「熱……」
何となく買ったたこ焼きを頬張りながら、青い空の下を歩く。肌を撫でる風は少しひんやりと水分を含んでいて、雲一つない空とは対照的に、雨が近いことを予感させた。
空を見上げる。
思い出すのは電話越しのメリーの声。急用が入って、今日は会いに行けない、と。
それを聞いて、ふと私は、居ても立っても居られなくなって自転車を走らせたのだ。
一人でいると嫌でも自分を客観視してしまうもので。少なくとも私は、そういうことを考えずにはいられない類の人間だった。他人と自分を比べることは無意味だ、と人々は言うが、私はプライドだとか、対抗心だとか、そういうことを言いたいのではない。ただ、私は彼女と釣り合っているのか、と、そう思ってしまっただけなのだ。
私たち秘封倶楽部。マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子。幻想を渡る彼女と、その幻影に追いすがる私。きらきらと輝く彼女の瞳を、直視できなくなったのはいつからだろうか。
そびえ立つ巨大な門を見上げる。圧倒される感覚は荘厳、とは少し違う。どちらかと言えば城塞から感じる威圧感に近かった。確か仏教における3つの解脱の道を表していて、だから一般的な「山門」ではなく「三門」と呼ばれている。
「って、いつもなら解説してるところなんだけど」
こういったときに蘊蓄を披露するのが何となく癖になっているのに改めて気が付いた。メリーの純粋に楽しそうな反応を見るのが、私の秘かな楽しみだった。
でも、それは。ただの私の自己満足ではないのか。
(知識をひけらかして、それでマウントを取って、対等なつもりで居ただけでしょう?)
耳元で囁くような声。それは脳の髄の部分にするりと浸み込んで、私の思考を塗り潰そうとする。
「そんなこと、ない」
頭を振って、その声を否定する。
そうじゃないと、私はメリーのあの笑顔を疑うことになる。それだけは駄目だ。もし私が、そんな卑しい人間だったとしても、彼女のことを信じられなくなることだけはたまらなく嫌だった。
正面に続く階段は一段が高く、登るのに一苦労した。
その階段の先に広がるのは知恩院。浄土宗の総本山であり、平安時代から続く京都を代表する寺社の一つ。ここには前から興味があった。
人呼んで「知恩院の七不思議」。これを暴くのが今日の目的である。
「メリー抜きでできる倶楽部活動なんて、せいぜいこんなものよね」
少し自虐的な笑みを溢して、私は境内で最も大きな建物、御影堂へ向かう。
「ん、工事中?」
御影堂の周囲に骨組みが組み立てられていたが、参拝は可能なようだ。目的を見つけるのに支障はないだろう。
御影堂正面の東側、ここにあるのは有名な「御影堂の忘れ傘」。軒裏に引っ掛けられるように置かれたそれは、確かになぜそんなところに忘れたのか疑いたくなるようなものである。
「あー、あれですか」
「え、どれどれ?」
「あれですよ、ほらあの白い梁の先の少し上……」
「あれかな?」
「そっちじゃないです、私の真上」
「あ、あれだ!」
「だーかーらー!そっちじゃないって!」
何やら騒いでいる人影が二つ。背丈は少女くらいのそれだろうか。
一人は服も髪も、鮮やかな水色。なのだが、あまり強烈な印象を受けず、まるで快晴の空を見上げたような清々しい印象を与える。そして瞳は左右の色が異なるオッドアイ。右目は服や髪と同じ水色でまるで印象に残らないのに、濡れた血のような深紅の左目だけがひどく目立っている。
もう一人は亜麻色の髪、その上でピコピコと動く同色の耳。後ろではしっぽが揺れていて、俗にいう獣人の特徴を備えている。そして何より、煽情的なまでに体のラインがはっきりと浮かぶ白いチャイナドレス風の衣装。
あまりに奇抜ないで立ち。どう見てもまともな人間ではないし、もしかしたら人間ですらないかもしれない。普通の人なら関わり合いになりたいとは思わないだろう。
しかし私は靴を脱ぐと、早足にその二人に近付いていった。
この時、私の中にあったのは純粋な好奇心ともう一つ。「これでメリーに近づける」という浅はかな考え。
(くすくす。打算的な人は嫌いじゃないですよ?)
その囁き声を聞いて、気付かぬうちに私の口角は卑しく吊り上がっていた。
「あ、あれだ!」
「やれやれ、やっと見つけましたか」
ようやく忘れ傘を見つけご満悦の水色の少女はふーん、ほーん、と気の抜けた声を繰り返しながら上を見上げ、時折誰かに語るように
「お勤めご苦労様だねー。え、わたし?もう忘れちゃった」
などという謎の言葉をつぶやいている。
「まったく、こんなことしている暇はないというのに……」
亜麻色の少女のしっぽが急かすようにぱたぱたと揺れ、そこから四角い紙片が一枚、はらりと落ちた。
私はそれを拾い上げ、少女に話しかける。
「おっと、落としましたよ」
「あら、これは失礼しました」
少女はこちらに気づくと、丁寧にお辞儀をする。
手渡す瞬間、紙片の内容が目に入る。どうやら古い写真のようだ。それも、星空?
私の瞳は無意識にそれを処理し、頭に情報が流れ込んでくる。
『三月六日』『二十一時十五分』……え?
ちょっと待て。それは明らかに矛盾している。
慌てて携帯端末を見る。
『3月6日 14時21分』
どういうことだ。私の瞳が、この写真に写る星空は今より先の時刻のものだと言っている。そんなこと、あり得ない。
「なんで、これ……」
突然の出来事に動揺を隠せない私。
「あぁ、なるほど。あなたが宇佐見どの、ですか」
そんな私と対照的に、我が意を得たり、という風な笑みを浮かべる少女。艶めかしく輝くその目は、獣が獲物を定めたときのそれに似ている。
「どうして、私の名前を……?」
「はて、どうしてでしょうね?」
囁く声は、甘い毒のように私の理性を蝕む。
身体が竦んで動かない。かちかちと鳴る奥歯、熱を失う身体。しかし頭だけは蕩けそうなほどに熱く、目の前の現実を受け入れるのを拒んでいる。
メリーが語る冒険譚は美しく輝かしく、しかし時に残酷で。好奇心と打算で幻想に足を踏み入れる愚かな猫など容赦なく貪られる運命なのだと、雄弁に語っていたではないか。
まずい。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げ―――
「おどろけーーー!」
「「……は?」」
私はこの先ずっと、この凍り付いた空気を忘れないと思う。
「……今のは流石にわちきが悪かったです。ぐすん」
空気に耐えられなくなったのか、水色の少女は目に涙を浮かべ、しょぼしょぼと小さくうずくまってしまった。
亜麻色の少女は眉間を押さえ、信じられないという風に首を振っている。
「空気を読まないにも程があるでしょう……。はぁ、もういいです。お願いですから、これ以上邪魔をしないで下さい」
「……うぅ」
ますます小さくなる水色の少女に同情の視線を向けながら、私は内心落ち着きを取り戻していた。というより呆気に取られて、逃げる気力が奪われたといった方が正しいか。仮にこれが彼女の策に嵌っているのなら、もう成す術もないのだが。
「気を取り直して、まずは自己紹介を。私は菅牧典。我が主、飯綱丸さまの命により参上した次第でございます。あぁ、因みにそこに転がっているのは多々良小傘です」
「わたしの紹介、雑!」
「凡骨は黙っていなさい。それでは宇佐見どの、早速本題に」
「ちょっと待って」
話に流されそうになったが、私は必死に声を上げる。
嫌に丁寧な菅牧典、いじけている多々良小傘、両者ともすぐに私を襲う訳ではは無いようだが、この先何が起こってもおかしくないのだ。話ができるのなら、それに越したことはない。
「えーとまず、なんで私の名前を?」
「あーなるほど。そうですね、私たちはあなたと取引をしに来たのです」
典の滑らかな話し方は、敏腕秘書のそれを思わせる。
「取引?」
「えぇ。我が主人による、飯綱の法と呼ばれる呪(まじな)い。これによって、飯綱丸さまはこの地で何かが起こることを予見されました。それと宇佐見蓮子、『星見の瞳』をもつあなたの存在も」
「なぜそれを……」
そのことはメリー以外、誰にも話したことがないはず。改めて人知が及ばない相手なのだと悟り、背筋に冷たいものが走る。
「つまり今回の件について、あなた様の協力が不可欠、よって取引をしたいという訳なのです。ご理解いただけましたか?」
三日月のように歪む彼女の眼が、お前にもう逃げ場などないのだと訴えかけていた。
私は射竦められた小動物のような気分でその話を聞いていた。
彼女は私と交渉すると言っている。だがこれは既に脅迫だ。私に拒否権は無く、無謀な二択を突き付けられているに過ぎない。私の血肉になるか、あるいは私の手足になるか。
「……何を、手伝えばいいの?」
「賢いご判断、ありがとうございます。私たち、良い関係になれそうですね?」
白々しい台詞と共に、典と名乗った少女は笑みを浮かべるのだった。
「では、改めてこちらをご覧いただけますか」
差し出されたのは先ほどの写真。映っているのはやはり、まばゆく瞬く星空。
「飯綱丸さまの能力で疑似的に再現された星空の写真です。しかし、星図から割り出せるのは精々、座標のみ。いつ、何が起こるかなどは分からないのです。ですが、『星見の瞳』を持つあなたなら、何かわかるのではないか、と」
