冷たい空気に頬を撫でられ、ひとりの男が目を覚ました。この男を、仮に鈴木としよう。
鈴木は今、停車中の深夜バスに乗っている。お盆が明けてすぐに入った出張を終え、西から東へと帰路につく最中だ。
スマホのホームには「02:20」の表記が。鈴木の下りるバス停は、午前5時過ぎ着の予定だ。
(もうひと眠りできるな)
ブランケットを胸までずらして両目を閉じるその寸前。鈴木はあることに気が付いた。
「……なんで開いてるんだ」
バス前方にある、車内と外をつなぐ唯一の扉。運転席に面したドアがなぜか開いている。
鈴木の記憶が正しければ、このバスに客が乗り込むのは23時が最後だ。
運転手の休憩だとしても、ドアを開けたまま用を足しに行くとは考えられない。
それに、と鈴木は窓の外に目を向ける。
窓の外は真っ暗だった。街灯の明かりすらない、文字通りの闇。
鈴木は右側の席にいる。もしかしたら、何らかの施設は左側にあって、鈴木の座る座席へと光が届いていないだけかもしれない。
しかし、ドアは左側にあり、光ひとつない闇が、ぽっかりと口を開けている。
「まあ、いいか」
だが、鈴木は眠かった。睡魔の前には、ドアが開いていることなんてほんの些細な事だった。
毛布の中が温まるのを感じながら鈴木は再び夢の世界へと旅立っていった。
ふわ、と冷たい風が頬を撫でる。またしても、鈴木は目を覚ました。
「またかよ」
そう一言吐き捨てる。寝起きが悪いことに定評のある鈴木は、睡眠を2度も中断されたこともあり、最高に苛立っていた。
「運転手はなにやってんだよ……」
運転手に文句を言おうと座席を立ち上がる。
通路に出ると、なぜか足下の誘導灯は消えていた。足下に気を付けながら運転席へと向かう。
夜中の深夜バスは、物音ひとつしなかった。それどころか、振動もない。
まるで停車中のように。
「あれ……」
先ほどと変わらず、バスは止まっていた。窓から見える景色も相変わらず漆黒で、ドアから先には闇がいる。
このバスで、何かが起きていることはわかった。
形の無い不安に急かされつつ運転席を覗き込むと、そこには運転手が座っていた。
「すみません。なんで止まってるんですか?」
返事はない。背筋を伸ばして座る運転手は、鈴木の言葉を無視して正面を見つめている。
「あの!運転手さん!?」
せめて反応してくれ。そう祈りつつ腕をつかみ体を揺らす。
ひぃひぃ、ひぃひぃ
鈴木の耳が、どこからか聞こえてくる悲しげな声を捉えた。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
「おい!運転手さん!どうしたんだよおい!」
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
声がどんどん増えて行く。運転手を揺さぶるその度に、その声は徐々に数を増す。
「なあ!はやく起きろよおい!まじで目を開いてくれよお願いだからさ!」
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
「勘弁してくれよおい!なあ!まじで!起きろよ!起きろってばおい!ゴラァ起きろや」
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
揺すっても揺すっても、運転手は反応しない。ならば最後の手段と拳を握りしめたその時だった。
「ど、どうしたんですか!?落ち着いてください!」
我に返った鈴木を、怯えた様子の運転手が見ていた。あの声は聞こえない。
何も言えないでいる鈴木をよそに、運転手は続ける。
「なにか取り乱しているようですが大丈夫ですか?何かありましたか?」
戸惑う運転手の声を聞いていると、心が落ち着いてきた、気づけば、足元の誘導灯が点灯している。
「もう、驚かせないでくださいよ」
唐突に訪れた緊張からの解放。それに伴う筋弛緩。立つことで精いっぱいな鈴木には、そう答えることしか出来なかった。
ピンポーンと、バスの車内にチャイムが響く。
その音で目を覚ました圭太は、ぼんやりした頭で数日前の出来事を思い出していた。
あの日も、今日と同じくチャイムの音で目が覚めたのだ。
高校の帰り道。疲れがたまっていたのだろう、あの時も圭太はバスの中で寝ていた。
あやうく最寄りのバス停を乗り過ごすところだったが、幸いなことに他の乗客が下りるらしい。
バスは既に信号を過ぎ、停車するまで10秒もないだろう。リュックサックを背負い直し、いつでも降車できるように準備を整える。
しかし、バスは止まらなかった。呆気にとられる圭太をよそに、アナウンスは次の停留所の名を告げる。
