鈴虫が鳴く声に混じって、パチン、パチン、と爪を切る音がする。蝋燭の灯りを頼りに、妹紅が爪を切っていた。
一足先に布団に入っていた慧音が、何か言いたげな顔をしていた。見かねて声をかける。
「夜に爪を切ると、親の死に目にあえないって?」
「あっ……いや」
バツの悪そうな表情の慧音を見て、妹紅はくっくと喉を鳴らして笑った。
爪を切っているのを見てその迷信を思い出したは良いが、とっくに親を喪っていることを気にして、言葉にはしなかったのだろう。
「慧音は考えていることがすぐ顔に出るね」と妹紅は微笑む。慧音は口をへの字にした。顔が赤く見えるのは恥ずかしがっているのか、それとも蝋燭の灯りのせいか。
「死に目どころかあまり会ったこともないし……そもそも千年以上前の話だから今更何も思わないよ」
そう言って妹紅は目を細めた。
最早記憶に残っているはぼんやりとした輪郭だけで、顔も声も思い出せない。都でも地位のある父親がいて、自分はその妾の子だったという事実は覚えているが、それだけだ。
「でも慧音の死に目にあえないのは嫌かな」
「縁起でもない……」
慧音は呆れてため息をついた。
妹紅はからからと笑う。老人が「次に会うときはオレの葬式かな」と寿命をジョークにするのに近い。そんな不老不死ジョークを妹紅はつい口にしてしまう。慧音に対してはそんな風にからかいたくなってしまうのだった。
慧音はもちろん妹紅のことを不老不死だとわかっているが、普通の人間であるかのように心配してくれる。
今日こうして妹紅が彼女の泊まっているのも、一人で夜中に竹林を歩くのは危ないからと引き止められたからだ。もちろん二人で一緒に夜を過ごしたいという思いもあるだろうが、それでも純粋な心配が先に来ているのは確かだ。
不老不死だからと妹紅の身体を雑に扱ったりはしない。妹紅のことを大切に思ってくれているのはあるが、彼女の生来の生真面目さに起因する部分も大きい。
だからこそ、妹紅はこういった不老不死にちなんだ趣味の悪い冗談を口にしてしまう。
何かを試したいのか、生真面目すぎるのでつい揶揄いたくなっているのか、それは自分でもわかっていない。
「爪を切るのは久しぶりだなぁ」
「えっ」
慧音が顔を顰めるので、妹紅は慌てて付け加える。不潔だとか、爪を噛む癖があるだとか思われたくはなかった。
「ほら、最近輝夜とやり合ってないからさ」
「……そうか、なるほどな」
そう言うと彼女は呆れ半分、安堵半分のようなため息をつく。二人が殺し合うことを、やめて欲しいも思っているからだろう。妹紅はそう推測した。
「最近あんまりそういう流れにならないんだ。だから死ぬ機会もあんまりなくて」
蓬莱の薬は死ぬと薬を口にした時点の肉体を基準として再生する。髪や爪がいくら伸びていても、不死鳥の炎から舞い戻れば、元の肉体にリセットされるのだ。
天津国の神である月の民は元より不老不死だが、性質は全く異なる。彼らの肉体は欠けることのない完璧な不老不死だ。
例えるなら天津神は鋼鉄だ。並大抵のことで破損することはない。そして代謝もないので髪も爪も伸びない。
一方で蓬莱人は水に近い。どれだけ破壊されようと、器に満たせば元の形に戻る。
欠けることがない満月が月の民なら、満ち欠けを繰り返しし不完全ゆえに完全なのが蓬莱の薬だ。
会話が少しだけ途切れる。二人は鈴虫の音色に耳を傾けた。
妹紅は爪にやすりをかける。
それも終えると、ふっと爪に息を吹きかけ、切った爪をちり紙に包んで、屑籠に捨てた。
「妹紅」
爪切りが終わるのを見計らって、慧音は布団をめくって妹紅が入る空間を作る。その目と声は柔らかい。
「うう、寒い寒い」
妹紅は彼女の隣へとすっぽり収まった。二人で身を寄せ合い、互いの手を取った。
「そう言う割には、妹紅の手は暖かいな」
「誰が子供みたいな体温だって?」
「そんなこと言ってないだろ」
