妖怪の山の湖の奥地。ここに、ある日突然、一軒の小屋が建てられた。
小屋の中では、これを建てた玉兎達がせわしなく動き回り、突貫工事でお世辞にも頑丈とは言い難い小屋を軋ませていた。一方で、大部屋の中で動かない玉兎の一団もいた。
この一団は、情報収集を担当とする玉兎達である。現在、地上に派遣された玉兎達は、地上の浄化作戦に従事している。この作戦の立案から準備までは、情報部門も他の部署と同様、馬車馬の如く働かされた。
だが、いざ作戦を実施してしまえば、何か変化が観測されるまで彼女達の仕事は無い。今しがた、夜明け前を狙って蜘蛛型の浄化機械を発進させて、それに随伴するイーグルラヴィの実戦部隊が出撃したところである。最初の定例報告が入るまでの一時間は暇であろう。
情報将校の鈴瑚も暇を持て余し、他にやることがないからと、団子を頬張りながら外に見える湖を眺めていた。湖とは、海の下位概念だったか。幻想郷には湖はあるが、海は無いらしい。海があって湖が無い月とは逆である。
空が白み始め、湖の色が見え始めた。鈴瑚は月の海と同じように、青を透明にしたかのような色を予想していたのだが、実際には真っ青よりも少し緑色に寄っていて、不透明だった。湖そのものの色としてそうなのか、建物の偽装のため窓にかかった木の葉がフィルターとなっているからなのかは分からない。いずれにせよ、生命力に溢れた穢れた色だった。しかし、それを見ながら食べる団子は不思議と美味しい。
至福のもぐもぐタイムは、脳内に入り込んできたテレパシーによって中断された。最初の定例報告である。鈴瑚は名残惜しそうに振り返って大部屋の真ん中、テーブルの方を向いた。
定例報告では、前線にいる各玉兎の現在位置が報告される。鈴瑚達は地図上にそれをプロットして前線を描いた。他に特記事項があればそれも報告されるが、今回それは無かった。
報告を聞く仕事が終わり、鈴瑚達はまた暇になった。次の仕事は一時間後、二回目の定例報告が入ってくるときになる。もしかしたら緊急報告が入る可能性はあるが、前線位置や玉兎の仕事の適当さから、その可能性は低いと考えられていた。
一時間。そう、月の時計も、地球と同じなのである。外の世界の科学者とやらが嘯
く、月の一日は地球の一ヶ月とほぼ同じ、などというのは幻想の月においてはなんの意味も有さない。原子時計という圧倒的な技術力の差で地上との違いをアピールしながら、十五夜と満月の周期をずらすという地上への嫌がらせの為だけに公転周期を変えながら、計測する時間単位は地球に紐付けられている。それは、月の民が地上からの移住者という歴史と合わせると随分な皮肉な話だと鈴瑚は思った。
小難しいことを考えた後は糖分補給の団子に限ると、鈴瑚は団子を一串頬張り、串を煙草のように加えて二回目の報告を待った。程なく二回目の報告が届き、鈴瑚達はまた、前線を描く作業を行った。それが終わると、大体の玉兎は再び持て余すくらいの暇を謳歌する時間へと戻った。鈴瑚を除いて。
鈴瑚は、黙って地図を眺めていた。前線の形がいびつに曲がり始めている。いや、本来地形の差で曲がるべき前線が、一部で直線に近づき始めているという方が正確である。
いずれにせよ、面倒なことを直感した鈴瑚は顔をしかめた。奥歯を噛んだ拍子にくわえていた串が折れて、木の苦味が口の中に広がる。鈴瑚は残りの時間を、木の味と苦虫を口に含んだかのような表情で過ごし、次の報告で今度は苦虫の方を噛み潰した。
前線の一辺が完全な直線となった。他の辺はまだ現れていないが、矩形を描くであろうということは、容易に想像がついた。またここで、原因も判明した。当該地点の浄化機械が急に方向転換したという報告が上がったのである。
そんな大事なことを定例報告の時間までしないのだから、玉兎は玉兎である。自分のことを棚に上げて呆れつつも、鈴瑚にとっては仕事が増えたということに変わりは無かった。領域の形状は明らかにそれが人工的なものであるということを物語っている。つまり、何者かがあの領域内への機械の侵入を拒んでいるということであり、それは調査しなければならない。
せめて自分が調査に行く羽目になるのは避けたい。かといって、前線に派遣した玉兎は最低限であり、そこから抽出するのは悪手だろう。つまり、ここにいる自分以外の誰かを派遣する一択である。鈴瑚は気晴らしに散歩に行くと部下に告げて部屋を出て、生贄探しを始めた。
†
鈴瑚は廊下に出て、小屋の出入り口の方へと向かった。
鈴瑚は、小屋の警備を行っている玉兎から抽出することを考えていた。本丸を守らなければならないという心理的要請から、二個小隊がここの警備にあたっているが、軍事的にはこんな掘っ立て小屋に、態々大人数を割いて守る価値は無い。一人くらい別の任務に就けても支障は無いだろう。
鈴瑚は、出入り口近くを歩哨している玉兎に目が留まった。出入り口から侵入してきた場合への備えなのだろうと思ったが、それにしては立ち位置が奥まり過ぎている。こんなんで大丈夫なのかと疑問に思ったが、さらに出入り口に近づいて適切な位置に玉兎が配置されているのを見て納得した。あの玉兎は配置あふれなのである。
改めて彼女を見ると、銃の持ち方一つとっても、実戦慣れしていなさ、それを通り越してどんくささまで感じる。配置から察するに、仲間内からも一番期待されていないのだろう。出入り口周りの警備を担当しているのは依姫様お抱えの部隊のはずだが、なぜこんなのがその地位に就いているのだろう? まあ、引っこ抜いても問題なさそうなのが直ぐに見つかったのは幸運である。鈴瑚は意地悪く笑って、彼女に声をかけた。
「やあ、私はイーグルラヴィの情報収集担当の鈴瑚。突然で悪いんだけれど、話があるから来てくれる?」
彼女は慌てて敬礼をした。玉兎のみのこの場において、特殊部隊であるイーグルラヴィの地位は高く、その上、情報将校の鈴瑚といえばここの全権力を掌握していると言っても過言ではない人物である。いくらのんびりした性格でも身が引き締まろうというものである。かっちりした動作に慣れていなく、形が崩れているのはご愛嬌というものだ。
鈴瑚は玉兎を連れて大部屋に戻った。そして机の上に広げられた地図とペンを掴み、部屋の奥の間仕切りされた場所に二人で入った。
間仕切りの向こうには丸テーブルが一台と、それを挟むようにして椅子が二脚置いてあった。鈴瑚は連れてきた玉兎を片方の椅子に座らせると、丸テーブルの上に地図を広げ直してもう片方の椅子に腰掛けた。
「さて、改めて。私は情報将校の鈴瑚。まずはこの地図を見てくれる?」
玉兎は突然の事態の急変に混乱しつつも、とりあえずは言われるがまま広げられた地図を見た。しばらくして頭を上げて鈴瑚に「見終わりました」とアピールしたが、鈴瑚は何も言わなかった。気まずい沈黙の中、数分してようやく、鈴瑚の指示が「気がついたことを言って」まで含むものだったことに気がついて口を開いた。
「え、ええと……。まず、これは妖怪の山の地図……ですよね? で、ここに引かれた線が我が軍の進出線で、……この辺りで不自然な直線になっています、よね」
鈴瑚は満足げに頷いた。彼女はひどくマイペースだが、無能ではない。
「そう。で、本題に入るけれど、貴方にはここに行って原因を調査してもらいたい」
鈴瑚は蓋をしたペンで前線の少し向こう側を叩き、それを対面の玉兎の方へと向けた。この玉兎は慌てて首と挙げた両手首を細かく左右に振動させた。
「いやいや! 私なんかにそんな仕事無理ですって!」
「ほう、この私の命令を拒絶するの。面白いねー」
鈴瑚がそう言うと、彼女の振動はぴたりと止んだ。ただ今度は血の気を完全に失って動作停止状態に陥ってしまったようだ。額から頬を伝って流れる冷や汗が無ければ、マネキンと区別がつかないくらいだ。
「まあ、適正を何も見ずにいきなり、というのは確かに突然過ぎるかもね。一応面接らしきことはしようか。結果は見えてるけど。まず、あなたの名前は?」
「は、はいっっっ。れ、レイセンです」
「あー、やっぱり。依姫様の所の玉兎だよね」
鈴瑚がそう言うとレイセンは頷いた。鈴瑚はこめかみに手を当てて考え込む姿勢をとっていた。
「私らはね、情報収集を主な仕事にしているのだけれど、集めている情報には玉兎のものもある。集めている最大の目的は、適材適所に人材を配置する為。例えば、清蘭っているじゃん。あいつは射撃に関して特殊な才能があるから、引っ張ってきてイーグルラヴィの前線部隊に配置した。まあ彼女自身はこっちの工作には気がつかなくて、じゃんけんに負けたから配属されたくらいに思っているけれど」
鈴瑚はまたレイセンにペンを向けた。
「ともあれ特殊な才のある玉兎ならこっちの耳に何かしら入るのだけれど、あなたに関しては何も無い。残念ながらそういうことね。ただそうなると、なぜそんなのが依姫様の直属なのかという疑問が出てくる。教えてよ。そうなった経緯を」
今度はレイセンの方が考え込むように目を閉じて、そして開いた。
「もともと私は薬搗きに配属された玉兎でした。しかし、その暮らしに嫌気がさして地上に逃亡したことがあったのです。ご存知ありませんか?」
「いや。もしかしたら調べたことはあったかもしれないけれど、仕事を減らす、ああ、効率化に繋がらないことは直ぐに忘れちゃうからねえ」
「そうですか。で、結局逃亡は色々あって失敗して、ただ薬搗きにも戻れないので、私を保護して下さった依姫様の元で働かせていただくことになったのです。なので、特に特別な才能があるとかは全然ないです」
レイセンは言い切って静かに息を吐いた。我ながら実につまらない話だ。これなら鈴瑚も失望して自分に任務を任せようとは思わないだろう。
……そう思っていたのだが、なぜか鈴瑚は拍手喝采していた。
「いやー、実に素晴らしい! 地上に行ったことあるんだ。経験者とは心強いねえ。」
「あのー、話最後まで聞いていました? 戦いに関してはからっきしなんですよ?」
「大丈夫大丈夫。前線の玉兎からも被害報告が出ていないってことは、恐らく安全だろうし。それに、目的は殲滅じゃなくて偵察だからね。血の気が無いのはむしろ好都合だよ」
これ以上何か言っても既に大概深くなった墓穴を更に掘り下げる結果にしかならないだろうとレイセンは悟った。彼女には渋々ながらも、鈴瑚の申し出に同意する以外の選択肢は残されていなかったのだ。
†
レイセンは足早に前線へと向かっていた。前線までの領域では生命が失われつつあり、無防備に歩いていても襲われることは無い。それに、引き受けたとはいえ嫌嫌だ、こんな任務、とっとと終わらせてしまいたいと考えていた。
浄化が終わった世界は一面の灰色だったが、程なくして地平線の縁が木の葉の緑に染まり、レイセンが歩を進めるごとにそれはせり上がっていった。
レイセンは、前に豊姫様が写生をしていたときのことを思い出した。真っ白なキャンバスの上で豊姫様が筆を走らせると、筆の一走りごとに白一色から色づいた領域の広さとその種類が増えてゆき、やがて一つの世界がイーゼルに立てかけられた二次元の世界に構築される。
この世界もまた、一人の著名な画家が彩りを加えている最中なのではなかろうか。いや、私が動くごとに着色が進んでいくのだから、画家とは私自身なのかも。そうであるならば、私の画力は意外と悪くはない。ただ、色使いが荒いことが残念だ。これでは「桃源郷」ではない。「雑木」林だ。乱雑に、穢れに分類される植生を集めてしまっている。
そんなことを考えていたが、前線に近づき他の玉兎に話しかけられたことでレイセンは現実世界に引き戻された。停止している前線を担当している玉兎は、一旦その場で防衛線を引くように鈴瑚から指示されていた。とはいえ今のところ敵らしい敵もいないので、防衛線担当の玉兎は相当暇しているようだ。レイセンも同じ立場だったならそうしていただろうという意味で、彼女達の気持ちは分かる。ただ、彼女達と違ってレイセンは暇では無い。それに、話しかけてきた玉兎のせいで、夢から荒っぽく起こされたような不快感も少し覚えていたのでますます長話する気にはならなかった。「お互い大変だねー」「そうだねー」といった他愛のない挨拶に留めて、更に歩を早めて玉兎の前線を通過した。
すなわち全方向色づいた世界への突入。それも、桃の果樹園や優曇華の木で構成された穢れなき林ではない。穢れ、もとい生命力に満ち溢れた、鬱蒼と生い茂る大森林である。レイセンは世界の複雑さにこめかみを手で抑えながらどうにかして慣れて、目がチカチカしなくなったのを待ってから内部探索に踏み切った。
しかし、そこから二時間程、腰の高さまで伸びた笹や雑草をへし折って、草の海を泳ぐかのように歩き回っていたが、何の手がかりも得られなかった。
レイセンは、浄化機械の誤動作を引き起こしたこの領域は人為的なものと考えていた。自然にできたものにしては直線的過ぎる。確か鈴瑚も同じことを言っていたので、この推察は正しいと見なして良いだろう。そして、人為的な領域なら中に文明的な手がかりがあると思っていた。だが、それを未だに発見できていない。
前に地上に降り立ったとき、神社と八意様の居宅とを訪れた。その時の地上も――極めて意外なことには八意様の居宅周りすらも――酷い田舎だったが、少なくとも道らしい道はあった。ところが自分が今歩いているここには、道すら無いのだ。
レイセンは時計を見ていない。鈴瑚から報告は最後にまとめてすれば大丈夫と伝えられており、定例報告をする必要が無いためだ。テレパシーで他の玉兎達の報告が聞こえて来なければ、ここに入ってから二時間以上経っていることも彼女には分からなかっただろう。今や、彼女は一番時間にルーズな玉兎だった。それでも、二時間という時間経過を知れば多少の焦りを覚える。
