にわか雨の降る午後、多々良小傘は下駄を鳴らして人里を歩いていた。乾いた地面を叩く音と違い、水気を含んだ土が下駄にべっちゃりとくっついているので小気味いい音と言うよりは少し切なくなる様な音を響かせて。
ギョロリと覗く一つ目と大きな舌をべろりと垂らした茶目っ気のある唐傘が雨に濡れ、雨水が滴っているので涙を流している様にも見えたし、いつも愉快な妖怪が大人しく歩いているのでなんとなく寂しくも見えたかもしれない。
大通り沿いの商店の軒先で雨宿りをしている人間達は眉間に皺を寄せて突然のにわか雨を恨む様に空を睨みつけていた。
「傘に入れてやろうか?」と、小傘は目に付く人間に次々と声をかけるが首を縦に振る者は誰一人いなかった。
いつだったか霧雨魔理沙に言われた言葉を信じ、雨が降ると意気揚々と人里に赴き雨宿りをしている人間に声をかけて回る小傘だったが、驚く表情を見せる人間はおらず、どちらかと言えば迷惑そうな表情を浮かべる人間ばかりだった。
「魔理沙の奴め、誰一人驚かないじゃあないか」
いっその事唐傘で雨宿りをしている人間達を引っ叩いた方が驚いてくれるかもしれないと考える小傘だったが、脳裏に血走った目をした博麗霊夢が過ぎった為、手に込めた力をそっと抜いたのだった。
「そんなことしたら霊夢に何されるか。腹が減っているとはいえ危ない事はできないな」
大通りの交差点に差し掛かると一度足を止め、左右を見渡す。
特に目的地があって歩いている訳では無いので何となく右折した。
雨宿りをしている人間は見当たらず、道を間違えたと思った小傘だったが、道の真ん中に出来た水溜りでピョンピョンと跳ねている幼子が視界に飛び込んできた為、「これは当たりかな」と呟いた。
水溜りで跳ねる幼子は小傘には気付いておらず、楽しそうに水溜りを踏みつけていた。
小傘は唐傘を畳み、そっと幼子に忍び寄る。幼子の背後でバッと唐傘を広げ決め台詞を大声で放てば特上の驚きの感情が喰えるはず。
下駄の音で接近を気付かれぬ様に慎重に歩みを進める小傘。
その手を伸ばせば幼子の肩に手が届く距離まで近寄るとゆっくりと息を吸い込む。左手で唐傘の柄を持ち、右手は傘のろくろを掴む。
右手に力を込め、勢いよくろくろを滑らせ傘を開きお決まりの台詞を大きな声で叫ぶ。
「恨めしやっ!」
幼子は肩をビクッと竦ませると目をまん丸に見開いて小傘に振り替える。
「あはは、泣いちゃう? ビックリして泣いちゃうか?」と、大人気もなく幼子に詰め寄る、が。
「うられりらっ!」と、幼子は満面の笑みを浮かべて復唱した。
「はひっ?」
「うられりらっ!」
困惑する小傘を追い詰める様に笑顔の幼子が飛び跳ねる。
「もっかい! うられりらっ! もっかいやって」
「うられりら?」
「もっかいやって」
「えーっと、恨めしやの事かな?」
「うらめしややって」
「駄目だ駄目だ。恨めしやはお前達人間を驚かす為の決め台詞なんだ。お前みたいに喜ぶ人間にはもう二度とやらないよ」
幼子は頬を膨らませ抗議の視線を小傘に送る。
「そんな顔したってやらないよ。ほら、さっきみたいに水溜りで遊んで来なよ」
右手で追い払う仕草をすると、小傘は踵を返し来た道を戻っていったのだった。
人里の大通りまで戻るとこれまた右折する。このまま暫く進むと運河を渡る橋が姿を見せる。
「今日は運河沿いを歩いて収穫がなければ大人しく家に帰ろう」と、わざと大きな声で独り言を言う小傘。
気付かないふりをしているが、先程の幼子が小傘の後を付けていたのだ。
