Coolier - 新生・東方創想話

わたしの傘

2022/04/28 20:32:48
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 名目が何であろうと、吉日と掲げ、催しを開き、出店を並べれば、人々は自ずと集まり賑わう。
 守矢神社行き索道乗り場前の広場で開催されている縁日は、まさにその通りの様相だった。
 索道乗り場には『大好評につき!』『ご愛顧への感謝を込めて!』なんて文言が踊る看板が立て掛けられ、名目はこれでもかとアピールされている。だが、守矢神社にしろ索道にしろ、お参りに縁起がいい日でも開通何日目のような節目でもない以上、実際は更なる信者獲得を目論む宣伝なのは明白だ。
 もっとも、そんなことを訝しむのはつまらないと、縁日に訪れた人達は皆知っていた。 某神社や某お寺が開催するそれらよりも沢山並ぶ出店を見て回って楽しみ、「せっかくだから」「もののついで」と索道を利用して参拝する。主催の神はそれを笑顔で迎えて巫女はお守りを売り、出店はついつい緩む財布の紐に舌なめずりと、損をする者は誰もいない。条件を緩くして出店を豊富にしたのも集客力のアピールと同業者への対抗心の現れだが、参加者からすれば、言ってしまえばどうでもいいのだ。
 そんな裏の意図など放り投げて賑わう縁日の人混みを、とあるつてで借りた『人里で取材を行う時用(帽子は借りなかった)』衣装を纏った千亦は、用紙の束を片手にある出店を目指して歩いていた。既に場所は分かっているのか足取りに迷いはなく、行き交う人の波をするりするりと抜けていく。
 程なくして、千亦は目的の出店の前に辿り着く。出店自体の見目は他と大差なく、客も今は誰もいない。商品を並べた台の向こうに店主が一人座っているのみであり、前を横切る人々も物珍しそうに一瞥こそすれど立ち寄る者はやはりいない。
 しかし、それも仕方ないだろう。軒先に掲げた看板に書かれた文字に加え、ずらりと並ぶ品物が品物なのだから。
 千亦は、横目に覗く通行人を後目に相変わらず迷いのない歩みで、そこに飛び込んだ。
「あっ、いらっしゃいませ!」
 探るような逡巡の一切ない足取りで訪れる客が珍しかったのか、少し驚いた様子で店主は出迎える。一方、千亦は落ち着いた朗らかな笑みを返す。
「どうも。付喪神の多々良小傘さん……でよかったわよね」
「え? は、はい」
 初対面の相手に急に名指しで呼ばれ、出店の店主――小傘は先程よりも驚きの増した声で頷く。
「いきなり本題に入って悪いけれど、実は私はお客さんじゃないのよ。今回の縁日の主催側の者、所謂関係者なのですが、出店を見させてもらっていまして」
「関係者、ですか?」
「天弓千亦、です。こちらをどうぞ」
 千亦は懐から一枚の名刺を差し出す。そこには、索道の看板にも掲げられているこの縁日の取って付けたような名称や、アドバイザーという肩書と先程聞いたばかりの名前に加え、守矢神社の判が押してあった。今日しか使わない名刺だからか非常に簡素なものだったが、しっかりと捺印された朱い印は偽造ではなさそうだ。
 それに、小傘でも分かるほどに、人間や木っ端妖怪とは明らかに違う雰囲気を目の前の者は纏っており、山の神様と知り合いだというのも頷ける。
「それで、その、関係者さんがどうしてここに?」
「気になることがありまして」
 千亦は視線を手元の用紙、出店の外観、品物を乗せた台やその傍らの置物やある文面の書かれた立て看板、店主、再び用紙と順番に移していく。
「あ、あの、もしかして何か規則とか破ってました?」
「いや、そうではありませんよ。元々、他のところも一通りは回っていて、ここが最後の締めというだけです。珍しかったから、最後のお楽しみに取って置いたのよ」
 手にした紫の傘をぎゅっと握っておずおずと尋ねた小傘に千亦は笑い掛けると、また目の前に並ぶ品物に目を向ける。
「縁日で傘を売る、なんて」
 千亦の目線の先で、広めの台にごろりと寝転がっていたのは、和傘洋傘が入り混じった何本もの傘だった。傍らの置物、もとい木組みの円柱には、開いたいくつもの穴に広げた傘の持ち手を入れて掛けてあり、こちらを向く傘布のカラフルな彩りが華やかだ。これら全てを合わせると、三十本弱はあるだろうか。
「ちょっと、失礼しますね」
 台に置かれた傘の一本を千亦は手に取ると、まじまじと見る。一見、何の変哲もない傘だが、よくよく見れば柄には小さな傷があり、傘布も多少色褪せていた。台の上にある他の傘や、脇の円柱をくるりと回して後方の傘も見てみると、やはりそれらにも使われた跡や多少の劣化が見て取れる。
 それに加えこれらに付けられた、一般的な価格を遥かに下回る、もはや投げ売りと大差がない値段。
 なるほど、軒先の看板に嘘偽りはなく、己の感覚にも間違いは無かったようだ。
