Coolier - 新生・東方創想話

天飛ぶ雲に

2021/08/14 20:50:44
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ひさかたの天飛ぶ雲にありてしか君をあひ見むおつる日なしに
――万葉集・詠み人知らず






「――見越入道、見越したぞ!」

明朗快活な声が響き渡り、見越入道の心を揺さぶった。
真夏の太陽が燦々と光を降り注ぐ中、山のように聳え立つ大男の姿をした見越入道の前に現れたのは、あどけない顔立ちの、しかし端っこそうな人間の娘である。見上げようとすればたちまち人を喰らう見越入道を決して見上げず、けれど見越入道から目を逸らさずにきっぱりと退散の呪文を唱えた。
数多の罪なき人間を喰らってきた見越入道、雲山は、その言葉で雲散霧消するはずであった。
しかし、どうしたことか、彼はまだそこにいた。
――何と見上げた度胸であるか!
娘の年頃は数え十三、四ほどであろう。質素な小袖に裳のような布を腰に巻き付け、頭には頭巾を被っている。世間では腰結の儀を挙げる年齢だが、背は低く頬は丸みを帯び、面には大きな目が輝いていた。まだ子供らしさが節々に残っているのに、この娘はたった一人で自分よりはるかに背丈の高い巨漢の前に現れた。彼女の眼差しも言葉も力強く、単なる虚勢やはったりではない。並の人間なら雲山相手にすぐに腰を抜かすのに、娘は臆さず怯まず対峙した。
こんな幼い娘に雲山は撃退されてしまった。数多の人間を葬り去ってきた妖怪としての矜持を打ち砕く衝撃だというのに、雲山はむしろ彼女に好しさすら覚えていた。
退散のまじないで邪気が祓われた今、彼女の肝の強さ、恐れずに立ち向かってきた勇気、見上げた度胸に雲山は感服したのである。
――叶うのならば、この身が雲が散るように消えないというのなら。
せめて己は彼女に服従しよう。
ただ脆弱で臆病なだけではない、真の強さを持つ人間がいるのなら、己が身を捧げ、生涯をかけて、彼女を守ってゆこう。それが見越入道としての矜持を失った雲山の心に差し込む希望の光であった。
雲山は娘への服従を固く心に決めた。元より頑固な気質である、一度決めたら簡単に覆さない。
いつまでも消えない入道を訝しんで、娘の表情が曇り始める。

「どういうことかしら。たしかに私は見越入道を退散させる呪いを唱えたはずなのに……」

首をひねる娘の前に、雲山は身を縮めて向かい合い、恭しくこうべをたれた。彼女の元まで首を下げて、ぼそりと喋った。

「え? 何? よく聞こえないわ」

娘は懸命に耳をそばだてる。今まで人間とまともな会話を交わしたことのない雲山は、敬意を払って娘に語りかけた。
自分はこれよりお前に従う。この命はお前のものだ。どうか自由に使ってくれ。
雲山のかそけき声をどうにか聞き止めた娘は、目を丸くした。

「……貴方、私と一緒にいてくれるっていうの?」

警戒心をたぎらせた表情が一瞬綻ぶも、すぐに引き締まる。丸い瞳を鋭く尖らせ、

「それは本当なの? 私の目を盗んで、また誰かに悪さをするつもりじゃないの? 貴方がここにいるせいで、私の村の人達は怯えて外に出られなくなってしまったのよ」

睨みつける娘に、雲山は必死に弁明する。
嘘なんてつかない。本当だ。たしかに退散の呪文は効いたのだ、己が邪気はどこかへ行ってしまった。だからもう悪さはできない。人間を喰らったりしない。

「本当ね? 人間に手を出したら許さないわよ」

ああ、八百万の神や仏に誓ってもよい。二度と人間を襲わないと約束しよう。
雲山の真剣な言葉を注意深く伺っていた娘は、しばらく雲山の本音を探るように睨み続けていた。しばしの膠着のうち、やがて、娘は満面の笑みを浮かべた。

「すごい、すごい! 退治した妖怪が私に従ってくれるなんて!」

娘は花が咲くように、無邪気に笑う。まるで陰陽師のようだわ、とはしゃいでいた。
さすがの雲山も呆気に取られた。自分から申し出ておいて何だが、娘が本当に自分の願いを聞き入れてくれるとは思っていなかったのだ。大層肝の据わった娘だが、もしかしたら変わり者なのかもしれない。

「私、一輪っていうのよ。貴方のことは、なんて呼べばいいの?」

一輪と名乗った娘は、早くも親しげに雲山に話しかけてくる。雲の山と書いて雲山だ、と答えた。

「雲山……そう、雲山っていうのね。それじゃあよろしく、雲山!」

一輪は自分の体をすっぽり包み込むほどの大きさの雲山の顔に触れようと両手を伸ばす。ところが、一輪の手は雲山に触れられずにすり抜けてゆく。

「あら? つかめない」

戸惑う一輪に、雲山は説明する。自分は入道の妖怪だ、普段は雲のように実体を持たないのだと。

「そりゃあそうよね、雲なんだもの。手でつかめるはずがないんだわ」

あからさまにがっかりした様子の一輪に、雲山はほんの少し笑った。彼女はまだ気づいていないようだ。雲山が一切実体を持たないのなら、生身の人間を喰らうなどできないと。
雲山はそっと耳打ちした。

「え? 実体を持たせることもできるの?」

雲山はさらに体を縮めて、顔と両手だけを残した。そこに密度を集中させ、実体を持たせる。一輪はそっと雲山の手に触れた。一輪の上半身をすっぽり覆いそうな雲山の拳に比べて、なんとも小さな手のひらだった。形を確認するように何度も触って、一輪はまた笑った。

「すごいわ、雲山は何にでもなれるのね」

あまりにもまっすぐな眼差しがくすぐったくて、雲山は声をひそめる。何にでも自由に化けられはしない。今はまだ大きさを変えるくらいだ。この大きさでは不都合だと思い、雲山は大人の人間の男程度の大きさまで顔を縮めた。

「そうだ、雲山、貴方は自分の住処を持っているの?」

一輪はしばらく雲山の顔や体をぺたぺた触って楽しんでいたが、ふと思い出したように尋ねる。雲山は首を横に振った。たまたまこの辺りで獲物を狙って待ち伏せしていただけで、人間のように決まった住処など持っていない。

「そっか。それじゃ、私についてきても問題ないのね?」

どこへ行くのか、と聞けば、「私の村よ」とあっさり返ってくる。人間は集団で生活を営むものだ、こんな幼い娘が一人で暮らしてるはずもなし、だが――雲山は戸惑った。
雲山はこの辺りを通りかかる人間、雲山に挑む人間を幾人も貪り食ってきた。すでに噂は近隣の村まで広まっているだろう。そこへ一輪が雲山を連れて帰ったらどうなるか。混乱に陥るに違いない。
雲山は控えめに訴えた。人間は自分を見て怖がるぞ、いたずらに仲間を怯えさせてどうする。ところが一輪は雲山の訴えを意に介さず、

「私、貴方を退治するって言って村を出てきたのよ。貴方を連れて帰れば、無事に悪い見越入道を退治した証になるでしょう?」

と、晴れやかな笑みで告げたのだった。雲山は感服とも呆れともつかない感情に包まれた。
まったくもって肝の太い、大胆不敵な娘だ。雲山もろとも自分まで煙たがられるのでは、なんて考えてもいないらしい。そのくせ一輪の目は厳しく、雲山が少しでも人間に襲いかかるそぶりを見せたら、ぴしゃりと叱り飛ばされるだろう。
雲山は大人しく一輪の後について行くことにした。一輪に従うと決めたのだ、雲山に二言はない。
一輪の住む村は、この辻を渡ったすぐ先にあるらしい。元々人間の通りが多い場所を狙って雲山も居座っていたのだ。それにしても、若い娘が供も連れずに挑みに来るとは危なっかしい。雲山は早くも己の新たな役目を果たすべく、実体のない雲の姿に変わり一輪のそばにつと寄り添った。雲山が自分の周りに浮かんでいるのを見て、一輪は上機嫌に笑った。



