「私、いま、貴方の後ろにいるの」
そいつは何の前触れもなく、気配もなく、神霊廟の屋根の上で瞑想に耽る神子の背後を取った。
不意を突かれた神子はさして驚きもせず、ゆっくり振り返る。虚ろな目の妖怪少女がにこにこ笑っていた。お決まりの台詞を引っ提げてきたくせに、ナイフの類は持っていないようだ。
「お前一人で、夜更けに何の用だ」
「こんな風に青い静かな夜には私一人で哲学するのよ」
「哲学?」
確かに今宵は濃紺の空に満天の星が輝く美しい夜だ。頭上を見上げてぼんやり物思いに耽る者も多いとはいえ、お前みたいなのが? というニュアンスが言外に漏れたのか、こいしはむっとして、
「私が何も考えてないと思ったら大間違いなんだから」
「これはまた大きく出たもんだ。なら早くここに来た理由を教えてくれ」
「貴方はどうして立派な道場があるのにわざわざ外に出て瞑想するの?」
「そんなくだらない質問のために私の背後を取ったと?」
神子は頭痛がしてきた。やはり思いつきでものを言っているだけで、何も考えていない。こんな空っぽで放浪癖のある妹を待った姉は頭痛や胃痛どころでは済まないだろう。
いかに豊聡耳の名の恣にする神子とはいえ、心を閉ざしたこいしの欲は神子にも読めないし、無意識の言動から内面を推し量るのも不可能だ。こんな間近に他人がいるのに何も聴こえない静かな空間も珍しく、神子はかえって落ち着かなくなる。
いつか白蓮の言ったように、こいつが結果的に悟りの境地に迫ったとは見えない。『思うこと無く慮ること無くして始めて道を知らん』とは言うが、言葉のみに頼らぬ聖人と思考を放棄したサトリ妖怪は違う。思考停止なんてものは神子には逃げとしか思えなかった。
こいしの現状を道教流に、もとい神子の観点を加えて解釈をするのなら、彼女は万物を構成する“気”が散漫している。精神と肉体とは分かちがたいもので、気の集合たる精神が肉体から遊離しないよう養生して不老長寿を保つのだが、何も考えていないこいしの気は一つのところに集まらず、肉体からばらばらに出たり入ったりして不安定だ。守一の観点から見れば望ましくない状態であり、彼女が仙人になるのは到底不可能である。
ひとまず神子は仏心、いや、単なる親切から丁寧に教えてやる。
「道教は道(タオ)、すなわち万物の根源たる大いなる宇宙の真理を追求し、自然と一体になることを目的とする。だから満天の空の下は瞑想に最適なんだ」
「そうなの? もっとロマンチックな理由かと思ってた」
「宇宙にはロマンがあるだろう」
「お寺の黒い妖怪も似たようなことを言ってたわ。そうそう、お寺っていえばね」
こいしがくすっと笑ったかと思えば、次から次へと話が移り変わる。能力が通用すれば楽なのにな、と考えている神子の耳に、思いもよらぬ言葉が飛び込んだ。
「今の聖さん、私とお揃いだよ」
「は?」
「心を閉ざしてしまったの。感情がなくなって、空っぽなの。お寺のみんな大騒ぎしてるよ」
「……なんだって?」
神子は己の耳を疑った。思わず身を乗り出してこいしに迫る神子に対し、こいしは相変わらず無邪気な笑みを浮かべている。
あの聖白蓮が感情を失った? にわかには信じがたい。いつも温厚で、穏やかで、そのくせ心の内には摩天楼のように感情を高く高く積み上げているあいつが。
神子はじっとこいしを見つめた。虚ろな目からは何も読み取れない、心からは何も聴こえない。命蓮寺がこいつを使いに選んだのなら明らかな人選ミスだ、と舌打ちする。
「お前の話は本当なのか?」
「いくら私でもこんな嘘はつかないよー」
「それを私に伝えに来たのか?」
「ううん、気がついたらここにいたの」
「……無意識か。とにかくもう少し詳しく聞かせてくれ。あいつの身に何が起きた? どうしてあいつが心を閉ざしたりするんだ?」
「さあ? みんなわーわーきゃーきゃー騒いでたから、よく聞こえなくって」
「ったく、埒があかない」
苛立ちを覚えた神子は瞑想を中止し、こいしを置きざりに屋根を飛び降りた。何が何だかさっぱりわからないなら、自分の目で確かめるしかない。しばらく留守にする旨を布都達へ告げに行く神子の背中を見送って、こいしはぽつんとつぶやいた。
「なんでちょっと心を閉ざしただけであんなに大騒ぎするのかな。聖さんだって私が理想的だって言ってたのに。悟りってそういうものなんでしょう?」
その言葉は、もはやこいしなど意識の外へやってしまったかのように急速に神霊廟を起つ神子には届かなかった。
◇
神子が命蓮寺へ降り立つと、門前に真新しい張り紙が貼られていた。
『誠に勝手ながら、一身上の都合によりしばらくお休みします』――妖怪寺と呼ばれる命蓮寺は夜こそ妖怪の客で賑わうのに、境内は不気味なほど静まり返っている。
いよいよ怪しい、と踏んだ神子が張り紙を無視して寺に乗り込もうとした、その時だった。
「お帰りくださいませお客様あああ!!」
「うわっ」
石段を登って寺の入り口に立つや否や、戸ががらっと開き、響子が出迎え、もとい山彦お得意の大声で迎撃してきた。弾幕ではなく単なる音波攻撃のようだ。さすがに面食らったものの、何なく避けて響子の目の前まで近づくと、響子は来客が神子だと気づいて動転した。
「あ、貴方はっ……!」
「ずいぶんな歓迎だな。夜分遅くに近所迷惑じゃないか?」
「い、今は非常時です! そんなこと気にしてられないんです!」
「非常時か。ならあいつが言っていたのは本当か」
「な……何のことでしょう?」
わかりやすく響子の額に冷や汗が滲んだ。隠し事ができない性格なのだろう、目が泳いでいる。神子は容赦なく詰め寄った。
「正直に答えろ。聖白蓮はどうしている?」
「……この頃、お勤めの疲れが溜まっていたようでして、早々とお休みになっています。ご用件は後日伺いますから、今日のところはお引き取りください」
「即興で作り上げた建前は陳腐だな」
定型文をそのまま読み上げたような言葉の不自然さを指摘すれば、神子に何事も隠し立てできないと悟ったのか、響子は唇を噛む。何か非常事態が起こると隠し通そうとする癖は白蓮のみならず、命蓮寺そのものの体質らしい。
響子の横をすり抜けて中に上がった神子の背中に「待ってください!」と響子が追い縋る。
「何だ、この期に及んで止めようとでも?」
「いえ、その……お願いがあるんです。今の聖様を見ても決して驚かないでください。そして、聖様を無闇に刺激しないでください」
――ああもうばれちゃった。どうしてこんな時に来るのよー。私達もどうしていいかわからないのに……。
わざわざ聴かずとも、響子の不安が顔にはっきり出ている。無理を押し通した自覚はあるので、神子も神妙な顔でうなずいた。
「わかった。無体なことはしないよ」
「皆さん本堂に集まっています。聖様もそこにいます」
響子は腹を括ったのか、自ら神子を案内する。
煌びやかな仏具に囲まれた本堂は、通夜と見紛う重苦しい空気に飲まれていた。命蓮寺の修行僧と居候が中央に集まって、立派な仏壇の正面に座る白蓮を取り囲んでいる。
神子が踏み入るや否や、一斉に白蓮を除く全員が振り返った。全員の眼差しが驚きと警戒に満ちていた。その中に見慣れたお面を見つけて、神子もまた目を瞬く。
「えっ、み、神子様!?」
「おや。仙人様のおでましじゃ」
「ええっ!? 太子様がここに?」
「こころ。お前まで来ていたのか」
「ちょっと響子、誰も入れないでってあんなに言ったじゃない」
「すみません、だけど私じゃ歯が立たなくて……」
「私が勝手に上がっただけだ。それより、聖白蓮は何をしている。なぜ振り返りもしない」
どよめく弟子達やのけぞるこころをものともせず、神子は白蓮の元へ一直線に歩いた。白蓮は背を向けたまま微動だにしない。
「おい、聖白蓮……」
「聖。神子さんがいらっしゃいましたよ。ほら、貴方の後ろに」
神子が白蓮の肩を掴むより早く、白蓮のすぐ隣にいた星が白蓮を促した。猫撫で声というか、甲斐甲斐しく白蓮に寄り添う様は普段の威厳に満ちた毘沙門天の化身たる姿からはかけ離れていて、神子はいささか面食らう。
星に促され、手を取られて、ようやく白蓮は神子を振り返った。白蓮の表情を目の当たりにして――神子は絶句した。
白蓮の顔から、感情というものが一切感じ取れない。肌は普段よりも病的に白いせいか血色が悪く、口元は一文字に緩く引き結ばれたまま。いつもしゃんと背筋を伸ばしている体もうつむき気味で、座っているのに重心が安定しない。そして白蓮の双眸は、まるで先刻の妖怪少女のように光がなく虚ろで、ぼんやりとして、神子を見ているようで何も捉えていない。
これでは、生きた妖怪ではなく、魂の抜けた空蝉ではないか――二の句が告げない神子に向かって、白蓮は顔色を変えもせず、微かに口元を動かした。
「……だれ?」
神子の体温が一瞬のうちに下がった。たった二文字の簡素な言葉なのに、神子に衝撃を与えるには充分すぎた。白蓮の言葉はただの音節を機械的に並べ立てたようで、抑揚が一切なく、何の感慨も篭っておらず、疑問系なのに疑問すら見えない。動揺の中で、神子は咄嗟に耳当てを外して白蓮の声を聴こうとした。
……どれほど注意深く耳をそば立てても、他者の欲望の声をすべて遮っても、何も聴こえない。
ならばと神子は白蓮の持つ気に集中する。もぬけの殻みたいだと思ったが、魂はきちんと身体の中にあり、肉体から遊離しているわけではないようだ。しかし本来備わっているべき気――精神が司る感情は、すべて身体の外に出てしまっている。
こいしが「私と同じ」と言ったように、今の白蓮の心には、何の感情もないのだ。しかし感情が失われたからといって、どうして記憶まで失くして、神子のことまで忘れているのだろう。
白蓮は狼狽える神子を前にしても、ただ無言でぼんやりしているだけだ。
「神子さん、落ち着いて聞いてください」
見かねた星が神子に語りかけた。慌てふためく弟子達の中で、星が最も冷静に振舞っていた。
「貴方にはもうおわかりでしょう。……聖は、突然すべての感情を失ってしまったのです。原因は私達もまだ掴めていません。そして感情を失ったせいか、記憶にまで綻びが生じています」
「綻び……」
「かといって、誰のことも覚えていないわけではないようなのです」
星に続いて、一輪が説明を付け加えた。彼女もまた心を乱されながら、商売敵の前だからか毅然と振る舞っている。
「私達が代わる代わる聖様に呼びかけましたが、どうも聖様はかろうじて昔の……千年前から一緒にいた妖怪達のことはわかるみたいなんです」
「……なら、幻想郷に来てから出会った人妖達は」
「残念ながら覚えていません。響子やぬえさんやマミゾウさんにも聖様は『誰?』と言いました。ですから、神子様のことも……」
口籠る一輪に、神子は首を横に振る。未だ神子の心はかき乱されているが、だからといって途方に暮れる彼女達の前で、憤りに任せて白蓮を詰る気にはなれなかった。
「あの、つかぬことを聞きますが」
遠慮がちに手を挙げたのはムラサだった。ムラサは白蓮へ向ける心配と同じぐらい、突然寺にやってきた神子へ警戒心を抱いているようだ。
「貴方は聖様の身に起きたことをどうやって知ったのですか? いくら貴方の能力でも、遠く離れた場所の声なんて聴こえないでしょう」
「先ほど、私の道場にサトリの妹が現れた。あいつが教えてくれたんだよ」
「ええっ、こいしさんが? 誰かこいしさんを見かけました?」
「見てないよ、響子。彼女は私のダウンジングにも中々引っかからないし」
「儂も見ておらんよ。あやつは訪ねてきても居るのか居らんのかよくわからん奴じゃからのう」
「というか緘口令敷こうと相談してたところだったのに! 何を勝手に告げ口してくれちゃってるのよー!」
一輪が頭を抱えるが後の祭りだ。在家とはいえ、命蓮寺の信者ならただの監督不行き届きではないのか。
そこへ新たな妖怪が首を突っ込んでくる。黒ずくめの正体不明ぬえだ。元から大所帯ながら、ここまで寺に妖怪が勢揃いするのも珍しい。
「まあまあ、あいつのやったこともかえってファインプレーだったかもしれないじゃん? ねえ、ムラサ」
「何を呑気なこと言ってるのよ」
「だってさあ、呪いをかけられたみたいに聖がおかしくなっちゃって、そこに偶然こいつが通りがかって」
「ほほう、つまりあれかな? おとぎ話のお約束だと言いたいのじゃろう?」
「そうそう、呪いにかかった姫君の目を覚ますのは……あら? もしかして、私達の目の前にいるのは、かの厩戸王子様ではありませんか!」
「頼むからもう少しマシな解決策を提案してくれ」
「頭が固いのう。入道顔負けじゃな。ものは試しというじゃろう、今更接吻の一つや二つで恥ずかしがるほどおぼこでもあるまい」
「誰がやるか」
そもそも今時、正気のない相手に勝手にキスなどしたら立派な暴力である。
好き勝手言う正体不明コンビに辟易した神子は改めて、皆の騒ぎぶりにもかまわずぼーっと座ったままの白蓮を見やる。
星から紹介されても、神子について何か思い出した気配はない。神子がその目を眼光鋭く射抜いても、首を傾げすらしない。苛立ちを覚えた神子は「こころ」と大飛出面をつけてあたふたする面霊気を強い口調で呼んだ。
「お前にも聖白蓮の感情は読み取れないのか?」
「は、はい。命蓮寺の皆さんに呼ばれて来たんですけど、びっくりですよ。聖さんの心の中は何もないわ! 驚き桃の木山椒の木!」
「古いよこころさん……」
あまりに大袈裟な感情表現とそれにつり合わぬ本人の無表情に、ムラサが半笑いする。神子に睨まれ、こころはすかさず咳払いをする。
「本当に何の感情も読めないんですよ。まるであの時と同じ……丑三つ時の里の、感情のない人間達と……どうなってやがるんだ!」
「そう怒るな。それで、聖白蓮はいつからこうなったんだ?」
「ええとですね」
一輪が事のあらましを説明する。
今日、白蓮は早朝から日課の勤行をこなし、昼過ぎには仏の教えを布教すべく人里へ演説に出かけた。その後は妖怪への布教活動をすると寺の者達に言い残していたものの、具体的な場所までは言わなかった。妖怪はあちこちにいるから白蓮も幻想郷中を回るのだろうと、弟子達はさして気に留めなかったようだ。
そうして日が暮れた頃、白蓮は命蓮寺へ帰ってきた。帰還の挨拶もせず、ただぼんやり寺の正面口に突っ立ったままで。出かけた時とあまりにも様子が異なる白蓮を心配した弟子達があれこれ語りかけて、白蓮の感情の喪失に気づいた。
あらかた情報を整理した神子は、改めて星に問いかける。
「つまり、こいつが感情を失ったのは、昼過ぎから夕暮れまでの間か?」
「おそらく、そうだと思います」
「誰かと会う約束をしたとは」
「聞いていません。隠している様子もありませんでした」
「こいつは一人で帰ってきたのか? こんな有様でまともに動けるとは到底思えないが」
「聖様一人でしたよ。直前まで誰かと一緒だった可能性もなくはありませんが、境内には誰の気配もなかったものですから」
一輪が付け加えた。神子は再び白蓮を見やる。
感情を失い、記憶も欠落している。しかしこの押し黙り様は妙だ。感情の制御が効かず暴走下にあったこころだって言葉は交わせたし、心が虚ろで何も考えていないようなこいしだって思いついたことを好き勝手しゃべる。
「お前は誰に会った? それすら忘れたのか?」
「……」
「お前に聞いているんだ、聖白蓮」
「無理ですよ。答えられるのなら、とっくに私達が聞き出しています」
会話すら拒まれているようでつい強い口調で問い詰めると、さすがに見知らぬ相手――少なくとも、今の白蓮にとってはそうだ――から詰られるのが不気味なのか、白蓮は星にすがりつく。挙措のすべてがぎこちなく、幼い。目の前にいるのは本当に白蓮なのか? そう疑わずにはいられない。
「こころ。お前の能力で干渉できないのか?」
「こちらに呼ばれてからずっと試してます。だけど何の感情もないんじゃ私だって何もできません」
「道具にだって自我は宿るじゃないか。お前から新たな感情を植え付けられないのか?」
「聖さんは道具とか付喪神じゃないんですから。他人が自我を与えるって、そんなことできるのはもう神様の領域ですよー……はっ!」
何か閃いたのか、こころの面が翁に変わる。
「私、妖怪を新しく生み出せる神様を知ってたわ! 私と同じく能楽を愛する方よ」
「それって」
「摩多羅神だな」
かの秘神が秦河勝と同一視されるせいか、隠岐奈もこころ同様に暗黒能楽を使う。そして狛犬のように背中の扉を開放することで、ただの道具から妖怪を生み出せる。要は八雲紫に劣らぬ何でもありな反則的存在だ。翁の面をかぶったのはこころなりの洒落だろう。
「新しくって、聖様が別人にされるのは困りますよ」
「いや、こころさんが言いたいのは扉の能力のことじゃありませんか?」
ムラサが難色を示すと、響子が自分の考えを言う。それを受けて一輪は、
「つまり、背中の扉の応用で感情も開放させられないか、ってことね。案外有りなんじゃないかしら。神様ならそれぐらいできそうだし」
「いや、いくら何でもあの神様に頼むのはちょっと……自分の部下を好き勝手操る人だし。リスクが大きすぎるわ」
「じゃあ聖様がこのままでいいっていうの?」
「そんなこと言ってないでしょ。第一、一輪はどうやって後ろ戸の国に行くつもりなのよ?」
「それは……」
「ほら、道がないじゃない。思いつきだけじゃ駄目、よく考えないと」
「何さ、私だって自分の頭で考えてるんだから」
「ひとまずそこらへんにしておけ」
神子は言い争うムラサと一輪を嗜める。どうにも寺の空気がピリピリしてきた。時刻は亥の刻を過ぎ、夕暮れからずっと白蓮について額を突っつき合わせていたとなれば、疲れも溜まっているのだろう。
「あ、同じ賢者なら、八雲紫さんはとうです?」
と新たに提案したのは響子だ。
「あの人は色んな境界を操れるんでしょう? だったら聖様の感情の境界をいじってもらうのは」
「聖が信用ならないと言った人に任せるのは嫌よ」
今度は星が渋った。続いて一輪とムラサも難しい顔で同調する。
「私、あの人とまともに交渉できる自信ないなあ……」
「胡散臭くて近寄りがたいのは確かね。というかその人も結局どこにいるかわからない人じゃん」
「あのな、そう手段を選り好みしていられる状況じゃないだろう」
神子は不信感ばかりあらわにして議論が停滞しがちな命蓮寺の連中を諌めるも、内心ではかつて煮え湯を飲まされた八雲紫に頼るくらいなら自分で策を講じた方がマシだと思っている。賢者達も揃って嫌われたものだ。
「あの、貴方にも無理なのでしょうか」
膠着状態を見かねた星は神子に水を向ける。
「聖は以前、貴方なら人の記憶を操作できなくもないと言っていました。感情がどうにもならないなら、記憶の方に働きかけてみるのは」
「それは危険だ」
神子はきっぱり断じた。
「記憶の操作なんて言うほど簡単にはできないし、感情喪失の原因が不明のまま無闇に手を出したら、かえって混濁が生じるかもしれない」
「……そうですか」
「あいつ、そんなことを言ったのか。よく覚えていたな」
「聖はよく貴方のことを話してくれます。忘れてしまったのが不思議なくらい」
フォローのつもりなのか、星は曖昧な微笑を見せた。
「星」
そこへ、珍しく白蓮が自分から声を上げた。記憶に残っただけあって、発音は神子に『誰?』と聞いた時より幾分か自然だ。白蓮は緩慢な動きで顔を神子に向け、次いでまたゆっくりと星を見た。親なる者と馴れ馴れしく話す他人を不思議そうに見比べる子供、そんな動作だった。
「豊聡耳神子さん。聖の知り合いですよ」
「……み、こ」
星は優しく白蓮に教え聞かせる。言われるがままに白蓮は唇を動かし、神子の名前を口にした。
神子は眉をひそめる。白蓮は果たして星の言葉を人の名前だと認識しているのか。虚ろな顔は能面よりも能面で、あまりに不気味だった。
「お前、本当に聖白蓮だろうな? 別の誰かとすり替わってなどいないだろうな」
「残念ながら聖で間違いありませんよ」
と、ナズーリンが口を挟み、しもべの鼠が入った籠を掲げた。
「別人なら、私のしもべが勘づいて鳴きます。けれど無反応ってことは、正真正銘の聖なんですよ」
神子はまた白蓮を見つめた。白蓮は何度も神子に睨まれて、困っている……いや、怯えているようにも見える。ますます腹立たしさを覚えるも、初めに響子から『驚かないでくれ』と釘を刺された手前、いつもの調子で皮肉など浴びせられない。いや、神子の方が調子が狂って、普段通りのやり取りができないのだ。
「あれ?」
不意に響子が本堂をきょろきょろ見渡して、素っ頓狂な声を上げた。
「マミゾウさんがいませんよ!」
「えっ? さっきまでそこにいたじゃない」
「ちょっと、こんな時にあの人までいなくなっちゃったら……」
「マミゾウの独り歩きなんていつものことでしょ」
一輪とムラサが浮き立つと、ぬえが不機嫌そうに割って入った。
「あいつはあいつなりに何とかしようとしてんのよ。それに比べてあんた達は何? みっともなく喚いたり喧嘩したり。商売敵の前で、どうしようどうしよう、って狼狽えるだけでいいの?」
じろりと睨めば、一輪達は口をつぐむ。神子はこのひねくれた妖怪を見直す思いだった。ぬえが言い出さなかったなら、神子が発破をかけていたところだった。
「ぬえの言う通りね」
やがてムラサが苦笑する。立ち上がったムラサは、二度手を叩いて皆の視線を集めた。
「仕切り直し! とにかく聖様が元に戻るまで、お寺はお休み。どうしても避けられないお客様がいたら」
「私が代理として対応します。ナズーリン、手伝ってくれるわね?」
「さすがにこの状況で一抜けなんてできませんよ。響子、君も一緒にいいかい?」
「はい! こんな時に読経だのお掃除だのやってられないもの!」
「わ、私もしばらくお寺に残るぞ! 聖さんの感情に変化があったらすぐに知らせます!」
「それじゃ、私は一輪と雲山と一緒に、聖様の今日一日の行動を洗ってみる。よかったらぬえも……」
「私は外に行きたくない」
ぬえは不機嫌な表情をそのままにそっぽを向く。あまりの気まぐれっぷりに慌てる響子をよそに、ぬえは頬杖をついたままムラサにぶつくさ文句を言った。
「聖がさー、今日は簡単なお経教えてくれるって言ったんだよね。私はお経なんか興味ないけどさ、約束すっぽかされるのって気分悪いわ。埋め合わせしてくれるまで聖につきまとってやる」
「そう、聖様のそばにいたいのね」
「そんなんじゃないってば」
「はいはい、ぬえは素直じゃないよねー」
「うっさいムラサ!」
むきになるぬえに対して、ムラサは微笑ましげに笑っている。あっという間に立場が逆転したようだが、おそらくこれが命蓮寺の日常なのだろう。
とにかく修行僧達の方針が固まったところで、神子もいい加減、白蓮の相手は諦めてマミゾウのように単独で情報収集をしようかと思った。その時だった。
「神子様、手伝ってください!」
すかさず飛んできた一輪に捕まった。
「なんで私が」
「事情を聞いて駆けつけてくれたんでしょう? 貴方がいると心強いですよ。何度となく貴方と手合わせしてますし、布都からも鬱陶しいくらい自慢されてますから。ね、雲山」
「あのおしゃべりめ……」
「私からもお願いします。今は宗教の垣根なんて気にしていられません。一刻も早く、聖様に元に戻ってほしいんです」
ムラサにまで懇願されて、神子はため息をつく。突っぱねることもできたが、元より頼まれてもいないのに首を突っ込んだのは神子の意志だ。気丈に振る舞うムラサ達も心の中は不安に満ちているのは充分に察せられたし、こうなったら乗り掛かった船だ、と神子は腹を括る。
「足手まといになるなよ」
「ご冗談! 聖様を痛めつけた奴にきっちり報復してやるわ!」
腕まくりをしてみせる一輪に笑いかけて、神子は今一度、白蓮の前に座った。星に促され、白蓮は神子の方を見て口を開く。
「……みこ」
「……」
「神子」
「私ほど、一度会ったら忘れられない者もいないと思っていたんだがな」
「わー、自信過剰」
「こら一輪」
「さっさとお前の敵を思い出せ。こんな腑抜けた奴が私の敵だなんて、情けない」
神子はつとめて穏やかに、けれど強い意志を込めて白蓮に告げた。白蓮はやはり何もわかっていないようで、わずかに首をかしげるだけだ。
神子は諦めて背を向ける。変わり果てた商売敵への失望もさることながら、神子を忘れた白蓮に少なからぬ衝撃を受けている自分が腹立たしかった。
「早速、聖白蓮の足取りを確かめに行こう……と言いたいところだが、私は一度道場に戻る」
「えっ!」
「ふらっと立ち寄ったものだから、準備が不足している。別に逃げやしないよ」
慌てる一輪とムラサを無視して、神子は命蓮寺を後にした。ひとまず神霊廟に帰って、装備を整えて、ついでに心の整理もしておく。不測の事態には最善の状態で臨む、それが神子のやり方だった。
遠ざかる神子の背中を見送って、ムラサが不思議そうにつぶやく。
「そういえば、今日はいつもより軽装ね」
「ご自分の修行の最中だったんじゃないかしら」
「考えてみれば、あの人がわざわざ立ち寄ってくれるなんて驚きだわ。そこまで聖様のこと、心配してくれてるのかな」
「きっとそうよ。商売敵とはいえ、頼りになるのよ、あの人は」
一輪は胸を張ってムラサに告げた。
◇
神子が命蓮寺を発った後、このまま本堂にいては落ち着かないだろうと、ひとまず白蓮を私室まで移動させることになった。星が先頭に立ち、白蓮の後ろにナズーリン、響子、こころが付き添う。白蓮は星に手を引かれるままに大人しくついてきて、自分からずっと離れない星を見上げた。
「星」
「はい。寅丸星はここにいます」
「……星」
「はい。心配いりませんよ、聖が忘れてしまったことも、私はすべて覚えています。みんなで聖を支えます。だって聖は、昔、私達のことを……」
星は笑って話しかけるも、無反応の白蓮を見て途中で口籠る。
白蓮はかろうじて星達の名前は覚えていたものの、記憶はやはり朧げなようだ。思わずこころを見やれば、首を横に振る。
「まったく感情が読めません。心が動かないみたいです」
「やめましょうか。身に覚えのない話なんて退屈ですよね。……そうですね、私の恩人の話をします。私を助けてくれた、大切な人の」
白蓮が首を傾げた、ように見えた。
白蓮が記憶を失ってしまったのは、星にとっても大きな衝撃だった。何がきっかけなのか、元に戻る方法はあるのか。不安でたまらないものの、星は白蓮の前で決してそれを表に出さない。
「優しい人ですよ。温かくて、穏やかで、でも厳しい人です。特に自分に厳しいから、よくお節介で無茶をして、ええ、見ていてはらはらします。ですから私はその人を支えたくなるのでしょう」
一番不安を抱えているのは何もわからない白蓮本人だ。それに、白蓮が困った時は、かつて白蓮に助けられた自分達が助ける番だ。そう心に決めて、星は努めて明るく振る舞う。
「聖様! 星さん!」
その時、耐えかねたような声で響子が叫ぶ。響子は気を緩めれば泣きそうになるのを堪えて白蓮のそばへにじりよった。
「私、ムラサさんとかに比べたらお話は得意じゃないですけど、私も一緒にお話していいですか!」
「……ええ。貴方も一緒に」
「……」
「聖、響子ですよ。気軽に響子、って呼んであげてください」
「……響子」
「はい! 私が響子です!」
「私も、能楽のお話でよければ」
「ありがとう。聖、こころさんも」
「こころ」
「はい。なんか聖さんに呼び捨てにされるのって新鮮ですね」
少しずつ無理を隠しつつも盛り上がってゆく白蓮らの様子を、離れた場所から見守っていたナズーリンは一人つぶやく。
「こりゃあ、私は見守りだけでいいかな。不粋なおしゃべりはいらないね」
「じゃあ私もいらないよね」
「君は行っておいでよ」
「やなこった」
廊下の隅には格子に背中を預け、膝を抱えて座るぬえの姿がある。ナズーリンが声をかけるも、ぬえはそっぽを向く。かといって部屋を離れる様子もないので、ナズーリンはぬえの不器用さを思って肩をすくめた。
「命蓮寺も、私の恩人が名付けたお寺なのです」
「……」
「へえ、初耳です」
「ひじ……いえ、恩人さんの弟様らしいですよ。私は新参ですし、会ったことありませんけど」
「私もその人の話でしか知らないわ。だけどその人はいつも弟様を……命蓮様を、自分の誇りだと語っていたのです」
「……」
「聖?」
不意に、ほんの小さなゆらぎのようなものだが、白蓮の纏う空気が変化する。星が訝しんで白蓮の顔を覗き込むと、白蓮はわずかに息を呑み口元を引き攣らせた、気がした。
「みょう、れん」
途切れ途切れにあえかにつぶやいて――花の茎が折れるように、白蓮の体が崩れた。
「聖!」
「聖様!」
「わ、ど、どうしよう!」
星は前のめりに倒れた白蓮の体を抱きかかえ、必死に呼びかける。すぐさま外に控えていたナズーリンが駆け寄った。
「ナズーリン! 聖様が倒れちゃったよ!」
「落ち着きたまえ」
動転する響子をよそに、ナズーリンはすぐさま白蓮の顔を見て、次いで口元や胸元に手を当てた。
「大丈夫だ。気を失っただけだよ。脈も呼吸もちゃんとありますよ」
「よかった……」
ナズーリンの冷静な言葉に、星もまた力が抜ける。心なしか白蓮の顔色は先ほどより青白いものの、体は変わらず温かい。座布団を枕代わりに白蓮を横たえようとしたところで、ナズーリンは言った。
「お休みになってはいかがですか」
「え?」
「もう夜も遅いですし。少なくとも聖は寝かせてやった方がよいでしょう。ついでにご主人様達も横になったらどうです」
「だけど、聖を放って寝られないわ」
「私とぬえが起きています。一輪達もまだ神子さんを待って本堂に控えてますし」
「星さん、ナズーリンの言葉に甘えましょうよ」
「私もその方がいいと思います」
響子に続いて、こころもナズーリンの提案に同調する。こころの面が狐面に変わっていた。
「皆さんすごーく疲れているわ。見てるこっちも不安な気持ちになってきます。よくないと思います」
「……こころさん」
こころの表情は変わらないのに、声音から星達から伝染したのであろう不安と、彼女自身が抱く心配が伝わってくる。星は緩く微笑んで、
「こころさん、聖の布団を出してもらえますか? 押し入れに入っています」
「お安い御用!」
「響子、私達の布団もお願いできる?」
「はーい、お任せあれ!」
「ナズーリン。一輪達と、それから神子さんが戻ってきたら、神子さんにも伝えて」
せっせと二人が動き出す傍らで、星は声を低くしてナズーリンに告げる。
「弟様の名前に聖が反応したって。何かの手がかりになるかもしれないわ」
「いいえ、間違いなく手がかりです、うんしょっと」
押し入れから取り出した布団を引っ張りながらこころが言う。
「聖さんが気を失う直前、ほんの一瞬ですけど、聖さんの心に微かなゆらぎを感じました。残念ながら、気を失われてまた何も読めなくなっちゃいましたが」
「……そうか。わかった。一輪達には私からしかと伝えておきましょう」
「お願いね」
星は心なしか苦しげに目を閉じているように見える白蓮の顔を見て眉をひそめた。
◇
神子が神霊廟へ帰ると、さっそく布都達に囲まれた。布都と屠自古に加えて、珍しく普段は神霊廟に居つかない青娥も訪ねている。
「それは……ずいぶんと大事ではありませんか」
神子が簡潔に事のあらましを告げると、布都は表情を曇らせた。商売敵の窮地を喜ぶより心配するとは、布都も白蓮や一輪らの影響で警戒が和らいでいるのだろう。
「して、命蓮寺の連中は」
「今は落ち着いている。あそこは大所帯だ、あいつがいなくとも音頭を取れる奴がいるからな」
「そうですか……」
「私はまたすぐに出かける。布都、私の道具を持ってきてくれるか?」
「はい、ただいま!」
「……大所帯だというなら」
駆け足で奥へ向かう布都の背中を見つめて、屠自古が不満げな顔でつぶやく。
「あいつらだけでそのうち解決するんじゃないですか。何もわざわざ太子様が自ら手を貸さずとも……」
「まあ、確かにそれはそうなんだが」
屠自古と語らいながら脳裏をよぎるのは、白蓮の発する抑揚のない声だった。
『……だれ?』
思い出せばまた怒りが込み上げてきて、神子は幻想郷に復活してから今に至るまでの歳月を思い起こす。
神子の眠る神聖な霊廟の真上に、わざと寺を建てた恥知らずな妖怪坊主。初めは顔を見ればやはり恨みが募って嫌味を口に上らせたし、負けじと反論してくる白蓮が謳う夢のような理想は噴飯ものだと思ったものだ。神子が道具としか見なさなかった仏教を大真面目に信仰し、人間のみならず妖怪にまで広めようとする滑稽さ。
そのくせ大昔の人間に恐れられただけあって実力は折り紙付きで、一度手合わせすればすぐに只者ではないと察せられた。鍛えた強靭な肉体も強大な法力も、弛まぬ精進の賜物だった。白蓮の臆病とすら思える平和主義な性格を受け付けないと思いながら、誰に馬鹿にされても否定されても決して曲げない真っ直ぐな信念だけは神子も認めざるを得ない。――おそらく、神子と対峙した白蓮も同じだったと思う。
どれほど認め合っても二人の道は決して交わらない。それを承知の上で、いつしか神子は白蓮を自分にとって最も侮りがたい、なおかつ信頼に足る好敵手だと受け入れた。白蓮だって、顔を合わせれば穏やかな気性に似合わぬ毒舌を吐きながら、ある異変の際は神子を頼って力を貸してくれた。
それなのに、今の白蓮は神子との数年に渡るいがみ合いも、その結果得られた奇妙な信頼も、すべて忘れている。たったの数年でも神子にとって決して無意味でない、価値のある道のりだったのに、すべてが砂上の楼閣のように崩れてしまった。笏を握りしめる手に思わず力がこもる。
「二度と『誰?』なんて言わせるものか」
「はい?」
「いや。ここで連中に貸しを作っておくのも悪くないだろう」
「そうですか……私は納得がいきませんよ」
「私も同感ですわ」
苦りきった表情の屠自古に同調して、青娥まで割り込む。青娥はこれ見よがしにため息をついた。
「あのお坊さんときたら、私のみならず太子様まで邪悪なもののように扱って。生への執着を捨てる代わりに死に対しては異常に拘るんですもの、どうもお坊さんって気に入らないわ」
「青娥」
「あら、気を悪くしまして? 私は貴方達に会うずっと前から、長生きして生の快楽を愉しみ尽くすのが一番好きなんです」
思わず眉間にしわを寄せた神子に気づいたのか、青娥は無邪気に微笑む。
神子にとって青娥は敬意と嫌悪、両方を抱かせる人物だ。青娥の目論見が何であれ、曲がり成りにも神子に仙術の手解きをしたのは青娥であり、彼女に出会わなければ道教を信仰することもなかった。神子が覚えた仙術といい復活に伴う準備といい、青娥への恩は余りあるし、無邪気なほど自分の欲望に忠実に振る舞う姿にはある種の清々しさすら覚える。
しかし一方で、青娥に付き纏う邪悪な言動の数々は、白蓮ほど潔癖でなくとも鼻をつまみたくなるものだ。死体の傀儡化だの幼い死霊の飼い慣らしだのは序の口に過ぎない。邪仙と呼ばれるものの、青娥の表面に邪気はほとんど現れず、それがかえって内面の邪悪さを際立たせる。反面教師とすればこれほど相応しい鑑もあるまい、神子はどうにか自分に言い聞かせている。
そんな神子の心中はおかまいなしに、青娥はくすくす笑った。
「何もそんな顔をなさらずとも。不老不死を目指す点では、私達は皆同志でありませんか、道士だけに」
「つまらない洒落ですね。私はとっくに死んでます。第一、貴方はちっとも霊廟に居着かないというのに」
「自分の好きなように生きるのが良いのです。それとも私がいなくて寂しいのですか、屠自古さん?」
「いいえ、まったく。太子様の補佐なら私と布都で間に合っていますから。貴方こそいつもお一人で、不如意な生活に陥らないのですか」
「私の手伝いなら芳香に任せれば充分ですもの。死なない体は便利ですわ、貴方と同じ」
「私は動く死体じゃありません」
「太子様ー! お待たせしました!」
屠自古と青娥が皮肉めいたやりとりを交わす間に、神子の荷物をまとめた布都が戻ってくる。指示せずとも退魔の札までちゃんと持ってきた布都に微笑み、神子はマントを羽織り剣を佩く。
「ありがとう。屠自古達と留守番を頼む」
「はい。ああ、そうです、その……一つ言伝といいますか、一輪に会ったら、気を落とすなと……」
言いかけて、途中から気まずくなったのか、布都は誤魔化すように首を振る。
「いえ、何でもありません! 太子様のご武運を祈っております!」
「わかった。入道使いによろしく言っておく」
「結構ですって!」
「あらあら、布都さんまでお坊さんと仲良しに? あんなに仏教嫌いでしたのに?」
「仲良くなどない! たまーに遊ぶだけだ!」
「いいや、しょっちゅう遊びに行ってるじゃないか」
「屠自古、余計なことを言うな!」
「……はは、行ってくるよ」
むきになって捲し立てる布都をからかう二人。相変わらずの騒がしさに苦笑いをして、神子は神霊廟を飛び立った。
◇
星に抱えられ布団に横たえられる間、白蓮は目を閉じたまま微動だにしなかった。
響子は早々と眠りにつき、こころも横になっているが、星は起き上がって白蓮の顔をじっと見つめている。
皆の前では平静を装っていても、白蓮が帰ってきてからずっと心乱れて、生きた心地がしない。白蓮が意識を失ってしまってからは、いっそう不安が募っておちおち寝てなどいられなかった。
(弟様なのね?)