運転手が聞き落したのだろうか。圭太は釈然としない思いを胸に、ひとつ先の停留所でバスを降りた。
降りる際、バスの車内を見渡してみたが、そこには運転手しかいなかった。
そんなことがあったから、圭太は少し不安だった。
もしかしたら今日も止まらないかもしれない。だったらその原因はなんだろう、これがいわゆる心霊現象?けれども今は8月末、お盆は過ぎている。
しかし、そんな圭太をよそに、バスは停車したのだった。
席を立つと、近所に住む飯島さんが立ち上がろうとしているのが見えた。
チャイムを押したのは飯島さんだろう。その姿を見ると、心霊現象だなんて怯えていた自分がバカらしく思えてくる。
バスを降り、先に支払いを済ませていた飯島さんに声をかける。
「こんにちは」
「おお、松野さんのとこの。大きくなったなぁ」
最後に飯島さんと会ったのは、たぶん小学校の終わりころだと思う。
「さっきはボタン押してくれてありがとうございます。自分、寝過ごすところでしたよ(笑)」
しかし、飯島さんは怪訝な顔をして言う。
「あれ?あれは松野くんが押したんじゃないのかい?俺は押してないんだけど」
「えぇ」
後ろを振り返る。すでにバスは次の停留所に向けて動き出していた。
その車内には誰もいない。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
その時、近くの木で鳥が鳴き始めた。どことなく悲しげな鳥の声は、物哀しい夏の夕暮れによく馴染んでいる。
「おお、トラツグミじゃないか。珍しいな」
隣で飯島さんが呟いた。
「なんかさめざめ泣いてますね」
「そうそう、ちょっと不気味だよな(笑)」
笑い合いながら、二人は家路につく。
夜風を浴びながら飲む酒はおいしい。それが家以外の場所、例えば高級ホテルのベランダでウィンザーチェアに寄りかかりながら飲むともなれば、その味は格別だ。
眼下に広がる温泉街の明かり。風に混じり聞こえる駆け湯の音。暖色のランプに照らし出されるロックグラス。仕草に合わせてカラカラとぶつかる氷の音。
矢島は、そんな自分に酔っていた。
神奈川の西の端、湯河原にあるホテル。久しぶりに休日をもらえた矢島は、そこに気分転換も兼ねて旅行に来ていた。
ホテルに着いたら荷物を下ろし、周囲を散策。その後部屋で読書に耽ったあと、夕食を食べて大浴場へ向かう。
そんな計画を事前に立ててはいたものの、大浴場に肩まで浸かり、会席料理に舌鼓を打ち、今度は個室の露天風呂を堪能すると、すでに時間は22時を回っていた。
しかし旅程は2泊3日。そして今は初日の夜である。これくらいの脱線はよしとしようと決めた矢島は、道中寄ったスーパーで購入した地ビールをあおることに決めたのだった。
時刻は23時55分。購入したビールも空だ。そろそろ潮時だろうか。
ゴオゴオという、風切り音が聞こえた。音は海の方から聞こえる。
なんの音だとそちらに目をやるも暗くてよく見えない。しかし、矢島には心当たりがあった。
「こんな時間にも走ってるんだな)
その方角には、東海道線の線路がある。大方列車が通過したのだろう。
矢島は普段、列車とは縁のない車社会で生きている。だから、こんな時間まで列車が運行していることに少しだけ驚いていた。
「まあ、回送かもしれないんだけど」
そう呟いて、右手のグラスを傾け中身を喉に流し込む。もちろん味はしない。余ったチェイサーなのだから当たり前だ。
「よっ…と」
軽く勢いをつけて椅子から立ち上がった時、ゴオゴオという音が聞こえた。
とっさに海の方を見てみるも、音は聞こえない。どうやら別の方角のようだ。
耳を澄まして探ってみると、それはベランダとは反対側から聞こえてくる音らしい。
小田原か?いや、もっと近い。音は山を木霊している。間違いない、根府川だ。
しかしそれよりも気になることがひとつある。
「長いな」
さっきの列車は残響を含めても10秒程度だった。しかし今度の音は、すでに30秒は立っているにも関わらず一向に鳴り止む気配がない。
すると、新たな音が加わった。
今度はガラガラという何か重たいものが落ちる音。その中にギャリギャリという金属がきしむ音が混ざっている。音の根源は、またしても根府川方面。
間髪入れずに、ベランダから見て右側、つまり内陸部にある山の方からも音が鳴り始めた。こちらも何かが落ちる音だが、どちらかというと半固形状の物体が猛烈な勢いで滑り落ちる様子を想起させる。
土砂崩れや山崩れに似た音だ。
「なんだなんだどうしたどうした」
部屋に駆け込みテレビをつける。しかし特に速報は無かった。
