Coolier - 新生・東方創想話

稗田阿弥の再訪

2021/09/22 20:14:54
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 いわゆる“語られざる異変”というものは幻想郷に山ほどあるが(もっともこれは正確な表現ではない。語られないという事は、それだけで異変としての要件を欠いてしまっているからだ)、それらが語られない理由は様々だ。
 たとえば、当事者が口を閉ざしているとか。
 異変の要件を満たしているにもかかわらず、関係者が黙殺したとか。
 そもそも、異常が起きている事が知られていないとか。
 知ってはいても、異常が日常として定着してしまったとか。
 しかしもっとも忌々しいのは、それの語り方を誰も知り得ない場合だ。

 正確な説明は不可能だ。私――上白沢慧音は状況を要約する事しかできず、曖昧かつ散文的な記述に徹するしかない。
 ……御阿礼の子ならばもっと厳密に記録できたはずだろう。しかし緻密な文章は退屈に決まっているし、その誠実さが正確な説明になりえるとも思っていない。彼女がその類い稀な才能を行使する事を拒んだ以上、状況の完全な復元は放棄されている。
 ある日、私は稗田屋敷を訪れて阿求をからかい、その対価として幻想郷縁起の執筆に関する相談を受けた――幻想郷の地理について書き記したいのだが、それはどれほどの詳しさで案内すれば良いのだろうか、と。
 私はしばらく考えてから答えた……ただし、からかっていた時の気分そのままで。
 君がその気になれば最も正確な地図が作れる、と言った。それは土地そのものと同じ面積を持つ、現尺の地図だ。だが、倍尺では絶対にいけない。ちょっと目が良くなった気になれるかもしれないが、地図としての緻密さはかえって失われてしまうだろう。
 いま思えば、答えを聞いた阿求は難しい表情になっていたような気がする。彼女はややあって口を開いた。そんなものを作ってしまったら、置き場所に困るでしょうね。
 そうでもないよ、と私は言い返した。地図は土地と違って折り畳めるもの。
 相手もこの答えには感じ入ったのか、珍しく大笑いしてくれた。
 その熱っぽい朗らかさはちょっとNeurose的にさえ見えたが、この微熱をおびたのぼせそのものは、春先から長く続いているものだった。あの春はただでさえ多感な季節だった。あらゆる花が郷を甘く窒息させようとしていた異変の浮つきは、良きにつけ悪しきにつけ人々の精神と肉体に影響を与えていた。私もこっそりと彼女に相談されたものだ――純粋な医学より、もうちょっと女性的な領分においてだが。
 稗田家のお抱え医者の領分では、この体調不良は季節特有の肝の昂りであろうと診断された。だがこれは梅雨に入り、季節が夏へと移行する頃には、脾が弱っていると言い換えられるようになった。
 そんな中でも、彼女は精力的に縁起編纂の準備を続けていた。観察するまでもなく、紅茶に入れられる砂糖の量は会うたびに増えていた。
 稗田家の者に尋ねてみると、作業は夜通し行なわれているらしい。といっても絶対的な記憶力を持つ彼女らしく、目に見える作業はしていない。筆も紙も使わず、ぼんやりと部屋の灯を見つめ続けているというのだ。その調子で何日も寝ていないのかもしれないともこの家人は言ったが、問題は懸念しているような不眠症ではなかった。

 幾日か後、見覚えのある人物が(もっとも、私は里の人間の顔と名前をほぼ完全に把握しているが)、里の貸本屋の店先に立っていた――稗田家の従者だ。何冊かの書物を風呂敷包みに手提げている。主人は用事を終えているはずなのに、それでも待たされている様子だ。だから店内に誰がいるのかを推論するのはたやすい。
 店の暖簾をくぐると、果たして若い稗田家当主がいて、同じくらいの年頃の貸本屋の娘と話を交わしていた。娘は私の顔を見て目を丸くした。阿求は私には軽く挨拶をしただけで、外にお供を待たせているからと別れた。
 娘も逃げるように奥に引っ込んでいき、私は店の中に一人残された。
 ちらりと壁一面の書棚を眺める。万事が無頓着なこの貸本屋は書名をいろは順に並べるだけという、極めていいかげんな分類法を採用していたが、おかげで今しがた本が抜き取られたと思しき隙間の左右の頭文字は “夢”の連なりだった。
 その単語を声に出してつぶやいたとき、それまでひっそり黙り込んでいた帳場の主にようやく声をかけられて、娘以外にもちゃんと店主がいた事に気がついた。
 適当な用事をでっちあげるしかなかったが、おかげで店じゅうの棚を確認する事はできた。そうしてみると、阿求が医学に興味はなく(だから不眠症ではない)、ただ夢と意識に興味を持っていると察せられる。
 そしてもう一つ――『浜松中納言物語』数巻のうち、中途の一冊だけが抜き取られていた。だがこの黴臭い王朝文学は何を示唆しているのか……。
 ある考えを抱きながら貸本屋を出ると、人気のない道を横切った。

