霖之助は仕事を終えてアパートへ帰る途中、いつも横を通る公園の風景がいつもと違う違和感に襲われた。毎日変わり映えのない出退勤を繰り返していると、小さな変化にも敏感になるものだ。違和感の正体は公園に一歩足を踏み入れるとすぐにわかった。見慣れぬ女がベンチにぐったりとうなだれて座っているのだ。女は身長150㎝ないくらいの小柄で、黒髪を肩の長さまで伸ばしており、オーバーサイズのユニセックスなトレーナーを着ていた。
「どこか具合でも悪いのですか?」
霖之助の問いかけに女は返事をしようとしているのはわかるが、モゴモゴと言葉にならない。女の目はうつろで今にも倒れそうである。救急車でも呼んだほうがいいだろうか?昨今は流行り病が蔓延っており、連日担ぎ込まれる発症者や入院患者に病院も対応に追われて切迫している。そんな折もあって、病院に彼女を担ぎ込むのは、彼女の意識が今のところあることから少し大げさに思えたので、霖之助は自分のアパートへ寄せることにした。霖之助のアパートは2階建てで6部屋の建物である。道に面して門があり、短いスロープを登ると1階の住民はそのまま各自の部屋へ入り、2階の住民は1階の奥に設置された鋼製の階段を登って2階へと行く間取りになっている。霖之助は女を支えながら道を歩き、やがてアパートの門の前に来た。女と体を寄せて支えながら歩くことで、公園にいたときには気づかなかったことに気づいた。女から尿の臭いがするのだ。尿漏れしやすい体質なのか、それとも排尿したあとにトイレットペーパーで念入りに拭く習慣がないのか、はたまた僕と会う直前に何かがあって漏らしてしまったのか。でも女日照りの霖之助にはこの尿の臭いもまた好意的な意味で刺激的に感じられた。門の背後には大きなイチョウの木が一本生えており、今の季節にはチーズに似た独特の強いにおいを放つ実を、スロープの上や表の街路へとポトポト落とす。霖之助はこのイチョウの厄介さによって、今住んでいるアパートの家賃が安いということもあるのかな、まさかな、などと思っていると、野良猫が歩いてきて落ちているイチョウの実に鼻を近づけた。猫は目をひん剥いて、下顎を大きく落とすというやたら人間臭い表情をして匂いに辟易したようすを見せた。雑学に強い霖之助は、これをフレーメン反応と呼ぶということを知っていた。
「ほら、あの猫おもしろい顔をしているよ。」
と女に話しかけると、彼女は口の周りを動かして笑おうとするけども、眉間の険しさは変わらなかった。霖之助は、体調の悪い人に面白いものを見せようとするのは少し不謹慎だったのかな、でも少しでも気分よくなってもらいたいし、さじ加減が難しいものだなと思った。2階までなんとか二人で階段を登り、女をベッドに寝かせると、霖之助はようやく緊張から解放された心持で、とりあえずテレビをつけた。画面左上に表記された時刻は6時45分。若い男性アナウンサーが原稿を読み上げていた。『…今日の新型コロナウイルスの感染者は都内で1万人を突破し、10日連続で…』ニュースを小耳に挟みながら、霖之助はやかんに水を入れてコンロにかけた。『成人年齢を現行の20歳から新たに18歳に引き下げるにあたっての法改正を…』コップを二つ用意する。とりあえず飲み物の種類は、病人にも刺激の少なさそうな番茶でいいか。『…次のニュースです。きょう午後、○○市内のアパートで、住人の男性が亡くなっているのが見つかりました。男性は刃物で切りつけられたような傷を負っており、警察では男性が何らかの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて、捜査を続けています…。』ゴソゴソとベッドのほうで音がした。どうやら女が寝返りを打ったようだ。やかんもそれに呼応するようにピーピー言い始めた。お湯が沸いたのだ。霖之助は番茶を二人分淹れると、盆にのせてベッドへと向かった。
二人で番茶を啜って一息つくと、女は自己紹介を始めた。
「K井S子といいます。助けてくれてありがとう。」
特徴的な声だった。例えるなら、瀬戸物をそっと木のテーブルの上に置いたときのコトリという音を連想させるような、守ってあげたくなる本能をくすぐる声だ。
「S子ちゃんね。近くに住んでいるの?」
「・・・・・」
S子は黙りこくってしまった。せっかく会話が始まったのに、尋問っぽくしてしまったのが失敗だったか?S子には住処について話したくない事情がきっとあるのだ。公園なんかでうずくまっていたのは、帰る家が一時的になくなってしまったからかもしれない。親と同居していたなら家出とか、あるいはDVの全国的な増加が広く取沙汰されている昨今だ。暴力をふるう彼への恐怖が募り、耐えきれなくなって逃げてきたという線もあるだろう。うん、S子の衰弱もきっとそのせいだ。霖之助は自分の推理はそう大きく外れてはいないだろうと思った。
