探る手が、少女の顔面をむんずと掴んだ。
が、その指先は熱いものを捉えたように、はっと引っ込められて、詫びの言葉もなく、傍らを這いずり回る気配のまま遠のいていった。あいつは手洗いにでも行ったのかな、とその消息に見当をつけながら、少女は顔の上に置いていた濡れ手ぬぐい越しに、やんわりと目頭を揉んだ。まぶたの裏では今でも超新星爆発が続いている。
失明は、いつもの弾幕遊びが原因だったように思われる。しかし、どこで、なぜ事故が起きたのか、ひどく曖昧だ。劇的な状況はなかった。彼女たちはいつものように舞い上がって、相手に覆いかぶさったり、その責めをくぐり抜け、身をよじり、反らし、時には色っぽくくねらせ、たまには声が出なくなるほどに喘がされて、ひと勝負した後にはこころよい気だるさに浸ったりしていた。
そうして地上に戻ると、下がりかけの太陽がいやに眩しいなと思った。
「ぐるぐる飛び回りすぎたわ」
「はしゃぎすぎたかもね」彼女の友人は応えた。「目がちかちかする」
そこでなにかがおかしいと感じ始めた。酔ったようなめまいが一歩ごとにひどくなり、空中では感じられていた高揚も失われつつあった。地上の重力に縛られる感覚は、彼女たちの不安をより一層重いものにしていく。足指の先を意識して、立ち続け歩き続けること、そしてなんとか神社の参道を渡りきって、屋根の下にたどり着く事だけが人生の目標になった。
歩みへの注力のために、二人の会話はおぼつかなくなった――もっともお互い、心身の不調を気取られたくないばかりに、なにか意味のないやり取りだけは続けていた気がする。
「ねえ、あちらの雲は、らくだの形をしている」
「そう、らくだね」
「……まあ私にはいたちに見えるけど」
「確かに背中のあたりがいたちね……」
「はたまた、くじらではないか?」
「おお。くじらそっくりで」
そんな調子のいい事を言い合ってはいたが、彼女たちの視線は地を這ってうつむいたままだった。だらりと首を垂れ、青空から逃げるように目を逸らしていた。すでに視覚の異常は明らかすぎるほどに明らかで、異様な眩しさは瞳に突き刺さり、とげのように痛み始めていた。この明るさはどう考えてもおかしい。顔を上げてしまえば、頭上で膨れ上がっている、デブでよろよろの太陽と目を合わせてしまうような気がして、こそこそと隠れるように歩いた――だが、おかしくなっているのは世界ではなく自分たちに決まっているという、皮肉っぽい自覚さえもある。
頼りない歩みで棲み処までたどり着くと、そこで気が抜けてぐずぐず絡み合うように倒れそうになり、ようやく縁側に這い上がった。
「ごめん、吐いちゃうかも」
「こっちも介抱できないよ」
そう言葉を交わしながら縁に突っ伏したが、そのとき突き合せた友人の顔――インク壺の底のように真っ黒な相手の瞳が、彼女たちにとって最後に見えた世界だった。
それから吐き気をやり過ごす時間がしばらく続いたが、それがどれほどの長さだったか定かでない。数分ほどで再び動く気力を取り戻したのかもしれないし、あるいは日が暮れてしまうまでそのままだったかもしれない。肌で感じる空気はなんとなく夜の雰囲気を予感したが、それを確かめる事はもはやかなわなかった。二人は視力を失っていた。
「……ねえ、いる?」
一言発するだけで、喉がか細くわななく。
応えはすぐに返ってきた。
「ここにいる」
「今、ちょっと目がおかしくなったみたいで……」と彼女は現状を説明した。「弾幕の光かなにかで眩んじゃって、見えなくなってるみたい」
「私も」
状況の説明はこれだけで終わってしまう。それでも、友人がすぐそばにうずくまっているのは、なんとなくの気配で察せられた。盲いてしまった今では、彼女はわずかな体温と少女っぽい体臭だけの存在にすぎないが、そろりと手を伸ばすと、確かに実体があった。
「……なに?」
「いや、そこにいるんだなあ、って」
「いるよ」
手が触れ返してきて、そのまま伸びあがった猿臂に肋骨をなぞられ、くすぐったさに笑ってしまった。
「やめて」
「やめない」
そうしてじゃれあっているうちに、思ったよりひどい状況ではないかもしれないという変な確信が、二人の間に芽生えてきていた。確かに間違いではない。これ以上にひどい夜もかつてはあった――いつだったか酒の席のいたずらでシアナマイドを盛られて、一晩中悪酔いに悩まされた時とか。
目が見えないくらいはたいした問題ではなかった。
「とりあえずもう遅いみたいだし、お医者さんにかかるのは明日にしよう」
相手の鎖骨をなぞりながら言い、身じろぎをすると、節々が軋ってぼきぼきと音を立てる。冷たい板敷きに突っ伏していたせいだ。
「起きられる?」
「うん。ちょっとふらふらするけれど」
意識をしっかり持ちさえすれば、常日頃から神社の勝手を知っている彼女たちにとって、布団がしまわれている押入れを探り当てることは難しくはなかった。そうして引きずり出した二人分の布団を、目が見えなくても畳の上を這いまわって敷く。
「……これで大人しく朝まで寝ちまえば、目が明いていようが暗かろうが一緒よ」
乱暴な理屈だったが、そのときは大層な理論に思えた。二人はそのまま別々の寝床に潜り込もうとして、ふと動きを止める。
「……寝る前に、お手洗いに行かなくて大丈夫?」
「おっと」
手洗いにはなにかと苦労したが、細心の注意さえ払えば問題はなかった――むしろ宴会などで泥酔しているときよりも慎重な行いをしているぶん、安全だった気さえする。
「……あれ? どこ?」
便所から這い出てきた彼女は、友人が別のどこかに行ってしまっていることに気がついた。
「ちょっと待って」
声は、廊下を二度ほど曲がったところから返ってきている。それがやがて、壁伝いにいざり寄ってくる音に代わって、戻ってきた。
「寝酒でも飲もうと思って」
「目が見えなくなっても飲むのは中々の執着だと思うな」
二人は互いに支え合って、探り探り寝所に戻りながら言い合った。
「こういう時くらい飲むのやめなよ」
「こういう時だからこそ飲むものじゃない?」
「危ないと思うんだけど……」
「でもそれって、酔っているから危ないのか、目が見えないから危ないのか、どっちさ。それで怪我をしても、きっと一度だけだし。……二つの問題があるのに、それで負った傷が一つだけというのは、なんとなく得な気がする」
などと無茶苦茶な主張をする相手の口からは酒臭さが漂っていた。
「余計に危ないだけだと思うよ」
それから寝床に戻っても、なかなか寝付けず、寝返りばかりしている。かといってまったく眠気が無かったわけではない。むしろ心身は気だるい疲れを感じていて、緩慢だが確実に睡眠へと引きずり込もうとしている。
だが眠りに落ちようとする瞬間に、光が脳を責め苛んだ。最初は目を瞑った闇の中に、仄かな陰影が寄せては返して、その動きの中で広がり続ける波だった。そのかすかなうねりを構成しているのは、細かな光の粒のゆらぎだ。……きっとそれは、目が見えていた頃の感覚の残像に過ぎなかったのだろう。しかし四方一由旬の城内に敷き詰められていたそれらの芥子粒は、やがてまぶたの裏にぶちまけられて、結晶のように輝きながら生き物のように身をくねらせた。目のくらむ幾何学、素晴らしいフラクタル、賞賛の方法を失ってしまうくらいの華麗な曲線を描いて、官能的な拡散と収縮を繰り返し、彼女の脳を責め苛み痛めつけた。