 ちょうど満月だったその夜、羊が月の色を帯びた柵を飛び越えるように、私は稗田屋敷の塀を越えた。生活の光はほとんど灯っていなかった。ただ一つ明るい場所は、例によって御阿礼の子の作業部屋だ。
 そこへ向かって、低く唸るように詩を吟じた。月下独酌。すると部屋の中から手が伸びて、内へと招き寄せてきた。
 部屋で待ち構えていた阿礼乙女は意味深に笑っていた。そして私が持ち寄ったもの――アブサンの壜とそれにまつわる道具――を指差して示すと、ようやく口を開いた。
 曰く。舉杯邀明月、對影成三人とは君らしくない安直さだ、と。
 私は言い返す。安直さでいえば『浜松中納言』だって大差ない。あれは夢と転生の物語で、それ以外の示唆はありえないからだ。
 相手はニヤリと笑った――阿求の表情は、彼女らしくないちょっとEnnuiな笑顔を見せたが、私にとっては少し懐かしい笑顔だった。
 稗田阿求の顔をした稗田阿弥はその笑顔のまま、私の言葉には取り合わずに立ち上がって部屋の灯を落とした。あとには、アブサンスプーンの上で青い炎だけが闇に溶け込んでいたが、そのうち本当に溶けてしまう。
 庭先の詩吟を聞きつけたのだろう、部屋の外では家の者が主人の無事を確かめにやってきた。御阿礼の子は戸口で彼らを言葉巧みに落ち着かせて、寝床に帰してしまった。かつてはこんな夜が幾度もあった。この奇妙な逢引を私は懐かしく思う。
 とはいえ……と相手は続けた。そもそも君は彼女にかつがれているだけかもしれないよ。今、君とお喋りしている私は、先代御阿礼の子を演じているだけの稗田阿求で、君にいつもからかわれている事の復讐を果たそうとしているのかも。
 それに対して、私はそれでも構わないと答えた。
 私たちは互いの知りうる情報を手短に語り合ったが、私が知るところは彼女も知るところだったし、私の推測は彼女にとっては確信だった。
 かつて地図を作った事がある、と阿弥は言った。一度も広げられた事のない、幻想郷の完璧な地図を。その地図は私の頭の中に折り畳まれていたが、その死とともにこの世から棄却された。これが常人の死ならば、ただその人の頭にあった曖昧な構想が永遠に失われただけだ。だが御阿礼の子は常人ではなかった。その壮大な地図を広げることができる場所は、彼らの広大な脳の中にだけにあった。転生した阿求の魂のどこかに阿弥の残滓があって、彼女の緻密な地図もまた息をひそめていた。
 原因は六十年周期の異変のせいだろう、と彼女は付け加えた。私も同意見だったが、それでも安易な結論は避けるべきで、更なる検討と精査が必要だ――単純にそれだけが原因であるかは疑わしい。幻想郷縁起の編纂準備が始まった事もきっかけになっているかもしれないし、もっと肉体的で生理的な理由さえ絡んでいるかもしれない。
 そして九代目御阿礼の子は、己の夢の中で百数十年前の幻想郷の裏路地に迷い込んでいるのだろう。私たちにはどうしようもない事だった。

