これより記すのは私の罪の記録。
どうしようもない愚か者の懺悔だ。
世の人々は英雄だと私を持て囃すが、とんでもないことである。
私は薄汚い咎人であり、裏切り者だ。
与えられた役目を果たさずに、己の欲望のために主君を裏切り、ただ平和に暮らすことを望む民衆を危険にさらした。
地獄に堕とされることも当然の外道。
そして、私は今その咎の清算をこれを読むであろう後の子孫に継がせようとしている。
我ながらひどい話だ。
故に、君たちは私を恨んで構わない、蔑んで構わない。
だが、もし叶うのであれば――どうか彼女を――
雲が良く晴れた、満月の晩のことである。
一人の男がか細い灯りを手に羅城門の前を通りかかった。
羅城門というのは朱雀大路の南端に位置する正門である。
築かれた当初は賑わっていた門の周辺は、飢饉や災害の末、既に荒廃しきっており、明日をも知れぬ物乞いや盗賊が根城にする始末だ。
しかし、今やそれらもこの門の辺りに近づくことはない。
暗く寂れた道を淀みなく進む男は余程のもの好きか。
六尺はあるかという上背に、服の上からでも分かる程鍛えられた逞しい四肢。
齢は三十半ばといった程。
鋭い眼光をした、美丈夫な男である。
男は梅のように赤い水干を身に纏っており、腰に携えられた太刀は、無骨ながらも丁寧な作りをした黒漆塗りの鞘に納められている。
男の名は渡辺綱、仕える主人は源頼光、位は正五位の下丹後守である。
羅生門が存在する通りはどこもかしこもあばら屋だらけで、人気がない。
生ぬるい夜風に運ばれる形容しがたい異臭と、何処からか聞こえる得体のしれない蟲のさざめきが相まって、辺りの不気味さを際立たせていた。
しかし、どういうわけだろうか。今晩だけは羅生門の屋根の下に人影があった。
綱が目を凝らす。
淡い月明かりに照らし出されたのは少女だった。
編み笠を被った白い肌の可憐な少女が、固く閉ざされた羅生門の柱に半ば倒れ込むようにしてもたれかかっているのだ。
少女は歩いてくる綱の姿を認めると、一瞬だけぎょっとして硬直する。
しかし、綱の顔を見て直ぐに安堵したような表情を浮かべて、口を開いた。
「もし、そこの武士様。もしや貴方は噂に聞く渡辺綱様ではありませんか?」
「如何にも」
その問いかけに綱は頷いた。
よく見れば少女の体は微かに震えていて、その瞳は潤んでいる。
少女の肌が雪のようなのは、元来の彼女の色白さ故、というわけだけではなさそうだった。
余程、何か恐ろしい目にあったのか。
「よく俺の名を知っていたな」
「貴方様の武勇は都中に轟いてございます。そのお顔を一度拝見しようとする者は多いのです。かくという私もその一人……」
少女は少しだけ目を伏せて、僅かに逡巡した後、何かを決意したように顔をあげる。
「……綱様、不躾なお願いですが、どうかお手をお貸しくださいませんか?」
揺れる瞳が綱を見据える。
黒が多い、可愛らしい瞳だった。
「……一体どうしたというのだ?」
僅かに揺れ動く心中を悟られぬように、努めて静かな声で綱は問う。
「私は凛と申す者、二条にある商家の娘です。夜道を歩いていたところひどく恐ろし気な声が聞こえて、もしや噂の鬼かと思い、その場から一目散に逃げたのですが……足をくじいてしまったのです」
少女が綱を見上げるように見つめる。その仕草が無性に庇護欲を抱かせた。
それこそ、目の前の少女のためならば、どんな魑魅魍魎や百鬼夜行を相手取っても構わないと思う程に。何をして でも彼女を守ってあげたい、気づけば綱はそう考えていた。
しかし、だからこそ綱は少女に手を差し伸べない。
無言を貫いたまま、その場に立ち尽くして少女を見据える。
綱の表情は悲し気で、しかし同時に安堵したようで、
「――やはり、お前だったのだな」
それは、何処か呟きに近いものだったのかもしれない。少女に向けたものではなく、ただ、心の内から自然にこぼれ落ちたもの。
「綱様? 一体何をおっしゃって?」
少女が困惑をあらわにするが、綱はそれを無視して続ける。
「羅城門に鬼が出るという噂を耳にして、もしやとは思ったのだが……」
「ええ、そうです。さっき私が聞いた声がおそらく鬼のものだと…」
だからどうか助けて欲しいと、少女は綱に泣きそうな顔で縋る。
――そろそろこの茶番を終わらせよう。
「くどいぞ!」
綱が鋭い声で少女を一喝する。その声が闇夜に溶け込んでいった。
気づけば風は止み、蟲の声は聞こえなくなっている。
降って湧いたような静寂が辺りを包んでいた。
突然の綱の豹変に少女は呆気にとられたような顔をする。
しかし、そんな芝居に騙される程綱は鈍い男ではなかった。
何より……
「俺がお前を見間違うものか――茨木華扇!」
綱がその名を告げた瞬間、少女の様相が変わる。
先ほどまで纏っていた、儚く可憐な雰囲気は霧散し、代わりにそこにいるだけで息が詰まるような重厚な圧を少女が放つ。
更に、少女の顔は先ほどと全く別人のものへと変わっていた。
およそ人のものではない朱色の頭髪。
こちらを見据える血の色をした瞳は猛禽類のように鋭い。
可愛い気等を感じさせない。
怖気が先に来るような、いっそ残虐的なまでの美しき少女がその場に君臨したのだ。
しかし、綱にとってはその姿こそ馴染深い。
少女の口の端から、人のものとは思えない鋭い牙が見え隠れした。
「やはりこんな雑な罠じゃあ、お前を騙すには至らんか」
そう言って、華扇は被っていた編み笠を放り投げた。
露わとなったのは天を衝く双角。
数多の怪異の頂点に立つ暴威の化身、鬼がその場に顕現したのだ。
「お前もご苦労なことだな。わざわざ私を追ってこんなところまでやって来たのか?」
華扇の問いに綱は首を縦に振る。
「あの時と何一つ姿が変わらないな、華扇」
「っは! 鬼だからな、当たり前だ。そういうお前はまた一回り老けたな」
綱の顔をまじまじと見つめて、華扇が嘲りの笑みを浮かべた。
「そろそろ人の身が煩わしくなって来たか? だが、今更後悔しても遅いぞ。お前は私の誘いを断ったのだから……」
「いいや、俺は後悔なぞしていない。人として生き、人として死ぬ。それで良い」
間髪入れずに応答し、綱が腰の太刀を引き抜く。
月光を受けて、抜き身となった刀身が怪しげに煌めいた。
「その刀……なるほど、頼光から受け継いだのか」
綱の手にある刀を警戒するように華扇が鋭い眼光でにらみつける。
「そうだ! この妖刀はお前を斬るために頼光様から借り受けた。話は終わりだ。決着をつけよう」
「あぁ、確かにそうだ。もう我々の間に余計な言葉はいらないからな……」
華扇の顔から笑みが消える。
二人の間に張り詰めた弓のような緊張が走った。
両者は見つめ合い、構える。
「鬼の四天王が一人、茨木華扇」
「頼光四天王が一人、渡辺綱」
互いに名乗りを上げ、戦いの火蓋が切って落とされた。
地面が陥没する程に力強く踏み込んで、華扇が綱に肉薄する。
「八つ裂きにしてやる‼」
鬼の剛腕が振るわれる。顔を打ち抜くように繰り出された右拳を綱は紙一重で躱し、返す刀で突きだされた右腕を切りつけるが、浅い。皮膚の表面だけが裂かれ、飛び散った僅かな血雫が頬に付着する。
鬼の皮膚は黒鉄のような頑強さを持つ。
故に、鬼の体を切り裂くならば心技体が一致した渾身の一撃が必要となる。
今のような小手先の返し技では、如何に妖刀を用いたといっても致命傷を与えることはできない。
「この程度!」
一切怯むことなく、華扇は腕を引っ込めて蹴りを繰り出す。
「っ……⁉」
綱は体を捻り、回避するが反撃する隙は無い。
まともに喰らえば直ちに肉塊に変えられるような攻撃が嵐のような勢いで繰り出される。
僅かに躱しきれず、小さな傷が綱の体に刻まれていく。
それでも、綱は類まれなる動体視力をもって身を翻し、致命となる攻撃だけは躱し続ける。
「ちっ、ちょこまかと……どうした綱よ! それとも、逃げ回るのが源氏武者の語る勇猛な戦いなのか!?」
