畳は荒れている。河城にとりの部屋だった。にとりは突然の来客に鬱陶しさを感じながらも茶を出した。面倒そうに用件を聞かれた文は頭をかきながら、お茶を一口だけもらって友人の病状を告げた。
「え? 椛が風邪? それでお前だけきたのか、なんだ。……見舞いは行ったのかよ」
見舞い……?
文はにとりの口からでた言葉に困惑した。にとりも自分の口からでた言葉に当惑した。
ふたりは三人という永い付き合いの中で、互いが互いに見舞ったことなど一度として無かった。少なくとも、文とにとりの交友において見舞いなどということばはこれまで存在しなかったはずだった。しかしそれがどういうわけか、ふたりのなかに埋没していた一般常識はふいに現れ、交友という網目の上、球状になって転がり出た。交友を糸に準えるとすれば縦の糸がにとり、横の糸は文かもしれない。織りなす布はぼろぼろで、もはや網目と形容するのが相応しかった。たしかな一般常識には抗うことなどできもしない。文は、ああっ、盲点。といった表情で口を切る。
「見舞い……は、その。行ってないですね。えっと、じゃあ……」
「ああ。行くぞ、見舞い。いまから行くぞ」
よそよそしく、或いは不如意に、ふたりは立ち上がった。
見舞い
ふたりは見舞いの経験などはなく、一体全体どうしたらいいのかわからなかった。とりあえず里に出てみたはいいものの、どうして里にでてきてしまったのかさえわからなかった。そもそもふたりは一直線に椛の家に向かうつもりでいた。ただその道中、風邪を引いた白狼天狗の一匹をただ眺めに行くことの不毛さに気がついたのだ。では一体どうすれば見舞いはたのしくなるのか、それを相談する時間を取るため、迂回して里にでてきたのだった。
「見舞いっていっても、ただ見るだけじゃつまらないよな。でもさ、病人を前にして楽しむ方法なんて、わたしには思い浮かばないぞ」
「ええ。たしかに私も、まったく思い浮かびません……そもそも見舞いというのは、どういった目的で存在している文化なのか」
ふたりは白昼の里で立ち止まり、腕を組んで頭をひねった。どうにも思い浮かばない。にとりは悩みに悩みまくっているかのように唸って、渋々といったふうに提案をした。
「カフェ行く?」
「わ、名案。行きましょう」
ふたりはカフェに向かった。考えごとや議論をするのならばカフェがいちばんであるという偏見がふたりにはあった。ふたりして、カフェなぞ行くのは初めてだった。ちょっともしないうちにたどり着いたカフェのなか、ふたりは注文に手間取ってからやっとの思いで席につき、未曽有の苦い汁に舌を出して絶句した。こんなものを飲んでほんとうに頭が冴えたりするのだろうか、とにとりがコーヒーの効能を疑うと、文は、わからないです、とだけ答えた。
それからコーヒーの効能、その是非について小一時間ほど語り合ったあと、思い出したようににとりは見舞いとはなんぞやを切り出した。
「要するに、見舞いっていうのは病人を見に行くものだろう? 病人っていうのはさ、射命丸、おまえ、どんな状態のやつを指す言葉だと思う」
「なんです、藪から棒に。ええ? 病人ですか。そりゃあ、そのう……病気にかかってて、弱ってる、犬走椛のような軟弱天狗……」
そう! とにとりは声を張り上げる。どうやらカフェインが効いてきたようだ。自分はいま冴えている、言わんばかりに目を輝かせて口を開く。
「病人ってのはさ、そうなんだよ。病気にかかってて、弱ってて、つまり今にも死んでしまいそうなやつを指す言葉なのさ。これがつまりどういうことか、射命丸、おまえわかるか」
文は、わからないです、とだけ答えた。しかしその声といえばにとりの次の言葉への期待に満ちていた。自分はいまわくわくしている、言わんばかりに目を輝かせていた。
「つまり見舞いっていうのは、そんな死にかけのやつを見に行くって文化なんだ。見舞いってのはそう、要するに、そいつがいつ死んでもいいように見張ることを指す言葉なんだな。だって、困るだろう。死体は放置されると腐るし、腐った死体が放置されると、ほら。みんな、その、こまるから」
