急な頼みごとだったけど、アリスは快くバッグを貸してくれた。カニならギリギリ入るくらいの大きさだ。正直なところ、本当にカニを連れて歩くことになるとは思っていなかったので、今になっておろおろしている。
いつもの木のところに向かうとカニが待っていた。木は削っていなかった。
「じゃあ、このバッグで運ぶから」
「わかった」
カニはくるりと回って背甲をこっちに向けた。持つと乾いた土のザラザラした感触が感じられる。いくつかある短い棘が掌にあたって、すこし痛かった。カニはすんなりとバッグに入った。
ここからが問題で、カニをまず何処に連れて行くかを考えなければならなかった。すこし考えたあと、博麗神社に行こうと思った。都合よく催しでもやってないかと思ったからだ。そしたら、出店でなにかしら買えるだろう。
さっそく行ってみると、予想はしていたけど、神社では何の催しもしていなかった。霊夢が灯篭の側あたりを掃いていた。
「あん?」
目聡く私を見つけた霊夢が声をあげた。
「おはよう」
「はいおはよう。それってアリスのやつじゃなかったっけ?」
着ているカーディガンを指さして霊夢が言う。
「そうだよ。貰ったの」
「いいな。私も欲しかった」
まぁ休んでいけと言うので、休んでいくことにした。縁側に腰かけて、バッグを横においてお茶を待つ。
「何コレ?」
部屋の奥の方にいた小人が、バッグを見るとすぐに駆け寄ってきた。卑しいというか―まぁそういう奴なんだけど―小人が中身を覗き込むと、うわぁ、とか言いながら転がり落ちた。
「な、なんで蟹がバッグの中にいるの!」
小人は私にしがみ付いてきた。カーディガンの内側に入り込み、バッグを注意深く観察している。
「今、カニと放浪し始めたところ」
「意味わかんない」
大げさに頭を振りながら小人が言う。カニと美味しいもの探しの旅―たしかに意味がわからない。誘ったのは私なんだけど。
霊夢がお茶と一緒にじゃがいも餅を持ってきた。数は三つある。もちろん一人一つということなんだろうけど、小人には大き過ぎないだろうか。身体の半分ほどもあるように見える。
しょうゆの香りのそれを手に取って半分ほど齧ると、砂糖のザラついた感触と甘さが感じられる。小人のぶんは霊夢が四分の一ほどに切ってあげていた。
残り半分を一気に口に放り込もうとすると、バッグが音を立てて震えた。
「そういや、これ何?」
霊夢がバッグの中を覗き込む。とたん、その目が輝いた。
「蟹じゃん!こんなでかいの久しぶりに見た!」
そのままうきうきで奥の方に持って行こうとするので、慌てて引き留めた。
「待って待って、それ食べちゃダメ」
わかりやすく顔を顰める霊夢に、カニと一緒に美味しいものを探す旅をしていることを伝える。霊夢はバッグを離さず、顰めっ面のまま聞いていた。
「旅ってほど大層なもんじゃないわね。しかも、蟹と一緒にって何?非常食?」
「いや、そのカニ喋るんだよ」
怪訝な表情を浮かべ始めた霊夢を知ってか知らずか、カニがバッグの中から声を出した。
「それ、私にもくれないか」
「それ、ってこれ?」
どうやらじゃがいも餅のことを言ってるようだった。半分だけあるじゃがいも餅をバッグのなかに入れる。まだ食べることに慣れてないカニが詰まらせないか心配だったけど、どうやら杞憂で済んだようだ。
「あぁ、なるほど。魚とはまるで違うな」
「美味しい?」
「よくわからん」
「そっか。美味しかったけどね」
「うんうん」
いつの間に食べ終わっていた小人も賛同した。霊夢が嬉しそうにしていた。とりあえずカニ入りのバッグを受け取る。
「で、これからどうするの?」
「決まってない」
霊夢は呆れたみたいにして、ちょっと待ってなさいと言った。縁側に座って、久しぶりに蟹を食べたいと騒ぐ小人をなだめていると、霊夢が包みを持ってきた。中身は干し芋だった。いざとなったら食べろとのことだ。
