『親愛なる藍様へ
藍様がこの手紙を読んでいるとき、私はもう藍様の前にはいないでしょう。
……なんて書き出しで始めたら、藍様はものすごーく不吉なことを考えてしまうでしょうか。
安心してください。別にお酒に酔って溺れ死んだりナントカの精神に殉じたりとかはしません。そういう手紙じゃないです。
私、橙はちょっとだけ留守にします。といっても、幻想郷の外に逃げたりはしません。私には結界の管理ができないので、そもそもそんなことはできません。あまり深刻に考えないでくださいね。
こんなことを書くのもなんですが、藍様には少し不満があります。激おこってほどじゃないです。プチおこです。どこがどうとか聞かれても、具体的にぜんぶ並べようとすると便箋が埋まってしまうので、ここにはただ、しばらく一人にしてほしいとだけ書いておきます。
私がどこへ行くのか、マヨヒガや猫の里の猫たちにも知らせてありません。しばらく私のことは忘れてください。放っておいてください。本当に探さないでくださいね。心配しないでくださいね。いいですね?
貴方の式神 橙より
追伸 やっぱりいっこだけ。ところで藍様は』
「大変なことになった」
思わずぐしゃっと握りしめてから、藍は慌てて拳を開くも時すでに遅し。橙が拙い字でしたためた手紙はよれよれになってしまった。やってしまった、と思いつつ丁寧にしわをのばして続きを読もうと試みた。
「ええと、ところで藍様は……なんだこれは」
文字が唐突に途切れていて、裏面にひっくり返すが表面の墨が滲んだ跡しかない。もう一度手紙の最下部を見れば破れた形跡があった。猫の一匹がこの手紙をくわえていたのを藍がひったくったときに、破けてしまったんだろうか。破れた紙片はとうに猫達のオモチャになってしまったかもしれない。
橙の姿がマヨヒガに見当たらず、では猫の里は、と顔を出して、藍は屋敷の一角で猫が手紙をくわえているのに気づいたのである。
どうしよう、と藍は頭を抱えた。
橙が家出してしまった。
しかも文面からして藍になんらかの不満を抱えているらしい。真っ先に紫の元へ駆け込みたいところだが、紫は『貴方の式神は貴方が面倒を見なさい』と放任主義なので、藍が泣きついても突き放される可能性が高い。
「いいや、私だって何もかも紫様にばかり頼っていられるものか」
そう、何故ならタイミングのいいことに猫の里にはちょうど今、藍以外の妖怪が尋ねてきている、もとい藍が誘ったのである。彼女なら相談に乗ってくれるかもしれない。
「星、大変だ! 橙が」
「家出しちゃったのね」
居間で膝に乗せた猫を撫でながら、星は淡々と答えた。ここがもう一つの我が家かと思わんばかりの馴染みっぷりである。
寅丸星。見てくれでわかるように虎の妖怪だ。気難しい猫達も虎妖怪は自分達より格上と認めているのか、星によく懐いていた。
まだ何も説明していないのに、あっさり藍の動揺の原因を看破した星を前に藍は舌を巻く。
「よくわかったね」
「そりゃあ貴方が全文声に出して読み上げてるんだから」
「え、私そんなことしてた?」
「してた」
別に看破したわけじゃなかった。藍はまったく無意識だった。普段はおおらかで能天気な藍もだいぶ冷静さを欠いているらしい。
「少し落ち着いたら? そうね、座禅でもやってみる?」
「いや、悪いけどそんな余裕ないから、って何持ってるの?」
「あ、これ警策の代わりに借りていい?」
「靴べらを警策にするお坊さんがいるかい」
「聖はたまに孫の手を代用するのよ」
「あの人そんなことやってたの!?」
孫の手で喝を入れてくるお寺なんて嫌だ。藍は命蓮寺の経営事情が心配になってきた。
「なんなの、宝塔の次は警策を失くすわけ?」
「あのね、私がしょっちゅう忘れ物とか失くし物とかしてるみたいな言い方しないで」
星は不満げに言った。口調の刺々しさに藍も思わず口をつぐむ。まあ弘法にも筆の誤りと言うし、彼女の落ち度ばかり求めなくても良かろう、普段は優秀な毘沙門天の弟子であることに変わりはないのだし――。
「じゃなくて!」
危うく星のペースに巻き込まれて橙の問題がどっかに飛んで行くところであった。藍の方が星より長生きのはずなのに、今日は星の方がだいぶおっとりしている。世捨て人にありがちな浮世離れした雰囲気というか、マイペースな気質のせいだろうか。
「私はそんなのんびり構えてられないんだ」
「そう。じゃあこのお香を嗅いでみるのはどう? お焼香の配合を最近変えたんだけど、リラックスして読経を聴けるって評判なのよ。中には寝落ちする人もいて……」
「お焼香は安眠導入のアロマテラピーじゃないんだよ。というかなんでそんなもの持ち込んでんの」
「七つ道具じゃないけどお坊さんの必須アイテムよ」
「じゃあ警策も持ち歩けば?」
のんびりすぎる態度にやきもきする藍をよそに、星が小さな鉢に焼香を振りまくと、たちまち煙が立ち昇る。においに敏感な猫達はすたこら逃げて行ったが、藍は手で煽って嗅いでみる。悪くない香りだ。じかに浴びると目に沁みるけど。
確かに急いで事を仕損じるくらいなら、一旦心を落ち着けた方がいいかもしれない。星も戯れはほどほどにして藍の悩みに付き合う気になってくれたようである。
慌てふためいてごちゃついた頭の中がすっきりしてくると、次第に藍の灰色の脳細胞が活性化する。卓越した頭脳が、橙を訪ねる方程式を瞬時に弾き出した。
「猫が脱走した際の行動範囲は一日当たりおよそ半径一◯◯メートル、十二方向に私の式神を十二体同時に放ったときに期待できる発見までの最短時間は――」
「イエネコの行動範囲と式神憑きの化け猫の行動範囲が同じわけないじゃない」
「そうでした……」
残念ながら焼香の力をもってしても藍の平静は戻ってこなかった。桁違いの頭脳も明後日の方向に働いてはただの無駄遣いである。気落ちして耳が垂れ下がる藍を見て、星はくすくす笑った。
「貴方はいつものんびりしてるのに、橙ちゃんが絡むと途端にせかせかするのね」
「わかってるよ、私が橙に対して心配性だってことぐらい」
「探索に式神を使うくらいなら、直接橙ちゃんを呼び戻す方が早いじゃない。橙ちゃんだって貴方の式神でしょう?」