そんな煌びやかな粒子の痙攣を眼球の中で掻き回されていると、考えが自然と昼間の弾幕ごっこの事へと向かった。目の前に広がるこの光の粒は、彼女たちがいつも対峙していたものとそっくりだったからだ。といっても、考えは疲れきった脳で繰り広げられる、ぼんやりと理屈に合わない思考にすぎず、そこで少女が達成した幾つかの(おそらく間違っている)発見を並べてみるだけでも、その混乱がわかるというものだ。
・弾幕は現象ではなく記号だ。
・弾幕は物理法則に縛られない。むしろ物理法則が弾幕に合わせる。
・しかし弾幕に見出せる全ての表象を否定しなければならない事も時にはあるだろう。
・だが、その否定はあくまで仮初めのもので、本来弾幕には様々な示唆、様々なフェティッシュを言寄せることが許されている。たとえそれが相反するものであっても、まったく同量の擁護が可能である。
・弾幕は拡散するより、集束していくときの方が美しい。
・同時に拡散するときの方が同じくらい美しくても、別に良い。
・見せかけの複雑さは、見かけだけの単純な指示になりがちだ。弾幕は複雑で良いし、そこに正答があっても良いが、単純な指示になるのだけはあまり良くない。
・弾幕は俳諧のようなもの。
・両眼という水平に並んだ感覚器官が誘引する連続性を振り切り、しかも重力に逆らわない。そんな垂直に降る小雨のような弾幕こそが、最も純粋で、粋な弾幕である。
・弾幕は音楽である。シェリングが言うように建築が空間の音楽、もしくは凝結した音楽だとするならば、そんな結晶である構造物を、もはや建築としては無用になるまで削ぎ落とした骨組みが弾幕だろう。
・私は私である以前に弾幕かもしれない。
・その場合は、私は音楽でもある。
・少なくとも、こんな事で苦しんでいる自分自身より、今こうして目の前に広がっている弾幕の方が、存在としてよっぽど純粋で確かに決まっている。
・私などゆめまぼろしになってしまいたい。
等々……。
覚醒は墜落する夢のように(もしくは弾幕決闘の被弾の時のように)唐突だった。隣に臥せっていた友人が、彼女の顔をむんずと掴んで起こしてしまったのがその時だ。その事故は、しょうがない。びっくりはしたが嫌な気分にはならなかった。むしろ魘されているのを救われた気さえする。
ぼんやりそのまま、どこかへと這って行った相手の帰還を待ってみたが、彼女はなかなか戻ってくる様子がない。
何かあったのかもしれないと、よろよろと壁伝いに立ち上がって歩き始める。廊下に出て柱に寄りかかりながら奥に声をかけたとき、足先がなにかぬるりとしたものを捉えた。なんだろうと訝しんでいると、声が返ってきて注意が反らされる。
「こっちこっち」
どうやら寝られずにまた酒を飲んでいるようだ――と呆れながら一歩踏み出すと、鋭い痛みが足の裏を貫いた。思わず悲鳴を上げ、反射的に足を引っ込めた時に平衡を崩した。転倒の瞬間に器用に身をよじって、どうにか頭だけは打たずに済んだが、障子をぶち抜いてしまった。
「どうしたの……」
こちらの騒ぎを聞きつけて心配そうに尋ねる声がしたが、それはさらに大きい崩落に上書きされた。きっと戸棚かなにかをひっくり返した音だ。
だから言わんこっちゃない……と思いながら慎重に身を起こして、足に感じた痛みを慎重に確認してみると、何かの拍子に屋内に上がってきていた、ただの砂利ひとつだった。それではなぜ床が濡れているのだろうと、手を伸ばし、指先についた液体の匂いを、ほんの僅か嗅いでみる。
「大丈夫? こっちも凄い音立てちゃったけど……」
そんな事をぼやきながら、友人が向こう側から這い戻ってくる。
「……そこに鼠のおしっこあるから気をつけて」
「えっ」
酔っ払った相手は大げさに避けたようで、襖が張り倒される音がした。
一連の騒動の被害はその全貌が(文字通り)まったく見えなかったが、互いに勝手をして場を荒らしてはいけないという事だけは、二人の間で取り決めがなされた。彼女たちは寝所に籠もり、これだけはと引きずってきた酒樽を抱きかかえて、夜を過ごすことに決めた。
「どうしてこんな事になったんだろう……」
とぶつくさぼやきながら酒を口に運ぶ。柄杓から掬って直に口に運ぶ飲み方は行儀が悪かったが、この際仕方がない。
「本当に。なんで目がこんなになっちゃったのか」
相手は深く考え込むふりをしながら、友人の片方の手の場所を探り当てると、強く握った。
「……なに?」
「いや、そこにいるんだ、って」
「いるよ」
と返ってきた相手の笑い声が、思ったより耳元に近かった。見えはしなかったが、その酒臭い息が風となって匂いとなって感じられた。
「ここにいるって」
「いる」
居る。
「……ま、医者なんかでもないのにあれこれ考えてもしょうがないし、養生するのが一番でしょ」
「どうせ弾幕遊びで目がくらんだとか、そんなもんだろうしね」
などと言いつつ、どんどんと酒を口に運んでいった。かなりの分量が口の端からつたい落ちたが、構わなかった。それにしても目が見えないとかえって気が大きくなってくる部分もあるようで、相変わらず手は重ねられていて、まさぐり合うように指が動いている。
「まだそこにいる?」
「いる」
「本当に?」
「しつこい」
「でも重要な事かもしれない。だって見えないんだもの。そこにいるそれが、ふっと消えていなくなる可能性だって、無くはない」
「恐ろしい事を……」言うものね、と続けかけて、ふと、嫌な予感を覚えた。「……重要、重要か……じゃあ聞くけれど、ここはどこ?」
「博麗神社」
「そうではないかもしれない」
ふと、そんな事を言ったとたん、周囲の音がしんと静かになった。しかし外の虫の音はすぐに戻ってきたので、不穏な予感は気のせいに過ぎないのかもしれない。
「……だって見えていないんだからさ。わかんないじゃん」
「そんなの見えていたって信頼ならないよ」
「そんな狐狸に化かされているような話、あっていいのかな」
考え深げに呟いてみたが、確証が持てなくなってきた。
光を失ったはずの目に、ふたたび奇妙なパターンが漂い始めた。
「……それじゃあさ」
相手が、探るように口を開いた。繋がれていた手は既に引っ込められている。
「あんた誰なの?」
ひとしきり殴り合ったあとで後ずさると、二人はそれぞれ部屋の隅に陣取った。その過程で、どちらかが箪笥かなにかに強く背中をぶつけて、その上にあったものを倒した。相手の方も、壁伝いに距離を取る様子が、気配となって伝わる。
「……あんた、誰なのよ!」
「私は霧雨魔理沙だ!」怒鳴った後で尋ね返す。「そういうお前は?」
「……博麗霊夢!」
「信じられないな!」
「私はあんたが信じられないわ!」
お互いに名乗り上げてみたが、信頼関係は結ばれなかった。むしろ名乗らなかった方がもうちょっとましな関係になれたかもしれない。
「……きっと、こんなふうに目が見えなくなったのもお前のせいだ」
どちらかが言った。
「それは私も考えたけど」だが、その発想が間違っていることも知っている。「……なにか互いに、私が私であるという証しを立てられる事があればいいんだけれど」