たどり着いた一輪の村は、山に囲まれた小さな集落である。畑や田圃が見え、葦で屋根を葺いた竪穴の住居が至る所に並んでいる。
一件の家の前で、四十がらみの女が落ち着きなく辺りを行ったり来たりしている。女のすぐそばに、同じ年頃のしゃがみこんだ男もいた。一輪は二人の姿を認めるなり、

「おーい、おじさん、おばさん!」

と叫んで駆け寄った。一輪の親族であろうか。真っ先に一輪に気づいた女が、こぼれ落ちそうなほどに目玉を大きく開いて一輪の元へ駆け出した。

「おお、一輪! あんた、一輪が帰ってきたよ!」

一輪と同じく質素な小袖に裳を巻きつけた女は、年の割には活気があり、威勢がいい。後ろに控えた男を必死で手招きしつつ、一輪の脳天からつま先までをくまなく確認していた。

「本当に一輪だね? 無事なんだね?」
「ほらね、言ったでしょう? 私はちゃんと帰ってくるって」
「ほらねじゃないよ。まったく、お前は怖いもの知らずの恐ろしい子だよ。あたし達はお前が入道に喰われてしまうんじゃないかと気が気でなかったのに」
「お……おい、一輪。お前のそばにいる輩、まさか」

一輪の帰還に安堵していた男の顔がたちまち青ざめる。こちらは女の夫なのか、妻とは正反対に痩せぎすで言葉も勢いがなく、気の弱そうな出立ちである。一輪の傍らに控えている雲山を震える手で指差し、女の後ろに後ずさった。

「私が退治した見越入道よ。雲山っていうの」
「そんなことは聞いてない! お前、妖怪に取り憑かれたのか!?」
「おじさん、落ち着いて。私は取り憑かれてなんかないわ。雲山が自分から私に従ってくれたのよ」

一輪は毅然とした声で告げる。一輪の安否にばかり気を取られていた女も、ようやく雲山に目をやって眉をひそめた。
騒ぎを聞きつけて、あちこちの家から人間達がわらわらと様子を伺いに顔を出す。人間達の反応は男とほとんど同じで、雲山の姿を見るなり恐怖と動揺の色を顔に浮かばせる。

「おい、なんだ、あの一輪にまとわりついてるのは」
「一輪が見越入道を退治したんだって?」
「妖怪が人間に従うだと?」
「信じられん。人並外れた陰陽師や僧侶ならともかく、一輪はただの小娘だぞ」

瞬く間に村の住民と思わしき人間が老いも若いも男も女もすべて集まり、騒ぎはあっという間に広がってゆく。雲山に怯えて住処へ逃げ帰る者、弓らしき武具を携えるも手がわななき使い物にならない者、遠くからじっと雲山と一輪を睨みつけている者。言わんこっちゃない、と雲山は頭を抱えるも、一輪は狼狽える人間達をものともせず平然と構えている。まるでやましいことなど何もないと言わんばかりの堂々たる佇まいで、親族の男と女だけを見つめていた。
やがて、男が半狂乱になって悲鳴を上げた。一輪の視線を振り切って、村の奥へ駆け出しながら大声で叫んだ。

「誰か、千歳の婆様を呼べ! 一輪が狐憑きになってしまった!」
「おいあんた、そんなにがなり立てるんじゃないよ」

夫に対して女はいくらか落ち着きを保っている。男につられて一目散に走り出した者達を呆れた眼差しで見送って、ため息をつく。

「やれやれ。うちの夫は気が弱くて困るね」
「おばさん、私は取り憑かれてなんかないわ。本当よ」
「一輪、あたしによく顔を見せておくれ」

尚も己の主張を貫く一輪を諭し、女は一輪の両頬に手を添えた。女はじっと一輪の曇りなき眼を見つめている。女の眼力もまた鋭い。一輪の言葉に嘘がないか、怪しげな素振りを見せないか、真剣に見極めようとしている。一輪も決して女から目を逸らさない。気が気でない雲山だったが、女はほどなくしてにんまりと口元を緩めた。

「うん。その力強い眼、向こう見ずな物言い。間違いなくあたしの知る一輪だよ」
「それじゃ、信じてくれるのね!」
「他でもないあたしがお前を疑ってどうするのさ。けど、そっちの入道は別だね」

女の鋭い眼差しが、今度は雲山に向けられる。雲山は緊張で強ばった。妖怪が人間に怯えるなどおかしな話だが、今し方邪気を払われたばかりの雲山には、恐れ知らずの人間ほど怖いものはないのである。

「あんた、一輪に手出ししたら、ただじゃおかないよ。わかってるんだろうね、ええ?」

女の凄みに、雲山は圧倒された。気迫を湛えた眼、語気のこもった言葉、一輪にもまして齢を重ねた分の重みがある。雲山は、一輪の豪胆さはあるいはこの女人に似たのかもしれないと思った。
雲山はようやく口を開く。決して手出しはしない。己はこの一輪を身を賭して守り抜くと決めたのだ。
しかし女は訝しむばかりで、雲山の言葉に返事をよこさない。声が届かないのかと焦る雲山を見て、すかさず一輪が口を挟む。

「おばさん、雲山は私を守るって言っているわ」
「なんだって? あたしにゃ何も聞こえなかったよ」
「雲山はまだ人間と話すのに慣れてないのよ。雲山の言葉は私が伝えるわ。私が嘘をついてないって、信じてくれるんでしょう?」

ここぞとばかりに一輪はたたみかける。先ほど逃げた男に比べたら、この女の方が物わかりがよいと一輪も知っているのだろう。勝気な女も娘の懇願には弱いらしく、根負けしたようにため息をついた。

「わかった、そこまで言うんなら好きにしな。ただし、あたしはまだ入道を信用してないからね」
「大丈夫よ、他でもない私が雲山の見張り役なんだから」
「それが心配なんだよ」

そこから女のくどくどした説教が始まったが、一輪は肩をすくめて雲山を見やるばかりである。親の言うことはきちんと聞け、と雲山が小言を言ったところで、先ほどの男が戻ってきた。

「道を開けろ! 千歳の婆様を連れてきたぞ!」

つい今しがたの気弱さはどこへやら、居丈高に声を上げる男の後ろには、ひどく腰の曲がった小さな老婆がいた。
そういえば千歳の婆様とは何者だろう、あの男の様子では長老格と見做してよいだろうが、と雲山が疑問に思ったところで、一輪が耳打ちする。

「この村で一番のご長寿なのよ。たいそう長生きして世の中のいろんなことを知っているから、千歳の婆様って呼ばれてみんなに頼りにされているの」

雲山は改めて千歳という嫗を見た。髪は白く薄く、顔中にしみと皺が浮かんでいる。大変歳を召した、少なくとも八十は過ぎたと思われる老人だった。足元はおぼつかなく、両脇を大人の男に抱えられて、かろうじて歩いている。

「一輪や」

大勢の人間達が見守る中で、一輪の前にたどり着いた千歳が口を開き、しゃがれた声で一輪の名を呼んだ。歳を取って盲いたのか、まぶたは重く垂れ下がり眼の光は伺えない。それでも一輪の気配がわかるのか、わななく手で一輪の方へ皺だらけの細い手を伸ばす。一輪はすかさず千歳の手を取った。

「おばあさま、私、見越入道を退治したのよ。おばあさまに教えられた通りの呪文を唱えたの。その証拠に、退治した入道を――雲山を連れてきたわ。わかる? 私のすぐそばにいるのよ」
「ああ……たしかに、お前のそばには人ならざる者がいるね」

一輪は年老いた千歳にもはっきり聞こえるように、耳元で大きな声で伝える。千歳は瞳を閉じたまま、一輪の声と手のひらの体温を頼りに、一輪の言葉の真偽や雲山の気配を探っているようだった。
雲山もまた注意深く千歳を観察していた。一輪に退散の呪文を教えたのはこの嫗だったか。一輪の言葉に少しも取り乱さず、体の震えが大きくなるわけでもなく、千歳の声音は落ち着いている。長命を保つだけあって、並大抵のことでは驚かないようだ。
千歳は一輪の手を揉むように何度もさする。先ほど雲山に直接触れた手だ。もしかして一輪の手から雲山の名残をたしかめようとしているのだろうか?

