Coolier - 新生・東方創想話

獄窓から眺める無窮

2021/12/23 21:47:46
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 数多の星が浮かぶ無重力の空間はあまりに虚無的で、その凪の海を揺蕩うレイセンは幾度となく現状からの逃避を試みていた。背中に物差しでも入れられているかのように身体はぴんと伸びていて、まっすぐと頭側へ流れていく。回転していないのが幸いだったが、上下の感覚は消えていた。
 天の川は相変わらず綺麗で、少し泳げば手が届くのではないかと思えた。赤、青、黄色と個性豊かな輝きが密集していて、その一つ一つが星なのだと思うと、宇宙はずいぶん狭いと感じられた。しかし、レイセンの漂流を妨げる物体など、周りには何もない。そのことに気づくと、あまりの広さに心細くなって、「なんとかなるさ」とうわごとのように呟きはじめた。
 伝達係として月と地球を行き来することはあったが、羽衣による重力コントロール下から逃れたことはない。イーグルラビィを筆頭に、戦闘員の玉兎たちは訓練の一環として無重力下による模擬の銃撃戦を経験するのだが、若いレイセンは、訓練以外では銃の引き金を引いたことさえなかった。
 無重力を初めて体験した彼女は、「こんなもんか」と思った。かつて流刑に処された玉兎のテレパシーを受け取った時、のんきなレイセンは、宇宙遊泳を楽しめばいいのにと思ったが、なるほどこれは刑罰に相応しいと、ひとり無窮の最中にて考えを改めた。

「寂しいよー」

 羽衣の生命維持装置は無事だったから、泣き言を漏らす余力はあった。しかし、重力機構は壊れていて、スラスターも何もついていなかったので、移動はできなかった。あまりにむなしい。泣き言すら薄い羽衣のベールの範囲にしか届かないのだ。大して移動したわけでもないが、故郷がその目には映らないくらいには遠くに来てしまった。




 未来予知という普遍の夢がある。外の世界では量子論によりラプラスの魔物が否定されたが、月ではその万能の知性を生み出す計画が進められていた。限りなく正確に近い予知能力は誰もが望むものである。また未来への不安は度が過ぎると穢れの一種になりえる。それを打ち消すには暗示や洗脳という手段を用いて、楽天的な性格を植え付けるしかなかった。未来予知が可能になれば、不安の種そのものを取り除けるのだ。
 計画そのものは、はるか昔から存在していた。統計に頼る以外で、予測を立てるには時間の超越が最も効率が良い、と学者たちは考えた。三次元から四次元に干渉する超常の力、輝夜の持つ永遠と須臾を操る能力は、その要となる予定であった。
 しかし、計画の中枢を担う輝夜の逃亡により、一時的に頓挫していたのだ。月の頭脳たる八意永琳が協力的ではなかったのも要因の一つである。
 時を経てその計画が再起動しようとしていた。完全こそ清浄とする月の民の貪欲で傲慢な向上心は留まることを知らなかった。いわば、必然であった。
 通称「弥勒計画」四十億年先まで見通し、現在の時間軸から未来に干渉する理論を打ち立てるべく学者たちは日夜研究に励んでいた。その過程で、綿月家にも白羽の矢が刺さったのだ。権力で封殺されているが、唯一、綿月家が八意とコンタクトを図れることは周知の事実であった。初めは不干渉を貫いていたが、権力者に押し切られ、八意の知恵を借りてくるという条件を飲んだ綿月家は、レイセンを遣いに出した。
 レイセンが羽衣ひとつで幻想郷の土を踏んだのはこれが二度目であった。親切な巫女に助けてもらった一度目とは違い、今回はスムーズに永遠亭にたどり着けた。預かってきた封書を渡すと永琳はさっと目を通した。

「こんなのうまくいくわけないわ。必ず綻びが出るもの」

 そうにべもなく言ったが、可愛い弟子たちの体裁を守るために永琳は筆を執った。己の頭脳で考えられる範囲の机上の空論を、三日ほどで適当にでっち上げた。その封書を綿月家に持ち帰るまでが今回のレイセンの任務だった。




 そして帰る際、またしてもスペースデブリにぶつかってしまい、レイセンは頭の片隅でデジャブを覚えながら、意識を失った。
 そのまま気絶して宇宙を漂っていた。目が覚めたころには、地球も月も、見失っていた。通信機器は故障していて、耳に備わっている遠隔通話機能も範囲外であった。彼女の耳はあまり優秀ではなかった。
 生命維持装置だけは無事だったが、そのせいで死ぬこともままならなかった。

「どうしよー」

 玉兎特有の楽天的な感覚が残っているうちはまだよかったが、何もない空間を一人で彷徨い続けると、嫌でも恐怖に塗りつぶされてくる。羽衣をちぎってしまえば楽になれる。しかし、先天的に臆病なレイセンは、自決を選ぶ勇気など持ち合わせてはいなかった。加えて、死を強く意識した瞬間、穢れに侵されると教育されている玉兎は、どうしても死のイメージを浮かべられなかった。

「あれがなんだろう、彗星の巣だ、きっと。そしてあれが石炭袋。あ、あの赤いのはたぶんこないだ流された、ええと名前なんだっけ」

 見えるものすべてに興味を示し、連想から思い出を引き出して、見えもしない時間を浪費した。偶然取り出せた思い出を、濁った水で何倍にも薄めて晩酌するかのように過去に浸った。何気ない日常が愛おしい。訓練を何度もさぼって得た暇は、臆病さゆえの焦燥と興奮に満ちていて、今のように穏やかではなかった。停滞はどうしようもなく苦しい。時計や規則に縛られて、鬱陶しく思うくらいがちょうどいいのかもしれない。
 ただただ酩酊を思い描きながら意識を濁らせる。きらびやかな星々の一部と混じりあう妄想を、ひたすら浮かべて狂気に至ろうとした。しかし、空腹を知らせる音がそれを拒んだ。ポケットに残っていた携帯食料をもさもさとほおばって、機械的に無理に飲み下した。水がないからつらかった。

