父と一緒に、長い石段を登る。
私の手を引く父にとっては緩やかな階段でも、齢六歳かそこらの私にとっては一段一段が大きな段差だ。一つ登る度に息が上がり、足を止めたくなるが父はそんな私に構うことなく、ただ石段の先を眺め足を動かし続けている。私が休みたいと言って足を止める父ではない。だから私は疲労に喘ぐ足を懸命に動かし、私を引く父の手に抵抗を与えないように努めた。
まるで無限に続くかのような石段を、もし空を飛べたらこんな石段だって楽だろうにと思いながら登り続けると、その先には赤い鳥居が見えた。まるでゴールとでも言わんばかりに聳え立つ鳥居を見ると、今にも座り込んでしまいそうなほどの疲労に喘ぐ足にも僅かながら活力が湧いてくる。
「よい……しょ!」
最後の一段を掛け声を出しながら超えると、そこには開けた空間があった。真っすぐに続く石段に、自分の住む家と比べると小さな、店の倉庫程度の大きさの社。その裏にも何か建物があるようだったが、何よりも目を引いたのは一人の女の子だった。
赤と白の装束に身を包み、石段を箒で撫でている少女。年は私と同じくらいだろうか。まるであの子だけが、世界から取り残されているように感じた。あるいは、色褪せた世界に彼女だけが色を持っていた……というのはちょっと詩的すぎかな。
だから……だろうか。私はその有様につい先ほどまで疲労に喘ぎ息を切らしていたことも忘れ、よたよたと足を動かしながらあの子へと近づく。
その時の私は、あの子にどんな反応を求めていたのか分からないが、少なくとも次に見せた彼女の反応は予想外のものだった。
「……何?」
あの子の顔が歪み、訝しげな視線を私に向けてくる。警戒……というよりは人間の取り得る、最大限の感情を込めた怪訝そうな顔。そうだと私が分かったのは、ちょうどいま私の後ろにいる父が時偶に私へそんな視線を向けるからだ。
あまり良い思い出の無いその表情、明確な拒絶と警戒に、思わず足が止まる。
「あ……えっと……」
私はたじろぎ、言葉を濁す。思えば、自分と同じくらいの歳の子と喋ったことなんて碌にない。この歳なら寺子屋に通い、同年代の子と一緒に勉強したり遊んだりするのだろうが、私はそうではなかった。道具屋霧雨店の跡取りとして学を身に着けるべく、外で遊ぶこともなく机と向かい合う日々。自分と接する人間なんて一回りも私より歳が上にも関わらず敬語で接してくるような霧雨家の女中さんたちか、もしくは堅物で厳格な父くらいだ。一番距離が近かった香霖さんだって、半妖で見かけ以上に歳を重ねた彼と自分を比べれば大人と子供だ。それも今は既に霧雨店を出て自分の店を持っているらしいし、話す機会もすっかり無くなってしまった。
……それに、本気で父が女の私を跡取りにしようなんてことを考えていないことくらい、幼いながら分かっている。今は病床につく母がいつか男の子を産んだなら、きっと私はその子を跡取りにしようとするだろうし、そうでなくても真の意味で継ぐことになるのは私の将来の婚約者たる男性で、私はあくまでも妻として支える程度の立場だろう。なまじ自分に学がある、学を詰め込まれているからこそ、詰め込まれた学が将来さほど役立たないことは幼いながらも分かっていた。これも日々の勉学のお陰だ。
「霧雨さん、来てくださいましたか」
半ば呆けていたところに、別の声が聞こえてくる。目の前の少女とは違う、やや低い女性の声。
見れば、その声にぴったりな長身の女性が柔和な笑みを浮かべながら社から出てきた。父に比べれば若いが、背は高く、父と同じくらいの背丈だ。少女と同じ赤と白の装束だが、要所に黒が入っているからか、それとも彼女の持つ雰囲気からか、大人びた落ち着きを感じさせる。
……この女性が、あの子のお母さん、なのだろうか。
「いえ、お気になさらず」
父が物腰の柔らかい声を発する。自分にはそう向けられることのない口調だが、商売人である以上、顧客に対してそのような態度をしていたところで驚く理由もない。
「あら、その子は?」
「私の愚女です。この歳ですから、一人で留守番させるわけにもいかず……申し訳ありませんが、同席させても構いませんか? 騒ぐような子ではありませんので、ご迷惑をお掛けすることはないかと思いますが」
「構いませんが……子供たちも、大人の会話に巻き込まれるのも退屈でしょう。霊夢、一緒に遊んできなさい」
「お嬢さんが一緒なら安心ですね。魔理沙、お嬢さんに迷惑を掛けることの無いようにね」
そう言い残して、二人は神社の奥へと進んでいく。
残されたのは、私と少女の二人だけ。
はぁ、と溜息が口から出る。『一人で留守番させるわけにもいかない』……なんて真っ赤な嘘。家にはいつでも女中さんがいるし、そうなったとしても気にするような人じゃないのに。
今日、私がここに連れてこられたのは、父の道具としてだ。
博麗神社。大結界や人里の人間を守護する、幻想郷で唯一無二の存在。父は、そんな大事な場所に対し、商売に持ち掛けようとしているのだ。巫女様が御札や針で妖怪と戦っている姿は人里でも見かけるし、妖怪退治を生業としていることは幻想郷の人間なら誰もが知っている。大結界を守っているともなれば色々と入り用だろうと考え、そこに霧雨店が専属で卸すことで博麗の巫女を霧雨店のお得意様にしてやろう、というのが今日の父の目的だ。……別に霧雨店は悪どいことをしているわけではないし、博麗さんも喜んでくれるならいいのだけど。
本来なら、商談の場に子供を連れてくるようなことはしないだろうが、父はあえて私を連れてきた。あの巫女様が目の前の少女の母であれば、子供を大事にしているというのは母親である彼女にとって好印象だろうし、私と少女が仲良くなればそこからの付き合いだって生まれてくる。
そのための、今日の商談を成功させるための、道具。
とはいえ。
視線を霊夢と呼ばれた少女へ向けなおす。
彼女は、箒で石段を掃く作業に戻っていた。まるでもう私が彼女の視界から消えたみたいに、平然と自分の世界へと戻っていった。
しばらくぼうっとその姿を眺めていたが、このまま何を話せずに終わるのは駄目だと頭を振る。ここに私が連れてこられた目的は、きっとあの子と仲良くなるためだ。父は私にそれを求めているに違いない。
「あの……」
ようやく私は口を開いた。しかし、そこから出たのは声と言っていいかも分からない、途切れた音だった。
……まずい、何を喋っていいか分かんない。人里の子供たちの流行りだって知らないし、敬語で話したほうがいいのかどうかも分からない。
「……何?」
霊夢……さん? ちゃん? ……さん、がいいかな。初対面だし。霊夢さんは手を止めてまたあの訝しげな視線を私に向ける。それに萎縮してしまい、口籠る。そして、そんな私を霊夢さんは一瞥してから興味でもなくなったみたいに視線を地面に向け、箒を動かす。
何を話していいか分からず、ぼうっと箒を掃く霊夢さんをまた眺める。
服装からすると霊夢さんは巫女で、巫女とは神様、ひいては神社に仕える人で、そんな彼女がその神様がいる境内を掃除している。ということはつまり働いている、ということなのだろう。
別に、これくらいの子供が働いているということ自体は珍しくもなんともない。乳離れして言葉が話せて二本足で歩けるようになれば、子供でも十分働ける。実際、寺子屋に通う子供たちだって、田植えや収穫の時期になれば家業を優先するし、寺子屋が無償であっても働き手が減ることを嫌がって通わせない親もいるらしい。……もちろん、私の目でちゃんと見たわけじゃないけれど。
しかし、目の前の霊夢さんはどうも『働かされている』という空気は伝わってこない。この歳の子供なら箒なんて放り捨てて遊びたがるものだと思うが、その子は誰かに言われて渋々、という空気は無く、まるで自分のやっていることが自然であると、そんな空気を纏っている。
「ねぇ」
「な、何?」
なんて、そんな年不相応なことを同じ子供である私が考えていると、霊夢さんが声を発した。私と霊夢さん以外誰もいない境内で、それが自分に向けられた言葉であることは明白だった。
「邪魔、なんだけど」
ぱんぱんと、まるで竹刀でも弄ぶみたいに箒の柄で自分の掌を緩く叩く霊夢さんを見て、自分が今まさに石段のど真ん中に立っていることに気付く。確かに、このまま立っていたら掃除の邪魔にもなるだろう。
「ご、ごめん……なさい」
霊夢さんに顔を向けたまま後退りして石畳の上から移動する。ずむ、と土特有の柔らかい感触が足に伝わってきたのと同時、霊夢さんが箒をまた動かし始める。
「あの……掃除、大変じゃない? 私と同じくらいなのに、仕事して偉いんだね……」
手持ち無沙汰になって、そんなことを口を滑らせる。ついさっきまで、そんなこととは真逆のことを考えていたのに。彼女が偉いとか仕事だとか、そんな理由で箒を動かしているのは十分感じ取っていたはずなのに。
「別に、仕事じゃないわよ……なに、その顔。目を見開いちゃって」
てっきり無視されるかと思っていたから、自分から話し掛けておいて返事が返ってきて少し驚いてしまった。
父が私に求めているのは私が彼女と仲良くなることだろう。それが父親としてではなく商売人としての望みであることは理解しつつも、私は少しでも仲良くならないとと思い会話を続ける。
「仕事じゃない? だったらどうして掃除しているの?」
「……修行、だから。汚いのは私だって嫌だし、あとこうしていると頭の中がすっきりする気がする」
「つまり、霊夢さんにとって掃除は趣味、みたいなもの、なの?」
「趣味……趣味、なのかなぁ」
霊夢さんはぼうっと空を眺めながらそんなことを考えている。どこか掴み処の無い人だが、少なくとも悪い人ではないと感じた。
その後もぽつぽつと話す。といっても私が何か質問をして、霊夢さんが何かを返すだけの、そんな時間。しかし悪いものとは思わなかった。
初めての友人……と呼ぶには早とちりにも程があるだろうが、少なくとも、先ほどまでの居心地の悪さのようなものは無くなった気がする。
一通り質問し終えて会話が途切れたころ。青い空を見上げて話題を探していた私に、霊夢さんが急に質問してきて一瞬戸惑う。
「あんたはどうしてここに来たの?」
「どうしてって……お父さ……父に、連れてこられて」
「ふうん」
質問に答えたのに、どこか素っ気ない反応。何か補足すべきかとも思ったが、まさか『貴方と仲良くなって商談を成功させるため』なんて言えるはずもない。
それ以上何も言うことも出来ず、私はただ黙って霊夢さんの次の言葉を待った。しばらくじっと眺めた後、ぽろりと呟いた。
「あんたが来たくて来たんじゃないんだ」
「あ……?」
その意味がすぐに分からなかったが、今ここでその意味を聞く時間は私には無かった。
「魔理沙、待たせたね」
商談が終わったのか、父が戻ってきた。その後ろには霊夢さんの母親(と思われる女性)も。父はともかく女性も笑顔であるところを見るに、商談は円満に成功したのだろう。
