の下手さが原因なのだ。霊夢はいつも独特の感性で言葉を吐きだす。そのうえで他者がどう言うふうに受けとるかを考慮しない。あるいはできない。それが軋轢を誘発させる。
 魔理沙は霊夢の理解者を自認していた。しかし畢竟それは彼女の性格の理解者であって、感性の理解者になれているわけではなかったのだ。
 霊夢の感性は言ってしまうと衝動的な欲望の奴隷であった。今日には春が好きだと言えば、明日には冬が好きだと言う。今日には晴天が好きだと言えば、明日には雨天が好きだと言う。その日に思ったことを勝手に言う。それが彼女の感性であった。つまり衆生一の気分屋であった。

「どうして寂しいんだ」
「知らないわ」
「知らないわけがあるか。自分のことだろう」
「本当に知らないんだもん」

 それは嘘ではなかった。本人にも内部を完全に言語化できていなかったのだ。霊夢は他者に疎いのと同じように、自分の内部の具合も漠然であった。

「それは迷惑なことだ。分かっているのか」
「……あんたにだけよ」
「わたしには迷惑をしても痛まないのか」
「ちがうわ、ちがうわ。だって……いつも我慢しているわ。それでもあんたにはそれを“許す”わ。自分を許すわ」
「許すって……」
「態度を……あんたに態度を許すわ」
「それなら理由を言えよ。態度を……許せるんだろう」
「……」

 それでも霊夢は心中も襖も開けなかった。彼女の強烈な意固地がそうさせていた。
 しかし、そのとき魔理沙は開錠の算段をすでに立ておわっていた。そのための鍵の居場所を会話の中で見つけていたのだ。
 だから魔理沙はこう言うふうに霊夢の粘膜を刺激してみる。

「じつはこのあと酒蔵の息子のところへ遊びに───」
「駄目!」

 雷速で襖が開いたので魔理沙は即座に霊夢を引っぱりだした。









「……ずるい」
「魔女だからな」

 魔理沙は安物の餌で大物を釣りあげた、漁師の気分が分かるような気がした。彼女は霊夢を手中にしていた。

「ほら」 霊夢と目を合わせて 「これで逃げられない」

 霊夢が子供のようにむずがった。むずがるほどに魔理沙のほうでも抱擁を強めた。それは絶対に逃がさないと言う、彼女の意志の表出でもあった。

「言えよ」

 魔理沙は手のひらで霊夢の両頬をくるみこんだ。彼女の手のひらは残酷なほどに柔和な熱を持っていた。感触が霊夢に内部を溶かされているような錯覚を与えた。

「わたし……」

 霊夢はまごついた。その仕草は魔理沙に致命的な隙を与えると一般であった。彼女はまごつきの中に城壁の崩れを認めた。
 魔理沙は霊夢の耳へ口を寄せる。

「言って?」

 それから水飴のような声で囁いた。それは人里の外の技術であった。その媚びるような声は絶対に霧雨の娘さんにはだすことができないだろう。それは悪質で陋劣な現在の彼女───魔法の森の魔女の一撃であった。
 それが霊夢の頭を一発でやらした。彼女の耳にぞくぞくとしびれるような感覚が走りぬけた。

「已めてよう……」

 霊夢は懇願した。彼女のまなじりに二筋の藍がにじみだした。どうしても魔理沙の視線と声に抵抗できなかった。
 魔理沙のこぎれいな瞳のために、彼女の粘着質の声色のために。霊夢はついにまことの返事をしなければならないところへ追いつめられていた。
 霊夢の内部で極限の意固地と無自覚な本音が衝突していた。
 何を言うべきなのだろう。霊夢は単に魔理沙と一緒にいたいだけであった。それで充分であった。それが当然であった。そんなことは言語化の必要がないことであり、彼女はそれに終生まで甘ったれていたかった。
 しかし霊夢はこれでも人間であった。今では人間であった。困ったことにひとつの“人心の存在”であった。
 霊夢は必死に自分の未熟な言葉の海洋を泳ぎまわった。その中に使えそうな語彙を探した。彼女は海上の言葉の島々を航海でつなぎあわせ、その航海が終わると岸辺でこんなふうに純動する。

