Coolier - 新生・東方創想話

インコンプリーテッド・ダイヤモンド

2022/04/29 19:04:54
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前編 イノセント・タンザナイト



捨てられる神あれば拾われる神あり。
幸か不幸か、女苑は聖に拾われてしまった。



冬だ。いや、暦の上ではもう初夏に差し掛かろうかといった頃合いなのだが、女苑の人生の真冬だった。
格子の細い溝にスーッと指を滑らせ「まあ、こんなに汚れて」と嫌味ったらしく言う人物、なんてのはおおよそフィクションの中の意地悪な姑しかいないと思っていた。
しかしそれに限りなく近いことをやる人物が実在したのである。

「まだ汚れが残ってますねえ」

指先についた埃を見て眉間にしわを寄せるのは、白い三角巾に割烹着と、外の世界ではもはや絶滅危惧種な“古典的な主婦”みたいな格好をした聖だ。女苑は早朝から本堂の大掃除をヘトヘトになるまでしていたというのに、聖は女苑の苦労を労うより先にケチをつけてきたのである。女苑はカチンときた。

「はあ!? 私はちゃんと言われた通り掃除したわよ! そんなほっそい溝なんて誰も見ないでしょうよ!」
「いいえ、見えないところに手を抜くなんて言語道断です。もう一度やり直し」
「ふざっけんな、この珍走坊主!」

女苑が勢いで投げつけた雑巾を聖はひょいとかわす。女苑もそれなりに肉弾戦を得意とするが、この超人的な身体能力の持ち主には敵わない。
盛大に空振りした憤りからか、数時間に及ぶ掃除で疲れたせいか、女苑の腹の虫が騒ぎ出した。

「もうお昼じゃない。いい加減お腹が空いたんだけど」
「食事は一日二回、忘れたのですか?」
「本当にしけてやがる……。私は三食おやつ昼寝つき派よ」
「本堂の掃除が終わったら、次は離れをお願いね」
「まだあるの!? ちょっとは休ませなさいよ!」
「だって貴方、すぐに飽きた、疲れたってサボろうとするじゃないですか。そうやってダラダラしてるからいつまで経っても終わらないんですよ」
「そういうあんたは朝からずっと私につきまとって、命蓮寺の住職は暇なのね」
「それが貴方を引き取った私の責務ですから」

皮肉を口走る女苑に対し、聖は真面目に言い放つ。一気に白けた女苑は盛大に舌打ちした。
依神女苑、姉の紫苑との企みが霊夢と紫の“幻想郷で最強の二人組”にまんまと破られた今は、『女苑を引き取る』という酔狂な申し出をした聖の根城、命蓮寺で絶賛修行中である。
身につけていたアクセサリーやブランド物の衣服はすべて修行の邪魔だからと預かられ、黒一色で無地無紋の地味な小袖を貸し与えられ、四六時中女苑の指導にあたる聖からは絶え間なく質素倹約の心得を叩き込まれていた。当然ながら異変時のように他人の財を巻き上げるのは固く禁じられており、女苑はフラストレーションが溜まりまくっていた。

「もう嫌。なんで私がこんな地味で貧相な服を着て雑用を押しつけられなきゃならないの」
「貴方の着ていた服は掃除に不向きですもの。その服なら汚れが目立ちませんよ」
「そういうあんた、その格好は何? 初めて見たんだけど」
「埃だらけになってしまったので着替えました」

悪くないでしょう、と聖は胸を張る。長い髪をきっちり纏めてしゃんと立つ姿が異様に様になっていた。あの謎のライダースーツといい、案外聖はコスプレが好きなんじゃないだろうか。そんなことを考えてしまう。

「さ、早く掃除に戻りなさい。一度雑巾を濯いで固く絞った方がいいわ。ちゃんと力を入れるのよ、びしょ濡れの雑巾で拭いたら水滴の跡が残ってしまうから」
「くっそー、こんな寺、いつか絶対逃げ出してやる……」

女苑は渋々ながら言われた通りに雑巾を桶に浸す。すべての指輪をはずし、マニキュアも付け爪もなく水仕事で荒れてゆく自分の手を見ると惨めな気分になってくる。
そして聖はといえば、女苑があまりに杜撰な仕事をすれば叱りつつ掃除を手伝ってくれるのだが、基本的には女苑に任せきりで女苑がサボらないかの監視役であり、では見守る間に何をやるのかといえば、ありがたいお説教である。

「いいですか? たとえば物惜しみをして水飴を小僧達に食べさせないよう嘘をついたお坊さんの話がありますが、あれは単なるケチであって倹約とはまったく別の……蓋し倹約とは……」
(まーた始まった。えらい奴に捕まったわ)

女苑はうんざりしながら、憂さ晴らしの意味を込めて雑巾を力一杯縦に絞ってやる。いっそこの搾り汁を茶に混ぜてやろうか、なんてこれまた古典的な嫌がらせまで浮かんできた。
まったくもって災難だ、人生の冬だ、我が身の不幸だ。女苑は鬱屈のあまり(まさか姉さんと行動を共にしていたせいじゃないでしょうね?)と、今ここにはいない姉にまで不満の矛先を向けかけた。
女苑は聖のお説教から耳を背けるように、せっせと床の雑巾掛けに勤しむ。一刻も早く寺を出たかったが「冗談じゃない! お前らなんかと一緒にこんなところで寝泊まりできるか!」なんて逃げ出そうものならたちまち犯人もとい聖の人間離れした俊敏な動きで追いつかれて連れ戻されてしまう。

『貴方には質素倹約の心得をみっちり叩き込みます。決して逃げ出せるなどと思わないように』

聖の笑みは穏やかだが逃さんぞと言わんばかりの圧力が眼にこもっていた。それを前に抵抗する勇気はさしもの女苑も持ち合わせていなかった。
寺を出られず、修行生活にも馴染めず、まさしく進退極まれり。悪行に手を染めた者は必ず報いを受けるとはいうものの、こんなしけた生活が待ち受けているなど予想していなかったのだ。
ようやく本堂の掃除を終えたら、聖は「すばらしい、やればできるじゃありませんか」と褒めてくれたものの、

「では先ほど言ったとおり、離れの小部屋をお願いね。あそこはみんなの居住スペースだから物が多いけど、根気よくやるんですよ」

と、さすがに自分の勤めを蔑ろに出来ないからと言って本堂を後にした。

「善人気取りの珍走坊主め。この借りは必ず返してやるわ」

聖の背中を見送って、女苑は不満をぶちまける。
女苑は退屈な修行なんて大嫌いだし、仏の教えになんかかけらも興味はないし、事あるごとに聖から説教をかまされるのも気に食わなかった。
しかし紫苑とタッグを組んでいた時ならまだしも、女苑一人で聖の相手をするのはさすがに骨が折れる。黙って耐え忍ぶのは得意ではないが、今はとにかく聖に渋々従いながら密かに抜け出す機会を窺うしかない。

「掃除ばっか私に押しつけんじゃないわよ。そりゃお経だって嫌いだけどさー」

女苑は不機嫌なまま離れへ向かう。聖の方針か、寺の者達の意向か、女苑と一緒に修行をしようなんて言い出す者は一人もいなかった。
女苑が迎えられた時の寺の面々の反応はさまざまだった。「あんまり気は進まないけど……」と遠巻きに見守る者、「ま、今更居候が一人増えたってどうってことないでしょ」と呑気に構える者、「自分は何も関係ない」と我関せずの態度を貫き通す者、などなど。女苑の寝泊まりする部屋も個室を与えられたが、決して特別扱いではなく、むしろ隔離に近い気がする。
女苑は別に疎まれても構わなかった。元より嫌われ者だ、こっちだってストイックな生き方を是とする寺の連中と馴れ合うつもりはない。一人部屋は願ったり叶ったりだった。

「うわっ」

さて、離れに辿り着いた女苑は、格子を開けてすぐ目に入った蔵書の山に圧倒された。
壁面に設置された本棚には所狭しと和綴の書物が詰められ、棚に入りきらない本は床に高く積まれている。そのほとんどは経典や仏教にまつわる書物のようだ。

「何ここ物置? 書庫?」

歩くたびに埃が宙を舞い、女苑は咳き込んだ。換気のため、また薄暗い部屋を明るくすべく、縁側の格子も開け放った。
聖は共同スペースだと言ったが、どう見ても普段から頻繁に人が出入りする場所には思えない。申し訳程度の整理はされているものの、本棚にも書物にもうっすら埃が積もっている。
これを片付けろというのか。そう思ったら途端に体が重くなってきた。本は意外と重たいし、埃っぽくてマスクがないと肺に悪そうだ。

「ちゃんとこまめに整理整頓しとけっつーの……わっ!」

女苑が手始めに積まれた本に手をつけると、バランスを崩した本の山が雪崩を起こした。幸い鈍器のような分厚い本はなかったものの、本の角が足に当たると地味に痛い。ますます腹が立った。

「あーもー、誰よこんな積み上げた奴!」

女苑は誰ともわからぬ寺の連中に文句を叫んだ。おそらく前回掃除当番になった奴が億劫がって杜撰に済ませたのだろう。この部屋に最後に入った奴を思い切り怒鳴りつけてやりたい。あるいは聖に「あんた、弟子の教育がなってないんじゃないの?」と嫌味を言ってやろうと女苑は決意した。
苛立ちながら散らばった本を集める途中で、女苑はふと一冊の本に目を止めた。

