***1***
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
朱色をした玉から、小さな火花が散る。蕾はだんだんと笑み、大輪の牡丹が、微かな風が吹くに伴い花びらを散らしていく。
花を支える紐を辿れば、そこには支えている、小さな手が見える。
いつもだったら見えない緊張が伝わってきているのか、その手は、時々、ぴくり、と震えていて。
その度に、花は、わずかな支えを失い、こぼれてしまいそうになる。
こぼれそうなのを見た紐の持ち主から、焦りは、消える気配もなくて。
もう駄目。落ちる――――
そう目をつむった、その時。震える小さな手から、別の手が添えられた。背中に、体温が伝わって来た。
決して、手が大きい訳ではない。けれど、それは、緊張する手を包み込んでいくのは、ちょうど良い大きさで。
背中を通して伝わる、穏やかな鼓動が、少女の呼吸も、落ち着かせてくれて。
委ねるまま、導かれるまま。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
支えを得た花は、姿を変え、火花を垂らし、その生命の輝きを二人に見せる。
たとえ満開の時を過ぎたとしても―――そんな様子をみじんも見せず、ますます美しく、輝かんとする。
最後のひとひらが散り終える、その時まで。
その様子を見ていた二人は―――何よりも幸せそうな笑顔を浮かべ、神楽鈴鳴る宵闇の中、繊光に包まれていった。
***2***
「…あの…その……あのね?」
それは、あまりに急な告白だった。
「私…好きな人が出来たみたい、なの……」
「――――は?」
こんな間の抜けた返事をしたのは、はたしてどちらだったか。
顔を赤面させながら、そう恥ずかしそうに話す姫海棠はたてに、少なくとも犬走椛は、ただぽかんと口を開くだけだった。
「今、なんと…?」
「な、何回も言わせないでよ!話すだけでもすごく、恥ずかしいんだから…うぅ…」
椛の横に座っていた射命丸文が、聞き間違いかと問いかけてみると、はたてはさっきまでからは考えられない程早口にまくしたてて、机に突っ伏してしまう。
はたてが外に出るようになってから、時々、椛は、はたてや文と集まって、こうして食事などをする機会が増えていった。
最初は、白狼天狗と鴉天狗が共の席なんてそんな、などと躊躇いがあったものの、文からは『あなたいつも私に連れ回されているのに、今さら何を言っているんですか』と腹立つが頷いてしまうことを言われ、はたてからは『せっかく仲良くなれた訳だし、椛も一緒にいてくれたら嬉しいな!』と嬉しいことを言われ、結局、こうして同席させてもらうことになった。
そうして、時々(主に文と他二人で)ぎゃあぎゃあ口喧嘩になったりすることはあれど、基本的には楽しい時間を過ごすことが出来ていた。
けれど、この日は、はたてが最初から様子がおかしかった。前に今日集まると約束した時はそんなことなかったのに、今日待ち合わせに訪れてみれば、ぼーっと顔を赤くさせて、こっちにも気付いていない様子で。いざ話し始めてみても、なんだか、箸にもあまり手がついてなくて、話をふってみても何も聞いてなくて、しどろもどろで。さすがに何かあったかもしれない、と文と椛が顔を見合わせ、問い詰めてみた。
―――それで、なかなか口ごもるだけではっきりしないはたてに対し文がものすごく良い笑顔で睨んだ結果、なんとかはたてが絞りだして…今に至る。
「―――す、」
しばらく、沈黙が流れた後。椛は、いつもは鋭い瞳をきらきらと輝かせて、はたての方に勢い良く身を乗り出す。尻尾は勢いよく横にぶんぶん揺れる。
「素敵な話じゃないですか!!」
あの時、椛の尻尾、かなりうっとうしかったんですからね、というのは、後の文の談だ。けれど、そんなこと、椛からすれば知ったことではない。
何せ、こういう話を身内から聞いたことなんて滅多にないのだ。こんな貴重な機会、決して見過ごす訳にはいかなかった。
「それで!どういう経緯で出会ったんですか?どんな方ですか?どんなところが好きになったんですか?」
「ま、待って待って!その…」
あわあわと椛を落ち着かせようとするはたてだが、もう椛は何としても聞き出す!とばかりに梃子でも動かない。助けを求めようと文に目を向けると、文は、眉間にほんの微かなしわを寄せながらも、椛を止めることはせず、はたてにまっすぐ目線を向けていた。どうやら、良いからとりあえず話せ、ということらしい。
救いがないと悟ったはたては、一回肩を落として。そして、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて―――どうにか気持ちを落ち着かせて、その重たい口を開いた。
「前、集まった時にさ…自分一人で特ダネ見つけてやるって、見得切っちゃったじゃない?」
「あぁ、はい。そんなこと、文様の前で宣言していましたね」
「………」
椛は、ジト目で文の方を見つめる。文は、何か言いたげな表情を浮かべるも、話を進めさせるために何も口を挟まずに聞いている。
それは、半月程前に、また三人で集まっていた時のこと。文の取材活動に触発されて、自らも外に出て取材するようになったはたては、しかし外でなかなか良いネタに巡り合えず、方向性に迷っていた。何せ、長年引きこもってしまっていたために、経験に伴う引き出しが十分にはなかったのである。そういう意味で、幻想郷のあらゆる場所を飛び回っており、引き出しならなんでもござれな文に、相談を持ち掛けたのである。
が、やはりというか、文の何気ない小言にはたてがカチンと来てしまったことがきっかけで、口喧嘩に発展。引っ込みのつかないところまでいってしまい―――結果、前述のタンカだけ切って、はたては迅速に取材に出かけてしまったのである。あの時、文もやってしまったとばかりに、眉間に手を当てて、ため息をついていたっけ―――横目で見れば、ちょっとだけ、気まずそうな顔してる。はい。あれは文様が悪いです。
「それで、人里に出たは良いんだけど、どうにもうまく見つからなくてさ……ほら、私、こんな性格じゃん?だから、見ず知らずの人間に最近あったことを聞くのすら、ままならなくて」
あはは、と恥ずかしそうな笑顔を浮かべながら、はたては頬をかく。
日々面白おかしい事件が起こる幻想郷。とりあえず、人里に出て歩けば、何かネタに巡り合えないか、と楽観していたのだ。ところが、そう簡単にいく訳もなく、次の日も、そのまた次の日も、取材すらうまくいかなくて、ただ歩きまわっているだけだった。
そうして、途方に暮れたはたては、カフェに入って、ため息をついていた。もう歩き疲れてしまったし、何をすれば良いのだろう―――意地にならないで文に頭を下げるべきか――そう考えていた時、ふと、大丈夫ですか、と声をかけられた。そこにいたのが、彼だった。
茶色の髪に琥珀色の目、ちょっと童顔で、書生のように暖色の和服を着こなした出で立ちだった。聞けば、カフェで相席として案内されて、はたてを見たらしい。
その時のはたては、ただ生返事をして、ぽつ、ぽつと事情だけ話した。そして、念のため何か良い情報はないか、と聞いてみたが、彼は思いつかないように首を傾げ考え込んでしまう。
まぁ、そんなものだ。世の中そんな簡単に救いの手が来るわけがない。これ以上ここにいても気まずいだけだ、と席を立とうとした、その時―――
「自分にも考えさせてくれないか、って―――彼が提案してくれたの」
もちろん、最初は驚いて断ろうとした。見ず知らずの人間に、自分のせいで手間をかけさせる訳にはいかなかったから。
けれど、どうせ今日は時間がありますから、だの、こういうの楽しそうじゃないですか、だの、穏やかな笑顔で、楽しそうなそぶりを見せる彼を見ると、逆に、断るというのが申し訳なくなって、結局、彼の提案に乗ることにした。
そこから、彼への「密着取材」という体で、なんということのない会話が始まった。こうした方がはたても話しやすいだろう、ということと、あまり難しいことを考えない会話で緊張をほぐそう、という、彼なりの配慮だった。はたして、最初は緊張しっぱなしだったはたても、彼のさりげない助けもあって―――気が付けば、すっかり打ち解けていた。
話していくうちに、彼が、本が好きだということを知って。しかも、好きなジャンルが、まるっきり自分が好きなものと同じだということを知って、嬉しくなって。お互いに好きな作品を語って、好きなところについて話してみれば、その観点に驚いて、さらに話を弾ませることが出来て。
そして、きっと気に入る場所だと思うよ、と貸本屋に連れられて、見たこともない本のラインナップに、目を輝かせて、手に取っては、語り合って。
それまでの三日間の徒労と憂鬱を全て吹き飛ばしてくれる、とても救われる時間だった。
「…あっ」
と、ここで椛は、耳をぴんと立てる。
「そういえば、何日か前に出た『花果子念報』で、書籍作品の書評が、始まりましたよね?あれ、もしかして―――」
「…うん。彼が、そういうの書いてみたらどうかって、助言をくれたんだ」
正直、あまりに楽しくて、はたては取材のことすら忘れかけていた。何も得られなくても、それで良いと考えていた。
けれど、そんな中でも、彼は、はたてにお願いされていた当初の目的を、ずっと考えてくれていたのだ。
曰く、はたてが本とか、自分の好きなことについて語る時には、本当に『好き』というのが分かるくらい活き活きと、けれどどこか客観的に引いて語る場面もあって、聞いているこっちも惹きつけられるものがある。だから、そうした本の書評や感想みたいなものを書いてみる、というのはどうかな―――と。
そうして、はたてが書いてみたのが、アガサクリスQが最近出版した新作の書評。文章などに試行錯誤な部分は目立つものの、舞台や登場人物の魅力を様々な角度から引き出して語っているその中身は、椛にもその作品を読みたいと感じさせてくれる、良文だと思った―――事実、椛の鞄には、来る前に買って来たばかりのその小説が入っている。
「それから、もう、彼のことが、頭から離れなくなっちゃって。ずっと、どきどきしては、顔が、熱くなっちゃって」
別れぎわ、彼に「ありがとう」といった時に返してくれた、夕暮れに溶け込みそうな微笑みが忘れられない。
『―――こちらこそ。昔に戻れたみたいで、本当に楽しかったよ』
「多分、これが……『好き』なんだな、て」
はー……と、椛は、恍惚としてしまう。自分の顔も、赤くなっているのが分かる。
まさか、こんなにもきらきら輝いたお話が聞けるなんて、考えてもいなかった。何も口に入れていないのに、甘酸っぱい味が広がっていくのを感じた。
俯いてしまうも、どこか微笑んでいるはたてを見ると、本当に、素敵なことだな、と思う。良い、出会いなんだな、と思う。
こういうはたての顔が。いつまでもずっと、見られると良いな、なんて――――
「なるほど」
その時。ずっとずっと沈黙を保っていた声が、椛の横から聞こえてきた。
その声音は、とてもこの穏やかな雰囲気にはそぐわない程に―――あまりにも落ち着いていて、無表情だった。
「つまり、あなたは人間を好きになった、と―――そういうことですね?」
はっ、と椛の意識が、現実に引き戻される。先程までの緩やかだった瞳は、にわかに小さく揺れて―――横の文に、ちらりと顔を向ける。
けれど、その千里眼をもってしても、文の表情に秘められている真意は、何も分からなかった。
はたてはというと、そんな文の表情に気が付いていない様子で、「うん」と、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「そ、それでね。その…」
そしてはたては、またもごもごとしてしまう。何か言いたそうに声を出そうとするも、どうして、続けることが出来ない。
何とか助けを出そうとするも、空気に飲まれてしまった椛も、声をかけることが出来ない。
しばらくの、気まずい沈黙。
「ほら」
けれど。そんなはたてに対して声をかけたのは、椛も驚いたことに―――文だった。
「言いたいことあるなら、はっきりと言いなさい」
どこか棘を持ちながらも、確かに伸ばされた助けの手。はたては、刹那、目を丸くさせて文を見ると、きゅっと口を強く結んで、勢いよく頭を下げた。
「お願い!せめて、彼と友達になりたいの……それだけで、それだけで良いの!だから、手伝ってください!!!」
***3***
あの集まりから、数日経って。黄昏が過ぎ、夜闇に包まれ始めたころ。
哨戒任務を終えた椛は、小さな古い家―――文の家の前まで、来ていた。
はぁ、とため息をつきながら、浮かない顔で戸の前に立つ。正直、特別来たかった訳ではない。けれど、どうしても、気になってしまったのだ。
―――あの時。はたてが、気になっている彼と友人になりたい、と頭を下げてきたあの時。
『……ちょっとだけ、時間をください』
文は、刹那の沈黙の後、それだけ返して、席を立ってしまった。返事はしますから、と去り際に話す文の顔からは、結局、何を考えているのか、読み取ることは出来なかった。
残された椛は、自分は手伝いますから、なんて、はたてに返したけれど。何だかんだで、人間たちとの強い関係を築いていて賢い文の助けがあるのとないのとでは、全く違うだろう。
だから、とりあえず、文の意図だけでも、聞いておきたい―――そんな考えから、椛は今ここに来ていた。
こん、こん、と、戸を叩いてみる―――が、待ってみても、誰も出る気配がしない。まだ記事でも求めてどこか飛び回っているのだろうか――そうため息をつきながら、戸を引いてみると、なんとがらら、と開いた。開いた隙間からは、ぼぅっとした光が差し込んでいるのが見える。
まさかの展開に、椛は刹那、開いた戸を見比べて、立ち止まって。けれど、すぐに躊躇しながらも、戸をさらに開けて、玄関へと歩を進めた。
「…文様ー?」
光がともっている部屋を覗きこみながら、椛は声をかける。が、返事はない。文の姿もない。
本当に留守で、錠をかけ忘れただけなのか、と首を傾げながら、椛はひたひたと畳の上を歩く。今までこんな形で文の家に来たことがなかったので、意識したことはなかったが――こうしてみると、小さな電灯の灯る文机と本棚を含めた最低限の棚しかない、シンプルな部屋だった。そんな部屋の差し色となっているのは、花瓶に活けられている枝を手折られた橘の花と、傍にある一台の写真立てくらい。懐かしさのこもったささやかな薫りが鼻をくすぐり、椛は花瓶の方向へ目を向ける。あの写真立てには、どんな写真が映っているのだろう――と、歩みを進めようとしたところで、ふと、風の気配に気付き、体を震わせた。
よくよく見ると、縁側につながる障子が、小さく、開いていたのだ。写真立てに伸ばしかけていた手を引っ込めると、椛は、ひたひたと、縁側の方へ歩いていく。
―――そこに、文がいた。けれど、すぐに声をかけることは出来なかった。
夜闇の中で、小さな紐を、まるで割れ物でも扱うかのように慎重に、持っている。その先には、小さな光の玉が、誰を照らす訳でもなく、揺らめいている。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
小さな火花が、玉のまわりで、きらめきだす。最初は控えめだったその火花は、しかしすぐに自信を持ったかのように、自分の、矮小な存在を主張し始める。
そんな、なんということもない景色だというのに。見れば、文は、赤い瞳をまっすぐに向けて、絶対に落とさないとばかりに、見つめている。そんな文の姿に、気付けば椛は、すっかり、見とれてしまっていた。
―――ぱちぱち、ふわり。ぱちぱち、ふわり。
―――ちらちら、ふわり。ちらちら、ふわり。
…………
……ふるっ
「―――あっ」
そう声を発したのは、はたしてどちらだったのか。ほんの微かに、手が震えた、それだけのことで。これから燃え上がらんとした灯は、虚しく、地面に落ちて、消えてしまった。
文は、刹那、何も言わずに、火が消えてしまった線香花火の先を見つめると、はぁ、と一息ついて、水の張ったバケツの中に、燃えかすを入れる。そこには、さっき燃え尽きたであろう紐たちが、何本か、既に入れられていた。
あらゆる生命が萌え出づる、そんな時期にあって―――バケツの中だけは、未だに冬の如き枯野だった。
「―――文様」
椛が声をかけると、ゆっくり、文はこちらに顔を向ける。いつの間にか自分の家に入られている、そんな状況だというのに、文は、何も気にしていない、どこか疲れた顔で椛の姿を認めた。
「…椛、ですか」
どこか、ぼんやりとした声で、文は返事をする。恥ずかしいところ見られてしまいましたね、と、線香花火のことも気にしていない様子だ。
ほっとしたような、ちょっと引っかかるような、そんな複雑な気持ちが、椛の胸に渦巻く。
「横、良いですか」
「どうぞ」
文が頷くので、椛は「では、失礼します」と、文からちょうど一人分置いた先に座る。
ちょっとずつ暖かくはなっているけれど、この時期の夜は、まだ少し冷たい。ひゅうと吹けば、気分を落ち着かせてくれる。
……さて、どう、本題に入れば良いだろう。
「―――はたての件ですね?」
けれど、それを考える必要はなくなった。文の方から、こちらの本意をくみ取って、話しかけてくれたのだ。
正直、文から切り出してくれたのは、ありがたい。なら、こちらもまっすぐ、文に聞いてみよう。ごくり、と唾を飲み込むと、椛は文に、視線を向けた。
「文様は、天狗が人間に恋することについて、どう考えているんですか?」
「………」
文も、刹那、椛の方に視線を向けて。真意を読み取るようにしばらく目を合わせると、はぁ、とため息をつく。
「…まぁ、正直、あまりお勧め出来ないことであるのは、事実ですね」
「そう、ですよね…」
文の返事を聞き、椛も語気を落として、ちょっと俯く。
―――別に、天狗社会の掟で禁じられているとか、そういう訳ではない。そもそも、人々に語り継がれることで存在を保ってきた神妖たちにとって、人間との恋愛は、自分たちの存在を語ってもらえる絶好の題材だ。だから、天狗たちの中でも、人間などとの付き合いを冗談まじりに勧めてきたり、そんな恋愛に、ある種のあこがれを抱いている者もいるのは事実なのだ。
けれど――まだ若いながら、千里眼であらゆる光景を目にしてきた椛にも、文の意見は、何となく分かるのだ。
きっと、文も、長年あらゆるところを飛び回ったからこそ――現実が分かっているからこそ、こんな意見を持っているのだろう、と椛は考えていた。
―――だって。神妖と人間が、恋に落ちて。その後、幸せな結末を迎えることなんて、そう簡単な話では、決してないのだから。
「―――けど、」
ぎゅっと、椛は膝の上で、両手の拳を握る。
「私は、応援してあげたいです」
「……」
そうだと分かっていても、椛は自分の意見を曲げるつもりはない。
ちら、と文がまたこちらを見ているのが、椛には分かる。せめてもの、ありったけの感情を伝えたくて、「だって、」と声に熱がこもる。
「あんなに良い表情しているはたてさん、私、初めて見たんです。照れている様子で、ずっとずっと顔を真っ赤にしていましたけど、そこからは、嬉しさがどうしようもなくあふれてきていて…」
ここ数日、ずっとずっと、はたてのあの幸せそうな顔が、頭から離れなかった。思い返してみても、あんなはたての顔は、今まで見たことがなかった。
ずっと引きこもりがちで、なかなか自分でもどう生きていけば良いか分からなかった中にあって。その出会いは、きっかけになったはずから。
「そんな顔をさせるのが『恋』という感情なのなら―――すごく素敵だなって。だから、出来るなら、その想いを、手伝ってあげたいです」
どこまで出来るか分からないけれど。椛は、その見えてきた希望に、はたてを賭けさせてあげたかったのだ。
「―――椛」
「…はい」
ぴく、と椛の耳が立つのが分かる。まただ。あの時聞いた、感情の読み取れない声音。
何だかんだで、文は賢くて、柱がしっかりしている天狗だ。ありったけの感情論を話しても、簡単に動いてくれるだなんて、考えていなかった。
だから、覚悟を決めて、きゅっと口を強く結んで――
「私は、別にはたての件に反対する、とは言ってませんよ」
―――はい?
考えていたことと違う返事に、呆然としてしまう。頭が追いつかない。その様子を見て、文は、はぁ、とため息をついて、続ける。
「…一般論として、おすすめは出来ない、というだけです」
そうして、懐から、手帳を取り出す。たくさんの付箋が入っていて、写真などもあちこちに挟まっているのか、ぱんぱんに膨らんでいる。―――あれ?けれど、確かあの手帳、先週買い換えたばかりのものだったはず―――
『……ちょっとだけ、時間をください』
…もしかして。あの時、こう返していたのは―――
「けど、どうして…」
戸惑いながら、椛は聞く。だって、あの時の文からは、ここまで動こうとしているだなんて、とても考えられなかったから。
すると、文は、すっくと立ち上がると、三歩進んで、「決まっているじゃないですか」と、返す。
「身内と人間のゴシップなんて、こんなネタ、記者として見過ごせる訳ありませんから――それだけですよ」
―――いつも聞いてきた、調子の良い声。いつもなら、考えてみたらそうか、こいつはこういう方だなんて、納得してしまうかもしれない、そんな、ムッとしてしまう中身。
けれど、前に出ていた文の顔は、もう椛からは見ることが出来なくなっていて。それが本当なのかどうかすら、判断することが出来なくなっていた。
「―――さて、行きましょう、椛」
「はい?ど、どこへですか」
「何聞いてるんですか。はたての家です。作戦会議しましょう」
「え、ちょ―――ひ、引っ張らないでください!」
***4***
「~♪」
携帯の画面を、噛みしめるようにじーっと見て。それから、嬉しそうに破顔して。翼を、ぱたぱた。
それが、妖怪の山に最近出来たカフェに来た犬走椛が、見た光景だった。
あぁちくしょう、なんて幸せそうな表情なんだ。ずっと見ていたい。何なら、このまま持ち帰ってしまいたい。
こっちまで、気付けば頬が緩みっぱなしで。まだ、約束まで時間があるから、それまで、来ていないふりをして、このまま見ていようかな―――
なんて、考えたものの。このまま柱に隠れ続けていれば、お店の迷惑にもなってしまうので、すぐにその考えを改めて、少女の前に現れることにした。
「はーたてさん」
「にゃっ!?」
にっこにこの笑顔で少女――姫海棠はたてに話しかけると、はたては顔を真っ赤にさせて、携帯を手から放ってしまう。
そのまま、なんとか落とさないように、あわあわお手玉させて、なんとか手の中に収めて。前に座った、椛を睨む。
「ご機嫌ですね」
「…見てた?」
「はい。ばっちり」
「は、恥ずかしい……お願いだから忘れて…」
「忘れられませんよ。写真に撮ってしまいたいくらいです」
ふふふ、と意地悪く微笑む椛に対し、はたてはしばらく、顔を赤くさせたまま睨んできて。
私にもカメラがあればなぁ。今後もはたてのこういう顔、見れるだろうし、せっかくだから、お願いして作ってもらおうかなぁ。
「―――椛」
「はい?」
「文みたいなこと言ってる」
「前言撤回です。今見たことは全部忘れましょう」
あの意地の悪い笑顔を思い出して、ぶんぶんと首を振る。
―――いけないいけない、あの方みたいになってしまったらおしまいだ。
そうして邪念を払って目を開ければ、はたてとぴたり、目が合って。何だかお互いおかしくなって、ぷっと笑い合った。
「それでそれで。あの方とのお話、聞かせてください」
「もちろん。えっと、この前会った時はね――」
そうして、椛が身を乗り出して。はたても、もう恥ずかしがったりすることをせず、はきはきと笑顔のままで話し始める。
―――はたてが彼とのことを、椛たちに打ち明けてから、しばらく経過していた。
最初ははたてが恥ずかしがってなかなか動き出せずにいたものの、まずは文通をすることによって、また彼と会話が出来るようになってきた。
そうして、手紙で勇気を出して、また彼と会えないか、話しかけてみて。それに彼が快くOKをくれて、会ってみて。
そして、きちんと「友達」になれて、今に至る。
「――それで、そういえばどうしてファンタジーが好きなのか聞いてみたらね。幻想的で、不可思議な出来事が起こるこの場所だからこそ、どんな空想の世界が広げられるのか考えながら読むのが、楽しいんだって」
「なるほど。確かに、良いファンタジー作品って、幻想郷から見ても考えたことのない世界観を、本当に緻密に作り上げてますよね」
「うん。彼がすすめてくれた作品、その視点で読んでみると、本当に驚きに満ちていて、良いなって」
―――彼と出会ってから、はたてはちょっと変わったと思う。
ついこの前まで飲もうとしていなかったコーヒーを、ブラックで、おいしそうに飲むようになった。
ふと、空気が動いた時に、その栗色の髪から、ふわり、と、柑橘のような爽やかな香りをただよわせるようになった。
「そういえば、菖蒲(あやめ)の咲いてる高原、教えてくれてありがとね。写真に撮って見せてあげたら、彼、とても目を輝かせてくれたの」
「そんな――…むしろ、すみません」
「ん?」
「その…本当なら、そうした場所にも連れて行かせたり出来たら良かったのですが」
「あー、そゆこと。大丈夫大丈夫、さすがにそれは分かってるから。それに、私だって彼を危険にさらしたくなんかないしね」
「…そうですか。なら、良かったです」
「それにね、彼、むしろ実際には行けない方が、未知(ファンタジー)の世界って感じがして、素敵なんだって」
「…ふふ。ちょっと、おかしな方ですね」
「ね?けど、そういうところが、とっても面白くて、良いなぁって思うの」
前よりもずっとずっと、外に出るようになった。今まで何ということもなかった景色が、キラキラ輝いているように見える、と、自由に飛び回るようになった。
そして。前よりもずっと、綺麗でかわいい笑顔を、見せてくれるようになった。
「ごめんね。こっちばかり話して」
「聞いたのはこちらですから。むしろ、こうして幸せそうなはたてさんを見れて、本当に良かったです」
申し訳なさそうにするはたてに対し、椛は、にこにこと笑う。
こういう話を聞きながら食べる柚菓子はとてもおいしい。尻尾がふりふりと横に揺れる。
「椛に助けてもらったおかげだよ。本当、ありがと」
「そんな―――」
慌てて、手を振る。耳を畳んで、眉をハの字にさせて、薄く微笑む。
「ほとんど、文様のおかげですよ。こちらなんて、何も出来てなくてむしろ申し訳ないくらいです」
―――それは、実際、事実だった。文の助けがなかったら、きっと、今、はたての笑顔は、見ることが出来なかっただろう、と椛は確信している。
あの時。文が、椛を連れて、はたての家まで着いた後から。急な来訪に驚いているはたてに構わず、きびきび、助言を始めていた。
いきなりまた直接会うというのは難しいだろうと、文通から始めるよう促したのは、文だった。
新聞の勧誘にかこつけて、彼に最初の文を届ける役目を買って出たのも、文。
なかなか手紙の書く内容が固まらなくて、筆が進まないのを見て、椛を誘うつもりで書いてみたらどうかと助言したのも、文。
そうして、何とかまた会う約束を取り付けて。なかなか彼の前に出れずにいたはたてを、巧みな話術をもって焚きつけて、背中を押したのも、文。
何だかんだで文句を挟むことはあれど―――文がいなかったら、ここまで順調に進まなかったのは、疑わざる事実だった。
――それを考えると、椛は何も出来ていない。
「けど、確かに、文がここまでしてくれるなんて、正直考えてなかったな」
椛が何も出来ていないということに対して「そんなことないよ」と否定しつつも、そう息を吐きながら、コーヒーを飲む。
「文さ、最近何か忙しそうにしてて、最近こうして集まれたりとか出来てないじゃない?それなのに、時間を縫っては手紙とかで『最近どうですか』と積極的に聞いてくるようになって」
「そうなんですか?」
はたての証言に、椛は意外そうに目を丸くさせる。
確かに、最近の文は、本腰を入れている取材があるとか、そんな話で、最初の時みたいに、そう簡単に時間が取れなくなっていた。だから、何か食べに行く約束をするにも、ここ半月は、今日のようにはたてと椛だけ、ということがほとんどだった。
「ありのまま返したら、すぐに丁寧に助言をつけて、返事をくれたりしてさ。ちょっと、びっくりしちゃった」
そんな中だというのに、文は、はたてのことを、ずっと気にかけて、自分から助言を与えようとしている。
「そこまで、肯定的に見てくれている訳じゃないと、思ってたから」
それはもう―――献身的。その表現がふさわしいくらいに。
『身内と人間のゴシップなんて、こんなネタ、記者として見過ごせる訳ありませんから――それだけですよ』
…あの方は。はたてからの手紙の返事を書いている時。どんな表情をしているのだろうか。
「なんていうかさ」
はたてが、そう首をかしげながら、困ったように微笑む。
「本当、分からないやつだよね、文って」
それに対して、椛は、何も返すことが出来ず、ちょっと、俯く。―――はたてからは、軽く頷いているように見えるだろうか。
―――そう。「分からない」。
ここ一月で椛が文に対して抱いていた感情は、この一点に収束していた。
そうして、話を続けて、気が付けば、日も傾き始めて。
今日は私が持つね、とはたてが告げた。もちろん椛は最初固辞したけれど「この件でお世話になってるから、これくらいはさせて」というはたてのふわりとした微笑みに断ることが出来ず、そのままはたては席を立ってしまった。
はたてが会計を済ませている間、一足先に椛は店の外に出る。
何となしに、東の方向に、千里眼を発動させる。
東、東―――人里をさらに越えて、その東端まで――朱色の鳥居まで、焦点を合わせる。
視線だけ鳥居をくぐらせると…やっぱり、いた。紅白の巫女を取材しているのか、彼女のまわりを飛び回っている、文が。
箒を掃いている横を、右から、話しかけて。左から、話しかけて。
最初、つんとすましていた巫女は、だんだんと顔を赤くさせて、体を震わせて―――あ、爆発した。
すぐに、大幣を取り出して、文に飛び掛かって。けれど、文は、そんなこと、お見通しとばかりに、その攻撃を躱して。
そのまま、境内の追いかけっこが、始まる。巫女が攻撃を仕掛ければ、ひらり、ひらり、と文は躱し続ける。
調子の良い、どこまでも他人をからかうような笑みを、浮かべながら。
―――ちくり、と何かが、胸に刺さる。
どうしてだろう。いつもだったら、あんな笑顔を見たら、殴りたくなるくらい、腹が立つのに。
今は、あの笑顔を見ても、どこか、切なさすら感じてしまうなんて。
***5***
「―――時期ですが、来週撮影ということで、こちらも準備を進めて良いですか?」
「えぇ。上演出来るように設営しておくから、時間になったら来てくれると助かるわ」
「分かりました。では、それでよろしくお願いします」
「こちらこそ」
人里にある古風なカフェで、ふぅ、と息をつきながら、射命丸文は、文花帖をぱたりと閉じる。彼女が向かい合う先には、青いワンピースに白いケープをつけた、人形の如き美しさを持つ人形師―――アリス・マーガトロイドが座っていた。
なぜ彼女たちがこうして席を共にしているかというと、それは何ヶ月か前にまで遡る。
アリス・マーガトロイドは、本業である魔法の研究の傍ら、時間を見て人形劇の製作を行っている。
そして、ここ最近になって、その人形劇は、幻想郷の人間たちの間で、名物の一つになっていた。
文がこれまでアリスに聞いてきた話によると、その人形劇は、既存の童話などを参考にしながらアリス自身が書き上げているもので、分かりやすくも時には優しく、時には幻想的な作品の空気感が、特に子供を中心に注目されているらしい。
その上、かわいらしい人形がまるで意志を持って動いているように見えるその独特さが、穏やかで幻想的な空気をさらに際立たせる。さらにはアリス自身、面倒見の良い穏やかな人柄と来た。なるほど一回受け入れられさえすれば、人気にならないはずがなかった。
さて、そうすると、人間たちはアリスの人形劇が次いつ見れるのか、というのを楽しみにするようになる。ところが、アリスはあくまでも魔法使いとしての研究を軸に活動しているため、そうしょっちゅう来れる訳ではない。それに、アリスは一回上演した人形劇を再び見せることは滅多になかったので、『見逃してしまったので、どうにかあの人形劇を見たい』『もう一回、あの人形劇を見たい』という希望も徐々に増えるようになったのである。
これに、射命丸文は注目した。ある時、文は宴会でアリスと話した時に、こう切り出してみたのである。
『アリスさんの人形劇を、『絵本』として出してはみませんか?』と。
要するに、アリスが既存の作品を文の前で人形劇として上演し、文は一つ一つの場面を写真に撮っておく。そして、文が撮った写真を「絵」として組み合わせ、「絵本」として構成し出版する、というもの。
これなら、「人形劇」という幻想的な空気を崩すことなく、アリスがなかなか出れないような時でも作品を楽しむことが出来る上に、単純にもっとたくさんの人にアリスの作品に接する機会が出来る、という訳である。
もともと人形劇の活動ももっと発展させたいと考えてはいたアリスは、この文の申し出を二つ返事で快諾。とりあえず一作品作ってみようと、それ以来、こうして二人で会うことが増えてきたのだ。
時にアリスおすすめのカフェに連れてってもらい、時に誰に気兼ねすることなくアリスお手製のお茶菓子を食べることを役得として享受しながら、話はとんとん拍子に進んでいる。後は、最も重要な本番撮影を残すだけ、となっていた。