「ああ、ごめんね。体調が悪いんだから無理しないで。身の上の話はしなくてもいいんだ。S子ちゃん、この部屋を自分の家だと思ってくつろいでいいからね。」
こうして、家出少女と僕との幸せな同棲生活が始まった。これがなれそめで、彼女とは深い仲になっていくのかもな、フフフ。などと含み笑いをしながら、ベランダに出て夜空を見上げると、魔理沙とアリスが夜空を駆けていくのが見えた。そういえば、魔理沙は昨日こんなことを僕に言っていたっけ。月の異変の原因を突き止めに行く、って。
霖之助はボルダリングを趣味としていた。休日のみならず、平日も仕事上がりにボルダリングジムへと向かって汗を流し、ジム内のシャワーを浴びてさっぱりすることで、帰ってからアパートの狭いバスルームで入浴する手間を省いていた。そんな感じにジムに入り浸っていたから、週に4日から5日は壁に貼り付けられたでっぱりに指をひっかけて自分の体重と格闘していたわけだ。指をひっかけ、脚を持ち上げてひっかけ、体を持ち上げる。たったこれだけのことなのだが、これがなかなか飽きない。登るにつれて背中のあたりから体がぽかぽかと温まってくるし、筋肉は日常生活よりも緊張を強いられていると思うのだが、むしろやればやるほど逆に体がほぐれてくる。仕事中のガチガチに凝った体が生き返っていくようだ。S子が俺の部屋で過ごすようになって2日目の夜も、僕はボルダリングジムに行って1時間ほど汗を流してから帰った。ガチャリ…と金属製の扉を開けた瞬間から、不穏な空気を第6感で感じた。部屋には倒れたコップの中から水がこぼれて水たまりを作っており、冷蔵庫は開けっ放しで、閉めろと冷蔵庫が人に催促するピーピーという音が鳴っている。嫌な胸騒ぎとともにS子の寝るベッドがある奥の部屋へ急ぐと、彼女は荒れた息をして喘いでいた。手首にはいくつか切り傷ができていたが、そう深くはないようである。
「どうしたんだ!大丈夫か!?」
とS子の肩をゆすると、
「霖之助さんが私と一緒に居るの、やっぱり迷惑かなって。だからあなたはどこかで時間を潰してから帰ってくるのかなって。そう思うと、悲しくなっちゃって…。」
僕は愕然とした。自分の見通しの甘さを恥じた。守るべき女性が部屋で一人、心細く待っているというのに、自分の趣味を優先してしまったのだ。すぐにS子を抱きしめると、徐々に荒い呼吸はおさまってきたようだった。
「何か食べよっか。嫌いなものある?」
「お野菜が食べられないの。匂いの強いものと、辛い物も。」
食事に誘う際に食べ物の好き嫌いを聞くのは一種のエチケットのようなもので、あくまで儀礼的なものだと霖之助は思っていた。大体の人にこう聞いても、何でも食べられると答えるか、せいぜい1、2種類の嫌いな食べ物を挙げられるに過ぎなかった。だからS子のこの答えには、内心ただならぬ不安と胸騒ぎを搔き立てられたのは否定しようのないことであった。S子は霖之助の部屋に来てからまだ一度も外出してはいなかったが、一緒に買い出しに行こうかとの誘いも断ったので、霖之助はとりあえずスーパーでハンバーグ弁当を二つ買ってきた。S子は小さな口を開けて食べ始めた。箸は正しい使い方ができないようで、猫の手のように拳を小さく丸めて箸を握りこんでいた。2本の箸は交差していた。どうやら野菜のうちで食べられないものがいくつかあるということではなく、本当に一切食べられないようで、付け合わせの人参グラッセも、マカロニサラダも、オレンジ一切れも、彼女は全く箸をつけなかった。霖之助はこれらを捨てるのが忍びなく、台所のゴミ袋に捨てる直前にこっそりかき込んで食べた。霖之助が台所から戻ってくると、テレビはニュースがかかっていた。
『…次です。今月〇日に、○○市のアパートに住む男性が死亡した事件で、現場に被害者の男性以外にもう一人の血痕が落ちており、警察は犯人とみられる人物が被害者の男性ともみ合いになった際に
レポーターがすべて読み上げる前にS子はリモコンでチャンネルを替えた。
S子は寝た。霖之助はスマホをポチポチやりながら、インターネット上の大手匿名掲示板を覗いていた。下品で下世話な、露悪的なタイトルのスレッドが並ぶ。
”人生勝者の菅田佐弥香が自殺したのに独身無職ハゲの俺が生きている件についてwww”
これはつい最近、ホテルの高層階から飛び降り自殺をした2世アイドルを話題にしたものだった。著名人や富裕層が不幸な目に逢うと、このようなスレッドが立って、掲示板住民の心が沸き立つのを隠しきれないように和気あいあいと議論がなされるのだ。
“ワクチン打つと運次第で心筋炎で死にます、コロナで健康な若者は死にません←すまん、ワクチン打つ意味ある?”