慧音が苦笑する。妹紅は手の腹を彼女の頬に添えて、指先で耳に触れた。くすぐったそうに彼女は身をよじる。
「慧音」
「ん?」
妹紅は彼女の耳元に何かを囁く。彼女は幸せそうに目を細めた。
そして二人はゆっくりと口づけた。
縁側に一人の美女が立ち尽くしていた。蓬莱山輝夜だ。
それを見た鈴仙は一瞬、彼女が故郷に思いを馳せているのかと思ったが、目線は夜空の月を仰いているというより、竹林に向けられていた。
遠目に見れば美人だが、基本的に鈴仙は輝夜に揶揄われてばかりいる。今日は多忙で疲れていたため、気づかれていないならそっと来た道を戻ろうか。いや、この距離では気づかれているだろうか。
「はぁ〜〜〜」
少し鈴仙が逡巡していたら、輝夜は聞こえるようにわざとらしい、大きなため息をついた。そして彼女は横目で鈴仙をチラリと見た。
最早鈴仙はこう言うしかなかった。
「………………どうかされたんです?」
「聞いて聞いて!」
何千年、ひょっとしたら何億年か生きているかもしれない彼女は、まるで年頃の女子のようにはしゃいで鈴仙を手で近くに招く。
そして輝夜は竹林をびっと指差した。
「今日もまた、煙が上がってないのよ!」
「はぁ……」
指差した方向は妹紅の住む掘建小屋がある方向だった。
鈴仙は目を凝らす。月明かりに照らされる竹林からは、確かに煙は上がっていない。
煙とは妹紅が風呂を炊くときに上がる煙のことを言っているのだろう。しかしそもそもこんな夜にその煙が上がるのが見えるものだろうか。月明かりがあるからまあ多分見えるのか。鈴仙はそう結論づけた。
「あの女と寝ているのよ」
輝夜はこれまたわざとらしく爪を噛んだ。
「最近宥和政策をとっていたのだけれど、やっぱりやり合わないとダメなのかもね。引いてダメなら押してみろってことかしら。イナバはどう思う?」
「いやっ……ええ?」
まさか意見を求められるとは思わず聞き流していたので、鈴仙は動揺する。
そういったものごとには疎いし、気の利いたアドバイスなどできるはずもない。鈴仙は率直な感想を言うことにした。
「何て言うか……意外ですね」
「何が?」
「いやほら、お二人とも不老不死なわけじゃないですか。だから最後は自分の元に戻ってくるから別に良い、とか思ってるのかと。てっきり」
わかってないわね、というように輝夜は輝夜は額を手で抑えて首を横に振った。
「不老不死は気持ちを我慢する理由にはならないわ。というか、何で私がアイツに蓬莱の薬を飲むよう仕向けたと思ってるのよ」
後半恐ろしい、とんでもない話が聞こえた気がしたが、鈴仙は聞かなかったことにした。友人である妖夢ほどではなかったが、話を聞き流すのは鈴仙も得意だった。
「むしろ不老不死にこそそういった感情は大切だわ。永く生きるってことは、無へと向かう精神の摩耗との戦いなんだから、自分で気持ちを押し殺すような不器用はだめね」
それについてはなるほどな、と鈴仙は納得した。
蓬莱人が死ぬとしたら、肉体的に死ぬことがないのだから、後は植物のような精神になってしまわないかどうかだけだ。その点、他者への執着というのはそういった虚無的な精神とは真逆にある。であれば、不老不死の病に対する特効薬と言っても良いかもしれない。
「よし、明日は派手に遊ぼうかしら」
「……あんまり千切れた腕とか足とか放置しないでくださいね。前に人里の住民に見つかったときは大変だったんですから」
はいはい、と輝夜は気のない返事をした。鈴仙はため息をついて、その場を離れた。
縁側の角を曲がる前に、ちらりと輝夜の方を振り返った。
彼女はまた竹林の方を眺めていた。月明かりに照らされたその姿は美しかった。
それは彼女が生来整った顔立ちであるせいもあるが、ひょっとしたら妹紅に抱く感情のお陰で、一層そう見えるのかもしれなかった。
妬いてる輝夜がなんだか新鮮な気がしました
慧音の反応が可愛かったです。