その後、父と女性は一言二言会話を交わすと、私の手を握った。
「ほら、帰るよ。友人に別れの挨拶をしなさい」
父にそう言われ、霊夢さんを見る。霊夢さんの目は、私への興味をすっかりなくし、ただ社交辞令として私を見ているような、そんな目だった。
「さ、さようなら」
ぎこちなく別れの挨拶を霊夢さんにするが、霊夢さんからは「ん」という返事なのか相槌なのかよく分からないものが挨拶の代わりに帰ってきた。
私は父に手を引かれて博麗神社を後にする。
下り坂の石段は登りよりも楽で、下手に手を引っ張ると転落してしまうからか父の足取りもゆっくりだった。だからこそ、頭は肉体を動かすことよりも思考を巡らせることに使われる。
『あんたが来たくて来たんじゃないんだ』
霊夢さんが最後に言ったその言葉。その言葉が妙に引っ掛かる。
まるで、私の意思が無いかのような言い草。しかし実際そうだ。私は父に言われ、父に手を引っ張られるままにここへ来た。そして、父が望む通りにあの子と仲良くなろうとした。そのことに、あの子はどう思ったのだろうか。
「あの子とは、仲良くなれたか?」
まるで私の考えを見抜いていたかのような言葉に、びくりとする。口調こそ厳しいものではないが、問い詰められているような気分になる。
「……ええ。霊夢さんもそう思ってくれているはずです」
「そうか。よくやった」
心無い返答に、心無い父のお褒めの言葉。そんなものが欲しくて、私はあの人に話しかけたんだろうか。
後ろを振り向くと、既に鳥居は見えなくなった。名残惜しそうに見えなくなった博麗神社を思い浮かべていると、階段に躓きそうになり慌てて前を見る。
階段を降りるにつれ、神社からは遠ざかる。人里が、我が家である霧雨店が近付いてくる。家に帰れば、確かお琴の習い事が待っているはず。お琴は難しく、ちゃんと指の動きを覚えておかないとまた先生に怒られてしまう。ちゃんとお琴に集中しないといけない。
にもかかわらず、あの人の顔は頭の中に残り続けている。
……私は、どうしたいのかな?
§
「や、やあ……」
父に連れられて博麗神社を訪れてから、数日後。
私は再び博麗神社を訪れた。長い石段に肩で息をしながら、それでも先日と同じように境内を掃除する霊夢さんへ向けて手を振ると、霊夢さんのこころなしか驚いた顔を見ることが出来た。
「今度は、誰に連れてこられたの?」
「一人よ」
今日は、一人。
父も、女中さんも付人さんもいない、私一人。誰にも言わず、こっそり家を抜け出してここまで来た。
だから、ここに来たのは私の意思だ。
「貴方に会いたくて来たんだ」
「私?」
きょとんとした目、先日は見ることの出来なかった目を、私は見ることが出来た。それを見て、妙な満足感を得た自分がいる。
私は石畳を真っ直ぐ歩き、目の前の拝殿に置かれた賽銭箱へ貴重なお小遣い、一文を入れる。ちゃりんと音が響いた。ふうんと、あの子が感心するような息が聞こえた……ような気がした。
私は賽銭箱の前の石段に座る。あの子も、少し間を空けて横に座った。石段に立てかけられた箒がことんと音を立てる。
そうして、彼女との交流が始まった。
私には習い事があり、霊夢さんも巫女としてのお役目があるから、会える時間は長くはない。だから時間を決めては私から博麗神社へ行って、そこで何と無しに駄弁る。話題なんてお互いのことくらいしかないが、それでも、家に閉じこもって机に向かうよりはよほど楽しかった。……もちろん、家の連中には黙って、だけど。
……もしバレたら、きっと怒られる、のかな。
それが分かっているのに、私はここに来るのを止めなかった。ここに来る度、またここに来たいと思った。何に惹かれているのかは自分でもよく分からないけど。
霊夢さんは頻繁に訪れる私を拒むこともなく、またあの冷たい視線を向けたりもしなかった。感情表現は激しいほうではないらしいが、時折り笑顔を見せてくれる程度には打ち解けた。聞けば彼女もまた私と同じように寺子屋に通っていないらしく、同世代の人と接した経験が無かったのは彼女も同じだったのかもしれない。
……これは、友人と呼んでもいいの、かな?。
§
だが、その関係も長くは無かった。
「お前は、食べてもいい人間?」
博麗神社へと続く石段を登るのにもすっかり慣れたころ。その場所で、私は妖怪に出会った。
その妖怪は、私のすぐ後ろに浮かんでいた。当たり前のように足は石段から離れて浮いていた。
私と同じ金色の髪で、二本の腕に二本の足。白と黒の服を着ていて、姿形は人間のそれと全く同じなのに、まるで糸で吊るされているかのようにふよふよと漂うその姿を見れば、それが妖怪だということは子供でも十分理解出来た。
初めて見る妖怪のその姿は、まるで私と変わらなかった。背丈も私と変わらない、寺子屋に紛れ込んでいたってそれが妖怪だと分からないだろう。
だけど。
その姿を見て、走り出さずにはいられなかった。前によろけながら、半ば四つん這いで石段を駆け上がる。生まれて初めて感じる、生命の危機。今ようやく、私は人里の守護を抜け出していつも博麗神社へと来ていたのだと思い知る。
はっはっと犬のように息を切らして石段を駆け上がりながら、ちらりと後ろを見る。妖怪は、まるで散歩中に得物でも見つけた猫みたいに、無邪気な笑顔を向けてこっちへと飛んでくる。こっちは死に物狂いで足を動かしているのに、そっちは楽しそうに空を飛んでいて。……ずるいのよ。
石段の上、博麗神社まで辿り着ければ妖怪退治が生業の巫女、霊夢さんのお母さんがいるはず。そこまで辿り着ければ助かる。既に体力も失われたはずの私の足を動かすのは、助かりたい、死ぬのが怖いという想いだけだった。
「止まれっ!」
後ろから聞こえたその声に、驚いた私は足を滑らせる。胸を石段に打ち付け、そのまま石段を斜めに転がる。それと同時、妖怪が石段へと突っ込んでくる。もし妖怪が叫んでいなければ、私は後ろから組み付かれていたことだろう。
「いったぁい! なんで避けるのよ!」
それはこっちのセリフよ、なんて叫ぶ余裕もなく、鼻を抑える妖怪を横目にまた石段を登りだす。鳥居は既に見えている、すぐそこ、すぐそこなんだ。
「たっ、助け」
もうすぐそこにゴールがある、そう思うと叫ばずにはいられなかったが、最後まで言うことは出来なかった。
「逃がさないよ」
見れば、さっきまで鼻を石段に打ち付け痛みにのたうち回っていた妖怪が、私の体にぶつかってきた。また体を石段に叩きつける羽目になってしまい、口から空気が残り僅かな体力と一緒に飛び出す。
「安心して。お前はゆっくりと食べてあげる。何日も掛けてゆっくりと。お前も、少しでも長い時間生きていたいでしょ?」
それを聞いて喉がひくっと鳴る。その意味が分からない。分かりたくない。
「でも、ちょっとくらいなら今、味見してもいいよね? 指の一本くらいなら大丈夫だよね?」
妖怪の口、だらだらと涎を垂らすその口が私へと迫ってくる。石段にがっちりと組み伏せられ、ぎりぎりと手首が締め付けられ、私はいやいやと首を横に振ることしか出来ない。ぎらりと、妖怪の口の中にある八重歯……あるいは犬歯のように鋭い何かが光った。
「あ……や……」
もう私には泣き叫ぶことすら出来ず、恐怖に口を震わせることしか出来ない。
どうしてこんなことに。
こっそりと誰にも内緒で家を抜け出してきたことが原因なのだろうか。それとも父の言いつけ通り良い子でいなかったその報いだろうか。
悔やんでも状況は変わらず、私は組み伏せられたままただ怯えて震えるのみ。何も出来ず、ただ食われるのを待つことしか出来ない。
「助けて……」
そんなこと言ったって無駄だと分かっているのに、そう言わずにはいられなかった。助けを呼ぶ誰よりも、自分はこのまま食われるんだと、そう思っていた。
「ぎゃんっ!」
まるで子犬を蹴り飛ばしたような声が響いた。それが私を襲った妖怪のものであることを、すぐには理解出来なかった。妖怪は私を組み伏せていた手を頭の上に置いていた。まるで痛がっているように。
いや、それはきっと間違っていない。
妖怪の体がふわりと浮く。いや、まるで首根っこを掴まれた猫のように持ち上がる。それを持ち上げているのは私ではなかった。
「大丈夫? 魔理沙」
妖怪の後ろには、霊夢さんがいた。その手は私を食べようとした妖怪を掴んでいる。手足を振り回してじたばたと暴れる妖怪と、それを意にも介さず掴んだままの霊夢さんを見ていると、まるで子供と大人だ。
「ほら、どっかへ行きなさい」
霊夢さんがぽいと妖怪を投げる。相手は人の形をしているはずなのに、まるで紙屑でも投げ捨てるみたいに軽々とした動きで宙を舞ったかと思うと、地面に落ちずそのままふわふわと浮かぶ。
「ふんだ!」
妖怪は負け惜しみじみた台詞を吐いてそのまま飛び去っていった。
「大丈夫? あいつ、悪いやつじゃないんだけどね。一応は人を食う妖怪だから、気をつけて」
「人食い妖怪……」
驚いた。
あれが人を食う妖怪だから、ではない。
人を食うという妖怪を子供扱いし、あまつさえ『悪いやつじゃない』なんて言えてしまう霊夢さんに、だった。
「立てる?」
霊夢さんが手を差し伸べる。妖怪を掴んでいた手。
その手を見て、私は、泣いた。
目から大粒の涙をぼろぼろと流し、子供らしくわんわんと泣いた。
死の恐怖はとうに過ぎ去ったはずなのに、ぺたんと石段に女の子座りしたまま天へ泣きじゃくる。
「ちょ、ちょっと泣かないで」
霊夢さんが私を見ている。困惑しているのが声から分かるが、それでも涙は止まらず私は泣き続けた。
私って、弱いなぁ。
その後、私は霊夢さんのお母さんが来るまで泣き続けた。
§
その夜。
「お前はそこで反省していろ」
がちゃんと金属と金属が打ち付け合う耳障りな音が鳴る。地下の密閉空間ではその音が良く響き、思わずびくっと肩を振るわせてしまう。
けれど、それよりも私が恐怖したのはそのけたたましい音よりもかちゃかちゃという小さな金属音だった。その音の意味が分からない私ではない。
座敷牢。
私の家の納屋、その地下にこんな場所があるなんて知らなかった。知りたくなかった。父に強く手を引かれ、口答えも許されないまま冷たい階段を降りた先が、この座敷牢だった。
四畳ほどの小さい空間。恐らく布団の用途で置かれているのであろう布切れ。窓すら無く、父の持つランプが無ければここは完全な暗闇になるだろう。
その中心に、私がいる。目の前の鉄格子に、父が鍵を掛けている。私の親指よりも太いあの鉄格子、私にはどうすることも出来ないだろう。
「あ……あぁ……」
そこまでされて、ようやく父が私にやろうとしていることを理解した。いや、理解したというより信じたくないそれをようやく認める気になった、というところだろう。
ここに一人、置いていかれる。
「待って! ごめんなさい、私が間違っていました! ここから出して!」
私は鉄格子に縋り付き、泣き喚きながら謝罪した。けたたましい音が鳴る。恐怖が、私を包み込んだ。
……怖い。怖いよ!