改めて写真を眺める。撮られた媒体のせいか古ぼけたように見える写真はしかし、これより先の時間のものであると主張している。
「なるほどね。でも残念だけど、私の目で分かるのは時刻だけ。この星空は、『今日』、『二十一時十五分』のものだってことくらいよ」
典はふむ、と唸りながら、何かを考える素振りを見せる。
「では、このあたりで何かが行われるという話はありませんか?」
「特には。そもそも、ここに来たのもなんとなくだし」
そう口にして、飯綱丸とやらに操られていたのでは、という考えが頭をよぎり、薄ら寒いものを感じる。
「まぁ、制限時間が分かっただけでも上々の成果です。原因と対策は足で探すほかありませんね。宇佐見どのは……」
私は意を決して返答する。
「乗り掛かった舟だし、最後まで協力するわよ」
ここで背中を見せるのは流石に怖いというのが本音なのだが。
「それは有難い。ではよろしくお願いいたしますね。ほら多々良小傘、いつまでしょぼくれてるんです。さっさと働いてください」
「わちき、おどろかせ放題だっていうからついてきたのに……」
肩を落として歩いていく小傘。その後ろ姿がどこまでも不憫であった。
私たちは手分けをして周囲の捜索を始めた。
といっても、何を探せばよいのか分からないのでは見つかるものも見つからない。そもそも何かが起こるって何が起こるんだ。
「何か、と言われましても、私にだって分かりません。ですが飯綱丸さまが憂う程のことですから、それほど重大なことなのでしょう。例えばここら一帯が消えうせる、とか」
冗談ですよ、と典は悪戯っぽく笑っていたが、その目が笑っていなかったのを私は見逃さなかった。
初めのうちは爆弾でも見つかるのだろうと簡単に考えていたが、どうやらそういう話ではないようだ。真相に近付いているかも分からないもどかしさが、段々と気持ちを諦めへと導いていく。
「そこの先を見て何もなかったら、一回戻ろう」
階段を上り、突き当りを左折。境内の奥まった場所に位置するお堂は、周囲よりも一段と静穏な空気に包まれていた。一礼し、その脇を抜ける。さらに奥、共同墓地へと立ち入る。
立ち並ぶ墓石は、いつかメリーとみた蓮台野の景色を思い出させる。しかし、何か変わった様子であるわけではなく、ただ静かに過去を悼むだけ。
「やっぱり、何もないか」
諦めて立ち去ろうとしたそのとき、目の端に異様なものが映った。いくつもの墓石の間を抜けた先に、それは佇んでいる。私はそれに駆け寄り、目前でそれを眺める。
「なんでお社がこんなところに……」
人が長らく訪れていないのだろう、寂びれた鳥居には「濡髪祠」の文字。忘れられ、打ち捨てられ、しかしそこにあり続けるそれは、未だ果たされない約束を待つ姿を想起させた。
「それで、何か見つかりましたか?」
再び御影堂の前で集まった私たち。どうやら典の成果は芳しくないようで、苦い顔をしている。かく言う私も危険につながる何かを見つけることはできなかった。
典はそれを察したのか、私ではなく小傘に話を振る。
「多々良小傘、あなたはいかがでしたか」
目を伏せる小傘に、私たちの間に諦めムードが漂う。しかし、突然顔を上げた小傘はその相貌をキラキラと輝かせていた。
「あのね、渡り廊下のところで、床からウグイスの鳴き声がした!」
「はぁ?」
典はあきれた様子で小傘をにらみつける。しかし小傘は気にも留めず話を続ける。
「あとは、ずっとこっちを見つめる猫の絵とか、何にも描かれていない屏風とか!」
小傘は見つけた変わったものを一つ一つ、満面の笑みで語る。
それに対し私は、
「それは全部、知恩院の七不思議ね。なぜか鴬張りになっている渡り廊下。本来忍び返しのための床がなぜ寺院にあるのか、という謎。一説にはウグイスの鳴き声が『ほーけきょ(法聞けよ)』に聞こえるからで……」
そこまで言って、慌てて私は自分の口を押さえた。また意気揚々と解説してしまった自分を恥じる。典がくすくすと笑う声が、先ほどの囁き声を思い出させる。
「……別にどうでもいいよね。なんでもない」
ぐるぐると目が回る。自分は浅はかな人間なのだと明かしてしまったような気分。
「え、面白いのに。もっと話してほしい」
私ははじかれたように顔を上げる。無邪気に笑う小傘。その姿が、メリーのものと重なった。
「こほん。その話、あとでもよろしいですか?」
「えぇー。蓮子、あとで続ききかせてね」
わざとらしく咳払いをする典は何やら、つまらないという表情をしていた。
「結局、振り出しですか」
何も見つからず、無駄に時間だけが過ぎてしまった。時刻は17時を回り、残された時間はあと4時間だけ。
「あ、そういえば。こんな張り紙があったよ」
「そういうのは早く出してください。それで、なんと書かれているんです?」
小傘が取りだしたのは風雨によって少し色あせた、A4サイズの紙。でかでかと散りばめられた色とりどりの文字は何だが幼稚さを感じさせるものだった。
「読み上げるよ。『知恩院 神亀の大改修! 長年の風雨により老朽化した部分をはじめ、これまで放置されていた余分な屋根瓦を撤去。これにより御影堂は完全な姿となり、三月七日にセレモニーが予定されています。』だってー」
読み終えた小傘はよくわからないという表情をしている。
対して私と典は互いに顔を見合わせて、わなわなと肩を震わせる。
「「それだーー!!!」」
開いた口が塞がらないとはこういうことか。馬鹿らしくて涙が出てくる。
「どうしたの二人とも!?」
「だめ、頭痛い……。人間がここまで馬鹿だと思わなかったわ……」
典は今にも卒倒しそうな顔をしている。かく言う私も空を見上げ、呆れることしかできない。
「え、なに?どういうこと?」
「宇佐見どの。説明してあげてください」
さっきまで私の蘊蓄に難色を示していた典の鮮やかな手のひら返し。だがこればかりは同情する。私も語らずにはいられなかった。
「任されたわ。『満つれば欠くる、世の習い』。古来より完璧なものには魔が潜むとされて、建築では随所に隙を残すことがあった。有名な例では日光東照宮の門で、十二本の柱の内一本が逆さに取り付けられているとか。それと同じで、この御影堂の屋根には未完成の証として瓦が4枚置かれているの」
「つまり、それを撤去したらまずいんじゃ!?」
事の重大さを理解し、わたわたと慌てる小傘。
なんとか調子を取り戻した典がふらふらと立ち上がり、ため息をつく。
「やれやれ。呆れるような理由でしたが、これで方法ははっきりしました。要するに工事を止めればよいのでしょう?」
私たちは工事現場へ走る。
「そこの方、待って!」
私は重機の音にかき消されないように大声を張り上げる。
ヘルメットを被った男性は私たち気付いたものの、訝しげにこちらをにらんでいる。
「あぁ?なんだいきなり」
「その工事を止めてください!そうしないと大変なことが!」
男ははじめ面倒そうにしていたが、次第にそれが馬鹿にした表情に変わる。
「小娘どもが何を偉そうに。こっちは仕事なんだ。あぁそうか。大変なことになるなぁ、お前らのせいで納期が間に合わなくなっちまう!」
ゲラゲラと下品に笑いだす男性。
「馬鹿な人間が……」
「でも、どうするの?」
悪態を吐く典。心配そうに私を見つめる小傘。私はなるだけ平静を取り繕って、男性に尋ねる。
「……大切な時間をお取りしてしまいすみませんでした。最後に一つだけ。屋根瓦について、なにか変わったことはありませんでしたか」
男性はめんどくさそうに顎を撫で、思い出したようにつぶやく。
「あぁ?そういえば、屋根瓦が四、五枚多かったとか言ってたな。それが?」
「いえ、ありがとうございます」
私は踵を返し、その場を後にした。
「すぅ、はぁ……」
私は大きく深呼吸をして、至って冷静に状況を整理する。
「はぁーーー!!?!」
できるわけがなかった。今まで我慢していた怒りがすべて爆発する。
「大人はどこまで馬鹿なのよ!下手に出ればあの態度、こちらの話を聞こうともせずに!てかそもそも誰だこんな計画立てた奴、まず土地の歴史とかを調べるのは常識でしょう!土地神に祟られるぞ!あそうか、だから今から祟られるんだったわ!」
その罵声は淑女が出してよい音量を優に超えていた。だがそうせずにはいられなかった。
「蓮子、落ち着いて?ほら、典ちゃんも何か言ってあげて」
「馬鹿は馬鹿らしく惨めに死ね!」
「あぁ、こっちも駄目だったー!」
数分後。私は息を切らせてその場にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ。思わず頭に血が……」
ようやく落ち着きを取り戻す。
「よかったー。ほら、お水」
小傘が水の入った柄杓を渡してくれた。それを一息で飲み干す。
「ぷは。ありがと。さて、これからどうするか考えないと」
「そうだよ。何かが起こる前に対策しないと」
落ち着いて、真っ当な意見を述べる小傘。短い付き合いだが、彼女は他人に甘い節があると思う。
「奴らに与える制裁の方が先決です」
そこに典が一言。彼女はそもそも人間を下に見ている節があったので、今回の件で完全に愛想が尽きたのだろう。