「何これ?」

年季を帯びたハードカバーの厚めな本で、和綴の書物の中であからさまに浮いている。『世界の宝石事典』と表紙にタイトルが書かれていた。
女苑は首を捻る。こんな本がなぜ寺にあるのだろう。経典以外の本はだいたい平安期の作り物語だの仏教説話集だのばかりだというのに。

「あっ!」
「へっ?」

不意に廊下から足音が聞こえたと思ったら、一輪が雲山と共に勢いよく部屋の中へ踏み込んできたのである。女苑はぎょっとした。

「な、何?」
「え、いや、すごい音がしたからどうしたのかと……」

と言いながら、一輪は忙しなく視線を動かし部屋の中を見回している。そして女苑が手にした本に気づいた途端、女苑にすかさず迫ってきた。

「それ!」
「え?」
「その本、見つけちゃったの!?」
「そりゃ、まあ」

気迫の籠る表情から一転、一輪の顔が真っ青に染まる。女苑は尋常ならぬ一輪の様子にたじろいだ。思えばまともに会話を交わすのなんて異変の最中ぶりなのに、一輪はそれどころじゃない様子である。よっぽどこの本を見られたのが都合が悪いらしい。
呆然とする女苑をよそに、一輪に向かって傍らの雲山が何か語りかけたのか、「だって雲山、仕方ないじゃない」と文句を返している。

(何を隠してるのかしら?)

女苑は好奇心から表紙をめくりたくなる、が、それよりも素早く一輪が女苑の手から本を奪い取った。

「ちょっと」
「貴方、不浄観ってわかる?」
「……はあ?」

さっぱりわからない。女苑は間抜けに口を開けた。
一輪は眉をひそめる女苑に構わずつらつら喋り出した。

「ざっくり言うなら執着を捨てなさいっていう教えを実践する修行かしら。これを身につけて目を凝らすと、自分の肉が朽ちて骨になって見えるとか白米がウジの山に見えるとか」
「うげーっ! 何を気持ち悪いことを教えてくれるのよ、白米食えなくなるじゃない!」
「大丈夫、うちは白米より玄米がメインよ」
「何も大丈夫じゃない!」

思わず想像してしまった女苑は身ぶるいして自分の体を撫でさする。やっぱり仏の教えは意味がわからない。というかなぜそんなおぞましいことをさらっと話せるのだろう、この妖怪僧侶が不浄観なんて高度なものを身につけているようにはとても見えないが。女苑に口を開かせまいと言わんばかりに一輪の怒涛の語りは続く。

「つまり私が言いたいのはね、この本はあくまで私にとって経典なの」
「経典……」
「九相図を見た男が美人画を見て何も思わなくなるのと同じよ。不浄観の実践。執着を断つためにあえて美しいものを見るの」
「その本、宝石が朽ちるとこまで書かれてるの?」
「ええと書かれてるかもしれないから借りてきたわけで、うんまあずーっと眺めてたらきれいな宝石もただの土くれに見えてくるかもしれないわ。これも修行なのよ。というわけだから、聖様に何か聞かれたらそう言っといてくれる?」
「というわけだからって」
「一輪は修行に関係ない本を借りてきたりなんかしてませんよって伝えておいて! いいわね? それじゃ!」

最後の方はえらく強引かつ早口に話をまとめて、一輪はそそくさと本を大事に抱えて部屋を後にした。まるで旋風のような騒々しさであった。

「……何なのよ、あの入道使い」

本の散らばる部屋に取り残された女苑はむくれる。もちろん女苑は律儀にそのまま聖へ報告してやるつもりはない。

「あんな口から出まかせを喋ってまで隠したがる本ねえ。なーんか胡散臭いわ」

女苑はにやにや笑う。どうせなら尾鰭をつけまくってあらぬことを聖に吹き込んでやろう。地味な修行の数々にうんざりしていたところのちょうどいい憂さ晴らしだ。
少しだけ気をよくした女苑は、他にも怪しげな本が隠れていないかと半ば家探しのような気分で掃除を続けた。



「じゃーん!」

一輪はやっとの思いで確保した例の分厚い本を星に見せつけた。突然自室へやってきた一輪と雲山に、星は首をかしげる。

「どうしたの、それ」
「鈴奈庵で借りてきたの。うっかり離れに置きっぱなしにして見当たらなくなっちゃってさー、ほんと冷や汗ものだったわ」

一輪は女苑に見られたのを思い出して、念を押したものの果たして大丈夫だろうかと案ずる。
よりによって女苑に見つかったのは不幸中の不幸としか言いようがない。完全憑依のように、疫病神と関わるとろくなことがないから一輪は警戒して適当な言い訳を捲し立てたのだった。
星は突きつけられた表紙のタイトルを見て顔をしかめる。

「宝石、ねえ……どうしてこれを私に? そもそもまた貸しってまずいんじゃなかったかしら」
「私と一緒に読むなら問題ないでしょ、理由はまあ、長くなるんだけど布都のやつがね」

一輪が布都の名を挙げた瞬間、星が吹き出した。

「ちょっと、私何か変なこと言った?」
「いえ、こないだ大喧嘩したばかりなのに、仲がいいなあと」
「別にそんなんじゃないってば。ただまあ、アレについては私もちょっと悪いところあったかなーと思っただけ」

一輪は気まずさからそっぽを向く。アレとはもちろん、調子に乗って布都と共に依神姉妹に挑んだ挙句、同士討ちをさせられた件である。二人共諍いを引きずるタイプではないので、比較的早い段階で和解したのだが。
とにかく、と一輪は話を戻す。

「布都って風水得意じゃない。頼めば占いみたいなこともやってくれるのよ」
「ああ、黄色い小物を身につければ金運が上がる、みたいなものね」
「風水の話を聞いてみたら面白くってさ、占いについても色々と教えてもらったの」
「そうねえ、私達も宿曜道の心得はありますし、興味深いわね」
「占いもずいぶん種類が増えたみたいでね、もっと知りたいと思って貸本屋に立ち寄った時に見つけたのがこれなの」

と、一輪は本をめくってみせた。やや色褪せた淡いクリーム色の洋書には、カラーで描かれた宝石のスケッチと詳細な解説が載っている。

「ここ見て、ここ」
「どれどれ……石言葉?」
「花に花言葉があるように、宝石にも意味があるんですって。それこそ風水ではパワーストーンとして用いられるものもあるみたいよ」
「なるほど。私に持ってきたのは、私が宝石を出せるから?」
「そんな怖い顔しないでよ」

眉間にしわを寄せた星に、一輪は慌てて手を振って否定する。下手をすると星は聖とは別のベクトルで厳しいのである。

「別に私は宝石でお金儲けしようなんて考えてないわ。ただ、星の能力を活かせないかなって思ったの」
「活かすって、どうやって? 何のために?」
「もちろん、誰かの力になるためよ」

星は目を瞬く。一輪は得意になって語りかけた。

「星が財宝集めの力をあんまり好きじゃないのは知ってる。だけど星、宝物とか宝石っていうのは、決して人を欲に溺れさせるためだけのものじゃないのよ」
「そんなの私が一番よくわかっているわ」
「なら使い方次第で人をいい方向にも導けるって、星ならわかるんじゃない?」

一輪の言葉に、星は黙り込んだ。
命蓮寺のご本尊としての星は非の打ち所がない優等生だが、逆にいえばお堅すぎて隙がなく、面白みがない。もし「ちょっとおバカな方がかわいくていいじゃん」なんてのたまう輩がいたら一輪は問答無用で鉄拳を叩き込んでやるが、それはそれとして、星にももう少し砕けたところがあった方がいいと考えているのだ。
一輪は苦笑混じりに星の顔を見つめる。

「ねえ、千年よ。千年ぶりに私達は昔の、いいえ、昔よりずっと平和で賑やかな日常を手に入れたの」
「一輪……」
「もう誰かが封印されるかもなんて怯えなくていいし、星だって自分の正体を隠さなくていい。どうせならもっと前向きで楽しい生き方を考えましょうよ。もったいないじゃない、毘沙門天様の力は、本来悪い力じゃないんだもの。その方が星だって楽しめるはずよ」

一輪は明るく提案した。星は真面目な気質で、ありのままの事実を真正面から受け止められる。けれど時折、忍耐強さゆえに事態の深刻さに押しつぶされやしないかと心配になる。
星と一輪の付き合いは長い。こういう時は、一輪が思いっきり自分のペースに巻き込んで引っ掻き回してやればいいと心得ていた。

「たとえば悩んでいる人へのお守り代わりに、それぞれの悩みに応じて宝石を渡すの。人間関係とか、将来の悩みとか、お金とか、病気とか、とにかくいろいろ」
「それで石言葉?」
「そう! 財宝の見方は一つだけじゃないはずよ」

一輪は前のめり気味だが、黙々とページをめくる星は簡単にうなずかなかった。星の頑なさは虎を閉じ込める竹林のなよ竹だ。しなやかに適応するように見えて、決して折れない。
やはり一筋縄ではいかないだろうか、と雲山と顔を見合わせた頃、星は手を止めて一輪を見た。微笑みを浮かべていた。今回は譲歩してくれたようだ。

「一緒に読んでもいいのね?」
「もちろん、そのために聖様にも内緒で借りてきたんだから」
「訳を話せば、聖だってわかってくれるわ。そんな無闇に隠そうとしなくたっていいのに」
「だって本命の星が一番難関だし。何なら断られる可能性だって考えてたのよ?」
「それは……そうね」