文は合点がいったように何度か深く頷いて、やおら拍手をし始める。にとりの言には射命丸文だけを納得させる説得力があった。そうと決まれば話は早かった。死にかけ、とはいえ死にかけのやつほどいつ死ぬんだかわからない、というのもにとりの言で、文はそれに納得した。つまり長丁場になることをふたりは覚悟したのである。屋内の長い退屈な時間をたのしく過ごす方法をふたりは知っていた。ふたりはカフェインで冴えた頭で暖簾を突っ切りカフェを出て、馴染みの酒屋に向かったのだった。
そうして酒を仕入れたふたりは椛の家へと向かうことにした。行きがけに適当なつまみも買って、死を見送るまでの長い時間に万全の対策を打った。たのしみですね、と文がわくわくしながら言うと、にとりも久々の酒盛りに同量の期待をもって文に答えた。そうこうしているうちに家の前までたどり着く。ふたりはチャイムを押して一寸待ったが、たのしみが余り待ちきれずに椛の家の戸を開けた。鍵は軒先の鉢植えの下に隠されていた。
「邪魔するよ! 椛、おまえ、風邪ひいたんだってな。でも安心しろ、わたしたちが見舞いにきてやったから」
「ええ、ええ。安心してください。ほら、こんなに買い物してきちゃいました」
椛は寝室にて病床に臥せっていた。傍らには氷嚢もあったから、どうやら発熱もあるようだった。騒々しいふたりの鳴き声に目を覚ました椛は文が下げた買い物ぶくろの重みをみて、息苦しそうに起き上がった。
「わ、わあ。すみません、ふたりとも……なんのお構いもできずに、それも、お見舞いだなんて……そんなにいっぱい、買ってきてもらっちゃったようで、申し訳ないです……」
礼よりも先だって謝罪ばかり出る様子から、たかが風邪ではあるが、椛はどうやらかなり弱っているようだった。そんな様子の椛をみて、ふたりは心配になった。
「おいおい、困るよ。そんな元気なさそうにされたら。こっちはわざわざこんなに買い込んで、見舞いにきてあげたんだからさ」
「そうですよ。元気出してください。まだ大丈夫ですって」
買ってきたぶんの酒が尽きるくらいまでは生きててもらわないと困る、という考えが文とにとりに共通する最悪で、そんなふたりの口から聞く励ましの言葉は椛にとっての幸せだった。自分はなんていい友達を持ったのだろうか、爆発秒読みの裏切り爆弾に椛は心底感謝していた。
「そんな、悪いですよう。果物とか食べ物なら、今朝がんばって買ってきましたから。そんなにいっぱい貰っても、腐らせちゃうかも……」
腐らせるもんか、とにとりが言って、そうさせないためにも我々が来たんです、と文が言った。椛は珍しくやさしいふたりに心を打たれて、すこしくらいなら甘えてしまってもいいかもしれない、とまで思えた。
「じゃあそのう。冷蔵庫にりんごがあるんですけど。その、剥いてきてくれたら、うれしいな……なんて」
ひどく照れ臭そうに言う椛にふたりは感激した。ちょうど日照りの中を歩いてきて、ふたりとも喉が渇いていた。
「そんな、なんだか悪いな。いいのかな、文」
「まあ、椛がいうならいいんじゃないですか。りんごもいずれ腐っちゃいますし、さっそく剥いてきちゃいましょう」
そういってふたりは台所へと向かっていった。椛は友愛としあわせを噛みしめながら、布団のなか、ふたりがりんごを剥いてきてくれるのを待った。
「剥いてきたよ! よし、じゃあさっそくやろうか」
「ええ、ええ。果物とおさけっていうのは、案外いい食い合わせなんですよね、これが」
ふたりは買い物ぶくろのなかから、えいやと日本酒の瓶を取り出すが早いかりんごを一切れずつ自身の口へと運んで、そしてひとり一本の酒瓶をあおり始める。事態がよく飲み込めない椛は困惑しながら、痛む喉でふたりに問いかけた。
「え、えっと。どういうことですか。その、りんご、剥いてきてくれて、ええ? た、食べちゃうんですか、おふたりが……?」
にとりは一口めを飲んだ上機嫌のまま笑って、そりゃそうだよ、と椛に答える。文は文で、病人がりんご食べても意味ない、と上機嫌でいた。そんなふたりに椛は、おず、おずと尋ねる。
「おふたりは、その、お見舞いにきてくれたんですよね? わたしの……」
「そうとも! わたしたちはおまえがいつ死んだっていいように、見舞いにきてやったのさ」
「安心してください。死体も冷蔵庫のなかの食べ物も、一切腐らせないように処理しますから」
椛はふたりの見舞いに対する認識に大きな誤解があることを悟り、悲痛に叫んだ。
「く、腐ってる!」
見舞い 完
「え? 椛が風邪? それでお前だけきたのか、なんだ。……見舞いは行ったのかよ」
見舞い……?