「橙は私の命令を素直に聞かないよ。それにしょっちゅうどこかで暴れて式神を剥がして帰ってくるから、今頃はもう……」
紫が藍に憑依させた式神は強力で滅多に剥がれ落ちないが、藍が橙に憑依させた式神はバグが生じやすく、命令も充分に届かない上に剥がれやすい。そうでなくたって、気まぐれな橙は藍の言うことに必ずしも忠実に従ってくれるわけではないのだ。ため息をこぼす藍を前に、星は首をかしげる。
「変ね。外の人間はペットの猫や犬に、ええと、GPS? とかいう機械をつけて、離れてても居場所がわかるようにするみたいよ。危険から守るために。式神の術で同じことはできないの?」
「紫様ならあるいは。でも私には無理だね」
「どうして?」
「ひとつは私の実力不足。もうひとつは……橙が可愛いから」
「はあ?」
少しは真面目に藍の話を聞く気になった星も、意味がわからないと思ったらしい。呆れ顔の星に向かって、藍は自嘲気味に話を続ける。
「私にとって、橙は、なんて言えばいいのかな。我が子、と言ったら語弊があるんだけど……可愛いんだ。自由奔放で、わがままで、そこがまた可愛いから、束縛できないんだ」
「呆れた親馬鹿」
星は藍から視線を逸らしてまた猫と戯れる。数ある猫達の中でもとりわけ星によく懐いている大柄の茶虎は、焼香のにおいが充満しても星から離れていかなかった。腹を見せて星に甘える茶虎を見て、藍はふっと幼い橙の姿を重ね合わせる。
確かに星の言う通り、藍は親馬鹿なのかもしれない。橙が妖怪になりたての、いわば幼獣の頃から気にかけてきたので、橙の精神がもうそこまで子供じゃないと頭でわかっていても、つい構ってしまう。今回みたいに突然姿を消されてしまうと、お腹を空かせていないか、悪い妖怪に悪戯されていないか、心配でたまらなくなる。
しかし一方で藍は橙の気まぐれを好ましく思っている。藍は紫に対する反抗など一ミリも考えないが、橙は元が猫のせいか藍よりもずっと自由で、ヒエラルキーを理解する賢さはあっても特定の誰かを盲信しない。同じ式神であっても、あるいは橙の将来は藍とはまったく違ったものになるかもしれない、と藍は密かに期待していた。
そのため、心配が尽きない反面、目に入れても痛くない子に対して紫みたく折檻するのも嫌だと思うのだから、藍の性格も難儀というか、どうしようもない。
「わかってるのになあ。いつまでもあの子の小さな姿が脳裏をよぎって仕方ないんだ」
茶虎のゴロゴロ喉を鳴らす声を聞くと、久しく橙からそれを聞いていないなと寂しくなる。
そういうのが鬱陶しがられるんだ、だからほっといてと言われるんだ。私だって、紫様に未熟な小童みたいな扱いをされたら気に食わないときだってあるのに。ああいう口うるさいご主人様にはなりたくないよなあとも思っていたのに。だけど私は、紫様みたいに自分で式神を扱えるようになって、いつのまにかかつてのなりたくなかったものになってしまったような……藍の思案は再びぐるぐる回る。頭を抱える藍の耳に、また星の笑い声が響いた。
「いつの時代も親心は闇ね」
「闇じゃなくても道に迷うんだよ。貴方はナズーリンがどっか行っちゃうかも、とか心配しないの?」
「しない。ナズーリンは私よりしっかりしてるから、心配することは何もないの」
「便りがないのが良い便りか。羨ましいね」
「でも昔はよく喧嘩したのよ」
「えっ、貴方が?」
「そりゃそうよ。元は監視役だし、聖達がいなくなって急に二人きりで取り残されたら、摩擦だって生まれるでしょう」
星は猫を撫でる手を止める。猫が構えと体を擦り付けても振り解き、藍を見て少し真面目な顔をした。
藍も星の部下であるナズーリンとは面識がある。小柄な容姿に似つかわしくない、どこかニヒルな雰囲気を纏った妖怪鼠だったが、藍には彼女が星と諍いを起こす性格には見えなかった。
星は頬杖をついて目を伏せる。
「だってねえ、ナズーリンったら……ほら、昔はよくお寺が焼き討ちに遭ったじゃない。そのたびに私が落胆すると『寺なんてただの建物じゃないですか』なんて言うのよ。ただの建物なわけありますか。由緒ある仏具もお堂もぜんぶ燃えて灰になっちゃうのよ。第一、ただの建物だったら聖が私を信頼して留守を預けた意味は何? 私が聖達と過ごした時間は? 私があの頃、聖達のいないお寺を守るのにどれだけ苦心したと……」
一気に吐き出してから、言いすぎたと思ったのか、星は口籠る。
「ごめんなさい。今更、藍にこんなこと愚痴っても仕方ないのに」
「いいよ、別にここの猫達は告げ口なんてしないし、愚痴くらい好きにこぼしたら?」
「だけど」
星はそのまま俯いてしまう。結果として悪口みたいになってしまったこと、過ぎた昔を蒸し返したことを申し訳なく思っているようだ。
真面目に恥じている星を前にこんなことを考えるのも大概ではあるが。いつも毘沙門天の代理らしく堂々と振る舞っている星にも、過去には従者と衝突するなど不満や苦労があったのだと思うと、親しみが湧くというか、藍には可愛らしく思えて口元が緩む。
「理想のご主人様になるのは大変だね。お互いに」
「少なくとも私には聖みたく寛大に振る舞うのは無理だったわ」
「聖は聖、星は星。完璧に真似できなくたって無理はないよ。私のパターンだって紫様より劣るしね」
「……今は本当に、あのときナズーリンがいてくれてよかったと思ってるのよ。考えてみれば僧侶がみだりにモノに執着するのはよくないしね。僧侶としてあるべき姿を教えてくれたのかもしれないわ」
「うーん、そういう諭しのつもりだったとも思えないけど……」
「……あのね、藍。正直に言えば、ナズーリンの考えてることは、今でもわからないときだってある」
藍はふと耳を動かす。悩みの告白、というには星はあまり深刻な表情をしていない。
星が毘沙門天に帰依しつつ仏の弟子でもある一方、ナズーリンの信仰は本来の主人である毘沙門天にのみ捧げられている。二人の間には信心の違いがあるわけだ。
信仰とは厄介だ。救いをもたらす傍らで、争いの種を蒔く。道徳や倫理的規範かと思えば、権力者が民を支配する口実にもなる。先ほどの星の話からして、ナズーリンはあまり仏教に関心を示さないのだろう。主従で断絶があると面倒なものだ。もっとも、星はナズーリンに無理に仏教を信仰してほしいのではなく、自分の信仰心を尊重してほしかっただけなのだろうが。