「お忙しいところ、ありがとうございました。では、ここは私がお支払いしますので――」
「あ、待って、文」
そうして、いつものように席を立とうとする文を、アリスは制止する。怪訝そうに細める文の視線の先で、アリスはにっこり微笑む。
「せっかくだから、もうちょっとお話していきましょう?」
「はい?」
「せっかくこんな良いお店に来ているのに、ビジネスの話だけだなんて、もったいないわ……駄目かしら?」
そのアリスの笑みは、いつもの大人びている様子とはまた違う、子供のような明るさを持っていた。仲の良い友達とお話をしたい、まだ話し続けたい、というような。
……―――私と?どういう、ことなのだろう。何か特別話したいことが、あるのだろうか。…なんだか、どうしても気になってしまう。
「良いですよ。ご一緒しましょう」
「ありがとう。じゃあ―――文、コーヒーは飲めるかしら?」
「コーヒー、ですか…?はい、大丈夫ですが」
「そう、良かった――――すみません、コーヒー2つ、お願いします」
ゆるやかな所作でそう店員に注文するアリスに、へぇ、と文はちょっと目を丸くさせる。
「驚きました。アリスさん、コーヒー飲まれるのですね」
「ふふ。実は私、コーヒーも結構好きよ?豆とかこだわって、自分で淹れたりもしているの」
おかしげに微笑みながら、くるくる、と右手で何かを回す―――ハンドミルだろうか―――動きを見せる。
「―――特に、誰かと休息を取る、こういう時は、ね?」
「…あぁ、なるほど。そういうことですか」
「あら。これだけで伝わるのね」
「まぁ……少しだけ、かじっていた時期がありましたから」
それは良いことを聞いたわ――そう楽しそうに呟くアリスから、視線をそらす。幸いにして、アリスが注文してくれたコーヒーがちょうど来たので、それを使ってごまかすことが出来た。
そんな文に対して、アリスは、コーヒーカップを持ち上げ、雅やかに、焙煎された香りを楽しむ。
「魔法の研究とか、何かに打ち込んでいる時は飲まないんだけど――誰かと大切な休息を過ごす時は、いつも飲むようにしているの。私にとって、コーヒーって、そういう飲みものだから」
「―――素敵、ですね」
「ふふ、ありがと」
にっこり微笑むと、アリスはコーヒーを一口つけて、はぅ、とため息をつく。そんな脱力した姿すら、とっても画になるのだから、なんともずるいものである。
そんなことを考えながら、文もコーヒーを口につける。自分がここまで包まれて良いのか、そう戸惑ってしまう程に、あたたかい味がした。
「そういえば、だけど」
かちゃり、とカップをソーサーに置いて、アリスはずい、と文へと身を乗り出す。
「この前人形劇をしている時にね、ちょっと面白かったことがあって」
…アリスって、こんなにぐいぐい来るような方だっただろうか。そう、ちょっと気圧されながらも、アリスの話に耳を傾けることにする。
「もう、十年間くらい、かな。私の人形劇を楽しみに見に来てくれる男の子がいるんだけどね」
「はい」
「その子が、その公演の時に女の子を連れて来てたの」
「ほぅ」
「綺麗な茶色い髪を、紫色のリボンで二つに結んでいて」
「はい」
「薄紫の服に黒いネクタイをつけて」
「…はい」
「紫と黒の市松模様のスカートを着ていて」
「……はい」
「あの子でしょう?あなたの知り合いの天狗の」
「………はたて、ですね」
「そうそう、はたてさん。へぇー、そうなんだ、彼女が」
ふふふ、と意地悪に微笑むアリスを前に、はぁー、と文は頭を抱える。ちくしょう、分かってて言わせましたね。
……あぁ、なるほど。だから、私と話したかった、という訳ですか。ほんっとにもう。
「身内の恥ずかしいところ、見られちゃいましたか」
「そんなことないわ。とても素敵な話じゃない」
「…舞い上がったりしてませんでしたか?」
「それはもう♪」
「…まったく」
あの馬鹿。そう呟く文の反応に対し、アリスはにこにことした笑顔を絶やさない。
「お姫様がドラゴンに襲われそうになっている時とか、無意識なのか彼の袖をつかんだり、最後お姫様の救出に成功した時に、子供に負けず泣いていたり」
文は、頭を抱えている手の隙間から、楽しそうに語るアリスの表情を見つめる。
あぁ、はたてならそういう反応するだろう。簡単にイメージ出来る。
「何より、人形劇が終わった後に彼の横を歩く絶妙な距離感…手をつなぎたくてもなかなかつなげない、なんとももどかしい表情が本当にかわいくって」
世間知らずゆえに、どうしても本質が純粋で、素直で。だから、こうして、未知のことに対して、どこまでも初々しくて。まるで―――
―――自分の唇が、ほんの微かに綻んでいるという事実に、文は気付かない。気付けない。
「活き活きしてますね」
「当たり前じゃない。これでも表現者だもの、こういうのは大好物」
ごまかすように話しかける文に対し、ふふ、と、アリスは小首をかしげる。
「本当はもっとこういう話したいんだけどねぇ、霊夢も魔理沙も、紅魔館の面々も全くそんな話出る様子ないんだもの。こうして話をする機会が出来て嬉しいわ」
「―――…それはどうも。ですけど、出来ればあまり言いふらさないでくださると、ありがたいのですが」
「もちろん。文にしか話さない」
「助かります」
そう返しながら、文はまたコーヒーに口をつける―――なぜだか、さっきより、あたたかい。
「全く…本当、世話が焼ける子ですから。彼に迷惑ばかりかけてないか、いつもはらはらしてますよ」
コーヒーのせいか、少しだけ、自分の口が、軽くなっている気がする。このまま、話しても良いか、と考える自分がいる。
だから、微かな抵抗のつもりで、そうおどけて、ごまかしてみせた。
―――けれど。
「大丈夫」
返って来たのは、確信に満ちた、強い声。逸らしていた目が、否応なく、アリスへと向けられる。
「…大丈夫。彼は優しくて、気のきく子だから」
そこにあったのは、いつもの大人びた笑顔でも、さっきまでの子供じみた笑顔でもなく。
「はたてさんも、とても良い子だって、見てれば分かるから。きっと、うまくいくわ―――私が保証する」
何というか――母親のような、と表現すれば良いのだろうか。そんな嬉しさと寂しさをたたえた、笑顔だったのだから。
ギターの静かなBGMが、聞こえる。コーヒーの香りだけが、二人を包む。最初丸くさせた文の目は、けれど刹那の後に元に戻って。ゆっくり、ゆっくり、と閉じていって。
「…そう、ですね。きっと」
そうして出た声もまた、自分でも驚くくらいに、優しくて、穏やかな声だった。
別に、そんなことない、などとごまかそうと思えば、いくらでもごまかせたはずだった。この話を打ち切ることくらい、出来たはずだった。
けれど、あの、大輪の百合もかくやと思わせる微笑みに対して、これ以上ごまかした笑みで返すのは、本当に何となくだが、許されないことのような、気がしたのだ。
「――はたて、あの方と出会ってから、本当、良い顔をするようになったんです」
ぽろりぽろりというギターの音。
そこに歌詞をつけるかのように、文は言霊をこぼし始める。
「元々、はたては最近まで引きこもり気味だった子でして。つい最近になって、外に出て、私とかと活動を共にすることも増えてきたのですが……どうしても、危なっかしいところがあったんです。今自分が生きている意味が分からない、というか。自分が何に気になっていて、何をしたいかも、どこか曖昧に見えて」
あの時。彼とのことを打ち明けた時に見せた、はたての表情が。夜、文机に灯をつけながら、開いた、あのはたてからの手紙たちのことが、思い出される。
「けど、ここ最近は、そんなことはなくなった。自分がどういうものが好きで、どんなものを見たいか、どういう場所へ行きたいか、そういう意志を、はっきり表現出来るようになった。きっとはたては、彼と出会ったことで、本当の意味で籠から飛び出して、自分の思うままに、羽ばたくことが出来るようになったんです」
アリスは、口を挟まない。きっと笑顔を浮かべながら聞いてくれているのだろうけど、今はそのアリスの目を、きちんと見れない。
「だから、あの子が彼と出会えて、時間を共にすることが出来て、良かったなって、思うんです」
そう。良かったのだ。素直に、文にも、そう思えた。
「良かったはず、なのに―――」
―――ちらちら、ふわり。ぱちぱち、ふわり。
あぁ、どうしても思い出してしまう。儚い、ちょっとでも手の震えが伝われば、壊れてしまう、あの火花が。頭に浮かぶ。
「どうしても、これで良かったのかなって、考えてしまう」
―――ちらちら、ふわり。ぱちぱち、ふわり。
そして、今も。せっかくこれからが、輝けるというのに。どうしても、不安で、不安で、震えてしまって。
「だって、これ以上近づいてしまったら、きっと―――」
目を閉じて、振り払おうとする。けれど、揺らめく火花は、ずっとずっと、ちらついて、離れてくれない。
あぁ、駄目だ。駄目。本当に、どうしたら良いのだろう。
つなぎとめているののは、ほんの微かな、紐の先だけ。あぁ、また手が震えて。今にも、こぼれてしまいそうで―――
「……大丈夫」
その時、また強い声が響いてきて、意識を引き戻す。
自信に満ちた、その声音に、文が瞼を開くと、そこには、またさっきみたいな眩しい笑顔を、目の前の少女は浮かべていて。
「大丈夫。きっと」
「…どうして、そんなことが言えるんですか」
「そりゃあ、だって」
少女はおかしげに首を傾げると、すっと、真っ白い指を、人形を繰るように繊細に、文に向けた。
「文。あなたがいるじゃない」
―――反論、したかった。
喉のすぐそこまで、声が出かかっていた。
けど、出来なかった。意地を張ることが、どうしても出来なかった。迷ってしまった。
…ただただ、アリスのまっすぐな言霊に射抜かれて、身を委ねずには、いられなかった。
「―――ねぇ、文。一つ、私から提案したいことがあるんだけど」
コーヒーの香りは、未だにあたたかく、二人を包み込む。
今は、休みを共にする時間なのだ、と―――花は詩を紡ぐ。
その囁きの中で、人形師の少女は、満面の笑みを浮かべて、呆然とする天狗に、こう話しかけた。
「夏祭に出す人形劇のアイデア、一緒に考えない?」
***6***
あれからしばらく経って。アリスと別れた文は、夕空の中を、羽ばたいていた。
…羽ばたいていた、というよりも、ただよっていた、と表現した方が良いだろうか。
ゆらり、風の舞うままに、のろのろと、夕陽に照らされながら浮いていた。
『文。あなたがいるじゃない』
「………」
ちくり、とした胸の痛みの後に、安堵の波が、じわり、と体に広がっていくのを感じる。
もう、あの人形師の少女に会うべきではないという警鐘と、また会いたいという願望が、頭を通る。
そして―――これが一番自分でも戸惑っていることなのだが――どちらに天秤が傾いているかは、もう自分の中でも明らかだったのだ。
まぁ、どの道、絵本の件があるから、また会うのは確定事項ではある、のだが。
『夏祭に出す人形劇のアイデア、一緒に考えない?』
アリスが語った、その人形劇の中身は――――「妖怪と人間の、恋愛譚」。
…………
ふわ、と、風が頬を撫でる。もう夕暮れ時だというのに、じっとりして温かいその風は、夏という季節の訪れを、雄弁に語っていて。
「―――夏祭、か」
――ちらちら、ふわり。ちらちら、ふわり。また、頭の中に、夕闇に生きる小さな火が、浮かぶ。
…そう。今年ももう、そんな時期になったんですね。
「…花火、何本か買い足しますか」
そう呟くと、文は、すい、と翼を整え、一路、日の沈む方向へ飛んで行った。
***7***
―――かりかり。かりかり、万年筆を羊皮紙に走らせる音がする。
雅やかに鼻歌を歌う、少女の声が聞こえる。
文と別れたアリス・マーガトロイドは、家で、さっそく、次の人形劇の構想を記していた。
「……」
あの時、帰ろうとする文をアリスが引き留めたのは、本当に気まぐれだった。
もちろん、はたてについて話したい、という気持ちがあったのは事実だったけど。半分は、文本人のことが気になっていたのだ。
「絵本」の件を通して会ってきて、何となく気が付いてはいた。どんなことに対してもふざけて軽々と躱していく、秘密なんて持たないと言わんばかりの微笑みをたたえながら、本当は誰よりも真面目で親しみを持てて、誰にも読ませない、何かを秘めているのではないか。
魔法を通して、常に真実を探求してきた者として、そんなの、気にならない訳がなかった。だから、はたてのことを話題に、あの時、話しかけたのだ。
そして、その収穫は―――
『だって、これ以上近づいてしまったら、きっと―――』
…あまりにも。アリスにとって、大きすぎるものだった。
「シャンハーイ?」
「あぁ、ごめんね、上海。ちょっと、ぼーっとしてたわ」
気が付けば、手はすっかり止まっていたみたいで、上海に心配そうな声音で話しかけられた。いけないいけない。
「休憩した方が良さそうね。お茶、持ってきてくれる?」
「シャンハーイ」
上海がキッチンに行くのを見て、ふぅ、とアリスは椅子の背もたれにもたれかかる。そうして、ぽつり、と。
「…そっ、か」
人形劇を見てくれる、ひとりの顔が頭をよぎる。
誰もいない中で。いつもいつも、その琥珀色の瞳を、きらきらさせて、私へと向けてくれていて。
それだけで、胸がいっぱいになって。「彼」のためだけに、こうして、頑張って――
「―――もう、十年にもなるのね」
こぼれた呟きと共に、きゅっと両手を、胸の前で組む。
そうして思考に沈んでいたアリスは、キッチンの柱から、何か言いたげに顔を覗かせる上海に気付くことが出来なかった。
「…シャンハーイ……」
***8***
「――はぁ」
待ち合わせのカフェで見たはたてのため息に、犬走椛は刹那、目を丸くさせていた。
机にぐったりと突っ伏している中で、眉はしかめていて、頬もちょっと膨らませていて――怒っている、訳ではなさそうだ。どちらかと言えば、すねている、というか。いじけている、というか。
…珍しい。文関連のことだとたまに見ることはあったのだが――それでも、ここ最近は見れなかった表情だった。
「どうかしたんですか、はたてさん」
とりあえず、はたての向かいの席に座って、そんなことを聞いてみる。
はたては、もそもそと、気の抜けた様子で机から体を起こし、コーヒーで満ちたカップに目を落とす。
「んー…」
「…そういえば、ついこの前も、彼と出かけられたと聞きましたが……何かあったんですか」
「あー、違うの。うん、この前のお出かけも、とても楽しかったし。けど…何だかもやもやしてて」
「もやもや…ですか」
首を傾げる椛に、はたては「うん」と頷く。そうして、一瞬の躊躇の後、ゆっくりと、目を椛に向ける。
「椛はさ、アリス…って言って分かるかな」
「アリスさん、ですか……はい、文様に連れられて何回か。人形使いの方…ですよね?」
「そう、そのアリス」
椛の確認に、はたてはこくりと頷く。文のお供として(不本意ながら)連れ回されることの多かった椛は、ほぼ一方的ではあるものの、様々な人妖とお近づきになる機会も多かった。
その中には、普段の自分にはなじみの薄い、西洋風の出で立ちをしている者も少なからずいて、椛の中ではもの珍しさから記憶に強く残っている。アリス―――アリス・マーガトロイドも、そのうちの一人だった。
「椛は、アリスを見かけて、どんな人だと思った?」
「そうですね…」
そうはいっても、ほぼ見ていただけなのですが、それで良いのだろうか…?と疑問を抱きながら、記憶をひねり出す。
そういえば、お茶菓子を配りに、こちらに来てくれたことがあったっけか…その時に見た彼女は、さらさらとした青いワンピースに白いケープ、赤いヘアバンドを身に着けていて…とにかく白い肌に青い目をたたえた、それこそ人形のような整った顔立ちで…
とにかく、妖怪の山ではなかなか会うことのない、気品に満ちた美しさを持っていて―――にこやかに話しかけられた時は、少々気圧されてしまったっけ。
「私は直接お話したことはあまりありませんが……すごく優しくてお綺麗な方だな、と」
「そうだよね…――――はぁ…」
椛の返事に対し、はたてはまたため息をついて机に突っ伏してしまう。
首を傾げる。そんなアリス・マーガトロイドが、どうかしたというのだろうか。そんな彼女の疑問を察知したように、ぽつり、とはたての口が開く。
「この前ね、彼に連れられて、アリスの人形劇を見に行ったの」
――…話をまとめると、こうだ。
いつもみたいに、コーヒーを飲みながら物語などの話に花を咲かせていたはたては、ふと、彼から、アリスの人形劇を見たことあるかと聞かれたという。
つい最近まであまり外に出たがらなかったはたては、念写とか文の記事などを通して人形劇の存在自体は知っていたものの、それを実際に見たことはなかった。そう返したところ、彼は笑顔を浮かべながら、きっとはたてなら気に入ると思う、と勧めてくれた。
そして、たまたま―――いや、今考えれば、彼がはたてを連れていきたくてその話題を持ち出したのだろうが――その日が、アリスが里に出て人形劇を披露する日だったこともあって、彼と共に、その人形劇を見に行くことになった。
来てみると、集まっているのは子供が中心だった。彼によると、アリスの人形劇は主として、子供向けに彼女が書き下ろした作品が上演されるという。それを聞いたはたては、子供向けの作品だからというちょっとした油断と、彼が勧めてくれたものというちょっとした期待を抱えながら、アリスの登場を待った。
しばらく待って、青いワンピースを着た少女が、かわいらしい人形を従えて、恭しくお辞儀をする。そして―――
「すごかった。単に人形を使う術だけじゃない。ストーリーも登場キャラクターもすごく練られていて、気が付けばその世界観にずっと引き込まれていた」
操られているだなんて、全く考えられない、人形の動き。
透き通るような綺麗な声で、よどみなく語られる、アリスの朗読。
人形劇のために作られたとは思えないくらいに、技巧と興趣に満ちた、衣装や背景のセット。
子供向けの作品と決して馬鹿に出来ない、作りこまれた世界観に、王道ながら、魅力に満ちた登場人物と展開。
そんな彼女の人形劇に、はたての目はみるみるうちに輝いて、引き込まれて。
気が付けば、涙を誘われて、彼の袖をつかんでしまっていたり、子供たちと一緒になって、声援を送っていたり。
その反応にしてやったりな顔をする彼に、ちょっとくやしくなって、膨れてみせたりして。
とにかく、最後まで世界観に浸ることが出来て、余韻に満ちた、充実した時間を過ごすことが出来た。
「それで、終わった後、彼が挨拶のためにアリスに話しかけに行ったの」
彼が話しかけると聞いた最初は、とにかく顔を紅潮させていた。だって、こんな作品と生で話すような機会なんて、なかなかないから。
この生の様子を記事にしても良いかも、なんて、そんなうきうきした感情を持ちながら、アリスのもとに駆け寄った。
けれど……彼がアリスに話しかけたその瞬間、はたての高揚した感情に、落雷を受けたが如くの衝撃がもたらされる。
「……まるで、子供みたいに弾けた笑顔だった。そして、向こうも、さっきまでの落ち着いた笑顔からは考えられないくらい、気さくに彼と話してた」
あんなに輝いてる彼、初めて見た。アリスも、人形劇で見せた大人びた笑顔ではなく、一人の少女として、彼に接しているのが分かって――すごく、息が合っていた。
「後で聞いてみたら、彼、アリスの人形劇を何年も前から見に来続けていて、本人とももう友達同然の付き合いなんだって」
…それを聞いて、納得、出来た。納得出来てしまった。
彼は、アリスのことを知り尽くしていて。
アリスも、彼のことを、本当によく知っている様子で。
「何だか、ちくって胸に来ちゃって…」
―――お似合い。その言葉が、あまりにも二人にしっくり来てしまったのだ。
二人を光が照らされる中で。はたては、影に隠れて、口を開くことが出来なくて。
結局、彼に紹介されても、アリスに話しかけられても、どこか上の空で。あの時、何を話したか、あまり覚えていない。
覚えているのは、彼の首を傾げながらどこか不思議そうにしている顔と、アリスの楽しそうにくすくす笑っている顔くらい。とても画になる、そんなツーショット。
「―――ちょっと、自信がなくなっちゃった」
そうして、寂しそうにはたては俯く。何も入れるでもなく、スプーンでコーヒーをくるくると回す。
決して、彼が悪い訳ではない。アリスが悪い訳でもない。
そもそも、はたては彼にそういった想いを抱いていることは伝えていないし、伝えるつもりもなかったのだから。
彼が幸せになるなら、別に誰と結ばれても良い、自分はただたまに彼と遊びに行ければ良い、そう考えていた。
けど―――
ウェーブのかかった輝く金髪に白く整っている美しい笑顔。
青いワンピースを着こなした、おしゃれな出で立ち。
透き通っていて、誰もが振り向いてしまう程の綺麗な声。
はては、お近づきのついでにもらった、今まで食べた中でも、抜群においしかったお茶菓子。
―――何もかも「勝てない」そう感じてしまって。きゅっと胸が締め付けられて。
何でこんなこと、自分で考えてしまっているのだろう――
「『うじうじするな』」
その時。目の前から聞こえる声に、はたては顔を上げる。
そこには、腕を組んで眉をしかめて、呆れたような表情ではたてを見つめる、椛の姿があった。
「『そんなことでぶうたれる暇があったら、とにかく動きなさい。手遅れになっても、私は知りませんからね』」
けど、そうして呆れたような顔は、どこかぴくぴくと動いていて。いらついてるように話そうとしている声も、どこか棒読みで。
「椛…?」
「あーすみません。文様ならこういう時なんて言うかな、と思ったんですが…あのムカつく話し方、なかなか真似出来ないですね」
はー、つかれた、と、げんなりした様子で椛は笑う。
それにつられて、ぷっ、と我慢出来なくなってはたても笑みをこぼした。
「ほんと。全く似てなかった」
「ははは。文様みたいに、とびきり性格悪くならないといけませんね」
「…駄目だからね?」
「なりませんよ。そうなったらおしまいですから」
そんなことを話しながら、しばらく二人で笑いあう。…その、ごめんね、文。
……けど。ちょっとだけ、気が楽になったかも。
「ありがとね、椛」
「いえ……励ませたのでしたら嬉しいです…ですが…」
今さら恥ずかしくなったのか、ちょっと顔を赤らめながら椛は俯く。かわいいな、となごんでいると、ちょっと躊躇いがちに、また椛は口を開く。
「文様の真似をしてはみたのですが…さっき言ったことは私なりの助言でも、あるんです」
また、顔を上げる。千里先を見通抜く瞳が、はたてと合って、ちょっとだけ、たぢろぐ。
「はたてさん」
「…う、うん」
「―――今の話をまとめると、はたてさんはアリスさんに劣等感を抱いている、と。そういうことですね?」
「そう、だね―――そういうことに、なると、思う」
「どうして、そんな感情を、彼女に抱いたのだと思いますか?」
「どうして、って――」
そんなの、分からないよ。そう出かけた声は、喉の先で、詰まってしまって。そのまま、沈黙してしまう。抵抗、している。
「―――じゃあ、もっと直球で聞きましょう」
椛は、その目を、はたてから離さない。
「もし、アリスさんが告白して――あるいは、彼が想いを告げて。お二人が付き合うことになったとします―――今のはたてさんは、それを祝福出来ますか?」
「そんなの―――」
出来るに決まっているじゃん、という声は、またしても出なかった。アリスと彼が並んでいる姿、それを思い出すたびに、胸がチクチクと痛んで。その声を出すことに、ずっとずっと抵抗していて。
アリスなら、彼を幸せに出来るって、あの時の会話を見るだけで、想像できたというのに。どうしてだろう。言いようもなく悲しい。我慢をしていないと、涙が出てしまいそうで――
「はたてさんは――」
声を出せずにいる、はたての様子を見て。椛は代わりに、結論を述べるために、再び口を開く。
「彼のこと、取られたくないんですよね」
「―――うん」
さっきまで、全く声が出なかったのに。何故だか、今度はすっと言葉が出て来た。
まるで、ためていたものを吐き切ったように、胸の中で、すっきりと、何かが流れていく。
「だから、彼にずっと近いアリスさんが羨ましくて、自信、なくなってしまっているんですよね?」
「―――うん」
本当は、ちょっと前から分かっていたことだった。
「友達」のままで良いと、思っていたはずだった。自分なんかより、彼にふさわしい子なんて、きっといるだろう、と考えていた。
それ以上自分が踏み込んだら、彼との関係が、壊れてしまうかもしれない、と怖かった。なら、このままで、ずっと、幸せなままでいたいと思っていた。
けど、彼といるのは、どうしようもなく幸せで、胸がいっぱいになって。もっともっといたいと思うようになって。
抑えたかった。けど、どうしても、あふれてしまった。
だから―――
「負けたく、ないなぁ……」
今までだったら、きっと諦めていた。
人形師の少女との差は、自分は最も実感していたのだから。
そんな差と戦ったところで、何も得ることが出来ない、なんて、諦めて、譲ってしまうのが、はたてという少女だった。
…けれど。そうだと分かっていても、今回だけは、譲りたくはなかった。
せめて、はたて自身があがけるところまで、戦いたい、と。彼に手を伸ばしたい、と願うようになった。
「私も、手伝います」
ずっとずっと鋭い目をはたてに向け続けていた椛は、ここで、にこりとした笑顔を見せる。やっとお役に立てるかもしれませんと、嬉しそうに尻尾を振る。
「はたてさんが美しくてとても良い方だというのは、私も少しは分かっているつもりですからね。いくらアリスさんが綺麗だろうが、決して負けてません」
「…はは、それは言い過ぎだよ」
「そんなことないですよ。ずっとあなたを見てきた、私のことを信じてください」
うっ。そんなこと言われたら、意地でも頑張らざるを得ないではないか。何だかんだで、やっぱこいつ文に似てきたんじゃないだろうな。
にこにこした笑顔を浮かべながら、何故だか嬉しそうに耳をぴくぴく動かしている椛を、ちょっとだけ細めた目で、はたては見つめる。
―――けど。
「分かった。彼に振り向いてもらえるように、頑張ってみるよ」
なんだか、とっても、楽しい。
「そうと決まれば、善は急げです、はたてさん!出発しましょう」
「そうだね。まずはどこに行こうか」
「…どこに行けば良いでしょう?」
「えー……」
「…すみません。自分もこういうのに疎いの、すっかり忘れてました…」
しゅん、と耳を下げる椛を見て、何だかおかしくなって、はたては笑う。刹那の後、その笑顔を見た椛も、恥ずかしそうに、つられて笑う。
何でだろう。根拠も何もない、前途多難な道のりなのに。何だかうまくいきそうな、そんな気がしてきた。
―――その日、文は机の上に、手帳を広げていた。
それは、彼に関するもの。はたてから最初に相談された時に書き込んでいた、あの手帳である。
ぱらり、と資料をめくって、一枚の写真を見つめる。そこには、里で人形劇を上演している、アリス・マーガトロイドの姿。
彼のことを事前に調べていた文は、彼がアリスの人形劇を見に行っていること、そして彼とアリスが旧友の仲であること自体は元々知っていたのだ。
けれど―――またぱらり、とページをめくる。そこに書かれていたのは、十年前の出来事について、聞いてきたのをまとめ。
そして、あのカフェで見た、アリスの態度。
『…大丈夫。彼は優しくて、気のきく子だから。はたてさんも、とても良い子だって、見てれば分かるから。きっと、うまくいくわ―――私が保証する』
……………
人差し指で机を叩きながら、はぁ、とため息をつく。
―――全く。難解、ですね、本当に。
――こん、こん。
木製の戸が叩かれる音がする。
「文様?いらっしゃいますか」
聞こえてくるのは、はるか彼方にも届けられそうなほど、凛とした声。
「―――椛、ですか。入って良いですよ」
「はい。失礼します」
からり、という音と共に、犬走椛の姿が見える。その姿を認めた文は、机に置いてあった資料を引き出しにしまって、別の本を取り出す。もう、椛が来ること自体は珍しいことではない。きっと、いつものようにこちらの様子を気にすることもなく、用件を話して帰るのだろう。
…そう、思っていたのに。玄関に踏み入れる足音が、いつまで経っても聞こえてこない。
さすがに疑問を抱き、横目を向ける。すると、そこには、戸の陰に隠れている誰かの手を、椛が引っ張っているという、奇妙な画が広がっていた。
「ほら、そんなとこ隠れてないでこっち来てください」
「うぅ…だって、結局恥ずかしくなってきたんだもん。絶対、嫌味言われるに決まってるし」
「あの方の嫌味なんて今さらじゃないですか。どうせどんなに良いもの着てきたって、文句言わないと気が済まないんですから、一緒ですよ。良いから来てください」
…あのー。そういうのはせめて本人が聞こえないところで話してくれませんかね?分かってますよ。自分が悪いってことくらい。
このままだと埒が明かなそうなので、げんなりとため息をつきながら、こちらから話しかけてみることにした。
「はたて?どうしたんですか、そんな陰に縮こまって」
椛の引っ張る手が、ぴくっと止まるのが見える。
「…ワ、ワタシハタテジャナイデスヨー?」
「ばればれですよ?こちらも暇ではないのです。用件があるなら早く入りなさい」
ごまかす気がみじんも見えない片言に呆れかえりながら、文は目を細めて、手の持ち主に声をかける。
さすがに観念したのか、椛に手を引かれるまま、のろのろ、ともう一人の天狗が戸の陰から姿を現した。
「ほら、はたてさん」
「う、うん…」
そうして、顔を赤くさせながら姿を現すはたてに、刹那、文はぽかんと口を半開きにさせていた。
そこにいたのは、はたてであって、はたてではなかった。
いつも紫の兜巾を被っていた頭には、兜巾の代わりに、ベージュ色のキャスケット帽。
それに伴い、上で結んでいた髪は下に垂らされ、紫のリボンで二つ結びになっていて。
服装は、上が白いゆったりとしたブラウス。
そのブラウスをおなかのあたりでひざ丈程のすらりとした茶色いスカートに入れ、サッシュベルトで結んでいる。
総合して、外来の巫女で言うところの「今どきの少女」とも表現すべき―――はたての雰囲気によく合った、すっきりした装いに仕上がっていた。
「…文」
何の反応も見せない文にまた気まずくなったのか、はたてがゆっくりと口を開く。
「あの、今日、椛と見つけてきたんだけど………似合ってる、かな?」
そんな不安げなはたての様子を文はまず見て、次いで、ぐっと両手の拳を握って、見守っている椛を見る。
それで、今日何があったかのおおよそのことを、文は大体把握した。
そして、文は、はたてや椛が、本来こういうことに関してそこまで明るくはなかったということも、よく知っている。
それらの点から導き出せる結論は―――
「…なんだ」
…あぁ。やっぱりあなたを見ていると、思い出さずにはいられないですね。
半開きにしていた口を、ふっと緩めて。柔らかい笑みを浮かべながら、文はこう返した。
「やれば、ちゃんとおしゃれ出来るじゃないですか、はたて」
「あ、文様がデレた…!?」
「たいへんよ椛、明日は異変が起こるわ!今すぐ博麗の巫女に伝えに行かなくちゃ!」
「…あなた方、つくづく失礼ですね」
***9***
「―――それで、どうでしたか?あの服に対する反応は」
「うん…とても似合ってるって」
「おっ」
「恥ずかしくなって、あんまり彼の顔を見れなかったけど…多分、顔を赤くさせてた…と思う」
「良かったじゃないですか!とりあえずこれで、一歩前進ですよ!」
「うん…ありがとね、椛」
「まだ、まだ、これからです。こっちもちゃんと調べましたからね。張り切っていきますよ!」
「―――そうだね、頑張ろう」
―――そうして、少女たちは前に歩みを進め。
「―――そんな訳で、まぁ、関係は良好みたいです」
「そう。本当、仲が良いみたいで、良かったわ」
「…一つ、お聞きしても良いですか?」
「なぁに?」
「アリスさんは、彼とご友人の関係ではないですか。あの二人の進展を知りたいなら、彼に直接聞いてみれば良いのでは…」
「……」
「…アリスさん?」
「…まぁ、そうなんだけどね。最近、こうして人形劇に集中しているから、話す時間もなかなか作ることが出来なくて。それに、」
「…それに?」
「―――せっかくだもの。こういう話は、文から聞きたいな、と思って」
「なんですかそれ……。まぁ、私は別に構いませんけど」
「………」
「―――なんですか」
「うぅん。文って、本当素直じゃないなって思って」
「…ほっといてください」
時間も、共に過ぎていく。
***10***
「うーん」
人妖が一同に沸き立つ祭礼である、夏祭まで、半月に迫っていた。
日差しは徐々に刺すような暑さを増していき、開いている障子を通して、クチナシの甘い香りが、じっとりとした湿気に乗って運ばれてくる。
今、はたては文の家まで押しかけてきて、山で売られている浴衣に関する記事を、うんうん唸りながらにらめっこしていた。
「夏祭の浴衣、どんなものが良いかなぁ」
「ここにいないで椛に見てもらえば良いじゃないですか」
はたてから少し離れた机で、また原稿用紙に向き合いながら、文は淡々と呟く。
「今日は白狼天狗の皆と行くとこあるんだってさ。いつも椛に迷惑ばかりかけても良くないでしょ」
「…私なら良いんですか」