星は恐る恐る白蓮の頬に触れた。いつも通りの体温があるのに安堵しながら、目を閉じてしまえば人形みたく生気を感じられない白蓮の表情に心がざわつく。
(いつも穏やかな聖の心を掻き乱すような人って、弟様しかいないもの。聖がこうなってしまったのは、弟様がらみだからなのね?)
命蓮はとうの昔に亡くなった。以来、命蓮が白蓮の前に幻となって現れたとも、夢で再会したとも聞かない。死別の悲しみからは既に立ち直ったものの、白蓮にとって命蓮が特別な存在なのに変わりはない。
命蓮が何をしたのか。いや、命蓮の死を利用して何者かが白蓮を追い詰めたのか。白蓮が感情を失い記憶に綻びが生じたのは、長年修行を積み重ねてきた白蓮でも心が砕けてしまうほどの衝撃を受けたからなのか?
(お願いです、弟様、このまま聖を連れて行かないで……)
心の中で亡き命蓮に縋りながら、これでは亡くなってしまうみたいで不吉だ、と己を諌める。けれど、このまま白蓮の感情が戻らなかったら、どうなってしまうのだろう……壊れた心を外道に頼らず元に戻す方法なんてあるのか……。
触れる星の力が強すぎたのか、はたまた偶然か――白蓮はゆっくり瞼を開いた。
「聖!」
思わず星が叫ぶと、響子とこころも起きたようだ。白蓮は横になったまま、緩慢な動作で右手を伸ばした。
「大丈夫ですか、聖――」
背中に手を入れようと屈んだ星の目元を、白蓮の指先がなぞる。柔らかく温かい指先に、熱い雫が伝って白蓮の手を濡らしてゆく。瞬きすれば一気に数滴の雫が布団の上に落ちて、星は初めて自分が泣いていたことに気づいた。
白蓮は無言で星を見つめている。その目からは何の感情も読み取れなかったけれど、星は胸の奥が締め付けられて、いっそう涙をこぼした。
(馬鹿だわ、私ったら)
星は己を叱咤する。前例のない事態に見舞われたとはいえ、どうして白蓮が死ぬかもなどと考えたのだろう。変わり果ててしまっても、白蓮は生きているし、わずかながら言葉も交わせる。何より白蓮は星の涙を拭ってくれた。手つきはぎこちないが、いつも白蓮が困った妖怪に親身に向き合う時のように、優しく。
「ありがとう。どんなときも、聖は聖なんですね」
自分の手で涙を拭って、星は白蓮に微笑んだ。一部始終を見届けていたこころは不思議そうに首を傾げる。
「おかしいです。さっき倒れた時と違って、聖さんの感情はまったく動いていないんです」
「え? じゃあ、聖様はどうして星さんに反応したの?」
「無意識じゃない?」
響子の疑問に、憮然とした顔のぬえが答えた。星の声を聞いて部屋の外から様子を伺いに来たようだ。星と目が合うなり、ぬえは鼻を鳴らした。
「何さ、お通夜みたいになっちゃって。あんな超人が簡単に死ぬわけないじゃん。感情抜き取られたくらいで、聖の筋金入りのお人好しは治らないよ」
「ぬえ」
「わかったら、そのみっともない顔、なんとかしたら? 見苦しいったらありゃしない」
ぬえのぶっきらぼうな物言いからそこはかとない気遣いを感じて、星は涙の跡が残る頬を両手で叩いた。
「ありがとう、ぬえ」
星が礼を言うも、ぬえはむくれたまま背を向けて部屋を出て、廊下に座りっぱなしだったナズーリンの隣に腰掛ける。ナズーリンは口元を緩めてぬえに語りかけた。
「君はいい奴だな」
「うるさい、うるさい、私は誰の心配もしてないのよ。私を勝手に寺に引き入れた聖なんか、どうなっても知らないったら」
ぬえは子供みたいに首を横に振って、突っぱねた口調も次第に弱々しくなる。膝に顔をうずめたぬえの背中を、ナズーリンは無言でさすった。
星が落ち着きを取り戻したところで、白蓮は役目を終えたかのようにぱたりと腕を布団の上に落とし、再び眠りについた。今度は気絶するのではなく、安らかな寝顔だった。響子も再び布団に潜って眠る。星も白蓮の濡れた手を拭って、今度こそちゃんと寝ようと思った、その時だった。
「星さん」
白蓮に布団をかけ直した星に、こころが声をかける。振り向いた星は、眼前に迫る般若面に目を剥いた。
「うわあ!?」
「これでもアタシ、キレイ?」
「こころさん……」
お面の下から、いつものこころの無表情が顔を出した。大きくのけぞった星は、台詞とお面と表情のギャップにおかしさが込み上げてきて吹き出した。
「まだ口裂け女で遊んでたんですね」
「だってみんなちっとも驚いてくれないし、キレイだとも言ってもらえないんです。あ、でも星さんの驚きっぷりはよかったよ、嬉しー」
翁面で嬉々と言う様を星は微笑ましく思った。表情こそまだ固いが、徐々にこころは己の感情表現をものにしている。
「私、誰かの心を揺さぶる能楽が好きです。演じてて楽しいし、見てくれた人の反応を見るのも楽しい。もっと楽しませたいなってエネルギーをもらえるんです」
こころの語りを聞いて、星ははたと気づく。能楽への思い入れを語りながら、こころは自分なりに星を励まそうとしてくれているのだ。こころの面が女面へと変わる。
「今、命蓮寺の皆さんは心の中に不安があります。その中でも星さんが飛び抜けて不安でいっぱい。だいぶ治まったけど」
「……」
「私、あんまり眠くないし、寝ないで皆さんを見張ってます。だから星さんは寝てください。何かあったら薙刀振るって叩き起こしますから」
「……痛そうだから、できれば扇でお願いしたいわ」
こころなら本当にそれをやりかねなくて、苦笑いをこぼした。こころのお陰で、ようやく星も落ち着いた気がした。
◇
神子が命蓮寺に戻る頃には、夜もとっぷり更けて日付も変わっていた。そして本堂へ上がれば、一輪、雲山、ムラサ、ナズーリンの他に、いつのまにか消えていたマミゾウの姿もあった。
「おや、商売敵の大将が本腰で助太刀してくれるようになったのかい」
「首を突っ込んでしまったからな。一度手を出した以上、責任は持つ」
「ふぉっふぉっふぉ、相変わらず使命感の強い御仁じゃ」
眼鏡の奥で、丸い目を細めてマミゾウは笑った。
「それで? 居候先の危機の最中に、お前はどこをほっつき歩いていた」
「剣呑な物言いをするでない。儂ぁこう見えて人間にも妖怪にも顔が効く。子分どもの手も借りて聖の目撃情報を集めておったのよ。そうじゃな。まずは人里での演説の後、聖が次にどこへ行ったか聞いて回ったが、残念ながら人間達は何も知らないとのことじゃ」
マミゾウは大袈裟にため息をつく。少なくとも今回の騒動は人間の仕業ではないだろう、と神子は見当をつけていた。宗教家なんて生業をやっていれば人間からやっかみを買うこともしばしばあるが、名の知れた命蓮寺の住職に手を出そうなんて恐れ知らずはいないはずだ。
「じゃが、地道に聞き回るうちに耳寄りな話を聞いた。夕方、ちょうど聖が命蓮寺に戻ってくる頃じゃな。人里の人間から、聖が無縁塚の方角から飛んでくるのを見たと証言があった」
「無縁塚……」
無縁塚はその名の通り、弔う縁のない者達の墓が集まる場所だ。確かナズーリンの住処もそこにあったはずだが――神子が視線をやると、ナズーリンは肩をすくめた。
「私に心当たりなんてありませんよ。今日は一日、ご主人様の呼び出しで寺に籠りっきりでしたし、それ以前でも無縁塚で何かあれば私がすぐに気づく」
「人間の証言が間違いでなかったとしても、あいつが本当に無縁塚に行った証拠はあるのか?」
「わからん。儂もついさっき無縁塚に行ってきたが、怪しい奴は誰もおらんかったよ。じゃが、見覚えのある妖怪の気配が残っておった」
「ネズミではなく?」
「だから私じゃないと言っているでしょう」
「実は、お前さんが戻ってくるまでに一輪達とも話し合っていたんじゃがな。聖に危害を加えそうな……恨みを持つ妖怪には、心当たりがある」
マミゾウはじっと神子の目を覗き込んできた。いやにもったいぶった話し方だ。後ろで一輪達も神妙な顔でうなずき合う。
「いつだったか、聖が顔に傷を作って帰ってきたことがあった。何があったと問えば、山と里の道中で妖怪に礫を投げられたと」
マミゾウ曰く、そいつは白蓮の人間も妖怪もすべて平等に、という思想に反感を抱く輩だったようだ。
『偽善の尼め、口だけならなんとでも言える!』
血気盛んなその妖怪は、立て続けに罵声を浴びせた。内容は白蓮の思想や活動をひたすら糾弾するもので、『妖怪僧侶なら人間に阿らずもっと妖怪を救うべきだ』という主張だったらしい。中には聞くに堪えない暴言もあったそうだが、白蓮は黙って最後まで話に耳を傾けた。妖怪の罵詈雑言が尽きた頃、白蓮は妖怪の言い分を否定するでも肯定するでもなく、淡々と自分の考えを説明した。
『ご忠告、痛み入ります』
去り際には笑顔さえ浮かべたとのことだ。
「しかし、それがかえって妖怪の神経を逆撫でしたようでな」
そりゃあそうだ、と神子は思う。白蓮は好意で言ったのだろうか、受け取り方次第では嫌味だ。いかにもお人好しな白蓮らしい。神子は辟易する。
それからもその妖怪は、白蓮と寺の外で出くわすたびに白蓮を罵った。一度ならず何度も顔を合わせたというのだから、相当な嫌悪や恨みを抱いて待ち伏せしていたのだろう。白蓮も最初のうちは律儀に向き合ったものの、妖怪の文句が批判から単なる誹謗中傷に変わり、中傷が白蓮のみならず弟子達にまで及んだ辺りで相手にしなくなったそうだ。
ところが妖怪の執念は留まるところを知らない。ある日、妖怪は白昼堂々いきり立って命蓮寺に乗り込み、修行僧と参拝客を驚かせた。このままでは人間にまで被害が及ぶと判断した白蓮は、二度と寺の敷居を跨がせないと妖怪を一喝した。以後、妖怪が命蓮寺に現れることはなかったし、白蓮もかの妖怪に会ったとは言わなかった。だが白蓮の厳しい言葉が薬になったかどうかわからない、とマミゾウは踏んでいるらしい。
「お前達、今まで思い当たらなかったのか?」
「ああいうしつこいのって決して珍しくはないんで。……今思えば、少し認識が甘かった気がしますが」
「まったくだ」
一輪の言う通り、そもそも白蓮は対応を初手から間違えてやいないかと神子は考える。そういった手合いは無視するに限る。無論、今になって問い詰めても詮ないことではあるが。
「儂はその妖怪が臭いと踏んでおる。まあ、寺に来たあやつを見た限りでは、大した力もない凡庸な妖怪にしか見えなかったんじゃがな。怨念や憎悪のエネルギーは計り知れぬ」
「確固たる証拠はありせんけど、私達もその妖怪をマークしてもいいんじゃないかと考えています。きな臭いところから洗って行くべきでしょう」
ムラサもまたマミゾウに同調する。神子もまたようやく出てきた手がかりだ、今一度確かめても無駄足ではあるまいと考える。
「もう一つの手がかりがあるよ」
そこへナズーリンが手を挙げる。ナズーリンは一度ちらとマミゾウ達を見てから、神子の目を覗き込んだ。
「聖が倒れた」
「なっ……!?」
「そう焦らずに、今は眠っています。私が伝えたいのは聖が気絶したきっかけです」
「ちょっとナズーリン、その切り出し方は心臓に悪いよ」
さすがにムラサがたしなめにかかるも、神子は顔をしかめる。ナズーリンの飄々たる口ぶりからして、わざと話の順序を変えている。命蓮寺はマミゾウといいナズーリンといい、修行僧以外は食えない奴だらけだ。
「聖の側にいたご主人様からの伝言です。“命蓮”の名前を聞いた途端、聖が倒れたので、この事態の原因も命蓮に関わりがあるのではないかと」
「命蓮……そいつはもしかして」
「ええ。聖様の弟様です」
一輪の補足で神子も白蓮の話を思い出した。いつだったか、『自慢の弟ですよ。私より優秀な僧侶でしたから、もしかしたら貴方よりも強いかも』なんて冗談めかして語ったことがあった。その他に命蓮について神子が知るのは、自分にゆかりのある信貴山の高僧、白蓮が人の道を踏み外したきっかけ、といった程度で、白蓮からも特に思い出話を深く聞いた覚えはない。
(弟、ねえ……)
神子は思案に暮れる。寺の名前に入れるくらいだから思い入れはあるのだろうし、身内の死がもたらす心の痛みは想像に難くない。だが、今の白蓮は命蓮について明るく語るし、神子の目にもその死を深く引きずっているようには見えなかった。古傷を抉られたショックで、と考えるのもいまいち納得がいかないものの、ひとまず命蓮の名を心の内に留めておく。
「他にあいつが特別な反応を示す名前はなかったのか?」
「聖様が記憶を失ったと気づいてから、縁のある人をたくさん挙げてみましたけど、反応はありませんでしたよ。霊夢さんみたいな人間も……」
「神奈子さんみたいな神様とか、小傘みたいな妖怪とか、あと疫病神貧乏神コンビも」
「船長、最後の二人もちゃんと呼んでやりなよ。名前を呼んじゃいけない人でもあるまいし」
「だって呼んだら厄がつきそうなんだもん……」
「厄ならもうとっくについてるよ。この状況そのものが災厄としか言いようがない」
「とにかく。聖白蓮に付き纏う妖怪と“命蓮”が鍵と見做していいんだな」
ナズーリンとムラサをよそに、神子は咳払いをする。
「私も無縁塚へ行く。他に見落としがなかったとも限らないしな」
「これ、儂が生半可な仕事をするとでも思うのかい?」
「妖怪寺の化け狸を信用できるものか」
「やれやれ、疑り深くてかなわん」
マミゾウは大袈裟に肩をすくめる。
とにかく、今は手がかりを頼りに探すしかない。神子はふと眠りについた白蓮を気にかけたが、わざわざ顔を見る必要もあるまいと立ち上がった。一輪と雲山、ムラサも続く。
「それじゃあ私達も行きます。聖様には星達が側にいますし」
「ああ、そういう手筈だったものな。そうだ、布都がお前を気にしていたよ。気を落とすなと励ましていた」
「え?」
ついでに布都が恥ずかしがった伝言を告げてやれば、一輪は雲山と共に目を丸くする。「何さあいつー、いっちょ前に人の心配なんかしちゃって」とぶつくさ言いつつ、頬は緩んでいた。
「平気です。雲居一輪は雲山共々タフな妖怪ですから」
「二人には劣りますけど、私も力自慢なら少々」
張り切って腕をまくる一輪と胸を張る雲山、やや遠慮気味ながらも実力の誇示を忘れないムラサ。奇妙な組み合わせの探索が吉と出るか否か。神子が外へ出れば、すぐに三人も後を追ってきた。
◇
真夜中を過ぎて、妖怪はより活発化してゆく。もしかしたら件の妖怪も活動しているかもしれない。一輪達を伴って空を行く中、神子は件の妖怪についてより詳しく話を聞いた。
「ええと、見た目は人間とあまり変わらないような……男、だったかな」
と、一輪がおおよその体格や背丈を雲山を使って示す。
「正直、マミゾウさんが言うように、強そうな妖怪じゃありませんでしたよ。ただ、お寺に乗り込んで来た時はえらく興奮していたので、並の人間には充分に危険な存在でしょうね」
続いてムラサが補足し、一輪もうなずく。要は幻想郷にはありふれた特筆するべき特徴のない妖怪なのだろう。
「だけど人も妖怪も見かけによらないって言うしね。雲山だって普段は大人しいし。もしかしたらよっぽど手強い妖怪だったのかしら」
「私は弟様絡みの方が気になるわ。幻想郷で弟様について詳しく知ってる人、あんまりいないんじゃない?」
「そうね、お寺の由来を聞かれて答えるくらいだし……」
考え込む二人と同様に神子も頭を働かせる。得られた手がかりの二つを合わせて、神子はある仮説を立てた。
「そうだな。私が思うに」
神子は一度静止して、懐から笏を取り出す。そのまま一輪に向かって笏を振り上げた。すぐさま雲山が前に出て、一輪も金輪を手に身構える。
「いきなり何ですか!」
「このように真正面からお前だけを狙えば、すかさず入道が割って入る」
「た、例えにしちゃタチが悪いですよ……」
神子がすぐに笏を引っ込めれば、一輪と雲山につられて錨を召喚したムラサが頬をひきつらせて言う。神子はかまわず続けた。
「けれどお前と入道、二人の隙を同時に突けば? 奇襲でも不意打ちでもいい」
「……まあ、私も雲山も無敵じゃありませんからね」
一輪は苦い顔をしつつ、雲山と共にうなずいた。昔、命蓮寺の妖怪達が鬼に昏倒させられたのはただの噂ではないようだ。
「あいつだって例外じゃない。作ろうと思えば隙を作れる」
「それが弟様だと?」
「少なくともお前達の方が私よりそっちに確信を得ているんじゃないか」
ムラサもまた複雑な表情で押し黙る。
神子は再び思案に暮れる。白蓮に恨みを抱く妖怪が、命蓮を引き合いに出して、白蓮の心に打撃を与えた。陳腐な理屈だが、筋道は通らなくもない。
(……何故?)