「それもそうね」
「ちょっと二人とも!?」
慌てる小傘。
「大丈夫、私は冷静よ。まぁ、できることなら懲らしめてやるつもりだけど」
「ほ、ほどほどにね?」
私は少し緩んだ表情を引き締める。ここからは真剣に対策を考えなくてはいけない。
「それで、原因は分かりましたが、いまだ何が起こるかはわかっていない。これでは対策の仕様がありません」
典の言い分は最もだ。しかしこれに関しては、私に一つの予想があった。
「いや。たぶん、起こるのは……」
私たちは各々ができることを伝え合う。
知恩院を襲う未曽有の危機。その対策が決まる頃には日はとうに落ち、その期限が迫ろうとしていた。
「現在、9時13分。二人とも用意はいい?」
「こちら、準備万端です」「こっちもいけるよ!」
イヤホンから二人の声が響く。私たちは各々の持ち場に分かれ、待機している。
私は空をにらみ続け、その時が来るのを待つ。
「15分、ジャスト!」
私が叫んだ瞬間。
空から眩い光がほとばしる。それは私たちの目線の先、御影堂の屋根に突き刺さり、ほぼ同時に爆音と地響きが鳴り響く。
「!」
眩んだ眼を開く。やがて輝きは赤く変わり、建物からうねるような炎が捲き上がる。
「やっぱり来た!小傘!」
上空に待機していた小傘に声をかける。
「オッケー、蓮子!いっくよー!傘符『大粒の涙雨』!」
その掛け声と共に、空はまばゆい光で包まれる。
それは炎の光を受け、きらきらと輝く雨粒。紫色の傘をくるくると回し、彼女は空に星を描いている。
やがてそれは重力に従い、私たち、そして燃え盛る御影堂のもとに降り注ぐ。
強まるばかりだった火の手は小傘の降らせた雨によって少しずつ抑えられていく。
「こっちの方が才能ありますよ、多々良小傘。火消しにでもなったらどうです?」
「うるさい!わたしは人間を驚かせる妖怪なの!」
『御影堂の忘れ傘』の由来として有名な説の一つは、これを建造した大工がわざと置いていったというもの。それは屋根瓦と同様に不完全を残すためともう一つ、火災から建物を守るためだったとされる。
だから御影堂が原因ならば、きっと起こるのは火事だろうと予想していたのだ。
「典、そちらの準備は?」
「えぇ、とっくに」
火災が起きる同時刻。
工事を終えた男たちが見舞われたのは、突然の落雷、肌を焼く爆炎、そして視界を奪う豪雨。
当然、皆目を回すように逃げまどっていた。
「何が起きた!?」「火事だ!」「何がどうなっている!?」
それを暗闇から眺めている影、典は意地悪く口角を歪める。
散り散りに逃げ惑う男たち。その耳元に、邪悪な囁き声が響く。
(くすくす。馬鹿な人間たち。あなたたちは神の怒りに触れたんですよ)
「なんだこの声!」「神の怒りだって!?」「助けてくれ、たのむ!」
狂乱の場には不釣り合いな、透き通るような少女の声。それはある者には救いの天使の声に、ある者には命を狙う悪魔の声に聞こえただろう。
(助けてくれ?いやです、文句なら彼に言って下さい。ほら、先ほど私たちを無碍に扱った、あなたですよ)
全ての視線が一点に集まる。それはさっき、私たちを馬鹿にした男だった。
「ひぃ、お、俺!?」
「どうしてくれるんだ!」「お前のせいで!」「何とかしろ!」
怯える男性にその場全員が殺到する。その姿はあまりに滑稽で、思わず笑みがこみあげてくる。
群衆の矛先を操るなんて単純なことだ。混乱する頭に分かりやすく、端的に、その解決策を教えてあげればよい。それだけで人間は簡単に動く。今まで何度もやってきたことだ。
「あははは。やっぱり人間って愚かだわ!」
隠すつもりのない邪悪な笑い声が、高らかに響き渡った。
「うわ、えっぐいなぁ」
私の口から思わず感想が零れる。それに対して不服そうに典が答える。
「そうは言いますが、これを指示したのはあなたですよ、宇佐見どの?」
一仕事終えた典が私の元に戻ってきた。私は少しきまりが悪そうに頬を掻く。
「そうなんだけどさ。それより、ちょっとまずいかも」
「今のところ、作戦通りでは?」
「いや、思ったより火の手が強い。それに小傘にも疲れが見えはじめてる」
見上げると小傘は懸命に傘を振り回している。しかしその動きに最初ほどのキレはなく、今にもへろへろと落ちてきそうだ。
「では、どうすれば……」
典の呟きに焦りの色が見える。
私はここまでに見たものをすべて思い出し、必死に考える。どうすれば火を鎮められる。いま私に何ができる?
建物を壊す?物理的に無理だ。
水をかける?そんなの焼け石に水だろう。
あれは無理、それも無理。私の中で浮かんだ案がすぐに正論でかき消されていく。
私の力でできることが、どんどん無くなっていく。
「無理だ……」
このままでは火の手は市街地の方に向き、大火災の対処法など遠く忘れ去られた科学世紀の京都は一夜で焼け野原となってしまう。
それを止められるのはここにいる私だけ、という現実が私に重くのしかかる。だが、一介の女子大生に何ができるというのか。
手が震える。怖い。どうして私がこんな目に。
安易に幻想に足を踏み入れた代償は、私の命だけでは足りないのか。
「助けて、メリー……!」
「また、『メリー』ですか?」
そう呟いたのは典だった。
「聞いていればメリー、メリーと。子供ですかあなたは。なんです、メリーならこの火事を止められるんですか?」
「でも、メリーは、私なんかより……」
そうだ、私よりよっぽど優れた能力を持っていて、強くて、そして私の憧れ。
しかし典はそれを遮るようにきっぱりと告げる。
「断言するわ。そのメリーとやらにこの火事を止める力は無い。それこそ飯綱丸さまのような大天狗でもない限り」
「だけど私じゃ何もできない!」
「当り前だ、思い上がるな人間!」
典は今までの飄々とした態度を一変させ、本気で怒鳴っている。
「私だって何もできない!それ以上の言葉は私に対する侮辱と同義だと知れ!」
私は思わず口を噤む。典だって、何もできず歯痒い思いをしているのだ。それを、私は。
「私は今まで何人もの人間を堕落させてきた。愚かな野望を持った者に、私は囁き、支え、幸福の絶頂へと導き、そして最後に蹴落とす。これが、管狐にできることの全て」
典はとうとうと語り続ける。
「だが私は知っている。私が突き落とした人間の表情。絶望のどん底で、傷を舐め合い、互いを貪り合い、自分だけでも這い上がろうと、獣に堕ちた者。それが唯一、対等になるときです」
「あなたは友人と対等であることを望んでいる。彼女はあなたの持ち合わせぬ力を持ち、あなたが成し得ぬことを成すのかもしれない。だがあなたには星詠みの瞳があり、その知識がある。私にも、多々良小傘にも、そして彼女にも無い能力。
ないものねだりの何が悪い。それが人間の本質であり、群でなく個であるということ。あなたが彼女を必要としているように、彼女もあなたを必要としている。人間でありたいのなら、対等という考えを捨てることです」
もし真の意味で対等にしてほしければ、いつだってあなた共々堕落させて差し上げますよ、と最後に付け加える典。その表情には以前の悪戯っぽさが戻っていた。
「……なにそれ。それってつまり、共依存で堕落しろってことじゃない」
「あら、ばれました?」
ごまかすように、こーんと鳴く典。
「ううん、そのぐらいの方が私にはちょうどいい。応援してくれてありがと、典」
「これだから、あなたみたいな人間は苦手なんですよ」
典は照れ臭そうにそっぽを向いている。
「うん、ちょっと元気出た。典、少し手伝ってくれない?」
私は頬を叩き、気持ちを入れ替える。帽子を被り直し、前を見据える。
「秘封俱楽部の底力、見せてあげる!」
「だからって、火の海に無策で突っ込む奴がありますか!?」
「勢いで行けると思ったんだけどなー」
未だ火の手の弱まらない御影堂。小傘の努力のおかげで境内から炎が溢れることはないが、それも時間の問題である。
私にできることは、もう何もない。それは私が必死になって考えた結論だ。
そして人間にできることがなくなったとき、することは一つ。
そう、神頼みである。
「自分を生贄に捧げるとか、頭蛮族になったんですか?」
「いや、違う違う。私が必要なのは、忘れ傘よ」
あれは長年、知恩院を守り続けていたアーティファクト。それを持ち主に返すことができれば、もしくはなんとかできると思ったのだ。
「でも、持ち主はとうの昔の大工なのでしょう?」
「それも説の一つなんだけど、もう一つあるのよ、忘れ傘の由来」
「たとえそうだとしても、この炎の中から傘一本を見つけるなんて……」
「話は聞かせてもらったわ!」
上空から演技がかった声。ふらふらと舞い落ちてくるその姿とは対照的に、小傘の声には私の出番だと言わんばかりの気概が宿っている。
「ちょっと!あなたが来たら、消火はどうするんです!」
典が大声で叫ぶ。確かに小傘が下りてきてしまっては火の手は強まる一方になってしまう。
「それなら大丈夫、ほら」
そういえば、未だ雨は降り続いている。空を見上げると、紫色の傘だけがひとりでにばさばさと回転している。その姿はまさしくてんてこ舞いといったようで、少し不安になるのだが。
「あぁ、あっちも本体なんでしたっけ……」
