「ねぇ小鈴、知ってる? 死ぬときってセックスの200倍気持ちイイんだって」
パイプ煙草の甘ったるーい煙と一緒に吐き散らかした言の葉は、大方の予想通り小鈴の視線をハイデガーの原書から引っぺがす程度の力はあったようだ。丸眼鏡越しに私に投げかけられた彼女の瞳ときたら、独逸語で構成された『存在と時間』の読解に耽っていた時とは打って変わってまん丸になり、私は、変わらないな、って思う。最近はビックリしても気絶しなくなったけど。
「……快感の尺度でよく使われるよね。セックス。言うほど指針にならないと思うけど。何というか、個人差があるもの、だし」
小鈴は眼鏡をクイッとしながらクールに受け流そうとするが、台詞は尻すぼんで頬は仄かに染まり、目線はキョドキョドを体現して見事なカマトトぶりを披露していた。うーん。もう28のくせに。この場に男が居れば飲み物に睡眠薬を混ぜてでもお持ち帰りしたくなったに違いないけど、私と小鈴しかいないのでギリギリセーフ。
懐かしき私室と違って、お喋り中、お手伝いさんがタイミング悪く入ってくることもない。
稗田の『閨(ねや)』は特別なのだ。
本当は小鈴も入ってきちゃダメだけど、色々とあって――つまり、私が駄々を捏ねたり癇癪を爆発させたりしたことだけど、まぁ――誰も文句を言わなくなった。『記憶』にある限り、『閨』に入るときまで、煙草吸いたいだの、酒が飲みたいだの、葡萄が喰いたいだのとワガママ言い放題だったのは私が初めて。まぁ、小鈴の入室を許可しないなら今すぐ自刃して自分の脚で地獄の門を蹴破るぞ、と啖呵を切っただけの価値はあったってこと。おかげで快適だ。
「というか、その辺はアンタの方が詳しいでしょ」
「まぁ私、これまで9回死んでるわけだし?」
「まさかそれって、病みつきになったからだった? 死ぬの」
「栄光ある御阿礼の歴史を狂った変態行為みたいに言わないで」
「なんでよ。振ったのアンタでしょ……でも妹紅さんに聞く方が早いかな。あの人、今日も死んでたし」
「あー、あの人なんか辻斬りみたいなことしてんだっけ?」
パイプの火皿にタンパーを突っ込んで、燃焼面を平らに均しつつ、
「辻斬りの逆って何て言うのかしら? 辻死に?」
「さぁ? 知らないけど。今日は二条町辺りの人たちが総出で探しても、どうしても左足と右肩から先が見つからなかったらしいよ」
「むむ、それはきっとトリックだわ。きっと本当は、死体は四つしかないのよ。でも、それぞれの死体からちょっとずつパーツを集めることで、死体が五つあるように見せかけるのね。だから犯人は、死んだと思ってた被害者の中から現れるはず」
「被害者全員が妹紅さんだけど」
「つまり犯人は妹紅さんだったのね」
「それは最初から判ってた」
ドヤヤ、と胸を張ってみせると、小鈴はちょっとだけ微笑んだ。思わず内心でガッツポーズ。最近の小鈴は辛気臭い顔ばかりして、滅多に笑わないから。昔と比べたら意識の表層にも昇ってこなかったような、そんなちょっとした表情の変化が嬉しいのだ。
気付けばパイプの葉っぱが燃え尽きてしまった。灰皿を引き寄せて、火皿の燃えカスを小さな鉄のさじで掻き出す。あぁ、アレに似てるな。って思った。骨壺に遺灰を詰めるときのアレ。
棺に何が入っていても、炉から取り出せば、なーんにも残らない。
個人が好きだった本。愛用の道具。書き連ねられた惜別の言葉も。全部、ぜーんぶ、炎の中で一緒くたになって、とろとろに融けて交じり合って、最後は真っ白な灰になる。
棺って、もしかしたら蛹(pupa)なのかもしれないな、って思った。空の殻の中に、魂と存在証明と記憶を詰め込んで。きっと炎に焼かれる間に混ぜこぜになった中身はあちら側に羽化してしまって、だからこちら側には、もう棺の中に確かに在ったはずの何かは無くなっているのだ。世界からの脱出トリック成功、というわけ。
「ねぇ阿求、知ってる?」
ふと眼鏡を外した小鈴が私の手に手を重ねて、囁くように言う。彼女の掌は、温かい。あまり思い通りに動かなくなってきた私の手でも、まだそれぐらい判る。
「幻想郷の外には、冥婚っていう風習があるの。台湾っていう国ではね、未婚の女性が亡くなったら遺族が紅包(ホンバオ)っていう赤い封筒を道端に置くの。それを拾った人は、その死者との結婚を強制されるんだって」
「へぇ、そうなんだ」
「うん、そうなの」
「紅包を拾う人は誰でも良いの?」
