真夜中の峠道。森の中の細道を、夫婦が歩いている。
その背には、風呂敷に包まれた何かが見える。今日は市が開かれる日だ。きっと町で品物を売りさばいてきたのだろう。
「あれ、あんた。向こうの空が明るいよ」
今来た道を指さしながら、不意に女が声を上げた。
「なんだどうした」
伴侶の驚いた声に、思わず男も後ろを振り返る。
二人の視界の先。そこには、一条の光の柱があった。町と違い、こんな山奥に明かりはない。それにも拘わらず、生い茂る木々の隙間から天に向かって、ぼんやりと輝く光が立ち上っている。
「待て、あそこは祠の近くじゃないか?」
男の脳裏によぎる、七つ石の祠。
「こりゃいかん。おい、行くぞ!」
言うや否や、男は走り出す。不安そうな妻の手を引きながら、夜の山道を駆けだす。
光の根元に向かい走る事、数分。辺りが昼間のように明るくなってきた。きっとこの藪の先から、あの光は伸びているのだろう。そう確信を持ち、夫婦は草むらを覗き込む。
「はやくしろよー」
「もう少し。もう少しだけお待ちを」
そこには、四人の男と一人の女が居た。よくわからないが、傍目には女が我儘を言っているように見える。そして何よりも、男たちは腰に刀を帯びていた。
維新が為されて三十年、この明治の世において、未だに刀を持ち歩く者が居るとは。そして、そんな男たちと言い合いを続ける女も、橙の狩衣を着こんでいる。
どこからどう見ても、彼らは只者では無かった。
「あそこに居るやつらは明らかに普通じゃない。戻るぞ」
同じく覗き込む妻に向けて、そう呟いたその時だった。
「おい貴様ら、そこで何をしている!」
背後からの一喝。もんどり打ちながら後ろを見ると、そこには三人の男が立っていた。当然、光の根元で言い合う男たちの仲間だろう。向けられた抜け身の刃に、背後の光が反射する。
「わ、私たちは通りすがりの者です!どうか命だけはお助けください!」
「炭売りの帰り道、たまたま見かけた者です!この通り、僅かながら売り上げもございます、どうか命だけはご勘弁を!」
かつて、村に押し入ってきた侍たち。彼らに石を投げつけた村人は、即座にその身を切り払われた。
翻って今はどうだろう。あの時とは違い、今や侍の身分は公的なものでない。それにも関わらず刀を持ち歩くような人間に、果たして言葉が通じるだろうか。ましてやこんな山奥である。私の運命もここまでかもしれない。
そう男が覚悟を決め、妻の手を固く握りしめたとき。
「おいどうした!何があった!」
またしても、背後から男の声。恐る恐る振り向くと、やはりそこには四人の男が。
「……見たのか?」
夫婦をにらみつける男たち。その中でも、一際立派な服装をした男に、そう問われる。
言葉を返そうとするも、声が出ない。それは隣にいる妻も同じようで、小刻みに震える手からは、彼女が自身と同じ気持ちでいることが伝わってくる。
せめて、目を合わせよう。
なけなしの勇気を振り絞り、首領と思われる男の目を見つめる。殺意の籠ったその瞳は、見つめるだけで心臓が破裂しそうになる。
「な、お前たちは……」
しかし、目を合わせた瞬間、首領はなぜか狼狽えた。どうしたのだろうか。もしかして、話が通じる相手なのだろうか。
男が僅かな期待を込めて口を開こうとしたとき、またしても声が割り込む。
「なにしてんの」
男たちの背後から覗き込む女。さっき、首領たちと言い合っていた女だ。
「あ?見られてるじゃん。だからしっかり見張ってろって言ったのに」
やれやれとため息をつきながら、首領をジロリと見つめる女。次いで、刀を抜いたままぼーっと立ち尽くす男たちに目を向け、呆れたようにつぶやく。
「しかも躊躇してるのか。仕方ないな、貸ひとつだぞ」
言うや否や、右手を振る。その手には、いつの間にか刀が握られていた。目標は、間違いなく自分たちだ。
この夜三度目の命の危機。しかし今回は逃れられそうにない。目をつぶり、母の顔を思い浮かべる。
「お待ちください隠岐奈殿!その者たちは大丈夫です!」