スマホを開いてもそれは同じで、SNSで「湯河原 轟音」などと検索してみても、同じ音を聞いた人は見つからない。
東海道線の運行情報を見ても特にトラブルは起きていないようだし、気象庁を見ても湯河原町近辺で土砂災害は発生していない。
「なんだったんだ今のは」
状況に変化が無いか、もう一度ベランダへと出てみる。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
あの地響きに似た轟音は止んでいた。しかし、代わりにどこか悲し気な声が辺りに響いている。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
寝静まった温泉街。そこに響く鳴き声の様な声。はっきりいって、不気味だった。
「トラツグミか」
夜にも関わらず鳴くトラツグミは、その声も相まって人々に気味悪がられていた。そうした不安が生み出した怪物が、かつて平安の世を騒がした大妖怪、鵺であるとも言われている。
しかし、一難去ってまた一難。せっかく怪音が鳴り止んだというのにこれではあまり変わらない。
(あるいはもしかしたら、あの怪音は鵺なのかもな)
酔った頭で、そんなことを考える。
鵺の姿は、人によって見え方が違ったという。幽霊でさえ枯れ尾花だったり柳であったりするのだから、人の想像力は逞しいことこのうえない。比較的ポピュラーな幽霊でさえそうなのだから、鵺だなんてマイナーな妖怪なら音になっても不思議ではない。
ただ、矢島は少し引っかかる部分があった。それというのも、モンスターという語の語源は「警告するもの」であるという話をどこかで聞いたことがあったからだ。
そもそも不安という感情自体、ある意味では本能が打ち鳴らす警鐘のようなものである。
そう考えてみると、先ほどの怪音は何らかの警告であったような気がしてきた
時計の針は0時4分を指している。奇しくも今日は9月1日、防災の日だ。
「不吉だな」
そういえば、防災の日は関東大震災が発生した日でもある。その震源は、相模湾沖。すぐそこだ。
ぱちぱちと、符号が合わさっていく。嫌な予感が頭をよぎる。
「……とりあえず明日は帰るか」
すっかり酔いが覚めてしまった。布団に潜り込みながら、フロントの営業時間を思い出す。
鈴木は今、停車中の深夜バスに乗っている。お盆が明けてすぐに入った出張を終え、西から東へと帰路につく最中だ。
スマホのホームには「02:20」の表記が。鈴木の下りるバス停は、午前5時過ぎ着の予定だ。
(もうひと眠りできるな)
ブランケットを胸までずらして両目を閉じるその寸前。鈴木はあることに気が付いた。
「……なんで開いてるんだ」
バス前方にある、車内と外をつなぐ唯一の扉。運転席に面したドアがなぜか開いている。
鈴木の記憶が正しければ、このバスに客が乗り込むのは23時が最後だ。
運転手の休憩だとしても、ドアを開けたまま用を足しに行くとは考えられない。
それに、と鈴木は窓の外に目を向ける。
窓の外は真っ暗だった。街灯の明かりすらない、文字通りの闇。
鈴木は右側の席にいる。もしかしたら、何らかの施設は左側にあって、鈴木の座る座席へと光が届いていないだけかもしれない。
しかし、ドアは左側にあり、光ひとつない闇が、ぽっかりと口を開けている。
「まあ、いいか」
だが、鈴木は眠かった。睡魔の前には、ドアが開いていることなんてほんの些細な事だった。
毛布の中が温まるのを感じながら鈴木は再び夢の世界へと旅立っていった。
ふわ、と冷たい風が頬を撫でる。またしても、鈴木は目を覚ました。
「またかよ」
そう一言吐き捨てる。寝起きが悪いことに定評のある鈴木は、睡眠を2度も中断されたこともあり、最高に苛立っていた。
「運転手はなにやってんだよ……」
運転手に文句を言おうと座席を立ち上がる。
通路に出ると、なぜか足下の誘導灯は消えていた。足下に気を付けながら運転席へと向かう。
夜中の深夜バスは、物音ひとつしなかった。それどころか、振動もない。
まるで停車中のように。
「あれ……」
先ほどと変わらず、バスは止まっていた。窓から見える景色も相変わらず漆黒で、ドアから先には闇がいる。
このバスで、何かが起きていることはわかった。
形の無い不安に急かされつつ運転席を覗き込むと、そこには運転手が座っていた。
「すみません。なんで止まってるんですか?」
返事はない。背筋を伸ばして座る運転手は、鈴木の言葉を無視して正面を見つめている。
「あの!運転手さん!?」
せめて反応してくれ。そう祈りつつ腕をつかみ体を揺らす。
ひぃひぃ、ひぃひぃ