不満げに言う一輪に、星は決まり悪そうに頬をかいた。



「どうです? 少しはお寺の生活にも慣れましたか」
「ぜんっぜん」

夕方近くになって、呑気に尋ねてくる聖を女苑はうっすらくまの浮かぶ眼で恨みがましく見つめた。いつの間にか聖はいつもの黒と白の服に着替えていた。暗い早朝に叩き起こされ、一日中修行と称した雑用にこき使われ、女苑はすっかり疲れ果てていた。聖はといえば、傾いた日の光を浴びて鬱陶しいほど輝くような笑顔を女苑に見せてくるのである。

「一つ聞いていい? ブディストはマゾヒストなの?」
「悟りに近づくための努力は惜しまないものです」
「私は悟りなんか目指してない!」

女苑はカッとなって捲し立てた。この一日だけでなく、数日分の疲労と憤懣と鬱屈とストレスが溜まりに溜まって爆発寸前なのだった。

「何なのよ毎日毎日、掃除に洗濯に炊事に、座禅に読経に、それからえーっと、何だっけ、ろく……六波羅探題?」
「六波羅蜜です」
「それ! キツくてつまらないだけの修行の繰り返し! 食事は量が少ない上に魚も肉もなし! なんで私がここまでやらなくちゃならないのよ、異変を起こした罰にしたって重すぎるわ!」
「あら、人聞きの悪い。私は貴方に罰を与えるつもりで連れてきたんじゃありませんよ」
「じゃあ何のためよ! あんたの弟子はごまんといる、私より聞き分けのいい奴だっている。あんたは私に何を求めているの?」
「うーん。だいぶ誤解されていますね」

女苑が募った恨みをぶちまけると、さすがに聖も困惑して顎に手を当てた。やがて不思議そうに首をかしげて、

「だって貴方、心の中では質素に慎ましく暮らしたいと思っているんでしょう?」

聖はさも当然のように言い放った。吸い込まれそうな深い紫色の目に見つめられて、女苑は言葉を失った。
動揺のあまり息が詰まる。凍りついたように体が動かない。せめて目を逸らしたいのに、聖はかえって女苑の顔を覗き込もうと見つめてくるのである。

「女苑?」
「っふざけんな!!」

女苑は反射的に距離を取った。聖に触れられたくない、手を差し伸べられたくない。傷を負った獣のように息を荒くして、女苑は吠えた。

「お前の願望を勝手に押し付けるな、偽善者!」

聖が何事かを言いかけたが、無視して女苑は背を向けた。廊下を走り抜けて、女苑は混乱したまま足袋にもかかわらず石段を駆け降りた。

(あり得ない、あり得ない、あり得ない!)

女苑は軽いパニックに陥っている。聖の言葉の意味がわからない。いや、頭では理解しているが、脳がそれを拒絶する。
本当は慎ましく――そんなこと、女苑は一度だって口にしたことがない。けれど女苑はそれを『嘘だ』とあの場で否定できなかった。

(私がいつボロを出した? なんであいつがそんなこと知ってるのよ!)

女苑は荒い呼吸のまま石段の途中でうずくまった。
女苑は刹那的な快楽を求め、煌びやかな財宝に囲まれた生活を望む派手好きな神だ。特に誰かに取り憑いて厄災をばら撒き、他人の財を巻き上げる行為には言いようのない快感を覚える。
けれど、その裏側で――こんなお金だの財宝だのに執着して何の意味があるのだろう。幸せってこんな見た目だけきらきらしいものを指しているって言い切れるんだろうか。本当の豊かさはとは何だろう。幸福は富の豊かさではなく、心の豊かさにあるのではないか――そんな考えが、時折影のように女苑の中に現れるのである。
けれどその考えは女苑にとってひどく認め難いものだった。女苑は疫病神だ、本能のままにエゴを晒して生きるのが一番楽しいんだと信じて、強いてその冷めた考えをまやかしだと自分に言い聞かせ、顔を覗かせそうな時は「お前は黙っていろ」と有無を言わさず押さえつけていたのだ。
そんな本人が巧みに隠し通し、何なら普段は忘れかけているそれを、なぜたった数日の付き合いでしかない聖に見抜かれたのだろうか。いくら聖が人生経験に豊富で、数多の人妖の悩みを聞いてきたといっても、さすがにサトリ妖怪のような読心術は持っていなかったはずである。

(ちょっと待った、読心?)

女苑ははたと気づく。読心とまでは行かずとも、似たようなことができる奴ならいるじゃないか。極めて尊大かつ傲慢で、なぜ商売敵の聖とタッグを組むのかよくわからない聖人、豊聡耳神子が。

(さてはあいつら、まだグルになってやがったな! あいつが聖にいらんこと吹き込んだのよ!)

女苑は猛然と腹が立ってきた。根拠はまったくないが、女苑はそう思い込んでいる。思いもよらぬことを突きつけられた動揺と憤りのあまり、冷静な判断ができないのだった。
その時、女苑の頭上に風が吹き抜けた。顔を上げると、見覚えのある紫のマントがひらめくのが見えた。



一方その頃、聖と女苑の騒ぎを知らない一輪と星はというと、相変わらず例の本に熱中していた。一輪は熱心にページをめくる星を満足気に眺める。

「へえ。こんな意味があったの」
「しっくりくる言葉を先に探すか、興味のある宝石の意味を調べるか。どっちからでも楽しそうよね」

最初こそ慎重だった星も、一輪と一緒になってあれこれと目を止めては意見を言うようになった。

「その人に一番似合うものを贈るのなら、一輪にはターコイズやブルートパーズかしら」

不意に星は一輪の顔を見て笑う。いきなり自分の名を出されるとは思わず、星の金色の目がかち合って一輪はどきっとする。

「空の青に近い色がいいと思うの。それに、宝石の意味も友情とか健康とか。きっと一輪によく似合うと思う」
「あはは、なんか照れる」
「雲山はやっぱりルビーかしら。普段は寡黙でも心の中は一輪に負けず劣らず情熱的。意味は、勇気と威厳」
「だって、雲山。あ、いつもより赤い」

一輪は照れて縮こまる雲山をからかって笑った。それならムラサには、響子には……と命蓮寺の面々を順番に挙げて行くごとに話も弾んで、最後に、

「それじゃ、聖様には?」

と一輪が我らが親分の名前を出せば、星は紫色の宝石が載ったページを指した。

「タンザナイトなんてお似合いかもね。誇り高き人、希望、知性……何より、見る角度で色が変わるのが素敵」

星は目を細める。一輪も一緒になって同じページを覗き込んだ。挿絵ではわかりにくいが、実物のタンザナイトは深い青から紫色に、光の当たる角度によって色が変わるそうだ。
それにしても、と一輪は感心する。一輪の提案を否定するだけでなく、興味を持ってくれたのがありがたかった。

「聖はきっと見る人によって評価が変わるわ。私達にとっては尊敬する恩人でも、他の人には胡散臭い宗教家でしょうね」
「そうねえ。あと鼻につく善人気取りとか、ターボババアとか」
「最後のは何か違うような……。だけどどの見方も聖は受け止めるだろうから。受け止めた上で、私はこうですって示すでしょうね」

一輪は意外に思う。星にとって聖は誰よりも慕ってやまない相手で、中傷されれば温厚な星でも冷静ではいられなくなる。そう思っていたが、誰からも好意的に評価されると限らない――それこそ、女苑にとっての聖がそうであるように――聖を、それもまた聖の一面だと客観的に評価できるようだ。

(よかった。星の世界が狭くなくて)

安堵する一輪の傍らで、星はまた別のページをめくる。

「あとはアメシストもいいわ」
「あ、アメシストって紫水晶のことでしょう。数珠にも使われるのよね。いいんじゃない?」
「ええ。それにアメシストって『酒に酔わない』効果があると信じられていたのよ」

一輪は固まった。一滴も酒を呑まない聖に対して、つい気が緩みがちな一輪にはなかなか皮肉が効いている。星はにっこり微笑んだ。

「どう? 一輪もいる?」
「嫌味だなあ……自分だって大虎のくせに」

何となく面白くなくて、一輪はすかさず切り返しを考える。この手の頭の回転は早かった。

「いいのかなー。星があんまり意地悪言うなら、私だってお酒なんか目じゃ無いとっておきの切り札出しちゃうんだけどなー」
「何、切り札って?」
「聞きたいの? そうねえ、サファイア、アクアマリン、ラピスラズリ……は例の女神を思い出すからやめとこ」

一輪は得意げに口元をつり上げた。宝石の名前を羅列したところで、一輪の意図に星も気づいたようで、目を瞬く。

「まあ、何にせよ“藍色”が一番似合う人よね?」

とどめとばかりに言い放てば、星の耳のふちが赤く染まる。
何ともまあ、わかりやすい。世の中に藍色なんてありふれているのに、星にとって藍色から想起する人物はたった一人しかいないのだ。それこそがいつもお堅い星の唯一の弱みというか、ごちゃついた肩書きをすべて捨てた少女の顔である。
星は無言で本を閉じた。

「一旦返すわ」
「え、まだ見ていいわよ? どうせなら贈り物とか考えちゃえばいいのに」
「たぶん私と同じで宝石とか好きじゃないと思う」
「それは……あー、私もそんな気がしてきた。まったくお似合いよ。そんな星にはこれがお似合いね」