猛威をふるっている流行り病のワクチンに重篤な副作用が出るという噂が立ち、ここ最近はワクチンを打った人と打たない人の二項対立がすっかり確立されており、喧々諤々のバトルが催されている。
霖之助はスマホを指でスクロールさせながら、ぼうっと死んだ魚のような目で煙草に火をつけた。
“〇〇市アパート住人男性刺殺事件の被害者を知ってる者だけど”
煙草を強めに吸い込み、紫煙を吐き出してニコチンの脱力感にいざなわれながら、下らないゴシップだ、どうせなりすましだろうと思いつつもそのスレッドを開いてみた。
1:名無し ID:uR8d2oK 2022:03:08:00:13:48:05
そいつは俺の友人だった。彼女が出来たと言って喜んでると思ったら、日を追うにつれて俺と一緒に行っていた競馬もアイドルの追っかけもすっかりやめちまって、こりゃ彼女に相当入れ込んでるなと思ってたら、皆もニュースで知ってると思うがスレタイの事件で殺されちまった。俺は絶対その彼女とやらが友人を殺したと思ってる
この書き込みの下にはしばらく、「便乗乙」とか、「風説の流布になるぞ」とか、「下手なこと言って遺族に訴えられたりしてな、イッチは震えて待て」などといった、スレ立て主を茶化すレスが続いた。だがスレ立て主の話を真実と受け入れて興味を持つスレ住人もいたらしく、「彼女と君のご友人はどうやって付き合ったの?今の時代だとマッチングアプリかな?それともストリートナンパ?」という書き込みがあった。それにスレ主はレスを付けた。
17:1 ID:uR8d2oK 2022:03:08:00:29:36:19
>>15
公園で会ったって言ってた。彼女が体調悪そうにしてベンチに座ってたから、友が「俺の家で休むか」と聞いたら付いてきて、そのまま付き合ったんだと
霖之助は、(へぇ、それじゃ僕とS子の関係みたいじゃないか。)と若干の興味が沸き、このスレッドをブックマークしておいて、スマホから目を離し、自分もS子に続いて寝ることにした。
若い男と女が同棲しているわけだから、当然やることはやる。S子が衰弱しているところを霖之助が家に寄せたという少々特殊な形での同棲とはいえ、霖之助側から交渉を求めないのは彼女から心理的に距離を取って突き放しているも同然で、一人の女性に対して失礼に当たるのでは無いかという気持ちもあった。保護するものとされるものの関係ではなく、なるべく普通の男女として付き合いたかったのだ。S子の肌は幾分がさついており、肉付きも良くなかった。尿の臭いも服を着ているときよりも目立ち、霖之助が腰を打ち付けるたびに、その臭いはパルスのように部屋中に振りまかれるようだった。だがこれらのマイナス要素にも萎えないくらいには、ユムシにならずにフランクフルトのままでいられるくらいには、霖之助のリビドーは頑健にできていた。というよりも、実はS子の風体は彼の情欲を掻き立てるものだったのだ。いかにも血色がよく、みずみずしい肉体の女が持つ太陽のような輝きは、彼にとってその光線で焼き滅ぼしてくる太陽に相対した日陰の虫になった気分にさせるため、かえって自信を喪失させるものだった。それに比べると、S子の肉体はまさに湿った石の裏側であり、日陰の虫たる霖之助にとっては性の対象にふさわしいものだったのだ。腰を打ち付けるピッチも徐々に上がっていく。そして絶頂に達しようかというまさにそのとき、それまで時折「ウッ」とか、短い声を漏らすだけだったS子が、こんなことを言ってきた。
「首を絞めて!」
霖之助は戸惑いながらもS子の細い首に両手をかけると、とたんに彼女の反応が良くなった。まるでマッサージチェアの揉み心地を強くするスイッチを入れたかのようだった。首を絞めることでまるっきり人間の尊厳とは別の世界で、機械的に肉体を刺激にもてあそばせるようなものだった。これを喜ぶ男も世の中にはいるのだろうが、霖之助はおぞましさを感じて萎えた。それにしてもS子の首の柔らかいこと。霖之助の掴み慣れているボルダリングの岩の感触とは比べるべくもなかった。この首を掴んで締め上げ、破壊してしまうためには特別なトレーニングなど必要ない。誰にだってその場でできてしまうのだ。そう。誰にだって…。僕である必要がどこに?僕の手はこんなことをするためにあるのか?ボルダリングで岩をつかんでいた時の充実感、誇らしさといったものがまるでない…。思考が進むにつれて、興奮は冷めあがりつつあるのを感じた。冷めきってしまうまえに、慌ててフィニッシュまで持っていった。その瞬間、放出されたものと一緒に自分の魂が削れてかけらとなって、一緒に外に向かって放出されてしまったような錯覚に陥った。
このような生活がしばらく続いた。仕事から帰ってきて、S子と交わって、寝るという生活だ。僕がボルダリングで鍛えた筋肉はみるみるしぼんでしまった。無理もない。S子が来て以来、家と職場を往復しているだけの毎日で、それまで唯一の運動の機会だったボルダリングを辞めてしまったのだから。仕事中に紙をめくるのがやけにスムーズになった。岩のでっぱりを掴むために硬くなった指の皮膚が、次第にもとの柔らかい皮膚に戻ったからだ。
「これが所帯じみるということなのかな。」
霖之助は32歳だ。同年代の友人にはすでに妻子を持ったものも少なくない。彼らの顔が霖之助の頭に浮かぶ。お互い同じ独身だったころには、彼らいずれもが引き締まった体と、ちょっと子供じみたいたずらっぽい表情を持っていた。だが彼らがそれぞれの彼女と付き合い、結婚し、子供が生まれるにつれて、彼らの腹はぽっこりと出て、手足の筋肉には張りがなく女性的になり、目からぎらぎらしたものが消えた。そんなことを考えながら歩いていると、霊夢に出会った。霖之助はなぜだか矢も盾もたまらなくなって、あいさつもそこそこに霊夢に話しかけた。
「なぁ霊夢。仮にの話だが、情熱を持って己を磨いたり、大切にためたお金をしっかり有効に使うために吟味して過ごしていた、孤独ながらもそれなりに充実していた男が、身を固めるにあたって己の研鑽に傾けていた情熱は大切な人に注ぎ、稼いだお金は選択の余地のない固定費として吸い上げられてしまうとしてだね?それでも霊夢は、幸せなことだと思うだろうか?」
霊夢はしばらく黙って考えたのち、こう答えた。
「生活態度における他利と、扶養に伴う可処分所得割合いの低下を強いられてなお、悔いなく生きるには、日々の時間に見返りを求めないほどの充実の時間が必要なのではないかしら。こういうと、低賃金でも文句を言わずに働けと社員に言うブラック経営者のようではあるけれど、本当に金銭や福利だけが生活の軸たりえるのかというと、それは金銭と福利のもたらす効能を過大評価していると私は思うの。要するに、金さえあれば自分の満足するものが必ず手に入り、心地よい環境に身を置けば必ず心身の健康に寄与するという、確実性を信奉している。嘘をつく代わりにお給金を貰っている人は、お給金を貰えなくなったら、何のために自分は嘘をついていたのか、時間を返してくれと怒るはずだわ。でも本当のことしか言わず、本当のことしか行わなかった人は、損害を残念がりこそすれ、時間を返せとは言わないと思うのよね。」
薄暗がりの、両側を塀に囲まれた細い道を、霊夢とともに静かに歩きながら、霖之助は霊夢のこの言葉を咀嚼した。
(…確かにそうだ。所帯を持った僕の友人たちは、僕から見たら独身時代と比べてずいぶんと惨めな生活を送っているように見えるが、彼らの顔には後悔はあまり見られないんだ。ある男は、趣味のカメラに使っていたお小遣いは、そっくりそのまま子供の学費に替わったと苦笑いしながら話してくれた。またある男は、最近妻のパートが繁忙期で、俺が家に早く帰って家事を全部やらされるんだぜ、とため息交じりに言っていた。でも二人とも悲壮感はなかった。何が違うんだ?彼らと僕と。彼らが霊夢の言う『本当』であり、僕は『嘘』であることは認めなければならない。嘘は僕の内的な原因だけで完結しているのだろうか?S子の側にも嘘が?)