焦りながらも残った理性で、とにかく道を探す、という方針を立てた。道さえ見つければ、そこをなぞることにより、領域に住む人と接触できるはずだからである。
問題は、道がどこにあるのかということである。地形に沿っている、ということは予想できたが、残念ながらレイセンは、いや、玉兎の誰も、この山の詳細な地図を持っていない。レイセンは諦めて息を吐いた。結局やることは変わらないのだ。手がかりを求めて前へ、前へ、前へ……。
注意散漫なレイセンは、盛り上がった木の根に気がつかず、それに足をとられてしまった。とっさに受け身をとって怪我だけは防いだが、受け身の姿勢のまま起き上がることができず、斜面を滑り落ちていった。
斜面が緩やかになったところで止まったレイセンは、誰も見ていないということは分かりつつも、バツが悪そうに立ち上がった。呼吸と気持ちを落ち着けるために辺りを見渡していると、自分が立っている場所と、その左右が、少し踏み固められていることに気がついた。
もしや、と思って踏み固められている場所に少し沿ってみると、どうやらそれは道状に繋がっていた。前に地上に降りた時に見たものより更に貧相だが、道は道だ。
気が緩みかけたところで何かが近づいてくる音が聞こえ、レイセンは反射的に横の茂みに姿を隠した。兎の耳でやっと聞こえる微かな音だ。慎重な獣か、それとも音を消すということを知っている知性体か。
「隠れてねえで出てきたらどうだ。何、取って食ったりはしねえよ」
後者のようだ。だから信頼できるということは全く無いのだが、バレている以上隠れていても良いことはない。レイセンは観念して茂みから出た。
声の主は女性だった。服の造形も単純な肩掛けの上着と巻きスカートなようで、細かいところに拘りが見受けられる。ただ全体としては荒々しさが目につく。外見は全然違うが、前に見た紅白の巫女にある種近いオーラをレイセンは感じ取った。
「その銃、おめえ、マタギか?」
マタギ、とは猟師の別称だったか。動物を狩るという穢れた行為に、複数の語彙を割く程の多様性があるという風土がレイセンにとっては異質だった。
それでも、兵士と正しく理解されるよりは、猟師と誤解してもらったほうが穏便に話は進むだろう。レイセンは彼女の右手を見た。あんな大きなナタを持った得体のしれない人と真っ向から戦いたくはない。
「ええ。私は余所から来ました。レイセンと申します」
「そうか。迷ったんかな。うちは坂田ネムノだ」
ネムノはレイセンが余所から来たと聞いて一瞬眉をひそめたが、すぐに敵意を解いた。恐らくはレイセンから悪意を感じなかったためだろう。
「なあ、あんた、せっかくだし狩りを手伝ってはくれねえか? なーに、手伝ってくれた分はちゃんと食わせてやるよ」
レイセンには狩猟経験など無いが、手がかりをみすみす逃すわけにはいかない。ネムノに適当について行って、それらしい動物に向けて適当に一発撃てば良いだろう。レイセンは黙って頷いた。
†
レイセンは、軽い気持ちでネムノについて行ったことを少し後悔していた。
狩猟というものは、その大半が移動時間である。獲物の手がかりを求めて、ろくに整備されていない山の斜面を歩き続けなければならない。依姫様のもとでしごかれていたので、持久力という意味では問題ないが、草木を乱雑に編んで間に石を転がしたかのような地面を歩くというのは神経を使う。
ネムノが今回狙っている獲物は猪という動物らしい。厳密な縄張りは持たないが、よく使う道があったり、何かをした跡を残したりしているから、それで居場所を特定するとのことだった。当然レイセンはそんな知識は有していない。
「おー。木の下が剥がれとる。猪はここ通って下に下って行ったんだろな」
ネムノが細い木の根元をナタの背で叩き、そのナタで斜面の方を指さした。レイセンは近づいて、なるほど、木の下の方の皮が剥がれているな、ということだけを確認した。本当に猪という動物の仕業なのか、そうだとしてなんのためにそうしたのか、彼女の脳内では何一つ結びついていない。
「これはヌタ場だな」
「ヌタ場?」
「あんたんとこではその言い方はしないんか。猪が泥浴びするところだべ」
次にネムノが見つけたのは泥の水たまりのような場所だった。言い換えてもらった内容からすると、猪という動物は泥で体を洗うらしい。……泥で!? 溜まっているのは、清浄とは程遠い、茶色の土と水との混合物である。地上とは穢れた地。その穢れ具合はレイセンの想像を遥かに超えていた。
月人と異なり、玉兎は戦いという死穢に晒されることもあり不死では無い。死んだ後は輪廻転生の輪に組み込まれるが、畜生道に堕ちることだけは避けたいものだと、レイセンは強く願った。そして、ネムノはこれを狩猟、つまり食べるために探しているのだ。こんな穢らわしいものを食べる! 畜生道に堕ちないことは最低限の目標でしかない。来世で地上に堕とされることが無いように、「良く」生きなければならない。レイセンはヌタ場から感じた穢れに顔をしかめかけたが、ネムノに気取られては良くないと、平静を保つよう努めた。
ヌタ場を最後にネムノの説明は無くなり、二人は黙って山を歩いていた。レイセンは、ネムノが猪に向かって着実に進んでいるのか、はたまた手がかりを失ってあてもなくさまよっているだけなのか、判断がつかなかった。
太陽がレイセンの顔面を温めた。その角度と方角は、午後に入ってだいぶ経ってしまっていることを物語っている。長らく歩いていてネムノ以外に文明を有する存在に会っていないので、結界の主が彼女であることは間違いない。あとは彼女から話を聞き出せば任務は完了するが、その機会を得るためにはまず狩猟を終わらせなければならない。レイセンは、自分達が猪の方に向かっていることを切に願った。
レイセンがそんなことを考えていると、ネムノが突然足を止めた。聞き耳を立てるように左右に首を振り、そしてレイセンの方を見た。
「猪が近い。うちがセコをやるから、出てきた猪をそいつで撃ってくんろ」
そして、ネムノは左手のひらを見せてレイセンをその場に留めつつ、先の茂みの中に消えていった。大柄で荒々しい見た目に似合わず、音もなく静かに。
一人残されたレイセンは呆然としていた。「セコ」という単語の意味は不明だが、他の部分や文脈から、自分に課せられた役割は分かる。ネムノが猪を追いかけて、レイセンの眼の前に飛び出してくるように仕向けるから、それを撃てということなのだろう。
ただ、一つ重大な問題があって、レイセンは猪の見た目を知らないのである。撃つ瞬間に隣にネムノがいて、「あれが猪だ」と教えてくれる状況ばかり想像しており、この可能性を失念していた。猟師を偽っている以上、まさか「猪の見た目は?」などということ、どの道聞く訳にはいかなかったというのはそうなのだが……。
レイセンは首を振った。いや、頭の中の想像がいくらおぼろげであろうと、引き金は引かねばならぬのだ。知識としての猪の判別はできないが、本能的に獣のイメージはある。第一、ここまでネムノ以外に動くものを鳥と妖精以外見ていない。ネムノ以外に地上を走るものがいたら、それが猪なのだ。
レイセンは身を隠して深呼吸し、念の為着剣してから、銃弾を装填して安全装置を外した。レイセンらの部隊に支給された銃は、旧式のボルトアクション式である。猪という獣の速さは分からないが、一発目を外してしまったら二発目を撃つ時間は無いだろう。彼女の射撃成績を考えると心もとないが、今の彼女はそのことは忘却していた。少なくともこの場に限っては、彼女こそ最強の狙撃手なのだ。
突然、右耳に怒号が入ってきた。反射的にそちらを向いたが、大きく声色が変わっているとはいえ、怒号の主はネムノだということにすぐに気がついた。なるほどこれが「セコ」、推測するならば追い立て役なのだろう。で、あるならばすぐに猪が飛び出してくる。レイセンは顔を照準の裏側に戻した。
茂みが揺れて、黒い塊が飛び出す。レイセンは、黒い塊の縁が茂みからはみ出た辺りで引き金を引いた。パーンという高い炸裂音が鳴り、火薬の臭いがレイセンの鼻を刺激した。ボルトを引いて薬莢を吐き出す。薬莢が地面を転がる音は、猪が倒れる音に重なって、聞こえることはないだろう……。
そう思っていたのだが、薬莢の音に重なったのは、茂みの中をガサゴソという音だった。嫌な予感がして、レイセンは銃剣を音の方向に向けながら後ずさる。
「良い腕だな。だがな……」
ネムノがナタを振りかぶりながら、レイセンの頭を飛び越えた。
「ここの猪はしぶといんだ!」
一瞬だった。今度は先程レイセンがいた場所の左前の茂みから黒い塊が飛び出し、ネムノと正面衝突した。いや、塊はネムノの右脇をかすめ、そこにネムノが勢いよくナタを振り下ろした。
塊はその場に落ちるように動きを止めた。駆け寄ったレイセンに見せつけるように、ネムノはそれを指さした。
「ほら、心臓撃ち抜かれたのにこの有様だ。外の奴がどおかは知らんが、ここの猪はしつけえんだ」
レイセンは生まれてはじめて獣というものを見た。ブクブクに太った体に、上向きに曲がった牙を備えた長鼻の顔。猪という名前の獣だという事前知識が無ければ悪魔の化身か何かと思っていたかもしれない。ただネムノが指さした猪の出血場所。これが心臓の場所だとしてそれを起点に改めて観察すると、我々と大きく体の構造が異なるということはないのだろう。
そして、上手く心臓に当てることができたという高揚感を改めて噛み締めるとともに、それが致命傷ではなかったことにも気が付き、この猪、そしてそれの首を叩き割るようにして息の根を止めたネムノに対して、畏敬の念のようなものをレイセンは抱いていた。
†
ネムノはレイセンが開けた心臓の傷の辺りにナタを差し込んだ。どこにそんな血が残っていたのか、というくらい、赤い液体が噴出する。レイセンは、こうも容易く、心というものは凪を保つことができるのかと、凄惨な光景を前にしてなお動揺しない自分の精神に驚いていた。
ネムノは手漕ぎのポンプで水を吸い出すが如く猪の足を前後に漕ぎながら、レイセンに話しかけた。
「早めに血い抜かねえと味落ちるからな。まあうちはあまり気にしねえんだけど。手伝ってくんろ」
ネムノは左の足を動かしていたので、レイセンは右の後ろ足をそれらしく動かした。それで良かったらしく、ネムノは猪の胸の方を見ていた。
「ま、このくらいだろ。家まで持ち帰るとすっぺ」
ネムノは細めの木をナタで叩き折って、それに猪の両足を括り付けた。流石にレイセンも意図するところは分かる。ネムノが棒の前を、レイセンは後ろを持ち、ネムノの家へと猪を運んだ。
ただ、レイセンにとっては少々面倒な状況になりつつあった。元々は狩りに誘われただけで、それが終わったらここのことを聞いて帰ろうと思っていたのだが、狩りをして、その肉を食べるところまでがミッションのようだ。
やむを得ない事情から地上の穢れを口に含んだ場合の処置体制はあるはずだが、その場合でもなるべく穢れの少ないものを選ぶようにと、訓練でも厳命されていた。ジビエという、地上の食べ物の中でも最上位の穢れを食べる事態は想定されているのだろうか。
レイセンは、テレパシーで鈴瑚に確認をとった。緊急通信に対して鈴瑚はたいそう不機嫌そうにしていたが、返事は得られた。少量なら問題無いだろう、重要参考人との接触を維持する方が重要度は高いということだった。
解釈のしようによっては、レイセンが月に戻れないレベルの穢れを負うリスクはあるが、玉兎一人の犠牲よりは確実な情報の確保を望むともとれる。ただ、レイセンはそこに気がつくことができるほど勘は良くないし、仮に勘づいていたとして、毒を飲むわけではないのだからと割り切っていただろう。
ネムノの家は、茅葺き屋根の掘っ立て小屋だった。今更この程度のことでは驚かない。むしろ、ここで家だけ近代的だったら、逆にそのミスマッチさに恐怖していただろう。
その家の前で、ネムノは猪を洗って解体を始めた。腹を開きながら、ネムノはレイセンに訪ねた。
「あんた、妖怪だよな?」
レイセンが頷くと、ネムノの手さばきが心持ち荒くなった気がする。人間に食べさせる場合配慮しなければならないが、体が頑丈な妖怪相手なら配慮しなくてもよい何かがあったのかもしれない。それが穢れに関わるのなら。レイセンは、耳を隠して人間と偽っておくべきだったと後悔した。
開かれた腹から、ネムノは内蔵を引き出し始めた。血だけなら、どこか現実離れしているようで何も感じなかったが、これはあまりにもリアル過ぎる。若干吐き気がこみ上げてきて、レイセンは猪から目を反らした。
「何か手伝うことありますか?」
「そだな。湯を沸かして欲しいんだけれど、うちの設備使えっかな……」
「あ、火はこれで起こしても良いですか?」
レイセンはマッチの箱を取り出してネムノに見せた。説明しないといけないな、と思ったが、意外にもネムノはマッチを知っていて、それで良いとのことだった。
かくしてレイセンは猪から解放された。マッチを使うとはいえ、大鍋に井戸から水を入れて、薪をくべて、マッチの火をそれに広げて、火吹竹で空気を送って、という手順は重労働だったが、地上派遣前に経験したサバイバル訓練よりかは文明的だったし、何よりあのグロテスクな物を見なくても済む、というだけでも天国だった。
「おおご苦労さん。後は鍋を作るだけだからゆっくりしといて」
レイセンが湯が沸騰したことを告げに行ったときには、解体作業はもう終わっていて、肉の山と骨、板に貼り付けにされた皮に分離していた。ネムノはそこから肉だけ持って、小屋の中に入っていった。