 それから翌未明まで阿弥と語り明かした内容は、一面的に見れば昔話でしかない。同時に、今ここで起きている話で、どこにもない話でもあった。
 阿求は、きっと百数十年前の人里の往来で私に出会うだろう。当時の私は長生きしすぎた牛のような目をして狂っていた(あるいは狂おうとつとめていた)。伸びた爪の細かな筋や、乾いて萎びた唇に刻み込まれた皺、口の周りに手入れされず浮いている産毛の一本一本――数値として勘定できる事柄のひとつひとつが彼女を竦ませるだろう。なにより耐えられないことに腹も出ていた。
 しかし阿求はその人物と同じ道行きを歩かなくてはならない。なぜならその足は稗田屋敷へと向いているからだ。そして相手の背中を眺めながら、見覚えがありつつ何もかも違う間取りを歩き、屋敷の応接間まで至ったとき、はたと気がつくだろう――自分は稗田阿弥で、彼女は上白沢慧音なのだと。
 いつ思い出しても、最低の時期の最悪の記憶だ――もっとも阿弥はそう思わなかったようだが、阿求はどうだろか。

 この最初の事件――御阿礼の子と上白沢慧音が扱った初めての事件は、とある歴史書を巡るものだ。ただし、歴史も書物も、事件の解決にはなんら寄与しない。これは私たちの事件簿の中で最も稚拙な事件だった。だから私は最も稚拙な犯人という事になる。本を盗まれたのは彼女で、盗んだのは私だったからだ。
 阿弥は奇妙な寛大さで私を許した(だが、阿求は許してくれるだろうか)。それどころか、彼女は私のために文庫を開放して、取り次ぎ無しで家に上がる事さえ許した。以降、私は胡乱な眼差しを使用人から向けられ続けたが、本当に胡乱な人物はしばしば厚顔無恥である。視線は私の心にまで突き刺さる事はなかった。
 会うたびに、私たちは歴史について語り合った……そして全ての歴史が本質的に犯罪史であることから、話題はしばしば犯罪の話へと置き換わった。当時、この里では奇妙な事件が立て続けに起きていた。そして、たちの悪い事に数多の事件が迷宮入りしていた。
 迷路遊びは好き、と阿弥は言った。根気強く立ち向かえば必ず解決できるし、記憶の参照元も豊富だから。
 あるとき、絶え間なく反復する犯罪があった。しかもそれは不可能なほどに完璧な反復だった。だから阿弥は事件の連続性を否定し、規則的な反復など起きていなかった、それはただの鏡合わせ、最初の犯人の発作的犯罪に共鳴した偏執的な別人の発作が重なっていただけだと看破した。
 たった一つの行為に幾通りもの意味が見出されて、しかもそれが全て正しい、という事もあった。阿弥は全ての意味を完璧に解き明かし、許容し、そして否定した。それはまったく意味のない犯罪だった。犯人は消滅した。
 四つの事件と四つの足跡が私たちの頭を飛び越えていったが、どれも浅はかで、単純で、その場しのぎのごまかしばかりだ。しかしその真犯人に、人間と妖怪とが同時に名乗りを上げたのは興味深い。当時、人間と妖怪の問題は深刻だった――今の幻想郷以上に深刻で、それだけにいっそう疎遠で距離が保たれていた。両者の接線は恐れと怯懦によって引かれていた。
 私と阿弥はその線引きを大きく変えつつあったが、結局、妖怪にできるいたずらは人間にも可能だし、人間に不可能な場合は自然の気まぐれに過ぎないという、あの時代の無邪気な雰囲気に影響されていただけだ。だから私たちが扱った無数の事件の大半は犯罪ですらない。最大の難事件は木の上に引っかけてしまった凧を一晩じゅう眺め続ける羽目になった事だ。
 華々しい手柄だけではなく仕損じもあった。ある謎は二通りの解決方法が存在していたが、私と彼女が解決の糸口のそれぞれ両端から出発して、その糸の中点で出会ってしまったために、手がかりごと事件が消失してしまった。そもそもなんの事件も起きていなかった。
 珍しく阿弥に怖気を震わせたとある過去の犯罪は、彼女だけが鮮明な記憶の内にかろうじて留めていたものだった。私はこれを一人で解決しなければならなかったが、求聞持という彼女の能力がひるがえって弱点でもあり、その気になれば容易く利用されうる事を思い知った――わかりきっていた事ではあったが、現実として突きつけられるのは話が別だ。
 その頃からなにかが歪み始めた。阿弥は無類の記憶力の他に、(そういった能力を持つ者には珍しいことに)奔放な想像力も併せ持っていた。しかしその二つの特質を並立させる者は、いわゆるSchizophrenie的な病質と隣り合わせだ。観察は粗探しになり、類推は病的な妄想になりかねなかった。そうならなかったのは、ひとえに彼女が冷静な分析力としなやかな精神の持ち主だったからにすぎない。彼女の他者を見つめる目は常に自分自身へも向けられていた。
 それでも破綻は訪れた。御阿礼の子は屋敷に引きこもりがちになった。そして酒や、その他の忌まわしい頽廃的な嗜好物に溺れるようになった(さらに私まで堕落に巻き込んだ)。ある時期からは明確な狂気に陥った。ある天狗が発行した新聞をしつこく収集して、その紙面からもたらされる情報だけを頼りに真実を求めた。彼女はそれが幻想郷で起こる事件の全てだと信じた(あるいは信じようとつとめた)。疲弊した彼女の脳は、世界の実情をできるだけ単純に捉えたがった。とはいえその知性のきらめきは健在で、やりとりは興味深い逆説に満ちていたが、いちいち語るようなものではない。
 阿弥の死後は全てが混乱していた。幻想郷を取り巻く諸々の政情は私には致命的に見えた(博麗大結界に対する冷静な評価は、当事者の私には不可能だ。恩恵を受けた者も損害を受けた者もいて、それは人間が、妖怪が、という問題ではない。人の数だけ評価があっていい)。
 それが稗田阿弥のみじめな晩年だ。しかし木曾馬籠の当主のように、大楠公の屎合戦をしでかさなかっただけでも、ましな狂気と言わねばなるまい。

