「そういえば、何で私たちって双子なんだろう」
向かいでパフェを頬張る姉が、唐突にそう呟いた。久々に美味しいものが食べられたから、頭が変になっているのだろうか。
私と姉は、人里にある茶屋でパフェを食べていた。この店は私のお気に入りの一つだった。落ち着いた雰囲気も良いが、何より先代の店主が外来人だったらしく外の世界の甘味を取り扱っている。
「あのねぇ、滅多にありつけないご馳走なんだから、そんなこと考えてないで味わうことに集中しなさいよ」
細いスプーンを姉に突きつける。
貧乏神の彼女はめったに美味しいものが食べられない。高価なものを食べようとすると、大概何かが起こって邪魔が入るからだ。今日のように何事もなくご馳走にありつけるのは珍しい。
彼女は「それもそうだけど」と奥歯に何か挟まったかのような物言いをする。
「この味、外の世界で食べたときあると思うのよね」
特にそんなことは思わなかったが、言われてみれば、朧げながらそんなような気もしてくる。
「ほら、私たち石油のこととか、外の世界の知識が結構あるじゃない。やっぱり元々外の世界にいたんだよなぁって」
「まー……そうねぇ」
実際自分も何となく、外の世界から幻想郷にやってきたように思っていた。明瞭な記憶はないにも関わらず、そういった認識を持っていた。
「気がつけば幻想郷で女苑と悪さを働いていたけど、子供の頃のことって覚えてないし……」
「神様なんてそんなもんでしょ。前にやり合った鶏の神様も、異変後の宴のときに言ってたじゃない。鶏だった時のことなんてほとんど覚えてないって」
「そんなもんかなぁ。双子なのは覚えてるのに」
気がつけば幻想郷で二人一緒に悪事を働いていた。生まれたときのことはおろか、いつから一緒なのかもわからない。でも双子であることは共通認識だった。
彼女はそこに違和感を抱いたようだ。
「昔は外の世界にいたってなら、この前やり合った偉そうな山の神様みたく、信仰心を失ってここに流れ着いたのかもね」
信仰を失い外の世界から忘れ去られ、幻想郷に流れつく神様は多い(山の神様は能動的に幻想郷への道を開いたという珍しいパターンだが)。
もっとも貧乏神と疫病神は特定の神様というだけではなく、慣用句として馴染んでいる部分もあり、今更早々忘れ去られないように思える。
「やり合ってばっかね私たち……喧嘩ばっか。やっぱ女苑は手がすぐ出るから」
「何よ、石油のときは姉さんだってノリノリで戦ってたじゃない」
姉は「まあ」だとか曖昧にもごもごと言葉を口の中で転がす。そこで会話が途切れる。
やはり姉に贅沢をさせてはいけないな、と思う。一口目二口目はあんなにはしゃいでいたのに、後半に差し掛かるころには感動も薄れたのか、パフェそっちのけでこんな変な話をする。
仮に彼女が貧乏を脱却しても、しばらくしたらすぐ不平不満を口にするに違いない。
一足先にパフェを完食した私は、姉の言っていたことが少し気になって、昔のことを思い出そうとしてみた。
いつの間にか二人一緒に幻想郷にいて、いつからここに来たかの記憶は曖昧だ。外の世界のことを知っているような気はするが、場所だとか人について何も思い出せることはない。自分とて神の端くれだし、長命の種族はそんなものなのかもしれない。
パフェをのろのろと頬張る姉を、頬杖をついてぼんやり眺めた。
◇
私はファミレスが好きだった。
誕生日だとかお祝いの日は、国道沿いのファミレスに連れて行ってもらえた。私にとっての特別な場所だ。
だからその日の朝、ママがファミレスに連れて行ってくれると言ったときは、何もない日なのに、一体どういうわけなのだろうと少し怖かった。
通された席には知らない男の人が先に座っていて、私はようやくここに連れてこられた意味を理解した。
金髪でアクセサリーをいくつも身につけているが、ワックスでベタついた長い前髪の下をよく見ると、目尻に小さな皺がいくつも刻まれている。若者と呼べる歳ではないだろう。自分が歳を重ねていることに気づいていない、若造りなファッションセンスが痛々しい。
「この人がアナタの新しいパパよ」
ママが私に対面の男をそう紹介すると、彼は「かもしれない、ね」と付け加えた。ママはそうだったと相槌を打って微笑むが、口角が変な風に釣り上がっている。
私はこの目の前の男を、心の中でパパ四号と名付けた。結婚式をしていないので、今までのパパも正確にはパパではなかったのかもしれないが、とにかく四人目のパパだ。
今度は良いパパだと良いけれど、と思いながら私はお水に口をつけた。
いきなり話に入ってしまって、パフェを頼める雰囲気ではなくなってしまった。
この店にはこども用の小さなパフェがあって、それを食べるのを楽しみにしていたのに残念だ(普通のパフェは中々食べきれず、残すとママが怒る)。
「それで、連れてきたの?」
「何かトイレ行っちまってよ」
ママは仕方なくといった感じで口を開いた。どうやらもう一人、誰かが先に来ているらしい。
「おいっ」
彼は何かを見つけると、机を叩いた。
周りのお客さんが驚いて私たちのテーブルへ目線を向けた。しかし彼が当たりを見回すと、目を合わせたくないのだろう、彼らは各々の食卓に意識を戻した。
こちらの席の方へ、一人の少女がおずおずと向かってくる。
身長は私よりも高いが、猫背の上に髪は伸び放題で、随分とみすぼらしい。灰色のパーカーに首を埋め、警戒するように前髪の隙間から上目遣いでこちらの様子を窺っている。
「何のろのろしてんだよ」
苛立ちげに男が呟くと、その少女の肩はびくりと跳ね、彼女は急いで彼の隣に不自然に距離を置いて座った。
「よろしくね」
ママは引き攣った笑顔でそう言った。目の前のそいつが不潔な感じだったからだろう。
少女はぼそぼそと何か言葉を返したが、聞き取ることができない。
なるほど、これは今までにはなかったパターンだ。
ようやく私はおおよそ事情を察した。この子はいわゆる連れ子というやつなのだろう。
「それでアパートのことだけど……」
ママが切り出すと、二人は家賃の折半について話し合いはじめた。どうやら私たちが彼らの家に引っ越すのではなく、彼らが私たちの家に住むようだった。
あのアパートに四人暮らしは、かなり手狭になる。正直難しいように思える。
しかし私の関心ごとはそこではない。ママが怖くなるかどうかだ。ひょっとしたらパパ四号が一緒に住むことで、「おしおき」が少なくなるかもしれない。
ただ今までの経験上、それはあまり期待できなかった。悪化する可能性の方が高い。
「……」
大人たちは退屈な話を続ける。
目線をふと少女の方に向けると、目が合ってしまった。
「えっと……よろしくね、お姉ちゃん?」
多分相手の方が年上だろうから、私はそう声をかけた。
正直こいつと話すのは気が進まない。しかしこのまま黙って大人二人の退屈な話が終わるまで待つのもは暇だ。
彼女はまた、もごもごと口籠った。
何だか鈍臭そうなやつだ。見ているとじれったいというか、妙にイライラする。暇つぶしに何か話でもしようと思ったが、その相手は務まらなさそうだ。
私はママみたくため息をついた。
パパ四号がどんな顔をしていたか、私はうまく思い出すことができない。なぜなら彼はすぐにいなくなってしまったからだ。
「クソっ、最初からこのつもりだったのよ。私にはわかってたのよ」
発作的に何度もママはそう毒づいた。
パパ四号はあの連れ子について「押し付けられた」と言っていた。細かいことはわからないが、彼の悪態の内容からある程度察することができる。
かつての同棲相手が妊娠し、その女は出産後、子供を残して失踪したようだった。
どこまで計画的だったのかはわからないが、彼は同じことを私のママ相手にやったということだろう。
女手一つで子供を二人も養うことになったママは、更に荒れることとなった。
ただし、予想に反して私に対しては優しくなった。
「バーバリーの新作でね、つい買っちゃったの。嬉しいでしょう?」
「うんっ」
私は努めて明るく相槌を打った。
控えめなチェック柄のベージュの上着を着て、私は姿鏡の前でポーズを取る。一着五万円近く代物だ。
お洒落は好きなので、ママが自分のもののついでに色んな服を買ってくれるのは嬉しい。ただ値段を考えるとあまり嬉しくない。
服を買うのを我慢して、滞納している家賃を払おうという気にならないのが不思議だった。ママは夜の仕事をしていて、決して稼ぎは悪くない。しかしそれ以上の金額を使ってしまうので、いつになっても借金が消えないのだ。
お洋服はいらないから他のことにお金を使って欲しいと言ったことがある。しかしその結果、浴槽で「おしおき」を受けることとなった。それ以来お金の使い道については一切触れないようにしていた。
「……」
部屋の隅っこの方で、姉がコンビニで買ってきたチャーハンを頬張っていた。ブランド品を身につけた私とママの近くにいるせいで、ヨレたTシャツを身に纏う彼女は一層みすぼらしく見える。
私が姉の方に気が取られている間、ママはファッション誌を眺めていた。
「そろそろ私も別のコート買わなきゃね……手持ちに合うのは赤かしら」
ぶつくさとママは呟く。ファッション誌のページの端っこを指で丸めたり、忙しなく動いている。
昨日ママが店へ出ている間、大家さんが家賃の取り立てに来たのを私は思い出した。服を買う前にそちらを払わなければ、あの強面の大家さんが怒鳴り込んできてしまう。
そういえば大家さんが来たことを、まだママに伝えていなかった。
「昨日ママがいない間、大家さんが来たんだけど……」
ママが舌打ちをした。
不味い。
私は唾を静かに飲み込んだ。空気が濁るのを肌で感じる。
それまで上機嫌だったママの様子が、裏返るように不機嫌になっていた。
一応伝えないと後で怒られると思ったのだが、タイミングをもう少し選ぶべきだったかもしれない。
「それで?」
声から先程までの喜色は完全に消え失せ、腹の底の方から出る重たく冷たい声色になっている。
「えっと……」
頭の中を「おしおき」のことがチラついて、体がすくむ。続きを喋ろうとすると、喉から掠れた空気が漏れる。
大丈夫。話題を逸らせば問題ない。
「大家さんも、コート……その、着てて……」
「あっ」
後ろで姉が短く声を上げた。
振り向くと、彼女は飲んでいた麦茶を溢してしまっていた。小さなちゃぶ台に麦茶の水溜りが広がり、更に床のカーペットに吸い込まれていく。
不幸中の幸いというか、この部屋の床には服が散乱しているのだが、それにはかからなかった。
ママが姉の方を見た。姉は萎縮している。謝ろうと口を開きかけたが、もう遅かった。
「ーーーー!」
彼女は体の内のものを全てぶち撒けるかなような叫び声を上げた。