だが、その妙案が思いつかない――いや。一つだけ、真っ先に思いつく方法はあったが、それはあまりに乱暴すぎるやり方だった。
「それ自体は簡単よ」相手は、多少は頭が冷えた様子で、きっぱり言った。「弾幕ごっこをやるしかない」
……まったく同じことを考えていたとはいえ、相手の頭は全然冷えてない気がしてきた。
「目も見えないのに?」
「なにも問題はない。そっちのパターンは全部覚えてる。それに目以外はぴんしゃんしているわけだし、もっとひどい状況でやる羽目になった事もある。あんたが本当にあんたなら、私は間違いなくあんたの弾幕を避けて、私が私である事の証しを立てられる」
「避けられる事にはなんの疑問もないけれど」なんて言葉を返してしまいながら、背中につけている壁をばんばんと叩いた。音が鳴るのを聞いて、ふと相手に位置を把握される恐れに思い至った。「……こんな建物の中でやるの?」いくらなんでもむちゃくちゃが過ぎる行為だった。そんな事をしてしまえばなにもかもが砕けて、壊れて、はっきりとしないものになってしまう――目が見えない現状ではどうだっていいのだが。
「私の見立てでは」相手は冷静な口調できっぱりと答えた。「ここは博麗神社ではない」
それは冷静な口調だが、てんで狂っていた。返す言葉もなく、無言のまま、部屋の中を壁伝いにじりじりと動いた。なんとしてでも、相手に対して有利な位置につきたかった。ついでに歩幅で部屋の広さを測り、伝う指先で立てついている襖の表装を撫ぜてみるのだが、それは紛れもなく博麗神社の寝所そのものだ――と思ったが、それが唐突に虚空に途切れた。ぎくりとした指先が、なにもない場所を探ったが、きっと、さっきの乱闘の拍子にどちらかが襖を蹴倒してしまっただけの事に決まっている。その背後で声が続く。
「いずれにせよ、ここが博麗神社だという証しはない。証しの立て方も知らない。私たちは相争うしかない」
「……でも、それを認め合う事くらいはできるかも」
「ふん、どうやって?」
と言う声が、急に首筋にのしかかった。彼女はびっくりしてバランスを崩し、暗闇に身を投げ出してしまった。
背中に誰かが覆いかぶさってくる。しばらく柔らかい暗闘が繰り広げられて、どちらかの背中の下で、何か割れ物が――さっき箪笥から転がり落ちたものだろうか――砕けた。その挙げ句にお互い抱き合う形になって、ようやく落ち着く。ちょっとした沈黙の後、相手の手が胸元を優しく撫でた。
「……簡単でしょ。自分が何者であるかを表明して、相手が何者であるかを受け入れる事ができればそれでいい」
沈黙。
「どう? 悪い提案ではないと思うんだけど」
「……それが信じられないと言ったら?」
「今までが信じられていたと思ってるの? 単に諦めていただけよ」
沈黙。
「こんな状況じゃ、そもそも自分自身だって怪しいものだし。まったく……」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
「……あなたは、誰?」
ようやくどちらかが口を開いて尋ねたので、ようやくどちらかもう一方が答えた。
「……たぶん、博麗霊夢」根負けしたような声が、喉から出る。
「あ、そう。私は霧雨魔理沙だ」と、ふてくされたように言い返した。
「今のところはそういう事でいい」
「じゃあ、ここは博麗神社って事にしておこうかな?」
「そうじゃなかった場合となにも違わないならね」
そのまま二人は重なり合ってじっとしていた。
「もしあんたが仮に妖怪かなにかだったとしても」
霊夢は手に手を取って握りしめながら言った。
「明日の朝、日が昇るまでこうしてやる。絶対に逃がさないわ」
「それはこっちも同じよ」魔理沙は言い返しながら、相手に脚を絡めようとして、耳を齧られた。
「調子に乗るな」
「ひどくない?」
「魔理沙の名を騙るバケモノめ」
「ひどくない?」
と、霧雨魔理沙の名を騙るバケモノは博麗霊夢の名を騙るバケモノに対して呆れかえったが、同時にそれは霧雨魔理沙と博麗霊夢でもあり得たので、笑って許すことにした。
「……私たち、二人で何やってるんだかね」
「本当に二人かな」
霊夢は魔理沙のぼやきに付き合って、ついおかしな事を言ってみてしまった。
「気配は無いけれど、もしかしたらこの私たちのぶざまな姿を、面白がって眺めている輩なんかがいるかもしれないわ」
と言って気まぐれに何かを放り投げたらしく、部屋の向こうで何かが割れる音がする。よりいっそう屋内を破壊してしまったわけだが、もう気にしなかった。
「趣味の悪い奴よ。……居るのか知らないけど」
「気にすんなって」と魔理沙は言ったが、やがてふと、ぽつりと言い添えた。「……ただ、私たち以外がこの場にいる可能性があるなら、私たちだってもっとたくさんいる可能性があるな」
「増えるの?」
「増えるさ。人間には、基本的に目が二つある。だから一人の人間が見たものは、二つの目によって二つの存在に分裂する。……だからお互いの瞳が見つめ合ったら厄介だ。ただでさえ合わせ鏡になるところがその二倍になって、無限の更に二倍に増殖しうる」
「面白い」
「私が言うから面白いで済んでるんだよ。霖之助に論じさせてみろ、あいつきっと人類に目玉が二つある事を話の枕にして、持明院統と大覚寺統が両統迭立した真の理由とか、原初の人類はみな単眼だったかもしれないって話するぜ……」
「そいつは穏やかじゃないわ」
一度、二人は黙り込んだ。
「……ま、目が見えないんだから確かめようがないわね……でも私たちが無限に増えるっていうのはいいわ。大量の私たちが博麗神社にぎゅうぎゅうに詰め込まれている可能性もあるわけか」
「博麗神社じゃないところにずらりと並べられているのかも。大量に。二人一組のセットで」
「想像できないわ」
「値札もついてる」
「想像させないで」
「でも想像できただろ」
「いやな気分になったけどね」
「私もだ」
「……あ、そういえばさ」
急にどちらかが言った。
「うん」
「さっきの話だけど」
「いつ頃のさっきだろう……」
「目が見えなくても、私の弾幕なら絶対に避けられるって話……」
「ああ……」
「できるんだ?」
「……ふぅん、できないと思ってるんだ」
「違う。やってみたいと思っただけ」
目の見えない彼女たちにも、それでもその時だけは、相手の笑顔がわかった。だいぶ悪い笑顔だ。
「じゃあさ、やる?」
「うん。やる」
二人は縁側をぶざまに這い、ごろりと地面に転がり落ちた。
「境内まで行こう」
「歩けるかしら」
地面に転がり、途端に土っぽくなってしまった二人は、そんな事をひそひそと言い合った。肩を貸し合って立ち上がると、決闘向きの開けた場所――神社の境内に向かって、じりじりと前に進む。
「まさかお互い、自分の身の証しを立てられるのが弾幕しかなかったとはね」
「いや、それはわかっていた」
「ほんとにぃ?」
「私たちには弾幕しかないでしょ」
いいや、そんなことはない。と相手は反駁する。「だって私たちには音楽だってある!」