レイセンは骨と皮を眺めた。特に皮の方なんかは、そういう拷問と言われて納得してしまうような凄惨さがあるはずなのだが、内蔵が引き出される様を見たときのような拒否感は覚えなかった。これもまた穢れであり美しいとは全く思わないが、穢れの程度としてはそこまででは無いということなのだろう。
八意様は地上で医者をやっていると伺っている。引きずり出された内蔵、広げられた皮、むき出しの骨、毎日診ているとは言わないまでも、これに近いものを診ることはあるだろう。医者であるからして、そこから穢れの程度以外の情報を読み取っておられるはずだ。皮はまだ穢れが少ないから見てられるな、などと考えている私ごときには到底たどり着くことのできない境地である。あのとき、八意様が私の地上亡命を拒絶して下さったことは改めて幸運だったと思う。
「できたぞー」
ネムノがレイセンを呼びに声を挙げた。本題を思い出したレイセンは小屋に入った。
小屋の中は凄い臭いだった。肉の臭みもそうなのだが、植物質の強い臭いも何種類かする。臭いの発生源が一箇所、囲炉裏の中央に置かれた鍋であるからにして、これは料理の臭いということである。月の料理が淡い水彩画なのだとすれば、地上の料理はペンキをぶち撒けたものだ。そして、何が驚きかといえば、これをレイセンの脳は料理と認識しているのである。
「あっ、そんなにいらないです」
「そうか? 食わねえと大きくなれねえよ?」
「いえいえ、もう十分大きくなったので」
大柄のネムノと小さなレイセンは、それに合わせるかのように大盛りに盛られたお椀と半分だけ汁が入ったお椀を前に置いていた。
「いただきます」
レイセンは汁を口に運んだ。料理の味は、臭いを嗅いだときと同一である。洗練された月の料理と比べ、あまりにも無骨であまりにも無秩序。ただ、不思議なことに、それは確かに料理なのである。
異国の料理というのはこのように感じるのだろうとレイセンは思った。レイセンの精神は国際的ではないようで、違和感はあるが、それでもこれはこれで、と思う。鈴瑚なんかは「こういうのでいいんだよこういうので」と言いながら食べそうである。
ネムノはレイセンの心境を知っているのかいないのか、猪鍋をゆっくりと口に運ぶレイセンを、ニコニコしながら眺めていた。
†
二人は猪鍋を食べ終え、小屋の中は、たまに囲炉裏の中の火がパチパチと爆ぜる以外は無音になっていた。レイセンは、話を切り出すなら今だと思った。
「なあ、聞きたいことがあんだけど」
しかし、意外にも、先に口を開いたのはネムノの方だった。
「あんた、本当はマタギじゃないだろ。なにもんなんだ?」
レイセンは、右手を探って銃が触れることを確認した。幸い狩りの際には一発しか撃っていないので、まだ弾は残っている。日は落ちているが、この至近距離に囲炉裏の火も合わさっているから、当てることはそう難しくはない。
逆に、いざとなれば直ぐに応戦できるのだから、急いで今動く意味は薄い。ネムノの声も少し非難がましくはあるが、敵意を向けているのではなさそうである。むしろ好戦的に返してしまうと、この場は危険になるかもしれない。
「はい。本当は兵士なのです。お気づきになられましたか」
「まあな。いくらなんでも山に慣れていなさ過ぎる。それに、迷い込んだマタギにも、迷い込んだ兵士にも、会ったことがあんだけれど、持ってる銃の形が違うよな。あんたの銃は見たことないけど、どっちかというと兵士だな」
「前にも兵士を名乗る者がここに?」
「何十年も前のことだな。それに、あんたみたいな妖怪じゃなくて、人間で、カーキ色の服を着ていた。痩せこけて血まみれでね、うちを見るなり『ああ、鬼がいる。やはり私は地獄に堕ちたのか』なんて言うんだ。酷いもんだ」
ネムノは憤りながらもその表情はどこか昔を懐かしんでいるようだった。レイセンは兵士がここに来たことがあると聞いて、先代の「鈴仙」のことかと思ったが、無関係だった。まあ、何故かネムノがマッチを知っていた理由は分かった。その兵士が持っていたのだろう。
「ただ、あんたは迷ったという感じでもなさそうだな」
「ええ。白状しますと、ここには調査の為に来たのです」
レイセンは、浄化機械の写真をネムノに見せた。
「写真……? 天狗の手下か?」
「てんぐ? いえ。……えっと、元々はその機械を使って調査を行う予定だったのですが、何故か機械があなたのいる領域に入ってくれなくて、で、何か理由をご存知では無いかと……」
「知らん。こんなもの、見たこと無いしな」
ネムノはぶっきらぼうに写真を突っ返したが、何かひらめいたように話を続けた。
「いや、心当たりはあるな。うちらは縄張りに結界を張って敵が入らないようにしてる。悪意があるのはうちらの領域には入れねんだけども、まさかな」
ネムノはレイセンをギロリと睨んだ。
「い、いえ、本当にその機械は調査の為だけのもので、悪意だなんてそんな」
レイセンは雑に嘘をついたが、ネムノは見破ろうとすらしなかった。さほど興味はないのだろう。
「ま、レディを覗き見ようってのが既に悪意だからな。天狗が良い例だべ。あんたは天狗の手下じゃないんだから、それだけでまあまあ信頼はできる。それに、実害が無いならまあどうでもいいか。ところで、調査ってのはどのくらいの広さでやるつもりなんだ」
「幻想郷全体ですね。私達は幻想郷の外から来てまして」
「ふーん。うちには関係ないけど、まあまあ色んな動きが起きてんのな。しかし、幻想郷ってのは結構広いぞ? うちらみたいな慎ましい山姥が忠告しても説得力ないかもしれねけど」
レイセンは、ネムノはそんな慎ましいか? と思ったが、世界を一個浄化しようとしている我々に比べれば大層なミニマリストだろう。だいたいこの流れなら殺されていてもおかしく無かったのに、何もされないどころか忠告までしてくれるのだから菩薩並みの慈悲の持ち主である。
夜は完全に更けてしまっていた。調査としては終わっており、これ以上ネムノの優しさに甘える意味は無い。玉兎の侵略を防ぐ為に右手のナタを振り下ろすという選択肢に彼女が気がついてそれを採用する前に立ち去るべきだろう。
「ご忠告、気に留めておきます。私はこれで失礼しますね」
銃を肩にかけ、それ以上の荷物は無いのでレイセンは小屋を出た。数歩歩いたところで、言い忘れていたことがあったと気がついて振り返り、まだ玄関先にいたネムノに声をかけた。
「あ、短い間ですけれど、色々お世話になりました。猪鍋、美味しかったです」
†
レイセンは基地への帰路を歩み始めた。ネムノの結界に入ってから散々動き回っており、往路をそのまま辿って、というのは不可能だったが、方位磁石を持っているので、大まかな方角と標高を念頭に置けば脱出はそう難しくはない。
昼間のような色鮮やかな変化はなく、木の生えた漆黒から木のない漆黒へと、味気ない踏破で浄化済みの領域へと戻った。正味半日にして地上の景色に慣れてしまっていたので、レイセンは正直物足りなさを覚えていた。月に戻ったら絵を始めてみようか。それで、地上の景色を描く。……色使いが子供っぽいと、豊姫様に笑われるだろうか。
行きと違い、境界近くの玉兎に話しかけられることは無かった。暗くて距離も遠いので単に気が付かれなかったのかと思ったが、それだけではないらしい。何やら恐慌状態にあるようだ。レイセンは煩わしさから、ネムノに出会ったあたりからはテレパシーを聞かないようにしており気づくことは無かったのだが、日が落ちる前、丁度レイセンが鈴瑚に通信をした直後、イーグルラヴィの清蘭が幻想郷から派遣された刺客と交戦、撃破されるという事態が生じていた。
レイセンは嫌な予感がしてテレパシーに耳を向けなおした。絶叫にも似た前線玉兎側からの通信が脳内をかき乱すが、基地側からのテレパシーは飛んでこない。レイセンは走って小屋へと急いだ。
湖が見えた。レイセンは弾幕飛び交う事態を予想し、着剣した歩兵銃を体の前に持ちながら走っていたが、その予想に反して湖も、その周りも静寂に包まれていた。水面は凪いで、高く登った満月を鏡のように映し、走って火照ったレイセンの体を冷ます気など一切無いと言いたげな真夏の微風が木々の葉を微かに揺らしていた。そして、湖の畔で、黄色の服の玉兎が、煙草をふかしているかのように団子の串を咥えて、あぐらをかいていた。鈴瑚だ。
「ただいま戻りました」
「ああご苦労さん。疲れてるみたいだね、座りなよ」
「その怪我、大丈夫ですか?」
鈴瑚は体の数箇所にすり傷のような怪我を負っていた。だがまるで一切怪我をしていないかのように、鈴瑚は悠然と構えていた。
「たいしたことは無いよ。知っているとは思うけれど、地上の人達が、あー、地上の奴らと『鈴仙』が、カチコミに来てね」
「ああ、すみません、実は通信がしばらく切れていまして……。その感じだと撃退できたんですかね? 奴らは今どこに?」
鈴瑚は少し驚いた顔でレイセンを見つめた。「えっ、マジ? こいつ情報遅すぎない?」と言っているかのようだったが、直ぐに湖の方に顔を向け直した。
「いんや。負けた。というか、最初から疑念を持たれない程度に適当に戦ってから通す計画だったんだよ。あいつらなら多分今ここだよ」
そう言って、鈴瑚は湖の真ん中を串で指した。レイセンは、そのままの通りに地上人が湖に沈んだとは受け取らなかった。自分達も使ったのだから、その意味するところは容易に想像がつく。
「月……」
「夢の世界の、ね。私達が派遣されてからは現の方じゃなくて、夢の世界のものに接続先が変更されているから」
レイセンは、鈴瑚に報告する気力を八割ほど失っていた。全ては終わってしまった。私が内容を告げようが告げまいが、月の都の運命は変わらない。
「あの領域の様子はどうだった?」
だが、鈴瑚の方は、何事も無かったかのように情報を聞き出そうとしていた。それが「次の戦争」を視野に入れた布石なのか、単なるルーティンなのかは判別できないが、鈴瑚から報告するよう命令された、そのことが報告する気力を埋めた。レイセンは話し始めた。
「あれは、ネムノという山姥――私が接触していた妖怪ですが――が展開した結界によるものでした。悪意があるものの侵入を弾くとのことで、浄化が悪意と判定されたのではないかと」
「あの機械は探査の目的も兼ねていたけれど、探査の段階で弾かれた可能性は?」
「私が侵入できているのでその可能性は低いと思います」
「レイセンに悪意が無いからじゃない? ま、どっちでも良いか。機械浄化は万能では無いということね。ところで、探索した感想はどうだった?」
「えっ、そうですね……。立場上こういう単独での潜入任務は中々しないので良い経験に……」
レイセンは任務のデブリーフィング(軍隊用語で、作戦後の状況報告のこと)の一環で聞かれているのかと思い、それらしい方向性で答えたが、鈴瑚から途中で静止された。
「あー、そうじゃない、そうじゃない。あんたがあの場で何を感じ取ったのかってこと」
「変な所でしたね。確かに私は一度地上に降りたことはありますが、そのときも今回も、やっぱり地上は変な所でした」
「変な所」
「穢れも変化も大きすぎるのです。私のような凡人には適応できそうにもない」
「凡人、というのは卑下だと思うよ。多分正しくは気質の差ね。前に月で紅白の巫女に会ったことがあるんだけれど、あいつは月の都を『こんな退屈な所に好き好んで住むやつの気が知れない』って言ってた」
鈴瑚はレイセンへの慰めと事実の訂正の為に巫女の例を引いたのだろうが、レイセンには、鈴瑚が巫女の肩を持っているかのような言い振りだったのが少し引っかかった。
「そういや、猪鍋食べたって言ってたじゃん。あれどうだったの?」
「表現が難しいですね……。何故か食べ物の味だってなりますし、結構美味しいのですけど、月のどの食べ物とも似ていないんですよ。臭いというかクセが強いというか」
「ふーん。ま、見たところ予後不良も無いみたいだし、普通の穢れ除去の手続きで終わるでしょうね。こっちから口添えはしとくから、穢れの強さに嫌味を言われることもないと思うよ」
「ありがとうございます」
「随分長いこと引き止めてしまったね。ごめんね」
「そうですか? 多分十分も経っていないですよ」
鈴瑚は小屋の方へ、いや、小屋があった方へと首を向けた。
「任務含めてってことよ。あんたのお仲間はとっくに帰ったわ。あんたも帰りなさんな。帰還方法は分かるよね?」
「薬を飲んで湖の月へと入る」
「そ。ま、月の都も今頃大混乱だろうからしばらく待たされるかもね」
「鈴瑚さんは?」
レイセンは既に湖の月の直上へと飛び、薬を飲んでいた。これは睡眠薬も兼ねているので、鈴瑚との会話に残された時間はそう長くは無い。
「イーグルラヴィが全然戻ってきていないからね。それが終わったら……」
レイセンは月に倒れ込んだ。まだ意識は完全には喪失していないが、鈴瑚の最後の言葉は聞こえなかった。そもそも途中で言葉を切ったのだろう。
「じゃあね」
鈴瑚が最後に言葉をつぐんだこと、別れの挨拶で締めたこと、どことなく引っかかったが、その疑問を咀嚼する暇もなく、レイセンは夢の世界へと堕ちていった。
†
レイセンが目覚めたときには、地上から離脱してから数日が経過していた。鈴瑚の忠告通り、混乱した事態の収束を優先させるために玉兎達の覚醒は後回しにされていたらしい。
起きて早々、レイセンはここ数日何が起こったのかを聞かされた。結局、地上からの刺客は、サグメ様も、月の都に混乱を引き起こした元凶達も、両方ボコボコにして帰還していったらしい。形の上では、私達は地上に敗北したのだろうか?