「うん。だって文だし」
「はぁ…あなた方、私に対しては本当都合の良い解釈しますね……」
まぁ、良いですが。そうこぼす文は、顔を上げることなく、かりかり、と原稿を書く音を進める。
はたてからは、文の横顔は、髪に隠れて、よく見えない。
―――しょうがないじゃん。そう文に聞こえないよう、はたては呟く。
あんたのこと、まだ何も分かってないんだから。
「夏祭といえばさ」
ふと、はたてはひたひたと畳を歩き、棚の上にあるものを手に取る。
「あの写真…どうしたの?」
はたてが手に取ったのは、桔梗の活けられた花瓶の傍にある、一つの写真立て。
そこには、夕闇の中、濃紅の浴衣に身を包み、線香花火を手にしゃがんでいる、文の写真が入っていた。
くすみ具合からすると、そこそこ昔の写真らしい。カメラの目線なんて、気にしてもいない様子で、目の前に散る線香花火の火花を、穏やかな笑顔で見つめている。そんな、純粋に見える、文の姿。
「どうしたのって…ずっと前から置いていたじゃないですか。何を今さら」
「…まぁ、そうなんだけどさ。考えてみたら、文って自分の写真撮らせてくれること、ほとんどないじゃない」
「………」
ぴたり、と、原稿の上を舞う、万年筆の動きが止まる。けれど、顔をこちらに向けることはなく、まだ、表情を見ることは出来ない。
「…そうでしたっけ」
「そうだよ。今まで集めた念写の中に、文が映っているもの、一回も見たことないし」
「………そう…でしたか。そうだったかもしれませんね」
まるで今ごろになって気付いたかのように、はぁ、というため息が、はたての耳に届く。
その響きから、まるで焦りは聞こえてこない。むしろ、懐かしさを噛みしめる想いだけが、見て取れるような。
「誰に、撮ってもらったの?」
そもそも、こんな文の笑顔、自分は一回も見たことがあっただろうか。彼女をそんな顔にさせる写真を撮るなんて、どんな方なんだろうか。
そんな、ちょっとした関心と羨望が、はたての中に渦巻くのは、無理からぬことといえよう。
けれど―――
「申し訳ないですが、教えることは出来ません」
今までの、淡々とした言い方ではない、はっきりとした声音で、文はその質問を拒否する。
「―――どうして?」
「………」
あいかわらず、文は顔をこちらに見せてはくれない。けれど、ぐっと、万年筆を握る手が、ちょっとだけ強くなっているのを、はたては見た。
わすかな、逡巡とも見れる沈黙。その時間を経て、ぽつり、とこぼすような文の声が聞こえる。
「…それは、私が一生抱えていく『秘密』だって、決めてますので」
「―――そっ、か」
かたり、とはたては写真立てを元の位置に戻し、また、文から離れたところに座る。写真立てから、風船みたいに膨らんだ、今にも弾けてしまいそうな桔梗の蕾に、目が移る。
そうまで言われて、それ以上聞こうという図々しさを、はたては備えていなかった。むしろ、この写真が文の抱えていく「秘密」ということを、文の口から聞けただけでも、はたては嬉しかったのだ。
「浴衣のことでしたら、こちらが終わったら見てあげます。それまではちゃんと自分で考えてください」
「分かってるって。感謝」
あいかわらず、顔をこちらに向ける様子もなく、淡々と文は声をかける。その声音からは、さっきまでのことを気にしているようには、とても見えない。それが本音なのか仮面なのかはともかくとして、そのことははたてを少しだけほっとさせた。
ぱらり、と新聞紙をめくる音と、かきかき、と、万年筆が原稿に走る音だけが、しばらく部屋に響く。
さて、結局、夏祭に着る浴衣は何が良いだろうか。文の言う通り、決意を固めたのは自分なのだから、出来れば自分で決めたい。彼に見せるものだから、ちょっとでも、自分に合ったものが良いのだけど――
その時。くわぁ、くわぁ、と誰かを呼ぶような鴉の鳴き声が、辺りに響く。
「どうやら伝書鴉が言伝を届けてくれたみたいですね。出てあげなさいな」
「う、うん」
淡々とした文の声で、はたては我に返る。天狗の世界では、鴉などの眷属が手紙などを配達してくることが多い。鴉の鳴き声は特に鴉天狗に通じ、かつ賢くて家から離れた相手も正確に見つけてくれるため、郵便などでは重宝されるのだ。
そういえば、ちょうど昨日、彼に対して夏祭に一緒に行かないかという手紙を送ったばかりだった。もしかしたら、その返事が来たのかもしれない。そう考えると胸の鼓動が高まって、どたどたと慌てた足取りで玄関まで駆けていく。その裏で、文が、呆れたように軽くため息をついたのに、はたては気付くことが出来なかった。
「お待たせ。いつもありがと――――」
「―――え…?」
―――その時、轟音が、響いた。何かが倒れ、割れ、そして転ぶ、そんな音。
只事ではない音に、文机に顔を隠していた文も、玄関の方に顔を向けて―――刹那、はたてのもとへ、駆け出す。
はたては、手紙を手に持ったまま、玄関先で、転んでしまっていた。
幸い、慌てて玄関の何かにつまずいただけらしく、ケガ自体はひどくはない。けれど―――うつぶせに倒れていて顔が隠れているはたての荒い息は、明らかに尋常ではないことが伝わってきた。
「―――はたて、」
転んでしまったはたての肩に手を置きながら、文は敢えて感情を付けずに問いかける。肩が震えていることが、手を通して伝わって来る。
「何か、ありましたか?」
そんな文の声で少しは落ち着いたのか、はたては、ゆっくり顔を上げる。真っ白になった顔の中で、目の周りだけが、薄らと赤く染まっていて。
…あぁ、やっぱり。唇を噛んで、顔を歪めてしまう。
知っている。文は、こういう顔を、知っている――
「どうしよう…どうしよう、文」
「彼が、倒れたって―――――」
***11***
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
その夜、彼女は一人だった。最近はいつも二人で線香花火を燃やしていたのに…その夜は、一人だった。
…一人ぼっちに、なっちゃった。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわ…
支えてくれる手は、今ここにはなくて。そのせいか、どうにも、辺りは寒く感じられて。
微かな手の震えと共に、散り始めた火花は、時を待たず闇に飲まれてしまう。
……ずきり、と胸がうずく。このままではいれなくて、また、紐の先に火を灯す。
―――ぱちぱち、ふわり。ちら…
―――ぱちぱち、ふわ…
―――ぱち…
―――ちら…
けれど、何度、何度、試しても、駄目で。胸の鼓動は早く鳴り響き、呼吸は荒くなる。涙が、出そうになる。
夜闇の中、孤独に包まれ、小さくうずくまって。それでも諦めたくなくて、求めずにはいられなくて。
―――そうして、ぐるぐる、迷路を巡る私に、とどめを刺すように。
…ぽつ、ぽつ、と、無機質な雨が降り始めた―――
***12***
「………」
「―――文?」
「…あぁ、すみません。ちょっと、ぼーっとしてました」
はぁ、いけないいけない。軽く首を振ると、文はコーヒーを一口、喉に流しこむ。
その文の向かいには、アリス・マーガトロイドが、カップを片手に薄く微笑んでいた。こっちを気遣うように、眉はハの字に曲がっている。
あの報告から一日。この日もまた、恒例となりつつある、文とアリスの待ち合わせの日だった。
「そう。気分がすぐれないなら、無理しなくて良いのよ?」
「お気遣いどうも。こちらは大丈夫です―――アリスさんこそ、大丈夫ですか?」
「私?」
はい、と返しながら、文は、その赤い瞳で、アリスを見据える。
「多分、私と同じような顔をしています」
「………」
ぴくり、とアリスの指が、動いたように見える。
ギターの静かなBGMしか聞こえない空間の中で、戸惑うように、青い瞳を微かに揺らす。
それは、いつものアリスなら見せることない、動揺。けれど、文はそれに対して、特別驚きはしなかった。
「彼のこと、聞いたんですね?」
ここ何ヶ月かで、文はアリスという魔法使いのことを、ちょっとは分かってきたつもりだったから。
「…まぁ、ね」
覇気のない声で、力なく、微笑む。よくよく見ると、元が白い顔色もさらに白く、ちょっとつやが消えているように見える。
きっと、短い返事には収まらない程に、彼のことを気にしているのだろう。
…ちくり、と。胸の中で何かが刺さる。
あぁ、本当、駄目だ。どうしても、誰かさんと重なって見えてしまう。
「―――彼はきっと、大丈夫です」
だから、気が付けば、文はこう声をかけていた。ちょっとだけ強い声になっているのが、自分でも分かった。
「はたてが、傍についてくれてますから」
「…ふふ」
ぽかんとした沈黙の後、そう、アリスはおかしそうに笑う。
「そっか。はたてが、彼のところに行っているのね」
「はい。どこまで出来ているかは分かりませんが―――ずっと、彼の世話をしてくれているみたいです」
「…そっか。ずっと、傍にいてくれてるんだ」
こぼすように呟きながら、はぁ、と穏やかな息をついて。さっきまで不安げに揺れていた瞳には、あたたかな涙がたまっていて。
「―――良かった」
心からの安堵と、ほんのちょっぴりの寂しさが入り混じった、その笑顔は、とても綺麗で。想いに満ちあふれたその吐息に、文もしばらく見入ってしまう程だった。
「ありがとうね、文」
「はい?」
「はたてを励まして、彼のもとに行かせたのは、あなたなんでしょう?」
聖母のようなアリスの笑みが何となく気まずくなって、文はアリスから目を逸らす。
舞台人としての眼が培われているのか、アリスは、他者をよく見ている。だから、やたらと鋭い。
けれど、彼女はどうしようもなく優しい。だから、好意的な勘違いをしている。それがむず痒くて、逃げ出したくなる。
決して、そんな褒められるようなことなんてしていない。自分がしているのは結局、ただの罪滅ぼしで、自己満足に過ぎないのだから。
「別に、私が何か言ったりしなくても、きっとあの子は、同じように行動していましたよ」
コーヒーを喉に流しこむ。ぬるくなって、少し強くなった苦さと香ばしさが、文の口を満たしていく。
「―――あの子は、私なんかとは違う、強い子ですから」
…あんなこと言われて、どこか救われてしまっている自分を、戒めるように。
「…ふふ、そうね。そういうことに、しておきましょう」
そして、そんな苦い顔に対してなおも微笑みで返してくるアリスが、文は決して、得意ではなかった。
「―――それでね、ラスト、二人がお互いに告白する場面なんだけど」
結局、お互い大丈夫、彼のことははたてに任せよう、という話に落ち着いたところで、文とアリスの話題は本題へと転換する。
今回の話題は、半月後に迫った夏祭の人形劇。例の「絵本」の話が片付き、刊行されてから、人形劇のストーリーについて本格的に話し合い始めたのだ。
といっても、「絵本」の時みたいに、固い空気で話している訳ではない。
お互いコーヒーを飲みながら語り合っていることから分かるように、どちらかといえば友人同士のような空気で、話を進めていく。基本的にはアリスが自身のイメージを積極的に活き活きと語って、文は聞き役になる。それで、アリスがふとした時に文に疑問や質問を問いかけては、文はそれについて考えて返事をして―――という具合だ。ただ、今から考えると、もしかしたらもうちょっと能動的に話に付き合ってみた方が、良かったのかもしれない。……悪かったとも、言えないが。
ちなみに、どうして私にこんな話を?と気になって聞いてみたところ、こういう話題にした方が、文自身のことももっと聞けるだろうと考えた、とのこと。まぁ、そんな気はしていたけど、とそれを聞いた文はため息をついていた……つまり、文からしてみれば、いつの間にか、アリスの策に乗せられてしまった訳だ。
けれど、結局文は、そのことが分かった今でも、こうして、アリスと話を続けている。
「せっかく夏祭りで上演する人形劇だから、お祭りの場で締めくくりたいと考えてるの」
「良いのではないでしょうか。二人にも似合っている場だと思いますし」
「けどね……祭りのどこで、二人に想いを告げさせるべきか、迷っていて」
「―――なるほど。それは重要な問題ですね」
んー、とアリスは首を傾げる。考えている様子は、とにかく楽しそうで。いつもこんな表情をしながら人形劇を書いているなら、それは良い作品が出来るだろうな、と文は感じていた。
「…何かしながら、とかが良いでしょうか」
「そうね。お祭りらしいものを出しながら想いを告げ合った方が、ムードも出る気がする」
「なるほど」
「それでいて、出来るだけあまり音の出ない、二人だけの空間、というのを作り出したいの。何か良いアイデアはないかしら?」
…なるほど。確かに登場人物の性格上、出来るだけ落ち着いた雰囲気の中の方が、想いを告げるのに適しているかもしれない。
そう頷きながら、文もぼんやり考えてみる。
お祭りの中で……二人っきりの空間になれるようなもの……ですか…
……
…………
………………
あぁ、こんな話をするから。どうしても、思い出してしまう。
夜闇の中、見慣れた朱色の鳥居が、提灯に照らされ、くれなゐにほふ。
時折聞こえてくる、神楽鈴の音は黄金色で、祭りの空気によく合っている。
あちらこちらで響く歓声。あっちでは、射的の、コルクが弾ける音が。こっちでは、水風船釣りの、ゴムが切れてしまう音が聞こえて。とてもにぎやかで。
けれど、それに構っている暇はなかった。今は、少しでも、優しい闇の方へ行きたくて、その手を引いていく。
そして、辿り着く。見えるのは、赤く照らされる鳥居だけ。聞こえてくるのは、黄金色の鈴の音だけ。互いの顔も、まともに見えないこの景色に、けれどしっかり笑いあって。
だって、ここだからこそ。こういう場所だからこそ。綺麗に見えるんだから。
一見すると、小さくて、とりとめもない、光。けれど、自分たちにとっては、何よりも美しいと感じる、そんな光。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
「…線香花火」
―――気が付けば、声が出てしまっていた。
「文…?」
「線香花火、とか。どうでしょうか」
アリスが目を丸くさせるのも構わず、胸に湧き上がる感情が高揚していく。
何重にもかかっていた鍵が、次々と開錠されていくのを感じる。
―――駄目だ、という叫び声が聞こえる。
今までのこととは訳が違う。これは、ずっと抱え続けてきた「秘密」に関わることなのだから。
孤独に背負うべき「罰」と考えて、今まで、黙ってきたことなのだから、
「それなら、静かな場所にいながら、祭りの空気も、作り出せますし―――シチュエーションも、いろいろ考えることが出来ると、思うんです」
けれど、一回堰を切ってしまった奔流は、もう、走り続けることしか出来なくて。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
神楽にまじり、夜闇に光る火花を浮かべながら。
ただ、目の前の人形師に、全てををさらけ出してしまう。
…本当に、何が自分をこうさせているのだろう。
「線香花火お互いにつけながら、何となく、落ち着いた空気のまま想いも告げ合う……とか」
『文。あなたがいるじゃない』
いつの間にか、目の前の人形師に甘えたい、と―――救われたい、と、考えてしまったのか。
この時間を経て、彼女になら、話しても良い、と、気を許してしまったのか。
「どちらかが火をつけているところに不意打ちで想いを告げて…驚きのあまり火を落としてしまう、とか」
『あの、今日、椛と見つけてきたんだけど………似合ってる、かな?』
いつの間にか、あの友人が羨ましいと、感じてしまったのか。
自分も、誰かと分かち合いたい、と―――こんな話がしたい、と、願ってしまっていたのだろうか。
「……火をつけているところを、後ろから手を差し伸べて。落ちそうになっている火を支えてあげる、とか……」
懐かしい。忘れられない。忘れるはずがない。ずっとずっと刺してきて、痛くて。けれどどんな玉珠よりも素敵な、自分の宝物のことを。
「……素敵ね」
ずっと黙って聞いていた、アリスは、ぽつりと呟く。
やっと、話してくれた。こういう話が、聞きたかった。
本当に満たされたような、その微笑みで、ぱたり、と開いていた手帳を閉じる。
「私、線香花火、好きよ」
コーヒーカップを片手に、にこり、と文に笑いかける。
「一つ一つが、派手な光を出す訳ではない。暗闇を照らす、それ程の輝きなんて、持ち合わせてはいない」
―――けれど。
「だからこそ、その光は美しい。蕾の産声をあげてから、やんちゃな牡丹を経て、若々しい松葉を表現する。そして、柳として時を経た火花を見せ、最後の最後まで、散り菊として生を全うする」
燃え尽きるまで、美しく燃えることを、決して諦めようとしない。それは、まるで。
「その火花は、命の輝きそのもの。いつ落ちても分からない、そんな短い生の中で、自分の存在を主張する。その姿が、好きなの」
そうして締めくくったアリスは、また文の方を見つめる。
見とれるような丸い目でアリスを見つめていた文は、ゆっくりと、半開きにさせていた口を、ゆっくり、緩めていく。
「…そう、ですね」
こくり、と頷く。本当に。アリスが語ったことが、線香花火の魅力の全て。文も、そう感じている。
「ほんっとう、綺麗な光で。ふとすれば落ちそうなくらい儚い、そんな空気の中で、どうしても、その火を落としたくなくて、けど落としてしまって」
もうどうしようもなく、ヘタで、ヘタクソで。ぽたり、と落としてしまうたびに、何回も、悲しい気持ちになった。胸が締め付けられる思いだった。もう、線香花火なんて持ちたくない。それが出来たら、どれほど楽だろうか。何回も、そう叫び続けていた。だけど―――
「もう、つけたくないと思っても、気が付けば、あの火花がちらついて。落ちる刹那を見たくないと、目を背けたい衝動にかられても、どうしても目を離すことが出来なくて―――」
結局、また、惹かれてしまうのだ。また、あの火花を見たいと、願って、手に取ってしまうのだ。
一目、焦がれてしまった、私にとって―――もう、あの美しい火花は、なくてはならない存在に、なってしまったのだ。
「だから、私は――――」
後にアリスは、こう語る。
「―――線香花火が…嫌いです」
あの時、文の笑みは、明らかにひび割れていた。今にも決壊しそうで、事実、目からは、つぅ、と一筋涙が流れていた。
けど―――その笑顔は、自分が今まで見てきた誰よりも、一番美しい笑顔だった―――と。
そっか―――
だからあなたは、はたての恋を、叶えてあげたかったのね。
***13***
「じゃあ。本当に、世話になったわね」
「こちらこそ……きっと、良い作品になりますから。夏祭では、頑張ってください」
会計を済ませ、カフェの入り口からちょっと逸れたところで、アリスと文は挨拶を交わす。
結局、今日の会話を通して、夏祭の人形劇の展開は、おおよそ固めることが出来た。後は舞台の設営だとか人形への振り付けをすれば良いだけなので、アリス一人ですれば良い作業になる。
「絵本」の件も、完成して良い売れ行きを記録しており、企画としては、既に完結している。
つまり、それは―――文とアリスが、こうして会うためのつながりが、今なくなってしまったことを意味していた。
「…では」
そう声をかけて、文はアリスに背を向ける。黒羽を広げ、今にも飛びたたんと、背中を屈める。
「―――文」
けれど、そんな文に対して、アリスは声をかける。
ピタリ、と翼の動きが止まるのが見て、彼女は、文に向けてゆっくりと、手を差し伸べた。
「また、吐き出したくなったら、いつでもうちにいらっしゃい」
「………」
「あなたも、前を向いて良いんだから」
「………」
ヒグラシの寂しげに鳴く声だけが、里の外れに響く。
差し伸べられた手を取る訳でも払う訳でもなく、ただ、背を向けたまま、文は俯く。
彼女が今、どんな顔をしているのか、アリスからは見えない。
けれど、アリスは伸ばした手を、引っ込めるようなことはしなかった。
「なーに、言っているんですか、アリスさん」
すん、と俯いていた顔をあげて、そんな調子の良い声で、文はくるりと振り向く。
にこにこ、と場違いな笑みを浮かべながら、驚くアリスの顔をシャッターで一枚。
「私は、清く正しい記者。誰よりも自由に空を飛び回る鴉天狗、射命丸文ですよ?アリスさんの考えてるみたいな重い話なんて、持ってる訳ないではないですか」
未だ手を伸ばしたままのアリスに、あやややや、とおかしそうにまくしたてる。
そこにいたのは、いつも幻想郷を騒がせる、お叱りなんて何のその、自由気ままな愛すべきパパラッチ、射命丸文。
けれど、今のアリスにとって、その笑顔はあまりにも寂しいものに感じられた。
青い瞳を少しだけ下に向けていると、また、刹那の沈黙が流れて。そのまま文は、くるり、と顔を背ける。
そうして、翼を広げ、今度こそ、飛び立たんとして―――
「そうそう、そういえば『絵本』の件なんですがね」
けれど、立ち止まったまま。文はまた、明るい口調でまくしたて始める。
「アリスさんも耳にされたかと思うのですが、出版したところ、本当人気で、飛ぶように売れたと貸本屋の方が喜んでいまして。他の作品も見たい、という声がそれはそれは多く出ているそうなんですよ」
俯かせていた青い瞳を、また上げる。背を向けているため、文が今どんな顔でこんな話をしているのか、分からない。
「それでですね、企画者の私としましても、これはまだまだいけるな、と感じていましてね。この件に関して、前向きに考えたいと思っているんですよ。だから―――」
そこで、調子の良い語り口は、止まって。注意して見ないと分からないくらい、ほんの微かに、顔を俯かせて―――
「―――また、お時間をいただいても、よろしいでしょうか」
しぼり出すようなその問いかけに、アリスはゆっくりと、口許を緩める。返事なんて、決まっていた。
―――もちろん。
びゅう、と一陣の風が舞う。思わず、伸ばしていた腕で顔を覆ってしまう。刹那、風がやんで、また腕から顔を覗かせてみると、鴉天狗の少女の姿は、もう、どこにもなかった。
ぱん、ぱん、と手を叩きながら、アリスは、文が飛び去って行っただろう方向を見つめる。
…本当、素直じゃないんだから。
「シャンハーイ?」
主人の様子を気遣うように、横にいた上海人形が、そう問いかける。
「ううん、大丈夫よ、上海――私たちも、行きましょうか」
アリスは、そう笑顔で返しながら、くるり、と文とは逆の方向――里の中心へと、歩を進め始めた。
―――高速で飛ぶ文が家の方に近づいていくと、戸の前に誰かが待っているのが見えた。
白い耳にもふもふとした尻尾。赤い兜巾の山伏衣装に、紅葉を散らした黒いスカート。自分にもよく見覚えのある天狗だった。
「…あ、文様」
文が帰って来たのを見て、その天狗―――椛は、不安そうな面持ちで、こちらを見つめる。
彼女も、はたての想い人が倒れたという報は、伝わっていた。
いつもはたての話を聞いてきた、椛のこと。きっと、哨戒の任務中も、気が気ではなかったのだろう。
それで、せめてたまっていた不安を打ち明けたくて、文のところまで来た―――こんなところだろうか。
本当、こう考えてみると、はたては幸せ者だ。
「―――ちょうど良かったです、椛。実は一つ、お願いしたいことがありまして」
けれど。文が話しかけると共に、椛は呆然と口を開ける。
椛の目の前には、どこか憑き物が落ちたような―――仮面でも、何でもない。どこか寂しげで、けれどすっきりとした微笑みを浮かべる、文がいたのだ。
「はたてに似合いそうな浴衣、見繕ってくださいませんか」
***14***
窯から湯気がたちのぼる。
ふつふつと鳴る黄金色の液体を、少しだけ掬い取り、口許に近づける。
…うん。おいしい。うまく出来て良かった。
はぅ、と一息つきながら、姫海棠はたては、額の汗を拭った。
「………これで、大丈夫」
数日前からはたては、熱に倒れたという想い人の家で、付きっ切りでお世話をしている。今は、彼に栄養を取ってもらうために、スープを作っていたところだ。
…本当、椛から料理も教えてもらって良かった。あの経験がなかったら、きっと今ごろ、戸惑うばかりだったかもしれない。彼女には本当、頭が上がらない。
それに、文にも――――
………
彼が倒れたという知らせを聞いた時を、思い出す。
あの時、どうしたら良いのか分からず、パニックになってしまったはたてを、文は、急に抱きしめてきたのだ。
あまりのことに、声が、出なくなる。思っていたよりこいつ温かいんだななんて、馬鹿みたいな感想だけが出て来る。
そうして、目を丸くさせるばかりで、どう反応したら良いか分からずにいると、抱きしめた耳元で、文の囁く声が聞こえる。
『行ってあげなさい』
はたては、さらに驚いた。今まで、こんな文の声を、聞いたことがなかったから。
『彼は、家におひとり…でしたね。体が弱っている時に、誰かが傍にいる。それだけで、きっと、彼にとって何よりの救いになると思います』
慌てて、はたては顔を横に向けようとする。文の表情を、見ようと試みる。
『だから、決して、彼のもとを離れないでください』
けれど、文の抱きしめる腕は、ずっと強くて。表情なんて、見ることが出来なくて。
『―――あなたには、後悔、させたくないんです』
どんな、顔、してたんだろう、あいつは。抱きしめる前、刹那、つらそうに歪んだ顔が見えた気がしたけど、正直、それも自信がない。
分かることは。あの時のあいつは、とにかく真剣で、必死だったということ。
そして、そんな文のおかげで、私は今ここにいる、ということ。
竈の火を消して、調理場から、彼のもとへ向かう。彼は今、敷かれた布団の上で、冷水に濡らされた布を額に、規則正しい寝息を立てている。
頬に手を触れてみると、まだ、熱い。その熱を感じるだけで、ぎゅっと、胸が締められるのが分かる。今にも逃げ出したい、そんな思いに、かられる。
けれど、決して、はたては彼から離れることはなかった。頬から髪へ手を移動させて、寝かしつけるように優しくなでる。
今、自分が彼の役に立てているかどうかは、分からない。正直、そこまで自信が持てた訳ではない。
けれど、少なくとも、ここにいても大丈夫なんだな、とは思えるようになっている。安心出来るようになっている。
胸の中に、ほんのりとあたたかいものが湧き上がるのを感じる。
―――…本気になろうと、思えて良かった。
…こん。こん。
「…?はーい…」
扉が叩く音が聞こえる。ここまでにも、彼の旧知の友人だという青年たちが、何人か見舞に来てくれていたことを思い出す。
また、誰か来たのだろうか。そう首を傾げながら、足早に玄関まで駆け寄る。
「こんにちは」
「シャンハーイ」
そこには、かわいらしい人形を従えた一人の少女が、優しげな笑みをたたえながら、立っていた。
「…アリス……」
アリス・マーガトロイド。あいかわらずのおしゃれで美しいその所作に、なんとなく、胸がざわついてしまう。
…そっか。アリスも、ずっとずっと、彼と個人的に仲が良かったって話だから、こういう時に、来て当たり前だもんね。
そう、頭では分かっていても、もやもやは、収まってくれなくて。
「彼が熱にかかったと聞いて、お見舞いに来たの。今、大丈夫かしら?」
「あ…はい……どうぞ…」
そんな場合ではない。今は、彼のことが優先だ。アリスは、純粋に彼を心配して来てくれたんだから。
はたては、傍にいた人形から果物の入った籠を受け取ると、アリスを中に入れる。わぁ、良い梨だ。とてもおいしそう。
アリスは、勝手知ったるとばかりに、まっすぐに彼の寝室まで向かう。そうして、眠っている彼のもとに正座する彼女を横に見ながら、はたてはお茶の準備をした。くいくい、と裾が人形に引っ張られる。どうやら手伝ってくれるらしい。ありがとう、と撫でれば、すぐにてきぱき動き始めた。
また、胸が締め付けられるのを感じる―――本当、ここのこと、よく知ってるんだ。
「――良かった。見たところ、大丈夫そうね」
そうしてお茶を運んで来てみれば、アリスは彼の穏やかな寝息を見て、そう、ほっとしたように呟いていた。
湯呑を手渡すと、ありがとう、というお礼を耳に、はたてもアリスの横に座る。
そういえば、アリスとこうして一対一で向き合うのは、はたてにとっては初めてのことだった。
人形劇など、たまたま会ったり出来れば、彼の方から話しかけるため、会話の機会はあるのだけど、それもほんの数回、出来たとしてアリスは忙しそうに早々に後にしてしまうため、短かな時間である。近頃は、ちょっと特殊な事情で文が頻繁にアリスと会っていることを知ったため、文を通してアリスについて聞かせることも考えたのだが、何だか良心が咎めたのでそれもしなかった。
つまり、はたて自身は、結局アリスについて、ほとんど分かっていなくて。うまく表現出来ない緊張感が、彼女の胸に湧き上がる。
「うん…もうだいぶ、熱も引いてきたみたいで。数日したら回復するみたい」
「そう。夏祭は、問題なく行けそうね。良かったじゃない」
「?」
「彼とまわるんでしょう?」
ふふ、とちょっといたずらっぽく笑いながら、アリスははたての方を見る。
「夏祭、新作の人形劇を見せに行く予定なの。もし良かったら来てね?」
「うん。その、今さらだけど―――いつも楽しく、見させていただいてます」
「どういたしまして。今回のは自信作だから、期待してちょうだい」
「分かった。彼が起きたら、伝えておく」
…なんだろう。何の問題もなく、話せてる。ずっと抵抗感を持っていたから、もっとぎくしゃくするかな、と思っていたのに。
「そ、そういえば…絵本も読ませていただきました」
「あら、ありがとう。どうだった?」
「うん。そこまで作品見たことなかったけど、今の作品とは雰囲気微妙に違ってて、面白いなって。例えば―――」
数分前の緊張はどこへやら。
まるで、長年の友達と話しているかのように、気分が高揚してきてる。
気が付けば、自分から話題を切り出したり、語り出したり出来るようになってきてる。
「ふふふ」
「…はっ、ごめん。好き勝手話しちゃって」
「全然。むしろ、こういう話を聞けるのは、本当に貴重だもの。良い参考になるわ」
今さらになって、ちょっと恥ずかしくなって、顔を赤面させる。
アリスはそれにも構わず、むしろ感心したように頬を緩める。
「すごく具体的で、鋭い知見に満ちていたわ。彼ともよく、そういう話、語り合ったりするの?」
「まぁ……あ、後、最近新聞で書評を書き続けてるから……その影響もある、かも」
「へぇ、書評を。あなたの書くもの、とても気になるわ。夏祭の時にでも、持って来てくれるかしら?」
「うん…ありがとう」
褒められているというのにどこか縮こまってしまうはたてを見ながら、アリスはにこにこと微笑みを絶やさない。
ふと、そんなアリスの様子が気になって、聞いてみることにする。
「すごく、楽しそうに話すのね、アリス」
「それはもう。なんだか、すごく懐かしくなって」
「懐かしい?」
アリスの返事に刹那、首を傾げて。けれどすぐに、あ、と気付く。
だって、こういう話をはたてといつもしている者が、すぐ傍にいるのだから。
「―――えぇ。彼とも、よくこういう話をしていたの」
そうして、穏やかな笑みのまま、寝息を立てる彼の髪を、優しくなでる。
なぜだか、はたてにはそれを止めようとする気持ちは起きず、ただ、アリスの気の赴くままにさせていた。
「本当に、昔から変わってない」
ふふ、と微笑みながら、アリスは語り出す。
「ファンタジー作品が好き。枝豆と玉葱を入れたドライカレーが好き」
人形劇の語り手をしている時のように。とにかく優しく、ゆっくりゆっくり。その語り口は、聞いているはたてをも、魅了させる。
「馬鹿みたいに優しくて、お人よしで。何も悪くないのに、一人で背負っちゃって」
まるで、一つ一つの言霊が、虹色の色彩を持っているかのように。光る粒となって、はたての胸に届く。
「…時々、ふとこっちが恥ずかしくなること言ってきたり、とか」
「そうそう。無意識に言ってくるんだもの、こっちの顔が熱くなって仕方ないわ」
気が付けば、はたてもつい、声に出してしまって。それに対して、アリスも拒むことなく、返してくれて。
「―――手先が決して器用ではなくて、よくものを落としたりして」
「けど、なぜか絵を描くのはうまくて」
「うん。知れば知るほど、なんだか不思議な人。―――…けど、」
「「そういうところが、良い」」
そうして、最後に声がそろう。そのことが何となくおかしくなって、ぷっ、とお互いに笑いあう。
なんだか、とっても穏やかな気持ちになる。
もやもやした嫉妬なんて、とうに消え去って。そんなさっきまでの自分が恥ずかしくなって。
今は、アリスに対する温かい親しみだけが、胸にこみあげてきていた。
「アリスは…さ」
そうして、話を続けて、アリスのことを、ちょっとは知ることが出来たところで。はたてはまたぽつりと、アリスに話しかける。
「もう彼と、長い付き合いなんだ…よね」
「まぁね。羨ましい?」
「…別に。けど」
「けど?」
「ちょっと、気になる」
素直でよろしい、といたずらっぽく、アリスは笑う。何となくからかわれた気がしてはたてが顔を赤くさせていると、すくり、とアリスは立ち上がって、調理場に歩き始めた。
「…彼と出会ったのはね、私が人形劇を始めて、本当、すぐの時だった」
かちゃかちゃ、と、持ってきた鞄から何かを取り出しながら、アリスは語り始める。
―――アリスが人形劇を始めたのは、十年ほど前のこと。