「だから心配ご無用!そんなことより、忘れ傘の場所でしょ!声さえ聞こえれば、場所が分かるわ!」
「そんなことできるの?」
「付喪神舐めないでよね!」
思い返せば、最初に会ったとき小傘は虚空に向けて何かをつぶやいていた。あれは本当に忘れ傘と会話していたのか。
「うーん、炎の音が大きすぎて……あ、あそこ!」
小傘が指をさす先、そこには瓦礫の山。
「でも、近づくことが……!」
「せーのっ!」
小傘の掛け声。背後から大きな水塊が、地面にたたきつけられる。
私と典は慌てて駆け寄り、瓦礫を掘り返す。
「あった……!」
丁度瓦礫の隙間に埋まっていて、忘れ傘は無事であった。
「よかったぁ」
小傘はへなへなと倒れこんでしまった。
「ごめん、もう限界。あとのことはお願いね~」
「大丈夫、大手柄よ、小傘!」
私は親指を立て小傘に向ける。小傘も同様に親指を立て、そのまま眠ってしまった。
「それで、どうするんです!」
「とりあえず、こっちよ!」
私ははじかれたように走り出し、典も後からついてくる。
階段を駆け上がり、左折。
先ほどまで静かだったお堂にまで炎の轟音は響いていて、私を一層駆り立てる。急く気持ちを抑えながら、私たちはその奥の墓地を駆け抜ける。
「これは……」
「濡髪大明神、ね」
息を切らしながら尋ねる典。
もう一つの忘れ傘伝説。それはここに眠っている。
当時、御影堂がある場所には白狐が住処を構えていた。それを知らずに人間が御影堂を立ててしまったので、白狐はそれに復讐するために大雨の日にずぶ濡れの子供に化け、経を唱える和尚のもとに現れた。しかし、その法要を聞くうちに改心し、帰りに和尚が貸してくれた傘を軒下に置き、今後この御影堂を守ると誓いを立てた。そして、和尚によって新たな住みかとして作られたのが、この濡髪大明神である。
つまりここに、傘の持ち主である濡髪童子が眠っているはず。
「お願いです、力を貸してください!」
私は傘を祠に捧げ、必死に願いをささげる。私にできることは、もうこれしかないのだ。無力な人間にできる、最後の抵抗。典も後ろで俯き、祈っている。
しかし、
「なんにも……起きない?」
例えば、光と共に神様が現れるとか。あるいは凄いアイテムを渡されてどうにかなるとか。そんな甘い考えがなかったと言えば嘘になる。
しかし、本当に、何も起きない。
それは人間の限界、私の無力さの証明だった。
「そんな……」
打ちひしがれる私。こんなことをしている間にも火の勢いはますます強まっている。
「なんとか、何とかしてよ!私にはもうどうしようも……!」
「そんなことはありません、艶やかな髪の乙女よ」
後ろから肩に置かれる手。それには私が求める温もりがあった。
「あなたの願い、しかと受け止めました。あの時霊嚴上人と交わした約定を果たすときが来たということです」
「典……?」
見た目は典なのだが、雰囲気がまるで違う。見開かれた瞳に宿るのは強い決意。
「この体に一時的に宿らせてもらっています。この場に彼女が居合わせるよう計らって下さった飯綱権現様には頭が上がりません」
「つまり、あなたは、濡髪童子?」
「ええ。あなたの思いは、決して無駄ではありませんでしたよ」
私の瞳から涙が零れる。その嗚咽を、濡髪童子は静かに見守っていた。
「先ほど、もう私にはできることなどない、と言いましたね」
確かに、言ったけど……。
「あなたに一つ、お願いがあるのです」
「……私にできることなら、何でも」
私は涙を拭き、強い決意とともに答える。それは私の心からの言葉だった。
「ありがとうございます、濡髪の乙女。では……」
「わたしと、婚約を結んでいただけませんか?」
「え」
何でもするとは言ったが、でも、それは。
「えぇーーー!!?!」
あまりにも予想外すぎるのではないか。
「そ、そんなに驚かなくてもいいじゃないですか……」
濡髪童子が少しいじけた声でつぶやく。
「ご、ごめんなさい。取り乱しました」
でも訳が分からない。なんで、このタイミングで、婚約?
「すみません、わたしも説明不足でした。別にわたしがあなたに気があるというわけでは無いんです。あ、いやあなたが可愛くないとかそういうわけでは無くて」
「別にいいですよ、そんな揚げ足を取るようなこと言いません」
慌てる姿は人並の少年のようで、なんだか可愛らしいとまで思えてしまう。
「それでですね、重要なのは、今日、この場所で、わたしが婚姻を結ぶということです。」
空を見上げる。煙に隠れているものの、空には星が見えている。
「えぇ、過去のこの日、知恩院ではある催しが行われていました。それが、『狐の嫁入り行列』です」
古来より、晴れているのに雨が降るということを狐の嫁入りという。すなわち、
「逆説的に、狐が嫁入りすれば晴れていても雨が降る……?」
「それが、今日、知恩院で行われることには、大きな意味があるのです」
なるほど。彼の言っていることには理屈が通っている。しかし、何か引っかかることが。
「ちょっと待って、狐の嫁入り、ってことは、あなたが嫁入りするってこと!?」
「えぇ、今は女性の姿なのでちょうどよいですね」
濡髪童子は何か問題でも?という顔をしている。
「いやいや大有り、私が婿ってことでしょ!」
「そうなりますね」
「えぇ……?」
さも当然という風にうなずく濡髪童子。
「うぅ」
私も覚悟を決めなくてはいけないということか。
「はぁ、分かりました」
大きく息を吸う。なんでこんなことになったのか。もう訳が分からない。
「私、宇佐見蓮子はあなたに結婚を申し込みます。受けてくださいますか?」
「えぇ、もちろん」
私は差し出された手に口づけする。
満天の星空の下、赤く輝く炎に照らされながら、誰もいない墓場で開かれる小さな結婚式。
それは少女のころに思い描いていた夢とは何もかも違っていて、我ながら笑いがこみあげてきたけれど。
でも、不思議と悪い気はしなかった。
「そして、二人は幸せに暮らしました、ってわけ?」
「いや、私はここにいるじゃない」
昼過ぎのカフェテラスにて。
対面に座る少女は呆れ顔で私のことを見つめる。どうも私の話が信じられないようだ。
「だってねぇ、そんな話、全く聞かないし……」
あの後、私は気づけば自室のベッドで倒れていた。慌てて携帯端末でニュースサイトを開くも、そのような事故が取り沙汰されていることはなく、私は一人混乱するばかりだった。
最後の記憶は、雨の中誰かに運ばれている光景。空には星が瞬き、なんとも幻想的な雰囲気だった、気がする。
「夢だったんじゃない?」
「あなたにその台詞を言われる日が来るとは思わなかったわ。まぁこれで私の気持ちが少しは分かったかしら」
「えぇ、客観的に自分の行動を顧みる、いい機会になったわ」
私は帽子を傍らに置き、向かいの相棒の目をまっすぐに見据える。
「あとね、私も分かったことがある」
「なに?」
「どこへ行くにも、あなたといた方が楽しいわ」
「奇遇ね、私もよ」
私たちは互いの言葉を噛みしめ、そして笑いあった。
ふと開いたニュースサイト。離れた位置にある二つの記事。
『京都で未確認飛行物体!?謎の発光現象との関連とは』
『○○建設が倒産 直前に社員の多くが幻聴を訴える事態も』
私は思わずくすり、と笑ってしまった。小さなつながりが、私の記憶が間違っていなかったと裏付けする。
夢だとか、幻だとか、こういう場合を表す言葉はたくさんあるけれど。
きっとこの場合にぴったりの言葉。それは、
「たぶん、狐につままれたのよ」
何となく買ったたこ焼きを頬張りながら、青い空の下を歩く。肌を撫でる風は少しひんやりと水分を含んでいて、雲一つない空とは対照的に、雨が近いことを予感させた。
空を見上げる。
思い出すのは電話越しのメリーの声。急用が入って、今日は会いに行けない、と。
それを聞いて、ふと私は、居ても立っても居られなくなって自転車を走らせたのだ。
一人でいると嫌でも自分を客観視してしまうもので。少なくとも私は、そういうことを考えずにはいられない類の人間だった。他人と自分を比べることは無意味だ、と人々は言うが、私はプライドだとか、対抗心だとか、そういうことを言いたいのではない。ただ、私は彼女と釣り合っているのか、と、そう思ってしまっただけなのだ。
私たち秘封倶楽部。マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子。幻想を渡る彼女と、その幻影に追いすがる私。きらきらと輝く彼女の瞳を、直視できなくなったのはいつからだろうか。
そびえ立つ巨大な門を見上げる。圧倒される感覚は荘厳、とは少し違う。どちらかと言えば城塞から感じる威圧感に近かった。確か仏教における3つの解脱の道を表していて、だから一般的な「山門」ではなく「三門」と呼ばれている。
「って、いつもなら解説してるところなんだけど」
こういったときに蘊蓄を披露するのが何となく癖になっているのに改めて気が付いた。メリーの純粋に楽しそうな反応を見るのが、私の秘かな楽しみだった。
でも、それは。ただの私の自己満足ではないのか。
(知識をひけらかして、それでマウントを取って、対等なつもりで居ただけでしょう?)