「あんたがそこにいたから、人間になったんだから。
 あんたがわたしを人間にしたんだから。
 だから、だから」

 ほとんど霊夢は叫んでいた。

「わたしの存在にはあんたが必要なの。
 わたしの人間にはあんたが必要なの。
 どうしても必要なの。
 わたしにはあんたが必要なの」



 魔理沙は驚愕した。霊夢への抱擁を急に已めた。彼女の回路は一瞬間に混乱した。思考が左右へ錯乱した。自分は今───恋愛的の告白をされたのだと誤解した。
 しかし、すぐにそれが錯覚であると気がつかされた。
 霊夢の瞳と声の中には恋愛的の含みがなかった。その両方に燃えるような暖色がまるでなかったのである。たしかに彼女の顔面は心中の吐露のために赤くなっていた。それなのに言葉の熱烈さに比すると今の彼女の印象は無知な子供のそれであった。
 欲しいから───欲しいとのたまう。
 好きだから───好きだとのたまう。
 そのような単純な印象があった。そう言うふうに素朴であった。
 霊夢の感傷は子供のそれに近しいのだ。と魔理沙は思った。
 寂しい。所帯を持つな。一緒にいろ。拗ねるぞ。
 この列が霊夢の回路の正体であった。
 しかし言葉の印象が素朴であるからこそ、それは魔理沙の芯を打ちつらぬいてもいた。

「わッ」

 魔理沙が急に帽子をかぶせてきたので霊夢は頓狂な声をだした。

「どうしたの?」
「……」

 霊夢は帽子で魔理沙の顔が見えなかった。
 魔理沙は右手の指を目頭に当てがい、自分の情熱を必死に押さえこんでいた。霊夢の好意の率直さに完全に打ちのめされてしまっていた。
 魔理沙は霊夢に誰よりも慕われていると自負していた。それは単にうぬぼれからではなかった。
 魔理沙は誰よりも霊夢と一緒にいた。一緒に話した。一緒に遊んだ。一緒に食べた。一緒に眠った。誰よりもすべてを共有した。だから互いが好きで必然なのである。
 しかし魔理沙のほうではこんなふうに直情な好意を伝えることができないだろう。なぜかと言うに彼女は言葉の虚飾を学んでしまっているからである。もちろん別にわるいことではない。それが普通の人間の文法である。単に霊夢がそのための文法を持っていないだけなのだ。
 つらいことだ。と魔理沙は思った。
 この年齢の娘たちがすでに折りあいをつけているはずの痛みを、人間になりはじめたばかりの霊夢は今さらのように痛がっている。

「ごめん……そこまで言わせるつもりはなかった」

 魔理沙は目元の涙を引っこめると帽子を取りかえし、それから霊夢の漆色の瞳と目を合わせなおした。
 霊夢はそれに“きょとん”とした。小首をかしげた。魔理沙はそんな仕草がいとおしくなり、彼女に何かを返してやりたくなった。だから彼女のほうでも言葉で報いようとする。阿求が言うように言葉で解決しようとする。それなのに今度はいつも便利なはずの言葉の虚飾が邪魔をした。言葉を飾ることが怖ろしいほどの不誠実に思えてきた。
 魔理沙は人語の不完全さに気がつかされる───この世には愛情を完璧に伝えるための文法がなかったのだ。
 気がつくと魔理沙は霊夢を抱きしめなおしていた。それから彼女の頬へ自分の頬を擦りつけた。彼女は肉体の言語で愛情を伝えることにした。そのほかに最良の択はなかった。
 自分の愛情を他者へ伝えるために努力する。
 それは産まれてはじめてのことであった。
 霊夢は魔理沙の急な行動に最初はおどろかされた。
 しかし、それにしても体温。体温である───体温が霊夢のおどろきを軟化させてくれた。どうでもよいと思えた。
 霊夢は目をとじた。彼女は魔理沙を考慮していた。
 自分は魔理沙に愛されているんだな。と霊夢は無自覚に断定していた。



