その日、琵琶の付喪神こと九十九弁々は人里をあてもなく散歩していた。
普段は演奏会で訪れることが多い場所だが、今日はその予定もない。
「さて、八橋にお土産でも買って帰ろうかしら」
ここ数日は演奏会に練習に打ち合わせと、私と八橋はてんてこ舞いだった。
私達の演奏を求めてくれる人が増えたのは嬉しいことだけど、妖怪にも休みは必要なのだ。
そんなことを思いながら、人里の大通りを歩く。
左手には里を中心から分断するように流れている幅十間ほどの小川が延々と続き、
右手には呉服屋から八百屋、万事屋など様々な店が軒を並べている。
もう少し先に進むと私が時々顔を出している和菓子屋が見えてくるはず。
そこでお菓子を買って帰ろう、そんなことを考えていたそのときだった。
「おどろけー!」
「……うん?」
紫色の変な傘を持った妖怪が突然右手の路地から飛び出してきた。
でも体が当たる距離じゃない。
私は彼女とは初対面だし、多分人違いだろうから気にせずその場を通り過ぎようとした。
「え!? 待って! おどろけ―!」
先程の妖怪は走って私の正面に回り込むと、さっきと同じようにその傘を見せつけてくる。
よく見ると傘の上の方には目玉がついており、ぎょろぎょろと私を凝視していた。
さらに目の下に開いた口からは赤い舌が覗いている。
傘の色は変だけど、飾り気のないその一つ眼は妖怪の割に不思議とどこか愛らしくも見える。
聞き間違いじゃなければ彼女はこの傘で私を驚かせたつもりのようだけど、
こんなやり方では子供一人驚かないのではないだろうか。
私がそんなことを考えていると、傘の中から水色の髪をした妖怪が姿を現した。
服装も水色を基調とした服装で下駄を履いている。
目が合うと彼女は馴れ馴れしく話しかけてきた。
「うう、また驚いてくれなかった……」
さっきの元気な声はどこへ行ったのか、すっかり意気消沈した様子だ。
本人の口ぶりはやはり今ので私を驚かせたつもりらしい。
「今の、私を驚かそうとしていたの?」
「そうだよ、最近は誰も驚いてくれないからひもじくって……」
「……どうして、私みたいな妖怪より子供やお年寄りを驚かそうとしないの?」
「子供を驚かせても、驚くどころかみんな笑うんだもん」
「……じゃあお年寄りは?」
小傘はとんでもないと言わんばかりに手を振って否定する。
「いきなり驚かせて、怪我をさせたりしたら大変だからそんなのだめだよ」
思わずずっこけそうになった。
これほど妖怪らしくない妖怪は初めて見たかもしれない。
黙っている私に構わず小傘は続けた。
「貴女、最近二人組で活動してる楽器の妖怪だよね」
相手はどうやら私のことを知っているらしい。
「そうよ、私は琵琶の付喪神、九十九弁々」
私は抱えた琵琶を弾き鳴らす真似をしながら答えた。
手首のリングから琵琶に繋がる鎖が音を立てる。
「貴女もわちきと同じ付喪神なのね!」
目の前の傘の妖怪は嬉しそうな声を上げると、傘を肩に引っ掛けて続けた。
「わちきは唐傘妖怪の多々良小傘。わちき達仲間だね!」
そう言うと彼女は左右の赤と青のオッドアイを輝かせながらはにかんだ笑顔を向けてくる。
初対面だというのにやたらと人懐っこいその立ち振る舞いはやはり妖怪らしくない。
でも、それ以上に一つ気になることがあった。
「貴女も、この前の異変で生まれたの?」
「この前の異変?」
小傘は首を傾げる。
どうやらピンとこないらしい。
「天邪鬼が打ち出の小槌の魔力を使って弱者、私達道具の下剋上を起こしたあの異変よ」
「あ、もしかして空に逆さのお城が現れたっていう」
「そう。で、貴女はどっちかしら?」
もし、彼女が私や八橋と同じように最近生まれたばかりの付喪神だとしたら、
急いで行わなければならないことがある。
異変が落ち着いてから既にある程度の時間が過ぎているから心配はないと思うけど、聞かずにはいられない。
「わちきは違うよ、ずっと前からこの姿だもん」
「そう、それはよかったわ」
その答えに私は安堵した。
小傘は私の質問の意図が分からないからか、説明を求めるようにこちらを上目遣いで見つめている。
隠す理由もないので、私は素直に答えることにした。
「もし貴女があの異変で生まれた付喪神なら、そのままではただの道具に戻ってしまうのよ」
「え、それってどういうこと?」
私の話にだいぶ驚いたのか、小傘は目を丸くした。
私は小槌の魔力によって自我を持った道具達が、その魔力なくしては付喪神の姿でいられないこと、
私や妹の八橋が呪法で新しい魔力を取り入れて体を維持していることについて説明した。
説明を聞き終えると、小傘は俯きながら呟いた。
「じゃあ、あの異変で付喪神になってそのままだった子達は……」
「……元の道具に戻ってしまったわ」
既にあの異変が解決してから一ヵ月ほど経過している。
私や八橋が体の不調を感じたのは異変から約二週間後のことで、姿が元に戻る付喪神が出てきたのもその頃だった。
昨日仲良く話をしたばかりの仲間が次の日には元の物言わぬ道具に戻っていた時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。
個人差があるとはいえ、既にかなりの時間が経っているから小傘があの異変で生まれた付喪神の線はほぼないとは思っていた。
それでも、万が一彼女がそうであったらと思うと聞かずにはいられなかった。
小傘の様子からして先日の異変はほとんど伝聞でしか知らなかったらしい。
でも、私の話がショックだったのか先程までの笑顔はなく神妙な顔つきになっていた。
「……ありがとう、弁々はわちきを心配してくれたんだね」
「あれからかなり時間が経っているから多分違うとは思ったけど念のため、ね」
小傘は顔を上げると笑顔を作りながら言った。
「弁々は優しいんだね」
「別にそんなんじゃないわよ」
勿論小傘の身を案ずる気持ちがなかったわけじゃない。
でも、こうも直球で言われてしまうとなんだか恥ずかしくて、つい否定してしまった。
私は話題を変えようと試みる。
「小傘は、いつもこの辺りで人を驚かせようとしてるの?」
「うん、それがわちきだからね!」
数分前には最近は誰も驚いてくれない、と言っていたけどそれには触れないでおく。
「じゃあ人間に下剋上したい、って思ったことはない?」
別に仲間を集めてもう一度異変を起こす目論見があるわけじゃない。
ただ、自分達とは違う境遇の付喪神の考えというものに興味が出てきたのだ。
小傘は私の質問が意外だったのかしばし逡巡した後、ゆっくりと答えた。
「うーん、わちきは恐怖心を食べる妖怪だから人を襲いたいわけじゃないし……」
「さっき最近は誰も驚いてくれない、って言ってたけどお腹は膨れてるの?」
「ひもじい……」
「正直なのは嫌いじゃないわ」
穏健派、というやつだろうか。
先程も人を驚かす妖怪のはずなのに、お年寄りを気遣ってそれを躊躇するなんて、
驚かしのセンス以前に性格が妖怪に向いていないのではないかとさえ思えてくる。
「でも、そんなことじゃいずれ本当に餓えて死んでしまうかもしれないんじゃない?」
「ううん、今のところは大丈夫……あ!」
小傘は急に何かを思い出したかのように声を上げる。
私がどうしたの、と問う間もなかった。
傘を持ち直すと私が歩いてきた方向に向かって走り出す。
「ごめん、大事な用があるの忘れてた! 絶対またお話させてね!」
一方的にそれだけ言って去ってしまった。
下駄にスカートという恰好で思い切り走るものだから道にはカツカツと地面を蹴る音が鳴り響き、
スカートはめくれ上がりそうになっている。