「もう昔の話よ」と追加で星はフォローを入れる。
「今はそういう喧嘩はしないから。あの頃は私も未熟だったし、余裕がなかったし……ナズーリンだって私に愛想尽かしたこともあったでしょうね。散々ぶつかってわかったのよ、この溝だけはどうやっても埋められないって」
「まあ、無理に埋めたとしても関係が破綻しそうだね」
「うん。だけど付き合いが長いせいか、一輪達に言えないことを言えたりもするの」
眉を下げて微笑む星を見て宝塔の件かな、と思ったが藍は口にしない。先ほどのやりとりからしても、宝塔喪失についてはかなり気にしているらしかったので。
「ナズーリンにはナズーリンの信じるものがあって、私には私の信じるものがあって。私、ナズーリンのこと、とても好きよ。ぜんぶをわかり合えなくても、離れて暮らしてても、私にとっては大切な部下。ナズーリンは浄土にも興味ないだろうし、たぶん来世はみんなと一緒になれないけど、今世で縁ができたのは嬉しいなって」
「……そうか」
嘘偽りのない優しい笑顔を見せる星は、ナズーリンを始めとした仲間達を心底大切に思っているのだと、藍にはすぐわかった。
星もナズーリンも精神的に自立している。お互いの信仰に折り合いをつけて付き合いを続けられる。他にも諍いはあったのだろうが、横たわる溝を承知の上で相手を尊重できるのなら、それもまた望ましい関係と言えるだろう。
(さて、私と橙ときたら……)
藍は口元をひきつらせる。藍と橙の間で信仰心の対立が起こる可能性はまずないと言い切っていいのだが、そもそも橙になんらかの信仰があるのかが藍にはわからない。陰陽道だの占術だの仏教だのにちなんだスペルカードは使うものの、主人の贔屓目を除いても、たぶん橙には難しい道理は理解できていないだろうと思う。
だからこそ、藍が橙と揉めるとしたらもっと素朴な、それこそ目下の擬似親子的な悩みに帰結するのだろう。平和だ。
「どうにもね、私は今の橙が自立できるようには思えなくて」
「藍の求めるレベルが高すぎるんじゃない?」
「もう少し、もう少し素直に私の言葉を聞いてくれたらそれでいいんだよ」
「なら、あんまり構わず自由にさせてあげればいいんじゃないの」
「だけど心配なんだよー。ちょっと心配するくらい許してよー」
「……この調子じゃ橙ちゃん、しばらく帰ってこないわね」
淡々と返されると何だか情けなくなって、藍は星の肩にもたれかかる。まだ昼間だがヤケ酒でも煽りたい気分だった。
「なあに? 今日の藍は本当にらしくないわね」
「星、助けて。お坊さんなら、私にも執着を断ち切る方法を教えてよ」
「簡単に捨てられるものなら、僧侶は修行に苦しまないわ」
星の言葉はそっけないが、額を押し付ける藍を無闇に引っぺがしもしないので、そのまま甘える。
あーでもないこーでもないと悩んではいるものの、星に打ち明けると藍の気持ちは少し楽になる。珍しく我儘を言う藍を冷たく突き放さず、文句を言いつつも付き合ってくれる星の存在がありがたかった。
「今日は星の方がお姉さんみたいだね」
「藍も出家してみる?」
「さすがに紫様に無断ではちょっと。というかさらっと勧誘しないでよ、なんか怖い」
「あらごめんなさい。アルティメットブディストって名付けるくらいだからそこそこ傾倒してるのかと」
「あんなのノリだよ、ノリ。私は狐として、神仏習合の力にあやかるだけだ」
「そういう都合よくいいとこ取りする感じは俗っぽい人間と同じ」
「なあに? 説教の講師でもやってくれるの? 星には似合いそうだね、じっと顔を見てれば少しは教えのありがたみも感じるかも」
「ああもう、本当に今日の藍は面倒くさい」
冗談を言い合ううちに二人の密着が進んで、間で窮屈そうな茶虎が不機嫌な声を上げる。ただの猫と膝を取り合うのも馬鹿らしいが、ここはお前だけの特等席じゃないよ、と囁いてみたくなる。
星は器用に茶虎と藍の相手を同時にしながら、藍の背中をぽんと撫でた。
「私もまだ修行中の身なの。藍の心を簡単に変える都合のいい法力なんて使えない。だけど、気を紛らわす方法なら教えてあげられる。愚痴でも悪口でも、藍の話ならいくらでも聞いてあげる」
「……」
「大丈夫よ。橙ちゃんが藍に本当に嫌気がさしたんなら、わざわざ手紙を残したりしないでふっと姿を消すでしょう。手紙の中でしつこいくらい『心配しないで』って念を押してるけど、橙ちゃんは藍が自分のことで必要以上に心を痛めるのが嫌なのよ」
「……星」
「だから、貴方の大事な子を信じてあげなさい」
星の温かな眼差しを受けて、藍の心も不思議と温かくなった。『講師は顔良き』と並ぶくらい罰当たりかもしれないが、宝塔によるありがたい法の光よりも、藍にとっては夜空に瞬く星屑のような、星自身が差す仄明るい光の方がずっと好ましかった。
藍の顔から憑き物が落ちたのがわかったのか、「やっと落ち着いたみたいね」と笑って、星は膝に居座る茶虎を抱き抱えた。
「藍もこの子達を見習って、どーんと構えてたらどうなの。ご主人様がいなくなってもちっとも狼狽えてないでしょう」
「いなくなるのが主人と部下じゃだいぶ違う……わっ」
藍に押し付けられた虎猫は不満を滲ませた鳴き声を上げる。藍も猫は好きだが、この猫は年嵩で大柄なのも相まっていささか態度がふてぶてしい。
それでも藍が撫でても嫌がらないあたり、茶虎も藍との力量の差をよくわきまえている。柔らかで上質な毛並みを触っていると心も和むが、藍は茶虎よりも、茶虎を抱えている星のふわふわした金と黒の髪の方が目に留まった。
「ねえ、星」
「何?」
「撫でていい?」
「……私は虎であって猫じゃない」
「だけど虎も猫の仲間だし。貴方は大きな猫みたいだ。虎にもマタタビが効くって本当かなあ」
「やめて、モノで釣ろうとする人は嫌い」
「冗談、冗談」
星はぐいぐい茶虎を押しつけてくる。藍は諦めて星の手から茶虎を受け取ろうとしたが、はて、なぜか星は茶虎を抱える手を離そうとしない。
(うん?)