歩く速度を早める。幼子の年齢は三つ程。自分の歩く速度に着いてくるのは難しいだろうと小傘は考えた。
「しかしあんな小ちゃな子供が一人で遊んでいたなんて。妖怪に攫われたらどうするんだい。親はどうしたんだろう、迷子だったりして」
妖怪らしからぬ考えを抱いたのは彼女がその昔、人間と共に生活をしていた傘だったからなのか、優しく愉快な妖怪だったからかはわからないが、小傘はそんな思いをこっそりと抱いた。
その時だった。
ドサッと音がした。
これまで気が付かないふりを決め込んでいた小傘だったが足を止め、慌てて後を振り返った。盛大に前のめりに転び、うつ伏せで倒れている幼子がそこにいた。
「あーあ、勢いよく転んじゃって。大丈夫かい?」
むくりと泥だらけの顔を起こす幼子。
眉間に皺を寄せ、むぎゅっと下唇を噛んでプルプルと震え、今にも泣きそうな表情で小傘を見上げる。
「ほら、立てるかい」
そっと差し出した小傘の右手を掴むと力を込めて立ち上がる。
傘を刺さずに水溜り遊びをしていたので服はぐっしょりと濡れていて、体の正面は泥まみれになってしまっていた。
「あー、こんなに汚して。お父お母に叱られちゃうぞ」
小傘のその言葉を聞くと必死に耐えていた涙が溢れ出し、幼子は大きな声で泣き出してしまった。
「な、泣くなよ。ほら、恨めしやっ! やってあげるから」
慌てて唐傘を開き小傘は決め台詞を連発する。
「恨めしやーっ! ほら、今度は大きな舌でベロベロー」と、唐傘の舌で幼子の顔を撫でてやる。
この世の終わりの様に泣いていた幼子だったが、次第に楽しい気持ちが優ってきたのか笑顔が戻り、嬉しそうに唐傘の舌を手で払いながらキャッキャっと喜んだ。
「はぁ、やっと泣き止んでくれた。それよりもこんなに顔を汚しちゃって。ほら拭いてやるから大人しくしなよ」
ぴたりと動きを止める幼子。
「こんな泥だらけじゃあ可愛らしいお顔が台無しだよ」と、スカートのポケットから手拭いを取り出し、優しい手つきで幼子の顔を拭いてやる小傘だった。
にわか雨の降る運河沿い。風に揺れる柳の葉は雨水の重さのせいか晴れの日よりもゆったりと揺れている。
普段は透き通った水が流れる運河はミルク多めのコーヒーの様な色に変わっていた。
唐傘の妖怪に手を引かれ歩く幼子は楽しそうに跳ねながら歩いていた。
「ほら、そんなにはしゃいでいるとまた転んでしまうよ」
小傘の声が聞こえたのか、返事は返ってこなかったが幼子は飛び跳ねるのをやめた。
「良い子じゃあないか。さぁさっさとお前のお父、お母を探そう」
「うん」
柳の葉から大粒の水滴が落ち唐傘を打つ。心地良い音が静かな空間に響いた。小傘の手を掴む小さな手に力が込められた。そして、足を止めた幼子は星空の様に輝く瞳を小傘に向けた。
「なんのおと?」
「んー、柳の雨粒が傘にぶつかった音」
「ねぇもっかい!」
「もっかい! と言われても狙って出せる音じゃないんだよ」
「もっかいっ!」
「わかったよ。柳の下で待っていればまた聞けるから大人しくしてよ。それよりもわちきの恨めしや! よりも良い反応じゃあないか」
再び唐傘を打つ音が響くとまた幼子は小傘の手をぎゅっとして嬉しそうにはしゃいだのだった。
「子供ってのはこんな事で驚いてくれるんだねぇ。この子と一日過ごしたら満腹になりそうだ。疲れそうだけど」
ため息混じりではあったが、小傘は随分と嬉しそうな顔をしていた。
柳が揺れる運河沿いを唐傘に収まり妖怪と幼子がゆっくりと歩いている。