しかし、またしても「待った」がかかる。この夜三度目の命拾い。
「なんでだよ、そういう約束だったろ」
「その者たちは、毎日欠かさず祠に参る、数少ない信仰者です。彼ら無しに我々はここに居られません」
どうやら、侍たちの首領は私たちを庇ってくれるらしい。お侍さんにもいい人はいるんだなぁと、呑気に思う。
「この時世において、こうした信徒がいかに貴重か。隠岐奈殿、あなたはよくわかるでしょう」
「それほんとうか?……まあいいや、早く話つけてね。もう時間だから」
どうやら許してもらえたらしい。深いため息をついた後、隠岐奈と呼ばれる女は、光の根元へと戻っていった。少し遅れて侍たちも刀を収め、女の後に続く。声を上げた、首領を除いて。
「お、お侍さん、ありがとうございます。しかしこれはどういうことで?」
危機は去った。しかし、その理由がわからない。その疑問を、目の前を歩く首領に投げかけてみる。
「お前たちは、いつも七つ石の祠に訪れる夫婦か?」
こちらを見ず、言葉だけを投げ返す。
「はい。私たちは毎日拝んでおりますが」
「そうか」
再びの沈黙。この侍たちは、あの祠に関係があるのだろうか。
「突然呼び止めてすまないな。実は今、私たちに長く付き従ってくれたオオカミを送っていたんだ」
また、首領が口を開く。
「隠岐奈殿は、その送りに関わる呪術者でな。その様子は門外不出らしく、依頼者以外に見られたくないそうなんだ」
「そ、そうでしたか。それは申し訳ないことをしました」
「いや、見られてしまったからには仕方がない。せっかくだし、お前たちにも見届けてほしい」
首領の言うことはよくわからないが、ともかく一緒に見ればいいらしい。横を歩く妻に視線をやると、頷き返してくれた。どうやら彼女は見届けるらしい。なら、私も見届けなくては。
首領のあとを歩いていくと、やがて光の根元が近づいてきた。
近くで見てみると、光の柱に見えた物は、淡く輝きを放つ梯子だった。屋根に上る時に使うような梯子が、支えもなしに独立している。
その傍らには隠岐奈と呼ばれた女が立っている。
そしてその根元には、一頭のオオカミが横になっていた。眠っているようにも見えるが、どうなのだろう。
「お待たせしました」
「お、ようやくか。じゃあ始めるぞ」
オオカミと梯子を囲む侍たちを見渡した後、私たち夫婦に目を向ける。始めるというが、いったい何が始まるのか。
侍たちを見てみると、誰もが神妙そうな顔でオオカミを見つめている。少なくとも、オオカミが鍵なのは間違いない。
その時、なにか細いものが風を切る音が聞こえた。遅れて、視界の隅で何かが飛び散る。
隠岐奈が、オオカミに刀を突き立てていた。あの音は、腹を引き裂いた一振り。次いで視界に映ったものは、振り払われた肉片。しかし、隠岐奈は腕を止めない。返す刀を腸奥深くに突き刺すと、その臓物を引き摺り出す。風を切る音。次いで、飛び散るもの。
湿っぽい音。何かが草の上に落ちる音。それらが、夜の森に響き渡る。
妻に目をやると、彼女は目を見開き、目の前で繰り広げられる惨状を凝視していた。
そうこうしているうちに、オオカミの解体は進んでいく。妻から始まり、首領、そして侍たちの顔を順に見終えたとき、すでにオオカミは骨と皮だけになっていた。
素人目に見ても、良い手際だった。
隠岐奈と呼ばれた女が、唐突にこちらを振り向き、梯子を指さす。
「成功したぞ。ほら、空を見てみろ」
顔を上げると、淡く金色に輝くオオカミが、梯子を登っていた。いや、上昇していた。
梯子の周りをクルクルと旋回しながら、段々と上昇していく。誰かの嗚咽が聞こえる。
「ここからが本番だぞ」
ニヤリと笑う隠岐奈。
梯子を登るオオカミは、どこを目指しているのだろう。ふと、疑問に思う。空高く伸びる梯子、それを目で辿っていく。
「北極星に導かれているんだな」
そう呟いた誰かの声が、男の耳に届いた。
キラキラと揺れる星々。町では見られない、古代の空がそこに広がっている。梯子の先に輝くは、人を導く北の星。
