Coolier - 新生・東方創想話

境界線姫 プロローグ

2022/06/15 20:54:26
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「あな、たは——」
 退屈だった。
 大学も、勉学も、京都も、科学世紀も、退廃へと向かうこの世界にも。
 全てが退屈で、つまらないと、大学生にもなってまだ幼かった自分は漠然ながらそう思った。それなりに不自由なく生きて、学業に苦労することなく京都の名門大学に入学して、研究に追われながら日々を過ごす。充実はしていたが、どこから来ているのかも分からない退屈はずっと身を蝕んでいた。あるいはその理由が分からないことそのものが、退屈の証明なのかもしれない。
 だから、私はずっと憧れていた。漠然と、ここではないどこかに。未知と刺激に溢れた、そんな場所に。
 だから、私は少しときめいていた。目の前に立つ、空から降り立った未知の存在に。
「そう、だからこそ貴方は選ばれたの。その好奇心に満ちた目。実に素晴らしいわ」
 まるで心を読んだみたいに、目の前の女性は話し始める。たなびく金髪、白い肌、女性にしては高い背丈、紫色のワンピース、それにハーフらしい整った顔。一つ一つは珍しいものでもないはずなのに、その全てを満たす彼女はどこか異邦……いや異世界の出だと言われても信じてしまいそうな空気を纏っていた。
「貴方の望みを叶えてあげる。だから、私のお願いを聞いてくれるかしら」
「私の……望み?」
 ええ、と彼女は微笑み、手を差し伸べてくる。
「この手を取れば、貴方の世界は一変するわ。きっと退屈とは無縁の世界になる」
 差し伸べられたこの手を握れば、今いる日常には戻れなくなる。
 それが分かっていてなお、彼女の手を握った。退屈だったとはいえ、今の世界に未練がないと言える程には達観なんてしていない。だが、目の前に降って現れたこの機会を、幸運の女神が差し伸べた手を逃がすなんて選択肢なんてなかった。
 それが甘言だなんて、疑いもしなかった。
「ふふっ、ありがとう。それじゃあ貴方にプレゼントをあげるわ。気に入ってもらえると嬉しいのだけど」
 彼女が扇を振るう。しゃらんと、まるで小さいころに見た女児向けアニメのようだが、彼女がすると妙にさまになっていた。
 それと同時、地面から浮かび上がるように一つの影が現れる。自分の知る物理法則とは明らかに異なるその光景に、驚きこそすれ恐れはなかった。むしろ子供のように目を輝かせてすらいた。
 隣に降り立ったその顔は自分を見て、にこりと笑った。
 それを見て、自分は、宇佐見蓮子は——

 §

「起きた?」
「……あぁ、メリーか」
 気が付くと、蓮子の目の前にはあの顔があった。
 夢の最後に見たその時と同じように、彼女は蓮子を見てにこりと笑っていた。
「素敵な夢でも見ていたの?」
「ええ、最悪な夢よ」
 あんたとの出会いの夢よ、とは口が裂けても言わない。そんなことを言えば、目の前のこの女の笑みは、女神のような慈愛に満ちたそれから瞬く間に意地悪くにやついたものに変わるだろう。あの見目麗しい笑顔に騙されちゃいけない。
 蓮子は眠気眼を擦りながら窓の外を見る。自分の部屋から見る星空は、午前二時という辛い事実を突き付けてくる。明日も朝から講義なのに。そう考えると、はぁ……という大きな溜め息が漏れるのも当然だった。
「起きていきなり溜め息だなんて、朝から辛気臭いのね」
「……そうね」
 メリーの皮肉に口答えする気にもならなかった。自分がこいつに慣れているのが分かってしまい、その事実がまた蓮子の気分を下げる。もう、こいつが自分の部屋に当たり前のように立っていることに疑問すら思わない。鍵ほど、こいつを前にして役に立たないものはないのだから。
「それでね、蓮子」
「ああ、分かってるわよ。あんたが来たってことは、そういうことなんでしょ」
 蓮子のお役目。
 それを彼女が忘れたくても忘れられるはずがない。それこそが今の蓮子にとっての生きる意味であり、同時に彼女の人生を狂わせた元凶でもあるのだから。
 蓮子はメリーに背を向け、着替えを始める。野暮ったい寝間着から、白いシャツと黒のロングスカート……彼女にとっての戦闘服へ。
「それで、教授とちゆりは?」
「もう既にスタンバイしてるわ。あとは蓮子だけ」
「さすが、準備が早い。場所は?」
「街の外れの廃工場ね」
「対象の情報は?」
「何も」
 メリーはオーバーなリアクションで肩を竦め、首を横に振る。
「情報なし……か。八雲紫のやつ、連れ戻せって言うのなら、どんなやつかぐらい調べてから言ってこいっての」
 メリーとの事務連絡を淡々と続けながら、着替えを勧める。帽子を被り、最後にメリーの髪と同じ金色のグローブをぎゅっと手に填めたところで、メリーが楽しそうに呟いた。
「また、蓮子と夜のお出かけね」
「……随分と、楽しそうね」
「蓮子は私とお出かけできて楽しくないの?」
「私は、とっとと奴らを追い返して終わらせたいんだけど」
 これから、私は命懸けでお役目に挑まなければならないのだ。楽しくなんてないはずがない。
 ……作り物のあんたと違って、私は死んだらそれまでなのよ
「……せっかくのデートなのに、蓮子は随分とつまらなさそうね」
 蓮子はメリーの顔も見ず、相も変わらず淡々と準備を進める。蓮子なりの無言の肯定だった。それが不服なのか、メリーは腰に手を当て、むすっと息を吐く。
「だったら、やる気にさせてあげる」
 メリーは蓮子へ向けて何かを投げる。蓮子は手のひらで難なく受け止めてから、初めてそれが黒いインカムであることに気付く。LEDが点滅しているところを見るに、どうやら既に通話状態にあるらしい。慣れた手付きでインカムを自分の耳に装着すると、予想通りそこからは聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。
『寝起きで悪いが、仕事の時間だ』
「分かってるわ、ちゆり。いつも通り、サポートお願いね」
『ああ、だけど一つ、悪い情報がある』
「……悪い情報? そういうのは良い情報と一緒に提示してくれるものじゃないの?」
『悪いが、良い情報なんてそんな便利なもんはねぇよ』
 ちゆりがやや言い淀む。彼女の直属の上司である教授ですら時には拳で殴ることも辞さない彼女にしては、やや珍しい態度だ。ちらりとメリーを見ると、蓮子を見てにこりと笑っている。まるでちゆりがこれから何を言うか、全て分かっているとでもいうように。メリーがああいう顔をするのは、大抵ろくでもない時だ。
 蓮子の中の警戒心が鎌首を持ち上げる中、ちゆりは言い淀んでいた言葉を告げた。

「奴さん、どうやらちょうどお楽しみの真っ最中みたいだぜ」

 その言葉を聞いたと同時、
 蓮子の姿は、部屋から消えていた。

『……おい、蓮子のやつはどうした?』
「どうやら、一足お先に行っちゃったみたい」
『一人で突っ走りやがって。だから言いたくなかったんだ』
 メリーは一人残された部屋の中で、独り言ちる。彼女の耳にインカムが繋がっていないにもかかわらず平然とちゆりとの会話を続けるが、ちゆりもまた当たり前のように会話を続ける。
「それじゃあ、私も行くわね」
『おうよ、サポートは任せろ』
「蓮子も、貴方ほど素直だったらいいのに」
『あいつが素直にねぇ……ま、お前があいつを落とすのを、陰ながら祈ってるぜ』
「ありがとう。それじゃ、私も行くわ」
 そして、メリーの体が地へと落ちるようにして部屋から消えた。