再び白蓮の虚ろな目が浮かぶ。あの状態でふらふら幻想郷中を飛び回っていたとは考えづらい。白蓮が感情を失ってから命蓮寺に戻るまでの空白はそう長くないはずだ。
(何故、お前ほどの僧侶が空蝉に成り果てた。何故記憶すら手放した。何がお前をそうさせた)
白蓮にも隙は生まれる。自分で提案しておきながら、実際に彼女が打ちのめされる様は想像しにくい。
白蓮に向かって命蓮を愚弄した? ――憤りはするだろう。しかし、そのショックで感情を失うとは考え難い。白蓮も相当な修行を積んでいる、滅多なことでは感情を荒げないはずだ。
単なる罵詈雑言ではない、もっと強烈に、醜悪に、陰惨に、彼女の傷跡を掻きむしるもの。白蓮と命蓮、二人の魂を同時に踏み躙るもの。
『私の手伝いなら芳香に任せれば充分ですもの』
不意に青娥の無邪気な笑みが浮かんだ。平気な顔で死体を操る青娥を、以前、白蓮は強く侮蔑を込めて非難したことがあった。彼女は命を貶める行為、死者を冒涜する行為を忌み嫌う。
――極めて気分の悪い想像が、神子の脳裏をよぎった。邪仙とて手段は選ぶし、青娥の実力は有象無象の妖怪風情とは比較にもならない。弱みにつけ込むのに、肉親などの近しい者をだしにするのは下策も下策だ。真正面から白蓮を破る手段がないと白状しているようなものだ。件の妖怪はその程度の知略しか持ち合わせていなかったのだろう。
それでも弱者は知恵次第で強者を穿つ矛を持つ。強者もまた僅かな綻びを一点に突かれれば堅固な盾を打ち砕かれる。
「神子様?」
突然空の真ん中で立ち止まった神子を、一輪がいぶかしむ。
「お前達、“猿の手”は知っているな?」
「へ? そりゃあ、山の仙人様が使うオカルトですから」
「なら話は早い」
神子は至極淡々と、私情を交えぬように心がけて一輪達に話した。さしもの神子も、彼女達を刺激せずに最悪の想定を語る術を持たない。
三つまでなら何でも願いを叶えるミイラの猿の手。手に入れた夫婦の息子が「二◯◯ポンドが欲しい」と冗談混じりに願ったら、息子は仕事場の機械に巻き込まれて死亡し、補償金として夫婦に二◯◯ポンドが渡された。――猿の手は分不相応な願いを歪な形で叶えるのだ。
どうしても死んだ息子を諦められない夫人の懇願に折れて、夫は猿の手に「息子を生き返らせろ」と二番目の願いをした。そうして真夜中、家の戸を叩く音がした。
「夫は最後に何を願った? 夫人は最後になぜ悲鳴を上げた?」
神子が低く念を押すように告げれば、一輪らの表情が凍りついた。
夫人は息子が帰ってきたと狂喜したが、機械に揉まれた息子の死体は無惨だった。二番目の願いがどんな形で叶えられるか、一度目の願いで理解をした夫が願うのは。神子が言いたいことをいち早く飲み込んだ一輪がすかさず食ってかかる。
「ま、待ってください。弟様の亡骸なんてどこにもありません。とうの昔に外の世界で埋葬されて、お骨すら聖様の手元に残っていないんです」
「けれど命蓮の法力が宿る宝物はまだお前達の元にある」
一輪の目が信じられないものを見るように見開かれる。
死体がなければ芳香のようなキョンシーは作れないが、手間はかかるものの、命蓮の遺品に細工を丁寧に施せば、別の何かをあたかも命蓮のように仕立て上げる方法もある。邪仙の術と、ついでに茨華仙のオカルトが思わぬ形で神子にヒントを与えた。そして賢しくも一輪達は、神子の端的な話から白蓮を打ちのめす最低かつ最悪の事態を導き出す頭脳を持っていた。白蓮は決して夫人のように反魂を願いはしないとわかりきった上で。
「……弟様が」
絶句したムラサの後を引き継いで、一輪が真っ青な顔でつぶやいた。
「弟様が、不完全な形で、聖様の前に蘇った」
そのまま口元を覆って黙りこくる一輪を、雲山が心配そうに覗き込む。肩の震えが全身に広がり、四肢の末端まで怒りがほとばしり、
「ふざけんな!!」
一輪の怒声が響いた。
「許せない、どうして弟様の魂を冒涜するの。どうして聖様の一番大切なものをゴミ屑みたいに踏み躙るの。憎ければ何でもできるっていうの?」
大声でわめいたと思えば、一輪は大粒の涙をこぼし、乱暴に袖口でぬぐった。寄り添う雲山もまた、怒りで拳をいつも以上に固く握り締めている。
「あの、私、お寺に戻ろうかと思います」
口を閉ざしたままだったムラサが出し抜けに言った。怒りをあらわにする一輪とは正反対に、こちらは不気味なくらい静かな声だった。しかし顔を見れば、神子でも背筋が寒くなるような憎悪を激らせていた。白い顔に夜光虫のごとく青白く光る目を見て、神子は怨念に呑まれた時の屠自古を思い出した。
「話を聞いただけで、目の前が真っ赤になって、頭がおかしくなるのに……そいつに会ったら私は何をするかわかりません。もう誰も殺めないっていう聖様との約束を破るかもしれません」
「あくまで私の憶測に過ぎない。真相は実際に確かめてみなければわからない」
「真相次第じゃ今みたく冷静でいられないって言ってるんですよ」
「待って。一緒にいてよ、ムラサ」
赤い目を擦って、一輪は濡れた袖でムラサの袖を引いた。まだ一輪はしゃっくりが止まっていない。
「ここで神子様に任せっきりにして帰るんじゃ私達、聖様の弟子として情けないじゃない」
「だけど」
「行こう。聖様を元に戻さないと。それに、もし弟様が本当に蘇ってしまったのなら……私達の手で、供養して差し上げないと」
ムラサが目を丸くする。堪えずに感情を発露させたせいなのか、一輪は先ほどより少しは落ち着いたように見える。これもまた感情制御の一つの形だろうか。
ムラサは無言でうなずいた。命蓮の遺品を回収するのは自分達しかいない。かつて宝船で飛び回った時のように、一輪達は覚悟を決めたようだ。
「ごめんなさい、私、僧侶なのに、こんな取り乱して」
「気にするな。心が何も感じないなんて、私はそんな冷たいものを悟りだとは認めたくない」
謝る一輪を神子は軽くいなす。
宗教の目的が心の平安なら、何事にも動じず感情を乱されずにいるのは良い状態のはずだった。しかし空蝉のように虚ろな白蓮を思い出すと、あれが彼女が望んで得た悟りの境地とは思えない。白蓮が興味を示したこいしとも異なる。
ならば悟りとは何をもって体現するのか――生憎、とうに仏教への関心を捨てた神子に答えるつもりはなかった。
◇
白蓮が眠る命蓮寺の私室では、両脇に星と響子が横たわり、室内には目を爛々と光らせたこころが、外にはナズーリンにぬえにマミゾウが控える体制で白蓮の見張りを続けている。
さすがに私も疲れてきたかなあ、などとこころが考え始めたその時、何の前触れもなく白蓮がまぶたを開いた。
「えっ、ええっ?」
驚いて歩み寄れば、間違いなく白蓮の意識は覚醒している。感情を読み取れるか試みるも、残念ながら戻ってきてはいないようだ。
「しょ、星さん、起きて起きて。響子さんも」
傍らの星と響子を揺り起こすと、星は一瞬で飛び起きた。外の三人も様子を伺っているようだ。響子がまぶたを擦る中、星は白蓮の顔を覗き込み、ゆっくり体を起こすのを手伝った。
「どうしました、聖。心置きなく休んでいてくれていいんですよ」
「……」
「聖?」
寝起きのせいか、白蓮は倒れる前よりもぼーっとして見える。それでも白蓮が自ら立ち上がろうとするのを見て、星は響子と共に両脇を支えた。
唇がかすかに動く。星が耳を近づけると、白蓮は小さくつぶやいた。
「神子」
「え?」
「……みんな、どこ」
星はしばし唖然とした。焦点の定まらない目はどこを見ているのかわからない。声は平坦で何の感情も滲まない。しかし白蓮は心許なげに神子の名前を呼んだ。仲間の姿を探した。やがて、白蓮は緩慢に首を動かして星の方を向いた。
「……聖、神子さん達を探しているの?」
驚きを抱きながら、星は己の涙を拭った白蓮の指先を思い出した。無意識に星を慰めようと動いたんじゃないか、とぬえは言った。もしも、また白蓮が無意識に動こうとしているのなら。
「星……」
白蓮はあえかな声で星を呼ぶ。白蓮に助けを求められた気がして、星は『聖がしたいことをさせてあげよう』と覚悟を決めて手を取った。
「大丈夫ですよ、聖。私は今度こそ何があっても聖のそばを離れません。もう、あんなお別れは懲り懲りですから……一緒にみんなのところへ行きましょう」
「えっ?」
「きっとみんなが心配なのよ。聖はそういう性格だから」
目を白黒させる響子に微笑みかけた。
「大丈夫。感情があってもなくても聖は聖だって、私、信じてるから。聖は私が守るわ。響子、代わりに留守番を任せてもいい?」
「えっ、えっと、よくわからないけどわかりました……」
「出かけるなら私も行くぞ!」
「ええ、こころさんも来てください」
まだ事態を飲み込めていない響子をよそに、星は白蓮の手をしっかり握って外へ踏み出す。格子の外側に座り込んでいたナズーリンと目が合うなり、
「神子さん達はどちらへ?」
「無縁塚だそうですよ。この方が隠し事をしていなければ」
「つまらん嘘をついてどうする。儂が嗅ぎつけた気配は本物じゃよ」
「わかった。ナズーリン、響子と一緒にお寺をお願いね」
「代役の代役ですか。荷が重いですねえ」
「何を言ってるの、貴方が本物の毘沙門天の弟子のくせに」
皮肉屋な部下に笑いをこぼして、星はこころと共に白蓮を支えつつ空を飛んだ。
◇
神子達が無縁塚にたどり着く頃には丑三つ時に差し掛かっていた。名前すら刻まれていない苔むした墓標の林は明かりもなく、三途の河が近いせいか、深夜はいっそう不気味さを増す。砂利道にはところどころ亀裂とも地割れともつかない避け目があって、異郷の幻想郷において更なる異郷への入り口をいくつも抱えているかのようだ。
「ナズーリンの小屋の近くには何もありませんでしたね」
一輪が暗闇の中、辺りを注意深く伺いながら言う。
神子も同じく崩れた墓標の上を歩きながら不審な気配を探る。マミゾウは本当に何も見つけなかったのだろうか――不意に鼓膜を打ち破るような激しい欲望の雄叫びが聴こえて、咄嗟に耳当てを押さえた。
「神子さん?」
「大丈夫だ。少し耳鳴りがしただけだよ」
神子は頭に手を当てて、ムラサの気遣いを断る。
いる。件の妖怪が、無縁塚のどこかに身を潜めている。
「ねえ、ムラサ……」
「うん。前にお寺に来た時は、こんなじゃなかった」
一輪が金輪を、雲山が拳を、ムラサが錨を構える。暗がりに紛れているのか、目当ての妖怪は目視できないものの、これだけ禍々しい気配を放てば一輪らも気づく。
耳鳴りが頭痛に変わるのを覚えつつ、神子はおおよその位置を割り出そうと耳をすませた。
「――なんだ、あの尼じゃねえのかよ」
石碑が崩れる音がした。瞬時に四人は散り散りに距離を取る。
そいつは砂利の隙間から這いずり出てきた。形は人間に近く、乱れた黒髪の合間に血走った眼が見える。神子は一瞥して不審に思う。地下に潜ったせいなのか、あるいはこいつの抱える怨嗟が強すぎたのか。妖怪の持つ憎悪のエネルギーは、ほとんど怨霊と変わりないではないか。
無縁塚は三途の河に近く、すなわち死者の世界に近い。怨霊の管轄区域である地底とは別だが、結界の綻びが生じやすいこの場所から繋がらないとも限らない。
妖怪は神子達を順番に観察して、鼻を鳴らした。
「ふん、今更あの尼の腰巾着がぞろぞろと」
「私はあいつの弟子じゃない、商売敵だ」
神子は笏をかざす。手強い妖怪には見えないが、本当に怨霊と化しているなら厄介だ。
警戒を強める一輪らに対して、妖怪はさして興味もないのか、四人に取り囲まれても平然としている。そういえば、妖怪が白蓮以外に憎悪をぶつけたとは聞いていなかった、と神子は今更ながら思い出す。暗がりの中、妖怪の胸元で何かが光った。怨霊が宝物みたいに抱えているのは、真珠のように光る白くて小さな宝珠だった。一輪があっと声を上げる。
「あんた、それはまさか!」
「ああ? いいだろう、心臓の代わりに奪ってやったのよ」
妖怪はにやりと笑って、これ見よがしにひけらかす。神子ははっと耳をすませた。
一輪達が元から持つものに加えて、妖怪の抱える強烈な負の欲望の声がする。それらをいっぺんに受け止めるのはさすがの神子も気分が良くなかったが、その中にかすかに紛れた小さな声を聴き逃すわけにはいかなかった。
神子がどんなに向かい合っても聴き取れなかった白蓮の声が、妖怪の抱える白い宝珠から聴こえてくる。人の感情の形など考えたこともなかったが、もしも具現化して取り出すなら、白蓮の感情はあのような形をしているのだろうか。
おかしいとは思っていた。いかに白蓮にとって命蓮が不可侵であっても、その痛みは自ら心を閉ざしてしまうほどのものなのか。心が壊れてしまうほどのものなのか。
「お前が聖白蓮の感情を奪ったわけか」
「骨を折った甲斐があった。こいつのおかげでな!」
妖怪が意気揚々と地面に手をつく。古ぼけた墓標の隙間から、一体の化け物が這いずり出た。それを目にした途端、一輪らは顔色を失った。
(抑えろ、抑えろ)
神子は声に出さずに言い聞かせる。一輪らの反応に気をよくした妖怪は、聞かれもしない自慢話をべらべら喋り出した。
「ありゃあ傑作だった。あの尼、顔面が絶望の一色に塗りつぶされて、震え声で『今すぐ土に還せ』と叫ぶのさ。そいつを使って尼の胸を貫かせたら、あっさり崩れ落ちた。本当なら命を奪ってやりたかったが、どうにも手ごたえがなくてな。代わりに引き摺り出したのがこれだ。あいつの死に顔を拝めなかったのは残念だが、ようやく欲しいものを手に入れた」
下品な笑い声が響く。
神子達の目の前に現れたそれは、到底生き物には見えなかった。いくつもの妖怪やら獣やらの肉をかき集め、粘土みたく捏ねて人の形を作り、核には命蓮の飛宝を埋め込み、“反魂”にしてはひどく陳腐かつ冒涜的な命蓮のなり損ないだ。
『姉上……姉上……どうして、私の命の意味を……おとしめて……』
肉と骨が同時に引きずられ擦れるような音で、命蓮のなり損ないはかろうじて声を上げる。一歩動くごとに異臭を放ち、墓標を血に染める。動かしているのはあの妖怪の力だ。『急急如律令』の札が見える。
(青娥だってここまで悪趣味じゃない)
神子は命蓮を知らない。しかし核になった飛宝が放つ法力は白蓮のそれとよく似ていて、命蓮を知る者にほんのわずかでも命蓮を想起させるには充分だろう。神子でも反吐が出るぐらいには醜悪な唾棄すべき存在なのに、まして神子以上に命蓮を、命蓮を思う白蓮を知る一輪らの怒りは察するに余りある。
「戻せ。雲山の拳がお前の頭を吹っ飛ばす前に」
一輪のドスの効いた脅しを初めて聞いた。雲山は雲の体でなければ自らの体を突き破るのではないかと思うほど拳を握りしめ、一輪の命令に従う。無数の錨で妖怪を取り囲んだムラサは、妖怪が白蓮の感情を抱えていなければすぐにでも血の池の藻屑にしていただろう。
(抑えろ、抑えろ)
一輪達に、というよりは、自分に言い聞かせるために神子は強いてそれを繰り返した。
あんななり損ないでも核には命蓮の飛宝がある。あれを攻撃できないなら術者を叩くのが早いが、白蓮の感情を人質に取られ、自らの感情も制御不可能に陥った一輪や雲山やムラサに可能だろうか。
「戻せったら戻せ! そんなに地獄に堕とされたいか!! 仏が赦しても私がお前を赦すものか!!」
一輪が殴りかからんばかりの勢いで金輪を振り下ろす。雲山の体が憤怒で赤く染まる。ムラサは無言で立て続けに召喚した錨をぶつける。外れた錨が放つ水飛沫から、妖怪に劣らぬ激しい呪詛を感じた。
妖怪は一輪達の激昂を前に、ニタニタ笑う。一輪達が激情をあらわにすればするほど嬉しくてたまらないといった、歪で醜い笑みだった。
「嫌なこった。もっと醜く感情をむき出しにしろ。もっと意地汚くて目も当てられない心を曝け出せ。あの尼を苦しめろ」
「お前は……!!」
一輪が妖怪に飛びかかるより早く、神子はいたわしい操り人形の目の前に手のひらを突き出した。神子が短く呪文を唱えると、命蓮のなり損ないは途端に静止し、肉塊が塵芥になって崩れ始めた。
「なっ……」
「こんなお為ごかしの術、解くのは簡単だよ。私の古い知り合いが得意とする術によく似ている」
抑えろ、抑えろ。妖怪と一輪と雲山とムラサ、それぞれが驚きを面に浮かべる中――神子は笑い出しそうなのを噛み堪えていた。妖怪が現れた時からずっと、神子には妖怪の肥大化した欲望が聴こえている。
――あいつは何故俺の話を聞かない? 妖怪贔屓なら妖怪の味方をするんじゃないのか? 俺は妖怪だぞ? 人間なんか放っておけよ。何故俺をそんな冷たい目で見る。誰彼構わずいい顔して回っているくせに。何故みんなにするように優しくしてくれない。何故俺の思い通りにならない!
支配欲に妄執に憎悪に自己顕示欲に自己愛に。この妖怪は馬鹿でかいだけの幼稚で陳腐でくだらない欲望しか抱えていないのだ。
耳鳴りがする欲望の中で、神子は確かに白蓮の感情から、白蓮の声を聴いた。
――私が何とかしなくちゃ。向き合わなくちゃ。だけど……。
――こいつだけは、受け入れられない。こいつだけは絶対に赦せない。
(ああ、お前でもそう思うだろうよ)
神子にも妖怪に対する憤りはある。怒りもある。けれど神子はこの場の誰より平然としていた。奪われてしまった白蓮の感情――それは単体で聖白蓮という一人の僧侶を形作る。すなわち白蓮そのものだ。
――こいつだけは赦せない。
――お前の思い通りになどなるものか。
白蓮は感情だけになっても妖怪を強く拒絶していた。絶対に屈しはしないと強靭な意志を示していた。白蓮には珍しい、嫌悪感という負の感情が盾になって、妖怪にむざむざ呑まれるのを良しとしないのだ。それだけがわかれば、恐れるものなど何もない。
肉塊が崩れてゆくうちに、命蓮と錯覚させるためだけに持ち出された飛宝が次第に形を保ったまま見えてくる。
「いきなり眠りを妨げて悪かったな」
塵芥の中で、飛宝は清らかな法の光を放っていた。ここに命蓮の魂はないとはいえ、身勝手に穢土へ引き摺り出されたことに変わりはない。後は寺の者達が丁重に供養をするだろう。
頼みの綱をあっさり断ち切られ、唖然と立ち尽くす妖怪と対峙して、神子は鼻で笑った。
「哀れだなあ。お前は執着の化け物だ」
神子の嘲笑に神経を逆撫でされたのか、妖怪は髪を逆立て饒舌に食ってかかる。
「あいつは施しをくれなかった。尼のくせに。妖怪救済を掲げるくせに! 話を聞くふりだけして、俺の願いを何も聞き届けちゃくれねえ。あの尼は俺に何も与えてくれなかった」
「自分が望めば欲しいものを他人が好きなだけ与えてくれると思うなよ」
神子は笏をしまい、代わりに剣の鞘に手をかけた。抜き放った剣の切っ先を、妖怪の顔の前に突きつける。怖気付いた妖怪はうずくまって宝珠を隠すべく腕で覆った。
「大人しく聖白蓮から奪ったものを返せ」
「嫌だ。これは俺のもんだ。誰にでもいい顔をするあの尼が憎い。ようやくあの尼から奪えたんだ。誰にも渡すもんか」
「哀れだなあ。袖にされて拗ねているのか」
妖怪が固まった。気づいていないのか、と神子は滑稽さに肩が震えた。白蓮に向ける憎悪にしてはあまりに常軌を逸した妄執。その中に見えたひとかけらの欲望は、神子の気のせいではなかったようだ。
「向けられるのが負の感情でも構わないから罵声を浴びせて気を引きたい。そのくせ相手から望む反応が得られなければ、逆上して相手を傷つける。里の子供だってもう少し利口だろうに」
「黙れ!」
「おまけに悪知恵だけは働くんだから始末に追えない。よくもまあ、お前みたいなのが反魂紛いの術だの聖白蓮の弟だのを知り得たものだ」
「黙れ、黙れと言っているだろう!」
「挙げ句の果てが、このぶくぶく肥え太った欲望か? 私もずいぶんな数の人妖に会ってきたが、お前の欲望は見るに堪えないな。いや、聴くに堪えない、と言うべきか?」
「うるさい、うるさい、うるさい!!」
案の定、激昂した妖怪が神子に襲いかかる。妖怪が神子に届くより先に、錨を巻きつけた鎖が飛んできて、妖怪の体を拘束した。次いで雲山の拳が錨を叩き、杭のように地面に突き刺さった。ムラサ達だ。命蓮のなり損ないが消えて、自分達もただ見てはいられないと立ち上がったのだろう。
ムラサ達に動きを縛られて、妖怪は懸命にもがくが、ムラサはより鎖を強く引っ張り、一輪は金輪を通じて雲山の法力を強化する。簡単には破れぬ戒めだ。
剣を振り上げた神子は一瞬だけ、白蓮はこんな救いようのない、改心の見込みもない有様でも救いの手を差し伸べるだろうかと考えて――即座にその考えを捨てた。
「やっと手に入れたんだ、奪われてたまるか、俺のもんだ、俺の……」
一切の躊躇もなく、神子は剣を妖怪へ振り下ろした。妖怪の凄まじい悲鳴が響き渡った。脳天を中心に、体が真っ二つに割れる。
飛び散った返り血を浴びてなお、神子は力を失いゆく妖怪を平然と見下ろす。のたうち回る妖怪が悪あがきに神子を睨んだ。
「何が悪い、俺が悪いのか、欲望の何が悪い! お前だって欲望の権化のくせに!」
喚き散らして唾の飛ぶ口元に札を投げた。浄化のまじないを込めた札の力で、ひとかけらの肉塊も残さず妖怪は消えた。後に残ったのは、数多の欲望に晒されてなお輝きを保つ小さな真っ白な宝珠だけだった。
「そうだとも。誰しも欲望を抱えて生きている。十でも百八でも足りない、私から見ればこの世は欲望まみれだ。今更動じるものか」
神子は宝珠をすくい上げた。白蓮の感情は妖怪が消滅して少し落ち着いたようだ。神子の手がじかに触れても、宝珠は白く光を放つ。神子は宝珠の内側を覗き込んだ。内側は濁りなき清水が絶え間なく揺蕩い続けているが、目を凝らせば、底の方にわずかながら暗い澱みが沈積している。しかと見届けて、神子は目を細めた。
血の滴る剣の切っ先を目にして、剣を振るうなどいつぶりだろう、と神子はぼんやり考える。鉄の生臭い臭いが鼻を突く。
「ああ、これじゃ怪人赤マントを名乗るにしても中途半端だな」
赤く染まったマントの裾を見下ろして、神子は笑った。
「これを」
懐紙で剣を拭う神子に、雲山の命令を解いた一輪が手拭いを差し出した。もう片方の手には、塵芥をすべて払われた命蓮の飛宝がある。
「いいよ、自前がある。お前まで汚れてしまうだろう。血の穢れは避けておけ」
「いつの時代の話をしているんです。女がこれしきの血で狼狽えますか」
「いや、私はあんまり沢山だと駄目だからね? 一緒くたにしないでよ」
同じく妖怪の消滅を確認したムラサが遠慮がちに口を挟む。
落着とは行かずとも、ひとまず事は済んだ。心配そうに神子を見つめてくるムラサに、神子は「これはお前達が持っていろ」と白蓮の感情を渡した。勢いよく受け取って、ムラサは真っ白な宝珠を隅から隅まで見回した。
「ありがとうございました」
一輪が真っ先に頭を下げる。雲山も同時にこうべを垂れた。
「私達では弟様を貶める術を解けなかったでしょう」
「妖怪を消してしまったがよかったのか?」
「誰も貴方を責められませんよ。……聖様だって、あの妖怪を退治していたと思います」
素直に感謝を口にしながら、一輪の表情は固い。雲山も口を一文字に引き結んだままだ。
可能なら自らの手で白蓮の仇を取りたかった。しかし白蓮は己がために弟子が不殺生戒を破るのを喜ばない。そんなジレンマで揺れているのだろう。
「ああ、やっぱり……」
その時、後ろでムラサが短く叫んだ。いつの間にかムラサは膝をついて宝珠を胸に抱きしめ、泣きそうな顔をしている。
「聖様……私達が、こんなことになる前に気づけてたら……」
「どうした」
神子が寄ると、ムラサは無言でもう一度宝珠を差し出した。何か異常でも、と覗き込んで、今度は神子が心の中で叫ぶ番だった。
(あっ!)
宝珠の輝きは鈍ることなく、澱みは清水を侵食しない。しかし光の内側をよく覗けば、亀裂が入ったような真新しい傷跡が走っている。感情が体外に出てつけられたものではない。白蓮の心の傷そのものだった。――何故見落としたのだろう。
神子が黙って宝珠を返せば、ムラサは顔を臥せったまま、また手のひらで庇うように包み込む。一輪と雲山も同じくムラサの手元を覗いて、眉をひそめた。
白蓮の精神は強靭だった。簡単には折れない、動じない、千年以上の時を生きた僧侶の逞しさを神子に見せつけてきた。神子もまた白蓮の強さを知っているつもりだった。商売敵には強くあって欲しい――押しつける理想もまた欲望の一つだとすれば、神子の目を曇らせたのも欲望のなせる技だろうか。少なくとも、ムラサ達は白蓮の負った心の傷を見落としたりはしないのだ。
「皆さん!」
そこへ、上空から三つの影が神子達の元へ降りてくる。声からすぐに星だとわかったが、星に手を引かれてやってきた白蓮を見た時はさすがに神子も仰天した。
「なっ……」
「えっ、嘘、聖様!? 星も!」
「私もいるぞ!」
「こころさんまで……ちょっと、なんで聖様を連れ出してるのよ!」
「聖がみんなのところへ行くって意志を示してくれたんです。道中は二人がかりだったから無事よ」
降り立った星は、白蓮の安否を気遣いつつも事もなげに言う。辺りの様子を一瞥して何が起きたのかを察しながら、特に口を挟むそぶりも見せない。
白蓮は相変わらず何の感情も読めない顔をしている。星は白蓮の意志だと言ったが、今の白蓮が自ら考えて行動できるようには見えなかった。
「……お前、よく動けたな」
「神子」
白蓮は淡々と神子の名前を呼ぶ。虚ろな目は変わらず、あの妖怪を倒したところで元に戻るわけではないようだ。
白蓮の右手が星の手を離れ、神子へと伸ばされる。指先が未だ返り血がついたままの神子の頬へ向かっているのだと気づいた瞬間、神子はぎょっとして、
「いい! 自分で拭く」
さっと身を翻した。後ろめたさなど微塵もなかったが、白蓮が拒絶した妖怪の血に触れさせられないと思った。白蓮は神子の反応をどう受け止めているのか、ぼんやりと行き場の失った右手を見つめるばかりだ。星は苦笑を浮かべ白蓮を見守っている。あれだけ不安まみれだった星が嘘のように落ち着き払っているのを目にして、神子は首をかしげる。
「……お前の感情は無事に取り戻せたよ」
「あっ、そうです! ほら、聖様、これ!」
ムラサは大事に抱えていた宝珠を白蓮に見せた。白蓮は受け取りもせず立ち尽くしている。
「こころ。聖白蓮の感情に異常はないか?」
「えーっとですね」
念のためこころの意見を伺うと、こころは宝珠をじっくり観察して、やがてのけぞった。
「すごい! 聖さんから抜け落ちた感情、ぜんぶ揃ってる! こいつはびっくりだあね」
「本当だな? お前みたく、一つ足りずに暴走するなんてことはないな?」
「余計なこと蒸し返すな! ……こほん。ええ、一つも欠けてません。感情が珠の形になって体の外に出ているのは前代未聞ですが」
「あの、傷ついたのもそのままってこと?」
「はい。傷ついて苦しんだり悲しんだりするのも感情の一つです」
「……そうだよね」
ならば、とムラサは白蓮の手に宝珠を握らせた。しかし何も起こらない。どうやって感情が外に出たのかも不明なら、戻る手段も不明なのだった。
「……戻らないよ?」
「元々聖様のものなんだから、飲み込ませたらどうなの。雲山、聖様の体を支えて……」
「やめて、喉に詰まらせたらどうするの」
「ちょっと待て」
焦り始めた弟子達を制して、神子は宝珠と白蓮を交互に見やる。
内丹の術を学んだ際に得た知識の応用でどうにかできるかもしれない。人体の生成過程において、道は精神を生じ、精神は気を生じ、気は肉体を形作る。感情が精神の産物ならば、散逸した白蓮の感情――宝珠を肉体に埋め込むことで、元の正常な状況に戻るはずである。だが、下手を打てば白蓮の感情に更なる傷を加えてしまうかもしれない。
(落ち着け、これも昔、青娥に……)
「そんな複雑なことしなくたって大丈夫ですよ」
内心冷や汗をかく神子のそばに、こころがそっと立った。
「表現はまだまだでも、感情を操ることにかけて私の右に出る者はいないわ。私が聖さんを元に戻してみせましょう」
こころが堂々たる口ぶりで切り出す。狐面を被った顔は無表情なのにどこか精巧に見えて、自信に満ちている。ムラサ達がこころの姿に唖然とする中、白蓮の前に立ってこころは叫んだ。
「失われし感情よ、あるべき住処へ還れ!」
奉納神楽のように、扇を手に舞い始めた。一足、こころが踏み込んだその時、宝珠の光が強くなった。扇をゆっくり胸元へ示せば、導かれるように宝珠は白蓮の手からひとりでに浮遊し、胸の中央へ向かう。また一足踏み込めば、一際眩い光を放出して、宝珠は体内に吸い込まれた。宝珠が完全に白蓮の中に収まった時、白い光もたちまち消え失せた。
「聖っ!」
「聖様!」
途端に倒れかかった白蓮をすかさず星と雲山が抱き止める。一輪とムラサもすぐに駆け寄るが、こころは動かない。神子もまた動かず、気を失った白蓮の顔に視線を注ぎ続けた。
やがて、閉じられた白蓮のまぶたが微かに動いた。かそけき呻き声を上げ、ゆっくりと目を開く。その目は芒洋ながら光を宿し、もはや先ほどまでのように何も捉えていない虚ろな眼とはまったく別物だった。
「……星?」
「聖!」
「一輪、雲山、ムラサ。みんな……どうして……」
「聖様!」
「ね、ねえ、雲山! 夢じゃないよね? よく見てよ、聖様のお顔を!」
一同は一斉に沸き立つ。白蓮は弟子達の名前を一人一人に呼びかけた。紛れもなく感情を持って呼びかけた声だった。
星は泣き崩れ、一輪は雲山と抱き合って笑い、ムラサは白蓮の胸に飛び込む。
「やりました、太子様! 聖さんの感情、ぜんぶ、ぜんぶちゃんと戻ってます!」
「ああ。見ればわかる」
喜びに翁面で踊り出すこころに対して、神子は穏やかに笑った。
永い夜が明けたような心地だった。少し離れた場所から白蓮の凛と張りのある、澄んだ声を聞くだけで、神子の心のもやも晴れてゆく。
「僧侶の眠りには王子のキスより面霊気の舞か」
「したかったんですか?」
「映えある助演(ワキ)は本業のお前に譲ろう」
「お面かぶれないじゃないですか。照れるわー、お芝居でもそういうのは心構えが要ります」
「お前にも照れが存在するのか……さっきの前口上は何だったんだ?」
「こういうのがあった方が様になると思いまして」
「大した役者魂だね」
「神子様、こころさん」
一輪が二人に声をかける。神子は弟子達に取り囲まれた白蓮を見た。見たところ体も異常はなく、未だ星は白蓮から離れないが、もう誰かの支えがなくとも自分の意思で自由に動けそうだ。
「ひとまずお寺に帰りましょう。聖様もまだ混乱しているみたいだし、お二人にも休んでもらわなくちゃ」
「はーい」
「……ああ」
神子と目が合った白蓮が何か言いたげに口を開いたが、弟子達に促されてうやむやに終わる。神子も白蓮と話すのは命蓮寺の面々に引き合わせてからでいいと思っていたので、何も言わなかった。
◇
ムラサ達が白蓮を連れて命蓮寺に戻ったのは夜明け前だったが、留守番の響子達は寝ずに帰りを待ち構えていた。無事に感情を取り戻した白蓮を目の当たりにして、たちまち寺中が歓喜に包まれたのは言うまでもない。
予想はついたが、白蓮は感情を失っていた間の出来事をほとんど覚えていないようだった。一部抜け落ちた記憶に困惑しつつも、命蓮寺の面々が代わる代わる白蓮に声をかければ、白蓮は全員の名前をしっかり呼んだ。感情については、こころ曰く、
「うーん、まだ乱れてる。だけど聖さんなら心配いらないでしょう。私がこれ以上何かしなくても、自然に落ち着きそうです」
とのことで、とにかく白蓮の療養が優先、しばらく大事を取って様子を見る運びとなった。神子は寺に着くなり「私の用は済んだ、帰る」と言い出したのだが、
「まだちゃんとお礼をしてないんですから、残ってください!」
「そうですよ、結局私達は神子さんにお世話になっちゃって、情けないやらありがたいやら」
などと一輪とムラサが引き留めて、しばらく命蓮寺に滞在することになった。しかし敵対勢力の本拠地のせいか、神子は落ち着かないようで、あんなに気にかけていた白蓮とも響子達が優先だといって話そうとしなかった。
「これで全員分足りるかしら。雲山、白菜追加ね。響子ー、椎茸とえのき持ってきて」
「了解でーす!」
さてムラサは、厨で慌ただしく動き回る一輪と雲山、響子の元へやってきた。それぞれ割烹着に身を包み手際よく働いている。ムラサは土管のような大鍋をかき回す一輪に目を止めた。
「何してるの?」
「見ればわかるでしょ、炊き出しよ。大人数だしお鍋がいいかなって」
「……肉はないのね。ぬえやナズーリンがケチつけるよ」
「お寺なんだからいいでしょ。第一あの夜の後で肉なんか食べる気になれないってば。ていうかムラサは何しに来たの? 聖様は?」
「ぬえがべったりで離れないのよ。それをマミゾウさんとナズーリンがからかって、楽しそうだから私は遠慮してきたわ」
「じゃあこっち手伝って。お箸数えといてよ」
「りょーかい」
ムラサもまた入り口に引っ掛けられた割烹着を着て厨へ入る。
「そうそう、星が宝物庫を確かめてくれたよ。やっぱり、盗みに入られた形跡があるって」
「マジかー。いつのまにやられたのかしら。防犯体制も見直さないとね」
「厄介なお客さんの対応もね。私達って、つい聖様なら何とかしてくれるって思っちゃうところあるものねえ……。あの飛宝は?」
「星に預けておいたわ。供養は、聖様がもう少し落ち着いてからね。……どうかな雲山。え? いつもより濃い? 今日はお客様のおもてなしだからいいの」
「一輪さーん。こないだ魔理沙さんからもらったキノコ、入れます?」
「いやいやどう見ても鍋の具材じゃないでしょ。魔法の研究にとか言ってたし」
「でも聖様の魔法にキノコって使いませんよね?」
「だからって食用にもしないから。棚に戻しといて」
響子は口を尖らせて怪しげな色のキノコを持って帰る。こうやって話していると日常が戻ってきたようで、つい数時間前まで白蓮の安否に皆が気を揉んでいたとは思えない。
「動いてないと落ち着かないんだよね」
不意に一輪が鍋をかき混ぜながら言った。
「いっぺんにたくさん話しかけても聖様の負担になるでしょ。かといって神子様も、こう……聖様を気にしてうちにいてくれるけど、明らかに落ち着かないって感じだし。話しづらいわ」
「……一緒に引き留めておいて何だけどさ」
ムラサも箸の数を数えながら話を続ける。
「あの人は、私達にとって商売敵だよね?」
「今更何言ってるの。当たり前じゃない」
「だけど聖様はあの人を信頼しているみたいだし、一輪もあの人の部下と仲良くしてる」
「別に仲良くはないってば。ちょっと遊ぶだけ」
「週に二回も三回も会ってて仲良くないってどういうことよ」
ムラサは肩をすくめる。一輪なりの虚勢は放っておくとして。ムラサは決闘の見物は何度か経験があるものの、一輪達と違って神子との共闘は今回が初めてだった。
神子がマミゾウすら蹴散らす、ただならぬ実力の持ち主だとは知っている。それでも実際に戦いぶりを目の当たりにすると、自分達は一時はあれとの全面対決も視野に入れていたのかとそら恐ろしくなった。
「私は、神子さんが少し怖い」
ムラサは小さくこぼした。ムラサ達が激しい怒りに飲まれて自分自身の制御も一苦労だという時に、神子は不敵な笑みすら浮かべていた。妖怪の妄執を一蹴し、何の躊躇もなく斬り捨てた。ムラサは書物でしか知らない丁未の乱とは斯くなるものかと神子の背中に為政者の姿を見た。
鍋の番を雲山と代わって一輪は振り返る。
「それはアドバンテージって奴だよ。いっぺんに十人の話を聴く能力と、それを活かす頭脳があるから、神子様は自信満々なの。まあ、私達の聖様だって負けてないけどね!」
「……私はあの人の考えてることがわからないよ」
「そんなの私だってわからない。だけど、今回聖様を助けてくれたのは事実。それにね、何度か手合わせしてみるとわかることもあるよ」
一輪はムラサの目をじっと見つめた。
「あの人だって、元は人間。聖様と同じ」
「……それだと私と一輪だってそうじゃん」
「だからそんなに怯える必要はないよ。怒らせたらおっかなそうなのは同意するけど」
「一輪は怖いもの知らずね」
「そうでもないわ、そうねえ、今はマミゾウさんが回復祝いと称して持ち込んだ秘蔵酒が怖い」
「あの人何持ってきてんの!? いや、この流れで呑むのはさすがにありえないって!」
「冗談。……あ、雲山、火をゆるめてくれたの? うん、じゃあ一旦この土鍋に移して」
歯を見せて笑う一輪に、ムラサは呆れて肩を落とす。
一輪が呑気なきらいはあるものの、ムラサよりも一輪の方がきっと神子をよく見ている。一輪の言葉にすべて納得したわけではなかったが、
(私が知らないだけで、神子さんも人並みに悩んだり困ったりするのかしら?)