茶虎に負担を与えないよう、無理に引っ張るのはやめたが、二人で向かい合って一匹の猫を抱き抱える図は奇妙だ。渡したいのか渡したくないのかどっちなんだ。
お気に入りの子だからかな、と思ったが、星の顔を覗き込むと、どうにも違うらしい。怒っている、とまではいかないものの、何やら眉をつり上げて口を惹き結んで、不機嫌そうだ。
「一応虎妖怪の身としては、猫の代用品扱いをされると沽券に関わるのよ」
そう言って星はそっぽを向いた。
なあんだ、と藍は笑いが込み上げてきた。別に星を橙や茶虎の代わりにしようというわけでもないのに。
「……貴方は貴方だって、何度も言わせないでよ」
猫は気まぐれでツンデレだとよく言うけれど、虎も似たような性質があるのかもしれない。
藍が星の目をじっと見つめると、星は観念して茶虎を解放する。許諾の合図だと受け取った藍は手を伸ばす。ようやく触れた星の髪は猫っ毛で柔らかいけれど、やっぱり猫達とは違った。相手に抱く『かわいい』の種類が異なるからだろう。
「いいね。こうやって星を甘やかすのも悪くない」
「……代わりに藍の尻尾に触らせてくれるんだったら、お好きにどう、ぞ!」
「わっ!」
言うが早いか、星は素早く藍の尻尾に手を伸ばしてきた。普段なら好きに触らせるが、今は換毛期でコンディションがイマイチで、できれば触ってほしくない。身勝手だと思いつつ、藍はさっと身を翻したが、星が尾の一本を掴む方が早かった。
「こら、引っ張るな!」
「貴方にばっか好き勝手させてたまるもんですか」
「やったな、この!」
「きゃあ、化け狐に食われる!」
「大虎に食われる前に食ってやる!」
「誰が大虎ですって!」
そのまま藍が星の上にのしかかったり、かと思えば星が珍しくむきになって藍の手を押さえつけたり、お互いに歳だの立場だのを忘れた、ただの獣のじゃれあいになっていった。迷惑そうな茶虎の鳴き声も耳に入らない。
ふざけ合っていたせいか、二人とも玄関の物音に気づくのが遅れた。
「あいたっ、ちょっと星、どこ触ってんの」
「え、私じゃないわよ」
「でも今……なんだ、またお前か。別に本当に取って食いやしないよ、だから爪を引っ込めて――」
藍の耳に爪を立ててくる茶虎をどけようとして、藍は客間の入口に見慣れた黒の化け猫が立っているのに気づいた。
「橙! 橙じゃないか!」
見間違えるはずもない、置き手紙を残して消えた橙だった。藍はたちまち歓喜に包まれる。ああ、やっぱり私はただ待っていてあげればよかったのか、そのうち戻ってくるさと鷹揚に構えていれば……。
「帰ってきてくれる気になったのかい?」
「いえ。忘れ物取りに来たんですけど……」
声を弾ませる藍に対して、橙は何やら歯切れが悪い。言い淀んだ橙の目線の先には、未だじゃれあったままの二人の姿があった。
(あっ)
久々に根城に帰ったら上司が恋人と戯れてましたって、気まずいとかいうレベルじゃない。
慌てて橙の顔を見ると、にっこり笑っていた。呆れと諦観を滲ませた、生暖かい眼差しである。
「お邪魔しました。やっぱりしばらく帰るのやめにしますね」
「ちぇ……橙ー!!」
立つ鳥跡を濁さず、というが発つ化け猫もまた足跡一つ残さない。追いかける暇もなく、天性のすばしっこさと式神の火力で橙は駆け抜けていった。後に残るのは焼香の残り香と茶虎の『だから言ったじゃないか』とでも言いたげな鳴き声だけである。
藍はいろんな意味で頭が冷えた。あれ、橙が怒ってる理由ってもしかしてこれじゃないの? と気づけたのはいいが時すでに遅し、さて、どうしよう。体裁の悪さに頭を抱える藍に、同じく何かを察したらしい星が「藍」と声をかけた。
「座禅でもする?」
「……する」
しばらく二人で座禅をした。
『追伸 やっぱりいっこだけ。ところで藍様は星さんを当たり前のように猫の里とかマヨヒガとかに連れ込むのをやめてもらっていいですか?
星さんが嫌だというわけではありません。いい人ですし、ろくに友達のいない藍様と仲良くしてくれる人ができるのは私も嬉しいです。
だけどご主人様の恋人ってどう接していいのか私にはわかりません。というかいつのまにそんな関係になっていたんですか。私ちっとも説明されてないんですけど。藍様ってやたらと私に構いたがる割には大事な話が足りてなくないですか?