「あーあ、あの団子おいしかったなぁ」

 最後に食べた団子の味を思い出す。封書をもらうまではずっと永遠亭にいたが、鈴仙に帰り際、鈴瑚の経営している団子屋のことを教えてもらったので、興味をそそられ立ち寄ったのだ。店先の縁台に腰かけて、地上の団子を食べながら、それほど昔でもない思い出話に花を咲かせていると、いつの間にか清蘭もその輪に加わっていた。
 玉兎の中でも優秀な情報部隊だった鈴瑚は、弥勒計画のことを知っていた。

「成功するはずないよね。私でもわかるよ。意固地になって進めてるみたいだけど、うすうす気づいていると思うな」
「えー、でも完成したらすごい便利じゃん。死人が減るし、訓練も減るよ」
「計画の途中でいっぱい死んでるよ。実験用玉兎が。ちなみに清蘭も候補だったよ」
「マジ?」
「うんマジ。次元に干渉できる能力持ちはほとんど対象だった」
「なんで助かったの私」
「なんでかなー。不自然だよねー」

 そう言って、含みを持たせた笑みを浮かべた鈴瑚の意図に、レイセンや清蘭が気づくはずもなかった。
 そこまで思い返して、レイセンは含み笑いの意味を想像しようかと思ったが、穢れた地上の団子の味を思い起こすほうが楽しそうだと判断した。甘くて、素朴で、毎日だと飽きるけど三日に一度くらいは食べたくなるような、外連味と純粋さが同居したような味わい。前歯で噛むとぷつんとちぎれて、咀嚼するたびにもちもちとした触感が強くなるような逸品だった。

「また食べたいな」

 そう呟いてからふとある考えがよぎった。あの団子を食べなければ、封書を持ってさっさと帰れば、デブリにぶつからなかったのだ。弥勒計画が完成していれば、こんな事態も防げたのだ。月の技術の停滞を初めて憎らしく感じた。そして団子屋を勧めた鈴仙にも腹が立った。

「帰ったらもう一回地上に行くぞ。先輩に文句を言うんだ。そんでもう一回あの団子を食べるんだ」

 そう己を鼓舞するように吐き出した言葉は、この漂流中で一番身体の芯に響いた気がした。




 のどの渇きと空腹を自覚し始めると、それを堪え続けるストイックさに陶酔する以外に対処ができなくなる。意識が冴えて眠りに落ちれないものだから、しばらくは地獄であった。
 レイセンは懺悔を繰り返すようになった。桃の香りに包まれて、いつでもついた餅を食べられる月の都は、清貧を気取りながら暮らすにしてはあまりにも贅沢であった。

「お団子食べたいなぁ。今なら何個でも入るのに。絶対残さないのに」

 日々の暮らしをセピア色に染め上げ、豊かだった栄光として思い起こし、戒めることで今の空腹感の帳尻を合わせようとしていた。しかし、懺悔などというものはすでに手遅れな事象にせめてもの安らぎを見出すためでしかない。延々と悔恨に苛まれる道を選ぶのは、愚か者である。玉兎の中でもとりわけレイセンは賢くなかった。懺悔こそが清らかなる精神を育むという教えを信じて疑わなかった。

「もっとちゃんと訓練してればよかったなぁ。裁縫術も勉強すればよかった」

 レイセンの名を引き継いだ彼女であったが、一代目と比べられることはほとんどなかった。ペットにつける名前は識別の記号である。輝夜が地上の兎を総じてイナバと呼ぶように、番号より可愛げがあるだけで、たいした意味などないのだ。ゆえに過去の影と競争させられることもない。その立場に甘んじていたレイセンが、いろいろ足りないのは仕方がなかった。
 二日も食事を摂らないと身体は慣れてくる。なまじ妖怪よりの肉体構造を持つ玉兎であるから、空腹は苦痛ではあったが、それによって死を自覚することはなかった。極限状態に陥りながら、浅い眠りにつくようになった。

「未来が読めたらいいのに」

 未来を考える必要もない能天気な過去を思い起こすと、無性に悲しくなってきた。すがるような気持ちで、永琳から受け取った封書をポケットから取り出した。
 封書は妙な刻印がなされていたが、開くことはできた。鍵の役割を果たすものではないらしい。古代文字なのか、それともオリジナルの暗号なのか、見当もつかないが、蟻のようにびっしりと敷き詰められた文字列をぼんやりと見つめていると、規則性がある気がしてきた。そしてレイセンは、通りすがりのブラフマンとの邂逅を果たした。

「読める、全部読める!」

 宇宙を構成する物質であるこの肉体を贄として捧げることによって、何物にも束縛されない力を得ることができる。重力を振り切った今なら時空を歪めて、過去への干渉すら可能となるだろう。この文書はそのための方程式であった。おそらく思念体となってしまうが、不浄を良しとしない月の都で、肉体の有無がそれほど重要であるとも思えなかった。
 レイセンは即座に実行に移した。四次元空間へと侵入し、デブリにぶつかった日にたどり着く。鈴瑚の店に寄って、団子を食べた瞬間、レイセンは緊急アラートを再現した耳障りなノイズを発した。