「うん、面白いですね。『忘れ傘市』」
 千亦は傘を元の場所に戻すと、一歩引いて再度看板を見やる。そして、改めて小傘の方に向き直った。
「一つ、お願いしてもいいかしら。この縁日が終わったら、話を聞かせて貰えない?」
「話、ですか?」
「ええ。大凡見当はついているけれど、忘れ傘の意味。どうしてこんなにもあるのか。何故、貴方が出店で売っているのか、色々と。まだお昼過ぎで縁日もお開きまで時間はあるし、撤収作業の頃になったらまた来るから、その時にでも。あ、勿論、貴方さえよければね」
 千亦が聞きたいという、話とやらの内容を聞いた小傘は少し考え込んでから、口を開く。
「あの、千亦、さんは先程、回るのはここが最後の締めって言ってましたよね」
「ええ」
「この後、他に用事は何かありますか?」
「んー……。特に無いかしら。縁日が終わった後に山の神様と会議があるくらいで、それまでは何も」
 千亦の返答を聞いた小傘はもう一度考える素振りをした後、小さく頷いた。
「なら、話をするのは今からでどうですか? 店番をしながらお話ししますので」
「え、貴方はいいの?」
「はい。それに、恐らく片付けはとても時間が掛かると思うので」
「そう? ……じゃあ、お言葉に甘えて失礼しようかしら」
 千亦は予想外の展開に思わず驚きながらも、それを上回る興味に笑顔で頷いた。



「なるほど。次回の開催に活かすための情報集めとして、出店を回っていたんですね」
「好きでやってるとはいえ、一人で全部は流石に骨が折れたわー」
「お疲れ様です」
「ありがと。でも、その分楽しかったわ。なかなか癖のある店主が多くてね」
「あはは、それは分かります」
 千亦と小傘はそれぞれ椅子に座って隣り合い、相も変わらず前を横切るだけの賑わいを眺めながら話していた。千亦の口調もすっかり砕けたものになっており、和気藹々とした雰囲気だ。
 但し、その話題は肝心の小傘の話ではなく、まずはこちらの事情からと、千亦が話した『出店を見て回っている理由』だが。
「それに、やっぱり自分で直に確かめたいじゃない。いくら一覧があるとはいえ」
 千亦は持っていた用紙の束をペシッと叩く。千亦の言う通り、そこには各出店の店主の名前や扱う物、値段なんかの簡単なデータが記載されていたが、逆に言えばそのくらいしか載っていない。
 ならば詳細は自分の足でと、出店を回っては品物の詳細や遊戯の客層客足大凡の売れ行きに、食べ物なら匂いや煙、遊戯なら音や景品の在庫を保管するスペースが足りているか等々を調べていたのだった。そして、何故そんなことを、と言えば、それらを元に次回は更にしっかりと精査し、よりよいものにするためだ。
 実は、今回の縁日は実験の意味合いが強いものであり、本番は――まだ計画段階ではあるが――妖怪の山で開く市場だ。それは売買を行う市場に加え、大興奮間違いなしのイベントや出店も並べてと、お祭り色が相当強くなる予定だった。もっとも、この辺りの話は内密なので伏せていたが。
「でも、それならここは見ての通りで、多分ずっとこんな調子ですよ」
 小傘は苦笑すると視線を千亦から出店の前へと移す。二人が話している最中、傘が買われていくどころかそもそも客が訪れること自体なかった。
「朝からいますが、寄ってくれたお客さんは数えるほどです。……自分で言うのもなんですが、これだと主催者さん側もあまり好ましくはないですよね。参加費は純粋な利益分から割合ですし」
 つまり、利益が少なければ少ないほど納める金額も少ないということだ。更に言えば、利益がゼロであればそれすら発生しない。
 このままではそうなるだろうと気まずそうな小傘に対し、千亦は笑って手をひらひらと振る。
「いいのいいの。そもそも、売れないからとかをあまり気にせず、とりあえずでも参加してもらいたくてそうしたんだもの。なんなら、私個人としては参加費無料でもよかったんだけれど」
 でもそれは流石にちょっとって主催の神様に断られちゃってね、と千亦はもうひと笑いしつつ「まあ、それはいいとして……」と自らの話を一旦区切ると、表情を落ち着いた微笑みに変える。
「次は、貴方のお話を聞かせてもらおうかしら?」
 千亦に促されると、小傘はこくりと頷いた後、少しだけ間を空けて口を開く。
「……では、まずはこの子達、傘の出処から話しましょうか。それが、出店の名前の理由でも、私がこうして売っている理由でもありますから」
 小傘は一度静かに深呼吸すると、今までよりも落ち着いた穏やかな声色で話し始めた。

 小傘が鍛冶屋としてもベビーシッターとしても懇意にしてもらっている、ある金物屋の物置で見かけた、いくつもの傘。紐で一纏めに縛られていたそれらは片隅で埃をかぶっており、よくよく見れば人の手にあった形跡こそあるが壊れている物は一つもなかった。