霊夢は霖之助の思索の邪魔をしないように慮ったのか、しばらく無言でいたが、やがておもむろに口を開いた。
「ところで霖之助、あなた魔理沙のお見舞いはもう行ったのかしら?」
「お見舞い?僕が最後に魔理沙を見かけたのは、…そうだな、おおよそ一月ほど前に、魔理沙がアリスと一緒に月の異変を探りに、夜空を飛んでいく姿を見た時だ。その日以来、僕もプライベートでちょっとゴタゴタしててさ、魔理沙を気にかけるのをすっかり忘れていたね。でも、月の異変とやらは無事に収まったんだろう?お見舞いってどういうことさ?魔理沙の身に何か起きたのかい?」
霊夢からおおまかな経緯を聞き出すと、霖之助は翌日の仕事を半日で早退し、魔理沙の入院している病院へと見舞うことに決めた。S子に引き続いて、今度は魔理沙。霖之助の頭の中に懸念がまたひとつ増えてしまった。何も手を付けないと深く考え込んでしまって夜も眠れなくなると思い、霖之助は寝る前に少しスマホをいじることにした。ブックマークしておいた“〇〇市アパート住人男性刺殺事件の被害者を知ってる者だけど”のスレッドを開いてみた。新着レスが4つついていた。
18:名無し ID:2wH955B 2022:03:10:04:02:50:76
彼女持ちのリア充が〇されると、漏れみたいな年齢=彼女なし童貞にとっては真顔でファイティングポーズ取りたくなるな
18:名無し ID:O1Tsxs6 2022:03:15:22:45:03:31
刃物で切りつけられたにしても、男のほう弱すぎん?ワイならナイフ持った女程度ならさばききって制圧する自信あるわ
19:名無し ID:376jFFq 2022:03:16:19:59:18:44
>>18
対ナイフに自信ニキ登場wwwイキりすぎやろ。新日本プロレスの棚橋弘至だって昔付き合ってた女に刺されて死にかけたことあるんやぞ
20:1 ID:Aa8PI1c 2022:03:18:13:09:26:26
スレ立てした1だけど、警察で犯人と思われる女の似顔絵作りを手伝ってきた。すぐに街中に貼り出されると思う
魔理沙は目を開けると、今日も真っ白い天井に徐々にピントが合っていき、無数に空いた小さな穴を天井に認めると、朝の意識がはっきりとしてきた。入院してから1か月がたつ。眠る前に睡眠薬を頓服されてから病室の明かりは消されるので、寝入る時刻と起きる時刻は、この1か月決まったものだ。魔理沙はそう意識するにつれ、1か月以前の不規則な生活に懐かしさを覚えた。机に置いたランタンのオレンジの光を頼りに書き物や調べ物をして、コーヒーでもすすりつつ夜を過ごすと、昼の間は逆に眠りについていた明晰な頭脳が解き放たれたように覚醒し、机の横に無造作に投げてある小説を手に取り、明け方まで一気に読んでしまい、鶏がコケコッコーと鳴く声の意味を全く無碍にするかのごとく、夕方まで熟睡してしまう。そんな生活もとんと昔に思えた。
脚に力を入れてみる。動かない。病院に担ぎ込まれたときとちっとも変わり映えがしない。脚を動かそうという意志は魔理沙の頭から背骨を伝って下がってくのだが、へそのすぐ下あたりでぷつりと途切れてしまう。まるで流量の心許ない水路が、田畑のすみずみまで湿り気を行きわたらすことなく乾いたままの土のように、魔理沙の両足は放擲されたようであった。
コンコン!「魔理沙さん入って良いですか!」ガチャ!