星は肝心の自分に似合う宝石を挙げていない。なら一輪が見繕ってやろうと思い、星に突き出された本を開いて、一輪は金色の項目を指差した。その名前を見た途端、星ははっと目を見張る。

「タイガーアイ……虎目石」
「見た瞬間、星にぴったりだって思ったの」
「うん……私そのものって感じ」

星もつられて本を覗き込んだ。虎の縞模様を彷彿とさせる色合い。解説を読むに、金運を呼ぶパワーストーンのようだ。財宝を集める虎妖怪、星は他人事に思えない。
一輪は布都に習った風水に絡めて使い道を助言するも、星の意識は別の場所へ持って行かれる。

【虎の目は、すべてを見通す】

簡素にまとめられた解説文の中の、ただその一節に目を奪われていた。



さて、一輪と星の談笑など知る由もなく、女苑に逃げられた聖は、一人で所在なく縁側に腰掛けていた。

「困ったわ」

聖は嘆息する。すぐに女苑の後を追おうとも考えたが、今の女苑は寺を逃げ出さないだろうとある種の信頼を置いて、聖は思いもよらぬ女苑の反応に悩んだ。
女苑の奥底にある願望には、早い段階で気づいていた。引き取りを申し出た時には『この子はまだやり直せる』といううっすらした希望的観測しかなく、聖自身にも上手い説明はできなかったのだが、実際に寺で修行をつけてから明確な答えが見えた。
しかし、肝心の女苑がああも自分を認めたがらないほど頑なだとは予想だにしなかった。

「自分の心くらい、他でもない自分自身が認めてあげないといけないのに……これは時間がかかりそうね」

聖はまたため息をつく。この分では、聖が女苑を肯定しようとすればするほど、女苑は頑なになって突っぱねるだろう。かといって放置しても女苑は怠惰で強欲な生活に戻るだけだ。さしもの聖も肩を落とした、その時だった。

「三回目」

聖の頭上に影が差す。見上げるまでもなく、聖は声の正体に気づいていた。
かつての為政者らしくマントをはためかせた神子が、口元をつり上げ聖を見下ろす。その姿を認めるなり聖は眉をひそめた。

「疫病神の有無にかかわらず、お前は自分から幸せを逃すんだな」
「誰です、私の許可なく商売敵をうちの寺に上げたのは」
「この寺の構造はもう把握した。勝手に邪魔させてもらったよ」
「不法侵入で突き出しますよ?」
「やれるものならやってみろ、ご自慢の肉体技でな」

つっけんどんな対応を取る聖に対し、神子はからかうように笑っている。聖の睨みをものともせず、神子は当然のごとく聖の隣に腰掛けた。残念ながら、今の聖に神子の相手をする余裕はない。この数日、女苑につきっきりだったせいなのか肩が重く、聖は自分で思っている以上に疲労を感じているのに気づいた。

「その様子だと、ずいぶんあの疫病神に手を焼いているみたいだな」
「……ええ」
「難儀なもんだ。私ならあいつらを生かすにしたって、道場を跨がせたりはしない」
「道教とは相性悪そうですもんね」
「仏教とだって合わないんだろう。本当にお人好し」

神子はじっと聖の目を覗き込んできた。神子の能力の最大の特徴は耳にあるのに、彼女は目も聡い。不浄観や摩訶止観がなくともすべてを見通せそうだ。
聖は臆せず神子の視線を受け止めた。品定めされているようで気分は良くないが、逸らせばこちらが負けたみたいで居心地が悪い。聖の心を見透かしてか否か、神子は鼻で笑った。

「お前は自分の手の届く範囲をよく知っている。なのにもっと遠くへ、その先へ、と手を伸ばすのをやめられない。だから徒労ばかり重なる。違うか?」
「わかったような口を聞くのね」
「どうせ余計なお世話で言わんでもいいことを言って相手を怒らせたりするんだろう?」
「……そうかもね」

なんとなく耳に痛い、と感じながらも思いあたる節があるので、聖は素直に神子の話を聞いている。

「この春はほとんどお前と一緒だったからな。……いや。私はもっと前から、それこそお前が私を封印したと知ったその時から、ずっとお前を見つめていた」

神子は不意に目を細める。にわかに二人の間に緊張が走った。
詰られるのか。積年の恨みをぶつけられるのか。聖が神子を危険視し警戒心を抱いていたように、神子もまた己の敵を隈なく観察しその実力を推測っていた。
聖は迷わず神子の目を覗き込んだ。神子の表情に、もう聖に対する恨みは見えない。

「私だって似たようなものだよ」

やがて、神子はため息をついて目線を聖から庭の前栽へと逸らした。桜はとうに散って、藤や山吹が咲き始める頃合いだった。
しばし間を置いてから、聖は神子がただ揶揄のために来たのではないと気づいた。ほんの気まぐれか、それとも共に力を合わせて戦った名残なのか……神子が眉をひそめるのを見て、聖は珍しく神子が気を落としていると驚いた。ややあって、神子はぽつぽつ話し始めた。

「世のため人のため……それが私の使命だと、それに値する力を持って生まれてきたと信じて疑わなかった。今、この世を治めることは叶わずとも、道を極めたい。道理にそぐわぬ赦し難い悪を野放しになどできない」
「本当に、使命感の強い人。貴方は実現できそうな力を持っているのだから厄介だわ」
「お前はやたらめったら私を警戒していたな? ――ふふ、その嗅覚は間違いじゃない。私は己の善性をそら恐ろしく感じている」

神子は口元だけで笑った。聖が横顔を見つめても、神子は目を合わせない。
聖はすぐに答えを返せなかった。神子からこんなに腹を割って話してくれる機会など、滅多にない。純粋な驚きが優った。

「いっそ世の悪をすべて根絶やしにできるすべがあれば……お前はどう思う?」

その時、神子の面に影が差した気がした。天道を掲げる神子に似合わない、ともすれば独善と紙一重の暗く澱んだ影が。咄嗟に聖は神子の腕をつかむ。神子の目を見て、きっと睨みつけた。
――そんなことはさせない。赦さない。私が絶対に止めてみせる。貴方が本当に進みたい道へ連れ戻してみせる。
聖の強い眼力だけで、言葉はなくとも通じたのか、神子は微かに笑った。

「難しいな、善の道は。より高みへ、より正しい方向へ、ずっと前だけを向いていたいのに、いつだって自分の足元に目をやらずにはいられない」
「禅問答みたいなものよ。本当に間違っていないのだろうか? って。問いかけるのも答えるのも自分ですけど」
「そうは言ってもおたおた悩む様を衆目に晒せない」
「貴方が小声でしどろもどろに演説するところなんて想像つかないわ」
「お前もな。温厚なくせしていつも言葉は強い」
「私をただの日和見主義だと侮ってもらっては困るわ。遠慮なんかしていたら理想はいつまでも理想のままなんですから」

聖の言葉は立板に水のようにさらさら溢れる。神子に黙って考える隙を与えたくなかった。何度となく拳を交えたところで、共に力を合わせて調査に出たところで、聖に神子のすべてなど知りようがない。けれど神子に暗い本音を吐かせたのは、いつも尊大で自信過剰な態度を崩さない彼女にも、人間らしい悩みを抱く折がある――その証左ではないだろうか。
神子は聖の言葉に澱みなく答えを返すうちに、やがていつもの神子らしい、自信に満ちた表情に戻った。面に光が差し込んだように見えた。

「身の丈に合わない理想を掲げて押し潰されるなよ」
「貴方こそ、未練がましく不老不死に執着しておいて、私より先に死んだら赦しませんから」
「本当に未練がましいのはどちらだろうな。私はお前の前を歩く、それだけだ。振り返ってなんかやらない」
「私がつまづいて転んでも助けてくれないのね」
「無視する。あるいは引きずって歩く」
「……貴方なら本当にやりかねない」
「お前は自分の力で立てるだろう?」
「ええ、立ち上がります。置き去りにされるのは嫌ですから」

誰かに置いていかれたくない。神子が相手だと、聖はましてそう思う。
神子と対峙する時、いつも心を強く保って、負けるものかとわざと口調に棘を持たせる。聖の意地であり、曲がりなりにも仏教を信仰する者として、仏教をただの政の道具としか看做さない神子と簡単に馴れ合うわけにはいかなかった。

(だけどこの人、弱みを見せられないみたいなことを言っておいて、私に話したわ)

聖にとっては意外だった。神子もまた弱みを見せない性格だと思い込んでいた。
しかし、神子の言葉に嘘偽りはない。彼女の言動には、聖が誰よりも注意深く耳をそば立て、つぶさに観察し、警戒を怠らなかった。神子の実力を恐れてのことだったかもしれないが、今となっては、もっと別の意味で神子の素顔を覗き込もうと試みる自分に気づいている。

(そうねえ、隗より始めよ、って言いますし)

自分の心はまず自分が認めるものだ。女苑にもっともらしく告げる前に、聖の言動が伴わねばならない。
聖は口元を緩める。神子に対して言おうか言うまいか、迷っていた言葉を告げた。