痺れを切らした華扇が挑発するように言うが、綱は答えない。
綱はその鋭い眼光を走らせて華扇の一足一投に注視し、回避に徹し続ける。
――隙を見せれば直ぐに斬る。先のような小手先のものでなく、全身全霊を以て。
無言を貫いたまま、機を虎視眈々と伺う綱を見かねて、華扇が苛立たし気に頭を掻きむしった。
「あぁ、くそ! ……埒が飽かないな、このままお前の体力が尽きるのを待つのも味気ない」
追撃の手を止めた華扇が突然くるりと綱に背を向けて、羅生門へと駆けだした。
身軽な動きで塀に飛び乗り、続いて屋根へと手を掛け、あっという間に羅城門の楼閣の頂上に立つ。
「どうした華扇! この期に及んでまた逃げる気か⁉」
綱が声を張り上げる。
しかし、応答する華扇は酷く落ち着き払っていた。
「まぁ、落ち着けよ。ちょっとした余興を思いついたのさ」
太々しい態度でそう言った後、華扇はその場に腰を下ろす。
足を崩してこちらを見下ろすその態度は正に高みの見物といったもので、先ほど肌で感じたぎらつくような敵意や殺意は霧散していた。
「なぁ綱、この羅城門の楼閣には何があるか知ってるか?」
足元を指さして、華扇が尋ねる。
綱には質問の意図が分からなかった。
僅かな逡巡の後、観念したように低い声で言い放つ。
「……知らん。何だというのだ?」
「――死体だよ。道に置いとくのも邪魔だからと、死体置き場にされてるのさ」
夜風に紛れて感じた嫌な臭いの正体はそれだったのか、と綱は心の中で納得する。
「そうか」
表情一つ変えず、ひどく無感動に綱は相槌をうった。
満足に弔われなかった死体を不憫に思う心はあるが、この状況においてはとりとめのない些細なこととしか思えなかった。
目の前の強大な怪物から目を離さないことの方が余程重大だ。
綱の態度を気にした様子もなく、華扇はひとりでに語り続ける。
「怪異を形づくるのは人の情念だ。満足に弔われなかった人間の恨みつらみはその場にとどまる。だから、此処は良くない物の吹き溜まりなのさ。私を呼び寄せる程に……」
なるほど、理解できる話である。
確かに、戦場の跡等で怪異が起こる話はよく聞く。
多くの死体が野ざらしになる戦場は、さぞかし情念の吹き溜まりとなることだろう。
「ここからが本題だ。そのようにしてできた曰く付きの地と言うのはな、総じて異界とつながりやすい。おまけに此処は門、境界の境目だ。今、この門の先にある世界は此岸ではない」
「何だと!?」
華扇が不敵な笑みを浮かべ、両腕を大きく広げる。
「さぁ、地獄の扉より来たれ!我が僕たちよ‼」
固く閉ざされていたはずの羅生門の扉が鈍い音を立てながらひとりでに開いていく。
門の先にあるのは月明かりすら通さない、完全な暗闇だった。
その闇を目にするだけで、体がぞわりと総毛立ち、冷や汗が滴る。
数多の怪異を相手にしてきた綱でもここまでの圧を今まで感じたことは無かった。
「生きてるうちに地獄を見ることになるとはな……」
華扇の言う通り、目の前に広がるのが彼岸の世界だということは気配で判る。
暗闇の中からケタケタと悍まし笑い声が響いた。
ゆっくりと、闇の中から無数の骸骨の行軍が現れる。
「お前たち、その男も仲間に変えてやれ‼」
華扇の号令に従って骸骨の大群が綱へと迫った。
細く白い腕が伸ばされる。
「あまり俺を舐めるなよ! 華扇!」
群がる骸骨を一人二人と切り払う。
刀一本では足りない、そう考えて腰の鞘を取り外し、二刀を以て迎撃する。
刀で斬る、鞘で打ち払う。懐まで接近されれば、柄頭で殴り倒すか、体当たりで吹き飛ばす。
幸い、骨だけの体は脆く、そして軽かった。
群がる骸骨の数が目に見えて減った頃、羅城門の向こうの闇から耳障りな笑い声が重なって響く。
再び地獄の闇より現れたのは、何処か先ほどとは纏う雰囲気が異なる骸骨達だった。
その手には刀や槍、根や斧といった様々な武器が握られている。
楼閣の上の華扇の楽し気な声が響く。
「流石だ! 雑魚じゃ相手にならんな…しかし、こいつらならどうだ? 皆私に挑んで食われた武者や退魔の者達だ! 先ほどの有象無象とはわけが違う」
華扇の言葉通り、武装した骸骨達の動きは流麗だった。
先ほどの烏合の衆とはまるで違う、確かな鍛錬に裏打ちされた技。
一筋縄でいく連中ではない。
骸骨が振るう太刀を受ける。
金属同士がぶつかり合う甲高い音が響き、火花が夜の闇に散った。
筋肉の無い体で振るわれているとは思えない重さを伴った攻撃だった。
「だが温い!」
正面の太刀を持った骸骨を斬りつけて、右側で槍を構えている骸骨に鞘を投げつける。
骸骨の手から落ちた古びた太刀を左手で掴み、真に二刀を振るって、群がる敵を薙ぎ倒していく。
武装した骸骨は確かに手ごわい、しかし、彼らには決定的な物が欠けていた。
暑さにも寒さにも弱く、些細な傷でも運が悪ければ死に至るほどに人は儚く脆い存在である。
しかし、それでも、そんな脆い肉体を鍛え上げ、数多の怪物に挑み、勝利をもぎ取る。そんな人間の意思が、矜持が亡者となったこの者達には無い。
そんな虚ろな木偶に後れを取る道理は存在しなかった。
滴る汗を気にも止めず、獣のような唸り声を挙げながら刃を振るう、振るい続ける。
羅生門の前にはみるみる骸の山が積み重なっていく。
最後の一人、斧を携えた一際大きい骸骨の一撃を左の刀で受け流し、右の妖刀で首を断ち切る。
その時だった――崩れ落ちる巨躯の骸骨を踏みつぶしながら華扇が綱の前へと降り立ったのは。
「やっと隙を見せたな!」
「っ……⁉」
正中を捉えた拳が迫る。
避け切れないと悟り、二刀を交差させ、拳を受ける。
「がっ‼」
衝撃に耐えきれなかった左手の太刀が中ほどから折れ、刃が宙を舞った。
残る妖刀が剛腕を防ぐも、勢いを殺しきれず、六尺ある体が吹き飛ばされて周囲の廃屋の一つへと激突する。
板切れのような木製の壁が崩れて、家内にまで、綱の体が鞠のように転がった。
痛みで頭が眩み、息が切れる。呼吸に違和感を感じるのは胸の骨が折れているからだろうか。
耳鳴りは激しく、体があちこち痛むのに意識が微睡んでいく。
――あぁ、俺は……
茜が差し、薄暗くなっていく森の中で、童が一人、うずくまって泣いていた。
親の言いつけを破り、森深くへと踏み入って迷子になった、何の変哲もない愚かな童だ。
直に日は暮れ、森は獣と妖達のものとなる。
哀れな童に明日は無いだろう。
帰路を失った童はただただその場で泣きじゃくるしかなかった。
「――ねぇ、大丈夫?」
ふと、童の背中にやさし気な声が掛けられる。
恐る恐る振り返った先に佇んでいたのは一人の童女。
童と歳はそう変わらない。
身に纏う衣服は童に比べ、お世辞にも上等とは言い難かった。
しかし、不思議と品のようなものが感じられる。
童女の黒が多い、可愛いらしい瞳が童を見つめていた。
「迷子? 森の入り口まで連れて行ってあげようか?」
こくりと、小さく童が頷いた。
「じゃあ行こうか」
か細い童女の手が童の手を掴む。
「私は華、あなたのお名前は?」
「――――」
「そう、いいお名前ね。ねぇ、良かったら私とお友達になってくれない? 私の周り、同じ年の子あんまりいないの」
「――――」
「本当に? 嬉しいわ!」
そう言って無邪気に喜ぶ彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しくて、暖かかったことを覚えている。
――例えこの身が地獄に堕ちようとも、あの光景を忘れることは無いだろう。
「どうした? もう終わりか綱よ?」
舞う土埃の向こう側で、華扇がこちらを見下ろしている。
――まだだ、まだ、俺は……
「……終われるわけが……ないだろう!」
刀を杖のようにして、何とか立ち上がる。
それ見た華扇が、ほうと関心したように声を漏らした。
「よく立ったと褒めてやりたいとこだがな……そんな体で何ができる?」