そう考えると、ムラサもまた、白蓮を助けてくれた神子を信用してもいいだろうと思った。
とはいえ恩はあれど商売敵は敵。神子のような快刀乱麻の鮮やかさは真似できずとも、ムラサ達には白蓮と千年前からの付き合いというアドバンテージがある。今度こそ自分が聖様の支えになるんだ、と改めて決意を固めた。
◇
夜が明けて、日が昇って、また日が落ちて。結局、神子は一日中命蓮寺に滞在する羽目になってしまった。
白蓮の負った心の傷は、命蓮寺の弟子達に囲まれて緩やかに回復の兆しを見せている。手を貸したといっても、命蓮寺にとって神子は部外者である。屠自古の言う通り、身内で解決するのならそれに越したことはない。
日を改めて出直してもよかったのだが、神子の方が白蓮を放って帰れなくて、居心地の悪いままこころを相手に適当に過ごしていた。
「太子様は命蓮寺の皆さんが苦手ですか?」
「そんなんじゃない。ただ、ここは私の居場所ではない。そう思っただけだ」
命蓮寺は大所帯なぶん賑やかで、弟子やら居候やら関係者やら、皆が一途に白蓮を慕っているわけではないものの、まとまりはある。生暖かくも一本筋が通って、それでいて緩い空気の輪に、神子は入れない。入ろうとも思わない。
「皆さん、なんだかんだで聖さん並みにお人よしですよね。聖さんが好きじゃなくても、気まぐれで首を突っ込んでくれる」
「お前はどうなんだ?」
「一時的とはいえ、お世話になった身ですから。マミゾウさんにはお寺以外でもよくしてもらってますし」
そういえば、あの狸は未だにこころと縁があるのだった、と思い出す。神子はマミゾウを胡散臭く感じているが、こころは純粋に感情のレクチャーをしてくれる頼もしい親分だと慕っているようだ。
神子はこころの顔を見る。表情の固さに反して内面の感情はどんどん豊かになってゆくから大袈裟な表現が滑稽に見えるが、暴走に苦しんでいた頃に比べたら、こころはずいぶん自立している。他人の感情も論理的なアプローチながら理解できるようになってきた。元の面の製作者として喜ぶべきことだろう。
「あの妖怪、聖さんが好きだったんですかね」
「……さあ。そうだったとしても、逆恨みや憎悪が強すぎて話にならなかっただろうよ」
不意にこころが真顔で尋ねるので、神子はつれなく返す。こころは無縁塚に残った怨念の残滓から、あの妖怪の執着を読み取ったらしい。
恋情は時に凄まじい妄執へ変わる。しかし件の妖怪の場合、一方的な負の感情を向け続けるうちに仄かな思慕を抱いた、と解釈した方がしっくりくる。あるかなきかの思慕が白蓮をじわじわ苦しめたのなら、欲望とは実に厄介なものだ。
「執心物ですね」
と、こころは痩せ男の面をかぶる。
「能楽の演目か」
「通小町みたいなものです。深草少将は小野小町に執心するあまり彼女の受戒を妨げようとしたり、彼女が『百夜通えるなら』と苦し紛れに言えば鵜呑みにして通い詰めたりします」
「ほとんどストーカーだな」
「一輪さんにも同じことを言われました。やっぱり古典能楽を当てるのは難しいんですかね」
こころは面を手に唸り出す。こころとしては新しい演目ばかりでなく古典の上演もやりたいようだが、元より能楽に馴染みの薄い幻想郷で観客の受けを狙うには創意工夫が必要だろう。
ふと、こころは女面をかぶって神子を振り返る。
「私にはまだ、誰かに対して強くこだわる気持ちってよくわからないし、上手く演じられる自信もないんですけど……救いようのない人達も、能楽の中では救われることもあります」
「お得意の能楽であいつを励まそうとでもいうのか?」
「お面は人ならざる者の証です。シテに向き合うのはお面をつけないワキ。ですから聖さんに手を差し伸べるのは、面霊気の私より、人の心を持つ人の方がいいと思うんです」
こころは珍しく神子を真正面から見た。無表情の瞳に、わずかながらこころの意志が見えた気がした。
「それなら入道使いと舟幽霊が適任だ。私である必要はない」
「……太子様、珍しく卑屈じゃありません?」
「適材適所の話をしているんだ」
「助けてくれる人は何人いてもいいんですよ。私だって、希望のお面を失くしたことで、図らずも自我を獲得しました。マミゾウさんはお面だけでなく自分の感情を充実させろとアドバイスをくれました。喜び、悔しさ、哀しみ、怒り。あの時、私と闘った人達みんなが、私に感情を教えてくれた」
「……」
「いちいちお礼を言ってまわるつもりはありません。私の好きな能楽で、私の感情を表現するのが答えです。……それを、初めに私を作ってくれた貴方に伝えたかった」
立ち上がったこころは、口元を緩めてうっすら笑ったかのように見えた。
呆然とする神子をおいて、こころはマミゾウの元へ帰ってゆく。暴走して情緒不安定だったのも今は昔、心なしか足取りが頼もしく見えた。
「……そうは言っても、私もあいつもとっくに人間をやめたはずなんだけどな」
神子は一人苦笑を漏らす。神子は人間を超越した聖人だし、白蓮は人間をやめた魔法使いだ。けれどこころは、神子が白蓮の傷を見落としたのを未だに悔やんでいるのを見抜いて、それとなく励まそうとしたのかもしれない。
神子が何気なく空を仰ぐと、夜の帷が降りて空に星が昇り始めた頃だった。あの夜から、一日が過ぎようとしている。
ふと、何者かの気配を身近に感じた。またサトリの妹か、と視線を戻した神子は唖然とした。
「えっ……!」
見知らぬ僧侶が、神子の目の前に立っている。いつどこから入ってきたのか、命蓮寺ではまず見ない男の僧侶である。古風な袈裟姿のやや年老いた男ながら、目元のあたりが白蓮に似通っている気がして(もしや)と神子は息を呑む。
「……」
警戒する神子に向かって、僧侶はふっと微笑み、深々と頭を下げた。
――私のためにとんだご迷惑を……そう詫びるかのようだった。
「ここにいたんですね」
ぎょっとして振り返る。背後から聴き慣れた、けれど今となっては少し懐かしい、凛と澄んだ女の声が聞こえてきた。白蓮が微笑を浮かべ神子を見下ろしている。
視線を庭に戻せば、僧侶の姿はもうどこにもない。白蓮には見えなかったのだろうか、不思議そうに神子の様子だけを窺う。
「神子?」
「いや……何でもない。もう平気なのか」
「ええ。みんなのおかげで」
どこか気まずい気持ちを隠したまま、神子は答えた。白蓮の声は明朗で、言葉は明確で、顔には生気が宿り、瞳は真っ直ぐな光を湛えて神子を見つめている。白蓮の持つ欲望の声もちゃんと聴こえる。白蓮はそのまま廊下に腰掛けて空を眺める神子の隣に座った。
神子は今の僧侶の話を白蓮に告げるべきか迷って、やめた。面差しが似ている気はしたが命蓮だという確証はないし、ようやく元の調子を取り戻し始めた白蓮の心を再び乱す真似はしたくない。
「弟子達を放っておいていいのか?」
「もう充分に話しました。こころさんにだってたくさんお世話になったお礼を言いましたし、貴方だけなんですよ、ちゃんと話せてないのは」
白蓮は不満げに神子の顔を覗き込む。かと思えば、眉を下げて申し訳なさそうな表情をする。
「長く引き留めてごめんなさいね。弟子達が無理を言わなかったかしら」
「構わない。私もお前に言いたいことがあった。……あれから、何か異常は」
「今のところ何も。戻ってきたばかりの頃は私も混乱していたけど、私の身に何が起きたのかはみんなから聞きました」
白蓮は視線を庭の彼方へ向ける。神子は戻ってきた白蓮の欲望の声には素知らぬ顔をした。今は能力に頼って会話をする気になれなかった。
「昔の話よ」
白蓮は穏やかに言い放った。神子は命蓮の件だと悟り、僅かに身を固くする。それに気づいてか否か、白蓮は神子の顔を見て、目を細めて語る。
「生者必滅……とっくに心の整理はついているの。死人の思い出だけで千年も生きられるわけないじゃない。職業柄、どうしたって死について考えることは多いけど、今生きて私を慕ってくれる人達を差し置いてまで、亡き弟を優先したいとは思わない」
「……」
「本当よ。あんなに懐かしかったのに、私、もう弟の顔をはっきり思い出せないの」
白蓮は寂しげに言い切った。そんな馬鹿な、とは返せなかった。神子も己の肉親……父や母、兄弟の記憶を思い起こしてみたが、人より聡明な神子ですら、彼らの面影は鮮明に思い出せなくなっている。あの時代の肖像画なんて残っていないし、あるのは後世に作られた偽物だけだ。
神子は僧侶の幻を思い出すが、やはり赤の他人の神子が白蓮に『お前と似た顔をしているよ』と返すのは躊躇われた。
歳月は逆流しない。どんなに大切な思い出も色褪せて過去のものになってゆく。その事実を感傷に浸るばかりで終わらせるほど、白蓮も神子も幼くはなかった。
なのに、と白蓮は小さくつぶやいて、下を向いた。
「それでも足をすくわれるのね」
白蓮の声がトーンを落としたのを聴いて、神子は何も言わずに白蓮の続きを待った。
「あの妖怪が作り出したものを見た瞬間、頭の中が真っ白になって……それから後のことはほとんど何も覚えていないの。ただ、遠くの方からぼんやりとみんなが私を呼ぶ声が聞こえた。星が泣いているような気がしたし……貴方から血の臭いがした気がした」
返り血なんてとっくに拭ったし、マントも洗ったのに、頬に伸びた白い指先を思い出して神子ははっと振り返る。
「私は不殺を掲げていない。平気な顔で人の尊厳を踏み躙る奴を受け入れてやるような和なんて持ち合わせていない。それにあの妖怪はほとんど怨霊と化して、払う他はなかった」
白蓮は咎める言い方をしていないのに、つい硬い口調になる理由は、神子にもわからない。
「貴方を責めてるんじゃないの。昨日遭遇したのは偶然だけど、私だってあの妖怪を退治するつもりだったのよ。なのに、弟子達ばかりか貴方にもひどく迷惑をかけてしまったと……」
「思い上がるなよ。あれをほっとけば他の人間や妖怪にも被害が出る。私にとっても有害だ」
俯く白蓮を神子はわざと突き放した。一輪らに協力を仰がれたものの、防波堤の響子を押し切って命蓮寺に来たのは神子であり、手を出すと決めたのも神子だ。自分のために動いたのであって、白蓮のためではない――そういうことにしておきたかった。
白蓮は冷たい物言いに怯まず、ただ困ったように笑うだけだった。
「退治するつもりだったのか」
「ええ。これ以上はもう看過できないと思って」
「……あいつがお前に向けた執着は」
白蓮はさっと顔色を変え、咄嗟に自分の体を撫でさする。やはり白蓮も勘づいていた。
「薄々気づいてはいたけど、ああいう悪質なのは初めてなもので……。正直、戸惑っていました。最初に石を投げた時と、お寺に乗り込んできた時以外は、本当に何もしないのよ。私に暴言を浴びせるだけで、人間や他の妖怪は襲わない。これじゃ退治するわけにもいかないし、かといって話を聞こうとしても、攻撃的で汚い言葉を並べ立てるばかりで肝心の内容は空っぽ。何が言いたいのか読み取ろうにも苦労するのよ」
「便利な言葉があるだろう、仏の顔も三度まで。前から手に負えない奴は寺に来ても断っていたじゃないか」
「私の欲望がそうさせたのよ。それでも弟子達を巻き込めないって、私の力で解決したいって、傲慢な欲望が」
「誰に対しても話せばわかるなんて通用しない」
「それでも話してみなければわからないのよ。私は貴方ほど賢くないから」
「そうだな、お前は稀代の愚か者だ、まさか聖徳王ほどの偉人を忘れ去るとはな」
「……怒ってる?」
「気に食わない奴だとは思っていたけど、あれならまだ口論できる方がましだったよ。二度と忘れるな」
神子は真っ向から白蓮を睨んだ。あらかたの事情を把握した上で、神子に不満があるとするなら、結局それしかない。
白蓮は神子の視線を黙って受け止める。しばらくして、眉を下げた。
「たとえ忘れたって、また記憶に焼き付くわ。貴方ほど尊大で目立ちたがりな人はいないから」
それが一度忘れてしまった白蓮の精一杯の答えだと、神子も諦めがついた。こういう時に、白蓮は嘘がつけない。
「しかし、お前はどうして古い付き合いの弟子達は覚えていたのかな。感情と記憶の結びつきか?」
「……ぬえに言われたように、無意識、なんでしょうか。感情を失くしても、私は無意識のうちにみんなのところに帰らなきゃって思ったのかもしれない」
「だからあの状態で寺に戻って来れたと」
「たぶんそう。星に頼んでお寺を出たのも、貴方達が怪我していないか心配だったのかも」
「余計なお世話だ」
血に濡れた神子に手を伸ばした理由はそれか、と神子はこそばゆく思う。感情を喪失しても、記憶に穴が開いても、白蓮は誰かのために動こうとするのだから根っからのお人好しだ。
「私はみんなが言うほどお人好しじゃないのよ」
――そんな神子の思考を見透かしたかのように、白蓮は緩く首を振った。
「私がどうして感情を失って空蝉みたくなったのか……言いようのない衝撃を受けて、もうこれ以上誰かに執着されるのは嫌だ。あの時の私はそう思ったんじゃないかしら。妄執から逃げ出したかったのよ」
白蓮は自嘲して、また口をつぐんだ。神子も言葉を失って、感情のない虚ろな白蓮の目を思い出した。あくまで白蓮の憶測ではあるが、あの状態が他者からの執着を拒絶したものだとしたら。ろくにものも答えられず、記憶も不確かで、ただぼんやりそこにいる理由も合点が行く気がした。命蓮を含む千年前からの付き合いの仲間を覚えていたのは、白蓮が自分自身の執着は手放せなかったからだろう。
自分を責めるかの如く暗い顔をする白蓮に、神子は耐えきれずに口を挟んだ。
「そりゃあ、あんな外道な仕打ちをされれば逃げたくもなるだろう」
「すべて身から出た錆よ。……馬鹿みたいね。神子、貴方ならわかるんじゃないの。誰かを救いたいなんて、とんでもなく傲慢で横暴な望みだって。私は中途半端に抱え込んで、持て余して、結局みんなや貴方に助けてもらってる。浄土の弟まで巻き込んで……」
「負の感情や欲望だって、お前の一部じゃないか」
白蓮の肩が震えた。仏の教えに従順で、過ぎた欲望は身を滅ぼすと白蓮は自戒する。確かにあの妖怪は常軌を逸した欲望のために破滅へ向かった。しかし誰しも大なり小なり、負の感情や負の欲望を抱えている。長年仏の教えを学び、実践してきた白蓮が、それを受け止められないはずがない。
思うに聖白蓮という名が彼女の聖性を示すなら、白蓮は聖域を二つ持つ。一つは俗世に背く出家女性の聖域。もう一つは、人の道に背いたきっかけである最愛の弟。未だ本調子に戻れないのは、二つの聖域を踏み躙られ、此度の白蓮の受けた傷が深かった証左だ。
「無意識のうちにお前はあいつに嫌悪感を抱いた。あいつの妄執を拒絶した。それこそがお前の感情を守ったんだ」
白蓮は目を見開き神子を見上げた。
宗教とは、宗教家とは何のためにあるのか。心の安寧のためではなかったのか。執着を断ち煩悩を捨てるための出家なのに、白蓮はどこまでも苦悩の淵から逃げられない。人の上に立つ者として、理想を追い求める者として、自分に妥協を許せない難儀な性格のために。
けれど己の心の安寧すら得られない宗教家が、誰を導けるというのだろう。
誰かを救いたいなんて、きっと白蓮の言うように傲慢で横暴で身勝手な願いかもしれない。
だとしたら、同じく人を超越した神子もまた傲慢だ。互いに聖人を名乗りながら、差し伸べるその手は神にも釈迦にもなり得ず隙間から何かを取りこぼす。こころの指摘した通り、人の心を完全には捨てきれない。
普段の白蓮は同業者であり、神子の商売敵だ。助けてくれなんて白蓮は一言も言っていない。――しかし、宗教家が宗教家に手を差し伸べても、道理に外れてはいないだろう。
神子は白蓮の顔をじっと見つめた。感極まった弟子達に囲まれるうちに、白蓮ももらい泣きをしたのか、目元は赤い。せっかく感情を取り戻したのに思い詰めて薄暗い瞳を射抜いて、神子は淡々と語りかけた。
「お前が取りこぼしたぶんは、私が拾う。私が取りこぼしたぶんは、そうだな、霊夢とか山の神とか、とにかく他の奴らが拾ってくれるだろう。何より私達が拒絶するものも、この世界はきっと受け入れてくれる」
「……うん」
白蓮は口元を緩めた。神子の目を見て、照れたようにはにかんだ。
神子もようやく安堵したところで、白蓮の目から不意に大粒の涙がこぼれた。
「嫌ね。さっき、みんなの前でもさんざん泣いたのに……。失くした感情が一気に戻ってきたせいかしら?」
すぐさま白蓮は顔を伏せて拭うも、涙は後から後から溢れて白蓮の膝を濡らす。
「違うのよ。本当に、私は過去を引きずってなんて……こんなんじゃ、説得力がないでしょうけど……」
白蓮は心の中にいろんな思いが溢れかえって、自分でもどうして泣いているかわからないのだろう。
もどかしくなって、神子は白蓮の目の前に立った。強引に腕を引っ張って、縁側から立たせる。そのまま勢いに任せて、白蓮の体が神子の体に寄りかかった。
「信じるよ」
耳元でそっとささやいた。どんなに心の欲望が聴こえても、神子はすべてを見透かせるわけではない。
だから、せめて今は何の力も使わないで“普通の人間”のように、白蓮が心に浮かぶさまざまな思いの中からあえて口に出すと選んだ言葉を素直に受け取ろうと思った。神聖なものと崇めるのでもない、俗悪なものと蔑むのでもない、ただ対等な位置で隣に立ってやれたら。
白蓮はしばし唖然としていたが、やがて、少し背の高い白蓮の額が肩の上に自然とのしかかる。神子は白蓮を抱きしめないし、白蓮も肩を借りるだけで背中に腕を回したりしない。
己の最も大事なものを踏み躙られた悲しみ。命の冒涜への怒り。自分のために穢土へ引き摺り出された弟への申し訳なさ。未だに執着に捉われる己の情けなさ。弟子達を煩わせた不甲斐なさ。神子に尻拭いをさせた悔しさ。自分の力が理想には到底及ばない嘆き。無事に己の感情を取り戻した安堵。
言葉では尽くせない、うず高く積み上げられた感情が崩れ落ち、砂が流れるように押し寄せてくる。ほとんど声も上げずに神子の肩を濡らす涙が白蓮の感情の奔流そのものだ。喧しく欲望の唸りが聴こえてくるのに、嫌な気がしない。
――私もお前も、かつては人間だった。けれど今だって、私もお前も人間なのかもしれないな。
それは口に出さず、神子は黙って白蓮の欲望の声に耳を傾けていた。
「……ありがとう」
涙が治まる頃、白蓮は微かな声でそう言った。無理に作ったような笑みだったが、時が経てば、彼女もいつも通り笑えるようになるだろう。
気恥ずかしいのか、白蓮は神子から離れ、涙の跡を自ら拭って話し始めた。
「そうそう、今回貴方が来てくれたのは、こいしさんが貴方のところに来たからだと聞いたけど、本当?」
「本当だ。お前のとこの連中は、誰もこいしを見ていなかったのか?」
「みんな寝耳に水だと言っていたわ。いつの間に来ていたの、って。あの子は本当に何を考えているのかわからないわね」
「だけどお前はこいしに“空”を見出したんだろう。結局あいつの空とやらは確かめられたか?」
「そうね……」
神子は此度の介入のきっかけがこいしだと忘れかけていたのを思い出す。存在を忘れたわけではないのに、気がつけば意識の外側に行ってしまう不思議な妖怪少女。白蓮はこいしを空に迫った状態だと見立てたが、彼女を在家信者として迎えたことで、何か得るものがあったのか。白蓮はしばらく考え込んでから、あっさり白状した。
「わかりません」
「おい」
「仕方ないじゃない。あの子の目をじっと覗き込めば覗き込むほど空虚で、底が見えなくて、かえって自分自身を見つめるようで……気がついたらあの子は忽然と消えているんですもの。確かめようがないわ」
「なら、こいしの空などまやかしだったんだろう。私からすれば、あいつは精神と肉体の結びつきが安定していなくて、とても理想的な状態には見えないね。不老長寿の心得を説いたところで鍛え甲斐がなさそうだ」
「あら、それは道士としての貴方の見解でしょう。私がこいしさんに興味を抱いたきっかけは、修行なくして悟りに入れる可能性があるかもと思ったからよ」
「ほう、ようやく馬脚を現したか。お前だってストイックな修行なんて無意味だと思っているんだな?」
「そんなわけありますか。ただまあ、楽をしたい気持ちはなくもありませんし……みんながみんな、ストイックな修行に耐えられるわけではないのはわかっているつもりよ」
「あくまで弱き者のためだと言いたいわけだ。何、あいつに何も見つけられなくても落ち込むことはない。あいつについて深く考えるなど馬鹿馬鹿しい」
「負け惜しみっぽい言い方。別に落ち込んではいません。私が悟りの世界に入るにはまだ早い、と突っぱねられたみたいだとは思ったけど。悟りの境地は他人に見出すよりも自力で見つけろって意味かもしれないわね」
神子と言い合ううちに、白蓮の声音は少しずつ明るく活気を取り戻してゆく。期待が外れたわりには白蓮は前向きだ。
こいしはなぜ白蓮の異常を目の当たりにして、神子の元へ知らせに来たのだろう。神子の能力が通用しないだけで、こいしの心には何かしらの感情や思考があるのか、あるいは本当に何もない空っぽなのか……どちらにせよ、神子にもわからないのだった。
白蓮は涙の跡を乾かすように、空を仰いだ。夜空には無数の星が昇り、月がやせ細っているおかげでより眩く輝く。白蓮はため息をついた。
「貴方が目覚めた時を思い出すわ。お寺に欲霊がたくさん湧き出して、ひと所に集まって、満天の星空みたいになったっけ」
「私はすべての欲望を聴く者だからな」
「貴方からすれば、この世の欲望は星の数より多いのよね?」
「いかにも」
「私の欲望はどれぐらい?」
「新しい星座が作れそうだ」
「やっぱり修行不足ね。……地道に向き合いましょう」
「散々悟りとは何だと苦しんでいるくせに、結局悟りを求めるのか」
「これからも迷いはなくならないかもしれないけど、それでも私は仏道一筋ですから。道教と二股かけていた貴方とは違う」
「人妖両方に手を出すのは二股じゃないのか?」
「人聞きの悪い。私にできるのは手を差し伸べることだけよ」
白蓮は神子を振り返った。涙を流して澱みも流れたのか、白蓮が心の奥底に抱える迷いも憂いも、一時的に晴れたように見えた。
神子も白蓮も、それぞれ己のやり方で高みを目指して、然るに決して同じ場所には辿り着かない。長い人生の中で、たまたま二人の道が交差しただけだ。そう言ってしまえば儚い縁だが、神子は不思議と虚しさを感じない。
もしも神子が国の平定に仏教を持ち出さなかったら? 白蓮が本気で仏教を信仰していなかったら? そもそも本来なら生まれた時代も生きた時代も異なる、出会うはずのない二人だった。思いもよらぬ邂逅を果たすとは、神子が好む言葉ではないが、宿世や因果としか言いようがない巡り合わせだ。
白蓮と神子は再び正面から向き合う。目が合っただけで、言葉も能力もなくとも、互いの考えが通じた気がした。どちらともなく手を差し出し、握手を交わした。
「お互いに励みましょう」
「お前に遅れを取る私じゃない」
「少なくとも今回の借りは必ず返します。次は私が貴方に手を差し伸べる番よ」
「懲りないもんだ、傲慢な聖者め」
「言っておくけど、私は傲慢さだけが宗教家の条件だとは思っていないわ。やはり宗教家は慈悲深く仏心を持つべきよ」
「仏心ね。私が一番いらないものだ」
「自信がないんでしょう。私は私のやり方で、貴方と競ってみせるから」
きっぱりと告げた白蓮の目には、数多の星屑にも劣らない輝きが宿っていた。ようやくいつもの調子を取り戻した白蓮に、神子も口元をつり上げた。
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
――源氏物語〈空蝉〉より
◇
夜分遅くになったが、神子はようやく命蓮寺を後にして、懐かしい神霊廟へ帰還した。布都に屠自古に青娥、そしていつ連れてきたのやら、芳香にまで出迎えられた。
「いやはや、面霊気以外にも感情をどうにかできる奴がいたのですか」
「そんな上等じゃない。偶然の産物みたいなものだよ。ああ、入道使いはいろいろあったが元気そうにしているよ」
「そうですか、それはよかっ……いや、我は初めから何も言っておりませぬ!」
「往生際の悪い」
帰った途端に、神子はさっそく布都らに取り囲まれ、事のあらましを語り聞かせた。といっても、憶測に近いものはぼかして、説明したのは判明した事実だけだ。神子の言い分を素直に信じた布都は腕を組み考え込む。
「うーむ。あの方ですら感情を抜き取られるとは恐ろしい……」
「布都、お前も気をつけた方がいいぞ。ただでさえ記憶が抜け落ちてるんだ、感情まで奪われたらポンコツに拍車がかかる」
「何だと! ふっ、そういう屠自古は少しぐらい感情を削った方がよいな、怒りっぽさが治るやもしれん」
「お前という奴は……! 誰のせいでこうなったと思ってやがる!」
「あらあら、相変わらず賑やかですこと」
青娥はいがみ合う布都と屠自古を尻目に笑っている。二人の諍いはいつもの他愛ない喧嘩なので、神子も放置した。
「しかし、肉塊の人形ですか。付け焼き刃の知識で仕上げたのでしょうね。私ならもっと精巧で頑丈な戦士を生み出せますのに」
「青娥、わかっているとは思うが」
「ええ、ご心配には及びませんよ。そもそも私は貴方ほどあのお坊さんに興味がありません」
「……貴方には感謝してるよ」
「あら、それは意外ですわ」
青娥はけろっと笑う。神子は複雑な胸中を隠しきれない。かの妖怪の術を破れたのも、命蓮の反魂紛いに思い至ったのも、青娥という先例があったからだ。神子も道士として相応の実力と自信はあるものの、どこまで行っても青娥は神子の師だった。出藍の誉れには及ばないように見えて、邪仙と呼ばれる青娥を仰ぐことにどこか割り切れない思いを抱かずにいられなかった。
「青娥ー、右の手首がうまく動かない」
「まあ芳香ったら、手首はそれ以上曲がらないのよ? 落ち着いて、ゆっくり逸らしてみなさい」
「こうか?」
「そうではない! 覚えてないものは覚えてないと言っておるだろう! 屠自古はいつからそう執念深くなった!」
「お前のせいだ、お・ま・え! 今日という今日は許さん、黒焦げにしてやる!」
「やってみろ! お前の雷撃など我の炎に比べたらちっとも熱くないわ!」
「上等だ、やってやんよ!」
「やった! できたぞ青娥!」
「そうよ、上手! 芳香は本当にいい子ねえ」
「……五人でこの騒がしさか」
神子は思い思いに騒ぐ面々を見て呆れ笑う。反射的に修行僧やら居候やらが集合して大所帯の命蓮寺を思い出す。白蓮を中心にストイックな修行生活を送っているが、当然ながら普段は各々が好き勝手行動するせいで、統率などあったものじゃない。昨日鍋をつついた時点ですでに祝杯ムードが出来上がっていたし、白蓮が完全に落ち着けば、回復祝いと称してあの寺も騒々しくなるだろう。
(――ま、こっちもせいぜい励むよ)
命蓮寺に対抗意識を燃やしてか、いま少し弟子の数を、と屠自古あたりは気にしているようだが、神子は意に介さない。
こちらも人数のわりには自由奔放で、誰も彼もが欲望に忠実で、けれどそれなりに楽しくやっている。道教と仏教、欲望に向き合う姿勢が異なる限り、神子と白蓮の居場所はやはり重ならないが、神子はそれでいいと思った。
神子の耳にガチャン、と陶器の砕ける音が聞こえた。布都が皿を投げたのだろう。いつものこととはいえ、また皿代が嵩むと神子は頭の中で勘定する。ついでに命蓮寺の帰り際、こころに「太子様、またお面壊れちゃいました。つい皆さんの前で張り切ってしまって。新しいの作ってください」と例の真顔で言われたのも思い出して、さらに勘定が嵩んだ。耳鳴りがしたのは五人の欲望のノイズではなく、ストレスのためだろう。
「本当に、人の上に立つのは楽ではないな……」
軽い頭痛を覚えた神子は大きくため息をついた。
◇
「ノックしてもしもーし」
満天の星が浮かぶ夜、神子が屋根の上で瞑想に耽っていると、またもやこいしが神子の背後に突然現れた。数日ぶりだな、と神子は肩をすくめる。ちなみにどこにもノックはされていない。
「うちも防犯体制を見直した方がいいな」
「貴方は相変わらず宇宙と合体しようとしているのね」
「自然との一体化な。合体って、ロボットじゃあるまいし」
「あーあ、つまんないの。聖さん、すっかり元に戻っちゃった。私みたいなサトリができたと思ったのに」
こいしは石ころでも蹴飛ばすみたいに足をぶらぶらさせる。どうやらこいしも白蓮の回復を聞きつけたようだ。神子はあれ以来命蓮寺を訪ねていないので、こいしがどのような行動に出たかは知らない。
心を捨てて空に迫った、というのが白蓮によるこいしの見立てなら、あの時の白蓮は心を捨てた状態とは違う。
「あんなの悟りなんて呼べないよ」
「そっちの悟りじゃないもん!」
物言わぬ人形のような白蓮を思い浮かべれば、むくれたこいしが次々に捲し立てる。
「これはこれで楽なんだよ? 便利なんだよ? お姉ちゃんや貴方みたいなのはともかく、他のみんなは心が読めないのが普通じゃない」
「普通じゃないから、私は人の上に立つ。自ら獣道の先頭を切るのが宗教家なんだ」
「それは……なんていうか、マゾいですね?」
「そうかもな。ストイックさやしがらみの多さならあっちが上だろうが」
「何となくわかるわー。たまにお寺の修行について行けない時があるもの」
「なら、あの寺を辞めてうちにくるか?」
神子はにやりと笑う。白蓮にはこいしは鍛え甲斐がないと言ったものの、引き抜きや勧誘はこまめにやるべきだ。
こいしはきょとんと首をかしげて、やがて横に振った。
「いいや。私、もうちょっとお寺で暇つぶしするの」
「暇つぶしねえ」
神子は乾いた笑いをこぼす。この調子なら引き抜かなくて正解だ。こいしの修行になっていないと告げたら、白蓮はどんな顔をするだろう。
こいしはくすくす笑ったかと思えば、ひょいと片手を上げる。
「ねえねえ、悟り澄ました顔の貴方にしつもーん。結局、感情とか欲望ってなんですか? 悟りとか無我の境地ってなんですか?」
「いきなりだな。哲学してるのか?」
「同じことを聖さんに聞いたらはぐらかされたのよ。貴方はどう?」
「そんなの答えられない」
「えー? 宗教家なのに?」
「簡単に答えが出る問いではないから、私もあいつも考え続けるんだよ」
「だけど馬鹿の考え休むに似たりって言うじゃない?」
「誰が言ったんだ?」
「うちのお燐がお空に」
「お宅のペット事情なんぞ知らん」
「考える、かあ。そんな面倒ごとうっちゃえばいいのに」
以前『何も考えていないわけではない』と言い張ったのはもう忘却の彼方か、こいしは口を尖らせる。おそらく白蓮ははぐらかしたのではなく、神子同様に慎重になって答えられなかったのだろう。
神子が思考に没頭するうちに、こいしは消えていた。何をしに来たのか、どこへ行くのか、もはや確かめようがないし、さして興味もない。
(――もし、感情を失ったあいつが、本当に無意識で動いていたのなら)
だからこれは根拠のない神子の憶測だ。無意識を操るこいしが、白蓮に残った無意識のSOSを読み取って、神子の元へ知らせにきたのだとしたら?