文はにとりの口からでた言葉に困惑した。にとりも自分の口からでた言葉に当惑した。
ふたりは三人という永い付き合いの中で、互いが互いに見舞ったことなど一度として無かった。少なくとも、文とにとりの交友において見舞いなどということばはこれまで存在しなかったはずだった。しかしそれがどういうわけか、ふたりのなかに埋没していた一般常識はふいに現れ、交友という網目の上、球状になって転がり出た。交友を糸に準えるとすれば縦の糸がにとり、横の糸は文かもしれない。織りなす布はぼろぼろで、もはや網目と形容するのが相応しかった。たしかな一般常識には抗うことなどできもしない。文は、ああっ、盲点。といった表情で口を切る。
「見舞い……は、その。行ってないですね。えっと、じゃあ……」
「ああ。行くぞ、見舞い。いまから行くぞ」
よそよそしく、或いは不如意に、ふたりは立ち上がった。
見舞い
ふたりは見舞いの経験などはなく、一体全体どうしたらいいのかわからなかった。とりあえず里に出てみたはいいものの、どうして里にでてきてしまったのかさえわからなかった。そもそもふたりは一直線に椛の家に向かうつもりでいた。ただその道中、風邪を引いた白狼天狗の一匹をただ眺めに行くことの不毛さに気がついたのだ。では一体どうすれば見舞いはたのしくなるのか、それを相談する時間を取るため、迂回して里にでてきたのだった。
「見舞いっていっても、ただ見るだけじゃつまらないよな。でもさ、病人を前にして楽しむ方法なんて、わたしには思い浮かばないぞ」
「ええ。たしかに私も、まったく思い浮かびません……そもそも見舞いというのは、どういった目的で存在している文化なのか」
ふたりは白昼の里で立ち止まり、腕を組んで頭をひねった。どうにも思い浮かばない。にとりは悩みに悩みまくっているかのように唸って、渋々といったふうに提案をした。
「カフェ行く?」
「わ、名案。行きましょう」
ふたりはカフェに向かった。考えごとや議論をするのならばカフェがいちばんであるという偏見がふたりにはあった。ふたりして、カフェなぞ行くのは初めてだった。ちょっともしないうちにたどり着いたカフェのなか、ふたりは注文に手間取ってからやっとの思いで席につき、未曽有の苦い汁に舌を出して絶句した。こんなものを飲んでほんとうに頭が冴えたりするのだろうか、とにとりがコーヒーの効能を疑うと、文は、わからないです、とだけ答えた。
それからコーヒーの効能、その是非について小一時間ほど語り合ったあと、思い出したようににとりは見舞いとはなんぞやを切り出した。
「要するに、見舞いっていうのは病人を見に行くものだろう? 病人っていうのはさ、射命丸、おまえ、どんな状態のやつを指す言葉だと思う」
「なんです、藪から棒に。ええ? 病人ですか。そりゃあ、そのう……病気にかかってて、弱ってる、犬走椛のような軟弱天狗……」
そう! とにとりは声を張り上げる。どうやらカフェインが効いてきたようだ。自分はいま冴えている、言わんばかりに目を輝かせて口を開く。
「病人ってのはさ、そうなんだよ。病気にかかってて、弱ってて、つまり今にも死んでしまいそうなやつを指す言葉なのさ。これがつまりどういうことか、射命丸、おまえわかるか」
文は、わからないです、とだけ答えた。しかしその声といえばにとりの次の言葉への期待に満ちていた。自分はいまわくわくしている、言わんばかりに目を輝かせていた。
「つまり見舞いっていうのは、そんな死にかけのやつを見に行くって文化なんだ。見舞いってのはそう、要するに、そいつがいつ死んでもいいように見張ることを指す言葉なんだな。だって、困るだろう。死体は放置されると腐るし、腐った死体が放置されると、ほら。みんな、その、こまるから」
文は合点がいったように何度か深く頷いて、やおら拍手をし始める。にとりの言には射命丸文だけを納得させる説得力があった。そうと決まれば話は早かった。死にかけ、とはいえ死にかけのやつほどいつ死ぬんだかわからない、というのもにとりの言で、文はそれに納得した。つまり長丁場になることをふたりは覚悟したのである。屋内の長い退屈な時間をたのしく過ごす方法をふたりは知っていた。ふたりはカフェインで冴えた頭で暖簾を突っ切りカフェを出て、馴染みの酒屋に向かったのだった。