「いかにも邪気はない。お前は本当に見越入道を退治したんだね。ようやった、ようやった。けれど、一輪、その入道からは不吉な陰を感じるよ」

人々の間にどよめきが広がる。やっぱりな、妖怪が大人しく人間に従うものか、さすがに千歳の婆様の見立ては頼りになる、そんな声が飛び交った。

「おばあさま、人間だって、敵対する輩を倒したらそのまま自分の家来にすることがあるでしょう? 私はその相手が妖怪だったってだけよ」
「一輪や。妖怪は闇に巣食う者、人間は日の下に生きる者。決して交われない境があるんだよ。お前がその入道と一緒にいれば、やがてお前には災いが降りかかるだろう。……私はそれが気がかりでならないよ」

千歳は一輪の身を心から案じているように、しみじみと言った。さすがの一輪も、すぐには二の句が告げないようで口をつぐむ。
雲山は黙って千歳の言葉を聞いていた。嫗の言うことはもっともだ。妖怪は人間を襲う。人間は妖怪を恐れ、退治せんと挑む。それが普遍的な理であり、一輪に従うと言った雲山やそれを受け入れた一輪の方が変わり者なのだ。
雲山は、そこで初めて己の決断が軽率ではなかったかと反省した。一輪を守ると言っておきながら、これではかえって彼女を危険に晒してしまう。
このまま、雲山が一輪から離れて村を去るのが最善だろう。雲山は見越入道としての存在意義も一縷の望みも失ってしまうけれど、一輪が生きるのならそれでいいじゃないか。人間にも強き心と高潔な魂の持ち主がいるとわかっただけでも充分ではないか。頑固者でも、自らの誤りは素直に認めなければならない。
雲山が一輪に暇を告げようとしたその時、一輪が口を開いた。

「おばあさま。それじゃあ、私が雲山を躾けるわ」

まるで千歳の言った己に降りかかる災いなどへでもないと言わんばかりに、明るく言ってのけたのだった。再び人々の間にどよめきが走る。雲山もまた唖然とした。

「無闇に人間を襲ったり、怖がらせたりしないように、よーく言い聞かせるの。それで、私だけじゃなくこの村のみんなも守ってくれるように頼むの。考えてもみてよ。恐ろしい敵だった入道が、今度は私達を襲う妖怪から守ってくれるかもしれないのよ。こんなに頼もしいことはないでしょう。それじゃあ駄目?」

一輪はさも名案だと言わんばかりにさらさらと告げるが、すかさず人々の野次が飛んでくる。馬鹿なことを言うな、お前は妖怪の恐ろしさをちっともわかってない、やはり取り憑かれたのだ、と轟々だ。
千歳の嫗は雑言には少しも耳を貸さず、じっと一輪を盲いた眼で見つめている。手のひらの感触、緊張から滲む汗のにおい、微かな吐息、それらすべてから一輪の纏う気配をたしかめている。一輪も決して目を逸らさない。一歩たりとも引かじと、千歳を射抜かんばかりの眼力で見つめ続けている。
しばらくして、千歳の口から長いため息がこぼれた。

「お前は、童の頃から怖いもの知らずで好奇心の強い子だったねぇ。……そこまで言うのなら、おやりなさい、一輪。一度決めたことは、最後までやり通しなさい」
「おい、婆様、まさか」
「元より一輪に入道退治へ行く許しを与えたのは私だった。これも宿世だろうね」

――すなわち、一輪の申し出が受け入れられた。人々の間に動揺が広がる中、瞳を輝かせて一輪は千歳の手を強く握った。

「ありがとう、おばあさま」
「けれど、皆の信頼を得るのは簡単じゃないよ」
「わかっているわ」

村人達はしぶしぶといった様子で、文句は言わずとも不満げである。それでも声高に抗議を叫ばないあたり、千歳は影響力を持つようだ。
雲山には、千歳から何も言葉をかけられなかった。しかし重たい瞼の奥から、すべて見透かすような視線を感じて、雲山は改めて覚悟を決めたのだった。

「千歳おばあさまはね、昔、都のさる貴族の邸で宮仕えしていたのよ」

雲山は一輪の住まう家に案内され、一輪の話に耳を傾けていた。
竪穴式の住まいは予想以上に広々としており、生活に必要な道具も揃っている。無論一輪一人で住んでいるわけではないだろう。だが千歳のお墨付きをもらったとはいえ、村の人間達は当然ながら未だ雲山を警戒して近寄りたがらない。唯一、あの一輪の母と思わしき女だけが、一輪を心配して家の外から一輪と雲山の様子を伺っているのである。
一輪の話によれば、千歳は幼子の頃から京の都で女童として宮仕えに上がり、結婚してからも奉公は長く続いたそうだ。やがて信濃の下級役人となった夫と共に任国へ下り、夫を亡くし、頼れる身内が次々に亡くなってゆく中、この村へ流れ着いたのだという。
長年宮仕えをしていただけあって、千歳の知識は豊富で、文字の読み書きや都のしきたり、政の情勢、様々な経験を惜しみなく教えて回った。しかも千歳は末端ながら貴族の血筋である。寄る方のない嫗は村の住人達から尊ばれ、敬われ、今の地位にあるのだという。

「だから私も簡単な読み書きなら少しはできるわ。それにおばあさまの話は面白くて、都に伝わる昔話や噂話も口伝えに教えてもらったの」

一輪は千歳を実の祖母のように慕っているようだ。そういえば、と雲山は尋ねる。あの中年夫婦は一輪の両親か。

「ううん、違う。私のお父さんとお母さんはもうとっくに亡くなってるの。子供のいないおじさんとおばさんが、私の面倒を見てくれてるのよ」

言われて雲山は目を見張るが、すぐさま納得する。考えてみれば、実の親をおじさんだのおばさんだの他人行儀で呼びはしないだろう。一輪はおじさんの名前は弥助、おばさんの名前はトキ、と続けて教えてくれた。

「お父さんは私が三つの時に亡くなったの。顔も人となりも、ほとんど覚えてないわ。お母さんは七つの時に、流行り病で。……さすがに私も世の中のことを少しずつわかるようになっていたから、とても悲しかった」

一輪の声が沈んだ。亡き母を偲んでいるのか、明るかった表情が曇る。
幼い一輪は突然の母との別れに呆然となり、悲しみに暮れ、涙で袖をぐっしょり濡らし、それでも尽きない悲しみに落ち込んだ。幼い一輪が涙で目を腫らす様を想像して、雲山も胸が痛んだ。

「私のお母さん、とっても優しい人だったのよ。おしとやかで、いつも私のことを一番に心配してて。お母さんが亡くなってからおじさんとおばさんに面倒を見てもらうようになって……二人ともたくさん励ましてくれたけど、一番の励みは千歳のおばあさまの言葉だったの」

千歳は泣き続ける一輪の背を優しくさすり、次のように言葉をかけてくれたという。

『一輪や。つらいだろうね。悲しいだろうね。この世で生きる一番つらい悲しみは、親しい者に死に別れることなんだよ。私ももう何人に先立たれてきただろうね。……一輪や。無理に涙を引っ込めようとしなくていいんだよ。今は悲しみの底にいても、流れた涙はいつか浅瀬になり、淵になり、やがてお前をもう一度浮かび上がらせてくれるのだからね』

「だから私、もうつらくなんかないわ。それにね、人間は死んでも消えてなくなってしまうわけではないんだって。黄泉の国とか、西方の浄土とか、私にはよくわからないけど、もしかしたら、みんな死んだ後も穏やかに暮らしているのかもしれないわ」