空から見下ろすと茄子色の唐傘はよく目立つ。特に柳の葉と並ぶと否応なしに目を引くので、たまたま上空を通りかかった霧雨魔理沙は高度を下げて二人の前に降り立った。
「白昼堂々と子どもを攫うとは」と、八卦路を小傘に向ける。
「人聞きの悪い事言わないでよ」
「違うのか?」
「違うよっ! この子のお父、お母を探してあげてるの」
「真実だとしたら驚きだぜ。妖怪が人助けとは」
怪しむ視線を送る魔理沙であったが、幼子が小傘の背後に隠れてしまった様子を目の当たりにしたのでそっと八卦路をしまった。
「疑って悪かったな。親御さんを探したいなら大通りで聞き込みしてみるといい。急な雨だったから、傘を持っていない買い物客が店の軒下で雨宿りしてたぜ」
「確かに聞いて回った方が早いかもね」
「あぁ、それに妖怪が迷子の親探しだなんて驚かれるかもな」と、笑う魔理沙だった。
「驚きについては、あんたの助言はあてにならないけどね」
「あん? 何の話だ?」
「なんでもないよ。じゃあまたね」
小傘は幼子を抱き抱えると大通りを目指して走り出したのだった。
大通りに戻ると走るのを止め、幼子を地面に降ろした。いつの間にか雨は止んでいて雲の隙間から薄らと太陽が顔を覗かせていた。
「晴れて良かったね、早速お前さんのお父、お母を知らないか聞いて回ろう」
「だっこ」
小傘の抱っこが気に入ったのか、草臥れてしまったのか、幼子は小傘の正面に回ると両手を広げながらそう言った。
「嫌だよ。自分で歩きなよ」
「だっこ!」
「嫌だって」
妖怪と幼子の攻防が大通りの隅で静かに幕を開けたのであった。
その短い両手を目一杯に広げ抱っこを要求する幼子に対し、小傘は大人気なく腕を組みそっぽを向く。先に動いたのは幼子の方だった。
大の字で地面に仰向けに倒れ大声を上げる。
「だっこぉぉぉ」
負けじと小傘も地面に仰向けに倒れ反撃に転じる。
「嫌ぁぁぁ」
壮絶な戦いは予想外の幕引きを迎える。
「いたぞ、唐傘妖怪だ! 通報の通り子供を連れている」と、怒気を孕んだ男の声がどこからか響いた。続く様に複数の力強い足音が響いた。
小傘はむくりと身体を起こし周囲を確認する。自警団の法被を身に纏い木刀を携えた五、六人の男達が駆け足でこちらに向かっていた。どの男も血走った目をしていたので小傘は立ち上がると唐傘を構えたのだった。
男達の怒気や殺気を感じたのか、大通りを歩いていた人間達は足を止め小傘と男達へと交互に視線を送った。好奇心に支配された野次馬もいれば不安な予感から縮こまりながらも事の顛末が気になって動かない者、周囲の人間に人攫いじゃあないかと根も葉もない話を吹聴する者もいた。
「あまり手荒な真似はしたく無いけど、話を聞いてくれる様な雰囲気じゃあなさそうだし」と、唐傘を握る手に力を込めた。
幼子といえば、この事態に未だ気付かずに抱っこを要求していた。
そんな幼子に視線を落とす小傘。手の力を抜いて唐傘を背負い、とびっきりの笑顔を向けて口を開いた。
「あちきの負けだ。さあ、抱っこしてやるから飛びついてごらん」
幼子は起き上がると嬉しそうに小傘目掛けて飛び跳ねた。
がっちりと幼子を抱きしめると、幼子の耳元で小さく呟く。
「思いっきり走るからしっかり掴まってるんだよ」
返事はないが上着を掴む小さな手に力が込められ、合図と受け取った小傘は迫り来る男達と反対側へと走り出した。
空を飛んで逃げてしまえば追いかけてる男達も諦めてしまうだろうが、万が一幼子を落としてしまったら取り返しがつかないと初めからその考えを持っていなかった小傘。