ただその想いで力の限り鉄格子を揺さぶり、思いつく限り謝って出して欲しいとお願いする。暗闇か、閉所か、それとも孤独か。本当は何が怖いかなんて自分にも分からないが、今まさに父が私を見下ろす冷たい目よりも、この場所は何倍も怖かった。出たかった。
「そうか、反省したか」
「はい、はい……! 反省しました! だから……」
「では、何を反省したんだ?」
……何を?
「お前は反省したと言った。なら、お前は何を反省したのかと、そう聞いているのだ」
その質問に答えることは、私には出来なかった。突然ぶつけられた質問に、頭が真っ白になった。
何を、反省したのか。
勝手に何度も家を抜け出していたこと? 妖怪が跋扈する人里の外に一人で出たこと? 得意様である博麗神社に足繁く通い、挙句その果てにその博麗神社の方々に迷惑を掛けたこと? 父を心配させたこと?
分からない。
どれがこの場の最適解なのか。どの答えを父が私に言わせようとしているのか。
頭がぐちゃぐちゃで、何も考えることが出来ない。
「……そうか」
見つからぬ答えを叫ぼうと喘ぐ私を、父はじっと見ていた。見て、その上で溜め息をついた。落胆と、失望と、そんな色の混じった目を、私に向けていた。
「言えぬということは、反省したというのは嘘だったのだな」
「ちが……違います! 私は……」
「喋れるのならそれで構わん、ここでじっくりと考えるがいい。なに、時間はいくらでもある」
父が鉄格子から離れる。ランプの火が揺れながら下がり、それだけ私に暗闇が忍び寄る。
「待って、待ってよ!」
私は叫ぶが、父がそれで止まるような人間ではないことは私が一番よく知っている。父と、明かりが遠ざかっていく。まるで私の声が聞こえていないかのように、こちらを見ることもなく、ただ立ち去っていく。
ばたん、と大きな音が鳴り、それと同時に光が消えた。戸が閉じられ、この納屋には私一人だけになった。誰も、光すらもここにはおらず、あるのは圧し潰すような暗闇だけ。
「……う、うう……」
嗚咽が漏れる。体が震え、私はただ自分の体を抱きしめて縮こまる。今の私には恐怖に怯えることしか出来なかった。
寒い。日が当たらず冷え切った土の壁が私の熱を奪っていく。手探りで布団替わりの襤褸切れを羽織るが、それでも震えが止まらない。
お腹空いた。そういえば今日は昼から何も食べてない。妖怪に襲われてから父が迎えに来るまでの間に博麗神社で貰ったお菓子が最後の食事だった。ここにはお腹に入れられそうなものは見えないが、いずれは納屋に忍び込んだ鼠や虫を食べなければならないのだろうか。
私は、どうなるんだろうか。
いっそ泣き叫んで疲れて眠ることが出来たなら楽だったのかもしれないが、それを自覚している程度には年不相応に聡い私は、涙をぽたぽたと流しながらこれからのことを考える。考えてしまう。
明日になれば、父はここを出してくれるだろうか。だけど、もし来てくれなければずっと私はここにいるのだろうか。ずっとこの暗闇の中で生き続けるのか、それとも飢えて死んでしまうか。
体が、一際大きくぶるりと震える。
「反省して……良い子に、ならなくちゃ」
私が良い子になれば、きっと父は許してくれるはずだ。父を困らせない、外に出しても恥ずかしくない良い子に。そうすれば、出してもらえるに違いない。
きっと、『黙って家を出る』なんてことをしたのが父は許せなかったのだ。黙っているということは、後ろめたいから、それがいけないことだと分かっているからなんだ。ちゃんと父に話していれば……いや、そもそも家を出なければ、こうはならなかった。こっそり家を抜け出すなんてことしなければ、人里の外で妖怪に襲われることも、お得意様に迷惑を掛けることも、父の手を煩わせることもなかった。
私が悪い子だから、今こうしてここにいるんだ。だから、良い子に、もっと良い子にならなきゃいけないんだ。
(本当にそれって、『良い子』なの?)
ぽう、と。
光が視界に入る。その光は青白く、そして柔らかかった。暗闇に慣れた目にも優しく、そして冷たい体に染みるような暖かさを感じた。
「こんにちは、お嬢ちゃん」
声が聞こえた。低い、大人の女性の声。私にとって大人の女性とは、いつも低姿勢で私みたいな子供でも敬語でやんわりと喋る女中ばかりだったから、そのどこかさばさばしたような喋り方は新鮮だった。
こぼれそうな涙を腕で拭いながら、首を上げる。
そこには、女性……と言っていいのだろうか。とんがり帽子を被るその顔はまさしく大人の女性のそれだが、視線を下げ、青い服のその下に目を向ければ、そこには本来あるべき肌色の二本の足ではなく、白くひょろんとした何かが鉄格子の先でゆらゆらと宙に漂っている。
とどのつまり、彼女には足がなく、幽霊だった。本では見たことはあるし、火の玉みたいな小さい幽霊なら珍しくもないが、人の形をして服まで着ているような幽霊は初めてかもしれない。
そして、幻想郷だと人の姿をしているのは妖怪でも幽霊でもみんな力が強いものだ。
座敷牢を優しく照らす光は、どうやら幽霊さんの体から発されているらしい。幽霊は夜に遭遇するものと相場が決まっているし、もしかしたら幽霊というのは光るものなのかもしれない。
「貴方は……?」
普通なら、目の前に幽霊が現れれば恐怖に臆するものだろう。しかし、私はあっさりと目の前の存在を受け入れた。その光の温かさと、何より優しそうな微笑が、私の恐怖心も警戒心も紐解いてしまったのだ。
今思えば、もしかしたら魅了の術でも使っていたのかもしれない。突然現れた幽霊を初対面で信用するなんて、普通なら有り得ないことだと分かっている。だが、もしそれが真実だとしても、私は彼女を恨むこともこの後の自分の選択を後悔することも、絶対にない。
「私かい? ……魅魔。少々魔法も嗜む程度の、どこにでもいる悪霊さ」
「悪霊? 私を呪い殺しにでも来たの?」
「お嬢ちゃん、本気でそう思っているのかい?」
ぜんぜん、とばかりに私は首を振る。
きっとこの人が私を殺すことなんてしないだろう。もしそれが目的なら私は既に死んでいるだろうし、何よりこんな優しそうな微笑を浮かべている人が私を殺すはずがない。
「ふむ、やはり私の目に狂いは無かったようだ。聡い子は好きだよ」
彼女……魅魔さんは腕を組んで一人で納得するみたいにふんふんと頷く。私の何を見て何を納得しているのか、私にはよく分からない。
「あの……」
「ああ、悪いね。年を取ると一人で勝手に考えて一人で納得しちまう。いけないことだ」
そう言って魅魔さんは大げさに肩を竦める。一つ一つの反応が過剰というか、大げさな人だなと思った。
「さて」
彼女が屈む……と表現していいのだろうか。空中に寝転がるようにして、ぺたんと座る私と視線を合わせてくる。ふよふよと、その体が鉄格子の先で浮いている。
「あんた、ここから出たいかい?」
「ここから?」
「ああそうさ、私が出してあげよっか」
出してあげる。この座敷牢から。
私はその言葉を理解した上で、彼女ならきっと無理矢理に私をここから出すことも出来るだろうということも理解して、それでも私は首を横に振る。
「おや、どうしてだい?」
「だって、それは良い子じゃないから」
「良い子じゃない?」
魅魔さんがふむと不思議そうな顔で私を見る。
「勝手に抜け出すのは、駄目なこと、いけないことなの。そうやって抜け出しても、悪いことした私はまた、ここに連れ戻されるから」
そう考えると、また涙が溢れそうになる。もしかしたらこうして話していること自体が、父をまた怒らせてしまう行為なのかもしれない。もし魅魔さんが退治でもされてしまったら。私はまた一人だ。私のせいで誰かがいなくなるだなんて、私は嫌だ。
それを聞いて、魅魔さんはまたふむと唸る。何かを吟味するような反応。しばらく考え込んでから、その綺麗な顔を私に近付ける。目を通じて、お互いの考えていることが筒抜けになりそうだった。
「なら……質問を変えようか」
魅魔さんは私の顔を覗き込む。間に鉄格子があることも忘れそうになるほど、私はその目に惹き込まれた。
「あんた、どうしたいんだい?」
「え?」
「ずっとここにいたいのなら、私は去るよ。邪魔したね」
空中に寝転がっていた彼女の体が持ち上がる。まるで椅子から立ち上がるようなその仕草。ランプを持つ父の姿が重なる。光が、遠ざかる。
ここを去る。去ってしまう。また、この暗闇に一人取り残される。
「待って、待ってよ!」
父が去ろうとした時に言った言葉と、寸分違わぬ言葉が出た。違ったのは、彼女が足を止め、こちらをじっと見てくれたこと。……足は無いけど。
「なんだい?」
じっと、魅魔さんが私を見る。私の言葉を、微笑みを浮かべながら待っている。
私は、俯く。目を閉じると、脳裏に浮かぶのは、二つの顔。
一つは、父の顔。私をここに連れてきた時のあの冷たい顔を、忘れたことは無い。それは、父が私に最も長い時間を向けていたのだから。父の期待に応えられなかった時、いつもあの目で私を見ていた。
そしてもう一つは、霊夢さんの顔。短い間だったけど、あのどこか達観していて無頓着な顔を、私は決して忘れることはないだろう。多分あれは、私が初めて見た、本心の顔だったと思う。感情があまり読めないが、それでも私はあの顔が好きだ。
ここを出る。
良い子でここにずっといれば、きっといつかは父が出してくれるだろう。そして、良い子で父の下に居続ければ、きっとこれからの暮らしに困ることはないと思う。勉学に励み、商いについて学び、そしていつかは娶られまだ見ぬ夫と霧雨店を切り盛りしていく。ずっと父にそう言われ続け、そしてそれはきっと間違っていないのだろう。
妖怪に守られるこの人里、そして人里でも上位に位置する霧雨店。それらの庇護無しに生きていけるほど、幻想虚は甘い場所ではない。私は恵まれていると、そう思う。