「うあああ、頭が痛いよおおお」
「う、これは緊急招集の音ね」
「どうしよ! どうしよー!」

 それを耳で直接受け取った過去のレイセンたちは、その場にうずくまってしまった。ノイズをやめるとレイセンたちはまたしゃべり始めた。

「いやーきつかったねー」
「月で何かあったのかもね」

 鈴瑚がそう言うと、レイセンは少し考えるような仕草をした。その横でひいひい喚いているのは清蘭である。

「もう! この耳すごい不便! オフにできないのかな」
「下級兵にはムリムリ。高いよオンオフ機能」
「じゃあ外そうかな。発信機もついてるんでしょ」
「ついてるけど、あんまり意味ないし。現にさ、誰も捕まえにこないでしょ。全玉兎の管理なんてしてないんだって。これ情報局機密」
「なんにせよ無駄じゃん。ちょっと痛くてもちぎったほうがいい気がする」
「いやそれはさ、アイデンティティがね。ほら清蘭の耳は大事な体の一部だからさ。ね」

 怒ったように耳を引っ張る清蘭を宥めながら、鈴瑚は小さい声で「わざわざ残したんだから」と言った。二人の会話を切るようにレイセンは口を開いた。

「もうちょっと長居しようかなー。今帰らないほうがいい気がする」
「かもねー」

 緊急事態の最中に帰るより、しばらく永遠亭でのんびりさせてもらうのもいいかもしれない。後々飼い主たちに嫉妬されるのが怖いが、永琳が忙しくて返事を書くのが遅れたとでも言い訳すれば大丈夫だろうと楽観的な考えに至った。
 かくしてレイセンが帰り際にデブリにぶつかる未来は消えた。因果律が修正され、新しい未来が訪れるであろう。
 だがレイセンは一抹の不安を抱えていた。未来が修正されたら今の自分はどうなるのだろう。パラドックスが発生するのではないか。消滅してしまうのではないか。それとも新しい時間軸の多元宇宙が生成されて、今の自分はそもそも何も変わらないのではないか。不安を押し殺して、レイセンは大声で叫んだ。

「これで帰れる!」

 レイセンは四次元空間を抜け出た。
 嫌な予感はたいてい形を変えて的中するもので、案の定、それは夢だった。否、夢でなかったとしても現状は何も変わっていなかった。文書は読めない上、よくよく考えてみると、封書の中身は未来予知に関する事柄であるはずだから、過去へ干渉できるのは不自然である。

「ああーもうなんなのよー」 

 たとえ狂気を操れたとしても、一介の玉兎が宇宙の真理にたどり着けるはずがない。彼女にできるのは宇宙の片隅で、芸術的に喚き散らすか、悲しくすすり泣くくらいである。




 胡蝶の夢であったが、それに希望を抱いたことは確かであり、レイセンはそれから夢への逃避行をするようになった。
 絶望に苛まれた中で見る夢は悪夢ばかりであったが、それでも夢にすがるしかなかった。現実を夢に挿げ替えるために波長を狂わせていく。優秀な鈴仙なら一発なのだろうが、レイセンは狂気のコントロールが下手であった。まどろみの中で、永遠亭で鈴仙にコツを聞いた時のことを思い出していた。

「わかんないけどね。ほとんど感覚だから。あ、でも精神エネルギーは極限の中で培われるのものだと思うのよ。うん、五感遮断の訓練後とか、すごいうまくいったもの。今思うとあの訓練に耐えきったからそれなりにできるのかもね」

 鈴仙は思い出を謙遜しながら美化するきらいがあった。優秀さをひけらかすしゃべり口に、レイセンは愛想笑いで返した。他人の表情や偽物の感情に敏感な鈴仙だったが、思い出話だけはしゃべり続けないと気が済まないたちだった。

「要は強いショックを何回も経験していると狂気に至るのね。ほら、長生きしてる奴なんてみんな頭おかしいじゃない」
「確かに」

 レイセンにも身に覚えがあったので大きく頷いた。
 会話を思い出してから、レイセンはわざと死について考えはじめた。能天気な頭脳では、いつも無意識に避けてしまう題目を、存分に意識した。生きるとは、死ぬとは、どういうことなのだろうか。答えなど出せなくても良かった。悟る前に考えるのをやめて、振り出しに戻るからである。
 死を強く意識すると穢れが蓄積する。防衛機構として、玉兎たちには自己暗示の狂気があった。それを操るのが上手い者ほど優秀である。優秀ではないレイセンだが、徐々にコントロールできるようになっていた。
 夢は次第に明晰夢となった。遠くのほうで訓練に使う銃の軽い音が聞こえる。あたたかい芝生の上で、桃をかじりながら綿月家の屋敷を眺めていた。窓が開いたら、さぼっているのがばれてしまう。桃も勝手にとったものだから、怒られるかもしれない。

「あ、私一人だった」

 口にしてしまった瞬間、これが夢でしかないことを悟った。訓練兵も、飼い主も遠くに居て、会うことはできないのだ。

「うーん、忘れたいなぁ」

 狂気のコントロールは一筋縄ではいかないようで、どうしてもこのやり方だと現実の記憶を中途半端に持ち込んでしまうらしい。どうにかして夢で意識を保ちつつ、現実をあやふやにできないか、レイセンが頭を悩ませているとドレミースイートが様子を見に来た。

「ずいぶんと積極的に悪夢を見てるみたいなんで見に来ました」

 初対面であるにも関わらず親しげに話しかけるドレミーは、普段なら怪しんで警戒する対象であったが、何日もずっと人と会話していなかったレイセンにしてみれば救世主のように思えた。レイセンは涙交じりに事情を説明した。名前や自身の生い立ちも洗いざらい、まるで懺悔をするかのように話した。
 ドレミーは微笑を崩さなかったが、いたって真面目に、時折頷きながら話を聞いた。

「なんと、それは可哀そうに」

 哀れみの瞳には嘲笑が混じるものである。玉兎の見る悪夢の大半は、月の在り方や生活に関しての欺瞞や鬱憤を夢に持ち込んでしまうというもので、たいていは一過性である。ドレミーは、どうにも話好きな性分であるから、悩み事や恨みつらみであっても聞きたくなってしまう。そして適当に相槌を打った後、その場限りの悪夢を食べてしまうのだ。
 ドレミーは悪夢を見る玉兎を何匹も知っていた。
 しかし、レイセンは持ち前の愚鈍さで、それに気づくことはなく、まるで悲劇の最中に自分だけが囚われているかのような態度で懇願した。