しかし、現への帰還を間近に控えた月の都は、むしろ歓喜に沸き立っているようにも見えた。サグメ様も殴られたとはいえ、地上人の実力を測るという側面が大きく、噂に反して実際には無傷だった。台風一過ですらない。まるで、台風など、最初から来ていなかったかのようだった。
レイセンは訓練場へと戻った。先に戻った隊の仲間は訓練に励んでいた。依姫様がいるのだろう。その分析は当たっていて、門をくぐって早々、依姫様に声をかけられた。
「任務ご苦労さま。早速で悪いけれど、話があるから来てくれる?」
何かやらかしたのかと心臓が跳ね上がったが、どうにも心当たりは無い。それに、客間に通された挙げ句、玉兎の一人が依姫様の分と私の分、二人分のお茶を置いていった。
「最近、仕事とか訓練とかで、辛いことはない?」
やらかしたことへの叱責ではなく、気遣いだった。依姫様は決して悪人ではないが、他の月人と同様、玉兎を表立って気遣うような言動をすることはあまりなかった。だから、こういう発言をすることがレイセンにとっては意外だった。それに、やらかしたことに心当たりが無いのと同様、気を病む事柄も、心当たりは無い。
「いえ。得にはありません」
「そう。なら良いのだけれど。これをしているのはカウンセリングの為でもある。何かあったのなら、今すぐでも後からでも私に連絡して」
「えっと、すみません。どうして急にこんな」
「そうね、いずれ耳に入ることでしょうけど先に伝えておいた方が良いわね」
依姫様は少しだけお茶に口をつけた。
「実は、地上浄化作戦に携わっていた玉兎が二名脱走した。逃亡の原因は不明だけれど、状況証拠から一番可能性が高いのが両名の劣悪な労働環境で、だからこうやって、他にもそういう苦しみを抱えた玉兎がいないか確認しているの」
依姫はレイセンの表情を観察した。話を聞いて、やや動揺しているようだが、自分自身に思い当たる節があるからというより、他者に関することが要因に思える。今はまだ、変に詮索する段階ではないだろう。
「本当に、仕事に対する不満は無いのね。それは確かにあなたの美徳なのだけれど……」
依姫は、珍しく苦慮の表情を浮かべていた。
「うん。あなたは他の玉兎と比べても、突出して高い忠誠心を私達に向けている。……逃亡が失敗してからの話ね。出世という点で、このことは大きな武器になる。多分あなた自身も信じないでしょうけど、長い目でみたら、あなたはいずれ、この防衛隊の隊長の座に就いていると予想するわ。徒競走で亀が兎に逆転勝利するように」
レイセン自身としては、兎なのに亀の方に比喩されたことは心外といえば心外だったが、そのおっとりとした性格を内省してむべなるかなと思い直した。
「将来のリーダーとして、理念の学び直しが必要ね」
「何か、私の態度で間違っていることがあるのですか?」
「あなたの心持ちは満点よ。組織の下層としてはね。ただ、上の立場になると、考えなければならない要素が増えるの。月の都の基本理念は覚えている?」
「穢れなき安定、ですよね」
「そう。そして、穢れの否定。これはあなたがどの立場にあろうと変わらない。しかし、安定という単語は、地位においてそれをどのように重んじるべきかが変わる。見たところ、あなたは安定を不変という意味合いで捉えている。代わり映えのしない生活を厭い地上に逃亡したあなたが。恐らくは地上での経験の結果でしょうね。違うかしら?」
レイセンは正直に答えた。嘘をつくつもりは最初から無かったし、仮に嘘をついたとして、依姫様の洞察から逃げ切ることは不可能だろう。
「仰るとおりです。変化にもまれる生活は、未熟な私には荷が重すぎました。私は安寧を欲していて、安寧を与えてくださるこの地を守護していきたいのです」
依姫様は、「なるほどね」と言って席を外し、数分経ってから戻ってきた。その手には、切られた桃が乗せられた皿があった。
「どうぞ」
「えっ、大丈夫なのですか?」
「私はお姉様とは違って、勝手に桃をもぐなんてことはしないわよ」
そう言って、依姫様は桃を一切れとって口に含んだ。あの依姫様がそうしているのだから、これは食べても大丈夫な桃なのだろう。
「あっ、美味しい」
「作戦前にお姉様が桃を差し入れたでしょう。あれは多分ちゃんと熟していなかったわね。今は熟れているわ」
豊姫様が桃を差し入れたときに「依姫にはナイショね」と仰っていた記憶がある。誰も口は滑らせていなかっただろうが、結局当の依姫様本人にはバレバレだったのだ。幸い、そのことを叱責するつもりは無いようだが。
「桃が熟れることからも分かると思うけれど、月の都は不変ではないの。穢れに繋がる混沌は以ての外だから、安定を不変と捉えることは、社会の構成員の大半においては正しい。だけれど、理として動くべきものを不変に留めておくと、必ずどこかで歪みになる。かつての政変騒ぎや、今回の事件もある種の歪みね」
レイセンは、月の都が八意派と反八意派で割れていたときのことを思い返していた。下っ端兵士のレイセンは、永琳や綿月姉妹の使者として動いた以上の当事者性は無く、玉兎間で伝達されたゴシップで歪められた記憶だったが、それでもあの狂騒を振り返り、身の毛がよだつ思いになった。
「不変に留まるためには、全力で走り続けなければいけない。それも、がむしゃらにではなく、進むべき方向を制御しながら」
「そんなことが、私に……」
「今すぐにそうある必要はないわ。さっきも言ったけれど、長い目で見た話だし、それ以前にあなたはもっと地力をつけるべきだからね」
依姫は、桃の皿をレイセンの方へと押した。
「さ、話は終わったから、桃を食べたら行きなさい」
「はい。……ところで、桃はみんなに振る舞っておられるのですか?」
「いいえ。これは将来の隊長への餞別よ。角が立つかもしれないから、食べたことは秘密にね」
†
レイセンが所属する部隊、つまり依姫直属の部隊は比較的環境が良い。レイセンは、依姫様の指導は厳しいが、無茶振りはしてこないし、一人一人を人格ある個人としてよく見ていると信頼していた。実際、今回の作戦の前後で人員の欠けは発生しなかった。
だが、他の部隊は、必ずしもレイセンが所属する部隊ほど幸運ではなかったのだろう。
レイセンは、地上から離れる瞬間の鈴瑚の言動を、遅まきながら脳内で反復させていた。逃亡した玉兎の片方が鈴瑚なのだとしたら、イーグルラヴィの帰還を待って帰ると言わなかったこと、最後に「さよなら」と、一生の別れであるかのような挨拶をかけたこと、両方の辻褄が合う。案の定、噂話のレベルだが、逃げた片割れが鈴瑚であることはほぼ確証が取れていた。もう一人はレイセンには分からないが、他のイーグルラヴィを待っていたということは、イーグルラヴィメンバーの一人と予め共謀していたのだろう。
その日の夕方、レイセンは依姫に、静かの海へと散歩に行くと告げて外出した。玉兎の精神状態についてこれまでにないくらい皆神経を尖らせているので、この散歩もまた、監視の目がついているのだろう。それでも、誰かを同行させるとは言われなかっただけ、レイセンにとっては少し気が晴れることだった。
静かの海は、その名に恥じず、この日も静寂に包まれていた。さざ波の音以外、鼓膜を揺らすものは一切存在しない。ここは地球に一番近い海であり、その空と水面には、それぞれ地球が写っていた。鈴瑚ともう一人の玉兎は今、あの小さな珠のどこかにいる。
月の都のピラミッド構造の最下層で押しつぶされ、飛んでいってしまった二つの歯車。そう表現すると悲劇的なようだが、あの日の夜会話を交わしたレイセンからしてみれば、少なくとも鈴瑚には別の思惑があったのではないかと思う。あの時の鈴瑚は、地上に対して、憧憬の念を抱いていた。少なくとも彼女は前向きに、喜んで地上の暮らしを選んだのではないかという気がしてならない。
レイセンは口内で舌を回した。猪鍋についてのやり取りがあの場では最も印象的な話で、その味を思い出そうとしたのだ。
「壷なる御薬奉れ。穢き所の物聞こしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」。レイセンの舌は、月の桃の味を思い出すことはできたが、猪鍋の味を思い出すことはできなかった。体内の穢れを取り除く為に服用した薬は、記憶の穢れをも消し去っていた。あの、地上の穢れを用いないと表現することができない味は、今のレイセンには再現不可能なものになっていたのだ。レイセンは諦めて、ほのかな甘みだけを感じている舌を動かすのをやめた。
鈴瑚が逃亡した理由。それは月を嫌ったからか、地上を好いたからか。地上での出来事を五感も含めて記憶に呼び起こすことができれば、推測できたのかもしれない。それも、地球が見えるこの場所に来た目的だったが、今やそれは意味のない問いになっていた。
「衣着せつる人は、心異になるなりといふ」。月の都に身を包みながら地上の感覚を想起するなど、無理な話だったのだ。味覚だけではなく、例えば視覚においても、地上の木々がどのような色だったか、おぼろげにしか思い出すことができない。そのおぼろげに想起できる部分も多分月の植生と同じ色合いだからなのであって、穢れの色は忘却してしまっているのだろう。
確かなこととしては、どんな理由にせよ、鈴瑚は地上で生きることを選択し、それは叶えられたのだ。その行動力や胆力は羨ましくはあるが、ああなりたいとまでは、レイセンには思えなかった。
自分は、この地に足をつけて、玉兎としての使命を果たすより他ないのだ。今までも同じように使命を抱いていたが、それは単なる思考停止に過ぎなかった。だが、あの山で猪を撃った時の高揚感、地上の妖怪としばしの時を共に過ごしたことでいくらか広がった視野角、最後鈴瑚の真意に気が付いて共に付き従うのではなく一人帰還する道を選んだこと、穢れを取り除いてなお残った澄み切った記憶が、その信念に確かな裏付けを与えていた。
レイセンにとって鈴瑚は、もう絶対的に忠誠を誓うべき上司では無かった。思案して自分の感情に向き合って、ようやくそのことに気が付いた。鈴瑚は月の兎としての責務から逃げた。彼女自身がどういう意図で地上に堕ちたのだろうと、この客観的事実は消えない。私の双肩はまだ弱弱しいが、責務に負けない程度には強い。
地球の方を見つめて、舌を突き出した。ふてぶてしい弱虫への少しの軽蔑と、方向は違えども、それぞれの幸福を追い求める道を見つけた同族への最大限の餞別。
それが終わると、レイセンは地球を背にして家路へと歩き始めた。一つのコンプレックスは押しのけたが、それに慢心していてはそれこそ愚者である。依姫様のおっしゃる通り、私も変わり続けなければならないのだ。この楽園を保守するために。家に帰って休息をとり、明日からの訓練に備えるのはその第一段階である。この一歩は月の都にとってはちっぽけな一歩だが、私にとっては偉大な一歩なのだ。
小屋の中では、これを建てた玉兎達がせわしなく動き回り、突貫工事でお世辞にも頑丈とは言い難い小屋を軋ませていた。一方で、大部屋の中で動かない玉兎の一団もいた。
この一団は、情報収集を担当とする玉兎達である。現在、地上に派遣された玉兎達は、地上の浄化作戦に従事している。この作戦の立案から準備までは、情報部門も他の部署と同様、馬車馬の如く働かされた。
だが、いざ作戦を実施してしまえば、何か変化が観測されるまで彼女達の仕事は無い。今しがた、夜明け前を狙って蜘蛛型の浄化機械を発進させて、それに随伴するイーグルラヴィの実戦部隊が出撃したところである。最初の定例報告が入るまでの一時間は暇であろう。
情報将校の鈴瑚も暇を持て余し、他にやることがないからと、団子を頬張りながら外に見える湖を眺めていた。湖とは、海の下位概念だったか。幻想郷には湖はあるが、海は無いらしい。海があって湖が無い月とは逆である。
空が白み始め、湖の色が見え始めた。鈴瑚は月の海と同じように、青を透明にしたかのような色を予想していたのだが、実際には真っ青よりも少し緑色に寄っていて、不透明だった。湖そのものの色としてそうなのか、建物の偽装のため窓にかかった木の葉がフィルターとなっているからなのかは分からない。いずれにせよ、生命力に溢れた穢れた色だった。しかし、それを見ながら食べる団子は不思議と美味しい。
至福のもぐもぐタイムは、脳内に入り込んできたテレパシーによって中断された。最初の定例報告である。鈴瑚は名残惜しそうに振り返って大部屋の真ん中、テーブルの方を向いた。
定例報告では、前線にいる各玉兎の現在位置が報告される。鈴瑚達は地図上にそれをプロットして前線を描いた。他に特記事項があればそれも報告されるが、今回それは無かった。
報告を聞く仕事が終わり、鈴瑚達はまた暇になった。次の仕事は一時間後、二回目の定例報告が入ってくるときになる。もしかしたら緊急報告が入る可能性はあるが、前線位置や玉兎の仕事の適当さから、その可能性は低いと考えられていた。