チルノが入ってきた。どうやらこの妖精は、ノックと入室如何の確認のあとに部屋に居る者の返事を待つ習慣はないらしい。「朝からさわがしいなァ。ま、お見舞いに来てくれてサンキューな。」湿っぽいのは好きじゃないので、くだけた雰囲気を誘うためにも、魔理沙は両掌をかさねて自らの後頭部と枕の間に挟みながら、妖精の足労をねぎらった。
「ダーウィンの進化論を人類の生活様式にあてはめて、近代化された文明における時代が下っていくほどに、Latestなほどに価値ある生活であるという古典的文化進化主義に対して、マリノフスキーはいかに旧態依然とした生活様式でも、並列的に高い価値を有し、それぞれの文脈において高度な生活様式を確立しているとする文化相対主義を唱えたわ。」
「フーン、また新しい知識を仕入れて興奮してるわけか。だから誰かに話したくてたまらないんだな。今のお前なら相手が私じゃなくてアリスでもモハメドアリでも蟻でも同じ内容を話すだろうぜ。でもお前のその迂闊さ、向こう見ずさ、相手の都合なんか脇に置いておく軽さは、時によっちゃ重宝がられるかもな。例えば、相手がいたたまれない状況に陥っていて、腫れ物に触るような重苦しい空気を味わわなければいけないから会うのに足が遠のいているような相手にも、お前は文化相対主義の話をしに駆けつけるだろう。それが相手にとってその日唯一の会話だったとしたら、お前の迂闊さの勝ちだ。」
チルノが一通りご高説を披露して気が済んだ後に魔理沙の病室を去ると、またしんと静まり返り、病室特有のアルコール消毒の匂いがかすかに残っているような空気を吸っている感覚が、魔理沙を会話という幻想から現実世界へと引き戻した。そして自然と、自分が今置かれている境遇に至った出来事について、悔悟の念とともに振り返るというどうしても逃れようのない仕事を、彼女の脳は始めた。あれは魔法の森をアリスと一緒に飛び立って間もなくのことだった。月の光は煌々と輝きながら、ときおり気まぐれに雲へと隠れて暗くなる。そんな夜空を飛んでいると、小妖怪、毛玉、何者かに口寄せられたと思しき昆虫などが、魔理沙とアリスに攻撃を仕掛けてきた。この程度の低級な敵を処理することなど二人にとっては手慣れたものである。魔理沙が星屑を撒くと小妖怪どもは弾け飛び、アリスの繰り出す人形たちはテキパキと部屋の埃取りのコロコロローラーやキンチョールを取り出した。毛玉も昆虫もこれではひとたまりもない。
「霊夢たちが嗅ぎつけるより早く、この月の異変の原因を突き止めて、連中の鼻をあかしてやるんだ。そしたらしばらく私とアリスには頭が上がらないぜ。」
あまりに順調に進む道中に、魔理沙はすっかり集中力を欠いてこんなことを夢想し始めた。ん?後ろでアリスが何か叫んだような気が。何々?「魔理沙、避けろー!」?サイヤ人のM字ハゲ王子の真似かな?
ゴッ!
左上から強烈な衝撃を頭部に受けたのを最後に、魔理沙の記憶は途絶えていた。なので、ここからはアリスが顛末を語ってくれたのをそのまま鵜呑みに受け入れて納得するほかなかった。アリスが言うには、魔理沙はどんどんスピードを上げていったが、左上に急に現れたリグル・ナイトバグの乾坤一擲の蹴りの一撃、いわゆる「リグルキック」によって、完全に意識を刈り取られ、墜落して地面にたたきつけられたというのだ。気が付いたら病院のベッドの上だった。今日の朝と同じように、見慣れぬ白い天井を見ながら目覚め、自分の脚がもはや自分の支配の下にあるものではないという事実を突きつけられたのだ。初めて病室で目覚めた日には、顔面もひどく損傷しており、左目は赤紫色に大きくはれ上がって、お岩さんのようになっていた。枕元でアリスは泣いていた。月の異変を解決して、八意永琳・蓬莱山輝夜一派との戦闘を終えたばかりの霊夢と紫、紅魔館と白玉楼の連中も来ていた。豪華な顔ぶれが8畳ほどの広さの病室に一堂に会していたが、厳しい現実を目の前にして沈痛な空気を如何ともしがたいのは大物であっても一般人であっても同じであるようだった。「魔理沙が快癒するために、私たちが出来ることは何でもする。これまでも魔理沙の勇敢な戦いぶりに幻想郷はずいぶん助けられてきた。私たちは仲間だ。今はゆっくりと体を休めてほしい。」こういった意味の言葉を、各人が思い思いの言葉で魔理沙に告げ、病室から一人、また一人と去っていった。
魔理沙を再び回想から現実に引き戻したのは、病室に向かって近づいてくる足音だった。
「魔理沙、霖之助だよ。入ってもいいかい?」
「ああ。」
魔理沙は言った。
「そろそろ、おむつを換える時間だな。私は事故以来下半身の感覚がないから、みっともない話ではあるが垂れ流しなんだよ。看護師を呼んで、せっかくのお見舞いに水を差すのも気が引けるから、霖之助、お前がおむつを換えてくれよ。」
そして魔理沙は、かたわらにあった雑誌を手に取って広げ、自分の顔の前に立てて読み始めた。ちょうどその雑誌が衝立となって、魔理沙と霖之助の視線は交錯をやめた。霖之助は生唾を飲み込んだ。
(そんな…魔理沙、僕がおむつを換えたらその…全部見ちゃうんだぞ?それでいいのか…)
