その白い肌には、衣服なんかより赤紫色のキズが似合うと思いました。
幼いころに見えてたものが見えなくなって、親しみやすかったものがどんどん遠ざかっていって、私はイジメられるようになりました。空気が読めない、というのです。オチのない話が多いというのです。そんな理由で靴の中にミミズの死骸を三匹分も入れられたり、毛がちょびちょび生えたオマンコの写真を撮られたり、あんまりではないでしょうか。だから私は家に引きこもって、毎日のように「儀式」を行うことにしました。たった一人だけ私に優しくしてくれる友だちがくれた「お薬」を打って、暗くした部屋の中でアルコールランプの火を見ます。この注射を打つと汗が普段の三倍は臭くなります。でもその汗はストゼロより深く私を酔わせるのです。五色の糸と針でてのひらに星を作ったり、私の経血を飲ませたアマガエルの頭をたたき割ったりもします。そうしているうちに見えてきました。イチゴジャムと埃の匂いで満たされた部屋の片隅に、あの子が力なく座ってたのです。髪がものすごくキレイでした。色味の濃い漆黒で氷みたいに冴えたツヤがあって、きよらかーな感じがしました。一目見て私は嫉妬しました。私の髪は色素が薄くて茶色っぽいのです。クラスで一番かわいい子、コハルちゃんの茶髪っぽい髪は皆からうらやましがられるのに、私の髪の色は不潔とかクソの色とか乳首も同じ色してそうとか。死ぬほどムカつきましたね。心だって血は流れるんです。
で、その女の子は部屋の隅、ホコリのたまりがちなとこに尻餅をつきながら、ポカンとした表情をしていました。私は自分がバカにされてると思いました。
「もっとまじめな顔しろよ。オマエまで私をバカにすんなよ」
「ねえ、ここはどこ? 外の世界? 幻想郷じゃないの?」
わけのわからないこというなよ、心の中で舌打ちしました。私は女の子の髪を掴んでギュって引っ張りました。
「痛いっ!」
女の子がわめきます。私はますますムカついて、女の子の股を蹴りつけました。何度も何度も蹴りつけてやりました。注射を打った私のパワーはすごいです。無敵です。路地裏の自販機の隣でレイプされそうになったけど、私は二本のメンマを食べたのです。そのメンマがマズくて固くて口から吐き出してみると、二本の指でした。爪に黒い垢がたまっていて汚かったです。
女の子は「やめて!」って言って股をぴったり閉じました。私は女の子の顔を殴りつけてやりました。顔もキレイでしたね。鏡見ても優越感しかないんだろうなってくらい無敵の整い方してましたね。
そういう綺麗な顔に血が流れてるの見ると興奮しました。学校とかでもそうだけど手が届かないじゃん。私たちに無限に劣等感植え付けてくるだけじゃん。そーいう連中と比べても更に綺麗な子が私に殴られてくちびるから血を出してるんです。脳汁がグツグツとできたてのグラタンみたいに湧いてました。生き物として一段階上のグレードに到達した気がしました。あっ、私でも人を痛めつけられるんだって。いじめる側に回れるんだって。たぶん私のことをいじめられてた連中からすると「えっ、今更」って感じなんでしょうけど。
「いい加減にしてよ!」
女の子がポケットから札みたいのを取り出します。すごい戸惑った顔してました。なんか女の子的に、その札があれば暴力から身を守れるって認識があったみたいです。和風ファンタジー系のバトル物的な? あれこれリアルだっけ、それともヤバ目の幻覚? 自分でもよくわからなかったけど、考えようにも頭が絞った雑巾みたいにねじれてたんで無理でした。私は私が疲れ果てるまで女の子のことをボコボコにしました。
ずっと防御してただけなのに女の子の方が呼吸荒いのが意外で印象的でした。全然動いてなくても恐怖とか緊張とかでそうなっちゃうんでしょうね。いや、私もゼーハーって感じの息してたんですけど、女の子は真っ白な顔がすっかり真っ赤になってて、あちこちアザができたり血がついてたり可哀想な感じで、おちんちんないけど勃起しちゃいそうでした。イジめられててもこんなエロいとか美人ってズルだわって思いました。
ひとつ疑問があって、なんでこんな女の子が私のもとにやってきたんだろって。こんな女の子になんの意味合いがあるんだろって。――「私と同じ目に遭わされるためにやってきたんだ」って思いました。こういう可愛い美少女が私みたいにボロボロになることが私にとっての救済だからって、じゃないと世の中不公平でつり合いがとれないじゃん、って。
私は女の子に名前を聞きました。女の子は「ハクレイレイム」って答えました。
私はその名前に聞き覚えのあるような気がしました。なんていうか、不思議ななつかしさみたいなものがこみあげてきたのです。同時に、なんか妙にテンションが高くなって、私は叫びそうになってしまったのです――レイムお姉ちゃんが私のもとに帰ってきた!