わがままかもしれませんけど、私は猫ですから、放っておいてほしいときもたくさんあるけど、肝心なとこで後回しにされると、それはそれで気に入らないんですよ。
そういう諸々含めて不満なので、しばらく帰りません。あらあらかしこ』
藍様がこの手紙を読んでいるとき、私はもう藍様の前にはいないでしょう。
……なんて書き出しで始めたら、藍様はものすごーく不吉なことを考えてしまうでしょうか。
安心してください。別にお酒に酔って溺れ死んだりナントカの精神に殉じたりとかはしません。そういう手紙じゃないです。
私、橙はちょっとだけ留守にします。といっても、幻想郷の外に逃げたりはしません。私には結界の管理ができないので、そもそもそんなことはできません。あまり深刻に考えないでくださいね。
こんなことを書くのもなんですが、藍様には少し不満があります。激おこってほどじゃないです。プチおこです。どこがどうとか聞かれても、具体的にぜんぶ並べようとすると便箋が埋まってしまうので、ここにはただ、しばらく一人にしてほしいとだけ書いておきます。
私がどこへ行くのか、マヨヒガや猫の里の猫たちにも知らせてありません。しばらく私のことは忘れてください。放っておいてください。本当に探さないでくださいね。心配しないでくださいね。いいですね?
貴方の式神 橙より
追伸 やっぱりいっこだけ。ところで藍様は』
「大変なことになった」
思わずぐしゃっと握りしめてから、藍は慌てて拳を開くも時すでに遅し。橙が拙い字でしたためた手紙はよれよれになってしまった。やってしまった、と思いつつ丁寧にしわをのばして続きを読もうと試みた。
「ええと、ところで藍様は……なんだこれは」
文字が唐突に途切れていて、裏面にひっくり返すが表面の墨が滲んだ跡しかない。もう一度手紙の最下部を見れば破れた形跡があった。猫の一匹がこの手紙をくわえていたのを藍がひったくったときに、破けてしまったんだろうか。破れた紙片はとうに猫達のオモチャになってしまったかもしれない。
橙の姿がマヨヒガに見当たらず、では猫の里は、と顔を出して、藍は屋敷の一角で猫が手紙をくわえているのに気づいたのである。
どうしよう、と藍は頭を抱えた。
橙が家出してしまった。
しかも文面からして藍になんらかの不満を抱えているらしい。真っ先に紫の元へ駆け込みたいところだが、紫は『貴方の式神は貴方が面倒を見なさい』と放任主義なので、藍が泣きついても突き放される可能性が高い。
「いいや、私だって何もかも紫様にばかり頼っていられるものか」
そう、何故ならタイミングのいいことに猫の里にはちょうど今、藍以外の妖怪が尋ねてきている、もとい藍が誘ったのである。彼女なら相談に乗ってくれるかもしれない。
「星、大変だ! 橙が」
「家出しちゃったのね」
居間で膝に乗せた猫を撫でながら、星は淡々と答えた。ここがもう一つの我が家かと思わんばかりの馴染みっぷりである。
寅丸星。見てくれでわかるように虎の妖怪だ。気難しい猫達も虎妖怪は自分達より格上と認めているのか、星によく懐いていた。
まだ何も説明していないのに、あっさり藍の動揺の原因を看破した星を前に藍は舌を巻く。
「よくわかったね」
「そりゃあ貴方が全文声に出して読み上げてるんだから」
「え、私そんなことしてた?」
「してた」
別に看破したわけじゃなかった。藍はまったく無意識だった。普段はおおらかで能天気な藍もだいぶ冷静さを欠いているらしい。
「少し落ち着いたら? そうね、座禅でもやってみる?」
「いや、悪いけどそんな余裕ないから、って何持ってるの?」
「あ、これ警策の代わりに借りていい?」
「靴べらを警策にするお坊さんがいるかい」
「聖はたまに孫の手を代用するのよ」
「あの人そんなことやってたの!?」
孫の手で喝を入れてくるお寺なんて嫌だ。藍は命蓮寺の経営事情が心配になってきた。
「なんなの、宝塔の次は警策を失くすわけ?」
「あのね、私がしょっちゅう忘れ物とか失くし物とかしてるみたいな言い方しないで」
星は不満げに言った。口調の刺々しさに藍も思わず口をつぐむ。まあ弘法にも筆の誤りと言うし、彼女の落ち度ばかり求めなくても良かろう、普段は優秀な毘沙門天の弟子であることに変わりはないのだし――。
「じゃなくて!」
危うく星のペースに巻き込まれて橙の問題がどっかに飛んで行くところであった。藍の方が星より長生きのはずなのに、今日は星の方がだいぶおっとりしている。世捨て人にありがちな浮世離れした雰囲気というか、マイペースな気質のせいだろうか。
「私はそんなのんびり構えてられないんだ」
「そう。じゃあこのお香を嗅いでみるのはどう? お焼香の配合を最近変えたんだけど、リラックスして読経を聴けるって評判なのよ。中には寝落ちする人もいて……」
「お焼香は安眠導入のアロマテラピーじゃないんだよ。というかなんでそんなもの持ち込んでんの」
「七つ道具じゃないけどお坊さんの必須アイテムよ」
「じゃあ警策も持ち歩けば?」
のんびりすぎる態度にやきもきする藍をよそに、星が小さな鉢に焼香を振りまくと、たちまち煙が立ち昇る。においに敏感な猫達はすたこら逃げて行ったが、藍は手で煽って嗅いでみる。悪くない香りだ。じかに浴びると目に沁みるけど。
確かに急いで事を仕損じるくらいなら、一旦心を落ち着けた方がいいかもしれない。星も戯れはほどほどにして藍の悩みに付き合う気になってくれたようである。
慌てふためいてごちゃついた頭の中がすっきりしてくると、次第に藍の灰色の脳細胞が活性化する。卓越した頭脳が、橙を訪ねる方程式を瞬時に弾き出した。
「猫が脱走した際の行動範囲は一日当たりおよそ半径一◯◯メートル、十二方向に私の式神を十二体同時に放ったときに期待できる発見までの最短時間は――」
「イエネコの行動範囲と式神憑きの化け猫の行動範囲が同じわけないじゃない」
「そうでした……」
残念ながら焼香の力をもってしても藍の平静は戻ってこなかった。桁違いの頭脳も明後日の方向に働いてはただの無駄遣いである。気落ちして耳が垂れ下がる藍を見て、星はくすくす笑った。
「貴方はいつものんびりしてるのに、橙ちゃんが絡むと途端にせかせかするのね」
「わかってるよ、私が橙に対して心配性だってことぐらい」