「何とかできませんか。これでは寝ても覚めても悪夢です」
「辛いですよね。ええわかりますとも。よろしい。私がこの悪夢を消し去りましょう」

 ドレミーは普段通り、悪夢を見る者にかける言葉を唱えた。しかし、レイセンは首を縦には振らなかった。レイセンは能天気だが、目の前に垂らされた蜘蛛の糸を見落とすほど無欲ではなかった。

「待って! それだと困る! 困ります! 今起きても何も変わりません。そうだ、豊姫様達に伝えてください! ぜひそうしてください。夢の中を渡れるんでしょう! あ、私ごと連れて行ってください!」

 不思議なことに詰まることなく言葉が出続けた。起きている状態では思いつきそうもない打開策が次々と浮かび上がってくる。豹変したかのようにしゃべり続けるレイセンに、ドレミーは最初戸惑ったが、確かに悪夢を払ったぐらいで何とかなる事態ではないので、すぐに納得した。しかし、ドレミーは獏であるから、夢を食べる以外の干渉をしてはいけない。夢をつなぐこと自体はそう難しくもないが、管理者という立場上、玉兎一匹のために勝手な真似はできなかった。困ったように笑って、こう答えた。

「できれば良いのですが、連れて行くのはちょっと……わかりました。伝えます。必ずや伝えますとも。そのくらいはいいはずです。無事を知らせる伝書バトになってみせましょう」

 レイセンは何度も感謝の言葉を述べて、そのまま夢から覚めた。




 しばらくはドレミーは夢に現れなかったが、レイセンは度々悪夢を見た。ある時は灼熱、またある時は極寒など、経験したこともない苦痛を味わい続けた。体中が痒くてたまらず、全身から血が噴き出すまで搔きむしってしまうこともあった。どの夢も、先輩の誇張された苦労話や聞きかじりの処刑方法をモチーフにしていて、不思議と荒唐無稽な夢はあまり見なかった。過去を追想するばかりで、閉じた世界で積み木遊びをしているような、ちっぽけな体験である。ゆえにその夢で得た刺激をすぐに忘れてしまうので退屈であった。
 そもそも夢など退屈なものである。ただどうしようもない不安から少しでも逃げるためには、甘んじて受け入れるしかなかった。眠りは浅く、どれほど時間が経ったのかすらわからなかった。
 目が覚めるたびに夢から逃げ出した安堵と、漂流中である事実を思い出す落胆が同時に襲ってきて、レイセンの心はかき乱された。いくら意識しても夢を制御できず「どうせへたくそですよー」と自虐するしかなかった。
 ゆったりとした漂流が始まって、だいぶ時間は経っているが、今のところ一度もデブリや流星にぶつかってはいない。それは宇宙の広さを示すと同時に、己がまだツキに見放されていない証拠だと彼女は認識していた。しかし、可能性は無限である以上、得体の知れない恐怖は付きまとう。羽衣を修理する方法は思いつかない。生命維持装置が故障したら一巻の終わりである。

「あ、思いついたかも」

 霊力の弾丸を発射すれば、反動で移動できる。疑似スラスターの完成である。幻想郷にて鈴仙が得意げに披露した弾幕から着想を得たのだ。練習していないから威力は期待できないが、推進力を得るくらいはできる。
 早速、指先をピストルに見立てて、意識を集中し前方に弾丸を放った。初めてだったが、その試みは大成功と言えた。推進力を得た身体は、斜め下に流された。

「やった!」

 そう喜んだのも束の間であった。たった一発であっても、何も食べていない疲弊した身体と、擦り切れそうな精神にかかる負担は尋常ではなかった。もう打ちたくないと冷静に考えてしまい、すると喜びは一瞬で消えてしまった。
 まず一つは、後方に流されている現状である。背面から何かが迫ってきた時に対処できない。今までもそうだったが、考えてもいなかったので、無警戒であった。意識してしまうと、見えない方向に流されるというのは、ずいぶんと恐ろしいことに思えた。岩場で背泳ぎをするようなものである。
 さらに故郷の位置がわからないのだから、むやみに打ったところで無意味である。むしろ先ほどまで頭部の方向に流されていたのだから、せめて足側に進むよう打ったほうが、来た道を辿って帰れる可能性があった。
 後方に進む恐怖だけは消し去ろうと、レイセンは背面に指を向け、二発弾幕を放った。身体が前方へ流れ出して、少し安堵したと同時に疲弊による眠気が襲ってきて、そのまま気絶するように眠りに落ちた。
 




 牢獄にいる夢を見た。なぜか鞭で打たれる拷問を受けたという記憶があって、背中や指の先がひりひりとしていた。二畳ほどの狭い独房で、材質がよくわからない黒っぽい壁が四方にあり、格子戸には錆びた南京錠と鎖で鍵がかけられている。よく見ると壁にはひっかき傷のような跡があり、床も穴を掘ろうとした痕跡があった。
 鉄のにおいがする。空気は冷えていて、身体は熱を持っているのに、肺だけが冷たかった。
 南京錠を壊せないかとがちゃがちゃ弄っていると、鈍い音を立てて鎖が千切れた。

「しめた」

 レイセンは格子戸を開こうとしたが、押しても引いても、横にずらそうとしても、びくともしなかった。壁の一部が格子戸のようになっているというだけで、そこには扉の機能がなかった。出る術がないとわかったレイセンは、壁にもたれかかり、しばらくは茫然としていた。
 冷たい床と壁が、ひりひりと傷む背中と尻を冷やした。赤茶色の錆がついた手を自分の服にこすりつけて、すぐに少し後悔した。はあとため息を吐いてから、光が差し込んでいるのに気づいた。格子戸に気を取られて見落としていたが、反対側には顔くらいの大きさの小さな格子窓があった。
 少し背伸びをして覗いてみた。