いや、なんていうか、昔なんか私じゃない女の子といっしょに暮らしてたような気がする。まだ私が親戚に会うたびに「かわいー!」って言われてたころ、私の隣でいっしょに「かわいー!」って言われてたような。記憶の中のソイツに名前はまだなかったけど、ソイツの名前を「レイム姉ちゃん」にすることにしました。で、目の前のコイツもレイム姉ちゃんと呼ぶことにしました。これまでどっか変なところにいなくなっていた分、妹としてたくさんダダをこねさせてもらいます。
私はレイム姉ちゃんの服を全部脱がせました。赤と白の服ってなんか主人公って感じがしてうざかったし、レイム姉ちゃんは乳首の色もキレイなのかなって疑問もありました。レイム姉ちゃんはやっぱ乳首の色もキレイでしたけど、下の毛は私みたいにまばらに生えてて手入れもされてない感じです。流石にそこまでお人形みたいってことはなかったです。
部屋の中に裸の他人がいるってシチュになんか興奮して、私はレイム姉ちゃんのあばらのあたりを二、三発軽く殴りました。それだけでもレイム姉ちゃんけっこうビビッてて大げさな反応してましたね。
でもそのうち、注射の酔いの第二段階がきて……これマジできついんですよね。脳の真ん中でものすごい圧力の風船が膨らんでくる感じ。めっちゃ生温かくてめっちゃ粘っこい唾液が口の中であふれてそのまま床に落ちました。虹色の羽虫みたいのが部屋の隅という隅、陰という陰からあらわれて私の周りを埋め尽くします。私はソイツらを死ぬほどうざく感じたんですけど、体が思うように動きません。固まった樹脂みたいにびくともしないんですよ。そのまま意識がブランコみたいに遠ざかったり離れたりを繰り返して私は寝落ちしました。
起きてみると注射の効果は完全に切れてました。気分がすごくスッキリしていて、そのすがすがしい気分のまま「レイム姉ちゃん」のことなんてスーッと忘れてしまえそうだったんですが、部屋に散乱する紅白の服の切れ端みてメチャクチャイヤな汗かきました。私レイム姉ちゃん全裸にした後、服を全部タチバサミで切ったんですね。もしやと思ってタンスを見てみると、やっぱり服が数枚抜かれてました。あっ、これ逃げたなと。私はすぐに部屋を出ようとして、なぜか床に置きっぱなしになっていた「図解百選 日本の歴史を作った偉人たち」に足を取られてつまずきました。
すぐ立ち上がってレイム姉ちゃん探したんですが、すぐ見つかりましたね。路地裏の自販機、以前私がレイプされかけたとこですけど、レイム姉ちゃんもあそこでレイプされていました。
上はちゃんと服着てるのに、お尻が剝き出しになってるのがなんか下品で生々しかったです。レイプ犯は遠くから見ると意外とイケメンに見えたのですが、近づいてみるとただの雰囲気系でした。ほほ骨が輪郭を台無しにしてるし、鼻がやたらでかくて、鼻翼も広くて下品だし、アゴとかもケツアゴになりかけだし、あと金髪が死ぬほど小汚かったです。全体的に不潔な感じなのにヒゲとかマユとかはちゃんと手入れされてるのもうざかったです。
レイパーはレイム姉ちゃんを犯すのに夢中で、私が近づいてることに全然気づいていないみたいでした。まあ私が影薄いっていうのもあるんでしょうが。私はポケットから折りたたみナイフを取り出して、レイパーの後頭部をスパッと切りました。大丈夫、問題ない。どうせ存在しないし、私もコイツもレイム姉ちゃんも、薬でラリった私が見てる幻影だし、そんな気分で私はナイフをふるいました。実際、映画みたいに血がぷしゃああってなることはなくて、ドロって垂れてくる感じで、それでもレイパーはメチャクチャビビったみたいでした。「うふぇっ!」って、声になってないべしゃべしゃな悲鳴みたいなのを上げてシャカシャカ走って消えてしまいました。おちんちんもろだしでした。ホントに入ってたんかってくらいちっちゃかったです。
で、レイム姉ちゃんはというと、意外と落ち着いてました。「うえっうえっ」ってテンプレみたいにしめやかに泣くとかじゃなくて、人形みたいで静かにおとなしい感じでした。人形にしては、丸出しの下半身にちゃんとオマンコついてたわけですけど。なんかリアルなオマンコでしたね。普段トイレで用足す時に見るオマンコとは違う、レイム姉ちゃんのもう一つの顔見たいなオマンコでした。
「大丈夫、レイム姉ちゃん」
私はレイム姉ちゃんの前で手を振ってみました。レイム姉ちゃんはいかにもけだるそうに私のほうをぼんやり見ました。なんか、やっぱり人間って感じがしません。人と同じ大きさの粗大ゴミって感じ。
「……わけわかんない」
レイム姉ちゃんはポツリとつぶやきました。なんかそれだけで私は自分を否定されてるような気がしました。この世でイチバン崇高なものから、「オマエは違う」と言われてる気がする。
とっさに、私は自分の「生きてる証」を見ました。イカ焼きみたいになっちゃった右手のリスカ痕です。(なんで右手かっていうと私の利き手がレイム姉ちゃんといっしょで左利きだからです)それを見ると、あの時のやけっぱちなドキドキとか、鬱屈がガソリンかけたみたいにすごい勢いで燃え尽きてく感じとか、ちょこっと混じる母親への後ろめたさとかいろいろ思い出して、気分が落ち着きました。でも一回落ち着いて、気づいたんですね、「これ、防御じゃん」って。その心理的な防御をレイム姉ちゃんの前でしてしまったっていうのが、なんかすごいシャクだったんですね。
私はレイム姉ちゃんをもう一度見ました。もし今の心理的な防御をレイム姉ちゃんが見抜いてたら、もう二度と優位に立てないなって。あのこの世でイチバン崇高なヤツの「オマエは違う」がますますリアルになっちゃうなって。私はすっかり神経質になってました。
レイム姉ちゃんは目を伏せていました。何にも注意を払うことなく深く沈んでる感じでした。でもそれはそれでかなりムカつくのでした。