 やがて抱擁が終わると魔理沙は決心したように聞く。

「わたしがいないとおまえは困るのか」
「困ると思うわ」
「どうしてなんだ。ほかに仲の良いやつなんて、今はいくらでもいるだろう」
「そう言うことじゃないわ」

 霊夢は首を横に振った。

「……どう言うんだ」
「いないから。あんたのほかに……本気で喧嘩をするやつはいないから」

 霊夢は妖怪をしばきはする。それは喧嘩をしたいからではなく、それが職業上の要請だからである。魔理沙ばかりと本気の喧嘩をするのは彼女の甘えたの発露とも言える。

「おまえは所帯がどうこうと言った」
「うん」
「なあ……わたしもおまえが好きだよ。なんだってしてやりたいよ。
 それでも……わたしは物じゃない。人間なんだから……おまえのためだけに今後の所在を決めることはできないよ。おまえにそこまでの権利はない」 そこで息を継いで覚悟を決め 「それでも……おまえ……わたしと一緒にいたいなら、進退を左右させたいなら。おまえ……覚悟を決めないといけないよ」
「覚悟?」
「なんとしてもわたしにおまえを愛させてみせろ。愛していると言わせてみせろ。いつまでも一緒にいたいなら、それがおまえの義務だろう」
「……?……?」

 その警告にはたしかに恋愛的の含みさえもあったはずである。
 しかし、霊夢のほうは目を白黒とさせるばかりであった。
 これでよいのだ。と魔理沙は思った。
 少なくとも───今はまだ。
 魔理沙は当初の目的を果たすことにした。









「おまえ……」

 霊夢の前髪を掻きあげると魔理沙は即座に溜息を吐いた。彼女のふきでものがあまりにかぶれていたからだ。それは彼女の額の右側を広範に浸食したうえで、凸凹の深紅の土地のような惨状を見せていた。すでにふきでものとは呼びがたい。その炎症はあきらかに彼女が掻きむしったことに由来していた。

「掻いたな」
「だって……」
「こう言うのは掻くなといつも忠告していたはずだ」
「痒かったんだもん」

 欲望に忠実な霊夢としては痒いところを掻くのが当然であった。
 魔理沙は悩んだ。自前の軟膏でどうにか治せるような領分ではなかった。彼女は一人前の可憐な乙女として、人百倍もふきでものを憎んでいた。だから特製の軟膏まで調合できるわけであった。しかし、この軟膏の抗炎作用で霊夢の悲劇的な掻きこわしに対抗できるだろうか。
 ヘンな汁も溜まりに々まっている。ふきでものにはヘンな汁がありがちだ。ふきでものを取るべきか、それとも安静にするべきか。ヘンな汁を搾りだすべきか、それとも安静にするべきか。それは若者の永久の苦悩である。

「竹藪の先生に頼もう」

 仕方がないので魔理沙は提案した。それは彼女が思いつくかぎり、最も合理的な択であった。その先生は在住地が竹藪でも“やぶ”ではない。霊夢のふきでものをきれいに処置してくれるはずである。

「いやよ」

 しかし霊夢はそれにすげなかった。
 すでに霊夢の非合理には諦観があったので、魔理沙はどなりつけるようなこともしなかった。

「……どうして」
「こんなことで化生の世話になりたくないわ」
「おまえもきれいに傷を治したいたいだろう。そうするのが一番なんだよ」
「治したい。そうね」 霊夢は患部をわずかにさすり 「あんたに治されたいわ」

