「おい知ってるか?夜な夜なここら辺に現れるっていう妖怪を」
「ああ、知ってるよ。あれだろ?長屋の玄関口から中を覗き込んでくる女。しかも穴を掘るらしい」
「あれおかしいな。俺が聞いたのは、寸の字みたいな姿の妖怪だぞ。首から提灯をぶら下げているらしいんだが」
「なんだ二つもいるのか、ここも物騒になったな」
最近、人里にはそんな噂が広まっていた。夜な夜な人里にやってきては、長屋を覗き込んだりどこかに穴を掘りだすという正体不明の妖怪。何らかの実害を及ぼす訳でもなく、ただ引き戸越しに影が見えたり、あたりに音を響かせるだけの怪異。人里で暮らす人間は、商人も農家も庄屋も稗田もみーんな怯えていた。
そんなある真夜中のことだ。
「うーん、ここは違うみたいね」
人里の住宅街、長屋がところ狭しと立ち並ぶ裏路地を、ひとりの女が歩いていた。夜更けにもかかわらず、その女は明かりを持たずに歩いている。そのせいだろうか、歩き方は常に右に左にとフラフラしていて、あてどなく漂うその姿はクラゲのようだ。
よく見ると、その後を追うように何かが飛び跳ねている。
「ほら芳香ちゃん。こっちにおいで」
林立する長屋のひとつ、その前で足を止めた女が不意に暗闇の中へと声をかけた。すると、棍棒を地面に打ち付けるような音と共に、女の近くに燃え盛る炎の明るい光が近づいてきた。声と音の主が、夜闇の中に白く浮かび上がる。
「せーが、ここはどうだった?」
「うーん、ここも違うようね。次はあっちに行きましょ」
そこには、薄い水色で統一された、どこか天女を彷彿とさせる服を身にまとう女性がいた。その傍らには、首から提灯をぶら下げて、女真の民族衣装に身を包んだ少女が。その体は、なぜか『前に倣え』のポーズで動かない。
せーがと呼ばれた女は、提灯を首からぶら下げる少女と共に、長屋の通りを自由自在に歩き回る。玄関口から家の中を覗きこんでは、また次の家屋を覗き込む。関節が存在しないのだろうか、彼女を追従する少女はピョンピョン飛び跳ねて移動している。両手を前に突き出して動き回る姿は、横から見ればなるほど寸の字に見える。
せーがと呼ばれる青い天女と、芳香と呼ばれる少女。この二人こそ、近ごろ巷を騒がす二つの妖怪に違いない。
それにしても、彼女らの目的は一体なんだろうか。一見無害そうに見える二人組であるが、しかし彼女らも妖怪である。なんらかの行動原理に則り、定められた目標を持って歩き回っているに違いない。他の妖怪とは違い、どうも人間に対して害意を抱かない部類の妖怪であることは、こうして動きを見ているだけでも充分伝わってくるが。
その時、玄関口から中を覗いていた青い天女モドキが声を上げた。
「あ!芳香ちゃんこっちきて!見つけたよ!」
今まで肩を落としてばかりだった彼女は、一体なにを見つけたのだろうか。
長屋の中には若い男女が二人、仲睦まじげに横になっている。どうやらこの部屋の主は、つい先月契りを結んだばかりの新婚夫婦らしい。しかしこの夫婦は、他の新婚夫婦に比べてどうも雰囲気が落ち込んでいた。男の腕を枕に眠る女の顔には苦悩の跡が見られ、順風満帆な新婚生活を想像することは難しい。
いや、夫婦の傍らに何かがある。芳香と提灯のおかげで振り払われた、部屋に溜まる深い闇。全てを見えなくする夜の帳。
それは、夜風に揺れる揺りかごを覆い隠していた。
「あらあら、あらあら。寂しかったでしょう、哀しかったでしょう」
誰もが眠る丑三つ時。訳ありそうな夫婦の寝床。誰に聞かせるまでもなく、天女のごとく微笑む慈母。
