Coolier - 新生・東方創想話

二度と悪夢を見ませんように

2022/05/05 23:24:44
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  たった数センチのドアの隙間から見た、この世で一番いまわしい思い出のこと。私はそれを夢の中で再現していた。夢の中の私はあの時同様ひどく緊張していて、うなじをダラダラ伝う生温かな汗粒を不快に感じながら、ドアの向こうの光景をじっと見つめている。
 そこにいたのは、太い鎖で全身を締め上げられた巨体の鬼。それを無数の動物たちが車座になって取り囲んでいる。動物たちの熱狂は異様なものだった。あるものは激しく足踏みして地面を鳴らし、あるものは声を張り上げ鬼を罵倒し、各々の方法で鬼への憎悪をあらわにしている。
「負け犬がよっ! よくもこれまでエラそーに! エラそーに!!」
「さとり様に勝てると思ったのかよ! オラ! 処刑だ処刑! 銃殺刑、絞首刑、薬殺刑? ……籤引き刑!!!」
 鬼はすでに執拗な暴行を受けていた。数えきれないほどの古傷とまだ生々しい新しい傷、その両方がまんべんなくその体に刻まれている。加えて黒光りする立派な二本の角のうち一本は根元からねじ切られていた。
 罵声を雨あられと浴びせられた鬼は縛られた体を激しくのけぞらせ叫んだ。大気が震えるほどの猛々しい叫びだった。
「黙れ糞畜生どもが!! 貴様らのような野蛮な――」
 しかし、もっとも鬼が惨めに見える瞬間を狙いすましていたのだろう、糞のつぶてが鬼の鼻っ柱に命中する。糞を投げたのは赤く灼けた顔を持つ老齢のヒヒだ。ヒヒは鬼を指差し、黄ばんだ歯を剥き出しにしてゲタゲタと笑った。それに倣って、他の動物たちもいっせいに嘲弄の声をあげた。鬼は言葉を失った。恥辱のためか鼻先の悪臭のためか、その気勢はすっかり削がれてしまっている。ヒヒは長い腕をしならせ糞のつぶてをもう一発鬼の顔へと投げつけた。
「お、おお……」
 鬼はとうとう屈服した。頬を伝う大粒の涙がその証だった。厚い顔の皮を紙のようにクシャクシャにして、重く低い嗚咽を漏らしながら鬼は泣きじゃくっている。敗残者の惨めさがありありと表れていた。動物たちはそれを見てますます喜び熱狂した。
 場の昂揚が最高潮に達した瞬間、一匹のハトが足で器用に箱をつまみ軽やかにその場に降りたった。ハトはその箱を演技めいて見えるほどうやうやしい仕草で、自身の主人であり、私、古明地こいしの姉――古明地さとりへと差し出した。
 姉は部屋の奥に置かれた、質素な椅子の上に腰かけていた。周りの動物たちが熱狂する中、姉ひとりだけが冷たく落ち着き払っている。しかし、あの頃はまだ人の心が読めた私は、姉の心の中に誰よりも烈しい憎悪が燃え上がっていることに気づいていた。姉は泣きじゃくる鬼を冷たく一瞥すると、箱から一枚の籤を取り出し皆に見えるよう高々と掲げた。籤にはこう書かれている――「右腕」。
「右腕! 右腕! 右腕当選おめでとうございます!!!」
 動物たちの中から、ノミやキリなどさまざまな工具を持ったイタチが進み出て声高らかに叫んだ。途端に周りの動物たちも烈しく熱狂し、部屋の中には「右腕! 右腕! 右腕!」の声が何重にもこだました。
 イタチは工具の中から、大きなノコを手にして鬼の前へと進み出た。痛みを長引かせるためだろう。ノコの刀身はすっかり赤錆にまみれボロボロだった。
「では、右腕を切り落とさせていただきます!!」
 イタチは手慣れた手つきで、ノコを鬼の右腕へと押し当てた。切れ味の悪い刃だけれど、それでも鬼の厚い皮膚を裂きじりじりと肉の中へ食い込んでいく。滲むようにして血が溢れてノコの刀身を濡らす。イタチは肉に食い込んだ刃をギコギコと前後に動かし始めた。鬼は歯を食いしばり痛みに耐えようとしていた。その顔には大粒の汗がいくつも噴き出しびっしりとこびりついていた。しかし拷問がとまることはない。厚い筋肉の層を切り刻みながら、刃は緩慢に奥へ奥へと食い込んでいく。
 途中で不意に刃がとまる。骨に当たったのだ。イタチは更に力を込めギコギコと強引に刃を引いた。ゴリゴリと、骨の削れる低く鈍い音が部屋の中に響く。鬼はとうとう耐えきれず烈しい悲鳴を上げはじめた。暴れに暴れなんとかいましめから逃げ出そうとするも鬼を縛る鎖はびくともしない。とうとう刃は腕の直径の半分以上を切り裂いた。断面からは大量の血がこぼれぼたぼたと地面を濡らしていた。イタチは一旦手を止め右腕の付け根を包帯で締め上げ止血し、さらに刀身を汚す血と脂を布で丁寧に拭き取った。
 切り裂かれた腕の断面を見ると、体とは結局のところ構造物だということを思い知らされる。赤黒い肉にまぎれてチラリと見える白いものは骨だろう。肉の筋、肉の中を這う無数の血管、普段は見えることない生々しい肉体の内部があらわになっている。それが動物たちの中に眠る原始的な本能を刺激したのだろう、動物たちの中には舌なめずりをするものがたくさんいた。捕食の悦びを想起していたのだ。
 残酷だ。姉も動物たちも、ただ見ているだけの私もみんな残酷だ。あの鬼が苦痛に悶えるのを見て楽しんでいる。けれど、それはおあいこさまだ。私たちだってあの鬼にたくさんの同胞を殺されてきた。例えばお燐の兄弟とお空の両親はどちらも同じ大鍋で、ネギやニラと一緒にグツグツと煮殺され、あの鬼の胃袋の中ですっかり消化されてしまった。