当時から、自律する人形の研究を続けてきていたアリス。道のりが長いながらも、人形を自分の指示で自在に動かせるまでに成長させることが出来ていた。そして、そんな人形たちの姿を見るたびに、ふと、考えることがあった。
もし自分の研究が成功して、人形たちが、自分の意志で動くことが出来るようになったとしたら。彼女たちは、どう過ごしていくのだろう、と。
もちろん、出来るだけ、自分がお世話をしたい、という気持ちはある。けれど、中には、独り立ちして、旅立とうとする子だって、出るかもしれない。それに、私との生活の過程であっても、他の人妖と関わる機会というのは、きっと出て来る。
もしかしたら、気休めにしかならないかもしれないけど。出来ることなら、人形たちにたくさんの景色を見せてあげたい。いろんな体験を、させてあげたい。けれど、自分の生活範囲だけでは、どうしても限界がある。ならば、何が出来るのか―――
そう考えた時に、アリスが辿り着いた考えが、人形劇だったのだ。
人形劇なら、シナリオを通して、様々な経験を人形たちにさせてあげられるし、様々な人たちと、出会わせてあげられる。それに、もしかしたら、劇みたいに緻密な動きが求められるなら、人形に関する魔法にも、何かヒントが得られるかもしれない。
考えれば考える程、良いこと尽くしだった。だから、アリスは早速物語を書き上げて、里の片隅で、人形劇を演じ始めた。
―――けれど…
「お話なんてきちんと作ったこともなかったから、最初は、本当に人が来なくて――それどころか、人形がこうして動いているのを、気味悪がられちゃったりもした」
からから、と何かを入れる音を鳴らしながら、悲しげに、アリスは微笑む。
考えてみれば、当たり前だった。何も考えずに、ほとんどやっつけで書き上げた話、避けられたりしたところで、誰も悪い訳ではないのは、明らかだったのだ。むしろ、話半分にちょっとでも聞きに来てくれただけ、ありがたい話だった。
けれど、まだ幼かった自分には、それは受け入れられない事実だった。むしろこうして人形たちが疎まれるなら、人形劇なんて始めない方が良かった、とすら思った。もうやめたい、と何回も何回も思った。
だけど。その度に、頭をよぎる、顔があったのだ。
「…そんな中で、彼は、欠けることなく見に来てくれた」
その姿を初めて見たのは、最初に人形劇を上演していた時のこと。最初は、ふと見て、気になって、つられて来た、という感じだった。それで、人形劇が終わってみて、誰もいないと思って、肩を落としていたその時。人形の背に合わせて屈んで、彼女たちに挨拶をしている、彼の姿があったのだ。
当時は、ただ、彼が優しいから、気休めのために残ってくれたと思っていた。だけど、彼は次も、その次も、アリスが事前に告知さえしていれば、いつでも最後まで聞いてくれたのだ。
気になって、彼に、なんでいつも見に来てくれているのかを聞いてみた。ただの薄っぺらい優しさだったら、もう虚しくなるから来ないでほしい、と返すつもりだった。それくらい、あの時のアリスはやさぐれていたのだ。けれど、彼は。
「私の人形劇の良いところを、何の躊躇うこともなく、話してくれた」
語りの声がとても優しくて、いつまでも聞いてられると思った。人形に舞台がとても精巧に作られていて、本気で作っていることが分かった。何より、人形たちをこよなく愛していることが、とても伝わって来た―――と。そうして、ただ呆然としているアリスに対して、自分が最初のファンになるよ、と告げてきた。
「きっと、人形劇が成功する時が来るから。その時に、自分が最初のファンですって言えたら、誇らしいじゃん、って―――そう、いたずらっぽく言ってくれたの」
あの時の、人懐っこい琥珀色の瞳は、今でも覚えているわ、とアリスは微笑む。
かり、かり、と何かを回す音を聞きながら、はたてはただ、恍惚とした表情で、アリスを見つめていた。
あぁ、そうだ。そういえば、初めて彼がアリスの人形劇に連れてってくれて、面白い人形劇だったねってはたてが褒めた時―――どこか、得意げな表情で、そうでしょう、と返してくれたことがあったっけ。
あれは、そういうことだったんだ、と今さらながらに納得して、頷いていた。
その時から、アリスは再び、人形劇に向き合うようになった。それに伴い、彼とも、度々、話を交わすようになった。
彼の手に引かれて、貸本屋に連れてってもらって、目を輝かせたこともあった。
そうして借りたたくさんの本を、カフェで互いに読んで、何か良い表現はないか、とか、唸ることもあった。
人形劇そっちのけで、好きな作品について語り合って、いつの間にか、日が暮れてしまっていたこともあった。あの後は、親から怒られちゃったとか、茶化してたっけ。
―――本当に、充実した毎日だった。人形劇を考えるのが、演じるのが、そして彼といるのが、たまらなく楽しかった。
その日々を経て、最初は相手にもされなかった人形劇にも、だんだんと人が集まるようになって、そして―――
「―――…彼がいたから、今の私がいるの」
回す手を止め、手を重ねるアリスの笑顔を、素敵だ、と素直に思えた。
「……本当だ」
はたても、自分の手を合わせて、嬉しそうに呟く。
「本当に、何も変わってないんだね、彼」
ずっと寄り添ってくれて、潤いをくれる、あの優しさのまま。いつも見せてくれる穏やかな琥珀色の瞳を思い出しながら、自分の胸も熱くなっていくのを感じた。
あぁ、本当に。これだから、私は、彼のことが好き。
そして、それはきっと――――
「―――アリス」
「うん?」
「アリスは…伝えないの?」
「何を?」
何って、と刹那、声を詰まらせて。けれど、意を決したように、アリスの方を真っ直ぐに見つめる。
「彼に……自分の想いを」
そのはたての質問に対し、けれど、アリスは寂しそうな笑みをたたえ…ゆっくりと首を横に振る。
それがあまりに衝撃的過ぎて、思わずはたては立ち上がった。がたっと大きな音が響いて、あわや、彼が起きてしまうか、という程に。
「どうして…」
「あら。おかしなことを聞くのね?」
「―――っ。だって」
衝撃を通り越して、どこか怒りすら、湧き上がるのを感じる。
あんなに、彼の好きなものを、彼の魅力を、嬉しそうに語ることが出来て。
あんなに、彼との思い出を、楽しそうに話すことが出来て。
聞いていたら、どれだけ彼のことをアリスが想っているか、分かる。
はたては、彼のことが好きだ。出来ることなら、誰にも負けたくない。誰にも、渡したくない。そのために、決意を固めたつもりだった。
けれど、それと同時に、アリスに負けるなら、それは本望だ、とも考えるようになっていた。だって、彼女は、自分よりもずっと長い間、彼のことを想ってきたのだから。ずっとずっと、もしかしたら自分なんて足もとにも及ばないくらい、彼の存在がアリスの中で大きくて、彼のことを、強く愛していることが伝わって来たのだから。
そんな彼女が、彼のことを簡単に、諦めるなんて、あってはいけない。もし、何か表に出すのに障壁があるのなら、それを自分も一緒になって、振り払ってあげたい――それがたとえ、はたてのことだったとしても。
「ふふ」
けれど、アリスはただ嬉しそうに、けどやっぱり寂しそうに、笑うだけ。
「…優しいのね、はたては。そういうところ、彼にそっくり」
座って、と落ち着いた声をかけると、また、かりかり、と何かを回す音を、響かせる。
納得の出来ない感情を抱えながらも、はたては、彼女の言う通り、のろのろと腰掛ける。
「…人形劇の活動が軌道に乗ったくらい…だったかな」
しばらく経って、アリスはまた、語り始める。さっきまでとは違い、その顔は、はたてから見えない。
「人形劇しに里へ出たら、彼の姿が見えない時があってね」
逆光になって、眩しい。それすら、眼前の少女の、悲しげな美しさを、際立たせているように感じた。
「今までそんなことなかったから、彼とたまに一緒にいた子に聞いてみたらね…彼、熱で倒れたんだって。だから、劇の後にお見舞いに行ったの」
いつの間にお湯を沸かせていたのか、人形がふわふわと、アリスのもとに薬缶を持ってくる。ありがとう、とお礼を返しながら受け取ると、細い注ぎ口からくるり、くぅるりと、お湯を注ぎ始めていくのが見えた。
「その時は、彼は起きていた。それでほっとして、いつもみたいにとりとめのない話をして…そしたら、彼がふと、その日に見せた人形劇が見られないことを残念がったものだから、特別に、見せてあげることにしたの」
…けどね、と、アリスはここで、お湯を注ぐ手を止めて、薬缶を置く。
刹那の躊躇いの後、消え入るような声で、続きを呟く。
「―――手、震えてた」
はたては、はっとする。逆光のせいか小さく見えてしまうアリスの背中に、目が釘付けになる。
知っている。はたては、アリスが感じた、この心細さの正体を知っている。
「人形を並べて、いざ語ろうと思った時にね―――声が、出なかったの。今まで体験したことのない恐怖感が、襲って来た」
まるでしぼり出すように独白するアリスに、はたてはきゅっと胸が締め付けられるのを感じる。
やめて。もういい。私が悪かったから。それ以上、話さなくても良いから。
「訳が、分からなくて、混乱した。こんなこと、今までなかったから。けど―――永久とも思える程長い、けれど短い時間を経て、やっと、私はその正体を知ることが出来た」
けれど、アリスは話すこともやめない。はたても、決して耳をふさぐことはしない。ただ、彼女の決死の独白に、耳を傾ける。
「―――『もしかしたら、これが彼に見せる、最後の人形劇になってしまうかもしれない』って」
刹那、沈黙が流れる。はたての目が、見開かれるのが分かる。瞬きすら、忘れてしまう。
そして、その時。彼女が、彼に想いを告げないと決意した、その悲しい真意が、どこかで、かちっとつながった気がした。
「馬鹿だった。彼がその時軽い熱だったという話は聞いてたから、そんな訳ないって。すぐにまた元気な姿が見られるって、分かっていたはずなのにね」
無理に、とも見える明るい声を出しながら、アリスはまた、くるり、くぅるり、薬缶を手に取り傾ける。
けど、と刹那止まって、また、くるり、くぅるり。
「彼の熱にうかされた顔を…ぼぅっとしたあの目を見ると、どうしても指を動かせなくて。膨らんでいく恐怖に、耐えられなくて―――」
―――逃げ出した。
ぽた、ぽた、と、滴が垂れる音だけが、辺りに響く。その言葉が、この空間を、どうしても重々しく、包み込んだ。
セットが壊れてしまっていた―――そう、途絶え途絶えに、言い訳をして、人形たちを片付けて。そのまま、足早に、彼のもとを去ってしまったのだ。
「―――あの手の震えに、向き合う勇気が、私にはなかった」
その日は家の扉を乱暴に閉めて。ずるずる、背中をつけて、泣いた。ひたすら泣いた。
未だにしぼんでくれない、彼を想う故の恐怖に。その恐怖に負けて、逃げてしまった自分に。
けれど、それを慰めてくれる者は、誰もいなかった。打ち明けられる者は、誰もいなかった。人形すら、その時は動くことなく、ただ、落ちる涙を、頬で受け止めるだけだった。
…後日、アリスは人形劇に訪れた彼に、その日のことを謝った。彼は、気にしなくて良いよ、と微笑みながら返してくれた。けれど、それが却ってつらかった。
彼は、聡い人だった。あの琥珀色の瞳は、あの時アリスが去った葛藤も、おぼろけながら見抜いていたように見えた。現に、彼はアリスを許してくれたと同時に、大丈夫?と気にしてくれたのだ。けれど、アリスはそんな救いの手すらも、大丈夫だから、と振り払ってしまったのだ。甘える自分が、許せない、と考えてしまったのだ。けれど、思えば、あの時彼の手を取って、また泣いていれば良かったのだ―――そうしたら、まだ、間に合ったのに。
その後、満足に話すことも出来ないでいるうちに、彼は家業を継いだ。人形劇は続けていたし、その度に欠かさず来てくれるつながりは保っていたものの、その時以外に、彼と会う機会は、激減してしまった。そして、アリスも、魔法の研究を本格化させたい、と言い訳して、彼を誘うことが、ぱたり、となくなってしまった。彼と会うのを、避けるようになってしまった。
―――あの時、選択肢を間違え続けてしまったアリスには、もう、勇気を持つ術は、存在しなかった。
「…アリス…」
はたてはそう呟くも、続く言葉が、慰めの言葉が、何も思いつかない。
それは、アリスやはたてみたいな立場に立てば、誰もが感じること。当たり前の感情。
自分だって、もしかしたら、アリスみたいに、なってしまっていたかもしれない。
そう考えると、どうしてもアリスの気持ちが痛い程に響く。そんな彼女を助けられない自分が、たまらなく、情けなかった。
自分とアリスの、たった一つの違いを挙げるのなら。それは―――
「はたて。私は、あなたがとても立派だと思う。素敵だと思う」
アリスは、そこではたてに顔を見せる。心からほっとした笑顔を浮かべながら、フラスコみたいなガラスの容器を、ゆらゆらと揺らす。
焦げ茶色の液体が、湯気を立てながら、夕の光にきらきらと反射している。
「だって、ずっと、彼から離れることなく、傍についてあげていたのだから――その手の震えに、向き合っているのだから」
こんな、ひどい自分だけど。もう、彼と会うことすら、許されていないかもしれない自分だけど。せめて、彼が幸せになりますように、と願わせてください。
ずっと傍についてくれる、幸せにしてくれる、そんな素敵な願いがありますように―――そんなことを、ずっとずっと、考えていた。
人形劇に来るたびに元気そうな彼を見て、いつもほっとしていた。
そして―――数ヶ月前、彼がひとりの少女を連れて来たと分かった時。彼に対して、無邪気に笑う、そんな彼女の顔を見た時。
自分の、唯一の願いが叶ったことを、確信した。
…それだけでもう、十分だった。
だから、とアリスはその液体をカップに注ぎ、はたてに手渡す。
その焙煎された良い香りは、はたてもよく知っているもの。ここ最近、はたてが好きになった飲みものだった。
「―――ありがとう、はたて。…彼のこと、よろしくね」
その、あまりにも幸せそうな、安心しきった笑顔に、はたては、口を結ぶことしか出来なくて。
そのまま、何も話せぬままに、それじゃあ、とだけ告げて、アリスは去ってしまった。
「………」
残されたのは、労うように白く優しい湯気を立てた、手元のコーヒーだけで。
夕光が窓から射す中で、はたては、くぃ、とカップを傾ける。
「…あったかい」
ぽろ、ぽろ、と、自分のつむった目から、涙がこぼれだしているのを感じる。
その祝福の証は、あまりにもほろ苦くて、切ないものだった。
「―――あ、起きた?体の調子、どう?」
「…そっか、良かった……おなかすいたでしょう?スープ作ったから、あたためてくるね」
「…………」
「―――ごめん。ちょっと、良いかな」
「聞きたいことが、あるんだ」
***15***
それからさらに三日経って。日も暮れかけ、夜の帳が下り始めたころ。はたては、涼やかな空を飛んでいた。
もう、天狗の居住地が、視界に入っている。ちょっと離れていただけなのに、随分と、懐かしく感じられて、小さく苦笑する。
そう感傷に浸っている間に、目的の家に着いて、ゆぅらり、と着地する。
本来だったら、まっすぐ、自分の家に帰るべきなのだが、その前に、あいつにだけは、報告しておこう、と思ったのだ。
こん、こん、と戸を、叩く。名前を、呼びかける……けれど、返事がない。もしかして留守だろうか、と戸を引いてみると、驚くことに、あっさりと開いた。
開いた隙間からは、ほのかな光が、差し込む。…なんだ、あいつ、意外と不用心だな。
そんな抜けているこの家の主を思い浮かべながら、何の躊躇もなく、はたてはその家の中に入っていた。
また、呼びかけてみるも、返事がない。ちら、といつもいる部屋を覗いてみると、そこにも、家主の姿がない。相変わらず、あまりものを置くことをしない、シンプルな部屋。
数日前には蕾だった花瓶の桔梗が、すっかり、満開になっていることに気付く。ほのかな電燈が照らす文机の上には、何かの原稿が、文鎮を重しに、綺麗に積み上がっている。
文机を見つめていると、ふわり、風が吹いて、ぱらぱらと紙がめくれた。障子が開いているのか、と、はたては、ひたひた、と畳の上で歩みを進める。
―――いた。
柱から覗きこむと、この家の主―――射命丸文が、縁側に座って何かを手に持っていた。
文――と声をかけようとして、はたては、伸ばしていた手を止める。
文は、赤い瞳を下に向けながら、ぱちぱちと火花を散らしている、小さな朱色の灯を持っていたのだ。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
宵闇の中で、火花が散る。蕾だった灯が、ゆらりゆらり、雅やかに開花していく。
微かな風と共に、朱色の火が、小さく揺れる。しがみつくように、火花は勢いを増して燃え続ける。
手が、時々、震えているのが分かる。それでもただ赤い瞳は灯を見つめ、落とさないと意識を集中させているのが分かる。
はたてはその様子を、ただ固唾をのんで見守っていた。生きようと燃え続ける灯に、目を釘付けにさせながら、ぐっと拳を握りしめていた。
なんだろう、こうして見てみると―――すごく、画になるな。
文と線香花火って―――こんなにも、合うんだ。
「あ…」
そう声を出したのは、どちらだったか。
ほんの少しの手の震え―――それが伝わると共に、燃え続けていた火花は、ぽとり、と紐から落ちてしまった。
はたては、しばし、火が落ちて、消えてしまった地面を見つめ―――そして、文を見つめる。
文の顔からは、失望は見えなかった。むしろ、諦めに近い、けれどどこか愛おしげな微笑みだけを、浮かべていた。
まるで、こうなることが分かっていたような。無駄だと分かっているけど、続けずにはいられないような。
写真立てに入っていた、文の姿を思い出す。
あの写真でも、文は、線香花火を持っていた。ただただ楽しそうな、純粋な笑みだけを浮かべて。
ちくり、と胸を痛みが刺す。文に過去、何があったのかは、分からない。きっと、今後も教えてくれることはないだろう。
けれど―――おこがましいかもしれないけど。今なら、彼女が感じている痛みだけは、ほんの少し、分かるような気がした。
「―――文」
「…はたて、ですか」
沈黙にこらえきれなくなって、はたては文に声をかける。
急な訪問者であるにもかかわらず、文は全く驚いた様子も見せず、はたてに座るよう促した。
涼しい風が、少し離れて隣り合う二人を、優しくなでる。
「彼は、もう大丈夫なのですか」
「うん。熱もなくなって、もう問題ないって」
「そうですか。それは良かった」
心からほっとしたような笑顔で、文は呟く。
そんな文を横目で見ながら、はたてはぎゅっと、体育座りにしていた膝を、胸の方に寄せる。
「…彼さ」
「はい」
「自分が治ったばかりだっていうのに、私にずっと迷惑かけたこと、気にしててさ。お返しでゆっくり休んでもらいたいからって、いきなりはりきっちゃって」
「………」
「馬鹿だよ…本当に、大馬鹿。そんなすぐに無理しようとしちゃってさ…ぶり返したら、どうするんだっての」
―――本当、ほっとけない。
好きでしたことなんだから、そんなの、気にしなくて良かったのに。優しすぎるあまり、時々、自分のことすら顧みずに動いてしまう。
自分のためにそうしてくれると考えたら、顔が熱くなるけど―――どうしても、それ以上に胸が締め付けられる―――
「ほっとけないのは、お互い様だと思いますが」
はたてを横目で見ながら話を聞いていた文は、ため息をつきながらそう返してくる。
「へ?」
「あなたは本当に化粧が下手ですね。顔色悪いの、隠しきれてませんよ?」
「え!?マジ!?」
「マジです。とりあえず髪だけ梳いてあげますから、こっちに座りなさい」
文は立ち上がると、そのままはたての腕を引っ張っていく。
どうせ寝てないんでしょう、とか、あなたも彼のことは決して言えませんからね、などと小言に恥ずかしくなりながら、はたても文に従って手を引かれる。
そうして、畳の上に座布団を敷くと、文ははたてを正座で座らせ、リボンを綺麗にほどいていく。
そして、ブラシを手に、腰まで届くその栗色の髪をゆっくりと梳く。
度々小言の棘が刺さるのに対し、梳いてくれる手つきはとても柔らかくて、気持ち良かった。
何だか、眠くなってしまいそう―――というところで、ぴたり、と刹那、手が止まる。いつの間にか、小言も止まっていたことに気付く。
「―――彼に、想いを伝えるのですね」
短い、けれど長く感じられる沈黙の後、そう文が問いかける。
はたては、緊張を改めて噛みしめるように、きゅっと口を結んで―――
「うん」
けれど、躊躇うことなく強く頷く。
「夏祭で会った時に、告白、する」
「そうですか」
また、髪を梳く手が動き始める。心なしか、さっきよりもさらに手つきがゆっくり、優しくなったように感じられる。
「…改めて忠告しましょうか、はたて」
そんな手つきからは反対に厳しい声音で、文はまた問いかける。
「我々天狗と、人間では、生きられる時間に大きな隔たりがある。だから、どうしてもいつか『別れ』という避けられない時がやってきます。そして―――そこからずっと、長い長い時間、あなたは彼との記憶を引きずることになるでしょう」
「……うん」
「今なら、まだ引き返せます。それでも、彼と添い遂げることを、あなたは選ぶのですか?」
はたてからは、文がどんな表情をしているかは見えない。けれど、きっと真っ直ぐ、こっちの返事を待ってくれているのだろう。
ちょっと前だったら、分からなかった。きっと、そんなこと考えたこともなくて、そのまま、曖昧に返事をしていただろうと思う。
けれど、あの時間を経て。ずっとずっと引きずってしまう者たちの、想いに触れて。考える時間を、手に入れることが出来て。はたては揺らぐことのない決意を、固めることが出来た。
「―――うん」
彼と過ごせる時間は、自分からしたら、限りなく、短いものなのかもしれない。
そう。例えば、燃えている線香花火を見られる、その時間くらい。
けれど。なら、その刹那の刻を、後悔しないようにしたい。その美しく火花を散らす灯を、咲き誇る一輪の灯を、落とすことなく。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
強い風が、吹くことだってあるかもしれない。自分の手が震えてしまうことだって、あるかもしれない。けれど――そんな時も、決して折れることなく、支え続けてあげたい。あの細く儚い紐を、強く握ってあげたい。
そして、散り菊の最後のひとひらまでが空に消えていく、その時が来たら―――ただ、笑ってあげるんだ。
その線香花火を持っていた時間は。景色は―――何よりもかけがえのない、幸せなものだった、と。
橙の電球が映るはたての瞳が、刹那、鋭く光る。正座する膝に置かれた拳が、きゅっと握られる。
そんな微かな変化に、文は気付いて―――敢えてそれに、触れることはしなかった。
「…そうですか」
それだけ返すと、髪を梳いていた手を、また止める。
急なことに、きょろきょろ辺りを見回そうとした落ち着かない頭を、それとなく前に向けさせて。栗色の長い髪の一点に、手を添える。
「…んっ、何?くすぐったい」
「良いから、ちょっと動かないでください」
体をよじろうとしている少女にぴしゃりと言い放ち、背筋を伸ばさせる。そうしてしばらく髪の部分をいじって――しばらくして手を離すと、手鏡をはたての顔の前に持ってきた。
そこに映っている自分を見て、はたては思わず目を丸くさせる。
「これ…」
「…私から、ちょっとした『おまじない』です」
鏡に映っている文は、そうして、ゆっくりと笑顔を浮かべる。
一輪の小さな桔梗の髪飾りが、栗色のつややかな髪に咲いていたのだ。
「夏祭、頑張ってくださいね」
文が、鏡を持っていない手を、ぽん、と肩に乗せて来る。あぁ、そうだ。こいつの手は、体は、意外とあたたかいんだった。
「―――綺麗」
桔梗の髪飾りを愛おしげに触れながら、はたては、ゆっくり、唇を綻ばせる。
何よりも可憐で、純粋で、けれど凛としているその紫色は、決意を固めたはたてを、強く包み込んでくれていた。
「文」
「なんでしょうか」
「ありがと。文がいなかったら、きっと――ここまで来れなかった」
…………
「そういうのは、告白が成功してから言いなさいな」
「う…成功するの、かな…」
「今さら何なめたことぬかしてるんだか―――良いですか?『おまじない』は漢字では『お呪い』と書くんです。成功しなかったら、その髪飾りがあなたを祟りますからね?」
「はぁ!?ちょ、なんてものつけてくれてるの!?はーずーしーてー!」
「駄目です。それ、そもそも告白が成功するまで外せないよう、霊力がかけられていますし」
「~~~!?!?あー!!!やっぱ文になんてお願いするんじゃなかったぁーーー!!!」
―――ちなみに後で家に帰って恐る恐る試してみたところ、あっさりと、髪飾りは外れたそうな。
***16***
「…すごい、わね…」
「シャンハーイ」
屋台の影から、集まっている人だかりを見て、アリス・マーガトロイドは驚嘆の声をあげる。
全ての準備を終えて、迎えた、夏祭り当日。上演する予定の場所にアリスが訪れてみれば、もうそこには、ものすごい人だかりが出来ていた。
夏祭は、人妖が分け隔てなく祝う祭礼。この夜に家にこもってしまう者は、幻想郷ならば滅多にいない。だから、例年でも人形劇を開くと聞くや、多くの者たちが集まっていたものだった。
けれど。今年の集まり方は、違う。この集まり具合は、例年と同じでは、決して説明出来ない。
思い当たることといえば―――
―――ぱさり、と、鞄から紙の束を取り出す。そこに書かれていたのは、とある鴉天狗が、自分のためだけに書いてくれた記事。
独占インタビューと称したアリスとの対談が抄出され、さらに文自身が考えるアリスの作品の魅力に「絵本」の紹介、そしてこの夏祭での作品の宣伝まで、まるまる一面使って記されていた。
そこに、誇張なんて一切ない。ただ、そこにあるのは、ほのかな思慕を胸に秘めた一人の芸術者に対する、敬意だけ。
―――本当、ここまでしてくれなくても良かったのに、とアリスは紙面をなでる。
誰よりもふざけているように見えて、時々、誰よりも真剣に、相手と向き合って。
あの天狗―――射命丸文の積み上げてきた生き様さえも、その記事は反映していた。
ふっと微笑みながら新聞を鞄へとしまうと、また、集まっている人だかりに、視線を向ける。
「あ……」
思わず、声が出てしまう。
―――こんなにも、たくさんの客が集まっているのに。真っ直ぐ、彼女の姿が目に入る。
小さな桔梗の髪飾りをつけた栗色の髪を垂らし、矢羽根文様の紫の浴衣を着こなした、一人の少女がいた。
浴衣の左袖を辿れば、その手は、琥珀色の目をたたえた、少年の手とつながっていて。そのまま、開演を待つ舞台を、まっすぐとした目で見つめている。
……二、三日前だったか。あの少女が、急に自分の家を訪れたのは。
まさかの来訪に驚く私に向けて―――さらに、目を丸くさせるような、説得をしてきたのは。
あまりのことに拒否しか出来なかった自分に、決して折れることをせず、問いかけ続けてきたのは。
―――ただ真っ直ぐに、躊躇うこともなく、ある「事実」を告げてきたのは。
『―――ずっと、待っていますから』
その「事実」を聞いて、ただ呆然とすることしか出来なくなったアリスに対して、こう、はたては決意表明する。
冗談、だと思っていた。けれど、目に宿る光が、その説得が本気であることを、物語っていた。
『その時が来たら、私、受けて立ちます』
彼女は、聡い天狗だ。きっと、分かっているはずなのだ。この説得が、アリスを逆に縛ってしまう選択肢になるかもしれないことなんて。
これで良かったのか、この方法で正解なのか、分からなくて、分からなくて、葛藤し続けて。
それでも、これが最善だと判断して、救いの手を差し伸べずにはいられなかったのだ。
彼の、幸せのために。そして――私の、幸せのために。
それが、姫海棠はたてという、強い少女だった。
『あなたも、前を向いて良いんだから』
あの夕暮れ、自分が文に手を語りかけた時のことを思い出す。
なんて、ことだろう。まさか、こんな形で返って来るなんて、考えてもみなかった。
…本当、馬鹿だ。大馬鹿だ。もう諦めたのだ、と。そう、落ちるのを受け入れていたのに。
まさか、まだ私の腕を、つかもうとし続けてくれていた、だなんて。
「シャンハーイ?」
「大丈夫よ、上海」
くすり、と微笑んみながら、上海の問いかけに、力強く返事をする。その小さな手の中にある一輪の向日葵が、アリスの青い瞳に、強く焼き付けられる。
―――さぁ、行くわよ、みんな。
「アリス・マーガトロイド最高傑作の人形劇、絶対に成功させましょう」
***17***
「―――うまく、いったみたいですね」
「えぇ。きっと、もう大丈夫です」
―――夜、微かな燈火に照らされた、山の上。そこから、祭りに輝く里を見下ろす、二人の影。
影たちは、互いに視線の先にいる二人の姿を見つけると、そう呟いて、満足げにうなずいた。
「ありがとうございました、椛」
双眼鏡をおろした射命丸文は、横で立っていた犬走椛に、そう語りかける。
「あなたがいなかったら――あの子は、きっと、ここまで幸せにはなれなかったでしょうから」
まさか文からそういう礼が聞けるとは思わず、椛は千里眼を止めて文に目を向ける。
二人の門出を、素直に祝福しようとする、穏やかな顔つき。そんな滅多に見れない文の一面が見れて嬉しいはずなのに、どこか切ない気持ちが、自分の中で残っているのを感じる。
「―――今一度お聞かせください、文様」
うん?とこちらを向く文に、椛は再度、まっすぐに問いかけてみる。
「どうして、はたてさんの恋を手伝おうと思ったのですか」
その質問に対し、文は刹那、ぽかんとしたように口を半開きにさせて。
そして、すぐに穏やかな微笑みを向けると、ふい、とその顔を椛から逸らした。
椛は、鋭い瞳を、小さく見開く。あの時―――はたての浴衣を見繕うようお願いした時と、同じ、微笑み。
「だから言ったではありませんか」
いつも皆に見せるような、調子の良い声音で、そう返事する。背けた顔には、いつもの、あのむかつく笑みを見せているのだろうか。それとも―――
「記者として、こんな良い話を見て見ぬふりは出来なかった。それだけですよ」
「………」
椛は、しばらく、夜風になびく文の姿を、じっと見つめると、ただ息を吐いて「…そうですか」とだけ返事をした。
また、祭りの灯りを見つめる。棒立ちになったまま、拳を、ゆっくりと握る。結局、今の椛には、ここからさらに踏み込んで聞くことは出来なかった。
けれど、調子の良い返事をする前に見せた、あの微笑み――それを見れただけでも。ほんのちょっとだけ、文のことを知れた気がして、胸にあたたかな気持ちがこみあげてきた。
「だから、もう良いですよ、椛。あなたも、祭りを楽しんで来なさいな」
いつの間にか接近していた文が、ぽん、と、椛の頭に手を置く。
あなただってご友人とまわりたいでしょう。話は皆さんに通してますから、と語ってくれるその手は、思いのほか気持ち良くて。
けれど、その手は、すぐに離れてしまっていて。から、から、と下駄の音も遠ざかっていく。
「―――では。私は、これから行かなければいけないところがありますので」
椛が立ち上がって、下駄の音の方に向くと、背を向けたまま、文がその黒い翼を広げる。
その顔は、やはり、見ることが出来ない。ただ一つ、分かることがあるとすれば―――二本の線香花火が、その左手に、握られていることだけ。
「文様」
今にも飛び立たんとする文の背中に、椛はよく通る声で話しかける。
羽の動きを止める文を見て、椛は刹那、沈黙する。どこに行くのか、というのを聞くつもりはなかった。なんて返されるか分かりきっているし、聞いたところで、きっと自分にも何も出来ないだろう―――それは、私の役割ではないのだ。
だとしたら、自分が出来ることといえば、一つだけ。
「いってらっしゃいませ」
「―――はい。いってきます」
その、一言だけを交わすと、ばさり、という羽音を響かせて、文は空へと飛び立っていく。
山から、祭りの灯が光り輝く、その上空を突っ切って。そして、それすら通り過ぎて、ずっと、ずっと、飛び続けていく。
どんどん夜空の中に小さくなっていく文の姿を見届けて、椛はふぅ、と息を吐く。
さて、自分も祭りに繰り出そうかな。みんなどこに―――と、髪を搔こうとすると、兜巾に違和感があるのに気付く。
整えようと、兜巾に手を触れると、そこには、一枚の紙があって。折りたたまれた、その中身を見れば―――
…久々に、三人で集まって、ご飯でも食べに行きましょう。そこで、祭りであったことでも、お互いに話しましょう。そんな、他愛もない内容だった。
―――くすり、と笑う。本当、あの方は馬鹿だ。こんなことくらい、口に出して言えば良いのに。
岩から飛び降りて、にぎわう灯に向かって、走り出す。
…今は、無理でも。いつかは、来るかな。来ると、良いな。そのために、なんとか、頑張れたら良いな。
三人で、心から笑いあって話が出来る、その時を。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
朱色をした玉から、小さな火花が散る。蕾はだんだんと笑み、大輪の牡丹が、微かな風が吹くに伴い花びらを散らしていく。
花を支える紐を辿れば、そこには支えている、小さな手が見える。
いつもだったら見えない緊張が伝わってきているのか、その手は、時々、ぴくり、と震えていて。
その度に、花は、わずかな支えを失い、こぼれてしまいそうになる。