 あれは何かと店主に尋ねてみれば、どうやらお客さんの忘れ物とのこと。うっかりは誰にでもあるし、店主だって常に出迎え見送りが出来るはずもなく、閉店作業の際に傘立てに置いて行かれた傘に気付いてもはや誰のものか、なんて具合だ。
 勿論、後日その忘れ傘を取りに来る人もいるが、来ない人もいる。当の本人もどこに忘れたのか覚えていないのか忘れたことにすら気付いていないのか、はたまた――似たようなことは誰にでも経験があると思うが――外に出る用事ついでに今日は回収に、と決めていても肝心の用事が終わったらそのまま忘れてしまったり。
「あー、そういうの、あるわよねー」
「ですねぇ」
「頭の片隅にはずっとあって、ふとそれを強く思い出しても、いつの間にかまた隅っこに行っちゃって」
「今回こそはって思うんですが……。でも、それも含めて毎回繰り返しなんですよね」
 千亦がうんうんと頷くと小傘は小さく笑って、また言葉を続ける。
 ともかく、そんな風にタイミングを逃してしまうといよいよ本格的に忘れられてしまい、季節が一巡するのも珍しくない。
 ここまで来ればもはや保管する義務も希薄になり、どう扱おうが自由だとは思うものの、なまじ使えるから捨てるに捨てられず、かといって自分で使おうにもそもそも傘は自分の物があるうえ、傘自体消費や入れ替えの激しいものではなく。
 そして、もしやと思いお世話になっている他の商店なんかにも聞いてみると、皆似た悩みが大なり小なり有り。
「そこで、私がそれらを超格安で引き取ってこうやって売っているんです。これだけあるのに、元手はタダ同然なんですよ」
 小傘は随分と明るい調子で、指で輪っかを作ってにやにや笑う。しかし、わざとらしすぎたか千亦には受けず、落ち着いた表情のままだった。
「事情は分かったわ。でも、わざわざ貴方自ら売らなくても、中古品としてそういうお店に引き取ってもらうのではだめなのかしら? この値段だと、どちらも大して変わらないような……」
「本当は、その方が手っ取り早いし楽なんでしょうが……」
 千亦の疑問に、小傘は出店の入り口の脇に置かれた立て看板に目線を送る。それは、千亦がこの出店に興味を惹かれた理由の一つだ。
 そこに書かれているのは、『ここにある傘にもしも自分が忘れていった物があれば無料で持ち帰っていい』という旨の内容だった。
「こういう風には、出来ないでしょうから」
 どこか儚げに笑う小傘。ただ処分するのではなく出来るならば元の持ち主に、と可能性は低くとも少しでも希望が残せるやり方に、千亦は口角を優しく綻ばせた。
「こういう場なら人も集まるし、いいアイデアだと思うわよ。……でも、ちょっと懸念も、は邪推かしら」
「懸念ですか?」
「自分のものじゃないのに、タダだからって持って行くヤツとかさ」
 そう、先の看板にある文面には、自分のものなら持って行っていいと書かれているが、微細な証明は必要ないとも書かれていた。つまり、本人がそうだと言えばそれで構わないのだ。
 もっとも、今この場で自分の物である完璧な証明をしろなんて不可能に近い以上、条件が緩いのは仕方ない。だが、そうなると悪い考えを持つ者もいるだろう。
 すると、小傘はふふっと笑い声を漏らした。
「それが大丈夫なんですよ。これまでも神社やお寺でこういう風にしていたんですが、一度もそれらしい人はいませんでした。まあ、タダで持って行っても旨味なんて殆ど無い、が一番の理由なんでしょうが……」
 そう前置きしてから、小傘は索道を、ひいてはそれが向かう山の上を見やる。
「やっぱり、神様やありがたい人の目の前っていうのもあるんだと思います」
 その言説に、千亦は感心した声を漏らす。
「確かに、神様が見ていたらと思うとなかなか出来ないわよね」
「ですね。それに、幻想郷は神様たちも癖のある方が多いですから。……あ、これ、内緒ですよ?」
 口元を手で隠して楽し気に小傘が付け足すと、千亦はにやりと口の端を歪めた。

 それから、しばらく経ち。
 小傘から事情を聞くという目的は達したものの、千亦はそのまま出店にお邪魔させてもらっていた。一応、長居は悪いからと戻るつもりではあったのだが、小傘曰く「正直に言うと一人だと結構退屈なのでもしよければ」とのことで、お言葉に甘えて話し相手を務めていた。
 千亦は小傘の身の上話に興味があったらしく、話題は殆どが千亦から小傘への質問だった。出店の話は勿論、鍛冶屋やベビーシッターの話、可愛い後輩付喪神の話、他の人妖との交流の話等々、話す内容も時間もいっぱいだ。何せ、千亦が来てからも訪れた客は片手で数えられるほどとやはり乏しく、売れたものも無ければ元の持ち主が現れて、なんてのも一切無かったのだから。
「それにしても、なかなか売れないわね」
「いつもこんな感じですよ。一日通して一本も売れない時の方が多いですし、辛抱強く、ですね」