鈴木の耳が、どこからか聞こえてくる悲しげな声を捉えた。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
「おい!運転手さん!どうしたんだよおい!」
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
声がどんどん増えて行く。運転手を揺さぶるその度に、その声は徐々に数を増す。
「なあ!はやく起きろよおい!まじで目を開いてくれよお願いだからさ!」
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
「勘弁してくれよおい!なあ!まじで!起きろよ!起きろってばおい!ゴラァ起きろや」
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
揺すっても揺すっても、運転手は反応しない。ならば最後の手段と拳を握りしめたその時だった。
「ど、どうしたんですか!?落ち着いてください!」
我に返った鈴木を、怯えた様子の運転手が見ていた。あの声は聞こえない。
何も言えないでいる鈴木をよそに、運転手は続ける。
「なにか取り乱しているようですが大丈夫ですか?何かありましたか?」
戸惑う運転手の声を聞いていると、心が落ち着いてきた、気づけば、足元の誘導灯が点灯している。
「もう、驚かせないでくださいよ」
唐突に訪れた緊張からの解放。それに伴う筋弛緩。立つことで精いっぱいな鈴木には、そう答えることしか出来なかった。
ピンポーンと、バスの車内にチャイムが響く。
その音で目を覚ました圭太は、ぼんやりした頭で数日前の出来事を思い出していた。
あの日も、今日と同じくチャイムの音で目が覚めたのだ。
高校の帰り道。疲れがたまっていたのだろう、あの時も圭太はバスの中で寝ていた。
あやうく最寄りのバス停を乗り過ごすところだったが、幸いなことに他の乗客が下りるらしい。
バスは既に信号を過ぎ、停車するまで10秒もないだろう。リュックサックを背負い直し、いつでも降車できるように準備を整える。
しかし、バスは止まらなかった。呆気にとられる圭太をよそに、アナウンスは次の停留所の名を告げる。
運転手が聞き落したのだろうか。圭太は釈然としない思いを胸に、ひとつ先の停留所でバスを降りた。
降りる際、バスの車内を見渡してみたが、そこには運転手しかいなかった。
そんなことがあったから、圭太は少し不安だった。
もしかしたら今日も止まらないかもしれない。だったらその原因はなんだろう、これがいわゆる心霊現象?けれども今は8月末、お盆は過ぎている。
しかし、そんな圭太をよそに、バスは停車したのだった。
席を立つと、近所に住む飯島さんが立ち上がろうとしているのが見えた。
チャイムを押したのは飯島さんだろう。その姿を見ると、心霊現象だなんて怯えていた自分がバカらしく思えてくる。
バスを降り、先に支払いを済ませていた飯島さんに声をかける。
「こんにちは」
「おお、松野さんのとこの。大きくなったなぁ」
最後に飯島さんと会ったのは、たぶん小学校の終わりころだと思う。
「さっきはボタン押してくれてありがとうございます。自分、寝過ごすところでしたよ(笑)」
しかし、飯島さんは怪訝な顔をして言う。
「あれ?あれは松野くんが押したんじゃないのかい?俺は押してないんだけど」
「えぇ」
後ろを振り返る。すでにバスは次の停留所に向けて動き出していた。
その車内には誰もいない。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
その時、近くの木で鳥が鳴き始めた。どことなく悲しげな鳥の声は、物哀しい夏の夕暮れによく馴染んでいる。
「おお、トラツグミじゃないか。珍しいな」
隣で飯島さんが呟いた。
「なんかさめざめ泣いてますね」
「そうそう、ちょっと不気味だよな(笑)」
笑い合いながら、二人は家路につく。
夜風を浴びながら飲む酒はおいしい。それが家以外の場所、例えば高級ホテルのベランダでウィンザーチェアに寄りかかりながら飲むともなれば、その味は格別だ。
眼下に広がる温泉街の明かり。風に混じり聞こえる駆け湯の音。暖色のランプに照らし出されるロックグラス。仕草に合わせてカラカラとぶつかる氷の音。
矢島は、そんな自分に酔っていた。
神奈川の西の端、湯河原にあるホテル。久しぶりに休日をもらえた矢島は、そこに気分転換も兼ねて旅行に来ていた。
ホテルに着いたら荷物を下ろし、周囲を散策。その後部屋で読書に耽ったあと、夕食を食べて大浴場へ向かう。