こぼれそうなのを見た紐の持ち主から、焦りは、消える気配もなくて。
もう駄目。落ちる――――
そう目をつむった、その時。震える小さな手から、別の手が添えられた。背中に、体温が伝わって来た。
決して、手が大きい訳ではない。けれど、それは、緊張する手を包み込んでいくのは、ちょうど良い大きさで。
背中を通して伝わる、穏やかな鼓動が、少女の呼吸も、落ち着かせてくれて。
委ねるまま、導かれるまま。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
支えを得た花は、姿を変え、火花を垂らし、その生命の輝きを二人に見せる。
たとえ満開の時を過ぎたとしても―――そんな様子をみじんも見せず、ますます美しく、輝かんとする。
最後のひとひらが散り終える、その時まで。
その様子を見ていた二人は―――何よりも幸せそうな笑顔を浮かべ、神楽鈴鳴る宵闇の中、繊光に包まれていった。
***2***
「…あの…その……あのね?」
それは、あまりに急な告白だった。
「私…好きな人が出来たみたい、なの……」
「――――は?」
こんな間の抜けた返事をしたのは、はたしてどちらだったか。
顔を赤面させながら、そう恥ずかしそうに話す姫海棠はたてに、少なくとも犬走椛は、ただぽかんと口を開くだけだった。
「今、なんと…?」
「な、何回も言わせないでよ!話すだけでもすごく、恥ずかしいんだから…うぅ…」
椛の横に座っていた射命丸文が、聞き間違いかと問いかけてみると、はたてはさっきまでからは考えられない程早口にまくしたてて、机に突っ伏してしまう。
はたてが外に出るようになってから、時々、椛は、はたてや文と集まって、こうして食事などをする機会が増えていった。
最初は、白狼天狗と鴉天狗が共の席なんてそんな、などと躊躇いがあったものの、文からは『あなたいつも私に連れ回されているのに、今さら何を言っているんですか』と腹立つが頷いてしまうことを言われ、はたてからは『せっかく仲良くなれた訳だし、椛も一緒にいてくれたら嬉しいな!』と嬉しいことを言われ、結局、こうして同席させてもらうことになった。
そうして、時々(主に文と他二人で)ぎゃあぎゃあ口喧嘩になったりすることはあれど、基本的には楽しい時間を過ごすことが出来ていた。
けれど、この日は、はたてが最初から様子がおかしかった。前に今日集まると約束した時はそんなことなかったのに、今日待ち合わせに訪れてみれば、ぼーっと顔を赤くさせて、こっちにも気付いていない様子で。いざ話し始めてみても、なんだか、箸にもあまり手がついてなくて、話をふってみても何も聞いてなくて、しどろもどろで。さすがに何かあったかもしれない、と文と椛が顔を見合わせ、問い詰めてみた。
―――それで、なかなか口ごもるだけではっきりしないはたてに対し文がものすごく良い笑顔で睨んだ結果、なんとかはたてが絞りだして…今に至る。
「―――す、」
しばらく、沈黙が流れた後。椛は、いつもは鋭い瞳をきらきらと輝かせて、はたての方に勢い良く身を乗り出す。尻尾は勢いよく横にぶんぶん揺れる。
「素敵な話じゃないですか!!」
あの時、椛の尻尾、かなりうっとうしかったんですからね、というのは、後の文の談だ。けれど、そんなこと、椛からすれば知ったことではない。
何せ、こういう話を身内から聞いたことなんて滅多にないのだ。こんな貴重な機会、決して見過ごす訳にはいかなかった。
「それで!どういう経緯で出会ったんですか?どんな方ですか?どんなところが好きになったんですか?」
「ま、待って待って!その…」
あわあわと椛を落ち着かせようとするはたてだが、もう椛は何としても聞き出す!とばかりに梃子でも動かない。助けを求めようと文に目を向けると、文は、眉間にほんの微かなしわを寄せながらも、椛を止めることはせず、はたてにまっすぐ目線を向けていた。どうやら、良いからとりあえず話せ、ということらしい。
救いがないと悟ったはたては、一回肩を落として。そして、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて―――どうにか気持ちを落ち着かせて、その重たい口を開いた。
「前、集まった時にさ…自分一人で特ダネ見つけてやるって、見得切っちゃったじゃない?」
「あぁ、はい。そんなこと、文様の前で宣言していましたね」
「………」
椛は、ジト目で文の方を見つめる。文は、何か言いたげな表情を浮かべるも、話を進めさせるために何も口を挟まずに聞いている。
それは、半月程前に、また三人で集まっていた時のこと。文の取材活動に触発されて、自らも外に出て取材するようになったはたては、しかし外でなかなか良いネタに巡り合えず、方向性に迷っていた。何せ、長年引きこもってしまっていたために、経験に伴う引き出しが十分にはなかったのである。そういう意味で、幻想郷のあらゆる場所を飛び回っており、引き出しならなんでもござれな文に、相談を持ち掛けたのである。
が、やはりというか、文の何気ない小言にはたてがカチンと来てしまったことがきっかけで、口喧嘩に発展。引っ込みのつかないところまでいってしまい―――結果、前述のタンカだけ切って、はたては迅速に取材に出かけてしまったのである。あの時、文もやってしまったとばかりに、眉間に手を当てて、ため息をついていたっけ―――横目で見れば、ちょっとだけ、気まずそうな顔してる。はい。あれは文様が悪いです。
「それで、人里に出たは良いんだけど、どうにもうまく見つからなくてさ……ほら、私、こんな性格じゃん?だから、見ず知らずの人間に最近あったことを聞くのすら、ままならなくて」
あはは、と恥ずかしそうな笑顔を浮かべながら、はたては頬をかく。
日々面白おかしい事件が起こる幻想郷。とりあえず、人里に出て歩けば、何かネタに巡り合えないか、と楽観していたのだ。ところが、そう簡単にいく訳もなく、次の日も、そのまた次の日も、取材すらうまくいかなくて、ただ歩きまわっているだけだった。
そうして、途方に暮れたはたては、カフェに入って、ため息をついていた。もう歩き疲れてしまったし、何をすれば良いのだろう―――意地にならないで文に頭を下げるべきか――そう考えていた時、ふと、大丈夫ですか、と声をかけられた。そこにいたのが、彼だった。
茶色の髪に琥珀色の目、ちょっと童顔で、書生のように暖色の和服を着こなした出で立ちだった。聞けば、カフェで相席として案内されて、はたてを見たらしい。
その時のはたては、ただ生返事をして、ぽつ、ぽつと事情だけ話した。そして、念のため何か良い情報はないか、と聞いてみたが、彼は思いつかないように首を傾げ考え込んでしまう。
まぁ、そんなものだ。世の中そんな簡単に救いの手が来るわけがない。これ以上ここにいても気まずいだけだ、と席を立とうとした、その時―――
「自分にも考えさせてくれないか、って―――彼が提案してくれたの」
もちろん、最初は驚いて断ろうとした。見ず知らずの人間に、自分のせいで手間をかけさせる訳にはいかなかったから。
けれど、どうせ今日は時間がありますから、だの、こういうの楽しそうじゃないですか、だの、穏やかな笑顔で、楽しそうなそぶりを見せる彼を見ると、逆に、断るというのが申し訳なくなって、結局、彼の提案に乗ることにした。
そこから、彼への「密着取材」という体で、なんということのない会話が始まった。こうした方がはたても話しやすいだろう、ということと、あまり難しいことを考えない会話で緊張をほぐそう、という、彼なりの配慮だった。はたして、最初は緊張しっぱなしだったはたても、彼のさりげない助けもあって―――気が付けば、すっかり打ち解けていた。
話していくうちに、彼が、本が好きだということを知って。しかも、好きなジャンルが、まるっきり自分が好きなものと同じだということを知って、嬉しくなって。お互いに好きな作品を語って、好きなところについて話してみれば、その観点に驚いて、さらに話を弾ませることが出来て。
そして、きっと気に入る場所だと思うよ、と貸本屋に連れられて、見たこともない本のラインナップに、目を輝かせて、手に取っては、語り合って。
それまでの三日間の徒労と憂鬱を全て吹き飛ばしてくれる、とても救われる時間だった。
「…あっ」
と、ここで椛は、耳をぴんと立てる。
「そういえば、何日か前に出た『花果子念報』で、書籍作品の書評が、始まりましたよね?あれ、もしかして―――」
「…うん。彼が、そういうの書いてみたらどうかって、助言をくれたんだ」
正直、あまりに楽しくて、はたては取材のことすら忘れかけていた。何も得られなくても、それで良いと考えていた。
けれど、そんな中でも、彼は、はたてにお願いされていた当初の目的を、ずっと考えてくれていたのだ。
曰く、はたてが本とか、自分の好きなことについて語る時には、本当に『好き』というのが分かるくらい活き活きと、けれどどこか客観的に引いて語る場面もあって、聞いているこっちも惹きつけられるものがある。だから、そうした本の書評や感想みたいなものを書いてみる、というのはどうかな―――と。
そうして、はたてが書いてみたのが、アガサクリスQが最近出版した新作の書評。文章などに試行錯誤な部分は目立つものの、舞台や登場人物の魅力を様々な角度から引き出して語っているその中身は、椛にもその作品を読みたいと感じさせてくれる、良文だと思った―――事実、椛の鞄には、来る前に買って来たばかりのその小説が入っている。
「それから、もう、彼のことが、頭から離れなくなっちゃって。ずっと、どきどきしては、顔が、熱くなっちゃって」
別れぎわ、彼に「ありがとう」といった時に返してくれた、夕暮れに溶け込みそうな微笑みが忘れられない。
『―――こちらこそ。昔に戻れたみたいで、本当に楽しかったよ』
「多分、これが……『好き』なんだな、て」
はー……と、椛は、恍惚としてしまう。自分の顔も、赤くなっているのが分かる。
まさか、こんなにもきらきら輝いたお話が聞けるなんて、考えてもいなかった。何も口に入れていないのに、甘酸っぱい味が広がっていくのを感じた。
俯いてしまうも、どこか微笑んでいるはたてを見ると、本当に、素敵なことだな、と思う。良い、出会いなんだな、と思う。
こういうはたての顔が。いつまでもずっと、見られると良いな、なんて――――
「なるほど」
その時。ずっとずっと沈黙を保っていた声が、椛の横から聞こえてきた。
その声音は、とてもこの穏やかな雰囲気にはそぐわない程に―――あまりにも落ち着いていて、無表情だった。
「つまり、あなたは人間を好きになった、と―――そういうことですね?」
はっ、と椛の意識が、現実に引き戻される。先程までの緩やかだった瞳は、にわかに小さく揺れて―――横の文に、ちらりと顔を向ける。
けれど、その千里眼をもってしても、文の表情に秘められている真意は、何も分からなかった。
はたてはというと、そんな文の表情に気が付いていない様子で、「うん」と、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「そ、それでね。その…」
そしてはたては、またもごもごとしてしまう。何か言いたそうに声を出そうとするも、どうして、続けることが出来ない。
何とか助けを出そうとするも、空気に飲まれてしまった椛も、声をかけることが出来ない。
しばらくの、気まずい沈黙。
「ほら」
けれど。そんなはたてに対して声をかけたのは、椛も驚いたことに―――文だった。
「言いたいことあるなら、はっきりと言いなさい」
どこか棘を持ちながらも、確かに伸ばされた助けの手。はたては、刹那、目を丸くさせて文を見ると、きゅっと口を強く結んで、勢いよく頭を下げた。
「お願い!せめて、彼と友達になりたいの……それだけで、それだけで良いの!だから、手伝ってください!!!」
***3***
あの集まりから、数日経って。黄昏が過ぎ、夜闇に包まれ始めたころ。
哨戒任務を終えた椛は、小さな古い家―――文の家の前まで、来ていた。
はぁ、とため息をつきながら、浮かない顔で戸の前に立つ。正直、特別来たかった訳ではない。けれど、どうしても、気になってしまったのだ。
―――あの時。はたてが、気になっている彼と友人になりたい、と頭を下げてきたあの時。
『……ちょっとだけ、時間をください』
文は、刹那の沈黙の後、それだけ返して、席を立ってしまった。返事はしますから、と去り際に話す文の顔からは、結局、何を考えているのか、読み取ることは出来なかった。
残された椛は、自分は手伝いますから、なんて、はたてに返したけれど。何だかんだで、人間たちとの強い関係を築いていて賢い文の助けがあるのとないのとでは、全く違うだろう。
だから、とりあえず、文の意図だけでも、聞いておきたい―――そんな考えから、椛は今ここに来ていた。
こん、こん、と、戸を叩いてみる―――が、待ってみても、誰も出る気配がしない。まだ記事でも求めてどこか飛び回っているのだろうか――そうため息をつきながら、戸を引いてみると、なんとがらら、と開いた。開いた隙間からは、ぼぅっとした光が差し込んでいるのが見える。
まさかの展開に、椛は刹那、開いた戸を見比べて、立ち止まって。けれど、すぐに躊躇しながらも、戸をさらに開けて、玄関へと歩を進めた。
「…文様ー?」
光がともっている部屋を覗きこみながら、椛は声をかける。が、返事はない。文の姿もない。
本当に留守で、錠をかけ忘れただけなのか、と首を傾げながら、椛はひたひたと畳の上を歩く。今までこんな形で文の家に来たことがなかったので、意識したことはなかったが――こうしてみると、小さな電灯の灯る文机と本棚を含めた最低限の棚しかない、シンプルな部屋だった。そんな部屋の差し色となっているのは、花瓶に活けられている枝を手折られた橘の花と、傍にある一台の写真立てくらい。懐かしさのこもったささやかな薫りが鼻をくすぐり、椛は花瓶の方向へ目を向ける。あの写真立てには、どんな写真が映っているのだろう――と、歩みを進めようとしたところで、ふと、風の気配に気付き、体を震わせた。
よくよく見ると、縁側につながる障子が、小さく、開いていたのだ。写真立てに伸ばしかけていた手を引っ込めると、椛は、ひたひたと、縁側の方へ歩いていく。
―――そこに、文がいた。けれど、すぐに声をかけることは出来なかった。
夜闇の中で、小さな紐を、まるで割れ物でも扱うかのように慎重に、持っている。その先には、小さな光の玉が、誰を照らす訳でもなく、揺らめいている。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
小さな火花が、玉のまわりで、きらめきだす。最初は控えめだったその火花は、しかしすぐに自信を持ったかのように、自分の、矮小な存在を主張し始める。
そんな、なんということもない景色だというのに。見れば、文は、赤い瞳をまっすぐに向けて、絶対に落とさないとばかりに、見つめている。そんな文の姿に、気付けば椛は、すっかり、見とれてしまっていた。
―――ぱちぱち、ふわり。ぱちぱち、ふわり。
―――ちらちら、ふわり。ちらちら、ふわり。
…………
……ふるっ
「―――あっ」
そう声を発したのは、はたしてどちらだったのか。ほんの微かに、手が震えた、それだけのことで。これから燃え上がらんとした灯は、虚しく、地面に落ちて、消えてしまった。
文は、刹那、何も言わずに、火が消えてしまった線香花火の先を見つめると、はぁ、と一息ついて、水の張ったバケツの中に、燃えかすを入れる。そこには、さっき燃え尽きたであろう紐たちが、何本か、既に入れられていた。
あらゆる生命が萌え出づる、そんな時期にあって―――バケツの中だけは、未だに冬の如き枯野だった。
「―――文様」
椛が声をかけると、ゆっくり、文はこちらに顔を向ける。いつの間にか自分の家に入られている、そんな状況だというのに、文は、何も気にしていない、どこか疲れた顔で椛の姿を認めた。
「…椛、ですか」
どこか、ぼんやりとした声で、文は返事をする。恥ずかしいところ見られてしまいましたね、と、線香花火のことも気にしていない様子だ。
ほっとしたような、ちょっと引っかかるような、そんな複雑な気持ちが、椛の胸に渦巻く。
「横、良いですか」
「どうぞ」
文が頷くので、椛は「では、失礼します」と、文からちょうど一人分置いた先に座る。
ちょっとずつ暖かくはなっているけれど、この時期の夜は、まだ少し冷たい。ひゅうと吹けば、気分を落ち着かせてくれる。
……さて、どう、本題に入れば良いだろう。
「―――はたての件ですね?」
けれど、それを考える必要はなくなった。文の方から、こちらの本意をくみ取って、話しかけてくれたのだ。
正直、文から切り出してくれたのは、ありがたい。なら、こちらもまっすぐ、文に聞いてみよう。ごくり、と唾を飲み込むと、椛は文に、視線を向けた。
「文様は、天狗が人間に恋することについて、どう考えているんですか?」
「………」
文も、刹那、椛の方に視線を向けて。真意を読み取るようにしばらく目を合わせると、はぁ、とため息をつく。
「…まぁ、正直、あまりお勧め出来ないことであるのは、事実ですね」
「そう、ですよね…」
文の返事を聞き、椛も語気を落として、ちょっと俯く。
―――別に、天狗社会の掟で禁じられているとか、そういう訳ではない。そもそも、人々に語り継がれることで存在を保ってきた神妖たちにとって、人間との恋愛は、自分たちの存在を語ってもらえる絶好の題材だ。だから、天狗たちの中でも、人間などとの付き合いを冗談まじりに勧めてきたり、そんな恋愛に、ある種のあこがれを抱いている者もいるのは事実なのだ。
けれど――まだ若いながら、千里眼であらゆる光景を目にしてきた椛にも、文の意見は、何となく分かるのだ。
きっと、文も、長年あらゆるところを飛び回ったからこそ――現実が分かっているからこそ、こんな意見を持っているのだろう、と椛は考えていた。
―――だって。神妖と人間が、恋に落ちて。その後、幸せな結末を迎えることなんて、そう簡単な話では、決してないのだから。
「―――けど、」
ぎゅっと、椛は膝の上で、両手の拳を握る。
「私は、応援してあげたいです」
「……」
そうだと分かっていても、椛は自分の意見を曲げるつもりはない。
ちら、と文がまたこちらを見ているのが、椛には分かる。せめてもの、ありったけの感情を伝えたくて、「だって、」と声に熱がこもる。
「あんなに良い表情しているはたてさん、私、初めて見たんです。照れている様子で、ずっとずっと顔を真っ赤にしていましたけど、そこからは、嬉しさがどうしようもなくあふれてきていて…」
ここ数日、ずっとずっと、はたてのあの幸せそうな顔が、頭から離れなかった。思い返してみても、あんなはたての顔は、今まで見たことがなかった。
ずっと引きこもりがちで、なかなか自分でもどう生きていけば良いか分からなかった中にあって。その出会いは、きっかけになったはずから。
「そんな顔をさせるのが『恋』という感情なのなら―――すごく素敵だなって。だから、出来るなら、その想いを、手伝ってあげたいです」
どこまで出来るか分からないけれど。椛は、その見えてきた希望に、はたてを賭けさせてあげたかったのだ。
「―――椛」
「…はい」
ぴく、と椛の耳が立つのが分かる。まただ。あの時聞いた、感情の読み取れない声音。
何だかんだで、文は賢くて、柱がしっかりしている天狗だ。ありったけの感情論を話しても、簡単に動いてくれるだなんて、考えていなかった。
だから、覚悟を決めて、きゅっと口を強く結んで――
「私は、別にはたての件に反対する、とは言ってませんよ」
―――はい?
考えていたことと違う返事に、呆然としてしまう。頭が追いつかない。その様子を見て、文は、はぁ、とため息をついて、続ける。
「…一般論として、おすすめは出来ない、というだけです」
そうして、懐から、手帳を取り出す。たくさんの付箋が入っていて、写真などもあちこちに挟まっているのか、ぱんぱんに膨らんでいる。―――あれ?けれど、確かあの手帳、先週買い換えたばかりのものだったはず―――
『……ちょっとだけ、時間をください』
…もしかして。あの時、こう返していたのは―――
「けど、どうして…」
戸惑いながら、椛は聞く。だって、あの時の文からは、ここまで動こうとしているだなんて、とても考えられなかったから。
すると、文は、すっくと立ち上がると、三歩進んで、「決まっているじゃないですか」と、返す。
「身内と人間のゴシップなんて、こんなネタ、記者として見過ごせる訳ありませんから――それだけですよ」
―――いつも聞いてきた、調子の良い声。いつもなら、考えてみたらそうか、こいつはこういう方だなんて、納得してしまうかもしれない、そんな、ムッとしてしまう中身。
けれど、前に出ていた文の顔は、もう椛からは見ることが出来なくなっていて。それが本当なのかどうかすら、判断することが出来なくなっていた。
「―――さて、行きましょう、椛」
「はい?ど、どこへですか」
「何聞いてるんですか。はたての家です。作戦会議しましょう」
「え、ちょ―――ひ、引っ張らないでください!」
***4***
「~♪」
携帯の画面を、噛みしめるようにじーっと見て。それから、嬉しそうに破顔して。翼を、ぱたぱた。
それが、妖怪の山に最近出来たカフェに来た犬走椛が、見た光景だった。
あぁちくしょう、なんて幸せそうな表情なんだ。ずっと見ていたい。何なら、このまま持ち帰ってしまいたい。
こっちまで、気付けば頬が緩みっぱなしで。まだ、約束まで時間があるから、それまで、来ていないふりをして、このまま見ていようかな―――
なんて、考えたものの。このまま柱に隠れ続けていれば、お店の迷惑にもなってしまうので、すぐにその考えを改めて、少女の前に現れることにした。
「はーたてさん」
「にゃっ!?」
にっこにこの笑顔で少女――姫海棠はたてに話しかけると、はたては顔を真っ赤にさせて、携帯を手から放ってしまう。
そのまま、なんとか落とさないように、あわあわお手玉させて、なんとか手の中に収めて。前に座った、椛を睨む。
「ご機嫌ですね」
「…見てた?」
「はい。ばっちり」
「は、恥ずかしい……お願いだから忘れて…」
「忘れられませんよ。写真に撮ってしまいたいくらいです」
ふふふ、と意地悪く微笑む椛に対し、はたてはしばらく、顔を赤くさせたまま睨んできて。
私にもカメラがあればなぁ。今後もはたてのこういう顔、見れるだろうし、せっかくだから、お願いして作ってもらおうかなぁ。
「―――椛」
「はい?」
「文みたいなこと言ってる」
「前言撤回です。今見たことは全部忘れましょう」
あの意地の悪い笑顔を思い出して、ぶんぶんと首を振る。
―――いけないいけない、あの方みたいになってしまったらおしまいだ。
そうして邪念を払って目を開ければ、はたてとぴたり、目が合って。何だかお互いおかしくなって、ぷっと笑い合った。
「それでそれで。あの方とのお話、聞かせてください」
「もちろん。えっと、この前会った時はね――」
そうして、椛が身を乗り出して。はたても、もう恥ずかしがったりすることをせず、はきはきと笑顔のままで話し始める。
―――はたてが彼とのことを、椛たちに打ち明けてから、しばらく経過していた。
最初ははたてが恥ずかしがってなかなか動き出せずにいたものの、まずは文通をすることによって、また彼と会話が出来るようになってきた。
そうして、手紙で勇気を出して、また彼と会えないか、話しかけてみて。それに彼が快くOKをくれて、会ってみて。
そして、きちんと「友達」になれて、今に至る。
「――それで、そういえばどうしてファンタジーが好きなのか聞いてみたらね。幻想的で、不可思議な出来事が起こるこの場所だからこそ、どんな空想の世界が広げられるのか考えながら読むのが、楽しいんだって」
「なるほど。確かに、良いファンタジー作品って、幻想郷から見ても考えたことのない世界観を、本当に緻密に作り上げてますよね」
「うん。彼がすすめてくれた作品、その視点で読んでみると、本当に驚きに満ちていて、良いなって」
―――彼と出会ってから、はたてはちょっと変わったと思う。
ついこの前まで飲もうとしていなかったコーヒーを、ブラックで、おいしそうに飲むようになった。
ふと、空気が動いた時に、その栗色の髪から、ふわり、と、柑橘のような爽やかな香りをただよわせるようになった。
「そういえば、菖蒲(あやめ)の咲いてる高原、教えてくれてありがとね。写真に撮って見せてあげたら、彼、とても目を輝かせてくれたの」
「そんな――…むしろ、すみません」
「ん?」
「その…本当なら、そうした場所にも連れて行かせたり出来たら良かったのですが」
「あー、そゆこと。大丈夫大丈夫、さすがにそれは分かってるから。それに、私だって彼を危険にさらしたくなんかないしね」
「…そうですか。なら、良かったです」
「それにね、彼、むしろ実際には行けない方が、未知(ファンタジー)の世界って感じがして、素敵なんだって」
「…ふふ。ちょっと、おかしな方ですね」
「ね?けど、そういうところが、とっても面白くて、良いなぁって思うの」
前よりもずっとずっと、外に出るようになった。今まで何ということもなかった景色が、キラキラ輝いているように見える、と、自由に飛び回るようになった。
そして。前よりもずっと、綺麗でかわいい笑顔を、見せてくれるようになった。
「ごめんね。こっちばかり話して」
「聞いたのはこちらですから。むしろ、こうして幸せそうなはたてさんを見れて、本当に良かったです」
申し訳なさそうにするはたてに対し、椛は、にこにこと笑う。
こういう話を聞きながら食べる柚菓子はとてもおいしい。尻尾がふりふりと横に揺れる。
「椛に助けてもらったおかげだよ。本当、ありがと」
「そんな―――」
慌てて、手を振る。耳を畳んで、眉をハの字にさせて、薄く微笑む。
「ほとんど、文様のおかげですよ。こちらなんて、何も出来てなくてむしろ申し訳ないくらいです」
―――それは、実際、事実だった。文の助けがなかったら、きっと、今、はたての笑顔は、見ることが出来なかっただろう、と椛は確信している。
あの時。文が、椛を連れて、はたての家まで着いた後から。急な来訪に驚いているはたてに構わず、きびきび、助言を始めていた。
いきなりまた直接会うというのは難しいだろうと、文通から始めるよう促したのは、文だった。
新聞の勧誘にかこつけて、彼に最初の文を届ける役目を買って出たのも、文。
なかなか手紙の書く内容が固まらなくて、筆が進まないのを見て、椛を誘うつもりで書いてみたらどうかと助言したのも、文。
そうして、何とかまた会う約束を取り付けて。なかなか彼の前に出れずにいたはたてを、巧みな話術をもって焚きつけて、背中を押したのも、文。
何だかんだで文句を挟むことはあれど―――文がいなかったら、ここまで順調に進まなかったのは、疑わざる事実だった。
――それを考えると、椛は何も出来ていない。
「けど、確かに、文がここまでしてくれるなんて、正直考えてなかったな」
椛が何も出来ていないということに対して「そんなことないよ」と否定しつつも、そう息を吐きながら、コーヒーを飲む。
「文さ、最近何か忙しそうにしてて、最近こうして集まれたりとか出来てないじゃない?それなのに、時間を縫っては手紙とかで『最近どうですか』と積極的に聞いてくるようになって」
「そうなんですか?」
はたての証言に、椛は意外そうに目を丸くさせる。
確かに、最近の文は、本腰を入れている取材があるとか、そんな話で、最初の時みたいに、そう簡単に時間が取れなくなっていた。だから、何か食べに行く約束をするにも、ここ半月は、今日のようにはたてと椛だけ、ということがほとんどだった。
「ありのまま返したら、すぐに丁寧に助言をつけて、返事をくれたりしてさ。ちょっと、びっくりしちゃった」
そんな中だというのに、文は、はたてのことを、ずっと気にかけて、自分から助言を与えようとしている。
「そこまで、肯定的に見てくれている訳じゃないと、思ってたから」
それはもう―――献身的。その表現がふさわしいくらいに。
『身内と人間のゴシップなんて、こんなネタ、記者として見過ごせる訳ありませんから――それだけですよ』
…あの方は。はたてからの手紙の返事を書いている時。どんな表情をしているのだろうか。
「なんていうかさ」
はたてが、そう首をかしげながら、困ったように微笑む。
「本当、分からないやつだよね、文って」
それに対して、椛は、何も返すことが出来ず、ちょっと、俯く。―――はたてからは、軽く頷いているように見えるだろうか。
―――そう。「分からない」。
ここ一月で椛が文に対して抱いていた感情は、この一点に収束していた。
そうして、話を続けて、気が付けば、日も傾き始めて。
今日は私が持つね、とはたてが告げた。もちろん椛は最初固辞したけれど「この件でお世話になってるから、これくらいはさせて」というはたてのふわりとした微笑みに断ることが出来ず、そのままはたては席を立ってしまった。
はたてが会計を済ませている間、一足先に椛は店の外に出る。
何となしに、東の方向に、千里眼を発動させる。
東、東―――人里をさらに越えて、その東端まで――朱色の鳥居まで、焦点を合わせる。
視線だけ鳥居をくぐらせると…やっぱり、いた。紅白の巫女を取材しているのか、彼女のまわりを飛び回っている、文が。
箒を掃いている横を、右から、話しかけて。左から、話しかけて。
最初、つんとすましていた巫女は、だんだんと顔を赤くさせて、体を震わせて―――あ、爆発した。
すぐに、大幣を取り出して、文に飛び掛かって。けれど、文は、そんなこと、お見通しとばかりに、その攻撃を躱して。
そのまま、境内の追いかけっこが、始まる。巫女が攻撃を仕掛ければ、ひらり、ひらり、と文は躱し続ける。
調子の良い、どこまでも他人をからかうような笑みを、浮かべながら。
―――ちくり、と何かが、胸に刺さる。
どうしてだろう。いつもだったら、あんな笑顔を見たら、殴りたくなるくらい、腹が立つのに。
今は、あの笑顔を見ても、どこか、切なさすら感じてしまうなんて。
***5***
「―――時期ですが、来週撮影ということで、こちらも準備を進めて良いですか?」
「えぇ。上演出来るように設営しておくから、時間になったら来てくれると助かるわ」
「分かりました。では、それでよろしくお願いします」
「こちらこそ」
人里にある古風なカフェで、ふぅ、と息をつきながら、射命丸文は、文花帖をぱたりと閉じる。彼女が向かい合う先には、青いワンピースに白いケープをつけた、人形の如き美しさを持つ人形師―――アリス・マーガトロイドが座っていた。
なぜ彼女たちがこうして席を共にしているかというと、それは何ヶ月か前にまで遡る。
アリス・マーガトロイドは、本業である魔法の研究の傍ら、時間を見て人形劇の製作を行っている。
そして、ここ最近になって、その人形劇は、幻想郷の人間たちの間で、名物の一つになっていた。
文がこれまでアリスに聞いてきた話によると、その人形劇は、既存の童話などを参考にしながらアリス自身が書き上げているもので、分かりやすくも時には優しく、時には幻想的な作品の空気感が、特に子供を中心に注目されているらしい。
その上、かわいらしい人形がまるで意志を持って動いているように見えるその独特さが、穏やかで幻想的な空気をさらに際立たせる。さらにはアリス自身、面倒見の良い穏やかな人柄と来た。なるほど一回受け入れられさえすれば、人気にならないはずがなかった。
さて、そうすると、人間たちはアリスの人形劇が次いつ見れるのか、というのを楽しみにするようになる。ところが、アリスはあくまでも魔法使いとしての研究を軸に活動しているため、そうしょっちゅう来れる訳ではない。それに、アリスは一回上演した人形劇を再び見せることは滅多になかったので、『見逃してしまったので、どうにかあの人形劇を見たい』『もう一回、あの人形劇を見たい』という希望も徐々に増えるようになったのである。
これに、射命丸文は注目した。ある時、文は宴会でアリスと話した時に、こう切り出してみたのである。
『アリスさんの人形劇を、『絵本』として出してはみませんか?』と。
要するに、アリスが既存の作品を文の前で人形劇として上演し、文は一つ一つの場面を写真に撮っておく。そして、文が撮った写真を「絵」として組み合わせ、「絵本」として構成し出版する、というもの。
これなら、「人形劇」という幻想的な空気を崩すことなく、アリスがなかなか出れないような時でも作品を楽しむことが出来る上に、単純にもっとたくさんの人にアリスの作品に接する機会が出来る、という訳である。
もともと人形劇の活動ももっと発展させたいと考えてはいたアリスは、この文の申し出を二つ返事で快諾。とりあえず一作品作ってみようと、それ以来、こうして二人で会うことが増えてきたのだ。
時にアリスおすすめのカフェに連れてってもらい、時に誰に気兼ねすることなくアリスお手製のお茶菓子を食べることを役得として享受しながら、話はとんとん拍子に進んでいる。後は、最も重要な本番撮影を残すだけ、となっていた。
「お忙しいところ、ありがとうございました。では、ここは私がお支払いしますので――」
「あ、待って、文」
そうして、いつものように席を立とうとする文を、アリスは制止する。怪訝そうに細める文の視線の先で、アリスはにっこり微笑む。
「せっかくだから、もうちょっとお話していきましょう?」
「はい?」