 だから、理解はできるのだ。部屋の中で膨らみつつある膨大な「黒いもの」がどうやって生まれたか、それは知っているのだ。けれど、わかっていても……。
「そこにいるのは、誰?」
 不意に、姉が尋ねかけてくる。扉の隙間に気づいたのだ。姉のまなざしは部屋の入り口へとまっすぐ注がれた。姉が私を「見る」。私の「目」と姉の「目」とが合う。
 たちまち場は水を打ったように静まり返った。床に転がる切り落とされた右腕になど、もう誰も関心を払っていない。誰もが部屋の入り口を食い入るように見つめている。
 恐ろしかった。処刑の残酷さなんかよりずっと恐ろしかった。私は姉の内部にある、「人間らしさ」の対極のようなものがいちばん恐ろしかった。
「こいし」
 姉が私の名前を呼ぶ。声が私の中にこだまを作る。ヴィールスのようにたちまち増殖して私の心を埋め尽くそうとする。私は幼っぽい悲鳴を上げて膝から崩れ落ちていた。私は両手で顔を覆っていた。「アーアーアー」という、誰かの甲高い悲鳴が聞こえてくる。それは私の声なのだ。助けを求める叫びなのだ。
「アーアーアー、アーアーアー……」
 切なくて心細くて、いくら叫んでもそれはか細く弱々しく聴こえて、救いはどこにもない。ただ緩慢に心が蝕まれていく。「黒いもの」が私を押しつぶそうとする。
 私にできることはただ、「目」を閉じることだけだった。
 
 闇の中目が覚める。動悸が苦しいくらいに早い。シュミーズが寝汗でぐっしょりと濡れている。きっと私はひどくうなされていたのだろう。
 水を飲もうと起き上がろうとして、できないことに気づく。体中の力が抜けている。自分の体じゃないみたいだった。私は呆然としてじっと天井を見つめていた。
 外ではザアザア雨が降っている。途切れることのない雨音が部屋を包み込んでいる。
「大丈夫か?」
 闇の中、私の隣で眠っていた人が、起き上がってこちらを見ている。窓から差し込むかすかな月明かりを浴びて浮かびあがる丸い輪郭。一瞬姉かと勘違いしかけて、気づく。姉ではない。その人は、豊かな金髪を肩のあたりまで垂らしている。
「随分うなされてたみたいだな?」
 声の主は、霧雨魔理沙。数日前雨の降りしきる魔法の森の中を、さまよっていた私を見つけてくれた人。
「水が」
 その声は自分でもゾッとしてしまうくらいしゃがれていた。老婆の声みたいだった。それがひどく、恥ずかしかった。
「水が飲みたいな……」
 魔理沙は機敏に体を起こし、寝台の脇に置かれていたコップと水差しを手に取った。なみなみと水の注がれたコップが私の前に差し出される。私は黙ってそれを受け取り、口をつけた。かすかに甘い味がした。
「やっぱり喉が渇いてたんだな。一息で飲み干しちまった」
「うん。汗もすごくかいたよ……」
「風呂にでも入るか? 湯船に浸かってゆったり鼻歌でも歌ってりゃあ、悪夢なんてすぐ逃げ出してくさ」
「いいよ。魔理沙は疲れてるでしょ。私を見つけてくれたあの日からずっと実験ばかりで……」
「遠慮するなって。オマエのようなヤツに気を使われるとこっちも調子が狂うぜ」
 魔理沙はいたずらっぽい笑みを浮かべながら両腕を伸ばして、私の小さな体を軽く抱きしめてくれた。魔理沙の体は暖かかった。妖怪である自分の体の冷たさが申し訳ないくらいに。魔理沙はそうやって私を勇気づけると、自分も水を一杯飲んで、軽やかな足取りで浴室の方へ向かっていった。
 その小さな背中をまなざしで追う。どこか見覚えがある。「あの人」の背中と魔理沙の背中が重なる。私の唯一の肉親であり、いつも私に優しくしてくれた「あの人」と……。
「お姉ちゃん……」
 か細い声でつぶやく。しかしその声はたちまち闇の中に吸い込まれてしまう。浴室でバスタブをゴシゴシ磨いている魔理沙にも、はるか地下深くにいるお姉ちゃんにも届くことはない……。


 霧雨魔理沙がこいしを見つけたのは、ちょうど一週間前のことだった。その日魔理沙は実験に使う触媒だの、日用品だのあれこれ不足があって人里まで出かけていた。その帰り道、風呂敷いっぱいの荷物をホウキの柄にぶら下げて森を飛行している最中、たまたまこいしを発見したのである。
「こんなところで何をしてんだよ?」
「何にもしてないよーだ。ただ、さまよいつづけていただけ」
「バカだなあ。そんなことしてたら風邪ひくぜ?」
 ちょうど長雨の季節だった。魔理沙は水魔法を応用して雨を弾いていたがこいしはそうもいかない。服はぐっしょり濡れていたし、体が冷えていたのだろう、その肌は蒼白になっていた。
「……なら、うちで雨宿りでもするか?」
「えっ、いいの?」
「この前香霖堂で新しいバスタブを安く買い叩いたんだんだ。だけど見せびらかす相手がいなくてな。あったかいお風呂に入れてやるよ。ただし、雨がやむまでの間だぞ?」
「変わった人間だなあ。嫌われ者のサトリ妖怪を自分から家に招くなんて」
「水臭いこというなよ。完全憑依異変で共闘した中じゃないか。さっ、ホウキに乗りな」
 魔理沙はこいしとホウキに二人乗りして家へと向かった。約束では雨がやむまでの間が期限だった。けれども、雨は一度も途切れることなく森に注ぎつづけ、結局こいしはもう一週間も魔理沙の家に泊まりっぱなしだったのである。