「あ、外が見える」

 塀の外の景色はまぶしいばかりで何もなかった。

「あ、いましたね」

 格子戸の外からドレミーが話しかけてきた。その瞬間、レイセンはこれが夢であることを思い出した。夢を自覚すると、体中のひりひりとした感覚が消え失せた。

「どうでしたか」

 尋ねるとドレミーは渋い顔をしていた。

「動く様子はなさそうです。それに夢は基本的には起きると忘れるものですし……」

 実際にドレミーは綿月家やレイセンの知り合いに夢の中で声をかけて回ったのだが、目覚めて行動に移す者はだれ一人としてなかった。

「すみません。私にはこれ以上何もできないのです」

 本気で救助する気になれば、今の月の科学なら可能なのだ。例えば方舟型救助機体、通称「阿弥陀」ならば無量光とまでは行かないが、太陽系くらいまでなら搭載されたサーチ機構で一匹の兎を探せる。無論、費用や手続きは大変であるが、綿月家ならば使用できるはずであった。だが、高々ペット一匹に動くことはない。鈴仙が脱走した時と同じように、きっとレイセン三号が作られるのだ。
 事情と憶測を伝えた後、ドレミーは憤慨するようにこう言った。

「月はいつも薄情です」

 できるのにやらない。助けたいのに手を差し伸べないドレミーは、その歯がゆさをごまかすかのように地団太を踏んだ。怒ったような顔を見せるドレミーにレイセンは返す言葉もなかった。
 もしもレイセンが、欠かすことのできない貴重な駒であったならば、どの玉兎よりも優秀であったならば、結果は変わっていたのかもしれない。ただひたすら無力感に打ちひしがれていた。
 ふと無気力に外を眺めた。光ばかりで何もない。幻覚を見ることすら叶わない。それを知ると独房は妙に暖かく思えた。
 はあとため息を吐くレイセンを見かねて、ドレミーはやけに芝居がかった口調でこう言った。

「わかりました。せめて、せめてあなたが邯鄲の夢を見続けられるよう、私も全力を尽くしましょう」

 ドレミーは鉄格子を一本むしりとって食べた。できた隙間から独房に入り込むと、今度はむしゃむしゃと壁をカステラのように千切って食べ始めた。小さな穴が開いて、部屋を光が侵食しはじめた。レイセンの指先が光に触れた。とてもあたたかくて、あまりにも慈悲深かった。

「やめてっ!」

 悪夢が終わる。
 それをようやく理解したレイセンはドレミーを突き飛ばした。

「げほ、おえ、うえ」

 よろめいた衝撃で咀嚼していた悪夢がどろりとこぼれ出た。かみ砕かれた悪夢は不定形で、唾液を纏い、生物がもがくように広がった。連鎖するように強い吐き気を覚えて、ドレミーは咄嗟に口を押えた。四つ這いになって、両手で封じる。吐瀉物が口の中に戻ってきて、それを無理に飲みこもうとすると、涙がじわりと滲んだ。

「おえ、はあはあ」

 ようやく飲み下したドレミーは、困惑と怒りが混じった瞳でレイセンを睨みつけた。
 レイセンは震えていたが、その目はまっすぐドレミーを見据えていた。
 希望を失いたくはなかった。光を夢に見ることができる悪夢は、まだ絶望の底にいない証拠だった。何もかも失ってしまえば、あたたかい光の中で、ただすべてを呪い、そして忘れて消えていくだけだ。まだ生きていたい。どれほどつらい現実にでも、目覚めたくなる悪夢を手放したくはなかった。
 ドレミーはようやく自身の感情が倒錯していることに気づいた。手を差し伸べたようで、結局は何もしていない。偽善に猜疑を見出しながらも、素知らぬふりをして、盲目な鳥の視点から火事を眺めるだけの在り様は、あまりにも情けなかった。

「ごめんなさい……あの、私」

 舌がうまく回らない。言葉がのどの奥につかえて、互いに無言が続き、耐えきれなくなったドレミーは逃げるように光の中へ消えていった。
 烏に食い散らかされたかのような悪夢の残骸に取り残されたレイセンは、ただそこにぽつねんと花のように立ち尽くしていた。

 



 それからドレミーは再び伝書バトとなった。レイセンの無事を綿月家や同期の訓練兵に伝えて回った。覚えていても、忘れていても、ひたすらに記憶に刷り込むようにレイセンの名前を伝え続けた。最初と同じで、即座に行動に移す者はなかったが、ドレミーは諦めなかった。涙さえこぼしそうになりながら訴えた。

「情けない……本当に、救えない」

 自分を責めても何も解決しないことぐらいわかっていたが、自暴自棄になり夢の世界の秩序を乱すような真似もできなかったので、鞭打つように己に罵声を浴びせ、動き続けた。
 そもそも玉兎の一匹消えたところでドレミーに責任などないし、出会って間もないレイセンにかける義理もない。だとしても、隣に立って、もがくふりをして、一番近くで優しく見殺し、あまつさえそれを善行だと信じていたのだ。まだ溺れる者がつかむ藁にすら成っていない。その事実を突きつけられた時、ドレミーは耐えきれなくなった。一度手を差し伸べたのならば、せめて最後まで声を張り上げて、助けを呼ぶべきなのだと。
 ドレミーは親しくしているサグメの元へ向かった。サグメはいつもの虚無的な夢を見ていた。ふわふわとしたピンク色の綿の中で、じっと思考にふけるような、退屈なものだった。喧騒から逃れるには丁度良いのかもしれないとドレミーは思っていた。