けれど、もし。
父の顔。霊夢さんの顔。
自分の中で、脳裏に浮かぶ霊夢さんの存在が大きくなる。父の存在が押しのけられていく。
霊夢さんのあの顔。彼女もまた、幼いながら博麗の巫女としてのお役目があった。博麗の巫女として妖怪を退治し異変を治められるよう、修行していた。その点で言えば、私と似通っているとも言える。
だけど、彼女は自由だった。
自らの運命を受け入れ、しかし嘆くことも嘲ることもなかった。お役目があってなお、彼女は強く、自由だった。自分を持っていた。人間として、二本の足で立っていた。父の目ばかりを気にして生きてきた、私と違って。
そんなところに、私は惹かれたんだ。
そして、叶うのなら。
「私は、あの子の……あいつの前に、立ちたい」
「ほう?」
魅魔さんの、どこか関心するような声。
それに弾かれるように、私は首を持ち上げ、彼女を見る。
「魅魔さん、魔法が使えるって言ってたよね?」
「ああ、嗜む程度にはな」
「だったら、私に魔法を教えて」
私は、あいつの前に立ちたい。守られるだけの一般人としてではなく、妖怪としてでもなく、対等な立場になりたい。
そして、負けたくない。そう思った。
きっと、目の前の彼女ならそれを叶えてくれる。
「お金も、出せるものは何も無いけど……なんでもするから! だから、私に……」
「良く言った」
魅魔さんがいつの間にか手に持っていた、先端に三日月のような形をしたステッキを振りかぶる。まるでその手の中の得物で私の首を刈らんとしているかのようなその仕草に、思わず手を地面に着き、仰向けのまま手足を使って這うように下がる。
私が下がるのを見届けてから、魅魔さんがその手の得物を振るう。空気を裂く音が座敷牢に響き、遅れて鉄格子が砂糖菓子のように切断され、地面に落ちてからからと音を立てる。どういう理屈か、彼女は一度しか手の中の鎌を振るっていないのに、鉄格子は手のひらに収まる程度の長さに切り刻まれていた。私の背丈の倍はあった長い鉄の棒が、今や短く切り揃えらた金太郎飴のように辺りに散らばっていた。
「私がここに来たのは、勧誘のためだったんだ」
「勧誘? 私を?」
「そう。私もそろそろ弟子なんかが欲しいかなと考えていてね、お前のような聡い子供を探していたんだよ。神社でお前を見つけた時は、ぴんと来たと喜んだものさ」
「そう、なんだ」
「駄々をこねるなら無理矢理拉致してやろうと思っていたが、自分からそう言ってくれるなら都合がいい。思う存分こき使えるというもの」
魅魔さんは切り落とされ遮るものの無くなった座敷牢へ、私へと手を伸ばす。
この手を握れば、私は魔法使いとしての道を進むことになる。人生は変わり、それは同時にもう元の暮らしには戻ることは出来ないということを意味している。
だけど、私は躊躇わなかった。
魅魔さんの手を握る。悪霊というだけあって、その手はひんやりとしていて人間の体温とは程遠かった。それでも私の中に生まれつつある熱が冷やされることなく、むしろその冷たさに彼女が人でないことを、これから私はそういったものと関わっていくのだと、高揚し熱が生まれていくのを感じた。自分がこういうものを好むだなんて、お行儀よく机に向かっている自分には想像出来なかった。
私は一歩を踏み出す。鉄格子の残骸を超え、座敷牢の外へ。魅魔さんが、まるでお姫様でも扱うかのようにうやうやしく手を引いてくれる。
その夜、私は座敷牢を、家を抜け出した。
人里の空を、魅魔様に抱きかかえられて飛びながら見下ろすと、自分の家だった場所、霧雨店が見えた。
人里ではとても大きい部類であろうあの家も、こうして空から見下ろせば、なんとも小さく見えた。
「さようなら、お父さん」
きっと、この声は届かない。だがそれで良かった。
§
「よっと」
私は鳥居を潜り、石畳に着地する。すたっと綺麗に降り立つつもりだったが、上手く止まることが出来ずに、箒に跨ったまま進み続け、靴を石畳にざりざりとこすりつけながらようやく止まった。
博麗神社。人が少なくしんと静まり返ったこの場所で、あいつはいつも通り箒を握っていた。違うところと言えば、その手は止まったまま、そいつはきょとんとした目で私を見ていたことくらいだ。
「……何?」
「何って、そりゃ酷いぜ。だって一年振りの再会だぜ? もっと再会を喜ぶなり感激に咽び泣くなりしてくれると思ったのに、酷い奴だよお前は」
「ずっと見てなかったから、てっきり死んだと思ってたわ。あとその喋り方は何なの?」
……まあ、そんなことはどうでもいいだろ。
香霖の奴に貰ったミニ八卦炉を霊夢に突き付け、高らかに私は宣言する。
「私は霧雨魔理沙。今は普通の魔法使いだ! これからは、私も異変に首を突っ込ませてもらうぜ! お前一人だけに良い格好なんてさせないからな!」
ぽかんとした目を霊夢は向けている。何を言っているんだこいつは、と言葉にせずとも目が訴えてくる。だが、その程度で当然この魔理沙さんが宣言を取り消したりするはずもない。
あの日、魅魔様が私を霧雨店から連れ出してから、約一年。
私は魔法の森にある小さな一軒家で、魅魔様と二人で暮らした。
弟子を取る、と言ったわりには、私が学んだことといえば魔法に関することが半分、もう半分は一人で生きていくための家事や自炊だった。その魔法も、基礎の基礎、研究の進め方と簡単な魔法、それと箒での空の飛び方くらい。弟子というからには魅魔様が生涯……悪霊に生涯と言っていいのかは分からないが……を掛けた魔法の真髄でも教わるのかと思っていたが、そんなことは無かった。
魔法の基礎と家事について学んで一年。半人前の魔法使いとして一人で生きていく程度にはなった頃。魅魔様は「もう私に教えられることは何もない」なんて在り来たりなことを言って家を出ていった。そもそもこの家は魅魔様の家だったのではないだろうか。
魅魔様との修行が退屈だったのかというとそうではなく、魔法に研究にと忙しい日々だったが、毎日が楽しかった。なまじ勉学と称して机に向かうことには慣れていただけに、華やかな魔法の裏で必要となる研究という行為は私に合っていたように思う。
魅魔様がわざわざ拉致紛いのことをしてまで私を弟子にした理由。
この一年間、魅魔様と暮らしたが終ぞそれは分からなかった。
弟子というものに元々さほど興味が無かったのか、あるいは座敷牢に閉じ込められた私を見かねてのことだったのか、それとも本当に魅魔様が伝えたかったことはこれが全てなのか。今となっては分からない。
だが、これで私は力を得た。一人で生き、妖怪とだって渡り合えるようになった。もう、妖怪に襲われて何もできずに泣く私はもういない。異変だって、私が解決してやる。
「だから、今日から私はお前のライバルだ」
宣戦布告。
にやりと笑って、私は霊夢にミニ八卦炉をぐいと突き付けた。
「何のつもりか知らないけど……面倒事に私を巻き込まないでよね。まあいいけど」
はぁと大きな溜息をついてから、あいつは私を見た。それは、それまで見たことの無い、あいつの笑顔だった。優しい笑顔。
「おかえり。それとも、ようこそって言うべきかしら」
その言葉、その表情に、私は初めて霊夢から受け入れられたと、対等な場所に立てたと、そう思えた。
思わず涙が込み上げそうになるが、それを無理矢理堪えて私は笑ってこう言った。
「……ああ!」
私の手を引く父にとっては緩やかな階段でも、齢六歳かそこらの私にとっては一段一段が大きな段差だ。一つ登る度に息が上がり、足を止めたくなるが父はそんな私に構うことなく、ただ石段の先を眺め足を動かし続けている。私が休みたいと言って足を止める父ではない。だから私は疲労に喘ぐ足を懸命に動かし、私を引く父の手に抵抗を与えないように努めた。
まるで無限に続くかのような石段を、もし空を飛べたらこんな石段だって楽だろうにと思いながら登り続けると、その先には赤い鳥居が見えた。まるでゴールとでも言わんばかりに聳え立つ鳥居を見ると、今にも座り込んでしまいそうなほどの疲労に喘ぐ足にも僅かながら活力が湧いてくる。
「よい……しょ!」
最後の一段を掛け声を出しながら超えると、そこには開けた空間があった。真っすぐに続く石段に、自分の住む家と比べると小さな、店の倉庫程度の大きさの社。その裏にも何か建物があるようだったが、何よりも目を引いたのは一人の女の子だった。
赤と白の装束に身を包み、石段を箒で撫でている少女。年は私と同じくらいだろうか。まるであの子だけが、世界から取り残されているように感じた。あるいは、色褪せた世界に彼女だけが色を持っていた……というのはちょっと詩的すぎかな。
だから……だろうか。私はその有様につい先ほどまで疲労に喘ぎ息を切らしていたことも忘れ、よたよたと足を動かしながらあの子へと近づく。
その時の私は、あの子にどんな反応を求めていたのか分からないが、少なくとも次に見せた彼女の反応は予想外のものだった。
「……何?」
あの子の顔が歪み、訝しげな視線を私に向けてくる。警戒……というよりは人間の取り得る、最大限の感情を込めた怪訝そうな顔。そうだと私が分かったのは、ちょうどいま私の後ろにいる父が時偶に私へそんな視線を向けるからだ。
あまり良い思い出の無いその表情、明確な拒絶と警戒に、思わず足が止まる。
「あ……えっと……」
私はたじろぎ、言葉を濁す。思えば、自分と同じくらいの歳の子と喋ったことなんて碌にない。この歳なら寺子屋に通い、同年代の子と一緒に勉強したり遊んだりするのだろうが、私はそうではなかった。道具屋霧雨店の跡取りとして学を身に着けるべく、外で遊ぶこともなく机と向かい合う日々。自分と接する人間なんて一回りも私より歳が上にも関わらず敬語で接してくるような霧雨家の女中さんたちか、もしくは堅物で厳格な父くらいだ。一番距離が近かった香霖さんだって、半妖で見かけ以上に歳を重ねた彼と自分を比べれば大人と子供だ。それも今は既に霧雨店を出て自分の店を持っているらしいし、話す機会もすっかり無くなってしまった。