 流石に一週間も同じ屋根の下に暮らしていれば、相手に対する情だって湧いてくるものだ。そんなある日の一コマ。
「ねえ魔理沙。前からずっと気になってたんだけどさ、魔理沙はいったいどんな魔法を作ろうとしてるの?」
 その時魔理沙は試験管に入れた溶液を左右に振っていた。そこにずいと顔を近づけ、人懐っこい微笑を浮かべながらこいしが尋ねかけてくる。
(ははあ、これは、「かまってくれ」のサインだな)
 一週間ともに暮らしてわかったことがいくつかある。こいしはとてもきまぐれな娘だった。ある日はかまってもらうのをイヤがった。魔理沙が紅魔館からかっぱらってきた本を熱心に読み、分厚い魔導書をたった一日で読了したり。もっとも内容について聞いてみると何一つ頭に入っていないのだが。かと思えば、「かまえかまえ」とねちっこく攻勢をしかけてきたり。元々魔理沙は面倒見のいい性格だったし、こいしのように邪気のない娘が相手だとコロッと転がされてしまうところがある。魔理沙はその日一日、膝の上にこいしをのせて本を読み聞かせてやったり、二人でトランプや花札をして遊んだりで費やしてしまった。いうまでもなく実験の進行度はゼロ。こんな風に起伏の多いデコボコ道みたいな日々だったが、ずっと一人暮らしをしていた魔理沙にとってこいしとの日々は中々に楽しいものでもあったのだ。
 魔理沙はこいしの方に体を向けて、ポンポンと膝の上を叩いた。こいしは人懐っこい笑みを浮かべると、ぴょんと跳ねるようにして魔理沙の膝の上に乗っかった。
「いいか、試験管の方をちゃんと見とくんだぜ。まばたきは厳禁だ」
「うん!」
 魔理沙はピンセットで、白い結晶のつぶてをつまんで試験管の中へと放り込んだ。たちまち結晶は溶液と反応し、光沢ある黒へと変色、発火した。漆黒の炎が試験管の底で静かに燃え上がるのを、こいしは目を輝かせてじっと見つめていた。
「黒い炎の魔法かあ。弾幕ごっこで放ったらすごくかっこいいだろうなあ。でも、どうしてだろ? 前に魔理沙が使ってた魔法とはちょっと違う気がするなあ」
「中々鋭いな。この魔法も私の十八番、星魔法ではあるんだ。ただ今回は、普段とは違う特別な「星」の魔法なのさ」
「どんな星なの? もったいぶらずに教えてよー」
「わかったわかった。答えは、冥王星だ」
「めーおーせい? 何かのかけ声かしら?」
「違う違う。星の名前なんだよ。太陽系における九番目の惑星、だった星だ」
「過去形なんだね。何か不祥事でも起こしたちゃったの?」
「いやいや、冥王星氏は無罪だぜ。私にもよくわからないが、外の世界の天文学で惑星の定義が変わっちまったみたいなんだ。周りの星を掃き飛ばせるかどうかだの、希臘神話の不和の女神がなんだの、とかく哀れな冥王星氏は「惑星」の座を追われ、「準惑星」に没落してしまったのさ」
「アハハ、追放だ追放だ。ひとりだけ仲間外れだ!」
「仲間外れは可哀想だろ? そこで私は冥王星の魔法を発明しようと思ったんだ。魔法ってのは、術者のこだわりによって力が増す。パチュリーが曜日に応じて魔法を使いわけたり、アリスがお手製の人形を使役することにこだわるのもそれが理由だ。哀れな冥王星氏に対する私の哀悼の意が、魔法の威力を少しでも上げてくれるといいんだけどなあ」
「魔理沙は優しいねえ。弱い人とか哀れな人とかの痛みがよくわかるんだ」
「いやいや、案外的外れな同情かもしれないぜ。鶏口牛後、「惑星」の九番から「準惑星」の四番になって、こっちの方が身の丈に合って居心地がいい、6.4日の自転周期、120度の自転軸でくるくる回転しながら、冥王星氏はそういう風に思いあそばせているかもしれない」
「名前にたがわず、冥い星だなあ! ネクラな星だなあ!」
 その後二人は協力して作業を進めた。魔理沙とのやりとりもあってかこいしは実験に興味津々になっていたようで、思いの他まめまめしい一面を魔理沙に見せたのだ。こいしは目を見張るような集中力を発揮して、おかげでその日の実験はとてもよくはかどった。
「もうこんな時間か。そろそろ夕飯にしようぜ」
「そうだねえ。私今、すごくおなかが空いてるの! こんなに腹ペコなの久しぶりな気がする!」
「今日のオマエはよくはたらいてくれたからな。ゆっくり休んでてくれ。メシは私ひとりで作るからさ」
「ありがと! お言葉に甘えちゃうね」
 こいしはソファに背もたれると、すぐにスヤスヤと穏やかな寝息を立てはじめた。
(よっぽど疲れてたんだな。すぐに寝ついたぜ)
 魔理沙はほほえましい気分でこいしに毛布をかけてやった。
(まるで、黒猫みたいなヤツだよな。欧羅巴では不吉の象徴として忌み嫌わているが、実際は猫の中でも人懐っこいほうなんだ。コイツも同じだ。皆から嫌われているけど、実際付き合ってみると意外と、いっしょにいて楽しいもんだぜ)
 元々魔理沙は手際のいい方である。野菜を切ったりホワイトソースを作ったり、魔理沙はテキパキと作業を行った。その日の献立はシチューと、里で買ってきたしなしなのパンだった。
(長雨のせいもあってか、夜は冷えるからな。体があったまるようなものが食いたいところだ)
 魔理沙は鼻歌まじりで鍋をかき回していた。しかし、その途中のことだった。
(――ん?)