考え過ぎだ、と神子は即座に打ち消す。白蓮が助けを求めていたなんてあまりに都合がいい。しかし感情を失った白蓮の虚ろな目を思い出すと、やはり宗教家の目指す心の安寧について、改めて考えざるを得ない。
悩みから解放されたい。自らをより高みへ導きたい。煩わしい現から自由になるという意味では、二人が宗教を通じて目指す理想はよく似ていた。
神子は脳裏に真っ白な、それでいて底が澱んだ宝珠を浮かべる。白蓮はあの暗い澱みをすべて消そうとするだろうか。それとも負の感情に向き合い、存在を認めた上で前に進もうとするだろうか。考えるまでもなく、答えは後者だとわかりきっていた。
「どんなに温厚に澄ました顔をしても、心の中に感情が満ちているお前の方がらしいと思うよ」
満天の星の一つが、白蓮の輝く瞳と重なる。今夜みたいな夜は、大いなる宇宙に思いを馳せる傍らで、天上を突くほどの感情を積み上げる白蓮を思い出す。
神子は無数の星が降り注ぐ空を仰いで一人つぶやいた。
そいつは何の前触れもなく、気配もなく、神霊廟の屋根の上で瞑想に耽る神子の背後を取った。
不意を突かれた神子はさして驚きもせず、ゆっくり振り返る。虚ろな目の妖怪少女がにこにこ笑っていた。お決まりの台詞を引っ提げてきたくせに、ナイフの類は持っていないようだ。
「お前一人で、夜更けに何の用だ」
「こんな風に青い静かな夜には私一人で哲学するのよ」
「哲学?」
確かに今宵は濃紺の空に満天の星が輝く美しい夜だ。頭上を見上げてぼんやり物思いに耽る者も多いとはいえ、お前みたいなのが? というニュアンスが言外に漏れたのか、こいしはむっとして、
「私が何も考えてないと思ったら大間違いなんだから」
「これはまた大きく出たもんだ。なら早くここに来た理由を教えてくれ」
「貴方はどうして立派な道場があるのにわざわざ外に出て瞑想するの?」
「そんなくだらない質問のために私の背後を取ったと?」
神子は頭痛がしてきた。やはり思いつきでものを言っているだけで、何も考えていない。こんな空っぽで放浪癖のある妹を待った姉は頭痛や胃痛どころでは済まないだろう。
いかに豊聡耳の名の恣にする神子とはいえ、心を閉ざしたこいしの欲は神子にも読めないし、無意識の言動から内面を推し量るのも不可能だ。こんな間近に他人がいるのに何も聴こえない静かな空間も珍しく、神子はかえって落ち着かなくなる。
いつか白蓮の言ったように、こいつが結果的に悟りの境地に迫ったとは見えない。『思うこと無く慮ること無くして始めて道を知らん』とは言うが、言葉のみに頼らぬ聖人と思考を放棄したサトリ妖怪は違う。思考停止なんてものは神子には逃げとしか思えなかった。
こいしの現状を道教流に、もとい神子の観点を加えて解釈をするのなら、彼女は万物を構成する“気”が散漫している。精神と肉体とは分かちがたいもので、気の集合たる精神が肉体から遊離しないよう養生して不老長寿を保つのだが、何も考えていないこいしの気は一つのところに集まらず、肉体からばらばらに出たり入ったりして不安定だ。守一の観点から見れば望ましくない状態であり、彼女が仙人になるのは到底不可能である。
ひとまず神子は仏心、いや、単なる親切から丁寧に教えてやる。
「道教は道(タオ)、すなわち万物の根源たる大いなる宇宙の真理を追求し、自然と一体になることを目的とする。だから満天の空の下は瞑想に最適なんだ」
「そうなの? もっとロマンチックな理由かと思ってた」
「宇宙にはロマンがあるだろう」
「お寺の黒い妖怪も似たようなことを言ってたわ。そうそう、お寺っていえばね」
こいしがくすっと笑ったかと思えば、次から次へと話が移り変わる。能力が通用すれば楽なのにな、と考えている神子の耳に、思いもよらぬ言葉が飛び込んだ。
「今の聖さん、私とお揃いだよ」
「は?」
「心を閉ざしてしまったの。感情がなくなって、空っぽなの。お寺のみんな大騒ぎしてるよ」
「……なんだって?」
神子は己の耳を疑った。思わず身を乗り出してこいしに迫る神子に対し、こいしは相変わらず無邪気な笑みを浮かべている。
あの聖白蓮が感情を失った? にわかには信じがたい。いつも温厚で、穏やかで、そのくせ心の内には摩天楼のように感情を高く高く積み上げているあいつが。
神子はじっとこいしを見つめた。虚ろな目からは何も読み取れない、心からは何も聴こえない。命蓮寺がこいつを使いに選んだのなら明らかな人選ミスだ、と舌打ちする。
「お前の話は本当なのか?」
「いくら私でもこんな嘘はつかないよー」
「それを私に伝えに来たのか?」
「ううん、気がついたらここにいたの」
「……無意識か。とにかくもう少し詳しく聞かせてくれ。あいつの身に何が起きた? どうしてあいつが心を閉ざしたりするんだ?」
「さあ? みんなわーわーきゃーきゃー騒いでたから、よく聞こえなくって」
「ったく、埒があかない」
苛立ちを覚えた神子は瞑想を中止し、こいしを置きざりに屋根を飛び降りた。何が何だかさっぱりわからないなら、自分の目で確かめるしかない。しばらく留守にする旨を布都達へ告げに行く神子の背中を見送って、こいしはぽつんとつぶやいた。
「なんでちょっと心を閉ざしただけであんなに大騒ぎするのかな。聖さんだって私が理想的だって言ってたのに。悟りってそういうものなんでしょう?」
その言葉は、もはやこいしなど意識の外へやってしまったかのように急速に神霊廟を起つ神子には届かなかった。
◇
神子が命蓮寺へ降り立つと、門前に真新しい張り紙が貼られていた。
『誠に勝手ながら、一身上の都合によりしばらくお休みします』――妖怪寺と呼ばれる命蓮寺は夜こそ妖怪の客で賑わうのに、境内は不気味なほど静まり返っている。
いよいよ怪しい、と踏んだ神子が張り紙を無視して寺に乗り込もうとした、その時だった。
「お帰りくださいませお客様あああ!!」
「うわっ」
石段を登って寺の入り口に立つや否や、戸ががらっと開き、響子が出迎え、もとい山彦お得意の大声で迎撃してきた。弾幕ではなく単なる音波攻撃のようだ。さすがに面食らったものの、何なく避けて響子の目の前まで近づくと、響子は来客が神子だと気づいて動転した。
「あ、貴方はっ……!」
「ずいぶんな歓迎だな。夜分遅くに近所迷惑じゃないか?」
「い、今は非常時です! そんなこと気にしてられないんです!」
「非常時か。ならあいつが言っていたのは本当か」
「な……何のことでしょう?」
わかりやすく響子の額に冷や汗が滲んだ。隠し事ができない性格なのだろう、目が泳いでいる。神子は容赦なく詰め寄った。
「正直に答えろ。聖白蓮はどうしている?」
「……この頃、お勤めの疲れが溜まっていたようでして、早々とお休みになっています。ご用件は後日伺いますから、今日のところはお引き取りください」
「即興で作り上げた建前は陳腐だな」
定型文をそのまま読み上げたような言葉の不自然さを指摘すれば、神子に何事も隠し立てできないと悟ったのか、響子は唇を噛む。何か非常事態が起こると隠し通そうとする癖は白蓮のみならず、命蓮寺そのものの体質らしい。
響子の横をすり抜けて中に上がった神子の背中に「待ってください!」と響子が追い縋る。
「何だ、この期に及んで止めようとでも?」
「いえ、その……お願いがあるんです。今の聖様を見ても決して驚かないでください。そして、聖様を無闇に刺激しないでください」
――ああもうばれちゃった。どうしてこんな時に来るのよー。私達もどうしていいかわからないのに……。
わざわざ聴かずとも、響子の不安が顔にはっきり出ている。無理を押し通した自覚はあるので、神子も神妙な顔でうなずいた。
「わかった。無体なことはしないよ」
「皆さん本堂に集まっています。聖様もそこにいます」
響子は腹を括ったのか、自ら神子を案内する。
煌びやかな仏具に囲まれた本堂は、通夜と見紛う重苦しい空気に飲まれていた。命蓮寺の修行僧と居候が中央に集まって、立派な仏壇の正面に座る白蓮を取り囲んでいる。
神子が踏み入るや否や、一斉に白蓮を除く全員が振り返った。全員の眼差しが驚きと警戒に満ちていた。その中に見慣れたお面を見つけて、神子もまた目を瞬く。
「えっ、み、神子様!?」
「おや。仙人様のおでましじゃ」
「ええっ!? 太子様がここに?」
「こころ。お前まで来ていたのか」
「ちょっと響子、誰も入れないでってあんなに言ったじゃない」
「すみません、だけど私じゃ歯が立たなくて……」
「私が勝手に上がっただけだ。それより、聖白蓮は何をしている。なぜ振り返りもしない」
どよめく弟子達やのけぞるこころをものともせず、神子は白蓮の元へ一直線に歩いた。白蓮は背を向けたまま微動だにしない。
「おい、聖白蓮……」
「聖。神子さんがいらっしゃいましたよ。ほら、貴方の後ろに」
神子が白蓮の肩を掴むより早く、白蓮のすぐ隣にいた星が白蓮を促した。猫撫で声というか、甲斐甲斐しく白蓮に寄り添う様は普段の威厳に満ちた毘沙門天の化身たる姿からはかけ離れていて、神子はいささか面食らう。
星に促され、手を取られて、ようやく白蓮は神子を振り返った。白蓮の表情を目の当たりにして――神子は絶句した。
白蓮の顔から、感情というものが一切感じ取れない。肌は普段よりも病的に白いせいか血色が悪く、口元は一文字に緩く引き結ばれたまま。いつもしゃんと背筋を伸ばしている体もうつむき気味で、座っているのに重心が安定しない。そして白蓮の双眸は、まるで先刻の妖怪少女のように光がなく虚ろで、ぼんやりとして、神子を見ているようで何も捉えていない。
これでは、生きた妖怪ではなく、魂の抜けた空蝉ではないか――二の句が告げない神子に向かって、白蓮は顔色を変えもせず、微かに口元を動かした。
「……だれ?」
神子の体温が一瞬のうちに下がった。たった二文字の簡素な言葉なのに、神子に衝撃を与えるには充分すぎた。白蓮の言葉はただの音節を機械的に並べ立てたようで、抑揚が一切なく、何の感慨も篭っておらず、疑問系なのに疑問すら見えない。動揺の中で、神子は咄嗟に耳当てを外して白蓮の声を聴こうとした。
……どれほど注意深く耳をそば立てても、他者の欲望の声をすべて遮っても、何も聴こえない。
ならばと神子は白蓮の持つ気に集中する。もぬけの殻みたいだと思ったが、魂はきちんと身体の中にあり、肉体から遊離しているわけではないようだ。しかし本来備わっているべき気――精神が司る感情は、すべて身体の外に出てしまっている。
こいしが「私と同じ」と言ったように、今の白蓮の心には、何の感情もないのだ。しかし感情が失われたからといって、どうして記憶まで失くして、神子のことまで忘れているのだろう。
白蓮は狼狽える神子を前にしても、ただ無言でぼんやりしているだけだ。
「神子さん、落ち着いて聞いてください」
見かねた星が神子に語りかけた。慌てふためく弟子達の中で、星が最も冷静に振舞っていた。
「貴方にはもうおわかりでしょう。……聖は、突然すべての感情を失ってしまったのです。原因は私達もまだ掴めていません。そして感情を失ったせいか、記憶にまで綻びが生じています」
「綻び……」
「かといって、誰のことも覚えていないわけではないようなのです」
星に続いて、一輪が説明を付け加えた。彼女もまた心を乱されながら、商売敵の前だからか毅然と振る舞っている。
「私達が代わる代わる聖様に呼びかけましたが、どうも聖様はかろうじて昔の……千年前から一緒にいた妖怪達のことはわかるみたいなんです」
「……なら、幻想郷に来てから出会った人妖達は」
「残念ながら覚えていません。響子やぬえさんやマミゾウさんにも聖様は『誰?』と言いました。ですから、神子様のことも……」
口籠る一輪に、神子は首を横に振る。未だ神子の心はかき乱されているが、だからといって途方に暮れる彼女達の前で、憤りに任せて白蓮を詰る気にはなれなかった。
「あの、つかぬことを聞きますが」
遠慮がちに手を挙げたのはムラサだった。ムラサは白蓮へ向ける心配と同じぐらい、突然寺にやってきた神子へ警戒心を抱いているようだ。
「貴方は聖様の身に起きたことをどうやって知ったのですか? いくら貴方の能力でも、遠く離れた場所の声なんて聴こえないでしょう」
「先ほど、私の道場にサトリの妹が現れた。あいつが教えてくれたんだよ」
「ええっ、こいしさんが? 誰かこいしさんを見かけました?」
「見てないよ、響子。彼女は私のダウンジングにも中々引っかからないし」
「儂も見ておらんよ。あやつは訪ねてきても居るのか居らんのかよくわからん奴じゃからのう」
「というか緘口令敷こうと相談してたところだったのに! 何を勝手に告げ口してくれちゃってるのよー!」
一輪が頭を抱えるが後の祭りだ。在家とはいえ、命蓮寺の信者ならただの監督不行き届きではないのか。
そこへ新たな妖怪が首を突っ込んでくる。黒ずくめの正体不明ぬえだ。元から大所帯ながら、ここまで寺に妖怪が勢揃いするのも珍しい。
「まあまあ、あいつのやったこともかえってファインプレーだったかもしれないじゃん? ねえ、ムラサ」
「何を呑気なこと言ってるのよ」
「だってさあ、呪いをかけられたみたいに聖がおかしくなっちゃって、そこに偶然こいつが通りがかって」
「ほほう、つまりあれかな? おとぎ話のお約束だと言いたいのじゃろう?」
「そうそう、呪いにかかった姫君の目を覚ますのは……あら? もしかして、私達の目の前にいるのは、かの厩戸王子様ではありませんか!」
「頼むからもう少しマシな解決策を提案してくれ」
「頭が固いのう。入道顔負けじゃな。ものは試しというじゃろう、今更接吻の一つや二つで恥ずかしがるほどおぼこでもあるまい」
「誰がやるか」
そもそも今時、正気のない相手に勝手にキスなどしたら立派な暴力である。
好き勝手言う正体不明コンビに辟易した神子は改めて、皆の騒ぎぶりにもかまわずぼーっと座ったままの白蓮を見やる。
星から紹介されても、神子について何か思い出した気配はない。神子がその目を眼光鋭く射抜いても、首を傾げすらしない。苛立ちを覚えた神子は「こころ」と大飛出面をつけてあたふたする面霊気を強い口調で呼んだ。
「お前にも聖白蓮の感情は読み取れないのか?」
「は、はい。命蓮寺の皆さんに呼ばれて来たんですけど、びっくりですよ。聖さんの心の中は何もないわ! 驚き桃の木山椒の木!」
「古いよこころさん……」
あまりに大袈裟な感情表現とそれにつり合わぬ本人の無表情に、ムラサが半笑いする。神子に睨まれ、こころはすかさず咳払いをする。
「本当に何の感情も読めないんですよ。まるであの時と同じ……丑三つ時の里の、感情のない人間達と……どうなってやがるんだ!」
「そう怒るな。それで、聖白蓮はいつからこうなったんだ?」
「ええとですね」
一輪が事のあらましを説明する。
今日、白蓮は早朝から日課の勤行をこなし、昼過ぎには仏の教えを布教すべく人里へ演説に出かけた。その後は妖怪への布教活動をすると寺の者達に言い残していたものの、具体的な場所までは言わなかった。妖怪はあちこちにいるから白蓮も幻想郷中を回るのだろうと、弟子達はさして気に留めなかったようだ。
そうして日が暮れた頃、白蓮は命蓮寺へ帰ってきた。帰還の挨拶もせず、ただぼんやり寺の正面口に突っ立ったままで。出かけた時とあまりにも様子が異なる白蓮を心配した弟子達があれこれ語りかけて、白蓮の感情の喪失に気づいた。
あらかた情報を整理した神子は、改めて星に問いかける。
「つまり、こいつが感情を失ったのは、昼過ぎから夕暮れまでの間か?」
「おそらく、そうだと思います」
「誰かと会う約束をしたとは」
「聞いていません。隠している様子もありませんでした」
「こいつは一人で帰ってきたのか? こんな有様でまともに動けるとは到底思えないが」
「聖様一人でしたよ。直前まで誰かと一緒だった可能性もなくはありませんが、境内には誰の気配もなかったものですから」
一輪が付け加えた。神子は再び白蓮を見やる。
感情を失い、記憶も欠落している。しかしこの押し黙り様は妙だ。感情の制御が効かず暴走下にあったこころだって言葉は交わせたし、心が虚ろで何も考えていないようなこいしだって思いついたことを好き勝手しゃべる。
「お前は誰に会った? それすら忘れたのか?」
「……」
「お前に聞いているんだ、聖白蓮」
「無理ですよ。答えられるのなら、とっくに私達が聞き出しています」
会話すら拒まれているようでつい強い口調で問い詰めると、さすがに見知らぬ相手――少なくとも、今の白蓮にとってはそうだ――から詰られるのが不気味なのか、白蓮は星にすがりつく。挙措のすべてがぎこちなく、幼い。目の前にいるのは本当に白蓮なのか? そう疑わずにはいられない。
「こころ。お前の能力で干渉できないのか?」
「こちらに呼ばれてからずっと試してます。だけど何の感情もないんじゃ私だって何もできません」
「道具にだって自我は宿るじゃないか。お前から新たな感情を植え付けられないのか?」
「聖さんは道具とか付喪神じゃないんですから。他人が自我を与えるって、そんなことできるのはもう神様の領域ですよー……はっ!」
何か閃いたのか、こころの面が翁に変わる。
「私、妖怪を新しく生み出せる神様を知ってたわ! 私と同じく能楽を愛する方よ」
「それって」
「摩多羅神だな」
かの秘神が秦河勝と同一視されるせいか、隠岐奈もこころ同様に暗黒能楽を使う。そして狛犬のように背中の扉を開放することで、ただの道具から妖怪を生み出せる。要は八雲紫に劣らぬ何でもありな反則的存在だ。翁の面をかぶったのはこころなりの洒落だろう。
「新しくって、聖様が別人にされるのは困りますよ」
「いや、こころさんが言いたいのは扉の能力のことじゃありませんか?」
ムラサが難色を示すと、響子が自分の考えを言う。それを受けて一輪は、
「つまり、背中の扉の応用で感情も開放させられないか、ってことね。案外有りなんじゃないかしら。神様ならそれぐらいできそうだし」
「いや、いくら何でもあの神様に頼むのはちょっと……自分の部下を好き勝手操る人だし。リスクが大きすぎるわ」
「じゃあ聖様がこのままでいいっていうの?」
「そんなこと言ってないでしょ。第一、一輪はどうやって後ろ戸の国に行くつもりなのよ?」
「それは……」
「ほら、道がないじゃない。思いつきだけじゃ駄目、よく考えないと」
「何さ、私だって自分の頭で考えてるんだから」
「ひとまずそこらへんにしておけ」
神子は言い争うムラサと一輪を嗜める。どうにも寺の空気がピリピリしてきた。時刻は亥の刻を過ぎ、夕暮れからずっと白蓮について額を突っつき合わせていたとなれば、疲れも溜まっているのだろう。
「あ、同じ賢者なら、八雲紫さんはとうです?」
と新たに提案したのは響子だ。
「あの人は色んな境界を操れるんでしょう? だったら聖様の感情の境界をいじってもらうのは」
「聖が信用ならないと言った人に任せるのは嫌よ」
今度は星が渋った。続いて一輪とムラサも難しい顔で同調する。
「私、あの人とまともに交渉できる自信ないなあ……」
「胡散臭くて近寄りがたいのは確かね。というかその人も結局どこにいるかわからない人じゃん」
「あのな、そう手段を選り好みしていられる状況じゃないだろう」
神子は不信感ばかりあらわにして議論が停滞しがちな命蓮寺の連中を諌めるも、内心ではかつて煮え湯を飲まされた八雲紫に頼るくらいなら自分で策を講じた方がマシだと思っている。賢者達も揃って嫌われたものだ。
「あの、貴方にも無理なのでしょうか」
膠着状態を見かねた星は神子に水を向ける。
「聖は以前、貴方なら人の記憶を操作できなくもないと言っていました。感情がどうにもならないなら、記憶の方に働きかけてみるのは」
「それは危険だ」
神子はきっぱり断じた。
「記憶の操作なんて言うほど簡単にはできないし、感情喪失の原因が不明のまま無闇に手を出したら、かえって混濁が生じるかもしれない」
「……そうですか」
「あいつ、そんなことを言ったのか。よく覚えていたな」
「聖はよく貴方のことを話してくれます。忘れてしまったのが不思議なくらい」
フォローのつもりなのか、星は曖昧な微笑を見せた。
「星」
そこへ、珍しく白蓮が自分から声を上げた。記憶に残っただけあって、発音は神子に『誰?』と聞いた時より幾分か自然だ。白蓮は緩慢な動きで顔を神子に向け、次いでまたゆっくりと星を見た。親なる者と馴れ馴れしく話す他人を不思議そうに見比べる子供、そんな動作だった。
「豊聡耳神子さん。聖の知り合いですよ」
「……み、こ」
星は優しく白蓮に教え聞かせる。言われるがままに白蓮は唇を動かし、神子の名前を口にした。
神子は眉をひそめる。白蓮は果たして星の言葉を人の名前だと認識しているのか。虚ろな顔は能面よりも能面で、あまりに不気味だった。
「お前、本当に聖白蓮だろうな? 別の誰かとすり替わってなどいないだろうな」
「残念ながら聖で間違いありませんよ」
と、ナズーリンが口を挟み、しもべの鼠が入った籠を掲げた。
「別人なら、私のしもべが勘づいて鳴きます。けれど無反応ってことは、正真正銘の聖なんですよ」
神子はまた白蓮を見つめた。白蓮は何度も神子に睨まれて、困っている……いや、怯えているようにも見える。ますます腹立たしさを覚えるも、初めに響子から『驚かないでくれ』と釘を刺された手前、いつもの調子で皮肉など浴びせられない。いや、神子の方が調子が狂って、普段通りのやり取りができないのだ。
「あれ?」
不意に響子が本堂をきょろきょろ見渡して、素っ頓狂な声を上げた。
「マミゾウさんがいませんよ!」
「えっ? さっきまでそこにいたじゃない」
「ちょっと、こんな時にあの人までいなくなっちゃったら……」
「マミゾウの独り歩きなんていつものことでしょ」
一輪とムラサが浮き立つと、ぬえが不機嫌そうに割って入った。
「あいつはあいつなりに何とかしようとしてんのよ。それに比べてあんた達は何? みっともなく喚いたり喧嘩したり。商売敵の前で、どうしようどうしよう、って狼狽えるだけでいいの?」
じろりと睨めば、一輪達は口をつぐむ。神子はこのひねくれた妖怪を見直す思いだった。ぬえが言い出さなかったなら、神子が発破をかけていたところだった。
「ぬえの言う通りね」
やがてムラサが苦笑する。立ち上がったムラサは、二度手を叩いて皆の視線を集めた。
「仕切り直し! とにかく聖様が元に戻るまで、お寺はお休み。どうしても避けられないお客様がいたら」
「私が代理として対応します。ナズーリン、手伝ってくれるわね?」
「さすがにこの状況で一抜けなんてできませんよ。響子、君も一緒にいいかい?」
「はい! こんな時に読経だのお掃除だのやってられないもの!」
「わ、私もしばらくお寺に残るぞ! 聖さんの感情に変化があったらすぐに知らせます!」
「それじゃ、私は一輪と雲山と一緒に、聖様の今日一日の行動を洗ってみる。よかったらぬえも……」
「私は外に行きたくない」
ぬえは不機嫌な表情をそのままにそっぽを向く。あまりの気まぐれっぷりに慌てる響子をよそに、ぬえは頬杖をついたままムラサにぶつくさ文句を言った。
「聖がさー、今日は簡単なお経教えてくれるって言ったんだよね。私はお経なんか興味ないけどさ、約束すっぽかされるのって気分悪いわ。埋め合わせしてくれるまで聖につきまとってやる」
「そう、聖様のそばにいたいのね」
「そんなんじゃないってば」
「はいはい、ぬえは素直じゃないよねー」
「うっさいムラサ!」
むきになるぬえに対して、ムラサは微笑ましげに笑っている。あっという間に立場が逆転したようだが、おそらくこれが命蓮寺の日常なのだろう。
とにかく修行僧達の方針が固まったところで、神子もいい加減、白蓮の相手は諦めてマミゾウのように単独で情報収集をしようかと思った。その時だった。
「神子様、手伝ってください!」
すかさず飛んできた一輪に捕まった。
「なんで私が」
「事情を聞いて駆けつけてくれたんでしょう? 貴方がいると心強いですよ。何度となく貴方と手合わせしてますし、布都からも鬱陶しいくらい自慢されてますから。ね、雲山」
「あのおしゃべりめ……」
「私からもお願いします。今は宗教の垣根なんて気にしていられません。一刻も早く、聖様に元に戻ってほしいんです」
ムラサにまで懇願されて、神子はため息をつく。突っぱねることもできたが、元より頼まれてもいないのに首を突っ込んだのは神子の意志だ。気丈に振る舞うムラサ達も心の中は不安に満ちているのは充分に察せられたし、こうなったら乗り掛かった船だ、と神子は腹を括る。
「足手まといになるなよ」
「ご冗談! 聖様を痛めつけた奴にきっちり報復してやるわ!」
腕まくりをしてみせる一輪に笑いかけて、神子は今一度、白蓮の前に座った。星に促され、白蓮は神子の方を見て口を開く。
「……みこ」
「……」
「神子」
「私ほど、一度会ったら忘れられない者もいないと思っていたんだがな」
「わー、自信過剰」
「こら一輪」
「さっさとお前の敵を思い出せ。こんな腑抜けた奴が私の敵だなんて、情けない」
神子はつとめて穏やかに、けれど強い意志を込めて白蓮に告げた。白蓮はやはり何もわかっていないようで、わずかに首をかしげるだけだ。
神子は諦めて背を向ける。変わり果てた商売敵への失望もさることながら、神子を忘れた白蓮に少なからぬ衝撃を受けている自分が腹立たしかった。
「早速、聖白蓮の足取りを確かめに行こう……と言いたいところだが、私は一度道場に戻る」
「えっ!」
「ふらっと立ち寄ったものだから、準備が不足している。別に逃げやしないよ」
慌てる一輪とムラサを無視して、神子は命蓮寺を後にした。ひとまず神霊廟に帰って、装備を整えて、ついでに心の整理もしておく。不測の事態には最善の状態で臨む、それが神子のやり方だった。
遠ざかる神子の背中を見送って、ムラサが不思議そうにつぶやく。
「そういえば、今日はいつもより軽装ね」
「ご自分の修行の最中だったんじゃないかしら」
「考えてみれば、あの人がわざわざ立ち寄ってくれるなんて驚きだわ。そこまで聖様のこと、心配してくれてるのかな」
「きっとそうよ。商売敵とはいえ、頼りになるのよ、あの人は」
一輪は胸を張ってムラサに告げた。
◇
神子が命蓮寺を発った後、このまま本堂にいては落ち着かないだろうと、ひとまず白蓮を私室まで移動させることになった。星が先頭に立ち、白蓮の後ろにナズーリン、響子、こころが付き添う。白蓮は星に手を引かれるままに大人しくついてきて、自分からずっと離れない星を見上げた。
「星」
「はい。寅丸星はここにいます」
「……星」
「はい。心配いりませんよ、聖が忘れてしまったことも、私はすべて覚えています。みんなで聖を支えます。だって聖は、昔、私達のことを……」
星は笑って話しかけるも、無反応の白蓮を見て途中で口籠る。
白蓮はかろうじて星達の名前は覚えていたものの、記憶はやはり朧げなようだ。思わずこころを見やれば、首を横に振る。
「まったく感情が読めません。心が動かないみたいです」
「やめましょうか。身に覚えのない話なんて退屈ですよね。……そうですね、私の恩人の話をします。私を助けてくれた、大切な人の」
白蓮が首を傾げた、ように見えた。
白蓮が記憶を失ってしまったのは、星にとっても大きな衝撃だった。何がきっかけなのか、元に戻る方法はあるのか。不安でたまらないものの、星は白蓮の前で決してそれを表に出さない。
「優しい人ですよ。温かくて、穏やかで、でも厳しい人です。特に自分に厳しいから、よくお節介で無茶をして、ええ、見ていてはらはらします。ですから私はその人を支えたくなるのでしょう」
一番不安を抱えているのは何もわからない白蓮本人だ。それに、白蓮が困った時は、かつて白蓮に助けられた自分達が助ける番だ。そう心に決めて、星は努めて明るく振る舞う。
「聖様! 星さん!」
その時、耐えかねたような声で響子が叫ぶ。響子は気を緩めれば泣きそうになるのを堪えて白蓮のそばへにじりよった。
「私、ムラサさんとかに比べたらお話は得意じゃないですけど、私も一緒にお話していいですか!」
「……ええ。貴方も一緒に」
「……」
「聖、響子ですよ。気軽に響子、って呼んであげてください」
「……響子」
「はい! 私が響子です!」
「私も、能楽のお話でよければ」
「ありがとう。聖、こころさんも」
「こころ」
「はい。なんか聖さんに呼び捨てにされるのって新鮮ですね」
少しずつ無理を隠しつつも盛り上がってゆく白蓮らの様子を、離れた場所から見守っていたナズーリンは一人つぶやく。
「こりゃあ、私は見守りだけでいいかな。不粋なおしゃべりはいらないね」
「じゃあ私もいらないよね」
「君は行っておいでよ」
「やなこった」
廊下の隅には格子に背中を預け、膝を抱えて座るぬえの姿がある。ナズーリンが声をかけるも、ぬえはそっぽを向く。かといって部屋を離れる様子もないので、ナズーリンはぬえの不器用さを思って肩をすくめた。
「命蓮寺も、私の恩人が名付けたお寺なのです」
「……」
「へえ、初耳です」
「ひじ……いえ、恩人さんの弟様らしいですよ。私は新参ですし、会ったことありませんけど」
「私もその人の話でしか知らないわ。だけどその人はいつも弟様を……命蓮様を、自分の誇りだと語っていたのです」
「……」
「聖?」
不意に、ほんの小さなゆらぎのようなものだが、白蓮の纏う空気が変化する。星が訝しんで白蓮の顔を覗き込むと、白蓮はわずかに息を呑み口元を引き攣らせた、気がした。
「みょう、れん」
途切れ途切れにあえかにつぶやいて――花の茎が折れるように、白蓮の体が崩れた。
「聖!」
「聖様!」
「わ、ど、どうしよう!」
星は前のめりに倒れた白蓮の体を抱きかかえ、必死に呼びかける。すぐさま外に控えていたナズーリンが駆け寄った。
「ナズーリン! 聖様が倒れちゃったよ!」
「落ち着きたまえ」
動転する響子をよそに、ナズーリンはすぐさま白蓮の顔を見て、次いで口元や胸元に手を当てた。
「大丈夫だ。気を失っただけだよ。脈も呼吸もちゃんとありますよ」
「よかった……」
ナズーリンの冷静な言葉に、星もまた力が抜ける。心なしか白蓮の顔色は先ほどより青白いものの、体は変わらず温かい。座布団を枕代わりに白蓮を横たえようとしたところで、ナズーリンは言った。
「お休みになってはいかがですか」
「え?」
「もう夜も遅いですし。少なくとも聖は寝かせてやった方がよいでしょう。ついでにご主人様達も横になったらどうです」
「だけど、聖を放って寝られないわ」
「私とぬえが起きています。一輪達もまだ神子さんを待って本堂に控えてますし」
「星さん、ナズーリンの言葉に甘えましょうよ」
「私もその方がいいと思います」
響子に続いて、こころもナズーリンの提案に同調する。こころの面が狐面に変わっていた。
「皆さんすごーく疲れているわ。見てるこっちも不安な気持ちになってきます。よくないと思います」
「……こころさん」
こころの表情は変わらないのに、声音から星達から伝染したのであろう不安と、彼女自身が抱く心配が伝わってくる。星は緩く微笑んで、
「こころさん、聖の布団を出してもらえますか? 押し入れに入っています」
「お安い御用!」
「響子、私達の布団もお願いできる?」
「はーい、お任せあれ!」
「ナズーリン。一輪達と、それから神子さんが戻ってきたら、神子さんにも伝えて」
せっせと二人が動き出す傍らで、星は声を低くしてナズーリンに告げる。
「弟様の名前に聖が反応したって。何かの手がかりになるかもしれないわ」
「いいえ、間違いなく手がかりです、うんしょっと」
押し入れから取り出した布団を引っ張りながらこころが言う。
「聖さんが気を失う直前、ほんの一瞬ですけど、聖さんの心に微かなゆらぎを感じました。残念ながら、気を失われてまた何も読めなくなっちゃいましたが」
「……そうか。わかった。一輪達には私からしかと伝えておきましょう」
「お願いね」
星は心なしか苦しげに目を閉じているように見える白蓮の顔を見て眉をひそめた。
◇
神子が神霊廟へ帰ると、さっそく布都達に囲まれた。布都と屠自古に加えて、珍しく普段は神霊廟に居つかない青娥も訪ねている。
「それは……ずいぶんと大事ではありませんか」
神子が簡潔に事のあらましを告げると、布都は表情を曇らせた。商売敵の窮地を喜ぶより心配するとは、布都も白蓮や一輪らの影響で警戒が和らいでいるのだろう。
「して、命蓮寺の連中は」
「今は落ち着いている。あそこは大所帯だ、あいつがいなくとも音頭を取れる奴がいるからな」
「そうですか……」
「私はまたすぐに出かける。布都、私の道具を持ってきてくれるか?」
「はい、ただいま!」
「……大所帯だというなら」
駆け足で奥へ向かう布都の背中を見つめて、屠自古が不満げな顔でつぶやく。
「あいつらだけでそのうち解決するんじゃないですか。何もわざわざ太子様が自ら手を貸さずとも……」
「まあ、確かにそれはそうなんだが」
屠自古と語らいながら脳裏をよぎるのは、白蓮の発する抑揚のない声だった。
『……だれ?』
思い出せばまた怒りが込み上げてきて、神子は幻想郷に復活してから今に至るまでの歳月を思い起こす。
神子の眠る神聖な霊廟の真上に、わざと寺を建てた恥知らずな妖怪坊主。初めは顔を見ればやはり恨みが募って嫌味を口に上らせたし、負けじと反論してくる白蓮が謳う夢のような理想は噴飯ものだと思ったものだ。神子が道具としか見なさなかった仏教を大真面目に信仰し、人間のみならず妖怪にまで広めようとする滑稽さ。
そのくせ大昔の人間に恐れられただけあって実力は折り紙付きで、一度手合わせすればすぐに只者ではないと察せられた。鍛えた強靭な肉体も強大な法力も、弛まぬ精進の賜物だった。白蓮の臆病とすら思える平和主義な性格を受け付けないと思いながら、誰に馬鹿にされても否定されても決して曲げない真っ直ぐな信念だけは神子も認めざるを得ない。――おそらく、神子と対峙した白蓮も同じだったと思う。
どれほど認め合っても二人の道は決して交わらない。それを承知の上で、いつしか神子は白蓮を自分にとって最も侮りがたい、なおかつ信頼に足る好敵手だと受け入れた。白蓮だって、顔を合わせれば穏やかな気性に似合わぬ毒舌を吐きながら、ある異変の際は神子を頼って力を貸してくれた。
それなのに、今の白蓮は神子との数年に渡るいがみ合いも、その結果得られた奇妙な信頼も、すべて忘れている。たったの数年でも神子にとって決して無意味でない、価値のある道のりだったのに、すべてが砂上の楼閣のように崩れてしまった。笏を握りしめる手に思わず力がこもる。
「二度と『誰?』なんて言わせるものか」
「はい?」
「いや。ここで連中に貸しを作っておくのも悪くないだろう」
「そうですか……私は納得がいきませんよ」
「私も同感ですわ」
苦りきった表情の屠自古に同調して、青娥まで割り込む。青娥はこれ見よがしにため息をついた。
「あのお坊さんときたら、私のみならず太子様まで邪悪なもののように扱って。生への執着を捨てる代わりに死に対しては異常に拘るんですもの、どうもお坊さんって気に入らないわ」
「青娥」
「あら、気を悪くしまして? 私は貴方達に会うずっと前から、長生きして生の快楽を愉しみ尽くすのが一番好きなんです」
思わず眉間にしわを寄せた神子に気づいたのか、青娥は無邪気に微笑む。
神子にとって青娥は敬意と嫌悪、両方を抱かせる人物だ。青娥の目論見が何であれ、曲がり成りにも神子に仙術の手解きをしたのは青娥であり、彼女に出会わなければ道教を信仰することもなかった。神子が覚えた仙術といい復活に伴う準備といい、青娥への恩は余りあるし、無邪気なほど自分の欲望に忠実に振る舞う姿にはある種の清々しさすら覚える。
しかし一方で、青娥に付き纏う邪悪な言動の数々は、白蓮ほど潔癖でなくとも鼻をつまみたくなるものだ。死体の傀儡化だの幼い死霊の飼い慣らしだのは序の口に過ぎない。邪仙と呼ばれるものの、青娥の表面に邪気はほとんど現れず、それがかえって内面の邪悪さを際立たせる。反面教師とすればこれほど相応しい鑑もあるまい、神子はどうにか自分に言い聞かせている。
そんな神子の心中はおかまいなしに、青娥はくすくす笑った。
「何もそんな顔をなさらずとも。不老不死を目指す点では、私達は皆同志でありませんか、道士だけに」
「つまらない洒落ですね。私はとっくに死んでます。第一、貴方はちっとも霊廟に居着かないというのに」
「自分の好きなように生きるのが良いのです。それとも私がいなくて寂しいのですか、屠自古さん?」
「いいえ、まったく。太子様の補佐なら私と布都で間に合っていますから。貴方こそいつもお一人で、不如意な生活に陥らないのですか」
「私の手伝いなら芳香に任せれば充分ですもの。死なない体は便利ですわ、貴方と同じ」
「私は動く死体じゃありません」
「太子様ー! お待たせしました!」
屠自古と青娥が皮肉めいたやりとりを交わす間に、神子の荷物をまとめた布都が戻ってくる。指示せずとも退魔の札までちゃんと持ってきた布都に微笑み、神子はマントを羽織り剣を佩く。
「ありがとう。屠自古達と留守番を頼む」
「はい。ああ、そうです、その……一つ言伝といいますか、一輪に会ったら、気を落とすなと……」
言いかけて、途中から気まずくなったのか、布都は誤魔化すように首を振る。
「いえ、何でもありません! 太子様のご武運を祈っております!」
「わかった。入道使いによろしく言っておく」
「結構ですって!」
「あらあら、布都さんまでお坊さんと仲良しに? あんなに仏教嫌いでしたのに?」
「仲良くなどない! たまーに遊ぶだけだ!」
「いいや、しょっちゅう遊びに行ってるじゃないか」
「屠自古、余計なことを言うな!」
「……はは、行ってくるよ」
むきになって捲し立てる布都をからかう二人。相変わらずの騒がしさに苦笑いをして、神子は神霊廟を飛び立った。
◇
星に抱えられ布団に横たえられる間、白蓮は目を閉じたまま微動だにしなかった。
響子は早々と眠りにつき、こころも横になっているが、星は起き上がって白蓮の顔をじっと見つめている。
皆の前では平静を装っていても、白蓮が帰ってきてからずっと心乱れて、生きた心地がしない。白蓮が意識を失ってしまってからは、いっそう不安が募っておちおち寝てなどいられなかった。
(弟様なのね?)