「ありがとう。行ってくる」
「うん」
バッグをぶら下げて飛びながら、どこに行くか考えていた。お金はないも同然で、買って食べるというのは選択肢として選びにくい。ほぼ必然的にどこかで捕まえて食べるということになる。すこし考えたあと、山に向かった。
とりあえず魚でも捕ろうと思って川の近くに降り立つと、河童がなにか作業していた。そのうち一人がこちらに気づいた。
「宵闇の妖怪か。何しに来たんだ?」
「魚でも捕ろうかなって」
「魚?それならもう少し下流のほうが沢山いるぞ」
「そうなの?ありがとー」
「増水してるから気をつけろよー」
河童にお礼を言いながら下流に向かう。進んでいくたびに川幅は大きくなって、流れも緩くなっていく。ちょうどいいくらいの場所を見つけたので、ここで探してみることにした。
「ちょっと待っててね」
川岸の木にバッグとカーディガンをかけて、袖をまくる。一応スカートの位置も上げておく。靴を脱いで、川に足を入れると、小さな流れが感じられた。足元には魚が何匹か泳いでいる。
どれくらい捕まえようか―考えながら手を入れた。飴棒がいくつも波紋をえがいた。
魚影を追い、捕まえたと思っても、するりと手の筒から逃げ出してしまう。鱗の感触ばかりが残って、ひどくもどかしかった。ときおり咬み付かれそうになりながらも、ようやく一尾の胴体をがっしりと掴まえた。
「これは、岩魚かな」
黒ずんだ背中に白の斑点が浮かび、でっぷりとしたお腹をしている。一匹でも食べ応えがありそうな大きい魚だった。このまま食べるのは気が引けるので、誰かに調理してもらいたいけど―誰か頼める者がいただろうか。
ぱっと浮かぶのはアリスや霊夢だけど、間を置かずに何度もお世話になるのは嫌だった。となると、魔理沙でも頼ろうか。
「じゃあ、何匹か捕っとこう」
交渉材料にもなるだろう。闇の袋に水と一緒に魚を入れて、腰にくくりつける。底にある岩を動かすと、何匹かのテナガエビがいたのでついでに捕まえておく。
「あっつ……」
掬った水で顔を洗って、また魚影を追う。そうこうしているうちに、三匹を捕まえることができた。袋がぱんぱんになってしまったけど。川岸に行ってバッグを回収する。
「捕れたか」
「うん」
すこし考えて、やはり魔理沙のところに行くことにした。汗がひどいからカーディガンはバッグに入れた。正直あんまり魔法の森には行きたくないけど、魔理沙に用があるからには行くしかない。
「居てくれたらいいけどねぇ」
森を上から眺めると、いくつかの穴があるのがわかる。そのうち殆どが魔法の植物の群生地で、そのうち一つが魔理沙の家だ。すこし視線をずらせばアリスの家も見える。とりあえず魔理沙の家まで降りた。
外から見るぶんには小綺麗な建物だけど、すこし窓からのぞくだけでも積み上げられたがらくたが見える。肝心の家主の姿を探したけど、どうも見当たらない。留守にしているのか―そう思ったところで、ブランケットから飛び出ている片足に気がついた。
「いるじゃん」
窓を叩くと、足がびくりと震えて、ブランケットをひっくり返しながら魔理沙があらわれた。床で寝ていたせいかしきりに腰をさすっている。そのまま、お婆さんのように腰を曲げて、こっちに近づいてきて窓を開けた。
「なんだよ」
威圧するかのように、顔を近づけて低い声で言う。結ばれてない髪が揺れて、さらりと私の顔にかかった。
「魚捕ってきたから、料理してもらおうと思って」
腰の袋を差し出す。魔理沙はすこし不機嫌そうに受け取って中身をのぞいた。それから長く息を吐いて、ポケットからヘアゴムを取り出して髪を後ろで結んだ。
「作ってやるよ。私も食うけど」
「うん。そのために多く捕った」
窓ぶちに手をかけて入ろうとすると、玄関から入れと言われた。