 そこには価値観の平行があった。また合理の差異があった。
 治療の腕の問題ではない。霊夢は百人の医家に治してもらうよりも魔理沙に治してもらうことが本意なのだ。それが彼女の合理であった。それが人間的の発露であった。
 怖ろしいことだ。と魔理沙は思った。
 治療が不完全で痕が残ってしまったら、自分はどうするべきなのだろうか。
 霊夢の顔に傷を残す。それは魔理沙が想像しうる、最悪の悪夢のひとつである。あの喧嘩のときでさえ───彼女は顔だけは殴らないように注意していたのだ。
 しかし、どうしようもない。魔理沙は経験で知っている。霊夢が拗ねると最終的に折れるのはいつも自分のほうなのだ。
 魔理沙は服の中に使えそうな道具を探しはじめる。

「分かったよ……後悔しても知らないからな」

 魔理沙は膝に頭を乗せるように催促した。霊夢はそれに従った。

「ねえ」 治療がおこなわれるまえに霊夢は不安そうに 「わたし……うまく……人間をやれているのかな」

 魔理沙は苦笑する。
 無理もない。彼女は人間をやりはじめたばかりだから、不安が胸をよぎるのも仕方がないのだ。
 魔理沙は霊夢を安心させるために頭を撫でる。

「思いあがるな。ふきでもので悩んでいるうちは誰でも人間だ」



 かけまくも。
 晩秋。
 荒療治には、痛みがある。ヘンな汁をだすためのわずかな切開もやった。それでも魔理沙は霊夢が痛くないように努めた。治療の終盤は患部が痛むようなことも減っていた。
 痛みがひそむと今度は眠気がやっていた。
 頭の下。魔理沙の膝の体温が暖かい。

「眠いのか」
「うん……昨日……そんなに眠れなかった」
「わたしもだよ。眠いなら……眠ってしまえよ」
「一緒に寝ましょう」

 霊夢はすでにうとついていて、今にも瞼が落ちそうであった。

「あとでな」
「……責任があるわ」

 霊夢は眠気で自分が何を言っているかも分かっていない。
 起きたときには忘れているだろう。

「あんたがわたしを人間にしたんだから。
 それでこんなことも起こるんだから。
 だから、だから。痕が残ってしまったら……あんたもそれが責任なのよ。わたしとあんたの責任なのよ」

 それは滅茶苦茶な理屈であった。少なくとも今回はそうだ。
 霊夢は勝手に独りで悩んで、勝手に滅裂な癇癪を起こし、勝手に額をわるくしたのだ。

「……そうだな」

 しかし魔理沙は否定しなかった。穏やかに霊夢の理屈を受けいれることにした。
 起きたあとは一緒に洗濯がしたいな。と霊夢は曖昧の中で考えた。
 それから一緒に昼餉をしたかった。それから一緒に晩秋の空へ散歩に行きたかった。それから一緒に夕餉をしたかった。それから一緒に風呂にはいりたかった。それから一緒に酒を飲みたかった。それから一緒に眠りたかった。
 それから、それから、それから、それから。
 それから、それから、それから。
 それから、それから。
 それから。
 いつも。いつでも。いつまでも。

「痕が残っても」

 霊夢は眠りの寸前に言う。

「竹藪には行かない。治さない。それは残しておくことにする」

 今はそれで満足しよう。と霊夢の無自覚が想った。




湿原 終わり
ほかのタイトルの候補は“加湿器”でした
ドクター・ヴィオラ
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コメント