 魔理沙は家に接近しつつある何者かの気配を感じ取った。かなりの妖力の持ち主、それも一人ではなく、二人いた。
「ねえ、魔理沙」
 いつの間にかこいしは目を開けていた。こいしも何者かの接近に気づいたのだ。
「私、ちょっと姿を消すね。あの子たちが来たら、私はいないって伝えておいて」
「あの子たちって、まさか……」
「やってきたのはお燐とお空だよ。きっと、私を連れ戻しに来たんだ」

 「やあ、久しぶりだねえお姉さん」
 こいしの言った通り、やってきたのはお燐とお空だった。魔理沙はいつでも戦えるよう、下準備をして二人を出迎えたが杞憂だった。お燐の態度は割合友好的だった。
「いったいこんなとこに何しに来たんだ? 私の家には死体なんてないぜ?」
「死体が欲しくて来たんじゃないよ。こいしさまを探しに来たんだ。お姉さん、以前異変でこいしさまとタッグを組んだんだろう? そのよしみで、こいしさまの居場所を知っていたりしないかなって」
「悪いがまったく知らないな。そもそもなんで今更連れ戻そうとしてるんだ? ずっと放置しつづけてきたってのに」
「あー、そうだねえ。じゃあ、一から説明しようか。お姉さんはさ、かつて旧地獄で抗争があったことを知ってるかい?」
「いや、初耳だ」
「そうだろうねえ、もうひと昔前のことだけど、とある鬼の率いる一団がさ、さとりさまと旧地獄の主の座をめぐって血みどろの戦いを繰り広げたことがあったんだ。流石に鬼どもの力は強大でね、あたいやお空の家族も含め大勢の動物たちが殺されたよ。そういえばこいしさまが目を閉じたのもこの頃だったねえ」
(……アイツの目が!?)
「それでもね、やっぱりさとりさまの方が上手だったんだ。暴れることしか脳のない鬼たちと違って、さとりさまたちはいつも冷徹に作戦を立て、配下の動物たちと団結してくじけることなく戦い抜いた。じわじわと形勢は逆転していって、あたいたちはとうとう奴らの首領を捕らえたんだ。頭を失った奴らはあっけなく瓦解して、戦いはあたいたちの勝利に終わった」
 ちょうどそこでお空が付け加えた。
「ちなみにその鬼はね、すごーく残酷な殺され方をしたんだ」
「ああなると、体の頑丈さがアダにしかなってなかったねえ。あそこまでいたぶられてもまだ生きてるってのは、家族のアダとはいえちょっと気の毒だったよ。やっぱり戦争はよくないね。あの頃は皆感覚がマヒしてたよ」
「こちとら食事前ってのに、そんな話をするなよな。で、それがこいしとどう関係してるんだ?」
「実をいうとね、近頃何匹かたてつづけに、さとりさまのペットが殺されているんだ。しかもイタチさんとかヒヒさんとか、鬼の処刑にかかわったものばかりでさ」
「まさか……」
「たしかにあたいたちは鬼の首領を捕らえ殺したさ。でもね、弟を取り逃がしてしまった。さとりさまは、動物たちを殺して回ってるのは弟だろうと踏んでいる」
「じゃあ、こいしを連れ戻そうとしてるのは……」
「さとりさまの唯一の肉親、妹だ。その弟に狙われる可能性も十分にあるだろう?」
「だけど……あえて旧地獄に連れ戻す必要もないんじゃないか? この幻想郷はご存知の通り猛者でいっぱいだ。よそものの鬼が暴れたりしたら、すぐ袋叩きにされるはずだぜ」
「そりゃそうだけど、まっ、念には念を込めてってことさ。で、ホントにこいしさまの居場所について知らないのかい?」
「……知らないな。さっぱりだ」
「へえ……ところであたいさっきさ、窓から家の中をチラッと見てみたんだ。それで気づいたんだけど、アンタ見かけによらずよく食べるねえ。あのシチューの量、一人じゃ食べきれないだろう? 最低でも「二人」はいないと……」
 ステルスを使ってひっそり隠れていたこいしは、お燐の言葉を聞いて思わず息を呑んだ。
(マズい……勘づかれてる。このままじゃ……)
 こいしは固唾を呑んでなりゆきを見守った。しかし魔理沙は動揺を全く面にだしていない。ポーカーフェイスを保ちつづけている。
「そうさ、私はこう見えてもけっこうな健啖家でな。あの程度の量ならぺろりと平らげてしまう。それともなんだ。今この場で証拠として二人分の、どでかいゲップをぶちかましてやろうか?」
 魔理沙は冗談をたたく余裕すら見せた。お空などは耐えきれず、プッと噴き出してしまったくらいだった。
「…………」
 お燐はじっと魔理沙を見つめた。一瞬の表情のこわばりでも見逃さまいと。しかし魔理沙は目を逸らすことも表情を変えることもなかった。涼しい顔で不敵な笑みを浮かべつづけていた。
「妙だねえ。あたいの勘も鈍ったかなあ……?」
 しばらくして、お燐は苦笑いを浮かべてそういった。重苦しい緊張がようやくほぐれた。
「いいのお燐? コイツなんだか怪しいよー? 腕の一本でもへし折ってやれば白状するかも」
「よしなよお空。証拠もなしに攻撃して冤罪だったらどうするんだい? あのおっかない巫女さんが黙っちゃいないよ」
「ちえっ、怪しいんだけどなあ」
 お空は残念そうに言った。こうしてお燐とお空はきびすを返し、元来た道を戻っていった。二人が完全に去っていったのを見届け、ようやく魔理沙は安堵のため息をつくことができた。
「フウ……流石に動物だぜ。鼻が利くヤツらだ……」
「あの、魔理沙……ごめんね」
 こいしはステルスを解いて、魔理沙の後ろに立っていた。申し訳なさそうにうつむきながら。
「別に怒っちゃいないさ。ただ、色々と聞きたいことはある。包み隠さず答えてくれるな?」
「うん……」
 こいしは弱々しくうなづいた。すっかりしょげてしまっていたのだ。
「……ただし、シチューを食ったあとでだ。できたてを放置して与太話にふけるなんて、私の趣味じゃないぜ」