そんな優しい考えの持ち主であった為、走る速度も幼子の負担にならない様、気を付けて走っていた。時折り幼子が楽しそうにはしゃぎ声を上げるものだから、つられて笑ってしまう小傘であった。
「お前さんのお陰で腹一杯だからいつまでも逃げ回れそうだよ」と、幼子を抱える腕にそっと力を込めた。
その時だった。
踏み締めた地面がぐにゃりと歪んだ。にわか雨でぬかるんだ地面に下駄の歯が刺さったのだ。小傘は前のめりに倒れそうになる。
このまま倒れては腕の中の幼子が怪我をしてしまう。瞬時に幼子を放り投げると背負った唐傘を操る。
唐傘の大きな舌で幼子を優しく包み、フワッと着地させる。一方の小傘と言えば、唐傘の操作に意識を向けていたので、受け身などする余裕は無く鈍い音と共に着地した。
勢いよく転んだ小傘を心配して数名の人間達が足を止め近寄ってきた。
が、同時に背後から迫る自警団の男達にも追いつかれてしまった。
「人攫いめ、観念しろ」と、声が聞こえた。
「わちきは迷子のその子のお父、お母を探していただけだよ、人攫いだなんて誤解だよ」と、起き上がりながら答えた。
嘘をつくな、人攫いめ、里から出て行け、薄気味悪い妖怪、馬鹿、役立たず、様々な罵詈雑言が小傘に襲い掛かった。
言葉と一緒に石も投げつけられたが、小傘は力強く立ち上がった。
「茄子色の傘は雨を凌げないのか!?」
その問いに首を傾げる人間達。
「妖怪が人助けをする訳がないのか?」
小傘の問いかけに答える人間はおらず、悪意の込められた視線と暴言が彼女を返り討ちにしていた。
「お前ら人間はっ! 見た目や! 先入観で! なんでも決めてしまう!」
肩で息をしながら小傘は続ける。
「わちきは、雨の日に傘を忘れた人間の役に立てると嬉しいっ! 子供が驚いたり笑ってくれると嬉しいっ! そんな妖怪だっているんだ」
両目から大粒の涙を流し、鼻水を垂らしながら小傘は叫び、大声で泣きだしてしまった。
その姿を見て一部の人間は石や罵詈雑言を投げつける事をやめたし、また一部の人間は自らの行いを恥じて視線を泳がす者もいた。
誰もが沈黙していたが、幼子だけは違った。心配そうな顔で小傘に駆け寄ったのだ。
うずくまって泣きじゃくる小傘の正面で幼子はピタリと立ち止まる。
「いいこ、いいこ」と、小傘の頭を撫でた。
困惑して顔を上げた小傘と目が合うと幼子は満面の笑みを浮かべる。
「おねぇちゃん、なくのやめて、えらいねぇ」
「あっはっは、ありがとう、とても嬉しいよ」
小傘はそう言うと、幼子の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「わちきはこの子のお父、お母を探しているんだ。これだけ人間が集まっていれば誰かしら知っている人がいるだろう。この子のお父、お母に心当たりある人間はいないかい」と、大きな声で呼びかけたのだった。
三ヶ月後。人里を歩く小傘を呼び止めるご婦人がいた。
「あら小傘ちゃん、この間はありがとうね。今日も仕事かい」
「うん、今日は朝から晩まで依頼が入っているんだ」
嬉しそうに答えると、抱っこ紐の中で眠る乳児の背中を左手で優しく叩く。早く行こうと右手を引っ張る子供の手が解けてしまわない様に少し力を込めた。
人里の主婦で彼女の事を知らない人間はいないだろう。どんなに機嫌の悪い子供も泣きやない赤ん坊もあっという間に笑顔にさせる凄腕のベビーシッターなのだから。