そんな希望に満ちた宣言を聞いて、音楽は揮発した弾幕にすぎないんだよ、などとわけのわからない反論をしかけたが、やめた。……だいたい、私たちには音楽があるっていうのもどういうことだ。自分たちはおかしくなっているのかもしれない。
歩く足元には砂利が敷き詰められていた。そういえば、神社の参道の脇にはこうして玉砂利が敷き詰められていたっけ……いや、別にそうではなかったかもしれない。ここが博麗神社だという保証は、未だにない。
「私が向こう側に立つね」
支え合っていた相手の手がするりと逃れていった。参道はきっと真っすぐ伸びているから、きっとあいつは真っすぐに道を歩いて、きっと十数歩先で立ち止まってくれるだろう、と彼女は信じた。……あいつが友人の名を騙るバケモノでない限りは。そう思いついてしまうと不安に駆られて、その背中に向かって声をかけようかとも考えた。だが、それは今までの信頼を崩壊させてしまう。出かけた声を飲み込んだ。――あの子が私の友人であると信じよう。ここが博麗神社だと信じよう。
ふと気がつくと、膝頭がぬるぬると濡れて、なにかねばっこいものが足元まで垂れていた。血だ。這いずり回っているうちにどこかで怪我をしたらしい。痛みほど真実らしいものは無いはずなのだが、それすらも曖昧だ。
翌朝、博麗神社で起きた惨状がはっきりした。しかしそれを確認したのは当事者の博麗霊夢や霧雨魔理沙ではないし、朝っぱらから幻想郷に遊びにやってきた宇佐見菫子でもない。彼女は神社の縁の下で伸びている霧雨魔理沙と、藪の中に半身突っ込んで虫の息の博麗霊夢を発見して、しかも二人の体はずたずたの血まみれなのを認めて、とにかく助けなければいけないと思った。その後の混乱の中では、神社の被害など考えもしなかった。
屋内の被害状況を最初にじっくり見聞したのは、新聞記者の射命丸文だった。彼女は惨状を子細に記録し、憶測を書き連ね、新聞記事にするときにちょっぴり被害程度を誇張し、そのうちに、その作為を自分自身まで信じるようになった。そして残された酒樽等の状況証拠から、きっと酒による大失態であろうという予測を立てて、結論にした。
二人が盲いていた時期は一晩で済んだが、その後の静養は一ヵ月に及んだ。それから彼女たちはいつも通りの日常を取り戻したが、その久々の再開の時には、ちょっと照れくさそうな微笑みを交わした。
そんな事件から一年近く経った。
「暑い」
道々を歩きながら、どちらからともなく言った。夏だったからだ。
「それに騒がしすぎる」
相手は答えた。歩いているうちに、夏祭りの人ごみに紛れ込んでしまったからだ。
それにしても、この熱っぽさはきっと暑気のせいだけではない。祭りの人々の気持ちの昂りが、熱量に置き換えられている。そんな人々が発散する興奮の間隙を、彼女たちは器用にすり抜けた。祭りの灯に引き寄せられてきた羽虫だってひょいと避けた。知り合いの人形遣いらしき人物から背中にかけられた言葉さえ、無視という形で逃れた。どうしてそんな事をしたのかといえば、よくわからない。とにかく、自分に向かってくる全てのものから、すり抜け・避け・逃れたくなっていた。
屋台列の前を通りかかったとき、的屋で小弓やコルク銃を無邪気に弄んでいる幾人かの子供たちが、一斉に彼女たちを狙った……ような気がした。実際は、誰にもそんなつもりは無かったに違いない。ただおもちゃの矢やコルク弾だけが、意思あるもののように放たれて、二人に襲いかかった。
彼女たちはそれらさえ、飛び石遊びでもするような足運びで、軽やかに避けた。……ただ、矢の一本が向かいの屋台に飛び込んでしまって、ちょっとびっくりしたような悲鳴が上がる。
的屋の主人、的当てをしていた子供ら、更にその親たちが慌てて詫びたが、その言葉は耳を通り抜けていった。
「ちょっとぉ……」
当事者の詫びが尽きて場がはけたあたりで、二人にようやく追いついた人形遣いが声をかけてきた。
「……あんたたち、どうして逃げたのよ」
「別に」霊夢は悪びれもせずに答えた。「なんとなくよ、なんとなく」
「呼んだのか? 聞こえなかったけど……」魔理沙はぬけぬけと嘘をついた。
「ちょっとうちの演し物手伝って欲しいんだけど」
「人形劇を?」
「あんたたちに劇を手伝わせるのはもううんざりだわ。……客引きと、お客さんにお菓子やお茶を振る舞うのだけ手伝って」
「まあいいけどさ」
それはそれでひどい事になった。二人は呼び込みをしながら、あることないことをぺちゃくちゃと喋りまくった。
「なんとここのお姉さんが秘密のショーを……」
「やりません!」
人形遣いが慌てて表に出てくる。
「でもきっと最後には特別のプログラムが――」
「ありません!」
人形劇が行われる小さい天幕の中は、人でいっぱいになった。客席は埋まり、その後ろの立ち見も鈴なりに。――もちろん飲食物はまたたく間にはけた。
「……じゃ、私らはもう行くから」
「しっかりお客様方へサービスしてさしあげるんだぜ」
「むちゃくちゃだわこいつら」
人形遣いはぶつくさとぼやきつつ、唐突に白昼夢を見ているような気分になった。今この瞬間の全ての営みが、ただまぼろしのような気がしてきて、ちょうど舐めているのど飴の包み紙と、そう変わらない価値のもののように思えた。――マーブル模様の包み紙が、掌の中でくしゃりと動かすたびに、奇妙なうねりを伴う……。とはいえ彼女自身はこういう幻視の発作には慣れっこだったため、気にしない事にした。この浮世は儚いかもしれないが、そこで見られるまぼろしはもっと儚い。
ただ、それでも気にかかるのは、あの少女たちの奇妙な眼差しだ。二人の瞳の奥に溜まった、インク壺の底のような闇を見ていると、ちょっとは友達付き合いを考え直すべきかもしれない、などと思わされる。
天幕を出た二人は、ぼそりと言い合う。
「……あいつ、私たちの事を、私たちじゃないものを見る目で見ていたわ」
「失礼な奴だよな……」
背後の天幕の中では、人形遣いが語り始めている。「“両親はもう眠りについていた。壁の時計がものうげに時をきざみ、”」……。
ぐくもった音となって屋外に漏れてくる口上を耳に流し込みながら、いろいろの舞台装置を、ふと思い描いた。特に、特殊な鏡の仕掛けを。たとえば巧妙な角度で設置された合わせ鏡は、ただ一個の人形が無数に増殖する可能性があると見せかけた。舞台世界は曲面鏡によって膨張したり収縮したりと、不安定なことこの上ない。天幕の梁からは鏡の破片が無数にぶら下げてあって、それに照明を当てると、観客の頭上で煌びやかな乱反射が起きて、目がくらむだろう。想像するだけで眩暈がした。
……いや、それでも目はよく見えている。見えすぎるほどによく見えている。
夜空を見上げる。星々は彼女たちに迫ってきていた。
「……行こうよ」少女は友人の手を取って言った。「きっと、見えているものばかりが見えているものではないって」
相手も頷き、手を握り返す。歩き始めた二人の影は、祭りの喧騒のどろどろとした熱気の中に混ざり、溶けるように消えてしまった。
が、その指先は熱いものを捉えたように、はっと引っ込められて、詫びの言葉もなく、傍らを這いずり回る気配のまま遠のいていった。あいつは手洗いにでも行ったのかな、とその消息に見当をつけながら、少女は顔の上に置いていた濡れ手ぬぐい越しに、やんわりと目頭を揉んだ。まぶたの裏では今でも超新星爆発が続いている。