周りから好奇の目で見られていることも気づいていないようだ。
今日会ったばかりの赤の他人なのになんだか心配になってくる。
「……さてと、いい加減帰らないとあの子も心配するわね」
私は小傘が見えなくなると踵を返し、目的の和菓子屋に向かって歩を進める。
これが多々良小傘という風変わりな付喪神との最初の出会いだった。
あくる日、私は人里のとある鍛冶屋を探していた。
自宅で使っている斧、鎌の切れ味が悪くなってきたので直してもらおうと思ったのだ。
お願いするのは初めてだけど、仲間の付喪神曰く腕のいい職人のお爺ちゃんがやっているらしい。
教えてもらった場所まで来たけど、周囲にお店や作業場のような建物は見当たらない。
場所を間違えたかと思ったその時、目の前の木造の住居の玄関の引き戸、
その横に古びた看板が立てかけられていることに気付く。
字が一部消えていて読みにくかったけど、そこには達筆で「鍛冶、研磨承ります」と書かれていた。
私は玄関を軽く叩きながら呼びかける。
「すみませーん」
「はいはい、いらっしゃい」
老爺のものらしき声とともに足音が近づいてくると、引き戸が開けられる。
そこにいたのは頭に巻いた鉢巻と腰に下げた道具袋がいかにも職人らしい、白髪のお爺ちゃんだった。
私は袋に包んできた斧を見せながら言う。
「これなんですけど、ボロボロになっちゃって……」
木製の柄に鉄製の刃が埋め込まれた斧は刃こぼれと錆で大分痛んでいる。
もし直せないと言われたら、残念だけどこの子は供養してあげてから新しい物を調達しないといけない。
私がそんなことを考えていると職人のお爺ちゃんは斧をまじまじと見つめると、建物の中に向かって言った。
「おーい、小傘ちゃん」
私は耳を疑った。
しかし、奥の部屋から帰ってきた返事が聞き違いでないことを悟らせる。
一度会っただけなのに不思議と耳に残っている、明るくよく響く声。
「はーい!」
どたどたと廊下を走る音とともに声の主、小傘が現れる。
しかしその服装は先日会った時とはまるで違い、上下のグレー作業着の上から前掛けを着けていた。
所々に見える黒ずみは年季を感じさせる。
私と目が合ったところで小傘が言った。
「あ、弁々いらっしゃい!」
私達が初対面ではないことを感じ取ったのか職人のお爺ちゃんが口を挟む。
「おや、もしかして二人は知り合いなのかい?」
私がそんなところです、と言おうとしたところで小傘が先に答える。
「うん、わちきの友達だよ!」
まあ、いいか。
そういうことにしておこう。
私は気を取り直して小傘に聞いた。
「貴女、鍛冶なんてやってたの?」
「もちろん、わちきの腕は一級品だよ! そう言えばこの前はごめんね、仕事があったの忘れてたんだよね」
「やれやれ、お前さんはそそっかしいからのう」
この見ていて危なっかしいところばかりが目立つ彼女が、まさか鍛冶をしているとは夢にも思わなかった。
人間と同じように仕事をして生活している妖怪自体、どちらかと言うと珍しい方だ。
しかも職人のお爺ちゃんに仕事を頼まれるということは、実力を認められているということに他ならない。
私が難しい顔をしていたからだろうか、再び職人のお爺ちゃんが取りなすように言う。
「はじめにここで働かせて欲しいと頼まれた時はなんの冗談かと思ったんだが、なかなかの腕を持っているよ。
仕事も早いしな。ちょっと儂の方が別の仕事で立て込んどるからその斧は小傘ちゃんに任せるよ」
そう言うと職人のお爺ちゃんは奥の方へと引っ込んで行った。
「はーい! 任せてね弁々、抜群の切れ味にしてあげるから」
小傘が早くそれを渡してくれと言わんばかりに斧をじっと見つめてくる。
褒められて気をよくしたのか随分張り切っているようだ。
とにかく、直せるのならありがたい。
私は軽く一礼しながら斧を包んでいた布と一緒に手渡す。
それと同時に、ダメもとで聞いてみる。
「もし、邪魔じゃなければここにいてもいいかしら?」
小傘は一瞬きょとんとした後、答える。
「いいよ、集中してる時はお話出来ないけど」
「ありがとう。じゃあ、お邪魔します」
私は小傘に続いて建物の中に入った。
玄関の三和土から廊下を通って、奥にある作業場へと足を踏み入れる。
そこは六畳ほどのスペースで、赤茶色の煉瓦で組まれた炉、鉄製の作業机、
様々な道具が入った箱など、初めて見る物が沢山ある。
小傘は手際よく道具を並べると早速斧の修理にかかった。
私は邪魔をしないよう、少し離れた場所で腰を下ろしてそれを見守る。
作業をしている小傘の横顔は真剣そのもので、わき目の一つも振らない。
時折額から流れる汗が光っている。
先日会った時の彼女とは、まるで別人だ。
「出来たよ!」
小傘は完成した斧を嬉しそうに見つめている。
私が作業机の方まで近づくと、その出来栄えに思わず声が出た。
「すごいわ、ここまで綺麗になるのね」
「えへへ。刃の部分以外はそんなに状態が悪くなかったから、まだまだ使えるよ」
小傘が指差した完成品の斧は刃の部分に傷一つなく、木製の柄の部分も綺麗になっていた。
私は気になっていたことを尋ねる。
「この仕事は、もうずっとやってるの?」
「確か、もう五年ぐらいになるかなあ」
「きっかけは? 生活のためかしら?」
「それもあるけど、やっぱりわちきって道具だからさ。誰かの役に立てることが嬉しいんだよね」
そう答える小傘の表情は少し赤らんでおりなんだか照れくさそうだった。
誰かの役に立てるのが嬉しい、か。
人間に使われるだけの道具であり続けることに嫌気が差し、妹の八橋をはじめとする仲間達とともに
下剋上に加担した自分とはやはり考えが根本的に違う。
人間への対抗心のような物が全くと言っていいほどないのだ。
本当は人を驚かせて腹を満たしたいのではないのか、妖怪として、自分本来の生き方をしたいのではないのか。
彼女の本心が気になった。
それから私は布に包んだ斧を持って、玄関で修理代を支払った。
「ありがとう、これだけでいいの?」
「いいのいいの。わちきはお金のことはよく分からないし、お爺ちゃん任せなんだよね」
彼女が言うにはここに入ってきた仕事を雇い主のお爺ちゃんと手分けして行い、
儲けの何割かをもらっているらしい。
この様子だと、お金への執着が強いわけでもなさそうだ。
「今度はわちきが弁々の演奏会に行くからね!」
「ありがとう、待ってるわ」
小傘は赤と青のオッドアイを煌めかせながらにっこりと微笑んだ。
それに対して、私は手を振りながら鍛冶屋を後にした。
今日は意外な一面を見たけど、今後も彼女、小傘と交流を持ちたい気持ちが私の中に生まれつつあった。
またあくる日の夕方。
私は妹の八橋とともに人里の集会場での演奏会を終えたところだった。
「友達とはいえ、失礼のないようにするのよ」
「分かってるって、姉さんも気をつけて帰ってね」
「ええ、ありがとう」
八橋はこの後プリズムリバー邸に泊まりがけで遊びに行くことになっている。
プリズムリバー楽団は私達のライバルのような存在だけど、同じ音楽を愛する者同士気が合わないわけはなく、
合同の演奏会で共演して以来プライベートでも交流を持つようになった。
友達は多い方がいいと言うと子供っぽい言い方になってしまうけど、
人脈が広いのは決して損にはならないと思う。
「じゃ、行ってらっしゃい。楽しんできてね」
「うん!」
お互いに手を振ったところで八橋は人里の出口に向かって小走りで駆けて行く。
その後姿はやがて見えなくなった。
さて、私もたまには外で食事でもして帰ろうか、そんなことを考えたその時だった。