ギョロリと覗く一つ目と大きな舌をべろりと垂らした茶目っ気のある唐傘が雨に濡れ、雨水が滴っているので涙を流している様にも見えたし、いつも愉快な妖怪が大人しく歩いているのでなんとなく寂しくも見えたかもしれない。
大通り沿いの商店の軒先で雨宿りをしている人間達は眉間に皺を寄せて突然のにわか雨を恨む様に空を睨みつけていた。
「傘に入れてやろうか?」と、小傘は目に付く人間に次々と声をかけるが首を縦に振る者は誰一人いなかった。
いつだったか霧雨魔理沙に言われた言葉を信じ、雨が降ると意気揚々と人里に赴き雨宿りをしている人間に声をかけて回る小傘だったが、驚く表情を見せる人間はおらず、どちらかと言えば迷惑そうな表情を浮かべる人間ばかりだった。
「魔理沙の奴め、誰一人驚かないじゃあないか」
いっその事唐傘で雨宿りをしている人間達を引っ叩いた方が驚いてくれるかもしれないと考える小傘だったが、脳裏に血走った目をした博麗霊夢が過ぎった為、手に込めた力をそっと抜いたのだった。
「そんなことしたら霊夢に何されるか。腹が減っているとはいえ危ない事はできないな」
大通りの交差点に差し掛かると一度足を止め、左右を見渡す。
特に目的地があって歩いている訳では無いので何となく右折した。
雨宿りをしている人間は見当たらず、道を間違えたと思った小傘だったが、道の真ん中に出来た水溜りでピョンピョンと跳ねている幼子が視界に飛び込んできた為、「これは当たりかな」と呟いた。
水溜りで跳ねる幼子は小傘には気付いておらず、楽しそうに水溜りを踏みつけていた。
小傘は唐傘を畳み、そっと幼子に忍び寄る。幼子の背後でバッと唐傘を広げ決め台詞を大声で放てば特上の驚きの感情が喰えるはず。
下駄の音で接近を気付かれぬ様に慎重に歩みを進める小傘。
その手を伸ばせば幼子の肩に手が届く距離まで近寄るとゆっくりと息を吸い込む。左手で唐傘の柄を持ち、右手は傘のろくろを掴む。
右手に力を込め、勢いよくろくろを滑らせ傘を開きお決まりの台詞を大きな声で叫ぶ。
「恨めしやっ!」
幼子は肩をビクッと竦ませると目をまん丸に見開いて小傘に振り替える。
「あはは、泣いちゃう? ビックリして泣いちゃうか?」と、大人気もなく幼子に詰め寄る、が。
「うられりらっ!」と、幼子は満面の笑みを浮かべて復唱した。
「はひっ?」
「うられりらっ!」
困惑する小傘を追い詰める様に笑顔の幼子が飛び跳ねる。
「もっかい! うられりらっ! もっかいやって」
「うられりら?」
「もっかいやって」
「えーっと、恨めしやの事かな?」
「うらめしややって」
「駄目だ駄目だ。恨めしやはお前達人間を驚かす為の決め台詞なんだ。お前みたいに喜ぶ人間にはもう二度とやらないよ」
幼子は頬を膨らませ抗議の視線を小傘に送る。
「そんな顔したってやらないよ。ほら、さっきみたいに水溜りで遊んで来なよ」
右手で追い払う仕草をすると、小傘は踵を返し来た道を戻っていったのだった。
人里の大通りまで戻るとこれまた右折する。このまま暫く進むと運河を渡る橋が姿を見せる。
「今日は運河沿いを歩いて収穫がなければ大人しく家に帰ろう」と、わざと大きな声で独り言を言う小傘。
気付かないふりをしているが、先程の幼子が小傘の後を付けていたのだ。
歩く速度を早める。幼子の年齢は三つ程。自分の歩く速度に着いてくるのは難しいだろうと小傘は考えた。
「しかしあんな小ちゃな子供が一人で遊んでいたなんて。妖怪に攫われたらどうするんだい。親はどうしたんだろう、迷子だったりして」