華扇が綱へと向ける目は憐れみを含んでいるようだった。
事実、綱の体は打撲だらけで、痛々しい。骨に響いている傷も少なくはない。
切れた額から流れ出る血は左目の視界を閉ざしてしまった。
その状態はまさしく満身創痍といった有様で、されど、綱の右の目から光は失われていなかった。
「……綱、お前にもう一度だけ機会を与える」
静かな声で、華扇が言う。
そして、何処からか彼女が取り出したのは一つの升だった。
「こんな状況で酒を飲めとでも言うつもりか?」
「――あぁ、その通りだ」
痛みを紛らわすために口にした綱の軽口に、華扇は真剣な表情で頷いた。
「こいつは、茨木の百薬升といってな。これに注がれた酒を飲めば、大抵の怪我や病気は癒える。しかし、その代償にこれを飲んだ者は鬼となる」
「……もしや、お前が鬼になったのは……」
「あぁ、この宝物の力だ。代償とは言ったがな、鬼に成るのはそう悪いことでは無い。鬼の体は頑丈だ。老いることも無ければ病にかかることもそうそう無い。力だって手に入る。現に今、私はお前を圧倒しているだろう? お前が刻苦とした鍛錬で培った技を純粋な種族としての力でねじ伏せている。だが、安心しろ。お前も鬼に成れば同じに、いや、私を超えた力すら得られるだろう。だから、この升を呷るのだ、綱……」
綱は何も答えない。
ただ無言のまま、何処か悲し気に見える表情で華扇を見つめていた。
その視線に耐えきれなくなったように、華扇が叫ぶ
「――っ! 何を迷うことがあるのだ!? 人であることに何の利がある⁉ お前たちは今は都で英雄扱いされているがな、どうせすぐに厄介者にかわる‼ 人とはそういうものだ! 怪物を殺し得るお前を見る目に恐れが‼ 嫌悪が‼ 宿ることが時間の問題だということをなぜ理解できない⁉」
激情を伴った声が闇夜に空しく響きわたった。
「――くどい」
ようやく開かれた綱の口から、氷のように冷たい声が響く。
そこには、少女に対する明確な拒絶の意思が含まれていた。
「……何?」
呆然する華扇に対して、ため息を一つ吐いてから、綱は口を開く。
「何を言うのかと思えば……最初に言っただろう、俺は人であることを選ぶと。そしてこうも言ったはずだ。――決着をつけようと。俺は此処に鬼を斬りに来たのだ」
「っ!?」
華扇の血のような瞳が揺れる。
そこに生じたであろう傷を更に抉るように、綱は続けた。
「袂は既に分かたれている。俺とお前の道は対極だ。交わることがあるとするならば、人を喰らう鬼と、それを退治する人としての関係だけだ」
膝から崩れ落ちそうな体に鞭を打って、綱は刀を構える。
かつて共にした帰路は遠い記憶の彼方。泡沫の幻に過ぎない。
そのどうしようもない現実を目の前の少女に突き付けているのか、それとも自分に言い聞かせているのかは綱自身にも判断はつかなかった。
だが、そんなことは些細な問題だ。
茨木華扇を斬る、それだけがはっきりしていれば十分だった。
今は、他のことを考える必要は無い。
「さっさと構えろ華扇。最も、そのまま無抵抗で斬られてくれるというのなら、こちらも手間が省けるのだがな……」
挑発するような綱の物言いに、華扇は僅かに顔を伏せた。
「……あぁ、そうか。そうだな…………分かった」
再び華扇が顔を上げたとき、少女の瞳は既に消え去っていた。
代わりにこちらを睨むのは肉食獣の如き獰猛な瞳。
そして、その奥には明確な激情が宿っていた。
「……もういい。お望み通り、貴様を殺して、その肉を喰らおう! 本当の鬼の暴威を見せてやる‼」
突き刺すような殺気が綱の全身を襲う。
先ほどとは比べ物にならない重圧。
あれでかなり手加減されていたという事実が嫌でも分った。
鬼としての真の彼女は斯くも恐ろしいのか。
綱の頬を冷や汗が伝った。
「先ほど私にまた逃げるのかと言ったな!? それは見当違いだ! 逃げたのではなく、逃がしたのだ! 大江山の時、毒酒をほとんど口にしなかった私なら、お前を殺すことなんて造作も無かった‼ お前だから逃がしてやったのに‼」
感情を吐露しながら、華扇が拳を握りしめる。
相対する綱の表情は対照的に涼し気だった。
「それは初耳だ。鬼になると細やかな気遣いが身につくものなのか? いつから手弱女になった? 鬼が此処まで女々しい存在だとは思わなかったよ……」
綱の言葉に華扇の目つきが一層鋭くなる。
「――っ!? 殺す‼」
「やって見せろ」
そう言って、綱は刀を天高くつき上げ、腰を低くした構えをとる。
既に綱の体は限界に近い。
しかし、人間が全力で動ける時間等もとより僅かなもの。
短期決戦になるのは百も承知だった。
故に、もう守りも回避も考えない。
この一撃にすべてを懸ける。
これで仕留められないというのであれば、大人しく死を受け入れる他にない。
覚悟は既にできていた。
満身創痍の体に活を入れるかのように、綱は雄たけびを挙げる。
そして、目の前の斬るべき鬼の名を呼んだ。
「――華扇‼」
地を蹴って、綱が華扇へと肉薄する。
華扇もまた、自分に挑む人間の名を呼ぶ。
今度こそ、鬼として迎え撃つために。
「綱‼」
綱が刃を振り下ろすと同時に華扇がその剛腕を振るった。
迫る華扇の拳が綱の頭骨を砕くが先か、綱の妖刀が華扇を斬るのが先か。
刹那の時間が、両者の間でだけ悠久の如くゆったりと流れる。
二人の脳裏を流れる記憶は、死を前にしたが故の走馬灯か、永遠の決別を前にしたがための懐古なのか。
――決着は一瞬。
血飛沫が上がり、闇夜に絶叫が轟いた。
地に伏して、うめき声を上げるのは――茨木華扇だ。
彼女の右腕、その肘から先は無い。
斬り落とされ、地面に転がった腕を綱は無雑作に拾い上げると、感情を伴わない、冷たく鋭い眼光で華扇を見下ろす。
その視線の先には最早、鬼の姿は無い。
全身から汗を滴らせて、体を小刻みに震わせるその姿はただの怯えた少女以外の何者でもなかった。
「……何を、私に……私に何をしたんだ!?」
顔を上げて、華扇が叫ぶ。
そこには悲痛な響きが含まれていた。
こちらを見上げる瞳は揺れ動き、潤んでいる。
「もうじき死ぬお前にわざわざ教えてやる必要は無いだろう」
ぴしゃりと、縋る少女を跳ね除ける様に綱は言った。
そして、再びその刀を振りあげる。
鬼の血を得た妖刀が先ほどより活き活きとした様子で怪しげに煌めいた。
「っ!?」
首を狙って容赦なく振り下ろされた一刀を転がるようにして華扇が避ける。
勢いをそのままに、華扇ははじかれる様にして綱へと背を向けると、そのまま闇夜へと駆けだした。
先ほどの圧を感じさせない、頼りない背中は直ぐに小さくなり、闇の中へと溶け込んで行く。
綱だけがその場にとり残され、降って湧いたような静寂が訪れる。
気づけば、開いた羅城門の扉の先は、何の変哲もない都の町。寝静まった家屋が並んでいるだけだった。
全てが終わったのか。否、とんでもない、ここからが始まりである。
――決して許されることが無いだろう己の罪は、今、この瞬間、この羅城門の前で始まったのだ。
「……女々しいのはどちらの方だ…………」
ぽつりと漏らされた呟きが静かな夜に響いた。
――何故! 何故何故何故! どうして‼
「嗚呼ぁぁっ‼」
ただがむしゃらに手足を動かして走り続ける。
あてなんてない。
先ほどまで照らしていた月は、雲に隠れて、辺りは完全な闇に包まれていた。
恐ろしい、ただ恐ろしい。
その恐怖が、腕を斬られた痛みすら忘れさせ、体を突き動かす。
殺される恐怖ではない。
鬼として、あの場で退治されるのであればそれで良かった。
私が彼を襲い、彼が私に引導を渡す。
妖と人の不変の交わり、それで決着がつくのならば良かったのだ。
なのに……
「――違う! 違う違う‼ 私は鬼だ! 鬼なんだ‼」
脳裏を搔き乱すのは、ずっと昔に捨てた筈の人だった記憶。
まだあどけなさを残す、見覚えのある少年の顔が浮かぶ。
――懐かしい。違う! そんな情は必要ない!