お前はどうしてそう馬鹿なんだ、私に何の恨みがあるの。ママは彼女の髪を掴んで、耳を口元に近づけて怒鳴る。
姉はうめき声をあげるだけで、やめてと言ったり泣いたりはしなかった。それが怒りに油を注ぐ行為だとわかっているからだ。
私は気配を殺してトイレに向かった。扉を閉めて鍵をかけ、服を着たまま便座に座る。耳を塞いだが、それでもママの怒声が聞こえてくる。自分に向けられたものでないとわかっていても体が竦む。
昔のママはこんな風に怒ったりしなかった。本当は優しいはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。
姉に対して可愛そうだとは思わない。自業自得だからだ。
彼女は鈍臭いというか、注意力散漫なところがあって、よくああいうミスをしでかした。
この家で暮らすのであれば、ママの気を損ねないよう、細心の注意を払って暮らしていかなければならない。少なくとも自分はそうしている。
姉がママの暴力の対象となってしまうのは、そういった注意が足らないからだ。
私は違う。あんな風にはならない。
この時の私は、姉のことを下に見ることで、塞いだ耳にさえ届く怒声への恐怖を和らげていた。
なるべく音を立てないようにランドセルを床に置いた。
ゴミや服が乱雑に散らばった布団の上でママが寝ている。ママは夜働いているから、その分お昼は眠っていることが多い。
家にいるとママが機嫌を損ねたときに酷い目に遭うので、私はなるべく外で遊ぶようにしている。かといって彼女が仕事に行くまでには帰らないとそれはそれで怒られるので、帰る時間の調整は重要だ。
帰ってきたときと同じように、私は音を立てないように外へ出る。そっとドアを閉めたが、最後にガチャリと音が鳴るので、いつも心臓が縮むような気分になる。
部屋を出ると、丁度隣のサラリーマンが帰ってきたところだった。
「……こんにちわ」
「……」
うなだれたように彼は俯いた。多分お辞儀のつもりなのだろう。酷く疲れた様子だが、この人が元気なところを見たことがない。
いわゆるブラック企業というやつに勤めているのだろう。ほとんど家に帰らず、帰ってきたとしても深夜か早朝らしく、ほとんどこの人と顔を合わせることはない。
彼が家の中に入るのを見届けず、そそくさとその場を去る。金属製の階段を下って一階へと降りていくと、カンカンと足音がした。
足早に近所の道を歩いていく。あてはない。今日はどこで時間を潰そうかとため息をつくと、それは白い息となった。もう冬だ。
学校の同級生のことを考えたが、最近はクラスからハブられ気味になっていたので遊ぶ相手などいない。
転校後もしばらくは普通に過ごせていた。むしろクラスの中でも上の方の位置につけることができた思う。しかしそれが良くなかった。
家がボロアパートなのが知られると、私の地位は揺らぎ始めた。給食費を滞納しているとバレたことがとどめとなり、今では休み時間も一人で過ごしていることが多い。
学校のことを考えていたら、鼻の奥の方がつんとした。私が何をしたっていうんだ。好きであんなアパートに住んでいるわけではないし、給食費を払えないのも私が悪いわけじゃない。
大きなマンションで暮らしていた頃に戻りたい。あの頃はママも優しかった。
「はぁ……」
もう一度ため息をついて、天を仰いだ。灰色の空だった。
それから目線を戻すと、妙なものが目についた。姉がいる。
彼女は廃墟の玄関先に入って、しゃがんで座り込んでいる。何年も前に一家心中があっただとか、まことしやかに噂されている家だ。
「何してんの?」
声をかけると、姉の肩がビクリと跳ねた。彼女は挙動不審におずおずと振り返る。何かを隠すような素振りだ。
その様子は少し私の嗜虐心を煽った。私は彼女に近づいた。
「へぇ……」
姉が抱え込むように隠していたのは、一箱の段ボールだった。
ナァ、と鳴き声がした。段ボールの中には黒い子猫がいた。捨て猫のようだ。
「最近、食べ物を隠してたのはこのためだったのね」
パンを全部食べずにポケットに入れたりするのを何回か目撃していたが、この子猫に分け与えるためだったのだろう。
よくやるなと思う。ママの機嫌が悪ければ、食べ物を貰えないことも多々ある。そんな中で猫に食べ物をあげるとは、随分と入れ込んでいるらしい。
「ママに教えたら何て言うかなぁ。アンタは知らないかもだけど、ママ、動物が嫌いなのよね」
私が意地悪い声を出すと、しゃがんで俯いていた姉が立ち上がる。
目が合う。澄んだ色の瞳だ。
ひょっとしたら目が合ったのは初めてだったかもしれない。私は少したじろいだ。
「あの人には言わないで、お願い」
「いや、えっ……」
動揺して、半分裏返ったかのような声を出してしまう。まさか逆らってくるとは思わなかったからだ。
いつも猫背で顔を俯けているからあまり意識することはなかったが、立ち上がった彼女の目線は私よりも高い。
ママにどれだけ暴力を振るわれても、反抗する素振り一つすら見せなかった姉が、私に対しては強く出てきた。動揺してしまったが、次の瞬間には苛立ちが沸々と湧いてきた。
「なによ」
なるべく相手を怖がるような、怒りを込めた声を出す。イメージしたのはママの声だった。
コイツが自分より上の立場かのような振る舞いをするのは許せない。
いつも鈍臭くて、ママの機嫌の取り方すら覚えられないグズと、上手く立ち回れて最近は愛されてる私。どちらが上かなんて明白なはずだ。ここで立場をわからせなければならない。
「このことを言われたら困るんでしょ。バカでも私の機嫌を損ねちゃいけないってわかるでしょ!」
次第に声が大きくなっていく。姉の表情がいつものように弱々しいものになっていく。胸がすくような気持ちだった。頭の中のどこかが甘く痺れたような心地だった。
「だったら……」
頭を下げて必死に頼め、土下座しろ。そう続けるつもりだったが、途中で猫の鳴き声に遮られた。
「ナァ〜」
はっとして私は猫の方を見た。怯えている様子だった。
猫は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
ペットショップの前で猫を眺めて時間を潰すこともある。
「……?」
途中で罵声が止んだことで、姉はどうしたのだろうと、いつものこちらの顔色を窺うような目をしていた。
私は彼女を放って、猫の前にしゃがみ込んだ。そして猫を撫でた。先ほどまでの怯えた様子はなくなり、甘えるように私の指に顔を擦り付ける。人の機嫌を取るのが上手い猫だな、と思う。
こいつもこうやって人に気に入られるように、必死に媚びる仕草を覚えたんだろうか。猫の頭がそんな良いわけないだろうに、そんな勝手なことを考えてしまう。
「……今度私にも、餌あげさせてよ」
「えっ……?……あ、うん!」
姉は少し驚いた後、露骨に声を明るくして言った。
本当のママは優しいってわかってる。でも怒ってるママは好きじゃない。
さっきの私は、きっと怒ったときの彼女と同じ顔をしていた。そのことが何だかすごく嫌なことに思えた。
猫がまた甘えた声を出した。
私と姉は、気がつけば二人で夢中になって猫と遊んでいた。
夢を見た。
昔の夢だった。
まだ大きなマンションに住んでいた頃の夢だ。
ママが帰ってきた。煌びやかなアクセサリーとブランド品に身を包んでいる。
上着を床に脱ぎ捨てると、私の名前を呼んで抱き上げる。
顔を近づけて、ただいまとキスをしてくれた。お酒臭いと私が笑いながら嫌がると、ママは調子に乗って息を吹きかける。
ママに抱きしめられて、私は幸せな気持ちになる。
しかしいつのまにか彼女はいなくなって、代わりに私は布団にくるまっていた。パパが来るときはいつもそうだ。
部屋の外のはずなのに、エレベーターが42階に止まったのがわかる。
パパは私のことを好きじゃないみたいだった。週に一二回くらいだろうか、彼が来るときは私は部屋に押し込められ、決して出てこないようにママにきつく言いつけられる。
当時はパパのことが嫌いだったが、今はそうでもない。殴ったりはしてこないし、初代のパパは、歴代のパパの中だと良い人だった。
うちに来たときはお金を沢山くれる。そうするとママは機嫌が良くなるし、パパの存在は今思えばありがたいものだった。
音を立てないように言われていたから、黙って絵本を眺めていた。
一度音の出る人形で遊んでいたら、私は殴られたりしなかったが、パパがママを引っ叩いた。お願いだからパパが来ているときは静かにしてとママが泣きそうな顔で言うから、私はそのルールをちゃんと守っている。
今読んでいる絵本は姉妹の話だった。
ビルもない田舎の村で、二人仲良く過ごしている。お揃いの腕輪をつけていて、そのことが私にはすごく羨ましかった。私にも姉妹がいれば、こんな退屈せずに済むだろうか。
ページを捲ると、部屋の外が写っていた。ページとページの谷間に1センチにも満たないくらいの隙間ができて、ママのいるリビングの方が覗けるようになっているのだ。
絵本に顔を近づけて、部屋のリビング覗いた。
パパがママに覆いかぶさっていた。いつも無愛想なパパからは考えられないくらい、獣が唸るような声を出していた。ママも似たような声を出している。私は何だかとても恐ろしいものを見ているような気がして、絵本を勢いよく閉じた。
豪雨が窓ガラスを叩く。こんなボロアパートの窓なんていつ割れてもおかしくないくらい、激しい雨だった。風が吹き荒れ、建物がミシミシと音を立てている。
この時期にしては珍しい大雨だった。
雨が降ったときのママは、服が濡れるのでいつもより不機嫌になる。怒られないためには一層の注意が必要だ。
そんなことを考えていると、黒猫の鳴き声がして、意識が目の前に向いた。
「そろそろあの人帰ってくるかもだし、外に出さないとまずいんじゃない?」
姉はそう言いながらも、黒猫を撫でるのをやめようとしない。その様子が何だかおかしくて、私は笑ってしまった。
「そうは言っても、この大雨で外に出すのは可哀想でしょ」
最近は家にママがいないときを見計らって、例の黒猫を家の中にあげていた。
「まあ確かに……もう少し雨が止んでからの方が良いとは思うけど」
生き物が嫌いなママにバレたら酷い「おしおき」を受けるだろう。
姉の心配もわかるが、私もそのことは十分わかっている。何も考えてないわけではない。
ママが家に帰ってくる時間は、正確に把握しているのだ。
「ママが帰ってくるまで、まだ1時間もあるし平気だって」
そう言って私は黒猫を抱え上げた。
「あっ」
姉が口惜しそうな声を出す。
布団の上に散乱したママの服を空いた手で押し退けて、私は自分の座る場所を確保した。胡座をかいて座り、その上に猫を乗っけた。