「神子。私は、自分で思っていた以上に貴方を信頼している」

口にしてから、聖は腑に落ちるとはこのことかと心地よさを覚えた。弾みがついたのか、苦笑いと共に湧き上がる感情が心の外へ溢れ出す。

「貴方がいつまでも私にとって危険な、信用ならない相手でいてくれれば、私だって素直に敵対できたのに。……私もよ。私だって自分の行く道が合っているのか、不安でたまらない時がある。だけど貴方の隣は心強かった。貴方と力を合わせれば、もっと良い道を見つけられると思った」

紫か、神子か。女苑と紫苑に敗れた後、聖は二択に迷う間もなく真っ先に神子を選んだ。
けれど、神子はどうして聖を頼ってくれたのだろうか。信用ならない紫に勝手に情報を渡して、結果として肝心な情報を紫から聞き出せずに同士討ちをさせられた原因は聖にもあるのに。
なぜ『聖も信用ならない』と考えなかったのだろう。なぜまた新たな策を練ればいいと、聖を訪ねてきてくれたのだろう。
神子は何も言わない。驚いているのか、呆れているのか、どちらにせよ神子がはっきり口にしないのなら、聖は都合のいいように受け取ってしまう。

「だから神子、私が間違った道へ進んだ時は貴方が止めて。貴方の言葉を、私は信じられるから」

聖はそこまで口にしてから、無意識のうちに体が神子の方へ傾きかけていたのに気づく。慌ててさり気ない体を装って背筋を伸ばした。頼りにしてはいるが、一方的に神子に寄りかかるのは不本意だ。
心を一旦落ち着けてから、聖はようやく神子の顔を見た。神子は面食らったのか、わずかに眉をひそめ、呆れと驚きとほんの少しの照れを混ぜたような複雑な表情をしていた。

「よくもまあ勝手なことを……元はといえば、お前が私の霊廟に手出しをしなければ、私だって……」

神子は歯切れの悪い文句をそこで打ち切った。どの道、神子が仏教より道教を重んじている時点で二人の諍いは避けられなかっただろう。
神子はまた視線を逸らす。聖が目で追いかけた次の瞬間、神子は真っ直ぐに聖の目を射抜いた。

「だけど、そうだな。私はお前となら最強の二人組になれた」

今度は聖が息を飲む番だった。じわじわと体の芯が熱を帯びて、心まで火照る。神子の穏やかで余裕を残した表情が、少しだけ憎らしかった。傾いた日がちょうど神子の後ろにあって、日輪を背負っているかのようだ。
「私も」と気の利いた答えを返したいのに、言葉がまとまらない。もどかしさに苛まれる聖を神子は見下ろし、肩に手を置いた。

「足掻けよ、聖白蓮。私が見捨てた神をお前は拾ったんだ。使えるものをすべて使って最善を尽くせ。そうでなければ、お前を頼った私が無様じゃないか」

神子は意地悪く微笑んだ。早くも神子は背を向け、用は済んだと言わんばかりに去ろうとする。その背中が遠ざかる前に、聖は思いの丈を叫んだ。

「神子。今度何かあったら、真っ先に貴方を頼る」

神子の足が止まる。風で紫色のマントがゆらりたなびく。神子は振り返らないまま、低くつぶやいた。

「……おそらくお前が駆けつけてくるのはそう遠い日じゃないな」
「え?」
「今回の完全憑依、まだ何か解き明かされていない絡繰がある気がするんだよ。私にもはっきりとはわからないが」

聖は目を見張る。曖昧な言葉のわりに、神子の口調は確信を得ているものに近い。神子が寺を訪ねた真の目的は、これを伝えるためだったのではないか。
神子は「修行を怠るなよ」と言い残して、地を蹴った。神子の後ろ姿はあっという間に空の彼方へ吸い込まれていった。
一人残された聖は、あれやこれやと降ってきた衝撃に逸る鼓動を抑えるように、胸元に手を置いた。
神子が言葉の裏にほのめかした信頼は嬉しかったのだけど、最後の置き土産が不穏でとても喜びだけに浸ってはいられない。

「あの姉妹は本当にとんでもないものを連れてきたのね」

花に嵐というが、あの姉妹は一過性の嵐よりもタチの悪い、土壌からめちゃくちゃに荒らす有害な雑草なのだ。聖はまたため息をついた。幸せを逃す、と言われても止めようがない。そもそも女苑を引き取った時点で、聖は己に降りかかる災厄など気にしていなかったのかもしれなかった。
負けられない、と聖は顔を上げる。自らの願望を拒絶する女苑に示すべきは何か、聖はもう答えが出ていた。肩に残る温かさが、まして聖の心を奮い立たせた。



「いや私は何を見せつけられていたの?」

夜が更けて、一日の修行を終え、一人布団の上に寝転がる女苑の頭に真っ先に思い浮かんだのはそれだった。
いつもなら疲れ果てて、布団に入ればすぐに寝落ちするものの、今日ばかりはそうもいかない。夕方に盗み聞きした聖と神子の会話が頭から離れなかった。
二人の口ぶりから察するに、神子が聖へ余計な入れ知恵をしたわけではないようだ。ならば聖の目が優れていたと認めなければならないのは大変不服だが、それ以上に気になるのは二人の距離である。

「雨降って地固まる? フツー同士撃ちさせられたら揉めるでしょうよ。あれじゃ商売敵って言うよりもさ……」

ぶつくさ言いながら、女苑は途中で口ごもる。
二人の信頼もさることながら、女苑は意図せず聖の抱える悩みの一端を知ってしまった。

『私もよ。私だって自分の行く道が合っているのか、不安でたまらない時がある』

女苑の目には、聖がそんな弱気な悩みを持っているようには見えない。いつだって偽善ぶって口うるさい、偉そうな坊主なのだ。
けれど気を許せる神子にだけ打ち明けた言葉が本心で、聖は悩みながらも最善の道を模索しているのだとしたら?
もしも、女苑の目が聖の本質を捉えられていないだけなのだとしたら?

「……知らない。そんなの、知らない」

女苑は布団を深く被った。
こちらが勝手に盗み聞きしたこととはいえ、知ったところで何をしろと言うのだろう。女苑にそこまで聖の意図を汲んでやる義理はないはずだ。弱みを表に出さないのは聖の意志だ。立派な聖者ぶっている姿だって、紛れもない“本物”の聖ではないか。ならば女苑は自分の目に見える聖の一面だけをそのまま受け取って、自分の好きなように対応させてもらう。
女苑は眠気に任せて意識を手放した。神子が告げた完全憑依の穴の件はすっかり忘れていた。
翌日、女苑はまた早朝から響子の大声に叩き起こされ、もはや日課となりつつある聖とマンツーマンの修行を始めた。
女苑は何食わぬ顔で聖の前に姿を見せる。昨日の件で聖をからかってやろうかとも考えたが、黙っていることにした。女苑が聖に言われる前に掃除道具を一通り揃えれば、聖は口元を緩めた。

「だいぶ慣れてきましたね」
「私は不本意だけどね。毎日埃だらけになって焼香のにおいに塗れて、うんざりするわ」
「だけど今の貴方の格好、悪くありませんよ」
「私は地味な着物なんて嫌」
「質素な暮らしも良いものです。お寺のみんなもよく心得ています」
「そうかしら」

不意に悪戯心が疼いて、女苑はにやりとほくそ笑む。

「ここの修行僧が戒律破ってるのぐらい知ってるんだから。そうねえ、誰だったかしら、入道を連れたあの……」
「一輪ですか? あの子、またお酒に手を出したのかしら」
「お酒は知らないけど、なーんかいかがわしい本を持って、必死に隠そうとしてたわねー」
「……わかりました。覚えておきましょう」

聖の表情がみるみる強張って、女苑はざまあみろ、と心の中で舌を出す。別に一輪に個人的な恨みなどなかったが、寺での暮らしに飽き飽きしてきたところのちょうどいいストレス発散になった。
女苑はいつものように雑巾を桶に浸して固く絞る。袖が濡れないように襷掛けをやるのももはや習慣となっていた。しかしこの地味な黒の無紋の単は、何度見ても慣れそうにない。黒い服は喪服でもある。見るだけで気分が落ちるのだ。

「私の服、まだあるんでしょうね?」
「当たり前でしょう。ちゃんと返しますよ」
「傷つけたら承知しないから。高いんだからね、ジャケットもアクセサリーも……」

女苑は遠ざけられて久しいブランド品が恋しくなる。あれにどれだけの財を費やしたことか。時に偽物を掴まされながら、自分を着飾るために必死であつらえたものだ。煌めきを思い出そうとして、女苑はなぜか記憶の中の財宝やブランド品が輝きを少し失っているのに気づく。
毎日修行させられているせいか? 女苑は首をかしげる。

「何を身に纏うのか選ぶ行為は、自分が何者であるかの証明です」

そこへ聖の朗々とした声が届いて、女苑は眉をひそめる。例の鼻につくお説教の始まりだ。顔を上げると、聖は意外にも穏やかに微笑んでいた。

「貴方のつける無数のアクセサリーは防具のようです。矛盾した心の内を隠すための」
「……なんであんたはそう言い切れるの」

女苑は苛立って雑巾を床に捨てた。聖はまだ昨日の、女苑が密かに抱える質素な欲望を蒸し返すつもりらしい。神子といい聖といい、なぜ一方的に見透かして、女苑はこうだと言い当ててくるのだろう。なぜ女苑がそれを堂々と口にできない理由がわからないのだろう。
女苑は立ち上がって聖を睨みつけた。