その時、北極星の横に浮かぶ柄杓が、一際強く瞬いた。
「この光景をよく覚えておけ」
北斗七星から北極星へ、光が伸びて行く。石の上に、石灰で線を引くように、夜空に星の光が描かれる。その光が北極星に接すると、また別の光が柄杓から現れ、今度は円を描くように伸びて行く。
やがて光が動きを止めたとき、夜空には大きな円が生まれていた。北極星を軸に、ちょうど北斗七星をぐるりと一周させたような、ちょうど良い大きさの円。
そして、隠岐奈がこちらを振り返る。
天まで届く光の梯子、その朧な光を背にして。
言葉を紡ぐ。
その身に背負う輝きを、より一層増しながら。
「見よ、聞け、語れ」
その言葉を切掛けに、夜空の真円が光を放ち始める。
「真なる秘神、その秘術をしかと見よ」
星の瞬き。規則正しいそのリズムが、徐々に乱れ始める。夜空そのものが、ズレ始める。
「これぞ奇跡、”天神”の業にひれ伏せよ!」
星々が煌々と灯る天球。その天頂が、軽やかに捲れ上がる。風に吹かれた布のように、柔らかく浮かび上がる。
その隙間から、もうひとつの夜空が顔を見せた。そこには、こちらと同じような森があり、祠があり、村がある。
捲られた、神秘のベール。
その、隙間から覗く異界の中で、ひときわ目を引く建物。神社と思しき建物目指して、オオカミが走り出す。空に昇る梯子から飛びあがり、ぽっかりと空いたその穴へ、天蓋のその先へと駆けだす。
みるみるうちに速度を上げて、オオカミは夜を疾ける。
もう、姿は見えない。しかし、その黄金の光だけは見える。
彗星のように。流星のように。オオカミは、天球を翔けていった。
垣間見えた、もうひとつの世界に向けて。
その様子は男にとってあまりに神々しく、ただただ見とれるしかなかった。それは彼の妻も同じだろう。もちろん、侍たちも、侍たちの首領も同じだ。ただひとり、隠岐奈を除いて。
「おーい、いつまで呆けてるんだ」
その気怠そうな声に我に返ると、空はもういつも通りの顔をしていた。円は消え、星の輝きも普段と変わらない。もちろん、あの異界も存在しない。
「これでおしまいだ、おつかれさん。私は先に帰るぞ」
言うと、女は森の中へと歩いて行ってしまった。侍たちの返事も待たずに。その後ろ姿を、侍たちはぼーっと見ている。夫婦も同じように、ぼーっと眺めていた。
「あの、もう帰っていいでしょうか?」
次に口を開いたのは妻だった。
「あ、ああ……」
次に話したのは首領だった。
「もう大丈夫だ。しかし、このことは他言するなよ」
「当然です。こんなこと、村のみんなにどう説明すればいいか」
説明できたところで、誰も信じてはくれないだろう。突飛が過ぎる話だから。
「では、お先に失礼します。ほら、行くぞ」
頭を下げ、妻の手を引く。その手はとても冷たく、妻の受けた衝撃具合が伝わってきた。
「我々も帰ろうか」
「そうですね。それにもう朝です。我々の時間はおしまいですよ」
「それもそうだな。ここからは人間の時間だ」
背後から侍たちの声が聞こえてくる。我々夫婦も疲れているが、彼らはもっと疲労困憊だろう。あの様子だと、日が暮れる前から作業していそうだ。ゆっくり休んでほしい。
「ところで将門様、なぜあの者たちは斬らなかったのですか?」
侍たちの会話が聞こえる。
それにしても、"将門様"とは。祠の主の名を騙るなんて、随分と罰当たりな者たちだ。
「あの者たちは毎日祠を拝みに来るだろう。だから見逃したのだ」
あれ、と思った。そういえば、あの女から私たちを庇ってくれた時も、祠だとか信徒だとか話していたような。傍らを歩く妻に声をかける。
「おい、今の会話は聞いたか?」
「え?なんのことですか?」
「何を言っているんだ、お侍さんたちだよ。ほら、さっきの」
ふり返りながら、侍たちを指さす。
しかし、そこに侍たちの姿はなかった。祠代わりの七つの石があるだけで、人が居た気配もない。そこにはただ、今や二人にしか拝まれることのない、神さびた神域があるだけだった。