……それに、本気で父が女の私を跡取りにしようなんてことを考えていないことくらい、幼いながら分かっている。今は病床につく母がいつか男の子を産んだなら、きっと私はその子を跡取りにしようとするだろうし、そうでなくても真の意味で継ぐことになるのは私の将来の婚約者たる男性で、私はあくまでも妻として支える程度の立場だろう。なまじ自分に学がある、学を詰め込まれているからこそ、詰め込まれた学が将来さほど役立たないことは幼いながらも分かっていた。これも日々の勉学のお陰だ。
「霧雨さん、来てくださいましたか」
半ば呆けていたところに、別の声が聞こえてくる。目の前の少女とは違う、やや低い女性の声。
見れば、その声にぴったりな長身の女性が柔和な笑みを浮かべながら社から出てきた。父に比べれば若いが、背は高く、父と同じくらいの背丈だ。少女と同じ赤と白の装束だが、要所に黒が入っているからか、それとも彼女の持つ雰囲気からか、大人びた落ち着きを感じさせる。
……この女性が、あの子のお母さん、なのだろうか。
「いえ、お気になさらず」
父が物腰の柔らかい声を発する。自分にはそう向けられることのない口調だが、商売人である以上、顧客に対してそのような態度をしていたところで驚く理由もない。
「あら、その子は?」
「私の愚女です。この歳ですから、一人で留守番させるわけにもいかず……申し訳ありませんが、同席させても構いませんか? 騒ぐような子ではありませんので、ご迷惑をお掛けすることはないかと思いますが」
「構いませんが……子供たちも、大人の会話に巻き込まれるのも退屈でしょう。霊夢、一緒に遊んできなさい」
「お嬢さんが一緒なら安心ですね。魔理沙、お嬢さんに迷惑を掛けることの無いようにね」
そう言い残して、二人は神社の奥へと進んでいく。
残されたのは、私と少女の二人だけ。
はぁ、と溜息が口から出る。『一人で留守番させるわけにもいかない』……なんて真っ赤な嘘。家にはいつでも女中さんがいるし、そうなったとしても気にするような人じゃないのに。
今日、私がここに連れてこられたのは、父の道具としてだ。
博麗神社。大結界や人里の人間を守護する、幻想郷で唯一無二の存在。父は、そんな大事な場所に対し、商売に持ち掛けようとしているのだ。巫女様が御札や針で妖怪と戦っている姿は人里でも見かけるし、妖怪退治を生業としていることは幻想郷の人間なら誰もが知っている。大結界を守っているともなれば色々と入り用だろうと考え、そこに霧雨店が専属で卸すことで博麗の巫女を霧雨店のお得意様にしてやろう、というのが今日の父の目的だ。……別に霧雨店は悪どいことをしているわけではないし、博麗さんも喜んでくれるならいいのだけど。
本来なら、商談の場に子供を連れてくるようなことはしないだろうが、父はあえて私を連れてきた。あの巫女様が目の前の少女の母であれば、子供を大事にしているというのは母親である彼女にとって好印象だろうし、私と少女が仲良くなればそこからの付き合いだって生まれてくる。
そのための、今日の商談を成功させるための、道具。
とはいえ。
視線を霊夢と呼ばれた少女へ向けなおす。
彼女は、箒で石段を掃く作業に戻っていた。まるでもう私が彼女の視界から消えたみたいに、平然と自分の世界へと戻っていった。
しばらくぼうっとその姿を眺めていたが、このまま何を話せずに終わるのは駄目だと頭を振る。ここに私が連れてこられた目的は、きっとあの子と仲良くなるためだ。父は私にそれを求めているに違いない。
「あの……」
ようやく私は口を開いた。しかし、そこから出たのは声と言っていいかも分からない、途切れた音だった。
……まずい、何を喋っていいか分かんない。人里の子供たちの流行りだって知らないし、敬語で話したほうがいいのかどうかも分からない。
「……何?」
霊夢……さん? ちゃん? ……さん、がいいかな。初対面だし。霊夢さんは手を止めてまたあの訝しげな視線を私に向ける。それに萎縮してしまい、口籠る。そして、そんな私を霊夢さんは一瞥してから興味でもなくなったみたいに視線を地面に向け、箒を動かす。
何を話していいか分からず、ぼうっと箒を掃く霊夢さんをまた眺める。
服装からすると霊夢さんは巫女で、巫女とは神様、ひいては神社に仕える人で、そんな彼女がその神様がいる境内を掃除している。ということはつまり働いている、ということなのだろう。
別に、これくらいの子供が働いているということ自体は珍しくもなんともない。乳離れして言葉が話せて二本足で歩けるようになれば、子供でも十分働ける。実際、寺子屋に通う子供たちだって、田植えや収穫の時期になれば家業を優先するし、寺子屋が無償であっても働き手が減ることを嫌がって通わせない親もいるらしい。……もちろん、私の目でちゃんと見たわけじゃないけれど。
しかし、目の前の霊夢さんはどうも『働かされている』という空気は伝わってこない。この歳の子供なら箒なんて放り捨てて遊びたがるものだと思うが、その子は誰かに言われて渋々、という空気は無く、まるで自分のやっていることが自然であると、そんな空気を纏っている。
「ねぇ」
「な、何?」
なんて、そんな年不相応なことを同じ子供である私が考えていると、霊夢さんが声を発した。私と霊夢さん以外誰もいない境内で、それが自分に向けられた言葉であることは明白だった。
「邪魔、なんだけど」
ぱんぱんと、まるで竹刀でも弄ぶみたいに箒の柄で自分の掌を緩く叩く霊夢さんを見て、自分が今まさに石段のど真ん中に立っていることに気付く。確かに、このまま立っていたら掃除の邪魔にもなるだろう。
「ご、ごめん……なさい」
霊夢さんに顔を向けたまま後退りして石畳の上から移動する。ずむ、と土特有の柔らかい感触が足に伝わってきたのと同時、霊夢さんが箒をまた動かし始める。
「あの……掃除、大変じゃない? 私と同じくらいなのに、仕事して偉いんだね……」
手持ち無沙汰になって、そんなことを口を滑らせる。ついさっきまで、そんなこととは真逆のことを考えていたのに。彼女が偉いとか仕事だとか、そんな理由で箒を動かしているのは十分感じ取っていたはずなのに。
「別に、仕事じゃないわよ……なに、その顔。目を見開いちゃって」
てっきり無視されるかと思っていたから、自分から話し掛けておいて返事が返ってきて少し驚いてしまった。
父が私に求めているのは私が彼女と仲良くなることだろう。それが父親としてではなく商売人としての望みであることは理解しつつも、私は少しでも仲良くならないとと思い会話を続ける。
「仕事じゃない? だったらどうして掃除しているの?」
「……修行、だから。汚いのは私だって嫌だし、あとこうしていると頭の中がすっきりする気がする」
「つまり、霊夢さんにとって掃除は趣味、みたいなもの、なの?」
「趣味……趣味、なのかなぁ」
霊夢さんはぼうっと空を眺めながらそんなことを考えている。どこか掴み処の無い人だが、少なくとも悪い人ではないと感じた。
その後もぽつぽつと話す。といっても私が何か質問をして、霊夢さんが何かを返すだけの、そんな時間。しかし悪いものとは思わなかった。
初めての友人……と呼ぶには早とちりにも程があるだろうが、少なくとも、先ほどまでの居心地の悪さのようなものは無くなった気がする。
一通り質問し終えて会話が途切れたころ。青い空を見上げて話題を探していた私に、霊夢さんが急に質問してきて一瞬戸惑う。
「あんたはどうしてここに来たの?」
「どうしてって……お父さ……父に、連れてこられて」
「ふうん」
質問に答えたのに、どこか素っ気ない反応。何か補足すべきかとも思ったが、まさか『貴方と仲良くなって商談を成功させるため』なんて言えるはずもない。
それ以上何も言うことも出来ず、私はただ黙って霊夢さんの次の言葉を待った。しばらくじっと眺めた後、ぽろりと呟いた。
「あんたが来たくて来たんじゃないんだ」
「あ……?」
その意味がすぐに分からなかったが、今ここでその意味を聞く時間は私には無かった。
「魔理沙、待たせたね」
商談が終わったのか、父が戻ってきた。その後ろには霊夢さんの母親(と思われる女性)も。父はともかく女性も笑顔であるところを見るに、商談は円満に成功したのだろう。
その後、父と女性は一言二言会話を交わすと、私の手を握った。
「ほら、帰るよ。友人に別れの挨拶をしなさい」
父にそう言われ、霊夢さんを見る。霊夢さんの目は、私への興味をすっかりなくし、ただ社交辞令として私を見ているような、そんな目だった。
「さ、さようなら」
ぎこちなく別れの挨拶を霊夢さんにするが、霊夢さんからは「ん」という返事なのか相槌なのかよく分からないものが挨拶の代わりに帰ってきた。
私は父に手を引かれて博麗神社を後にする。
下り坂の石段は登りよりも楽で、下手に手を引っ張ると転落してしまうからか父の足取りもゆっくりだった。だからこそ、頭は肉体を動かすことよりも思考を巡らせることに使われる。
『あんたが来たくて来たんじゃないんだ』
霊夢さんが最後に言ったその言葉。その言葉が妙に引っ掛かる。
まるで、私の意思が無いかのような言い草。しかし実際そうだ。私は父に言われ、父に手を引っ張られるままにここへ来た。そして、父が望む通りにあの子と仲良くなろうとした。そのことに、あの子はどう思ったのだろうか。
「あの子とは、仲良くなれたか?」
まるで私の考えを見抜いていたかのような言葉に、びくりとする。口調こそ厳しいものではないが、問い詰められているような気分になる。