聞き覚えのある高い声が聞こえてくる。
「べろべろ~ばー!」
声のする方角を振り返ると、川向こうの小さな広場からだった。
私は広場の隅に積まれた木材の隣に立つその姿を見て声の主が誰かを確信した。
紫色の大きな傘の持ち主を私は一人しか知らない。
広場のすぐ傍まで近づくと、小傘が小さな子供をあやしているところだった。
寺子屋にもまだ通っていないであろう齢の小さな女の子だった。
おかっぱ頭に赤いリボンが印象的だった。
私が声をかけようとしたところで、彼女は紫の傘に身を隠す。
小傘の腰あたりまでの身長しかないその女の子はまじまじと真剣な眼差しで彼女の傘をじっと見つめる。
そして次の瞬間。
「ばー! おどろけー!」
傘の中から姿を現し、舌を出しながら悪戯っぽい目で子供を驚かす。
しかしそれを見た子供は驚くどころか指を指してきゃっきゃっと大笑いした。
「あはは、お姉ちゃん変なのー!」
「なにー! わちきは変じゃないよっ!」
言葉とは裏腹に、小傘はその子供に負けないくらい楽しそうに声を上げて笑っていた。
そこで小傘は私に気付いたのか声をかけてくる。
「あ、弁々! ごめんね、今日は演奏会行きたかったんだけど鍛冶の仕事が終らなくってさ」
「それはいいのよ、またいつでも来れる時に来て頂戴。それよりもその子はどうしたの?」
小傘が「えっとね」まで言ったところで言葉を止める。
私が小傘の視線の先を見やると、割烹着姿の見知らぬ女性が真っすぐこちらに向かって走ってくる。
彼女は先程まで小傘があやしていた子供の手を引っ張ると、一息に言った。
「あんたはまた勝手に外に出て! 一人で外に出たらだめって言ったでしょ、外には危ない妖怪もたくさんいるのよ!」
叱られた少女は堪えた様子もなく小傘の方を指して言った。
「お姉ちゃんは悪い妖怪じゃないよ。あたしと遊んでくれたもん」
「そんなこと分からないでしょ、いいから帰るわよ」
母親であろう割烹着姿の女性は半ば無理やりに娘を抱きかかえると、小傘に険しい視線を送る。
小傘は居たたまれなくなったのか先ほどまでとは打って変わって控えめな口調で言う。
「その、ごめんなさい。その子、一人で橋の上にいたから危ないと思って、それで……」
その言葉を聞いた母親はまた娘を睨む。
そして感情を押し殺したような声で言った。
「そうですか。すみません、ありがとうございました。でも、大丈夫ですから……」
彼女はそれだけ言うと娘を連れて逃げるように去って行った。
抱き抱えられた女の子はずっと後ろ、こちらを見つめていた。
二人の姿が見えなくなったところで、小傘は積まれた材木の上に腰を下ろす。
「やっぱり、よくなかったかな……」
落ち込んだ様子の小傘の言葉を私はすかさず否定する。
「貴女は子供が一人で橋の上にいたら危ないと思って声をかけたんでしょ? 小傘は悪くないでしょう」
「でも、あのお母さんからしたらわちきが妖怪ってだけで子供を早く引き離さないと、って思う気持ちは分かる気がするんだ」
確かに小傘の言う通り母親の立場からすれば私達妖怪は得体のしれない存在だし、
自分の子供を近付けたくないと思う気持ちは分かる。
でも、善意で子供の面倒を見ていた小傘がこうして凹んでいる姿を見るのはどうにも忍びない。
「そうね、けどだからって小傘が気にするようなことじゃないわよ。私は間違ってないと思うわ」
「ありがとう、弁々」
小傘は腰を上げながら、私に向かって上目遣いに微笑んで見せた。
少しは元気を取り戻したようだ。
「私は私の意見を言っただけよ。まあとにかく、あんまり思い詰めないようにすることね」
「うん、そうするわ」
人間と妖怪の間に絶対的な距離があるのは勿論分かっているし、
私自身は理解し合えない物は仕方がない、と思っていた。
それでも、小傘のこうした優しさが報われないのは歯がゆさを感じずにいられない。
報われて欲しかった。
小傘は笑っている方がいい。
しょぼくれた顔なんて、貴女らしくない。
それから三日後の暮夜。
私は人里の蕎麦屋の前で約束の相手が来るのを待っていた。
待ち合わせの時間は既に二十分近く過ぎている、暖簾の奥からの視線も気になり始めた。
やたらと店内が騒々しいけど、五月蠅い客でもいるのだろうか。
今日は小傘と一緒に食事をする約束をしていた。
言い出したのは私の方で、小傘は喜んで快諾してくれた。
もし先日のことで落ち込んでいるなら、少しでも元気づけてあげたい。
そう思ったからだ。
最初はそれだけのつもりでいたけど、待ち合わせの時間を五分、十分と過ぎる内に
心臓の動悸が高まってくるのに気付いた。
早く来て欲しい、またあのとびきりの笑顔を見せて安心させて欲しい。
待ち合わせの時間と同時刻。
私は必死に叫んだ。
「来ないで! あっち行ってよ!」
どれだけ大声で叫んでも私達を取り巻く殺気は収まらなかった。
私は人里と魔法の森の間に位置する草地で自分の後ろ、傘の中に立たせている少女とともに狼の群れに取り囲まれていた。
「お姉ちゃん……」
少女が消え入りそうな声で呟きながら傘の中で私の服の裾をぎゅっと握りしめてくる。
彼女の顔は見えないけど、恐怖に震えているに違いない。
どうしてこんなことに、と運命を呪わずにはいられない。
私の脳裏に今日のここまでの出来事が駆け巡る。
今日は弁々から食事に誘われていたから、鍛冶の仕事を昼過ぎに終わらせた後は約束の時間まで人里の外を散歩していた。
そして日が完全に沈む辺りで人里近くの草地まで戻ってきた時。
野草取りの帰りと思われる、背中に籠を背負ったももひき姿の黒髪の少女が一匹の狼に睨まれているところに出くわした。
齢は十代前半ぐらいだろうか。
黒と灰色の混ざったぶち模様の狼は今にも襲い掛かりそうなほど攻撃的な眼差しを少女に向けている。
「待って! あんたの相手はわちきよ!」
私は考える間もなく急いで二者の間に割って入り、狼の注意を自分に引き付けようとした。
その間に彼女に安全なところまで逃げてもらえばいい、と思ったのだ。
しかし私が近付いた直後、周囲の茂みから次々と仲間の狼が姿を現し、狼の群れはあっという間に私と少女を取り囲んだ。
そして、今に至る。
空は完全に真っ暗になり、ぽつぽつと雨も降り始めていた。
このまま豪雨になって狼の方が退散してくれる、そんな都合のいい展開は起こるべくもない。
狼の数は前方、視界内にいるのが三匹、後方には二匹。
飛行して逃げようにも後ろの少女を抱えてこの包囲網を抜けられるとは思えない。
間合いの外まで上昇している間に飛びかかられるのが目に見えている。
かと言って戦おうにも、相手は彼女を守りながら安全に追い払える数ではない。
全力で弾幕をぶつければ前方の三匹を怯ませるぐらいは出来そうだけど、
その間に後ろの二匹に襲われたらどっちみちおしまいだ。
私じゃこの子を助けられない。
認めたくない、認めちゃいけないのに。
徐々に狭くなる包囲網に動悸が早くなる。
少女からはすすり泣く声も聞こえてきた。
狼は鋭そうな歯と歯の間から唾液を垂れ流しながらじわじわと距離を詰めてくる。
口からの特有の腐臭が鼻を刺した。
「大丈夫、貴女はわちきが守ってみせる」
少しでも安心させたい一心で言った言葉だけど、突破口は開けそうにない。
一か八か、前方の三匹だけでも弾幕で怯ませるか。
でももし失敗したら、間違いなくこの子に危険が及ぶ。
やるしかないのか。
その時だった。
「楽符、凶悪な五線譜」
赤い光が四本、いや五本。
私達のいる場所を照らしたかと思うとその光は対峙していた前方の三匹の狼を打ち据え、