しかし、魔理沙のものを見たいという欲求も同時に湧き上がってきたし、それに魔理沙の側から頼んできたのだ、何も僕が良心の呵責を感じる必要などないじゃないか。霖之助は魔理沙のおむつに手をかけ、降ろした。うっすら生えた草原が現れたところで、魔理沙の尻がこれ以上おむつを下げるのを邪魔したので、霖之助は魔理沙の尻を持ち上げて、またおむつを降ろした。草原の下にとうとう出現した魔理沙のそれは、実に控えめな印象を与えるものだった。小さく、おとなしく、閉じている。霖之助は顔を近づけて、自分の鼻先が触れそうになるくらいに接近してまじまじと見た。草原が生えていない部分にも、細かな毛穴がぶつぶつと無数にあるのがわかった。魔理沙はなおも無言で雑誌とにらめっこしている。すぐにおむつを換えておしまいにせずに、こんな観察をしているのは魔理沙にだって気づいているはずだった。「何やってんだ、早くおむつを換えろよ、この変態!」くらいは言っても良さそうなものである。霖之助はそれならと、目の前にあるそれを開いたり、開くことで上部に隠れていた突起が露わになったので指でコリコリといじったりした。まだ無反応だ。まるで、「雑誌で衝立にしているから見えないし、事故で下半身に神経が通わなくなっちゃったから、どんなにいじられても何も感じませーん。」とでも言わんばかりだ。しびれをすっかり切らした霖之助は、ベッドの右を通って、魔理沙の枕元に立った。これでもう雑誌に隠れて見えないなどという言い訳は通用しない。勢いよくズボンを下げた。珍棒がボロンと出た。珍棒がボロン。珍棒がボロン。あ珍棒がぁ~♪ボロンボロンボロン♪そうまでしても魔理沙は無反応だったので、
「よし魔理沙、それは僕への挑戦と受け取った!」
と告げ、僕は靴を脱いでベッドの上に上がった。10秒ほどすると、白いパイプで組まれたベッドがギシギシとリズミカルに音を立て始めた。僕はその音と、今やっている行為に夢中になっていたのとで、誰かが病院の廊下をコツコツとわずかな足音を立てながら魔理沙の病室へ向かってくるのにまるで気が付かなかった。ドアノブが回され、ドアはカチャリと開いた。アリスは室内の光景を見て、汚いものを上から見下ろすときのあのあごをしゃくりあげて薄目を開けた表情をし、口は閉じたまま横に真一文字に引っ張られた。アリスは上海人形の目元を掌で覆い隠すとこう言った。
「最低。」
その一言を受けて、脳天に稲妻が走ったような興奮を催した。興奮は僕の背骨を通って鼠径部に達し、間欠泉が吹き出た。シュシュッと、イった。その最後のきっかけを作ったの相手はアリスだというのに、吹き出した間欠泉を今その体で受け止めているのは魔理沙だという歪な図式は、きっとこの先の人生で2度と味わうこともないのかもしれないな、と思いつつ、間欠泉はいつまでもいつまでも吹き出続けるのであった。よくこんなに出るな。
僕はアリスに病室から追い出されると、そそくさと病院のエントランスへと歩いた。寒い日だった。病院は免疫力の落ちている患者の体調を考慮してか、部屋部屋のみならず通路に至るまで暖房が行き届いている。その温度の高さのせいか、喉が渇いたので水が飲みたい。煙草も吸いたい。いや、喉が渇いて煙草が吸いたいのは別の原因だろうな。受付の窓口や、待合スペースにテレビに向かって何列も居並ぶソファを横目に、さぁ外に出ようと思ったその瞬間、エントランスの白い壁に掲げられた掲示板が目に飛び込んできた。掲示板の下には背の低い観葉植物の鉢が二つと、傘立てが置かれていた。といっても、普通だったら掲示板に大した情報などかかれていないだろうから、大多数の病院訪問者と同じように、熟読などせずにそのまま帰ってしまえばよかっただろう。だがそのときはなぜか、直感的に読まなければならないと思ったのである。
この女性を探しています。お心当たりのある方は、警察までご一報ください。
身長:150㎝弱
年齢:20~30台前半
やせ型、体に切り傷を負っている可能性あり
今年3月上旬から行方が分かっていません。○○市で起きたアパート男性住民刺殺事件に何らかの関与をしていると見られています。
黒地に赤や黄色で書かれたこれらの文字の下に、画用紙に鉛筆で描かれたものを印刷したと思われる、女性の似顔絵が載せられていた。
「よー‥‥く、描けてるわぁ‥‥‥‥」
霖之助がここ1か月にわたって、毎日顔を突き合わせている女の顔が、見事に写し取られていたのである。
「あぁ‥‥そういうことだったのかぁ・・・・・」
霖之助は全てを理解した。
「今から1か月前のあの日、S子が公園でうずくまっていたのは、同棲する男を刺し殺し、現場から逃走すると同時に、次の寄生先兼ターゲットを探していたんだ。S子がそのときに着ていたトレーナー、あの妙にブカブカで男物っぽいトレーナーは、S子が返り血を浴びたので、急いで自分の着ていた服を脱いで、手近な箪笥の中にでもあった彼のトレーナーを着て出てきたんだ。翌日に僕がボルダリングをしてから帰宅したとき、S子はリストカットをしていたが、あれは被害男性を刺し殺すときにもみあいになり、自分の腕に付いた切り傷をカモフラージュするためのものだったんだ…」
僕は茫然とし、足元が病院のタイル製の床ではなく、なにか梱包材のような柔らかいものを踏んでいる錯覚にとらわれた。なんとか外に出ると、自販機で水を買ってベンチに座り、500mlを一気に飲み干して、煙草に火をつけた。外とはいえ病院の敷地内は禁煙なので、急いで吸って、フィルターまでまだ半分以上残っていたが消した。そしてスマホを取り出し、110番通報した。
S子はカーキ色のロングコートを羽織らされて、サンダルを履かされて手錠をはめられていた。警官が2名、S子の両脇を抱えるようにして同伴している。僕の視線に気が付いたのか、S子が不気味にぎらぎらと輝く目で、こちらをにらんできた。
「オ…お前が通報したのかァァッ!!」