星は恐る恐る白蓮の頬に触れた。いつも通りの体温があるのに安堵しながら、目を閉じてしまえば人形みたく生気を感じられない白蓮の表情に心がざわつく。
(いつも穏やかな聖の心を掻き乱すような人って、弟様しかいないもの。聖がこうなってしまったのは、弟様がらみだからなのね?)
命蓮はとうの昔に亡くなった。以来、命蓮が白蓮の前に幻となって現れたとも、夢で再会したとも聞かない。死別の悲しみからは既に立ち直ったものの、白蓮にとって命蓮が特別な存在なのに変わりはない。
命蓮が何をしたのか。いや、命蓮の死を利用して何者かが白蓮を追い詰めたのか。白蓮が感情を失い記憶に綻びが生じたのは、長年修行を積み重ねてきた白蓮でも心が砕けてしまうほどの衝撃を受けたからなのか?
(お願いです、弟様、このまま聖を連れて行かないで……)
心の中で亡き命蓮に縋りながら、これでは亡くなってしまうみたいで不吉だ、と己を諌める。けれど、このまま白蓮の感情が戻らなかったら、どうなってしまうのだろう……壊れた心を外道に頼らず元に戻す方法なんてあるのか……。
触れる星の力が強すぎたのか、はたまた偶然か――白蓮はゆっくり瞼を開いた。
「聖!」
思わず星が叫ぶと、響子とこころも起きたようだ。白蓮は横になったまま、緩慢な動作で右手を伸ばした。
「大丈夫ですか、聖――」
背中に手を入れようと屈んだ星の目元を、白蓮の指先がなぞる。柔らかく温かい指先に、熱い雫が伝って白蓮の手を濡らしてゆく。瞬きすれば一気に数滴の雫が布団の上に落ちて、星は初めて自分が泣いていたことに気づいた。
白蓮は無言で星を見つめている。その目からは何の感情も読み取れなかったけれど、星は胸の奥が締め付けられて、いっそう涙をこぼした。
(馬鹿だわ、私ったら)
星は己を叱咤する。前例のない事態に見舞われたとはいえ、どうして白蓮が死ぬかもなどと考えたのだろう。変わり果ててしまっても、白蓮は生きているし、わずかながら言葉も交わせる。何より白蓮は星の涙を拭ってくれた。手つきはぎこちないが、いつも白蓮が困った妖怪に親身に向き合う時のように、優しく。
「ありがとう。どんなときも、聖は聖なんですね」
自分の手で涙を拭って、星は白蓮に微笑んだ。一部始終を見届けていたこころは不思議そうに首を傾げる。
「おかしいです。さっき倒れた時と違って、聖さんの感情はまったく動いていないんです」
「え? じゃあ、聖様はどうして星さんに反応したの?」
「無意識じゃない?」
響子の疑問に、憮然とした顔のぬえが答えた。星の声を聞いて部屋の外から様子を伺いに来たようだ。星と目が合うなり、ぬえは鼻を鳴らした。
「何さ、お通夜みたいになっちゃって。あんな超人が簡単に死ぬわけないじゃん。感情抜き取られたくらいで、聖の筋金入りのお人好しは治らないよ」
「ぬえ」
「わかったら、そのみっともない顔、なんとかしたら? 見苦しいったらありゃしない」
ぬえのぶっきらぼうな物言いからそこはかとない気遣いを感じて、星は涙の跡が残る頬を両手で叩いた。
「ありがとう、ぬえ」
星が礼を言うも、ぬえはむくれたまま背を向けて部屋を出て、廊下に座りっぱなしだったナズーリンの隣に腰掛ける。ナズーリンは口元を緩めてぬえに語りかけた。
「君はいい奴だな」
「うるさい、うるさい、私は誰の心配もしてないのよ。私を勝手に寺に引き入れた聖なんか、どうなっても知らないったら」
ぬえは子供みたいに首を横に振って、突っぱねた口調も次第に弱々しくなる。膝に顔をうずめたぬえの背中を、ナズーリンは無言でさすった。
星が落ち着きを取り戻したところで、白蓮は役目を終えたかのようにぱたりと腕を布団の上に落とし、再び眠りについた。今度は気絶するのではなく、安らかな寝顔だった。響子も再び布団に潜って眠る。星も白蓮の濡れた手を拭って、今度こそちゃんと寝ようと思った、その時だった。
「星さん」
白蓮に布団をかけ直した星に、こころが声をかける。振り向いた星は、眼前に迫る般若面に目を剥いた。
「うわあ!?」
「これでもアタシ、キレイ?」
「こころさん……」
お面の下から、いつものこころの無表情が顔を出した。大きくのけぞった星は、台詞とお面と表情のギャップにおかしさが込み上げてきて吹き出した。
「まだ口裂け女で遊んでたんですね」
「だってみんなちっとも驚いてくれないし、キレイだとも言ってもらえないんです。あ、でも星さんの驚きっぷりはよかったよ、嬉しー」
翁面で嬉々と言う様を星は微笑ましく思った。表情こそまだ固いが、徐々にこころは己の感情表現をものにしている。
「私、誰かの心を揺さぶる能楽が好きです。演じてて楽しいし、見てくれた人の反応を見るのも楽しい。もっと楽しませたいなってエネルギーをもらえるんです」
こころの語りを聞いて、星ははたと気づく。能楽への思い入れを語りながら、こころは自分なりに星を励まそうとしてくれているのだ。こころの面が女面へと変わる。
「今、命蓮寺の皆さんは心の中に不安があります。その中でも星さんが飛び抜けて不安でいっぱい。だいぶ治まったけど」
「……」
「私、あんまり眠くないし、寝ないで皆さんを見張ってます。だから星さんは寝てください。何かあったら薙刀振るって叩き起こしますから」
「……痛そうだから、できれば扇でお願いしたいわ」
こころなら本当にそれをやりかねなくて、苦笑いをこぼした。こころのお陰で、ようやく星も落ち着いた気がした。
◇
神子が命蓮寺に戻る頃には、夜もとっぷり更けて日付も変わっていた。そして本堂へ上がれば、一輪、雲山、ムラサ、ナズーリンの他に、いつのまにか消えていたマミゾウの姿もあった。
「おや、商売敵の大将が本腰で助太刀してくれるようになったのかい」
「首を突っ込んでしまったからな。一度手を出した以上、責任は持つ」
「ふぉっふぉっふぉ、相変わらず使命感の強い御仁じゃ」
眼鏡の奥で、丸い目を細めてマミゾウは笑った。
「それで? 居候先の危機の最中に、お前はどこをほっつき歩いていた」
「剣呑な物言いをするでない。儂ぁこう見えて人間にも妖怪にも顔が効く。子分どもの手も借りて聖の目撃情報を集めておったのよ。そうじゃな。まずは人里での演説の後、聖が次にどこへ行ったか聞いて回ったが、残念ながら人間達は何も知らないとのことじゃ」
マミゾウは大袈裟にため息をつく。少なくとも今回の騒動は人間の仕業ではないだろう、と神子は見当をつけていた。宗教家なんて生業をやっていれば人間からやっかみを買うこともしばしばあるが、名の知れた命蓮寺の住職に手を出そうなんて恐れ知らずはいないはずだ。
「じゃが、地道に聞き回るうちに耳寄りな話を聞いた。夕方、ちょうど聖が命蓮寺に戻ってくる頃じゃな。人里の人間から、聖が無縁塚の方角から飛んでくるのを見たと証言があった」
「無縁塚……」
無縁塚はその名の通り、弔う縁のない者達の墓が集まる場所だ。確かナズーリンの住処もそこにあったはずだが――神子が視線をやると、ナズーリンは肩をすくめた。
「私に心当たりなんてありませんよ。今日は一日、ご主人様の呼び出しで寺に籠りっきりでしたし、それ以前でも無縁塚で何かあれば私がすぐに気づく」
「人間の証言が間違いでなかったとしても、あいつが本当に無縁塚に行った証拠はあるのか?」
「わからん。儂もついさっき無縁塚に行ってきたが、怪しい奴は誰もおらんかったよ。じゃが、見覚えのある妖怪の気配が残っておった」
「ネズミではなく?」
「だから私じゃないと言っているでしょう」
「実は、お前さんが戻ってくるまでに一輪達とも話し合っていたんじゃがな。聖に危害を加えそうな……恨みを持つ妖怪には、心当たりがある」
マミゾウはじっと神子の目を覗き込んできた。いやにもったいぶった話し方だ。後ろで一輪達も神妙な顔でうなずき合う。
「いつだったか、聖が顔に傷を作って帰ってきたことがあった。何があったと問えば、山と里の道中で妖怪に礫を投げられたと」
マミゾウ曰く、そいつは白蓮の人間も妖怪もすべて平等に、という思想に反感を抱く輩だったようだ。
『偽善の尼め、口だけならなんとでも言える!』
血気盛んなその妖怪は、立て続けに罵声を浴びせた。内容は白蓮の思想や活動をひたすら糾弾するもので、『妖怪僧侶なら人間に阿らずもっと妖怪を救うべきだ』という主張だったらしい。中には聞くに堪えない暴言もあったそうだが、白蓮は黙って最後まで話に耳を傾けた。妖怪の罵詈雑言が尽きた頃、白蓮は妖怪の言い分を否定するでも肯定するでもなく、淡々と自分の考えを説明した。
『ご忠告、痛み入ります』
去り際には笑顔さえ浮かべたとのことだ。
「しかし、それがかえって妖怪の神経を逆撫でしたようでな」
そりゃあそうだ、と神子は思う。白蓮は好意で言ったのだろうか、受け取り方次第では嫌味だ。いかにもお人好しな白蓮らしい。神子は辟易する。
それからもその妖怪は、白蓮と寺の外で出くわすたびに白蓮を罵った。一度ならず何度も顔を合わせたというのだから、相当な嫌悪や恨みを抱いて待ち伏せしていたのだろう。白蓮も最初のうちは律儀に向き合ったものの、妖怪の文句が批判から単なる誹謗中傷に変わり、中傷が白蓮のみならず弟子達にまで及んだ辺りで相手にしなくなったそうだ。
ところが妖怪の執念は留まるところを知らない。ある日、妖怪は白昼堂々いきり立って命蓮寺に乗り込み、修行僧と参拝客を驚かせた。このままでは人間にまで被害が及ぶと判断した白蓮は、二度と寺の敷居を跨がせないと妖怪を一喝した。以後、妖怪が命蓮寺に現れることはなかったし、白蓮もかの妖怪に会ったとは言わなかった。だが白蓮の厳しい言葉が薬になったかどうかわからない、とマミゾウは踏んでいるらしい。
「お前達、今まで思い当たらなかったのか?」
「ああいうしつこいのって決して珍しくはないんで。……今思えば、少し認識が甘かった気がしますが」
「まったくだ」
一輪の言う通り、そもそも白蓮は対応を初手から間違えてやいないかと神子は考える。そういった手合いは無視するに限る。無論、今になって問い詰めても詮ないことではあるが。
「儂はその妖怪が臭いと踏んでおる。まあ、寺に来たあやつを見た限りでは、大した力もない凡庸な妖怪にしか見えなかったんじゃがな。怨念や憎悪のエネルギーは計り知れぬ」
「確固たる証拠はありせんけど、私達もその妖怪をマークしてもいいんじゃないかと考えています。きな臭いところから洗って行くべきでしょう」
ムラサもまたマミゾウに同調する。神子もまたようやく出てきた手がかりだ、今一度確かめても無駄足ではあるまいと考える。
「もう一つの手がかりがあるよ」
そこへナズーリンが手を挙げる。ナズーリンは一度ちらとマミゾウ達を見てから、神子の目を覗き込んだ。
「聖が倒れた」
「なっ……!?」
「そう焦らずに、今は眠っています。私が伝えたいのは聖が気絶したきっかけです」
「ちょっとナズーリン、その切り出し方は心臓に悪いよ」
さすがにムラサがたしなめにかかるも、神子は顔をしかめる。ナズーリンの飄々たる口ぶりからして、わざと話の順序を変えている。命蓮寺はマミゾウといいナズーリンといい、修行僧以外は食えない奴だらけだ。
「聖の側にいたご主人様からの伝言です。“命蓮”の名前を聞いた途端、聖が倒れたので、この事態の原因も命蓮に関わりがあるのではないかと」
「命蓮……そいつはもしかして」
「ええ。聖様の弟様です」
一輪の補足で神子も白蓮の話を思い出した。いつだったか、『自慢の弟ですよ。私より優秀な僧侶でしたから、もしかしたら貴方よりも強いかも』なんて冗談めかして語ったことがあった。その他に命蓮について神子が知るのは、自分にゆかりのある信貴山の高僧、白蓮が人の道を踏み外したきっかけ、といった程度で、白蓮からも特に思い出話を深く聞いた覚えはない。
(弟、ねえ……)
神子は思案に暮れる。寺の名前に入れるくらいだから思い入れはあるのだろうし、身内の死がもたらす心の痛みは想像に難くない。だが、今の白蓮は命蓮について明るく語るし、神子の目にもその死を深く引きずっているようには見えなかった。古傷を抉られたショックで、と考えるのもいまいち納得がいかないものの、ひとまず命蓮の名を心の内に留めておく。
「他にあいつが特別な反応を示す名前はなかったのか?」
「聖様が記憶を失ったと気づいてから、縁のある人をたくさん挙げてみましたけど、反応はありませんでしたよ。霊夢さんみたいな人間も……」
「神奈子さんみたいな神様とか、小傘みたいな妖怪とか、あと疫病神貧乏神コンビも」
「船長、最後の二人もちゃんと呼んでやりなよ。名前を呼んじゃいけない人でもあるまいし」
「だって呼んだら厄がつきそうなんだもん……」
「厄ならもうとっくについてるよ。この状況そのものが災厄としか言いようがない」
「とにかく。聖白蓮に付き纏う妖怪と“命蓮”が鍵と見做していいんだな」
ナズーリンとムラサをよそに、神子は咳払いをする。
「私も無縁塚へ行く。他に見落としがなかったとも限らないしな」
「これ、儂が生半可な仕事をするとでも思うのかい?」
「妖怪寺の化け狸を信用できるものか」
「やれやれ、疑り深くてかなわん」
マミゾウは大袈裟に肩をすくめる。
とにかく、今は手がかりを頼りに探すしかない。神子はふと眠りについた白蓮を気にかけたが、わざわざ顔を見る必要もあるまいと立ち上がった。一輪と雲山、ムラサも続く。
「それじゃあ私達も行きます。聖様には星達が側にいますし」
「ああ、そういう手筈だったものな。そうだ、布都がお前を気にしていたよ。気を落とすなと励ましていた」
「え?」
ついでに布都が恥ずかしがった伝言を告げてやれば、一輪は雲山と共に目を丸くする。「何さあいつー、いっちょ前に人の心配なんかしちゃって」とぶつくさ言いつつ、頬は緩んでいた。
「平気です。雲居一輪は雲山共々タフな妖怪ですから」
「二人には劣りますけど、私も力自慢なら少々」
張り切って腕をまくる一輪と胸を張る雲山、やや遠慮気味ながらも実力の誇示を忘れないムラサ。奇妙な組み合わせの探索が吉と出るか否か。神子が外へ出れば、すぐに三人も後を追ってきた。
◇
真夜中を過ぎて、妖怪はより活発化してゆく。もしかしたら件の妖怪も活動しているかもしれない。一輪達を伴って空を行く中、神子は件の妖怪についてより詳しく話を聞いた。
「ええと、見た目は人間とあまり変わらないような……男、だったかな」
と、一輪がおおよその体格や背丈を雲山を使って示す。
「正直、マミゾウさんが言うように、強そうな妖怪じゃありませんでしたよ。ただ、お寺に乗り込んで来た時はえらく興奮していたので、並の人間には充分に危険な存在でしょうね」
続いてムラサが補足し、一輪もうなずく。要は幻想郷にはありふれた特筆するべき特徴のない妖怪なのだろう。
「だけど人も妖怪も見かけによらないって言うしね。雲山だって普段は大人しいし。もしかしたらよっぽど手強い妖怪だったのかしら」
「私は弟様絡みの方が気になるわ。幻想郷で弟様について詳しく知ってる人、あんまりいないんじゃない?」
「そうね、お寺の由来を聞かれて答えるくらいだし……」
考え込む二人と同様に神子も頭を働かせる。得られた手がかりの二つを合わせて、神子はある仮説を立てた。
「そうだな。私が思うに」
神子は一度静止して、懐から笏を取り出す。そのまま一輪に向かって笏を振り上げた。すぐさま雲山が前に出て、一輪も金輪を手に身構える。
「いきなり何ですか!」
「このように真正面からお前だけを狙えば、すかさず入道が割って入る」
「た、例えにしちゃタチが悪いですよ……」
神子がすぐに笏を引っ込めれば、一輪と雲山につられて錨を召喚したムラサが頬をひきつらせて言う。神子はかまわず続けた。
「けれどお前と入道、二人の隙を同時に突けば? 奇襲でも不意打ちでもいい」
「……まあ、私も雲山も無敵じゃありませんからね」
一輪は苦い顔をしつつ、雲山と共にうなずいた。昔、命蓮寺の妖怪達が鬼に昏倒させられたのはただの噂ではないようだ。
「あいつだって例外じゃない。作ろうと思えば隙を作れる」
「それが弟様だと?」
「少なくともお前達の方が私よりそっちに確信を得ているんじゃないか」
ムラサもまた複雑な表情で押し黙る。
神子は再び思案に暮れる。白蓮に恨みを抱く妖怪が、命蓮を引き合いに出して、白蓮の心に打撃を与えた。陳腐な理屈だが、筋道は通らなくもない。
(……何故?)