失明は、いつもの弾幕遊びが原因だったように思われる。しかし、どこで、なぜ事故が起きたのか、ひどく曖昧だ。劇的な状況はなかった。彼女たちはいつものように舞い上がって、相手に覆いかぶさったり、その責めをくぐり抜け、身をよじり、反らし、時には色っぽくくねらせ、たまには声が出なくなるほどに喘がされて、ひと勝負した後にはこころよい気だるさに浸ったりしていた。
そうして地上に戻ると、下がりかけの太陽がいやに眩しいなと思った。
「ぐるぐる飛び回りすぎたわ」
「はしゃぎすぎたかもね」彼女の友人は応えた。「目がちかちかする」
そこでなにかがおかしいと感じ始めた。酔ったようなめまいが一歩ごとにひどくなり、空中では感じられていた高揚も失われつつあった。地上の重力に縛られる感覚は、彼女たちの不安をより一層重いものにしていく。足指の先を意識して、立ち続け歩き続けること、そしてなんとか神社の参道を渡りきって、屋根の下にたどり着く事だけが人生の目標になった。
歩みへの注力のために、二人の会話はおぼつかなくなった――もっともお互い、心身の不調を気取られたくないばかりに、なにか意味のないやり取りだけは続けていた気がする。
「ねえ、あちらの雲は、らくだの形をしている」
「そう、らくだね」
「……まあ私にはいたちに見えるけど」
「確かに背中のあたりがいたちね……」
「はたまた、くじらではないか?」
「おお。くじらそっくりで」
そんな調子のいい事を言い合ってはいたが、彼女たちの視線は地を這ってうつむいたままだった。だらりと首を垂れ、青空から逃げるように目を逸らしていた。すでに視覚の異常は明らかすぎるほどに明らかで、異様な眩しさは瞳に突き刺さり、とげのように痛み始めていた。この明るさはどう考えてもおかしい。顔を上げてしまえば、頭上で膨れ上がっている、デブでよろよろの太陽と目を合わせてしまうような気がして、こそこそと隠れるように歩いた――だが、おかしくなっているのは世界ではなく自分たちに決まっているという、皮肉っぽい自覚さえもある。
頼りない歩みで棲み処までたどり着くと、そこで気が抜けてぐずぐず絡み合うように倒れそうになり、ようやく縁側に這い上がった。
「ごめん、吐いちゃうかも」
「こっちも介抱できないよ」
そう言葉を交わしながら縁に突っ伏したが、そのとき突き合せた友人の顔――インク壺の底のように真っ黒な相手の瞳が、彼女たちにとって最後に見えた世界だった。
それから吐き気をやり過ごす時間がしばらく続いたが、それがどれほどの長さだったか定かでない。数分ほどで再び動く気力を取り戻したのかもしれないし、あるいは日が暮れてしまうまでそのままだったかもしれない。肌で感じる空気はなんとなく夜の雰囲気を予感したが、それを確かめる事はもはやかなわなかった。二人は視力を失っていた。
「……ねえ、いる?」
一言発するだけで、喉がか細くわななく。
応えはすぐに返ってきた。
「ここにいる」
「今、ちょっと目がおかしくなったみたいで……」と彼女は現状を説明した。「弾幕の光かなにかで眩んじゃって、見えなくなってるみたい」
「私も」
状況の説明はこれだけで終わってしまう。それでも、友人がすぐそばにうずくまっているのは、なんとなくの気配で察せられた。盲いてしまった今では、彼女はわずかな体温と少女っぽい体臭だけの存在にすぎないが、そろりと手を伸ばすと、確かに実体があった。
「……なに?」
「いや、そこにいるんだなあ、って」
「いるよ」
手が触れ返してきて、そのまま伸びあがった猿臂に肋骨をなぞられ、くすぐったさに笑ってしまった。
「やめて」
「やめない」
そうしてじゃれあっているうちに、思ったよりひどい状況ではないかもしれないという変な確信が、二人の間に芽生えてきていた。確かに間違いではない。これ以上にひどい夜もかつてはあった――いつだったか酒の席のいたずらでシアナマイドを盛られて、一晩中悪酔いに悩まされた時とか。
目が見えないくらいはたいした問題ではなかった。
「とりあえずもう遅いみたいだし、お医者さんにかかるのは明日にしよう」
相手の鎖骨をなぞりながら言い、身じろぎをすると、節々が軋ってぼきぼきと音を立てる。冷たい板敷きに突っ伏していたせいだ。
「起きられる?」
「うん。ちょっとふらふらするけれど」
意識をしっかり持ちさえすれば、常日頃から神社の勝手を知っている彼女たちにとって、布団がしまわれている押入れを探り当てることは難しくはなかった。そうして引きずり出した二人分の布団を、目が見えなくても畳の上を這いまわって敷く。
「……これで大人しく朝まで寝ちまえば、目が明いていようが暗かろうが一緒よ」
乱暴な理屈だったが、そのときは大層な理論に思えた。二人はそのまま別々の寝床に潜り込もうとして、ふと動きを止める。
「……寝る前に、お手洗いに行かなくて大丈夫?」
「おっと」
手洗いにはなにかと苦労したが、細心の注意さえ払えば問題はなかった――むしろ宴会などで泥酔しているときよりも慎重な行いをしているぶん、安全だった気さえする。
「……あれ? どこ?」
便所から這い出てきた彼女は、友人が別のどこかに行ってしまっていることに気がついた。
「ちょっと待って」
声は、廊下を二度ほど曲がったところから返ってきている。それがやがて、壁伝いにいざり寄ってくる音に代わって、戻ってきた。
「寝酒でも飲もうと思って」
「目が見えなくなっても飲むのは中々の執着だと思うな」
二人は互いに支え合って、探り探り寝所に戻りながら言い合った。
「こういう時くらい飲むのやめなよ」
「こういう時だからこそ飲むものじゃない?」
「危ないと思うんだけど……」
「でもそれって、酔っているから危ないのか、目が見えないから危ないのか、どっちさ。それで怪我をしても、きっと一度だけだし。……二つの問題があるのに、それで負った傷が一つだけというのは、なんとなく得な気がする」
などと無茶苦茶な主張をする相手の口からは酒臭さが漂っていた。
「余計に危ないだけだと思うよ」
それから寝床に戻っても、なかなか寝付けず、寝返りばかりしている。かといってまったく眠気が無かったわけではない。むしろ心身は気だるい疲れを感じていて、緩慢だが確実に睡眠へと引きずり込もうとしている。
だが眠りに落ちようとする瞬間に、光が脳を責め苛んだ。最初は目を瞑った闇の中に、仄かな陰影が寄せては返して、その動きの中で広がり続ける波だった。そのかすかなうねりを構成しているのは、細かな光の粒のゆらぎだ。……きっとそれは、目が見えていた頃の感覚の残像に過ぎなかったのだろう。しかし四方一由旬の城内に敷き詰められていたそれらの芥子粒は、やがてまぶたの裏にぶちまけられて、結晶のように輝きながら生き物のように身をくねらせた。目のくらむ幾何学、素晴らしいフラクタル、賞賛の方法を失ってしまうくらいの華麗な曲線を描いて、官能的な拡散と収縮を繰り返し、彼女の脳を責め苛み痛めつけた。