「……ずるい」
「ふふん」
最近は良く姉と会話ようになっていた。
もっとも私たちが話しているとママは露骨に不機嫌になるから、会話をするのは二人きりの時だけだ。
ママが私たちに「おしおき」するのは相変わらずだった。しかし姉と仲間意識が芽生えたせいか、以前ほどは辛くはなかった。
これまではママがまだ優しかった頃に、あの大きなマンションに住んでいた頃に戻りたいと思っていた。しかし今ではこの生活も悪くないと思っている。
あの頃は辛いことはパパが家に来たときくらいだったが、一方で楽しいこともそれほど多くなかった。今はママを怒らせてしまうと酷い目にあうが、姉や黒猫と一緒に遊ぶのは楽しい。
「そうだ」
私は猫を姉に渡して立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。扉を開き、中に賞味期限切れの牛乳を見つけ、手に取って床に置く。
それから洗っていない食器が山積みになった流しから、底が深めなお皿を一枚引っ張り出して洗った。キッチンペーパーや布巾はないから、ティッシュでそれを拭く。
床に洗ったお皿を置いて、牛乳をとぷとぷと注ぐ。
牛乳を注いだお皿を持って立ち上がり、姉と猫の方へ向かおうとした。
「あっ」
足元のゴミを踏んづけて、体のバランスが崩れた。お皿を手放してしまい、牛乳を撒き散らしてしまった。
咄嗟に姉と猫にはかからないようにはできたが、牛乳が布団とその上に置かれた服の上にかかってしまう。お皿の方は運悪く床の見えている部分に落ちてしまい、砕けてしまった。
猫は驚いて、姉の手元から飛び退いた。
「……どうしよう」
私の口からか細い声が空気と一緒に漏れ出す。自分の血の気が引いていくのがわかる。
牛乳が特に酷くかかってしまった赤いコートは、ママが先週購入したばかりのものだ。見つかったらタダじゃ済まされない。いつも以上に酷い「おしおき」が待っているだろう。
満杯のクローゼットの中の服の山に押し込むか。いや、お気に入りの服がなくなってもママは激怒するだろう。それにママは私が嘘をつくことを極端に嫌がる。もし見つかったらどうなるか、想像すらしたくない。
洗濯機を回すか。いや、コートは洗濯じゃなくてクリーニングに出さなきゃ駄目だ。それに仮に洗濯機を使ったところで、ママが帰ってくるまでには間に合わない。
ああそうだ、落ち着け。
ママが帰ってくるまで1時間はあるはずだ。焦る必要はない。ゆっくり考えれば良い。
心を落ち着けるため深呼吸する。
しかし一旦落ち着いたことで、雨の音に混じって最悪な音がするのに気づいた。
カン、カン、カン
外の階段を登る音だ。風と雨の音にかき消されてもおかしくなさそうなくらいの音だったが、まるで喧騒の中で自分の名前を呼ばれた時のように、足音は確かに聞こえてくる。
ママが帰ってくる時間までにはまだ余裕があるし、何なら豪雨で帰ってくるのが遅れるかもと考えていた。しかしその予想は甘かった。
店を開けていても客が来なければ仕方ないと、むしろ早めに店仕舞いしたのかもしれない。
「不味いよ……」
姉も冷や汗をかきながら呟く。
まだだ。隣の家のサラリーマンということもある。
しかし、か細い望みはあっけなく絶たれた。足音が隣の部屋のあたりを通り過ぎる。流し場に備え付けられた曇りガラスの前を、ママの影が通り過ぎた。
強く唇を噛んでいないと、叫んでしまいそうだった。きっと殴られるだけじゃ済まない。身体に刻み込まれた暴力の記憶が蘇り、震えが止まらなくなる。
鍵を探しているのだろう。ママがドアの前でバッグを漁る気配がする。
目元が熱くなってきて、吐き気が込み上げてきた。
どうしてこうなってしまったのだろう。最近は上手くやり過ごせていたはずなのに。どうして猫と家の中に上がるだなんて、調子に乗った真似をしてしまったのだろうか。どこで私は間違えたのだろうか。
いや————私のせいじゃない。そもそも姉が黒猫を構ったりしなければこんな事態にはならなかった。
姉の方を見る。いつもの怯えた表情
そんな彼女を見て、ある考えが頭をよぎった。
こいつに罪をなすりつければ良いじゃないか。こいつが猫を家の中に入れて、牛乳をやろうとして躓いたと。
ママがどっちを信じるかなんて考えるまでもない。いかにも鈍臭い姉がやらかしそうなことではないか。
私の口角が歪んで吊り上がる。先程までの恐怖は立ち消えて、醜い安堵が心の中に広がっていく。
しかし姉は急に私の手を取って言った。
「これをやってしまったのは私……良い?」
「えっ……?」
いつもの自信なく口籠るような声ではなく、はっきりとした声だった。
目が合った。澄んだ色の瞳だった。
だが、繋いだ手はどうしようもなく震えていた。
「なん、で……」
混乱のあまり、私は上手く喋れず、そう言うのが精一杯だった。
強がるように、姉は歯を見せて笑って見せた。
「だって私、あなたのお姉ちゃんだから」
ドアが開いた。
ママが姉の上に馬乗りになって暴力を振るうのを、私は黙って眺めていた。
黒猫はママに蹴飛ばされた後、ぐったりとして動かなくなっていた。
怖かった。いつものようにトイレに逃げ込みたかった。
でもそうすることは自分を助けてくれた姉を見捨てるような、卑怯な行いのような気がしてできなかった。
ママはお酒のせいか上手く呂律が回っていない。叫び声を上げて半乱狂で拳を振り下ろす。何を言ってるかよくわからないが、死んじまえだとか、多分罵倒していることはわかる。
彼女のタガは完全に外れていて、いつもなら怒鳴りながらも近所の人が様子を見に来ないようセーブしているのだが、今日はそんなことは全く考えていないようだった。
もっとも生憎今日は外の風と雨の音が酷く、ママの罵声はかき消されてしまうだろう。隣の部屋くらいには届くだろうが、例のサラリーマンはどうせ帰ってきていない。誰も助けには来てくれない。
姉は悲鳴をあげないよう、歯を食いしばって耐え忍んでいる。
ふとママは一旦手を緩めた。腫れ上がった姉の顔に、僅かに安堵の表情が兆す。
「……から……こんな」
ママは何か口の中でもごもごと言葉を転がしている。
私は声を噛み殺して泣いていた。ママは私が泣くと、「自分が悪いのか。悪いのはあんたでしょ」と言って怒る。声を上げて泣けば自分の方に怒りの矛先が向いてもおかしくない。
彼女は化粧品が積み上がったドレッサーから、ヘアアイロンを手にとった。
恐怖で頭が麻痺しているからちゃんとした記憶はないが、そういえば先ほど電源を入れていたようにも思う。
「やだ……」
姉はこれから何をされるのかを理解したのか、壁の方に後じりする。先ほどまで痛みを耐え忍んでいた彼女の表情にも、明確に恐怖の色が混ざり始める。
その様子に満足したのか、ママのは歯を剥き出しにして笑った。
「…………虐待なんかじゃ…………ママも父さんに……れて……」
相変わらず呂律が回っていないが、何を言ってるかは大体聞き取れるようになってきた。「これじゃ甘いくらいよ」というようなことをママは言いながら、姉に迫る。
逃げようと立ち上がった姉の腹を、ママは思い切り蹴飛ばした。鳩尾に入ったのか、姉は呻き声すら出せずにうずくまる。ママはまたその上に馬乗りになった。抵抗できないよう、膝で姉の腕に体重をかけている。
「やめて、やだ」と姉は足掻くが、大人の力には敵わない。
「…………良い子に……って……」
ママは姉の顔を二発殴った。黙れということだろう。
ゆっくりと、ヘアアイロンが姉の腕に近づいていく。ハサミのように大きく開くわけではないが、子どもの細い手首を挟み込むのには十分だった。
「——————」
絶叫が部屋の中にこだまする。
その声が耳障りだったのか、ママは姉の口を腕で塞ぐ。いや、塞ぐどころではなく、歯が折れても構わないというくらい二の腕に全体重をかけて姉の口の上にのしかかっていた。
姉の唸る声が聞こえる。時折休憩を挟みながら、姉の細腕をヘアアイロンで焼く。
気絶したのか、姉の目が虚になって反応が鈍くなることがある。そうするとママは何度も頬を叩いて、それからまた「おしおき」を再開する。
いっそそのまま気絶していてくれた方がマシだ。苦しむ様を見るだけでも辛い。
恐怖もあるが、まるで自分の腕が焼かれているような気分になるのだ。呻き声が続くと、苦しんでいるのが姉なのか自分なのかわからなくなる。
今にして思えば、姉が「おしおき」のときにあまり声を上げないのは、悲鳴をあげると余計に酷い目に遭うから、という理由だけではなかったのかもしれない。私がなるべく怖がらないように痛みと恐怖に耐えていたのではないか。
いや、それだけではない。
姉は確かに鈍臭いが、それにしても飲み物をこぼしたりすることが多すぎる。あれはママが私に怒りそうなときに、意図的に自分へ怒りの矛先を向けさせるためにやっていたのではないか。
一度その考えが頭に浮かぶと、今までの姉の行動はそうとしか思えなかった。
そんなことを考えもしなかったどころか、姉に対して見下すような態度を取っていた私は、何て酷いやつなんだろう。
自分が姉だから、なんて理由で私を守る彼女の気持ちがわからなかった。血も繋がっていないじゃないか。姉の方はママのことを「あの人」と呼ぶだけで母親とも思ってないじゃないか。なのに私のことは妹だと思ってくれているのだ。
でも、そんな風に姉が私のことを————
「……やめてよ」
ママの動きがピタリと止まった。
しまった、と思った。ママの怒りの矛先がこちらに向かないよう、目立たないようにしていたのに、酷い失態だった。
無意識のうちに声が出てしまっていた。
ゆっくりとママは振り返る。
目は虚で、髪が乱れていた。先ほどまでは怒りで歪んだ表情をしていたのに、今は顔の上から全ての感情が消え失せていた。
酔いが一気に引いたのか、さっきまでの呂律の回らない口調ではなく、はっきりとした声で彼女は言った。
「……お前も裏切るの?」
ママが立ち上がった。そしてこちらに近づいてくる。
必死に後退りしようとしたが、すぐ後ろは壁だった。震えが止まらない。
姉は気絶したのか衰弱して動けないのか、床に伏せたままだった。
「違うよね。悪い子じゃないもんね」
しゃがみ込んで私に目線を合わせ、甘ったるい声でママはそう問いかけた。
頷けばそれで許されたかもしれない。
でも私はさっき咄嗟に出た言葉を否定できなかった。これ以上姉を傷みつけられるのを黙って見ていることができなかった。
私が何も言えずにいると、平手打ちが飛んできた。頬というより側頭部を思い切り引っ叩かれ、私はそのまま倒れ込んだ。
叩かれた側の耳は膜が張ったような感じになり、音がよく聞こえない。頭の中で雨音が響いているかのような錯覚に陥る。