 先の話題の中で聞いたところによると、こうして出店を出した経験は両手に届こうかくらいには経験があるらしい。もっとも、最高記録は一日三本であり、今ここにある傘が三十程度となれば、天運でも味方しない限り全て捌けるのは相当厳しそうだ。
 一応、過去には更なる値引きや呼び込みも試してみたが、効果は見込めなかったらしい。確かに、傘は一家に一本の類の物ではあるが大抵の家には既にあるし、安いから、呼び込みに誘われたからと売れていくものでもないだろう。
 やはり、傘を買う一番の動機と言えば。
「実際に雨でも降れば違うんでしょうけれど、そもそもこういう縁日は好天だからやるものだからねぇ……」
 千亦は軒の奥に見える、明らかに青の面積が多い空を見やる。雲もあるといえばあるが、間違いなく晴天の部類だ。
「儲けを出すのが目的じゃないとはいえ、売上は子供のお駄賃も残らなさそうね」
「お駄賃どころか、向こうの出店でお団子を一本買うだけで赤字ですよ」
 腕を組んで椅子の背もたれに深く身を預け、ギイときしませる千亦に小傘があははと笑っていると、出店の前に人影が現れた。
「すみません。少し、見させて頂いても?」
「あ、はいっ! 是非っ、どうぞっ」
 物腰の柔らかな声に、つい話し込んでいた小傘は慌ただしく返事をして身を正す。
 久方ぶりの客――いい年齢の重ね方をしていそうな、老年の落ち着いた男性――は、声音から想像通りの穏やかな笑みを見せると、まず傘の円柱を見やって「ほお」と呟き、次は台に置かれた傘に視線を移し、手に取ってよく眺めたり、広げてみたりしていた。
 男性がそうしている間、小傘は話し掛けたりはせず、にこにこ笑っていた。もっとも、少しとはいえ言葉を交わして今は隣り合う千亦には、その笑顔が緊張で硬くなっているのも、台の影で手元の紫の傘をずっとしきりに撫でているのも分かっていた。
「思った以上にしっかりしているし、十分綺麗だね」
「はいっ、まだまだ使えますよっ! それに、沢山磨きましたのでっ!」
 男性は小傘の勢いに驚いたらしく目を少し丸くし、つい声が大きくなったうえにそれで驚かせたことに小傘もすぐに気付き、頬を赤くする。千亦があららと頬を掻くのと、男性が朗らかに頬を緩めたのは同時だった。
「最近傘が壊れてしまって、変えを買わなければ買わなければと思っていたんだが、いざ雨が降らないとなかなか億劫でね。でも、どうにも面白い出店があるじゃないかと覗いてみれば、大当たりだったよ」
 男性はしばし品定めを続けると、その中でも濃紺の傘を特に念入りに眺めた後、顎を数回撫でてその傘を手で指し示す。
「これを一本、いいかな」
 そして、懐から財布、お代と取り出すと受け皿にちゃりんと入れる。
「は、はいっ」
 小傘は枚数は少なくともそれらをきちんと数えると、少し上擦った声で「丁度、ですね」と続け、立ち上がると濃紺の傘を手に取った。
「では、どうぞっ。大事にしていただけると、嬉しいですっ」
「ありがとう。先代の代わりに、しっかり働いてもらう予定だよ」
 男性は小傘の張り切った声と傘を差し出す勢いに面食らうこともなく、快活に笑って受け取ると、最後に一度だけこちらに手を振って去っていった。
 晴天ながら腕に傘を携えたその後ろ姿が見えなくなった頃、千亦は小傘の背中を軽く叩く。
「一本目、おめでとう」
「……ありがとうございます」
 張り詰めていた緊張の糸がほぐれた小傘は、ふうと息を吐いて席につく。
「売れた時、すごく嬉しそうだったわね」
「そ、そう見えましたか?」
「ええ、それはもう」
 小傘の顔が見る見るうちに朱に染まり、両手で頬と口元を隠して顔を伏せる。そんな姿に千亦はくすくすと笑っていたが、やがて持ち直した小傘は未だに赤さの残る顔を上げて呟いた。
「本当に、嬉しいんです。まだまだ使えるのに、出来るのにって思い続けるのはとても寂しいから。だから、また持ち主に出会えるとつい、良かったねって気持ちでいっぱいになっちゃうんです」
 小傘は手元の傘に置いた手を仕切りもぞもぞと擦り合わせ、恥ずかしそうに言うとその機会を辛抱強く待つ傘達を見やる。
 小傘の言葉を、笑顔を収めた真剣な顔で聞いていた千亦は何度か小さく頷くと、静かに口を開いた。
「一つ、意地悪な質問をしてもいい?」
「は、はい」
 意地悪という前置きに少し身構えたのか、若干緊張した様子で小傘は頷く。
「私自身は道具では無いから、その気持ちが分かるとはおいそれとは言えないけれど、自らを全うしたい気持ちならよく分かるわ。でも、そうやって抱いている思いをずっと維持するのはとても難しい。それに、貴方だけが持っていても、駄目」
 千亦はそれ以上、言わなかった。小傘も、言われずとも分かる。
 小傘だけ、では駄目。たとえ、小傘は諦めずとも、もしも、ここにある傘達が諦めてしまったら。持ち主を求めなくなったのなら。