そんな煌びやかな粒子の痙攣を眼球の中で掻き回されていると、考えが自然と昼間の弾幕ごっこの事へと向かった。目の前に広がるこの光の粒は、彼女たちがいつも対峙していたものとそっくりだったからだ。といっても、考えは疲れきった脳で繰り広げられる、ぼんやりと理屈に合わない思考にすぎず、そこで少女が達成した幾つかの(おそらく間違っている)発見を並べてみるだけでも、その混乱がわかるというものだ。
・弾幕は現象ではなく記号だ。
・弾幕は物理法則に縛られない。むしろ物理法則が弾幕に合わせる。
・しかし弾幕に見出せる全ての表象を否定しなければならない事も時にはあるだろう。
・だが、その否定はあくまで仮初めのもので、本来弾幕には様々な示唆、様々なフェティッシュを言寄せることが許されている。たとえそれが相反するものであっても、まったく同量の擁護が可能である。
・弾幕は拡散するより、集束していくときの方が美しい。
・同時に拡散するときの方が同じくらい美しくても、別に良い。
・見せかけの複雑さは、見かけだけの単純な指示になりがちだ。弾幕は複雑で良いし、そこに正答があっても良いが、単純な指示になるのだけはあまり良くない。
・弾幕は俳諧のようなもの。
・両眼という水平に並んだ感覚器官が誘引する連続性を振り切り、しかも重力に逆らわない。そんな垂直に降る小雨のような弾幕こそが、最も純粋で、粋な弾幕である。
・弾幕は音楽である。シェリングが言うように建築が空間の音楽、もしくは凝結した音楽だとするならば、そんな結晶である構造物を、もはや建築としては無用になるまで削ぎ落とした骨組みが弾幕だろう。
・私は私である以前に弾幕かもしれない。
・その場合は、私は音楽でもある。
・少なくとも、こんな事で苦しんでいる自分自身より、今こうして目の前に広がっている弾幕の方が、存在としてよっぽど純粋で確かに決まっている。
・私などゆめまぼろしになってしまいたい。
等々……。
覚醒は墜落する夢のように(もしくは弾幕決闘の被弾の時のように)唐突だった。隣に臥せっていた友人が、彼女の顔をむんずと掴んで起こしてしまったのがその時だ。その事故は、しょうがない。びっくりはしたが嫌な気分にはならなかった。むしろ魘されているのを救われた気さえする。
ぼんやりそのまま、どこかへと這って行った相手の帰還を待ってみたが、彼女はなかなか戻ってくる様子がない。
何かあったのかもしれないと、よろよろと壁伝いに立ち上がって歩き始める。廊下に出て柱に寄りかかりながら奥に声をかけたとき、足先がなにかぬるりとしたものを捉えた。なんだろうと訝しんでいると、声が返ってきて注意が反らされる。
「こっちこっち」
どうやら寝られずにまた酒を飲んでいるようだ――と呆れながら一歩踏み出すと、鋭い痛みが足の裏を貫いた。思わず悲鳴を上げ、反射的に足を引っ込めた時に平衡を崩した。転倒の瞬間に器用に身をよじって、どうにか頭だけは打たずに済んだが、障子をぶち抜いてしまった。
「どうしたの……」
こちらの騒ぎを聞きつけて心配そうに尋ねる声がしたが、それはさらに大きい崩落に上書きされた。きっと戸棚かなにかをひっくり返した音だ。
だから言わんこっちゃない……と思いながら慎重に身を起こして、足に感じた痛みを慎重に確認してみると、何かの拍子に屋内に上がってきていた、ただの砂利ひとつだった。それではなぜ床が濡れているのだろうと、手を伸ばし、指先についた液体の匂いを、ほんの僅か嗅いでみる。
「大丈夫? こっちも凄い音立てちゃったけど……」
そんな事をぼやきながら、友人が向こう側から這い戻ってくる。
「……そこに鼠のおしっこあるから気をつけて」
「えっ」
酔っ払った相手は大げさに避けたようで、襖が張り倒される音がした。
一連の騒動の被害はその全貌が(文字通り)まったく見えなかったが、互いに勝手をして場を荒らしてはいけないという事だけは、二人の間で取り決めがなされた。彼女たちは寝所に籠もり、これだけはと引きずってきた酒樽を抱きかかえて、夜を過ごすことに決めた。
「どうしてこんな事になったんだろう……」
とぶつくさぼやきながら酒を口に運ぶ。柄杓から掬って直に口に運ぶ飲み方は行儀が悪かったが、この際仕方がない。
「本当に。なんで目がこんなになっちゃったのか」
相手は深く考え込むふりをしながら、友人の片方の手の場所を探り当てると、強く握った。
「……なに?」
「いや、そこにいるんだ、って」
「いるよ」
と返ってきた相手の笑い声が、思ったより耳元に近かった。見えはしなかったが、その酒臭い息が風となって匂いとなって感じられた。
「ここにいるって」
「いる」
居る。
「……ま、医者なんかでもないのにあれこれ考えてもしょうがないし、養生するのが一番でしょ」
「どうせ弾幕遊びで目がくらんだとか、そんなもんだろうしね」
などと言いつつ、どんどんと酒を口に運んでいった。かなりの分量が口の端からつたい落ちたが、構わなかった。それにしても目が見えないとかえって気が大きくなってくる部分もあるようで、相変わらず手は重ねられていて、まさぐり合うように指が動いている。
「まだそこにいる?」
「いる」
「本当に?」
「しつこい」
「でも重要な事かもしれない。だって見えないんだもの。そこにいるそれが、ふっと消えていなくなる可能性だって、無くはない」
「恐ろしい事を……」言うものね、と続けかけて、ふと、嫌な予感を覚えた。「……重要、重要か……じゃあ聞くけれど、ここはどこ?」
「博麗神社」
「そうではないかもしれない」
ふと、そんな事を言ったとたん、周囲の音がしんと静かになった。しかし外の虫の音はすぐに戻ってきたので、不穏な予感は気のせいに過ぎないのかもしれない。
「……だって見えていないんだからさ。わかんないじゃん」
「そんなの見えていたって信頼ならないよ」
「そんな狐狸に化かされているような話、あっていいのかな」
考え深げに呟いてみたが、確証が持てなくなってきた。
光を失ったはずの目に、ふたたび奇妙なパターンが漂い始めた。
「……それじゃあさ」
相手が、探るように口を開いた。繋がれていた手は既に引っ込められている。
「あんた誰なの?」
ひとしきり殴り合ったあとで後ずさると、二人はそれぞれ部屋の隅に陣取った。その過程で、どちらかが箪笥かなにかに強く背中をぶつけて、その上にあったものを倒した。相手の方も、壁伝いに距離を取る様子が、気配となって伝わる。
「……あんた、誰なのよ!」
「私は霧雨魔理沙だ!」怒鳴った後で尋ね返す。「そういうお前は?」
「……博麗霊夢!」
「信じられないな!」
「私はあんたが信じられないわ!」
お互いに名乗り上げてみたが、信頼関係は結ばれなかった。むしろ名乗らなかった方がもうちょっとましな関係になれたかもしれない。
「……きっと、こんなふうに目が見えなくなったのもお前のせいだ」
どちらかが言った。
「それは私も考えたけど」だが、その発想が間違っていることも知っている。「……なにか互いに、私が私であるという証しを立てられる事があればいいんだけれど」
だが、その妙案が思いつかない――いや。一つだけ、真っ先に思いつく方法はあったが、それはあまりに乱暴すぎるやり方だった。
「それ自体は簡単よ」相手は、多少は頭が冷えた様子で、きっぱり言った。「弾幕ごっこをやるしかない」