自分がどうしてあんなにイジメられたか段々わかってきました。でも、今となってはもうどうでもいいことです。
家に帰った後、私はもう一回レイム姉ちゃんの服を全部脱がせました。レイム姉ちゃんの肌はキレイでした。キレイすぎてつくりものめいているくらいで、私は思ったのです。「これはよくない」、と。
「レイム姉ちゃん、「生きてる証」が欲しくない?」
私が問いかけると、レイム姉ちゃんはやっぱり人形みたいな顔して答えました。
「マリサ」
意味がわかりませんでした。
「マリサとか、ユカリとか、みんなどこにいっちゃったんだろ……」
レイム姉ちゃんがぼんやりつぶやきます。
「それって人名?」
「友だちの名前……」
「レイム姉ちゃんにお友だちがいたの? 大切な人たちだったの?」
レイム姉ちゃんはしずかにうなづきました。
「そんなのいないよ」
私は無愛想にいいました。
「レイム姉ちゃんはひとりぼっちだよ。私と私の痛みを分ち合うために生まれてきたんだよ」
「違うわ。皆いたもの。マリサは金髪で、白黒の服を着た魔女だった。ユカリも金髪でいつも紫色の服を着ていた」
その紫という色が気になりました。どうしてかわかんないけど私は昔から紫色のものがキライでした。ナスとか紫キャベツとかアントシアニン全般がキライでしたし、貝紫がローマでは至高の色とされたという雑学を先生が歴史の授業で披露した時など私は失神してしまったくらいです。
私はレイム姉ちゃんのお肌を切り裂きました。すぐには消えないもの、後々まで残るものを、その心と体に刻み付けてやろうと。
キスをしました。桜色の乳首をしゃぶったりもしました。そういうことしてる最中もずっとレイム姉ちゃんの肌にナイフを突き立てていました。所詮ポケットナイフですからそんな深い傷にはなりません。痕さえ残ってくれればもうなんでもよかったのです。それにレイム姉ちゃんの温かく新しい血で私の体を濡らしてみたいという気まぐれな衝動もありました。でもレイム姉ちゃんのほうはというと相変わらずマグロでした。
そういう風にしてるうちに結構時間が経った気がしました。いい感じに傷だらけになったんじゃねと思いました。私はレイム姉ちゃんから一旦離れてその裸を見て、「あっ」と声を上げてしまいました。
よくよく考えると、切り傷だって赤「紫」色です。しかも私は幻影を見たのです。レイム姉ちゃんのお肌にたくさん刻まれた赤紫色の裂け目。その中に、肉色の瞳が寒天の上の雑菌みたいにびっしり埋まっていて、そのすべてが私のほうをじろりと凝視してました。
あちゃあ、やったまたなあ、そんな風に考えていたその時です。「他人」がいつの間にやら私のそばまで寄ってきてたのです。
「おい! 何をしてるんだ!」
あからさまに切羽詰まった感じの声が私を現実へと引き戻しました。私のお父さんがこの世の終わりみたいな表情で私たちのほうを見つめてました。
「ああっ!? なんでいんの? 今日は帰ってこないんじゃなかったん?」
「ああ……オマエ、人を殺したのか!? なんでわざわざ人を殺すんだよ!? 人を殺す前にまずオマエがとっとと死ねよ! ああ、クソ、面倒くさい……会社が、警察が……世間様が……」
「父さん、コイツは人じゃないよ。マボロシだよ」
「マボロシなものか! 畜生ぉっっっ……なんでオマエの方が現実逃避をしてるんだよ……」
なっさけなく泣き出してしまいそうなぐらいてんぱってて、私は噴き出しそうになっちゃちましたね。でもいわれてみるとたしかにそうだなって。なんで私の方がこんな落ち着いてるんだろうなって。やっぱりわらけてくるなあって。
でもそんな情けないお父さんの顔が、レイム姉ちゃんの顔を見た途端、ポカンと、呆けた感じになってしまったのです。親殺した後で、初めて人間が死ぬことに気づいたクソガキみてえな感じ。私が知らなかったお父さんの顔って感じがしました。
「ちょっ、どうしたの?」
あからさまに無視されました。もう色々限界だったのでしょうか。お父さんはすでに半分くらい、私とは違う世界の住人になっちまってたみたいです。
父さんはいつも寝る前に飲んでる錠剤をいくつか手に出して、水で流し込みました。さらに、同じ動作をもう一度。はたまたもう一度。何度も何度も同じ動作を繰り返して、錠剤が入っていた瓶はとうとうカラになりました。
「ちょっ、父さん、それ睡眠薬だよ。死ぬよ?」
父さんは答えませんでした。父さんはソファに寝っ転がって眠り始めました。蒼ざめたその寝顔は生気が感じられなくて、その下のソファやTVリモコンと地つづきって感じがしました。あっ、コイツ死ぬなと私は思いましたけど、救急車とかを呼ぶ気にもなれなくて……。そもそも死ぬために生まれてきたような大人だったし。
ちょうどその時だったのです。私はまなざしを感じたのです。まなざしの正体はスキマでした。冷蔵庫と食器棚の間のスキマから、紫色の眼が私をのぞいていました。
まばたきを一回します。もう一度目を開けると、もう紫色の目はありません。呼び起こされた記憶がひとつあります。二階の和室の押し入れにまつわるトラウマが蘇ります。
「レイム姉ちゃん、ついてきて。ひとりじゃ怖いから」
「イヤだ」
レイム姉ちゃんは私を冷たく見つめていました。どーでもいいといわんばかりに。
「ちょっとわかってきたわ。あなたは最悪の死に方に片足を突っ込んでいる。早くしないともう逃げられなくなる……」
「……意味わかんない、早く来てよ」
「ダメ。今すぐ離れないと。私たちロクでもないことになるわ」
私はクソムカついてました。自分にも世界にもイラついていて、でもレイムねえちゃんに対してはちょっぴり哀しみが混じっていたりもして……とかく私は怒鳴りました。