 宣言通り二人はまずシチューを食べた。とはいえ味なんて二人ともよくわからなかった。それでも魔理沙は素早くシチューをかきこみ完食したが、こいしは半分ほど食べたところでギブした。
「……まず最初に聞きたいのは、どうしてオマエが地霊殿に帰ろうとしないのかだ。オマエの姉と、古明地さとりと何か確執でもあるのか?」
「確執なんかないよ。お姉ちゃんは仲間思いな人だもん。ただ私が一方的にお姉ちゃんから逃げているだけ」
「心をのぞかれるのが嫌なのか? でもオマエはたしか……」
「うん。私は目を閉ざしてる。心を見られることはない。お姉ちゃんに心を見られるのがイヤだったんじゃないの。むしろ、その逆――」
 しばしの間があった。ためらいのあらわれだった。それでも一週間の間で築かれた信頼関係がこいしの背を押してくれた。いうべきことをいわず関係が壊れてしまう方が、ずっと恐ろしかった。
「私は、お姉ちゃんの心を見たくないから、目を閉じたの」
「心を……見たくない?」
「さっきお燐たちが言ってたでしょ。昔お姉ちゃんは鬼の軍団と戦争をしていた。敵の勢力は強大だったけどお姉ちゃんは屈しなかった。私たちを守るため戦いつづけた。戦いの中で多くの命が失われていったわ。紙の上で引き算の計算をするみたいにね、見知った人たちの命があっけなく散っていくの。ひとつひとつの死を受け止める時間すらない。弱い私はすぐに、哀しみに押しつぶされそうになっちゃった」
「そりゃあそうさ。たとえ戦争中だろうと、仲間の死に心が痛むってのは当然のことだ。恥ずべきことじゃない」
「……ありがとう。そう言ってくれると少しだけ、心が楽になる。だけど、お姉ちゃんは私よりずっとつらかったはずなの……。私が泣いてる間も、お姉ちゃんは皆のリーダーとして振舞わなきゃいけなかった。哀しみも怒りも押し殺して戦いつづけた。そうしているうちにね、お姉ちゃんの心の中にはどんどん、黒いものが溜まっていった。人間らしい暖かい感情から、いちばん遠いものが……」
 こいしは、自分がまだ泣き出しそうになっていることに気づいた。涙を流す自分を見るのは嫌いだった。自分の弱さと向き合うのは苦しかった。それでもただ話しているだけで、どうしても涙がこぼれてしまうのだ。
「私は……それを見るのが怖かった。深い憎悪と哀しみ、烈しい嘆き。あんなに暖かかったお姉ちゃんの心が、真っ黒に塗りつぶされていく。それと向き合う勇気はなかった。見ているだけで、私の心まで飲み込まれてしまいそうで……私は目を閉じた。私はお姉ちゃんから逃げた」
 そこまで話したところで、心の糸が切れたのだろう。こいしはくぐもった嗚咽をもらしながら泣きだしてしまった。
「ごめんなさい……。ダメな子でごめんなさい。弱い子でごめんなさい。あなたが一番苦しい時に、ひとりだけ逃げてごめんなさい…………」
 魔理沙は呆然として泣きじゃくるこいしを見つめていた。どんな慰めの言葉をかければいいのかわからなかった。下手な言葉をかければ、かえってこいしを傷つけてしまいそうだった。
(だからコイツは毎晩のようにうなされていたのか。目を閉じて他人と向き合う痛みから逃げても、自分の心からは逃れられない……。罪悪感に苦しみつづけることになる……。あんまりじゃないか? コイツ自身は何も罪を犯していないのに……)
 魔理沙もまた途方に暮れていた。こいしとの心の距離が急に遠くなっていくのを彼女は感じていた。
(ほんとうに苦しんでいる人間を励ますことができるのは、ほんとうの言葉だけだ。でも、私の中にそんな言葉はない。コイツと同じ苦しみを味わったことのない私には……)
 
 こいしはその後も泣きつづけた。心の力のすべてを燃やし尽くすまで泣きつづけて、疲労困憊してようやく泣き止んだ。疲れ果てた彼女はすぐ眠りについた。しかし眠りは決して深いものではない。浅い眠りのぼやけた意識の中で、何者かの荒々しい声が聞こえる。声の主は複数人いた。その誰もがペチャクチャと、外国語のようにこいしには聞き取れない言葉で早口にまくしたてている。こいしは耳をふさぐこともできずその声を聞きつづけなくてはならなかった。
 不意にプツンと糸が切れるようにして、こいしは目覚めた。まだ夜中だった。魔理沙が移してくれたのだろう。こいしは寝台の上に横たわっていたし、丁寧に毛布だってかけてもらっていた。
(魔理沙は、魔理沙はどこだろう……)
 こいしは神経質そうに部屋の中をキョロキョロと見まわした。魔理沙は実験に使う机の上に突っ伏して眠っていた。こいしが眠ったあとも実験に励み、疲れ果てて寝落ちしてしまったのだろう。
「……おつかれさま」
 こいしは魔理沙が起きないように、そっと寝台の上まで運んで丁寧に毛布をかけてあげた。
(どうしよう。ほんとうは眠りたいけど、頭が火照って寝つけそうにない……)
 こいしは窓の外を見た。いまだに雨はやんでいない。途切れることない雨音が家を包みこんでいる。
(散歩にでも行ってみようかな。きっと外はひんやりしてる。少しは頭の火照りが取れるかもしれないし、そうじゃなくても、今はなんだか濡れたい気分だ)
 こいしは足音を立てぬよう注意しながらドアを開けた。たちまちびゅうびゅうと鋭い音を立てて風が吹きつけてきた。外の空気はしんと冷たくて、水の匂いに満ちている。
(いつになったら、雨はやむんだろう。魔理沙はイヤな顔せず泊めてくれるだろうけど、いつまでも世話になるわけにはいかない。今日は私のせいで、お燐とお空と一触即発の状況だった。でも、魔理沙の家を去ったとして、私はいったいどこに行けばいいんだろう……?)