妖怪らしからぬ考えを抱いたのは彼女がその昔、人間と共に生活をしていた傘だったからなのか、優しく愉快な妖怪だったからかはわからないが、小傘はそんな思いをこっそりと抱いた。
その時だった。
ドサッと音がした。
これまで気が付かないふりを決め込んでいた小傘だったが足を止め、慌てて後を振り返った。盛大に前のめりに転び、うつ伏せで倒れている幼子がそこにいた。
「あーあ、勢いよく転んじゃって。大丈夫かい?」
むくりと泥だらけの顔を起こす幼子。
眉間に皺を寄せ、むぎゅっと下唇を噛んでプルプルと震え、今にも泣きそうな表情で小傘を見上げる。
「ほら、立てるかい」
そっと差し出した小傘の右手を掴むと力を込めて立ち上がる。
傘を刺さずに水溜り遊びをしていたので服はぐっしょりと濡れていて、体の正面は泥まみれになってしまっていた。
「あー、こんなに汚して。お父お母に叱られちゃうぞ」
小傘のその言葉を聞くと必死に耐えていた涙が溢れ出し、幼子は大きな声で泣き出してしまった。
「な、泣くなよ。ほら、恨めしやっ! やってあげるから」
慌てて唐傘を開き小傘は決め台詞を連発する。
「恨めしやーっ! ほら、今度は大きな舌でベロベロー」と、唐傘の舌で幼子の顔を撫でてやる。
この世の終わりの様に泣いていた幼子だったが、次第に楽しい気持ちが優ってきたのか笑顔が戻り、嬉しそうに唐傘の舌を手で払いながらキャッキャっと喜んだ。
「はぁ、やっと泣き止んでくれた。それよりもこんなに顔を汚しちゃって。ほら拭いてやるから大人しくしなよ」
ぴたりと動きを止める幼子。
「こんな泥だらけじゃあ可愛らしいお顔が台無しだよ」と、スカートのポケットから手拭いを取り出し、優しい手つきで幼子の顔を拭いてやる小傘だった。
にわか雨の降る運河沿い。風に揺れる柳の葉は雨水の重さのせいか晴れの日よりもゆったりと揺れている。
普段は透き通った水が流れる運河はミルク多めのコーヒーの様な色に変わっていた。
唐傘の妖怪に手を引かれ歩く幼子は楽しそうに跳ねながら歩いていた。
「ほら、そんなにはしゃいでいるとまた転んでしまうよ」
小傘の声が聞こえたのか、返事は返ってこなかったが幼子は飛び跳ねるのをやめた。
「良い子じゃあないか。さぁさっさとお前のお父、お母を探そう」
「うん」
柳の葉から大粒の水滴が落ち唐傘を打つ。心地良い音が静かな空間に響いた。小傘の手を掴む小さな手に力が込められた。そして、足を止めた幼子は星空の様に輝く瞳を小傘に向けた。
「なんのおと?」
「んー、柳の雨粒が傘にぶつかった音」
「ねぇもっかい!」
「もっかい! と言われても狙って出せる音じゃないんだよ」
「もっかいっ!」
「わかったよ。柳の下で待っていればまた聞けるから大人しくしてよ。それよりもわちきの恨めしや! よりも良い反応じゃあないか」
再び唐傘を打つ音が響くとまた幼子は小傘の手をぎゅっとして嬉しそうにはしゃいだのだった。
「子供ってのはこんな事で驚いてくれるんだねぇ。この子と一日過ごしたら満腹になりそうだ。疲れそうだけど」
ため息混じりではあったが、小傘は随分と嬉しそうな顔をしていた。
柳が揺れる運河沿いを唐傘に収まり妖怪と幼子がゆっくりと歩いている。
空から見下ろすと茄子色の唐傘はよく目立つ。特に柳の葉と並ぶと否応なしに目を引くので、たまたま上空を通りかかった霧雨魔理沙は高度を下げて二人の前に降り立った。
「白昼堂々と子どもを攫うとは」と、八卦路を小傘に向ける。