「ちゃんとしめてから持って来い。味が落ちる」
「次はそうする」
すこし古くなってた天ぷら粉が見つかり、天ぷらにすることになった。魚の下処理をして、衣にくぐらせてから熱した油に入れる。ぱちぱちと音がしていくつかはねた。今のうちにお茶を淹れてくれと言われたので、がらくたの中から急須を引っ張り出して茶葉を入れる。
「お湯は?」
魔理沙が手をかざすと、ふわりと浮かんだ片手鍋が床に置かれた八卦炉の上に乗り、精製された水が注がれる。八卦炉が光るとすぐに煮えだしたので、取手を持って急須に注ぎ、ゆらゆら揺らす。湯呑のようなものを探すと、テーブルの上にいくつかマグカップがあることに気づいた。乱雑なように見えて、実は色々なものに手がとどく便利な空間だ。注がれたお茶は、一つが濃い緑色で、もう一つは薄かった。
しゃもじの刺さった土鍋から茶碗にご飯をよそう。よく揚がった天ぷらが二匹その上に乗っかり、思わず生唾を呑み込んだ。魚に続いてテナガエビも揚げられ、お皿に盛られる。
「いただきます」
机についた魔理沙が手を合わせた。湯気のあがっているお茶をかけて、天茶のようにして食べていた。さっそく箸を手にとったところで、足元に置いておいたバッグからカニが話しかけてきた。
「食べるときには、いただきますとごちそうさまを言うものじゃないのか」
「まぁ、それは、そうだけど」
真っ当な指摘ではあるけど、そもそも食事という行為を始めたばかりのカニに言われるのは癪だった。
「おい、何だ今の声は?」
隠すことでもないので、バッグからカニを出してテーブルに乗せる。魔理沙は驚くでもなく、こんな大物捕ってたなら最初から言えと言った。経緯を説明すると、また変なことしてるなと言われて、ひどく心外だった―普段は何もしてないのに。
「いただきます」
天ぷらを齧ると、揚がったばかりの衣が音を立てて、よくしまった身が感じられる。口にあふれる油が、かき込むご飯にからまっていく―熱いお茶をあおって、油をきれいさっぱり流す―美味い。
皿に盛られていたテナガエビをつまんで、尻尾のほうからかぶりつく。素揚げされた甲殻の軽い食感と、柔らかな身の食感、それと微かな塩味。お菓子のようだ。のびた髭まで食べきってしまうと、見ていたカニが話しかけてきた。
「お前は蟹を食べたことがあるか」
「そりゃあるよ」
やはりカニでもそういうことを気にするのか。そう訊くと、ただの興味だと答えた。
米粒のついた天ぷらをカニに渡すと、片方のハサミでぶら下げながら器用に齧り始めた。ポロポロとかすを落としながら、その歯で衣を剥ぎ取って、白い身を顕わにしていく。そうして、さらされた身に歯を喰い込ませて毟り取っていく。やはりカニというだけあって、魚が好きなんだろうか。
「漸くわかったぞ」
食事をしながらカニが言った。
「何が」
「お前が前に私にやった魚だが」
質問に答えているのかいないのか、カニは語った。
「不味かったな。鱗が硬かったし、身も水っぽかった」
そりゃ、生魚だからそうだろうけど―カニが食べて不味いもないだろう。舌が肥えてきたということだろうか。
もう一つあった魚の天ぷらを、魔理沙にならって天茶のようにして食べる。いくつか盛られていたテナガエビも全て食べ終わり、茶碗にわずかにのこったお茶を飲んだ。濃い苦みが口に長く残った。
「ごちそうさま」
カニは手を合わせるかわりに鋏を重ねていた。キッチンまで茶碗を持っていくと、窓際に置いてある多肉植物が枯れかけていた。
「これからどうするんだ」
霊夢と同じようなことを訊かれた。決まってないと返すと、そうか、とだけ返された。
お礼を言って魔理沙の家を出る。