一時間。そう、月の時計も、地球と同じなのである。外の世界の科学者とやらが嘯
く、月の一日は地球の一ヶ月とほぼ同じ、などというのは幻想の月においてはなんの意味も有さない。原子時計という圧倒的な技術力の差で地上との違いをアピールしながら、十五夜と満月の周期をずらすという地上への嫌がらせの為だけに公転周期を変えながら、計測する時間単位は地球に紐付けられている。それは、月の民が地上からの移住者という歴史と合わせると随分な皮肉な話だと鈴瑚は思った。
小難しいことを考えた後は糖分補給の団子に限ると、鈴瑚は団子を一串頬張り、串を煙草のように加えて二回目の報告を待った。程なく二回目の報告が届き、鈴瑚達はまた、前線を描く作業を行った。それが終わると、大体の玉兎は再び持て余すくらいの暇を謳歌する時間へと戻った。鈴瑚を除いて。
鈴瑚は、黙って地図を眺めていた。前線の形がいびつに曲がり始めている。いや、本来地形の差で曲がるべき前線が、一部で直線に近づき始めているという方が正確である。
いずれにせよ、面倒なことを直感した鈴瑚は顔をしかめた。奥歯を噛んだ拍子にくわえていた串が折れて、木の苦味が口の中に広がる。鈴瑚は残りの時間を、木の味と苦虫を口に含んだかのような表情で過ごし、次の報告で今度は苦虫の方を噛み潰した。
前線の一辺が完全な直線となった。他の辺はまだ現れていないが、矩形を描くであろうということは、容易に想像がついた。またここで、原因も判明した。当該地点の浄化機械が急に方向転換したという報告が上がったのである。
そんな大事なことを定例報告の時間までしないのだから、玉兎は玉兎である。自分のことを棚に上げて呆れつつも、鈴瑚にとっては仕事が増えたということに変わりは無かった。領域の形状は明らかにそれが人工的なものであるということを物語っている。つまり、何者かがあの領域内への機械の侵入を拒んでいるということであり、それは調査しなければならない。
せめて自分が調査に行く羽目になるのは避けたい。かといって、前線に派遣した玉兎は最低限であり、そこから抽出するのは悪手だろう。つまり、ここにいる自分以外の誰かを派遣する一択である。鈴瑚は気晴らしに散歩に行くと部下に告げて部屋を出て、生贄探しを始めた。
†
鈴瑚は廊下に出て、小屋の出入り口の方へと向かった。
鈴瑚は、小屋の警備を行っている玉兎から抽出することを考えていた。本丸を守らなければならないという心理的要請から、二個小隊がここの警備にあたっているが、軍事的にはこんな掘っ立て小屋に、態々大人数を割いて守る価値は無い。一人くらい別の任務に就けても支障は無いだろう。
鈴瑚は、出入り口近くを歩哨している玉兎に目が留まった。出入り口から侵入してきた場合への備えなのだろうと思ったが、それにしては立ち位置が奥まり過ぎている。こんなんで大丈夫なのかと疑問に思ったが、さらに出入り口に近づいて適切な位置に玉兎が配置されているのを見て納得した。あの玉兎は配置あふれなのである。
改めて彼女を見ると、銃の持ち方一つとっても、実戦慣れしていなさ、それを通り越してどんくささまで感じる。配置から察するに、仲間内からも一番期待されていないのだろう。出入り口周りの警備を担当しているのは依姫様お抱えの部隊のはずだが、なぜこんなのがその地位に就いているのだろう? まあ、引っこ抜いても問題なさそうなのが直ぐに見つかったのは幸運である。鈴瑚は意地悪く笑って、彼女に声をかけた。
「やあ、私はイーグルラヴィの情報収集担当の鈴瑚。突然で悪いんだけれど、話があるから来てくれる?」
彼女は慌てて敬礼をした。玉兎のみのこの場において、特殊部隊であるイーグルラヴィの地位は高く、その上、情報将校の鈴瑚といえばここの全権力を掌握していると言っても過言ではない人物である。いくらのんびりした性格でも身が引き締まろうというものである。かっちりした動作に慣れていなく、形が崩れているのはご愛嬌というものだ。
鈴瑚は玉兎を連れて大部屋に戻った。そして机の上に広げられた地図とペンを掴み、部屋の奥の間仕切りされた場所に二人で入った。
間仕切りの向こうには丸テーブルが一台と、それを挟むようにして椅子が二脚置いてあった。鈴瑚は連れてきた玉兎を片方の椅子に座らせると、丸テーブルの上に地図を広げ直してもう片方の椅子に腰掛けた。
「さて、改めて。私は情報将校の鈴瑚。まずはこの地図を見てくれる?」
玉兎は突然の事態の急変に混乱しつつも、とりあえずは言われるがまま広げられた地図を見た。しばらくして頭を上げて鈴瑚に「見終わりました」とアピールしたが、鈴瑚は何も言わなかった。気まずい沈黙の中、数分してようやく、鈴瑚の指示が「気がついたことを言って」まで含むものだったことに気がついて口を開いた。
「え、ええと……。まず、これは妖怪の山の地図……ですよね? で、ここに引かれた線が我が軍の進出線で、……この辺りで不自然な直線になっています、よね」
鈴瑚は満足げに頷いた。彼女はひどくマイペースだが、無能ではない。
「そう。で、本題に入るけれど、貴方にはここに行って原因を調査してもらいたい」
鈴瑚は蓋をしたペンで前線の少し向こう側を叩き、それを対面の玉兎の方へと向けた。この玉兎は慌てて首と挙げた両手首を細かく左右に振動させた。
「いやいや! 私なんかにそんな仕事無理ですって!」
「ほう、この私の命令を拒絶するの。面白いねー」
鈴瑚がそう言うと、彼女の振動はぴたりと止んだ。ただ今度は血の気を完全に失って動作停止状態に陥ってしまったようだ。額から頬を伝って流れる冷や汗が無ければ、マネキンと区別がつかないくらいだ。
「まあ、適正を何も見ずにいきなり、というのは確かに突然過ぎるかもね。一応面接らしきことはしようか。結果は見えてるけど。まず、あなたの名前は?」
「は、はいっっっ。れ、レイセンです」
「あー、やっぱり。依姫様の所の玉兎だよね」
鈴瑚がそう言うとレイセンは頷いた。鈴瑚はこめかみに手を当てて考え込む姿勢をとっていた。
「私らはね、情報収集を主な仕事にしているのだけれど、集めている情報には玉兎のものもある。集めている最大の目的は、適材適所に人材を配置する為。例えば、清蘭っているじゃん。あいつは射撃に関して特殊な才能があるから、引っ張ってきてイーグルラヴィの前線部隊に配置した。まあ彼女自身はこっちの工作には気がつかなくて、じゃんけんに負けたから配属されたくらいに思っているけれど」
鈴瑚はまたレイセンにペンを向けた。
「ともあれ特殊な才のある玉兎ならこっちの耳に何かしら入るのだけれど、あなたに関しては何も無い。残念ながらそういうことね。ただそうなると、なぜそんなのが依姫様の直属なのかという疑問が出てくる。教えてよ。そうなった経緯を」
今度はレイセンの方が考え込むように目を閉じて、そして開いた。
「もともと私は薬搗きに配属された玉兎でした。しかし、その暮らしに嫌気がさして地上に逃亡したことがあったのです。ご存知ありませんか?」
「いや。もしかしたら調べたことはあったかもしれないけれど、仕事を減らす、ああ、効率化に繋がらないことは直ぐに忘れちゃうからねえ」
「そうですか。で、結局逃亡は色々あって失敗して、ただ薬搗きにも戻れないので、私を保護して下さった依姫様の元で働かせていただくことになったのです。なので、特に特別な才能があるとかは全然ないです」
レイセンは言い切って静かに息を吐いた。我ながら実につまらない話だ。これなら鈴瑚も失望して自分に任務を任せようとは思わないだろう。
……そう思っていたのだが、なぜか鈴瑚は拍手喝采していた。
「いやー、実に素晴らしい! 地上に行ったことあるんだ。経験者とは心強いねえ。」
「あのー、話最後まで聞いていました? 戦いに関してはからっきしなんですよ?」
「大丈夫大丈夫。前線の玉兎からも被害報告が出ていないってことは、恐らく安全だろうし。それに、目的は殲滅じゃなくて偵察だからね。血の気が無いのはむしろ好都合だよ」
これ以上何か言っても既に大概深くなった墓穴を更に掘り下げる結果にしかならないだろうとレイセンは悟った。彼女には渋々ながらも、鈴瑚の申し出に同意する以外の選択肢は残されていなかったのだ。
†
レイセンは足早に前線へと向かっていた。前線までの領域では生命が失われつつあり、無防備に歩いていても襲われることは無い。それに、引き受けたとはいえ嫌嫌だ、こんな任務、とっとと終わらせてしまいたいと考えていた。
浄化が終わった世界は一面の灰色だったが、程なくして地平線の縁が木の葉の緑に染まり、レイセンが歩を進めるごとにそれはせり上がっていった。
レイセンは、前に豊姫様が写生をしていたときのことを思い出した。真っ白なキャンバスの上で豊姫様が筆を走らせると、筆の一走りごとに白一色から色づいた領域の広さとその種類が増えてゆき、やがて一つの世界がイーゼルに立てかけられた二次元の世界に構築される。
この世界もまた、一人の著名な画家が彩りを加えている最中なのではなかろうか。いや、私が動くごとに着色が進んでいくのだから、画家とは私自身なのかも。そうであるならば、私の画力は意外と悪くはない。ただ、色使いが荒いことが残念だ。これでは「桃源郷」ではない。「雑木」林だ。乱雑に、穢れに分類される植生を集めてしまっている。
そんなことを考えていたが、前線に近づき他の玉兎に話しかけられたことでレイセンは現実世界に引き戻された。停止している前線を担当している玉兎は、一旦その場で防衛線を引くように鈴瑚から指示されていた。とはいえ今のところ敵らしい敵もいないので、防衛線担当の玉兎は相当暇しているようだ。レイセンも同じ立場だったならそうしていただろうという意味で、彼女達の気持ちは分かる。ただ、彼女達と違ってレイセンは暇では無い。それに、話しかけてきた玉兎のせいで、夢から荒っぽく起こされたような不快感も少し覚えていたのでますます長話する気にはならなかった。「お互い大変だねー」「そうだねー」といった他愛のない挨拶に留めて、更に歩を早めて玉兎の前線を通過した。
すなわち全方向色づいた世界への突入。それも、桃の果樹園や優曇華の木で構成された穢れなき林ではない。穢れ、もとい生命力に満ち溢れた、鬱蒼と生い茂る大森林である。レイセンは世界の複雑さにこめかみを手で抑えながらどうにかして慣れて、目がチカチカしなくなったのを待ってから内部探索に踏み切った。
しかし、そこから二時間程、腰の高さまで伸びた笹や雑草をへし折って、草の海を泳ぐかのように歩き回っていたが、何の手がかりも得られなかった。
レイセンは、浄化機械の誤動作を引き起こしたこの領域は人為的なものと考えていた。自然にできたものにしては直線的過ぎる。確か鈴瑚も同じことを言っていたので、この推察は正しいと見なして良いだろう。そして、人為的な領域なら中に文明的な手がかりがあると思っていた。だが、それを未だに発見できていない。
前に地上に降り立ったとき、神社と八意様の居宅とを訪れた。その時の地上も――極めて意外なことには八意様の居宅周りすらも――酷い田舎だったが、少なくとも道らしい道はあった。ところが自分が今歩いているここには、道すら無いのだ。
レイセンは時計を見ていない。鈴瑚から報告は最後にまとめてすれば大丈夫と伝えられており、定例報告をする必要が無いためだ。テレパシーで他の玉兎達の報告が聞こえて来なければ、ここに入ってから二時間以上経っていることも彼女には分からなかっただろう。今や、彼女は一番時間にルーズな玉兎だった。それでも、二時間という時間経過を知れば多少の焦りを覚える。
焦りながらも残った理性で、とにかく道を探す、という方針を立てた。道さえ見つければ、そこをなぞることにより、領域に住む人と接触できるはずだからである。
問題は、道がどこにあるのかということである。地形に沿っている、ということは予想できたが、残念ながらレイセンは、いや、玉兎の誰も、この山の詳細な地図を持っていない。レイセンは諦めて息を吐いた。結局やることは変わらないのだ。手がかりを求めて前へ、前へ、前へ……。
注意散漫なレイセンは、盛り上がった木の根に気がつかず、それに足をとられてしまった。とっさに受け身をとって怪我だけは防いだが、受け身の姿勢のまま起き上がることができず、斜面を滑り落ちていった。
斜面が緩やかになったところで止まったレイセンは、誰も見ていないということは分かりつつも、バツが悪そうに立ち上がった。呼吸と気持ちを落ち着けるために辺りを見渡していると、自分が立っている場所と、その左右が、少し踏み固められていることに気がついた。
もしや、と思って踏み固められている場所に少し沿ってみると、どうやらそれは道状に繋がっていた。前に地上に降りた時に見たものより更に貧相だが、道は道だ。