「なんで自分が、どうして自分が。悔しかったでしょう、恨めしかったでしょう」
全てを包み込む、母性。燦然と輝く炎を背に、天から舞い降りたるが如き装いが、迷える子羊に語り掛ける。
「でも、安心して。私が助けてあげるから。あなたを救い出してあげますから」
言うや否や、艶やかな青髪をまとめ上げていた簪を引き抜き地面へと突き立てる。
刹那、陥没する路面。遅れて、夜空に広がる絹雲。
まじないか仙力か、それとも妖力の成せる技か。人知を超えた力によって、玄関口に突如生み出された、深さ70センチほどの穴。その縁に立ち、簪で宙に円を描く。空に境を生み出す簪の軌跡。するとそこから、50センチほどの甕が出現した。落下する甕をしっかりと両手で受け止めた女は、穴の中に下り、甕を逆さに安置する。
「待っててね、もう少しだから」
仕上げとばかりに、天地が逆転した甕の底、つまり空を仰ぐ底部に簪を突き立て、小さな穴を開ける。そして地上に上がると、また簪で弧を描き、土を出現させる。甕の時とは違い、土が受け止められることは無く、ドサドサと音を立てながら甕と穴を埋めて行く。
「これであなたは大丈夫。十月十日も待ち続ければあなたの願いは叶います」
長屋と長屋の隙間を通る生活路。突如そこに空いた穴は既に埋め立てられ、その痕跡は跡形もない。
「それじゃあまたね。次はどんなカタチで出会えるかしら」
その言葉を皮切りに、女と少女は歩き出す。自らが生み出した、禍々しい澱みに振り替えることもなく。
「あの子、喜んでくれるかしら。ねえ芳香?」
近頃、夜な夜な人里に現れるという二つの妖怪。霍青娥と宮古芳香は、その後しばらく人里に姿を現さなかったという。
「ああ、知ってるよ。あれだろ?長屋の玄関口から中を覗き込んでくる女。しかも穴を掘るらしい」
「あれおかしいな。俺が聞いたのは、寸の字みたいな姿の妖怪だぞ。首から提灯をぶら下げているらしいんだが」
「なんだ二つもいるのか、ここも物騒になったな」
最近、人里にはそんな噂が広まっていた。夜な夜な人里にやってきては、長屋を覗き込んだりどこかに穴を掘りだすという正体不明の妖怪。何らかの実害を及ぼす訳でもなく、ただ引き戸越しに影が見えたり、あたりに音を響かせるだけの怪異。人里で暮らす人間は、商人も農家も庄屋も稗田もみーんな怯えていた。
そんなある真夜中のことだ。
「うーん、ここは違うみたいね」
人里の住宅街、長屋がところ狭しと立ち並ぶ裏路地を、ひとりの女が歩いていた。夜更けにもかかわらず、その女は明かりを持たずに歩いている。そのせいだろうか、歩き方は常に右に左にとフラフラしていて、あてどなく漂うその姿はクラゲのようだ。
よく見ると、その後を追うように何かが飛び跳ねている。
「ほら芳香ちゃん。こっちにおいで」
林立する長屋のひとつ、その前で足を止めた女が不意に暗闇の中へと声をかけた。すると、棍棒を地面に打ち付けるような音と共に、女の近くに燃え盛る炎の明るい光が近づいてきた。声と音の主が、夜闇の中に白く浮かび上がる。
「せーが、ここはどうだった?」
「うーん、ここも違うようね。次はあっちに行きましょ」
そこには、薄い水色で統一された、どこか天女を彷彿とさせる服を身にまとう女性がいた。その傍らには、首から提灯をぶら下げて、女真の民族衣装に身を包んだ少女が。その体は、なぜか『前に倣え』のポーズで動かない。