「……私が悪いの?」
泣きじゃくりながら私は首を振った。ママは悪くない。だって本当のママは優しいのだから。
「そう……じゃあ悪いのは全部あいつよね」
ママは姉の方を指した。
私は何故か頷くことが出来ず、ただ震えることしかできなかった。
「……は」
冷たい声だった。苛立ちからか、ママはヘアアイロンをへし折りそうな勢いで強く握りした。
「そうやって、私が、どんな思いで……」
急に空いた手で喉元を掴まれ、壁に押しつけられる。息ができない。
「何もかも滅茶苦茶よ。結局お前は、あの人を引き止める何の役にも立たなかった……」
必死にママの手を引き剥がそうとするが、ヘアアイロンの柄の部分でお腹を殴られた。
力が入らない。
「お前が生まれてからよ、全部がおかしくなったのは……この疫病神が」
そういうことか。
全ての疑問が氷解した気がした。
ママは本当は優しいのに、どうしてこんな酷いことをするのかと思っていた。
しかしそれは私が悪かったのだ。私が居なければ、優しいママに戻るのだ。
「おしおきが必要だよね……?」
不意に優しい声でママが問いかける。私は頷いた。ヘアアイロンが近づいてくる。
これは罰だ。ママの人生を滅茶苦茶にした私。姉に守ってもらっていたのに、見下していた私。
ここからいなくなれたら良いのに。そう思った。
「起きてる……?」
憔悴しきった、掠れた声が聞こえた。ぼんやりとした視界が、徐々に輪郭を帯び始める。
近くに私と同じように床に転がった姉がいた。
ママはその向こうで、服をかき集めて寝ている。牛乳の匂いがした。牛乳のかかった服は、部屋の隅にまとめて放られていた。
「うん」
私がそう返事すると、姉の表情が微かに緩んだ。
「あの子は……いなくなったみたい」
「……そう」
恐らくママが外に出したのだろう。放り投げられたのかもしれない。
いや、ママは生き物が嫌いだから、本来であれば触りたくもないはずだ。普通に窓を開けて外に逃してもらったものと思いたい。
どちらにせよ、この豪雨の中に放り出されたことは間違いない。大丈夫だろうかと不安になる。
しばしの間、沈黙が降りる。
私は先ほどの姉の行動を思い返した。
今回に限らず、姉はどうして私を守るような行動をとるのだろう。
「何で……あんなこと言ったの。私たち、本当の姉妹じゃないんだよ」
床に転がったまま会話を続ける。
体のあちこちが痛むし、泣き叫んで疲れ切ってしまったので、すぐには立ち上がりたくない。
ママを起こさないよう、声を顰めて話しかけた。
「……ずっと妹が欲しかったの。アニメとかでね、仲の良い姉妹が出てくると、いつも羨ましかった」
何となくその気持ちはわかる気がした。ここに来る前の姉も、私と同じように酷い目に遭ってきたのだろう。そんな中で、何かすがるものが欲しくなってしまうのはよくわかる。
しかし私に妹として守られる権利なんてない。
「私、姉さんのこと見下してたの。何となくわかってたでしょ。それで姉妹だなんて……」
彼女は笑った。
いつも暗い雰囲気だった彼女が、こんな屈託のない笑顔を見せるとは思いもしなかった。
しかも酷いことを言ったに、何故笑ったのだろう。怒ったり悲しんだりするのが普通だろう。
「……何で笑ってるの」
「だって今、姉さんって」
言われてみればそう呼んだのは初めてな気がする。いや、一応出会ったときだけは、お姉ちゃんという言葉を使ったか。
笑う姉の口の中は、血まみれだった。あれだけ顔を殴られていたのだから、歯も折れているだろう。
改めて彼女の身体に目を向けると、以前より痩せ細っている気がした。ママの機嫌が悪かったり、借金の利子を払った後でお金がなかったりすると、ご飯をもらえないこともある。その上、そこから黒猫のご飯を出しているのだ。栄養が足りているはずもない。
このままでは死んでしまってもおかしくないだろう。
私が不安そうにしているのを察したのだろうか。姉は私の手に触れた。
「酷い火傷」
「うん」
私も姉も、手首の周りに酷い跡がついていた。
その火傷の跡を重ね合わせる。
「……お揃いだね。腕輪みたい」
私を和ませるための冗談だったのかもしれないが、笑えなかった。でも、突飛すぎて強張っていた体の力が抜けてしまった。
長い長いため息をついた後、意を決して私はよろよろと立ち上がった。ふらつきながらも壁に手をついて、何とか体を支える。
つられるようにして、姉も上体を起こして床に座った。
「……行こう」
外では相変わらず雨と風が暴れて、ガラス戸を叩いている。むしろ先程より強くなっているようにさえ思える。
「行くって、どこに」
「わかんない。でも……これ以上この家にもいられないでしょ」
私はともかく、少なくとも姉は本当に死んでしまうかもしれない。何より、私がいなけばママもあのマンションに戻れるかもしれない。
彼女は悩むような素振りを見せて、中々立ちあがろうとしない。
だから私は手を差し伸べた。
「二人なら平気だよ」
差し伸べた腕の手首が焼け爛れているのをぼんやりと眺めた後、彼女は薄く微笑んだ。
「……そうだね」
姉は私の手を掴んだ。
大雨の中を、傘もささずに二人手を握って進んでいく。もっとも風も強いので、傘をさしてもすぐ蝙蝠傘になってしまうだろう。
行くあてはなかった。国道沿いを街灯の明かりを頼りに、ひたすら歩いてゆく。
何台ものトラックがものすごい勢いで通り過ぎていった。すぐ横の歩道を私たちが歩いているのなんてお構いなしだ。それとも私たちの存在に本当に気づいていないのか。
車両が通りすぎるときに水飛沫がかかる。ただ、元からずぶ濡れだからあまり気にならない。
最初は私が姉の手を引いて歩いていたが、気がつけば逆になっていた。
「どこに行こう」
「どこでも良いよ」
「そうだね」
今話したのは姉の方だっただろうか。それとも私の方だっただろうか。疲れてきてよくわからない。
どこだって良い、ママが私のことを忘れるくらい遠くなら。そうしたらきっと本当のママに戻ってくれるはずだ。
冷たい雨に打たれて、ほとんど体の感覚がない。それでも機械的に足は前へ進んでいく。
残った感覚は私の手を握りしめる姉の手の感触だけだった。
いつしか視界はぼやけて、トラックのライトや建物の照明をぼんやりと感じるだけになっていた。
雨音に紛れて、後ろから黒猫の鳴き声が聞こえた気がする。振り返って確認する気力はないが、何となく後ろをついて歩いてきているような気配がした。
豪雨の中を、二人で歩いていく。いくつも橋を越え、歩き続けた。
どれだけ歩いたのかもうわからない。最早自分の足が動いているかすらわからないが、姉に手を引っ張られる感触がするから、きっと前に進んでいるのだろう。
遠くに、とても遠くまで歩いていく。
そして私たちは忘れ去られた。
◇
「ほんっと信じらんない。これだから姉さんと買い物するの嫌なのよ」
「えー、私のせいなの?」
「そうに決まってるでしょ! 姉さんと一緒の時にしかこんなこと起こらないもの」
パフェを食べた後私たちは、アクセサリーや服を買い漁った。両手に紙袋を抱えて帰途につき、人里離れた我が家を目指して田道を歩いていた。
しかし、カラスに襲われて買ったものを全部持って行かれてしまった。貴金属目当てだろうが、袋を丸ごと奪われたのだ。
こんな不幸、姉と一緒でなければ起こるはずがない。
「あの可愛かったエメラルドの指輪も赤いコートも……何も……」
空っぽになった両手を見て、私はため息をついた。体の力がすっかり抜けてしまった。
「そんな落ち込まなくても良いじゃない。ほら、何か良いことあるって」
「あー?姉さんと一緒にいて、良いことなんて起こるわけないじゃない」
「それはそうだけど……」
大分酷いことを言ったが、自分が不幸を呼び込む体質であることを十分理解している彼女は、特に反論もしなかった。
少し考えた後、姉はくたびれた黒猫の人形を抱えたのとは反対の手で、私の手を握った。
「ほら、荷物がなくなって手を繋げるようになった、とか」
「……何じゃそりゃ」
何が良いことだ。姉と手を繋いだところで何だと言うのだ。
むしろ誰かに見られたら恥ずかしいことこの上ない。
ただ別に悪い気はしないし、わざわざ振り解くほどでもないので、されるがままにしておく。
「前にも女苑とこうして手を繋いで歩いた気がするなぁ」
「そんな記憶ないけど……」
「確かにあんまり覚えてないけど……ほら、さっきも話したけど、幻想郷に来る前なんじゃない?」
なるほど。姉の言うことには一理あった。
「何とか思い出せたりしないかなぁ、昔のこと」
「私はあまり気にならないけど……思い出せないってことは、思い出さない方が良い記憶かもしれないし」
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
覚えてないからわからないけれど、どうせ疫病神と貧乏神の組み合わせだ。ろくな思い出があるはずがない。
それきりで会話は途絶えた。姉も特にそれほど幻想郷に来る前の記憶にこだわりがあるわけではないらしい。
二人で手を握って歩いていく。夕焼けに染められた田道を進んでいく。
空が赤い。日は傾いて山の向こうに沈んでおり、稜線が光を帯びて輝いている。
手を繋いでるせいで、お揃いの腕輪がぶつかって、カチャリと音を立てた。
向かいでパフェを頬張る姉が、唐突にそう呟いた。久々に美味しいものが食べられたから、頭が変になっているのだろうか。
私と姉は、人里にある茶屋でパフェを食べていた。この店は私のお気に入りの一つだった。落ち着いた雰囲気も良いが、何より先代の店主が外来人だったらしく外の世界の甘味を取り扱っている。
「あのねぇ、滅多にありつけないご馳走なんだから、そんなこと考えてないで味わうことに集中しなさいよ」
細いスプーンを姉に突きつける。
貧乏神の彼女はめったに美味しいものが食べられない。高価なものを食べようとすると、大概何かが起こって邪魔が入るからだ。今日のように何事もなくご馳走にありつけるのは珍しい。
彼女は「それもそうだけど」と奥歯に何か挟まったかのような物言いをする。
「この味、外の世界で食べたときあると思うのよね」
特にそんなことは思わなかったが、言われてみれば、朧げながらそんなような気もしてくる。
「ほら、私たち石油のこととか、外の世界の知識が結構あるじゃない。やっぱり元々外の世界にいたんだよなぁって」
「まー……そうねぇ」
実際自分も何となく、外の世界から幻想郷にやってきたように思っていた。明瞭な記憶はないにも関わらず、そういった認識を持っていた。
「気がつけば幻想郷で女苑と悪さを働いていたけど、子供の頃のことって覚えてないし……」