「あ、いましたね。またこんな無味無臭な夢見てるんですね」
「まあ、そうかもね。美味しくはないでしょう」

 サグメは夢の中でも言葉を選ぶ癖があって、口調は現実と大差ない。夢人格は違うのかもしれないが、夢現の境界など、酒や薬でいくらでも曖昧にできるので、二人は気にしていなかった。普段は気兼ねなく踏み込んで、仕事の愚痴や最近のトレンドなど、とりとめのない話題を繰り返して息抜きできるような間柄である。だが今回は舌禍を利用したいという打算があったので、ドレミーは少しばかり緊張した。深呼吸をしてから、口を開いた。

「それより、聞いてくださいよ。私、可哀そうな玉兎見つけちゃって、レイセンっていうんです。あ、前来てた地上の兎とは別ですよ。今、漂流しちゃっていて、死んではいないんですけどね。それでひどいんですよ。私、可哀そうだなぁって思って飼い主たちに伝えに行ったんです。なのに助けに行こうともしないんですよ。有体に言えば、見捨てるっていうことでしょう。救助隊が出動すればすぐなのに。ほんとお高く留まってますよねぇ。プライドですかねぇ。そうは思いませんかサグメさん」
「どうでしょうね。私にはわからないわ」

 まくし立てるように話すドレミーに、サグメはすぐに違和感を抱いた。いつも舌はよく回るが、必死なことはほとんどない。長い付き合いであるから、直感で彼女の魂胆を理解した。しかし、サグメとて勝手な真似はできなかった。おいそれと使用して良い能力ではない上に、そこまで便利というわけでもない。赤の他人である玉兎一匹助けるために口を開けば、代償として他の月の民が犠牲になり、大混乱を生む可能性をも孕んでいる。能動的に使うのならば慎重に言葉を選ぶ必要があり、玉兎一匹にそこまでする義理などなかった。
 それはドレミーも重々承知であり、直接協力を要請するわけにはいかなかった。彼女らは善意の他人であり、あくまで成り行きでなければならないのだ。
 夢の世界でサグメが話したところで舌禍は発生しない。だが、寝言でポロリと零れ落ちる可能性ならある。ドレミーはそれに期待して、喋り続けた。苛立ちでも呆れでもなんでも構わないから、何かを言わせようと躍起になっていた。

「いやはやとかくこの世は無情です。慈悲なんてものはあくまで潔癖症を装う彼奴らにはきっと持て余す代物なのでしょう。純然たる真心なんて、そんな金剛石にも勝る不定形の宝石なんて代物は確かに存在しないのかもしれませんけど、それでも磨き続けるべきだと思いませんか。それが研鑽でしょうに。まあ文明という名の強かなステロイドを打ったムーンフェイスたちにしてみれば、磨くべき角なんてないと言うのでしょうが」

 サグメは決して鈍感ではない。かといって情に流されるほど穢れてもいなかったので、必死な友人を哀れに思いながら、平静を装って話を聞き続けた。
 そしてしばらくして、ドレミーは深呼吸をしてぼそりとこう言った。

「すみません。本当に」

 それが誰に対しての謝罪なのか、サグメにはわからなかった。





 いくつもの悪夢に恋人のように寄り添って、最後に突き放すような目覚めを繰り返しながら、レイセンは生きていた。

「はあ」

 ため息をついてから、レイセンは右手をピストルの形にした。推進力を得る発想は悪くなかったが、慎重にするべきだった。尤も、目印もなく上下左右の感覚が消えかけている以上、打つべき方角などわかるはずもないのだが、あの時ああすれば、という後悔は消せなかった。
 人差し指の先をこめかみに当てる。引けば終わる。やわらかいそれは、一瞬で鋭利な殺意の先端に取って代わる。
 自決の手段がある、そう強く意識すると、自然と言葉が出てきた。

「死んでたまるか」

 それから、ため息がこぼれそうになると、そのあとに大きく深呼吸をして、諦念を追い払った。生きることを諦めた瞬間、自分自身が霧散して、無重力に溶けてしまうと半ば本気で信じ込んだ。彼女は狂気に至れないが、生への執着だけは人間以上に持ち合わせていた。

「私は死なない。だから、だから」

 抱いたのは懺悔でもなければ、祈りでもない。
 誰か、私を助けろ……乾いた唇からそうこぼれた瞬間、明滅する光がおもむろに近づいてくるのがわかった。

「ああ、ああ」

 涙はすでに枯れていたが、込み上げてくる熱い感情は轟々として、彼女をひたすらに掻き乱していた。
 音もなく近づいてくるそれは、雲のように不定形で、無情なほどにあたたかい光を放つ船、「阿弥陀」であった。
 レイセンは光のベールに包まれた。知っている声が聞こえる。

「まったく、仕方がないペットですね」
「まあまあ、まずは無事を祝いましょう」

 綿月姉妹の声であった。光のせいで姿は見えないから、もしかするとモニター越しなのかもしれないが、彼女を見ていることだけは確かだった。祝言と叱咤とほんの少しの嘲笑の混じった声が耳をなでるたびに、やおらうれしくなって、レイセンは駆け出したくなった。しかし、久方ぶりの重力に屈した身体は、全く動かせなかった。