「探索に式神を使うくらいなら、直接橙ちゃんを呼び戻す方が早いじゃない。橙ちゃんだって貴方の式神でしょう?」
「橙は私の命令を素直に聞かないよ。それにしょっちゅうどこかで暴れて式神を剥がして帰ってくるから、今頃はもう……」
紫が藍に憑依させた式神は強力で滅多に剥がれ落ちないが、藍が橙に憑依させた式神はバグが生じやすく、命令も充分に届かない上に剥がれやすい。そうでなくたって、気まぐれな橙は藍の言うことに必ずしも忠実に従ってくれるわけではないのだ。ため息をこぼす藍を前に、星は首をかしげる。
「変ね。外の人間はペットの猫や犬に、ええと、GPS? とかいう機械をつけて、離れてても居場所がわかるようにするみたいよ。危険から守るために。式神の術で同じことはできないの?」
「紫様ならあるいは。でも私には無理だね」
「どうして?」
「ひとつは私の実力不足。もうひとつは……橙が可愛いから」
「はあ?」
少しは真面目に藍の話を聞く気になった星も、意味がわからないと思ったらしい。呆れ顔の星に向かって、藍は自嘲気味に話を続ける。
「私にとって、橙は、なんて言えばいいのかな。我が子、と言ったら語弊があるんだけど……可愛いんだ。自由奔放で、わがままで、そこがまた可愛いから、束縛できないんだ」
「呆れた親馬鹿」
星は藍から視線を逸らしてまた猫と戯れる。数ある猫達の中でもとりわけ星によく懐いている大柄の茶虎は、焼香のにおいが充満しても星から離れていかなかった。腹を見せて星に甘える茶虎を見て、藍はふっと幼い橙の姿を重ね合わせる。
確かに星の言う通り、藍は親馬鹿なのかもしれない。橙が妖怪になりたての、いわば幼獣の頃から気にかけてきたので、橙の精神がもうそこまで子供じゃないと頭でわかっていても、つい構ってしまう。今回みたいに突然姿を消されてしまうと、お腹を空かせていないか、悪い妖怪に悪戯されていないか、心配でたまらなくなる。
しかし一方で藍は橙の気まぐれを好ましく思っている。藍は紫に対する反抗など一ミリも考えないが、橙は元が猫のせいか藍よりもずっと自由で、ヒエラルキーを理解する賢さはあっても特定の誰かを盲信しない。同じ式神であっても、あるいは橙の将来は藍とはまったく違ったものになるかもしれない、と藍は密かに期待していた。
そのため、心配が尽きない反面、目に入れても痛くない子に対して紫みたく折檻するのも嫌だと思うのだから、藍の性格も難儀というか、どうしようもない。
「わかってるのになあ。いつまでもあの子の小さな姿が脳裏をよぎって仕方ないんだ」
茶虎のゴロゴロ喉を鳴らす声を聞くと、久しく橙からそれを聞いていないなと寂しくなる。
そういうのが鬱陶しがられるんだ、だからほっといてと言われるんだ。私だって、紫様に未熟な小童みたいな扱いをされたら気に食わないときだってあるのに。ああいう口うるさいご主人様にはなりたくないよなあとも思っていたのに。だけど私は、紫様みたいに自分で式神を扱えるようになって、いつのまにかかつてのなりたくなかったものになってしまったような……藍の思案は再びぐるぐる回る。頭を抱える藍の耳に、また星の笑い声が響いた。
「いつの時代も親心は闇ね」
「闇じゃなくても道に迷うんだよ。貴方はナズーリンがどっか行っちゃうかも、とか心配しないの?」
「しない。ナズーリンは私よりしっかりしてるから、心配することは何もないの」
「便りがないのが良い便りか。羨ましいね」
「でも昔はよく喧嘩したのよ」
「えっ、貴方が?」
「そりゃそうよ。元は監視役だし、聖達がいなくなって急に二人きりで取り残されたら、摩擦だって生まれるでしょう」
星は猫を撫でる手を止める。猫が構えと体を擦り付けても振り解き、藍を見て少し真面目な顔をした。
藍も星の部下であるナズーリンとは面識がある。小柄な容姿に似つかわしくない、どこかニヒルな雰囲気を纏った妖怪鼠だったが、藍には彼女が星と諍いを起こす性格には見えなかった。
星は頬杖をついて目を伏せる。
「だってねえ、ナズーリンったら……ほら、昔はよくお寺が焼き討ちに遭ったじゃない。そのたびに私が落胆すると『寺なんてただの建物じゃないですか』なんて言うのよ。ただの建物なわけありますか。由緒ある仏具もお堂もぜんぶ燃えて灰になっちゃうのよ。第一、ただの建物だったら聖が私を信頼して留守を預けた意味は何? 私が聖達と過ごした時間は? 私があの頃、聖達のいないお寺を守るのにどれだけ苦心したと……」
一気に吐き出してから、言いすぎたと思ったのか、星は口籠る。
「ごめんなさい。今更、藍にこんなこと愚痴っても仕方ないのに」
「いいよ、別にここの猫達は告げ口なんてしないし、愚痴くらい好きにこぼしたら?」
「だけど」
星はそのまま俯いてしまう。結果として悪口みたいになってしまったこと、過ぎた昔を蒸し返したことを申し訳なく思っているようだ。
真面目に恥じている星を前にこんなことを考えるのも大概ではあるが。いつも毘沙門天の代理らしく堂々と振る舞っている星にも、過去には従者と衝突するなど不満や苦労があったのだと思うと、親しみが湧くというか、藍には可愛らしく思えて口元が緩む。
「理想のご主人様になるのは大変だね。お互いに」
「少なくとも私には聖みたく寛大に振る舞うのは無理だったわ」
「聖は聖、星は星。完璧に真似できなくたって無理はないよ。私のパターンだって紫様より劣るしね」
「……今は本当に、あのときナズーリンがいてくれてよかったと思ってるのよ。考えてみれば僧侶がみだりにモノに執着するのはよくないしね。僧侶としてあるべき姿を教えてくれたのかもしれないわ」
「うーん、そういう諭しのつもりだったとも思えないけど……」
「……あのね、藍。正直に言えば、ナズーリンの考えてることは、今でもわからないときだってある」
藍はふと耳を動かす。悩みの告白、というには星はあまり深刻な表情をしていない。
星が毘沙門天に帰依しつつ仏の弟子でもある一方、ナズーリンの信仰は本来の主人である毘沙門天にのみ捧げられている。二人の間には信心の違いがあるわけだ。