「……私なりにですが、こうやって引き取って売ろうと決めた時に決心はしています」
 小傘は千亦の方を向いて、声は静かながらはっきりと宣言すると、台の上に並ぶ傘に視線を移して目を伏せる。
「新しい持ち主が見つかるまで、私も諦めずに探す。だけど、もし、この子達がそれに疲れてしまったのなら、ちゃんとしてあげる、とも」
 小傘は自身の傘の柄をぎゅっと強く握る。
 道具が恨みを抱かない一番の方法は、壊れるまで使うこと。でも、どうしても捨てなければいけなくなったのなら、その時にしなければいけないことは。
「そう」
 雑踏や客の呼び込みで往来がざわめく中、客のいない静かなこの出店で小傘の決心をしっかりと耳にした唯一の人物、千亦は一言だけ呟く。小傘を見る瞳は優しい。
「ごめんなさいね。せっかく売れておめでたいところに嫌な話をしてしまって」
「いえいえ、気にしないで下さい。それに、本当に嫌だったら言いませんから」
「ありがとう」
 頭を下げる千亦に小傘は慌てて両手を振ってフォローし、千亦は礼を返す。暗くなりかけた空気がすっかり元通りになったところで、小傘は「あ、そうだ。あともう一つ、あるんです」と指を立てた。
「もしも、新しい持ち主を待ち切れずに私みたいになったら、先輩らしく色々教えてあげるってことも、です」
 そして、舌をちろりと出すと右目を瞑ってぱちりとウィンクした。



 ようやく傘が一本売れたものの閑古鳥の鳴き声は止まないまま時は過ぎ、やがて夕方に差し掛かる。それは、今回の縁日がお開きとなる頃合いでもあった。
 日も沈み切っていないうちにとは、縁日としては幾分早い方か。しかし、神社にしろ索道にしろ、天気が変わりやすいうえに暗くなると格段に危険度が上がる“妖怪の山”という場所とは切っても切れないため、索道を締める時刻に合わせた形だ。
 出店によってはそろそろ片付ける時間も勘定に入れて行動し、飲食を扱う店なんかは売り切ろうと値引きによる調整をし始めていた。
 もっとも、忘れ傘市は何も変わりはなく。
 そして、変わらないのは売り物の傘の数も、であり、濃紺の傘を買って行った男性から一本すら減っていない。それでも、片付けの準備や並べる傘をいくつか予め仕舞ったりもしない。
「……これは、持ち帰るの大変じゃない?」
「大丈夫です、覚悟してます」
 まだそれなりにではあるが、縁日会場に流れ出したお開きムードに押され千亦が小傘に尋ねると、小傘は平然とそう答える。
 やせ我慢でも窮した様子もない声色から察するに、元々そのつもりだったらしい。ここにある傘は今、小傘のもとにある傘全てであり、絞り込んだりはしていない。もし、売れそうなものを見繕って予め半分から三分の一程度に厳選していれば苦労はそこまで無かったであろうが、こうなると分かっていてもそうしなかったのを咎めるなんて出来やしない。
 どおりであの時点で片付けに時間がかかると言うわけだ、と千亦は一人納得して小さく数回頷く。
 ――ぽつん。
 出店の屋根を何かが軽く叩く。それは少しの間を空けて繰り返し鳴り、同時に軒の向こうに映る往来に、細い線が幾本か天から走り落ちて行く。
 雨だ。つい声を出したのは、小傘か千亦か、はたまた近くを歩いていた誰かか。
 雨の勢いはすぐに頭打ちになってそれ以上に増しはせず、雨音を示すのに濁音はいらなさそうだ。千亦が濡れない程度に身を乗り出して空を覗けば、ほんのりと黒い雲と、それよりも薄い灰色の空が広がっていた。
 恐らくそう長くは続かない、弱いにわか雨。帽子でもあれば元より構わず、無くとも雨に濡れるのも一興と開き直れる程度であり、今から帰路に就けば風邪の心配もなさそうだ。
「あ」
 その時、千亦はある人影を見つける。縁日の終わり間近で既にまばらな人々の中で、こちらに若い男女の二人が小走りで駆けてくるのが見えた。少しだけ前を走る男性は間違いなくここを指差しており、女性はどこかの出店の景品で見かけた、カラー兎のぬいぐるみを持っていた。
 千亦は振り向くと、椅子にじっと座る小傘に声を掛ける。
「もしかしたら、ちょっと忙しくなるかもよ」
 千亦に言われるよりも早く、既に色めきだっていた小傘はぱちぱちと二回瞬きをした。

 見かけたその時は寄らずとも、印象には強く残っていたのだろう。小雨が降り始めてから、忘れ傘市は人が途切れる合間が無かった。
 もっとも、客でごった返して大繁盛、とまではいかず、手荷物を携えた者や自宅まで少々距離がある者がどれどれと出店の軒をくぐるくらいだ。
 だが、売り物として並ぶ傘を見て、客の意識が変わる。間に合わせ程度のつもりが、どうやらそれに収まらなさそうだとなれば。
 いくら中古品とはいえ、安さも含めた急造の需要とはいえ、それが想像以上に良質となれば欲が出るものだ。皆、自分が新しい持ち主となる傘を真剣に選び、購入していった。
「これ、お代ね」