「……ええ。霊夢さんもそう思ってくれているはずです」
「そうか。よくやった」
心無い返答に、心無い父のお褒めの言葉。そんなものが欲しくて、私はあの人に話しかけたんだろうか。
後ろを振り向くと、既に鳥居は見えなくなった。名残惜しそうに見えなくなった博麗神社を思い浮かべていると、階段に躓きそうになり慌てて前を見る。
階段を降りるにつれ、神社からは遠ざかる。人里が、我が家である霧雨店が近付いてくる。家に帰れば、確かお琴の習い事が待っているはず。お琴は難しく、ちゃんと指の動きを覚えておかないとまた先生に怒られてしまう。ちゃんとお琴に集中しないといけない。
にもかかわらず、あの人の顔は頭の中に残り続けている。
……私は、どうしたいのかな?
§
「や、やあ……」
父に連れられて博麗神社を訪れてから、数日後。
私は再び博麗神社を訪れた。長い石段に肩で息をしながら、それでも先日と同じように境内を掃除する霊夢さんへ向けて手を振ると、霊夢さんのこころなしか驚いた顔を見ることが出来た。
「今度は、誰に連れてこられたの?」
「一人よ」
今日は、一人。
父も、女中さんも付人さんもいない、私一人。誰にも言わず、こっそり家を抜け出してここまで来た。
だから、ここに来たのは私の意思だ。
「貴方に会いたくて来たんだ」
「私?」
きょとんとした目、先日は見ることの出来なかった目を、私は見ることが出来た。それを見て、妙な満足感を得た自分がいる。
私は石畳を真っ直ぐ歩き、目の前の拝殿に置かれた賽銭箱へ貴重なお小遣い、一文を入れる。ちゃりんと音が響いた。ふうんと、あの子が感心するような息が聞こえた……ような気がした。
私は賽銭箱の前の石段に座る。あの子も、少し間を空けて横に座った。石段に立てかけられた箒がことんと音を立てる。
そうして、彼女との交流が始まった。
私には習い事があり、霊夢さんも巫女としてのお役目があるから、会える時間は長くはない。だから時間を決めては私から博麗神社へ行って、そこで何と無しに駄弁る。話題なんてお互いのことくらいしかないが、それでも、家に閉じこもって机に向かうよりはよほど楽しかった。……もちろん、家の連中には黙って、だけど。
……もしバレたら、きっと怒られる、のかな。
それが分かっているのに、私はここに来るのを止めなかった。ここに来る度、またここに来たいと思った。何に惹かれているのかは自分でもよく分からないけど。
霊夢さんは頻繁に訪れる私を拒むこともなく、またあの冷たい視線を向けたりもしなかった。感情表現は激しいほうではないらしいが、時折り笑顔を見せてくれる程度には打ち解けた。聞けば彼女もまた私と同じように寺子屋に通っていないらしく、同世代の人と接した経験が無かったのは彼女も同じだったのかもしれない。
……これは、友人と呼んでもいいの、かな?。
§
だが、その関係も長くは無かった。
「お前は、食べてもいい人間?」
博麗神社へと続く石段を登るのにもすっかり慣れたころ。その場所で、私は妖怪に出会った。
その妖怪は、私のすぐ後ろに浮かんでいた。当たり前のように足は石段から離れて浮いていた。
私と同じ金色の髪で、二本の腕に二本の足。白と黒の服を着ていて、姿形は人間のそれと全く同じなのに、まるで糸で吊るされているかのようにふよふよと漂うその姿を見れば、それが妖怪だということは子供でも十分理解出来た。
初めて見る妖怪のその姿は、まるで私と変わらなかった。背丈も私と変わらない、寺子屋に紛れ込んでいたってそれが妖怪だと分からないだろう。
だけど。
その姿を見て、走り出さずにはいられなかった。前によろけながら、半ば四つん這いで石段を駆け上がる。生まれて初めて感じる、生命の危機。今ようやく、私は人里の守護を抜け出していつも博麗神社へと来ていたのだと思い知る。
はっはっと犬のように息を切らして石段を駆け上がりながら、ちらりと後ろを見る。妖怪は、まるで散歩中に得物でも見つけた猫みたいに、無邪気な笑顔を向けてこっちへと飛んでくる。こっちは死に物狂いで足を動かしているのに、そっちは楽しそうに空を飛んでいて。……ずるいのよ。
石段の上、博麗神社まで辿り着ければ妖怪退治が生業の巫女、霊夢さんのお母さんがいるはず。そこまで辿り着ければ助かる。既に体力も失われたはずの私の足を動かすのは、助かりたい、死ぬのが怖いという想いだけだった。
「止まれっ!」
後ろから聞こえたその声に、驚いた私は足を滑らせる。胸を石段に打ち付け、そのまま石段を斜めに転がる。それと同時、妖怪が石段へと突っ込んでくる。もし妖怪が叫んでいなければ、私は後ろから組み付かれていたことだろう。
「いったぁい! なんで避けるのよ!」
それはこっちのセリフよ、なんて叫ぶ余裕もなく、鼻を抑える妖怪を横目にまた石段を登りだす。鳥居は既に見えている、すぐそこ、すぐそこなんだ。
「たっ、助け」
もうすぐそこにゴールがある、そう思うと叫ばずにはいられなかったが、最後まで言うことは出来なかった。
「逃がさないよ」
見れば、さっきまで鼻を石段に打ち付け痛みにのたうち回っていた妖怪が、私の体にぶつかってきた。また体を石段に叩きつける羽目になってしまい、口から空気が残り僅かな体力と一緒に飛び出す。
「安心して。お前はゆっくりと食べてあげる。何日も掛けてゆっくりと。お前も、少しでも長い時間生きていたいでしょ?」
それを聞いて喉がひくっと鳴る。その意味が分からない。分かりたくない。
「でも、ちょっとくらいなら今、味見してもいいよね? 指の一本くらいなら大丈夫だよね?」
妖怪の口、だらだらと涎を垂らすその口が私へと迫ってくる。石段にがっちりと組み伏せられ、ぎりぎりと手首が締め付けられ、私はいやいやと首を横に振ることしか出来ない。ぎらりと、妖怪の口の中にある八重歯……あるいは犬歯のように鋭い何かが光った。
「あ……や……」
もう私には泣き叫ぶことすら出来ず、恐怖に口を震わせることしか出来ない。
どうしてこんなことに。
こっそりと誰にも内緒で家を抜け出してきたことが原因なのだろうか。それとも父の言いつけ通り良い子でいなかったその報いだろうか。
悔やんでも状況は変わらず、私は組み伏せられたままただ怯えて震えるのみ。何も出来ず、ただ食われるのを待つことしか出来ない。
「助けて……」
そんなこと言ったって無駄だと分かっているのに、そう言わずにはいられなかった。助けを呼ぶ誰よりも、自分はこのまま食われるんだと、そう思っていた。
「ぎゃんっ!」
まるで子犬を蹴り飛ばしたような声が響いた。それが私を襲った妖怪のものであることを、すぐには理解出来なかった。妖怪は私を組み伏せていた手を頭の上に置いていた。まるで痛がっているように。
いや、それはきっと間違っていない。
妖怪の体がふわりと浮く。いや、まるで首根っこを掴まれた猫のように持ち上がる。それを持ち上げているのは私ではなかった。
「大丈夫? 魔理沙」
妖怪の後ろには、霊夢さんがいた。その手は私を食べようとした妖怪を掴んでいる。手足を振り回してじたばたと暴れる妖怪と、それを意にも介さず掴んだままの霊夢さんを見ていると、まるで子供と大人だ。
「ほら、どっかへ行きなさい」
霊夢さんがぽいと妖怪を投げる。相手は人の形をしているはずなのに、まるで紙屑でも投げ捨てるみたいに軽々とした動きで宙を舞ったかと思うと、地面に落ちずそのままふわふわと浮かぶ。
「ふんだ!」
妖怪は負け惜しみじみた台詞を吐いてそのまま飛び去っていった。
「大丈夫? あいつ、悪いやつじゃないんだけどね。一応は人を食う妖怪だから、気をつけて」
「人食い妖怪……」
驚いた。
あれが人を食う妖怪だから、ではない。
人を食うという妖怪を子供扱いし、あまつさえ『悪いやつじゃない』なんて言えてしまう霊夢さんに、だった。
「立てる?」
霊夢さんが手を差し伸べる。妖怪を掴んでいた手。
その手を見て、私は、泣いた。
目から大粒の涙をぼろぼろと流し、子供らしくわんわんと泣いた。
死の恐怖はとうに過ぎ去ったはずなのに、ぺたんと石段に女の子座りしたまま天へ泣きじゃくる。
「ちょ、ちょっと泣かないで」
霊夢さんが私を見ている。困惑しているのが声から分かるが、それでも涙は止まらず私は泣き続けた。
私って、弱いなぁ。
その後、私は霊夢さんのお母さんが来るまで泣き続けた。
§
その夜。
「お前はそこで反省していろ」
がちゃんと金属と金属が打ち付け合う耳障りな音が鳴る。地下の密閉空間ではその音が良く響き、思わずびくっと肩を振るわせてしまう。
けれど、それよりも私が恐怖したのはそのけたたましい音よりもかちゃかちゃという小さな金属音だった。その音の意味が分からない私ではない。
座敷牢。
私の家の納屋、その地下にこんな場所があるなんて知らなかった。知りたくなかった。父に強く手を引かれ、口答えも許されないまま冷たい階段を降りた先が、この座敷牢だった。
四畳ほどの小さい空間。恐らく布団の用途で置かれているのであろう布切れ。窓すら無く、父の持つランプが無ければここは完全な暗闇になるだろう。
その中心に、私がいる。目の前の鉄格子に、父が鍵を掛けている。私の親指よりも太いあの鉄格子、私にはどうすることも出来ないだろう。
「あ……あぁ……」
そこまでされて、ようやく父が私にやろうとしていることを理解した。いや、理解したというより信じたくないそれをようやく認める気になった、というところだろう。
ここに一人、置いていかれる。
「待って! ごめんなさい、私が間違っていました! ここから出して!」
私は鉄格子に縋り付き、泣き喚きながら謝罪した。けたたましい音が鳴る。恐怖が、私を包み込んだ。
……怖い。怖いよ!