耳元で囁くような声。それは脳の髄の部分にするりと浸み込んで、私の思考を塗り潰そうとする。
「そんなこと、ない」
頭を振って、その声を否定する。
そうじゃないと、私はメリーのあの笑顔を疑うことになる。それだけは駄目だ。もし私が、そんな卑しい人間だったとしても、彼女のことを信じられなくなることだけはたまらなく嫌だった。
正面に続く階段は一段が高く、登るのに一苦労した。
その階段の先に広がるのは知恩院。浄土宗の総本山であり、平安時代から続く京都を代表する寺社の一つ。ここには前から興味があった。
人呼んで「知恩院の七不思議」。これを暴くのが今日の目的である。
「メリー抜きでできる倶楽部活動なんて、せいぜいこんなものよね」
少し自虐的な笑みを溢して、私は境内で最も大きな建物、御影堂へ向かう。
「ん、工事中?」
御影堂の周囲に骨組みが組み立てられていたが、参拝は可能なようだ。目的を見つけるのに支障はないだろう。
御影堂正面の東側、ここにあるのは有名な「御影堂の忘れ傘」。軒裏に引っ掛けられるように置かれたそれは、確かになぜそんなところに忘れたのか疑いたくなるようなものである。
「あー、あれですか」
「え、どれどれ?」
「あれですよ、ほらあの白い梁の先の少し上……」
「あれかな?」
「そっちじゃないです、私の真上」
「あ、あれだ!」
「だーかーらー!そっちじゃないって!」
何やら騒いでいる人影が二つ。背丈は少女くらいのそれだろうか。
一人は服も髪も、鮮やかな水色。なのだが、あまり強烈な印象を受けず、まるで快晴の空を見上げたような清々しい印象を与える。そして瞳は左右の色が異なるオッドアイ。右目は服や髪と同じ水色でまるで印象に残らないのに、濡れた血のような深紅の左目だけがひどく目立っている。
もう一人は亜麻色の髪、その上でピコピコと動く同色の耳。後ろではしっぽが揺れていて、俗にいう獣人の特徴を備えている。そして何より、煽情的なまでに体のラインがはっきりと浮かぶ白いチャイナドレス風の衣装。
あまりに奇抜ないで立ち。どう見てもまともな人間ではないし、もしかしたら人間ですらないかもしれない。普通の人なら関わり合いになりたいとは思わないだろう。
しかし私は靴を脱ぐと、早足にその二人に近付いていった。
この時、私の中にあったのは純粋な好奇心ともう一つ。「これでメリーに近づける」という浅はかな考え。
(くすくす。打算的な人は嫌いじゃないですよ?)
その囁き声を聞いて、気付かぬうちに私の口角は卑しく吊り上がっていた。
「あ、あれだ!」
「やれやれ、やっと見つけましたか」
ようやく忘れ傘を見つけご満悦の水色の少女はふーん、ほーん、と気の抜けた声を繰り返しながら上を見上げ、時折誰かに語るように
「お勤めご苦労様だねー。え、わたし?もう忘れちゃった」
などという謎の言葉をつぶやいている。
「まったく、こんなことしている暇はないというのに……」
亜麻色の少女のしっぽが急かすようにぱたぱたと揺れ、そこから四角い紙片が一枚、はらりと落ちた。
私はそれを拾い上げ、少女に話しかける。
「おっと、落としましたよ」
「あら、これは失礼しました」
少女はこちらに気づくと、丁寧にお辞儀をする。
手渡す瞬間、紙片の内容が目に入る。どうやら古い写真のようだ。それも、星空?
私の瞳は無意識にそれを処理し、頭に情報が流れ込んでくる。
『三月六日』『二十一時十五分』……え?
ちょっと待て。それは明らかに矛盾している。
慌てて携帯端末を見る。
『3月6日 14時21分』
どういうことだ。私の瞳が、この写真に写る星空は今より先の時刻のものだと言っている。そんなこと、あり得ない。
「なんで、これ……」
突然の出来事に動揺を隠せない私。
「あぁ、なるほど。あなたが宇佐見どの、ですか」
そんな私と対照的に、我が意を得たり、という風な笑みを浮かべる少女。艶めかしく輝くその目は、獣が獲物を定めたときのそれに似ている。
「どうして、私の名前を……?」
「はて、どうしてでしょうね?」
囁く声は、甘い毒のように私の理性を蝕む。
身体が竦んで動かない。かちかちと鳴る奥歯、熱を失う身体。しかし頭だけは蕩けそうなほどに熱く、目の前の現実を受け入れるのを拒んでいる。
メリーが語る冒険譚は美しく輝かしく、しかし時に残酷で。好奇心と打算で幻想に足を踏み入れる愚かな猫など容赦なく貪られる運命なのだと、雄弁に語っていたではないか。
まずい。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げ―――
「おどろけーーー!」
「「……は?」」
私はこの先ずっと、この凍り付いた空気を忘れないと思う。
「……今のは流石にわちきが悪かったです。ぐすん」
空気に耐えられなくなったのか、水色の少女は目に涙を浮かべ、しょぼしょぼと小さくうずくまってしまった。
亜麻色の少女は眉間を押さえ、信じられないという風に首を振っている。
「空気を読まないにも程があるでしょう……。はぁ、もういいです。お願いですから、これ以上邪魔をしないで下さい」
「……うぅ」
ますます小さくなる水色の少女に同情の視線を向けながら、私は内心落ち着きを取り戻していた。というより呆気に取られて、逃げる気力が奪われたといった方が正しいか。仮にこれが彼女の策に嵌っているのなら、もう成す術もないのだが。
「気を取り直して、まずは自己紹介を。私は菅牧典。我が主、飯綱丸さまの命により参上した次第でございます。あぁ、因みにそこに転がっているのは多々良小傘です」
「わたしの紹介、雑!」
「凡骨は黙っていなさい。それでは宇佐見どの、早速本題に」
「ちょっと待って」
話に流されそうになったが、私は必死に声を上げる。
嫌に丁寧な菅牧典、いじけている多々良小傘、両者ともすぐに私を襲う訳ではは無いようだが、この先何が起こってもおかしくないのだ。話ができるのなら、それに越したことはない。
「えーとまず、なんで私の名前を?」
「あーなるほど。そうですね、私たちはあなたと取引をしに来たのです」
典の滑らかな話し方は、敏腕秘書のそれを思わせる。
「取引?」
「えぇ。我が主人による、飯綱の法と呼ばれる呪(まじな)い。これによって、飯綱丸さまはこの地で何かが起こることを予見されました。それと宇佐見蓮子、『星見の瞳』をもつあなたの存在も」
「なぜそれを……」
そのことはメリー以外、誰にも話したことがないはず。改めて人知が及ばない相手なのだと悟り、背筋に冷たいものが走る。
「つまり今回の件について、あなた様の協力が不可欠、よって取引をしたいという訳なのです。ご理解いただけましたか?」
三日月のように歪む彼女の眼が、お前にもう逃げ場などないのだと訴えかけていた。
私は射竦められた小動物のような気分でその話を聞いていた。
彼女は私と交渉すると言っている。だがこれは既に脅迫だ。私に拒否権は無く、無謀な二択を突き付けられているに過ぎない。私の血肉になるか、あるいは私の手足になるか。
「……何を、手伝えばいいの?」
「賢いご判断、ありがとうございます。私たち、良い関係になれそうですね?」
白々しい台詞と共に、典と名乗った少女は笑みを浮かべるのだった。
「では、改めてこちらをご覧いただけますか」
差し出されたのは先ほどの写真。映っているのはやはり、まばゆく瞬く星空。
「飯綱丸さまの能力で疑似的に再現された星空の写真です。しかし、星図から割り出せるのは精々、座標のみ。いつ、何が起こるかなどは分からないのです。ですが、『星見の瞳』を持つあなたなら、何かわかるのではないか、と」
改めて写真を眺める。撮られた媒体のせいか古ぼけたように見える写真はしかし、これより先の時間のものであると主張している。
「なるほどね。でも残念だけど、私の目で分かるのは時刻だけ。この星空は、『今日』、『二十一時十五分』のものだってことくらいよ」
典はふむ、と唸りながら、何かを考える素振りを見せる。
「では、このあたりで何かが行われるという話はありませんか?」
「特には。そもそも、ここに来たのもなんとなくだし」
そう口にして、飯綱丸とやらに操られていたのでは、という考えが頭をよぎり、薄ら寒いものを感じる。
「まぁ、制限時間が分かっただけでも上々の成果です。原因と対策は足で探すほかありませんね。宇佐見どのは……」