S子は聞いたこともないようなドスの効いた大声で、僕に向かって叫んだ。その声は、初めて僕の部屋にS子を招き入れたときに聞いた、あの媚びを売るような、瀬戸物を卓に置いたときの音を思わせる弱弱しい声とは似ても似つかなかった。(だが、今にして思うと、ドスの効いた怒鳴り声と、媚びを売るような弱弱しい声は、同質の根を持つものかもしれない。なぜならどちらも人の心を操ろうとする声だからだ。)アパート正面の門に横付けされた見慣れないパトカーと、たった今発せられたS子の叫び声によって、何事かと思ったアパートの住民や近隣の住宅に住む人たちが、ゾロゾロと表に出てきてこちらを見ている。通行人たちも足を止めて見ていた。S子はなおも叫んでいる。
「恩を仇で返しやがってぇ!!お前みたいなチー牛は私がいなかったら童貞のままだったくせに!!」
僕は唖然とした。人の部屋に転がり込んできて、べったりと依存して僕の時間を奪っておきながら、S子の頭の中では僕に施しを与えていたつもりだったのである。何という図々しさであろうか。そう思った瞬間、なんだか僕はいままでS子に気を使って過ごしていたのが急に馬鹿らしくなってしまった。もう、S子が激昂しようが発狂しようが関係ないじゃないか。それにこの状況は好都合だ。S子が僕に向かって突進しようとしたとしても、隣にいる警官が取り押さえてくれる。そう思うと霖之助は、ここ1か月の間に全く感じることのなかった頼もしさと安心感によって、S子を悪罵する言葉がぽんぽんと口からついて出た。
「童貞だと思い込んでたのはお前だけだバーカ。今日だって魔理沙と一発ヤって来たんだよ!出ていけっ!この人殺しメンヘラ!会う人会う人を不幸にする女!B級ホラー映画の女ゾンビ!」
そのうちS子は「ウギャオオオン!!」と唸り声をあげながら暴れだしたが、やはり霖之助の見立て通り、警官二人の腕力には敵いやしない。幻想郷で最強は誰か?何物にもとらわれず重力からすらも自由な巫女、霊夢か?それとも大自然の力をつかさどり、その呵責のない暴力性すらも自然そのものの幽香か?それとも純狐?ヘカーティア?いやいや、違うね。幻想郷最強は今ここに居る警官たちだよ。堰を切ったように罵倒を続ける僕に、とうとう幻想郷最強の存在からもお叱りの声が飛んできた。
「もう挑発するのはよせ!暴れられるとこっちも仕事がめんどくさいんだよ!」
S子は僕に向かって走り出そうとしていた。当然、警官が止めに入る。だが折悪く路面が凍結していたため、S子と手錠でつながれた警官はもつれて倒れた。アパートの前の敷地は道路までスロープになっているため、手錠でつながれた二人はそのままツルツルーッと滑り落ちていった。S子の尻が擦っていったスロープの路面には、こげ茶色のラインがべっとりと引かれていた。まるで小学校の運動会でグラウンドに白線を引く手押し車が通った後のように。糞を漏らす女と一緒に滑り落ちる警官は、必死でその異臭を放つこげ茶色のラインが自分に付着しないように、脚でS子の体をこづいてなんとか距離を保とうとしていた。このソーシャルディスタンスを保とうとする執念が全ての人にあれば、Covid19も早期に収束していたであろう。やがてS子は門の横に生えているイチョウの木にぶつかって止まり、土下座をするような体勢で気絶した。彼女が着ていたロングコートはまくれあがって尻があらわになっており、肛門からはまだ便がヌリヌリと湧き出ていた。周りで見ていた野次馬たちからどよめきがおこる。野次馬の女子中学生だか高校生だかは、口元を抑えてキャーと言った。脂ぎった天然パーマの若い男は、ものすごく素早い動きでスマホカメラを構え、尻を天空に向かって突き上げたまま気絶しているS子の姿をスマホに保存していた。手錠でS子を拘束していないほうの警官が僕に向かって、
「お話を伺う必要が出ましたら、追って連絡しますので、ひとまずお休みください。この度は勇気ある通報に感謝します。」
と述べ、3人はパトカーに乗り込んであっという間に去っていった。入れ替わるようにして、よく見かける野良猫がやってきて、スロープにこびりついたこげ茶色のラインに鼻を近づけた。猫は
「フギャッ!!」
という唸り声を一声あげて、アパートの裏に向かって走り去っていってしまった。
野次馬はひとり、また一人と去り、それぞれの日常へと帰っていった。僕はアパートの鉄階段をのぼり、部屋に戻った。脱ぎ捨てられたS子の衣服が散らばっていた。どうせ、警官の姿を見て動転し、全裸になれば表に連れていくわけにはいかなくなるだろうと目論んで脱いだのだろう。その床の両脇を囲む白い壁には、油性ペンで呪文のようなものが書き連ねられていた。そうだ。このように帰ってきてドアを開けるたびに、精神に異常をきたした人間の思念がプリントアウトされたかのごとき不気味な光景を見せられることで、僕の心は徐々にダメージを負っていたのだ。だがもうS子が警察に連行された以上、その光景が更新されることはないだろう。僕は床に散らばった衣服をゴミ袋に入れ、壁に書かれた呪文は灯油を含ませた雑巾で消した。どうせ捨てるのだからS子の衣服に灯油を含ませて拭けばいいって?冗談じゃない。それではS子との関係が壁に染み込むようで身震いがした。始末が済んだので、奥へ歩み入った。久しぶりだ。この自分の立てるわずかな物音のほかには無音な感覚。PCを立ち上げて、youtubeを開いた。おすすめに出てきたハリウッドザコシショウのチャンネルをクリックした。動画が始まると、ザコシが二人並んでいる。一人はおなじみのテンガロンハットをかぶったザコシだが、もう一人はハゲ頭に丸渕のサングラスと付け髭を付けたザコシだった。これは外国人DJに扮しているつもりなのか、謎の言葉を話し出す。