……まったく同じことを考えていたとはいえ、相手の頭は全然冷えてない気がしてきた。
「目も見えないのに?」
「なにも問題はない。そっちのパターンは全部覚えてる。それに目以外はぴんしゃんしているわけだし、もっとひどい状況でやる羽目になった事もある。あんたが本当にあんたなら、私は間違いなくあんたの弾幕を避けて、私が私である事の証しを立てられる」
「避けられる事にはなんの疑問もないけれど」なんて言葉を返してしまいながら、背中につけている壁をばんばんと叩いた。音が鳴るのを聞いて、ふと相手に位置を把握される恐れに思い至った。「……こんな建物の中でやるの?」いくらなんでもむちゃくちゃが過ぎる行為だった。そんな事をしてしまえばなにもかもが砕けて、壊れて、はっきりとしないものになってしまう――目が見えない現状ではどうだっていいのだが。
「私の見立てでは」相手は冷静な口調できっぱりと答えた。「ここは博麗神社ではない」
それは冷静な口調だが、てんで狂っていた。返す言葉もなく、無言のまま、部屋の中を壁伝いにじりじりと動いた。なんとしてでも、相手に対して有利な位置につきたかった。ついでに歩幅で部屋の広さを測り、伝う指先で立てついている襖の表装を撫ぜてみるのだが、それは紛れもなく博麗神社の寝所そのものだ――と思ったが、それが唐突に虚空に途切れた。ぎくりとした指先が、なにもない場所を探ったが、きっと、さっきの乱闘の拍子にどちらかが襖を蹴倒してしまっただけの事に決まっている。その背後で声が続く。
「いずれにせよ、ここが博麗神社だという証しはない。証しの立て方も知らない。私たちは相争うしかない」
「……でも、それを認め合う事くらいはできるかも」
「ふん、どうやって?」
と言う声が、急に首筋にのしかかった。彼女はびっくりしてバランスを崩し、暗闇に身を投げ出してしまった。
背中に誰かが覆いかぶさってくる。しばらく柔らかい暗闘が繰り広げられて、どちらかの背中の下で、何か割れ物が――さっき箪笥から転がり落ちたものだろうか――砕けた。その挙げ句にお互い抱き合う形になって、ようやく落ち着く。ちょっとした沈黙の後、相手の手が胸元を優しく撫でた。
「……簡単でしょ。自分が何者であるかを表明して、相手が何者であるかを受け入れる事ができればそれでいい」
沈黙。
「どう? 悪い提案ではないと思うんだけど」
「……それが信じられないと言ったら?」
「今までが信じられていたと思ってるの? 単に諦めていただけよ」
沈黙。
「こんな状況じゃ、そもそも自分自身だって怪しいものだし。まったく……」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
「……あなたは、誰?」
ようやくどちらかが口を開いて尋ねたので、ようやくどちらかもう一方が答えた。
「……たぶん、博麗霊夢」根負けしたような声が、喉から出る。
「あ、そう。私は霧雨魔理沙だ」と、ふてくされたように言い返した。
「今のところはそういう事でいい」
「じゃあ、ここは博麗神社って事にしておこうかな?」
「そうじゃなかった場合となにも違わないならね」
そのまま二人は重なり合ってじっとしていた。
「もしあんたが仮に妖怪かなにかだったとしても」
霊夢は手に手を取って握りしめながら言った。
「明日の朝、日が昇るまでこうしてやる。絶対に逃がさないわ」
「それはこっちも同じよ」魔理沙は言い返しながら、相手に脚を絡めようとして、耳を齧られた。
「調子に乗るな」
「ひどくない?」
「魔理沙の名を騙るバケモノめ」
「ひどくない?」
と、霧雨魔理沙の名を騙るバケモノは博麗霊夢の名を騙るバケモノに対して呆れかえったが、同時にそれは霧雨魔理沙と博麗霊夢でもあり得たので、笑って許すことにした。
「……私たち、二人で何やってるんだかね」
「本当に二人かな」
霊夢は魔理沙のぼやきに付き合って、ついおかしな事を言ってみてしまった。
「気配は無いけれど、もしかしたらこの私たちのぶざまな姿を、面白がって眺めている輩なんかがいるかもしれないわ」
と言って気まぐれに何かを放り投げたらしく、部屋の向こうで何かが割れる音がする。よりいっそう屋内を破壊してしまったわけだが、もう気にしなかった。
「趣味の悪い奴よ。……居るのか知らないけど」
「気にすんなって」と魔理沙は言ったが、やがてふと、ぽつりと言い添えた。「……ただ、私たち以外がこの場にいる可能性があるなら、私たちだってもっとたくさんいる可能性があるな」
「増えるの?」
「増えるさ。人間には、基本的に目が二つある。だから一人の人間が見たものは、二つの目によって二つの存在に分裂する。……だからお互いの瞳が見つめ合ったら厄介だ。ただでさえ合わせ鏡になるところがその二倍になって、無限の更に二倍に増殖しうる」
「面白い」
「私が言うから面白いで済んでるんだよ。霖之助に論じさせてみろ、あいつきっと人類に目玉が二つある事を話の枕にして、持明院統と大覚寺統が両統迭立した真の理由とか、原初の人類はみな単眼だったかもしれないって話するぜ……」
「そいつは穏やかじゃないわ」
一度、二人は黙り込んだ。
「……ま、目が見えないんだから確かめようがないわね……でも私たちが無限に増えるっていうのはいいわ。大量の私たちが博麗神社にぎゅうぎゅうに詰め込まれている可能性もあるわけか」
「博麗神社じゃないところにずらりと並べられているのかも。大量に。二人一組のセットで」
「想像できないわ」
「値札もついてる」
「想像させないで」
「でも想像できただろ」
「いやな気分になったけどね」
「私もだ」
「……あ、そういえばさ」
急にどちらかが言った。
「うん」
「さっきの話だけど」
「いつ頃のさっきだろう……」
「目が見えなくても、私の弾幕なら絶対に避けられるって話……」
「ああ……」
「できるんだ?」
「……ふぅん、できないと思ってるんだ」
「違う。やってみたいと思っただけ」
目の見えない彼女たちにも、それでもその時だけは、相手の笑顔がわかった。だいぶ悪い笑顔だ。
「じゃあさ、やる?」
「うん。やる」
二人は縁側をぶざまに這い、ごろりと地面に転がり落ちた。
「境内まで行こう」
「歩けるかしら」
地面に転がり、途端に土っぽくなってしまった二人は、そんな事をひそひそと言い合った。肩を貸し合って立ち上がると、決闘向きの開けた場所――神社の境内に向かって、じりじりと前に進む。
「まさかお互い、自分の身の証しを立てられるのが弾幕しかなかったとはね」
「いや、それはわかっていた」
「ほんとにぃ?」
「私たちには弾幕しかないでしょ」
いいや、そんなことはない。と相手は反駁する。「だって私たちには音楽だってある!」
そんな希望に満ちた宣言を聞いて、音楽は揮発した弾幕にすぎないんだよ、などとわけのわからない反論をしかけたが、やめた。……だいたい、私たちには音楽があるっていうのもどういうことだ。自分たちはおかしくなっているのかもしれない。
歩く足元には砂利が敷き詰められていた。そういえば、神社の参道の脇にはこうして玉砂利が敷き詰められていたっけ……いや、別にそうではなかったかもしれない。ここが博麗神社だという保証は、未だにない。