爆風とともにじゅっと焼けるような音を立てた。
前方の狼達が悲鳴とともにその場をのたうち回ると、肉の焦げた嫌な臭いが広がる。
私は一瞬その一連の流れに呆気に取られた。
そこに空から彼女の、弁々の大声が響く。
「そいつらはしばらく動けないわ、今のうちに飛びなさい!」
私は返事をするのも忘れ我に返ると、震える少女を抱き抱えながら急いで飛行を始める。
しかし危惧した通り二人分の体重ではすぐに上昇できない。
思いがけない増援の登場に怯んでいた後ろの二匹がすかさず飛び込んでくる。
駄目だ、間に合わない。
体勢を変えて少しでも少女を狼から遠ざけようとしたその時。
「消えなさい!」
弁々の張りのある大声とともに再び先程の赤い五本の光が私達のすぐ後ろを掠める。
その光は追ってくる後方の狼達に着弾すると土煙を上げながら爆発した。
土煙が晴れた時、眼下に狼は一匹もいなかった。
先ほどの爆発に驚いて逃げ去ったのだろう。
助かったことに安堵していると、弁々が傍まで近寄ってきた。
知り合ってから初めて見る、鋭い目つきをしている。
「二人とも、無事のようね」
「ありがとう弁々、どうしてここが分かったの」
「貴女がいつになっても来ないし、蕎麦屋のお母さんは娘が帰ってこない、
って慌ててるからもしやと思ったのよ。間に合ってよかったわ。」
私は弁々と二人で少女を抱えてゆっくりと降下した。
先程からの雨で地面がぬかるんでいる。
少女は地面に降り立つなり、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。二人がいなかったら、私は今頃……」
小顔にセミロングの黒髪が特徴的な可愛らしい少女の目元は赤く腫れている。
本当に怖い思いをしたに違いない。
私は少女のお礼に返事をしながら弁々に向かって頭を下げた。
弁々が助けてくれなければ、私達は二人とも無事ではなかった。
感謝してもし切れない。
「いいんだよ。それに助けてもらったのはわちきもだからね。弁々、本当にありがとう……」
私と少女の二人から頭を下げられて、弁々は先程狼達を追い払った時の鋭い目つきから一転、
口元を緩めながらひらひらと手を振った。
「もういいから、そんなに頭を下げないで頂戴。それよりお母さん達が心配してるわ、早く帰りましょう」
「すみません、なにからなにまで……」
「いいからいいから、わちきの傘があれば雨なんかへっちゃらだから安心してね!」
その後、私は小傘と一緒に少女を挟む形で、周りに気を配りながら人里に向かって歩いた。
弾幕ごっこ以外でスペルカードを使ったのは初めてだったけど、無事に二人を助けられたことに安堵していた。
「それにしても、弁々は強いんだね。狼もあっという間に逃げて行ったからびっくりしたよ」
「五匹同時に狙い撃ちするのは無理だったけど、前後の片方を不意打ちで脅かせば隙が出来ると思ったのよ」
「すごいなあ、わちきももっと強くならなくちゃ」
「弁々さん、とってもかっこよかったです」
小傘は心底感心した様子で大きく頷き、少女は羨望の眼差しを向けてくる。
実際はそこまで考えて立ち回っていたわけじゃない。
小傘とこの少女を見つけた時には既に狼が襲い掛かる寸前と見え、考える余裕はなかった。
ただ二人を守りたい、頭にあった思いはそれだけだった。
それから私は小傘と一緒に少女を無事に蕎麦屋まで送り届けた。
少女の母親は帰ってきた彼女を見るなり涙を流しながら抱きしめた。
その後は少女の父親、母親からも何度もお礼を言われた。
店じまいの時刻はとっくに過ぎていたけど、娘の命の恩人に是非食べて欲しいと、
蕎麦を無料でご馳走してもらった。
緊張で疲労していただけでなく雨で身体が冷えこんでいたのもあって、
温かいかけ蕎麦はとてもおいしかった。
一家全員に暖簾の前まで見送られ、私は小傘と一緒に店の外に出た。
外は相変わらず雨が降り続いている。
「今日はいろいろあったね。弁々、本当にありがとう」
「もう、何回言うのよそれ。それより、一つお願いしてもいいかしら?」
「ん、なあに?」
「少し、お話したいの」
私は小傘を蕎麦屋の目と鼻の先にある広場に誘った。
以前小傘が子供をあやしていた場所だ。
道中は小傘の差してくれる傘のおかげで身体に雨はほとんどかかっていない。
最初は交代で持つつもりだったけど、小傘が頑として譲らなかった。
今も重そうな顔一つ見せず、笑顔のまま傘を持ち続けてくれている。
彼女が横にいると、気持ちが安らぐ。
広場に着いたところで、小傘は私の話を促すように見つめてきた。
優しさと好奇心が同居したような目で愛嬌のある微笑を口元に湛えている。
私は今しかないと、思っていたことを切り出すことにした。
「実は私は最初、貴女のことをちょっと心配してたの」
「え、そうだったの?」
小傘はいかにも意外そうな顔を見せる。
「ええ。まず私は自分は楽器の付喪神だから演奏をしてそれを聞いてもらう、そうして生きるのが当たり前だと思っていたの。
付喪神なら元となった道具に沿った生き方をするのが普通じゃないか、って考えね。
だから最初に貴女を見た時、唐傘妖怪なのに人を驚かせるのが上手くいかないっていうのは、
付喪神としてとても追いつめられているんじゃないか、って思っていたの」
「……そんなにもわちきのことを考えてくれてたんだね」
小傘は弁々が初対面の時からそこまで自分のことを考えてくれたのは素直に嬉しいと思った。
その一方で、最近生まれたばかりの妖怪の方が自分の生き方について深く考えている
という事実は内心とても恥ずかしくもあった。
私は小傘のそんな心境は知る由もなく続ける。
「でも、貴女は違ったわ。自分の生まれに拘らず、鍛冶の仕事を手伝ったり、子供の面倒を見たり。
これは全て、ある信念があったから、よね?」
「……うん、わちきは、やっぱり人間が好きだから。鍛冶屋のお爺ちゃんは優しいし、子供たちはみんな可愛いし」
小傘は「中には出会っただけですぐに攻撃してくる乱暴な人間もいるけど」と付け足す。
私の頭の中に真っ先に浮かんだのは紅白の巫女と白黒の魔法使いだった。
顔を見合わせると小傘も同じような人間の顔が浮かんだのか私達は声を上げて笑った。
子供のようにあどけなく笑う小傘を見て、私は眦を決した。
「そうやって柔軟な考え方が出来て、誰にでも優しい小傘はとっても魅力的よ。だから……」
小傘は照れて頬を搔いている。
彼女の優しさ、内に秘めた思慮深さ、この愛らしい笑顔に惹かれたのはいつからだろう。
本当は出会ったあの時からそうだったのかもしれない。
私は一呼吸置き、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は小傘、貴女が好き。大好きよ」
私のこの想いを小傘は受け取ってくれるだろうか。
「えへへ、わちきも弁々のこと大好きだよ! わちき達はずっと前から友達だもんね!」
一瞬返事が遅れそうになる。
多分、いや間違いなく私と小傘の想いは方向が同じでも種類が全く違う。
私の意図は果たして通じているのか、それともはぐらかされたのか。
それでも、いい。
拒絶されたわけじゃない。
これから、始めていけばいい。
今日はその最初の一歩。
「……ありがとう、嬉しいわ」
この素敵な出会いをくれた運命に、感謝します。
私は心の中で天に向かってお礼を言うと、傘を持つ小傘の手に自分の両手を被せた。
その手はとても温かかった。
その後、二人の付喪神は一緒に傘を差しながらゆっくりと歩き出し、身を寄せ合いながら夜の闇へと消えていった。