信仰とは厄介だ。救いをもたらす傍らで、争いの種を蒔く。道徳や倫理的規範かと思えば、権力者が民を支配する口実にもなる。先ほどの星の話からして、ナズーリンはあまり仏教に関心を示さないのだろう。主従で断絶があると面倒なものだ。もっとも、星はナズーリンに無理に仏教を信仰してほしいのではなく、自分の信仰心を尊重してほしかっただけなのだろうが。
「もう昔の話よ」と追加で星はフォローを入れる。
「今はそういう喧嘩はしないから。あの頃は私も未熟だったし、余裕がなかったし……ナズーリンだって私に愛想尽かしたこともあったでしょうね。散々ぶつかってわかったのよ、この溝だけはどうやっても埋められないって」
「まあ、無理に埋めたとしても関係が破綻しそうだね」
「うん。だけど付き合いが長いせいか、一輪達に言えないことを言えたりもするの」
眉を下げて微笑む星を見て宝塔の件かな、と思ったが藍は口にしない。先ほどのやりとりからしても、宝塔喪失についてはかなり気にしているらしかったので。
「ナズーリンにはナズーリンの信じるものがあって、私には私の信じるものがあって。私、ナズーリンのこと、とても好きよ。ぜんぶをわかり合えなくても、離れて暮らしてても、私にとっては大切な部下。ナズーリンは浄土にも興味ないだろうし、たぶん来世はみんなと一緒になれないけど、今世で縁ができたのは嬉しいなって」
「……そうか」
嘘偽りのない優しい笑顔を見せる星は、ナズーリンを始めとした仲間達を心底大切に思っているのだと、藍にはすぐわかった。
星もナズーリンも精神的に自立している。お互いの信仰に折り合いをつけて付き合いを続けられる。他にも諍いはあったのだろうが、横たわる溝を承知の上で相手を尊重できるのなら、それもまた望ましい関係と言えるだろう。
(さて、私と橙ときたら……)
藍は口元をひきつらせる。藍と橙の間で信仰心の対立が起こる可能性はまずないと言い切っていいのだが、そもそも橙になんらかの信仰があるのかが藍にはわからない。陰陽道だの占術だの仏教だのにちなんだスペルカードは使うものの、主人の贔屓目を除いても、たぶん橙には難しい道理は理解できていないだろうと思う。
だからこそ、藍が橙と揉めるとしたらもっと素朴な、それこそ目下の擬似親子的な悩みに帰結するのだろう。平和だ。
「どうにもね、私は今の橙が自立できるようには思えなくて」
「藍の求めるレベルが高すぎるんじゃない?」
「もう少し、もう少し素直に私の言葉を聞いてくれたらそれでいいんだよ」
「なら、あんまり構わず自由にさせてあげればいいんじゃないの」
「だけど心配なんだよー。ちょっと心配するくらい許してよー」
「……この調子じゃ橙ちゃん、しばらく帰ってこないわね」
淡々と返されると何だか情けなくなって、藍は星の肩にもたれかかる。まだ昼間だがヤケ酒でも煽りたい気分だった。
「なあに? 今日の藍は本当にらしくないわね」
「星、助けて。お坊さんなら、私にも執着を断ち切る方法を教えてよ」
「簡単に捨てられるものなら、僧侶は修行に苦しまないわ」
星の言葉はそっけないが、額を押し付ける藍を無闇に引っぺがしもしないので、そのまま甘える。
あーでもないこーでもないと悩んではいるものの、星に打ち明けると藍の気持ちは少し楽になる。珍しく我儘を言う藍を冷たく突き放さず、文句を言いつつも付き合ってくれる星の存在がありがたかった。
「今日は星の方がお姉さんみたいだね」
「藍も出家してみる?」
「さすがに紫様に無断ではちょっと。というかさらっと勧誘しないでよ、なんか怖い」
「あらごめんなさい。アルティメットブディストって名付けるくらいだからそこそこ傾倒してるのかと」
「あんなのノリだよ、ノリ。私は狐として、神仏習合の力にあやかるだけだ」
「そういう都合よくいいとこ取りする感じは俗っぽい人間と同じ」
「なあに? 説教の講師でもやってくれるの? 星には似合いそうだね、じっと顔を見てれば少しは教えのありがたみも感じるかも」
「ああもう、本当に今日の藍は面倒くさい」
冗談を言い合ううちに二人の密着が進んで、間で窮屈そうな茶虎が不機嫌な声を上げる。ただの猫と膝を取り合うのも馬鹿らしいが、ここはお前だけの特等席じゃないよ、と囁いてみたくなる。
星は器用に茶虎と藍の相手を同時にしながら、藍の背中をぽんと撫でた。
「私もまだ修行中の身なの。藍の心を簡単に変える都合のいい法力なんて使えない。だけど、気を紛らわす方法なら教えてあげられる。愚痴でも悪口でも、藍の話ならいくらでも聞いてあげる」
「……」
「大丈夫よ。橙ちゃんが藍に本当に嫌気がさしたんなら、わざわざ手紙を残したりしないでふっと姿を消すでしょう。手紙の中でしつこいくらい『心配しないで』って念を押してるけど、橙ちゃんは藍が自分のことで必要以上に心を痛めるのが嫌なのよ」
「……星」
「だから、貴方の大事な子を信じてあげなさい」
星の温かな眼差しを受けて、藍の心も不思議と温かくなった。『講師は顔良き』と並ぶくらい罰当たりかもしれないが、宝塔によるありがたい法の光よりも、藍にとっては夜空に瞬く星屑のような、星自身が差す仄明るい光の方がずっと好ましかった。
藍の顔から憑き物が落ちたのがわかったのか、「やっと落ち着いたみたいね」と笑って、星は膝に居座る茶虎を抱き抱えた。
「藍もこの子達を見習って、どーんと構えてたらどうなの。ご主人様がいなくなってもちっとも狼狽えてないでしょう」
「いなくなるのが主人と部下じゃだいぶ違う……わっ」
藍に押し付けられた虎猫は不満を滲ませた鳴き声を上げる。藍も猫は好きだが、この猫は年嵩で大柄なのも相まっていささか態度がふてぶてしい。
それでも藍が撫でても嫌がらないあたり、茶虎も藍との力量の差をよくわきまえている。柔らかで上質な毛並みを触っていると心も和むが、藍は茶虎よりも、茶虎を抱えている星のふわふわした金と黒の髪の方が目に留まった。
「ねえ、星」
「何?」
「撫でていい?」
「……私は虎であって猫じゃない」
「だけど虎も猫の仲間だし。貴方は大きな猫みたいだ。虎にもマタタビが効くって本当かなあ」
「やめて、モノで釣ろうとする人は嫌い」
「冗談、冗談」
星はぐいぐい茶虎を押しつけてくる。藍は諦めて星の手から茶虎を受け取ろうとしたが、はて、なぜか星は茶虎を抱える手を離そうとしない。
(うん?)