 煩悶から逃げるように、家の外へと一歩を踏み出す。その瞬間のこと。この時をじっと狙いすましていたかのように、無数の礫がこいし目がけて飛んできた。
「えっ……?」
 完全な不意打ちだった。回避も間に合わず礫の一つがこいしの眉間を打つ。こいしはそのまま倒れこんでしまった。
「読み通りだなあ。さとり妖怪は不意打ちに弱い」
 家のそばに生えていた喬木から一体の鬼が姿を見せる。すっかり雨に濡れそぼり、月明かりを浴び冷たく輝く漆黒の二本角。見覚えがあった。
(鬼の首領の、弟……!)
 こいしはとっさに姿を消そうとした。しかし鬼の動きはすばやかった。鬼は機敏に腕を伸ばしこいしの髪をわしづかみにした。鬼は拳を固く握りしめ、こいしの腹を荒々しく殴打した。
「うっ……!」
 こいしが苦しげなうめきを漏らす。それでも鬼はおかまいなしに何発も何発もこいしの腹を執拗に殴りつづけた。
「ひゃはっ!」
 鬼は思わず歓声を上げた。殴打の一撃一撃には心地の良い手ごたえが付属していた。こぶしに伝わる少女ならではのやわらかな肉の感触に、骨の軋む音。彼は蹂躙の悦びに酔いしれた。その性器は全身の血を集め猛々しく屹立し、焼け串のようにジンジンと熱くほてっていた。
「う、うう……」
 ボロ雑巾のようになったこいしを鬼は地面に放った。力なく横たわるこいしの頭が、鬼によって容赦なく踏みつけられる。
「すこぶる気持ちがいいなあ。やはりいたぶるならガキに限るぜ」
 凄まじい力だった。頭が割れてしまいそうなくらい痛かった。それでもこいしは必死で声を振り絞って、鬼に哀願した。
「お願いですから、やめてください……」
「ああっ?」
「私の仲間たちが、あなたのお兄さんを殺したことは謝ります。だから、どうか許してください。こんな私が死んでもお姉ちゃんは苦しみます。これ以上、お姉ちゃんを哀しませないで……」
 その時だった。鬼の強力な蹴りがこいしの腹をしたたかに打った。こいしは血反吐を吐いてその場でもだえた。
「さとりの妹は白痴と聞いていたが、噂通りだなあ。オレが復讐のためにこんなことをしていると思っているのか?」
「え……?」
「兄貴の死にざまを聞いた時、俺はどんな感情を示したと思う? 笑いだよ。腹抱えて笑い悶えたねえ。あんだけ偉そうに威張り散らしてた割にゃあ、糞を顔にぶつけられただけで泣きじゃくったんだってえ? ははっ! 所詮は兄貴も口先だけのクズだったと、俺は笑いに笑ったもんさ!」
 こいしは唖然として問いかけた。
「じゃあ、どうして私たちを……」
「俺は復讐なんてくだらねえ真似はしねえ。だがなあ、なめられるのだけは我慢ならねえ。兄貴が負けて以降、どいつもこいつもサトリどもの方が鬼より強いと、俺たちのことをなめ腐るようになりやがった。それが許せねえ。今からオレはオマエに、兄貴がされてのと同じことをしてやるよ。そして地底で晒し者にしてやるのさあ。教育にはなあ、いつだって恐怖ってヤツが必要だ」
(コイツ……本物のゲスだ。散々私たちの仲間を殺して、自分の肉親を殺されて何も感じてないんだ……)
 こいしの心に湧き上がってきた感情は怒りだった。しかし今のこいしでは鬼に勝てない。惨めだった。雨に打たれ泥に汚れ血反吐にまみれ、それでも何もすることができない。こいしは涙を流して自分の無力を嚙みしめた。
(私、死ぬんだ。こんなヤツの手にかかって、ひとりぼっちのままで死んでくんだ……)
 しかし、その時だった。鬼の背後から突然声が聞こえてきたのだ。
「――待てよゲス野郎」
 鬼が振り向くとそこには一人の少女が立っていた。
「……ああっ?」
「ソイツから離れろ。私が相手をしてやる」
 魔理沙だった。異変に感づき飛び起きて、こいしを助けに来たのだ。
「テメエ、ただの人間だろ? 言っとくが俺は鬼の中でも最上級の実力者、四天王どもにだって遅れはとらねえ。いや、酒浸りですっかり平和ボケしたアイツらよりも、今ならオレの方が格上かもしれねえなあ」
「関係ないな」
「何?」
「オマエの言う通り私は人間だ。いつもいつも格上とばかり戦ってきた。今更誰が相手だろうとひるみはしないさ」
 魔理沙の周囲に、いくつかの火種が展開された。火種は雨の中でも消えることなく、黒々と燃え上がっている。
「あまり人間を見くびるなよ!」
 黒炎の火種が一点に収束し、ますます烈しく燃え上がった。ひゅるると音を立てながら火球が鬼へと飛んでいき、炸裂した。
(あれは、冥王星の魔法だ……。とうとう完成したんだ)
 こいしは固唾を呑んで、もうもうと立ち昇る黒煙を見守った。夜風はあっという間に煙を吹きちぎり、その中に隠れていたものをあらわにする。
「……嘘だろ」
 流石の魔理沙でももう軽口を叩く余裕はなかった。直撃したにもかかわらず鬼はほとんどダメージを受けていない。
「どいつもこいつも滑稽だなあ。無力で惨めで哀れだなあ!」」
 鬼は勝ち誇り、愉快そうに高笑いした。魔理沙の背筋に氷のように冷たい汗が伝う。
(四天王級ってのは、誇張じゃない……。どうすればいい。どうすれば生き延びられる? こいしを助けることができる……?)