普段は演奏会で訪れることが多い場所だが、今日はその予定もない。
「さて、八橋にお土産でも買って帰ろうかしら」
ここ数日は演奏会に練習に打ち合わせと、私と八橋はてんてこ舞いだった。
私達の演奏を求めてくれる人が増えたのは嬉しいことだけど、妖怪にも休みは必要なのだ。
そんなことを思いながら、人里の大通りを歩く。
左手には里を中心から分断するように流れている幅十間ほどの小川が延々と続き、
右手には呉服屋から八百屋、万事屋など様々な店が軒を並べている。
もう少し先に進むと私が時々顔を出している和菓子屋が見えてくるはず。
そこでお菓子を買って帰ろう、そんなことを考えていたそのときだった。
「おどろけー!」
「……うん?」
紫色の変な傘を持った妖怪が突然右手の路地から飛び出してきた。
でも体が当たる距離じゃない。
私は彼女とは初対面だし、多分人違いだろうから気にせずその場を通り過ぎようとした。
「え!? 待って! おどろけ―!」
先程の妖怪は走って私の正面に回り込むと、さっきと同じようにその傘を見せつけてくる。
よく見ると傘の上の方には目玉がついており、ぎょろぎょろと私を凝視していた。
さらに目の下に開いた口からは赤い舌が覗いている。
傘の色は変だけど、飾り気のないその一つ眼は妖怪の割に不思議とどこか愛らしくも見える。
聞き間違いじゃなければ彼女はこの傘で私を驚かせたつもりのようだけど、
こんなやり方では子供一人驚かないのではないだろうか。
私がそんなことを考えていると、傘の中から水色の髪をした妖怪が姿を現した。
服装も水色を基調とした服装で下駄を履いている。
目が合うと彼女は馴れ馴れしく話しかけてきた。
「うう、また驚いてくれなかった……」
さっきの元気な声はどこへ行ったのか、すっかり意気消沈した様子だ。
本人の口ぶりはやはり今ので私を驚かせたつもりらしい。
「今の、私を驚かそうとしていたの?」
「そうだよ、最近は誰も驚いてくれないからひもじくって……」
「……どうして、私みたいな妖怪より子供やお年寄りを驚かそうとしないの?」
「子供を驚かせても、驚くどころかみんな笑うんだもん」
「……じゃあお年寄りは?」
小傘はとんでもないと言わんばかりに手を振って否定する。
「いきなり驚かせて、怪我をさせたりしたら大変だからそんなのだめだよ」
思わずずっこけそうになった。
これほど妖怪らしくない妖怪は初めて見たかもしれない。
黙っている私に構わず小傘は続けた。
「貴女、最近二人組で活動してる楽器の妖怪だよね」
相手はどうやら私のことを知っているらしい。
「そうよ、私は琵琶の付喪神、九十九弁々」
私は抱えた琵琶を弾き鳴らす真似をしながら答えた。
手首のリングから琵琶に繋がる鎖が音を立てる。
「貴女もわちきと同じ付喪神なのね!」
目の前の傘の妖怪は嬉しそうな声を上げると、傘を肩に引っ掛けて続けた。
「わちきは唐傘妖怪の多々良小傘。わちき達仲間だね!」
そう言うと彼女は左右の赤と青のオッドアイを輝かせながらはにかんだ笑顔を向けてくる。
初対面だというのにやたらと人懐っこいその立ち振る舞いはやはり妖怪らしくない。
でも、それ以上に一つ気になることがあった。
「貴女も、この前の異変で生まれたの?」
「この前の異変?」
小傘は首を傾げる。
どうやらピンとこないらしい。
「天邪鬼が打ち出の小槌の魔力を使って弱者、私達道具の下剋上を起こしたあの異変よ」
「あ、もしかして空に逆さのお城が現れたっていう」
「そう。で、貴女はどっちかしら?」
もし、彼女が私や八橋と同じように最近生まれたばかりの付喪神だとしたら、
急いで行わなければならないことがある。
異変が落ち着いてから既にある程度の時間が過ぎているから心配はないと思うけど、聞かずにはいられない。
「わちきは違うよ、ずっと前からこの姿だもん」
「そう、それはよかったわ」
その答えに私は安堵した。
小傘は私の質問の意図が分からないからか、説明を求めるようにこちらを上目遣いで見つめている。
隠す理由もないので、私は素直に答えることにした。
「もし貴女があの異変で生まれた付喪神なら、そのままではただの道具に戻ってしまうのよ」
「え、それってどういうこと?」
私の話にだいぶ驚いたのか、小傘は目を丸くした。
私は小槌の魔力によって自我を持った道具達が、その魔力なくしては付喪神の姿でいられないこと、
私や妹の八橋が呪法で新しい魔力を取り入れて体を維持していることについて説明した。
説明を聞き終えると、小傘は俯きながら呟いた。
「じゃあ、あの異変で付喪神になってそのままだった子達は……」
「……元の道具に戻ってしまったわ」
既にあの異変が解決してから一ヵ月ほど経過している。
私や八橋が体の不調を感じたのは異変から約二週間後のことで、姿が元に戻る付喪神が出てきたのもその頃だった。
昨日仲良く話をしたばかりの仲間が次の日には元の物言わぬ道具に戻っていた時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。
個人差があるとはいえ、既にかなりの時間が経っているから小傘があの異変で生まれた付喪神の線はほぼないとは思っていた。
それでも、万が一彼女がそうであったらと思うと聞かずにはいられなかった。
小傘の様子からして先日の異変はほとんど伝聞でしか知らなかったらしい。
でも、私の話がショックだったのか先程までの笑顔はなく神妙な顔つきになっていた。
「……ありがとう、弁々はわちきを心配してくれたんだね」
「あれからかなり時間が経っているから多分違うとは思ったけど念のため、ね」
小傘は顔を上げると笑顔を作りながら言った。
「弁々は優しいんだね」
「別にそんなんじゃないわよ」
勿論小傘の身を案ずる気持ちがなかったわけじゃない。
でも、こうも直球で言われてしまうとなんだか恥ずかしくて、つい否定してしまった。
私は話題を変えようと試みる。
「小傘は、いつもこの辺りで人を驚かせようとしてるの?」
「うん、それがわちきだからね!」
数分前には最近は誰も驚いてくれない、と言っていたけどそれには触れないでおく。
「じゃあ人間に下剋上したい、って思ったことはない?」
別に仲間を集めてもう一度異変を起こす目論見があるわけじゃない。
ただ、自分達とは違う境遇の付喪神の考えというものに興味が出てきたのだ。
小傘は私の質問が意外だったのかしばし逡巡した後、ゆっくりと答えた。
「うーん、わちきは恐怖心を食べる妖怪だから人を襲いたいわけじゃないし……」
「さっき最近は誰も驚いてくれない、って言ってたけどお腹は膨れてるの?」
「ひもじい……」
「正直なのは嫌いじゃないわ」
穏健派、というやつだろうか。
先程も人を驚かす妖怪のはずなのに、お年寄りを気遣ってそれを躊躇するなんて、
驚かしのセンス以前に性格が妖怪に向いていないのではないかとさえ思えてくる。
「でも、そんなことじゃいずれ本当に餓えて死んでしまうかもしれないんじゃない?」
「ううん、今のところは大丈夫……あ!」
小傘は急に何かを思い出したかのように声を上げる。
私がどうしたの、と問う間もなかった。
傘を持ち直すと私が歩いてきた方向に向かって走り出す。
「ごめん、大事な用があるの忘れてた! 絶対またお話させてね!」
一方的にそれだけ言って去ってしまった。
下駄にスカートという恰好で思い切り走るものだから道にはカツカツと地面を蹴る音が鳴り響き、
スカートはめくれ上がりそうになっている。
周りから好奇の目で見られていることも気づいていないようだ。