「はやく、立たなくちゃ……」

 そう言いながらも、重力に支配される喜びを、今はかみしめていたかった。





 月の都に戻ってきてからレイセンは盛大に祝福された。救助隊の優秀さと、綿月家の信用度を示すこととなった。最後まで封書を手放さなかったことも存分に讃えられた。中身を見てしまったので多少咎められたが、些細なことである。
 かといってレイセンの待遇が特別変わったわけでもない。彼女はあくまで綿月家を立たせる駒であった。レイセンはそれで構わないと思った。主のことは好きであったから、役に立てたと思うと胸が高鳴る自分がいた。
 一日だけ酒を飲んで、次の日からはリハビリが始まった。漂流について他の玉兎たちに質問攻めされたが、退屈で苦痛だったとしか答えられなかった。ただ、その思い出を精一杯引き延ばして、たくさんおしゃべりをした。なんでもいいからとにかく話をしたかった。
 リハビリとおしゃべりを繰り返していると、噂話も自然と耳に入るようになり、救助船が来た理由もあらかたわかってきた。
 月の都では、レイセンの名が脱走の象徴となりかけた。その名を冠す者は、決して月の重力に捕まらない。そんな噂が立ったのだ。偶然が二度起これば、噂が泳ぎ出し、それは呪縛に近い法則になる。レイセンの場合、正確には脱走ではなく事故であり、事実は歪められているが、そこはどうでもよかった。一代目も二代目も、月から逃れて、生きている。それだけが重要であった。いつの時代も跳ね返り者は一定数いて、弥勒計画で酷使されている兎たちにとって、その噂が希望となった。月の都ではペットの名前などたいした意味を持たないから、自己申告で簡単に変えることができる。脱走を望む者たちが我こそはレイセンだと名乗りを上げはじめた。騒ぎを抑えるために綿月家は責任を持って、レイセンを救助し、脱走ではないと証明しなければならなかった。
 それを知ったレイセンは怒りが湧き上がってくるのを感じた。理不尽さを飲み込む度量などなかった。だが、一方でそれも当然だという納得もあった。喚けばいいのか、悔しさをかみしめるべきなのかわからず、悶々としながら、リハビリを繰り返すしかなかった。尊敬する主たちに命を救ってもらったことに素直に感謝するべきなのはわかっていたが、不条理な体験とそれに伴った苦痛の溝を、感謝で埋められるほど、レイセンは清いままではなかった。あまりに穢れと向き合いすぎた。レイセンは生まれて初めて、消えない葛藤を抱いた。
 ある程度、走ったり、跳んだりできるようになっても、その両側性の感情は消えず、とうとうレイセンは訓練中、もどかしい思いをなんとか消化しようと、漂流中のフラッシュバックを装って依姫に殴りかかった。

「うわああああああああ! ひいいいい!」

 レイセンはトラウマなど抱えてはいなかったから、すべて演技ではあったが、怯えたように叫ぶのはずいぶんと上手かった。ジタジタとわざとらしく腕を振り回し、一発だけ右肩のあたりに拳をぶつけることができた。

「え、あ、痛っ」

 実際にはほとんど痛みなど感じなかったが、依姫はあまりの唐突さに狼狽した。急な蛮行のわりに拳が弱々しかったので、宥めるべきか、押さえつけるべきか、迷ってしまった。レイセンは計算ずくで子供じみた蛮行に及んだが、依姫には理性ある愚行と痴呆の狂気を見分けることなどできなかった。
 その隙をついて、レイセンは走り出し、たまたま近くで訓練をぼんやり眺めていた豊姫にも殴りかかった。
 豊姫が視界に彼女を捉えた時、拳は頬に当たっていた。避けるそぶりすら見せなかったので、今度はレイセンが戸惑った。本当は殴った後に丸くなってみっともなく怯える仕草をするつもりだったのだが、向き合った視線を外すことができなかった。

「お姉様!」
「いいのよ」

 豊姫は声を荒らげる依姫を制し、含みを持たせてそう言った。ガラスのように半透明な兎の意思など、すべて見通しているとでも言いたげな、慈悲深くも刺々しさを孕んだ目で睨みつけた。

「無論、お仕置きをしなくてはなりません」

 それはあまりにも冷たい微笑。震え上がるほどの恐怖を感じた半面、レイセンは嬉しく思った。その目は怒りや嘲笑といった負の感情の発露であった。関心すら示さない透徹な瞳より、よっぽど好きだった。レイセンの口角は無意識に吊り上がっていて、痙攣するかのようにひくついていた。
 誰かを殴った程度では、己の内側にある葛藤が消えるはずもなかったが、今はこれで十分だと思った。





 その後、すぐにレイセンは鞭で五発背中を打たれた。死にたくなるほど痛かったが、意識はかろうじて保っていた。
 お仕置きというのは、穢れを浄化するためのプロセスである。初めに鞭打ち、次に監禁、最後は神降ろしの順で行われ、穢れを祓えたと飼い主たちが認めた時点で終了とする。激痛もしくは寂寥によって強制的に狂気を誘発して、自己浄化を試みる。それでも不可能、もしくは狂気が行き過ぎた場合、清浄なる神を降ろすしかないと判断される。とはいえ兎一匹の仕置きのために神を降ろすことなどほとんどありえなかった。
 そしてやはりレイセンは狂気の引き出し方が下手であった。五発以上は身体が持たないので、レイセンは収容所に入れられた。収容所は大勢の兎が懺悔をする場所で、隣り合っている牢にも誰かいるはずだが、決して声は聞こえない。強制的に暗闇の中に孤立させられるから、痛みに鈍い兎でも、たいていはこの段階で寂しくなって、許しを乞うようになる。だが漂流を経験したレイセンは見違えるほどに逞しくなってしまった。
 傷を舐め合う同士もいないので、牢の中でぼんやりとしていると、コツコツと、靴の音が聞こえた。耳を澄ませていると、人の気配が近づいてくるのがわかった。目を凝らして見ると、その正体はドレミーであった。彼女はにこりと笑って鉄格子越しに話しかけてきた。