せーがと呼ばれた女は、提灯を首からぶら下げる少女と共に、長屋の通りを自由自在に歩き回る。玄関口から家の中を覗きこんでは、また次の家屋を覗き込む。関節が存在しないのだろうか、彼女を追従する少女はピョンピョン飛び跳ねて移動している。両手を前に突き出して動き回る姿は、横から見ればなるほど寸の字に見える。
せーがと呼ばれる青い天女と、芳香と呼ばれる少女。この二人こそ、近ごろ巷を騒がす二つの妖怪に違いない。
それにしても、彼女らの目的は一体なんだろうか。一見無害そうに見える二人組であるが、しかし彼女らも妖怪である。なんらかの行動原理に則り、定められた目標を持って歩き回っているに違いない。他の妖怪とは違い、どうも人間に対して害意を抱かない部類の妖怪であることは、こうして動きを見ているだけでも充分伝わってくるが。
その時、玄関口から中を覗いていた青い天女モドキが声を上げた。
「あ!芳香ちゃんこっちきて!見つけたよ!」
今まで肩を落としてばかりだった彼女は、一体なにを見つけたのだろうか。
長屋の中には若い男女が二人、仲睦まじげに横になっている。どうやらこの部屋の主は、つい先月契りを結んだばかりの新婚夫婦らしい。しかしこの夫婦は、他の新婚夫婦に比べてどうも雰囲気が落ち込んでいた。男の腕を枕に眠る女の顔には苦悩の跡が見られ、順風満帆な新婚生活を想像することは難しい。
いや、夫婦の傍らに何かがある。芳香と提灯のおかげで振り払われた、部屋に溜まる深い闇。全てを見えなくする夜の帳。
それは、夜風に揺れる揺りかごを覆い隠していた。
「あらあら、あらあら。寂しかったでしょう、哀しかったでしょう」
誰もが眠る丑三つ時。訳ありそうな夫婦の寝床。誰に聞かせるまでもなく、天女のごとく微笑む慈母。
「なんで自分が、どうして自分が。悔しかったでしょう、恨めしかったでしょう」
全てを包み込む、母性。燦然と輝く炎を背に、天から舞い降りたるが如き装いが、迷える子羊に語り掛ける。
「でも、安心して。私が助けてあげるから。あなたを救い出してあげますから」
言うや否や、艶やかな青髪をまとめ上げていた簪を引き抜き地面へと突き立てる。
刹那、陥没する路面。遅れて、夜空に広がる絹雲。
まじないか仙力か、それとも妖力の成せる技か。人知を超えた力によって、玄関口に突如生み出された、深さ70センチほどの穴。その縁に立ち、簪で宙に円を描く。空に境を生み出す簪の軌跡。するとそこから、50センチほどの甕が出現した。落下する甕をしっかりと両手で受け止めた女は、穴の中に下り、甕を逆さに安置する。
「待っててね、もう少しだから」
仕上げとばかりに、天地が逆転した甕の底、つまり空を仰ぐ底部に簪を突き立て、小さな穴を開ける。そして地上に上がると、また簪で弧を描き、土を出現させる。甕の時とは違い、土が受け止められることは無く、ドサドサと音を立てながら甕と穴を埋めて行く。
「これであなたは大丈夫。十月十日も待ち続ければあなたの願いは叶います」
長屋と長屋の隙間を通る生活路。突如そこに空いた穴は既に埋め立てられ、その痕跡は跡形もない。
「それじゃあまたね。次はどんなカタチで出会えるかしら」
その言葉を皮切りに、女と少女は歩き出す。自らが生み出した、禍々しい澱みに振り替えることもなく。
「あの子、喜んでくれるかしら。ねえ芳香?」
近頃、夜な夜な人里に現れるという二つの妖怪。霍青娥と宮古芳香は、その後しばらく人里に姿を現さなかったという。
青娥に何がしたいのかわからない恐ろしさがありました