「何が根拠なの? 単なるあんたの思い込みじゃないって断言できる?」
「忘れたんですか。私はそれなりに人の嘘を見抜けます」
「馬鹿を言え、あんたに私の何がわかるっていうの!」
「貴方と出会ったのは今回の異変が初めてですから、ほとんど何も知りませんね。私の経験則と、短い付き合いの中から、貴方の言動を元に考えてみた答えです」

そんなの思い上がりだ、自信過剰だ、と言いたいのだけど、昨日神子との会話を聞いてしまったためか、一方的に罵れない。女苑はもう聖が単なる理想主義者でないと知ってしまった。
いきりたつ女苑に対して、聖はどこまでもおっとり構えている。女苑と聖の人生経験の差を思い知らされるようで、女苑は唇を噛んだ。
聖には敵わない。口先だけの反抗なんて、軽くいなされてしまう。聖の悩みなど関係ないと息巻いても、実際に対面すれば呆気なく女苑の意地は崩される。それこそ聖の言う防具としてのアクセサリーを奪われるように。

「私は疫病神よ」

それでも女苑は棘のある口調を作る。空虚な突っ張りだけが、なけなしのプライドをかき集めて固めた女苑にできる唯一のすべだった。

「知ってます」
「財宝が好きなの」
「まあ、嘘ではないようですね」
「あんたと真逆よ」
「確かに貴方ほど厄介な妖怪を引き取るのは初めてです」
「あんたにとって百害あって一利なし!」
「私は見返りが欲しいのではありません」
「じゃあ何のため? どうしてそこまでして私にかかずらうの?」
「そんなにどうして、どうして、と言われましても……」

聖は眉を下げて笑う。聞き分けのない子供を前に困惑する大人の対応だった。
聖は頬に手を当て、しばらく考えてから、やはり眉を下げたまま女苑に向き直った。

「貴方が何だか困っているみたいだからほっとけない。それじゃ駄目ですか?」

聖は照れ臭そうに頬をかいた。聖者というにはあまりに頼りない、まして君子には程遠い、ただのありふれたお人好しとしか言いようのない姿だった。

(ああ、この坊主は……)

女苑の握りしめた拳から力が抜けてゆく。
何ということはない、神子の見立て通り、聖の妖怪も人間も平等に救済しようとする崇高な思想の根幹にあるのは、単なるお人好しなのだ。元来のお節介な性格ゆえに、自らの手に余るほどの問題児な女苑まで寺に引き取った。神子に甘さを詰られるわけである。

「あんたは救いようのない馬鹿だね」

思わずため息が出た。聖を慕う弟子達には聖が理想の主人に見えるだろうが、女苑からすればせいぜい近所の世話焼きな主婦みたいなものだ。そうして神子が見抜いたように、聖はいずれ女苑を持て余して更生も中途半端なまま女苑を手放すだろう。容易く想像できた未来に、女苑は自嘲の笑みをこぼす。

「どんなに頑張ったって、どうせあんたもそのうち嫌気がさすよ。私達は姉妹そろって厄介者。みんな私達を嫌っているわけだしさ」
「そんなことありませんよ」
「ふん、陳腐な慰めなんていらないわ」
「まず幻想郷の住民の多くは貴方達姉妹のことを大して知りません」
「フォローの方向が違う!!」

真顔で告げる聖に女苑は頭を抱える。
確かに『好きの反対は無関心』とはよく言うが、そんなオブラート無しでド直球に言う奴があるか。思い返せば聖は優しいようでその実、言葉には容赦がないのだった。

「もちろん今は異変の影響で良い印象を持たれていないでしょう。というか貴方達、文句を浴びせられても褒め言葉と受け取っていたじゃありませんか」
「それとこれとは別なのよ!」
「まあ先ほどの言葉は言い過ぎにしても、私が言いたいのは、そんな風に世の中すべてが自分の敵か味方かとか、みんなが自分のことを好きか嫌いかとか、深刻に考えなくてもいいってことなんですよ」

遅れてやってきたフォローに女苑は口をへの字に曲げる。言われなくとも、女苑は嫌われ者であることに関しては悩んでいない。単に無茶苦茶を言って聖を困らせたいだけだった。しかし女苑の意図に反して聖が真面目な答えを返すので、肩透かしを食らった女苑は途方に暮れる。これではどちらがどちらを振り回しているのかわからない。

「ねえ、女苑。かつて私は魔法の力を恐れた人間に封印されました。その時の私は、世の中のすべての人間に忌み嫌われていたと思いますか?」

聖はなお優しく語りかけてくる。邪険に突き放せず、女苑も少しだけ真面目に考えた。聖が封印されたのは確か千年近く昔か。その頃の聖の活動範囲や、今よりも迷信が信じられやすかった時代背景などを加味しても、答えは簡単に出た。

「……違う?」
「正解です」
「あんた、そんなに有名じゃなかったんだね。可哀想に」
「私の知名度なんてその程度ですよ。名が知られなければ多くの人々に私の声は届かない。かといって名が広まりすぎると私が妖怪の味方をしていることがバレてしまう。ですから多くの人間と妖怪は私が封じられたことはおろか、私が存在したことすら知らない」
「みじめー。そりゃあ幻想郷に来るわけだ」
「今でも苦労はさして変わりませんよ。大変なんですからね、『妖怪と人間の平等なんてどうでもいい』と考えているような人に少しでも話を聞いてもらおうと考えるのって」
「ああ……うん」

嘆息する聖に、女苑は気まずさから目を泳がせた。女苑もまた聖の理想に興味のない一人である。聖は再び微笑みを浮かべた。

「だけど私は貴方がそんなに嫌いじゃないし、興味もあります。それだけは覚えておいてください」
「は? そんな単純な言葉で私が籠絡されるとでも思ってるの?」
「貴方って、人の言葉をちっとも素直に受け取ってくれないんですねえ」

反射的に切り返せば、聖は肩をすくめる。うんうん唸りながら聖は縁側を降りて庭に立った。遠くで響子が読経をしながら掃き掃除をしているのか、元気な声が聞こえてくる。
山吹の咲き誇る庭を背後に、聖は女苑を振り返った。

「それじゃあ、貴方が納得してくれそうな理由をもう一つ話しましょうか。私にはたった一人、目標にしている僧侶がいます」
「ふーん。最澄? 空海?」
「高名はそれら両人に比べれば遥かに劣るでしょう。それでも私にとって唯一無二の憧れです」

聖は境内に植えられた葉桜に手を伸ばした。もう涅槃会も花祭りもとっくに過ぎたが、聖の脳裏には現の極楽のような満開の桜が映っているのかもしれない。聖は眩しそうに目を細める。聖はここではない、どこか遠くを見ていた。

「その人は優れた法力を持っていて、重いものを運んだり、人の病気を治したり……いつだって人の為に力を振るう人だった。そのくせ自分の身の周りには無頓着でね。私が心配して衣を縫って持っていってあげたら、やっぱり粗末な身なりで暮らしていたのよ」
「あんた、そいつが好きだったの?」
「夫や恋人じゃないわよ? 弟だもの。だけどそうね、私はその人を愛していた」

愛していた――過去形だ。千年の時を経て今もなお生きている聖と違って、その人とやらはもうこの世にいないのだ。“その人”というどこか突き放したような、距離を取る呼び方も、きっと聖の中でいくらか折り合いのついた出来事だからだろう。

「私の法力はその人に教わったもの。私などは遠く及ばない、私の誇り……それでも同じ高みに近づきたい。その人とは違うやり方で、私はこの世の衆生を救うつもりです」

聖は宙へ伸ばした手のひらを握りしめた。いつのまにか聖は風が散らした山吹の花びらを手にして、愛おしげに胸に押し当てていた。山吹はどんな意味を持つ花だったっけ、と女苑は頭を働かせるも、春の鮮やかな黄色い花としか思いつかなかった。
聖の言葉には確かな情熱を感じたものの、一方で女苑の思考は冷めていた。
敬愛する僧侶へ近づくために。女苑へ手を差し伸べる理由としては、今まで聖が語った中でもっとも利己的でわかりやすかった。
しかし女苑は情に絆されない。明確に仲が悪いとも良いとも言い切れない乾いた関係の姉を想起してのことかもしれない。あるいはたとえ過去形であっても簡単には口にできない『愛している』を言ってのけた聖への反発かもしれない。

「あんたは器が欲しいんだね」

気がついたら女苑は嘲笑混じりに告げていた。

「あんたは“その人”とやらを亡くして、心の底から湯水みたいに沸いてくる感情の捌け口を探しているだけよ。代わりが見つからないから手当たり次第に手を伸ばすんでしょ。要は形代ね」

縁側を飛び越え、聖と同じ目線に降り立った女苑はくつくつ笑った。これらの適当な物言いが的を射ているなんて微塵も思っていないが、少しでも聖が困ればいいと思った。心のどこかで聖を認めている自分を理解しつつ、幼いプライドが邪魔をして素直に受け入れられない。せめてもの抵抗として、女苑は天邪鬼以上に天邪鬼な反発しかできなかった。
――あんた、可哀想にね。出家したってなんにも満たされないじゃん。修行なんて意味ないでしょ、どうせなら在家のまま好きなことして楽しんだ方がいいじゃない。だから私はあんたの思い通りにはならないのよ。
せせら笑う女苑に対して、聖は少しも笑わない。微笑すら引っ込めた聖は、静かに女苑を見つめる。