 §

 京都。
 あらゆる機能を府内に集約し、科学技術の粋を以て造られた、現代日本における最大の都市。科学の発展は様々な恩恵を人々へ齎し、病に苦しむ人間はいなくなり、街には人間に混じって自立ロボットが行き交い、統一原理すら解き明かした、現代の街。
 科学が全てを解き明かしたことで人々は不可思議から解放され精神的な豊かさを手に入れた、そんなオカルトや怪異とは本来無縁な場所。
 そんな時代になったとて、都市内にある全ての建築物に管理の目が行き届いているということはない。街には空白が存在し、そしてそんな場所があれば様々なものが寄り付いてくる。社会からフェードアウトした浮浪者、乱暴で原始的なものを好むゴロツキ、住所を持つことも出来ない訳あり。そして、
「……あはっ」
 街の外れにある、コンクリートと鉄で作られた廃工場。今は埃と蜘蛛の巣に塗れたその中心に、女の姿をした何かがいた。僅かに街灯と月明りが窓から入るだけの冷たい廃工場の暗闇の中で、女がその口から笑みを零す。隠そうとして隠そうとして、それでも隠し切れずに思わずこぼしてしまった、そんな笑み。
 視線の先には、一人の男がいた。
 その男はコンクリートの上でのたうち回っていた。まるで体の中で何かが蠢いているかのように不規則に体が跳ね、その度に呻き声と吐瀉物を口から撒き散らしている。男が病か何かに侵されているのは誰の目にも明らかだった。苦しみ悶える男には、もはや目の前で艶やかに笑っている女が誰で、その背中から生えている昆虫の脚……いや、電柱とコンクリート製のカラーコーンをつなぎ合わせたようにも見える巨大な二対四本のそれが何なのかということに意識を向ける余裕すらない。
 そして彼女も、その男の名前は知らない。性格も、趣味も、何もかも。ただ、夜にふらふらと出歩いているところを見つけたというだけで、この男を捕まえ弄んでいる。けれど彼女にとっては十分だった。男が自分の病で悶え、そして良い声で鳴いてくれる。その事実だけで十分愉しめていた。
「あははっ」
 あらゆる制約から解放された喜び、怪異が本来享受すべき悦びを、彼女は全身で味わっていた。
 この場所に送り出してくれたあいつには感謝しなければならない。いや、「しなければならない」じゃない。「したい」んだ。今のこの気持ちを熱い抱擁とキスであいつにぶつけないと気が済まない。たとえその結果、あいつが病に侵されようとも、この高揚感を自分だけで味わうなんて、そんな勿体無いことできない。
 背中から生えた脚で男を蹴飛ばす。女にしてみれば路傍の石を軽く小突く程度のつもりだったが、男はバットで殴られたみたいに跳ねてごろごろと転がった。蹴られた腹の痛みに蹲り、しばらくして男は血の混じる咳を吐きながら、女を見上げて漠然と思う。
 どうして、こんなことに。
 男は、オカルティストだった。いや、オカルティストなどと名乗る事すら烏滸がましい、ネット上で見つけたオカルトスポットに夜な夜な出歩いては、廃屋や神社をそれらしく撮影してSNSにアップするだけの、オカルトへの知的好奇心とSNSでの承認欲求のどちらが勝っているかも分からない、その程度の人間。この世界の秘密を暴くどころか、幽霊の一匹すら男は自分の目で見つけられたこともなかった。
 そんな自分が、化け物に襲われるなんて。
 背中から伸びた脚が、女の体を宙に持ち上げている。女が高くから地べたに這いつくばる男を見下ろしている。
「ああ……」
 それを、あの男が〝何か〟へと向けるその感情を、〝何か〟は全身で堪能し、歓喜に身を震わせる。
 久しく感じていなかった、妖怪の根源とも言える、人間から向けられる恐怖の感情。自分の放った病に侵される人間の姿。ああ、なんて甘美だろうか。
 地底に追いやられてから数百年か数千年か、久しくそれを摂取していなかった。地底で、自分は大人しかった。傍若無人な妖怪が跋扈する地底で、それでも自分な常識人だと、そう振る舞って生きてきた。建築業というそれなりにまともな手段で日銭を稼ぎ、友人である鬼どもと酒を呑んで満足する日々。
 地底という社会の中で、ある意味で人間らしい、真っ当な生活。
 だから——
「ねぇ」
 女はコンクリートの地面へ降り立ち、男へ顔をずいと近付ける。男は病に喘ぎながらも、目の前の女の顔に釘付けになる。
「もっと苦しんで。もっと私を恐れて。その苦痛と恐怖こそ、私を昂らせるの」
 この男は、空っぽだった女の中の何かを満たそうとしてくれている。
 だが足りない。満たされない。
 こんな男一人で足りるはずもない。こいつから搾り取るだけ搾り取ったら、今度は街へ行くんだ。こそこそと暗闇に隠れる必要もない。今度は街の中心で思うが侭に病を撒き散らし、この脚で肉を潰し、浴びるように喰う。そうして痛みと苦しみに呻く人間どもをたっぷり鑑賞する。そうしたら、きっと私の何かは満たされる。