自分が自分では無くなる。
鬼としての自我が瓦解していくのがはっきりと感じ取れた。
それが酷く恐ろしい。
もう、今の私は彼と対峙することができないだろう。
彼を殺すことも、彼に殺されることも耐えられない。
だから走る。
気が狂いそうな現実から、目を背けるために。
無様に、迷い子の如く、夜をあてもなく駆けるのだ。
「――そうか。彼の鬼は逃げおおせたか」
「申し訳ありません頼光様。如何なる申し開きもありません。この綱、どんなお咎めをも受け入れる覚悟はできております」
「よい、気にするな。相手はあの奸佞邪智の鬼、一人だけほとんど毒酒を呷らなかった曲者だ。むしろ、お前はよくやった。あの鬼の腕を斬り落とし、その力と邪気を封じることに成功したのだからな。これで奴の脅威は薄れた。ともすれば、奴はもう鬼としての体を成すこともできぬやもしれん」
「はっ! 有難いお言葉です」
「うむ、これよりお前に暇を出す。しばらく療養するが良い。傷が痛むであろうに、報告のために呼び出して悪かったな」
「いえ、そのような些事、どうかお気になさらず……。それでは、失礼いたします」
「――綱殿」
背後から呼び止める言葉に振り返る。
そこに立っているのは、まだ年若い、一人の青年だった。
「あぁ、金時か」
坂田金時、綱と同じく頼光に仕える四天王の一人である。
四天王の中で最も年若く人好きな彼は、今日だけはいつもの快活な笑みを潜めて、神妙な面持ちをとっていた。
「此度もたいそうご活躍成されたそうですね」
「止してくれ、結局逃がしてしまった」
その返答に、金時が言葉を詰まらせた。
戸惑う様な沈黙の跡、彼は意を決したように問う。
「…………逃がしてしまった……ですか……逃がしたのではなく?」
ぐらりと、心が揺れる。
その動揺を顔に出さないように努めながら、
「――何のことだ?」
そんな風に惚けることが精一杯だった。
金時の鳶色の瞳がこちらを真っすぐと見据える。
糾弾の声を覚悟した綱に反して、彼の口から続いて出た言葉は予想外のものだった。
「……私の母は鬼女でした」
彼の告白の通り、坂田金時はその幼少期を妖怪と過ごした数少ない人間である。
口減らしのために山に捨てられた彼を拾い、世話をやいて育てたのは、あろうことか人すら喰らう凶暴な鬼女だったのだ。
そして、鬼女はある日、編成された討伐隊によって討ち取られる。鬼子として処刑されかけた金時を家臣にして救ったのが外ならぬ頼光公だった。
「母の行いは許されないことだと思っています。ですから、母を討った人々への恨みは有りません。しかし、私は時折ふと思うのです」
少し目を伏せって金時は語る。
「もし……母が人食いの妖では無かったら。人と共存できる可能性があったならと……母は私に対しては、確かに母親として接していてくれたのです」
妖怪というのは皆すべからく、人間にとっての脅威である。
少なくとも、今の世ではその認識が通説であるし、事実妖怪の被害は多く、それを疑う者はそういない。
故に、金時の思想は異端と呼ばれるものだ。
聞く者によれば人間の敵とも見なされかねない。
しかし、そんな考えを持っていた人間が身近に居たということに一抹の喜びを感じ得ない。もっと早く知っていたのなら、共に酒でも飲みかわしたかった。
だが、賽は既に投げ終わっている。
主人はもとより、目の前の好青年や他の四天王に自分は合わせる顔が無い。
共に並び立つ資格も、面と向かって語り合う資格も捨て去ってしまったのだ。
「金時殿の考えは相分かった。しかし、あまりそのような話はしない方が身のためだ。貴公の出生をよく思わない者たちがどこで聞き耳を立てているかは分からんからな。それでは、失礼する」
一方的に話を打ち切って、綱は金時に背を向ける。
決して容易く口外できぬ話をあえて打ち明けてくれた彼に申し訳なく思う気持ちはあるが、一刻も早くこの場を去ってしまいたかった。
外道に堕ちたこの身では、純心かつ高潔な彼の存在は些か眩しすぎたのだ。
暗い地の底を這いずるしかない土竜には、日を仰ぎ見ることはできない。
「綱殿!」
引き留めようとする金時を無視して、綱は歩を進める。
こらえきれなくなった様子で、金時が叫んだ。
「――ッ! 私は貴方が間違っているとは思わない‼ だから! あまりご自分を責めることが無いように……」
ぴたりと、綱が足を止める。
「……有難う」
振り返らないままに、それだけ言って、今度こそ綱はその場を立ち去った。
生い茂る緑の香をのせて、風が吹く。
ひどく古びた書物を閉じて、廃寺の縁に腰掛けている少年がこちらに目を向けた。
幼さを残した顔だ。
歳は霊夢達と同じくらいだろうか。
身に纏っている黒い衣は、学生の制服だろう。
少年は膝に置いた書物を横に置き、傍に立てかけてあった長い袋を掴んで立ち上がる。
「――ほんと、ひどいご先祖様だよな。厄介な重荷を残してくれたもんだ……」
そう言って、少年はその背後、廃寺の中央に祀られている桐箱を親指で指した。
「本家の連中も既に放棄したのに、分家でしかない、うちの爺さんだけが律儀に役目を果たそうとしてた。まぁ、その爺さんも去年ぽっくり逝ったわけだが……」
ため息を吐きながら、心底めんどくさそうに少年は語る。
その姿に、いつも気だるげな霊夢の姿が重なって見えた。
「しかしまぁ、俺はお爺ちゃん子だったんでね……それに、こんな呪物がある以上なにかしら起こるだろうしな。流石に今になって本人が現れることは予想外だったけど……」
言いながら、少年が袋から取り出したのは朱塗りの鞘に納められ一振りの太刀。
「平和な平成生まれの人間に、鬼相手にどうしろという話だが、来ちゃったものは仕方がない。こちらも腹を決め――役目を果たすとしよう」
少年の纏う雰囲気ががらりと変わった。
昼行燈とも評せる態度は霧散し、代わりに覗くのは鋭き刃の如き凛々しさ。
少年の姿がかつて自分に刃を向けた彼と一致した。
鞘が取り払われ、鮮やかな刀身が露わとなる。
木漏れ日を受けて神秘的に輝くその刀は、鬼切丸程ではないものの、鬼を斬るに十分な力を秘めているようだった。
流麗な動作で少年は刀を構え、冷酷な響きをもって問いかける。
「千年以上経って、どうして今更この腕を欲する? 再び人に仇成す悪鬼に返り咲くことを望むというのなら、俺はこの命に代えてもここで、お前を斬る! 先祖、渡辺綱の名に懸けて‼」
少年の瞳が此方を射抜く。
嘘やごまかしは通じない、直観でそのことを悟った。
「答えろ――茨木華扇‼」
在りし日の彼に良く似た少年が自分の名を呼ぶ。
切っ先を向けられているにも関わらず、それだけのことで少しだけむず痒さと安堵感が心の内に募った。
我ながら単純だと思う。
少年の問いに対する答えは既に決まっている。
もしそれが気に入らないというのであれば、向けられる白刃を受け入れても構わない。
だから、答えよう。千年もの月日を彷徨い歩いて私がたどり着いた答えを。
「私は――――――――――」
茜差す空を見上げながら、華扇は帰路につく。
小脇に桐箱を抱えながら歩く彼女の足取りは何処か浮かれた様に軽快だった。
彼女の手には小さな巾着袋が握られていた。
かつて自分の腕を斬り落とした妖刀――その破片が納められているそれを彼女はまるで宝物であるかのように、愛おし気に見つめる。
あの少年は、刀そのものを残せなかったことを謝っていたが、とんでもない。
千年以上もの間、よく腕とともにこれを守り続けていてくれたものである。
彼の想いが受け継がれていたという事実に、胸が熱くなった。
必要なピースは全て揃った。
だから、帰ろう。
私の新たな故郷――幻想郷に。
そして、全ての決着をつけるのだ。
今から私が何をしようと、過去に犯した過ちは決して消えないけれど、それは異なる道を歩めないということでは無い。
あの夜羅城門の前で、彼が、綱が私にくれたもう一つの選択肢を無駄にはしない。
鬼としてではない、対極の道を究めるのだ。
「…………随分、待たせてしまったわ……」