気が緩みかけたところで何かが近づいてくる音が聞こえ、レイセンは反射的に横の茂みに姿を隠した。兎の耳でやっと聞こえる微かな音だ。慎重な獣か、それとも音を消すということを知っている知性体か。
「隠れてねえで出てきたらどうだ。何、取って食ったりはしねえよ」
後者のようだ。だから信頼できるということは全く無いのだが、バレている以上隠れていても良いことはない。レイセンは観念して茂みから出た。
声の主は女性だった。服の造形も単純な肩掛けの上着と巻きスカートなようで、細かいところに拘りが見受けられる。ただ全体としては荒々しさが目につく。外見は全然違うが、前に見た紅白の巫女にある種近いオーラをレイセンは感じ取った。
「その銃、おめえ、マタギか?」
マタギ、とは猟師の別称だったか。動物を狩るという穢れた行為に、複数の語彙を割く程の多様性があるという風土がレイセンにとっては異質だった。
それでも、兵士と正しく理解されるよりは、猟師と誤解してもらったほうが穏便に話は進むだろう。レイセンは彼女の右手を見た。あんな大きなナタを持った得体のしれない人と真っ向から戦いたくはない。
「ええ。私は余所から来ました。レイセンと申します」
「そうか。迷ったんかな。うちは坂田ネムノだ」
ネムノはレイセンが余所から来たと聞いて一瞬眉をひそめたが、すぐに敵意を解いた。恐らくはレイセンから悪意を感じなかったためだろう。
「なあ、あんた、せっかくだし狩りを手伝ってはくれねえか? なーに、手伝ってくれた分はちゃんと食わせてやるよ」
レイセンには狩猟経験など無いが、手がかりをみすみす逃すわけにはいかない。ネムノに適当について行って、それらしい動物に向けて適当に一発撃てば良いだろう。レイセンは黙って頷いた。
†
レイセンは、軽い気持ちでネムノについて行ったことを少し後悔していた。
狩猟というものは、その大半が移動時間である。獲物の手がかりを求めて、ろくに整備されていない山の斜面を歩き続けなければならない。依姫様のもとでしごかれていたので、持久力という意味では問題ないが、草木を乱雑に編んで間に石を転がしたかのような地面を歩くというのは神経を使う。
ネムノが今回狙っている獲物は猪という動物らしい。厳密な縄張りは持たないが、よく使う道があったり、何かをした跡を残したりしているから、それで居場所を特定するとのことだった。当然レイセンはそんな知識は有していない。
「おー。木の下が剥がれとる。猪はここ通って下に下って行ったんだろな」
ネムノが細い木の根元をナタの背で叩き、そのナタで斜面の方を指さした。レイセンは近づいて、なるほど、木の下の方の皮が剥がれているな、ということだけを確認した。本当に猪という動物の仕業なのか、そうだとしてなんのためにそうしたのか、彼女の脳内では何一つ結びついていない。
「これはヌタ場だな」
「ヌタ場?」
「あんたんとこではその言い方はしないんか。猪が泥浴びするところだべ」
次にネムノが見つけたのは泥の水たまりのような場所だった。言い換えてもらった内容からすると、猪という動物は泥で体を洗うらしい。……泥で!? 溜まっているのは、清浄とは程遠い、茶色の土と水との混合物である。地上とは穢れた地。その穢れ具合はレイセンの想像を遥かに超えていた。
月人と異なり、玉兎は戦いという死穢に晒されることもあり不死では無い。死んだ後は輪廻転生の輪に組み込まれるが、畜生道に堕ちることだけは避けたいものだと、レイセンは強く願った。そして、ネムノはこれを狩猟、つまり食べるために探しているのだ。こんな穢らわしいものを食べる! 畜生道に堕ちないことは最低限の目標でしかない。来世で地上に堕とされることが無いように、「良く」生きなければならない。レイセンはヌタ場から感じた穢れに顔をしかめかけたが、ネムノに気取られては良くないと、平静を保つよう努めた。
ヌタ場を最後にネムノの説明は無くなり、二人は黙って山を歩いていた。レイセンは、ネムノが猪に向かって着実に進んでいるのか、はたまた手がかりを失ってあてもなくさまよっているだけなのか、判断がつかなかった。
太陽がレイセンの顔面を温めた。その角度と方角は、午後に入ってだいぶ経ってしまっていることを物語っている。長らく歩いていてネムノ以外に文明を有する存在に会っていないので、結界の主が彼女であることは間違いない。あとは彼女から話を聞き出せば任務は完了するが、その機会を得るためにはまず狩猟を終わらせなければならない。レイセンは、自分達が猪の方に向かっていることを切に願った。
レイセンがそんなことを考えていると、ネムノが突然足を止めた。聞き耳を立てるように左右に首を振り、そしてレイセンの方を見た。
「猪が近い。うちがセコをやるから、出てきた猪をそいつで撃ってくんろ」
そして、ネムノは左手のひらを見せてレイセンをその場に留めつつ、先の茂みの中に消えていった。大柄で荒々しい見た目に似合わず、音もなく静かに。
一人残されたレイセンは呆然としていた。「セコ」という単語の意味は不明だが、他の部分や文脈から、自分に課せられた役割は分かる。ネムノが猪を追いかけて、レイセンの眼の前に飛び出してくるように仕向けるから、それを撃てということなのだろう。
ただ、一つ重大な問題があって、レイセンは猪の見た目を知らないのである。撃つ瞬間に隣にネムノがいて、「あれが猪だ」と教えてくれる状況ばかり想像しており、この可能性を失念していた。猟師を偽っている以上、まさか「猪の見た目は?」などということ、どの道聞く訳にはいかなかったというのはそうなのだが……。
レイセンは首を振った。いや、頭の中の想像がいくらおぼろげであろうと、引き金は引かねばならぬのだ。知識としての猪の判別はできないが、本能的に獣のイメージはある。第一、ここまでネムノ以外に動くものを鳥と妖精以外見ていない。ネムノ以外に地上を走るものがいたら、それが猪なのだ。
レイセンは身を隠して深呼吸し、念の為着剣してから、銃弾を装填して安全装置を外した。レイセンらの部隊に支給された銃は、旧式のボルトアクション式である。猪という獣の速さは分からないが、一発目を外してしまったら二発目を撃つ時間は無いだろう。彼女の射撃成績を考えると心もとないが、今の彼女はそのことは忘却していた。少なくともこの場に限っては、彼女こそ最強の狙撃手なのだ。
突然、右耳に怒号が入ってきた。反射的にそちらを向いたが、大きく声色が変わっているとはいえ、怒号の主はネムノだということにすぐに気がついた。なるほどこれが「セコ」、推測するならば追い立て役なのだろう。で、あるならばすぐに猪が飛び出してくる。レイセンは顔を照準の裏側に戻した。
茂みが揺れて、黒い塊が飛び出す。レイセンは、黒い塊の縁が茂みからはみ出た辺りで引き金を引いた。パーンという高い炸裂音が鳴り、火薬の臭いがレイセンの鼻を刺激した。ボルトを引いて薬莢を吐き出す。薬莢が地面を転がる音は、猪が倒れる音に重なって、聞こえることはないだろう……。
そう思っていたのだが、薬莢の音に重なったのは、茂みの中をガサゴソという音だった。嫌な予感がして、レイセンは銃剣を音の方向に向けながら後ずさる。
「良い腕だな。だがな……」
ネムノがナタを振りかぶりながら、レイセンの頭を飛び越えた。
「ここの猪はしぶといんだ!」
一瞬だった。今度は先程レイセンがいた場所の左前の茂みから黒い塊が飛び出し、ネムノと正面衝突した。いや、塊はネムノの右脇をかすめ、そこにネムノが勢いよくナタを振り下ろした。
塊はその場に落ちるように動きを止めた。駆け寄ったレイセンに見せつけるように、ネムノはそれを指さした。
「ほら、心臓撃ち抜かれたのにこの有様だ。外の奴がどおかは知らんが、ここの猪はしつけえんだ」
レイセンは生まれてはじめて獣というものを見た。ブクブクに太った体に、上向きに曲がった牙を備えた長鼻の顔。猪という名前の獣だという事前知識が無ければ悪魔の化身か何かと思っていたかもしれない。ただネムノが指さした猪の出血場所。これが心臓の場所だとしてそれを起点に改めて観察すると、我々と大きく体の構造が異なるということはないのだろう。
そして、上手く心臓に当てることができたという高揚感を改めて噛み締めるとともに、それが致命傷ではなかったことにも気が付き、この猪、そしてそれの首を叩き割るようにして息の根を止めたネムノに対して、畏敬の念のようなものをレイセンは抱いていた。
†
ネムノはレイセンが開けた心臓の傷の辺りにナタを差し込んだ。どこにそんな血が残っていたのか、というくらい、赤い液体が噴出する。レイセンは、こうも容易く、心というものは凪を保つことができるのかと、凄惨な光景を前にしてなお動揺しない自分の精神に驚いていた。
ネムノは手漕ぎのポンプで水を吸い出すが如く猪の足を前後に漕ぎながら、レイセンに話しかけた。
「早めに血い抜かねえと味落ちるからな。まあうちはあまり気にしねえんだけど。手伝ってくんろ」
ネムノは左の足を動かしていたので、レイセンは右の後ろ足をそれらしく動かした。それで良かったらしく、ネムノは猪の胸の方を見ていた。
「ま、このくらいだろ。家まで持ち帰るとすっぺ」
ネムノは細めの木をナタで叩き折って、それに猪の両足を括り付けた。流石にレイセンも意図するところは分かる。ネムノが棒の前を、レイセンは後ろを持ち、ネムノの家へと猪を運んだ。
ただ、レイセンにとっては少々面倒な状況になりつつあった。元々は狩りに誘われただけで、それが終わったらここのことを聞いて帰ろうと思っていたのだが、狩りをして、その肉を食べるところまでがミッションのようだ。
やむを得ない事情から地上の穢れを口に含んだ場合の処置体制はあるはずだが、その場合でもなるべく穢れの少ないものを選ぶようにと、訓練でも厳命されていた。ジビエという、地上の食べ物の中でも最上位の穢れを食べる事態は想定されているのだろうか。
レイセンは、テレパシーで鈴瑚に確認をとった。緊急通信に対して鈴瑚はたいそう不機嫌そうにしていたが、返事は得られた。少量なら問題無いだろう、重要参考人との接触を維持する方が重要度は高いということだった。
解釈のしようによっては、レイセンが月に戻れないレベルの穢れを負うリスクはあるが、玉兎一人の犠牲よりは確実な情報の確保を望むともとれる。ただ、レイセンはそこに気がつくことができるほど勘は良くないし、仮に勘づいていたとして、毒を飲むわけではないのだからと割り切っていただろう。
ネムノの家は、茅葺き屋根の掘っ立て小屋だった。今更この程度のことでは驚かない。むしろ、ここで家だけ近代的だったら、逆にそのミスマッチさに恐怖していただろう。
その家の前で、ネムノは猪を洗って解体を始めた。腹を開きながら、ネムノはレイセンに訪ねた。
「あんた、妖怪だよな?」
レイセンが頷くと、ネムノの手さばきが心持ち荒くなった気がする。人間に食べさせる場合配慮しなければならないが、体が頑丈な妖怪相手なら配慮しなくてもよい何かがあったのかもしれない。それが穢れに関わるのなら。レイセンは、耳を隠して人間と偽っておくべきだったと後悔した。
開かれた腹から、ネムノは内蔵を引き出し始めた。血だけなら、どこか現実離れしているようで何も感じなかったが、これはあまりにもリアル過ぎる。若干吐き気がこみ上げてきて、レイセンは猪から目を反らした。
「何か手伝うことありますか?」
「そだな。湯を沸かして欲しいんだけれど、うちの設備使えっかな……」
「あ、火はこれで起こしても良いですか?」
レイセンはマッチの箱を取り出してネムノに見せた。説明しないといけないな、と思ったが、意外にもネムノはマッチを知っていて、それで良いとのことだった。
かくしてレイセンは猪から解放された。マッチを使うとはいえ、大鍋に井戸から水を入れて、薪をくべて、マッチの火をそれに広げて、火吹竹で空気を送って、という手順は重労働だったが、地上派遣前に経験したサバイバル訓練よりかは文明的だったし、何よりあのグロテスクな物を見なくても済む、というだけでも天国だった。
「おおご苦労さん。後は鍋を作るだけだからゆっくりしといて」
レイセンが湯が沸騰したことを告げに行ったときには、解体作業はもう終わっていて、肉の山と骨、板に貼り付けにされた皮に分離していた。ネムノはそこから肉だけ持って、小屋の中に入っていった。
レイセンは骨と皮を眺めた。特に皮の方なんかは、そういう拷問と言われて納得してしまうような凄惨さがあるはずなのだが、内蔵が引き出される様を見たときのような拒否感は覚えなかった。これもまた穢れであり美しいとは全く思わないが、穢れの程度としてはそこまででは無いということなのだろう。
八意様は地上で医者をやっていると伺っている。引きずり出された内蔵、広げられた皮、むき出しの骨、毎日診ているとは言わないまでも、これに近いものを診ることはあるだろう。医者であるからして、そこから穢れの程度以外の情報を読み取っておられるはずだ。皮はまだ穢れが少ないから見てられるな、などと考えている私ごときには到底たどり着くことのできない境地である。あのとき、八意様が私の地上亡命を拒絶して下さったことは改めて幸運だったと思う。