「はい。ありがとうございます!」
 そうして、これまでとは比べ物にならないペースで次々と売れていく中、ある客が一際大きな声を上げた。
「あっ! これ、わたしの傘!」
 忘れ傘市に唯一あった、子供用と思わしき他より一回り小さい傘を指差したのは、一組の親子連れの、寺子屋に通い始めるかどうかくらいの女の子だった。
 すると、小傘は台の脇に移動して腰を屈め、女の子と目線を合わせてにこりと笑う。
「これ、貴方のなの?」
 円柱に広げて陳列されていた傘を差し示して問うと女の子は大きく「うん!」と頷き、その子の母親が続きを引き取る。
「あの、確かめたいので少し見せて頂いても?」
 小傘は勿論と了承し、その傘一旦閉じてから、どうぞと手渡す。
 受け取った母親は、女の子が傘の周りを忙しなくうろうろする中、持ち手の辺りを見て、小さく声を上げた。
「本当に、この子の傘みたいです。ここに、名前があります」
 母親は小傘達にその部分を見せる。掠れてはいるがそこには確かに名前と思わしき文字列が刻まれており、小傘が女の子に向かってその文字を呼び掛けると、女の子は大きく返事をした。
「分かりました。では、是非お持ち帰り下さい」
「本当にいいんですか? 確かにあちらにはそう書いていますが、名前だけで……」
「はい。だって、持ち主が見つかったんですから」
 穏やかに微笑む小傘に、母親は頭を下げた。
 こうして一本の傘が元の持ち主の元に帰ったその後、母親も一本購入すると出店を跡にする。
「傘、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます。もう、無くさないようにね」
「うん!」
 女の子は大きく手を振って、母親はもう一度軽く頭を下げると、二人並んで傘を差して去っていく。
 そんな二人の背中と、再会早々雨に身を濡らして役目を立派に果たす傘を手を振って見送りながら、小傘は滔々と話す。
「集まった傘を点検していた時に、あの傘に名前があるのは知っていたんです。でも、名前だけ分かってもどこの誰かなんてのは、やはり難しくて……」
 千亦は何も返さずに黙って聞いていた。きっと、小傘も千亦に何か返事を求めていたわけではない。
「良かったね……」
 小傘は静かに呟くと、途切れずにやってきた新たな客を「いらっしゃいませ!」と元気に出迎えた。

 そして、いよいよ縁日が終わる時刻を目前に控えた頃。
「ありがとうございました!」
 また一本の傘が新たな持ち主の手に渡るのを見届けたところで、雨が降り始めてから初めて客足が途絶える。
 小傘とともに即席ながら客の応対をしていた千亦が往来をまた覗き込むと、小雨の中にはもう殆ど人はいない。いても、既に傘ないし雨を避けるものを手にしていた。
「さっきのお客さんでもう最後みたいね」
 振り返る千亦に小傘は、そうですか、と嘆息して、広げた傘を差していた円柱に目を向けた。
「あと、一本だったのに……」
 畳んだ傘を並べていた台にも、その円柱にもたった一本を残して傘は無く、唯一の売れ残りが大きく自らを広げていた。
 傘布が様々な布で継ぎ接ぎになった、色合いとしても虹を思わせる派手な彩りのそれは隣にいくつ傘が並ぼうと映える存在感があるが、こうしてポツンと残るととても寂しそうに見えてしまう。
「ずっと気になってたんだけれど、あの傘も忘れ物なのよね?」
 あれ程見目を惹くデザインなのに忘れるものなのか、と不思議そうに尋ねる千亦に、小傘は「そうだけど、そうじゃないといいますか……」と頬を掻く。
「あれは、私が直したものなんです。集まった傘の中には、破れてしまっているものや、ガタが来てしまっているものもあって。そういう傘の使える部分を寄せ集めにしたのが、あの傘なんです」
 小傘はその傘をひょいと取ると、一度畳んでから、ばさっとまた広げる。
「ほら、こう見えても全く遜色ないんですよ。繋ぎ目はちょーっと不格好ですが、勿論雨だって通しませんし、まだまだしっかり使えるんです」
 傘をくるくると回して虹色を振り撒き、明るい調子で宣伝する小傘。一見快活で晴れやかに見えるが。
「この子達はまだ、頑張りたいって言ってくれたんです」
 続けられたその言葉は、ほんの少しだが、泣いてしまいそうにも聞こえた。
「……さっき、お客さんは最後と言ったけれど、もう一人、いいかしら?」
「……千亦さん、気持ちはすごく嬉しいのですが――あいたっ」
 小傘は困ったような顔と声でそこまで言うが、千亦に額をペシッと軽く叩かれてそれ以上は切られてしまう。
「気を遣ってるわけじゃないから勘違いしないの。言ったでしょ? ずっと気になってった、って。元々、神社の方に戻る前に一本買ってみるつもりだったのよ。まあ、もしお客さんの中に買いたい人がいれば譲るつもりだったから黙っていたけれど」