「うるさい! 絶対手放したりするもんか! ようやく手に入ったのに! 「キレイなもの」を私のところまで引きずり下ろせたのに!!」
2階の和室の押し入れにで、私は何をみたんでしょう。恐る恐る戸を開けてみると、いくつかの段ボール箱がありました。段ボールの臭いって昔から少し懐かしい感じがします。きっとしょっちゅう、家の隅っこでいろんな思い出を秘めていたりするから。
そのうちのひとつには、私がほんとうに小さかったこと読んでいたのであろう数冊の絵本がありました。私はますます懐かしい気分になって一冊の絵本を取り出しました。そのタイトルは『Outside over there』、著者はフランスの絵本作家の人。
お母さんがまだ生きてたころ、原文を日本語に訳して読んでくれた本です。昔のヨーロッパにはchangeling、日本語では「取り替え子」と訳される伝承があったとお母さんは言っていました。文字通り、醜い妖精たちが人間の赤子をこっそりと、妖精たちの子どもに取り替えてしまうのです。この
『Outside over there』もそうです。悪い妖精たちが、アイダという女の子の妹を氷の塊に取り替えてしまう。けれどもこの絵本の中では、アイダは見事妹を取り返すことに成功しているのです。
私は絵本を開いてあることに気付きました。アイダの妹が、レイム姉ちゃんがつけてたのとそっくりのリボンをしていること。更に、妹を攫っていく妖精たちの全身に、びっしりと紫色の眼が描かれていること。
私は思わず本を落としてしまいました。こんな絵ではなかったはずです。アイダの妹はあんなリボンをつけていませんでした。妖精たちはあれほどまでに不気味な姿をしてはいませんでした。
待てよ、と思いました。アイダ……間……「スキマ」。
押入れのわずかなスキマから、やはり紫色の眼が私をじっと見ています。「へえ……」とつぶやいてる気がしました。ツイッタランドの捨てアカみたいに卑怯なデバガメ野郎。その紫色の眼と私の眼とが合います。同時に二つの記憶、しかも互いに矛盾している記憶が蘇ります。
一つは、私にキレイなお姉ちゃんがいたという記憶。もう一つは、私自身がすごくキレイな幼児だったという記憶。いずれにしても幼い頃の私には、かけがえなくキレイなものが身近なところにあったのです。レイム姉ちゃんはきっと幼い頃、こんなキレイな顔をしてたんだろうなってそんな顔。けれども、お母さんが事故で死んでしまった数日後、和室でひとりぼっちで絵本を読んでいた私は、押し入れの隙間から私を見る紫色の眼に気づきました。悲鳴も上げられませんでした。全身を見えない糸で縛られているようでした。そのうち突然、スキマから白い手袋をつけた、ほっそりとした女の人の腕が伸びてきて、私のうなじに触れました。触れるだけでなく、手袋に包まれた指はそのまま私の中へと入ってきました。かつてレイプされかけた時、おとなしいはずの私が異常な馬鹿力を発揮して相手を撃退できたのは、体内に異物の侵入してくる感覚に対するトラウマのおかげでもあったのだと思います。指先はあっさりと私の中の「核心」にまでたどり着いて、ズルリとそれを引き抜きました。私の中のうつくしいもの。単にうつくしいというだけではなくて、私が大きな何かから認められその寵愛を一身に受ける、その証みたいなもの。
レイム姉ちゃんは、私の「取り替え子」でした。紫色の魔性が、うつくしい「レイム姉ちゃん」をどこかに連れ去ってしまい、残されたのは醜い怪物である「私」。
不安でした。存在の根っこに潜んでいるような感じの不安でした。注射を打とうと思いました。このままだと恐ろしいことになる。レイム姉ちゃんの言っていたことに間違いはない。何かが私に迫りつつある。今すぐ逃げ出さないといけない。けれど、眼? 眼はどこにでもあります。それから逃れうるとしたらやはり、幻想……。
手首に、たしかに針を突き立てたはずなのです。私ははっきりこの眼で見たのです。でも手ごたえはありませんでした。チクっという痛みもありませんでした。代わりに注射は、消えてしまいました。紙に描いた絵を鉛筆でゴシゴシ消していくような具合です。段々薄くなって最後には見えなくなってしまう。
現実と幻想の橋渡しをしていたものが、溶け消えてしまった。もうどっちが現実でどっちが幻想かわからない。そこにレイム姉ちゃんの、冷えた鉄の棘みたいな声が突き刺さってくる。
「いい。よく聞きなさい。ひとつだけたしかなことが……」
「うるさい」
私はポケットのナイフでレイム姉ちゃんの眼を刺しました。しかし、やっぱりおかしいのです。さっきと違って血は流れませんでした。
急に目の前のレイム姉ちゃんから、生々しい存在感が失われていきます。レイム姉ちゃんは逃げも叫びもしません。代わりに口だけがもごもごと動いています。オー、アイ、オー。ひとつの言葉が脳裏に浮かびました。倫理の授業で習った言葉――コギト、cogito、cogito elgo sum(われ思う、ゆえにわれあり)……
そこまでさかのぼらなければ、もはや何も信じられないというのでしょうか?
そんなことを思っているうち、とうとうレイム姉ちゃんの存在は崩れました。無数の白い桜の花弁となって宙に舞い、それらの花弁もにじむようにしてひんやりとした部屋の空気の中に溶け消えていきました。
「あなた、バカねえ」
頭の中で声が響きます。目の前の空間にスキマができて、そこから紫色のドレスをまとった金髪のものすごい美女が現れます。これも幻想でしょうか? それとも……。
「自分で自分の本体を、取り替え子の魂を殺してしまうだなんてねえ。「博麗霊夢」と比べれば、こちらの世界で過ごすあなたなんて、ちっぽけな影みたいな存在なのに……」
自分で自分の本体を殺す? われ思うゆえにわれあり――ならば自分で自分を殺してしまったものに残るものといえば?