「人聞きの悪い事言わないでよ」
「違うのか?」
「違うよっ! この子のお父、お母を探してあげてるの」
「真実だとしたら驚きだぜ。妖怪が人助けとは」
怪しむ視線を送る魔理沙であったが、幼子が小傘の背後に隠れてしまった様子を目の当たりにしたのでそっと八卦路をしまった。
「疑って悪かったな。親御さんを探したいなら大通りで聞き込みしてみるといい。急な雨だったから、傘を持っていない買い物客が店の軒下で雨宿りしてたぜ」
「確かに聞いて回った方が早いかもね」
「あぁ、それに妖怪が迷子の親探しだなんて驚かれるかもな」と、笑う魔理沙だった。
「驚きについては、あんたの助言はあてにならないけどね」
「あん? 何の話だ?」
「なんでもないよ。じゃあまたね」
小傘は幼子を抱き抱えると大通りを目指して走り出したのだった。
大通りに戻ると走るのを止め、幼子を地面に降ろした。いつの間にか雨は止んでいて雲の隙間から薄らと太陽が顔を覗かせていた。
「晴れて良かったね、早速お前さんのお父、お母を知らないか聞いて回ろう」
「だっこ」
小傘の抱っこが気に入ったのか、草臥れてしまったのか、幼子は小傘の正面に回ると両手を広げながらそう言った。
「嫌だよ。自分で歩きなよ」
「だっこ!」
「嫌だって」
妖怪と幼子の攻防が大通りの隅で静かに幕を開けたのであった。
その短い両手を目一杯に広げ抱っこを要求する幼子に対し、小傘は大人気なく腕を組みそっぽを向く。先に動いたのは幼子の方だった。
大の字で地面に仰向けに倒れ大声を上げる。
「だっこぉぉぉ」
負けじと小傘も地面に仰向けに倒れ反撃に転じる。
「嫌ぁぁぁ」
壮絶な戦いは予想外の幕引きを迎える。
「いたぞ、唐傘妖怪だ! 通報の通り子供を連れている」と、怒気を孕んだ男の声がどこからか響いた。続く様に複数の力強い足音が響いた。
小傘はむくりと身体を起こし周囲を確認する。自警団の法被を身に纏い木刀を携えた五、六人の男達が駆け足でこちらに向かっていた。どの男も血走った目をしていたので小傘は立ち上がると唐傘を構えたのだった。
男達の怒気や殺気を感じたのか、大通りを歩いていた人間達は足を止め小傘と男達へと交互に視線を送った。好奇心に支配された野次馬もいれば不安な予感から縮こまりながらも事の顛末が気になって動かない者、周囲の人間に人攫いじゃあないかと根も葉もない話を吹聴する者もいた。
「あまり手荒な真似はしたく無いけど、話を聞いてくれる様な雰囲気じゃあなさそうだし」と、唐傘を握る手に力を込めた。
幼子といえば、この事態に未だ気付かずに抱っこを要求していた。
そんな幼子に視線を落とす小傘。手の力を抜いて唐傘を背負い、とびっきりの笑顔を向けて口を開いた。
「あちきの負けだ。さあ、抱っこしてやるから飛びついてごらん」
幼子は起き上がると嬉しそうに小傘目掛けて飛び跳ねた。
がっちりと幼子を抱きしめると、幼子の耳元で小さく呟く。
「思いっきり走るからしっかり掴まってるんだよ」
返事はないが上着を掴む小さな手に力が込められ、合図と受け取った小傘は迫り来る男達と反対側へと走り出した。
空を飛んで逃げてしまえば追いかけてる男達も諦めてしまうだろうが、万が一幼子を落としてしまったら取り返しがつかないと初めからその考えを持っていなかった小傘。
そんな優しい考えの持ち主であった為、走る速度も幼子の負担にならない様、気を付けて走っていた。時折り幼子が楽しそうにはしゃぎ声を上げるものだから、つられて笑ってしまう小傘であった。