「クク……テメエも死ね。二人とも嬲り殺しだ。サトリの内臓と人間の内臓がどう違うか、たしかめてやろうか」
 しかしその時だった。雨天の空に突然、まばゆい光が瞬いて深い闇を裂いた。虹色の光を放つ巨大な玉が、鬼の頭上へといくつも降り注ぐ。
「何っ!?」
 爆発が巻き起こる。それと同時に、一人の少女が音もなく地上に降り立つ。
「私も鬼の内臓にはちょっと興味があるわ。特に、肝臓がどんな色してるかとか」
 飄々とした態度で少女が言い放つ。
「霊夢……」
「最近全然神社に来てくれなくて、なにしてるのかと思ったら、ホントすぐ厄介ごとに巻き込まれるのねえ」
 やってきたのは博麗霊夢だった。
「お前、どうやって私たちの危機を察知したんだ?」
「ただの勘よ。って、ちょっと待って。あそこにいるの……」
 霊夢は鬼の後ろに横たわっている、ボロボロのこいしの姿を目ざとくとらえた。
「なんでアイツがここにいるのよ!? それに……あんなに痛めつけられてるの!?」
「ああ、オレがやったのさ」
 爆煙の中から現れた鬼が余裕たっぷりに答えた。夢想封印の直撃を受けても鬼はびくともしていなかった。
「アンタがやったの? そんな小さいガキを?」
「ああそうさ。ガキの腹を殴るのは好きだ。薄い肉の心地がいい。ただ手加減がいるな。こう、撫でるように優しく殴ってやらねえと、すぐに破けて使い物にならなくなっちまう」
「……ゲスね。いっしょに酒を呑みたくはないわ」
「オレは呑みたいぜ。オマエの首でも眺めながら呑めば、きっといい肴になるさ」
「言っとくけど、容赦はしない。全力でいかせてもらうわよ」
(……ああ)
 魔理沙は霊夢の横顔を見てすぐに感づいた。
(あの顔だ――)
 しばしば妖怪たちはある勘違いをする。巫女が強いのは弾幕ごっこの範疇でだけ。ルールなしの真剣勝負なら自分たちに分があると。しかしそれはただの思い上がりなのだ。命の奪り合いに望んでこそ、初めて霊夢の真価は発揮される。
(アイツは、博麗霊夢は私とは違う。――アイツは神に愛されている)
 眼には見えぬ神霊たちが結集し少女の小さな体躯へと宿った。
(――あっ?)