「神様なんてそんなもんでしょ。前にやり合った鶏の神様も、異変後の宴のときに言ってたじゃない。鶏だった時のことなんてほとんど覚えてないって」
「そんなもんかなぁ。双子なのは覚えてるのに」
気がつけば幻想郷で二人一緒に悪事を働いていた。生まれたときのことはおろか、いつから一緒なのかもわからない。でも双子であることは共通認識だった。
彼女はそこに違和感を抱いたようだ。
「昔は外の世界にいたってなら、この前やり合った偉そうな山の神様みたく、信仰心を失ってここに流れ着いたのかもね」
信仰を失い外の世界から忘れ去られ、幻想郷に流れつく神様は多い(山の神様は能動的に幻想郷への道を開いたという珍しいパターンだが)。
もっとも貧乏神と疫病神は特定の神様というだけではなく、慣用句として馴染んでいる部分もあり、今更早々忘れ去られないように思える。
「やり合ってばっかね私たち……喧嘩ばっか。やっぱ女苑は手がすぐ出るから」
「何よ、石油のときは姉さんだってノリノリで戦ってたじゃない」
姉は「まあ」だとか曖昧にもごもごと言葉を口の中で転がす。そこで会話が途切れる。
やはり姉に贅沢をさせてはいけないな、と思う。一口目二口目はあんなにはしゃいでいたのに、後半に差し掛かるころには感動も薄れたのか、パフェそっちのけでこんな変な話をする。
仮に彼女が貧乏を脱却しても、しばらくしたらすぐ不平不満を口にするに違いない。
一足先にパフェを完食した私は、姉の言っていたことが少し気になって、昔のことを思い出そうとしてみた。
いつの間にか二人一緒に幻想郷にいて、いつからここに来たかの記憶は曖昧だ。外の世界のことを知っているような気はするが、場所だとか人について何も思い出せることはない。自分とて神の端くれだし、長命の種族はそんなものなのかもしれない。
パフェをのろのろと頬張る姉を、頬杖をついてぼんやり眺めた。
◇
私はファミレスが好きだった。
誕生日だとかお祝いの日は、国道沿いのファミレスに連れて行ってもらえた。私にとっての特別な場所だ。
だからその日の朝、ママがファミレスに連れて行ってくれると言ったときは、何もない日なのに、一体どういうわけなのだろうと少し怖かった。
通された席には知らない男の人が先に座っていて、私はようやくここに連れてこられた意味を理解した。
金髪でアクセサリーをいくつも身につけているが、ワックスでベタついた長い前髪の下をよく見ると、目尻に小さな皺がいくつも刻まれている。若者と呼べる歳ではないだろう。自分が歳を重ねていることに気づいていない、若造りなファッションセンスが痛々しい。
「この人がアナタの新しいパパよ」
ママが私に対面の男をそう紹介すると、彼は「かもしれない、ね」と付け加えた。ママはそうだったと相槌を打って微笑むが、口角が変な風に釣り上がっている。
私はこの目の前の男を、心の中でパパ四号と名付けた。結婚式をしていないので、今までのパパも正確にはパパではなかったのかもしれないが、とにかく四人目のパパだ。
今度は良いパパだと良いけれど、と思いながら私はお水に口をつけた。
いきなり話に入ってしまって、パフェを頼める雰囲気ではなくなってしまった。
この店にはこども用の小さなパフェがあって、それを食べるのを楽しみにしていたのに残念だ(普通のパフェは中々食べきれず、残すとママが怒る)。
「それで、連れてきたの?」
「何かトイレ行っちまってよ」
ママは仕方なくといった感じで口を開いた。どうやらもう一人、誰かが先に来ているらしい。
「おいっ」
彼は何かを見つけると、机を叩いた。
周りのお客さんが驚いて私たちのテーブルへ目線を向けた。しかし彼が当たりを見回すと、目を合わせたくないのだろう、彼らは各々の食卓に意識を戻した。
こちらの席の方へ、一人の少女がおずおずと向かってくる。
身長は私よりも高いが、猫背の上に髪は伸び放題で、随分とみすぼらしい。灰色のパーカーに首を埋め、警戒するように前髪の隙間から上目遣いでこちらの様子を窺っている。
「何のろのろしてんだよ」
苛立ちげに男が呟くと、その少女の肩はびくりと跳ね、彼女は急いで彼の隣に不自然に距離を置いて座った。
「よろしくね」
ママは引き攣った笑顔でそう言った。目の前のそいつが不潔な感じだったからだろう。
少女はぼそぼそと何か言葉を返したが、聞き取ることができない。
なるほど、これは今までにはなかったパターンだ。
ようやく私はおおよそ事情を察した。この子はいわゆる連れ子というやつなのだろう。
「それでアパートのことだけど……」
ママが切り出すと、二人は家賃の折半について話し合いはじめた。どうやら私たちが彼らの家に引っ越すのではなく、彼らが私たちの家に住むようだった。
あのアパートに四人暮らしは、かなり手狭になる。正直難しいように思える。
しかし私の関心ごとはそこではない。ママが怖くなるかどうかだ。ひょっとしたらパパ四号が一緒に住むことで、「おしおき」が少なくなるかもしれない。
ただ今までの経験上、それはあまり期待できなかった。悪化する可能性の方が高い。
「……」
大人たちは退屈な話を続ける。
目線をふと少女の方に向けると、目が合ってしまった。
「えっと……よろしくね、お姉ちゃん?」
多分相手の方が年上だろうから、私はそう声をかけた。
正直こいつと話すのは気が進まない。しかしこのまま黙って大人二人の退屈な話が終わるまで待つのもは暇だ。
彼女はまた、もごもごと口籠った。
何だか鈍臭そうなやつだ。見ているとじれったいというか、妙にイライラする。暇つぶしに何か話でもしようと思ったが、その相手は務まらなさそうだ。
私はママみたくため息をついた。
パパ四号がどんな顔をしていたか、私はうまく思い出すことができない。なぜなら彼はすぐにいなくなってしまったからだ。
「クソっ、最初からこのつもりだったのよ。私にはわかってたのよ」
発作的に何度もママはそう毒づいた。
パパ四号はあの連れ子について「押し付けられた」と言っていた。細かいことはわからないが、彼の悪態の内容からある程度察することができる。
かつての同棲相手が妊娠し、その女は出産後、子供を残して失踪したようだった。
どこまで計画的だったのかはわからないが、彼は同じことを私のママ相手にやったということだろう。
女手一つで子供を二人も養うことになったママは、更に荒れることとなった。
ただし、予想に反して私に対しては優しくなった。
「バーバリーの新作でね、つい買っちゃったの。嬉しいでしょう?」
「うんっ」
私は努めて明るく相槌を打った。
控えめなチェック柄のベージュの上着を着て、私は姿鏡の前でポーズを取る。一着五万円近く代物だ。
お洒落は好きなので、ママが自分のもののついでに色んな服を買ってくれるのは嬉しい。ただ値段を考えるとあまり嬉しくない。
服を買うのを我慢して、滞納している家賃を払おうという気にならないのが不思議だった。ママは夜の仕事をしていて、決して稼ぎは悪くない。しかしそれ以上の金額を使ってしまうので、いつになっても借金が消えないのだ。
お洋服はいらないから他のことにお金を使って欲しいと言ったことがある。しかしその結果、浴槽で「おしおき」を受けることとなった。それ以来お金の使い道については一切触れないようにしていた。
「……」
部屋の隅っこの方で、姉がコンビニで買ってきたチャーハンを頬張っていた。ブランド品を身につけた私とママの近くにいるせいで、ヨレたTシャツを身に纏う彼女は一層みすぼらしく見える。
私が姉の方に気が取られている間、ママはファッション誌を眺めていた。
「そろそろ私も別のコート買わなきゃね……手持ちに合うのは赤かしら」
ぶつくさとママは呟く。ファッション誌のページの端っこを指で丸めたり、忙しなく動いている。
昨日ママが店へ出ている間、大家さんが家賃の取り立てに来たのを私は思い出した。服を買う前にそちらを払わなければ、あの強面の大家さんが怒鳴り込んできてしまう。
そういえば大家さんが来たことを、まだママに伝えていなかった。
「昨日ママがいない間、大家さんが来たんだけど……」
ママが舌打ちをした。
不味い。
私は唾を静かに飲み込んだ。空気が濁るのを肌で感じる。
それまで上機嫌だったママの様子が、裏返るように不機嫌になっていた。
一応伝えないと後で怒られると思ったのだが、タイミングをもう少し選ぶべきだったかもしれない。
「それで?」
声から先程までの喜色は完全に消え失せ、腹の底の方から出る重たく冷たい声色になっている。
「えっと……」
頭の中を「おしおき」のことがチラついて、体がすくむ。続きを喋ろうとすると、喉から掠れた空気が漏れる。
大丈夫。話題を逸らせば問題ない。
「大家さんも、コート……その、着てて……」
「あっ」
後ろで姉が短く声を上げた。
振り向くと、彼女は飲んでいた麦茶を溢してしまっていた。小さなちゃぶ台に麦茶の水溜りが広がり、更に床のカーペットに吸い込まれていく。
不幸中の幸いというか、この部屋の床には服が散乱しているのだが、それにはかからなかった。
ママが姉の方を見た。姉は萎縮している。謝ろうと口を開きかけたが、もう遅かった。
「ーーーー!」
彼女は体の内のものを全てぶち撒けるかなような叫び声を上げた。
お前はどうしてそう馬鹿なんだ、私に何の恨みがあるの。ママは彼女の髪を掴んで、耳を口元に近づけて怒鳴る。
姉はうめき声をあげるだけで、やめてと言ったり泣いたりはしなかった。それが怒りに油を注ぐ行為だとわかっているからだ。
私は気配を殺してトイレに向かった。扉を閉めて鍵をかけ、服を着たまま便座に座る。耳を塞いだが、それでもママの怒声が聞こえてくる。自分に向けられたものでないとわかっていても体が竦む。
昔のママはこんな風に怒ったりしなかった。本当は優しいはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。
姉に対して可愛そうだとは思わない。自業自得だからだ。
彼女は鈍臭いというか、注意力散漫なところがあって、よくああいうミスをしでかした。
この家で暮らすのであれば、ママの気を損ねないよう、細心の注意を払って暮らしていかなければならない。少なくとも自分はそうしている。
姉がママの暴力の対象となってしまうのは、そういった注意が足らないからだ。
私は違う。あんな風にはならない。
この時の私は、姉のことを下に見ることで、塞いだ耳にさえ届く怒声への恐怖を和らげていた。
なるべく音を立てないようにランドセルを床に置いた。
ゴミや服が乱雑に散らばった布団の上でママが寝ている。ママは夜働いているから、その分お昼は眠っていることが多い。