 千亦は腰に下げた袋から財布、小銭と取り出すと、小傘の手を取ってお代を手の平に置く。
「虹、好きなのよ。大事にするわ」
「はい。……お願いします」
 小傘は虹色の傘を畳むと、姿勢を正して千亦に渡し、千亦もそれをありがとうと受け取った。
「完売、おめでとう」
「……ありがとう、ございますっ」
「さて、私はちょっと用事が出来たから、少し出てくるわね」
「え、あ、はいっ」
 傘を買って早々、それを差すと千亦はふらりと出店から出て行ってしまう。全ての傘が売れた余韻に二人で浸る間もなく一人にされて小傘はぽかんとしていたが、気を遣ってくれたんだなと少ししてから気付くと、改めて出店の中をゆっくりと見回す。
 傘を陳列していた道具のみが残る、忘れられた傘の無い光景に、小傘は深く息を吐いた。



「お待たせー」
「お帰りなさい……あれ?」
 やがて戻って来た千亦の手には、出て行った時には無かったものがあった。一枚の大きい紙皿と、その上にどんと二つ乗った、香ばしいタレの匂いを放つ串焼きの鰻だ。
 千亦はそれをもう何もない傘置きの台に置いて、使ったばかりの虹色の傘を立て掛け、席に着く。
「こうやって終わり際になると、出店の片付けを一足先に終えた人達が買いに来るみたいでね。ギリギリまで火は落とさないんだって。手慣れてるわよねー」
「あの、千亦さん……」
 急にいい匂いがして驚いたとか、用事って口実じゃなかったんだとか、二本あるのはそういうことなのかなとか、諸々で小傘は面食らいつつも、自分からは催促してるみたいで言い辛いなと聞けずにいると、隣で千亦は笑い掛ける。
「さあ、一緒に完売祝いでもしましょう。この縁日の関係者だって言ったら、大きくて良いやつを見繕ってくれたし。こういう時、とりあえずでも役職があると便利ねえ」
 千亦がそう話している間にも、焼き立ての鰻からは湯気と匂いがふわふわと漂い、鼻孔を絶えずくすぐってくる。こうした食事は、小傘のような存在にはあくまで嗜好品であり必須ではないが、そそられるしたまらないし何より美味しいものだ。
 ――ぐうぅう……。
 その時、小傘のお腹が鳴り、小傘は頬を真っ赤に染めてお腹を抑えて口元をもにょもにょと動かすが、千亦に「どうぞ」と微笑まれると、頭を下げて「頂きます」と串を手に取って口にする。
「……あむっ」
 瞬間、程よい焦げを纏った皮と甘辛いタレがよく染み込んだ身がふわりとほぐれ、口の中いっぱいに鰻とタレの二つが贅沢に混じり合った味と香りが広がっていく。焼き立てでまだ熱い鰻をふうふうと息を吐きながら咀嚼してしっかりと味わい、一口、二口と食べ進めていく。
 鰻に夢中になるそんな小傘の姿を千亦は存分に眺めた後、自分ももう一つの鰻を頂く。
「……んー、思っていた以上に美味しいわね。あの鳥の子、相当熟練者ね……」
「本当に、美味しいです。今まで、こういう縁日の度に見かけてたお店だったんですが、初めて食べました」
「あら、そうなの?」
「匂いだけはこれでもかってくらい味わってたんですが」
「ずるいわよねー、あれ。近くの人は我慢するの大変でしょうね」
 二人は談笑と舌鼓を交えつつ、後で拭けばいいからと口元がタレで汚れるのも厭わずに鰻を堪能し、あっと言う間にペロリと平らげてしまう。
 そして、二人とも膨れた腹に大きな充実感を味わいながら一息つくと、小傘は静かに口を開いた。
「初めて、元の持ち主に帰る子もいて、次の機会まで仕舞っておかなきゃいけない子達が一つもなくて……。それに、鰻もご馳走様でした」
 最初はしみじみと、最後は笑顔で言うとぺこりと頭を下げる。
「こんな日があるものなんですね。もしかして、本当に神様が見ていたのかな」
「かもね。でも、きっと殆ど何もしてないわよ。見ていただけ」
「見るに絶えないあまり、とかじゃないですかね」
 それを聞いた千亦はぷっと噴き出すと大きく破顔し、一頻り笑うとすっと立ち上がる。
「それじゃあ、私はそろそろ戻ろうかしら。お世話になったわね」
「いえ、こちらこそ」
 それから、「ゴミは捨てておきますね」「そう? ありがとう」なんて言葉を交わしながら千亦は身支度を整え、小傘も椅子から立ち上がって見送る準備をする。
 元々手荷物なんて殆ど無かったのでそれはすぐに終わり、千亦は新たに自らが所有者となった傘も忘れずに手に取る。
 だが、そこで「あ」と呟いた。
「いけないいけない。忘れ物があったわ」
「えっ? 何かありましたか?」
 言われ小傘は辺りをきょろきょろと見回す。傘は勿論、持参していたものは全て持っているはずだ。
 すると、千亦はそんな小傘の前に一歩進み出る。
「貴方のことよ。多々良小傘さん」
「……ええっ!?」
「実は、最初からそのつもりだったのよ。言ったでしょ? ここに来た時に、気になることがある、って」
 慌てふためく小傘の一方、千亦はさらりと返して話を続ける。