「私が向こう側に立つね」
支え合っていた相手の手がするりと逃れていった。参道はきっと真っすぐ伸びているから、きっとあいつは真っすぐに道を歩いて、きっと十数歩先で立ち止まってくれるだろう、と彼女は信じた。……あいつが友人の名を騙るバケモノでない限りは。そう思いついてしまうと不安に駆られて、その背中に向かって声をかけようかとも考えた。だが、それは今までの信頼を崩壊させてしまう。出かけた声を飲み込んだ。――あの子が私の友人であると信じよう。ここが博麗神社だと信じよう。
ふと気がつくと、膝頭がぬるぬると濡れて、なにかねばっこいものが足元まで垂れていた。血だ。這いずり回っているうちにどこかで怪我をしたらしい。痛みほど真実らしいものは無いはずなのだが、それすらも曖昧だ。
翌朝、博麗神社で起きた惨状がはっきりした。しかしそれを確認したのは当事者の博麗霊夢や霧雨魔理沙ではないし、朝っぱらから幻想郷に遊びにやってきた宇佐見菫子でもない。彼女は神社の縁の下で伸びている霧雨魔理沙と、藪の中に半身突っ込んで虫の息の博麗霊夢を発見して、しかも二人の体はずたずたの血まみれなのを認めて、とにかく助けなければいけないと思った。その後の混乱の中では、神社の被害など考えもしなかった。
屋内の被害状況を最初にじっくり見聞したのは、新聞記者の射命丸文だった。彼女は惨状を子細に記録し、憶測を書き連ね、新聞記事にするときにちょっぴり被害程度を誇張し、そのうちに、その作為を自分自身まで信じるようになった。そして残された酒樽等の状況証拠から、きっと酒による大失態であろうという予測を立てて、結論にした。
二人が盲いていた時期は一晩で済んだが、その後の静養は一ヵ月に及んだ。それから彼女たちはいつも通りの日常を取り戻したが、その久々の再開の時には、ちょっと照れくさそうな微笑みを交わした。
そんな事件から一年近く経った。
「暑い」
道々を歩きながら、どちらからともなく言った。夏だったからだ。
「それに騒がしすぎる」
相手は答えた。歩いているうちに、夏祭りの人ごみに紛れ込んでしまったからだ。
それにしても、この熱っぽさはきっと暑気のせいだけではない。祭りの人々の気持ちの昂りが、熱量に置き換えられている。そんな人々が発散する興奮の間隙を、彼女たちは器用にすり抜けた。祭りの灯に引き寄せられてきた羽虫だってひょいと避けた。知り合いの人形遣いらしき人物から背中にかけられた言葉さえ、無視という形で逃れた。どうしてそんな事をしたのかといえば、よくわからない。とにかく、自分に向かってくる全てのものから、すり抜け・避け・逃れたくなっていた。
屋台列の前を通りかかったとき、的屋で小弓やコルク銃を無邪気に弄んでいる幾人かの子供たちが、一斉に彼女たちを狙った……ような気がした。実際は、誰にもそんなつもりは無かったに違いない。ただおもちゃの矢やコルク弾だけが、意思あるもののように放たれて、二人に襲いかかった。
彼女たちはそれらさえ、飛び石遊びでもするような足運びで、軽やかに避けた。……ただ、矢の一本が向かいの屋台に飛び込んでしまって、ちょっとびっくりしたような悲鳴が上がる。
的屋の主人、的当てをしていた子供ら、更にその親たちが慌てて詫びたが、その言葉は耳を通り抜けていった。
「ちょっとぉ……」
当事者の詫びが尽きて場がはけたあたりで、二人にようやく追いついた人形遣いが声をかけてきた。
「……あんたたち、どうして逃げたのよ」
「別に」霊夢は悪びれもせずに答えた。「なんとなくよ、なんとなく」
「呼んだのか? 聞こえなかったけど……」魔理沙はぬけぬけと嘘をついた。
「ちょっとうちの演し物手伝って欲しいんだけど」
「人形劇を?」
「あんたたちに劇を手伝わせるのはもううんざりだわ。……客引きと、お客さんにお菓子やお茶を振る舞うのだけ手伝って」
「まあいいけどさ」
それはそれでひどい事になった。二人は呼び込みをしながら、あることないことをぺちゃくちゃと喋りまくった。
「なんとここのお姉さんが秘密のショーを……」
「やりません!」
人形遣いが慌てて表に出てくる。
「でもきっと最後には特別のプログラムが――」
「ありません!」
人形劇が行われる小さい天幕の中は、人でいっぱいになった。客席は埋まり、その後ろの立ち見も鈴なりに。――もちろん飲食物はまたたく間にはけた。
「……じゃ、私らはもう行くから」
「しっかりお客様方へサービスしてさしあげるんだぜ」
「むちゃくちゃだわこいつら」
人形遣いはぶつくさとぼやきつつ、唐突に白昼夢を見ているような気分になった。今この瞬間の全ての営みが、ただまぼろしのような気がしてきて、ちょうど舐めているのど飴の包み紙と、そう変わらない価値のもののように思えた。――マーブル模様の包み紙が、掌の中でくしゃりと動かすたびに、奇妙なうねりを伴う……。とはいえ彼女自身はこういう幻視の発作には慣れっこだったため、気にしない事にした。この浮世は儚いかもしれないが、そこで見られるまぼろしはもっと儚い。
ただ、それでも気にかかるのは、あの少女たちの奇妙な眼差しだ。二人の瞳の奥に溜まった、インク壺の底のような闇を見ていると、ちょっとは友達付き合いを考え直すべきかもしれない、などと思わされる。
天幕を出た二人は、ぼそりと言い合う。
「……あいつ、私たちの事を、私たちじゃないものを見る目で見ていたわ」
「失礼な奴だよな……」
背後の天幕の中では、人形遣いが語り始めている。「“両親はもう眠りについていた。壁の時計がものうげに時をきざみ、”」……。
ぐくもった音となって屋外に漏れてくる口上を耳に流し込みながら、いろいろの舞台装置を、ふと思い描いた。特に、特殊な鏡の仕掛けを。たとえば巧妙な角度で設置された合わせ鏡は、ただ一個の人形が無数に増殖する可能性があると見せかけた。舞台世界は曲面鏡によって膨張したり収縮したりと、不安定なことこの上ない。天幕の梁からは鏡の破片が無数にぶら下げてあって、それに照明を当てると、観客の頭上で煌びやかな乱反射が起きて、目がくらむだろう。想像するだけで眩暈がした。
……いや、それでも目はよく見えている。見えすぎるほどによく見えている。
夜空を見上げる。星々は彼女たちに迫ってきていた。
「……行こうよ」少女は友人の手を取って言った。「きっと、見えているものばかりが見えているものではないって」
相手も頷き、手を握り返す。歩き始めた二人の影は、祭りの喧騒のどろどろとした熱気の中に混ざり、溶けるように消えてしまった。
見えないと余計に想像力が掻き立てられますよね
濃厚でした
見えない中での存在の自覚と見えなくてもお前の弾幕は避けられるという究極の相互理解。
本当に素晴らしいと思った。素晴らしすぎて他のすべての要素が蛇足に見えてしまった。
作者さんの書きたかった部分がどこなのかがわからないので
私が間違った読み方、意図してない読み方を勝手にしているだけなのかもしれません。
しかしあくまでどこまでも勝手で自己中心的な読者としての感想としては
レイマリを濃く鋭く書いてほしかったという我儘です。
次回作を楽しみにしております。