空を飛んでいると、カニ入りのバッグがいやに揺れた。窮屈なのだろうか―しかしそれなら直接言うだろうと思って、あえて何も言わなかった。そのうちにバッグの揺れは治まったものの、布を破る音が聞こえはじめたので、いったい何をしているのかと覗き込んだ。
カニは霊夢からもらった包みを破いていた。干し芋の黄色い実がすこしはみ出ている。
「何してんの」
「腹が減ったのだ」
「ヘぇ」
カニがおよそカニらしからぬことを言ったので、思わず驚きの声がもれ出た。カニもお腹が減るのか―それとも減るようになったのか。なんにせよ、魚一匹をたいらげておいてなおそんなことを言うのだから、カニもまた食べるほうなんだろう。
「まぁ干し芋でも齧ってて」
今はなにか捕まえるような気分じゃないのだ。
カニは静かに干し芋を齧っていた。
陽は高くまで昇り、晩夏らしくない日射しをぎらぎらと放つ。汗が顎を伝ってこそばゆくなる。どこか涼しいところに行きたい―不意に、竹林にでも行こうと思った。あそこなら薄暗くて涼しいはずだ。袖で汗を拭ってから、向かった。
地に足をつけると竹に囲まれる。思ってたとおり、射し込む光は薄くて、風はどこか冷たい。避暑地としてこれほどいい場所もないだろう。一本だけ妙に太い竹があったので、背中を預けると、そのままずるずると腰を下ろしてしまった。
「ふぅ」
勝手に吐息が漏れ出す。朝からカニを連れまわして、魚捕りをして、食べて、すこし疲れた。
「ごめん、すこし寝るね」
「構わん」
誰も来たがらないけど、竹林は静かでいいところだ。涼しくて寝るのにもちょうどいい。
どうせ誰も来ないんだ―
次に目を覚ましたときには、隣の竹で同じ姿勢の妹紅が寝ていた。長い髪が垂れ下がって、横顔を完全に隠してしまっている。カラスウリの花のようだ。
あたりはとっくに夜になっていて、ちょっと肌寒い。バッグの中をのぞくと、干し芋がぜんぶ無くなっていた。しぼんだ袋と畳んだカーディガンの上にカニが鎮座している。
「ぜんぶ食べちゃったの?」
「あぁ」
そんなにお腹が空いていたのか―確かにそう言っていたし、何もしてやらなかったけれど―とりあえずカーディガンを取り出して着る。すこしずつ汚れが目立ってきたから、どこかで洗わないといけないだろう。
後ろに反って伸びをしながら、食べれるものでも探そうかと思った。干し芋も無くなってしまったし、どこかで何かを捕まえないといけない。
「まぁ、後でいいや」
今はお腹が空いていないのだ。さっきまで寝ていたところにもう一回座る。隣を見ると、まだ眠っている妹紅がいる。起こしたほうがいいのだろうか―ぼんやり見ていると、半身が傾いていって、そのうちこてんと倒れた。すぐに起き上がる。
「おぉ、ルーミア。起きてたの」
妹紅は髪の汚れも厭わず座りなおす。
「いや実はね、お前が起きるのを待ってたんだよ。そしたら寝ちゃってさぁ」
「待ってたって?」
曰く、最近は大猪が暴れているらしい。既に畑が食い荒らされたり、仕掛けておいた罠が踏み壊されていたりするという。秋口ということもあって、このまま放っておくわけにはいかず、駆除する流れに至ったそうだ。
「だから、見つけたら私に知らせに来てほしいって言いたかったんだよ」
「ふーん」
それだけ言うと、妹紅はまた寝てしまった。夜だから当然か。バッグの中を覗くと、カニは微動だにせずうずくまっていた。触っても何の反応もない。多分、眠ったのだろう―カニだって眠るのだ。
考えてみると、カニも変わったなと思う。食べる必要もないなんて言っていたのに、今は腹が減ったと干し芋を食べ尽くしてしまうほどだ。もしかすると、このまま普通の蟹になってしまうのだろうか。もう一度覗き込んで、動かないカニを見てみた。こうして見るとただ大きいだけの蟹だ。とくに変わったところはない。
意外とそんなものなのかもしれない。カニだって蟹なのだから。