 ここにはルールなんてない。この行為を咎めるやつも、妖怪を退治しようとするやつもいない。自由なんだから、人間一人で満足しなければならない道理だってない。
 女は目を瞑り、顔をさらに男に近付ける。まるで結婚式で誓いのキスをするように、無垢で美しい顔と艶やかな唇が男へと迫るが、男は子供のようにいやいやと泣きながら首を振る。男だって、その唇が毒々しい紫色の液体に濡れていなければ喜んでいたかもしれない。
 だが、男がどれだけ拒もうと、病に濡れた唇は迫る。病に侵された体では満足に動くことも出来ず、ただキスを受け入れるしかなかった。
 その、はずなのに。
「——あれ?」
 男が消えた。男の呻きも、体温も、ふっと煙のようにいなくなった。
 女は目を開く。
 目の前の男が、忽然と消えていた。立つことすらままならなかったはずの病人が、だ。間抜けに目をぱちぱちと瞬かせ、長いその脚で周囲を撫でるように探査しても、その事実は変わらない。周囲を見渡すが、廃工場はしんと静まりかえっていた。この廃工場の中には自分だけで、あの男の姿は見えない。
 だが、気配は感じる。あの男を蝕む病、自分の一部がすぐそこに、廃工場のすぐ外にいる。
「私から逃げられると……思うな!」
 叫び、背中から飛び出している脚をシャッターへと突き立てた。乗用車の突進程度ならその身一つで受け止めてしまえる程度には強い鋼鉄のシャッターが、まるで紙切れのようにあっさりと脚に貫かれ、強引に剥ぎ取られる。
 予想通り、シャッターの先にはあの男がいた。病原体たる女から離れたことで少し余裕が戻っているかもしれないが、それでもまだ病でその顔は青ざめ、土の上に仰向けになりながら脂汗を流している。だが、男の視線は女ではなく隣に立つ二人の少女たちへ向けられていた。
「あれが、境界を越えてやって来たという怪異ね」
「背中のあれ、虫の関節肢よね。虫の妖怪というと、大百足か牛鬼がぱっと思い浮かぶけど」
「メリーが分からないなら、もう誰にも分からないでしょ。そもそも、どうしてあんたのご主人様から聞いてないの?」
「文句なら本人に言ってちょうだい」
 少女たちは自分たちだけに聞こえるよう小声で会話しているつもりなのだろうが、女の鋭敏な耳は聞き逃さなかった。あれ呼ばわりされた女が、不快感に顔をしかめる。
 黒髪の少女は、女を真っ直ぐに睨み付けている。油断はしていないが余裕はあるのが見て取れる。金髪の少女は、まるでこの状況が分かっていないみたいに呑気なことを言って笑っている。
 気に喰わない。
 どうやってか、あいつらが自分の得物を奪ったらしい。だが、それ以上にあいつらが自分を、鋼鉄のシャッターを引き裂いたこの脚を見て怯えの一つもしないことに、女は苛立ちを感じていた。さっきまで自分の中にあった高揚がすっと退いていくのを感じる。この世界は思い通りだと、その全能感を楽しんでいたのに、それが嘘だと突き付けて冷や水をぶっかけられたような気分。
 しゅるる、と口が鳴る。紫色の瘴気が口から漏れる。
「……誰だい?」
「おっと、これは失礼」
 黒髪の女は恭しく礼をして、名乗ろうとする。だが、それよりも先に反応したのは、病に蝕まれていた男だった。
「あ、あんたらまさか……」
 男は病にうなされながら、それでも二人を指さして言葉を紡ぐ。
 その男も一応はオカルティストの端くれ。だから知っていた。ネット掲示板なんていうレトロな場所で書き込まれていた、一つの噂、都市伝説を。
 この世界には本物の怪異が存在する。本来であれば世界の裏側に潜んでいるそれは、普段は結界に阻まれてこちらの世界に来ることはない。だからこそ政府は結界暴きを禁じ、その奥にいる何かをひた隠しにしている。だが時折、結界を越えて自分たちのいるこの世界に何かがまろび出ることがある。
 そして、それを裏の世界へ送り帰す存在がいるということを。この世界に現れた怪異を表舞台から秘して封ずる、秘密組織が存在すると。
 ずっと、そんなものは眉唾物だと思っていた。出会った事も無い怪異がこの世界にいるどころか、それを退治するだなんて小説か漫画のようなことを現実でやっている組織が存在するなんて、オカルティストを自称しておきながら男は信じていなかった。
 だが、どこか慣れたようにあの怪異に相対して立つ二人を見れば、それだけで信じるには十分だった。
 掲示板に書かれていた、その組織の名をぽつりと呟く。
「秘封倶楽部、なのか……?」
「知ってくれているのは嬉しいけど、今は後」
 黒髪の女は震えすらしない二本の足で立って、男を苦しめた怪異を不敵に笑って睨み付ける。男と比べれば華奢なはずの体が、今はこれ以上なく頼もしい。
「ここからは私たち秘封倶楽部の、お役目の時間よ」
 月夜を跳ね返す金色の手袋をぎゅっと嵌め直し、秘封倶楽部所属、宇佐見蓮子はにやりと笑いながらそう呟いた。