責任感の強い彼のことだ。ずっと呵責に苦しんでいた姿は想像に難くない。
死に際も安らかとは言えないものだったかもしれない。
今更弔いや労いの言葉に意味はないだろう。
だから行動で示す。これから私が歩むであろう仙道すべてを使って証明して見せよう。
――彼の選択が間違いではなかったことを。
どうしようもない愚か者の懺悔だ。
世の人々は英雄だと私を持て囃すが、とんでもないことである。
私は薄汚い咎人であり、裏切り者だ。
与えられた役目を果たさずに、己の欲望のために主君を裏切り、ただ平和に暮らすことを望む民衆を危険にさらした。
地獄に堕とされることも当然の外道。
そして、私は今その咎の清算をこれを読むであろう後の子孫に継がせようとしている。
我ながらひどい話だ。
故に、君たちは私を恨んで構わない、蔑んで構わない。
だが、もし叶うのであれば――どうか彼女を――
雲が良く晴れた、満月の晩のことである。
一人の男がか細い灯りを手に羅城門の前を通りかかった。
羅城門というのは朱雀大路の南端に位置する正門である。
築かれた当初は賑わっていた門の周辺は、飢饉や災害の末、既に荒廃しきっており、明日をも知れぬ物乞いや盗賊が根城にする始末だ。
しかし、今やそれらもこの門の辺りに近づくことはない。
暗く寂れた道を淀みなく進む男は余程のもの好きか。
六尺はあるかという上背に、服の上からでも分かる程鍛えられた逞しい四肢。
齢は三十半ばといった程。
鋭い眼光をした、美丈夫な男である。
男は梅のように赤い水干を身に纏っており、腰に携えられた太刀は、無骨ながらも丁寧な作りをした黒漆塗りの鞘に納められている。
男の名は渡辺綱、仕える主人は源頼光、位は正五位の下丹後守である。
羅生門が存在する通りはどこもかしこもあばら屋だらけで、人気がない。
生ぬるい夜風に運ばれる形容しがたい異臭と、何処からか聞こえる得体のしれない蟲のさざめきが相まって、辺りの不気味さを際立たせていた。
しかし、どういうわけだろうか。今晩だけは羅生門の屋根の下に人影があった。
綱が目を凝らす。
淡い月明かりに照らし出されたのは少女だった。
編み笠を被った白い肌の可憐な少女が、固く閉ざされた羅生門の柱に半ば倒れ込むようにしてもたれかかっているのだ。
少女は歩いてくる綱の姿を認めると、一瞬だけぎょっとして硬直する。
しかし、綱の顔を見て直ぐに安堵したような表情を浮かべて、口を開いた。
「もし、そこの武士様。もしや貴方は噂に聞く渡辺綱様ではありませんか?」
「如何にも」
その問いかけに綱は頷いた。
よく見れば少女の体は微かに震えていて、その瞳は潤んでいる。
少女の肌が雪のようなのは、元来の彼女の色白さ故、というわけだけではなさそうだった。
余程、何か恐ろしい目にあったのか。
「よく俺の名を知っていたな」
「貴方様の武勇は都中に轟いてございます。そのお顔を一度拝見しようとする者は多いのです。かくという私もその一人……」
少女は少しだけ目を伏せて、僅かに逡巡した後、何かを決意したように顔をあげる。
「……綱様、不躾なお願いですが、どうかお手をお貸しくださいませんか?」
揺れる瞳が綱を見据える。
黒が多い、可愛らしい瞳だった。
「……一体どうしたというのだ?」
僅かに揺れ動く心中を悟られぬように、努めて静かな声で綱は問う。
「私は凛と申す者、二条にある商家の娘です。夜道を歩いていたところひどく恐ろし気な声が聞こえて、もしや噂の鬼かと思い、その場から一目散に逃げたのですが……足をくじいてしまったのです」
少女が綱を見上げるように見つめる。その仕草が無性に庇護欲を抱かせた。
それこそ、目の前の少女のためならば、どんな魑魅魍魎や百鬼夜行を相手取っても構わないと思う程に。何をして でも彼女を守ってあげたい、気づけば綱はそう考えていた。
しかし、だからこそ綱は少女に手を差し伸べない。
無言を貫いたまま、その場に立ち尽くして少女を見据える。
綱の表情は悲し気で、しかし同時に安堵したようで、
「――やはり、お前だったのだな」
それは、何処か呟きに近いものだったのかもしれない。少女に向けたものではなく、ただ、心の内から自然にこぼれ落ちたもの。
「綱様? 一体何をおっしゃって?」
少女が困惑をあらわにするが、綱はそれを無視して続ける。
「羅城門に鬼が出るという噂を耳にして、もしやとは思ったのだが……」
「ええ、そうです。さっき私が聞いた声がおそらく鬼のものだと…」
だからどうか助けて欲しいと、少女は綱に泣きそうな顔で縋る。
――そろそろこの茶番を終わらせよう。
「くどいぞ!」
綱が鋭い声で少女を一喝する。その声が闇夜に溶け込んでいった。
気づけば風は止み、蟲の声は聞こえなくなっている。
降って湧いたような静寂が辺りを包んでいた。
突然の綱の豹変に少女は呆気にとられたような顔をする。
しかし、そんな芝居に騙される程綱は鈍い男ではなかった。
何より……
「俺がお前を見間違うものか――茨木華扇!」
綱がその名を告げた瞬間、少女の様相が変わる。
先ほどまで纏っていた、儚く可憐な雰囲気は霧散し、代わりにそこにいるだけで息が詰まるような重厚な圧を少女が放つ。
更に、少女の顔は先ほどと全く別人のものへと変わっていた。
およそ人のものではない朱色の頭髪。
こちらを見据える血の色をした瞳は猛禽類のように鋭い。
可愛い気等を感じさせない。
怖気が先に来るような、いっそ残虐的なまでの美しき少女がその場に君臨したのだ。
しかし、綱にとってはその姿こそ馴染深い。
少女の口の端から、人のものとは思えない鋭い牙が見え隠れした。
「やはりこんな雑な罠じゃあ、お前を騙すには至らんか」
そう言って、華扇は被っていた編み笠を放り投げた。
露わとなったのは天を衝く双角。
数多の怪異の頂点に立つ暴威の化身、鬼がその場に顕現したのだ。
「お前もご苦労なことだな。わざわざ私を追ってこんなところまでやって来たのか?」
華扇の問いに綱は首を縦に振る。
「あの時と何一つ姿が変わらないな、華扇」
「っは! 鬼だからな、当たり前だ。そういうお前はまた一回り老けたな」
綱の顔をまじまじと見つめて、華扇が嘲りの笑みを浮かべた。
「そろそろ人の身が煩わしくなって来たか? だが、今更後悔しても遅いぞ。お前は私の誘いを断ったのだから……」
「いいや、俺は後悔なぞしていない。人として生き、人として死ぬ。それで良い」
間髪入れずに応答し、綱が腰の太刀を引き抜く。
月光を受けて、抜き身となった刀身が怪しげに煌めいた。
「その刀……なるほど、頼光から受け継いだのか」
綱の手にある刀を警戒するように華扇が鋭い眼光でにらみつける。
「そうだ! この妖刀はお前を斬るために頼光様から借り受けた。話は終わりだ。決着をつけよう」
「あぁ、確かにそうだ。もう我々の間に余計な言葉はいらないからな……」
華扇の顔から笑みが消える。
二人の間に張り詰めた弓のような緊張が走った。
両者は見つめ合い、構える。
「鬼の四天王が一人、茨木華扇」
「頼光四天王が一人、渡辺綱」
互いに名乗りを上げ、戦いの火蓋が切って落とされた。
地面が陥没する程に力強く踏み込んで、華扇が綱に肉薄する。
「八つ裂きにしてやる‼」
鬼の剛腕が振るわれる。顔を打ち抜くように繰り出された右拳を綱は紙一重で躱し、返す刀で突きだされた右腕を切りつけるが、浅い。皮膚の表面だけが裂かれ、飛び散った僅かな血雫が頬に付着する。
鬼の皮膚は黒鉄のような頑強さを持つ。
故に、鬼の体を切り裂くならば心技体が一致した渾身の一撃が必要となる。
今のような小手先の返し技では、如何に妖刀を用いたといっても致命傷を与えることはできない。
「この程度!」
一切怯むことなく、華扇は腕を引っ込めて蹴りを繰り出す。
「っ……⁉」
綱は体を捻り、回避するが反撃する隙は無い。
まともに喰らえば直ちに肉塊に変えられるような攻撃が嵐のような勢いで繰り出される。
僅かに躱しきれず、小さな傷が綱の体に刻まれていく。