なんとなくカニを手に取ってみた。ずっしりと重い。前に持ったときより重くなった気がするけど、色々と食べたせいだろうか。相変わらず棘はちくちくしていて、殻はつめたい。
散々にもてあそんでも、カニは目を覚ましそうになかった。そのうちに飽きてきたのでまたバッグに戻す。カニは死んでしまったかのように何の反応もなかった。
座っていると、次第に首が落ちて、夢と現が混ざっていった。あぁまだ眠たいんだなと悟って目を閉じると、驚くほど簡単に眠りに落ちていった。
朝になって目を覚ましたとき、妹紅の姿はなかった。まだ明け方近くなのに、ずいぶん早く起きたなと思う。立ち上がると腰が痛んで、思わず座り直した。
「何をしている」
しっかりカニに見られていたようで、冷たい言葉がかけられる。起きているとは思ってなかったのでびっくりした。
「おはよう。早いね」
「先程まで話していた」
「妹紅と?」
特に話すこともなさそうだけど―何を話したんだろうか。
「わかった事がある」
「何?」
カニはちょっと黙った。言いにくいことなのか、と身構える。
「自分自身感じていたことではあるのだが」
言葉を区切りながら、ゆっくりとカニが語りだす。
「森を出たあの時から、私の時間が動き出したのだ」
「うん」
それは私にもよくわかっていた。
カニの変化は甚だしく―まるで、今まで森で暮らしてきた分を埋め合わせるみたいに、どんどん変わっていった。それこそ、すこし速すぎるくらいに。
「それで」
「もう残っている時間が少ないのだ」
カニの言うところでは、今まで長く生きていたぶん、一気に時間が進んだらしい。それがどういう感覚なのか、私にはよくわからないけど。
「つまり」
「つまりもうすぐ死ぬということだ」
まぁ、そうなのだろう。カニはそれきり黙ってしまった。
お互いにしばらく何も話さなかった。風が吹かないから、竹林はすごく静かだった。
「ねぇ、カニ」
「なんだ」
「何か食べよう」
竹林にはろくに食べれそうなものが無かったので、他のところに探しに行くことにした。
とくに食べたいものはないけど、カニと私の分が必要なので、出来るだけ多く取りたい―そこで、妹紅が言っていた猪のことを思い出した。猪なら、調理するのは大変だろうけど、食い出もある。ひとまずそれを目的に据えた。
そうなると、既に被害が出ているというから、やはり人里近くに向かうのがいいのだろうか。ぐるりを見て回れば、その内に見つかる―と思いたいが―もう駆除されたという可能性も捨てきれないので、そこまで望みをかけないほうがいいだろう。
そんなわけで、人里の近くまで飛んでいく。こうして向かっている間にカニが死にやしないかと心配になって、時々バッグの中に手を入れた。そうして冷たい殻に触れるたびに、カニは心配するなと言った。そんなことを繰り返しながら飛び続けて、人里が遠目に見えるくらいの距離まで来た。
ここからは出来るだけ低く飛ぶ。実際の猪がどれほど大きいのかわからないので、見逃さないように山の中を飛ぶことにした。あたりに跡が残ってないか、鳴き声がしないか―いちいち気を遣わないといけないから、飛ぶだけでも疲れる。大きい木の根っこに座って、すこし休憩することにした。
「カニ、大丈夫?」
「心配するな」
まだカニには猶予があるようだった。それでも、早く見つけるのに越したことはないだろう。お腹も減っていることだし。全身の力を抜いてぼーっとしていると、それなりに集中力を回復できたので、お尻の汚れをはらって立ち上がる。
後ろに反ると、腰がぼきぼき言うのが気持ちいい。大きく息を吐いて、猪探しを再開した。日が昇り始めて森も明るくなってきている。猪も活動し始めるくらいだろうか―実際のところ、猪の生態なんて全く知らないけど。