 §

 その自信満々な笑みの後ろで、蓮子の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
(やばいやばいやばい!)
 頭の中で警鐘が鳴り響く。
 そもそも、怪異なんてものと人間が真正面から渡り合おうなんてものが土台無理な話なのだ。その身一つで簡単に鋼鉄のシャッターを切り裂くような存在に、脆弱な人間が生身で立てばどうなるかなんて、考えなくても分かる。
 本来なら、まずは相手が話の通じる相手かどうか、じっくりと時間を掛けて見定める。相手が獣と同等の存在なら獣と同じように相手して、人間の形を持つなら性格や趣味嗜好もある程度把握して、それから交渉へと入るはずなのに。自分は刀一つで妖怪を斬り伏せた伝説の英傑などではなく、ただの大学生でしかないのだから。
「ずっと敵わないわね、その願い」
 隣でメリーが心を読んだみたいなことをぼそっと言うが、言い返す言葉が見つからない。
 私はこんなにも平和主義者なのに。対話と誠意によって問題解決を図る文明人なのに。どうしていつも争いごとになってしまうのだろうか。私が非情なら。この見ず知らずの男を見殺しにするかいっそ利用してやるだけの冷酷さと強かさがあれば良かったのにと、蓮子は内心で毒づいた。
「こんばんは。お話、ちょっといいかしら」
 それでも、蓮子は不敵な笑みを引っ込めない。メリーを黙殺して胸を張り、怪異相手の綱渡りを始める。
 相手が恐ろしくないわけがない。シャッターをも簡単に切り裂く異形の脚、そして見るからに毒々しい紫の瘴気混じりの吐息。だが、それでもその感情を抑え込む。
 恐怖、怖気、嫌悪。そういったものに怪異は敏感だ。それを見せれば、たちまち怪異はそれを喰らおうと牙を剥く。だからこそ、真正面から堂々と怪異と相対する。それこそが、少なくない数の怪異と相対してきた蓮子が身に着けた、怪異との交渉術だった。
「はいどうもこんばんは。……それで、あんたは誰でどうしてここに? 得物を横取りするにしても、病まみれのそいつは私以外が喰えたものじゃないよ」
 女の口調こそ温和だが、その言葉には隠しもしない、得物を盗られたことへの苛立ちが込められていた。
 怒りを刺激しないように、しかし下手にへりくだるような真似はせずに。蓮子は慎重に言葉を選ぶ。
「得物を横取りだなんてそんなそんな。私は宇佐見蓮子。ただの……そう、記者のようなものですわ。もし良ければ、お話を聞かせてもらえませんか? まずはお名前と、種族から」
「記者ねぇ……私は新聞とか文屋ってやつが嫌いでね。ついでに言えば敬う気もないくせに薄っぺらい敬語を使ってるやつも」
 女は、脚に引っ掛かっていたシャッターを脇に放り投げる。巨大な鉄板が一瞬ふわりと宙を舞い、そしてコンクリートの床に叩きつけられる。耳を叩く轟音が、廃工場の外にまで響き渡った。
 僅かな可能性に掛けて対話を試みるが、どうやらますます機嫌を損ねたらしい。だが、少なくともコミュニケーションが出来る程度にはちゃんと知能があるようだ。前に見た食屍鬼(グール)だかゴブリンだかは野生動物とそう変わらなかったが、人の姿を持つ怪異の口からは鳴き声や呻き声ではなく流暢な日本語が流れていた。
「名前と種族、ねぇ……。妖怪にそれを聞くというのなら、その意味を分かっているのかい?」
「はて、意味とは?」
「お前は簡単に殺さない。この私の、土蜘蛛の恐ろしさをこの街に広めてもらわなければならないんだから。なぜならそれが……」
「語り継がれ、そして恐れられることこそ、怪異にとっての糧だから」
 土蜘蛛と名乗った女の言葉を蓮子が代弁すると、女は眉をひそめる。困惑、というよりも疑問だろうか。『外の世界で妖怪なんてものはすっかり消え去った』というのはこちらの常識だが、目の前の少女はなんというか……怪異というものに慣れている。
 蜘蛛女の目が、変わる。ただの障害物、邪魔者でしかなかった蓮子という存在が、何か……少なくとも、路傍の石や先ほどまで弄んでいた男と違うものへと変わる。
「なあ! あんたら秘封倶楽部なんだろ! 怪異を封印するっていう、あの都市伝説の!」
 蜘蛛女と蓮子、互いに睨み合っている横で男が叫んだ。その言葉に、どうにか取り繕っている蓮子のポーカーフェースがひくりと歪み、汗がシャツをますます湿らせる。余計なことを言うんじゃないと、それを顔に出さないよう必死に抑える。
 女に助けを求める情けない男の声を聞いて、蜘蛛女がけらけろと笑う。
「あら、案外しぶといじゃない。そこまで強い病を流したつもりは無いけど、これはちょっと手加減が過ぎたかな?」
「あいつ、笑ってたんだ! 俺が苦しんでのたうち回っているのを見て、楽しそうに笑ってやがったんだよ!」
「ああ、美味しかったよ。病に喘ぐあんたの苦痛。恐怖に歪むあんたの顔。みっともなくて、みじめで、情けなくて……ああ、実に良かった」
 蜘蛛女は恍惚に顔を赤らめ、涎を垂らしながら両頬を手で押さえている。その顔、そのまま人前を歩けばそれだけで通報されそうなほどに艶めかしく犯罪的なそれを見て、蓮子はこいつもかと内心うんざりする。
 怪異というやつは、どいつもこいつもネジが一本外れてとち狂っている。端的に言えば、気狂い、あるいは変態なのだ。そもそも怪異とは、人の欲や恐怖の集合体のようなもの。倫理観とか性癖とか、人間と比べてそれらが歪んでいないはずがない。
 こいつも、ただ人間を喰うだけなら得物を病に侵す必要なんてない。
 ただ、己が愉しむために、男に死なない程度の病を与え、苦しむその様を眺めたんだ。あるいはその悦びこそ、妖怪にとっての〝おかず〟であり、米やパン、人の肉では満たすことの出来ない栄養なのだ。
「美味しかったって……おま……お前……!」
「あぁ……あんたはもういいよ。飽きた」
 男はぱくぱくと口を震わせる。自分をこれだけいたぶっておいて、言うに事欠いて飽きたなどと思って怒りの炎を燃やしているのかもしれないが、もう蜘蛛女の興味は別の者に移っていた。
「あんた、私を封印するんだって?」
 先ほどまでの苛立ちはなりを潜め、その代わりに目に宿っているのは、蓮子たちへの興味。しゅるる、と口から紫色の瘴気を漏らす。
「お姉さんたち、強いんでしょ?」
 蜘蛛女が先ほどまで蓮子に抱いていた、苛立ちや警戒の心は既に無かった。人間の分際で自分を封印すると、そう言うのなら、相応の強さ……精神力を持っているに違いない。
 だから、こいつを病で侵せばきっといい声で鳴いてくれるだろう。たくさん苦しんでくれるだろう。是非とも、それを堪能したい。
「強いって……私たち、ただの人間よ。貴方と比べれば、風で飛ばされるほどに脆弱な存在なの」
「隠さなくてもいい。分かるよ」
 蓮子の口調こそ穏やかだが、既に理解していた。説得や対話など、もう無意味だということに。既に標的は男から自分たちに向けられており、そして自分たちを喰ったところで蜘蛛女の欲求は治まらない。
 蓮子は金色のグローブが光る両手をあげる。自分は無害だとアピールするみたいにゆらゆらと小さく手を揺らすが、蜘蛛女の目にはこれから狩られる兎の耳に映っていた。
「そこの男は肉体だけはちょっと頑丈だったけど、精神が駄目だね。ちょっといたぶっただけで怯えて泣き喚くばっかり。これはこれで悪くはないが、もっと抗ってくれないと張り合いがない」
 蜘蛛女は背中から伸びる四本の脚を持ち上げ、自身の後方へと振り被る。脚の先にある身の丈ほどもある鋭い三角錐が、弓に番えた矢か、あるいは構えた鎌のように自分へと向けられているのを感じる。