今日会ったばかりの赤の他人なのになんだか心配になってくる。
「……さてと、いい加減帰らないとあの子も心配するわね」
私は小傘が見えなくなると踵を返し、目的の和菓子屋に向かって歩を進める。
これが多々良小傘という風変わりな付喪神との最初の出会いだった。
あくる日、私は人里のとある鍛冶屋を探していた。
自宅で使っている斧、鎌の切れ味が悪くなってきたので直してもらおうと思ったのだ。
お願いするのは初めてだけど、仲間の付喪神曰く腕のいい職人のお爺ちゃんがやっているらしい。
教えてもらった場所まで来たけど、周囲にお店や作業場のような建物は見当たらない。
場所を間違えたかと思ったその時、目の前の木造の住居の玄関の引き戸、
その横に古びた看板が立てかけられていることに気付く。
字が一部消えていて読みにくかったけど、そこには達筆で「鍛冶、研磨承ります」と書かれていた。
私は玄関を軽く叩きながら呼びかける。
「すみませーん」
「はいはい、いらっしゃい」
老爺のものらしき声とともに足音が近づいてくると、引き戸が開けられる。
そこにいたのは頭に巻いた鉢巻と腰に下げた道具袋がいかにも職人らしい、白髪のお爺ちゃんだった。
私は袋に包んできた斧を見せながら言う。
「これなんですけど、ボロボロになっちゃって……」
木製の柄に鉄製の刃が埋め込まれた斧は刃こぼれと錆で大分痛んでいる。
もし直せないと言われたら、残念だけどこの子は供養してあげてから新しい物を調達しないといけない。
私がそんなことを考えていると職人のお爺ちゃんは斧をまじまじと見つめると、建物の中に向かって言った。
「おーい、小傘ちゃん」
私は耳を疑った。
しかし、奥の部屋から帰ってきた返事が聞き違いでないことを悟らせる。
一度会っただけなのに不思議と耳に残っている、明るくよく響く声。
「はーい!」
どたどたと廊下を走る音とともに声の主、小傘が現れる。
しかしその服装は先日会った時とはまるで違い、上下のグレー作業着の上から前掛けを着けていた。
所々に見える黒ずみは年季を感じさせる。
私と目が合ったところで小傘が言った。
「あ、弁々いらっしゃい!」
私達が初対面ではないことを感じ取ったのか職人のお爺ちゃんが口を挟む。
「おや、もしかして二人は知り合いなのかい?」
私がそんなところです、と言おうとしたところで小傘が先に答える。
「うん、わちきの友達だよ!」
まあ、いいか。
そういうことにしておこう。
私は気を取り直して小傘に聞いた。
「貴女、鍛冶なんてやってたの?」
「もちろん、わちきの腕は一級品だよ! そう言えばこの前はごめんね、仕事があったの忘れてたんだよね」
「やれやれ、お前さんはそそっかしいからのう」
この見ていて危なっかしいところばかりが目立つ彼女が、まさか鍛冶をしているとは夢にも思わなかった。
人間と同じように仕事をして生活している妖怪自体、どちらかと言うと珍しい方だ。
しかも職人のお爺ちゃんに仕事を頼まれるということは、実力を認められているということに他ならない。
私が難しい顔をしていたからだろうか、再び職人のお爺ちゃんが取りなすように言う。
「はじめにここで働かせて欲しいと頼まれた時はなんの冗談かと思ったんだが、なかなかの腕を持っているよ。
仕事も早いしな。ちょっと儂の方が別の仕事で立て込んどるからその斧は小傘ちゃんに任せるよ」
そう言うと職人のお爺ちゃんは奥の方へと引っ込んで行った。
「はーい! 任せてね弁々、抜群の切れ味にしてあげるから」
小傘が早くそれを渡してくれと言わんばかりに斧をじっと見つめてくる。
褒められて気をよくしたのか随分張り切っているようだ。
とにかく、直せるのならありがたい。
私は軽く一礼しながら斧を包んでいた布と一緒に手渡す。
それと同時に、ダメもとで聞いてみる。
「もし、邪魔じゃなければここにいてもいいかしら?」
小傘は一瞬きょとんとした後、答える。
「いいよ、集中してる時はお話出来ないけど」
「ありがとう。じゃあ、お邪魔します」
私は小傘に続いて建物の中に入った。
玄関の三和土から廊下を通って、奥にある作業場へと足を踏み入れる。
そこは六畳ほどのスペースで、赤茶色の煉瓦で組まれた炉、鉄製の作業机、
様々な道具が入った箱など、初めて見る物が沢山ある。
小傘は手際よく道具を並べると早速斧の修理にかかった。
私は邪魔をしないよう、少し離れた場所で腰を下ろしてそれを見守る。
作業をしている小傘の横顔は真剣そのもので、わき目の一つも振らない。
時折額から流れる汗が光っている。
先日会った時の彼女とは、まるで別人だ。
「出来たよ!」
小傘は完成した斧を嬉しそうに見つめている。
私が作業机の方まで近づくと、その出来栄えに思わず声が出た。
「すごいわ、ここまで綺麗になるのね」
「えへへ。刃の部分以外はそんなに状態が悪くなかったから、まだまだ使えるよ」
小傘が指差した完成品の斧は刃の部分に傷一つなく、木製の柄の部分も綺麗になっていた。
私は気になっていたことを尋ねる。
「この仕事は、もうずっとやってるの?」
「確か、もう五年ぐらいになるかなあ」
「きっかけは? 生活のためかしら?」
「それもあるけど、やっぱりわちきって道具だからさ。誰かの役に立てることが嬉しいんだよね」
そう答える小傘の表情は少し赤らんでおりなんだか照れくさそうだった。
誰かの役に立てるのが嬉しい、か。
人間に使われるだけの道具であり続けることに嫌気が差し、妹の八橋をはじめとする仲間達とともに
下剋上に加担した自分とはやはり考えが根本的に違う。
人間への対抗心のような物が全くと言っていいほどないのだ。
本当は人を驚かせて腹を満たしたいのではないのか、妖怪として、自分本来の生き方をしたいのではないのか。
彼女の本心が気になった。
それから私は布に包んだ斧を持って、玄関で修理代を支払った。
「ありがとう、これだけでいいの?」
「いいのいいの。わちきはお金のことはよく分からないし、お爺ちゃん任せなんだよね」
彼女が言うにはここに入ってきた仕事を雇い主のお爺ちゃんと手分けして行い、
儲けの何割かをもらっているらしい。
この様子だと、お金への執着が強いわけでもなさそうだ。
「今度はわちきが弁々の演奏会に行くからね!」
「ありがとう、待ってるわ」
小傘は赤と青のオッドアイを煌めかせながらにっこりと微笑んだ。
それに対して、私は手を振りながら鍛冶屋を後にした。
今日は意外な一面を見たけど、今後も彼女、小傘と交流を持ちたい気持ちが私の中に生まれつつあった。
またあくる日の夕方。
私は妹の八橋とともに人里の集会場での演奏会を終えたところだった。
「友達とはいえ、失礼のないようにするのよ」
「分かってるって、姉さんも気をつけて帰ってね」
「ええ、ありがとう」
八橋はこの後プリズムリバー邸に泊まりがけで遊びに行くことになっている。
プリズムリバー楽団は私達のライバルのような存在だけど、同じ音楽を愛する者同士気が合わないわけはなく、
合同の演奏会で共演して以来プライベートでも交流を持つようになった。
友達は多い方がいいと言うと子供っぽい言い方になってしまうけど、
人脈が広いのは決して損にはならないと思う。
「じゃ、行ってらっしゃい。楽しんできてね」
「うん!」
お互いに手を振ったところで八橋は人里の出口に向かって小走りで駆けて行く。
その後姿はやがて見えなくなった。
さて、私もたまには外で食事でもして帰ろうか、そんなことを考えたその時だった。
聞き覚えのある高い声が聞こえてくる。
「べろべろ~ばー!」