私は意を決して返答する。
「乗り掛かった舟だし、最後まで協力するわよ」
ここで背中を見せるのは流石に怖いというのが本音なのだが。
「それは有難い。ではよろしくお願いいたしますね。ほら多々良小傘、いつまでしょぼくれてるんです。さっさと働いてください」
「わちき、おどろかせ放題だっていうからついてきたのに……」
肩を落として歩いていく小傘。その後ろ姿がどこまでも不憫であった。
私たちは手分けをして周囲の捜索を始めた。
といっても、何を探せばよいのか分からないのでは見つかるものも見つからない。そもそも何かが起こるって何が起こるんだ。
「何か、と言われましても、私にだって分かりません。ですが飯綱丸さまが憂う程のことですから、それほど重大なことなのでしょう。例えばここら一帯が消えうせる、とか」
冗談ですよ、と典は悪戯っぽく笑っていたが、その目が笑っていなかったのを私は見逃さなかった。
初めのうちは爆弾でも見つかるのだろうと簡単に考えていたが、どうやらそういう話ではないようだ。真相に近付いているかも分からないもどかしさが、段々と気持ちを諦めへと導いていく。
「そこの先を見て何もなかったら、一回戻ろう」
階段を上り、突き当りを左折。境内の奥まった場所に位置するお堂は、周囲よりも一段と静穏な空気に包まれていた。一礼し、その脇を抜ける。さらに奥、共同墓地へと立ち入る。
立ち並ぶ墓石は、いつかメリーとみた蓮台野の景色を思い出させる。しかし、何か変わった様子であるわけではなく、ただ静かに過去を悼むだけ。
「やっぱり、何もないか」
諦めて立ち去ろうとしたそのとき、目の端に異様なものが映った。いくつもの墓石の間を抜けた先に、それは佇んでいる。私はそれに駆け寄り、目前でそれを眺める。
「なんでお社がこんなところに……」
人が長らく訪れていないのだろう、寂びれた鳥居には「濡髪祠」の文字。忘れられ、打ち捨てられ、しかしそこにあり続けるそれは、未だ果たされない約束を待つ姿を想起させた。
「それで、何か見つかりましたか?」
再び御影堂の前で集まった私たち。どうやら典の成果は芳しくないようで、苦い顔をしている。かく言う私も危険につながる何かを見つけることはできなかった。
典はそれを察したのか、私ではなく小傘に話を振る。
「多々良小傘、あなたはいかがでしたか」
目を伏せる小傘に、私たちの間に諦めムードが漂う。しかし、突然顔を上げた小傘はその相貌をキラキラと輝かせていた。
「あのね、渡り廊下のところで、床からウグイスの鳴き声がした!」
「はぁ?」
典はあきれた様子で小傘をにらみつける。しかし小傘は気にも留めず話を続ける。
「あとは、ずっとこっちを見つめる猫の絵とか、何にも描かれていない屏風とか!」
小傘は見つけた変わったものを一つ一つ、満面の笑みで語る。
それに対し私は、
「それは全部、知恩院の七不思議ね。なぜか鴬張りになっている渡り廊下。本来忍び返しのための床がなぜ寺院にあるのか、という謎。一説にはウグイスの鳴き声が『ほーけきょ(法聞けよ)』に聞こえるからで……」
そこまで言って、慌てて私は自分の口を押さえた。また意気揚々と解説してしまった自分を恥じる。典がくすくすと笑う声が、先ほどの囁き声を思い出させる。
「……別にどうでもいいよね。なんでもない」
ぐるぐると目が回る。自分は浅はかな人間なのだと明かしてしまったような気分。
「え、面白いのに。もっと話してほしい」
私ははじかれたように顔を上げる。無邪気に笑う小傘。その姿が、メリーのものと重なった。
「こほん。その話、あとでもよろしいですか?」
「えぇー。蓮子、あとで続ききかせてね」
わざとらしく咳払いをする典は何やら、つまらないという表情をしていた。
「結局、振り出しですか」
何も見つからず、無駄に時間だけが過ぎてしまった。時刻は17時を回り、残された時間はあと4時間だけ。
「あ、そういえば。こんな張り紙があったよ」
「そういうのは早く出してください。それで、なんと書かれているんです?」
小傘が取りだしたのは風雨によって少し色あせた、A4サイズの紙。でかでかと散りばめられた色とりどりの文字は何だが幼稚さを感じさせるものだった。
「読み上げるよ。『知恩院 神亀の大改修! 長年の風雨により老朽化した部分をはじめ、これまで放置されていた余分な屋根瓦を撤去。これにより御影堂は完全な姿となり、三月七日にセレモニーが予定されています。』だってー」
読み終えた小傘はよくわからないという表情をしている。
対して私と典は互いに顔を見合わせて、わなわなと肩を震わせる。
「「それだーー!!!」」
開いた口が塞がらないとはこういうことか。馬鹿らしくて涙が出てくる。
「どうしたの二人とも!?」
「だめ、頭痛い……。人間がここまで馬鹿だと思わなかったわ……」
典は今にも卒倒しそうな顔をしている。かく言う私も空を見上げ、呆れることしかできない。
「え、なに?どういうこと?」
「宇佐見どの。説明してあげてください」
さっきまで私の蘊蓄に難色を示していた典の鮮やかな手のひら返し。だがこればかりは同情する。私も語らずにはいられなかった。
「任されたわ。『満つれば欠くる、世の習い』。古来より完璧なものには魔が潜むとされて、建築では随所に隙を残すことがあった。有名な例では日光東照宮の門で、十二本の柱の内一本が逆さに取り付けられているとか。それと同じで、この御影堂の屋根には未完成の証として瓦が4枚置かれているの」
「つまり、それを撤去したらまずいんじゃ!?」
事の重大さを理解し、わたわたと慌てる小傘。
なんとか調子を取り戻した典がふらふらと立ち上がり、ため息をつく。
「やれやれ。呆れるような理由でしたが、これで方法ははっきりしました。要するに工事を止めればよいのでしょう?」
私たちは工事現場へ走る。
「そこの方、待って!」
私は重機の音にかき消されないように大声を張り上げる。
ヘルメットを被った男性は私たち気付いたものの、訝しげにこちらをにらんでいる。
「あぁ?なんだいきなり」
「その工事を止めてください!そうしないと大変なことが!」
男ははじめ面倒そうにしていたが、次第にそれが馬鹿にした表情に変わる。
「小娘どもが何を偉そうに。こっちは仕事なんだ。あぁそうか。大変なことになるなぁ、お前らのせいで納期が間に合わなくなっちまう!」
ゲラゲラと下品に笑いだす男性。
「馬鹿な人間が……」
「でも、どうするの?」
悪態を吐く典。心配そうに私を見つめる小傘。私はなるだけ平静を取り繕って、男性に尋ねる。
「……大切な時間をお取りしてしまいすみませんでした。最後に一つだけ。屋根瓦について、なにか変わったことはありませんでしたか」
男性はめんどくさそうに顎を撫で、思い出したようにつぶやく。
「あぁ?そういえば、屋根瓦が四、五枚多かったとか言ってたな。それが?」
「いえ、ありがとうございます」
私は踵を返し、その場を後にした。
「すぅ、はぁ……」
私は大きく深呼吸をして、至って冷静に状況を整理する。
「はぁーーー!!?!」
できるわけがなかった。今まで我慢していた怒りがすべて爆発する。
「大人はどこまで馬鹿なのよ!下手に出ればあの態度、こちらの話を聞こうともせずに!てかそもそも誰だこんな計画立てた奴、まず土地の歴史とかを調べるのは常識でしょう!土地神に祟られるぞ!あそうか、だから今から祟られるんだったわ!」
その罵声は淑女が出してよい音量を優に超えていた。だがそうせずにはいられなかった。
「蓮子、落ち着いて?ほら、典ちゃんも何か言ってあげて」
「馬鹿は馬鹿らしく惨めに死ね!」
「あぁ、こっちも駄目だったー!」
数分後。私は息を切らせてその場にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ。思わず頭に血が……」
ようやく落ち着きを取り戻す。
「よかったー。ほら、お水」
小傘が水の入った柄杓を渡してくれた。それを一息で飲み干す。
「ぷは。ありがと。さて、これからどうするか考えないと」
「そうだよ。何かが起こる前に対策しないと」
落ち着いて、真っ当な意見を述べる小傘。短い付き合いだが、彼女は他人に甘い節があると思う。
「奴らに与える制裁の方が先決です」
そこに典が一言。彼女はそもそも人間を下に見ている節があったので、今回の件で完全に愛想が尽きたのだろう。