再び白蓮の虚ろな目が浮かぶ。あの状態でふらふら幻想郷中を飛び回っていたとは考えづらい。白蓮が感情を失ってから命蓮寺に戻るまでの空白はそう長くないはずだ。
(何故、お前ほどの僧侶が空蝉に成り果てた。何故記憶すら手放した。何がお前をそうさせた)
白蓮にも隙は生まれる。自分で提案しておきながら、実際に彼女が打ちのめされる様は想像しにくい。
白蓮に向かって命蓮を愚弄した? ――憤りはするだろう。しかし、そのショックで感情を失うとは考え難い。白蓮も相当な修行を積んでいる、滅多なことでは感情を荒げないはずだ。
単なる罵詈雑言ではない、もっと強烈に、醜悪に、陰惨に、彼女の傷跡を掻きむしるもの。白蓮と命蓮、二人の魂を同時に踏み躙るもの。
『私の手伝いなら芳香に任せれば充分ですもの』
不意に青娥の無邪気な笑みが浮かんだ。平気な顔で死体を操る青娥を、以前、白蓮は強く侮蔑を込めて非難したことがあった。彼女は命を貶める行為、死者を冒涜する行為を忌み嫌う。
――極めて気分の悪い想像が、神子の脳裏をよぎった。邪仙とて手段は選ぶし、青娥の実力は有象無象の妖怪風情とは比較にもならない。弱みにつけ込むのに、肉親などの近しい者をだしにするのは下策も下策だ。真正面から白蓮を破る手段がないと白状しているようなものだ。件の妖怪はその程度の知略しか持ち合わせていなかったのだろう。
それでも弱者は知恵次第で強者を穿つ矛を持つ。強者もまた僅かな綻びを一点に突かれれば堅固な盾を打ち砕かれる。
「神子様?」
突然空の真ん中で立ち止まった神子を、一輪がいぶかしむ。
「お前達、“猿の手”は知っているな?」
「へ? そりゃあ、山の仙人様が使うオカルトですから」
「なら話は早い」
神子は至極淡々と、私情を交えぬように心がけて一輪達に話した。さしもの神子も、彼女達を刺激せずに最悪の想定を語る術を持たない。
三つまでなら何でも願いを叶えるミイラの猿の手。手に入れた夫婦の息子が「二◯◯ポンドが欲しい」と冗談混じりに願ったら、息子は仕事場の機械に巻き込まれて死亡し、補償金として夫婦に二◯◯ポンドが渡された。――猿の手は分不相応な願いを歪な形で叶えるのだ。
どうしても死んだ息子を諦められない夫人の懇願に折れて、夫は猿の手に「息子を生き返らせろ」と二番目の願いをした。そうして真夜中、家の戸を叩く音がした。
「夫は最後に何を願った? 夫人は最後になぜ悲鳴を上げた?」
神子が低く念を押すように告げれば、一輪らの表情が凍りついた。
夫人は息子が帰ってきたと狂喜したが、機械に揉まれた息子の死体は無惨だった。二番目の願いがどんな形で叶えられるか、一度目の願いで理解をした夫が願うのは。神子が言いたいことをいち早く飲み込んだ一輪がすかさず食ってかかる。
「ま、待ってください。弟様の亡骸なんてどこにもありません。とうの昔に外の世界で埋葬されて、お骨すら聖様の手元に残っていないんです」
「けれど命蓮の法力が宿る宝物はまだお前達の元にある」
一輪の目が信じられないものを見るように見開かれる。
死体がなければ芳香のようなキョンシーは作れないが、手間はかかるものの、命蓮の遺品に細工を丁寧に施せば、別の何かをあたかも命蓮のように仕立て上げる方法もある。邪仙の術と、ついでに茨華仙のオカルトが思わぬ形で神子にヒントを与えた。そして賢しくも一輪達は、神子の端的な話から白蓮を打ちのめす最低かつ最悪の事態を導き出す頭脳を持っていた。白蓮は決して夫人のように反魂を願いはしないとわかりきった上で。
「……弟様が」
絶句したムラサの後を引き継いで、一輪が真っ青な顔でつぶやいた。
「弟様が、不完全な形で、聖様の前に蘇った」
そのまま口元を覆って黙りこくる一輪を、雲山が心配そうに覗き込む。肩の震えが全身に広がり、四肢の末端まで怒りがほとばしり、
「ふざけんな!!」
一輪の怒声が響いた。
「許せない、どうして弟様の魂を冒涜するの。どうして聖様の一番大切なものをゴミ屑みたいに踏み躙るの。憎ければ何でもできるっていうの?」
大声でわめいたと思えば、一輪は大粒の涙をこぼし、乱暴に袖口でぬぐった。寄り添う雲山もまた、怒りで拳をいつも以上に固く握り締めている。
「あの、私、お寺に戻ろうかと思います」
口を閉ざしたままだったムラサが出し抜けに言った。怒りをあらわにする一輪とは正反対に、こちらは不気味なくらい静かな声だった。しかし顔を見れば、神子でも背筋が寒くなるような憎悪を激らせていた。白い顔に夜光虫のごとく青白く光る目を見て、神子は怨念に呑まれた時の屠自古を思い出した。
「話を聞いただけで、目の前が真っ赤になって、頭がおかしくなるのに……そいつに会ったら私は何をするかわかりません。もう誰も殺めないっていう聖様との約束を破るかもしれません」
「あくまで私の憶測に過ぎない。真相は実際に確かめてみなければわからない」
「真相次第じゃ今みたく冷静でいられないって言ってるんですよ」
「待って。一緒にいてよ、ムラサ」
赤い目を擦って、一輪は濡れた袖でムラサの袖を引いた。まだ一輪はしゃっくりが止まっていない。
「ここで神子様に任せっきりにして帰るんじゃ私達、聖様の弟子として情けないじゃない」
「だけど」
「行こう。聖様を元に戻さないと。それに、もし弟様が本当に蘇ってしまったのなら……私達の手で、供養して差し上げないと」
ムラサが目を丸くする。堪えずに感情を発露させたせいなのか、一輪は先ほどより少しは落ち着いたように見える。これもまた感情制御の一つの形だろうか。
ムラサは無言でうなずいた。命蓮の遺品を回収するのは自分達しかいない。かつて宝船で飛び回った時のように、一輪達は覚悟を決めたようだ。
「ごめんなさい、私、僧侶なのに、こんな取り乱して」
「気にするな。心が何も感じないなんて、私はそんな冷たいものを悟りだとは認めたくない」
謝る一輪を神子は軽くいなす。
宗教の目的が心の平安なら、何事にも動じず感情を乱されずにいるのは良い状態のはずだった。しかし空蝉のように虚ろな白蓮を思い出すと、あれが彼女が望んで得た悟りの境地とは思えない。白蓮が興味を示したこいしとも異なる。
ならば悟りとは何をもって体現するのか――生憎、とうに仏教への関心を捨てた神子に答えるつもりはなかった。
◇
白蓮が眠る命蓮寺の私室では、両脇に星と響子が横たわり、室内には目を爛々と光らせたこころが、外にはナズーリンにぬえにマミゾウが控える体制で白蓮の見張りを続けている。
さすがに私も疲れてきたかなあ、などとこころが考え始めたその時、何の前触れもなく白蓮がまぶたを開いた。
「えっ、ええっ?」
驚いて歩み寄れば、間違いなく白蓮の意識は覚醒している。感情を読み取れるか試みるも、残念ながら戻ってきてはいないようだ。
「しょ、星さん、起きて起きて。響子さんも」
傍らの星と響子を揺り起こすと、星は一瞬で飛び起きた。外の三人も様子を伺っているようだ。響子がまぶたを擦る中、星は白蓮の顔を覗き込み、ゆっくり体を起こすのを手伝った。
「どうしました、聖。心置きなく休んでいてくれていいんですよ」
「……」
「聖?」
寝起きのせいか、白蓮は倒れる前よりもぼーっとして見える。それでも白蓮が自ら立ち上がろうとするのを見て、星は響子と共に両脇を支えた。
唇がかすかに動く。星が耳を近づけると、白蓮は小さくつぶやいた。
「神子」
「え?」
「……みんな、どこ」
星はしばし唖然とした。焦点の定まらない目はどこを見ているのかわからない。声は平坦で何の感情も滲まない。しかし白蓮は心許なげに神子の名前を呼んだ。仲間の姿を探した。やがて、白蓮は緩慢に首を動かして星の方を向いた。
「……聖、神子さん達を探しているの?」
驚きを抱きながら、星は己の涙を拭った白蓮の指先を思い出した。無意識に星を慰めようと動いたんじゃないか、とぬえは言った。もしも、また白蓮が無意識に動こうとしているのなら。
「星……」
白蓮はあえかな声で星を呼ぶ。白蓮に助けを求められた気がして、星は『聖がしたいことをさせてあげよう』と覚悟を決めて手を取った。
「大丈夫ですよ、聖。私は今度こそ何があっても聖のそばを離れません。もう、あんなお別れは懲り懲りですから……一緒にみんなのところへ行きましょう」
「えっ?」
「きっとみんなが心配なのよ。聖はそういう性格だから」
目を白黒させる響子に微笑みかけた。
「大丈夫。感情があってもなくても聖は聖だって、私、信じてるから。聖は私が守るわ。響子、代わりに留守番を任せてもいい?」
「えっ、えっと、よくわからないけどわかりました……」
「出かけるなら私も行くぞ!」
「ええ、こころさんも来てください」
まだ事態を飲み込めていない響子をよそに、星は白蓮の手をしっかり握って外へ踏み出す。格子の外側に座り込んでいたナズーリンと目が合うなり、
「神子さん達はどちらへ?」
「無縁塚だそうですよ。この方が隠し事をしていなければ」
「つまらん嘘をついてどうする。儂が嗅ぎつけた気配は本物じゃよ」
「わかった。ナズーリン、響子と一緒にお寺をお願いね」
「代役の代役ですか。荷が重いですねえ」
「何を言ってるの、貴方が本物の毘沙門天の弟子のくせに」
皮肉屋な部下に笑いをこぼして、星はこころと共に白蓮を支えつつ空を飛んだ。
◇
神子達が無縁塚にたどり着く頃には丑三つ時に差し掛かっていた。名前すら刻まれていない苔むした墓標の林は明かりもなく、三途の河が近いせいか、深夜はいっそう不気味さを増す。砂利道にはところどころ亀裂とも地割れともつかない避け目があって、異郷の幻想郷において更なる異郷への入り口をいくつも抱えているかのようだ。
「ナズーリンの小屋の近くには何もありませんでしたね」
一輪が暗闇の中、辺りを注意深く伺いながら言う。
神子も同じく崩れた墓標の上を歩きながら不審な気配を探る。マミゾウは本当に何も見つけなかったのだろうか――不意に鼓膜を打ち破るような激しい欲望の雄叫びが聴こえて、咄嗟に耳当てを押さえた。
「神子さん?」
「大丈夫だ。少し耳鳴りがしただけだよ」
神子は頭に手を当てて、ムラサの気遣いを断る。
いる。件の妖怪が、無縁塚のどこかに身を潜めている。
「ねえ、ムラサ……」
「うん。前にお寺に来た時は、こんなじゃなかった」
一輪が金輪を、雲山が拳を、ムラサが錨を構える。暗がりに紛れているのか、目当ての妖怪は目視できないものの、これだけ禍々しい気配を放てば一輪らも気づく。
耳鳴りが頭痛に変わるのを覚えつつ、神子はおおよその位置を割り出そうと耳をすませた。
「――なんだ、あの尼じゃねえのかよ」
石碑が崩れる音がした。瞬時に四人は散り散りに距離を取る。
そいつは砂利の隙間から這いずり出てきた。形は人間に近く、乱れた黒髪の合間に血走った眼が見える。神子は一瞥して不審に思う。地下に潜ったせいなのか、あるいはこいつの抱える怨嗟が強すぎたのか。妖怪の持つ憎悪のエネルギーは、ほとんど怨霊と変わりないではないか。
無縁塚は三途の河に近く、すなわち死者の世界に近い。怨霊の管轄区域である地底とは別だが、結界の綻びが生じやすいこの場所から繋がらないとも限らない。
妖怪は神子達を順番に観察して、鼻を鳴らした。
「ふん、今更あの尼の腰巾着がぞろぞろと」
「私はあいつの弟子じゃない、商売敵だ」
神子は笏をかざす。手強い妖怪には見えないが、本当に怨霊と化しているなら厄介だ。
警戒を強める一輪らに対して、妖怪はさして興味もないのか、四人に取り囲まれても平然としている。そういえば、妖怪が白蓮以外に憎悪をぶつけたとは聞いていなかった、と神子は今更ながら思い出す。暗がりの中、妖怪の胸元で何かが光った。怨霊が宝物みたいに抱えているのは、真珠のように光る白くて小さな宝珠だった。一輪があっと声を上げる。
「あんた、それはまさか!」
「ああ? いいだろう、心臓の代わりに奪ってやったのよ」
妖怪はにやりと笑って、これ見よがしにひけらかす。神子ははっと耳をすませた。
一輪達が元から持つものに加えて、妖怪の抱える強烈な負の欲望の声がする。それらをいっぺんに受け止めるのはさすがの神子も気分が良くなかったが、その中にかすかに紛れた小さな声を聴き逃すわけにはいかなかった。
神子がどんなに向かい合っても聴き取れなかった白蓮の声が、妖怪の抱える白い宝珠から聴こえてくる。人の感情の形など考えたこともなかったが、もしも具現化して取り出すなら、白蓮の感情はあのような形をしているのだろうか。
おかしいとは思っていた。いかに白蓮にとって命蓮が不可侵であっても、その痛みは自ら心を閉ざしてしまうほどのものなのか。心が壊れてしまうほどのものなのか。
「お前が聖白蓮の感情を奪ったわけか」
「骨を折った甲斐があった。こいつのおかげでな!」
妖怪が意気揚々と地面に手をつく。古ぼけた墓標の隙間から、一体の化け物が這いずり出た。それを目にした途端、一輪らは顔色を失った。
(抑えろ、抑えろ)
神子は声に出さずに言い聞かせる。一輪らの反応に気をよくした妖怪は、聞かれもしない自慢話をべらべら喋り出した。
「ありゃあ傑作だった。あの尼、顔面が絶望の一色に塗りつぶされて、震え声で『今すぐ土に還せ』と叫ぶのさ。そいつを使って尼の胸を貫かせたら、あっさり崩れ落ちた。本当なら命を奪ってやりたかったが、どうにも手ごたえがなくてな。代わりに引き摺り出したのがこれだ。あいつの死に顔を拝めなかったのは残念だが、ようやく欲しいものを手に入れた」
下品な笑い声が響く。
神子達の目の前に現れたそれは、到底生き物には見えなかった。いくつもの妖怪やら獣やらの肉をかき集め、粘土みたく捏ねて人の形を作り、核には命蓮の飛宝を埋め込み、“反魂”にしてはひどく陳腐かつ冒涜的な命蓮のなり損ないだ。
『姉上……姉上……どうして、私の命の意味を……おとしめて……』
肉と骨が同時に引きずられ擦れるような音で、命蓮のなり損ないはかろうじて声を上げる。一歩動くごとに異臭を放ち、墓標を血に染める。動かしているのはあの妖怪の力だ。『急急如律令』の札が見える。
(青娥だってここまで悪趣味じゃない)
神子は命蓮を知らない。しかし核になった飛宝が放つ法力は白蓮のそれとよく似ていて、命蓮を知る者にほんのわずかでも命蓮を想起させるには充分だろう。神子でも反吐が出るぐらいには醜悪な唾棄すべき存在なのに、まして神子以上に命蓮を、命蓮を思う白蓮を知る一輪らの怒りは察するに余りある。
「戻せ。雲山の拳がお前の頭を吹っ飛ばす前に」
一輪のドスの効いた脅しを初めて聞いた。雲山は雲の体でなければ自らの体を突き破るのではないかと思うほど拳を握りしめ、一輪の命令に従う。無数の錨で妖怪を取り囲んだムラサは、妖怪が白蓮の感情を抱えていなければすぐにでも血の池の藻屑にしていただろう。
(抑えろ、抑えろ)
一輪達に、というよりは、自分に言い聞かせるために神子は強いてそれを繰り返した。
あんななり損ないでも核には命蓮の飛宝がある。あれを攻撃できないなら術者を叩くのが早いが、白蓮の感情を人質に取られ、自らの感情も制御不可能に陥った一輪や雲山やムラサに可能だろうか。
「戻せったら戻せ! そんなに地獄に堕とされたいか!! 仏が赦しても私がお前を赦すものか!!」
一輪が殴りかからんばかりの勢いで金輪を振り下ろす。雲山の体が憤怒で赤く染まる。ムラサは無言で立て続けに召喚した錨をぶつける。外れた錨が放つ水飛沫から、妖怪に劣らぬ激しい呪詛を感じた。
妖怪は一輪達の激昂を前に、ニタニタ笑う。一輪達が激情をあらわにすればするほど嬉しくてたまらないといった、歪で醜い笑みだった。
「嫌なこった。もっと醜く感情をむき出しにしろ。もっと意地汚くて目も当てられない心を曝け出せ。あの尼を苦しめろ」
「お前は……!!」
一輪が妖怪に飛びかかるより早く、神子はいたわしい操り人形の目の前に手のひらを突き出した。神子が短く呪文を唱えると、命蓮のなり損ないは途端に静止し、肉塊が塵芥になって崩れ始めた。
「なっ……」
「こんなお為ごかしの術、解くのは簡単だよ。私の古い知り合いが得意とする術によく似ている」
抑えろ、抑えろ。妖怪と一輪と雲山とムラサ、それぞれが驚きを面に浮かべる中――神子は笑い出しそうなのを噛み堪えていた。妖怪が現れた時からずっと、神子には妖怪の肥大化した欲望が聴こえている。
――あいつは何故俺の話を聞かない? 妖怪贔屓なら妖怪の味方をするんじゃないのか? 俺は妖怪だぞ? 人間なんか放っておけよ。何故俺をそんな冷たい目で見る。誰彼構わずいい顔して回っているくせに。何故みんなにするように優しくしてくれない。何故俺の思い通りにならない!
支配欲に妄執に憎悪に自己顕示欲に自己愛に。この妖怪は馬鹿でかいだけの幼稚で陳腐でくだらない欲望しか抱えていないのだ。
耳鳴りがする欲望の中で、神子は確かに白蓮の感情から、白蓮の声を聴いた。
――私が何とかしなくちゃ。向き合わなくちゃ。だけど……。
――こいつだけは、受け入れられない。こいつだけは絶対に赦せない。
(ああ、お前でもそう思うだろうよ)
神子にも妖怪に対する憤りはある。怒りもある。けれど神子はこの場の誰より平然としていた。奪われてしまった白蓮の感情――それは単体で聖白蓮という一人の僧侶を形作る。すなわち白蓮そのものだ。
――こいつだけは赦せない。
――お前の思い通りになどなるものか。
白蓮は感情だけになっても妖怪を強く拒絶していた。絶対に屈しはしないと強靭な意志を示していた。白蓮には珍しい、嫌悪感という負の感情が盾になって、妖怪にむざむざ呑まれるのを良しとしないのだ。それだけがわかれば、恐れるものなど何もない。
肉塊が崩れてゆくうちに、命蓮と錯覚させるためだけに持ち出された飛宝が次第に形を保ったまま見えてくる。
「いきなり眠りを妨げて悪かったな」
塵芥の中で、飛宝は清らかな法の光を放っていた。ここに命蓮の魂はないとはいえ、身勝手に穢土へ引き摺り出されたことに変わりはない。後は寺の者達が丁重に供養をするだろう。
頼みの綱をあっさり断ち切られ、唖然と立ち尽くす妖怪と対峙して、神子は鼻で笑った。
「哀れだなあ。お前は執着の化け物だ」
神子の嘲笑に神経を逆撫でされたのか、妖怪は髪を逆立て饒舌に食ってかかる。
「あいつは施しをくれなかった。尼のくせに。妖怪救済を掲げるくせに! 話を聞くふりだけして、俺の願いを何も聞き届けちゃくれねえ。あの尼は俺に何も与えてくれなかった」
「自分が望めば欲しいものを他人が好きなだけ与えてくれると思うなよ」
神子は笏をしまい、代わりに剣の鞘に手をかけた。抜き放った剣の切っ先を、妖怪の顔の前に突きつける。怖気付いた妖怪はうずくまって宝珠を隠すべく腕で覆った。
「大人しく聖白蓮から奪ったものを返せ」
「嫌だ。これは俺のもんだ。誰にでもいい顔をするあの尼が憎い。ようやくあの尼から奪えたんだ。誰にも渡すもんか」
「哀れだなあ。袖にされて拗ねているのか」
妖怪が固まった。気づいていないのか、と神子は滑稽さに肩が震えた。白蓮に向ける憎悪にしてはあまりに常軌を逸した妄執。その中に見えたひとかけらの欲望は、神子の気のせいではなかったようだ。
「向けられるのが負の感情でも構わないから罵声を浴びせて気を引きたい。そのくせ相手から望む反応が得られなければ、逆上して相手を傷つける。里の子供だってもう少し利口だろうに」
「黙れ!」
「おまけに悪知恵だけは働くんだから始末に追えない。よくもまあ、お前みたいなのが反魂紛いの術だの聖白蓮の弟だのを知り得たものだ」
「黙れ、黙れと言っているだろう!」
「挙げ句の果てが、このぶくぶく肥え太った欲望か? 私もずいぶんな数の人妖に会ってきたが、お前の欲望は見るに堪えないな。いや、聴くに堪えない、と言うべきか?」
「うるさい、うるさい、うるさい!!」
案の定、激昂した妖怪が神子に襲いかかる。妖怪が神子に届くより先に、錨を巻きつけた鎖が飛んできて、妖怪の体を拘束した。次いで雲山の拳が錨を叩き、杭のように地面に突き刺さった。ムラサ達だ。命蓮のなり損ないが消えて、自分達もただ見てはいられないと立ち上がったのだろう。
ムラサ達に動きを縛られて、妖怪は懸命にもがくが、ムラサはより鎖を強く引っ張り、一輪は金輪を通じて雲山の法力を強化する。簡単には破れぬ戒めだ。
剣を振り上げた神子は一瞬だけ、白蓮はこんな救いようのない、改心の見込みもない有様でも救いの手を差し伸べるだろうかと考えて――即座にその考えを捨てた。
「やっと手に入れたんだ、奪われてたまるか、俺のもんだ、俺の……」
一切の躊躇もなく、神子は剣を妖怪へ振り下ろした。妖怪の凄まじい悲鳴が響き渡った。脳天を中心に、体が真っ二つに割れる。
飛び散った返り血を浴びてなお、神子は力を失いゆく妖怪を平然と見下ろす。のたうち回る妖怪が悪あがきに神子を睨んだ。
「何が悪い、俺が悪いのか、欲望の何が悪い! お前だって欲望の権化のくせに!」
喚き散らして唾の飛ぶ口元に札を投げた。浄化のまじないを込めた札の力で、ひとかけらの肉塊も残さず妖怪は消えた。後に残ったのは、数多の欲望に晒されてなお輝きを保つ小さな真っ白な宝珠だけだった。
「そうだとも。誰しも欲望を抱えて生きている。十でも百八でも足りない、私から見ればこの世は欲望まみれだ。今更動じるものか」
神子は宝珠をすくい上げた。白蓮の感情は妖怪が消滅して少し落ち着いたようだ。神子の手がじかに触れても、宝珠は白く光を放つ。神子は宝珠の内側を覗き込んだ。内側は濁りなき清水が絶え間なく揺蕩い続けているが、目を凝らせば、底の方にわずかながら暗い澱みが沈積している。しかと見届けて、神子は目を細めた。
血の滴る剣の切っ先を目にして、剣を振るうなどいつぶりだろう、と神子はぼんやり考える。鉄の生臭い臭いが鼻を突く。
「ああ、これじゃ怪人赤マントを名乗るにしても中途半端だな」
赤く染まったマントの裾を見下ろして、神子は笑った。
「これを」
懐紙で剣を拭う神子に、雲山の命令を解いた一輪が手拭いを差し出した。もう片方の手には、塵芥をすべて払われた命蓮の飛宝がある。
「いいよ、自前がある。お前まで汚れてしまうだろう。血の穢れは避けておけ」
「いつの時代の話をしているんです。女がこれしきの血で狼狽えますか」
「いや、私はあんまり沢山だと駄目だからね? 一緒くたにしないでよ」
同じく妖怪の消滅を確認したムラサが遠慮がちに口を挟む。
落着とは行かずとも、ひとまず事は済んだ。心配そうに神子を見つめてくるムラサに、神子は「これはお前達が持っていろ」と白蓮の感情を渡した。勢いよく受け取って、ムラサは真っ白な宝珠を隅から隅まで見回した。
「ありがとうございました」
一輪が真っ先に頭を下げる。雲山も同時にこうべを垂れた。
「私達では弟様を貶める術を解けなかったでしょう」
「妖怪を消してしまったがよかったのか?」
「誰も貴方を責められませんよ。……聖様だって、あの妖怪を退治していたと思います」
素直に感謝を口にしながら、一輪の表情は固い。雲山も口を一文字に引き結んだままだ。
可能なら自らの手で白蓮の仇を取りたかった。しかし白蓮は己がために弟子が不殺生戒を破るのを喜ばない。そんなジレンマで揺れているのだろう。
「ああ、やっぱり……」
その時、後ろでムラサが短く叫んだ。いつの間にかムラサは膝をついて宝珠を胸に抱きしめ、泣きそうな顔をしている。
「聖様……私達が、こんなことになる前に気づけてたら……」
「どうした」
神子が寄ると、ムラサは無言でもう一度宝珠を差し出した。何か異常でも、と覗き込んで、今度は神子が心の中で叫ぶ番だった。
(あっ!)
宝珠の輝きは鈍ることなく、澱みは清水を侵食しない。しかし光の内側をよく覗けば、亀裂が入ったような真新しい傷跡が走っている。感情が体外に出てつけられたものではない。白蓮の心の傷そのものだった。――何故見落としたのだろう。
神子が黙って宝珠を返せば、ムラサは顔を臥せったまま、また手のひらで庇うように包み込む。一輪と雲山も同じくムラサの手元を覗いて、眉をひそめた。
白蓮の精神は強靭だった。簡単には折れない、動じない、千年以上の時を生きた僧侶の逞しさを神子に見せつけてきた。神子もまた白蓮の強さを知っているつもりだった。商売敵には強くあって欲しい――押しつける理想もまた欲望の一つだとすれば、神子の目を曇らせたのも欲望のなせる技だろうか。少なくとも、ムラサ達は白蓮の負った心の傷を見落としたりはしないのだ。
「皆さん!」
そこへ、上空から三つの影が神子達の元へ降りてくる。声からすぐに星だとわかったが、星に手を引かれてやってきた白蓮を見た時はさすがに神子も仰天した。
「なっ……」
「えっ、嘘、聖様!? 星も!」
「私もいるぞ!」
「こころさんまで……ちょっと、なんで聖様を連れ出してるのよ!」
「聖がみんなのところへ行くって意志を示してくれたんです。道中は二人がかりだったから無事よ」
降り立った星は、白蓮の安否を気遣いつつも事もなげに言う。辺りの様子を一瞥して何が起きたのかを察しながら、特に口を挟むそぶりも見せない。
白蓮は相変わらず何の感情も読めない顔をしている。星は白蓮の意志だと言ったが、今の白蓮が自ら考えて行動できるようには見えなかった。
「……お前、よく動けたな」
「神子」
白蓮は淡々と神子の名前を呼ぶ。虚ろな目は変わらず、あの妖怪を倒したところで元に戻るわけではないようだ。
白蓮の右手が星の手を離れ、神子へと伸ばされる。指先が未だ返り血がついたままの神子の頬へ向かっているのだと気づいた瞬間、神子はぎょっとして、
「いい! 自分で拭く」
さっと身を翻した。後ろめたさなど微塵もなかったが、白蓮が拒絶した妖怪の血に触れさせられないと思った。白蓮は神子の反応をどう受け止めているのか、ぼんやりと行き場の失った右手を見つめるばかりだ。星は苦笑を浮かべ白蓮を見守っている。あれだけ不安まみれだった星が嘘のように落ち着き払っているのを目にして、神子は首をかしげる。
「……お前の感情は無事に取り戻せたよ」
「あっ、そうです! ほら、聖様、これ!」
ムラサは大事に抱えていた宝珠を白蓮に見せた。白蓮は受け取りもせず立ち尽くしている。
「こころ。聖白蓮の感情に異常はないか?」
「えーっとですね」
念のためこころの意見を伺うと、こころは宝珠をじっくり観察して、やがてのけぞった。
「すごい! 聖さんから抜け落ちた感情、ぜんぶ揃ってる! こいつはびっくりだあね」
「本当だな? お前みたく、一つ足りずに暴走するなんてことはないな?」
「余計なこと蒸し返すな! ……こほん。ええ、一つも欠けてません。感情が珠の形になって体の外に出ているのは前代未聞ですが」
「あの、傷ついたのもそのままってこと?」
「はい。傷ついて苦しんだり悲しんだりするのも感情の一つです」
「……そうだよね」
ならば、とムラサは白蓮の手に宝珠を握らせた。しかし何も起こらない。どうやって感情が外に出たのかも不明なら、戻る手段も不明なのだった。
「……戻らないよ?」
「元々聖様のものなんだから、飲み込ませたらどうなの。雲山、聖様の体を支えて……」
「やめて、喉に詰まらせたらどうするの」
「ちょっと待て」
焦り始めた弟子達を制して、神子は宝珠と白蓮を交互に見やる。
内丹の術を学んだ際に得た知識の応用でどうにかできるかもしれない。人体の生成過程において、道は精神を生じ、精神は気を生じ、気は肉体を形作る。感情が精神の産物ならば、散逸した白蓮の感情――宝珠を肉体に埋め込むことで、元の正常な状況に戻るはずである。だが、下手を打てば白蓮の感情に更なる傷を加えてしまうかもしれない。
(落ち着け、これも昔、青娥に……)
「そんな複雑なことしなくたって大丈夫ですよ」
内心冷や汗をかく神子のそばに、こころがそっと立った。
「表現はまだまだでも、感情を操ることにかけて私の右に出る者はいないわ。私が聖さんを元に戻してみせましょう」
こころが堂々たる口ぶりで切り出す。狐面を被った顔は無表情なのにどこか精巧に見えて、自信に満ちている。ムラサ達がこころの姿に唖然とする中、白蓮の前に立ってこころは叫んだ。
「失われし感情よ、あるべき住処へ還れ!」
奉納神楽のように、扇を手に舞い始めた。一足、こころが踏み込んだその時、宝珠の光が強くなった。扇をゆっくり胸元へ示せば、導かれるように宝珠は白蓮の手からひとりでに浮遊し、胸の中央へ向かう。また一足踏み込めば、一際眩い光を放出して、宝珠は体内に吸い込まれた。宝珠が完全に白蓮の中に収まった時、白い光もたちまち消え失せた。
「聖っ!」
「聖様!」
途端に倒れかかった白蓮をすかさず星と雲山が抱き止める。一輪とムラサもすぐに駆け寄るが、こころは動かない。神子もまた動かず、気を失った白蓮の顔に視線を注ぎ続けた。
やがて、閉じられた白蓮のまぶたが微かに動いた。かそけき呻き声を上げ、ゆっくりと目を開く。その目は芒洋ながら光を宿し、もはや先ほどまでのように何も捉えていない虚ろな眼とはまったく別物だった。
「……星?」
「聖!」
「一輪、雲山、ムラサ。みんな……どうして……」
「聖様!」
「ね、ねえ、雲山! 夢じゃないよね? よく見てよ、聖様のお顔を!」
一同は一斉に沸き立つ。白蓮は弟子達の名前を一人一人に呼びかけた。紛れもなく感情を持って呼びかけた声だった。
星は泣き崩れ、一輪は雲山と抱き合って笑い、ムラサは白蓮の胸に飛び込む。
「やりました、太子様! 聖さんの感情、ぜんぶ、ぜんぶちゃんと戻ってます!」
「ああ。見ればわかる」
喜びに翁面で踊り出すこころに対して、神子は穏やかに笑った。
永い夜が明けたような心地だった。少し離れた場所から白蓮の凛と張りのある、澄んだ声を聞くだけで、神子の心のもやも晴れてゆく。
「僧侶の眠りには王子のキスより面霊気の舞か」
「したかったんですか?」
「映えある助演(ワキ)は本業のお前に譲ろう」
「お面かぶれないじゃないですか。照れるわー、お芝居でもそういうのは心構えが要ります」
「お前にも照れが存在するのか……さっきの前口上は何だったんだ?」
「こういうのがあった方が様になると思いまして」
「大した役者魂だね」
「神子様、こころさん」
一輪が二人に声をかける。神子は弟子達に取り囲まれた白蓮を見た。見たところ体も異常はなく、未だ星は白蓮から離れないが、もう誰かの支えがなくとも自分の意思で自由に動けそうだ。
「ひとまずお寺に帰りましょう。聖様もまだ混乱しているみたいだし、お二人にも休んでもらわなくちゃ」
「はーい」
「……ああ」
神子と目が合った白蓮が何か言いたげに口を開いたが、弟子達に促されてうやむやに終わる。神子も白蓮と話すのは命蓮寺の面々に引き合わせてからでいいと思っていたので、何も言わなかった。
◇
ムラサ達が白蓮を連れて命蓮寺に戻ったのは夜明け前だったが、留守番の響子達は寝ずに帰りを待ち構えていた。無事に感情を取り戻した白蓮を目の当たりにして、たちまち寺中が歓喜に包まれたのは言うまでもない。
予想はついたが、白蓮は感情を失っていた間の出来事をほとんど覚えていないようだった。一部抜け落ちた記憶に困惑しつつも、命蓮寺の面々が代わる代わる白蓮に声をかければ、白蓮は全員の名前をしっかり呼んだ。感情については、こころ曰く、
「うーん、まだ乱れてる。だけど聖さんなら心配いらないでしょう。私がこれ以上何かしなくても、自然に落ち着きそうです」
とのことで、とにかく白蓮の療養が優先、しばらく大事を取って様子を見る運びとなった。神子は寺に着くなり「私の用は済んだ、帰る」と言い出したのだが、
「まだちゃんとお礼をしてないんですから、残ってください!」
「そうですよ、結局私達は神子さんにお世話になっちゃって、情けないやらありがたいやら」
などと一輪とムラサが引き留めて、しばらく命蓮寺に滞在することになった。しかし敵対勢力の本拠地のせいか、神子は落ち着かないようで、あんなに気にかけていた白蓮とも響子達が優先だといって話そうとしなかった。
「これで全員分足りるかしら。雲山、白菜追加ね。響子ー、椎茸とえのき持ってきて」
「了解でーす!」
さてムラサは、厨で慌ただしく動き回る一輪と雲山、響子の元へやってきた。それぞれ割烹着に身を包み手際よく働いている。ムラサは土管のような大鍋をかき回す一輪に目を止めた。
「何してるの?」
「見ればわかるでしょ、炊き出しよ。大人数だしお鍋がいいかなって」
「……肉はないのね。ぬえやナズーリンがケチつけるよ」
「お寺なんだからいいでしょ。第一あの夜の後で肉なんか食べる気になれないってば。ていうかムラサは何しに来たの? 聖様は?」
「ぬえがべったりで離れないのよ。それをマミゾウさんとナズーリンがからかって、楽しそうだから私は遠慮してきたわ」
「じゃあこっち手伝って。お箸数えといてよ」
「りょーかい」
ムラサもまた入り口に引っ掛けられた割烹着を着て厨へ入る。
「そうそう、星が宝物庫を確かめてくれたよ。やっぱり、盗みに入られた形跡があるって」
「マジかー。いつのまにやられたのかしら。防犯体制も見直さないとね」
「厄介なお客さんの対応もね。私達って、つい聖様なら何とかしてくれるって思っちゃうところあるものねえ……。あの飛宝は?」
「星に預けておいたわ。供養は、聖様がもう少し落ち着いてからね。……どうかな雲山。え? いつもより濃い? 今日はお客様のおもてなしだからいいの」
「一輪さーん。こないだ魔理沙さんからもらったキノコ、入れます?」
「いやいやどう見ても鍋の具材じゃないでしょ。魔法の研究にとか言ってたし」
「でも聖様の魔法にキノコって使いませんよね?」
「だからって食用にもしないから。棚に戻しといて」
響子は口を尖らせて怪しげな色のキノコを持って帰る。こうやって話していると日常が戻ってきたようで、つい数時間前まで白蓮の安否に皆が気を揉んでいたとは思えない。
「動いてないと落ち着かないんだよね」
不意に一輪が鍋をかき混ぜながら言った。
「いっぺんにたくさん話しかけても聖様の負担になるでしょ。かといって神子様も、こう……聖様を気にしてうちにいてくれるけど、明らかに落ち着かないって感じだし。話しづらいわ」
「……一緒に引き留めておいて何だけどさ」
ムラサも箸の数を数えながら話を続ける。
「あの人は、私達にとって商売敵だよね?」
「今更何言ってるの。当たり前じゃない」
「だけど聖様はあの人を信頼しているみたいだし、一輪もあの人の部下と仲良くしてる」
「別に仲良くはないってば。ちょっと遊ぶだけ」
「週に二回も三回も会ってて仲良くないってどういうことよ」
ムラサは肩をすくめる。一輪なりの虚勢は放っておくとして。ムラサは決闘の見物は何度か経験があるものの、一輪達と違って神子との共闘は今回が初めてだった。
神子がマミゾウすら蹴散らす、ただならぬ実力の持ち主だとは知っている。それでも実際に戦いぶりを目の当たりにすると、自分達は一時はあれとの全面対決も視野に入れていたのかとそら恐ろしくなった。
「私は、神子さんが少し怖い」
ムラサは小さくこぼした。ムラサ達が激しい怒りに飲まれて自分自身の制御も一苦労だという時に、神子は不敵な笑みすら浮かべていた。妖怪の妄執を一蹴し、何の躊躇もなく斬り捨てた。ムラサは書物でしか知らない丁未の乱とは斯くなるものかと神子の背中に為政者の姿を見た。
鍋の番を雲山と代わって一輪は振り返る。
「それはアドバンテージって奴だよ。いっぺんに十人の話を聴く能力と、それを活かす頭脳があるから、神子様は自信満々なの。まあ、私達の聖様だって負けてないけどね!」
「……私はあの人の考えてることがわからないよ」
「そんなの私だってわからない。だけど、今回聖様を助けてくれたのは事実。それにね、何度か手合わせしてみるとわかることもあるよ」
一輪はムラサの目をじっと見つめた。
「あの人だって、元は人間。聖様と同じ」
「……それだと私と一輪だってそうじゃん」
「だからそんなに怯える必要はないよ。怒らせたらおっかなそうなのは同意するけど」
「一輪は怖いもの知らずね」
「そうでもないわ、そうねえ、今はマミゾウさんが回復祝いと称して持ち込んだ秘蔵酒が怖い」
「あの人何持ってきてんの!? いや、この流れで呑むのはさすがにありえないって!」
「冗談。……あ、雲山、火をゆるめてくれたの? うん、じゃあ一旦この土鍋に移して」
歯を見せて笑う一輪に、ムラサは呆れて肩を落とす。
一輪が呑気なきらいはあるものの、ムラサよりも一輪の方がきっと神子をよく見ている。一輪の言葉にすべて納得したわけではなかったが、
(私が知らないだけで、神子さんも人並みに悩んだり困ったりするのかしら?)