「なるほど、貴方はそう受け取るの。なら、これだけははっきりさせておかなければならないわ」

一歩、聖が女苑の間近に歩み寄る。次の瞬間、

「誰かの身代わりなんて存在しないのよ」

低く重みのある声に女苑の鼓膜が揺さぶられた。滅多に感情を荒げない聖の顔に、紛れもない怒りが見えた。思わず逃げ出したくなるも、どこまでも静かながら激情を孕んだ目に射抜かれて動けなかった。

「決して替えのきく道具ではない。一輪も、雲山も、星も、ムラサも、ぬえも、ナズーリンも、響子も、マミゾウも。私は“その人”の代わりだなんて思っていないし、あの子達の代わりだってどこにもいない」

女苑は圧倒されて反発の言葉すら出てこなかった。聖の一言一言がたたみかけるように重みを持って、女苑にのしかかる。過去も現在も平等に思いやりながら、聖は現在の仲間達の名前を優先的に挙げた。聖にとっては、敬愛する僧侶への想いを侮られた憤りよりも、今、聖のそばにいる弟子や仲間達を思う感情が勝るのだと思い知らされた。
唖然とする女苑に向かって、聖はまた目尻を下げた。あっという間に聖から憤りが消え失せる。何と巧みに感情を制御するのだろう。

「自分を大事になさいな。それとも、私が貴方を誰かの代わりにしていると思った?」
「いや……」
「毘沙門天の代わりを立てておいて、と言いたい気持ちはわかりますけどね。安心して。相反する欲望を抱えていても、貴方は一人の貴方。誰しも二面性くらい持っているのよ。かつての私が妖怪への慈悲を隠していたように」
「誰が、そんなこと」
「女苑、貴方は『何を求めているの?』と言いましたね。私は見返りなんて求めてない……と繰り返し言っても貴方は納得しないでしょうから、私から貴方に一つお願いがあります」

聖は女苑から一歩下がって、間隔を開ける。聖の白く柔らかな手のひらが、女苑の目の前に差し出された。

「私が伸ばした手を、貴方に受け取って欲しい。私がどんなに救いの手を差し伸べても、受け取ってもらえなければ意味はないのですよ」

聖は満面の笑みを浮かべた。鮮やかな黄色の山吹に似合う、明るい笑みだった。
女苑はまたもまごついた。女苑がどんなに意地を張って突っぱねても、聖はあれこれ別の手段を考えて、根気強く歩み寄ってくる。
女苑の意地はもはや崩落寸前だった。聖の言葉に嘘がないのもわかっている、聖はきっと女苑自身が扱いがわからずに困っている質素な欲望も肯定してくれる。ストイックな修行だけはどうしても肌に合わないが、聖を嫌いじゃないと女苑も気付き始めている。
女苑は恐る恐る、自らの右手を、聖に向かって伸ばした。聖は自分からは動かず、女苑の行動を待っている。
聖の温かな手に、触れようとして――すんでのところで力強く叩き落とした。

「認めないわ」

女苑は真っ向から聖を睨みつけた。

「あんたのことも、あんたの言う私の二つの顔も、私は絶対に認めない!」

女苑は庭に降りて汚れた足袋のまま、縁側へ駆け上がって聖を置いて逃げ出した。
すれ違いざまに垣間見た聖が寂しそうな顔をしていたのに、気づかないふりをして。



(あっぶない、危うくあいつの口車に乗せられるところだった)

駆け続けた女苑は、自分に貸し与えられた部屋に逃げ込んだ。どうせ追いつかれるとわかっていても、今の女苑の居場所などここしかない。
女苑は聖の手を振り払った右手を見た。力を込めたせいか、自分の手のひらも赤みを帯び、熱を持ってじんじんと痛む。まるで良心の呵責、心の痛みのようだ――頭によぎった考えを即座に否定した。
自分が悪いんじゃない、聖が悪いんだ。女苑自身が認められないエゴを、聖が簡単に認めるなんて言うから、振り払うしかなかったのだ。
疫病神の女苑は嫌われ者だ。かといって、他人の優しさをまったく知らないわけでもない。猫をかぶるのが得意な女苑は案外好かれやすく、取り入りたい人間とお近づきになってちやほやされるのも珍しくなかった。しかし女苑の企みに気づいた途端、人間の好意はたちまち嫌悪に変わる。その落差が大きければ大きいほど、疫病神のプライドが満たされて女苑はざまあみさらせと高笑いするのだった。
ところが聖は変わり者だった。女苑の悪行に眉をひそめつつ、救いの手を差し伸べ、何度も叱り、女苑に散々突っぱねられてもしぶとく手を伸ばしてくる。優しさと厳しさ、両方を決して絶やすことなく。
女苑には聖の手をどうやって受け止めていいのかわからない。今まで誰とも真剣に向き合ったことがないから、聖の真っ直ぐな眼差しに戸惑って目を逸らしたくなる。聖が嫌いじゃないから、目を合わせるのが怖い。自分の幼稚さに呆れながら、聖の言葉を何が何でも否定したくなる。

「……無理よ」

女苑はぽつりとつぶやく。聖は自分自身との向き合い方をよく知っている。しかし女苑は自分と対峙する方法なんてわからない。矛盾する二つの欲望を、アンビバレントな自分をそのまま自分だと認めるなんて無理があるとしか思えない。

「私自身がわかんないんだもの。簡単に言うけど、あんたに答えが出せるわけがないじゃん」

財宝で派手に着飾りたい。富を巻き上げて散財したい。紛れもない女苑自身の欲望であり、本能だ。ならば、その裏で質素な生活に憧れる自分は、エゴそのものではないか? あるいはエゴの一部ではないか?

「派手に身勝手に生きてこそ疫病神じゃない。質素に慎ましくなんて、そんな欲望、私には……」

らしくない。あまりにもらしくない。
――こんなのは私の生き方ではない!

「ああもう! なんっで私がこんなことで悩まなくちゃならないのよ!」

だんだん腹が立ってきて、女苑は頭を抱えて叫んだ。

「あいつよ、聖のせいよ! あいつが余計なこと言うから! 知るかボケー! 妖怪が本能のままに生きて何が悪いんじゃー!!」
「あらあら、ここにも夢の住人が出たのかと思ったわ」

思いのままに吠え立てる女苑の目の前に、突如両端をリボンで結ばれた無数の目玉が覗くスキマが現れた。奥から姿は見えないものの、聞き覚えのある女の声が聞こえた。

「……えっ?」

というかこんな特徴的で自己主張の強いスキマの使い手なんて、一人しかいない。
危機感を覚えた女苑が後ずさるより先に、白い腕がにゅーっと伸びて、女苑の首根っこをつかんだ。

「ちょっと顔を出してもらうわよ」
「えっ、ちょ、な、助け、ひじり、ぎゃーっ!!」

女苑は抵抗も虚しくスキマの中に引きずり込まれた。
悲鳴すら飲み込んだ後、スキマは閉じ、空間の裂け目も何事もなかったかのように消えた。



「うん?」

遠くで女苑の声が聞こえた気がして、星は手元の経典から顔を上げた。

「また女苑が聖と揉めているのかしら」

聖の苦労を偲んで、星は目を伏せる。
星が女苑をどう思うかと聞かれると、答えようがない。一応新たな居候として気にかけてはいるものの、聖が張り切って彼女の更生に当たっているので、下手に口を挟むのも憚られたのだ。
星は視線を円卓に置かれた宝塔に向けた。一輪との談笑を終えてからずっと、星は宝塔の使い道を考えている。毘沙門天の光は邪心を戒める正義の威光、とはいえ戦闘を得意としない星にその出番はほとんどない。せいぜい財宝目当ての邪な客を門前払いする程度だ。

「一輪には悪いけど、楽しむのはまた別の機会ね。お守りも悪くないと思うけど、どうしても悪用されないか気になってしまう」

くそ真面目ー、と一輪の文句が聞こえた気がしたが、今は黙殺する。
とはいえ、宝塔の前向きな使い方を示してくれたのには感謝している。誰かのために、結局はそれが一番、星にとっての原動力となる。目の前で輝く笑顔を見せてくれた一輪を思うと、自らの持つ力を抑えつけるばかりではもったいないと星にも新たな考えが芽生えた。

「これは私のものじゃない。だけど千年も借りっぱなしでいたら、もう私と切り離せなくなってしまうわ」

星は今ここにいない、見慣れた赤い瞳を思い出す。
毘沙門天の代理に相応しいか否か、ナズーリンが品定めをする限り、星は瑕なき玉であらねばならなかった。ただの妖怪に過ぎない星を半ば黙認とはいえ認めてくれた毘沙門天と、星を信じて頼ってくれた聖に申し訳が立たないからだ。
役目に没頭すればするほど自分が粗悪な模造品(イミテーション)にしかならない滑稽さを嘆いたのも、それを踏まえてなお威厳ある姿を人前に見せなければならない己の宿世に倦み疲れたのも、今は昔。

「こうなっちゃったものは、しょうがないでしょうね」

僧侶、妖怪、虎、神、偶像。結果的にいくつもの矛盾した顔を抱える羽目になったものの、星にとって最も尊ぶべきは聖から教わった法力だった。どうにか揺るぎないアイデンティティを見つけた星は、開き直って『どの顔も私の一部だ』と言い切れる。