「うーん、本質的には。そうだね。誰でもいいみたい」
「じゃ、私には関係ないわ」
「そっか」
無理に取り繕った偽物の笑みで言って、小鈴は重ねた手を離す。
「そうだね。関係ない」
くっしゃくしゃの声。ズルい、って思った。まるで私が悪いみたい。
静かな夜であることを、嫌が応にも思い知らされた。月光に照らされて咲く花の息吹が聞こえてくるほどに。でも、小鈴だって判ってるのに。蛹の中に、魂は2つも入らない。
火皿に葉っぱを詰める。パイプを咥える。燐寸を擦って煙草に着火する。ガラス玉みたいに綺麗で曖昧な小鈴の両眼が、なのに瞬きもせず私の手が動く様を見ている。
「一度見ただけで覚えられないのって、不便よねぇ」
「不便じゃないよ。でも、理不尽だなって思う」
「あべこべだったら良かった?」
「薄ぼんやりとね、子供のころから、実はそう思ってた。今ほどじゃないけど」
「そうなの。でも、ロマンティックじゃないわね」
「どうして?」
「だって、忘れないようにって、心に留め置くのには、きっと努力と思いの強さが必要でしょ? いつまでも色褪せず、簡単に保管し続けられるなら、ありがたみが無くなっちゃう」
割と最悪な部類の言葉を吐いてるからこそ、逆に思いっきりニコニコしてやった。でも、こうするのが一番なんだ、って確信もあった。私は小鈴を呪いたくて仕方ないし、小鈴は私に呪われたくて仕方ないから。仕方ないのが判ってるなら、全身全霊でやりきる方が潔い。とっくに私は開き直ってる。小鈴から、いつまでも思われ続けたいと。
「楽させてくれないんだね。ひどい女」
「その程度でアンタが満足できるなら、私もここまでワガママ言わなかったよ」
「知ってるよ。ばか」
私のすぐ隣に座った小鈴が、私の肩にもたれかかってくる。鼓動。呼吸や温もり。もしかしたら細胞の新陳代謝でさえも同調したかのような安心感。まるで、とろとろに融けて混じり合うような。
パイプ煙草の甘ったるい煙は、まるで秋の終わりに熟した果実のような残り香で鼻をくすぐり、やがて音もなく空気に溶けていった。
パイプ煙草の甘ったるーい煙と一緒に吐き散らかした言の葉は、大方の予想通り小鈴の視線をハイデガーの原書から引っぺがす程度の力はあったようだ。丸眼鏡越しに私に投げかけられた彼女の瞳ときたら、独逸語で構成された『存在と時間』の読解に耽っていた時とは打って変わってまん丸になり、私は、変わらないな、って思う。最近はビックリしても気絶しなくなったけど。
「……快感の尺度でよく使われるよね。セックス。言うほど指針にならないと思うけど。何というか、個人差があるもの、だし」
小鈴は眼鏡をクイッとしながらクールに受け流そうとするが、台詞は尻すぼんで頬は仄かに染まり、目線はキョドキョドを体現して見事なカマトトぶりを披露していた。うーん。もう28のくせに。この場に男が居れば飲み物に睡眠薬を混ぜてでもお持ち帰りしたくなったに違いないけど、私と小鈴しかいないのでギリギリセーフ。
懐かしき私室と違って、お喋り中、お手伝いさんがタイミング悪く入ってくることもない。
稗田の『閨(ねや)』は特別なのだ。
本当は小鈴も入ってきちゃダメだけど、色々とあって――つまり、私が駄々を捏ねたり癇癪を爆発させたりしたことだけど、まぁ――誰も文句を言わなくなった。『記憶』にある限り、『閨』に入るときまで、煙草吸いたいだの、酒が飲みたいだの、葡萄が喰いたいだのとワガママ言い放題だったのは私が初めて。まぁ、小鈴の入室を許可しないなら今すぐ自刃して自分の脚で地獄の門を蹴破るぞ、と啖呵を切っただけの価値はあったってこと。おかげで快適だ。
「というか、その辺はアンタの方が詳しいでしょ」
「まぁ私、これまで9回死んでるわけだし?」
「まさかそれって、病みつきになったからだった? 死ぬの」
「栄光ある御阿礼の歴史を狂った変態行為みたいに言わないで」
「なんでよ。振ったのアンタでしょ……でも妹紅さんに聞く方が早いかな。あの人、今日も死んでたし」
「あー、あの人なんか辻斬りみたいなことしてんだっけ?」
パイプの火皿にタンパーを突っ込んで、燃焼面を平らに均しつつ、
「辻斬りの逆って何て言うのかしら? 辻死に?」
「さぁ? 知らないけど。今日は二条町辺りの人たちが総出で探しても、どうしても左足と右肩から先が見つからなかったらしいよ」