そう考えると、ムラサもまた、白蓮を助けてくれた神子を信用してもいいだろうと思った。
とはいえ恩はあれど商売敵は敵。神子のような快刀乱麻の鮮やかさは真似できずとも、ムラサ達には白蓮と千年前からの付き合いというアドバンテージがある。今度こそ自分が聖様の支えになるんだ、と改めて決意を固めた。
◇
夜が明けて、日が昇って、また日が落ちて。結局、神子は一日中命蓮寺に滞在する羽目になってしまった。
白蓮の負った心の傷は、命蓮寺の弟子達に囲まれて緩やかに回復の兆しを見せている。手を貸したといっても、命蓮寺にとって神子は部外者である。屠自古の言う通り、身内で解決するのならそれに越したことはない。
日を改めて出直してもよかったのだが、神子の方が白蓮を放って帰れなくて、居心地の悪いままこころを相手に適当に過ごしていた。
「太子様は命蓮寺の皆さんが苦手ですか?」
「そんなんじゃない。ただ、ここは私の居場所ではない。そう思っただけだ」
命蓮寺は大所帯なぶん賑やかで、弟子やら居候やら関係者やら、皆が一途に白蓮を慕っているわけではないものの、まとまりはある。生暖かくも一本筋が通って、それでいて緩い空気の輪に、神子は入れない。入ろうとも思わない。
「皆さん、なんだかんだで聖さん並みにお人よしですよね。聖さんが好きじゃなくても、気まぐれで首を突っ込んでくれる」
「お前はどうなんだ?」
「一時的とはいえ、お世話になった身ですから。マミゾウさんにはお寺以外でもよくしてもらってますし」
そういえば、あの狸は未だにこころと縁があるのだった、と思い出す。神子はマミゾウを胡散臭く感じているが、こころは純粋に感情のレクチャーをしてくれる頼もしい親分だと慕っているようだ。
神子はこころの顔を見る。表情の固さに反して内面の感情はどんどん豊かになってゆくから大袈裟な表現が滑稽に見えるが、暴走に苦しんでいた頃に比べたら、こころはずいぶん自立している。他人の感情も論理的なアプローチながら理解できるようになってきた。元の面の製作者として喜ぶべきことだろう。
「あの妖怪、聖さんが好きだったんですかね」
「……さあ。そうだったとしても、逆恨みや憎悪が強すぎて話にならなかっただろうよ」
不意にこころが真顔で尋ねるので、神子はつれなく返す。こころは無縁塚に残った怨念の残滓から、あの妖怪の執着を読み取ったらしい。
恋情は時に凄まじい妄執へ変わる。しかし件の妖怪の場合、一方的な負の感情を向け続けるうちに仄かな思慕を抱いた、と解釈した方がしっくりくる。あるかなきかの思慕が白蓮をじわじわ苦しめたのなら、欲望とは実に厄介なものだ。
「執心物ですね」
と、こころは痩せ男の面をかぶる。
「能楽の演目か」
「通小町みたいなものです。深草少将は小野小町に執心するあまり彼女の受戒を妨げようとしたり、彼女が『百夜通えるなら』と苦し紛れに言えば鵜呑みにして通い詰めたりします」
「ほとんどストーカーだな」
「一輪さんにも同じことを言われました。やっぱり古典能楽を当てるのは難しいんですかね」
こころは面を手に唸り出す。こころとしては新しい演目ばかりでなく古典の上演もやりたいようだが、元より能楽に馴染みの薄い幻想郷で観客の受けを狙うには創意工夫が必要だろう。
ふと、こころは女面をかぶって神子を振り返る。
「私にはまだ、誰かに対して強くこだわる気持ちってよくわからないし、上手く演じられる自信もないんですけど……救いようのない人達も、能楽の中では救われることもあります」
「お得意の能楽であいつを励まそうとでもいうのか?」
「お面は人ならざる者の証です。シテに向き合うのはお面をつけないワキ。ですから聖さんに手を差し伸べるのは、面霊気の私より、人の心を持つ人の方がいいと思うんです」
こころは珍しく神子を真正面から見た。無表情の瞳に、わずかながらこころの意志が見えた気がした。
「それなら入道使いと舟幽霊が適任だ。私である必要はない」
「……太子様、珍しく卑屈じゃありません?」
「適材適所の話をしているんだ」
「助けてくれる人は何人いてもいいんですよ。私だって、希望のお面を失くしたことで、図らずも自我を獲得しました。マミゾウさんはお面だけでなく自分の感情を充実させろとアドバイスをくれました。喜び、悔しさ、哀しみ、怒り。あの時、私と闘った人達みんなが、私に感情を教えてくれた」
「……」
「いちいちお礼を言ってまわるつもりはありません。私の好きな能楽で、私の感情を表現するのが答えです。……それを、初めに私を作ってくれた貴方に伝えたかった」
立ち上がったこころは、口元を緩めてうっすら笑ったかのように見えた。
呆然とする神子をおいて、こころはマミゾウの元へ帰ってゆく。暴走して情緒不安定だったのも今は昔、心なしか足取りが頼もしく見えた。
「……そうは言っても、私もあいつもとっくに人間をやめたはずなんだけどな」
神子は一人苦笑を漏らす。神子は人間を超越した聖人だし、白蓮は人間をやめた魔法使いだ。けれどこころは、神子が白蓮の傷を見落としたのを未だに悔やんでいるのを見抜いて、それとなく励まそうとしたのかもしれない。
神子が何気なく空を仰ぐと、夜の帷が降りて空に星が昇り始めた頃だった。あの夜から、一日が過ぎようとしている。
ふと、何者かの気配を身近に感じた。またサトリの妹か、と視線を戻した神子は唖然とした。
「えっ……!」
見知らぬ僧侶が、神子の目の前に立っている。いつどこから入ってきたのか、命蓮寺ではまず見ない男の僧侶である。古風な袈裟姿のやや年老いた男ながら、目元のあたりが白蓮に似通っている気がして(もしや)と神子は息を呑む。
「……」
警戒する神子に向かって、僧侶はふっと微笑み、深々と頭を下げた。
――私のためにとんだご迷惑を……そう詫びるかのようだった。
「ここにいたんですね」
ぎょっとして振り返る。背後から聴き慣れた、けれど今となっては少し懐かしい、凛と澄んだ女の声が聞こえてきた。白蓮が微笑を浮かべ神子を見下ろしている。
視線を庭に戻せば、僧侶の姿はもうどこにもない。白蓮には見えなかったのだろうか、不思議そうに神子の様子だけを窺う。
「神子?」
「いや……何でもない。もう平気なのか」
「ええ。みんなのおかげで」
どこか気まずい気持ちを隠したまま、神子は答えた。白蓮の声は明朗で、言葉は明確で、顔には生気が宿り、瞳は真っ直ぐな光を湛えて神子を見つめている。白蓮の持つ欲望の声もちゃんと聴こえる。白蓮はそのまま廊下に腰掛けて空を眺める神子の隣に座った。
神子は今の僧侶の話を白蓮に告げるべきか迷って、やめた。面差しが似ている気はしたが命蓮だという確証はないし、ようやく元の調子を取り戻し始めた白蓮の心を再び乱す真似はしたくない。
「弟子達を放っておいていいのか?」
「もう充分に話しました。こころさんにだってたくさんお世話になったお礼を言いましたし、貴方だけなんですよ、ちゃんと話せてないのは」
白蓮は不満げに神子の顔を覗き込む。かと思えば、眉を下げて申し訳なさそうな表情をする。
「長く引き留めてごめんなさいね。弟子達が無理を言わなかったかしら」
「構わない。私もお前に言いたいことがあった。……あれから、何か異常は」
「今のところ何も。戻ってきたばかりの頃は私も混乱していたけど、私の身に何が起きたのかはみんなから聞きました」
白蓮は視線を庭の彼方へ向ける。神子は戻ってきた白蓮の欲望の声には素知らぬ顔をした。今は能力に頼って会話をする気になれなかった。
「昔の話よ」
白蓮は穏やかに言い放った。神子は命蓮の件だと悟り、僅かに身を固くする。それに気づいてか否か、白蓮は神子の顔を見て、目を細めて語る。
「生者必滅……とっくに心の整理はついているの。死人の思い出だけで千年も生きられるわけないじゃない。職業柄、どうしたって死について考えることは多いけど、今生きて私を慕ってくれる人達を差し置いてまで、亡き弟を優先したいとは思わない」
「……」
「本当よ。あんなに懐かしかったのに、私、もう弟の顔をはっきり思い出せないの」
白蓮は寂しげに言い切った。そんな馬鹿な、とは返せなかった。神子も己の肉親……父や母、兄弟の記憶を思い起こしてみたが、人より聡明な神子ですら、彼らの面影は鮮明に思い出せなくなっている。あの時代の肖像画なんて残っていないし、あるのは後世に作られた偽物だけだ。
神子は僧侶の幻を思い出すが、やはり赤の他人の神子が白蓮に『お前と似た顔をしているよ』と返すのは躊躇われた。
歳月は逆流しない。どんなに大切な思い出も色褪せて過去のものになってゆく。その事実を感傷に浸るばかりで終わらせるほど、白蓮も神子も幼くはなかった。
なのに、と白蓮は小さくつぶやいて、下を向いた。
「それでも足をすくわれるのね」
白蓮の声がトーンを落としたのを聴いて、神子は何も言わずに白蓮の続きを待った。
「あの妖怪が作り出したものを見た瞬間、頭の中が真っ白になって……それから後のことはほとんど何も覚えていないの。ただ、遠くの方からぼんやりとみんなが私を呼ぶ声が聞こえた。星が泣いているような気がしたし……貴方から血の臭いがした気がした」
返り血なんてとっくに拭ったし、マントも洗ったのに、頬に伸びた白い指先を思い出して神子ははっと振り返る。
「私は不殺を掲げていない。平気な顔で人の尊厳を踏み躙る奴を受け入れてやるような和なんて持ち合わせていない。それにあの妖怪はほとんど怨霊と化して、払う他はなかった」
白蓮は咎める言い方をしていないのに、つい硬い口調になる理由は、神子にもわからない。
「貴方を責めてるんじゃないの。昨日遭遇したのは偶然だけど、私だってあの妖怪を退治するつもりだったのよ。なのに、弟子達ばかりか貴方にもひどく迷惑をかけてしまったと……」
「思い上がるなよ。あれをほっとけば他の人間や妖怪にも被害が出る。私にとっても有害だ」
俯く白蓮を神子はわざと突き放した。一輪らに協力を仰がれたものの、防波堤の響子を押し切って命蓮寺に来たのは神子であり、手を出すと決めたのも神子だ。自分のために動いたのであって、白蓮のためではない――そういうことにしておきたかった。
白蓮は冷たい物言いに怯まず、ただ困ったように笑うだけだった。
「退治するつもりだったのか」
「ええ。これ以上はもう看過できないと思って」
「……あいつがお前に向けた執着は」
白蓮はさっと顔色を変え、咄嗟に自分の体を撫でさする。やはり白蓮も勘づいていた。
「薄々気づいてはいたけど、ああいう悪質なのは初めてなもので……。正直、戸惑っていました。最初に石を投げた時と、お寺に乗り込んできた時以外は、本当に何もしないのよ。私に暴言を浴びせるだけで、人間や他の妖怪は襲わない。これじゃ退治するわけにもいかないし、かといって話を聞こうとしても、攻撃的で汚い言葉を並べ立てるばかりで肝心の内容は空っぽ。何が言いたいのか読み取ろうにも苦労するのよ」
「便利な言葉があるだろう、仏の顔も三度まで。前から手に負えない奴は寺に来ても断っていたじゃないか」
「私の欲望がそうさせたのよ。それでも弟子達を巻き込めないって、私の力で解決したいって、傲慢な欲望が」
「誰に対しても話せばわかるなんて通用しない」
「それでも話してみなければわからないのよ。私は貴方ほど賢くないから」
「そうだな、お前は稀代の愚か者だ、まさか聖徳王ほどの偉人を忘れ去るとはな」
「……怒ってる?」
「気に食わない奴だとは思っていたけど、あれならまだ口論できる方がましだったよ。二度と忘れるな」
神子は真っ向から白蓮を睨んだ。あらかたの事情を把握した上で、神子に不満があるとするなら、結局それしかない。
白蓮は神子の視線を黙って受け止める。しばらくして、眉を下げた。
「たとえ忘れたって、また記憶に焼き付くわ。貴方ほど尊大で目立ちたがりな人はいないから」
それが一度忘れてしまった白蓮の精一杯の答えだと、神子も諦めがついた。こういう時に、白蓮は嘘がつけない。
「しかし、お前はどうして古い付き合いの弟子達は覚えていたのかな。感情と記憶の結びつきか?」
「……ぬえに言われたように、無意識、なんでしょうか。感情を失くしても、私は無意識のうちにみんなのところに帰らなきゃって思ったのかもしれない」
「だからあの状態で寺に戻って来れたと」
「たぶんそう。星に頼んでお寺を出たのも、貴方達が怪我していないか心配だったのかも」
「余計なお世話だ」
血に濡れた神子に手を伸ばした理由はそれか、と神子はこそばゆく思う。感情を喪失しても、記憶に穴が開いても、白蓮は誰かのために動こうとするのだから根っからのお人好しだ。
「私はみんなが言うほどお人好しじゃないのよ」
――そんな神子の思考を見透かしたかのように、白蓮は緩く首を振った。
「私がどうして感情を失って空蝉みたくなったのか……言いようのない衝撃を受けて、もうこれ以上誰かに執着されるのは嫌だ。あの時の私はそう思ったんじゃないかしら。妄執から逃げ出したかったのよ」
白蓮は自嘲して、また口をつぐんだ。神子も言葉を失って、感情のない虚ろな白蓮の目を思い出した。あくまで白蓮の憶測ではあるが、あの状態が他者からの執着を拒絶したものだとしたら。ろくにものも答えられず、記憶も不確かで、ただぼんやりそこにいる理由も合点が行く気がした。命蓮を含む千年前からの付き合いの仲間を覚えていたのは、白蓮が自分自身の執着は手放せなかったからだろう。
自分を責めるかの如く暗い顔をする白蓮に、神子は耐えきれずに口を挟んだ。
「そりゃあ、あんな外道な仕打ちをされれば逃げたくもなるだろう」
「すべて身から出た錆よ。……馬鹿みたいね。神子、貴方ならわかるんじゃないの。誰かを救いたいなんて、とんでもなく傲慢で横暴な望みだって。私は中途半端に抱え込んで、持て余して、結局みんなや貴方に助けてもらってる。浄土の弟まで巻き込んで……」
「負の感情や欲望だって、お前の一部じゃないか」
白蓮の肩が震えた。仏の教えに従順で、過ぎた欲望は身を滅ぼすと白蓮は自戒する。確かにあの妖怪は常軌を逸した欲望のために破滅へ向かった。しかし誰しも大なり小なり、負の感情や負の欲望を抱えている。長年仏の教えを学び、実践してきた白蓮が、それを受け止められないはずがない。
思うに聖白蓮という名が彼女の聖性を示すなら、白蓮は聖域を二つ持つ。一つは俗世に背く出家女性の聖域。もう一つは、人の道に背いたきっかけである最愛の弟。未だ本調子に戻れないのは、二つの聖域を踏み躙られ、此度の白蓮の受けた傷が深かった証左だ。
「無意識のうちにお前はあいつに嫌悪感を抱いた。あいつの妄執を拒絶した。それこそがお前の感情を守ったんだ」
白蓮は目を見開き神子を見上げた。
宗教とは、宗教家とは何のためにあるのか。心の安寧のためではなかったのか。執着を断ち煩悩を捨てるための出家なのに、白蓮はどこまでも苦悩の淵から逃げられない。人の上に立つ者として、理想を追い求める者として、自分に妥協を許せない難儀な性格のために。
けれど己の心の安寧すら得られない宗教家が、誰を導けるというのだろう。
誰かを救いたいなんて、きっと白蓮の言うように傲慢で横暴で身勝手な願いかもしれない。
だとしたら、同じく人を超越した神子もまた傲慢だ。互いに聖人を名乗りながら、差し伸べるその手は神にも釈迦にもなり得ず隙間から何かを取りこぼす。こころの指摘した通り、人の心を完全には捨てきれない。
普段の白蓮は同業者であり、神子の商売敵だ。助けてくれなんて白蓮は一言も言っていない。――しかし、宗教家が宗教家に手を差し伸べても、道理に外れてはいないだろう。
神子は白蓮の顔をじっと見つめた。感極まった弟子達に囲まれるうちに、白蓮ももらい泣きをしたのか、目元は赤い。せっかく感情を取り戻したのに思い詰めて薄暗い瞳を射抜いて、神子は淡々と語りかけた。
「お前が取りこぼしたぶんは、私が拾う。私が取りこぼしたぶんは、そうだな、霊夢とか山の神とか、とにかく他の奴らが拾ってくれるだろう。何より私達が拒絶するものも、この世界はきっと受け入れてくれる」
「……うん」
白蓮は口元を緩めた。神子の目を見て、照れたようにはにかんだ。
神子もようやく安堵したところで、白蓮の目から不意に大粒の涙がこぼれた。
「嫌ね。さっき、みんなの前でもさんざん泣いたのに……。失くした感情が一気に戻ってきたせいかしら?」
すぐさま白蓮は顔を伏せて拭うも、涙は後から後から溢れて白蓮の膝を濡らす。
「違うのよ。本当に、私は過去を引きずってなんて……こんなんじゃ、説得力がないでしょうけど……」
白蓮は心の中にいろんな思いが溢れかえって、自分でもどうして泣いているかわからないのだろう。
もどかしくなって、神子は白蓮の目の前に立った。強引に腕を引っ張って、縁側から立たせる。そのまま勢いに任せて、白蓮の体が神子の体に寄りかかった。
「信じるよ」
耳元でそっとささやいた。どんなに心の欲望が聴こえても、神子はすべてを見透かせるわけではない。
だから、せめて今は何の力も使わないで“普通の人間”のように、白蓮が心に浮かぶさまざまな思いの中からあえて口に出すと選んだ言葉を素直に受け取ろうと思った。神聖なものと崇めるのでもない、俗悪なものと蔑むのでもない、ただ対等な位置で隣に立ってやれたら。
白蓮はしばし唖然としていたが、やがて、少し背の高い白蓮の額が肩の上に自然とのしかかる。神子は白蓮を抱きしめないし、白蓮も肩を借りるだけで背中に腕を回したりしない。
己の最も大事なものを踏み躙られた悲しみ。命の冒涜への怒り。自分のために穢土へ引き摺り出された弟への申し訳なさ。未だに執着に捉われる己の情けなさ。弟子達を煩わせた不甲斐なさ。神子に尻拭いをさせた悔しさ。自分の力が理想には到底及ばない嘆き。無事に己の感情を取り戻した安堵。
言葉では尽くせない、うず高く積み上げられた感情が崩れ落ち、砂が流れるように押し寄せてくる。ほとんど声も上げずに神子の肩を濡らす涙が白蓮の感情の奔流そのものだ。喧しく欲望の唸りが聴こえてくるのに、嫌な気がしない。
――私もお前も、かつては人間だった。けれど今だって、私もお前も人間なのかもしれないな。
それは口に出さず、神子は黙って白蓮の欲望の声に耳を傾けていた。
「……ありがとう」
涙が治まる頃、白蓮は微かな声でそう言った。無理に作ったような笑みだったが、時が経てば、彼女もいつも通り笑えるようになるだろう。
気恥ずかしいのか、白蓮は神子から離れ、涙の跡を自ら拭って話し始めた。
「そうそう、今回貴方が来てくれたのは、こいしさんが貴方のところに来たからだと聞いたけど、本当?」
「本当だ。お前のとこの連中は、誰もこいしを見ていなかったのか?」
「みんな寝耳に水だと言っていたわ。いつの間に来ていたの、って。あの子は本当に何を考えているのかわからないわね」
「だけどお前はこいしに“空”を見出したんだろう。結局あいつの空とやらは確かめられたか?」
「そうね……」
神子は此度の介入のきっかけがこいしだと忘れかけていたのを思い出す。存在を忘れたわけではないのに、気がつけば意識の外側に行ってしまう不思議な妖怪少女。白蓮はこいしを空に迫った状態だと見立てたが、彼女を在家信者として迎えたことで、何か得るものがあったのか。白蓮はしばらく考え込んでから、あっさり白状した。
「わかりません」
「おい」
「仕方ないじゃない。あの子の目をじっと覗き込めば覗き込むほど空虚で、底が見えなくて、かえって自分自身を見つめるようで……気がついたらあの子は忽然と消えているんですもの。確かめようがないわ」
「なら、こいしの空などまやかしだったんだろう。私からすれば、あいつは精神と肉体の結びつきが安定していなくて、とても理想的な状態には見えないね。不老長寿の心得を説いたところで鍛え甲斐がなさそうだ」
「あら、それは道士としての貴方の見解でしょう。私がこいしさんに興味を抱いたきっかけは、修行なくして悟りに入れる可能性があるかもと思ったからよ」
「ほう、ようやく馬脚を現したか。お前だってストイックな修行なんて無意味だと思っているんだな?」
「そんなわけありますか。ただまあ、楽をしたい気持ちはなくもありませんし……みんながみんな、ストイックな修行に耐えられるわけではないのはわかっているつもりよ」
「あくまで弱き者のためだと言いたいわけだ。何、あいつに何も見つけられなくても落ち込むことはない。あいつについて深く考えるなど馬鹿馬鹿しい」
「負け惜しみっぽい言い方。別に落ち込んではいません。私が悟りの世界に入るにはまだ早い、と突っぱねられたみたいだとは思ったけど。悟りの境地は他人に見出すよりも自力で見つけろって意味かもしれないわね」
神子と言い合ううちに、白蓮の声音は少しずつ明るく活気を取り戻してゆく。期待が外れたわりには白蓮は前向きだ。
こいしはなぜ白蓮の異常を目の当たりにして、神子の元へ知らせに来たのだろう。神子の能力が通用しないだけで、こいしの心には何かしらの感情や思考があるのか、あるいは本当に何もない空っぽなのか……どちらにせよ、神子にもわからないのだった。
白蓮は涙の跡を乾かすように、空を仰いだ。夜空には無数の星が昇り、月がやせ細っているおかげでより眩く輝く。白蓮はため息をついた。
「貴方が目覚めた時を思い出すわ。お寺に欲霊がたくさん湧き出して、ひと所に集まって、満天の星空みたいになったっけ」
「私はすべての欲望を聴く者だからな」
「貴方からすれば、この世の欲望は星の数より多いのよね?」
「いかにも」
「私の欲望はどれぐらい?」
「新しい星座が作れそうだ」
「やっぱり修行不足ね。……地道に向き合いましょう」
「散々悟りとは何だと苦しんでいるくせに、結局悟りを求めるのか」
「これからも迷いはなくならないかもしれないけど、それでも私は仏道一筋ですから。道教と二股かけていた貴方とは違う」
「人妖両方に手を出すのは二股じゃないのか?」
「人聞きの悪い。私にできるのは手を差し伸べることだけよ」
白蓮は神子を振り返った。涙を流して澱みも流れたのか、白蓮が心の奥底に抱える迷いも憂いも、一時的に晴れたように見えた。
神子も白蓮も、それぞれ己のやり方で高みを目指して、然るに決して同じ場所には辿り着かない。長い人生の中で、たまたま二人の道が交差しただけだ。そう言ってしまえば儚い縁だが、神子は不思議と虚しさを感じない。
もしも神子が国の平定に仏教を持ち出さなかったら? 白蓮が本気で仏教を信仰していなかったら? そもそも本来なら生まれた時代も生きた時代も異なる、出会うはずのない二人だった。思いもよらぬ邂逅を果たすとは、神子が好む言葉ではないが、宿世や因果としか言いようがない巡り合わせだ。
白蓮と神子は再び正面から向き合う。目が合っただけで、言葉も能力もなくとも、互いの考えが通じた気がした。どちらともなく手を差し出し、握手を交わした。
「お互いに励みましょう」
「お前に遅れを取る私じゃない」
「少なくとも今回の借りは必ず返します。次は私が貴方に手を差し伸べる番よ」
「懲りないもんだ、傲慢な聖者め」
「言っておくけど、私は傲慢さだけが宗教家の条件だとは思っていないわ。やはり宗教家は慈悲深く仏心を持つべきよ」
「仏心ね。私が一番いらないものだ」
「自信がないんでしょう。私は私のやり方で、貴方と競ってみせるから」
きっぱりと告げた白蓮の目には、数多の星屑にも劣らない輝きが宿っていた。ようやくいつもの調子を取り戻した白蓮に、神子も口元をつり上げた。
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
――源氏物語〈空蝉〉より
◇
夜分遅くになったが、神子はようやく命蓮寺を後にして、懐かしい神霊廟へ帰還した。布都に屠自古に青娥、そしていつ連れてきたのやら、芳香にまで出迎えられた。
「いやはや、面霊気以外にも感情をどうにかできる奴がいたのですか」
「そんな上等じゃない。偶然の産物みたいなものだよ。ああ、入道使いはいろいろあったが元気そうにしているよ」
「そうですか、それはよかっ……いや、我は初めから何も言っておりませぬ!」
「往生際の悪い」
帰った途端に、神子はさっそく布都らに取り囲まれ、事のあらましを語り聞かせた。といっても、憶測に近いものはぼかして、説明したのは判明した事実だけだ。神子の言い分を素直に信じた布都は腕を組み考え込む。
「うーむ。あの方ですら感情を抜き取られるとは恐ろしい……」
「布都、お前も気をつけた方がいいぞ。ただでさえ記憶が抜け落ちてるんだ、感情まで奪われたらポンコツに拍車がかかる」
「何だと! ふっ、そういう屠自古は少しぐらい感情を削った方がよいな、怒りっぽさが治るやもしれん」
「お前という奴は……! 誰のせいでこうなったと思ってやがる!」
「あらあら、相変わらず賑やかですこと」
青娥はいがみ合う布都と屠自古を尻目に笑っている。二人の諍いはいつもの他愛ない喧嘩なので、神子も放置した。
「しかし、肉塊の人形ですか。付け焼き刃の知識で仕上げたのでしょうね。私ならもっと精巧で頑丈な戦士を生み出せますのに」
「青娥、わかっているとは思うが」
「ええ、ご心配には及びませんよ。そもそも私は貴方ほどあのお坊さんに興味がありません」
「……貴方には感謝してるよ」
「あら、それは意外ですわ」
青娥はけろっと笑う。神子は複雑な胸中を隠しきれない。かの妖怪の術を破れたのも、命蓮の反魂紛いに思い至ったのも、青娥という先例があったからだ。神子も道士として相応の実力と自信はあるものの、どこまで行っても青娥は神子の師だった。出藍の誉れには及ばないように見えて、邪仙と呼ばれる青娥を仰ぐことにどこか割り切れない思いを抱かずにいられなかった。
「青娥ー、右の手首がうまく動かない」
「まあ芳香ったら、手首はそれ以上曲がらないのよ? 落ち着いて、ゆっくり逸らしてみなさい」
「こうか?」
「そうではない! 覚えてないものは覚えてないと言っておるだろう! 屠自古はいつからそう執念深くなった!」
「お前のせいだ、お・ま・え! 今日という今日は許さん、黒焦げにしてやる!」
「やってみろ! お前の雷撃など我の炎に比べたらちっとも熱くないわ!」
「上等だ、やってやんよ!」
「やった! できたぞ青娥!」
「そうよ、上手! 芳香は本当にいい子ねえ」
「……五人でこの騒がしさか」
神子は思い思いに騒ぐ面々を見て呆れ笑う。反射的に修行僧やら居候やらが集合して大所帯の命蓮寺を思い出す。白蓮を中心にストイックな修行生活を送っているが、当然ながら普段は各々が好き勝手行動するせいで、統率などあったものじゃない。昨日鍋をつついた時点ですでに祝杯ムードが出来上がっていたし、白蓮が完全に落ち着けば、回復祝いと称してあの寺も騒々しくなるだろう。
(――ま、こっちもせいぜい励むよ)
命蓮寺に対抗意識を燃やしてか、いま少し弟子の数を、と屠自古あたりは気にしているようだが、神子は意に介さない。
こちらも人数のわりには自由奔放で、誰も彼もが欲望に忠実で、けれどそれなりに楽しくやっている。道教と仏教、欲望に向き合う姿勢が異なる限り、神子と白蓮の居場所はやはり重ならないが、神子はそれでいいと思った。
神子の耳にガチャン、と陶器の砕ける音が聞こえた。布都が皿を投げたのだろう。いつものこととはいえ、また皿代が嵩むと神子は頭の中で勘定する。ついでに命蓮寺の帰り際、こころに「太子様、またお面壊れちゃいました。つい皆さんの前で張り切ってしまって。新しいの作ってください」と例の真顔で言われたのも思い出して、さらに勘定が嵩んだ。耳鳴りがしたのは五人の欲望のノイズではなく、ストレスのためだろう。
「本当に、人の上に立つのは楽ではないな……」
軽い頭痛を覚えた神子は大きくため息をついた。
◇
「ノックしてもしもーし」
満天の星が浮かぶ夜、神子が屋根の上で瞑想に耽っていると、またもやこいしが神子の背後に突然現れた。数日ぶりだな、と神子は肩をすくめる。ちなみにどこにもノックはされていない。
「うちも防犯体制を見直した方がいいな」
「貴方は相変わらず宇宙と合体しようとしているのね」
「自然との一体化な。合体って、ロボットじゃあるまいし」
「あーあ、つまんないの。聖さん、すっかり元に戻っちゃった。私みたいなサトリができたと思ったのに」
こいしは石ころでも蹴飛ばすみたいに足をぶらぶらさせる。どうやらこいしも白蓮の回復を聞きつけたようだ。神子はあれ以来命蓮寺を訪ねていないので、こいしがどのような行動に出たかは知らない。
心を捨てて空に迫った、というのが白蓮によるこいしの見立てなら、あの時の白蓮は心を捨てた状態とは違う。
「あんなの悟りなんて呼べないよ」
「そっちの悟りじゃないもん!」
物言わぬ人形のような白蓮を思い浮かべれば、むくれたこいしが次々に捲し立てる。
「これはこれで楽なんだよ? 便利なんだよ? お姉ちゃんや貴方みたいなのはともかく、他のみんなは心が読めないのが普通じゃない」
「普通じゃないから、私は人の上に立つ。自ら獣道の先頭を切るのが宗教家なんだ」
「それは……なんていうか、マゾいですね?」
「そうかもな。ストイックさやしがらみの多さならあっちが上だろうが」
「何となくわかるわー。たまにお寺の修行について行けない時があるもの」
「なら、あの寺を辞めてうちにくるか?」
神子はにやりと笑う。白蓮にはこいしは鍛え甲斐がないと言ったものの、引き抜きや勧誘はこまめにやるべきだ。
こいしはきょとんと首をかしげて、やがて横に振った。
「いいや。私、もうちょっとお寺で暇つぶしするの」
「暇つぶしねえ」
神子は乾いた笑いをこぼす。この調子なら引き抜かなくて正解だ。こいしの修行になっていないと告げたら、白蓮はどんな顔をするだろう。
こいしはくすくす笑ったかと思えば、ひょいと片手を上げる。
「ねえねえ、悟り澄ました顔の貴方にしつもーん。結局、感情とか欲望ってなんですか? 悟りとか無我の境地ってなんですか?」
「いきなりだな。哲学してるのか?」
「同じことを聖さんに聞いたらはぐらかされたのよ。貴方はどう?」
「そんなの答えられない」
「えー? 宗教家なのに?」
「簡単に答えが出る問いではないから、私もあいつも考え続けるんだよ」
「だけど馬鹿の考え休むに似たりって言うじゃない?」
「誰が言ったんだ?」
「うちのお燐がお空に」
「お宅のペット事情なんぞ知らん」
「考える、かあ。そんな面倒ごとうっちゃえばいいのに」
以前『何も考えていないわけではない』と言い張ったのはもう忘却の彼方か、こいしは口を尖らせる。おそらく白蓮ははぐらかしたのではなく、神子同様に慎重になって答えられなかったのだろう。
神子が思考に没頭するうちに、こいしは消えていた。何をしに来たのか、どこへ行くのか、もはや確かめようがないし、さして興味もない。
(――もし、感情を失ったあいつが、本当に無意識で動いていたのなら)
だからこれは根拠のない神子の憶測だ。無意識を操るこいしが、白蓮に残った無意識のSOSを読み取って、神子の元へ知らせにきたのだとしたら?
考え過ぎだ、と神子は即座に打ち消す。白蓮が助けを求めていたなんてあまりに都合がいい。しかし感情を失った白蓮の虚ろな目を思い出すと、やはり宗教家の目指す心の安寧について、改めて考えざるを得ない。
悩みから解放されたい。自らをより高みへ導きたい。煩わしい現から自由になるという意味では、二人が宗教を通じて目指す理想はよく似ていた。
神子は脳裏に真っ白な、それでいて底が澱んだ宝珠を浮かべる。白蓮はあの暗い澱みをすべて消そうとするだろうか。それとも負の感情に向き合い、存在を認めた上で前に進もうとするだろうか。考えるまでもなく、答えは後者だとわかりきっていた。
「どんなに温厚に澄ました顔をしても、心の中に感情が満ちているお前の方がらしいと思うよ」
満天の星の一つが、白蓮の輝く瞳と重なる。今夜みたいな夜は、大いなる宇宙に思いを馳せる傍らで、天上を突くほどの感情を積み上げる白蓮を思い出す。
神子は無数の星が降り注ぐ空を仰いで一人つぶやいた。
聖を巡る各人の奮闘が読んでいてとても楽しかったです
朝顔さんのSSは以前から面白く読んでおりまして、内面描写やキャラ語りを中心とした心情を楽しむSSという印象が多かったのですが。
今回は(以前の作品にもありましたが)事件を解決する流れに多くのキャラ描写を乗せる作品に出来上がっており、完成度が高いなと思いました。本題に入るのが早かったため、緊張感をもって事件自体を面白く追えました。こいしを使った終わらせ方も、綺麗な回収で良かったと思います。
事件解決後のエピローグも長いながらもまとまっており、過不足なく多くのキャラを描けているなと感じられて面白かったです。
聖の「元は自分の欲望から始まったけれど、その後は妖怪を救うことが原動力となって世界が広がり、でも今も欲望は消えていなくて上手く付き合っている」というキャラクター性が存分に描かれており、大変良かったです。
有難う御座いました。