それでも、綱は類まれなる動体視力をもって身を翻し、致命となる攻撃だけは躱し続ける。
「ちっ、ちょこまかと……どうした綱よ! それとも、逃げ回るのが源氏武者の語る勇猛な戦いなのか!?」
痺れを切らした華扇が挑発するように言うが、綱は答えない。
綱はその鋭い眼光を走らせて華扇の一足一投に注視し、回避に徹し続ける。
――隙を見せれば直ぐに斬る。先のような小手先のものでなく、全身全霊を以て。
無言を貫いたまま、機を虎視眈々と伺う綱を見かねて、華扇が苛立たし気に頭を掻きむしった。
「あぁ、くそ! ……埒が飽かないな、このままお前の体力が尽きるのを待つのも味気ない」
追撃の手を止めた華扇が突然くるりと綱に背を向けて、羅生門へと駆けだした。
身軽な動きで塀に飛び乗り、続いて屋根へと手を掛け、あっという間に羅城門の楼閣の頂上に立つ。
「どうした華扇! この期に及んでまた逃げる気か⁉」
綱が声を張り上げる。
しかし、応答する華扇は酷く落ち着き払っていた。
「まぁ、落ち着けよ。ちょっとした余興を思いついたのさ」
太々しい態度でそう言った後、華扇はその場に腰を下ろす。
足を崩してこちらを見下ろすその態度は正に高みの見物といったもので、先ほど肌で感じたぎらつくような敵意や殺意は霧散していた。
「なぁ綱、この羅城門の楼閣には何があるか知ってるか?」
足元を指さして、華扇が尋ねる。
綱には質問の意図が分からなかった。
僅かな逡巡の後、観念したように低い声で言い放つ。
「……知らん。何だというのだ?」
「――死体だよ。道に置いとくのも邪魔だからと、死体置き場にされてるのさ」
夜風に紛れて感じた嫌な臭いの正体はそれだったのか、と綱は心の中で納得する。
「そうか」
表情一つ変えず、ひどく無感動に綱は相槌をうった。
満足に弔われなかった死体を不憫に思う心はあるが、この状況においてはとりとめのない些細なこととしか思えなかった。
目の前の強大な怪物から目を離さないことの方が余程重大だ。
綱の態度を気にした様子もなく、華扇はひとりでに語り続ける。
「怪異を形づくるのは人の情念だ。満足に弔われなかった人間の恨みつらみはその場にとどまる。だから、此処は良くない物の吹き溜まりなのさ。私を呼び寄せる程に……」
なるほど、理解できる話である。
確かに、戦場の跡等で怪異が起こる話はよく聞く。
多くの死体が野ざらしになる戦場は、さぞかし情念の吹き溜まりとなることだろう。
「ここからが本題だ。そのようにしてできた曰く付きの地と言うのはな、総じて異界とつながりやすい。おまけに此処は門、境界の境目だ。今、この門の先にある世界は此岸ではない」
「何だと!?」
華扇が不敵な笑みを浮かべ、両腕を大きく広げる。
「さぁ、地獄の扉より来たれ!我が僕たちよ‼」
固く閉ざされていたはずの羅生門の扉が鈍い音を立てながらひとりでに開いていく。
門の先にあるのは月明かりすら通さない、完全な暗闇だった。
その闇を目にするだけで、体がぞわりと総毛立ち、冷や汗が滴る。
数多の怪異を相手にしてきた綱でもここまでの圧を今まで感じたことは無かった。
「生きてるうちに地獄を見ることになるとはな……」
華扇の言う通り、目の前に広がるのが彼岸の世界だということは気配で判る。
暗闇の中からケタケタと悍まし笑い声が響いた。
ゆっくりと、闇の中から無数の骸骨の行軍が現れる。
「お前たち、その男も仲間に変えてやれ‼」
華扇の号令に従って骸骨の大群が綱へと迫った。
細く白い腕が伸ばされる。
「あまり俺を舐めるなよ! 華扇!」
群がる骸骨を一人二人と切り払う。
刀一本では足りない、そう考えて腰の鞘を取り外し、二刀を以て迎撃する。
刀で斬る、鞘で打ち払う。懐まで接近されれば、柄頭で殴り倒すか、体当たりで吹き飛ばす。
幸い、骨だけの体は脆く、そして軽かった。
群がる骸骨の数が目に見えて減った頃、羅城門の向こうの闇から耳障りな笑い声が重なって響く。
再び地獄の闇より現れたのは、何処か先ほどとは纏う雰囲気が異なる骸骨達だった。
その手には刀や槍、根や斧といった様々な武器が握られている。
楼閣の上の華扇の楽し気な声が響く。
「流石だ! 雑魚じゃ相手にならんな…しかし、こいつらならどうだ? 皆私に挑んで食われた武者や退魔の者達だ! 先ほどの有象無象とはわけが違う」
華扇の言葉通り、武装した骸骨達の動きは流麗だった。
先ほどの烏合の衆とはまるで違う、確かな鍛錬に裏打ちされた技。
一筋縄でいく連中ではない。
骸骨が振るう太刀を受ける。
金属同士がぶつかり合う甲高い音が響き、火花が夜の闇に散った。
筋肉の無い体で振るわれているとは思えない重さを伴った攻撃だった。
「だが温い!」
正面の太刀を持った骸骨を斬りつけて、右側で槍を構えている骸骨に鞘を投げつける。
骸骨の手から落ちた古びた太刀を左手で掴み、真に二刀を振るって、群がる敵を薙ぎ倒していく。
武装した骸骨は確かに手ごわい、しかし、彼らには決定的な物が欠けていた。
暑さにも寒さにも弱く、些細な傷でも運が悪ければ死に至るほどに人は儚く脆い存在である。
しかし、それでも、そんな脆い肉体を鍛え上げ、数多の怪物に挑み、勝利をもぎ取る。そんな人間の意思が、矜持が亡者となったこの者達には無い。
そんな虚ろな木偶に後れを取る道理は存在しなかった。
滴る汗を気にも止めず、獣のような唸り声を挙げながら刃を振るう、振るい続ける。
羅生門の前にはみるみる骸の山が積み重なっていく。
最後の一人、斧を携えた一際大きい骸骨の一撃を左の刀で受け流し、右の妖刀で首を断ち切る。
その時だった――崩れ落ちる巨躯の骸骨を踏みつぶしながら華扇が綱の前へと降り立ったのは。
「やっと隙を見せたな!」
「っ……⁉」
正中を捉えた拳が迫る。
避け切れないと悟り、二刀を交差させ、拳を受ける。
「がっ‼」
衝撃に耐えきれなかった左手の太刀が中ほどから折れ、刃が宙を舞った。
残る妖刀が剛腕を防ぐも、勢いを殺しきれず、六尺ある体が吹き飛ばされて周囲の廃屋の一つへと激突する。
板切れのような木製の壁が崩れて、家内にまで、綱の体が鞠のように転がった。
痛みで頭が眩み、息が切れる。呼吸に違和感を感じるのは胸の骨が折れているからだろうか。
耳鳴りは激しく、体があちこち痛むのに意識が微睡んでいく。
――あぁ、俺は……
茜が差し、薄暗くなっていく森の中で、童が一人、うずくまって泣いていた。
親の言いつけを破り、森深くへと踏み入って迷子になった、何の変哲もない愚かな童だ。
直に日は暮れ、森は獣と妖達のものとなる。
哀れな童に明日は無いだろう。
帰路を失った童はただただその場で泣きじゃくるしかなかった。
「――ねぇ、大丈夫?」
ふと、童の背中にやさし気な声が掛けられる。
恐る恐る振り返った先に佇んでいたのは一人の童女。
童と歳はそう変わらない。
身に纏う衣服は童に比べ、お世辞にも上等とは言い難かった。
しかし、不思議と品のようなものが感じられる。
童女の黒が多い、可愛いらしい瞳が童を見つめていた。
「迷子? 森の入り口まで連れて行ってあげようか?」
こくりと、小さく童が頷いた。
「じゃあ行こうか」
か細い童女の手が童の手を掴む。
「私は華、あなたのお名前は?」
「――――」
「そう、いいお名前ね。ねぇ、良かったら私とお友達になってくれない? 私の周り、同じ年の子あんまりいないの」
「――――」
「本当に? 嬉しいわ!」
そう言って無邪気に喜ぶ彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しくて、暖かかったことを覚えている。
――例えこの身が地獄に堕ちようとも、あの光景を忘れることは無いだろう。
「どうした? もう終わりか綱よ?」
舞う土埃の向こう側で、華扇がこちらを見下ろしている。
――まだだ、まだ、俺は……
「……終われるわけが……ないだろう!」
刀を杖のようにして、何とか立ち上がる。
それ見た華扇が、ほうと関心したように声を漏らした。