その背には、風呂敷に包まれた何かが見える。今日は市が開かれる日だ。きっと町で品物を売りさばいてきたのだろう。
「あれ、あんた。向こうの空が明るいよ」
今来た道を指さしながら、不意に女が声を上げた。
「なんだどうした」
伴侶の驚いた声に、思わず男も後ろを振り返る。
二人の視界の先。そこには、一条の光の柱があった。町と違い、こんな山奥に明かりはない。それにも拘わらず、生い茂る木々の隙間から天に向かって、ぼんやりと輝く光が立ち上っている。
「待て、あそこは祠の近くじゃないか?」
男の脳裏によぎる、七つ石の祠。
「こりゃいかん。おい、行くぞ!」
言うや否や、男は走り出す。不安そうな妻の手を引きながら、夜の山道を駆けだす。
光の根元に向かい走る事、数分。辺りが昼間のように明るくなってきた。きっとこの藪の先から、あの光は伸びているのだろう。そう確信を持ち、夫婦は草むらを覗き込む。
「はやくしろよー」
「もう少し。もう少しだけお待ちを」
そこには、四人の男と一人の女が居た。よくわからないが、傍目には女が我儘を言っているように見える。そして何よりも、男たちは腰に刀を帯びていた。
維新が為されて三十年、この明治の世において、未だに刀を持ち歩く者が居るとは。そして、そんな男たちと言い合いを続ける女も、橙の狩衣を着こんでいる。
どこからどう見ても、彼らは只者では無かった。
「あそこに居るやつらは明らかに普通じゃない。戻るぞ」
同じく覗き込む妻に向けて、そう呟いたその時だった。
「おい貴様ら、そこで何をしている!」
背後からの一喝。もんどり打ちながら後ろを見ると、そこには三人の男が立っていた。当然、光の根元で言い合う男たちの仲間だろう。向けられた抜け身の刃に、背後の光が反射する。
「わ、私たちは通りすがりの者です!どうか命だけはお助けください!」
「炭売りの帰り道、たまたま見かけた者です!この通り、僅かながら売り上げもございます、どうか命だけはご勘弁を!」
かつて、村に押し入ってきた侍たち。彼らに石を投げつけた村人は、即座にその身を切り払われた。
翻って今はどうだろう。あの時とは違い、今や侍の身分は公的なものでない。それにも関わらず刀を持ち歩くような人間に、果たして言葉が通じるだろうか。ましてやこんな山奥である。私の運命もここまでかもしれない。
そう男が覚悟を決め、妻の手を固く握りしめたとき。
「おいどうした!何があった!」
またしても、背後から男の声。恐る恐る振り向くと、やはりそこには四人の男が。
「……見たのか?」
夫婦をにらみつける男たち。その中でも、一際立派な服装をした男に、そう問われる。
言葉を返そうとするも、声が出ない。それは隣にいる妻も同じようで、小刻みに震える手からは、彼女が自身と同じ気持ちでいることが伝わってくる。
せめて、目を合わせよう。
なけなしの勇気を振り絞り、首領と思われる男の目を見つめる。殺意の籠ったその瞳は、見つめるだけで心臓が破裂しそうになる。
「な、お前たちは……」
しかし、目を合わせた瞬間、首領はなぜか狼狽えた。どうしたのだろうか。もしかして、話が通じる相手なのだろうか。
男が僅かな期待を込めて口を開こうとしたとき、またしても声が割り込む。
「なにしてんの」
男たちの背後から覗き込む女。さっき、首領たちと言い合っていた女だ。
「あ?見られてるじゃん。だからしっかり見張ってろって言ったのに」
やれやれとため息をつきながら、首領をジロリと見つめる女。次いで、刀を抜いたままぼーっと立ち尽くす男たちに目を向け、呆れたようにつぶやく。
「しかも躊躇してるのか。仕方ないな、貸ひとつだぞ」
言うや否や、右手を振る。その手には、いつの間にか刀が握られていた。目標は、間違いなく自分たちだ。
この夜三度目の命の危機。しかし今回は逃れられそうにない。目をつぶり、母の顔を思い浮かべる。
「お待ちください隠岐奈殿!その者たちは大丈夫です!」