ただその想いで力の限り鉄格子を揺さぶり、思いつく限り謝って出して欲しいとお願いする。暗闇か、閉所か、それとも孤独か。本当は何が怖いかなんて自分にも分からないが、今まさに父が私を見下ろす冷たい目よりも、この場所は何倍も怖かった。出たかった。
「そうか、反省したか」
「はい、はい……! 反省しました! だから……」
「では、何を反省したんだ?」
……何を?
「お前は反省したと言った。なら、お前は何を反省したのかと、そう聞いているのだ」
その質問に答えることは、私には出来なかった。突然ぶつけられた質問に、頭が真っ白になった。
何を、反省したのか。
勝手に何度も家を抜け出していたこと? 妖怪が跋扈する人里の外に一人で出たこと? 得意様である博麗神社に足繁く通い、挙句その果てにその博麗神社の方々に迷惑を掛けたこと? 父を心配させたこと?
分からない。
どれがこの場の最適解なのか。どの答えを父が私に言わせようとしているのか。
頭がぐちゃぐちゃで、何も考えることが出来ない。
「……そうか」
見つからぬ答えを叫ぼうと喘ぐ私を、父はじっと見ていた。見て、その上で溜め息をついた。落胆と、失望と、そんな色の混じった目を、私に向けていた。
「言えぬということは、反省したというのは嘘だったのだな」
「ちが……違います! 私は……」
「喋れるのならそれで構わん、ここでじっくりと考えるがいい。なに、時間はいくらでもある」
父が鉄格子から離れる。ランプの火が揺れながら下がり、それだけ私に暗闇が忍び寄る。
「待って、待ってよ!」
私は叫ぶが、父がそれで止まるような人間ではないことは私が一番よく知っている。父と、明かりが遠ざかっていく。まるで私の声が聞こえていないかのように、こちらを見ることもなく、ただ立ち去っていく。
ばたん、と大きな音が鳴り、それと同時に光が消えた。戸が閉じられ、この納屋には私一人だけになった。誰も、光すらもここにはおらず、あるのは圧し潰すような暗闇だけ。
「……う、うう……」
嗚咽が漏れる。体が震え、私はただ自分の体を抱きしめて縮こまる。今の私には恐怖に怯えることしか出来なかった。
寒い。日が当たらず冷え切った土の壁が私の熱を奪っていく。手探りで布団替わりの襤褸切れを羽織るが、それでも震えが止まらない。
お腹空いた。そういえば今日は昼から何も食べてない。妖怪に襲われてから父が迎えに来るまでの間に博麗神社で貰ったお菓子が最後の食事だった。ここにはお腹に入れられそうなものは見えないが、いずれは納屋に忍び込んだ鼠や虫を食べなければならないのだろうか。
私は、どうなるんだろうか。
いっそ泣き叫んで疲れて眠ることが出来たなら楽だったのかもしれないが、それを自覚している程度には年不相応に聡い私は、涙をぽたぽたと流しながらこれからのことを考える。考えてしまう。
明日になれば、父はここを出してくれるだろうか。だけど、もし来てくれなければずっと私はここにいるのだろうか。ずっとこの暗闇の中で生き続けるのか、それとも飢えて死んでしまうか。
体が、一際大きくぶるりと震える。
「反省して……良い子に、ならなくちゃ」
私が良い子になれば、きっと父は許してくれるはずだ。父を困らせない、外に出しても恥ずかしくない良い子に。そうすれば、出してもらえるに違いない。
きっと、『黙って家を出る』なんてことをしたのが父は許せなかったのだ。黙っているということは、後ろめたいから、それがいけないことだと分かっているからなんだ。ちゃんと父に話していれば……いや、そもそも家を出なければ、こうはならなかった。こっそり家を抜け出すなんてことしなければ、人里の外で妖怪に襲われることも、お得意様に迷惑を掛けることも、父の手を煩わせることもなかった。
私が悪い子だから、今こうしてここにいるんだ。だから、良い子に、もっと良い子にならなきゃいけないんだ。
(本当にそれって、『良い子』なの?)
ぽう、と。
光が視界に入る。その光は青白く、そして柔らかかった。暗闇に慣れた目にも優しく、そして冷たい体に染みるような暖かさを感じた。
「こんにちは、お嬢ちゃん」
声が聞こえた。低い、大人の女性の声。私にとって大人の女性とは、いつも低姿勢で私みたいな子供でも敬語でやんわりと喋る女中ばかりだったから、そのどこかさばさばしたような喋り方は新鮮だった。
こぼれそうな涙を腕で拭いながら、首を上げる。
そこには、女性……と言っていいのだろうか。とんがり帽子を被るその顔はまさしく大人の女性のそれだが、視線を下げ、青い服のその下に目を向ければ、そこには本来あるべき肌色の二本の足ではなく、白くひょろんとした何かが鉄格子の先でゆらゆらと宙に漂っている。
とどのつまり、彼女には足がなく、幽霊だった。本では見たことはあるし、火の玉みたいな小さい幽霊なら珍しくもないが、人の形をして服まで着ているような幽霊は初めてかもしれない。
そして、幻想郷だと人の姿をしているのは妖怪でも幽霊でもみんな力が強いものだ。
座敷牢を優しく照らす光は、どうやら幽霊さんの体から発されているらしい。幽霊は夜に遭遇するものと相場が決まっているし、もしかしたら幽霊というのは光るものなのかもしれない。
「貴方は……?」
普通なら、目の前に幽霊が現れれば恐怖に臆するものだろう。しかし、私はあっさりと目の前の存在を受け入れた。その光の温かさと、何より優しそうな微笑が、私の恐怖心も警戒心も紐解いてしまったのだ。
今思えば、もしかしたら魅了の術でも使っていたのかもしれない。突然現れた幽霊を初対面で信用するなんて、普通なら有り得ないことだと分かっている。だが、もしそれが真実だとしても、私は彼女を恨むこともこの後の自分の選択を後悔することも、絶対にない。
「私かい? ……魅魔。少々魔法も嗜む程度の、どこにでもいる悪霊さ」
「悪霊? 私を呪い殺しにでも来たの?」
「お嬢ちゃん、本気でそう思っているのかい?」
ぜんぜん、とばかりに私は首を振る。
きっとこの人が私を殺すことなんてしないだろう。もしそれが目的なら私は既に死んでいるだろうし、何よりこんな優しそうな微笑を浮かべている人が私を殺すはずがない。
「ふむ、やはり私の目に狂いは無かったようだ。聡い子は好きだよ」
彼女……魅魔さんは腕を組んで一人で納得するみたいにふんふんと頷く。私の何を見て何を納得しているのか、私にはよく分からない。
「あの……」
「ああ、悪いね。年を取ると一人で勝手に考えて一人で納得しちまう。いけないことだ」
そう言って魅魔さんは大げさに肩を竦める。一つ一つの反応が過剰というか、大げさな人だなと思った。
「さて」
彼女が屈む……と表現していいのだろうか。空中に寝転がるようにして、ぺたんと座る私と視線を合わせてくる。ふよふよと、その体が鉄格子の先で浮いている。
「あんた、ここから出たいかい?」
「ここから?」
「ああそうさ、私が出してあげよっか」
出してあげる。この座敷牢から。
私はその言葉を理解した上で、彼女ならきっと無理矢理に私をここから出すことも出来るだろうということも理解して、それでも私は首を横に振る。
「おや、どうしてだい?」
「だって、それは良い子じゃないから」
「良い子じゃない?」
魅魔さんがふむと不思議そうな顔で私を見る。
「勝手に抜け出すのは、駄目なこと、いけないことなの。そうやって抜け出しても、悪いことした私はまた、ここに連れ戻されるから」
そう考えると、また涙が溢れそうになる。もしかしたらこうして話していること自体が、父をまた怒らせてしまう行為なのかもしれない。もし魅魔さんが退治でもされてしまったら。私はまた一人だ。私のせいで誰かがいなくなるだなんて、私は嫌だ。
それを聞いて、魅魔さんはまたふむと唸る。何かを吟味するような反応。しばらく考え込んでから、その綺麗な顔を私に近付ける。目を通じて、お互いの考えていることが筒抜けになりそうだった。
「なら……質問を変えようか」
魅魔さんは私の顔を覗き込む。間に鉄格子があることも忘れそうになるほど、私はその目に惹き込まれた。
「あんた、どうしたいんだい?」
「え?」
「ずっとここにいたいのなら、私は去るよ。邪魔したね」
空中に寝転がっていた彼女の体が持ち上がる。まるで椅子から立ち上がるようなその仕草。ランプを持つ父の姿が重なる。光が、遠ざかる。
ここを去る。去ってしまう。また、この暗闇に一人取り残される。
「待って、待ってよ!」
父が去ろうとした時に言った言葉と、寸分違わぬ言葉が出た。違ったのは、彼女が足を止め、こちらをじっと見てくれたこと。……足は無いけど。