0.260簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
4.100東ノ目削除
私の中での霊夢像は超然とした天才肌に寄っていたので、一人の人間としてみた場合にどうかという観点からの不完全な霊夢、という描き方に衝撃を受けました。面白かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
読んでいて、何というか、色んな感情がごうごうと通り抜けていくようなそんな感覚に陥りました。ここで久々に「文学」を感じる作品に出会った気がします!
夏の缶詰はまた違った雰囲気のレイマリごちそうさまでした!
6.100alias削除
タイトル通り湿度が高すぎる。
霊夢がプリミティブで面倒で、それでいて魅力に感じてしまうほど丁寧に描かれていた気がします。破れ鍋に綴じ蓋というか、魔理沙が貰ってあげないと霊夢生きていけなさそうだと強く感じる濃厚なレイマリでした。
ありがとうございました。
7.100きぬたあげまき削除
2人の心の機微、また意思疎通のしんどさとそこに至るまでの道筋が丹念に描かれていて本当に素敵でした。
読解力不足で申し訳ないのですが、それぞれの人に可変性を拭い去れない文脈があって、また人の言葉は時に鍵になったり兵器になったり、言語とはなんだろう、不便なようで便利なようで、とひとしきり考えさせられました。
9.100福哭傀のクロ削除
すごく好きです。
近年の喜怒哀楽表情が豊かな博麗霊夢ももちろん好きですが、
初期のころの浮いている霊夢もいいですねやっぱり。
記号であった霊夢が魔理沙と出会って人間を学び、
それゆえに依存に近い重くじっとりとした関係になる。
話の流れから描写や表現までとても素晴らしかったです。
文脈という言葉選びも、ふきでものという象徴?も選んだ作者さんのセンスがとても素敵で妬ましい。
『愛』の言葉を使わずにいかに表現するか。
作者さんの意地とプライドを見た気がします。気のせいかもしれません。
お見事でした。流石です。
10.100名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。情緒の成長の過程をいかに分かち合うか、二人の距離ははじめから近しくて、好き同士でいることには何一つ疑いを持っていないが故にありのままの裸の感情をぶつけあってしまう全力さがあったように感じます。
11.100名前が無い程度の能力削除
まだ自分の中で言葉を与えられていない感情の発露といいますか、理由付けできない激情が内から漏れてしまう霊夢が愛おしかったりもどかしかったりしてしまいますね
それらを丁寧に噛み砕いて整理していく魔理沙の抱擁力にも痺れました。それが霊夢の言うところの「霧雨のお嬢さん」成分なんでしょうけれど。
12.100めそふ削除