「それもそうね」
「ちょっと二人とも!?」
慌てる小傘。
「大丈夫、私は冷静よ。まぁ、できることなら懲らしめてやるつもりだけど」
「ほ、ほどほどにね?」
私は少し緩んだ表情を引き締める。ここからは真剣に対策を考えなくてはいけない。
「それで、原因は分かりましたが、いまだ何が起こるかはわかっていない。これでは対策の仕様がありません」
典の言い分は最もだ。しかしこれに関しては、私に一つの予想があった。
「いや。たぶん、起こるのは……」
私たちは各々ができることを伝え合う。
知恩院を襲う未曽有の危機。その対策が決まる頃には日はとうに落ち、その期限が迫ろうとしていた。
「現在、9時13分。二人とも用意はいい?」
「こちら、準備万端です」「こっちもいけるよ!」
イヤホンから二人の声が響く。私たちは各々の持ち場に分かれ、待機している。
私は空をにらみ続け、その時が来るのを待つ。
「15分、ジャスト!」
私が叫んだ瞬間。
空から眩い光がほとばしる。それは私たちの目線の先、御影堂の屋根に突き刺さり、ほぼ同時に爆音と地響きが鳴り響く。
「!」
眩んだ眼を開く。やがて輝きは赤く変わり、建物からうねるような炎が捲き上がる。
「やっぱり来た!小傘!」
上空に待機していた小傘に声をかける。
「オッケー、蓮子!いっくよー!傘符『大粒の涙雨』!」
その掛け声と共に、空はまばゆい光で包まれる。
それは炎の光を受け、きらきらと輝く雨粒。紫色の傘をくるくると回し、彼女は空に星を描いている。
やがてそれは重力に従い、私たち、そして燃え盛る御影堂のもとに降り注ぐ。
強まるばかりだった火の手は小傘の降らせた雨によって少しずつ抑えられていく。
「こっちの方が才能ありますよ、多々良小傘。火消しにでもなったらどうです?」
「うるさい!わたしは人間を驚かせる妖怪なの!」
『御影堂の忘れ傘』の由来として有名な説の一つは、これを建造した大工がわざと置いていったというもの。それは屋根瓦と同様に不完全を残すためともう一つ、火災から建物を守るためだったとされる。
だから御影堂が原因ならば、きっと起こるのは火事だろうと予想していたのだ。
「典、そちらの準備は?」
「えぇ、とっくに」
火災が起きる同時刻。
工事を終えた男たちが見舞われたのは、突然の落雷、肌を焼く爆炎、そして視界を奪う豪雨。
当然、皆目を回すように逃げまどっていた。
「何が起きた!?」「火事だ!」「何がどうなっている!?」
それを暗闇から眺めている影、典は意地悪く口角を歪める。
散り散りに逃げ惑う男たち。その耳元に、邪悪な囁き声が響く。
(くすくす。馬鹿な人間たち。あなたたちは神の怒りに触れたんですよ)
「なんだこの声!」「神の怒りだって!?」「助けてくれ、たのむ!」
狂乱の場には不釣り合いな、透き通るような少女の声。それはある者には救いの天使の声に、ある者には命を狙う悪魔の声に聞こえただろう。
(助けてくれ?いやです、文句なら彼に言って下さい。ほら、先ほど私たちを無碍に扱った、あなたですよ)
全ての視線が一点に集まる。それはさっき、私たちを馬鹿にした男だった。
「ひぃ、お、俺!?」
「どうしてくれるんだ!」「お前のせいで!」「何とかしろ!」
怯える男性にその場全員が殺到する。その姿はあまりに滑稽で、思わず笑みがこみあげてくる。
群衆の矛先を操るなんて単純なことだ。混乱する頭に分かりやすく、端的に、その解決策を教えてあげればよい。それだけで人間は簡単に動く。今まで何度もやってきたことだ。
「あははは。やっぱり人間って愚かだわ!」
隠すつもりのない邪悪な笑い声が、高らかに響き渡った。
「うわ、えっぐいなぁ」
私の口から思わず感想が零れる。それに対して不服そうに典が答える。
「そうは言いますが、これを指示したのはあなたですよ、宇佐見どの?」
一仕事終えた典が私の元に戻ってきた。私は少しきまりが悪そうに頬を掻く。
「そうなんだけどさ。それより、ちょっとまずいかも」
「今のところ、作戦通りでは?」
「いや、思ったより火の手が強い。それに小傘にも疲れが見えはじめてる」
見上げると小傘は懸命に傘を振り回している。しかしその動きに最初ほどのキレはなく、今にもへろへろと落ちてきそうだ。
「では、どうすれば……」
典の呟きに焦りの色が見える。
私はここまでに見たものをすべて思い出し、必死に考える。どうすれば火を鎮められる。いま私に何ができる?
建物を壊す?物理的に無理だ。
水をかける?そんなの焼け石に水だろう。
あれは無理、それも無理。私の中で浮かんだ案がすぐに正論でかき消されていく。
私の力でできることが、どんどん無くなっていく。
「無理だ……」
このままでは火の手は市街地の方に向き、大火災の対処法など遠く忘れ去られた科学世紀の京都は一夜で焼け野原となってしまう。
それを止められるのはここにいる私だけ、という現実が私に重くのしかかる。だが、一介の女子大生に何ができるというのか。
手が震える。怖い。どうして私がこんな目に。
安易に幻想に足を踏み入れた代償は、私の命だけでは足りないのか。
「助けて、メリー……!」
「また、『メリー』ですか?」
そう呟いたのは典だった。
「聞いていればメリー、メリーと。子供ですかあなたは。なんです、メリーならこの火事を止められるんですか?」
「でも、メリーは、私なんかより……」
そうだ、私よりよっぽど優れた能力を持っていて、強くて、そして私の憧れ。
しかし典はそれを遮るようにきっぱりと告げる。
「断言するわ。そのメリーとやらにこの火事を止める力は無い。それこそ飯綱丸さまのような大天狗でもない限り」
「だけど私じゃ何もできない!」
「当り前だ、思い上がるな人間!」
典は今までの飄々とした態度を一変させ、本気で怒鳴っている。
「私だって何もできない!それ以上の言葉は私に対する侮辱と同義だと知れ!」
私は思わず口を噤む。典だって、何もできず歯痒い思いをしているのだ。それを、私は。
「私は今まで何人もの人間を堕落させてきた。愚かな野望を持った者に、私は囁き、支え、幸福の絶頂へと導き、そして最後に蹴落とす。これが、管狐にできることの全て」
典はとうとうと語り続ける。
「だが私は知っている。私が突き落とした人間の表情。絶望のどん底で、傷を舐め合い、互いを貪り合い、自分だけでも這い上がろうと、獣に堕ちた者。それが唯一、対等になるときです」
「あなたは友人と対等であることを望んでいる。彼女はあなたの持ち合わせぬ力を持ち、あなたが成し得ぬことを成すのかもしれない。だがあなたには星詠みの瞳があり、その知識がある。私にも、多々良小傘にも、そして彼女にも無い能力。
ないものねだりの何が悪い。それが人間の本質であり、群でなく個であるということ。あなたが彼女を必要としているように、彼女もあなたを必要としている。人間でありたいのなら、対等という考えを捨てることです」
もし真の意味で対等にしてほしければ、いつだってあなた共々堕落させて差し上げますよ、と最後に付け加える典。その表情には以前の悪戯っぽさが戻っていた。
「……なにそれ。それってつまり、共依存で堕落しろってことじゃない」
「あら、ばれました?」
ごまかすように、こーんと鳴く典。
「ううん、そのぐらいの方が私にはちょうどいい。応援してくれてありがと、典」
「これだから、あなたみたいな人間は苦手なんですよ」
典は照れ臭そうにそっぽを向いている。
「うん、ちょっと元気出た。典、少し手伝ってくれない?」
私は頬を叩き、気持ちを入れ替える。帽子を被り直し、前を見据える。
「秘封俱楽部の底力、見せてあげる!」
「だからって、火の海に無策で突っ込む奴がありますか!?」
「勢いで行けると思ったんだけどなー」
未だ火の手の弱まらない御影堂。小傘の努力のおかげで境内から炎が溢れることはないが、それも時間の問題である。
私にできることは、もう何もない。それは私が必死になって考えた結論だ。
そして人間にできることがなくなったとき、することは一つ。
そう、神頼みである。
「自分を生贄に捧げるとか、頭蛮族になったんですか?」
「いや、違う違う。私が必要なのは、忘れ傘よ」
あれは長年、知恩院を守り続けていたアーティファクト。それを持ち主に返すことができれば、もしくはなんとかできると思ったのだ。