茶虎に負担を与えないよう、無理に引っ張るのはやめたが、二人で向かい合って一匹の猫を抱き抱える図は奇妙だ。渡したいのか渡したくないのかどっちなんだ。
お気に入りの子だからかな、と思ったが、星の顔を覗き込むと、どうにも違うらしい。怒っている、とまではいかないものの、何やら眉をつり上げて口を惹き結んで、不機嫌そうだ。
「一応虎妖怪の身としては、猫の代用品扱いをされると沽券に関わるのよ」
そう言って星はそっぽを向いた。
なあんだ、と藍は笑いが込み上げてきた。別に星を橙や茶虎の代わりにしようというわけでもないのに。
「……貴方は貴方だって、何度も言わせないでよ」
猫は気まぐれでツンデレだとよく言うけれど、虎も似たような性質があるのかもしれない。
藍が星の目をじっと見つめると、星は観念して茶虎を解放する。許諾の合図だと受け取った藍は手を伸ばす。ようやく触れた星の髪は猫っ毛で柔らかいけれど、やっぱり猫達とは違った。相手に抱く『かわいい』の種類が異なるからだろう。
「いいね。こうやって星を甘やかすのも悪くない」
「……代わりに藍の尻尾に触らせてくれるんだったら、お好きにどう、ぞ!」
「わっ!」
言うが早いか、星は素早く藍の尻尾に手を伸ばしてきた。普段なら好きに触らせるが、今は換毛期でコンディションがイマイチで、できれば触ってほしくない。身勝手だと思いつつ、藍はさっと身を翻したが、星が尾の一本を掴む方が早かった。
「こら、引っ張るな!」
「貴方にばっか好き勝手させてたまるもんですか」
「やったな、この!」
「きゃあ、化け狐に食われる!」
「大虎に食われる前に食ってやる!」
「誰が大虎ですって!」
そのまま藍が星の上にのしかかったり、かと思えば星が珍しくむきになって藍の手を押さえつけたり、お互いに歳だの立場だのを忘れた、ただの獣のじゃれあいになっていった。迷惑そうな茶虎の鳴き声も耳に入らない。
ふざけ合っていたせいか、二人とも玄関の物音に気づくのが遅れた。
「あいたっ、ちょっと星、どこ触ってんの」
「え、私じゃないわよ」
「でも今……なんだ、またお前か。別に本当に取って食いやしないよ、だから爪を引っ込めて――」
藍の耳に爪を立ててくる茶虎をどけようとして、藍は客間の入口に見慣れた黒の化け猫が立っているのに気づいた。
「橙! 橙じゃないか!」
見間違えるはずもない、置き手紙を残して消えた橙だった。藍はたちまち歓喜に包まれる。ああ、やっぱり私はただ待っていてあげればよかったのか、そのうち戻ってくるさと鷹揚に構えていれば……。
「帰ってきてくれる気になったのかい?」
「いえ。忘れ物取りに来たんですけど……」
声を弾ませる藍に対して、橙は何やら歯切れが悪い。言い淀んだ橙の目線の先には、未だじゃれあったままの二人の姿があった。
(あっ)
久々に根城に帰ったら上司が恋人と戯れてましたって、気まずいとかいうレベルじゃない。
慌てて橙の顔を見ると、にっこり笑っていた。呆れと諦観を滲ませた、生暖かい眼差しである。
「お邪魔しました。やっぱりしばらく帰るのやめにしますね」
「ちぇ……橙ー!!」
立つ鳥跡を濁さず、というが発つ化け猫もまた足跡一つ残さない。追いかける暇もなく、天性のすばしっこさと式神の火力で橙は駆け抜けていった。後に残るのは焼香の残り香と茶虎の『だから言ったじゃないか』とでも言いたげな鳴き声だけである。
藍はいろんな意味で頭が冷えた。あれ、橙が怒ってる理由ってもしかしてこれじゃないの? と気づけたのはいいが時すでに遅し、さて、どうしよう。体裁の悪さに頭を抱える藍に、同じく何かを察したらしい星が「藍」と声をかけた。
「座禅でもする?」
「……する」
しばらく二人で座禅をした。
『追伸 やっぱりいっこだけ。ところで藍様は星さんを当たり前のように猫の里とかマヨヒガとかに連れ込むのをやめてもらっていいですか?
星さんが嫌だというわけではありません。いい人ですし、ろくに友達のいない藍様と仲良くしてくれる人ができるのは私も嬉しいです。
だけどご主人様の恋人ってどう接していいのか私にはわかりません。というかいつのまにそんな関係になっていたんですか。私ちっとも説明されてないんですけど。藍様ってやたらと私に構いたがる割には大事な話が足りてなくないですか?
わがままかもしれませんけど、私は猫ですから、放っておいてほしいときもたくさんあるけど、肝心なとこで後回しにされると、それはそれで気に入らないんですよ。
そういう諸々含めて不満なので、しばらく帰りません。あらあらかしこ』
今まで星はドジっ子という感じが強かったですが、この作品でイメージが変わりました。
しかし、部下の家を逢引の場所に使う藍様って……。
成熟した甘さが押し寄せてくる、とても素敵な作品でした。
気を利かせてくれている橙が大人でした
とてもよかったです