「できたぞー」
ネムノがレイセンを呼びに声を挙げた。本題を思い出したレイセンは小屋に入った。
小屋の中は凄い臭いだった。肉の臭みもそうなのだが、植物質の強い臭いも何種類かする。臭いの発生源が一箇所、囲炉裏の中央に置かれた鍋であるからにして、これは料理の臭いということである。月の料理が淡い水彩画なのだとすれば、地上の料理はペンキをぶち撒けたものだ。そして、何が驚きかといえば、これをレイセンの脳は料理と認識しているのである。
「あっ、そんなにいらないです」
「そうか? 食わねえと大きくなれねえよ?」
「いえいえ、もう十分大きくなったので」
大柄のネムノと小さなレイセンは、それに合わせるかのように大盛りに盛られたお椀と半分だけ汁が入ったお椀を前に置いていた。
「いただきます」
レイセンは汁を口に運んだ。料理の味は、臭いを嗅いだときと同一である。洗練された月の料理と比べ、あまりにも無骨であまりにも無秩序。ただ、不思議なことに、それは確かに料理なのである。
異国の料理というのはこのように感じるのだろうとレイセンは思った。レイセンの精神は国際的ではないようで、違和感はあるが、それでもこれはこれで、と思う。鈴瑚なんかは「こういうのでいいんだよこういうので」と言いながら食べそうである。
ネムノはレイセンの心境を知っているのかいないのか、猪鍋をゆっくりと口に運ぶレイセンを、ニコニコしながら眺めていた。
†
二人は猪鍋を食べ終え、小屋の中は、たまに囲炉裏の中の火がパチパチと爆ぜる以外は無音になっていた。レイセンは、話を切り出すなら今だと思った。
「なあ、聞きたいことがあんだけど」
しかし、意外にも、先に口を開いたのはネムノの方だった。
「あんた、本当はマタギじゃないだろ。なにもんなんだ?」
レイセンは、右手を探って銃が触れることを確認した。幸い狩りの際には一発しか撃っていないので、まだ弾は残っている。日は落ちているが、この至近距離に囲炉裏の火も合わさっているから、当てることはそう難しくはない。
逆に、いざとなれば直ぐに応戦できるのだから、急いで今動く意味は薄い。ネムノの声も少し非難がましくはあるが、敵意を向けているのではなさそうである。むしろ好戦的に返してしまうと、この場は危険になるかもしれない。
「はい。本当は兵士なのです。お気づきになられましたか」
「まあな。いくらなんでも山に慣れていなさ過ぎる。それに、迷い込んだマタギにも、迷い込んだ兵士にも、会ったことがあんだけれど、持ってる銃の形が違うよな。あんたの銃は見たことないけど、どっちかというと兵士だな」
「前にも兵士を名乗る者がここに?」
「何十年も前のことだな。それに、あんたみたいな妖怪じゃなくて、人間で、カーキ色の服を着ていた。痩せこけて血まみれでね、うちを見るなり『ああ、鬼がいる。やはり私は地獄に堕ちたのか』なんて言うんだ。酷いもんだ」
ネムノは憤りながらもその表情はどこか昔を懐かしんでいるようだった。レイセンは兵士がここに来たことがあると聞いて、先代の「鈴仙」のことかと思ったが、無関係だった。まあ、何故かネムノがマッチを知っていた理由は分かった。その兵士が持っていたのだろう。
「ただ、あんたは迷ったという感じでもなさそうだな」
「ええ。白状しますと、ここには調査の為に来たのです」
レイセンは、浄化機械の写真をネムノに見せた。
「写真……? 天狗の手下か?」
「てんぐ? いえ。……えっと、元々はその機械を使って調査を行う予定だったのですが、何故か機械があなたのいる領域に入ってくれなくて、で、何か理由をご存知では無いかと……」
「知らん。こんなもの、見たこと無いしな」
ネムノはぶっきらぼうに写真を突っ返したが、何かひらめいたように話を続けた。
「いや、心当たりはあるな。うちらは縄張りに結界を張って敵が入らないようにしてる。悪意があるのはうちらの領域には入れねんだけども、まさかな」
ネムノはレイセンをギロリと睨んだ。
「い、いえ、本当にその機械は調査の為だけのもので、悪意だなんてそんな」
レイセンは雑に嘘をついたが、ネムノは見破ろうとすらしなかった。さほど興味はないのだろう。
「ま、レディを覗き見ようってのが既に悪意だからな。天狗が良い例だべ。あんたは天狗の手下じゃないんだから、それだけでまあまあ信頼はできる。それに、実害が無いならまあどうでもいいか。ところで、調査ってのはどのくらいの広さでやるつもりなんだ」
「幻想郷全体ですね。私達は幻想郷の外から来てまして」
「ふーん。うちには関係ないけど、まあまあ色んな動きが起きてんのな。しかし、幻想郷ってのは結構広いぞ? うちらみたいな慎ましい山姥が忠告しても説得力ないかもしれねけど」
レイセンは、ネムノはそんな慎ましいか? と思ったが、世界を一個浄化しようとしている我々に比べれば大層なミニマリストだろう。だいたいこの流れなら殺されていてもおかしく無かったのに、何もされないどころか忠告までしてくれるのだから菩薩並みの慈悲の持ち主である。
夜は完全に更けてしまっていた。調査としては終わっており、これ以上ネムノの優しさに甘える意味は無い。玉兎の侵略を防ぐ為に右手のナタを振り下ろすという選択肢に彼女が気がついてそれを採用する前に立ち去るべきだろう。
「ご忠告、気に留めておきます。私はこれで失礼しますね」
銃を肩にかけ、それ以上の荷物は無いのでレイセンは小屋を出た。数歩歩いたところで、言い忘れていたことがあったと気がついて振り返り、まだ玄関先にいたネムノに声をかけた。
「あ、短い間ですけれど、色々お世話になりました。猪鍋、美味しかったです」
†
レイセンは基地への帰路を歩み始めた。ネムノの結界に入ってから散々動き回っており、往路をそのまま辿って、というのは不可能だったが、方位磁石を持っているので、大まかな方角と標高を念頭に置けば脱出はそう難しくはない。
昼間のような色鮮やかな変化はなく、木の生えた漆黒から木のない漆黒へと、味気ない踏破で浄化済みの領域へと戻った。正味半日にして地上の景色に慣れてしまっていたので、レイセンは正直物足りなさを覚えていた。月に戻ったら絵を始めてみようか。それで、地上の景色を描く。……色使いが子供っぽいと、豊姫様に笑われるだろうか。
行きと違い、境界近くの玉兎に話しかけられることは無かった。暗くて距離も遠いので単に気が付かれなかったのかと思ったが、それだけではないらしい。何やら恐慌状態にあるようだ。レイセンは煩わしさから、ネムノに出会ったあたりからはテレパシーを聞かないようにしており気づくことは無かったのだが、日が落ちる前、丁度レイセンが鈴瑚に通信をした直後、イーグルラヴィの清蘭が幻想郷から派遣された刺客と交戦、撃破されるという事態が生じていた。
レイセンは嫌な予感がしてテレパシーに耳を向けなおした。絶叫にも似た前線玉兎側からの通信が脳内をかき乱すが、基地側からのテレパシーは飛んでこない。レイセンは走って小屋へと急いだ。
湖が見えた。レイセンは弾幕飛び交う事態を予想し、着剣した歩兵銃を体の前に持ちながら走っていたが、その予想に反して湖も、その周りも静寂に包まれていた。水面は凪いで、高く登った満月を鏡のように映し、走って火照ったレイセンの体を冷ます気など一切無いと言いたげな真夏の微風が木々の葉を微かに揺らしていた。そして、湖の畔で、黄色の服の玉兎が、煙草をふかしているかのように団子の串を咥えて、あぐらをかいていた。鈴瑚だ。
「ただいま戻りました」
「ああご苦労さん。疲れてるみたいだね、座りなよ」
「その怪我、大丈夫ですか?」
鈴瑚は体の数箇所にすり傷のような怪我を負っていた。だがまるで一切怪我をしていないかのように、鈴瑚は悠然と構えていた。
「たいしたことは無いよ。知っているとは思うけれど、地上の人達が、あー、地上の奴らと『鈴仙』が、カチコミに来てね」
「ああ、すみません、実は通信がしばらく切れていまして……。その感じだと撃退できたんですかね? 奴らは今どこに?」
鈴瑚は少し驚いた顔でレイセンを見つめた。「えっ、マジ? こいつ情報遅すぎない?」と言っているかのようだったが、直ぐに湖の方に顔を向け直した。
「いんや。負けた。というか、最初から疑念を持たれない程度に適当に戦ってから通す計画だったんだよ。あいつらなら多分今ここだよ」
そう言って、鈴瑚は湖の真ん中を串で指した。レイセンは、そのままの通りに地上人が湖に沈んだとは受け取らなかった。自分達も使ったのだから、その意味するところは容易に想像がつく。
「月……」
「夢の世界の、ね。私達が派遣されてからは現の方じゃなくて、夢の世界のものに接続先が変更されているから」
レイセンは、鈴瑚に報告する気力を八割ほど失っていた。全ては終わってしまった。私が内容を告げようが告げまいが、月の都の運命は変わらない。
「あの領域の様子はどうだった?」
だが、鈴瑚の方は、何事も無かったかのように情報を聞き出そうとしていた。それが「次の戦争」を視野に入れた布石なのか、単なるルーティンなのかは判別できないが、鈴瑚から報告するよう命令された、そのことが報告する気力を埋めた。レイセンは話し始めた。
「あれは、ネムノという山姥――私が接触していた妖怪ですが――が展開した結界によるものでした。悪意があるものの侵入を弾くとのことで、浄化が悪意と判定されたのではないかと」
「あの機械は探査の目的も兼ねていたけれど、探査の段階で弾かれた可能性は?」
「私が侵入できているのでその可能性は低いと思います」
「レイセンに悪意が無いからじゃない? ま、どっちでも良いか。機械浄化は万能では無いということね。ところで、探索した感想はどうだった?」
「えっ、そうですね……。立場上こういう単独での潜入任務は中々しないので良い経験に……」
レイセンは任務のデブリーフィング(軍隊用語で、作戦後の状況報告のこと)の一環で聞かれているのかと思い、それらしい方向性で答えたが、鈴瑚から途中で静止された。
「あー、そうじゃない、そうじゃない。あんたがあの場で何を感じ取ったのかってこと」
「変な所でしたね。確かに私は一度地上に降りたことはありますが、そのときも今回も、やっぱり地上は変な所でした」
「変な所」
「穢れも変化も大きすぎるのです。私のような凡人には適応できそうにもない」
「凡人、というのは卑下だと思うよ。多分正しくは気質の差ね。前に月で紅白の巫女に会ったことがあるんだけれど、あいつは月の都を『こんな退屈な所に好き好んで住むやつの気が知れない』って言ってた」
鈴瑚はレイセンへの慰めと事実の訂正の為に巫女の例を引いたのだろうが、レイセンには、鈴瑚が巫女の肩を持っているかのような言い振りだったのが少し引っかかった。
「そういや、猪鍋食べたって言ってたじゃん。あれどうだったの?」
「表現が難しいですね……。何故か食べ物の味だってなりますし、結構美味しいのですけど、月のどの食べ物とも似ていないんですよ。臭いというかクセが強いというか」
「ふーん。ま、見たところ予後不良も無いみたいだし、普通の穢れ除去の手続きで終わるでしょうね。こっちから口添えはしとくから、穢れの強さに嫌味を言われることもないと思うよ」
「ありがとうございます」
「随分長いこと引き止めてしまったね。ごめんね」
「そうですか? 多分十分も経っていないですよ」
鈴瑚は小屋の方へ、いや、小屋があった方へと首を向けた。
「任務含めてってことよ。あんたのお仲間はとっくに帰ったわ。あんたも帰りなさんな。帰還方法は分かるよね?」
「薬を飲んで湖の月へと入る」
「そ。ま、月の都も今頃大混乱だろうからしばらく待たされるかもね」
「鈴瑚さんは?」
レイセンは既に湖の月の直上へと飛び、薬を飲んでいた。これは睡眠薬も兼ねているので、鈴瑚との会話に残された時間はそう長くは無い。
「イーグルラヴィが全然戻ってきていないからね。それが終わったら……」
レイセンは月に倒れ込んだ。まだ意識は完全には喪失していないが、鈴瑚の最後の言葉は聞こえなかった。そもそも途中で言葉を切ったのだろう。
「じゃあね」
鈴瑚が最後に言葉をつぐんだこと、別れの挨拶で締めたこと、どことなく引っかかったが、その疑問を咀嚼する暇もなく、レイセンは夢の世界へと堕ちていった。
†
レイセンが目覚めたときには、地上から離脱してから数日が経過していた。鈴瑚の忠告通り、混乱した事態の収束を優先させるために玉兎達の覚醒は後回しにされていたらしい。
起きて早々、レイセンはここ数日何が起こったのかを聞かされた。結局、地上からの刺客は、サグメ様も、月の都に混乱を引き起こした元凶達も、両方ボコボコにして帰還していったらしい。形の上では、私達は地上に敗北したのだろうか?