「それに対して、お姉さんたちは随分と肝が据わっているみたいだ。私の楽しみを邪魔したんだし、その男の代わりにお姉さんたちの体と心、しっかり楽しませてもらうよ」
 そして、脚が蓮子へと振り下ろされる。一つ一つが鋼鉄を容易く切り裂く、身の丈ほどもある巨大な鎌。廃工場の中から触手でも伸ばすみたいに飛び出してきたそれが、蓮子の四肢の付け根に突き立ててやろうと迫る。
 人間に突き立てられれば、肉体に穴が空くよりも先に全身がぐしゃぐしゃのミンチへと変わるだろう。
 そう、突き立てさえ出来たのなら。
「……あ?」
 蜘蛛女から間抜けな声が漏れる。
 手応えがない。女の肉を貫く感触どころか、地面の固い手応えすらまるでない。いや、それどころか地面すらない。脚の先がぶらんぶらんと着けるべき地を探している。
 そして何より、黒髪の女は今もまだ五体満足だ。片膝を付きあげていた手を地面に付け、まるでクラウチングスタートの体勢にも見える。顔は見えないが、少なくとも痛みに喘いではいない。
 脚は蜘蛛女からあいつの頭の先まで伸びている。だがそこから先、脚の節から先が切り落とされたみたいに無かった。爪の代わりに脚の先にあるのは、小さな境界。空間にぽつんと開いた、蓮子の四肢を隠すようにハの字に現れた割れ目のような穴が、脚をすっぽりと受け止めていた。
 蜘蛛女は引き抜こうと体をよじるが、がっという鈍い音が響くばかりで一向に引き抜ける気配はない。境界の先、爪が今どこにあるのか分からない。その光景に、蜘蛛女の背中を嫌悪感が走る。
「な、なんだいそれは! その手は!」
「対怪異用手袋型物理境界操作兵装。まさか、本当に何の力も無しにあんたたち怪異の前に立つと思ったの?」
 対し蓮子は、半ばで途切れた脚を眺めながらにやりと笑い、まるで先ほどまでの鬱憤を晴らすかのように挑発するような強い言葉と共に、その手に付けられた金色のグローブの名を唱えた。
 古今東西、怪異の血肉というものはそれ自体が強い力を持つものだ。喰った者に不老不死をもたらす人魚の肉、浴びることであらゆる武器を防ぐ固い肉体を与える竜血、八岐大蛇の体内から見つかった神剣……そういった伝説は多岐にわたる。
 なら、この金色のグローブもまた、そういった妖怪の力を宿した品だ。なんせ、あの八雲紫の髪を編んで作られたものなのだから。
 八雲紫。
 境界を自在に操る能力を持ち、蓮子にお役目とメリーを与えた、怪異の楽園の管理者。
 お役目とは即ち、未だにこの街に潜む怪異、或いはあちらから脱走した妖怪を見つけ出し、あちらへ送ること。このグローブも、メリーも、全てはお役目を担うために与えられたものに過ぎない。
 その手袋に宿るのは、まるでワームホールのように離れた二点を繋げる力。腕を振って空間を裂き、境界と呼ばれるものを作り出す武器。八雲紫が怪異と渡り歩くために私に託した、お役目のための神具なのだ。
「ふう……」
 脚を捉えられ動けなくなった蜘蛛女を見て、ようやく蓮子はポーカーフェイスを崩し、安堵の息を吐いた。
「お疲れ様。いい働きっぷりだったわ」
「何もしてないのに偉そうに……」
 メリーの皮肉に、蓮子は辟易としたような声を漏らす。
 こいつが来てから、蓮子の世界は一変した。
 かつてこの世界にいた怪異は、はるか昔にこの地を離れ、世界を隔てる境界のその先に生きる場所を移している。
 だが、この世界から全ての怪異が消えたわけでは無い。一部の怪異はまだこの世界に根付いていて、また幻想郷から境界を越えてこちらへ入って来ることもある。
 それを送り帰すのが、蓮子の、秘封倶楽部のお役目だ。
 あの男のように、かつて一人だけでオカルティストを名乗り、しかしうだつも上がらず燻り続けていた蓮子に、自称あちらの世界の管理者たる八雲紫が接触し、お役目とメリーを蓮子に授けた。
 そのおかげで蓮子は日夜怪異を追い掛ける羽目になった。確かに蓮子は刺激を望んでいた。だが、それは今こうして命を懸けるほどに求めていたかと聞かれれば、彼女は間違いなくNOを帰すだろう。
 だが、お役目を放棄出来る立場に今の蓮子はない。それを放棄すれば、蓮子自身もまたあちらの世界へ飛ばされる。決して多くはないが、それでも無理矢理あちらへと送り返された妖怪連中が自身のテリトリーで蓮子を見つければどうなるか。
 だからこそ、自分がこんなことをする羽目になったメリーに対し当たりが強くなるのも止む無しだろうか。尤も、当のメリー本人はそんな蓮子の感情なんてどこ吹く風といった様子だが。
「さて、と……」
 蓮子は視線を蜘蛛女へと戻す。蜘蛛女は、脚を前に突き出したまま蓮子たちを睨み付けている。人間の形をしたほうの手をこちらへ伸ばしているが、脚と比べるとあまりにも長さが違うために意味を成さない。
 廃工場へと蓮子は足を踏み入れる。かつかつと足音を響かせながら蜘蛛女へと近寄るが、四肢を文字通り抑えられた蜘蛛女は脚に比べれば遥かに短い手足を振り回すことしか出来ないでいる。それを確認してから、蓮子は耳に装着されたインカムを叩き、その先にいるちゆりへ成果報告を行う。
「ちゆり、捕獲成功よ」
『ああ、見てるぜ。おつかれさん』
「案外、あっさり片付いたわね」
『お前が飛び出して行った時はどうなるかと思ったよ』
 さて、後はどうやって送り帰そうか……と廃工場の暗い天井を蓮子が見上げたのと、同時だった。
「……な、めるなぁあぁ!」
 怒号。歪んで酷くざらついた声が廃工場に響き渡る。それが人間の発したものではないと本能で悟っても、先ほどまで綺麗で流暢な少女の声色で話していた蜘蛛女が発した声なのだと、蓮子はすぐに理解出来なかった。
 だが、本能で危険を察知した蓮子は、咄嗟にグローブを振るう。それと同時、自分の足元に境界が生まれ、落ちるように吸い込まれる。その次には、蓮子は廃工場の外に立っていた。足元に境界を作り出しての瞬間移動。
「あら、お帰り」
「呑気なこと言ってないで、来るわよ!」
 隣に立っていたメリーに喝を入れ、二人して廃工場を睨む。
 そして、蜘蛛女の体が揺れる。廃工場の影の下で体をこわばらせ、痙攣でもしているみたいにぎちぎちと体を震わせる。その行為の意味を、蓮子は遅れて理解した。
「が、ああああああああ!」
 ぶちぶちぶちぶちっ! と。
 耳障りな音が蓮子の鼓膜を震わせる。思わず耳を塞ぎたくなる音だったが、それよりも目の前の光景はよっぽど背けたくなるようなものだった。
 蜘蛛女が、境界に捕らえられていた脚を引きちぎったのだ。
 爪の先端を境界の先に残し、脚を引き抜く。切断された脚からは紫色の毒々しい液体を垂れ流していた。
「お、おい……なんだよあれ……」
 男の振るえる声は、すぐに途切れた。蓮子が地面に作った境界の穴に落ちていったからだ。次に起こることを考えれば、彼を守りながらなんて到底できはしないだろう。大丈夫、今はちゆりがきっと保護してくれている。
 虫の中には、自切という能力を持つ種類がいる。脚を自らの意思で切り離し、捕食者が脚に気を盗られたうちに逃げる能力。
 だが、目の前の蜘蛛女は逃げるつもりなど皆目ないらしく、脂汗を浮かべながらも獰猛に笑っていた。
「送り帰す、だって……?」
 蜘蛛女は千切れた脚をコンクリートに叩きつける。がぉんがぉんと轟音とともに、廃工場が揺れる。
「やれるものならやってみなよ。手負いの虫の怖さ、教えてあげる」