「なんだい?」
じっと、魅魔さんが私を見る。私の言葉を、微笑みを浮かべながら待っている。
私は、俯く。目を閉じると、脳裏に浮かぶのは、二つの顔。
一つは、父の顔。私をここに連れてきた時のあの冷たい顔を、忘れたことは無い。それは、父が私に最も長い時間を向けていたのだから。父の期待に応えられなかった時、いつもあの目で私を見ていた。
そしてもう一つは、霊夢さんの顔。短い間だったけど、あのどこか達観していて無頓着な顔を、私は決して忘れることはないだろう。多分あれは、私が初めて見た、本心の顔だったと思う。感情があまり読めないが、それでも私はあの顔が好きだ。
ここを出る。
良い子でここにずっといれば、きっといつかは父が出してくれるだろう。そして、良い子で父の下に居続ければ、きっとこれからの暮らしに困ることはないと思う。勉学に励み、商いについて学び、そしていつかは娶られまだ見ぬ夫と霧雨店を切り盛りしていく。ずっと父にそう言われ続け、そしてそれはきっと間違っていないのだろう。
妖怪に守られるこの人里、そして人里でも上位に位置する霧雨店。それらの庇護無しに生きていけるほど、幻想虚は甘い場所ではない。私は恵まれていると、そう思う。
けれど、もし。
父の顔。霊夢さんの顔。
自分の中で、脳裏に浮かぶ霊夢さんの存在が大きくなる。父の存在が押しのけられていく。
霊夢さんのあの顔。彼女もまた、幼いながら博麗の巫女としてのお役目があった。博麗の巫女として妖怪を退治し異変を治められるよう、修行していた。その点で言えば、私と似通っているとも言える。
だけど、彼女は自由だった。
自らの運命を受け入れ、しかし嘆くことも嘲ることもなかった。お役目があってなお、彼女は強く、自由だった。自分を持っていた。人間として、二本の足で立っていた。父の目ばかりを気にして生きてきた、私と違って。
そんなところに、私は惹かれたんだ。
そして、叶うのなら。
「私は、あの子の……あいつの前に、立ちたい」
「ほう?」
魅魔さんの、どこか関心するような声。
それに弾かれるように、私は首を持ち上げ、彼女を見る。
「魅魔さん、魔法が使えるって言ってたよね?」
「ああ、嗜む程度にはな」
「だったら、私に魔法を教えて」
私は、あいつの前に立ちたい。守られるだけの一般人としてではなく、妖怪としてでもなく、対等な立場になりたい。
そして、負けたくない。そう思った。
きっと、目の前の彼女ならそれを叶えてくれる。
「お金も、出せるものは何も無いけど……なんでもするから! だから、私に……」
「良く言った」
魅魔さんがいつの間にか手に持っていた、先端に三日月のような形をしたステッキを振りかぶる。まるでその手の中の得物で私の首を刈らんとしているかのようなその仕草に、思わず手を地面に着き、仰向けのまま手足を使って這うように下がる。
私が下がるのを見届けてから、魅魔さんがその手の得物を振るう。空気を裂く音が座敷牢に響き、遅れて鉄格子が砂糖菓子のように切断され、地面に落ちてからからと音を立てる。どういう理屈か、彼女は一度しか手の中の鎌を振るっていないのに、鉄格子は手のひらに収まる程度の長さに切り刻まれていた。私の背丈の倍はあった長い鉄の棒が、今や短く切り揃えらた金太郎飴のように辺りに散らばっていた。
「私がここに来たのは、勧誘のためだったんだ」
「勧誘? 私を?」
「そう。私もそろそろ弟子なんかが欲しいかなと考えていてね、お前のような聡い子供を探していたんだよ。神社でお前を見つけた時は、ぴんと来たと喜んだものさ」
「そう、なんだ」
「駄々をこねるなら無理矢理拉致してやろうと思っていたが、自分からそう言ってくれるなら都合がいい。思う存分こき使えるというもの」
魅魔さんは切り落とされ遮るものの無くなった座敷牢へ、私へと手を伸ばす。
この手を握れば、私は魔法使いとしての道を進むことになる。人生は変わり、それは同時にもう元の暮らしには戻ることは出来ないということを意味している。
だけど、私は躊躇わなかった。
魅魔さんの手を握る。悪霊というだけあって、その手はひんやりとしていて人間の体温とは程遠かった。それでも私の中に生まれつつある熱が冷やされることなく、むしろその冷たさに彼女が人でないことを、これから私はそういったものと関わっていくのだと、高揚し熱が生まれていくのを感じた。自分がこういうものを好むだなんて、お行儀よく机に向かっている自分には想像出来なかった。
私は一歩を踏み出す。鉄格子の残骸を超え、座敷牢の外へ。魅魔さんが、まるでお姫様でも扱うかのようにうやうやしく手を引いてくれる。
その夜、私は座敷牢を、家を抜け出した。
人里の空を、魅魔様に抱きかかえられて飛びながら見下ろすと、自分の家だった場所、霧雨店が見えた。
人里ではとても大きい部類であろうあの家も、こうして空から見下ろせば、なんとも小さく見えた。
「さようなら、お父さん」
きっと、この声は届かない。だがそれで良かった。
§
「よっと」
私は鳥居を潜り、石畳に着地する。すたっと綺麗に降り立つつもりだったが、上手く止まることが出来ずに、箒に跨ったまま進み続け、靴を石畳にざりざりとこすりつけながらようやく止まった。
博麗神社。人が少なくしんと静まり返ったこの場所で、あいつはいつも通り箒を握っていた。違うところと言えば、その手は止まったまま、そいつはきょとんとした目で私を見ていたことくらいだ。
「……何?」
「何って、そりゃ酷いぜ。だって一年振りの再会だぜ? もっと再会を喜ぶなり感激に咽び泣くなりしてくれると思ったのに、酷い奴だよお前は」
「ずっと見てなかったから、てっきり死んだと思ってたわ。あとその喋り方は何なの?」
……まあ、そんなことはどうでもいいだろ。
香霖の奴に貰ったミニ八卦炉を霊夢に突き付け、高らかに私は宣言する。
「私は霧雨魔理沙。今は普通の魔法使いだ! これからは、私も異変に首を突っ込ませてもらうぜ! お前一人だけに良い格好なんてさせないからな!」
ぽかんとした目を霊夢は向けている。何を言っているんだこいつは、と言葉にせずとも目が訴えてくる。だが、その程度で当然この魔理沙さんが宣言を取り消したりするはずもない。
あの日、魅魔様が私を霧雨店から連れ出してから、約一年。
私は魔法の森にある小さな一軒家で、魅魔様と二人で暮らした。
弟子を取る、と言ったわりには、私が学んだことといえば魔法に関することが半分、もう半分は一人で生きていくための家事や自炊だった。その魔法も、基礎の基礎、研究の進め方と簡単な魔法、それと箒での空の飛び方くらい。弟子というからには魅魔様が生涯……悪霊に生涯と言っていいのかは分からないが……を掛けた魔法の真髄でも教わるのかと思っていたが、そんなことは無かった。
魔法の基礎と家事について学んで一年。半人前の魔法使いとして一人で生きていく程度にはなった頃。魅魔様は「もう私に教えられることは何もない」なんて在り来たりなことを言って家を出ていった。そもそもこの家は魅魔様の家だったのではないだろうか。
魅魔様との修行が退屈だったのかというとそうではなく、魔法に研究にと忙しい日々だったが、毎日が楽しかった。なまじ勉学と称して机に向かうことには慣れていただけに、華やかな魔法の裏で必要となる研究という行為は私に合っていたように思う。
魅魔様がわざわざ拉致紛いのことをしてまで私を弟子にした理由。
この一年間、魅魔様と暮らしたが終ぞそれは分からなかった。
弟子というものに元々さほど興味が無かったのか、あるいは座敷牢に閉じ込められた私を見かねてのことだったのか、それとも本当に魅魔様が伝えたかったことはこれが全てなのか。今となっては分からない。
だが、これで私は力を得た。一人で生き、妖怪とだって渡り合えるようになった。もう、妖怪に襲われて何もできずに泣く私はもういない。異変だって、私が解決してやる。
「だから、今日から私はお前のライバルだ」
宣戦布告。
にやりと笑って、私は霊夢にミニ八卦炉をぐいと突き付けた。
「何のつもりか知らないけど……面倒事に私を巻き込まないでよね。まあいいけど」
はぁと大きな溜息をついてから、あいつは私を見た。それは、それまで見たことの無い、あいつの笑顔だった。優しい笑顔。
「おかえり。それとも、ようこそって言うべきかしら」
その言葉、その表情に、私は初めて霊夢から受け入れられたと、対等な場所に立てたと、そう思えた。
思わず涙が込み上げそうになるが、それを無理矢理堪えて私は笑ってこう言った。
「……ああ!」