考えるまでもありません。虚無だけです。
それを意識した途端、少女の前にカラッポが現前しました。少女は虚空を手で引っかきました。指先になんらかの手触りを感じようと。しかし、手で? 虚無に二本の手などという器官がある? ない。手はありませんでした。手だけではなく全身がありませんでした。なくなっていく、ではないのです。最初からなかったのです。少女なんてどこにもいなかったのです。
それでも、少女が完全に消え去る瞬間、存在そのものの軋みみたいな「叫び」が、まさしく「どこからともなく」湧き上がりました。「叫び」は不可視の時空の骨組みに絡みつき、凍りつき、以降二度と変化することはありませんでした。
幼いころに見えてたものが見えなくなって、親しみやすかったものがどんどん遠ざかっていって、私はイジメられるようになりました。空気が読めない、というのです。オチのない話が多いというのです。そんな理由で靴の中にミミズの死骸を三匹分も入れられたり、毛がちょびちょび生えたオマンコの写真を撮られたり、あんまりではないでしょうか。だから私は家に引きこもって、毎日のように「儀式」を行うことにしました。たった一人だけ私に優しくしてくれる友だちがくれた「お薬」を打って、暗くした部屋の中でアルコールランプの火を見ます。この注射を打つと汗が普段の三倍は臭くなります。でもその汗はストゼロより深く私を酔わせるのです。五色の糸と針でてのひらに星を作ったり、私の経血を飲ませたアマガエルの頭をたたき割ったりもします。そうしているうちに見えてきました。イチゴジャムと埃の匂いで満たされた部屋の片隅に、あの子が力なく座ってたのです。髪がものすごくキレイでした。色味の濃い漆黒で氷みたいに冴えたツヤがあって、きよらかーな感じがしました。一目見て私は嫉妬しました。私の髪は色素が薄くて茶色っぽいのです。クラスで一番かわいい子、コハルちゃんの茶髪っぽい髪は皆からうらやましがられるのに、私の髪の色は不潔とかクソの色とか乳首も同じ色してそうとか。死ぬほどムカつきましたね。心だって血は流れるんです。
で、その女の子は部屋の隅、ホコリのたまりがちなとこに尻餅をつきながら、ポカンとした表情をしていました。私は自分がバカにされてると思いました。
「もっとまじめな顔しろよ。オマエまで私をバカにすんなよ」
「ねえ、ここはどこ? 外の世界? 幻想郷じゃないの?」
わけのわからないこというなよ、心の中で舌打ちしました。私は女の子の髪を掴んでギュって引っ張りました。
「痛いっ!」
女の子がわめきます。私はますますムカついて、女の子の股を蹴りつけました。何度も何度も蹴りつけてやりました。注射を打った私のパワーはすごいです。無敵です。路地裏の自販機の隣でレイプされそうになったけど、私は二本のメンマを食べたのです。そのメンマがマズくて固くて口から吐き出してみると、二本の指でした。爪に黒い垢がたまっていて汚かったです。
女の子は「やめて!」って言って股をぴったり閉じました。私は女の子の顔を殴りつけてやりました。顔もキレイでしたね。鏡見ても優越感しかないんだろうなってくらい無敵の整い方してましたね。
そういう綺麗な顔に血が流れてるの見ると興奮しました。学校とかでもそうだけど手が届かないじゃん。私たちに無限に劣等感植え付けてくるだけじゃん。そーいう連中と比べても更に綺麗な子が私に殴られてくちびるから血を出してるんです。脳汁がグツグツとできたてのグラタンみたいに湧いてました。生き物として一段階上のグレードに到達した気がしました。あっ、私でも人を痛めつけられるんだって。いじめる側に回れるんだって。たぶん私のことをいじめられてた連中からすると「えっ、今更」って感じなんでしょうけど。
「いい加減にしてよ!」
女の子がポケットから札みたいのを取り出します。すごい戸惑った顔してました。なんか女の子的に、その札があれば暴力から身を守れるって認識があったみたいです。和風ファンタジー系のバトル物的な? あれこれリアルだっけ、それともヤバ目の幻覚? 自分でもよくわからなかったけど、考えようにも頭が絞った雑巾みたいにねじれてたんで無理でした。私は私が疲れ果てるまで女の子のことをボコボコにしました。
ずっと防御してただけなのに女の子の方が呼吸荒いのが意外で印象的でした。全然動いてなくても恐怖とか緊張とかでそうなっちゃうんでしょうね。いや、私もゼーハーって感じの息してたんですけど、女の子は真っ白な顔がすっかり真っ赤になってて、あちこちアザができたり血がついてたり可哀想な感じで、おちんちんないけど勃起しちゃいそうでした。イジめられててもこんなエロいとか美人ってズルだわって思いました。
ひとつ疑問があって、なんでこんな女の子が私のもとにやってきたんだろって。こんな女の子になんの意味合いがあるんだろって。――「私と同じ目に遭わされるためにやってきたんだ」って思いました。こういう可愛い美少女が私みたいにボロボロになることが私にとっての救済だからって、じゃないと世の中不公平でつり合いがとれないじゃん、って。
私は女の子に名前を聞きました。女の子は「ハクレイレイム」って答えました。
私はその名前に聞き覚えのあるような気がしました。なんていうか、不思議ななつかしさみたいなものがこみあげてきたのです。同時に、なんか妙にテンションが高くなって、私は叫びそうになってしまったのです――レイムお姉ちゃんが私のもとに帰ってきた!
いや、なんていうか、昔なんか私じゃない女の子といっしょに暮らしてたような気がする。まだ私が親戚に会うたびに「かわいー!」って言われてたころ、私の隣でいっしょに「かわいー!」って言われてたような。記憶の中のソイツに名前はまだなかったけど、ソイツの名前を「レイム姉ちゃん」にすることにしました。で、目の前のコイツもレイム姉ちゃんと呼ぶことにしました。これまでどっか変なところにいなくなっていた分、妹としてたくさんダダをこねさせてもらいます。
私はレイム姉ちゃんの服を全部脱がせました。赤と白の服ってなんか主人公って感じがしてうざかったし、レイム姉ちゃんは乳首の色もキレイなのかなって疑問もありました。レイム姉ちゃんはやっぱ乳首の色もキレイでしたけど、下の毛は私みたいにまばらに生えてて手入れもされてない感じです。流石にそこまでお人形みたいってことはなかったです。