「せっかくこんな良いお店に来ているのに、ビジネスの話だけだなんて、もったいないわ……駄目かしら?」
そのアリスの笑みは、いつもの大人びている様子とはまた違う、子供のような明るさを持っていた。仲の良い友達とお話をしたい、まだ話し続けたい、というような。
……―――私と?どういう、ことなのだろう。何か特別話したいことが、あるのだろうか。…なんだか、どうしても気になってしまう。
「良いですよ。ご一緒しましょう」
「ありがとう。じゃあ―――文、コーヒーは飲めるかしら?」
「コーヒー、ですか…?はい、大丈夫ですが」
「そう、良かった――――すみません、コーヒー2つ、お願いします」
ゆるやかな所作でそう店員に注文するアリスに、へぇ、と文はちょっと目を丸くさせる。
「驚きました。アリスさん、コーヒー飲まれるのですね」
「ふふ。実は私、コーヒーも結構好きよ?豆とかこだわって、自分で淹れたりもしているの」
おかしげに微笑みながら、くるくる、と右手で何かを回す―――ハンドミルだろうか―――動きを見せる。
「―――特に、誰かと休息を取る、こういう時は、ね?」
「…あぁ、なるほど。そういうことですか」
「あら。これだけで伝わるのね」
「まぁ……少しだけ、かじっていた時期がありましたから」
それは良いことを聞いたわ――そう楽しそうに呟くアリスから、視線をそらす。幸いにして、アリスが注文してくれたコーヒーがちょうど来たので、それを使ってごまかすことが出来た。
そんな文に対して、アリスは、コーヒーカップを持ち上げ、雅やかに、焙煎された香りを楽しむ。
「魔法の研究とか、何かに打ち込んでいる時は飲まないんだけど――誰かと大切な休息を過ごす時は、いつも飲むようにしているの。私にとって、コーヒーって、そういう飲みものだから」
「―――素敵、ですね」
「ふふ、ありがと」
にっこり微笑むと、アリスはコーヒーを一口つけて、はぅ、とため息をつく。そんな脱力した姿すら、とっても画になるのだから、なんともずるいものである。
そんなことを考えながら、文もコーヒーを口につける。自分がここまで包まれて良いのか、そう戸惑ってしまう程に、あたたかい味がした。
「そういえば、だけど」
かちゃり、とカップをソーサーに置いて、アリスはずい、と文へと身を乗り出す。
「この前人形劇をしている時にね、ちょっと面白かったことがあって」
…アリスって、こんなにぐいぐい来るような方だっただろうか。そう、ちょっと気圧されながらも、アリスの話に耳を傾けることにする。
「もう、十年間くらい、かな。私の人形劇を楽しみに見に来てくれる男の子がいるんだけどね」
「はい」
「その子が、その公演の時に女の子を連れて来てたの」
「ほぅ」
「綺麗な茶色い髪を、紫色のリボンで二つに結んでいて」
「はい」
「薄紫の服に黒いネクタイをつけて」
「…はい」
「紫と黒の市松模様のスカートを着ていて」
「……はい」
「あの子でしょう?あなたの知り合いの天狗の」
「………はたて、ですね」
「そうそう、はたてさん。へぇー、そうなんだ、彼女が」
ふふふ、と意地悪に微笑むアリスを前に、はぁー、と文は頭を抱える。ちくしょう、分かってて言わせましたね。
……あぁ、なるほど。だから、私と話したかった、という訳ですか。ほんっとにもう。
「身内の恥ずかしいところ、見られちゃいましたか」
「そんなことないわ。とても素敵な話じゃない」
「…舞い上がったりしてませんでしたか?」
「それはもう♪」
「…まったく」
あの馬鹿。そう呟く文の反応に対し、アリスはにこにことした笑顔を絶やさない。
「お姫様がドラゴンに襲われそうになっている時とか、無意識なのか彼の袖をつかんだり、最後お姫様の救出に成功した時に、子供に負けず泣いていたり」
文は、頭を抱えている手の隙間から、楽しそうに語るアリスの表情を見つめる。
あぁ、はたてならそういう反応するだろう。簡単にイメージ出来る。
「何より、人形劇が終わった後に彼の横を歩く絶妙な距離感…手をつなぎたくてもなかなかつなげない、なんとももどかしい表情が本当にかわいくって」
世間知らずゆえに、どうしても本質が純粋で、素直で。だから、こうして、未知のことに対して、どこまでも初々しくて。まるで―――
―――自分の唇が、ほんの微かに綻んでいるという事実に、文は気付かない。気付けない。
「活き活きしてますね」
「当たり前じゃない。これでも表現者だもの、こういうのは大好物」
ごまかすように話しかける文に対し、ふふ、と、アリスは小首をかしげる。
「本当はもっとこういう話したいんだけどねぇ、霊夢も魔理沙も、紅魔館の面々も全くそんな話出る様子ないんだもの。こうして話をする機会が出来て嬉しいわ」
「―――…それはどうも。ですけど、出来ればあまり言いふらさないでくださると、ありがたいのですが」
「もちろん。文にしか話さない」
「助かります」
そう返しながら、文はまたコーヒーに口をつける―――なぜだか、さっきより、あたたかい。
「全く…本当、世話が焼ける子ですから。彼に迷惑ばかりかけてないか、いつもはらはらしてますよ」
コーヒーのせいか、少しだけ、自分の口が、軽くなっている気がする。このまま、話しても良いか、と考える自分がいる。
だから、微かな抵抗のつもりで、そうおどけて、ごまかしてみせた。
―――けれど。
「大丈夫」
返って来たのは、確信に満ちた、強い声。逸らしていた目が、否応なく、アリスへと向けられる。
「…大丈夫。彼は優しくて、気のきく子だから」
そこにあったのは、いつもの大人びた笑顔でも、さっきまでの子供じみた笑顔でもなく。
「はたてさんも、とても良い子だって、見てれば分かるから。きっと、うまくいくわ―――私が保証する」
何というか――母親のような、と表現すれば良いのだろうか。そんな嬉しさと寂しさをたたえた、笑顔だったのだから。
ギターの静かなBGMが、聞こえる。コーヒーの香りだけが、二人を包む。最初丸くさせた文の目は、けれど刹那の後に元に戻って。ゆっくり、ゆっくり、と閉じていって。
「…そう、ですね。きっと」
そうして出た声もまた、自分でも驚くくらいに、優しくて、穏やかな声だった。
別に、そんなことない、などとごまかそうと思えば、いくらでもごまかせたはずだった。この話を打ち切ることくらい、出来たはずだった。
けれど、あの、大輪の百合もかくやと思わせる微笑みに対して、これ以上ごまかした笑みで返すのは、本当に何となくだが、許されないことのような、気がしたのだ。
「――はたて、あの方と出会ってから、本当、良い顔をするようになったんです」
ぽろりぽろりというギターの音。
そこに歌詞をつけるかのように、文は言霊をこぼし始める。
「元々、はたては最近まで引きこもり気味だった子でして。つい最近になって、外に出て、私とかと活動を共にすることも増えてきたのですが……どうしても、危なっかしいところがあったんです。今自分が生きている意味が分からない、というか。自分が何に気になっていて、何をしたいかも、どこか曖昧に見えて」
あの時。彼とのことを打ち明けた時に見せた、はたての表情が。夜、文机に灯をつけながら、開いた、あのはたてからの手紙たちのことが、思い出される。
「けど、ここ最近は、そんなことはなくなった。自分がどういうものが好きで、どんなものを見たいか、どういう場所へ行きたいか、そういう意志を、はっきり表現出来るようになった。きっとはたては、彼と出会ったことで、本当の意味で籠から飛び出して、自分の思うままに、羽ばたくことが出来るようになったんです」
アリスは、口を挟まない。きっと笑顔を浮かべながら聞いてくれているのだろうけど、今はそのアリスの目を、きちんと見れない。
「だから、あの子が彼と出会えて、時間を共にすることが出来て、良かったなって、思うんです」
そう。良かったのだ。素直に、文にも、そう思えた。
「良かったはず、なのに―――」
―――ちらちら、ふわり。ぱちぱち、ふわり。
あぁ、どうしても思い出してしまう。儚い、ちょっとでも手の震えが伝われば、壊れてしまう、あの火花が。頭に浮かぶ。
「どうしても、これで良かったのかなって、考えてしまう」
―――ちらちら、ふわり。ぱちぱち、ふわり。
そして、今も。せっかくこれからが、輝けるというのに。どうしても、不安で、不安で、震えてしまって。
「だって、これ以上近づいてしまったら、きっと―――」
目を閉じて、振り払おうとする。けれど、揺らめく火花は、ずっとずっと、ちらついて、離れてくれない。
あぁ、駄目だ。駄目。本当に、どうしたら良いのだろう。
つなぎとめているののは、ほんの微かな、紐の先だけ。あぁ、また手が震えて。今にも、こぼれてしまいそうで―――
「……大丈夫」
その時、また強い声が響いてきて、意識を引き戻す。
自信に満ちた、その声音に、文が瞼を開くと、そこには、またさっきみたいな眩しい笑顔を、目の前の少女は浮かべていて。
「大丈夫。きっと」
「…どうして、そんなことが言えるんですか」
「そりゃあ、だって」
少女はおかしげに首を傾げると、すっと、真っ白い指を、人形を繰るように繊細に、文に向けた。
「文。あなたがいるじゃない」
―――反論、したかった。
喉のすぐそこまで、声が出かかっていた。
けど、出来なかった。意地を張ることが、どうしても出来なかった。迷ってしまった。
…ただただ、アリスのまっすぐな言霊に射抜かれて、身を委ねずには、いられなかった。
「―――ねぇ、文。一つ、私から提案したいことがあるんだけど」
コーヒーの香りは、未だにあたたかく、二人を包み込む。
今は、休みを共にする時間なのだ、と―――花は詩を紡ぐ。
その囁きの中で、人形師の少女は、満面の笑みを浮かべて、呆然とする天狗に、こう話しかけた。
「夏祭に出す人形劇のアイデア、一緒に考えない?」
***6***
あれからしばらく経って。アリスと別れた文は、夕空の中を、羽ばたいていた。
…羽ばたいていた、というよりも、ただよっていた、と表現した方が良いだろうか。
ゆらり、風の舞うままに、のろのろと、夕陽に照らされながら浮いていた。
『文。あなたがいるじゃない』
「………」
ちくり、とした胸の痛みの後に、安堵の波が、じわり、と体に広がっていくのを感じる。
もう、あの人形師の少女に会うべきではないという警鐘と、また会いたいという願望が、頭を通る。
そして―――これが一番自分でも戸惑っていることなのだが――どちらに天秤が傾いているかは、もう自分の中でも明らかだったのだ。
まぁ、どの道、絵本の件があるから、また会うのは確定事項ではある、のだが。
『夏祭に出す人形劇のアイデア、一緒に考えない?』
アリスが語った、その人形劇の中身は――――「妖怪と人間の、恋愛譚」。
…………
ふわ、と、風が頬を撫でる。もう夕暮れ時だというのに、じっとりして温かいその風は、夏という季節の訪れを、雄弁に語っていて。
「―――夏祭、か」
――ちらちら、ふわり。ちらちら、ふわり。また、頭の中に、夕闇に生きる小さな火が、浮かぶ。
…そう。今年ももう、そんな時期になったんですね。
「…花火、何本か買い足しますか」
そう呟くと、文は、すい、と翼を整え、一路、日の沈む方向へ飛んで行った。
***7***
―――かりかり。かりかり、万年筆を羊皮紙に走らせる音がする。
雅やかに鼻歌を歌う、少女の声が聞こえる。
文と別れたアリス・マーガトロイドは、家で、さっそく、次の人形劇の構想を記していた。
「……」
あの時、帰ろうとする文をアリスが引き留めたのは、本当に気まぐれだった。
もちろん、はたてについて話したい、という気持ちがあったのは事実だったけど。半分は、文本人のことが気になっていたのだ。
「絵本」の件を通して会ってきて、何となく気が付いてはいた。どんなことに対してもふざけて軽々と躱していく、秘密なんて持たないと言わんばかりの微笑みをたたえながら、本当は誰よりも真面目で親しみを持てて、誰にも読ませない、何かを秘めているのではないか。
魔法を通して、常に真実を探求してきた者として、そんなの、気にならない訳がなかった。だから、はたてのことを話題に、あの時、話しかけたのだ。
そして、その収穫は―――
『だって、これ以上近づいてしまったら、きっと―――』
…あまりにも。アリスにとって、大きすぎるものだった。
「シャンハーイ?」
「あぁ、ごめんね、上海。ちょっと、ぼーっとしてたわ」
気が付けば、手はすっかり止まっていたみたいで、上海に心配そうな声音で話しかけられた。いけないいけない。
「休憩した方が良さそうね。お茶、持ってきてくれる?」
「シャンハーイ」
上海がキッチンに行くのを見て、ふぅ、とアリスは椅子の背もたれにもたれかかる。そうして、ぽつり、と。
「…そっ、か」
人形劇を見てくれる、ひとりの顔が頭をよぎる。
誰もいない中で。いつもいつも、その琥珀色の瞳を、きらきらさせて、私へと向けてくれていて。
それだけで、胸がいっぱいになって。「彼」のためだけに、こうして、頑張って――
「―――もう、十年にもなるのね」
こぼれた呟きと共に、きゅっと両手を、胸の前で組む。
そうして思考に沈んでいたアリスは、キッチンの柱から、何か言いたげに顔を覗かせる上海に気付くことが出来なかった。
「…シャンハーイ……」
***8***
「――はぁ」
待ち合わせのカフェで見たはたてのため息に、犬走椛は刹那、目を丸くさせていた。
机にぐったりと突っ伏している中で、眉はしかめていて、頬もちょっと膨らませていて――怒っている、訳ではなさそうだ。どちらかと言えば、すねている、というか。いじけている、というか。
…珍しい。文関連のことだとたまに見ることはあったのだが――それでも、ここ最近は見れなかった表情だった。
「どうかしたんですか、はたてさん」
とりあえず、はたての向かいの席に座って、そんなことを聞いてみる。
はたては、もそもそと、気の抜けた様子で机から体を起こし、コーヒーで満ちたカップに目を落とす。
「んー…」
「…そういえば、ついこの前も、彼と出かけられたと聞きましたが……何かあったんですか」
「あー、違うの。うん、この前のお出かけも、とても楽しかったし。けど…何だかもやもやしてて」
「もやもや…ですか」
首を傾げる椛に、はたては「うん」と頷く。そうして、一瞬の躊躇の後、ゆっくりと、目を椛に向ける。
「椛はさ、アリス…って言って分かるかな」
「アリスさん、ですか……はい、文様に連れられて何回か。人形使いの方…ですよね?」
「そう、そのアリス」
椛の確認に、はたてはこくりと頷く。文のお供として(不本意ながら)連れ回されることの多かった椛は、ほぼ一方的ではあるものの、様々な人妖とお近づきになる機会も多かった。
その中には、普段の自分にはなじみの薄い、西洋風の出で立ちをしている者も少なからずいて、椛の中ではもの珍しさから記憶に強く残っている。アリス―――アリス・マーガトロイドも、そのうちの一人だった。
「椛は、アリスを見かけて、どんな人だと思った?」
「そうですね…」
そうはいっても、ほぼ見ていただけなのですが、それで良いのだろうか…?と疑問を抱きながら、記憶をひねり出す。
そういえば、お茶菓子を配りに、こちらに来てくれたことがあったっけか…その時に見た彼女は、さらさらとした青いワンピースに白いケープ、赤いヘアバンドを身に着けていて…とにかく白い肌に青い目をたたえた、それこそ人形のような整った顔立ちで…
とにかく、妖怪の山ではなかなか会うことのない、気品に満ちた美しさを持っていて―――にこやかに話しかけられた時は、少々気圧されてしまったっけ。
「私は直接お話したことはあまりありませんが……すごく優しくてお綺麗な方だな、と」
「そうだよね…――――はぁ…」
椛の返事に対し、はたてはまたため息をついて机に突っ伏してしまう。
首を傾げる。そんなアリス・マーガトロイドが、どうかしたというのだろうか。そんな彼女の疑問を察知したように、ぽつり、とはたての口が開く。
「この前ね、彼に連れられて、アリスの人形劇を見に行ったの」
――…話をまとめると、こうだ。
いつもみたいに、コーヒーを飲みながら物語などの話に花を咲かせていたはたては、ふと、彼から、アリスの人形劇を見たことあるかと聞かれたという。
つい最近まであまり外に出たがらなかったはたては、念写とか文の記事などを通して人形劇の存在自体は知っていたものの、それを実際に見たことはなかった。そう返したところ、彼は笑顔を浮かべながら、きっとはたてなら気に入ると思う、と勧めてくれた。
そして、たまたま―――いや、今考えれば、彼がはたてを連れていきたくてその話題を持ち出したのだろうが――その日が、アリスが里に出て人形劇を披露する日だったこともあって、彼と共に、その人形劇を見に行くことになった。
来てみると、集まっているのは子供が中心だった。彼によると、アリスの人形劇は主として、子供向けに彼女が書き下ろした作品が上演されるという。それを聞いたはたては、子供向けの作品だからというちょっとした油断と、彼が勧めてくれたものというちょっとした期待を抱えながら、アリスの登場を待った。
しばらく待って、青いワンピースを着た少女が、かわいらしい人形を従えて、恭しくお辞儀をする。そして―――
「すごかった。単に人形を使う術だけじゃない。ストーリーも登場キャラクターもすごく練られていて、気が付けばその世界観にずっと引き込まれていた」
操られているだなんて、全く考えられない、人形の動き。
透き通るような綺麗な声で、よどみなく語られる、アリスの朗読。
人形劇のために作られたとは思えないくらいに、技巧と興趣に満ちた、衣装や背景のセット。
子供向けの作品と決して馬鹿に出来ない、作りこまれた世界観に、王道ながら、魅力に満ちた登場人物と展開。
そんな彼女の人形劇に、はたての目はみるみるうちに輝いて、引き込まれて。
気が付けば、涙を誘われて、彼の袖をつかんでしまっていたり、子供たちと一緒になって、声援を送っていたり。
その反応にしてやったりな顔をする彼に、ちょっとくやしくなって、膨れてみせたりして。
とにかく、最後まで世界観に浸ることが出来て、余韻に満ちた、充実した時間を過ごすことが出来た。
「それで、終わった後、彼が挨拶のためにアリスに話しかけに行ったの」
彼が話しかけると聞いた最初は、とにかく顔を紅潮させていた。だって、こんな作品と生で話すような機会なんて、なかなかないから。
この生の様子を記事にしても良いかも、なんて、そんなうきうきした感情を持ちながら、アリスのもとに駆け寄った。
けれど……彼がアリスに話しかけたその瞬間、はたての高揚した感情に、落雷を受けたが如くの衝撃がもたらされる。
「……まるで、子供みたいに弾けた笑顔だった。そして、向こうも、さっきまでの落ち着いた笑顔からは考えられないくらい、気さくに彼と話してた」
あんなに輝いてる彼、初めて見た。アリスも、人形劇で見せた大人びた笑顔ではなく、一人の少女として、彼に接しているのが分かって――すごく、息が合っていた。
「後で聞いてみたら、彼、アリスの人形劇を何年も前から見に来続けていて、本人とももう友達同然の付き合いなんだって」
…それを聞いて、納得、出来た。納得出来てしまった。
彼は、アリスのことを知り尽くしていて。
アリスも、彼のことを、本当によく知っている様子で。
「何だか、ちくって胸に来ちゃって…」
―――お似合い。その言葉が、あまりにも二人にしっくり来てしまったのだ。
二人を光が照らされる中で。はたては、影に隠れて、口を開くことが出来なくて。
結局、彼に紹介されても、アリスに話しかけられても、どこか上の空で。あの時、何を話したか、あまり覚えていない。
覚えているのは、彼の首を傾げながらどこか不思議そうにしている顔と、アリスの楽しそうにくすくす笑っている顔くらい。とても画になる、そんなツーショット。
「―――ちょっと、自信がなくなっちゃった」
そうして、寂しそうにはたては俯く。何も入れるでもなく、スプーンでコーヒーをくるくると回す。
決して、彼が悪い訳ではない。アリスが悪い訳でもない。
そもそも、はたては彼にそういった想いを抱いていることは伝えていないし、伝えるつもりもなかったのだから。
彼が幸せになるなら、別に誰と結ばれても良い、自分はただたまに彼と遊びに行ければ良い、そう考えていた。
けど―――
ウェーブのかかった輝く金髪に白く整っている美しい笑顔。
青いワンピースを着こなした、おしゃれな出で立ち。
透き通っていて、誰もが振り向いてしまう程の綺麗な声。
はては、お近づきのついでにもらった、今まで食べた中でも、抜群においしかったお茶菓子。
―――何もかも「勝てない」そう感じてしまって。きゅっと胸が締め付けられて。
何でこんなこと、自分で考えてしまっているのだろう――
「『うじうじするな』」
その時。目の前から聞こえる声に、はたては顔を上げる。
そこには、腕を組んで眉をしかめて、呆れたような表情ではたてを見つめる、椛の姿があった。
「『そんなことでぶうたれる暇があったら、とにかく動きなさい。手遅れになっても、私は知りませんからね』」
けど、そうして呆れたような顔は、どこかぴくぴくと動いていて。いらついてるように話そうとしている声も、どこか棒読みで。
「椛…?」
「あーすみません。文様ならこういう時なんて言うかな、と思ったんですが…あのムカつく話し方、なかなか真似出来ないですね」
はー、つかれた、と、げんなりした様子で椛は笑う。
それにつられて、ぷっ、と我慢出来なくなってはたても笑みをこぼした。
「ほんと。全く似てなかった」
「ははは。文様みたいに、とびきり性格悪くならないといけませんね」
「…駄目だからね?」
「なりませんよ。そうなったらおしまいですから」
そんなことを話しながら、しばらく二人で笑いあう。…その、ごめんね、文。
……けど。ちょっとだけ、気が楽になったかも。
「ありがとね、椛」
「いえ……励ませたのでしたら嬉しいです…ですが…」
今さら恥ずかしくなったのか、ちょっと顔を赤らめながら椛は俯く。かわいいな、となごんでいると、ちょっと躊躇いがちに、また椛は口を開く。
「文様の真似をしてはみたのですが…さっき言ったことは私なりの助言でも、あるんです」
また、顔を上げる。千里先を見通抜く瞳が、はたてと合って、ちょっとだけ、たぢろぐ。
「はたてさん」
「…う、うん」
「―――今の話をまとめると、はたてさんはアリスさんに劣等感を抱いている、と。そういうことですね?」
「そう、だね―――そういうことに、なると、思う」
「どうして、そんな感情を、彼女に抱いたのだと思いますか?」
「どうして、って――」
そんなの、分からないよ。そう出かけた声は、喉の先で、詰まってしまって。そのまま、沈黙してしまう。抵抗、している。
「―――じゃあ、もっと直球で聞きましょう」
椛は、その目を、はたてから離さない。
「もし、アリスさんが告白して――あるいは、彼が想いを告げて。お二人が付き合うことになったとします―――今のはたてさんは、それを祝福出来ますか?」
「そんなの―――」
出来るに決まっているじゃん、という声は、またしても出なかった。アリスと彼が並んでいる姿、それを思い出すたびに、胸がチクチクと痛んで。その声を出すことに、ずっとずっと抵抗していて。
アリスなら、彼を幸せに出来るって、あの時の会話を見るだけで、想像できたというのに。どうしてだろう。言いようもなく悲しい。我慢をしていないと、涙が出てしまいそうで――
「はたてさんは――」
声を出せずにいる、はたての様子を見て。椛は代わりに、結論を述べるために、再び口を開く。
「彼のこと、取られたくないんですよね」
「―――うん」
さっきまで、全く声が出なかったのに。何故だか、今度はすっと言葉が出て来た。
まるで、ためていたものを吐き切ったように、胸の中で、すっきりと、何かが流れていく。
「だから、彼にずっと近いアリスさんが羨ましくて、自信、なくなってしまっているんですよね?」
「―――うん」
本当は、ちょっと前から分かっていたことだった。
「友達」のままで良いと、思っていたはずだった。自分なんかより、彼にふさわしい子なんて、きっといるだろう、と考えていた。
それ以上自分が踏み込んだら、彼との関係が、壊れてしまうかもしれない、と怖かった。なら、このままで、ずっと、幸せなままでいたいと思っていた。
けど、彼といるのは、どうしようもなく幸せで、胸がいっぱいになって。もっともっといたいと思うようになって。
抑えたかった。けど、どうしても、あふれてしまった。
だから―――
「負けたく、ないなぁ……」
今までだったら、きっと諦めていた。
人形師の少女との差は、自分は最も実感していたのだから。
そんな差と戦ったところで、何も得ることが出来ない、なんて、諦めて、譲ってしまうのが、はたてという少女だった。
…けれど。そうだと分かっていても、今回だけは、譲りたくはなかった。
せめて、はたて自身があがけるところまで、戦いたい、と。彼に手を伸ばしたい、と願うようになった。
「私も、手伝います」
ずっとずっと鋭い目をはたてに向け続けていた椛は、ここで、にこりとした笑顔を見せる。やっとお役に立てるかもしれませんと、嬉しそうに尻尾を振る。
「はたてさんが美しくてとても良い方だというのは、私も少しは分かっているつもりですからね。いくらアリスさんが綺麗だろうが、決して負けてません」
「…はは、それは言い過ぎだよ」
「そんなことないですよ。ずっとあなたを見てきた、私のことを信じてください」
うっ。そんなこと言われたら、意地でも頑張らざるを得ないではないか。何だかんだで、やっぱこいつ文に似てきたんじゃないだろうな。
にこにこした笑顔を浮かべながら、何故だか嬉しそうに耳をぴくぴく動かしている椛を、ちょっとだけ細めた目で、はたては見つめる。
―――けど。
「分かった。彼に振り向いてもらえるように、頑張ってみるよ」
なんだか、とっても、楽しい。
「そうと決まれば、善は急げです、はたてさん!出発しましょう」
「そうだね。まずはどこに行こうか」
「…どこに行けば良いでしょう?」
「えー……」
「…すみません。自分もこういうのに疎いの、すっかり忘れてました…」
しゅん、と耳を下げる椛を見て、何だかおかしくなって、はたては笑う。刹那の後、その笑顔を見た椛も、恥ずかしそうに、つられて笑う。
何でだろう。根拠も何もない、前途多難な道のりなのに。何だかうまくいきそうな、そんな気がしてきた。
―――その日、文は机の上に、手帳を広げていた。
それは、彼に関するもの。はたてから最初に相談された時に書き込んでいた、あの手帳である。
ぱらり、と資料をめくって、一枚の写真を見つめる。そこには、里で人形劇を上演している、アリス・マーガトロイドの姿。
彼のことを事前に調べていた文は、彼がアリスの人形劇を見に行っていること、そして彼とアリスが旧友の仲であること自体は元々知っていたのだ。
けれど―――またぱらり、とページをめくる。そこに書かれていたのは、十年前の出来事について、聞いてきたのをまとめ。
そして、あのカフェで見た、アリスの態度。
『…大丈夫。彼は優しくて、気のきく子だから。はたてさんも、とても良い子だって、見てれば分かるから。きっと、うまくいくわ―――私が保証する』
……………
人差し指で机を叩きながら、はぁ、とため息をつく。
―――全く。難解、ですね、本当に。
――こん、こん。
木製の戸が叩かれる音がする。
「文様?いらっしゃいますか」
聞こえてくるのは、はるか彼方にも届けられそうなほど、凛とした声。
「―――椛、ですか。入って良いですよ」
「はい。失礼します」
からり、という音と共に、犬走椛の姿が見える。その姿を認めた文は、机に置いてあった資料を引き出しにしまって、別の本を取り出す。もう、椛が来ること自体は珍しいことではない。きっと、いつものようにこちらの様子を気にすることもなく、用件を話して帰るのだろう。
…そう、思っていたのに。玄関に踏み入れる足音が、いつまで経っても聞こえてこない。
さすがに疑問を抱き、横目を向ける。すると、そこには、戸の陰に隠れている誰かの手を、椛が引っ張っているという、奇妙な画が広がっていた。
「ほら、そんなとこ隠れてないでこっち来てください」
「うぅ…だって、結局恥ずかしくなってきたんだもん。絶対、嫌味言われるに決まってるし」
「あの方の嫌味なんて今さらじゃないですか。どうせどんなに良いもの着てきたって、文句言わないと気が済まないんですから、一緒ですよ。良いから来てください」
…あのー。そういうのはせめて本人が聞こえないところで話してくれませんかね?分かってますよ。自分が悪いってことくらい。
このままだと埒が明かなそうなので、げんなりとため息をつきながら、こちらから話しかけてみることにした。
「はたて?どうしたんですか、そんな陰に縮こまって」
椛の引っ張る手が、ぴくっと止まるのが見える。
「…ワ、ワタシハタテジャナイデスヨー?」
「ばればれですよ?こちらも暇ではないのです。用件があるなら早く入りなさい」
ごまかす気がみじんも見えない片言に呆れかえりながら、文は目を細めて、手の持ち主に声をかける。
さすがに観念したのか、椛に手を引かれるまま、のろのろ、ともう一人の天狗が戸の陰から姿を現した。
「ほら、はたてさん」
「う、うん…」
そうして、顔を赤くさせながら姿を現すはたてに、刹那、文はぽかんと口を半開きにさせていた。
そこにいたのは、はたてであって、はたてではなかった。
いつも紫の兜巾を被っていた頭には、兜巾の代わりに、ベージュ色のキャスケット帽。
それに伴い、上で結んでいた髪は下に垂らされ、紫のリボンで二つ結びになっていて。
服装は、上が白いゆったりとしたブラウス。
そのブラウスをおなかのあたりでひざ丈程のすらりとした茶色いスカートに入れ、サッシュベルトで結んでいる。
総合して、外来の巫女で言うところの「今どきの少女」とも表現すべき―――はたての雰囲気によく合った、すっきりした装いに仕上がっていた。
「…文」
何の反応も見せない文にまた気まずくなったのか、はたてがゆっくりと口を開く。
「あの、今日、椛と見つけてきたんだけど………似合ってる、かな?」
そんな不安げなはたての様子を文はまず見て、次いで、ぐっと両手の拳を握って、見守っている椛を見る。
それで、今日何があったかのおおよそのことを、文は大体把握した。
そして、文は、はたてや椛が、本来こういうことに関してそこまで明るくはなかったということも、よく知っている。
それらの点から導き出せる結論は―――
「…なんだ」
…あぁ。やっぱりあなたを見ていると、思い出さずにはいられないですね。
半開きにしていた口を、ふっと緩めて。柔らかい笑みを浮かべながら、文はこう返した。
「やれば、ちゃんとおしゃれ出来るじゃないですか、はたて」
「あ、文様がデレた…!?」
「たいへんよ椛、明日は異変が起こるわ!今すぐ博麗の巫女に伝えに行かなくちゃ!」
「…あなた方、つくづく失礼ですね」
***9***
「―――それで、どうでしたか?あの服に対する反応は」
「うん…とても似合ってるって」
「おっ」
「恥ずかしくなって、あんまり彼の顔を見れなかったけど…多分、顔を赤くさせてた…と思う」
「良かったじゃないですか!とりあえずこれで、一歩前進ですよ!」
「うん…ありがとね、椛」
「まだ、まだ、これからです。こっちもちゃんと調べましたからね。張り切っていきますよ!」
「―――そうだね、頑張ろう」
―――そうして、少女たちは前に歩みを進め。
「―――そんな訳で、まぁ、関係は良好みたいです」
「そう。本当、仲が良いみたいで、良かったわ」
「…一つ、お聞きしても良いですか?」
「なぁに?」
「アリスさんは、彼とご友人の関係ではないですか。あの二人の進展を知りたいなら、彼に直接聞いてみれば良いのでは…」
「……」
「…アリスさん?」
「…まぁ、そうなんだけどね。最近、こうして人形劇に集中しているから、話す時間もなかなか作ることが出来なくて。それに、」
「…それに?」
「―――せっかくだもの。こういう話は、文から聞きたいな、と思って」
「なんですかそれ……。まぁ、私は別に構いませんけど」
「………」
「―――なんですか」
「うぅん。文って、本当素直じゃないなって思って」
「…ほっといてください」
時間も、共に過ぎていく。
***10***
「うーん」
人妖が一同に沸き立つ祭礼である、夏祭まで、半月に迫っていた。
日差しは徐々に刺すような暑さを増していき、開いている障子を通して、クチナシの甘い香りが、じっとりとした湿気に乗って運ばれてくる。
今、はたては文の家まで押しかけてきて、山で売られている浴衣に関する記事を、うんうん唸りながらにらめっこしていた。
「夏祭の浴衣、どんなものが良いかなぁ」
「ここにいないで椛に見てもらえば良いじゃないですか」
はたてから少し離れた机で、また原稿用紙に向き合いながら、文は淡々と呟く。
「今日は白狼天狗の皆と行くとこあるんだってさ。いつも椛に迷惑ばかりかけても良くないでしょ」
「…私なら良いんですか」
「うん。だって文だし」
「はぁ…あなた方、私に対しては本当都合の良い解釈しますね……」
まぁ、良いですが。そうこぼす文は、顔を上げることなく、かりかり、と原稿を書く音を進める。
はたてからは、文の横顔は、髪に隠れて、よく見えない。
―――しょうがないじゃん。そう文に聞こえないよう、はたては呟く。
あんたのこと、まだ何も分かってないんだから。
「夏祭といえばさ」
ふと、はたてはひたひたと畳を歩き、棚の上にあるものを手に取る。