飛ぶよりも歩いたほうが探索に向いている気がして、バッグを下げたまま探して回る。周りの木に、木の実や木の子が生っているのを見て、見つからなかったらこれにしようとか考えていた―すると、根っこのあたりに動く何かがあるのを見つけた。近づいたらすぐにわかった。
「瓜坊だ」
何匹かの瓜坊が、木の下の穴からこっちを見ていた。
いるのは瓜坊だけで、その親のような猪は見当たらなかった。今は餌でも探しに行ってるのだろう。てっきり猪というものは子供を連れて歩くものだと思っていたが、そういうわけでもなかったようだ。
大きい猪を探すより、この瓜坊を捕まえたほうがどう考えても早いと思ったので、手をのばした。集団の真ん中にいた者だけ周りの者に阻まれて逃げられず、簡単に捕まった。でもそれ以外の瓜坊はすたこら逃げてしまった。追いかけようとしたけど、やっぱり面倒くさくて止めた。
「まぁ、いいか一匹で」
瓜坊とはいっても中々の大きさで、十分に量はある。これだけでも足りるだろう。さて、これを誰に調理してもらおうか。処理とか諸々を考えると、食べ慣れてそうなやつがよかった。
いろいろな顔を思い浮かべては消して、最後まで頭に残ったのは妹紅の顔だった。それが、猪の話を妹紅から聞いたせいなのか、単純に食べてそうだからなのかはわからなかった。瓜坊の鳴き声に反応してか、左手のバッグのカニが声を出した。
「猪か」
「そうだよ」
森にいた頃に何回も見た、と言った。襲われなかったのか訊いてみたら、やつら蟹より木の実のほうが好きだよと答えた。
この場合、魔理沙が言っていたようにしめた方がいいのか、生きたまま持って行った方がいいのか、悩んだ。悩んで、生きたまま持って行くことを選んだ。瓜坊はずっと鳴き止まないで、カン高い声で助けを呼んでいた。
「もこー、おーい」
また竹林に戻って、できるだけ大きい声で妹紅を呼んだ。すると、視界の端っこが赤く光って、炎の翼を生やした妹紅が飛んできた。
「まさか、見つけたか」
「猪は見つかんなかった。けど、これ」
右手の瓜坊を見せると、妹紅は驚いた顔をした。
「まさか、瓜坊持って来たの!?」
「うん。巣穴があった」
妹紅はしゃがみ込んで頭を抱えた。指を前髪に潜りこませて、わしゃわしゃと音が出るくらいに撫ぜていた。長いことそうしていて、「まぁいいか」と言って立ち上がった。
「巣穴あったなら、すぐ見つかるし―ていうか、何で持って来たの」
「食べようと思って」
調理してもらいたい旨を伝えると、出来るが少し時間がかかると言った。
「それでもいいなら、やるけど」
足を縛られて、竹にぶら下げられた瓜坊の首に小刀が入ると、そこからどぷどぷと血が溢れてきた。少しずつ出る量が少なくなってくると、妹紅はぎゅっと押して、また血を吐き出させる。最後には、ドス黒い血と赤い血が混ざって、汚い血溜まりができた。それからは、どれだけぐにゅぐにゅと押しても、血は出てこなかった。
妹紅は水をためた金バケツの底を持つと、そのまま掌で熱し始めた。突っ込まれていた杓でそれを掬って、瓜坊にかけていく。それから小刀で擦ると、ずるずると皮が剥けて、白い肉がさらされる。
「カニ、大丈夫?」
「心配するな」
まだカニは大丈夫そうだった。
小刀を一度すすいで、今度は喉元を斬って、耳元を斬った。そして大きく首元が斬られたあと、頭が捻ってはずされた。
「そこの薪とって」
「ほい」
「ありがと」
妹紅は受け取った薪をいくつかに割って、石で囲んだ。その上に鍋を乗せて、川から水も汲んできて、煮込む準備を整えた。次に、妹紅は風呂敷から醤油と透明な容器に入った味噌を取り出した。
「これ、そのまま入れるの?」
「これ菫子からもらったんだけど、なんか出汁が入ってるらしいから」
肉切るから適当に作っといて、と言って道具やら野菜やら木の子やらが渡される。仕方なく白菜を切ったり長ネギを切ったり木の子を裂いたりして、鍋に入れて煮立ってきたら味噌を入れてといた。そういえば自分で料理をするのは久しぶりだった。