そうして酒を仕入れたふたりは椛の家へと向かうことにした。行きがけに適当なつまみも買って、死を見送るまでの長い時間に万全の対策を打った。たのしみですね、と文がわくわくしながら言うと、にとりも久々の酒盛りに同量の期待をもって文に答えた。そうこうしているうちに家の前までたどり着く。ふたりはチャイムを押して一寸待ったが、たのしみが余り待ちきれずに椛の家の戸を開けた。鍵は軒先の鉢植えの下に隠されていた。
「邪魔するよ! 椛、おまえ、風邪ひいたんだってな。でも安心しろ、わたしたちが見舞いにきてやったから」
「ええ、ええ。安心してください。ほら、こんなに買い物してきちゃいました」
椛は寝室にて病床に臥せっていた。傍らには氷嚢もあったから、どうやら発熱もあるようだった。騒々しいふたりの鳴き声に目を覚ました椛は文が下げた買い物ぶくろの重みをみて、息苦しそうに起き上がった。
「わ、わあ。すみません、ふたりとも……なんのお構いもできずに、それも、お見舞いだなんて……そんなにいっぱい、買ってきてもらっちゃったようで、申し訳ないです……」
礼よりも先だって謝罪ばかり出る様子から、たかが風邪ではあるが、椛はどうやらかなり弱っているようだった。そんな様子の椛をみて、ふたりは心配になった。
「おいおい、困るよ。そんな元気なさそうにされたら。こっちはわざわざこんなに買い込んで、見舞いにきてあげたんだからさ」
「そうですよ。元気出してください。まだ大丈夫ですって」
買ってきたぶんの酒が尽きるくらいまでは生きててもらわないと困る、という考えが文とにとりに共通する最悪で、そんなふたりの口から聞く励ましの言葉は椛にとっての幸せだった。自分はなんていい友達を持ったのだろうか、爆発秒読みの裏切り爆弾に椛は心底感謝していた。
「そんな、悪いですよう。果物とか食べ物なら、今朝がんばって買ってきましたから。そんなにいっぱい貰っても、腐らせちゃうかも……」
腐らせるもんか、とにとりが言って、そうさせないためにも我々が来たんです、と文が言った。椛は珍しくやさしいふたりに心を打たれて、すこしくらいなら甘えてしまってもいいかもしれない、とまで思えた。
「じゃあそのう。冷蔵庫にりんごがあるんですけど。その、剥いてきてくれたら、うれしいな……なんて」
ひどく照れ臭そうに言う椛にふたりは感激した。ちょうど日照りの中を歩いてきて、ふたりとも喉が渇いていた。
「そんな、なんだか悪いな。いいのかな、文」
「まあ、椛がいうならいいんじゃないですか。りんごもいずれ腐っちゃいますし、さっそく剥いてきちゃいましょう」
そういってふたりは台所へと向かっていった。椛は友愛としあわせを噛みしめながら、布団のなか、ふたりがりんごを剥いてきてくれるのを待った。
「剥いてきたよ! よし、じゃあさっそくやろうか」
「ええ、ええ。果物とおさけっていうのは、案外いい食い合わせなんですよね、これが」
ふたりは買い物ぶくろのなかから、えいやと日本酒の瓶を取り出すが早いかりんごを一切れずつ自身の口へと運んで、そしてひとり一本の酒瓶をあおり始める。事態がよく飲み込めない椛は困惑しながら、痛む喉でふたりに問いかけた。
「え、えっと。どういうことですか。その、りんご、剥いてきてくれて、ええ? た、食べちゃうんですか、おふたりが……?」
にとりは一口めを飲んだ上機嫌のまま笑って、そりゃそうだよ、と椛に答える。文は文で、病人がりんご食べても意味ない、と上機嫌でいた。そんなふたりに椛は、おず、おずと尋ねる。
「おふたりは、その、お見舞いにきてくれたんですよね? わたしの……」
「そうとも! わたしたちはおまえがいつ死んだっていいように、見舞いにきてやったのさ」
「安心してください。死体も冷蔵庫のなかの食べ物も、一切腐らせないように処理しますから」
椛はふたりの見舞いに対する認識に大きな誤解があることを悟り、悲痛に叫んだ。
「く、腐ってる!」
見舞い 完
楽しかったです。
血も涙も無い悪友たちがとてもよかってす
面白かったです。