「むむ、それはきっとトリックだわ。きっと本当は、死体は四つしかないのよ。でも、それぞれの死体からちょっとずつパーツを集めることで、死体が五つあるように見せかけるのね。だから犯人は、死んだと思ってた被害者の中から現れるはず」
「被害者全員が妹紅さんだけど」
「つまり犯人は妹紅さんだったのね」
「それは最初から判ってた」
ドヤヤ、と胸を張ってみせると、小鈴はちょっとだけ微笑んだ。思わず内心でガッツポーズ。最近の小鈴は辛気臭い顔ばかりして、滅多に笑わないから。昔と比べたら意識の表層にも昇ってこなかったような、そんなちょっとした表情の変化が嬉しいのだ。
気付けばパイプの葉っぱが燃え尽きてしまった。灰皿を引き寄せて、火皿の燃えカスを小さな鉄のさじで掻き出す。あぁ、アレに似てるな。って思った。骨壺に遺灰を詰めるときのアレ。
棺に何が入っていても、炉から取り出せば、なーんにも残らない。
個人が好きだった本。愛用の道具。書き連ねられた惜別の言葉も。全部、ぜーんぶ、炎の中で一緒くたになって、とろとろに融けて交じり合って、最後は真っ白な灰になる。
棺って、もしかしたら蛹(pupa)なのかもしれないな、って思った。空の殻の中に、魂と存在証明と記憶を詰め込んで。きっと炎に焼かれる間に混ぜこぜになった中身はあちら側に羽化してしまって、だからこちら側には、もう棺の中に確かに在ったはずの何かは無くなっているのだ。世界からの脱出トリック成功、というわけ。
「ねぇ阿求、知ってる?」
ふと眼鏡を外した小鈴が私の手に手を重ねて、囁くように言う。彼女の掌は、温かい。あまり思い通りに動かなくなってきた私の手でも、まだそれぐらい判る。
「幻想郷の外には、冥婚っていう風習があるの。台湾っていう国ではね、未婚の女性が亡くなったら遺族が紅包(ホンバオ)っていう赤い封筒を道端に置くの。それを拾った人は、その死者との結婚を強制されるんだって」
「へぇ、そうなんだ」
「うん、そうなの」
「紅包を拾う人は誰でも良いの?」
「うーん、本質的には。そうだね。誰でもいいみたい」
「じゃ、私には関係ないわ」
「そっか」
無理に取り繕った偽物の笑みで言って、小鈴は重ねた手を離す。
「そうだね。関係ない」
くっしゃくしゃの声。ズルい、って思った。まるで私が悪いみたい。
静かな夜であることを、嫌が応にも思い知らされた。月光に照らされて咲く花の息吹が聞こえてくるほどに。でも、小鈴だって判ってるのに。蛹の中に、魂は2つも入らない。
火皿に葉っぱを詰める。パイプを咥える。燐寸を擦って煙草に着火する。ガラス玉みたいに綺麗で曖昧な小鈴の両眼が、なのに瞬きもせず私の手が動く様を見ている。
「一度見ただけで覚えられないのって、不便よねぇ」
「不便じゃないよ。でも、理不尽だなって思う」
「あべこべだったら良かった?」
「薄ぼんやりとね、子供のころから、実はそう思ってた。今ほどじゃないけど」
「そうなの。でも、ロマンティックじゃないわね」
「どうして?」
「だって、忘れないようにって、心に留め置くのには、きっと努力と思いの強さが必要でしょ? いつまでも色褪せず、簡単に保管し続けられるなら、ありがたみが無くなっちゃう」
割と最悪な部類の言葉を吐いてるからこそ、逆に思いっきりニコニコしてやった。でも、こうするのが一番なんだ、って確信もあった。私は小鈴を呪いたくて仕方ないし、小鈴は私に呪われたくて仕方ないから。仕方ないのが判ってるなら、全身全霊でやりきる方が潔い。とっくに私は開き直ってる。小鈴から、いつまでも思われ続けたいと。
「楽させてくれないんだね。ひどい女」
「その程度でアンタが満足できるなら、私もここまでワガママ言わなかったよ」
「知ってるよ。ばか」
私のすぐ隣に座った小鈴が、私の肩にもたれかかってくる。鼓動。呼吸や温もり。もしかしたら細胞の新陳代謝でさえも同調したかのような安心感。まるで、とろとろに融けて混じり合うような。
パイプ煙草の甘ったるい煙は、まるで秋の終わりに熟した果実のような残り香で鼻をくすぐり、やがて音もなく空気に溶けていった。
棺と蛹の話は作者さんの感性としてとても好きな考え方でした。
吐き出され煙や熱のように消えることなく呪いを望む互いの関係性が素敵でした。
棺をさなぎに見立てるセンスが光っていました
文章一つ一つの表現が素晴らしかったです。
最期の時が近い中お互いをよく理解している二人の関係がとても好みです。
面白かったです。