一輪の顔にはもはや翳りはなく、まっすぐに前を向いていた。死別の悲しみを悲しみとして受け入れながら、なお前を向いて立ち上がる。
雲山は確信した。この娘は強い。危なっかしい面はあれど、雲山の見立てに間違いはなかった。

「一輪さん」

その時、外からか細い女の声が聞こえてきた。一輪と同じ年頃の娘が、慎重に中を伺いながら、おそるおそる声をかけている。そういえば、帰ってきた一輪を出迎えた人間達の中に、この娘の姿があったような気がする。

「小鞠ちゃん」

一輪はすぐさま娘の元に駆け寄った。丸い輪郭に下がり気味の眉、一輪とは反対に内気で大人しそうな娘だった。

「この子は小鞠ちゃんっていってね、仲良しなの」
「一輪さん……本当に見越入道を退治したんだ」
「そうよ。雲山っていうの。今は私のしもべなんだから」

得意げに胸を張る一輪に雲山は苦笑する。間違ってはいないが、妖怪をしもべだと言い張れる無邪気さはいっそ清々しい。
小鞠はおっかなびっくり雲山に視線をやって、目が合った瞬間、大きく体を震わせる。完全に怯えていた。

「ご、ごめん。私、怖いかな……」
「うーん。たしかに見た目はちょっと怖いかもね」

小鞠が一輪の背に隠れ、一輪は雲山と向かい合う。見た目と言われても雲山は困ってしまう。ある程度なら自由に姿を変えられるが限度がある。雲山は見越入道の名の通り、入道、つまり僧侶の男に化けたつもりだった。凛々しい眉に力強い眼をした精巧な顔つきの壮年。雲山の想像する“強く逞しい益荒男”は、うら若い乙女を怯えさせるものだったようだ。

「雲山、もうちょっと優しい表情できないの?」

一輪が眉を八の字にして頼み込んでくる。そんないきなり無茶振りをされても、と雲山は戸惑った。

「そうねぇ、例えるなら仄かな笑みを湛えたお釈迦様のような……それか目元が涼しげで爽やかな色男のような……あるいはすべてを享受する太母のような」

難しすぎる。注文が多い。なぜ最後は母親になった。
それでも雲山は懸命に優しく、優しく……と想像力を振り絞って、目元や口元のあたりをちょっと緩めてみる。これが雲山にできる精一杯の優しい笑みだ。
小鞠は今にも泣きそうに顔をゆがめた。

「や、やっぱり怖い……!」
「あ、小鞠ちゃん!」

小鞠は一目散に一輪の家を逃げ出した。去ってゆく娘の背中を見て、さればよと雲山は肩を落とす。

「もー、雲山ってもしかして不器用なの?」

一輪は口を尖らせるが、なぜ文句を言われなければならないのか。雲山は不服をそのまま一輪にぶつける。そもそも今までまともに人間と話したことなんてないのだ、若い娘が相手となれば余計に緊張する。

「ちょっと、雲山、それじゃあ私は若い娘じゃないってこと?」

目をつり上げる一輪に、雲山は失言だったかと狼狽えた。言葉の綾というか、一輪が親しみやすいだけだ。いい意味で緊張しないし、自分のかそけき言葉をきちんと拾ってくれるし……必死に言い繕う雲山を見て、一輪は吹き出した。

「ごめん、ごめん。雲山ったら面白くて。すごく真面目よね。真面目すぎて朴訥っていうか、お固いわ。体は雲なのにね」

無邪気に笑う様を見て、雲山は脱力してしまう。自分はいいようにからかわれていたのか。それにしても、一輪はどうして雲山の声音や言葉をちゃんと聞き分けられるのだろう。大人しい小鞠だけでなく、気丈な一輪の養母にだって雲山の声は届かなかった。雲山はこの先、一輪以外の人間と会話が無事に成立するだろうかと、早くも一抹の不安に襲われた。

「大丈夫よ。小鞠ちゃんもみんなも、いつか雲山の中身をわかってくれる。それまで私が雲山についていてあげるから、ね?」

一輪は幼児をあやすように慰めてくる。一輪は何の根拠があって“大丈夫”と口にするのか。確固たる理由などないのに、雲山は不思議と一輪の言うことなら信じてもいいような気がした。



その夜、さすがに一輪と雲山を二人きりにはできないと、一輪の養母が家の中に入ってきて寝支度を整えた。初めのうちは目を光らせていたものの、ひねもす一輪のことで気を揉んでいたためか、養母はすぐにいびきをかいて寝てしまった。

「おばさん、もう寝ちゃったわ。雲山は寝ないの?」

雲山は首を振る。元より妖怪は夜を主たる活動時間とする。この村は今まで妖怪の襲撃に合ったことはないと聞いているが、悪鬼妖の類はいつ忍び込むかもわからない。どうせなら寝ずの番をしていようか、などと考えている雲山をよそに、一輪は隣で寝ている養母への配慮か、遠慮がちに笑い声を漏らす。

「ううん。私ぐらいの年頃の娘は、夫でも父親でもない男と添い寝をしないだろうなあって思ったの」

凍りつく雲山をよそに、一輪はまた忍び笑いをする。言わずもがな、雲山にそんな下心はない。だがいくら守るためとはいえ、雲山が方時も離れずそばにいるということは、一輪の自由を奪ってしまうということだ。何とも気配りに欠けている。今更気付いた雲山は慌てて出て行こうとした。

「雲山、どこへ行くの。私を置いていくの?」

一輪が咎めるような目を向ける。どうしたらいいんだ、と途方に暮れる雲山に、一輪はしたり顔で語りかける。

「おばあさまから聞いたんだけど、こんな昔話があるのよ。昔、京の都にある男がいた。男は身分違いの高貴なお姫さまに恋をして、どうしようもなくて、ついに姫を背負って駆け落ちしてしまったの。追っ手から逃れるために、夜になって、姫を洞窟の中に隠して、男は外で寝ずの番をした。そしたら、洞窟の奥から鬼が現れて、一口で姫を食べてしまったのよ。男は夜が明けるまで姫が食われたことに気づかなかった」

暗闇の中で、一輪がまっすぐに雲山を見つめてくる。よくある怪奇譚、身分違いの恋を諌める教訓譚だ。けれどこの世には鬼も妖怪も実在する。密かに忍び寄る影が現れないとどうして言い切れるだろう。

「雲山がいない間に、私が鬼に食べられたらどうするの?」

仕方なしに、雲山は一輪の傍らへと戻る。高貴なお姫さまには到底見えないが、雲山が守ると決めた相手である。

「それでいいのよ。私達、やましいことなんて何もないんだし。着替えの時に出て行ってくれたら構わないわ」

一輪は満足げにうなずく。布団代わりの衣を引き被って、一輪は目を閉じた。

「おやすみ、雲山」

間もなく安らかな寝息が聞こえてきた。鬼に食べられたら、なんて言ったくせに、養母に負けず劣らずずいぶん早い寝入りだ。
雲山は一輪の寝顔を見守った。心の底から一輪は雲山を信頼してくれているのだろう。まだ出会ったばかり、それも元は雲山の悪行を懲らしめるためにやってきたというのに。雲山がもし隣の養母に牙を剥いたら――よそう、雲山は到底その気になれない。本当に雲山はかつての見越入道でなくなってしまったのだ。もしもに意味はない。
一輪のある意味無防備な、寄せられる全幅の信頼は心地よかった。



雲山が一輪の住む村へやってきて数日が経った。この数日で雲山に対する理解に前進があったかといえば、皆無だ。村の人間達は雲山を恐れて一輪ごと避けているし、向けられる視線は恐怖と懐疑ばかりである。小鞠も相変わらず雲山を怖がっており、一輪の養父はさすがに心配なのか怯えつつも「おい、そんなに付き纏われっぱなしじゃ、本当に妖怪に食われちまうぞ」と度々一輪に声をかけてくる。一輪はといえば、