「でも、持ち主はとうの昔の大工なのでしょう?」
「それも説の一つなんだけど、もう一つあるのよ、忘れ傘の由来」
「たとえそうだとしても、この炎の中から傘一本を見つけるなんて……」
「話は聞かせてもらったわ!」
上空から演技がかった声。ふらふらと舞い落ちてくるその姿とは対照的に、小傘の声には私の出番だと言わんばかりの気概が宿っている。
「ちょっと!あなたが来たら、消火はどうするんです!」
典が大声で叫ぶ。確かに小傘が下りてきてしまっては火の手は強まる一方になってしまう。
「それなら大丈夫、ほら」
そういえば、未だ雨は降り続いている。空を見上げると、紫色の傘だけがひとりでにばさばさと回転している。その姿はまさしくてんてこ舞いといったようで、少し不安になるのだが。
「あぁ、あっちも本体なんでしたっけ……」
「だから心配ご無用!そんなことより、忘れ傘の場所でしょ!声さえ聞こえれば、場所が分かるわ!」
「そんなことできるの?」
「付喪神舐めないでよね!」
思い返せば、最初に会ったとき小傘は虚空に向けて何かをつぶやいていた。あれは本当に忘れ傘と会話していたのか。
「うーん、炎の音が大きすぎて……あ、あそこ!」
小傘が指をさす先、そこには瓦礫の山。
「でも、近づくことが……!」
「せーのっ!」
小傘の掛け声。背後から大きな水塊が、地面にたたきつけられる。
私と典は慌てて駆け寄り、瓦礫を掘り返す。
「あった……!」
丁度瓦礫の隙間に埋まっていて、忘れ傘は無事であった。
「よかったぁ」
小傘はへなへなと倒れこんでしまった。
「ごめん、もう限界。あとのことはお願いね~」
「大丈夫、大手柄よ、小傘!」
私は親指を立て小傘に向ける。小傘も同様に親指を立て、そのまま眠ってしまった。
「それで、どうするんです!」
「とりあえず、こっちよ!」
私ははじかれたように走り出し、典も後からついてくる。
階段を駆け上がり、左折。
先ほどまで静かだったお堂にまで炎の轟音は響いていて、私を一層駆り立てる。急く気持ちを抑えながら、私たちはその奥の墓地を駆け抜ける。
「これは……」
「濡髪大明神、ね」
息を切らしながら尋ねる典。
もう一つの忘れ傘伝説。それはここに眠っている。
当時、御影堂がある場所には白狐が住処を構えていた。それを知らずに人間が御影堂を立ててしまったので、白狐はそれに復讐するために大雨の日にずぶ濡れの子供に化け、経を唱える和尚のもとに現れた。しかし、その法要を聞くうちに改心し、帰りに和尚が貸してくれた傘を軒下に置き、今後この御影堂を守ると誓いを立てた。そして、和尚によって新たな住みかとして作られたのが、この濡髪大明神である。
つまりここに、傘の持ち主である濡髪童子が眠っているはず。
「お願いです、力を貸してください!」
私は傘を祠に捧げ、必死に願いをささげる。私にできることは、もうこれしかないのだ。無力な人間にできる、最後の抵抗。典も後ろで俯き、祈っている。
しかし、
「なんにも……起きない?」
例えば、光と共に神様が現れるとか。あるいは凄いアイテムを渡されてどうにかなるとか。そんな甘い考えがなかったと言えば嘘になる。
しかし、本当に、何も起きない。
それは人間の限界、私の無力さの証明だった。
「そんな……」
打ちひしがれる私。こんなことをしている間にも火の勢いはますます強まっている。
「なんとか、何とかしてよ!私にはもうどうしようも……!」
「そんなことはありません、艶やかな髪の乙女よ」
後ろから肩に置かれる手。それには私が求める温もりがあった。
「あなたの願い、しかと受け止めました。あの時霊嚴上人と交わした約定を果たすときが来たということです」
「典……?」
見た目は典なのだが、雰囲気がまるで違う。見開かれた瞳に宿るのは強い決意。
「この体に一時的に宿らせてもらっています。この場に彼女が居合わせるよう計らって下さった飯綱権現様には頭が上がりません」
「つまり、あなたは、濡髪童子?」
「ええ。あなたの思いは、決して無駄ではありませんでしたよ」
私の瞳から涙が零れる。その嗚咽を、濡髪童子は静かに見守っていた。
「先ほど、もう私にはできることなどない、と言いましたね」
確かに、言ったけど……。
「あなたに一つ、お願いがあるのです」
「……私にできることなら、何でも」
私は涙を拭き、強い決意とともに答える。それは私の心からの言葉だった。
「ありがとうございます、濡髪の乙女。では……」
「わたしと、婚約を結んでいただけませんか?」
「え」
何でもするとは言ったが、でも、それは。
「えぇーーー!!?!」
あまりにも予想外すぎるのではないか。
「そ、そんなに驚かなくてもいいじゃないですか……」
濡髪童子が少しいじけた声でつぶやく。
「ご、ごめんなさい。取り乱しました」
でも訳が分からない。なんで、このタイミングで、婚約?
「すみません、わたしも説明不足でした。別にわたしがあなたに気があるというわけでは無いんです。あ、いやあなたが可愛くないとかそういうわけでは無くて」
「別にいいですよ、そんな揚げ足を取るようなこと言いません」
慌てる姿は人並の少年のようで、なんだか可愛らしいとまで思えてしまう。
「それでですね、重要なのは、今日、この場所で、わたしが婚姻を結ぶということです。」
空を見上げる。煙に隠れているものの、空には星が見えている。
「えぇ、過去のこの日、知恩院ではある催しが行われていました。それが、『狐の嫁入り行列』です」
古来より、晴れているのに雨が降るということを狐の嫁入りという。すなわち、
「逆説的に、狐が嫁入りすれば晴れていても雨が降る……?」
「それが、今日、知恩院で行われることには、大きな意味があるのです」
なるほど。彼の言っていることには理屈が通っている。しかし、何か引っかかることが。
「ちょっと待って、狐の嫁入り、ってことは、あなたが嫁入りするってこと!?」
「えぇ、今は女性の姿なのでちょうどよいですね」
濡髪童子は何か問題でも?という顔をしている。
「いやいや大有り、私が婿ってことでしょ!」
「そうなりますね」
「えぇ……?」
さも当然という風にうなずく濡髪童子。
「うぅ」
私も覚悟を決めなくてはいけないということか。
「はぁ、分かりました」
大きく息を吸う。なんでこんなことになったのか。もう訳が分からない。
「私、宇佐見蓮子はあなたに結婚を申し込みます。受けてくださいますか?」
「えぇ、もちろん」
私は差し出された手に口づけする。
満天の星空の下、赤く輝く炎に照らされながら、誰もいない墓場で開かれる小さな結婚式。
それは少女のころに思い描いていた夢とは何もかも違っていて、我ながら笑いがこみあげてきたけれど。
でも、不思議と悪い気はしなかった。
「そして、二人は幸せに暮らしました、ってわけ?」
「いや、私はここにいるじゃない」
昼過ぎのカフェテラスにて。
対面に座る少女は呆れ顔で私のことを見つめる。どうも私の話が信じられないようだ。
「だってねぇ、そんな話、全く聞かないし……」
あの後、私は気づけば自室のベッドで倒れていた。慌てて携帯端末でニュースサイトを開くも、そのような事故が取り沙汰されていることはなく、私は一人混乱するばかりだった。
最後の記憶は、雨の中誰かに運ばれている光景。空には星が瞬き、なんとも幻想的な雰囲気だった、気がする。
「夢だったんじゃない?」
「あなたにその台詞を言われる日が来るとは思わなかったわ。まぁこれで私の気持ちが少しは分かったかしら」
「えぇ、客観的に自分の行動を顧みる、いい機会になったわ」
私は帽子を傍らに置き、向かいの相棒の目をまっすぐに見据える。
「あとね、私も分かったことがある」
「なに?」
「どこへ行くにも、あなたといた方が楽しいわ」
「奇遇ね、私もよ」
私たちは互いの言葉を噛みしめ、そして笑いあった。
ふと開いたニュースサイト。離れた位置にある二つの記事。
『京都で未確認飛行物体!?謎の発光現象との関連とは』
『○○建設が倒産 直前に社員の多くが幻聴を訴える事態も』
私は思わずくすり、と笑ってしまった。小さなつながりが、私の記憶が間違っていなかったと裏付けする。
夢だとか、幻だとか、こういう場合を表す言葉はたくさんあるけれど。
きっとこの場合にぴったりの言葉。それは、
「たぶん、狐につままれたのよ」