 §

 まずいことになった。
 蓮子の残り少ない脳のリソースで、そんなことを考える。
「ほら、ほら! さっきまでの威勢はどうしたんだい!」
 蜘蛛女が脚を振り回す。
 先端がちぎれたとはいえ、それでも一本一本が5メートルはあろうかという棒状の鈍器だ。がん、がんと叩きつける度に地面を揺らしながら迫ってくるその様は、まるで重機に追い掛けられているような気分にさせてくる。
 先ほどみたく境界で捉えることはもう出来ない。あれは〝突き〟だったからこそ、境界で針の穴に糸を通すみたいに受け止めることが出来た。だが、ああして無暗矢鱈に振り回されているものを受け止められるほど境界は固くも大きくもない。
 このまま背中を向けて逃げ出したい。その気持ちを抑え、蓮子はしっかりと見据えたままバックステップで下がる。ここで恐怖をあらわにすれば、喰われる。物理的にではなく、精神を、だ。
「おらぁ!」
 蜘蛛女の野蛮な声と共に、四本の脚がまとめて横薙ぎに振るわれる。蓮子はそれを、咄嗟に身を伏せて回避する。頭のすぐ上を脚が通りぬけ、ごうっ! という風を引き裂く轟音が髪を揺らし、背筋に寒気が走る。次いで蜘蛛女が脚を持ち上げているのが見えて、地面に境界を作りそこへ飛び込むように逃げる。
 蜘蛛女から数十メートル離れた場所に降り立つ。蜘蛛女はすぐにこちらを見つけ、口から瘴気を漏らしながらまたまた突っ込んでくる。
 境界ワープで距離を取りつつ、つかず離れずの距離で逃げ回る。今はまだどうにか追い付かれないで済んでいるが、このまま追いかけっこを続けて先にスタミナが無くなるのは蓮子のほうだ。
「このっ!」
 蓮子は懐から拳銃を取り出し、そこに備え付けられた引き金を絞る。
 女性の片手にもよく馴染むその小さなオートマチック拳銃は、蓮子が指を動かす度にぱすん、ぱすんと銃声と共に小さな鉄の弾を飛ばす。人間が見れば大の大人だろうが両手を挙げて大人しくさせることができる、人を殺すための道具。
「そんなものがどうした!」
 だが、目の前の存在にとっては文字通り屁とも思わない。縦横無尽に振るわれる脚によって阻まれ、キンという音とともにあらぬ方向へ跳弾する。仮にその皮膚にまで届いていたところで、どうせ傷の一つも付けられないだろうが。
 決して、その拳銃の威力が小さいわけではない。急所を狙える腕があれば人を殺すには十分だが、怪異の肌に傷を付けるにはあまりにも弱すぎるというだけの話。蓮子は続けて引き金を引くが、もはや蜘蛛女は脚で庇いすらしない。数滴の銃弾の雨に身を晒し、服にいくつかの穴を空けるが、そこから血の一滴も流れない。
 そして、碌に相手の体に傷も付けられないまま、弾倉は空になり、かちんと虚しい音を鳴らした。
「……あはっ」
 蜘蛛女が銃というものを理解しているのかは知らないが、弾が飛び出さなくなった拳銃を見て笑みを浮かべると、蜘蛛女は深呼吸でもするみたいに体を大きく仰け反らせ、ここからでも聞こえるほどの音を出しながら空気を吸い込む。その行動の意味は理解出来なかったが、それでも嫌な予感のした蓮子は、グローブを振るい境界を作ろうとする。
 だが、それよりも先に蜘蛛女は、大きく息を吐いた。いや、息なんてそんな綺麗なものじゃない、紫色の見るからに毒々しい瘴気がそいつの口から吐き出された。瘴気は一瞬で一面に広がり、蓮子は逃げる間も無く瘴気に包まれ、肺へ吸い込んでしまう。
 その瘴気の効果は、すぐに表れた。
「あ……え……?」
 視界が眩み、意識が朦朧とし始める。その顔はすぐに脂汗に塗れ、足元は揺らいで立っていられなくなる。視界の端で蜘蛛女がこちらへ突っ込んでくるのが見えたが、もはや視線を前に向けることすらできなくなって、吐き気を堪えて蹲ってしまう。
 まずい。
 頭の中になるアラートが嫌というほどそれを教えてくれるのに、体は動いてくれない。今の彼女には、車もかくやという勢いでこちらを轢き殺そうと迫って来る蜘蛛女を待つことしか出来なかった。
 死が、蓮子の頭を過る。このままでは潰されてしまうと分かっているのに、地面に着いた手が動かない。病に侵された手は、思うように動いてくれない。ただただ、ゆっくりと進む体感時間の中で死が飛び込んでい来るのを待っていた。
 ……くそっ、こんなところで……?
「蓮子!」
 相棒の叫び、メリーが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 自分が死ねば、蜘蛛女の次の標的は、きっとあいつだ。逃げればいいものを、お役目を果たすために律儀にそこにいる、相棒面したあいつだ。
 ……くそっ、あいつのために死んでいられないなんて、腹が立つわね……!
 朦朧とする意識の中、気力を振り絞って手を振り下ろすのと、蜘蛛女が得物を見つけたハエトリグモみたいに飛び上がるのは、ほぼ同時だった。
 だが、僅かに蓮子の手が早かった。 
 がががぁん! という金属を叩きつけたような音が京都に響く。いや、音なんて軽々しいものではなく、鼓膜どころか蓮子の全身を震わせるほどの巨大な衝撃だった。だが、そのおかげでどこかに飛びかけていた蓮子の意識が肉体に戻ってきた。
 束の間のトリップから帰って来た蓮子の目の前にあったのは、鉄骨の壁だった。不揃いに地面に突き立てられた何本もの鉄骨が、鉄格子のようにずらりと並んで聳え立っていた。鉄格子の上には、蓮子自ら作り出した境界の穴がある。廃工場に積まれていた鉄骨を、地面へと突き刺したのだ。
 そこへ、あいつが飛び込んでくる。
 さっき以上の轟音とともに、蜘蛛女が鉄骨の壁に衝突する。蓮子の胴ほどもある鉄骨が撓み、壁が押されて傾くが、深々と突き刺さった格子を崩すまでには至らない。長い脚と短い腕を格子の隙間から伸ばしてくるが、蓮子には届かないらしく、ぎちぎちと体を格子の間に押し込んでいる。
 ……メリーがいなかったら、きっと私は。
 その事実を噛み締めながら、手の中の銃を強く握る。敵は鉄格子の先に未だいる。絶好の隙を晒しながら。
「リロード!」
 蓮子は自分自身に喝を入れるように叫び、自ら作り出した境界に銃を突っ込む。境界の先から聞こえるかちゃりという音、それとずしっとした重みから、マガジンが交換されて銃弾が装填されたのが伝わってくる。境界の先にいるちゆりが交換したのだ。
 そして蓮子は、銃を引き抜いて蜘蛛女へと突き付ける。まだ足も手も視界もふらつくが、それでも腕は真っ直ぐに構え、その先にいる蜘蛛女を睨み付ける。
 だが、蜘蛛女はそれを見て嗤う。
「そんな豆鉄砲で私をどうにか出来るとでも!?」
 蜘蛛女は格子に首を突っ込み、目を大きく見開く。お前の弾なぞ、瞼で摘み取ってやるとでも言うように。事実、これまで1マガジン分の銃弾を見に浴びて傷一つ負わなかったのだから。
 だが、蜘蛛女のその嗤いに、蓮子はにやりと笑って返す。