部屋の中に裸の他人がいるってシチュになんか興奮して、私はレイム姉ちゃんのあばらのあたりを二、三発軽く殴りました。それだけでもレイム姉ちゃんけっこうビビッてて大げさな反応してましたね。
でもそのうち、注射の酔いの第二段階がきて……これマジできついんですよね。脳の真ん中でものすごい圧力の風船が膨らんでくる感じ。めっちゃ生温かくてめっちゃ粘っこい唾液が口の中であふれてそのまま床に落ちました。虹色の羽虫みたいのが部屋の隅という隅、陰という陰からあらわれて私の周りを埋め尽くします。私はソイツらを死ぬほどうざく感じたんですけど、体が思うように動きません。固まった樹脂みたいにびくともしないんですよ。そのまま意識がブランコみたいに遠ざかったり離れたりを繰り返して私は寝落ちしました。
起きてみると注射の効果は完全に切れてました。気分がすごくスッキリしていて、そのすがすがしい気分のまま「レイム姉ちゃん」のことなんてスーッと忘れてしまえそうだったんですが、部屋に散乱する紅白の服の切れ端みてメチャクチャイヤな汗かきました。私レイム姉ちゃん全裸にした後、服を全部タチバサミで切ったんですね。もしやと思ってタンスを見てみると、やっぱり服が数枚抜かれてました。あっ、これ逃げたなと。私はすぐに部屋を出ようとして、なぜか床に置きっぱなしになっていた「図解百選 日本の歴史を作った偉人たち」に足を取られてつまずきました。
すぐ立ち上がってレイム姉ちゃん探したんですが、すぐ見つかりましたね。路地裏の自販機、以前私がレイプされかけたとこですけど、レイム姉ちゃんもあそこでレイプされていました。
上はちゃんと服着てるのに、お尻が剝き出しになってるのがなんか下品で生々しかったです。レイプ犯は遠くから見ると意外とイケメンに見えたのですが、近づいてみるとただの雰囲気系でした。ほほ骨が輪郭を台無しにしてるし、鼻がやたらでかくて、鼻翼も広くて下品だし、アゴとかもケツアゴになりかけだし、あと金髪が死ぬほど小汚かったです。全体的に不潔な感じなのにヒゲとかマユとかはちゃんと手入れされてるのもうざかったです。
レイパーはレイム姉ちゃんを犯すのに夢中で、私が近づいてることに全然気づいていないみたいでした。まあ私が影薄いっていうのもあるんでしょうが。私はポケットから折りたたみナイフを取り出して、レイパーの後頭部をスパッと切りました。大丈夫、問題ない。どうせ存在しないし、私もコイツもレイム姉ちゃんも、薬でラリった私が見てる幻影だし、そんな気分で私はナイフをふるいました。実際、映画みたいに血がぷしゃああってなることはなくて、ドロって垂れてくる感じで、それでもレイパーはメチャクチャビビったみたいでした。「うふぇっ!」って、声になってないべしゃべしゃな悲鳴みたいなのを上げてシャカシャカ走って消えてしまいました。おちんちんもろだしでした。ホントに入ってたんかってくらいちっちゃかったです。
で、レイム姉ちゃんはというと、意外と落ち着いてました。「うえっうえっ」ってテンプレみたいにしめやかに泣くとかじゃなくて、人形みたいで静かにおとなしい感じでした。人形にしては、丸出しの下半身にちゃんとオマンコついてたわけですけど。なんかリアルなオマンコでしたね。普段トイレで用足す時に見るオマンコとは違う、レイム姉ちゃんのもう一つの顔見たいなオマンコでした。
「大丈夫、レイム姉ちゃん」
私はレイム姉ちゃんの前で手を振ってみました。レイム姉ちゃんはいかにもけだるそうに私のほうをぼんやり見ました。なんか、やっぱり人間って感じがしません。人と同じ大きさの粗大ゴミって感じ。
「……わけわかんない」
レイム姉ちゃんはポツリとつぶやきました。なんかそれだけで私は自分を否定されてるような気がしました。この世でイチバン崇高なものから、「オマエは違う」と言われてる気がする。
とっさに、私は自分の「生きてる証」を見ました。イカ焼きみたいになっちゃった右手のリスカ痕です。(なんで右手かっていうと私の利き手がレイム姉ちゃんといっしょで左利きだからです)それを見ると、あの時のやけっぱちなドキドキとか、鬱屈がガソリンかけたみたいにすごい勢いで燃え尽きてく感じとか、ちょこっと混じる母親への後ろめたさとかいろいろ思い出して、気分が落ち着きました。でも一回落ち着いて、気づいたんですね、「これ、防御じゃん」って。その心理的な防御をレイム姉ちゃんの前でしてしまったっていうのが、なんかすごいシャクだったんですね。
私はレイム姉ちゃんをもう一度見ました。もし今の心理的な防御をレイム姉ちゃんが見抜いてたら、もう二度と優位に立てないなって。あのこの世でイチバン崇高なヤツの「オマエは違う」がますますリアルになっちゃうなって。私はすっかり神経質になってました。
レイム姉ちゃんは目を伏せていました。何にも注意を払うことなく深く沈んでる感じでした。でもそれはそれでかなりムカつくのでした。
自分がどうしてあんなにイジメられたか段々わかってきました。でも、今となってはもうどうでもいいことです。
家に帰った後、私はもう一回レイム姉ちゃんの服を全部脱がせました。レイム姉ちゃんの肌はキレイでした。キレイすぎてつくりものめいているくらいで、私は思ったのです。「これはよくない」、と。
「レイム姉ちゃん、「生きてる証」が欲しくない?」
私が問いかけると、レイム姉ちゃんはやっぱり人形みたいな顔して答えました。
「マリサ」
意味がわかりませんでした。
「マリサとか、ユカリとか、みんなどこにいっちゃったんだろ……」
レイム姉ちゃんがぼんやりつぶやきます。
「それって人名?」
「友だちの名前……」
「レイム姉ちゃんにお友だちがいたの? 大切な人たちだったの?」
レイム姉ちゃんはしずかにうなづきました。
「そんなのいないよ」
私は無愛想にいいました。
「レイム姉ちゃんはひとりぼっちだよ。私と私の痛みを分ち合うために生まれてきたんだよ」
「違うわ。皆いたもの。マリサは金髪で、白黒の服を着た魔女だった。ユカリも金髪でいつも紫色の服を着ていた」