しかし、現への帰還を間近に控えた月の都は、むしろ歓喜に沸き立っているようにも見えた。サグメ様も殴られたとはいえ、地上人の実力を測るという側面が大きく、噂に反して実際には無傷だった。台風一過ですらない。まるで、台風など、最初から来ていなかったかのようだった。
レイセンは訓練場へと戻った。先に戻った隊の仲間は訓練に励んでいた。依姫様がいるのだろう。その分析は当たっていて、門をくぐって早々、依姫様に声をかけられた。
「任務ご苦労さま。早速で悪いけれど、話があるから来てくれる?」
何かやらかしたのかと心臓が跳ね上がったが、どうにも心当たりは無い。それに、客間に通された挙げ句、玉兎の一人が依姫様の分と私の分、二人分のお茶を置いていった。
「最近、仕事とか訓練とかで、辛いことはない?」
やらかしたことへの叱責ではなく、気遣いだった。依姫様は決して悪人ではないが、他の月人と同様、玉兎を表立って気遣うような言動をすることはあまりなかった。だから、こういう発言をすることがレイセンにとっては意外だった。それに、やらかしたことに心当たりが無いのと同様、気を病む事柄も、心当たりは無い。
「いえ。得にはありません」
「そう。なら良いのだけれど。これをしているのはカウンセリングの為でもある。何かあったのなら、今すぐでも後からでも私に連絡して」
「えっと、すみません。どうして急にこんな」
「そうね、いずれ耳に入ることでしょうけど先に伝えておいた方が良いわね」
依姫様は少しだけお茶に口をつけた。
「実は、地上浄化作戦に携わっていた玉兎が二名脱走した。逃亡の原因は不明だけれど、状況証拠から一番可能性が高いのが両名の劣悪な労働環境で、だからこうやって、他にもそういう苦しみを抱えた玉兎がいないか確認しているの」
依姫はレイセンの表情を観察した。話を聞いて、やや動揺しているようだが、自分自身に思い当たる節があるからというより、他者に関することが要因に思える。今はまだ、変に詮索する段階ではないだろう。
「本当に、仕事に対する不満は無いのね。それは確かにあなたの美徳なのだけれど……」
依姫は、珍しく苦慮の表情を浮かべていた。
「うん。あなたは他の玉兎と比べても、突出して高い忠誠心を私達に向けている。……逃亡が失敗してからの話ね。出世という点で、このことは大きな武器になる。多分あなた自身も信じないでしょうけど、長い目でみたら、あなたはいずれ、この防衛隊の隊長の座に就いていると予想するわ。徒競走で亀が兎に逆転勝利するように」
レイセン自身としては、兎なのに亀の方に比喩されたことは心外といえば心外だったが、そのおっとりとした性格を内省してむべなるかなと思い直した。
「将来のリーダーとして、理念の学び直しが必要ね」
「何か、私の態度で間違っていることがあるのですか?」
「あなたの心持ちは満点よ。組織の下層としてはね。ただ、上の立場になると、考えなければならない要素が増えるの。月の都の基本理念は覚えている?」
「穢れなき安定、ですよね」
「そう。そして、穢れの否定。これはあなたがどの立場にあろうと変わらない。しかし、安定という単語は、地位においてそれをどのように重んじるべきかが変わる。見たところ、あなたは安定を不変という意味合いで捉えている。代わり映えのしない生活を厭い地上に逃亡したあなたが。恐らくは地上での経験の結果でしょうね。違うかしら?」
レイセンは正直に答えた。嘘をつくつもりは最初から無かったし、仮に嘘をついたとして、依姫様の洞察から逃げ切ることは不可能だろう。
「仰るとおりです。変化にもまれる生活は、未熟な私には荷が重すぎました。私は安寧を欲していて、安寧を与えてくださるこの地を守護していきたいのです」
依姫様は、「なるほどね」と言って席を外し、数分経ってから戻ってきた。その手には、切られた桃が乗せられた皿があった。
「どうぞ」
「えっ、大丈夫なのですか?」
「私はお姉様とは違って、勝手に桃をもぐなんてことはしないわよ」
そう言って、依姫様は桃を一切れとって口に含んだ。あの依姫様がそうしているのだから、これは食べても大丈夫な桃なのだろう。
「あっ、美味しい」
「作戦前にお姉様が桃を差し入れたでしょう。あれは多分ちゃんと熟していなかったわね。今は熟れているわ」
豊姫様が桃を差し入れたときに「依姫にはナイショね」と仰っていた記憶がある。誰も口は滑らせていなかっただろうが、結局当の依姫様本人にはバレバレだったのだ。幸い、そのことを叱責するつもりは無いようだが。
「桃が熟れることからも分かると思うけれど、月の都は不変ではないの。穢れに繋がる混沌は以ての外だから、安定を不変と捉えることは、社会の構成員の大半においては正しい。だけれど、理として動くべきものを不変に留めておくと、必ずどこかで歪みになる。かつての政変騒ぎや、今回の事件もある種の歪みね」
レイセンは、月の都が八意派と反八意派で割れていたときのことを思い返していた。下っ端兵士のレイセンは、永琳や綿月姉妹の使者として動いた以上の当事者性は無く、玉兎間で伝達されたゴシップで歪められた記憶だったが、それでもあの狂騒を振り返り、身の毛がよだつ思いになった。
「不変に留まるためには、全力で走り続けなければいけない。それも、がむしゃらにではなく、進むべき方向を制御しながら」
「そんなことが、私に……」
「今すぐにそうある必要はないわ。さっきも言ったけれど、長い目で見た話だし、それ以前にあなたはもっと地力をつけるべきだからね」
依姫は、桃の皿をレイセンの方へと押した。
「さ、話は終わったから、桃を食べたら行きなさい」
「はい。……ところで、桃はみんなに振る舞っておられるのですか?」
「いいえ。これは将来の隊長への餞別よ。角が立つかもしれないから、食べたことは秘密にね」
†
レイセンが所属する部隊、つまり依姫直属の部隊は比較的環境が良い。レイセンは、依姫様の指導は厳しいが、無茶振りはしてこないし、一人一人を人格ある個人としてよく見ていると信頼していた。実際、今回の作戦の前後で人員の欠けは発生しなかった。
だが、他の部隊は、必ずしもレイセンが所属する部隊ほど幸運ではなかったのだろう。
レイセンは、地上から離れる瞬間の鈴瑚の言動を、遅まきながら脳内で反復させていた。逃亡した玉兎の片方が鈴瑚なのだとしたら、イーグルラヴィの帰還を待って帰ると言わなかったこと、最後に「さよなら」と、一生の別れであるかのような挨拶をかけたこと、両方の辻褄が合う。案の定、噂話のレベルだが、逃げた片割れが鈴瑚であることはほぼ確証が取れていた。もう一人はレイセンには分からないが、他のイーグルラヴィを待っていたということは、イーグルラヴィメンバーの一人と予め共謀していたのだろう。
その日の夕方、レイセンは依姫に、静かの海へと散歩に行くと告げて外出した。玉兎の精神状態についてこれまでにないくらい皆神経を尖らせているので、この散歩もまた、監視の目がついているのだろう。それでも、誰かを同行させるとは言われなかっただけ、レイセンにとっては少し気が晴れることだった。
静かの海は、その名に恥じず、この日も静寂に包まれていた。さざ波の音以外、鼓膜を揺らすものは一切存在しない。ここは地球に一番近い海であり、その空と水面には、それぞれ地球が写っていた。鈴瑚ともう一人の玉兎は今、あの小さな珠のどこかにいる。
月の都のピラミッド構造の最下層で押しつぶされ、飛んでいってしまった二つの歯車。そう表現すると悲劇的なようだが、あの日の夜会話を交わしたレイセンからしてみれば、少なくとも鈴瑚には別の思惑があったのではないかと思う。あの時の鈴瑚は、地上に対して、憧憬の念を抱いていた。少なくとも彼女は前向きに、喜んで地上の暮らしを選んだのではないかという気がしてならない。
レイセンは口内で舌を回した。猪鍋についてのやり取りがあの場では最も印象的な話で、その味を思い出そうとしたのだ。
「壷なる御薬奉れ。穢き所の物聞こしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」。レイセンの舌は、月の桃の味を思い出すことはできたが、猪鍋の味を思い出すことはできなかった。体内の穢れを取り除く為に服用した薬は、記憶の穢れをも消し去っていた。あの、地上の穢れを用いないと表現することができない味は、今のレイセンには再現不可能なものになっていたのだ。レイセンは諦めて、ほのかな甘みだけを感じている舌を動かすのをやめた。
鈴瑚が逃亡した理由。それは月を嫌ったからか、地上を好いたからか。地上での出来事を五感も含めて記憶に呼び起こすことができれば、推測できたのかもしれない。それも、地球が見えるこの場所に来た目的だったが、今やそれは意味のない問いになっていた。
「衣着せつる人は、心異になるなりといふ」。月の都に身を包みながら地上の感覚を想起するなど、無理な話だったのだ。味覚だけではなく、例えば視覚においても、地上の木々がどのような色だったか、おぼろげにしか思い出すことができない。そのおぼろげに想起できる部分も多分月の植生と同じ色合いだからなのであって、穢れの色は忘却してしまっているのだろう。
確かなこととしては、どんな理由にせよ、鈴瑚は地上で生きることを選択し、それは叶えられたのだ。その行動力や胆力は羨ましくはあるが、ああなりたいとまでは、レイセンには思えなかった。
自分は、この地に足をつけて、玉兎としての使命を果たすより他ないのだ。今までも同じように使命を抱いていたが、それは単なる思考停止に過ぎなかった。だが、あの山で猪を撃った時の高揚感、地上の妖怪としばしの時を共に過ごしたことでいくらか広がった視野角、最後鈴瑚の真意に気が付いて共に付き従うのではなく一人帰還する道を選んだこと、穢れを取り除いてなお残った澄み切った記憶が、その信念に確かな裏付けを与えていた。
レイセンにとって鈴瑚は、もう絶対的に忠誠を誓うべき上司では無かった。思案して自分の感情に向き合って、ようやくそのことに気が付いた。鈴瑚は月の兎としての責務から逃げた。彼女自身がどういう意図で地上に堕ちたのだろうと、この客観的事実は消えない。私の双肩はまだ弱弱しいが、責務に負けない程度には強い。
地球の方を見つめて、舌を突き出した。ふてぶてしい弱虫への少しの軽蔑と、方向は違えども、それぞれの幸福を追い求める道を見つけた同族への最大限の餞別。
それが終わると、レイセンは地球を背にして家路へと歩き始めた。一つのコンプレックスは押しのけたが、それに慢心していてはそれこそ愚者である。依姫様のおっしゃる通り、私も変わり続けなければならないのだ。この楽園を保守するために。家に帰って休息をとり、明日からの訓練に備えるのはその第一段階である。この一歩は月の都にとってはちっぽけな一歩だが、私にとっては偉大な一歩なのだ。
「レイセンの成長」という部分が私にはあまり伝わらなかったからかも知れません。
鈴瑚、レイセン、ネムノというあまり見ない組み合わせは好き。
面白かったです。
上手い具合に書かれており、面白かったです
序盤を含めややテーマ外の文章が多かったかなとは思いますが、中盤から終盤まで面白く良かったです
おっかなびっくり地上を歩くレイセンの緊張感が伝わってくるようでした
一皮むけたレイセンが素晴らしかったです
内容面の話をしますと、ヌタ場の穢れに対して顔をしかめていたレイセンが、その後猪とネムノに畏敬の念を抱くところが、凄く好きですね。地上での経験を踏まえてレイセンが将来を強く意識するのも、物語として綺麗にまとまっていていいと思います。上司である鈴瑚との対比も良いです。
凄く良かったし、面白かったです!!!!
面白いのはレイセンのおっかなびっくり穢れ体験のパートだと思うのですが、個人的には小出しにして想像に任せる書き方をしているような鈴瑚の心情も楽しめました。
ただ強いてあくまで自分の好みを言うのであれば、レイセンのパートと鈴瑚のパートで分けるか、もう少しこの二つが混ざるようにするか(鈴瑚パートを濃くするとかとことんレイセン視点で描いたうえで鈴瑚の心情を描くとか)
そういった形の方が好きかもしれません。
続きや捕捉は必要ないと思ったうえで鈴瑚の心情の詳細をもっと知りたいななんて思いました。