声のする方角を振り返ると、川向こうの小さな広場からだった。
私は広場の隅に積まれた木材の隣に立つその姿を見て声の主が誰かを確信した。
紫色の大きな傘の持ち主を私は一人しか知らない。
広場のすぐ傍まで近づくと、小傘が小さな子供をあやしているところだった。
寺子屋にもまだ通っていないであろう齢の小さな女の子だった。
おかっぱ頭に赤いリボンが印象的だった。
私が声をかけようとしたところで、彼女は紫の傘に身を隠す。
小傘の腰あたりまでの身長しかないその女の子はまじまじと真剣な眼差しで彼女の傘をじっと見つめる。
そして次の瞬間。
「ばー! おどろけー!」
傘の中から姿を現し、舌を出しながら悪戯っぽい目で子供を驚かす。
しかしそれを見た子供は驚くどころか指を指してきゃっきゃっと大笑いした。
「あはは、お姉ちゃん変なのー!」
「なにー! わちきは変じゃないよっ!」
言葉とは裏腹に、小傘はその子供に負けないくらい楽しそうに声を上げて笑っていた。
そこで小傘は私に気付いたのか声をかけてくる。
「あ、弁々! ごめんね、今日は演奏会行きたかったんだけど鍛冶の仕事が終らなくってさ」
「それはいいのよ、またいつでも来れる時に来て頂戴。それよりもその子はどうしたの?」
小傘が「えっとね」まで言ったところで言葉を止める。
私が小傘の視線の先を見やると、割烹着姿の見知らぬ女性が真っすぐこちらに向かって走ってくる。
彼女は先程まで小傘があやしていた子供の手を引っ張ると、一息に言った。
「あんたはまた勝手に外に出て! 一人で外に出たらだめって言ったでしょ、外には危ない妖怪もたくさんいるのよ!」
叱られた少女は堪えた様子もなく小傘の方を指して言った。
「お姉ちゃんは悪い妖怪じゃないよ。あたしと遊んでくれたもん」
「そんなこと分からないでしょ、いいから帰るわよ」
母親であろう割烹着姿の女性は半ば無理やりに娘を抱きかかえると、小傘に険しい視線を送る。
小傘は居たたまれなくなったのか先ほどまでとは打って変わって控えめな口調で言う。
「その、ごめんなさい。その子、一人で橋の上にいたから危ないと思って、それで……」
その言葉を聞いた母親はまた娘を睨む。
そして感情を押し殺したような声で言った。
「そうですか。すみません、ありがとうございました。でも、大丈夫ですから……」
彼女はそれだけ言うと娘を連れて逃げるように去って行った。
抱き抱えられた女の子はずっと後ろ、こちらを見つめていた。
二人の姿が見えなくなったところで、小傘は積まれた材木の上に腰を下ろす。
「やっぱり、よくなかったかな……」
落ち込んだ様子の小傘の言葉を私はすかさず否定する。
「貴女は子供が一人で橋の上にいたら危ないと思って声をかけたんでしょ? 小傘は悪くないでしょう」
「でも、あのお母さんからしたらわちきが妖怪ってだけで子供を早く引き離さないと、って思う気持ちは分かる気がするんだ」
確かに小傘の言う通り母親の立場からすれば私達妖怪は得体のしれない存在だし、
自分の子供を近付けたくないと思う気持ちは分かる。
でも、善意で子供の面倒を見ていた小傘がこうして凹んでいる姿を見るのはどうにも忍びない。
「そうね、けどだからって小傘が気にするようなことじゃないわよ。私は間違ってないと思うわ」
「ありがとう、弁々」
小傘は腰を上げながら、私に向かって上目遣いに微笑んで見せた。
少しは元気を取り戻したようだ。
「私は私の意見を言っただけよ。まあとにかく、あんまり思い詰めないようにすることね」
「うん、そうするわ」
人間と妖怪の間に絶対的な距離があるのは勿論分かっているし、
私自身は理解し合えない物は仕方がない、と思っていた。
それでも、小傘のこうした優しさが報われないのは歯がゆさを感じずにいられない。
報われて欲しかった。
小傘は笑っている方がいい。
しょぼくれた顔なんて、貴女らしくない。
それから三日後の暮夜。
私は人里の蕎麦屋の前で約束の相手が来るのを待っていた。
待ち合わせの時間は既に二十分近く過ぎている、暖簾の奥からの視線も気になり始めた。
やたらと店内が騒々しいけど、五月蠅い客でもいるのだろうか。
今日は小傘と一緒に食事をする約束をしていた。
言い出したのは私の方で、小傘は喜んで快諾してくれた。
もし先日のことで落ち込んでいるなら、少しでも元気づけてあげたい。
そう思ったからだ。
最初はそれだけのつもりでいたけど、待ち合わせの時間を五分、十分と過ぎる内に
心臓の動悸が高まってくるのに気付いた。
早く来て欲しい、またあのとびきりの笑顔を見せて安心させて欲しい。
待ち合わせの時間と同時刻。
私は必死に叫んだ。
「来ないで! あっち行ってよ!」
どれだけ大声で叫んでも私達を取り巻く殺気は収まらなかった。
私は人里と魔法の森の間に位置する草地で自分の後ろ、傘の中に立たせている少女とともに狼の群れに取り囲まれていた。
「お姉ちゃん……」
少女が消え入りそうな声で呟きながら傘の中で私の服の裾をぎゅっと握りしめてくる。
彼女の顔は見えないけど、恐怖に震えているに違いない。
どうしてこんなことに、と運命を呪わずにはいられない。
私の脳裏に今日のここまでの出来事が駆け巡る。
今日は弁々から食事に誘われていたから、鍛冶の仕事を昼過ぎに終わらせた後は約束の時間まで人里の外を散歩していた。
そして日が完全に沈む辺りで人里近くの草地まで戻ってきた時。
野草取りの帰りと思われる、背中に籠を背負ったももひき姿の黒髪の少女が一匹の狼に睨まれているところに出くわした。
齢は十代前半ぐらいだろうか。
黒と灰色の混ざったぶち模様の狼は今にも襲い掛かりそうなほど攻撃的な眼差しを少女に向けている。
「待って! あんたの相手はわちきよ!」
私は考える間もなく急いで二者の間に割って入り、狼の注意を自分に引き付けようとした。
その間に彼女に安全なところまで逃げてもらえばいい、と思ったのだ。
しかし私が近付いた直後、周囲の茂みから次々と仲間の狼が姿を現し、狼の群れはあっという間に私と少女を取り囲んだ。
そして、今に至る。
空は完全に真っ暗になり、ぽつぽつと雨も降り始めていた。
このまま豪雨になって狼の方が退散してくれる、そんな都合のいい展開は起こるべくもない。
狼の数は前方、視界内にいるのが三匹、後方には二匹。
飛行して逃げようにも後ろの少女を抱えてこの包囲網を抜けられるとは思えない。
間合いの外まで上昇している間に飛びかかられるのが目に見えている。
かと言って戦おうにも、相手は彼女を守りながら安全に追い払える数ではない。
全力で弾幕をぶつければ前方の三匹を怯ませるぐらいは出来そうだけど、
その間に後ろの二匹に襲われたらどっちみちおしまいだ。
私じゃこの子を助けられない。
認めたくない、認めちゃいけないのに。
徐々に狭くなる包囲網に動悸が早くなる。
少女からはすすり泣く声も聞こえてきた。
狼は鋭そうな歯と歯の間から唾液を垂れ流しながらじわじわと距離を詰めてくる。
口からの特有の腐臭が鼻を刺した。
「大丈夫、貴女はわちきが守ってみせる」
少しでも安心させたい一心で言った言葉だけど、突破口は開けそうにない。
一か八か、前方の三匹だけでも弾幕で怯ませるか。
でももし失敗したら、間違いなくこの子に危険が及ぶ。
やるしかないのか。
その時だった。
「楽符、凶悪な五線譜」
赤い光が四本、いや五本。
私達のいる場所を照らしたかと思うとその光は対峙していた前方の三匹の狼を打ち据え、
爆風とともにじゅっと焼けるような音を立てた。