「だったら味わわせるあげる。こいつはあんたのための、特製よ」

 ぱん、という二つの音が響いた。
 一つは銃声。先ほどと変わらない、蓮子の拳銃から発された乾いた炸裂音。
 そしてもう一つは、そこから飛び出した銃弾が蜘蛛女の眼球を抉った、湿った破裂音。
「あ……え……?」
 蜘蛛女が、腕で顔に触れる。収まるものの無くなった眼窩から漏れだす液体を手で受け止め、それでようやく何が起こったのか理解したらしい。
「あああああああ!?」
 呻き声をあげながら地面に落ち、その上で顔を手で押さえながら転げまわる蜘蛛女。その呻き声には困惑が混ざっていた。どうして、たかが豆鉄砲で自分の体が抉られるのかと、痛み以上に正体不明の恐怖に、そいつは苦しんでいた。
「そこまで感激してもらえるなんて、嬉しいわ」
 蓮子は手の拳銃へ、視線を落とす。
 それ自体は、なんでもないただの拳銃だ。未だ銃刀法が存在する日本では存在自体が異常かもしれないが、すくなくともこれ自体はただの工業製品だ。そこに装填された、弾丸を除けば。
 先ほど放った弾丸は、つい先ほどまでばら撒いていた銃弾ではない。
 あれは、鉄串だ。どれだけそれが弾丸の形をしていようと、銃口から飛び出そうと、ステーキ肉の厚みより小さくとも、あれは鉄串なのだ。
 怪異というものは云われに強く影響される。噂がその姿を形作るのなら、その急所もまたそうやって強く影響される。
 かつて、病を患って床についていた源頼光を身長2メートルを超える怪僧が襲った。しかし頼光は病床にありながら刀で斬りつけると僧は逃げ去った。その翌日、頼光が四天王を率いて後を追うと、その先には巨大な蜘蛛がおり、頼光はこれを捕らえ、鉄串に刺して川原に曝した。
 それが、土蜘蛛の伝承だ。
 故に、鉄串とは土蜘蛛を殺すことの道具であり、その力を持つ。
 対怪異用論理境界改竄・三次元造形装置。
 八雲紫は蓮子にこのグローブを授けたように、同じく契約者たるちゆりに力を授けた。物体の意味、その境界を操作する力を。そんなものをどうやって八雲紫は他人に与えたのかは知らないし、それをどうやってちゆりはコンピュータと3Dプリンターに組み込んだのかも分からない。だが、それによって怪異に合わせてリアルタイムに怪異の弱点となるものの因子を詰め込んだ銃弾を作り出す技術を、蓮子たちは手に入れた。
 そう、これもまた、あいつが私に……私たちに与えた力だ。
 蓮子は続けて銃弾を放つ。銃弾は蜘蛛女の脚や腹に穴を穿つ。穴からは紫色の液体が吹き出しており、先ほどまでぶつけていたただの鉄の弾とは大違いだ。
「ひ、ひぃっ!」
 そこでようやく銃に恐れをなしたのか、蜘蛛女は情けない悲鳴を上げて逃げ出した。蓮子は追い掛けるように立て続けに発砲するが、半ばで千切れた脚で器用に地面をしゃかしゃかと動きながら蜘蛛女は銃弾を回避し、そのままの勢いで廃工場へと飛び込んだ。よほど焦っていたのか、遠くからでも分かるほどに廃工場が衝撃にぎちぎちと軋んでいた。
「はぁ……はぁ……」
 蓮子は土の上にへたり込む。命の危機を脱した安堵と、体を蝕む病に、脚はふらふらで立つこともままならない。だが、その顔は脂汗こそ浮かべているが余裕があった。
「蓮子! 大丈夫!」
 メリーが駆け寄るが、蓮子はそれを手で制す。あんたなんかに心配される覚えはないとばかりににやりと笑って返すと、メリーの心配そうな顔に余裕が戻った。
「カッコよかったわよ。さっきの蓮子」
「……そりゃ、どういたしまして」
 蓮子はひらひらと手を振る。メリーの扱いこそ邪険だが、本人はどこか楽しそうだ。そしてメリーも、まるでそれが分かっているかのように蓮子を見て嬉しそうに笑う。
 メリーが手を差し伸べると、蓮子はその手を掴んで立ち上がる。それでも足はふらついてまた地面に転びそうになるが、メリーの肩を借りてようやく立つことが出来た。
「さて、と……」
 どちらともなく呟き、二人して視線を廃工場に、その中にいる蜘蛛女へと向ける。
「それじゃあ、今度はこっちから廃工場に乗り込んでやりましょうか」
「いや、もっと簡単で、それでいて面白い方法があるわ」
 蓮子に肩を貸したままメリーは歩き出そうとするが、蓮子は足を動かさない。不思議そうにメリーが相方の顔を見ると、その手には500mlペットボトルほどの大きさの四角い物体が握られていた。どこから出したかなんて聞く必要はない。
 蓮子は境界の先から同じものをもう一つ取り出し、メリーへと渡す。それもメリーはじっと観察し、遅れて側面に電子部品のようなものを見つけて手を口に当ててふふっと笑う。それが何か理解したのだろうが、手の中のそれは彼女の上品な笑みとはある種対局に位置するものだった。

「蓮子も面白いこと考えるわね。嫌いじゃないわ」
「さ、素敵なショーになるわ。派手にいきましょう」

 §

 廃工場の奥、その天井にへばりつくようにして、蜘蛛女が潜んでいた。蜘蛛の巣の上で息を荒げ、怒りに肩を震わせていた。
「くそ……」
 眼球の無くなった眼窩が痛みに疼き、まだ液体が流れ続けている。手で顔を抑えてもだくだくと流れる体液が体に纏わり付く。気持ち悪い。胸の中でむかむかしたものが膨れ上がる。
「くそくそくそっ!」
 こんな傷、普段ならすぐに治るのに、一向に治る気配がない。じくじくと、久しく感じていなかった焼けるような痛みを味わっている。
 許さない。
 侮辱され、脚と眼球を抉られた怒りが、蜘蛛女の全身を包む。今はあの女を殺したい、ただただ思うが侭に脚で殴って叩いて潰してやりたい。そして、その肉を喰ってこの傷を癒してやる。
 ……あいつ、何がこの世界に敵はいないだ。
 あんなやつがいるなんて、こっちは聞いてないぞ。そもそも、巫女も魔女も、妖怪に歯向かえるやつはいないと言ったから私はほいほいとあいつの口車に乗ってやったんだ。決して安くない金を払って、それなのに……
 コトン、と。
 小さな音が、廃工場に響いた。蜘蛛は聴覚の代わりに脚に生えた聴毛で空気の振動を敏感に感じ取るが、それでもなお聞き逃してしまいそうなほどに小さな音だった。
「……あ?」
 その音を不審に思い、蜘蛛女が脚を伸ばす。ゆるゆると、先ほどの怒りが嘘みたいに慎重な動き。それに苛立ちを覚えつつも、ゆっくりと音の正体へと近づいていく。
 暗がりの、さらに機材の下、そこに何かがあるのを見つけた。蜘蛛女は細い腕を伸ばし、それを掴んで引き寄せ、じっと眺める。
 茶色く四角い箱と、それにくっついている小さな鈍色の箱。鈍色の箱からは何本かの紐が飛び出し、茶色い箱に繋がっている。はて、こんなものここにあっただろうか。少なくとも、初めて見るものに違いない。
 じっと眺めていると、鈍色の箱についている豆電球が点灯して、思わず取り落としそうになるほど驚いてしまった。前に人里で見た裸電球に比べると、遥かに小さな、しかし鋭く赤い光。こんなことに驚くなんて、いっそ情けなく感じてしまう。
「なん……だこれは……?」
 自分は河童じゃないんだ、機械とかいうものは埒外だ。手の中の物が何か考えるのも馬鹿らしくなり、ふっと首をあげる。
 視界をあげたそこ、侵入者の気配を感じられない廃工場には、本来ならなんの変化もないはずにも関わらず、