 霊夢がお祓い棒を構えたその刹那、鬼は戸惑った。視界の中心、霊夢の胸のあたりから黒い裂け目が生じ、音もなく広がっていったのだ。鬼は自分の目を疑ったが、虚像ではない。空中に穿たれた漆黒の裂け目の内部、そのもっとも深い箇所に、「ほんとうに恐ろしいもの」が映し出されていた。
(あれは……)
 次の瞬間、極めて静かに決着がついた。
 鬼が見た「ほんとうに恐ろしいもの」とは、0.001秒後の自身の姿だった。すなわち、自身の亡き骸だった。
 横一文字に肉体を両断され、自分が死んだことに気づく間もなく、鬼は一撃で絶命した。
(……いつもこうだな。いつもいつもこういう風にして、ことが終わる……。私を置いてきぼりにしたまま……)
 鬼の亡骸を見下ろしながら心の中で魔理沙はポツリとつぶやいた。
 
 その後霊夢は魔理沙といっしょにこいしの手当をした。妖怪ゆえの頑丈さもあり傷はそこまで深くなかった。
「ツバでもつけときゃすぐ治るわよ。ってなわけで、私は眠いしそろそろ帰るわ……」
 霊夢はあくびまじりにそう言って帰っていった。
 そして家には魔理沙とこいしが残された。今更眠る気にもなれず、二人はソファに座って向かい合いあれこれ話をした。
「そういえば、昨日の夜ラジオで聞いたんだが、明日の朝までに雨はやむそうだ」
「えっ……ホントに?」
「さっきまでがピークだったみたいだな。いや、だからといって、すぐに帰れとはいわないけどな」
「……ありがとね」
「私だって怪我人にそこまで厳しくしないさ」
 表向きは、二人は普段通り話していた。けれども二人の心にはあるひっかかりが生まれていたのだ。先ほどの事件の影響だった。こいしはそれまで知らなかった魔理沙の新しい一面に気づいていた。
 先に切り出したのはこいしの方だった。
「……ねえ魔理沙、ひとつ聞いていいかな?」
「なんだよ、急にかしこまって?」
「さっき魔理沙さ、すごい顔して巫女の方を見てたよね。巫女があの鬼を一撃で倒した時のこと。あの感情の正体は、きっと、嫉妬だった」
「……心が読めないんじゃなかったのか?」
 突如として魔理沙の表情がすり替わる。普段の飄々としたものとは違う、生々しい感情の髄があらわになった顔。暗い感情がありありとにじみ出た顔。こいしは思わずひるんでしまった。
「そ、それでもはっきりわかっちゃうくらい、魔理沙は暗い顔をしてた……。魔理沙はどうして、あれほど暗い感情を抱いてるのに、あの巫女といっしょにいられるの?」
「……ふう」
 魔理沙が肩を落とし、小さくため息をつく。感情の整理をしているように見えた。こいしは恐怖に身をこわばらせながら魔理沙の表情をじっとうかがった。
 しばらくして、うつむき加減に傾けていた頭を魔理沙が再びもたげた。魔理沙はようやく口を開けた。
「逃げ出すわけにはいかないんだ。たしかに打ちのめされるよ。寝るのも惜しんで作った魔法が全然効かなかったのに、アイツは一撃であの鬼を倒しちまった。全く、バカバカしくなってくるよ」
「じゃあ、どうして……」
「諦めるわけにはいかないんだよ。家から勘当されて魔法も諦めて、私に何が残るっていうんだ? そんなのゼロじゃないか。私はそんな人生はイヤだ。……それに、私は霊夢に感謝してもいるんだぜ?」
「……感謝?」
「アイツの才能が本物だからこそ、私は頑張ることができる。クタクタに疲れ果ててる時だって、アイツの顔を思い出せばもうひと踏ん張りしようと思える。誰かと本気で向き合うっていうのは、やっぱり苦しいことだ。それは否定できないけど、その苦しみと目を背けず向き合ってこそ、人間は強くなれると思うんだ。だから――」
 魔理沙はあることに気づいていた。自分の苦悩を語ることが、そのままこいしへの慰謝の言葉となること。もう魔理沙の心に迷いはなかった。魔理沙は確信をこめこいしの肩にぽんと手を添えた。そして優しげな微笑をこいしへと投げかけながら、力強く伝えたのだ。
「オマエもさ、一回地底に帰ってさとりに会ってこいよ。それでもやっぱり苦しかったら、私のもとに戻ってくればいい。とにかく勇気を出してさ、一歩踏み出してみろよ」
 その言葉を、ずっと求めていたような気がした。たちまち目頭の奥がツンと熱くなって、体の芯にもあたたかなものが蘇って、涙があふれてきた。今までのように苦しい感情から逃れるための後ろめたい涙ではない。暖かく透明な、サラサラとした涙だった。大きな恩寵に触れた時に頬を伝う、おだやかな静謐の涙……。
 こいしは窓の外を見た。魔理沙の言っていた通り雨の勢いは弱まりつつある。雨はじきに降りやもうとしている。
 もう迷いはなかった。こいしは立ち上がり、魔理沙に言った。
「ありがとう、魔理沙。おかげでやっと勇気が出せた。私、お姉ちゃんのもとに帰ってみるよ。……でも、その前にひとつだけお願いしてもいいかな……」
 こいしは指先で自分の頬を指した。
「キスをして欲しいの。お姉ちゃんが昔、寝る前によくしてくれたんだ。私が悪い夢を見ませんようにって……」
「それくらい、お安い御用さ」
 魔理沙は白い歯を見せて二カッと笑った。立ち上がって、細い腕をこいしの首に回して抱き寄せる。真っ白なこいしの頬に薔薇色の赤みがさす。魔理沙もまた少し照れくさそうな、青々しい表情をしている。それでも魔理沙は「姉」として、恥ずかしがらずに可愛い妹の頼みを聞いてやったのだ。
 真っ赤に濡れたくちびるが、そっと頬に触れる。時間がとまってしまうくらい、愛に満ちた一瞬。
 魔理沙がくちびるを離す。もう二人の間に言葉は必要なかった。こいしは力強くうなづいて、魔理沙に深々と礼をした。そうしてこいしは一週間泊りつづけた家から旅立った。魔理沙は去っていくこいしを手を振りながら見送った。
(地底に帰ったら、今度は私がお姉ちゃんにくちづけをしてあげよう。もう二度とお姉ちゃんが、悪い夢を見ることがないように……)
 踏み出した一歩は小さいものだった。それでも、これからもずっとつづいていく希望の一歩だと、晴れわたる青空のもと、こいしはそう確信していた。
 
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
某掲示板から来ました。面白かったです。
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
芯に迫る暴力描写がすさまじかったです。
5.100南条削除
面白かったです
覚めない悪夢のなかにいるこいしが最後には一歩踏み出せたようでよかったです
6.90名前が無い程度の能力削除
後半描写密度が駆け足気味に感じたかな
下手な文章よりは、下劣だろうがグロかろうが上手いならば私は楽しみます
7.100愉悦部出身削除
とても面白かったです。
こいしが目を閉じた理由をいつも探していて、また一つ増やすことができました。ありがとうございます。
魔理沙とこいしの可愛さも出てました。
9.100想像する程度の能力削除
小説紹介サイトから来ました。想像以上に面白かったです。