何度か味を見て、すこし濃くなるくらいに醤油を入れる。妹紅が切り終わった瓜坊の肉を入れて、ぐるぐると混ぜた。ぼたん鍋というより、猪の肉が入ったごった煮みたいになった。
「いただきます」
「いただきます」
そこらの竹から作った長い箸で、どこかしらの内臓を取り出して食べる。心臓だった。柔らかいようなかたいような食感で、濃い味がする。味噌とか醤油の味より、肉の味が一番際立っていた。
置いてたバッグからカニを出して、適当な小さい肉を掴んで渡した。鋏が熱くないのかと思ったけど、カニはとくに何も言わないで食べ始めた。
「美味いな」
カニが何気なくそんなことを言うので、あぁよかったと思わずにはいられなかった。
妹紅は内臓が嫌いなのか、箸で鍋を掻き回しては野菜や木の子や肉ばかりを食べていた。なので、煮込んだ内臓の殆どは私とカニが食べたのだった。
最後に、鍋のふちに口をつけて、そのまま飲み干した。色々な味の混ざった美味い汁だった。すこし口の端を火傷した。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
妹紅と一緒に手を合わせたあと、片付けを始めた。川まで行って、鍋を洗い、川や骨を流した。口をゆすいで、手を洗った。ふと見ると、前に河童が作業してたところに、なにかの機械がつけられていた。
近づいて見てみる。ごうんごうんと音を立てて、水を取り込んでいる。中で何が起こっているのかは全くわからなかった。河童の機械なんていつもそうだけど。淵に置いてたバッグを持って、中のカニに話しかける。
「カニ、お腹いっぱいになった?」
「大丈夫だ」
どうやら足りたらしい。あの量を食べれば当然ではあったけど。
これから妹紅は例の猪を探しに行くらしい。巣穴を見つけたのはお手柄だ、えらいぞと言って私の頭を撫でた。
「頑張ってね」
「うん」
鍋とか調味料とかを風呂敷に包んで、行ってしまった。しばらくしたら、猪の肉が人里でも食べられるんだろう。でも多分それは瓜坊よりも硬い肉だ。
太陽が一番高いところにのぼって、じりじりと暑くなっていく。川こそ近くにあるものの、食べたばかりで、陽の光を浴びながらの川遊びなどぞっとする。おとなしく暗いところで涼むことにした。どこか適当なところを探す。
「少し寝てもいいか」
休めるところを探してるときに、カニがそんなことを言った。そんなこと何も言わずにしてもいいのにと思って、そこで何となく察した。
「いいけど、ちょっと訊いていい?」
「なんだ」
「よかったかい?」
カニはすこし黙った。それから澱みなく答えた。
「よかったな」
「そっか。よかった」
おやすみ、とカニは言って、足を折り畳んで動かなくなった。
もう一度カニを持ってみた。この前よりも更に重くなった気がするのは猪鍋のせいだろう。耳を当ててみても、冷たい感触だけがして、何の音も聞こえない。そもそも、カニの心臓なんてそんなものなんだろうけど。バッグの中にもどす。
ふらふらと歩いて、木の下まで着いた。陽射しを避けるだけでもそれなりに暑さがやわらぐ。いつもみたいに根に座り込んで息を吐いた。背中を預けた木の、つるつるの表面をさする。
ふぅ、とまた一つ息を吐いて、深く座り込む。その内カニが目を覚まして―腹が減った、なんて言いそうに思えた。そもそも本当に死んだかどうかさえ疑わしい。カニは生きているうちから冷たかったのだから。
そんなことを考えていると、急に辺りが暗くなった。見上げると、大きな雲が流れてきて、太陽を隠したのだった。しばらく陽が照ることはなさそうだ。思い切り背中を伸ばして、目を閉じた。
今度は寒さで目が覚めた。足の指がかじかんでいる。吐き出した息がすぐに白くなる。