「力の使い方……持ち主を破滅させないよう、導く方法……」

星はじっと宝塔を見つめた。明々とした宝塔の中央に、タイガーアイに似た星の目が反射して映っていた。

「私の目は、すべてを見抜ける? 本物の審美眼を持っているかしら?」

星は他でもない自分自身に問いかける。見かけや上辺に騙されず、本質を捉えるための眼力が自分に備わっているか確かめるため、それが今の星が借り物の宝塔を扱う理由だった。



一方、女苑に手を払われてから、聖は項垂れて庭に立ち尽くしていた。

「……今の私を見たら、神子は鼻で笑いそう」

憎まれるのも宗教家の宿命、と理解しつつ、少しずつ愛着を覚えてきた新たな一員に何度も拒絶されると、さすがの聖も落ち込みそうになる。疲れた、と縁側に腰掛けた。肩が重くて、気分は沈んで、まるで五月病だ。聖に自制心がなければ何もかも嫌になって投げ出してしまいそうだった。

「嫌いじゃないけどね、ああいう何もかもに反発せずにいられない子って。だけど困ったわ……思った以上に手強いじゃない」

『心の底から湯水みたいに沸いてくる感情の捌け口を探しているだけよ』――女苑の嘲笑を思い出して、聖は薄く笑った。

「まあ、その一点に限っては当たらずとも遠からじ、と言ってもいいかしら」

修行を積んで普段は制しているものの、聖の感情そのものは大河のように溢れて止まることはない。それを聖もよく自覚していた。
心には下ゆく水のわきかへり――聖は心に浮かぶことすべてを正直に吐露しているつもりだったが、それでも心が余って言葉が足りないようである。
かといって、女苑と向き合う時、別に情に訴えているつもりはないものの、聖が綿々と語るとどうしても言葉に情感が乗りすぎてしまうらしい。それが女苑を遠ざけているのだろう。

「もっと別のやり方を考えた方がいいのかしら?」

聖は思案する。思えば聖が勝手に女苑を引き取ると決めた後ろめたさから、また弟子達の女苑に対する淡白な反応から、聖が一人でどうにかしようと奮闘していたが、そもそもそれが間違いだったのかもしれない。使えるものはすべて使って――神子の言葉を借りるなら、少しは弟子達に頼ってもいいはずだった。
聖は弟子達の顔を順番に思い浮かべて、ふと閃いた。
聖の考えをよく理解していて。
聖と同じく質素倹約を心得ていて。
仏法に馴染み、他者に教えを説くことができて。
金銀財宝の持つ魅力と危うさを理解していて。
それでいて、聖とは別の考えを持ち、聖とは別の答えを出してくれそうな、信頼してやまない虎の子。
ぴったり当てはまる心当たりが一人いた。

「もしかしたら、あの子なら……」

思い立ったら、聖は疲れていても止まれはしない。早速星に相談を、いやまずは女苑ともう一度話をしてみようと、聖は女苑に貸し与えた部屋を尋ねた。

「女苑、少しお話が……」

しかし戸を叩いても返事はない。無視されているのかと戸を開ければ、中に女苑の姿はなかった。

「女苑?」

別の場所だったろうかと、聖は他の部屋をあたった。



「痛った!」

スキマから硬い石畳の上に落とされて、女苑は顎をしたたかに打った。ぐらぐら揺れる頭を押さえて視線を巡らせれば、女苑を突然誘拐した憎らしい妖怪が胡散臭い笑みを湛えて女苑を見下ろしていた。

「またお前か、八雲紫!」
「私は“神隠し”の主犯ですもの」
「本当に神を拉致る奴なんてあんたくらいしかいないわよ。どこよ、ここは」
「神社よ。見てわからない?」

ムカつきを覚えつつ、女苑は砂埃のついた顎をぬぐって顔を上げる。
紫の言う通り、女苑が連れてこられたのは博麗神社だった。相変わらず殺風景で閑古鳥が鳴いている。ここには紫苑が預けられていたはずだが、霊夢も紫苑も見当たらない……と思いきや、いつのまにか紫苑が女苑の真横にいて、女苑にすがりついてきた。最後に顔を合わせた時よりも三割増しでやつれている。

「久しぶりね姉さん。できればしばらく会いたくなかったわ」
「ひもじいよー、博麗神社って噂以上に儲からない場所なのよ。お客はちっとも寄り付かないし、霊夢は日に日にげっそりしていくし」
「それは姉さんが居座ってるせいじゃないの?」
「女苑はさぞお寺でいい暮らししてるんでしょうねえ。妬ましい」
「冗談! 呆れ返るほどしみったれてるわよ、神社ほどじゃないけど」
「おほん」

紫がわざとらしく咳払いをした。心なしかうんざりしているというか、くたびれて見える。

「まったく、貴方達は本当に面倒事ばかり起こしてくれたわ。こいつは春から縁起が悪い。後で厄落とししてこなくっちゃ」
「そういやいきなり拉致った理由は何?」
「貴方達に命じます。現で暴れている夢の世界の住人を一人残らず捕まえなさい」
「……は?」
「はあ?」
「藍、後の説明よろしく」
「はい、承りました」

あまりに端的すぎるとそろって顔を見合わせる姉妹の前に、またも新たな妖怪が現れた。いつのまに呼び寄せたんだか、紫の式神たる九尾、確か紫&霊夢との戦闘時に少し顔を合わせただけの八雲藍が紫の隣に立っていた。藍は恭しく姉妹に礼をするが、それが敬意などでなく従者としての単なるポーズなのは明らかだ。

「そもそも、夢の世界とはですね……」

藍の無駄に丁寧で長々しい説明を要約するとこうだ。
完全憑依は夢の世界を媒介して行われる。スレイブがマスターに憑依する時、マスターは夢の世界に追い出されてしまう。しかし夢の世界には夢の世界の人格、すなわち住人がいるため、玉突き事故のように夢の世界のマスターが現に追い出される。
女苑はそれこそ信じ難い夢のような話に目眩がした。完全憑依を利用して好き勝手暴れていたものの、夢の世界だなんて初耳だ。
思わず隣の紫苑を見やれば、紫苑はなぜか涼しい顔で口笛を吹いている。

(知ってたなこいつ!)

女苑はふてぶてしく居直る紫苑に思わずつかみかかった。

「どうしてそんな大事なこと教えてくれなかったのよ姉さん!」
「聞かれなかったから」
「ふっざけんなこの貧乏神が!」
「自分の脇の甘さを棚に上げるんじゃないよこの疫病神が!」
「あのー、姉妹喧嘩は後にしてくれません?」
「うっさい! あんたもあんたよ、紫の腰巾着ならもっと早く夢の世界とやらに気づいてたんじゃないの?」
「式神の私にそんなこと言われましても……紫様に直接言ってくださいよ」
「お役所対応みたいな言い方すんな!」
「私の説明はまだ終わっていません。現に飛び出した夢の世界の住人は……」

藍はそこでなぜか紫を一度振り返る。紫が何も言わないのを見て、藍は得心がいかないという顔をしつつ、

「全部で五人です。全員捕まえられたら、紫様は特別に今回貴方達が起こした騒動の始末を不問にしてくださるとのことです」
「え、マジ?」
「お咎めなしってこと? やったー!」
「ちゃんと捕まえられたらよ。夢の住人は厄介なんだから、覚悟なさい。あ、そうそう」

紫が再びスキマに手を突っ込んで探る。紫が女苑に差し出したものを見て、女苑は声を上げた。

「私の服じゃない!」
「お寺の箪笥にしまってあったのを持ってきました」
「あんたの力は本当に反則的ね?」
「褒め言葉と受け取っておくわ」

紫は扇を広げて目を細めるばかりだ。そして藍は相変わらず紫と姉妹への不信と困惑の混ざった表情で成り行きを見守っている。
女苑は久々にジャケットに腕を通し、アクセサリーを一つ一つ身につけてゆく。輝きが鈍って見えるのは、長らく箪笥に仕舞い込まれていたせいだろう。

(そういえば、何も言わずに出てきちゃったけど……)

一瞬、聖の顔が浮かんで名残惜しさが胸をよぎった気がした。
どうでもいい、と女苑は強いて振り払う。聖は嘘をついていなかった。聖が単なるお人好しなのはもうわかりきったことだ。けれど短い付き合いの中で、聖のすべてを知り尽くしたなんて言えるだろうか。知った風な口を聞くなと啖呵を切っておいて、女苑は女苑で、聖の本質を捉えていただろうか――それも今となっては確かめようがない。

(ふん、いいわ。これを機にあの寺とはきれいさっぱり縁を切ってやる。あんな善人気取りの坊さんなんかどうでもいいのよ)

何か引っかかるものを見なかったふりをして、女苑はジャケットの襟を正した。

「紫様、本当にあの厄介極まりない姉妹を許すおつもりなので?」
「藍、同じことを何度も言わせるなといつになったらわかるのかしら」
「……失礼しました」

一方、紫と藍のひそひそ話は、女苑達の耳には届かなかったようだ。藍は姉妹への処分もさることながら、紫が夢の住人を“五人”と断言したことにも引っかかりを覚えていたのだが、結局『自分は式神なのだから』と、それ以上は追及せずに終わった。

(姉妹の預け先は方や博麗神社、方や命蓮寺。……星、苦労してないといいけどなあ)

藍の心の中のぼやきは、もちろん紫にすら聞かれていない。初夏に向かう空気の蒸し暑さが、藍にじわりと嫌な汗をかかせた。

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