「お前さんのお陰で腹一杯だからいつまでも逃げ回れそうだよ」と、幼子を抱える腕にそっと力を込めた。
その時だった。
踏み締めた地面がぐにゃりと歪んだ。にわか雨でぬかるんだ地面に下駄の歯が刺さったのだ。小傘は前のめりに倒れそうになる。
このまま倒れては腕の中の幼子が怪我をしてしまう。瞬時に幼子を放り投げると背負った唐傘を操る。
唐傘の大きな舌で幼子を優しく包み、フワッと着地させる。一方の小傘と言えば、唐傘の操作に意識を向けていたので、受け身などする余裕は無く鈍い音と共に着地した。
勢いよく転んだ小傘を心配して数名の人間達が足を止め近寄ってきた。
が、同時に背後から迫る自警団の男達にも追いつかれてしまった。
「人攫いめ、観念しろ」と、声が聞こえた。
「わちきは迷子のその子のお父、お母を探していただけだよ、人攫いだなんて誤解だよ」と、起き上がりながら答えた。
嘘をつくな、人攫いめ、里から出て行け、薄気味悪い妖怪、馬鹿、役立たず、様々な罵詈雑言が小傘に襲い掛かった。
言葉と一緒に石も投げつけられたが、小傘は力強く立ち上がった。
「茄子色の傘は雨を凌げないのか!?」
その問いに首を傾げる人間達。
「妖怪が人助けをする訳がないのか?」
小傘の問いかけに答える人間はおらず、悪意の込められた視線と暴言が彼女を返り討ちにしていた。
「お前ら人間はっ! 見た目や! 先入観で! なんでも決めてしまう!」
肩で息をしながら小傘は続ける。
「わちきは、雨の日に傘を忘れた人間の役に立てると嬉しいっ! 子供が驚いたり笑ってくれると嬉しいっ! そんな妖怪だっているんだ」
両目から大粒の涙を流し、鼻水を垂らしながら小傘は叫び、大声で泣きだしてしまった。
その姿を見て一部の人間は石や罵詈雑言を投げつける事をやめたし、また一部の人間は自らの行いを恥じて視線を泳がす者もいた。
誰もが沈黙していたが、幼子だけは違った。心配そうな顔で小傘に駆け寄ったのだ。
うずくまって泣きじゃくる小傘の正面で幼子はピタリと立ち止まる。
「いいこ、いいこ」と、小傘の頭を撫でた。
困惑して顔を上げた小傘と目が合うと幼子は満面の笑みを浮かべる。
「おねぇちゃん、なくのやめて、えらいねぇ」
「あっはっは、ありがとう、とても嬉しいよ」
小傘はそう言うと、幼子の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「わちきはこの子のお父、お母を探しているんだ。これだけ人間が集まっていれば誰かしら知っている人がいるだろう。この子のお父、お母に心当たりある人間はいないかい」と、大きな声で呼びかけたのだった。
三ヶ月後。人里を歩く小傘を呼び止めるご婦人がいた。
「あら小傘ちゃん、この間はありがとうね。今日も仕事かい」
「うん、今日は朝から晩まで依頼が入っているんだ」
嬉しそうに答えると、抱っこ紐の中で眠る乳児の背中を左手で優しく叩く。早く行こうと右手を引っ張る子供の手が解けてしまわない様に少し力を込めた。
人里の主婦で彼女の事を知らない人間はいないだろう。どんなに機嫌の悪い子供も泣きやない赤ん坊もあっという間に笑顔にさせる凄腕のベビーシッターなのだから。
短いけど、上手く話が展開されて畳まれていたように思います。
幼子とのやり取りがとても可愛らしくて、読んでいて心地よかったです。
小傘ちゃんはとてもいい子ですね
ちゃっかり役立たずって言われていて笑いました
面白かったです。