辺りはとっくに真っ暗になっていた。あんまり寒いので、すぐにバッグからカーディガンを取り出して着る。中でカニがごろりと転がった。
ん、と思った。カーディガンに巻き込まれて転がるほど、カニは軽くなかったはずだ。手に取ってみると、あのずっしりとした重さはもうなくて、それで、あぁやっぱり死んだんだと思った。
カニを持ったまま、裸足になって川に入る。水はひどく冷たい。痛みが指の先から染み入って、骨の芯を伝う。ざぶざぶ音を立てて、川の中央くらいに立った。
「冷たいな、もう」
ざぼんとカニを川につけて、掌で甲殻を擦って洗う。擦るたびに棘が当たる。水の冷たさに耐えながら、足の先まで何とか洗い終わった。
水からあげると、濡れた甲殻がてかる。誘われるように、カニに嚙み付いた。
甲殻ごと噛んで、砕いて、ぷっと細かい殻を吐き出す。すぐに水に流されていった。
乾いた魚の身のような肉だった。それが足の先まで詰まっている。
胴体を噛むと、どろどろの中身が流れ込む。臭いし、濃い味のくせに、特に美味しさはない。
噛んでは破片を吐き捨てを繰り返して、そのうち全部が川に流れていった。
いただきますもごちそうさまもなかった。
色々なものを食べて肥えたはずのカニは、決して美味しくはなかった。でも、それは間違いなく、何時だか食べた蟹の味だった。
面白かったです
食物連鎖の輪の中にしっとりと戻って行ったカニが素敵でした
出てきた食べ物もおいしそうでした
料理のシーンも読んでいてお腹が空いてくる。いい作品でした。
とりわけ終盤の流れが好きで、自分の死を自覚してなおも依然としていた蟹に、蟹の死を描写してから食べてからの流れがあまりにもスムーズだったルーミアの、没入感の移ろい方の雰囲気の良さに惹かれた点がまず凄く。加えてあれだけ貪欲に食い続けていた蟹の身もやはり死んで軽くなって別に美味でもないという点に加え、『いただきますもごちそうさまもなかった。』と言わせてしまえる点も本当に読後感への加速度が滅法高かったのです。思い返せば、蟹はいただきますもごちそうさまも言っていませんでした。
食事をテーマにした物語として、凄まじい完成度と独特の世界観を魅せられた気分になりました。ご馳走様でした。
食べるっていうことをしてみようということをルーミアと一緒にするということがとても良かったです。
序盤の静かで心地良い雰囲気、次第に色づき始める描写、中盤から動き出す時間、コミカルで躍動的な流れ。
文章が動いていくことと物語が動いていくことが、一致していたのが凄かった。文章を読むことがそのまま物語を感覚で体験することに繋がり、読むこと自体の幸せをダイレクトに感じられました。
そして、結末。静かに、話は締めくくられる。この結末が当然であるというように、それ以上の説明は何も無く。ルーミアの心境は直接にはあまり語られずとも、言動、描写から伝わってくるものがある。
もっと言葉が欲しいという気持ちもある。それでも、必要以上に説明しない、この締めくくりが一番相応しいとも思う。
この物語に出会えて良かったと、心から思います。一本の芯が通った綺麗なお話。感動させていただきました。
対価なしにお風呂貸して夕食を食べさせてカーディガンまでくれるアリス
じゃがいも餅と干し芋をくれる霊夢
魚と交換に料理してくれる魔理沙
瓜坊と交換に料理してくれる妹紅
このへんが細かいけど各々の生活やルーミアとの関係性が見えて面白かったです。
でも何よりなんとなく読んでるうちにそうなるんだろうなとわかっていたうえで
カニがもうすぐ死ぬとなった時に悲しく感じるくらいにはカニのことが好きになってました。
返答が心配するな、なのもよかった。
美味いを知りよかったで終えるための物語
ごちそうさまでした。