家にいるとママが機嫌を損ねたときに酷い目に遭うので、私はなるべく外で遊ぶようにしている。かといって彼女が仕事に行くまでには帰らないとそれはそれで怒られるので、帰る時間の調整は重要だ。
帰ってきたときと同じように、私は音を立てないように外へ出る。そっとドアを閉めたが、最後にガチャリと音が鳴るので、いつも心臓が縮むような気分になる。
部屋を出ると、丁度隣のサラリーマンが帰ってきたところだった。
「……こんにちわ」
「……」
うなだれたように彼は俯いた。多分お辞儀のつもりなのだろう。酷く疲れた様子だが、この人が元気なところを見たことがない。
いわゆるブラック企業というやつに勤めているのだろう。ほとんど家に帰らず、帰ってきたとしても深夜か早朝らしく、ほとんどこの人と顔を合わせることはない。
彼が家の中に入るのを見届けず、そそくさとその場を去る。金属製の階段を下って一階へと降りていくと、カンカンと足音がした。
足早に近所の道を歩いていく。あてはない。今日はどこで時間を潰そうかとため息をつくと、それは白い息となった。もう冬だ。
学校の同級生のことを考えたが、最近はクラスからハブられ気味になっていたので遊ぶ相手などいない。
転校後もしばらくは普通に過ごせていた。むしろクラスの中でも上の方の位置につけることができた思う。しかしそれが良くなかった。
家がボロアパートなのが知られると、私の地位は揺らぎ始めた。給食費を滞納しているとバレたことがとどめとなり、今では休み時間も一人で過ごしていることが多い。
学校のことを考えていたら、鼻の奥の方がつんとした。私が何をしたっていうんだ。好きであんなアパートに住んでいるわけではないし、給食費を払えないのも私が悪いわけじゃない。
大きなマンションで暮らしていた頃に戻りたい。あの頃はママも優しかった。
「はぁ……」
もう一度ため息をついて、天を仰いだ。灰色の空だった。
それから目線を戻すと、妙なものが目についた。姉がいる。
彼女は廃墟の玄関先に入って、しゃがんで座り込んでいる。何年も前に一家心中があっただとか、まことしやかに噂されている家だ。
「何してんの?」
声をかけると、姉の肩がビクリと跳ねた。彼女は挙動不審におずおずと振り返る。何かを隠すような素振りだ。
その様子は少し私の嗜虐心を煽った。私は彼女に近づいた。
「へぇ……」
姉が抱え込むように隠していたのは、一箱の段ボールだった。
ナァ、と鳴き声がした。段ボールの中には黒い子猫がいた。捨て猫のようだ。
「最近、食べ物を隠してたのはこのためだったのね」
パンを全部食べずにポケットに入れたりするのを何回か目撃していたが、この子猫に分け与えるためだったのだろう。
よくやるなと思う。ママの機嫌が悪ければ、食べ物を貰えないことも多々ある。そんな中で猫に食べ物をあげるとは、随分と入れ込んでいるらしい。
「ママに教えたら何て言うかなぁ。アンタは知らないかもだけど、ママ、動物が嫌いなのよね」
私が意地悪い声を出すと、しゃがんで俯いていた姉が立ち上がる。
目が合う。澄んだ色の瞳だ。
ひょっとしたら目が合ったのは初めてだったかもしれない。私は少したじろいだ。
「あの人には言わないで、お願い」
「いや、えっ……」
動揺して、半分裏返ったかのような声を出してしまう。まさか逆らってくるとは思わなかったからだ。
いつも猫背で顔を俯けているからあまり意識することはなかったが、立ち上がった彼女の目線は私よりも高い。
ママにどれだけ暴力を振るわれても、反抗する素振り一つすら見せなかった姉が、私に対しては強く出てきた。動揺してしまったが、次の瞬間には苛立ちが沸々と湧いてきた。
「なによ」
なるべく相手を怖がるような、怒りを込めた声を出す。イメージしたのはママの声だった。
コイツが自分より上の立場かのような振る舞いをするのは許せない。
いつも鈍臭くて、ママの機嫌の取り方すら覚えられないグズと、上手く立ち回れて最近は愛されてる私。どちらが上かなんて明白なはずだ。ここで立場をわからせなければならない。
「このことを言われたら困るんでしょ。バカでも私の機嫌を損ねちゃいけないってわかるでしょ!」
次第に声が大きくなっていく。姉の表情がいつものように弱々しいものになっていく。胸がすくような気持ちだった。頭の中のどこかが甘く痺れたような心地だった。
「だったら……」
頭を下げて必死に頼め、土下座しろ。そう続けるつもりだったが、途中で猫の鳴き声に遮られた。
「ナァ〜」
はっとして私は猫の方を見た。怯えている様子だった。
猫は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
ペットショップの前で猫を眺めて時間を潰すこともある。
「……?」
途中で罵声が止んだことで、姉はどうしたのだろうと、いつものこちらの顔色を窺うような目をしていた。
私は彼女を放って、猫の前にしゃがみ込んだ。そして猫を撫でた。先ほどまでの怯えた様子はなくなり、甘えるように私の指に顔を擦り付ける。人の機嫌を取るのが上手い猫だな、と思う。
こいつもこうやって人に気に入られるように、必死に媚びる仕草を覚えたんだろうか。猫の頭がそんな良いわけないだろうに、そんな勝手なことを考えてしまう。
「……今度私にも、餌あげさせてよ」
「えっ……?……あ、うん!」
姉は少し驚いた後、露骨に声を明るくして言った。
本当のママは優しいってわかってる。でも怒ってるママは好きじゃない。
さっきの私は、きっと怒ったときの彼女と同じ顔をしていた。そのことが何だかすごく嫌なことに思えた。
猫がまた甘えた声を出した。
私と姉は、気がつけば二人で夢中になって猫と遊んでいた。
夢を見た。
昔の夢だった。
まだ大きなマンションに住んでいた頃の夢だ。
ママが帰ってきた。煌びやかなアクセサリーとブランド品に身を包んでいる。
上着を床に脱ぎ捨てると、私の名前を呼んで抱き上げる。
顔を近づけて、ただいまとキスをしてくれた。お酒臭いと私が笑いながら嫌がると、ママは調子に乗って息を吹きかける。
ママに抱きしめられて、私は幸せな気持ちになる。
しかしいつのまにか彼女はいなくなって、代わりに私は布団にくるまっていた。パパが来るときはいつもそうだ。
部屋の外のはずなのに、エレベーターが42階に止まったのがわかる。
パパは私のことを好きじゃないみたいだった。週に一二回くらいだろうか、彼が来るときは私は部屋に押し込められ、決して出てこないようにママにきつく言いつけられる。
当時はパパのことが嫌いだったが、今はそうでもない。殴ったりはしてこないし、初代のパパは、歴代のパパの中だと良い人だった。
うちに来たときはお金を沢山くれる。そうするとママは機嫌が良くなるし、パパの存在は今思えばありがたいものだった。
音を立てないように言われていたから、黙って絵本を眺めていた。
一度音の出る人形で遊んでいたら、私は殴られたりしなかったが、パパがママを引っ叩いた。お願いだからパパが来ているときは静かにしてとママが泣きそうな顔で言うから、私はそのルールをちゃんと守っている。
今読んでいる絵本は姉妹の話だった。
ビルもない田舎の村で、二人仲良く過ごしている。お揃いの腕輪をつけていて、そのことが私にはすごく羨ましかった。私にも姉妹がいれば、こんな退屈せずに済むだろうか。
ページを捲ると、部屋の外が写っていた。ページとページの谷間に1センチにも満たないくらいの隙間ができて、ママのいるリビングの方が覗けるようになっているのだ。
絵本に顔を近づけて、部屋のリビング覗いた。
パパがママに覆いかぶさっていた。いつも無愛想なパパからは考えられないくらい、獣が唸るような声を出していた。ママも似たような声を出している。私は何だかとても恐ろしいものを見ているような気がして、絵本を勢いよく閉じた。
豪雨が窓ガラスを叩く。こんなボロアパートの窓なんていつ割れてもおかしくないくらい、激しい雨だった。風が吹き荒れ、建物がミシミシと音を立てている。
この時期にしては珍しい大雨だった。
雨が降ったときのママは、服が濡れるのでいつもより不機嫌になる。怒られないためには一層の注意が必要だ。
そんなことを考えていると、黒猫の鳴き声がして、意識が目の前に向いた。
「そろそろあの人帰ってくるかもだし、外に出さないとまずいんじゃない?」
姉はそう言いながらも、黒猫を撫でるのをやめようとしない。その様子が何だかおかしくて、私は笑ってしまった。
「そうは言っても、この大雨で外に出すのは可哀想でしょ」
最近は家にママがいないときを見計らって、例の黒猫を家の中にあげていた。
「まあ確かに……もう少し雨が止んでからの方が良いとは思うけど」
生き物が嫌いなママにバレたら酷い「おしおき」を受けるだろう。
姉の心配もわかるが、私もそのことは十分わかっている。何も考えてないわけではない。
ママが家に帰ってくる時間は、正確に把握しているのだ。
「ママが帰ってくるまで、まだ1時間もあるし平気だって」
そう言って私は黒猫を抱え上げた。
「あっ」
姉が口惜しそうな声を出す。
布団の上に散乱したママの服を空いた手で押し退けて、私は自分の座る場所を確保した。胡座をかいて座り、その上に猫を乗っけた。
「……ずるい」
「ふふん」
最近は良く姉と会話ようになっていた。
もっとも私たちが話しているとママは露骨に不機嫌になるから、会話をするのは二人きりの時だけだ。
ママが私たちに「おしおき」するのは相変わらずだった。しかし姉と仲間意識が芽生えたせいか、以前ほどは辛くはなかった。
これまではママがまだ優しかった頃に、あの大きなマンションに住んでいた頃に戻りたいと思っていた。しかし今ではこの生活も悪くないと思っている。
あの頃は辛いことはパパが家に来たときくらいだったが、一方で楽しいこともそれほど多くなかった。今はママを怒らせてしまうと酷い目にあうが、姉や黒猫と一緒に遊ぶのは楽しい。
「そうだ」
私は猫を姉に渡して立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。扉を開き、中に賞味期限切れの牛乳を見つけ、手に取って床に置く。
それから洗っていない食器が山積みになった流しから、底が深めなお皿を一枚引っ張り出して洗った。キッチンペーパーや布巾はないから、ティッシュでそれを拭く。
床に洗ったお皿を置いて、牛乳をとぷとぷと注ぐ。
牛乳を注いだお皿を持って立ち上がり、姉と猫の方へ向かおうとした。
「あっ」
足元のゴミを踏んづけて、体のバランスが崩れた。お皿を手放してしまい、牛乳を撒き散らしてしまった。