前方の狼達が悲鳴とともにその場をのたうち回ると、肉の焦げた嫌な臭いが広がる。
私は一瞬その一連の流れに呆気に取られた。
そこに空から彼女の、弁々の大声が響く。
「そいつらはしばらく動けないわ、今のうちに飛びなさい!」
私は返事をするのも忘れ我に返ると、震える少女を抱き抱えながら急いで飛行を始める。
しかし危惧した通り二人分の体重ではすぐに上昇できない。
思いがけない増援の登場に怯んでいた後ろの二匹がすかさず飛び込んでくる。
駄目だ、間に合わない。
体勢を変えて少しでも少女を狼から遠ざけようとしたその時。
「消えなさい!」
弁々の張りのある大声とともに再び先程の赤い五本の光が私達のすぐ後ろを掠める。
その光は追ってくる後方の狼達に着弾すると土煙を上げながら爆発した。
土煙が晴れた時、眼下に狼は一匹もいなかった。
先ほどの爆発に驚いて逃げ去ったのだろう。
助かったことに安堵していると、弁々が傍まで近寄ってきた。
知り合ってから初めて見る、鋭い目つきをしている。
「二人とも、無事のようね」
「ありがとう弁々、どうしてここが分かったの」
「貴女がいつになっても来ないし、蕎麦屋のお母さんは娘が帰ってこない、
って慌ててるからもしやと思ったのよ。間に合ってよかったわ。」
私は弁々と二人で少女を抱えてゆっくりと降下した。
先程からの雨で地面がぬかるんでいる。
少女は地面に降り立つなり、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。二人がいなかったら、私は今頃……」
小顔にセミロングの黒髪が特徴的な可愛らしい少女の目元は赤く腫れている。
本当に怖い思いをしたに違いない。
私は少女のお礼に返事をしながら弁々に向かって頭を下げた。
弁々が助けてくれなければ、私達は二人とも無事ではなかった。
感謝してもし切れない。
「いいんだよ。それに助けてもらったのはわちきもだからね。弁々、本当にありがとう……」
私と少女の二人から頭を下げられて、弁々は先程狼達を追い払った時の鋭い目つきから一転、
口元を緩めながらひらひらと手を振った。
「もういいから、そんなに頭を下げないで頂戴。それよりお母さん達が心配してるわ、早く帰りましょう」
「すみません、なにからなにまで……」
「いいからいいから、わちきの傘があれば雨なんかへっちゃらだから安心してね!」
その後、私は小傘と一緒に少女を挟む形で、周りに気を配りながら人里に向かって歩いた。
弾幕ごっこ以外でスペルカードを使ったのは初めてだったけど、無事に二人を助けられたことに安堵していた。
「それにしても、弁々は強いんだね。狼もあっという間に逃げて行ったからびっくりしたよ」
「五匹同時に狙い撃ちするのは無理だったけど、前後の片方を不意打ちで脅かせば隙が出来ると思ったのよ」
「すごいなあ、わちきももっと強くならなくちゃ」
「弁々さん、とってもかっこよかったです」
小傘は心底感心した様子で大きく頷き、少女は羨望の眼差しを向けてくる。
実際はそこまで考えて立ち回っていたわけじゃない。
小傘とこの少女を見つけた時には既に狼が襲い掛かる寸前と見え、考える余裕はなかった。
ただ二人を守りたい、頭にあった思いはそれだけだった。
それから私は小傘と一緒に少女を無事に蕎麦屋まで送り届けた。
少女の母親は帰ってきた彼女を見るなり涙を流しながら抱きしめた。
その後は少女の父親、母親からも何度もお礼を言われた。
店じまいの時刻はとっくに過ぎていたけど、娘の命の恩人に是非食べて欲しいと、
蕎麦を無料でご馳走してもらった。
緊張で疲労していただけでなく雨で身体が冷えこんでいたのもあって、
温かいかけ蕎麦はとてもおいしかった。
一家全員に暖簾の前まで見送られ、私は小傘と一緒に店の外に出た。
外は相変わらず雨が降り続いている。
「今日はいろいろあったね。弁々、本当にありがとう」
「もう、何回言うのよそれ。それより、一つお願いしてもいいかしら?」
「ん、なあに?」
「少し、お話したいの」
私は小傘を蕎麦屋の目と鼻の先にある広場に誘った。
以前小傘が子供をあやしていた場所だ。
道中は小傘の差してくれる傘のおかげで身体に雨はほとんどかかっていない。
最初は交代で持つつもりだったけど、小傘が頑として譲らなかった。
今も重そうな顔一つ見せず、笑顔のまま傘を持ち続けてくれている。
彼女が横にいると、気持ちが安らぐ。
広場に着いたところで、小傘は私の話を促すように見つめてきた。
優しさと好奇心が同居したような目で愛嬌のある微笑を口元に湛えている。
私は今しかないと、思っていたことを切り出すことにした。
「実は私は最初、貴女のことをちょっと心配してたの」
「え、そうだったの?」
小傘はいかにも意外そうな顔を見せる。
「ええ。まず私は自分は楽器の付喪神だから演奏をしてそれを聞いてもらう、そうして生きるのが当たり前だと思っていたの。
付喪神なら元となった道具に沿った生き方をするのが普通じゃないか、って考えね。
だから最初に貴女を見た時、唐傘妖怪なのに人を驚かせるのが上手くいかないっていうのは、
付喪神としてとても追いつめられているんじゃないか、って思っていたの」
「……そんなにもわちきのことを考えてくれてたんだね」
小傘は弁々が初対面の時からそこまで自分のことを考えてくれたのは素直に嬉しいと思った。
その一方で、最近生まれたばかりの妖怪の方が自分の生き方について深く考えている
という事実は内心とても恥ずかしくもあった。
私は小傘のそんな心境は知る由もなく続ける。
「でも、貴女は違ったわ。自分の生まれに拘らず、鍛冶の仕事を手伝ったり、子供の面倒を見たり。
これは全て、ある信念があったから、よね?」
「……うん、わちきは、やっぱり人間が好きだから。鍛冶屋のお爺ちゃんは優しいし、子供たちはみんな可愛いし」
小傘は「中には出会っただけですぐに攻撃してくる乱暴な人間もいるけど」と付け足す。
私の頭の中に真っ先に浮かんだのは紅白の巫女と白黒の魔法使いだった。
顔を見合わせると小傘も同じような人間の顔が浮かんだのか私達は声を上げて笑った。
子供のようにあどけなく笑う小傘を見て、私は眦を決した。
「そうやって柔軟な考え方が出来て、誰にでも優しい小傘はとっても魅力的よ。だから……」
小傘は照れて頬を搔いている。
彼女の優しさ、内に秘めた思慮深さ、この愛らしい笑顔に惹かれたのはいつからだろう。
本当は出会ったあの時からそうだったのかもしれない。
私は一呼吸置き、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は小傘、貴女が好き。大好きよ」
私のこの想いを小傘は受け取ってくれるだろうか。
「えへへ、わちきも弁々のこと大好きだよ! わちき達はずっと前から友達だもんね!」
一瞬返事が遅れそうになる。
多分、いや間違いなく私と小傘の想いは方向が同じでも種類が全く違う。
私の意図は果たして通じているのか、それともはぐらかされたのか。
それでも、いい。
拒絶されたわけじゃない。
これから、始めていけばいい。
今日はその最初の一歩。
「……ありがとう、嬉しいわ」
この素敵な出会いをくれた運命に、感謝します。
私は心の中で天に向かってお礼を言うと、傘を持つ小傘の手に自分の両手を被せた。
その手はとても温かかった。
その後、二人の付喪神は一緒に傘を差しながらゆっくりと歩き出し、身を寄せ合いながら夜の闇へと消えていった。
小傘と弁々というありそうでなかった組み合わせがよかったです