そんな計画を事前に立ててはいたものの、大浴場に肩まで浸かり、会席料理に舌鼓を打ち、今度は個室の露天風呂を堪能すると、すでに時間は22時を回っていた。
しかし旅程は2泊3日。そして今は初日の夜である。これくらいの脱線はよしとしようと決めた矢島は、道中寄ったスーパーで購入した地ビールをあおることに決めたのだった。
時刻は23時55分。購入したビールも空だ。そろそろ潮時だろうか。
ゴオゴオという、風切り音が聞こえた。音は海の方から聞こえる。
なんの音だとそちらに目をやるも暗くてよく見えない。しかし、矢島には心当たりがあった。
「こんな時間にも走ってるんだな)
その方角には、東海道線の線路がある。大方列車が通過したのだろう。
矢島は普段、列車とは縁のない車社会で生きている。だから、こんな時間まで列車が運行していることに少しだけ驚いていた。
「まあ、回送かもしれないんだけど」
そう呟いて、右手のグラスを傾け中身を喉に流し込む。もちろん味はしない。余ったチェイサーなのだから当たり前だ。
「よっ…と」
軽く勢いをつけて椅子から立ち上がった時、ゴオゴオという音が聞こえた。
とっさに海の方を見てみるも、音は聞こえない。どうやら別の方角のようだ。
耳を澄まして探ってみると、それはベランダとは反対側から聞こえてくる音らしい。
小田原か?いや、もっと近い。音は山を木霊している。間違いない、根府川だ。
しかしそれよりも気になることがひとつある。
「長いな」
さっきの列車は残響を含めても10秒程度だった。しかし今度の音は、すでに30秒は立っているにも関わらず一向に鳴り止む気配がない。
すると、新たな音が加わった。
今度はガラガラという何か重たいものが落ちる音。その中にギャリギャリという金属がきしむ音が混ざっている。音の根源は、またしても根府川方面。
間髪入れずに、ベランダから見て右側、つまり内陸部にある山の方からも音が鳴り始めた。こちらも何かが落ちる音だが、どちらかというと半固形状の物体が猛烈な勢いで滑り落ちる様子を想起させる。
土砂崩れや山崩れに似た音だ。
「なんだなんだどうしたどうした」
部屋に駆け込みテレビをつける。しかし特に速報は無かった。
スマホを開いてもそれは同じで、SNSで「湯河原 轟音」などと検索してみても、同じ音を聞いた人は見つからない。
東海道線の運行情報を見ても特にトラブルは起きていないようだし、気象庁を見ても湯河原町近辺で土砂災害は発生していない。
「なんだったんだ今のは」
状況に変化が無いか、もう一度ベランダへと出てみる。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
あの地響きに似た轟音は止んでいた。しかし、代わりにどこか悲し気な声が辺りに響いている。
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、
ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ、ひぃひぃ
寝静まった温泉街。そこに響く鳴き声の様な声。はっきりいって、不気味だった。
「トラツグミか」
夜にも関わらず鳴くトラツグミは、その声も相まって人々に気味悪がられていた。そうした不安が生み出した怪物が、かつて平安の世を騒がした大妖怪、鵺であるとも言われている。
しかし、一難去ってまた一難。せっかく怪音が鳴り止んだというのにこれではあまり変わらない。
(あるいはもしかしたら、あの怪音は鵺なのかもな)
酔った頭で、そんなことを考える。
鵺の姿は、人によって見え方が違ったという。幽霊でさえ枯れ尾花だったり柳であったりするのだから、人の想像力は逞しいことこのうえない。比較的ポピュラーな幽霊でさえそうなのだから、鵺だなんてマイナーな妖怪なら音になっても不思議ではない。
ただ、矢島は少し引っかかる部分があった。それというのも、モンスターという語の語源は「警告するもの」であるという話をどこかで聞いたことがあったからだ。
そもそも不安という感情自体、ある意味では本能が打ち鳴らす警鐘のようなものである。
そう考えてみると、先ほどの怪音は何らかの警告であったような気がしてきた
時計の針は0時4分を指している。奇しくも今日は9月1日、防災の日だ。
「不吉だな」
そういえば、防災の日は関東大震災が発生した日でもある。その震源は、相模湾沖。すぐそこだ。
ぱちぱちと、符号が合わさっていく。嫌な予感が頭をよぎる。
「……とりあえず明日は帰るか」
すっかり酔いが覚めてしまった。布団に潜り込みながら、フロントの営業時間を思い出す。