 私たちの最後の事件と言えるものは、阿弥の死後百年以上を跨いだものだったが――しかし相手が口を開いたので、追憶が中断される。
 私の目の前には稗田阿求がいた。夜明け前の光が、彼女の子供っぽい表情をほんのわずかに照らした。彼女は酒のまずさに辟易しながらグラスの中身を飲み干すと、地図を折り畳むのに時間がかかりました、と軽く咳き込みつつ言った。

 そんな事があって、私は一連の不思議の流れを(阿求から紙と筆を借りて)なんとなくの気分で記録している。正確な記述は不可能だ。稗田阿求が記録を残す事は無いだろう。彼女が己の前世の地図の上で、何を見聞きしたのか、私はおぼろげな記憶を参照して想像する事しかできない。阿弥はなにも話してくれなかった。
 ……そういえば、彼女はなぜ私の前に現れたのだろう。
 すると、傍らでうつらうつらしかけていた阿求が、何を当たり前の事をと言わんばかりに返答する。あなたが――満月の夜に歴史を創る上白沢慧音が、彼女を呼んだに決まっているじゃありませんか、と。
 そういうものだろうか、そういうものかもしれない。
 彼女はこんな事をやって欲しかったのだろうか? たしかに私は彼女の歴史を記した。だが、こんな子供っぽい探偵ごっこから、発狂へと至るまでの道行きなど、彼女にとって恥でしかないだろうに……。
 私は残っていた酒を飲み下した。ここまで深酒をしたのは久しぶりだ。脳も舌も快く痺れている。
 徹夜明けの気だるさが部屋の中に漂っていた。この空気もどこか懐かしい。だが懐かしさというものは、鮮明であったはずの記憶の角が取れ、細部の再現を放棄し、心地良い丸みと希薄さになったときの感覚だ。私は様々なものを忘れつつある。そうなる事を求めている。
 あの頃はいつ思い出しても、最悪の時期の最低の記憶だ。

 描写はどんどん曖昧になる。
 阿求が寝息を立て始めた。
 筆を置く。
 彼女を部屋に残してそっと部屋を出ていく。
 朝陽の下に出たとき、足元の地面が誰かの幻想郷地図ではない事を願った。
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
楽しめました
3.90モブ削除
どうしても全てを理解できないもどかしさがあります。知識の不足は物語を十全に楽しめなくなってしまうんだなあと。それとも、煙に巻かれたのでしょうか。ご馳走様でした。