その紫という色が気になりました。どうしてかわかんないけど私は昔から紫色のものがキライでした。ナスとか紫キャベツとかアントシアニン全般がキライでしたし、貝紫がローマでは至高の色とされたという雑学を先生が歴史の授業で披露した時など私は失神してしまったくらいです。
私はレイム姉ちゃんのお肌を切り裂きました。すぐには消えないもの、後々まで残るものを、その心と体に刻み付けてやろうと。
キスをしました。桜色の乳首をしゃぶったりもしました。そういうことしてる最中もずっとレイム姉ちゃんの肌にナイフを突き立てていました。所詮ポケットナイフですからそんな深い傷にはなりません。痕さえ残ってくれればもうなんでもよかったのです。それにレイム姉ちゃんの温かく新しい血で私の体を濡らしてみたいという気まぐれな衝動もありました。でもレイム姉ちゃんのほうはというと相変わらずマグロでした。
そういう風にしてるうちに結構時間が経った気がしました。いい感じに傷だらけになったんじゃねと思いました。私はレイム姉ちゃんから一旦離れてその裸を見て、「あっ」と声を上げてしまいました。
よくよく考えると、切り傷だって赤「紫」色です。しかも私は幻影を見たのです。レイム姉ちゃんのお肌にたくさん刻まれた赤紫色の裂け目。その中に、肉色の瞳が寒天の上の雑菌みたいにびっしり埋まっていて、そのすべてが私のほうをじろりと凝視してました。
あちゃあ、やったまたなあ、そんな風に考えていたその時です。「他人」がいつの間にやら私のそばまで寄ってきてたのです。
「おい! 何をしてるんだ!」
あからさまに切羽詰まった感じの声が私を現実へと引き戻しました。私のお父さんがこの世の終わりみたいな表情で私たちのほうを見つめてました。
「ああっ!? なんでいんの? 今日は帰ってこないんじゃなかったん?」
「ああ……オマエ、人を殺したのか!? なんでわざわざ人を殺すんだよ!? 人を殺す前にまずオマエがとっとと死ねよ! ああ、クソ、面倒くさい……会社が、警察が……世間様が……」
「父さん、コイツは人じゃないよ。マボロシだよ」
「マボロシなものか! 畜生ぉっっっ……なんでオマエの方が現実逃避をしてるんだよ……」
なっさけなく泣き出してしまいそうなぐらいてんぱってて、私は噴き出しそうになっちゃちましたね。でもいわれてみるとたしかにそうだなって。なんで私の方がこんな落ち着いてるんだろうなって。やっぱりわらけてくるなあって。
でもそんな情けないお父さんの顔が、レイム姉ちゃんの顔を見た途端、ポカンと、呆けた感じになってしまったのです。親殺した後で、初めて人間が死ぬことに気づいたクソガキみてえな感じ。私が知らなかったお父さんの顔って感じがしました。
「ちょっ、どうしたの?」
あからさまに無視されました。もう色々限界だったのでしょうか。お父さんはすでに半分くらい、私とは違う世界の住人になっちまってたみたいです。
父さんはいつも寝る前に飲んでる錠剤をいくつか手に出して、水で流し込みました。さらに、同じ動作をもう一度。はたまたもう一度。何度も何度も同じ動作を繰り返して、錠剤が入っていた瓶はとうとうカラになりました。
「ちょっ、父さん、それ睡眠薬だよ。死ぬよ?」
父さんは答えませんでした。父さんはソファに寝っ転がって眠り始めました。蒼ざめたその寝顔は生気が感じられなくて、その下のソファやTVリモコンと地つづきって感じがしました。あっ、コイツ死ぬなと私は思いましたけど、救急車とかを呼ぶ気にもなれなくて……。そもそも死ぬために生まれてきたような大人だったし。
ちょうどその時だったのです。私はまなざしを感じたのです。まなざしの正体はスキマでした。冷蔵庫と食器棚の間のスキマから、紫色の眼が私をのぞいていました。
まばたきを一回します。もう一度目を開けると、もう紫色の目はありません。呼び起こされた記憶がひとつあります。二階の和室の押し入れにまつわるトラウマが蘇ります。
「レイム姉ちゃん、ついてきて。ひとりじゃ怖いから」
「イヤだ」
レイム姉ちゃんは私を冷たく見つめていました。どーでもいいといわんばかりに。
「ちょっとわかってきたわ。あなたは最悪の死に方に片足を突っ込んでいる。早くしないともう逃げられなくなる……」
「……意味わかんない、早く来てよ」
「ダメ。今すぐ離れないと。私たちロクでもないことになるわ」
私はクソムカついてました。自分にも世界にもイラついていて、でもレイムねえちゃんに対してはちょっぴり哀しみが混じっていたりもして……とかく私は怒鳴りました。
「うるさい! 絶対手放したりするもんか! ようやく手に入ったのに! 「キレイなもの」を私のところまで引きずり下ろせたのに!!」
2階の和室の押し入れにで、私は何をみたんでしょう。恐る恐る戸を開けてみると、いくつかの段ボール箱がありました。段ボールの臭いって昔から少し懐かしい感じがします。きっとしょっちゅう、家の隅っこでいろんな思い出を秘めていたりするから。
そのうちのひとつには、私がほんとうに小さかったこと読んでいたのであろう数冊の絵本がありました。私はますます懐かしい気分になって一冊の絵本を取り出しました。そのタイトルは『Outside over there』、著者はフランスの絵本作家の人。
お母さんがまだ生きてたころ、原文を日本語に訳して読んでくれた本です。昔のヨーロッパにはchangeling、日本語では「取り替え子」と訳される伝承があったとお母さんは言っていました。文字通り、醜い妖精たちが人間の赤子をこっそりと、妖精たちの子どもに取り替えてしまうのです。この
『Outside over there』もそうです。悪い妖精たちが、アイダという女の子の妹を氷の塊に取り替えてしまう。けれどもこの絵本の中では、アイダは見事妹を取り返すことに成功しているのです。
私は絵本を開いてあることに気付きました。アイダの妹が、レイム姉ちゃんがつけてたのとそっくりのリボンをしていること。更に、妹を攫っていく妖精たちの全身に、びっしりと紫色の眼が描かれていること。
私は思わず本を落としてしまいました。こんな絵ではなかったはずです。アイダの妹はあんなリボンをつけていませんでした。妖精たちはあれほどまでに不気味な姿をしてはいませんでした。
待てよ、と思いました。アイダ……間……「スキマ」。