「よく立ったと褒めてやりたいとこだがな……そんな体で何ができる?」
華扇が綱へと向ける目は憐れみを含んでいるようだった。
事実、綱の体は打撲だらけで、痛々しい。骨に響いている傷も少なくはない。
切れた額から流れ出る血は左目の視界を閉ざしてしまった。
その状態はまさしく満身創痍といった有様で、されど、綱の右の目から光は失われていなかった。
「……綱、お前にもう一度だけ機会を与える」
静かな声で、華扇が言う。
そして、何処からか彼女が取り出したのは一つの升だった。
「こんな状況で酒を飲めとでも言うつもりか?」
「――あぁ、その通りだ」
痛みを紛らわすために口にした綱の軽口に、華扇は真剣な表情で頷いた。
「こいつは、茨木の百薬升といってな。これに注がれた酒を飲めば、大抵の怪我や病気は癒える。しかし、その代償にこれを飲んだ者は鬼となる」
「……もしや、お前が鬼になったのは……」
「あぁ、この宝物の力だ。代償とは言ったがな、鬼に成るのはそう悪いことでは無い。鬼の体は頑丈だ。老いることも無ければ病にかかることもそうそう無い。力だって手に入る。現に今、私はお前を圧倒しているだろう? お前が刻苦とした鍛錬で培った技を純粋な種族としての力でねじ伏せている。だが、安心しろ。お前も鬼に成れば同じに、いや、私を超えた力すら得られるだろう。だから、この升を呷るのだ、綱……」
綱は何も答えない。
ただ無言のまま、何処か悲し気に見える表情で華扇を見つめていた。
その視線に耐えきれなくなったように、華扇が叫ぶ
「――っ! 何を迷うことがあるのだ!? 人であることに何の利がある⁉ お前たちは今は都で英雄扱いされているがな、どうせすぐに厄介者にかわる‼ 人とはそういうものだ! 怪物を殺し得るお前を見る目に恐れが‼ 嫌悪が‼ 宿ることが時間の問題だということをなぜ理解できない⁉」
激情を伴った声が闇夜に空しく響きわたった。
「――くどい」
ようやく開かれた綱の口から、氷のように冷たい声が響く。
そこには、少女に対する明確な拒絶の意思が含まれていた。
「……何?」
呆然する華扇に対して、ため息を一つ吐いてから、綱は口を開く。
「何を言うのかと思えば……最初に言っただろう、俺は人であることを選ぶと。そしてこうも言ったはずだ。――決着をつけようと。俺は此処に鬼を斬りに来たのだ」
「っ!?」
華扇の血のような瞳が揺れる。
そこに生じたであろう傷を更に抉るように、綱は続けた。
「袂は既に分かたれている。俺とお前の道は対極だ。交わることがあるとするならば、人を喰らう鬼と、それを退治する人としての関係だけだ」
膝から崩れ落ちそうな体に鞭を打って、綱は刀を構える。
かつて共にした帰路は遠い記憶の彼方。泡沫の幻に過ぎない。
そのどうしようもない現実を目の前の少女に突き付けているのか、それとも自分に言い聞かせているのかは綱自身にも判断はつかなかった。
だが、そんなことは些細な問題だ。
茨木華扇を斬る、それだけがはっきりしていれば十分だった。
今は、他のことを考える必要は無い。
「さっさと構えろ華扇。最も、そのまま無抵抗で斬られてくれるというのなら、こちらも手間が省けるのだがな……」
挑発するような綱の物言いに、華扇は僅かに顔を伏せた。
「……あぁ、そうか。そうだな…………分かった」
再び華扇が顔を上げたとき、少女の瞳は既に消え去っていた。
代わりにこちらを睨むのは肉食獣の如き獰猛な瞳。
そして、その奥には明確な激情が宿っていた。
「……もういい。お望み通り、貴様を殺して、その肉を喰らおう! 本当の鬼の暴威を見せてやる‼」
突き刺すような殺気が綱の全身を襲う。
先ほどとは比べ物にならない重圧。
あれでかなり手加減されていたという事実が嫌でも分った。
鬼としての真の彼女は斯くも恐ろしいのか。
綱の頬を冷や汗が伝った。
「先ほど私にまた逃げるのかと言ったな!? それは見当違いだ! 逃げたのではなく、逃がしたのだ! 大江山の時、毒酒をほとんど口にしなかった私なら、お前を殺すことなんて造作も無かった‼ お前だから逃がしてやったのに‼」
感情を吐露しながら、華扇が拳を握りしめる。
相対する綱の表情は対照的に涼し気だった。
「それは初耳だ。鬼になると細やかな気遣いが身につくものなのか? いつから手弱女になった? 鬼が此処まで女々しい存在だとは思わなかったよ……」
綱の言葉に華扇の目つきが一層鋭くなる。
「――っ!? 殺す‼」
「やって見せろ」
そう言って、綱は刀を天高くつき上げ、腰を低くした構えをとる。
既に綱の体は限界に近い。
しかし、人間が全力で動ける時間等もとより僅かなもの。
短期決戦になるのは百も承知だった。
故に、もう守りも回避も考えない。
この一撃にすべてを懸ける。
これで仕留められないというのであれば、大人しく死を受け入れる他にない。
覚悟は既にできていた。
満身創痍の体に活を入れるかのように、綱は雄たけびを挙げる。
そして、目の前の斬るべき鬼の名を呼んだ。
「――華扇‼」
地を蹴って、綱が華扇へと肉薄する。
華扇もまた、自分に挑む人間の名を呼ぶ。
今度こそ、鬼として迎え撃つために。
「綱‼」
綱が刃を振り下ろすと同時に華扇がその剛腕を振るった。
迫る華扇の拳が綱の頭骨を砕くが先か、綱の妖刀が華扇を斬るのが先か。
刹那の時間が、両者の間でだけ悠久の如くゆったりと流れる。
二人の脳裏を流れる記憶は、死を前にしたが故の走馬灯か、永遠の決別を前にしたがための懐古なのか。
――決着は一瞬。
血飛沫が上がり、闇夜に絶叫が轟いた。
地に伏して、うめき声を上げるのは――茨木華扇だ。
彼女の右腕、その肘から先は無い。
斬り落とされ、地面に転がった腕を綱は無雑作に拾い上げると、感情を伴わない、冷たく鋭い眼光で華扇を見下ろす。
その視線の先には最早、鬼の姿は無い。
全身から汗を滴らせて、体を小刻みに震わせるその姿はただの怯えた少女以外の何者でもなかった。
「……何を、私に……私に何をしたんだ!?」
顔を上げて、華扇が叫ぶ。
そこには悲痛な響きが含まれていた。
こちらを見上げる瞳は揺れ動き、潤んでいる。
「もうじき死ぬお前にわざわざ教えてやる必要は無いだろう」
ぴしゃりと、縋る少女を跳ね除ける様に綱は言った。
そして、再びその刀を振りあげる。
鬼の血を得た妖刀が先ほどより活き活きとした様子で怪しげに煌めいた。
「っ!?」
首を狙って容赦なく振り下ろされた一刀を転がるようにして華扇が避ける。
勢いをそのままに、華扇ははじかれる様にして綱へと背を向けると、そのまま闇夜へと駆けだした。
先ほどの圧を感じさせない、頼りない背中は直ぐに小さくなり、闇の中へと溶け込んで行く。
綱だけがその場にとり残され、降って湧いたような静寂が訪れる。
気づけば、開いた羅城門の扉の先は、何の変哲もない都の町。寝静まった家屋が並んでいるだけだった。
全てが終わったのか。否、とんでもない、ここからが始まりである。
――決して許されることが無いだろう己の罪は、今、この瞬間、この羅城門の前で始まったのだ。
「……女々しいのはどちらの方だ…………」
ぽつりと漏らされた呟きが静かな夜に響いた。
――何故! 何故何故何故! どうして‼
「嗚呼ぁぁっ‼」
ただがむしゃらに手足を動かして走り続ける。
あてなんてない。
先ほどまで照らしていた月は、雲に隠れて、辺りは完全な闇に包まれていた。
恐ろしい、ただ恐ろしい。
その恐怖が、腕を斬られた痛みすら忘れさせ、体を突き動かす。
殺される恐怖ではない。
鬼として、あの場で退治されるのであればそれで良かった。
私が彼を襲い、彼が私に引導を渡す。
妖と人の不変の交わり、それで決着がつくのならば良かったのだ。
なのに……
「――違う! 違う違う‼ 私は鬼だ! 鬼なんだ‼」
脳裏を搔き乱すのは、ずっと昔に捨てた筈の人だった記憶。
まだあどけなさを残す、見覚えのある少年の顔が浮かぶ。
――懐かしい。違う! そんな情は必要ない!