「ハラマカセカ?デマカセカ?クソクッセクチクッセチンボクッセ!」
「何言ってるのかわかんねえんだよっ!」すかさず素顔のほうのザコシがツッコミを入れる。
フフフッ!と、僕は自然と口角が上がり、無邪気な笑みが漏れていたようだ。
「ハラマカセカ?クソクッセクチクッセチンボクッセションベンクッセ!」
「アッハッハ!」僕は爆笑した。「そうだよなぁ、ションベンくっせぇよなぁあの女!居なくなってせいせいしたぜ!うそっ、ションベン女、臭すぎ!?」
愉快な気分になってきた。S子が毎日使っていたせいで小便臭くなってしまったシーツも丸めてゴミ袋に入れた。窓をガラガラと開けて、換気をした。冬の冷たく澄んだ空気が流れ込み、汚らわしい尿の臭いを洗い流していった。洗い流して清めることを、古い日本語では「そそぐ」というが、これには雪ぐという漢字が充てられる。窓の外には雪がちらつき、ほんのわずかな量の雪はイチョウの木の枝に乗り、あとのほとんどは地面に落ちていった。
ここに、ロードバイクに乗って街を駆ける一人の少女がいた。ふわふわとしたウェーブのかかった薄水色の髪をなびかせ、うっとりとした微笑を浮かべている。その服装は上半身に黄色い服を着ているけれども、下半身には何一つ履いていなかった。少女の名はもちろん言うまでもなく古明地こいしだ。こいしは車道のど真ん中を、時速20kmほどののんびりとしたペースでポタリング(散歩程度の強度で行うサイクリング)していた。彼女の後ろには、ドカタの乗った2tトラックやら、主婦の乗った軽自動車やら、大小もろもろの車が連なって、大渋滞を巻き起こしていた。プゥ~!ブワー!ビビィ~!と、何台もの車から、けたたましいクラクションが輪唱のようにあたりに鳴り響いており、歩道を歩く歩行者は車道のほうをチラチラ見たり、眉をひそめて口に手を当てたり、見てみぬふりをして速足で先を急いだりしていたが、古明地こいしは相変わらずうっとりした顔でロードバイクを漕ぎ続け、後続車に己のサブタレイニアン・デイジーをみせつけていた。だがしばらくして、そのクラクションの音も急にパタリと止んだ。対向車線にパトカーが来たからである。警報器の不正な使用によって取り締まられかねないので、おとなしくなったのだ。やはり、幻想郷最強の存在は警察なのである。
「お巡りさん、いつもご苦労様ぁ~(#^.^#)」
こいしはニコニコ笑顔でパトカーに向かって手を振る。車内には警官が二人と、後部座席にロングコートのフードに顔をすっぽりと覆われた人物が一人乗っているようだった。パトカーはそのまま警察署のほうへ走り去っていった。こいしの後続に連なる大渋滞に巻き込まれた車も、結局こいしを追い抜くことはできず、交差点のたびに一台、また一台と右左折していった。それにしても、警察はもう一人取り締まるべき対象が居るような気がする読者の方も多いことだろう。下半身に何も衣服を身に着けずに街中を徘徊するこいしである。だが、こいしの3rd eyeは閉じており、その行動は無意識化に行われている。つまり罪の意識がなく、責任を問うことができない。同じことが80~90年代に読売ジャイアンツでプレーした川相昌弘にも言える。彼は送りバントの成功数で世界記録を持っている名手なのだが、近年野球におけるデータ解析が発達した結果、送りバントはチームの勝率を下げる戦術であることがわかったのである。当時の野球ファンは、川相のバントの職人技に酔いしれ、ジャイアンツの縁の下の力持ちとして勝利の下支えをしていると信じて疑わなかった。川相本人にもちろん罪の意識は無かったろうし、ファンも誰も川相を責めるという発想すら持たなかっただろう。だがデータが示す事実として、彼は縁の下の力持ちというよりは白アリだったのである。こいしはペダルを漕ぎ続け、道はいつしか上り坂となり、やがて高台に出た。自転車から降り、高台から眼下に広がる街を見下ろした。家々が所狭しと密集している。その家の一つ一つに、この家にはどのような素性の人が住んでおり、どのような生活を営んでいるのかと書いてあるわけではない。どの家も、「私は何の変哲もない小市民の為の住処ですよ」という顔をして立ち並んでいる。それを見てこいしは、こう思うのだ。
「この中の何軒の人が、借金に苦しんで睡眠薬なしでは毎晩眠られないほどに懊悩しているのかしら。この中の何軒の人が、支配的な家族の一挙手一投足に慄いて、家庭内暴力に戦々恐々として暮らしているのかしら。この中の何軒の人が、気に入らないお隣さんとの縄張り争いをして、やれ隣の庭の植木からうちの敷地に枯れ葉が飛んできて迷惑だとか、その植木の持ち主の家の住人のほうは隣の家の子供が毎日練習している下手糞なピアノの音を聴かされるのが耳障りでしょうがないとか思いながら暮らして、お互いが顔を合わせるとひきつった笑顔で挨拶こそするけれど、腹の中では野良猫同士がオォーウオォーウと吠え合っているのと全く同じ気持ちでいるのかしら。」
そんな一軒一軒にまつわるストーリーを想像すると、彼女の心は天にも昇るほど晴れやかな清々しさに満ち溢れるのであった。
ありがとうございます。
作品を鑑賞して心を揺さぶられることで、鑑賞者が自身の何気ない日常が平穏で幸せだったと気づく。
そしてその日常に愛着がわくという効果は、小説が持つ独特の魅力のひとつだと思います。^ー^