「あの写真…どうしたの?」
はたてが手に取ったのは、桔梗の活けられた花瓶の傍にある、一つの写真立て。
そこには、夕闇の中、濃紅の浴衣に身を包み、線香花火を手にしゃがんでいる、文の写真が入っていた。
くすみ具合からすると、そこそこ昔の写真らしい。カメラの目線なんて、気にしてもいない様子で、目の前に散る線香花火の火花を、穏やかな笑顔で見つめている。そんな、純粋に見える、文の姿。
「どうしたのって…ずっと前から置いていたじゃないですか。何を今さら」
「…まぁ、そうなんだけどさ。考えてみたら、文って自分の写真撮らせてくれること、ほとんどないじゃない」
「………」
ぴたり、と、原稿の上を舞う、万年筆の動きが止まる。けれど、顔をこちらに向けることはなく、まだ、表情を見ることは出来ない。
「…そうでしたっけ」
「そうだよ。今まで集めた念写の中に、文が映っているもの、一回も見たことないし」
「………そう…でしたか。そうだったかもしれませんね」
まるで今ごろになって気付いたかのように、はぁ、というため息が、はたての耳に届く。
その響きから、まるで焦りは聞こえてこない。むしろ、懐かしさを噛みしめる想いだけが、見て取れるような。
「誰に、撮ってもらったの?」
そもそも、こんな文の笑顔、自分は一回も見たことがあっただろうか。彼女をそんな顔にさせる写真を撮るなんて、どんな方なんだろうか。
そんな、ちょっとした関心と羨望が、はたての中に渦巻くのは、無理からぬことといえよう。
けれど―――
「申し訳ないですが、教えることは出来ません」
今までの、淡々とした言い方ではない、はっきりとした声音で、文はその質問を拒否する。
「―――どうして?」
「………」
あいかわらず、文は顔をこちらに見せてはくれない。けれど、ぐっと、万年筆を握る手が、ちょっとだけ強くなっているのを、はたては見た。
わすかな、逡巡とも見れる沈黙。その時間を経て、ぽつり、とこぼすような文の声が聞こえる。
「…それは、私が一生抱えていく『秘密』だって、決めてますので」
「―――そっ、か」
かたり、とはたては写真立てを元の位置に戻し、また、文から離れたところに座る。写真立てから、風船みたいに膨らんだ、今にも弾けてしまいそうな桔梗の蕾に、目が移る。
そうまで言われて、それ以上聞こうという図々しさを、はたては備えていなかった。むしろ、この写真が文の抱えていく「秘密」ということを、文の口から聞けただけでも、はたては嬉しかったのだ。
「浴衣のことでしたら、こちらが終わったら見てあげます。それまではちゃんと自分で考えてください」
「分かってるって。感謝」
あいかわらず、顔をこちらに向ける様子もなく、淡々と文は声をかける。その声音からは、さっきまでのことを気にしているようには、とても見えない。それが本音なのか仮面なのかはともかくとして、そのことははたてを少しだけほっとさせた。
ぱらり、と新聞紙をめくる音と、かきかき、と、万年筆が原稿に走る音だけが、しばらく部屋に響く。
さて、結局、夏祭に着る浴衣は何が良いだろうか。文の言う通り、決意を固めたのは自分なのだから、出来れば自分で決めたい。彼に見せるものだから、ちょっとでも、自分に合ったものが良いのだけど――
その時。くわぁ、くわぁ、と誰かを呼ぶような鴉の鳴き声が、辺りに響く。
「どうやら伝書鴉が言伝を届けてくれたみたいですね。出てあげなさいな」
「う、うん」
淡々とした文の声で、はたては我に返る。天狗の世界では、鴉などの眷属が手紙などを配達してくることが多い。鴉の鳴き声は特に鴉天狗に通じ、かつ賢くて家から離れた相手も正確に見つけてくれるため、郵便などでは重宝されるのだ。
そういえば、ちょうど昨日、彼に対して夏祭に一緒に行かないかという手紙を送ったばかりだった。もしかしたら、その返事が来たのかもしれない。そう考えると胸の鼓動が高まって、どたどたと慌てた足取りで玄関まで駆けていく。その裏で、文が、呆れたように軽くため息をついたのに、はたては気付くことが出来なかった。
「お待たせ。いつもありがと――――」
「―――え…?」
―――その時、轟音が、響いた。何かが倒れ、割れ、そして転ぶ、そんな音。
只事ではない音に、文机に顔を隠していた文も、玄関の方に顔を向けて―――刹那、はたてのもとへ、駆け出す。
はたては、手紙を手に持ったまま、玄関先で、転んでしまっていた。
幸い、慌てて玄関の何かにつまずいただけらしく、ケガ自体はひどくはない。けれど―――うつぶせに倒れていて顔が隠れているはたての荒い息は、明らかに尋常ではないことが伝わってきた。
「―――はたて、」
転んでしまったはたての肩に手を置きながら、文は敢えて感情を付けずに問いかける。肩が震えていることが、手を通して伝わって来る。
「何か、ありましたか?」
そんな文の声で少しは落ち着いたのか、はたては、ゆっくり顔を上げる。真っ白になった顔の中で、目の周りだけが、薄らと赤く染まっていて。
…あぁ、やっぱり。唇を噛んで、顔を歪めてしまう。
知っている。文は、こういう顔を、知っている――
「どうしよう…どうしよう、文」
「彼が、倒れたって―――――」
***11***
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
その夜、彼女は一人だった。最近はいつも二人で線香花火を燃やしていたのに…その夜は、一人だった。
…一人ぼっちに、なっちゃった。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわ…
支えてくれる手は、今ここにはなくて。そのせいか、どうにも、辺りは寒く感じられて。
微かな手の震えと共に、散り始めた火花は、時を待たず闇に飲まれてしまう。
……ずきり、と胸がうずく。このままではいれなくて、また、紐の先に火を灯す。
―――ぱちぱち、ふわり。ちら…
―――ぱちぱち、ふわ…
―――ぱち…
―――ちら…
けれど、何度、何度、試しても、駄目で。胸の鼓動は早く鳴り響き、呼吸は荒くなる。涙が、出そうになる。
夜闇の中、孤独に包まれ、小さくうずくまって。それでも諦めたくなくて、求めずにはいられなくて。
―――そうして、ぐるぐる、迷路を巡る私に、とどめを刺すように。
…ぽつ、ぽつ、と、無機質な雨が降り始めた―――
***12***
「………」
「―――文?」
「…あぁ、すみません。ちょっと、ぼーっとしてました」
はぁ、いけないいけない。軽く首を振ると、文はコーヒーを一口、喉に流しこむ。
その文の向かいには、アリス・マーガトロイドが、カップを片手に薄く微笑んでいた。こっちを気遣うように、眉はハの字に曲がっている。
あの報告から一日。この日もまた、恒例となりつつある、文とアリスの待ち合わせの日だった。
「そう。気分がすぐれないなら、無理しなくて良いのよ?」
「お気遣いどうも。こちらは大丈夫です―――アリスさんこそ、大丈夫ですか?」
「私?」
はい、と返しながら、文は、その赤い瞳で、アリスを見据える。
「多分、私と同じような顔をしています」
「………」
ぴくり、とアリスの指が、動いたように見える。
ギターの静かなBGMしか聞こえない空間の中で、戸惑うように、青い瞳を微かに揺らす。
それは、いつものアリスなら見せることない、動揺。けれど、文はそれに対して、特別驚きはしなかった。
「彼のこと、聞いたんですね?」
ここ何ヶ月かで、文はアリスという魔法使いのことを、ちょっとは分かってきたつもりだったから。
「…まぁ、ね」
覇気のない声で、力なく、微笑む。よくよく見ると、元が白い顔色もさらに白く、ちょっとつやが消えているように見える。
きっと、短い返事には収まらない程に、彼のことを気にしているのだろう。
…ちくり、と。胸の中で何かが刺さる。
あぁ、本当、駄目だ。どうしても、誰かさんと重なって見えてしまう。
「―――彼はきっと、大丈夫です」
だから、気が付けば、文はこう声をかけていた。ちょっとだけ強い声になっているのが、自分でも分かった。
「はたてが、傍についてくれてますから」
「…ふふ」
ぽかんとした沈黙の後、そう、アリスはおかしそうに笑う。
「そっか。はたてが、彼のところに行っているのね」
「はい。どこまで出来ているかは分かりませんが―――ずっと、彼の世話をしてくれているみたいです」
「…そっか。ずっと、傍にいてくれてるんだ」
こぼすように呟きながら、はぁ、と穏やかな息をついて。さっきまで不安げに揺れていた瞳には、あたたかな涙がたまっていて。
「―――良かった」
心からの安堵と、ほんのちょっぴりの寂しさが入り混じった、その笑顔は、とても綺麗で。想いに満ちあふれたその吐息に、文もしばらく見入ってしまう程だった。
「ありがとうね、文」
「はい?」
「はたてを励まして、彼のもとに行かせたのは、あなたなんでしょう?」
聖母のようなアリスの笑みが何となく気まずくなって、文はアリスから目を逸らす。
舞台人としての眼が培われているのか、アリスは、他者をよく見ている。だから、やたらと鋭い。
けれど、彼女はどうしようもなく優しい。だから、好意的な勘違いをしている。それがむず痒くて、逃げ出したくなる。
決して、そんな褒められるようなことなんてしていない。自分がしているのは結局、ただの罪滅ぼしで、自己満足に過ぎないのだから。
「別に、私が何か言ったりしなくても、きっとあの子は、同じように行動していましたよ」
コーヒーを喉に流しこむ。ぬるくなって、少し強くなった苦さと香ばしさが、文の口を満たしていく。
「―――あの子は、私なんかとは違う、強い子ですから」
…あんなこと言われて、どこか救われてしまっている自分を、戒めるように。
「…ふふ、そうね。そういうことに、しておきましょう」
そして、そんな苦い顔に対してなおも微笑みで返してくるアリスが、文は決して、得意ではなかった。
「―――それでね、ラスト、二人がお互いに告白する場面なんだけど」
結局、お互い大丈夫、彼のことははたてに任せよう、という話に落ち着いたところで、文とアリスの話題は本題へと転換する。
今回の話題は、半月後に迫った夏祭の人形劇。例の「絵本」の話が片付き、刊行されてから、人形劇のストーリーについて本格的に話し合い始めたのだ。
といっても、「絵本」の時みたいに、固い空気で話している訳ではない。
お互いコーヒーを飲みながら語り合っていることから分かるように、どちらかといえば友人同士のような空気で、話を進めていく。基本的にはアリスが自身のイメージを積極的に活き活きと語って、文は聞き役になる。それで、アリスがふとした時に文に疑問や質問を問いかけては、文はそれについて考えて返事をして―――という具合だ。ただ、今から考えると、もしかしたらもうちょっと能動的に話に付き合ってみた方が、良かったのかもしれない。……悪かったとも、言えないが。
ちなみに、どうして私にこんな話を?と気になって聞いてみたところ、こういう話題にした方が、文自身のことももっと聞けるだろうと考えた、とのこと。まぁ、そんな気はしていたけど、とそれを聞いた文はため息をついていた……つまり、文からしてみれば、いつの間にか、アリスの策に乗せられてしまった訳だ。
けれど、結局文は、そのことが分かった今でも、こうして、アリスと話を続けている。
「せっかく夏祭りで上演する人形劇だから、お祭りの場で締めくくりたいと考えてるの」
「良いのではないでしょうか。二人にも似合っている場だと思いますし」
「けどね……祭りのどこで、二人に想いを告げさせるべきか、迷っていて」
「―――なるほど。それは重要な問題ですね」
んー、とアリスは首を傾げる。考えている様子は、とにかく楽しそうで。いつもこんな表情をしながら人形劇を書いているなら、それは良い作品が出来るだろうな、と文は感じていた。
「…何かしながら、とかが良いでしょうか」
「そうね。お祭りらしいものを出しながら想いを告げ合った方が、ムードも出る気がする」
「なるほど」
「それでいて、出来るだけあまり音の出ない、二人だけの空間、というのを作り出したいの。何か良いアイデアはないかしら?」
…なるほど。確かに登場人物の性格上、出来るだけ落ち着いた雰囲気の中の方が、想いを告げるのに適しているかもしれない。
そう頷きながら、文もぼんやり考えてみる。
お祭りの中で……二人っきりの空間になれるようなもの……ですか…
……
…………
………………
あぁ、こんな話をするから。どうしても、思い出してしまう。
夜闇の中、見慣れた朱色の鳥居が、提灯に照らされ、くれなゐにほふ。
時折聞こえてくる、神楽鈴の音は黄金色で、祭りの空気によく合っている。
あちらこちらで響く歓声。あっちでは、射的の、コルクが弾ける音が。こっちでは、水風船釣りの、ゴムが切れてしまう音が聞こえて。とてもにぎやかで。
けれど、それに構っている暇はなかった。今は、少しでも、優しい闇の方へ行きたくて、その手を引いていく。
そして、辿り着く。見えるのは、赤く照らされる鳥居だけ。聞こえてくるのは、黄金色の鈴の音だけ。互いの顔も、まともに見えないこの景色に、けれどしっかり笑いあって。
だって、ここだからこそ。こういう場所だからこそ。綺麗に見えるんだから。
一見すると、小さくて、とりとめもない、光。けれど、自分たちにとっては、何よりも美しいと感じる、そんな光。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
「…線香花火」
―――気が付けば、声が出てしまっていた。
「文…?」
「線香花火、とか。どうでしょうか」
アリスが目を丸くさせるのも構わず、胸に湧き上がる感情が高揚していく。
何重にもかかっていた鍵が、次々と開錠されていくのを感じる。
―――駄目だ、という叫び声が聞こえる。
今までのこととは訳が違う。これは、ずっと抱え続けてきた「秘密」に関わることなのだから。
孤独に背負うべき「罰」と考えて、今まで、黙ってきたことなのだから、
「それなら、静かな場所にいながら、祭りの空気も、作り出せますし―――シチュエーションも、いろいろ考えることが出来ると、思うんです」
けれど、一回堰を切ってしまった奔流は、もう、走り続けることしか出来なくて。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
神楽にまじり、夜闇に光る火花を浮かべながら。
ただ、目の前の人形師に、全てををさらけ出してしまう。
…本当に、何が自分をこうさせているのだろう。
「線香花火お互いにつけながら、何となく、落ち着いた空気のまま想いも告げ合う……とか」
『文。あなたがいるじゃない』
いつの間にか、目の前の人形師に甘えたい、と―――救われたい、と、考えてしまったのか。
この時間を経て、彼女になら、話しても良い、と、気を許してしまったのか。
「どちらかが火をつけているところに不意打ちで想いを告げて…驚きのあまり火を落としてしまう、とか」
『あの、今日、椛と見つけてきたんだけど………似合ってる、かな?』
いつの間にか、あの友人が羨ましいと、感じてしまったのか。
自分も、誰かと分かち合いたい、と―――こんな話がしたい、と、願ってしまっていたのだろうか。
「……火をつけているところを、後ろから手を差し伸べて。落ちそうになっている火を支えてあげる、とか……」
懐かしい。忘れられない。忘れるはずがない。ずっとずっと刺してきて、痛くて。けれどどんな玉珠よりも素敵な、自分の宝物のことを。
「……素敵ね」
ずっと黙って聞いていた、アリスは、ぽつりと呟く。
やっと、話してくれた。こういう話が、聞きたかった。
本当に満たされたような、その微笑みで、ぱたり、と開いていた手帳を閉じる。
「私、線香花火、好きよ」
コーヒーカップを片手に、にこり、と文に笑いかける。
「一つ一つが、派手な光を出す訳ではない。暗闇を照らす、それ程の輝きなんて、持ち合わせてはいない」
―――けれど。
「だからこそ、その光は美しい。蕾の産声をあげてから、やんちゃな牡丹を経て、若々しい松葉を表現する。そして、柳として時を経た火花を見せ、最後の最後まで、散り菊として生を全うする」
燃え尽きるまで、美しく燃えることを、決して諦めようとしない。それは、まるで。
「その火花は、命の輝きそのもの。いつ落ちても分からない、そんな短い生の中で、自分の存在を主張する。その姿が、好きなの」
そうして締めくくったアリスは、また文の方を見つめる。
見とれるような丸い目でアリスを見つめていた文は、ゆっくりと、半開きにさせていた口を、ゆっくり、緩めていく。
「…そう、ですね」
こくり、と頷く。本当に。アリスが語ったことが、線香花火の魅力の全て。文も、そう感じている。
「ほんっとう、綺麗な光で。ふとすれば落ちそうなくらい儚い、そんな空気の中で、どうしても、その火を落としたくなくて、けど落としてしまって」
もうどうしようもなく、ヘタで、ヘタクソで。ぽたり、と落としてしまうたびに、何回も、悲しい気持ちになった。胸が締め付けられる思いだった。もう、線香花火なんて持ちたくない。それが出来たら、どれほど楽だろうか。何回も、そう叫び続けていた。だけど―――
「もう、つけたくないと思っても、気が付けば、あの火花がちらついて。落ちる刹那を見たくないと、目を背けたい衝動にかられても、どうしても目を離すことが出来なくて―――」
結局、また、惹かれてしまうのだ。また、あの火花を見たいと、願って、手に取ってしまうのだ。
一目、焦がれてしまった、私にとって―――もう、あの美しい火花は、なくてはならない存在に、なってしまったのだ。
「だから、私は――――」
後にアリスは、こう語る。
「―――線香花火が…嫌いです」
あの時、文の笑みは、明らかにひび割れていた。今にも決壊しそうで、事実、目からは、つぅ、と一筋涙が流れていた。
けど―――その笑顔は、自分が今まで見てきた誰よりも、一番美しい笑顔だった―――と。
そっか―――
だからあなたは、はたての恋を、叶えてあげたかったのね。
***13***
「じゃあ。本当に、世話になったわね」
「こちらこそ……きっと、良い作品になりますから。夏祭では、頑張ってください」
会計を済ませ、カフェの入り口からちょっと逸れたところで、アリスと文は挨拶を交わす。
結局、今日の会話を通して、夏祭の人形劇の展開は、おおよそ固めることが出来た。後は舞台の設営だとか人形への振り付けをすれば良いだけなので、アリス一人ですれば良い作業になる。
「絵本」の件も、完成して良い売れ行きを記録しており、企画としては、既に完結している。
つまり、それは―――文とアリスが、こうして会うためのつながりが、今なくなってしまったことを意味していた。
「…では」
そう声をかけて、文はアリスに背を向ける。黒羽を広げ、今にも飛びたたんと、背中を屈める。
「―――文」
けれど、そんな文に対して、アリスは声をかける。
ピタリ、と翼の動きが止まるのが見て、彼女は、文に向けてゆっくりと、手を差し伸べた。
「また、吐き出したくなったら、いつでもうちにいらっしゃい」
「………」
「あなたも、前を向いて良いんだから」
「………」
ヒグラシの寂しげに鳴く声だけが、里の外れに響く。
差し伸べられた手を取る訳でも払う訳でもなく、ただ、背を向けたまま、文は俯く。
彼女が今、どんな顔をしているのか、アリスからは見えない。
けれど、アリスは伸ばした手を、引っ込めるようなことはしなかった。
「なーに、言っているんですか、アリスさん」
すん、と俯いていた顔をあげて、そんな調子の良い声で、文はくるりと振り向く。
にこにこ、と場違いな笑みを浮かべながら、驚くアリスの顔をシャッターで一枚。
「私は、清く正しい記者。誰よりも自由に空を飛び回る鴉天狗、射命丸文ですよ?アリスさんの考えてるみたいな重い話なんて、持ってる訳ないではないですか」
未だ手を伸ばしたままのアリスに、あやややや、とおかしそうにまくしたてる。
そこにいたのは、いつも幻想郷を騒がせる、お叱りなんて何のその、自由気ままな愛すべきパパラッチ、射命丸文。
けれど、今のアリスにとって、その笑顔はあまりにも寂しいものに感じられた。
青い瞳を少しだけ下に向けていると、また、刹那の沈黙が流れて。そのまま文は、くるり、と顔を背ける。
そうして、翼を広げ、今度こそ、飛び立たんとして―――
「そうそう、そういえば『絵本』の件なんですがね」
けれど、立ち止まったまま。文はまた、明るい口調でまくしたて始める。
「アリスさんも耳にされたかと思うのですが、出版したところ、本当人気で、飛ぶように売れたと貸本屋の方が喜んでいまして。他の作品も見たい、という声がそれはそれは多く出ているそうなんですよ」
俯かせていた青い瞳を、また上げる。背を向けているため、文が今どんな顔でこんな話をしているのか、分からない。
「それでですね、企画者の私としましても、これはまだまだいけるな、と感じていましてね。この件に関して、前向きに考えたいと思っているんですよ。だから―――」
そこで、調子の良い語り口は、止まって。注意して見ないと分からないくらい、ほんの微かに、顔を俯かせて―――
「―――また、お時間をいただいても、よろしいでしょうか」
しぼり出すようなその問いかけに、アリスはゆっくりと、口許を緩める。返事なんて、決まっていた。
―――もちろん。
びゅう、と一陣の風が舞う。思わず、伸ばしていた腕で顔を覆ってしまう。刹那、風がやんで、また腕から顔を覗かせてみると、鴉天狗の少女の姿は、もう、どこにもなかった。
ぱん、ぱん、と手を叩きながら、アリスは、文が飛び去って行っただろう方向を見つめる。
…本当、素直じゃないんだから。
「シャンハーイ?」
主人の様子を気遣うように、横にいた上海人形が、そう問いかける。
「ううん、大丈夫よ、上海――私たちも、行きましょうか」
アリスは、そう笑顔で返しながら、くるり、と文とは逆の方向――里の中心へと、歩を進め始めた。
―――高速で飛ぶ文が家の方に近づいていくと、戸の前に誰かが待っているのが見えた。
白い耳にもふもふとした尻尾。赤い兜巾の山伏衣装に、紅葉を散らした黒いスカート。自分にもよく見覚えのある天狗だった。
「…あ、文様」
文が帰って来たのを見て、その天狗―――椛は、不安そうな面持ちで、こちらを見つめる。
彼女も、はたての想い人が倒れたという報は、伝わっていた。
いつもはたての話を聞いてきた、椛のこと。きっと、哨戒の任務中も、気が気ではなかったのだろう。
それで、せめてたまっていた不安を打ち明けたくて、文のところまで来た―――こんなところだろうか。
本当、こう考えてみると、はたては幸せ者だ。
「―――ちょうど良かったです、椛。実は一つ、お願いしたいことがありまして」
けれど。文が話しかけると共に、椛は呆然と口を開ける。
椛の目の前には、どこか憑き物が落ちたような―――仮面でも、何でもない。どこか寂しげで、けれどすっきりとした微笑みを浮かべる、文がいたのだ。
「はたてに似合いそうな浴衣、見繕ってくださいませんか」
***14***
窯から湯気がたちのぼる。
ふつふつと鳴る黄金色の液体を、少しだけ掬い取り、口許に近づける。
…うん。おいしい。うまく出来て良かった。
はぅ、と一息つきながら、姫海棠はたては、額の汗を拭った。
「………これで、大丈夫」
数日前からはたては、熱に倒れたという想い人の家で、付きっ切りでお世話をしている。今は、彼に栄養を取ってもらうために、スープを作っていたところだ。
…本当、椛から料理も教えてもらって良かった。あの経験がなかったら、きっと今ごろ、戸惑うばかりだったかもしれない。彼女には本当、頭が上がらない。
それに、文にも――――
………
彼が倒れたという知らせを聞いた時を、思い出す。
あの時、どうしたら良いのか分からず、パニックになってしまったはたてを、文は、急に抱きしめてきたのだ。
あまりのことに、声が、出なくなる。思っていたよりこいつ温かいんだななんて、馬鹿みたいな感想だけが出て来る。
そうして、目を丸くさせるばかりで、どう反応したら良いか分からずにいると、抱きしめた耳元で、文の囁く声が聞こえる。
『行ってあげなさい』
はたては、さらに驚いた。今まで、こんな文の声を、聞いたことがなかったから。
『彼は、家におひとり…でしたね。体が弱っている時に、誰かが傍にいる。それだけで、きっと、彼にとって何よりの救いになると思います』
慌てて、はたては顔を横に向けようとする。文の表情を、見ようと試みる。
『だから、決して、彼のもとを離れないでください』
けれど、文の抱きしめる腕は、ずっと強くて。表情なんて、見ることが出来なくて。
『―――あなたには、後悔、させたくないんです』
どんな、顔、してたんだろう、あいつは。抱きしめる前、刹那、つらそうに歪んだ顔が見えた気がしたけど、正直、それも自信がない。
分かることは。あの時のあいつは、とにかく真剣で、必死だったということ。
そして、そんな文のおかげで、私は今ここにいる、ということ。
竈の火を消して、調理場から、彼のもとへ向かう。彼は今、敷かれた布団の上で、冷水に濡らされた布を額に、規則正しい寝息を立てている。
頬に手を触れてみると、まだ、熱い。その熱を感じるだけで、ぎゅっと、胸が締められるのが分かる。今にも逃げ出したい、そんな思いに、かられる。
けれど、決して、はたては彼から離れることはなかった。頬から髪へ手を移動させて、寝かしつけるように優しくなでる。
今、自分が彼の役に立てているかどうかは、分からない。正直、そこまで自信が持てた訳ではない。
けれど、少なくとも、ここにいても大丈夫なんだな、とは思えるようになっている。安心出来るようになっている。
胸の中に、ほんのりとあたたかいものが湧き上がるのを感じる。
―――…本気になろうと、思えて良かった。
…こん。こん。
「…?はーい…」
扉が叩く音が聞こえる。ここまでにも、彼の旧知の友人だという青年たちが、何人か見舞に来てくれていたことを思い出す。
また、誰か来たのだろうか。そう首を傾げながら、足早に玄関まで駆け寄る。
「こんにちは」
「シャンハーイ」
そこには、かわいらしい人形を従えた一人の少女が、優しげな笑みをたたえながら、立っていた。
「…アリス……」
アリス・マーガトロイド。あいかわらずのおしゃれで美しいその所作に、なんとなく、胸がざわついてしまう。
…そっか。アリスも、ずっとずっと、彼と個人的に仲が良かったって話だから、こういう時に、来て当たり前だもんね。
そう、頭では分かっていても、もやもやは、収まってくれなくて。
「彼が熱にかかったと聞いて、お見舞いに来たの。今、大丈夫かしら?」
「あ…はい……どうぞ…」
そんな場合ではない。今は、彼のことが優先だ。アリスは、純粋に彼を心配して来てくれたんだから。
はたては、傍にいた人形から果物の入った籠を受け取ると、アリスを中に入れる。わぁ、良い梨だ。とてもおいしそう。
アリスは、勝手知ったるとばかりに、まっすぐに彼の寝室まで向かう。そうして、眠っている彼のもとに正座する彼女を横に見ながら、はたてはお茶の準備をした。くいくい、と裾が人形に引っ張られる。どうやら手伝ってくれるらしい。ありがとう、と撫でれば、すぐにてきぱき動き始めた。
また、胸が締め付けられるのを感じる―――本当、ここのこと、よく知ってるんだ。
「――良かった。見たところ、大丈夫そうね」
そうしてお茶を運んで来てみれば、アリスは彼の穏やかな寝息を見て、そう、ほっとしたように呟いていた。
湯呑を手渡すと、ありがとう、というお礼を耳に、はたてもアリスの横に座る。
そういえば、アリスとこうして一対一で向き合うのは、はたてにとっては初めてのことだった。
人形劇など、たまたま会ったり出来れば、彼の方から話しかけるため、会話の機会はあるのだけど、それもほんの数回、出来たとしてアリスは忙しそうに早々に後にしてしまうため、短かな時間である。近頃は、ちょっと特殊な事情で文が頻繁にアリスと会っていることを知ったため、文を通してアリスについて聞かせることも考えたのだが、何だか良心が咎めたのでそれもしなかった。
つまり、はたて自身は、結局アリスについて、ほとんど分かっていなくて。うまく表現出来ない緊張感が、彼女の胸に湧き上がる。
「うん…もうだいぶ、熱も引いてきたみたいで。数日したら回復するみたい」
「そう。夏祭は、問題なく行けそうね。良かったじゃない」
「?」
「彼とまわるんでしょう?」
ふふ、とちょっといたずらっぽく笑いながら、アリスははたての方を見る。
「夏祭、新作の人形劇を見せに行く予定なの。もし良かったら来てね?」
「うん。その、今さらだけど―――いつも楽しく、見させていただいてます」
「どういたしまして。今回のは自信作だから、期待してちょうだい」
「分かった。彼が起きたら、伝えておく」
…なんだろう。何の問題もなく、話せてる。ずっと抵抗感を持っていたから、もっとぎくしゃくするかな、と思っていたのに。
「そ、そういえば…絵本も読ませていただきました」
「あら、ありがとう。どうだった?」
「うん。そこまで作品見たことなかったけど、今の作品とは雰囲気微妙に違ってて、面白いなって。例えば―――」
数分前の緊張はどこへやら。
まるで、長年の友達と話しているかのように、気分が高揚してきてる。
気が付けば、自分から話題を切り出したり、語り出したり出来るようになってきてる。
「ふふふ」
「…はっ、ごめん。好き勝手話しちゃって」
「全然。むしろ、こういう話を聞けるのは、本当に貴重だもの。良い参考になるわ」
今さらになって、ちょっと恥ずかしくなって、顔を赤面させる。
アリスはそれにも構わず、むしろ感心したように頬を緩める。
「すごく具体的で、鋭い知見に満ちていたわ。彼ともよく、そういう話、語り合ったりするの?」
「まぁ……あ、後、最近新聞で書評を書き続けてるから……その影響もある、かも」
「へぇ、書評を。あなたの書くもの、とても気になるわ。夏祭の時にでも、持って来てくれるかしら?」
「うん…ありがとう」
褒められているというのにどこか縮こまってしまうはたてを見ながら、アリスはにこにこと微笑みを絶やさない。
ふと、そんなアリスの様子が気になって、聞いてみることにする。
「すごく、楽しそうに話すのね、アリス」
「それはもう。なんだか、すごく懐かしくなって」
「懐かしい?」
アリスの返事に刹那、首を傾げて。けれどすぐに、あ、と気付く。
だって、こういう話をはたてといつもしている者が、すぐ傍にいるのだから。
「―――えぇ。彼とも、よくこういう話をしていたの」
そうして、穏やかな笑みのまま、寝息を立てる彼の髪を、優しくなでる。
なぜだか、はたてにはそれを止めようとする気持ちは起きず、ただ、アリスの気の赴くままにさせていた。
「本当に、昔から変わってない」
ふふ、と微笑みながら、アリスは語り出す。
「ファンタジー作品が好き。枝豆と玉葱を入れたドライカレーが好き」
人形劇の語り手をしている時のように。とにかく優しく、ゆっくりゆっくり。その語り口は、聞いているはたてをも、魅了させる。
「馬鹿みたいに優しくて、お人よしで。何も悪くないのに、一人で背負っちゃって」
まるで、一つ一つの言霊が、虹色の色彩を持っているかのように。光る粒となって、はたての胸に届く。
「…時々、ふとこっちが恥ずかしくなること言ってきたり、とか」
「そうそう。無意識に言ってくるんだもの、こっちの顔が熱くなって仕方ないわ」
気が付けば、はたてもつい、声に出してしまって。それに対して、アリスも拒むことなく、返してくれて。
「―――手先が決して器用ではなくて、よくものを落としたりして」
「けど、なぜか絵を描くのはうまくて」
「うん。知れば知るほど、なんだか不思議な人。―――…けど、」
「「そういうところが、良い」」
そうして、最後に声がそろう。そのことが何となくおかしくなって、ぷっ、とお互いに笑いあう。
なんだか、とっても穏やかな気持ちになる。
もやもやした嫉妬なんて、とうに消え去って。そんなさっきまでの自分が恥ずかしくなって。
今は、アリスに対する温かい親しみだけが、胸にこみあげてきていた。
「アリスは…さ」
そうして、話を続けて、アリスのことを、ちょっとは知ることが出来たところで。はたてはまたぽつりと、アリスに話しかける。
「もう彼と、長い付き合いなんだ…よね」
「まぁね。羨ましい?」
「…別に。けど」
「けど?」
「ちょっと、気になる」
素直でよろしい、といたずらっぽく、アリスは笑う。何となくからかわれた気がしてはたてが顔を赤くさせていると、すくり、とアリスは立ち上がって、調理場に歩き始めた。
「…彼と出会ったのはね、私が人形劇を始めて、本当、すぐの時だった」
かちゃかちゃ、と、持ってきた鞄から何かを取り出しながら、アリスは語り始める。
―――アリスが人形劇を始めたのは、十年ほど前のこと。
当時から、自律する人形の研究を続けてきていたアリス。道のりが長いながらも、人形を自分の指示で自在に動かせるまでに成長させることが出来ていた。そして、そんな人形たちの姿を見るたびに、ふと、考えることがあった。
もし自分の研究が成功して、人形たちが、自分の意志で動くことが出来るようになったとしたら。彼女たちは、どう過ごしていくのだろう、と。
もちろん、出来るだけ、自分がお世話をしたい、という気持ちはある。けれど、中には、独り立ちして、旅立とうとする子だって、出るかもしれない。それに、私との生活の過程であっても、他の人妖と関わる機会というのは、きっと出て来る。