しかし、またしても「待った」がかかる。この夜三度目の命拾い。
「なんでだよ、そういう約束だったろ」
「その者たちは、毎日欠かさず祠に参る、数少ない信仰者です。彼ら無しに我々はここに居られません」
どうやら、侍たちの首領は私たちを庇ってくれるらしい。お侍さんにもいい人はいるんだなぁと、呑気に思う。
「この時世において、こうした信徒がいかに貴重か。隠岐奈殿、あなたはよくわかるでしょう」
「それほんとうか?……まあいいや、早く話つけてね。もう時間だから」
どうやら許してもらえたらしい。深いため息をついた後、隠岐奈と呼ばれる女は、光の根元へと戻っていった。少し遅れて侍たちも刀を収め、女の後に続く。声を上げた、首領を除いて。
「お、お侍さん、ありがとうございます。しかしこれはどういうことで?」
危機は去った。しかし、その理由がわからない。その疑問を、目の前を歩く首領に投げかけてみる。
「お前たちは、いつも七つ石の祠に訪れる夫婦か?」
こちらを見ず、言葉だけを投げ返す。
「はい。私たちは毎日拝んでおりますが」
「そうか」
再びの沈黙。この侍たちは、あの祠に関係があるのだろうか。
「突然呼び止めてすまないな。実は今、私たちに長く付き従ってくれたオオカミを送っていたんだ」
また、首領が口を開く。
「隠岐奈殿は、その送りに関わる呪術者でな。その様子は門外不出らしく、依頼者以外に見られたくないそうなんだ」
「そ、そうでしたか。それは申し訳ないことをしました」
「いや、見られてしまったからには仕方がない。せっかくだし、お前たちにも見届けてほしい」
首領の言うことはよくわからないが、ともかく一緒に見ればいいらしい。横を歩く妻に視線をやると、頷き返してくれた。どうやら彼女は見届けるらしい。なら、私も見届けなくては。
首領のあとを歩いていくと、やがて光の根元が近づいてきた。
近くで見てみると、光の柱に見えた物は、淡く輝きを放つ梯子だった。屋根に上る時に使うような梯子が、支えもなしに独立している。
その傍らには隠岐奈と呼ばれた女が立っている。
そしてその根元には、一頭のオオカミが横になっていた。眠っているようにも見えるが、どうなのだろう。
「お待たせしました」
「お、ようやくか。じゃあ始めるぞ」
オオカミと梯子を囲む侍たちを見渡した後、私たち夫婦に目を向ける。始めるというが、いったい何が始まるのか。
侍たちを見てみると、誰もが神妙そうな顔でオオカミを見つめている。少なくとも、オオカミが鍵なのは間違いない。
その時、なにか細いものが風を切る音が聞こえた。遅れて、視界の隅で何かが飛び散る。
隠岐奈が、オオカミに刀を突き立てていた。あの音は、腹を引き裂いた一振り。次いで視界に映ったものは、振り払われた肉片。しかし、隠岐奈は腕を止めない。返す刀を腸奥深くに突き刺すと、その臓物を引き摺り出す。風を切る音。次いで、飛び散るもの。
湿っぽい音。何かが草の上に落ちる音。それらが、夜の森に響き渡る。
妻に目をやると、彼女は目を見開き、目の前で繰り広げられる惨状を凝視していた。
そうこうしているうちに、オオカミの解体は進んでいく。妻から始まり、首領、そして侍たちの顔を順に見終えたとき、すでにオオカミは骨と皮だけになっていた。
素人目に見ても、良い手際だった。
隠岐奈と呼ばれた女が、唐突にこちらを振り向き、梯子を指さす。
「成功したぞ。ほら、空を見てみろ」
顔を上げると、淡く金色に輝くオオカミが、梯子を登っていた。いや、上昇していた。
梯子の周りをクルクルと旋回しながら、段々と上昇していく。誰かの嗚咽が聞こえる。
「ここからが本番だぞ」
ニヤリと笑う隠岐奈。
梯子を登るオオカミは、どこを目指しているのだろう。ふと、疑問に思う。空高く伸びる梯子、それを目で辿っていく。
「北極星に導かれているんだな」
そう呟いた誰かの声が、男の耳に届いた。
キラキラと揺れる星々。町では見られない、古代の空がそこに広がっている。梯子の先に輝くは、人を導く北の星。