面白かった。高過ぎる湿度は最早体に纏わりつくようなそんな感覚さえあった。終盤すらも爽快感とか晴れやかとか、そんな言葉とは全くの反対な状態を維持していて、ここまで湿っぽく書き切った事に気持ち悪さすら感じる。
本作では、主に性質とか価値観などの言葉を文脈や文法、語彙なんて言葉で言い換えていて、それが酷く印象に残った。同時にそれが、霊夢の言葉不足というテーマにも掛かっていて、テーマと用語の一貫性の様なものを感じて心地良かった。つまりそれは、人間というのは文法や語彙、要するに言葉によって構成されているという訳であり、魔理沙のお陰で人間になったが、まだ不十分な部分も多かった霊夢の語彙不足も、また当然の事なのだと思えた。
また、人間にするという事はある意味で、親になるという意味にもとれる。子供の様な感性を持ったまま育った霊夢と対照的に、目的の為に悪行を行うような独善的だった魔理沙が、霊夢の前では母の様な慈しみをもって接する事が出来るのは、霊夢を人間にしている為なのだろう。もしくは、子供の様な霊夢に魔理沙が親にさせられたのかもしれないが。
霊夢が魔理沙に対して抱く、気味の悪さというのも非常に面白いと思った。本来は人里の文法で構築されていた魔理沙が、空を飛べる様になって、過去の文法を捨てて自分の文法に寄り添ってきた、堕ちてきた。そんな筈だったのに、それでも根本は人里のままであった。それが自分から離れるかもしれない恐怖へと繋がる。生活の所々に滲み出る、霧雨魔理沙の根本が人里であるという事実に恐ろしがる。この描写の説得力が凄まじくて、読んでいてとても面白かったし、辛かった。親しいものと最後まで相容れる事はできないという事は恐ろしいし、悲しい。こうした霊夢の心情には沢山共感をさせられた。
同時に霊夢は少し勘違いをしているのかもしれないとも思ってしまった。霊夢は魔理沙が己の中身をごっそり変えてしまったと思うが、魔理沙としてはそもそも彼女を空白の瓶のように感じていたはずだった。霊夢には初め、基準がなかった。文法がなかった。だからそれを魔理沙によって作ってもらったのである。しかし、魔理沙の場合は人里という下地があった。たしかに空を飛ぶなどの文法を手に入れたが、それはあくまで下地の上に積み重ねてるにすぎない。もしくは同じように並んでいるだけなのだろう。過去の文法を捨てるなんてのは本当は出来ない。だからこそ、魔理沙の根本には人里が残り続けていた。
作品を通して霊夢はこの勘違いを解消する事はなかった。しかし、それでも博麗霊夢が霧雨魔理沙とこれからずっと一緒に居るためには、多分もっと人間になっていくはずで、そうしていつかこれに気付いていくのかもしれない。そう思うとこの作品の続きを見れないのが少し寂しいとも思った。けれども終わってしまった作品の続きなんてのは野暮ったくなるし、湿原のままで終わってこそ、この作品なんだろうなとも思った。
13.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。素晴らしいレイマリでした。
博霊霊夢の弱さ、恋愛への理解の無さと人としての未熟さ、そして不理解ながらもこれから先霧雨魔理沙と歩んでいく始まりが丁寧に描かれており、説得力を持って受け入れることができました。
キャラクターに対して全体を通して真摯に向き合われている印象でした。中には大喧嘩のシーンなど大袈裟な描かれ方だと思ったシーンもあったのですが、前後の文脈が細かく描かれているため、結果一連として納得のできる作品になっていたように思います。
キャラクター解釈は個人的には違和感・異なる部分があったのですが、やはり一つの描写や起こったことに対して違和感を持っても、文脈がしっかりと描かれているため「この作品世界ではこうなんだな」と面白く読むことができました。
霊夢に関してもっとも上手く描けていると思ったのは、恋愛に対する不理解です。特に「魔理沙はしっかりと理解をしているが、霊夢は意味も解っていない」というふうな関係性がとてもしっくりきました。
関係性というものに機敏がなく、魔理沙のことが好きなくせに恋愛とそうではないものの区分……どころか、区分があるということもわかっていない。自分自身で言語化ができていない執着。霊夢→魔理沙の関係として、(ウェットさが誇張されているとはいえ)素晴らしい描かれ方だったと思います。
霧雨魔理沙に関しては「霊夢に箸の持ち方を教えたことを恥じる?」「根本が霧雨の娘さん?」という点が初めは気になってしまったのですが、それも後半に回答が用意されており(読者が納得するかどうかはともかく)、やはり描くということに真摯だという印象でした。
一つ一つの描写や作中の設定が独立してしまっておらず、他の何処かに接続されているのが「小説」だなと思いました。