「大丈夫だって言っているでしょう。おじさんは本当に心配性ね」

けんもほろろである。養母は今のところ一輪の行動に目をつぶっているが、雲山への眼差しが厳しいのに変わりはない。そんなこんなで、一輪は数日のうちに村の人間達から遠巻きにされつつある。
表立って糾弾したり、爪弾きにしたりと露骨な態度はなくとも、皆なんとなく壁を作っている。いつも一輪が手伝っているという畑や田圃の仕事も雲山がついているとやらせてくれないし、一輪は「それじゃあ雲山と外の見回りでもしてくるわ。賊や妖怪が村に入ってこないようにね」と、この頃はもっぱら雲山と二人きりで村の外を見回りしているか、誰もいない家の中で駄弁っているかだ。
それでも渦中の一輪は、人間達の目も自分の状況も何一つ気にならないといった様子で、雲山に親しげにあれこれ話しかけてくるのである。

「ねえ雲山、在原行平って知ってる?」

一輪と雲山だけでは広すぎる竪穴の中で、信濃にゆかりのある人なのよ、と一輪が言った。

「この前、お姫さまを盗み出した男の話をしたでしょう? その男の正体が、稀代の色男として名を馳せた在原業平だって言われているの。行平は業平のお兄さんなのよ。きっと兄弟そろって美男に違いないわ」

頬を上気させうっとりする一輪に、雲山は乾いた笑みを漏らす。怖いもの知らずでどこか世間の感覚からずれたような一輪にも、見たこともない美男の貴公子に思いを馳せるなど、年頃の娘らしい俗っぽさがあるのが面白かった。

「何よ、雲山。私だって素敵な殿方に憧れたりするんだから」

雲山が笑ったのに気づいて、一輪はむくれてみせる。雲山は自分でも感情が表に出にくい方だと自覚しているのに、一輪は雲山の些細な機微にもすぐさま気づく。

「行平はね、かつて信濃の受領になって、この国に来たことがあるそうよ。それから須磨の地に引きこもったり、因幡国に赴いたり。そうそう、因幡に旅立つ時に詠んだっていう和歌が素敵でね、“立ち別れ因幡の山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ”……」

雲山は、一輪が和歌をすらすら諳んじるのに驚いた。そういえば、千歳や村の大人達から聞いたであろう昔話もよく覚えている。一輪は読み書きができるのは少しだけだと言ったが、雲山の想像以上に物覚えがよく、飲み込みが早いのかもしれない。

「貴族にも身分や階級があるっていうけど、受領は都から出てあちこちの国へ行けるのね。……羨ましいわ」

ため息混じりに言う一輪に、雲山は意外に思う。雲山も人間の事情にはそこまで明るくないが、都の貴族がお高く止まって、田舎者や身分の低い者を見下しているのくらいは知っている。人間は何かと選民意識を抱きがちだ。除目は上の人間が決めることだし、住み慣れた都を離れ、鄙びた地方へ行くのを嫌がる者も多いと聞く。行平だって旅立ちを惜しんでそのような和歌を詠んだのではないか。なぜ一輪は雅な貴族より、侮られがちな受領に憧れるのだろう。

「だって、私は雲山を退治した時くらいしか、この村から出たことがないんだもの。今だって私達を遠ざけておきながら決して遠くに行くな、日が落ちる前に戻って来いってうるさいし」

一輪は口を尖らせる。しかし村の大人達の言い分ももっともで、この平安の世はお世辞にも治安が良いとは言えない時世だった。辺りは野盗や人攫いで溢れているし、陸路も海路も整備が不十分で安全でない。小娘一人がお供も連れずに出歩くなど不可能だ。若いうちは大人の言うことを聞くのが一番だ、まして一輪は女なのだからと雲山が滔々と説けば、一輪はにやりと笑った。

「やっぱり雲山って頑固よね。考え方が古いのよ」

一輪の不敵な笑みの意味がわからず首を傾げていると、一輪は得意げに言う。

「千歳のおばあさまは若い頃からずっと宮仕えに出ていて、高貴な方から身分の低い雑人まで色んな人と顔を合わせたと言っていたわ。後ろ盾のしっかりしたやんごとないお姫さまなら大事に大事に邸の奥に閉じ込めておけるでしょうけど、そうでない女は外で働きもするのよ」

はて、おそらく大半は千歳の受け売りなのだろうが、雲山には一輪が何を言っているのかさっぱりわからない。この村では女も男と同じように仕事をしているが、村の外へ出るのはもっぱら男の役目だ。外へ出る者など、それこそ一輪くらいしかいない。雲山が頑固というより、一輪の方がずれているのではないか。
雲山は出かけられないのがそんなに不満なのか、と尋ねる。

「そりゃあそうよ。村のみんなはいい人だし、貴族に生まれたかったわけでもないけど、山の中で閉じ込められて好きに出かけられないなんてつまらないわ」

たしかに養父も養母も心配性で、一輪が物見などに出かけたいなんて頼んでも聞いてくれないだろう。旅に出るにしても相応の準備がいるし金がかかるのだ。
不意に、一輪は雲山を見てはっと目を見張る。

「そうだ、雲山、私を乗せて空を飛べない?」

いいことを思いついた、と言わんばかりに一輪は目を輝かせた。

「どうして気づかなかったのかしら。雲山は姿を自由に変えられるし、空も飛べるんだから、雲山と一緒ならどこにだって出かけられるわ!」

一輪を乗せる――雲山も考えだにしなかった。今までの自分にとって人間は捕食対象でしかなく、自分の体を人間に貸すなんて思いつきもしないのだ。
雲山は一輪に従うと決めた。乗せるぐらいならお安い御用だが、一輪を連れて出かけるとなると難しい顔をせざるを得ない。一輪の養い親は心配するだろうし、人間を抱えて飛ぶ雲山を誰かに目撃されれば、雲山が人間を攫ったと勘違いされる可能性が高い。
雲山はどうにか思いとどまるように説得を試みたが、一輪は聞かない。

「おじさんとおばさんに話せばいいんでしょ? いいよ、ちょっと行ってくるから」

と、一輪はすぐさま仕事中であろう養い親の元へ行く。どうせ反対されるだろうに、と呆然と待つ雲山の元へ、ほどなくして満面の笑みを湛えた一輪が戻ってきた。
まさか許しを得たのか。驚く雲山に対し、一輪はいたずらっぽく口元をつり上げて、

「雲山みたいな見越入道のほかに、この辺りに妖怪が出ないか時間をかけて調べてくるって言ったの」

と言い放つ。普段の見回りにかこつけて足を伸ばしてしまえ、という魂胆なのだろう。雲山は嘘はよくない、たとえ血のつながりはなくとも親子同然の仲らい、親は子を心配するものだ、と諭す。
一輪は説教めいた雲山の話を聞いているのかいないのか、途中で不思議そうに目を丸くして言う。

「だけど、私のことは雲山が守ってくれるんでしょう?」

雲山は言葉につまった。たしかに雲山は一輪を守ると言った。見越入道として人間を脅かすのはもうできないが、雲山はまだ力を持った妖怪である。雲の体に実体を持たせて大きく膨らませれば、そこらの妖怪や人間風情を蹴散らすなど簡単なことだ。
だが、と雲山は疑問に思う。どうして一輪はそんなに雲山を信頼してくれるのだ。まだ出会って数日しか経っていない、村の人間のように警戒したり恐れたりしないのか。

「わかるわよ。貴方、頑固で真面目で、嘘はつけない性格してそうだもの」

一輪は自身に満ちた表情で告げる。毅然とした物言いでまっすぐに見つめられては、雲山も疑えやしない。好奇心が強すぎるきらいがあるが、一輪はただの向こう見ずではない。物事の価値や本質をちゃんと捉えて、見極めようという意志がある。
雲山は根負けした。どこへ行きたい、と問う。