「また会いましたね」
「ええ、初めましてですね」

 彼女はレイセンの帰還をいち早く知った。無事を祝いたかったが、会ったところで、なんと言葉をかけたら良いか、わからなかった。しばらくは悩んでいたが、収監されたと聞いて、どうしても会うべきだと思った。会って、面と向かって、何もしなかったことを打ち明け、謝罪するべきであると。
 噂の散布はドレミーによるところが大きい。サグメは結局喋らず、どうしようもなかったドレミーは、レイセンのために好き勝手な善意を振るえる者を探し回って、他人の夢に吹聴して回ったのだ。協力者は現れなかったので、偶然騒動まで発展しただけであり、意図したものではなかった。

「あ、あの」
「ありがとうございます。あなたのおかげで命拾いしました」

 謝罪を遮るように、レイセンは言った。彼女がひたすらに声を上げ続けたから、夢というあいまいな媒体で、レイセンが生きているという事実だけが広まった。間違いなく、ドレミーは恩人であった。あくまで関係性は、窮状に立つ者と救世主である。それを強調するかのように、レイセンは深々と頭を下げた。
 ドレミーは自分がずいぶんと無意義な葛藤をしていることに気づいた。助けを求めた彼女を勝手に救おうとしただけ。対価も打算もない。何ができたか、どうするべきだったのかは二の次で、今生きていることが何よりも重要である。
 ドレミーはあえて尊大に、にやりと笑った。慈悲とはいつも傲慢であるべきなのだ。地に足をつけなければ、感謝など受け止めきれないのだから。

「どういたしまして」

 それだけ言ってドレミーは帰ってしまった。話し相手にすらなってもらえなかったので、レイセンは少しがっかりした。
 光が届かない牢の中、ひとりきりで考えるのは先のことである。弥勒計画など興味がなかった。今居るところはとても狭い獄中で、小さな窓からはきっと輝かしい未来が見える。その未来は常に不確定で、だから果てしない夢を見る。そして思い通りの夢を描くには、たくさんのものが必要だ。力も知恵も、他人との関係も、狂気も、何もかもレイセンには不足していた。

「これからだ」

 月の重力に捕らえられて、何とか生き残ったけれども、きっと二度目はない。だから、これから私を手放せないほど、優秀になってやる。そう決意した。
 レイセンにはひとつだけ小さな夢ができていた。自分の権限で、三度地上に降り立ち、あの団子を堂々と食べること。今はそれだけを考えていた。

「それまでお預けだ」

 薄暗い牢獄はあざ笑うように、小さい決意の呟きを消してしまった。
初めはタイトルを「東方漂流記~ Gravity In The Universe~」とかにするつもりでした。
灯眼
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コメント



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1.100サク_ウマ削除
非常に思考実験的な読み味で、興味深く楽しませて頂きました。
ドレミーの過去にしてきた挙動は死の魔の手とか死神とか、そういう類に似ているなあとも思ったり。本編中の人間臭いところのあるドレミーも良いですが、微睡みと死を体現する存在のような過去のドレミーも結構好きです。
あと後書き草。
お見事でした。良かったです。
3.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
4.100めそふ削除
面白かったです。
スペースデブリによって宇宙を彷徨う事になってしまったレイセンな訳ですけど、絶望的な現実に対して苦しみ続けながらも、悪夢すらを掴む藁にしつつもがき続ける様がとても印象的でした。ドレミーは自分の行いの無意味さ、無情さに気づきとにかく四方八方に働きかける姿がとても良かったです。
レイセンがドレミーを突き飛ばした件や、レイセンが綿月姉妹に殴りかかったところなど、所々心情の理解が難しいと思われるものもあり、未だに完全に言語化出来るほど理解出来ていないのですが、それでもこの文章力と展開はとても素晴らしいとおもいました。
5.90竹者削除
よかったです
6.100夏後冬前削除
宇宙空間を漂う恐怖からしか得られない栄養素がある。
7.100Actadust削除
やはり生への渇望は素晴らしいですね。生きるために苦しみ、創意工夫し、死と向き合って、それでも立ち向かっていく。レイセンのどこか楽観的で達観的ながら渇望がひしと伝わってきます。特に夢を拒むシーン。間際で死にたくないと、その原始的で夢の中だからこそ隠されもしない渇望がドレミ―に、読み手にダイレクトに伝わってきました。
8.100南条削除
面白かったです
孤独に狂いそうになりながらも歯を食いしばって耐えたレイセンが素敵でした
10.80名前が無い程度の能力削除
一風変わった宇宙漂流記でした。ドレミーが凄く良かったです
11.100名前が無い程度の能力削除
滅茶苦茶良かったです
宇宙で一人きり系のSF+東方における月の世界観の空気感が良く、レイセンの独白も真に迫って良かったです。
ドレミーの善性がにじみ出ている様子も好きでした。
有難う御座いました。
12.100名前が無い程度の能力削除
漂流するレイセンの孤独と不安と恐怖の描写が真に迫っていてひやりとしました。よかったです。
14.100削除
感動しました……。まず第一声の「寂しいよー」からして愛おしい。
ドレミーさんが出て来てこのまま解決か、と思いきやそのまま連れ帰ることはできない。ここまではいいとしても、さらに事情を伝えても誰も動かなかったと知ったときの絶望感たるや。それまでは「連絡さえ取れれば」という希望があり、奇跡的にそれが叶うと思ったのも束の間、現状を知ったうえで見捨てられたという現実の残酷さは想像を絶するものでした。
自らの実質的な無力に打ちのめされるドレミーさんの描写もひじょうに繊細で良かったです。その気持ちを友人として理解しつつ、しかし安易に揺れることのない「月の民」のサグメ様も。
レイセンが綿月姉妹に殴りかかる場面は月の民全体に対する弱々しい鏑矢のようで、それは今までぼんやりと生きてきた彼女の心に火が灯る瞬間であり、彼女が確かな意志を持った一人の若者として、月の社会と積極的に関わろうとする第一歩のようにも感じ、とても好きなシーンです。