自分が自分では無くなる。
鬼としての自我が瓦解していくのがはっきりと感じ取れた。
それが酷く恐ろしい。
もう、今の私は彼と対峙することができないだろう。
彼を殺すことも、彼に殺されることも耐えられない。
だから走る。
気が狂いそうな現実から、目を背けるために。
無様に、迷い子の如く、夜をあてもなく駆けるのだ。
「――そうか。彼の鬼は逃げおおせたか」
「申し訳ありません頼光様。如何なる申し開きもありません。この綱、どんなお咎めをも受け入れる覚悟はできております」
「よい、気にするな。相手はあの奸佞邪智の鬼、一人だけほとんど毒酒を呷らなかった曲者だ。むしろ、お前はよくやった。あの鬼の腕を斬り落とし、その力と邪気を封じることに成功したのだからな。これで奴の脅威は薄れた。ともすれば、奴はもう鬼としての体を成すこともできぬやもしれん」
「はっ! 有難いお言葉です」
「うむ、これよりお前に暇を出す。しばらく療養するが良い。傷が痛むであろうに、報告のために呼び出して悪かったな」
「いえ、そのような些事、どうかお気になさらず……。それでは、失礼いたします」
「――綱殿」
背後から呼び止める言葉に振り返る。
そこに立っているのは、まだ年若い、一人の青年だった。
「あぁ、金時か」
坂田金時、綱と同じく頼光に仕える四天王の一人である。
四天王の中で最も年若く人好きな彼は、今日だけはいつもの快活な笑みを潜めて、神妙な面持ちをとっていた。
「此度もたいそうご活躍成されたそうですね」
「止してくれ、結局逃がしてしまった」
その返答に、金時が言葉を詰まらせた。
戸惑う様な沈黙の跡、彼は意を決したように問う。
「…………逃がしてしまった……ですか……逃がしたのではなく?」
ぐらりと、心が揺れる。
その動揺を顔に出さないように努めながら、
「――何のことだ?」
そんな風に惚けることが精一杯だった。
金時の鳶色の瞳がこちらを真っすぐと見据える。
糾弾の声を覚悟した綱に反して、彼の口から続いて出た言葉は予想外のものだった。
「……私の母は鬼女でした」
彼の告白の通り、坂田金時はその幼少期を妖怪と過ごした数少ない人間である。
口減らしのために山に捨てられた彼を拾い、世話をやいて育てたのは、あろうことか人すら喰らう凶暴な鬼女だったのだ。
そして、鬼女はある日、編成された討伐隊によって討ち取られる。鬼子として処刑されかけた金時を家臣にして救ったのが外ならぬ頼光公だった。
「母の行いは許されないことだと思っています。ですから、母を討った人々への恨みは有りません。しかし、私は時折ふと思うのです」
少し目を伏せって金時は語る。
「もし……母が人食いの妖では無かったら。人と共存できる可能性があったならと……母は私に対しては、確かに母親として接していてくれたのです」
妖怪というのは皆すべからく、人間にとっての脅威である。
少なくとも、今の世ではその認識が通説であるし、事実妖怪の被害は多く、それを疑う者はそういない。
故に、金時の思想は異端と呼ばれるものだ。
聞く者によれば人間の敵とも見なされかねない。
しかし、そんな考えを持っていた人間が身近に居たということに一抹の喜びを感じ得ない。もっと早く知っていたのなら、共に酒でも飲みかわしたかった。
だが、賽は既に投げ終わっている。
主人はもとより、目の前の好青年や他の四天王に自分は合わせる顔が無い。
共に並び立つ資格も、面と向かって語り合う資格も捨て去ってしまったのだ。
「金時殿の考えは相分かった。しかし、あまりそのような話はしない方が身のためだ。貴公の出生をよく思わない者たちがどこで聞き耳を立てているかは分からんからな。それでは、失礼する」
一方的に話を打ち切って、綱は金時に背を向ける。
決して容易く口外できぬ話をあえて打ち明けてくれた彼に申し訳なく思う気持ちはあるが、一刻も早くこの場を去ってしまいたかった。
外道に堕ちたこの身では、純心かつ高潔な彼の存在は些か眩しすぎたのだ。
暗い地の底を這いずるしかない土竜には、日を仰ぎ見ることはできない。
「綱殿!」
引き留めようとする金時を無視して、綱は歩を進める。
こらえきれなくなった様子で、金時が叫んだ。
「――ッ! 私は貴方が間違っているとは思わない‼ だから! あまりご自分を責めることが無いように……」
ぴたりと、綱が足を止める。
「……有難う」
振り返らないままに、それだけ言って、今度こそ綱はその場を立ち去った。
生い茂る緑の香をのせて、風が吹く。
ひどく古びた書物を閉じて、廃寺の縁に腰掛けている少年がこちらに目を向けた。
幼さを残した顔だ。
歳は霊夢達と同じくらいだろうか。
身に纏っている黒い衣は、学生の制服だろう。
少年は膝に置いた書物を横に置き、傍に立てかけてあった長い袋を掴んで立ち上がる。
「――ほんと、ひどいご先祖様だよな。厄介な重荷を残してくれたもんだ……」
そう言って、少年はその背後、廃寺の中央に祀られている桐箱を親指で指した。
「本家の連中も既に放棄したのに、分家でしかない、うちの爺さんだけが律儀に役目を果たそうとしてた。まぁ、その爺さんも去年ぽっくり逝ったわけだが……」
ため息を吐きながら、心底めんどくさそうに少年は語る。
その姿に、いつも気だるげな霊夢の姿が重なって見えた。
「しかしまぁ、俺はお爺ちゃん子だったんでね……それに、こんな呪物がある以上なにかしら起こるだろうしな。流石に今になって本人が現れることは予想外だったけど……」
言いながら、少年が袋から取り出したのは朱塗りの鞘に納められ一振りの太刀。
「平和な平成生まれの人間に、鬼相手にどうしろという話だが、来ちゃったものは仕方がない。こちらも腹を決め――役目を果たすとしよう」
少年の纏う雰囲気ががらりと変わった。
昼行燈とも評せる態度は霧散し、代わりに覗くのは鋭き刃の如き凛々しさ。
少年の姿がかつて自分に刃を向けた彼と一致した。
鞘が取り払われ、鮮やかな刀身が露わとなる。
木漏れ日を受けて神秘的に輝くその刀は、鬼切丸程ではないものの、鬼を斬るに十分な力を秘めているようだった。
流麗な動作で少年は刀を構え、冷酷な響きをもって問いかける。
「千年以上経って、どうして今更この腕を欲する? 再び人に仇成す悪鬼に返り咲くことを望むというのなら、俺はこの命に代えてもここで、お前を斬る! 先祖、渡辺綱の名に懸けて‼」
少年の瞳が此方を射抜く。
嘘やごまかしは通じない、直観でそのことを悟った。
「答えろ――茨木華扇‼」
在りし日の彼に良く似た少年が自分の名を呼ぶ。
切っ先を向けられているにも関わらず、それだけのことで少しだけむず痒さと安堵感が心の内に募った。
我ながら単純だと思う。
少年の問いに対する答えは既に決まっている。
もしそれが気に入らないというのであれば、向けられる白刃を受け入れても構わない。
だから、答えよう。千年もの月日を彷徨い歩いて私がたどり着いた答えを。
「私は――――――――――」
茜差す空を見上げながら、華扇は帰路につく。
小脇に桐箱を抱えながら歩く彼女の足取りは何処か浮かれた様に軽快だった。
彼女の手には小さな巾着袋が握られていた。
かつて自分の腕を斬り落とした妖刀――その破片が納められているそれを彼女はまるで宝物であるかのように、愛おし気に見つめる。
あの少年は、刀そのものを残せなかったことを謝っていたが、とんでもない。
千年以上もの間、よく腕とともにこれを守り続けていてくれたものである。
彼の想いが受け継がれていたという事実に、胸が熱くなった。
必要なピースは全て揃った。
だから、帰ろう。
私の新たな故郷――幻想郷に。
そして、全ての決着をつけるのだ。
今から私が何をしようと、過去に犯した過ちは決して消えないけれど、それは異なる道を歩めないということでは無い。
あの夜羅城門の前で、彼が、綱が私にくれたもう一つの選択肢を無駄にはしない。
鬼としてではない、対極の道を究めるのだ。
「…………随分、待たせてしまったわ……」
責任感の強い彼のことだ。ずっと呵責に苦しんでいた姿は想像に難くない。
死に際も安らかとは言えないものだったかもしれない。
今更弔いや労いの言葉に意味はないだろう。
だから行動で示す。これから私が歩むであろう仙道すべてを使って証明して見せよう。
――彼の選択が間違いではなかったことを。
完璧な東方茨歌仙前日譚でした。素晴らしいと思います。お見事でした。
妄執と殺意がぶつかり合う中、ほんのひとさじの情が見て取れて素敵でした
素晴らしかったです