「そうねぇ、須磨や因幡も気になるけど、この信濃だって私の知らない所はあるのよね。姨捨の伝説がある更科だとか、建御名方神がおわす諏訪の地だとか」

あれこれと挙げて、考えて、でも、と一輪は言う。

「やっぱり、一度この目で京の都を見てみたいわ。帝がいて、貴族がいて、市井の民もいて。かつて千歳のおばあさまが宮仕えをしていた、都の様子が気になるの」

京の都。それならこの信濃国から西へ西へと進んだ先だ。雲山もある程度の地理なら頭に入っている。
雲山は一輪を乗せるべく、体の形を変えた。神や仏の乗る雲の台座を想像して、万が一にも底抜けしない頑丈な土台と、一輪を振り落とさないための壁になる両の手のひらを形作る。

「わ、すごい……本当に、真夏の空に浮かぶ雲みたいね」

一輪はなんの躊躇いもなく雲山の手のひらによじ登った。そのまま背中の台座へ導いた雲山は、絶対に落としはしないがしっかりつかまっていろ、と声をかける。一輪がうなずいて雲山にしがみついたのを確認してから、雲山は大空へ飛び立った。わあっ、と一輪の歓声が上がる。

「雲に乗って空を飛ぶなんて、仏様みたい」

一輪は自らの体が地から遠く離れていくというのに、ちっとも怖がる素振りはなく、楽しそうに弾んだ声で言った。向かい風を受けて一輪の頭巾が脱げ、髪がたなびく。雲山は村の人間達に見つからないように、高く高くへ昇り、遠く遠くへ速度を上げて飛んでゆく。夏の快晴の空は青く澄み切って、眼下に広がる山は深い緑色に染まっている。

「私の村がもうあんなに小さくなっちゃった。ううん、最初からあんな大きさだったのかもしれないわ」

一輪は後方に離れてゆく故郷を見てつぶやく。あまり喋ると舌を噛むぞ、と注意すれば、はいはいと気だるい返事が返ってくる。
木曽川を越え、美濃の平野を越え、近江の海を渡った先に、京の都はある。人の足や馬や牛車の歩みでは丸一日以上かかるような道のりを、雲山は半刻もかけずに駆け抜ける。
東、西、北の三方を山に囲まれた地――世に言う“平安京”だ。均一に引かれた大路で区切られた、碁盤の目と呼ばれる都市構造。“天子は南面す”という大陸の思想から、帝のおわす内裏は都の真北に位置する。真ん中は朱雀大路、南の正門は羅城門。内裏から向かって右と左にそれぞれ多くの邸宅が並ぶ。
雲山の背中にいる一輪は意外にも静かだった。初めて目にする都への感嘆か、衝撃か、言葉が出ないのだろう。

「おばあさまの言う通りだわ」

やがて、一輪は独り言のようにつぶやいた。

「右京の方が建物が少ないの。右京は土地が悪いから、身分の高い貴族はほとんど左京にお邸を構えるんですって」

右京を指差し、一輪は雲山に語りかける。
その昔、桓武の帝が築いた立派な都も、高みから見下ろすとそこに住まう人間は蟻のように小さい。
一輪は眼下に広がる光景を食い入るように見つめている。降りてみるか、と声をかけると、意外にも一輪は首を横に振った。

「雲山。おばあさまの受け売りなんだけどね、京の都は恐ろしい場所なのよ。あらゆる魑魅魍魎が跋扈して、放火も野盗も蔓延って、しかも貴族達は国を憂うよりも、日々私腹を肥やすために絶えず争いを続けている。……前に私が宮仕えに行こうかな、なんて言ったら、そう教えられたの」

淡々と語る一輪の横顔は、旅立つ前に語っていた行平への憧れなど微塵も感じさせない、険しく冷徹なものだった。都をこの目で見たい――それは純粋な好奇心だけではなく、千歳の話の真偽をしかと見極めようという覚悟の現れだったのかもしれない。
雲山も都の空気を肌で感じている。気取った権門の邸宅が立ち並ぶ内裏周辺の、どこか張り詰めた空気。内裏から離れた南の方は庶民の住まいが多く賑やかだが、身寄りのないうらぶれた人間もいる。そして羅城門の周りには――嗅ぎ慣れた、死の不吉な臭いが漂っている。
雲山は確信した。一輪に都は似合わない。一輪の要領のよさなら、きっと女房としてうまく立ち回れるだろうが、彼女の義心は貴族の傲慢さや庶民の悲哀を見過ごせない。
その時、雲山は何者かの気配を察知した。都の空を、雲山達を威嚇するように挑発するように飛び回る者がいる。都周辺を住処とする妖怪が、雲山達に目をつけたのだろう。
雲山は警戒を強め、一輪を背中から手の中へ移した。

「ええ、私にもわかるわ」

妖怪がいると告げれば、一輪も声をひそめてうなずいた。一輪はまだ知らないだろうが、空を自由に飛び回る妖怪はさして多くない。まして白昼堂々と活動する大胆さ、敏捷さ、姿を隠す巧みさ、実力のある妖怪だろう。
雲山はじっと相手の気配を探っていた。日は傾いているが、まだ夜には程遠い。昼間ゆえに姿はおぼろげだが、正体はおそらく天狗だ。天狗が一輪と雲山のすぐそばを漂っていて、興味深く二人を観察しているのだ。

「おお、こりゃたまげた。見慣れない顔だな。娘っ子を拐かしたのか」

しゃがれた男の声が聞こえてきた。天狗は雲山に馴れ馴れしく語りかけるが、目線は一輪に向いている。雲山はすばやく一輪をかばうように引き寄せた。予想通りの誤解をされている上に、天狗が一輪を狙っている。
雲山の態度が気に入らないのか、天狗の声が居丈高になる。

「獲物を独り占めするつもりか。俺にも寄越せ」

一輪は天狗を睨みつけたまま、雲山から離れないように身を寄せている。雲山は威嚇した。決して渡しはしない、この娘も拐かしたのではない。大人しく寝ぐらへ帰れ。

「え、なんだって? えらく声の小さいやつだな。そんな風に反抗されるとますます横取りしたくなるな。人間ってのは若い女に限るんだよ。肉は柔らかいし、血は瑞々しい。まあ、他の方法で“食って”からでもいいが……」

天狗の舌舐めずりが生々しく聞こえる。姿は見えないのに、天狗の下卑た表情が目に浮かぶようだった。刹那、真っ赤に燃え立つ炎のような怒りが雲山を襲った。
衝動のままに、雲山は拳を振り上げ、天狗を殴りつけた。ぎゃあ、と天狗は情けない声を上げるが容赦はしない。殴打を続けても、天狗は意外にしぶとく必死に抵抗を続けてくる。

「よせ、よせ、そんなに怒ることかよ」

天狗は劣勢と見るや否や、懇願するように縋り付いてきた。よろめきながら伸ばした手を、一輪がすかさず蹴飛ばした。

「さっさと消えろ、この色気狂い!」

怒りに満ちた鋭い声が空間をつんざく。啖呵を切った一輪に怯んだ隙をついて、雲山はとどめの一撃を叩き込む。ようやく観念したのか、天狗は逃げ帰っていった。
雲山は即座に一輪へ無事か、と問いかける。一輪はまだ天狗と対峙した興奮が残っているようだったが、「ええ、無事よ」と答えた。

「あの妖怪、死んじゃった?」

一輪は恐る恐る問いかける。天狗の心配というより、雲山の容赦のなさからあの天狗が復讐に現れないかとの懸念のようだ。
雲山は答える。妖怪はしぶといから、あれぐらいでは死なない。だがずいぶん痛めつけたから、恐れてもう襲いには来ないはずだ。
さすがの一輪も慣れない土地で緊張していたのか、大きくため息をつく。

「びっくりしたわ。雲山ったら、突然殴りかかるんだもの」

一輪は苦笑いを浮かべている。仕方ないじゃないか、と雲山はしかめっ面になる。雲山は己が侮辱されるより、一輪が乏しめられる方が耐えられない。一輪だってあんなことを言われて腹が立たなかったのか。