もしかしたら、気休めにしかならないかもしれないけど。出来ることなら、人形たちにたくさんの景色を見せてあげたい。いろんな体験を、させてあげたい。けれど、自分の生活範囲だけでは、どうしても限界がある。ならば、何が出来るのか―――
そう考えた時に、アリスが辿り着いた考えが、人形劇だったのだ。
人形劇なら、シナリオを通して、様々な経験を人形たちにさせてあげられるし、様々な人たちと、出会わせてあげられる。それに、もしかしたら、劇みたいに緻密な動きが求められるなら、人形に関する魔法にも、何かヒントが得られるかもしれない。
考えれば考える程、良いこと尽くしだった。だから、アリスは早速物語を書き上げて、里の片隅で、人形劇を演じ始めた。
―――けれど…
「お話なんてきちんと作ったこともなかったから、最初は、本当に人が来なくて――それどころか、人形がこうして動いているのを、気味悪がられちゃったりもした」
からから、と何かを入れる音を鳴らしながら、悲しげに、アリスは微笑む。
考えてみれば、当たり前だった。何も考えずに、ほとんどやっつけで書き上げた話、避けられたりしたところで、誰も悪い訳ではないのは、明らかだったのだ。むしろ、話半分にちょっとでも聞きに来てくれただけ、ありがたい話だった。
けれど、まだ幼かった自分には、それは受け入れられない事実だった。むしろこうして人形たちが疎まれるなら、人形劇なんて始めない方が良かった、とすら思った。もうやめたい、と何回も何回も思った。
だけど。その度に、頭をよぎる、顔があったのだ。
「…そんな中で、彼は、欠けることなく見に来てくれた」
その姿を初めて見たのは、最初に人形劇を上演していた時のこと。最初は、ふと見て、気になって、つられて来た、という感じだった。それで、人形劇が終わってみて、誰もいないと思って、肩を落としていたその時。人形の背に合わせて屈んで、彼女たちに挨拶をしている、彼の姿があったのだ。
当時は、ただ、彼が優しいから、気休めのために残ってくれたと思っていた。だけど、彼は次も、その次も、アリスが事前に告知さえしていれば、いつでも最後まで聞いてくれたのだ。
気になって、彼に、なんでいつも見に来てくれているのかを聞いてみた。ただの薄っぺらい優しさだったら、もう虚しくなるから来ないでほしい、と返すつもりだった。それくらい、あの時のアリスはやさぐれていたのだ。けれど、彼は。
「私の人形劇の良いところを、何の躊躇うこともなく、話してくれた」
語りの声がとても優しくて、いつまでも聞いてられると思った。人形に舞台がとても精巧に作られていて、本気で作っていることが分かった。何より、人形たちをこよなく愛していることが、とても伝わって来た―――と。そうして、ただ呆然としているアリスに対して、自分が最初のファンになるよ、と告げてきた。
「きっと、人形劇が成功する時が来るから。その時に、自分が最初のファンですって言えたら、誇らしいじゃん、って―――そう、いたずらっぽく言ってくれたの」
あの時の、人懐っこい琥珀色の瞳は、今でも覚えているわ、とアリスは微笑む。
かり、かり、と何かを回す音を聞きながら、はたてはただ、恍惚とした表情で、アリスを見つめていた。
あぁ、そうだ。そういえば、初めて彼がアリスの人形劇に連れてってくれて、面白い人形劇だったねってはたてが褒めた時―――どこか、得意げな表情で、そうでしょう、と返してくれたことがあったっけ。
あれは、そういうことだったんだ、と今さらながらに納得して、頷いていた。
その時から、アリスは再び、人形劇に向き合うようになった。それに伴い、彼とも、度々、話を交わすようになった。
彼の手に引かれて、貸本屋に連れてってもらって、目を輝かせたこともあった。
そうして借りたたくさんの本を、カフェで互いに読んで、何か良い表現はないか、とか、唸ることもあった。
人形劇そっちのけで、好きな作品について語り合って、いつの間にか、日が暮れてしまっていたこともあった。あの後は、親から怒られちゃったとか、茶化してたっけ。
―――本当に、充実した毎日だった。人形劇を考えるのが、演じるのが、そして彼といるのが、たまらなく楽しかった。
その日々を経て、最初は相手にもされなかった人形劇にも、だんだんと人が集まるようになって、そして―――
「―――…彼がいたから、今の私がいるの」
回す手を止め、手を重ねるアリスの笑顔を、素敵だ、と素直に思えた。
「……本当だ」
はたても、自分の手を合わせて、嬉しそうに呟く。
「本当に、何も変わってないんだね、彼」
ずっと寄り添ってくれて、潤いをくれる、あの優しさのまま。いつも見せてくれる穏やかな琥珀色の瞳を思い出しながら、自分の胸も熱くなっていくのを感じた。
あぁ、本当に。これだから、私は、彼のことが好き。
そして、それはきっと――――
「―――アリス」
「うん?」
「アリスは…伝えないの?」
「何を?」
何って、と刹那、声を詰まらせて。けれど、意を決したように、アリスの方を真っ直ぐに見つめる。
「彼に……自分の想いを」
そのはたての質問に対し、けれど、アリスは寂しそうな笑みをたたえ…ゆっくりと首を横に振る。
それがあまりに衝撃的過ぎて、思わずはたては立ち上がった。がたっと大きな音が響いて、あわや、彼が起きてしまうか、という程に。
「どうして…」
「あら。おかしなことを聞くのね?」
「―――っ。だって」
衝撃を通り越して、どこか怒りすら、湧き上がるのを感じる。
あんなに、彼の好きなものを、彼の魅力を、嬉しそうに語ることが出来て。
あんなに、彼との思い出を、楽しそうに話すことが出来て。
聞いていたら、どれだけ彼のことをアリスが想っているか、分かる。
はたては、彼のことが好きだ。出来ることなら、誰にも負けたくない。誰にも、渡したくない。そのために、決意を固めたつもりだった。
けれど、それと同時に、アリスに負けるなら、それは本望だ、とも考えるようになっていた。だって、彼女は、自分よりもずっと長い間、彼のことを想ってきたのだから。ずっとずっと、もしかしたら自分なんて足もとにも及ばないくらい、彼の存在がアリスの中で大きくて、彼のことを、強く愛していることが伝わって来たのだから。
そんな彼女が、彼のことを簡単に、諦めるなんて、あってはいけない。もし、何か表に出すのに障壁があるのなら、それを自分も一緒になって、振り払ってあげたい――それがたとえ、はたてのことだったとしても。
「ふふ」
けれど、アリスはただ嬉しそうに、けどやっぱり寂しそうに、笑うだけ。
「…優しいのね、はたては。そういうところ、彼にそっくり」
座って、と落ち着いた声をかけると、また、かりかり、と何かを回す音を、響かせる。
納得の出来ない感情を抱えながらも、はたては、彼女の言う通り、のろのろと腰掛ける。
「…人形劇の活動が軌道に乗ったくらい…だったかな」
しばらく経って、アリスはまた、語り始める。さっきまでとは違い、その顔は、はたてから見えない。
「人形劇しに里へ出たら、彼の姿が見えない時があってね」
逆光になって、眩しい。それすら、眼前の少女の、悲しげな美しさを、際立たせているように感じた。
「今までそんなことなかったから、彼とたまに一緒にいた子に聞いてみたらね…彼、熱で倒れたんだって。だから、劇の後にお見舞いに行ったの」
いつの間にお湯を沸かせていたのか、人形がふわふわと、アリスのもとに薬缶を持ってくる。ありがとう、とお礼を返しながら受け取ると、細い注ぎ口からくるり、くぅるりと、お湯を注ぎ始めていくのが見えた。
「その時は、彼は起きていた。それでほっとして、いつもみたいにとりとめのない話をして…そしたら、彼がふと、その日に見せた人形劇が見られないことを残念がったものだから、特別に、見せてあげることにしたの」
…けどね、と、アリスはここで、お湯を注ぐ手を止めて、薬缶を置く。
刹那の躊躇いの後、消え入るような声で、続きを呟く。
「―――手、震えてた」
はたては、はっとする。逆光のせいか小さく見えてしまうアリスの背中に、目が釘付けになる。
知っている。はたては、アリスが感じた、この心細さの正体を知っている。
「人形を並べて、いざ語ろうと思った時にね―――声が、出なかったの。今まで体験したことのない恐怖感が、襲って来た」
まるでしぼり出すように独白するアリスに、はたてはきゅっと胸が締め付けられるのを感じる。
やめて。もういい。私が悪かったから。それ以上、話さなくても良いから。
「訳が、分からなくて、混乱した。こんなこと、今までなかったから。けど―――永久とも思える程長い、けれど短い時間を経て、やっと、私はその正体を知ることが出来た」
けれど、アリスは話すこともやめない。はたても、決して耳をふさぐことはしない。ただ、彼女の決死の独白に、耳を傾ける。
「―――『もしかしたら、これが彼に見せる、最後の人形劇になってしまうかもしれない』って」
刹那、沈黙が流れる。はたての目が、見開かれるのが分かる。瞬きすら、忘れてしまう。
そして、その時。彼女が、彼に想いを告げないと決意した、その悲しい真意が、どこかで、かちっとつながった気がした。
「馬鹿だった。彼がその時軽い熱だったという話は聞いてたから、そんな訳ないって。すぐにまた元気な姿が見られるって、分かっていたはずなのにね」
無理に、とも見える明るい声を出しながら、アリスはまた、くるり、くぅるり、薬缶を手に取り傾ける。
けど、と刹那止まって、また、くるり、くぅるり。
「彼の熱にうかされた顔を…ぼぅっとしたあの目を見ると、どうしても指を動かせなくて。膨らんでいく恐怖に、耐えられなくて―――」
―――逃げ出した。
ぽた、ぽた、と、滴が垂れる音だけが、辺りに響く。その言葉が、この空間を、どうしても重々しく、包み込んだ。
セットが壊れてしまっていた―――そう、途絶え途絶えに、言い訳をして、人形たちを片付けて。そのまま、足早に、彼のもとを去ってしまったのだ。
「―――あの手の震えに、向き合う勇気が、私にはなかった」
その日は家の扉を乱暴に閉めて。ずるずる、背中をつけて、泣いた。ひたすら泣いた。
未だにしぼんでくれない、彼を想う故の恐怖に。その恐怖に負けて、逃げてしまった自分に。
けれど、それを慰めてくれる者は、誰もいなかった。打ち明けられる者は、誰もいなかった。人形すら、その時は動くことなく、ただ、落ちる涙を、頬で受け止めるだけだった。
…後日、アリスは人形劇に訪れた彼に、その日のことを謝った。彼は、気にしなくて良いよ、と微笑みながら返してくれた。けれど、それが却ってつらかった。
彼は、聡い人だった。あの琥珀色の瞳は、あの時アリスが去った葛藤も、おぼろけながら見抜いていたように見えた。現に、彼はアリスを許してくれたと同時に、大丈夫?と気にしてくれたのだ。けれど、アリスはそんな救いの手すらも、大丈夫だから、と振り払ってしまったのだ。甘える自分が、許せない、と考えてしまったのだ。けれど、思えば、あの時彼の手を取って、また泣いていれば良かったのだ―――そうしたら、まだ、間に合ったのに。
その後、満足に話すことも出来ないでいるうちに、彼は家業を継いだ。人形劇は続けていたし、その度に欠かさず来てくれるつながりは保っていたものの、その時以外に、彼と会う機会は、激減してしまった。そして、アリスも、魔法の研究を本格化させたい、と言い訳して、彼を誘うことが、ぱたり、となくなってしまった。彼と会うのを、避けるようになってしまった。
―――あの時、選択肢を間違え続けてしまったアリスには、もう、勇気を持つ術は、存在しなかった。
「…アリス…」
はたてはそう呟くも、続く言葉が、慰めの言葉が、何も思いつかない。
それは、アリスやはたてみたいな立場に立てば、誰もが感じること。当たり前の感情。
自分だって、もしかしたら、アリスみたいに、なってしまっていたかもしれない。
そう考えると、どうしてもアリスの気持ちが痛い程に響く。そんな彼女を助けられない自分が、たまらなく、情けなかった。
自分とアリスの、たった一つの違いを挙げるのなら。それは―――
「はたて。私は、あなたがとても立派だと思う。素敵だと思う」
アリスは、そこではたてに顔を見せる。心からほっとした笑顔を浮かべながら、フラスコみたいなガラスの容器を、ゆらゆらと揺らす。
焦げ茶色の液体が、湯気を立てながら、夕の光にきらきらと反射している。
「だって、ずっと、彼から離れることなく、傍についてあげていたのだから――その手の震えに、向き合っているのだから」
こんな、ひどい自分だけど。もう、彼と会うことすら、許されていないかもしれない自分だけど。せめて、彼が幸せになりますように、と願わせてください。
ずっと傍についてくれる、幸せにしてくれる、そんな素敵な願いがありますように―――そんなことを、ずっとずっと、考えていた。
人形劇に来るたびに元気そうな彼を見て、いつもほっとしていた。
そして―――数ヶ月前、彼がひとりの少女を連れて来たと分かった時。彼に対して、無邪気に笑う、そんな彼女の顔を見た時。
自分の、唯一の願いが叶ったことを、確信した。
…それだけでもう、十分だった。
だから、とアリスはその液体をカップに注ぎ、はたてに手渡す。
その焙煎された良い香りは、はたてもよく知っているもの。ここ最近、はたてが好きになった飲みものだった。
「―――ありがとう、はたて。…彼のこと、よろしくね」
その、あまりにも幸せそうな、安心しきった笑顔に、はたては、口を結ぶことしか出来なくて。
そのまま、何も話せぬままに、それじゃあ、とだけ告げて、アリスは去ってしまった。
「………」
残されたのは、労うように白く優しい湯気を立てた、手元のコーヒーだけで。
夕光が窓から射す中で、はたては、くぃ、とカップを傾ける。
「…あったかい」
ぽろ、ぽろ、と、自分のつむった目から、涙がこぼれだしているのを感じる。
その祝福の証は、あまりにもほろ苦くて、切ないものだった。
「―――あ、起きた?体の調子、どう?」
「…そっか、良かった……おなかすいたでしょう?スープ作ったから、あたためてくるね」
「…………」
「―――ごめん。ちょっと、良いかな」
「聞きたいことが、あるんだ」
***15***
それからさらに三日経って。日も暮れかけ、夜の帳が下り始めたころ。はたては、涼やかな空を飛んでいた。
もう、天狗の居住地が、視界に入っている。ちょっと離れていただけなのに、随分と、懐かしく感じられて、小さく苦笑する。
そう感傷に浸っている間に、目的の家に着いて、ゆぅらり、と着地する。
本来だったら、まっすぐ、自分の家に帰るべきなのだが、その前に、あいつにだけは、報告しておこう、と思ったのだ。
こん、こん、と戸を、叩く。名前を、呼びかける……けれど、返事がない。もしかして留守だろうか、と戸を引いてみると、驚くことに、あっさりと開いた。
開いた隙間からは、ほのかな光が、差し込む。…なんだ、あいつ、意外と不用心だな。
そんな抜けているこの家の主を思い浮かべながら、何の躊躇もなく、はたてはその家の中に入っていた。
また、呼びかけてみるも、返事がない。ちら、といつもいる部屋を覗いてみると、そこにも、家主の姿がない。相変わらず、あまりものを置くことをしない、シンプルな部屋。
数日前には蕾だった花瓶の桔梗が、すっかり、満開になっていることに気付く。ほのかな電燈が照らす文机の上には、何かの原稿が、文鎮を重しに、綺麗に積み上がっている。
文机を見つめていると、ふわり、風が吹いて、ぱらぱらと紙がめくれた。障子が開いているのか、と、はたては、ひたひた、と畳の上で歩みを進める。
―――いた。
柱から覗きこむと、この家の主―――射命丸文が、縁側に座って何かを手に持っていた。
文――と声をかけようとして、はたては、伸ばしていた手を止める。
文は、赤い瞳を下に向けながら、ぱちぱちと火花を散らしている、小さな朱色の灯を持っていたのだ。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
宵闇の中で、火花が散る。蕾だった灯が、ゆらりゆらり、雅やかに開花していく。
微かな風と共に、朱色の火が、小さく揺れる。しがみつくように、火花は勢いを増して燃え続ける。
手が、時々、震えているのが分かる。それでもただ赤い瞳は灯を見つめ、落とさないと意識を集中させているのが分かる。
はたてはその様子を、ただ固唾をのんで見守っていた。生きようと燃え続ける灯に、目を釘付けにさせながら、ぐっと拳を握りしめていた。
なんだろう、こうして見てみると―――すごく、画になるな。
文と線香花火って―――こんなにも、合うんだ。
「あ…」
そう声を出したのは、どちらだったか。
ほんの少しの手の震え―――それが伝わると共に、燃え続けていた火花は、ぽとり、と紐から落ちてしまった。
はたては、しばし、火が落ちて、消えてしまった地面を見つめ―――そして、文を見つめる。
文の顔からは、失望は見えなかった。むしろ、諦めに近い、けれどどこか愛おしげな微笑みだけを、浮かべていた。
まるで、こうなることが分かっていたような。無駄だと分かっているけど、続けずにはいられないような。
写真立てに入っていた、文の姿を思い出す。
あの写真でも、文は、線香花火を持っていた。ただただ楽しそうな、純粋な笑みだけを浮かべて。
ちくり、と胸を痛みが刺す。文に過去、何があったのかは、分からない。きっと、今後も教えてくれることはないだろう。
けれど―――おこがましいかもしれないけど。今なら、彼女が感じている痛みだけは、ほんの少し、分かるような気がした。
「―――文」
「…はたて、ですか」
沈黙にこらえきれなくなって、はたては文に声をかける。
急な訪問者であるにもかかわらず、文は全く驚いた様子も見せず、はたてに座るよう促した。
涼しい風が、少し離れて隣り合う二人を、優しくなでる。
「彼は、もう大丈夫なのですか」
「うん。熱もなくなって、もう問題ないって」
「そうですか。それは良かった」
心からほっとしたような笑顔で、文は呟く。
そんな文を横目で見ながら、はたてはぎゅっと、体育座りにしていた膝を、胸の方に寄せる。
「…彼さ」
「はい」
「自分が治ったばかりだっていうのに、私にずっと迷惑かけたこと、気にしててさ。お返しでゆっくり休んでもらいたいからって、いきなりはりきっちゃって」
「………」
「馬鹿だよ…本当に、大馬鹿。そんなすぐに無理しようとしちゃってさ…ぶり返したら、どうするんだっての」
―――本当、ほっとけない。
好きでしたことなんだから、そんなの、気にしなくて良かったのに。優しすぎるあまり、時々、自分のことすら顧みずに動いてしまう。
自分のためにそうしてくれると考えたら、顔が熱くなるけど―――どうしても、それ以上に胸が締め付けられる―――
「ほっとけないのは、お互い様だと思いますが」
はたてを横目で見ながら話を聞いていた文は、ため息をつきながらそう返してくる。
「へ?」
「あなたは本当に化粧が下手ですね。顔色悪いの、隠しきれてませんよ?」
「え!?マジ!?」
「マジです。とりあえず髪だけ梳いてあげますから、こっちに座りなさい」
文は立ち上がると、そのままはたての腕を引っ張っていく。
どうせ寝てないんでしょう、とか、あなたも彼のことは決して言えませんからね、などと小言に恥ずかしくなりながら、はたても文に従って手を引かれる。
そうして、畳の上に座布団を敷くと、文ははたてを正座で座らせ、リボンを綺麗にほどいていく。
そして、ブラシを手に、腰まで届くその栗色の髪をゆっくりと梳く。
度々小言の棘が刺さるのに対し、梳いてくれる手つきはとても柔らかくて、気持ち良かった。
何だか、眠くなってしまいそう―――というところで、ぴたり、と刹那、手が止まる。いつの間にか、小言も止まっていたことに気付く。
「―――彼に、想いを伝えるのですね」
短い、けれど長く感じられる沈黙の後、そう文が問いかける。
はたては、緊張を改めて噛みしめるように、きゅっと口を結んで―――
「うん」
けれど、躊躇うことなく強く頷く。
「夏祭で会った時に、告白、する」
「そうですか」
また、髪を梳く手が動き始める。心なしか、さっきよりもさらに手つきがゆっくり、優しくなったように感じられる。
「…改めて忠告しましょうか、はたて」
そんな手つきからは反対に厳しい声音で、文はまた問いかける。
「我々天狗と、人間では、生きられる時間に大きな隔たりがある。だから、どうしてもいつか『別れ』という避けられない時がやってきます。そして―――そこからずっと、長い長い時間、あなたは彼との記憶を引きずることになるでしょう」
「……うん」
「今なら、まだ引き返せます。それでも、彼と添い遂げることを、あなたは選ぶのですか?」
はたてからは、文がどんな表情をしているかは見えない。けれど、きっと真っ直ぐ、こっちの返事を待ってくれているのだろう。
ちょっと前だったら、分からなかった。きっと、そんなこと考えたこともなくて、そのまま、曖昧に返事をしていただろうと思う。
けれど、あの時間を経て。ずっとずっと引きずってしまう者たちの、想いに触れて。考える時間を、手に入れることが出来て。はたては揺らぐことのない決意を、固めることが出来た。
「―――うん」
彼と過ごせる時間は、自分からしたら、限りなく、短いものなのかもしれない。
そう。例えば、燃えている線香花火を見られる、その時間くらい。
けれど。なら、その刹那の刻を、後悔しないようにしたい。その美しく火花を散らす灯を、咲き誇る一輪の灯を、落とすことなく。
―――ぱちぱち、ふわり。ちらちら、ふわり。
強い風が、吹くことだってあるかもしれない。自分の手が震えてしまうことだって、あるかもしれない。けれど――そんな時も、決して折れることなく、支え続けてあげたい。あの細く儚い紐を、強く握ってあげたい。
そして、散り菊の最後のひとひらまでが空に消えていく、その時が来たら―――ただ、笑ってあげるんだ。
その線香花火を持っていた時間は。景色は―――何よりもかけがえのない、幸せなものだった、と。
橙の電球が映るはたての瞳が、刹那、鋭く光る。正座する膝に置かれた拳が、きゅっと握られる。
そんな微かな変化に、文は気付いて―――敢えてそれに、触れることはしなかった。
「…そうですか」
それだけ返すと、髪を梳いていた手を、また止める。
急なことに、きょろきょろ辺りを見回そうとした落ち着かない頭を、それとなく前に向けさせて。栗色の長い髪の一点に、手を添える。
「…んっ、何?くすぐったい」
「良いから、ちょっと動かないでください」
体をよじろうとしている少女にぴしゃりと言い放ち、背筋を伸ばさせる。そうしてしばらく髪の部分をいじって――しばらくして手を離すと、手鏡をはたての顔の前に持ってきた。
そこに映っている自分を見て、はたては思わず目を丸くさせる。
「これ…」
「…私から、ちょっとした『おまじない』です」
鏡に映っている文は、そうして、ゆっくりと笑顔を浮かべる。
一輪の小さな桔梗の髪飾りが、栗色のつややかな髪に咲いていたのだ。
「夏祭、頑張ってくださいね」
文が、鏡を持っていない手を、ぽん、と肩に乗せて来る。あぁ、そうだ。こいつの手は、体は、意外とあたたかいんだった。
「―――綺麗」
桔梗の髪飾りを愛おしげに触れながら、はたては、ゆっくり、唇を綻ばせる。
何よりも可憐で、純粋で、けれど凛としているその紫色は、決意を固めたはたてを、強く包み込んでくれていた。
「文」
「なんでしょうか」
「ありがと。文がいなかったら、きっと――ここまで来れなかった」
…………
「そういうのは、告白が成功してから言いなさいな」
「う…成功するの、かな…」
「今さら何なめたことぬかしてるんだか―――良いですか?『おまじない』は漢字では『お呪い』と書くんです。成功しなかったら、その髪飾りがあなたを祟りますからね?」
「はぁ!?ちょ、なんてものつけてくれてるの!?はーずーしーてー!」
「駄目です。それ、そもそも告白が成功するまで外せないよう、霊力がかけられていますし」
「~~~!?!?あー!!!やっぱ文になんてお願いするんじゃなかったぁーーー!!!」
―――ちなみに後で家に帰って恐る恐る試してみたところ、あっさりと、髪飾りは外れたそうな。
***16***
「…すごい、わね…」
「シャンハーイ」
屋台の影から、集まっている人だかりを見て、アリス・マーガトロイドは驚嘆の声をあげる。
全ての準備を終えて、迎えた、夏祭り当日。上演する予定の場所にアリスが訪れてみれば、もうそこには、ものすごい人だかりが出来ていた。
夏祭は、人妖が分け隔てなく祝う祭礼。この夜に家にこもってしまう者は、幻想郷ならば滅多にいない。だから、例年でも人形劇を開くと聞くや、多くの者たちが集まっていたものだった。
けれど。今年の集まり方は、違う。この集まり具合は、例年と同じでは、決して説明出来ない。
思い当たることといえば―――
―――ぱさり、と、鞄から紙の束を取り出す。そこに書かれていたのは、とある鴉天狗が、自分のためだけに書いてくれた記事。
独占インタビューと称したアリスとの対談が抄出され、さらに文自身が考えるアリスの作品の魅力に「絵本」の紹介、そしてこの夏祭での作品の宣伝まで、まるまる一面使って記されていた。
そこに、誇張なんて一切ない。ただ、そこにあるのは、ほのかな思慕を胸に秘めた一人の芸術者に対する、敬意だけ。
―――本当、ここまでしてくれなくても良かったのに、とアリスは紙面をなでる。
誰よりもふざけているように見えて、時々、誰よりも真剣に、相手と向き合って。
あの天狗―――射命丸文の積み上げてきた生き様さえも、その記事は反映していた。
ふっと微笑みながら新聞を鞄へとしまうと、また、集まっている人だかりに、視線を向ける。
「あ……」
思わず、声が出てしまう。
―――こんなにも、たくさんの客が集まっているのに。真っ直ぐ、彼女の姿が目に入る。
小さな桔梗の髪飾りをつけた栗色の髪を垂らし、矢羽根文様の紫の浴衣を着こなした、一人の少女がいた。
浴衣の左袖を辿れば、その手は、琥珀色の目をたたえた、少年の手とつながっていて。そのまま、開演を待つ舞台を、まっすぐとした目で見つめている。
……二、三日前だったか。あの少女が、急に自分の家を訪れたのは。
まさかの来訪に驚く私に向けて―――さらに、目を丸くさせるような、説得をしてきたのは。
あまりのことに拒否しか出来なかった自分に、決して折れることをせず、問いかけ続けてきたのは。
―――ただ真っ直ぐに、躊躇うこともなく、ある「事実」を告げてきたのは。
『―――ずっと、待っていますから』
その「事実」を聞いて、ただ呆然とすることしか出来なくなったアリスに対して、こう、はたては決意表明する。
冗談、だと思っていた。けれど、目に宿る光が、その説得が本気であることを、物語っていた。
『その時が来たら、私、受けて立ちます』
彼女は、聡い天狗だ。きっと、分かっているはずなのだ。この説得が、アリスを逆に縛ってしまう選択肢になるかもしれないことなんて。
これで良かったのか、この方法で正解なのか、分からなくて、分からなくて、葛藤し続けて。
それでも、これが最善だと判断して、救いの手を差し伸べずにはいられなかったのだ。
彼の、幸せのために。そして――私の、幸せのために。
それが、姫海棠はたてという、強い少女だった。
『あなたも、前を向いて良いんだから』
あの夕暮れ、自分が文に手を語りかけた時のことを思い出す。
なんて、ことだろう。まさか、こんな形で返って来るなんて、考えてもみなかった。
…本当、馬鹿だ。大馬鹿だ。もう諦めたのだ、と。そう、落ちるのを受け入れていたのに。
まさか、まだ私の腕を、つかもうとし続けてくれていた、だなんて。
「シャンハーイ?」
「大丈夫よ、上海」
くすり、と微笑んみながら、上海の問いかけに、力強く返事をする。その小さな手の中にある一輪の向日葵が、アリスの青い瞳に、強く焼き付けられる。
―――さぁ、行くわよ、みんな。
「アリス・マーガトロイド最高傑作の人形劇、絶対に成功させましょう」
***17***
「―――うまく、いったみたいですね」
「えぇ。きっと、もう大丈夫です」
―――夜、微かな燈火に照らされた、山の上。そこから、祭りに輝く里を見下ろす、二人の影。
影たちは、互いに視線の先にいる二人の姿を見つけると、そう呟いて、満足げにうなずいた。
「ありがとうございました、椛」
双眼鏡をおろした射命丸文は、横で立っていた犬走椛に、そう語りかける。
「あなたがいなかったら――あの子は、きっと、ここまで幸せにはなれなかったでしょうから」
まさか文からそういう礼が聞けるとは思わず、椛は千里眼を止めて文に目を向ける。
二人の門出を、素直に祝福しようとする、穏やかな顔つき。そんな滅多に見れない文の一面が見れて嬉しいはずなのに、どこか切ない気持ちが、自分の中で残っているのを感じる。
「―――今一度お聞かせください、文様」
うん?とこちらを向く文に、椛は再度、まっすぐに問いかけてみる。
「どうして、はたてさんの恋を手伝おうと思ったのですか」
その質問に対し、文は刹那、ぽかんとしたように口を半開きにさせて。
そして、すぐに穏やかな微笑みを向けると、ふい、とその顔を椛から逸らした。
椛は、鋭い瞳を、小さく見開く。あの時―――はたての浴衣を見繕うようお願いした時と、同じ、微笑み。
「だから言ったではありませんか」
いつも皆に見せるような、調子の良い声音で、そう返事する。背けた顔には、いつもの、あのむかつく笑みを見せているのだろうか。それとも―――
「記者として、こんな良い話を見て見ぬふりは出来なかった。それだけですよ」
「………」
椛は、しばらく、夜風になびく文の姿を、じっと見つめると、ただ息を吐いて「…そうですか」とだけ返事をした。
また、祭りの灯りを見つめる。棒立ちになったまま、拳を、ゆっくりと握る。結局、今の椛には、ここからさらに踏み込んで聞くことは出来なかった。
けれど、調子の良い返事をする前に見せた、あの微笑み――それを見れただけでも。ほんのちょっとだけ、文のことを知れた気がして、胸にあたたかな気持ちがこみあげてきた。
「だから、もう良いですよ、椛。あなたも、祭りを楽しんで来なさいな」
いつの間にか接近していた文が、ぽん、と、椛の頭に手を置く。
あなただってご友人とまわりたいでしょう。話は皆さんに通してますから、と語ってくれるその手は、思いのほか気持ち良くて。
けれど、その手は、すぐに離れてしまっていて。から、から、と下駄の音も遠ざかっていく。
「―――では。私は、これから行かなければいけないところがありますので」
椛が立ち上がって、下駄の音の方に向くと、背を向けたまま、文がその黒い翼を広げる。
その顔は、やはり、見ることが出来ない。ただ一つ、分かることがあるとすれば―――二本の線香花火が、その左手に、握られていることだけ。
「文様」
今にも飛び立たんとする文の背中に、椛はよく通る声で話しかける。
羽の動きを止める文を見て、椛は刹那、沈黙する。どこに行くのか、というのを聞くつもりはなかった。なんて返されるか分かりきっているし、聞いたところで、きっと自分にも何も出来ないだろう―――それは、私の役割ではないのだ。
だとしたら、自分が出来ることといえば、一つだけ。
「いってらっしゃいませ」
「―――はい。いってきます」
その、一言だけを交わすと、ばさり、という羽音を響かせて、文は空へと飛び立っていく。
山から、祭りの灯が光り輝く、その上空を突っ切って。そして、それすら通り過ぎて、ずっと、ずっと、飛び続けていく。
どんどん夜空の中に小さくなっていく文の姿を見届けて、椛はふぅ、と息を吐く。
さて、自分も祭りに繰り出そうかな。みんなどこに―――と、髪を搔こうとすると、兜巾に違和感があるのに気付く。
整えようと、兜巾に手を触れると、そこには、一枚の紙があって。折りたたまれた、その中身を見れば―――
…久々に、三人で集まって、ご飯でも食べに行きましょう。そこで、祭りであったことでも、お互いに話しましょう。そんな、他愛もない内容だった。
―――くすり、と笑う。本当、あの方は馬鹿だ。こんなことくらい、口に出して言えば良いのに。
岩から飛び降りて、にぎわう灯に向かって、走り出す。
…今は、無理でも。いつかは、来るかな。来ると、良いな。そのために、なんとか、頑張れたら良いな。
三人で、心から笑いあって話が出来る、その時を。
個人的には重要なことは真正面から書いてあるほうが好みではあるのですが、この物語の場合はあえて書かないことによって淡い恋の儚さが演出されていたように思えたので効果的であったように感じました。
異類婚姻譚ものではありますが、種族による価値観の差をあえて必要以上に描写せず、はたて、アリス、そして男性の恋愛模様が真正面から描かれているように感じました。
楽しませて頂きました。
特に好きなのは文とアリスの描写です。「また、お時間をいただいても、よろしいでしょうか」のシーンが本当にニヤニヤしてしまいましたね。
ヒグラシが鳴くあたりからのシーンの静と動の切り替わりと、去勢を張りつつ別の言葉に混ぜこむ形で本心を漏らした文の描写が効いたからこそ、胸を掴む場面効果を生んだのかなと思います。
解釈を読み手にある程度委ねたことによる味わい深さだと感じたので、特にお気に入りのワンシーンです。グッと来ました。
先述の文章の温かみと心地よくちょうど良い描写の余白が相まって、胸にじんわりと残る素敵な一作だったと思います!素敵なお話ありがとうございました!