 目の前には先ほど見た赤い光が廃工場の暗がりのあちこちに散らばっていた。

 ひっ、という声にならない息を蜘蛛女が呑む。数は5か10かといったところだろうか。それらがまるで闇に潜んで自分を狩ろうとする獣の目のように見えてくる。光っているあれが何なのか、手元にあるこれが何なのか蜘蛛女には分からないが、それでも言いようのない気持ち悪さ、何かあれらが良からぬものであるという危機感が頭の中で弾ける。
 咄嗟に手元の箱を投げ捨て飛び上がり、天井へと逃げるように貼り付く。蜘蛛女の息が荒くなり、片方だけの瞳孔が震える。
 だが、その程度で箱と赤い光から逃げることは出来なかった。
 ほどなくして、起爆。
 赤い光と投げ捨てた箱、つまりプラスチック爆弾が一斉に炸裂した。熱と衝撃と音を撒き散らし、それらは廃工場の中で反響し蜘蛛女へと襲い掛かる。もはや蜘蛛女には逃げも隠れも叫ぶことすらも出来ず、爆発に身を晒した。
 さらに、爆発は蜘蛛女の体を叩くだけに終わらない。廃工場はその衝撃に耐えられず、轟音を立てて倒壊を始める。蜘蛛女の上に鉄骨やチェーン、天井が降り注ぎ、押しつぶされる。
 その光景を、遠くから二人の少女が眺めていた。言うまでもない、蓮子とメリー、その二人である。砂埃を巻き上げながら倒壊していく廃工場を、まるで観光名所でも見るみたいに見ていた。
「お~お~、派手なことになってるわね」
 蓮子がまるで他人事みたいに呟いている。境界を使って爆弾を廃工場にばら撒いたのは蓮子なのにと思うメリーだったが、自分も共犯な上に同じように楽しんでいたのも事実だった。
 廃工場が崩れて静寂が付近を包んでいたが、しばらくして轟音が聞こえた。廃工場から棒状の何かが飛び出し、瓦礫の一部を押しのけている。巨大な瓦礫の山が崩れ、突き立っていた鉄骨が倒れる。だが、先ほどの爆破に比べれば地味に思えてしまう。
「まあ、あれで死ぬなんて思ってないけど、流石に無傷とはいかなかったみたいね」
 蓮子はぽつりと呟くと、手を振るう。人が通れるほどの大きな境界が生まれる。
「さあ、最後の仕事に行くわよ」
 メリーの言葉に、ん、と短い返事をして、蓮子とメリーは境界へと一歩を踏み出す。既に目の前には、瓦礫の山に首と片手、背中の脚の一本だけ出して埋まっている蜘蛛女がいた。
 まだ足はふらつき、メリーの肩に支えられなければ立っていることも出来ないが、それでも蓮子は迷いなく蜘蛛女へと歩みを進める。蓮子の接近に気付いた蜘蛛女は強く蓮子を睨み付け、次に頬を膨らませる。決して可愛らしく怒っているジェスチャーなどではなく、口の中に瘴気を貯めているのだ。蓮子へと吐き付け、今度こそ立つことも出来ないくらいにその体を侵すために。
 だが、それよりも先に蓮子は手を振るう。境界が蜘蛛女の口を覆うように出現し、遅れて吐き出された瘴気は境界の先へ吸い込まれていく。
「十分遊んだでしょ。もう帰る時間よ」
「こんな……これだけで満足できるかっての! 私は……もっと……」
 拳銃を抜き、蜘蛛女に突き付ける。それだけで、蜘蛛女は悔しそうに顔をしかめた。瓦礫から飛び出た脚を振るえば容易く蓮子をミンチにすることが出来るかもしれないが、今の蜘蛛女にはもうそれが出来る余力も意識もない。
「安心して、あんたと違って取って喰いはしない。ただ、元居た場所にあんたを送ってあげるだけ」
 空を、見上げる。
 そこには星空がある。夜でも明るい京都で、見える星はごく僅か。それでも、蓮子にはそれで十分だった。星空は、いつだって自分のいる場所を教えてくれる。ただ、自分は星空と自分の目が教えてくれることを読み上げるだけだ。
 手のグローブも、拳銃の中の鉄串を作る技術も、自分の肩を支えるメリーも、全て八雲紫が与えたもの。
 だが、これだけは。星空から今の場所を読み取るこの目だけは、正真正銘、自分の、宇佐見蓮子が持つ力だ。

「——————、——————」

 座標、自分の立つ場所。
 星空から受け取り、蓮子の口が諳んじたその情報が、隣に立つメリーの耳に入る。メリーを通じて、あの女の耳に入る。あの女、自分にこんなお役目を与えた、あの女の耳に、届く。
 そして、上空に巨大な境界が現れる。蓮子どころか、蜘蛛女の脚まで含めた全身を覆うほどの、巨大な境界。
 そしてその先は、ここでは無い場所に繋がっている。幻想郷。あの女が管理する、この世とは異なる場所、幻想郷に。このグローブでは決して作り出すことの出来ない、あの女だけが作ることのできる異世界への入り口。
 境界がゆっくりと降りてくる。蜘蛛女はただただ、それが降りてくるのを待つことしか出来なかった。それを確認すると、二人は振り返り、ゆっくりとその場を後にする。蜘蛛女が何かを叫んだが、もう二人には聞こえない。
 そして——

 §

「『廃工場で謎の爆発事故。原因はガス漏れか』……ねぇ」
「なによ蓮子、不満なの?」
「不満ではないけど……こう、やっぱり人ひとり救ったのに、誰からも称賛されないって……なんだかなぁって」
「秘封倶楽部だもの。仕方ないわ」
 大学のカフェテラス。蜘蛛女の大捕り物騒動から一夜が明け、世間は昨日までと同じ一日を過ごしていた。あそこにいた男も蓮子自身も、高熱を出していたのが嘘みたいにけろっとしていた。土蜘蛛が頼光に感染させた病はマラリアだったと云われているが、何であれ科学世紀に治せぬ病など存在しない。
 なのでいつものように単位のために大学ヘ顔を出し、いつものように一人でカフェのコーヒーを楽しんでいた。普段なら目の前に当たり前のように座っているメリーなんて無視するところだが、少々ナイーブになっているためか愚痴が止まらない。
 男の記憶も今は消え、表向きには昨日の出来事を証明するものは何もない。裏では岡崎教授が隠蔽のために色々手を回しているだろうが。
「教授だって、馬鹿正直に爆発事故と言い回ってるはずじゃない。裏では私たち以外にも怪異の存在を知ってるやつがいるはず。だったら公にしてしまえばいいのに。怪異の相手も女の子じゃなくて軍隊に任せるべきよ」
「あら、陰謀論というやつかしら」
「かもね。けど、世間様は見向きもしない、あの男の人だって全部忘れて日常に戻って、教授には隠蔽が面倒だから派手なことするなって怒られたわ」
「それは災難ね」
 蓮子はぐったりとテーブルに突っ伏す。病気こそ快復しているが、それでも体の疲れ、それに何より精神の疲労が蓄積していた。一度突っ伏してしまうと、もう顔を起こすのも億劫になり、このまま寝てしまいたいと思えてしまう。
「あらら……可哀そうな蓮子。じゃあ私がねぎらってあげる」
 突っ伏して机に投げ出された手にメリーが手を重ねてくる。ちょっとひんやりとした感触が、手を通じて伝わってくる。顔を上げると、メリーがどこか嬉しそうな顔で、こちらを見ていた。
「蓮子、貴方はよくやっているわ。蜘蛛女を送り帰して、襲われていた人もちゃんと助けた」
「それは……」
「それに、犠牲者がいるって聞いて飛び出した蓮子、すごく格好良かったわよ」
 そんなこと、手を握って満面の笑みで正面から言われたら。自分でも顔が赤くなるのが分かる。もう、蓮子には顔を逸らすことしか出来なかった。顔を窓の外へ向けながら、横目でメリーを見ると、くすりと笑う顔が見えた。なんだかそれが可笑しくなって、自分もくすりとしてしまう。
「……分かってるわよ、そんなこと」
 科学世紀、京都。
 科学が隅々まで行き渡ったこの世界には、存在を否定されたはずの怪異が確かに生きている。あるいは世界の裏から、まろび出てくる。それらは時に消滅の危機に怯え、またある時は暴虐を尽くす。
「だからこれからも、お願いね」
「……はぁ、結局はメリーも、私を煽ててお役目をさせたいだけなのね」
 それらを追う存在がいる。
 忘れ去られた者たちの受け皿たる幻想郷へ送り届ける、運び屋がいる。
「蓮子は、嫌かしら」
「……嫌だって言ったら、解放してくれるのかしら」
 どこに属するでもなく、京都の暗闇を翔け、怪異を追い掛ける。
 その存在そのものが京都で実しやかに囁かれる、生ける都市伝説と化した秘密の組織。
「いいえ、蓮子のこと……離すつもりなんてないわ」
 それこそが『秘封倶楽部』である。

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