「怒った。でも雲山がもっと怒ってくれたから、そんなに引きずってないかな」

一輪は晴れやかに笑っている。一輪の言葉に嘘はない。本人より自分が怒りを露わにしてどうする、と雲山は途方に暮れた。
一輪が侮辱されて猛然と腹が立ったのだ。一輪をただの食料としか見ていない眼。女をまるでモノのように扱う厭らしさ。一輪はそんな下賤な輩に汚されていいものではない。頑固な雲山が見定めた、気高い魂の娘なのだ。
気遣わしげな雲山を見て、一輪は雲山に寄りかかる。自分の顔と同じぐらいの大きさの指先に額を寄せて、ぽつりと言った。

「ありがとう。私のためにそこまで言ってくれる人は、もうこの世にはいないと思ってたの」

一輪は目を細めて雲山を見つめた。一輪の声には感謝だけでなく、寂しい響きがあった。一輪は、亡き母を思い出しているのだろうか。
雲山は一輪の実母を知らないが、一輪の話を聞く限り、実母の愛情は相当に深かったのだろう。あの夫婦だって一輪を我が子同然に可愛がっているが、亡き母の面影が一輪の中に残っている。先ほど勇ましく天狗を蹴飛ばした娘と同じとは思えないほど、一輪の姿がしおらしく見えた。いつも明るく振る舞っているが、彼女にだって深い悲しみを心に刻まれたことがあるのだ。
――自分が一輪を守らねばならない。あらゆる悪意から、妖怪の脅威から、一輪を遠ざけなければならない。雲山は改めて決意した。たとえ自分が人間に疎まれようとも、一輪を守るために、雲山はいついかなる時も決して一輪のそばを離れない。

「雲山、日が暮れてきたわ。夜になる前に帰らないと、おじさん達がうるさいから」

気がつけば、山の端に日が傾きかけている。雲山は再び一輪を背中に乗せて、一輪の村へ戻るべく帰路へとついた。帰る途中で、一輪が雲山に話しかける。

「今日はありがとう。楽しかったわ、空を飛ぶのって山に登るのとはまた違った景色が観れるのね」

妖怪に襲われてもか? と聞けば、「雲山が退治してくれたじゃない」と返ってくる。

「本当はちょっとだけ都に降りようかな、なんて考えてたのよ。だけど、雲山の上から見下ろしただけで、なんだか気が引けたっていうか……自分の目で見たかったのはたしかだけど、知らないままどんなものなんだろうって想像を膨らませるのも悪くないかなって、そう思ったの」

一輪の声は真剣さを孕んでいた。想像は時に現実を上回る。夢を見過ぎて期待外れ、なんてことも珍しくない。憧れの正体は、知らないままの方がいいのかもしれない、と雲山も思った。
その後、どうにか日没までに雲山は一輪と共に村の前まで戻ってきて、一輪は何事もなかったかのように養い親に挨拶を交わした。ずいぶん長い間戻らなかったな、と問われても、適当にはぐらかしていた。元より寡黙な雲山も口をつぐむ。まさか雲山が一輪を乗せて都まで連れて行ったなど、夢にも思わないだろう。
夜になって、いつものように養母が寝静まった後、一輪は声をひそめて雲山に話しかけてきた。

「ねえ雲山、また二人で遠くへ出かけない?」

――さすがに雲山も開いた口が塞がらなかった。非日常的な経験が楽しかったのはわかる。だが帰り際の言葉はどこへ行った。村の人間達の目を盗んで出かけるのがどういうことか、一輪はわかっているのか。それに今日遭遇した天狗のように、また妖怪に襲われるかもしれないのに。

「わかってるわよ。私は雲山がそばにいる限り、妖怪を恐れる必要がないってね」

自信たっぷりに告げる一輪に、雲山は脱力した。
やはりこの娘、単なる馬鹿ではないが、好奇心が強すぎるようだ。怖いもの知らずほど怖いものはない。雲山は付き従う相手を間違えたのではないかと、ちょっとだけ後悔した。



夏の盛りは容赦なく続く。日差しが燦々と降り注ぎ、歳若く丈夫な男でも、暑さに滅入って仕事が手につかなくなることが多いようだ。
いや、ただ無気力になるだけならまだましだった。問題なのは、暑さのせいで体調を崩す者が出てくることだ。この頃、千歳の嫗が持病の病をこじらせ、長らく床に臥せっている。元から歳のせいで病がちだったが、夏の猛暑が体に障るようだ。
一輪も大変心配して、毎日見舞いに通っている。雲山も遠目に様子を伺ったが、初めて会った時よりも体が弱って衰えているのは目にも明らかだった。

「おばあさまは京の都にくらべればずっとましだって言ってるけど、さすがに暑さばかりはどうにもならないわ」

看病には村の女達が主にあたっている。あの小鞠という娘も中にいた。雲山を近づけないならよい、との条件付きで手伝いをした一輪は、戻ってきてから落胆を隠さずに雲山へ報告した。

「お歳を召しているのは仕方ないけど、やっぱり弱っている人を前に何もできないのは歯痒いわね」

一輪の顔に影が差す。一輪は何も言わないが、雲山は知っている。一輪を悩ませているのは千歳の病ばかりではない。村の人間達の間で、

――千歳の婆様が倒れたのは、あの不吉な入道が村に入ってきたからではないか。

とまことしやかにささやかれているためだ。無論根拠のない濡れ衣で、雲山は気にも止めていなかったが、人間はとかく都合の悪い出来事を妖怪や自分の忌み嫌う者に押し付けたがるのだ。未だに、いや、以前にもまして村の人間にとって雲山は鼻つまみ者である。一輪はそれが不愉快で仕方ないようだが、雲山は一輪が憤るたびに諌めている。千歳だって、信頼を得るには時間がかかると言っていただろう。自分は平気だから、その分まで親や友人や千歳に心を分けてやれと。
うつむいていた一輪は、不意に顔を上げ、何か決意を秘めた目で雲山を見つめた。

「雲山。奈良の信貴山には、かつて優れた法力を持つ偉大な僧侶がいたのよ」

脈絡のない話に、雲山は首を傾げる。一輪は雲山の反応に構わず話を続けた。

「名前は命蓮。生まれはなんとこの信濃。信貴山で修行を積んで、法力で鉢を飛ばしたり、米倉を運んだり、しまいには帝の病まで治してしまったのよ」

そこまで聞いて、雲山は一輪の言いたいことをなんとなく理解した。
信濃にゆかりのある古の高僧、それも賢き帝の病を治癒した伝説を持つ者。一輪は信貴山まで赴いて、千歳の病の治癒を祈願しようと考えているのだ。もちろん雲山に乗って。
おじさん達に話してくるわ、と立ち上がった一輪を雲山は止めなかった。この小さな村には薬師も少なく、加持祈祷を行う霊験あらたかな高僧を招くにも不便な場所である。具体的な手段が限られる中、神仏に縋るような気持ちで亡き高僧を頼りにする一輪をどうして咎められよう。
ほどなくして一輪は戻ってきた。が、一輪の不機嫌がいっそう増しているような気がした。止められたのかと聞けば否定し、

「おじさんとおばさん、喧嘩してるの。おばあさまのとこに行ってきたわ。大丈夫、おばあさまは話のわかる人よ」

淡々と報告する一輪の表情は冷めている。喧嘩とは珍しい、と雲山は目を見張る。あの夫婦は気の強い妻に気の弱い夫が言いまかされて、という光景をよく見るが、大きな諍いになることはほとんどなかった。止めに入らなくて平気なのか、と尋ねれば、一輪は首を横に振った。

「いいの。ああいう時には、何を言っても無駄なんだから。まったく、おばあさまが病気だっていうのに何をくだらない揉め事をしているのよ」

珍しく一輪の口から養い親二人に対する愚痴を聞いた。一輪はそれ以上二人の諍いに触れたくないようで、早く行きましょうと急かしてくる。
雲山は、以前一輪を京の都へ連れて行った時のように、雲の体を変化させて背中の台座と両手を作る。一輪が当たり前のように雲山の背中に乗るのを見届けて、雲山は飛び立った。