その時、北極星の横に浮かぶ柄杓が、一際強く瞬いた。
「この光景をよく覚えておけ」
北斗七星から北極星へ、光が伸びて行く。石の上に、石灰で線を引くように、夜空に星の光が描かれる。その光が北極星に接すると、また別の光が柄杓から現れ、今度は円を描くように伸びて行く。
やがて光が動きを止めたとき、夜空には大きな円が生まれていた。北極星を軸に、ちょうど北斗七星をぐるりと一周させたような、ちょうど良い大きさの円。
そして、隠岐奈がこちらを振り返る。
天まで届く光の梯子、その朧な光を背にして。
言葉を紡ぐ。
その身に背負う輝きを、より一層増しながら。
「見よ、聞け、語れ」
その言葉を切掛けに、夜空の真円が光を放ち始める。
「真なる秘神、その秘術をしかと見よ」
星の瞬き。規則正しいそのリズムが、徐々に乱れ始める。夜空そのものが、ズレ始める。
「これぞ奇跡、”天神”の業にひれ伏せよ!」
星々が煌々と灯る天球。その天頂が、軽やかに捲れ上がる。風に吹かれた布のように、柔らかく浮かび上がる。
その隙間から、もうひとつの夜空が顔を見せた。そこには、こちらと同じような森があり、祠があり、村がある。
捲られた、神秘のベール。
その、隙間から覗く異界の中で、ひときわ目を引く建物。神社と思しき建物目指して、オオカミが走り出す。空に昇る梯子から飛びあがり、ぽっかりと空いたその穴へ、天蓋のその先へと駆けだす。
みるみるうちに速度を上げて、オオカミは夜を疾ける。
もう、姿は見えない。しかし、その黄金の光だけは見える。
彗星のように。流星のように。オオカミは、天球を翔けていった。
垣間見えた、もうひとつの世界に向けて。
その様子は男にとってあまりに神々しく、ただただ見とれるしかなかった。それは彼の妻も同じだろう。もちろん、侍たちも、侍たちの首領も同じだ。ただひとり、隠岐奈を除いて。
「おーい、いつまで呆けてるんだ」
その気怠そうな声に我に返ると、空はもういつも通りの顔をしていた。円は消え、星の輝きも普段と変わらない。もちろん、あの異界も存在しない。
「これでおしまいだ、おつかれさん。私は先に帰るぞ」
言うと、女は森の中へと歩いて行ってしまった。侍たちの返事も待たずに。その後ろ姿を、侍たちはぼーっと見ている。夫婦も同じように、ぼーっと眺めていた。
「あの、もう帰っていいでしょうか?」
次に口を開いたのは妻だった。
「あ、ああ……」
次に話したのは首領だった。
「もう大丈夫だ。しかし、このことは他言するなよ」
「当然です。こんなこと、村のみんなにどう説明すればいいか」
説明できたところで、誰も信じてはくれないだろう。突飛が過ぎる話だから。
「では、お先に失礼します。ほら、行くぞ」
頭を下げ、妻の手を引く。その手はとても冷たく、妻の受けた衝撃具合が伝わってきた。
「我々も帰ろうか」
「そうですね。それにもう朝です。我々の時間はおしまいですよ」
「それもそうだな。ここからは人間の時間だ」
背後から侍たちの声が聞こえてくる。我々夫婦も疲れているが、彼らはもっと疲労困憊だろう。あの様子だと、日が暮れる前から作業していそうだ。ゆっくり休んでほしい。
「ところで将門様、なぜあの者たちは斬らなかったのですか?」
侍たちの会話が聞こえる。
それにしても、"将門様"とは。祠の主の名を騙るなんて、随分と罰当たりな者たちだ。
「あの者たちは毎日祠を拝みに来るだろう。だから見逃したのだ」
あれ、と思った。そういえば、あの女から私たちを庇ってくれた時も、祠だとか信徒だとか話していたような。傍らを歩く妻に声をかける。
「おい、今の会話は聞いたか?」
「え?なんのことですか?」
「何を言っているんだ、お侍さんたちだよ。ほら、さっきの」
ふり返りながら、侍たちを指さす。
しかし、そこに侍たちの姿はなかった。祠代わりの七つの石があるだけで、人が居た気配もない。そこにはただ、今や二人にしか拝まれることのない、神さびた神域があるだけだった。