咄嗟に姉と猫にはかからないようにはできたが、牛乳が布団とその上に置かれた服の上にかかってしまう。お皿の方は運悪く床の見えている部分に落ちてしまい、砕けてしまった。
猫は驚いて、姉の手元から飛び退いた。
「……どうしよう」
私の口からか細い声が空気と一緒に漏れ出す。自分の血の気が引いていくのがわかる。
牛乳が特に酷くかかってしまった赤いコートは、ママが先週購入したばかりのものだ。見つかったらタダじゃ済まされない。いつも以上に酷い「おしおき」が待っているだろう。
満杯のクローゼットの中の服の山に押し込むか。いや、お気に入りの服がなくなってもママは激怒するだろう。それにママは私が嘘をつくことを極端に嫌がる。もし見つかったらどうなるか、想像すらしたくない。
洗濯機を回すか。いや、コートは洗濯じゃなくてクリーニングに出さなきゃ駄目だ。それに仮に洗濯機を使ったところで、ママが帰ってくるまでには間に合わない。
ああそうだ、落ち着け。
ママが帰ってくるまで1時間はあるはずだ。焦る必要はない。ゆっくり考えれば良い。
心を落ち着けるため深呼吸する。
しかし一旦落ち着いたことで、雨の音に混じって最悪な音がするのに気づいた。
カン、カン、カン
外の階段を登る音だ。風と雨の音にかき消されてもおかしくなさそうなくらいの音だったが、まるで喧騒の中で自分の名前を呼ばれた時のように、足音は確かに聞こえてくる。
ママが帰ってくる時間までにはまだ余裕があるし、何なら豪雨で帰ってくるのが遅れるかもと考えていた。しかしその予想は甘かった。
店を開けていても客が来なければ仕方ないと、むしろ早めに店仕舞いしたのかもしれない。
「不味いよ……」
姉も冷や汗をかきながら呟く。
まだだ。隣の家のサラリーマンということもある。
しかし、か細い望みはあっけなく絶たれた。足音が隣の部屋のあたりを通り過ぎる。流し場に備え付けられた曇りガラスの前を、ママの影が通り過ぎた。
強く唇を噛んでいないと、叫んでしまいそうだった。きっと殴られるだけじゃ済まない。身体に刻み込まれた暴力の記憶が蘇り、震えが止まらなくなる。
鍵を探しているのだろう。ママがドアの前でバッグを漁る気配がする。
目元が熱くなってきて、吐き気が込み上げてきた。
どうしてこうなってしまったのだろう。最近は上手くやり過ごせていたはずなのに。どうして猫と家の中に上がるだなんて、調子に乗った真似をしてしまったのだろうか。どこで私は間違えたのだろうか。
いや————私のせいじゃない。そもそも姉が黒猫を構ったりしなければこんな事態にはならなかった。
姉の方を見る。いつもの怯えた表情
そんな彼女を見て、ある考えが頭をよぎった。
こいつに罪をなすりつければ良いじゃないか。こいつが猫を家の中に入れて、牛乳をやろうとして躓いたと。
ママがどっちを信じるかなんて考えるまでもない。いかにも鈍臭い姉がやらかしそうなことではないか。
私の口角が歪んで吊り上がる。先程までの恐怖は立ち消えて、醜い安堵が心の中に広がっていく。
しかし姉は急に私の手を取って言った。
「これをやってしまったのは私……良い?」
「えっ……?」
いつもの自信なく口籠るような声ではなく、はっきりとした声だった。
目が合った。澄んだ色の瞳だった。
だが、繋いだ手はどうしようもなく震えていた。
「なん、で……」
混乱のあまり、私は上手く喋れず、そう言うのが精一杯だった。
強がるように、姉は歯を見せて笑って見せた。
「だって私、あなたのお姉ちゃんだから」
ドアが開いた。
ママが姉の上に馬乗りになって暴力を振るうのを、私は黙って眺めていた。
黒猫はママに蹴飛ばされた後、ぐったりとして動かなくなっていた。
怖かった。いつものようにトイレに逃げ込みたかった。
でもそうすることは自分を助けてくれた姉を見捨てるような、卑怯な行いのような気がしてできなかった。
ママはお酒のせいか上手く呂律が回っていない。叫び声を上げて半乱狂で拳を振り下ろす。何を言ってるかよくわからないが、死んじまえだとか、多分罵倒していることはわかる。
彼女のタガは完全に外れていて、いつもなら怒鳴りながらも近所の人が様子を見に来ないようセーブしているのだが、今日はそんなことは全く考えていないようだった。
もっとも生憎今日は外の風と雨の音が酷く、ママの罵声はかき消されてしまうだろう。隣の部屋くらいには届くだろうが、例のサラリーマンはどうせ帰ってきていない。誰も助けには来てくれない。
姉は悲鳴をあげないよう、歯を食いしばって耐え忍んでいる。
ふとママは一旦手を緩めた。腫れ上がった姉の顔に、僅かに安堵の表情が兆す。
「……から……こんな」
ママは何か口の中でもごもごと言葉を転がしている。
私は声を噛み殺して泣いていた。ママは私が泣くと、「自分が悪いのか。悪いのはあんたでしょ」と言って怒る。声を上げて泣けば自分の方に怒りの矛先が向いてもおかしくない。
彼女は化粧品が積み上がったドレッサーから、ヘアアイロンを手にとった。
恐怖で頭が麻痺しているからちゃんとした記憶はないが、そういえば先ほど電源を入れていたようにも思う。
「やだ……」
姉はこれから何をされるのかを理解したのか、壁の方に後じりする。先ほどまで痛みを耐え忍んでいた彼女の表情にも、明確に恐怖の色が混ざり始める。
その様子に満足したのか、ママのは歯を剥き出しにして笑った。
「…………虐待なんかじゃ…………ママも父さんに……れて……」
相変わらず呂律が回っていないが、何を言ってるかは大体聞き取れるようになってきた。「これじゃ甘いくらいよ」というようなことをママは言いながら、姉に迫る。
逃げようと立ち上がった姉の腹を、ママは思い切り蹴飛ばした。鳩尾に入ったのか、姉は呻き声すら出せずにうずくまる。ママはまたその上に馬乗りになった。抵抗できないよう、膝で姉の腕に体重をかけている。
「やめて、やだ」と姉は足掻くが、大人の力には敵わない。
「…………良い子に……って……」
ママは姉の顔を二発殴った。黙れということだろう。
ゆっくりと、ヘアアイロンが姉の腕に近づいていく。ハサミのように大きく開くわけではないが、子どもの細い手首を挟み込むのには十分だった。
「——————」
絶叫が部屋の中にこだまする。
その声が耳障りだったのか、ママは姉の口を腕で塞ぐ。いや、塞ぐどころではなく、歯が折れても構わないというくらい二の腕に全体重をかけて姉の口の上にのしかかっていた。
姉の唸る声が聞こえる。時折休憩を挟みながら、姉の細腕をヘアアイロンで焼く。
気絶したのか、姉の目が虚になって反応が鈍くなることがある。そうするとママは何度も頬を叩いて、それからまた「おしおき」を再開する。
いっそそのまま気絶していてくれた方がマシだ。苦しむ様を見るだけでも辛い。
恐怖もあるが、まるで自分の腕が焼かれているような気分になるのだ。呻き声が続くと、苦しんでいるのが姉なのか自分なのかわからなくなる。
今にして思えば、姉が「おしおき」のときにあまり声を上げないのは、悲鳴をあげると余計に酷い目に遭うから、という理由だけではなかったのかもしれない。私がなるべく怖がらないように痛みと恐怖に耐えていたのではないか。
いや、それだけではない。
姉は確かに鈍臭いが、それにしても飲み物をこぼしたりすることが多すぎる。あれはママが私に怒りそうなときに、意図的に自分へ怒りの矛先を向けさせるためにやっていたのではないか。
一度その考えが頭に浮かぶと、今までの姉の行動はそうとしか思えなかった。
そんなことを考えもしなかったどころか、姉に対して見下すような態度を取っていた私は、何て酷いやつなんだろう。
自分が姉だから、なんて理由で私を守る彼女の気持ちがわからなかった。血も繋がっていないじゃないか。姉の方はママのことを「あの人」と呼ぶだけで母親とも思ってないじゃないか。なのに私のことは妹だと思ってくれているのだ。
でも、そんな風に姉が私のことを————
「……やめてよ」
ママの動きがピタリと止まった。
しまった、と思った。ママの怒りの矛先がこちらに向かないよう、目立たないようにしていたのに、酷い失態だった。
無意識のうちに声が出てしまっていた。
ゆっくりとママは振り返る。
目は虚で、髪が乱れていた。先ほどまでは怒りで歪んだ表情をしていたのに、今は顔の上から全ての感情が消え失せていた。
酔いが一気に引いたのか、さっきまでの呂律の回らない口調ではなく、はっきりとした声で彼女は言った。
「……お前も裏切るの?」
ママが立ち上がった。そしてこちらに近づいてくる。
必死に後退りしようとしたが、すぐ後ろは壁だった。震えが止まらない。
姉は気絶したのか衰弱して動けないのか、床に伏せたままだった。
「違うよね。悪い子じゃないもんね」
しゃがみ込んで私に目線を合わせ、甘ったるい声でママはそう問いかけた。
頷けばそれで許されたかもしれない。
でも私はさっき咄嗟に出た言葉を否定できなかった。これ以上姉を傷みつけられるのを黙って見ていることができなかった。
私が何も言えずにいると、平手打ちが飛んできた。頬というより側頭部を思い切り引っ叩かれ、私はそのまま倒れ込んだ。
叩かれた側の耳は膜が張ったような感じになり、音がよく聞こえない。頭の中で雨音が響いているかのような錯覚に陥る。
「……私が悪いの?」
泣きじゃくりながら私は首を振った。ママは悪くない。だって本当のママは優しいのだから。
「そう……じゃあ悪いのは全部あいつよね」
ママは姉の方を指した。
私は何故か頷くことが出来ず、ただ震えることしかできなかった。
「……は」
冷たい声だった。苛立ちからか、ママはヘアアイロンをへし折りそうな勢いで強く握りした。
「そうやって、私が、どんな思いで……」
急に空いた手で喉元を掴まれ、壁に押しつけられる。息ができない。
「何もかも滅茶苦茶よ。結局お前は、あの人を引き止める何の役にも立たなかった……」
必死にママの手を引き剥がそうとするが、ヘアアイロンの柄の部分でお腹を殴られた。
力が入らない。
「お前が生まれてからよ、全部がおかしくなったのは……この疫病神が」
そういうことか。
全ての疑問が氷解した気がした。
ママは本当は優しいのに、どうしてこんな酷いことをするのかと思っていた。
しかしそれは私が悪かったのだ。私が居なければ、優しいママに戻るのだ。
「おしおきが必要だよね……?」
不意に優しい声でママが問いかける。私は頷いた。ヘアアイロンが近づいてくる。
これは罰だ。ママの人生を滅茶苦茶にした私。姉に守ってもらっていたのに、見下していた私。
ここからいなくなれたら良いのに。そう思った。
「起きてる……?」