「知り合いの部下に癖はあるけれどなかなか優秀な子が居て、羨ましくてね。私もこれから色々と忙しくなりそうだし、一人くらいどうかなって前から考えていて。そんなところに、ちょうど所有者のいない可愛らしい付喪神がユニークな出店を出していたものだから、お話をちょっと伺うついでに」
 一切の淀みなくすらすらと千亦は経緯を述べると、小傘に向けた青い瞳を鋭く細めた。
「私のものにしてしまおうかな、ってね。私、人や物を見る目は結構自信があって、やっぱり狂いはなかったみたいだし」
 更に一歩、千亦は小傘に歩み寄る。小傘は、千亦から目線が逸らせない。
「知ってる? 所有権を失うのは意外と難しいのに、得るのは意外と簡単なのよ。さっき買った傘みたいに」
 今になって、小傘は思う。そういえば、話の主導権を殆ど千亦が握っていたから、自分の話に比べて千亦の話は殆どしていなかった。それこそ、何者なのかさえも。
 会った時から、高名な妖怪の方なのかな、くらいには思っていたけれど、その程度に収まるものじゃなかったのかも知れない、と。
 驚いているのか、怖いのか、畏れ多いのか、魅入られているのか。とにかく、小傘は動けなかった。精々、傘を握る手の力が少し強まるだけだ。
 また一歩、千亦は小傘に近付く。
 そして、小傘の左右色の違う瞳をじっと見据え――。
「……でも、やめておくわ」
 わざとらしいくらいに満面の笑顔を浮かべた。
「驚かして、鍛冶屋もやって、ベビーシッターもやって、後輩付喪神の先輩もして、忘れ傘の子達の面倒も見て」
 千亦は一つ一つ、小傘が話していたことを指折りして数えていく。
「物珍しい出店の店主なだけかと思いきや、なかなかどうして予想以上のとんだ一点もの。ふらっと立ち寄って買える代物なんかじゃなかったわ」
 やれやれと手を振り、笑顔を浮かべる千亦が纏う雰囲気は、すっかり元通りの気さくなもので。
「冗談よ。驚かせちゃった?」
 それからしばしの間を空けて、小傘は目をぱちくりさせるとにこにこと笑う千亦に向かって、「もー!」と感情を爆発させた。
「びっくりしたっ! だ、だって、傘が全部無くなって嬉しくて、鰻も美味しくて、ふわふわって気分でいたら、急に言うからっ!」
「お客さんを待ってる間、上手い驚かせ方が知りたいって言ってたから、つい、ね。ごめんごめん」
 敬語も忘れて叫ぶ小傘に千亦は悪びれずに答え、なおも笑いながらよしよしと小傘を宥める。
 しばらく小傘は不貞腐れて千亦のなすがままにされていたが、あまりにも止めないので何だか恥ずかしくなって、「も、もういいですっ」と頬を少し赤くして一歩身を引いた。
 何はともあれ、空気も調子も元通りになったところで千亦は口を開く。
「まあ、近々助手でも、は本当だけどね」
「そうなんですか?」
「ええ。でも、私は忘れ傘を勝手に持って行ったりはしないわ」
「……神様が見ているから?」
「正解」
 すっかり共通認識と化した回答に、二人は声を揃えて笑い合った。

「次に会った時は、千亦さんの話も聞かせて下さいね」
「勿論いいわよ。あー、でも、その時は店主と客じゃない方がいいかしら」
「その時は、お客さん同士だといいですね」
「だとしたら、鰻が一番有力でしょうね」
 改めて支度を済ませた千亦と、見送る小傘は最後に言葉と笑いを交わす。千亦は手にした虹色の傘をばさりと広げると、未だ振り続けている小雨に向かって一歩踏み出した。
「それじゃ、またね」
「ありがとうございました!」
 小傘はその後ろ姿に一礼し、千亦は振り向かずに手を振って応える。
 やや歪ながらしっかりと役目を全うする虹色の傘と千亦の姿を、見えなくなるまでと小傘が見守っていると、視界にあるものが映る。
 山の向こうに夕焼けを背負った紫雲と、この辺りにも近いうちに届くであろう晴れ間が見えて、うっすらと虹が浮かんでいた。その虹の下、千亦が傘の持ち手を回したのか明るい傘布が描く鮮やかな虹がくるりと回る。
 弱い雨の中でともに輝き合う、二つの虹。小傘はそれらを、ただ、綺麗だなと思った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
奈伎良柳
https://twitter.com/nagira_yanagi
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
二人の優しさと温かさ、そして確かな信念が柔らかく伝わってくる、しみじみと良いお話でした。
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100サク_ウマ削除
エモじゃん
めちゃくちゃ良かったです。小傘の行動がなかなかに斬新かつ納得感あるもので、非常に魅力が溢れていました。ご馳走様でした。
5.100クソザコナメクジ削除
良かった