押入れのわずかなスキマから、やはり紫色の眼が私をじっと見ています。「へえ……」とつぶやいてる気がしました。ツイッタランドの捨てアカみたいに卑怯なデバガメ野郎。その紫色の眼と私の眼とが合います。同時に二つの記憶、しかも互いに矛盾している記憶が蘇ります。
一つは、私にキレイなお姉ちゃんがいたという記憶。もう一つは、私自身がすごくキレイな幼児だったという記憶。いずれにしても幼い頃の私には、かけがえなくキレイなものが身近なところにあったのです。レイム姉ちゃんはきっと幼い頃、こんなキレイな顔をしてたんだろうなってそんな顔。けれども、お母さんが事故で死んでしまった数日後、和室でひとりぼっちで絵本を読んでいた私は、押し入れの隙間から私を見る紫色の眼に気づきました。悲鳴も上げられませんでした。全身を見えない糸で縛られているようでした。そのうち突然、スキマから白い手袋をつけた、ほっそりとした女の人の腕が伸びてきて、私のうなじに触れました。触れるだけでなく、手袋に包まれた指はそのまま私の中へと入ってきました。かつてレイプされかけた時、おとなしいはずの私が異常な馬鹿力を発揮して相手を撃退できたのは、体内に異物の侵入してくる感覚に対するトラウマのおかげでもあったのだと思います。指先はあっさりと私の中の「核心」にまでたどり着いて、ズルリとそれを引き抜きました。私の中のうつくしいもの。単にうつくしいというだけではなくて、私が大きな何かから認められその寵愛を一身に受ける、その証みたいなもの。
レイム姉ちゃんは、私の「取り替え子」でした。紫色の魔性が、うつくしい「レイム姉ちゃん」をどこかに連れ去ってしまい、残されたのは醜い怪物である「私」。
不安でした。存在の根っこに潜んでいるような感じの不安でした。注射を打とうと思いました。このままだと恐ろしいことになる。レイム姉ちゃんの言っていたことに間違いはない。何かが私に迫りつつある。今すぐ逃げ出さないといけない。けれど、眼? 眼はどこにでもあります。それから逃れうるとしたらやはり、幻想……。
手首に、たしかに針を突き立てたはずなのです。私ははっきりこの眼で見たのです。でも手ごたえはありませんでした。チクっという痛みもありませんでした。代わりに注射は、消えてしまいました。紙に描いた絵を鉛筆でゴシゴシ消していくような具合です。段々薄くなって最後には見えなくなってしまう。
現実と幻想の橋渡しをしていたものが、溶け消えてしまった。もうどっちが現実でどっちが幻想かわからない。そこにレイム姉ちゃんの、冷えた鉄の棘みたいな声が突き刺さってくる。
「いい。よく聞きなさい。ひとつだけたしかなことが……」
「うるさい」
私はポケットのナイフでレイム姉ちゃんの眼を刺しました。しかし、やっぱりおかしいのです。さっきと違って血は流れませんでした。
急に目の前のレイム姉ちゃんから、生々しい存在感が失われていきます。レイム姉ちゃんは逃げも叫びもしません。代わりに口だけがもごもごと動いています。オー、アイ、オー。ひとつの言葉が脳裏に浮かびました。倫理の授業で習った言葉――コギト、cogito、cogito elgo sum(われ思う、ゆえにわれあり)……
そこまでさかのぼらなければ、もはや何も信じられないというのでしょうか?
そんなことを思っているうち、とうとうレイム姉ちゃんの存在は崩れました。無数の白い桜の花弁となって宙に舞い、それらの花弁もにじむようにしてひんやりとした部屋の空気の中に溶け消えていきました。
「あなた、バカねえ」
頭の中で声が響きます。目の前の空間にスキマができて、そこから紫色のドレスをまとった金髪のものすごい美女が現れます。これも幻想でしょうか? それとも……。
「自分で自分の本体を、取り替え子の魂を殺してしまうだなんてねえ。「博麗霊夢」と比べれば、こちらの世界で過ごすあなたなんて、ちっぽけな影みたいな存在なのに……」
自分で自分の本体を殺す? われ思うゆえにわれあり――ならば自分で自分を殺してしまったものに残るものといえば?
考えるまでもありません。虚無だけです。
それを意識した途端、少女の前にカラッポが現前しました。少女は虚空を手で引っかきました。指先になんらかの手触りを感じようと。しかし、手で? 虚無に二本の手などという器官がある? ない。手はありませんでした。手だけではなく全身がありませんでした。なくなっていく、ではないのです。最初からなかったのです。少女なんてどこにもいなかったのです。
それでも、少女が完全に消え去る瞬間、存在そのものの軋みみたいな「叫び」が、まさしく「どこからともなく」湧き上がりました。「叫び」は不可視の時空の骨組みに絡みつき、凍りつき、以降二度と変化することはありませんでした。
作品投稿は2作目のようですが、文章は非常に書き慣れている方であると感じました。
恐らくある程度の創作経験を経てきていると存じます。それを踏まえた上で思ったのが、作者様はあえてこの俗的な言葉を選んだのだろうということです。
一見、目を覆いたくなるような下品な言葉をあえて選び、衝撃的で退廃的世界を巧みな文章表現で表す。読み手は非常に選ぶ作風かと思いますが、自分は嫌いになれませんでした。しかし一言言わせて頂くと、描写の中にキャラクターへの愛、作品への愛を感じなかったということです。原作へのリスペクトは二次創作では欠かせない要素かと思われます。このような作風なら尚更。読んでいてどうしても、主人公以外のキャラが物語の都合の良い舞台道具以上のものに感じなかったのです。
次の作品はもう少し原作キャラをリスペクトした作品作りを期待したいと思います。それでは次作も期待しています。
これは推測ですが、当人が描くことに強いエクスタシイを求め、描きながらエクスタシイを感じ、そのまま達しちゃうからじゃないのかなあと
あなた文章上手いけど展開が駆け足気味なのは、エクスタシイに達して熱が引いちゃうのかなあとか。まあ推測です
これはこれで収まってるし塩梅の問題かも知れませんが、作品としてまだ詰め込めるとも感じてしまう
欲しいのは、スクリーンの中、繋がり無い他人を唯々眺めるように、粛々と文章を刻む時間とその成果とでも云うべきかな
より良い文章を読みたい私のワガママでもあるので、余計なお世話だったら聞き流して下さい。あなたの欲求はあなたの為に集束すべきです