憔悴しきった、掠れた声が聞こえた。ぼんやりとした視界が、徐々に輪郭を帯び始める。
近くに私と同じように床に転がった姉がいた。
ママはその向こうで、服をかき集めて寝ている。牛乳の匂いがした。牛乳のかかった服は、部屋の隅にまとめて放られていた。
「うん」
私がそう返事すると、姉の表情が微かに緩んだ。
「あの子は……いなくなったみたい」
「……そう」
恐らくママが外に出したのだろう。放り投げられたのかもしれない。
いや、ママは生き物が嫌いだから、本来であれば触りたくもないはずだ。普通に窓を開けて外に逃してもらったものと思いたい。
どちらにせよ、この豪雨の中に放り出されたことは間違いない。大丈夫だろうかと不安になる。
しばしの間、沈黙が降りる。
私は先ほどの姉の行動を思い返した。
今回に限らず、姉はどうして私を守るような行動をとるのだろう。
「何で……あんなこと言ったの。私たち、本当の姉妹じゃないんだよ」
床に転がったまま会話を続ける。
体のあちこちが痛むし、泣き叫んで疲れ切ってしまったので、すぐには立ち上がりたくない。
ママを起こさないよう、声を顰めて話しかけた。
「……ずっと妹が欲しかったの。アニメとかでね、仲の良い姉妹が出てくると、いつも羨ましかった」
何となくその気持ちはわかる気がした。ここに来る前の姉も、私と同じように酷い目に遭ってきたのだろう。そんな中で、何かすがるものが欲しくなってしまうのはよくわかる。
しかし私に妹として守られる権利なんてない。
「私、姉さんのこと見下してたの。何となくわかってたでしょ。それで姉妹だなんて……」
彼女は笑った。
いつも暗い雰囲気だった彼女が、こんな屈託のない笑顔を見せるとは思いもしなかった。
しかも酷いことを言ったに、何故笑ったのだろう。怒ったり悲しんだりするのが普通だろう。
「……何で笑ってるの」
「だって今、姉さんって」
言われてみればそう呼んだのは初めてな気がする。いや、一応出会ったときだけは、お姉ちゃんという言葉を使ったか。
笑う姉の口の中は、血まみれだった。あれだけ顔を殴られていたのだから、歯も折れているだろう。
改めて彼女の身体に目を向けると、以前より痩せ細っている気がした。ママの機嫌が悪かったり、借金の利子を払った後でお金がなかったりすると、ご飯をもらえないこともある。その上、そこから黒猫のご飯を出しているのだ。栄養が足りているはずもない。
このままでは死んでしまってもおかしくないだろう。
私が不安そうにしているのを察したのだろうか。姉は私の手に触れた。
「酷い火傷」
「うん」
私も姉も、手首の周りに酷い跡がついていた。
その火傷の跡を重ね合わせる。
「……お揃いだね。腕輪みたい」
私を和ませるための冗談だったのかもしれないが、笑えなかった。でも、突飛すぎて強張っていた体の力が抜けてしまった。
長い長いため息をついた後、意を決して私はよろよろと立ち上がった。ふらつきながらも壁に手をついて、何とか体を支える。
つられるようにして、姉も上体を起こして床に座った。
「……行こう」
外では相変わらず雨と風が暴れて、ガラス戸を叩いている。むしろ先程より強くなっているようにさえ思える。
「行くって、どこに」
「わかんない。でも……これ以上この家にもいられないでしょ」
私はともかく、少なくとも姉は本当に死んでしまうかもしれない。何より、私がいなけばママもあのマンションに戻れるかもしれない。
彼女は悩むような素振りを見せて、中々立ちあがろうとしない。
だから私は手を差し伸べた。
「二人なら平気だよ」
差し伸べた腕の手首が焼け爛れているのをぼんやりと眺めた後、彼女は薄く微笑んだ。
「……そうだね」
姉は私の手を掴んだ。
大雨の中を、傘もささずに二人手を握って進んでいく。もっとも風も強いので、傘をさしてもすぐ蝙蝠傘になってしまうだろう。
行くあてはなかった。国道沿いを街灯の明かりを頼りに、ひたすら歩いてゆく。
何台ものトラックがものすごい勢いで通り過ぎていった。すぐ横の歩道を私たちが歩いているのなんてお構いなしだ。それとも私たちの存在に本当に気づいていないのか。
車両が通りすぎるときに水飛沫がかかる。ただ、元からずぶ濡れだからあまり気にならない。
最初は私が姉の手を引いて歩いていたが、気がつけば逆になっていた。
「どこに行こう」
「どこでも良いよ」
「そうだね」
今話したのは姉の方だっただろうか。それとも私の方だっただろうか。疲れてきてよくわからない。
どこだって良い、ママが私のことを忘れるくらい遠くなら。そうしたらきっと本当のママに戻ってくれるはずだ。
冷たい雨に打たれて、ほとんど体の感覚がない。それでも機械的に足は前へ進んでいく。
残った感覚は私の手を握りしめる姉の手の感触だけだった。
いつしか視界はぼやけて、トラックのライトや建物の照明をぼんやりと感じるだけになっていた。
雨音に紛れて、後ろから黒猫の鳴き声が聞こえた気がする。振り返って確認する気力はないが、何となく後ろをついて歩いてきているような気配がした。
豪雨の中を、二人で歩いていく。いくつも橋を越え、歩き続けた。
どれだけ歩いたのかもうわからない。最早自分の足が動いているかすらわからないが、姉に手を引っ張られる感触がするから、きっと前に進んでいるのだろう。
遠くに、とても遠くまで歩いていく。
そして私たちは忘れ去られた。
◇
「ほんっと信じらんない。これだから姉さんと買い物するの嫌なのよ」
「えー、私のせいなの?」
「そうに決まってるでしょ! 姉さんと一緒の時にしかこんなこと起こらないもの」
パフェを食べた後私たちは、アクセサリーや服を買い漁った。両手に紙袋を抱えて帰途につき、人里離れた我が家を目指して田道を歩いていた。
しかし、カラスに襲われて買ったものを全部持って行かれてしまった。貴金属目当てだろうが、袋を丸ごと奪われたのだ。
こんな不幸、姉と一緒でなければ起こるはずがない。
「あの可愛かったエメラルドの指輪も赤いコートも……何も……」
空っぽになった両手を見て、私はため息をついた。体の力がすっかり抜けてしまった。
「そんな落ち込まなくても良いじゃない。ほら、何か良いことあるって」
「あー?姉さんと一緒にいて、良いことなんて起こるわけないじゃない」
「それはそうだけど……」
大分酷いことを言ったが、自分が不幸を呼び込む体質であることを十分理解している彼女は、特に反論もしなかった。
少し考えた後、姉はくたびれた黒猫の人形を抱えたのとは反対の手で、私の手を握った。
「ほら、荷物がなくなって手を繋げるようになった、とか」
「……何じゃそりゃ」
何が良いことだ。姉と手を繋いだところで何だと言うのだ。
むしろ誰かに見られたら恥ずかしいことこの上ない。
ただ別に悪い気はしないし、わざわざ振り解くほどでもないので、されるがままにしておく。
「前にも女苑とこうして手を繋いで歩いた気がするなぁ」
「そんな記憶ないけど……」
「確かにあんまり覚えてないけど……ほら、さっきも話したけど、幻想郷に来る前なんじゃない?」
なるほど。姉の言うことには一理あった。
「何とか思い出せたりしないかなぁ、昔のこと」
「私はあまり気にならないけど……思い出せないってことは、思い出さない方が良い記憶かもしれないし」
「そんなもんか」
「そんなもんよ」
覚えてないからわからないけれど、どうせ疫病神と貧乏神の組み合わせだ。ろくな思い出があるはずがない。
それきりで会話は途絶えた。姉も特にそれほど幻想郷に来る前の記憶にこだわりがあるわけではないらしい。
二人で手を握って歩いていく。夕焼けに染められた田道を進んでいく。
空が赤い。日は傾いて山の向こうに沈んでおり、稜線が光を帯びて輝いている。
手を繋いでるせいで、お揃いの腕輪がぶつかって、カチャリと音を立てた。
血のつながりのない姉は子供らしい感性で一つの愛の形を知っていたようにも思えるのです。猫を愛で、妹を守り、そして親に決して嚙みつくことはなく震えながら堪えている。姉にはきっと大人じみた強さがあったのだと思います。楽へと流れるよう今に合わせる妹と今を受け入れて自我を貫く姉、二人がそろったから逃げ出してしまえたのだとも。形としては逃げ出したようですが、きっとこれも自立のひとつで、ママが幸せな思い出の中に戻れるよう、子供たちが力を合わせて今現在から未来に旅立つ姿だと思うと胸に来るものがあります。素晴らしい作品でした。ありがとうございました。
お互いに思うところがあって、そして想い合っている二人が読んでいて辛くもありましたが素敵でした。素晴らしい作品でした。
この環境でもなお紫苑がお姉ちゃんしていて強さを感じました
依神姉妹の過去に切り込んだ話はとても新鮮でした。次作も楽しみにしています!
読み易く、それでかつ、感情移入出来る文飾に魅せられました。
依神姉妹の感情の入れ替わりは、―感情の対極性は、想像する楽しみがありますね。
きっと、この物語の悲しい部分は『そして私たちは忘れ去られた。』に尽きるのでしょう。ここを一文で済ませた所に、この物語の優しさが詰まっているようでもありました。
後は姉の存在も強烈で、母から愛情を向けられる事に重きを置いていた妹が自分の足で立ち上がるまでの流れを丁寧に、愚鈍のようで芯の通った力強さを以て表現されていたのかなとも思わされました。
面白かったです、ありがとうございました。
重くなりすぎないよう配慮されているのが感じられながらも、描写が的確なこともあり、読むのが結構辛かったです。
虐待の結果つくられた火傷の跡が腕輪になっていることが、悲壮に感じられる一方で、それこそが姉妹としての繋がりや絆を示すものとして描写されており、印象深かったです。
二人が忘れ去られるまでの経過を踏まえると、彼女らが貧乏神と疫病神になった後の他愛のないやりとりからも、多くのことを感じられました。
ありがとうございました。
この子たちはかみさまになったんだと、今は別の地で楽しくやってるんだと、そう祈らずにはいられない力が、このお話にはありますから、このお話は私にとって神話です。
もちろん幸福な物語ばかりでは飽きてしまうからこういうのもたまにはというのもあるし
何より作者さんがどういう作品を書くのかは自由であって
それを踏まえた上で読んでいてただただ辛い。苦手なジャンル。
ただ残念なことに陳腐なものなら途中で止めるのですが、
作者さんの実力が高い。高すぎてしっかりと嫌な気持になってしまった。
虐待の描写と虐待されている姉妹の心理がちょっと生々しすぎる。
実際の出来事かを曖昧にしたような点が作者さんの善性と信じて。
逃げることができずに最後まで読んでしまったのでこの点数を。