特筆するべきはこれほどまでに湿った関係を描いているのに、読了後は爽やかな気分になることです。色々とめんどくさい心内を最後まで見せつつ、しかし明るく良い将来が待っているんだろうな……と思わせる結びが大変好みでした。
タイトルの選択も良かったように思います。変に飾らず、奇をてらわず、ストレートなタイトルは作品の内容を表しているようでした。(現代文明がクローズアップされている作品でもないのに加湿器というタイトルは違和感があったので、今回のタイトルで良かったように思います)
また、文学めいた書かれ方をしているように思うのですが、読みやすく語りたいことがストレートに伝わるのが良かったです。妙に比喩を重ねて読みにくくなっているシーンがない一方、比喩がないわけではなく寧ろ巧みに使われていて面白い文章になっていたように思います。加えて霊夢と魔理沙がぶつかる複数の場面では、飾らない感情が表に出てきており文学的な悪さが一切見られなかったのが素晴らしい点でした。
好みや解釈が異なるところはあったものの、とても満足で面白かったです。しっかり霊夢と魔理沙を見て二人を描いてくれる作者がいることに感動いたしました。
有難う御座いました。
14.100植物図鑑削除
この二人らしくないとどこかで思うのに、間違いなくこの二人であると確信させられる力。感服です。
15.100名前が無い程度の能力削除
湿度が高すぎる
16.100ヘンプ削除
人間に成るという霊夢と、元々人間な魔理沙の二人の関係は歪に見えるけれども、それでもこの二人は幸せでいれるんだろうな、と思いました。
17.100南条削除
面白かったです
立場も生い立ちも考え方も違う二人なのに、それでもずっとうまくやっていけそうな気がして心が温まりました
18.100竹者削除
よかったです
19.100のくた削除
凄い
22.100夏後冬前削除
>気味が悪い。馬鹿だ。
霊夢が普通の人間としての感性や情緒をもってないとする二次創作は、書籍で霊夢の描写が増えるに連れて反比例するように減っていった。昔は時々見掛けたが、今はとんと見なくなった。そこに懐かしさが去来したが、この霊夢の描かれ方は、覚えてる限りでは初めてだ。すなわち、情緒が備わっていない理由は未発達だから、という明確な理由が提示されている点。彼女が『そう』であるとされた根拠は、一般的に共通認識化している博麗霊夢のパーソナリティに由来しており、言われてみると確かにその解釈もあるな、と膝を打つ気持ちになった。未発達な情緒とそれに比例した言語化能力の拙さが、この一言に集約されている。恐らくは愛だとか恋だとか、そういうものの延長にある感情を、この霊夢は言語化できていない。これはとてつもなく情報効率とインパクトに溢れた言葉で、この観念は作品そのものを引っ張っていくパワーを秘めている。つまり、霊夢と読者双方のモチベーションとして成立していて、これが実に上手い。この着眼点! 文章書きとして素直に嫉妬する。
>思いしれ
作者の凶悪さや挑戦的観念がここに集約されている。この作品のテーマは普遍的な相互理解(それこそ、愛のような)に帰結するはずだが、霊夢はもちろん、魔理沙さえ精神的未熟に大きく由来してその途上にある。未完成であるがゆえの魅力ももちろんだが、発展途上であるがゆえの爆発力を最大限に引き出している。コミュニケーションにおける相互理解は本質的に欺瞞で、心は自分のそれしか見えない。そのどうしようもなさに対して、霊夢も魔理沙も吼える。この構図はこの作品における作者と読者にも適用されている。自分の心の中の激情を他人に理解させるために、言葉の奔流を作り上げているのだ。殴り掛かってくるのは、それだけ強い感情に焼かれているためだ。その熱量が、思いしれ、と叫ばせている。この凄まじい情熱に読書体験そのものが焼かれる感覚が素晴らしい。
マジでとんでもないものを読んだという感覚が強く、脳みそまで焼き切れたような気がする。こういう核融合並みの大爆発に打ちのめされる感覚が好きだ。大変に面白かったです。
24.100名前が無い程度の能力削除
何か途轍もない物を味わった、そんな気分でした。
ただひたすらにキャラクター像に対して真摯で、それ故に文章の力強さと構成力が強烈さを放って波濤のように押し寄せてくる程でもあったのです。要所要所で脳を焼いてくるかのような語彙のセンスときたら、鈍器のような重さと衝撃を以って文脈に加算され、脱帽する他無く。
この作品における湿っぽさは霊夢のいじらしさのようでもあり、一つの視点からすれば天上の存在であった魔理沙が霊夢の下へわざわざ降りてきているようにも見えるのですが、魔理沙も魔理沙で湿っているという事もしっかりと描写されており、台詞の一つ一つがストレートに綴られている事によってその共依存とも取れる関係性が強調されていたのかもしれないとも感じさせられました。
ありがとうございました。途轍も無い面白さを湛えていた物語であったと共に、ただただ恐ろしく思います。