「――やっぱり、空はいいわね」

次第に暗澹たる気持ちが晴れてきたのか、一輪の声に明るさが戻ってきた。

「空を飛べたら馬に乗るより速いし、自分の足で行けないところに行ける。やっぱり雲山は素敵な力を持っているのよ。もう見越入道として人を襲う必要なんてないわ」

雲山は褒められ慣れてないから、照れくさくてますます無口になった。
道のりは都へ行った時とほぼ同じだが、近江の海に差し掛かったところで南へ降る。やがて、眼下に山並みとその中にぽつんと建つ寺が見えてきた。

「あれがきっと聖、命蓮が建てたといわれるお堂ね」

一輪は寺を指差して言った。命蓮が亡くなって数十年は経つはずだが、修行僧や参詣客らしき人影が至るところに見える。お堂とは別に尼僧の住む尼寺もあって、などと話す声が聞こえた。

「昔、聖徳太子が物部の一族を討伐する時、ここで毘沙門天のお告げを受けたんだって。……本当かしら。ううん、本当よね。聖徳太子は仏教を厚く信仰していた人だもの」

一輪からすれば、聖徳太子の言い伝えは命蓮より古く、遥か昔の御伽話のようなものだ。雲山もまた太子の時代は知らないが、古の旧跡は人々の間で長く語り継がれ、今に至る信仰を獲得しているようだ。
一輪はしばらく本堂の周りを観察していたが、やがて、雲山にささやいた。

「雲山、僧侶や参詣の客がいないうちに、私を本堂の前に下ろしてくれない?」

雲山は顔をしかめる。娘一人で参拝など誰かに見られたら不自然に思われるだろうし、雲山がそばにいたら余計に怪しまれる。反対する雲山に、一輪は両手を合わせた。

「お願い。ほんの少しだけでいいの」

珍しく必死に雲山へ懇願する一輪に、雲山は少し心を揺さぶられる。思えば命蓮が病を治癒した伝説を頼りにここまで来たのだった。好奇心もあるだろうが、それだけでなく、病に臥せっている千歳が気がかりなのだ。
雲山は人がはけた隙を伺って、本堂の周辺に誰もいないのを充分に確認してから、素早く一輪を連れて本堂の目の前に降り立った。
本堂には命蓮が祀ったと伝えられる毘沙門天の像がある。一輪は雲山から降りるや否や、目を閉じて両手を合わせ、無言で祈りを捧げた。
千歳の病が良くなるように。言葉がなくとも、一輪の願いなどわかりきっている。果たして雲山は別のことを本堂の毘沙門天に、ひいては聖命蓮に願っていた。
千歳の嫗はかつて、雲山が一輪に災いをもたらすと言った。どうか一輪の身に災いが降りかからないように。千歳の杞憂で済むように。願わくば、雲山が己の力で一輪を生涯をかけて守れるようにと。

「――えっ?」

不意に一輪の驚いた声が聞こえて、雲山は目を開けた。すると、不思議や、人の気配には細心の注意を払っていたはずなのに、一輪と雲山の目の前にはいつのまにか年老いた僧侶が立っているのである。

「う、雲山、あの人……」

さっきまでそこにいた? 一輪の問いに雲山は首を横に振る。
見つかってしまった、どうしようと狼狽える二人に、僧侶は優しく穏やかな笑みを向けた。出立ちは質素ながら、佇まいは気品と慈愛に溢れ、さぞや特を積んだ名高き僧侶であろうと偲ばれた。
僧侶がすっと右腕を掲げる。その手の中にはどこから取り出したのか、鉢があり手のひらの上で浮遊している。僧侶が何がしかの合図をした、と同時に、鉢が空中を漂い、流星の如き速さでどこかへ飛び去って行った。あまりに非現実的な光景に言葉を失った二人は、呆然と鉢の消えた空の彼方へと目をやった。

「誰か、そこにいるのか」

その時、離れた場所から別の僧侶と思わしき人物の声が聞こえてくる。気がつくと、二人の前に現れた穏やかな僧侶の姿はどこにもなかった。
何が何だかわからないまま、雲山は慌てて一輪を乗せ、本堂を立ち去った。

「雲山、今の、見た?」

信貴山の人間達に見つからないほどの高みまで飛行した雲山は、一輪の興奮を隠しきれない声に、見たと頷いた。
法力で鉢を飛ばす――それは一輪から聞いた、命蓮の伝説と同じ話だった。もしあの僧侶が現代の修行僧でないなら、幻のように現れたあの僧侶の正体は。

「命蓮様だわ!」

一輪は声高に叫んだ。頬を紅潮させ、高揚を隠しもせずに一輪は嬉々と捲し立てた。

「雲山、あの方はきっと命蓮様よ! 命蓮様は天寿を全うして浄土へ生まれ変わった後も、こうやって憂き世の私達を見守っていてくださるのだわ!」

一輪はすっかりあの僧侶を命蓮だと思い込んでいるようで、これでおばあさまの病も良くなるはずよ、と無邪気に喜んでいる。
雲山には、あの僧侶が本当に命蓮かどうかなどわからない。けれど一輪が言うなら本当だと思った。
たとえ都合のいい幻想だとしても、かの命蓮が一輪の願いを聞き届けたのなら、一輪は喜ぶ。出かける前の曇りが晴れた一輪の明るい笑顔を見ているだけで、雲山は一輪を連れてきてよかったと思うのだった。
それにしても、あの僧侶は鉢をどこへ何のために飛ばしたのだろうか。方角からすれば、信濃とはまた別の方向に飛ばしたように見えなくもなかったのだが……。



その夜、一輪はいつものように、養母が寝静まった寝床で雲山と二人でひそひそ話を交わしていた。

「ねえ雲山、今日信貴山まで行って改めて思ったんだけどね、人伝てに聞くのと自分で見るのとじゃ全然違うわ。想像を膨らませるのも大事だけど、私はやっぱり自分の目で見る方がいいなって思ったの。私は雲山とならどこへでも行けるわ。この国の隅々まで、いいや、海を渡って大陸の天竺や震旦にだってたどり着けるかもしれない」

雲山は苦笑いを浮かべる。そんな気はしていたが、一輪には目に見えない幻想に思いを馳せるより具体的な経験を積む方が性に合っているようだ。しかし都や信貴山まで出かけて、いささか気が大きくなっているのだろうか。さすがに本当に海を渡ろうなんて言われたら止めに入ろう。
ふと、一輪は賑やかな調子を潜めて真剣な面持ちに変わった。

「雲山、いつも私のわがままを聞いてくれてありがとうね。私一人じゃ、この村を出ることだってままならないんだもの」

まっすぐに感謝を伝えられて、雲山は照れ臭くなる。そんないちいちお礼を言われるようなことではない。自分は一輪に従うと決めたのだ。一輪の言うことを聞くのは当然ではないか。
一輪は目を細めて雲山を見つめる。

「雲山。私、前に貴方のことをしもべだって言ったけど、取り消すわ」

雲山は目を丸くする。一輪は雲山が初めて村に来た時、友人の小鞠にしもべだと紹介した。雲山はそれでかまわなかった。一輪が肝の据わった、それでいて優しさを兼ね備えた、真の強さを持つ者だから、相手が年若い娘であろうと雲山は身を任せることを厭わないのだ。雲山がそう伝えると、一輪は困ったような顔をして首を振った。

「雲山は、私の……何と言えばいいのかしら。父親じゃない、お兄さんでもない、ましてや恋人や夫なんかじゃない」

一輪は自分でも的確な言葉を探しかねているのか、悩ましげに唸った。

「うまく言葉にできないけど、私はただ従う側、従える側だけじゃなくて、雲山ともっと対等な関係でいたいの。雲山は素敵な力を持っていて、私はそんな雲山を尊敬しているのよ」

ひたむきな言葉に、雲山はますます恥ずかしくなって顔も上げられなくなる。意外と照れ屋なのね、と一輪はおかしそうに笑っている。
しばらくして、一輪は眠気が襲ってきたのか目を閉ざし始める。おやすみ、の声に雲山もまたおやすみと返して、雲山は一輪の寝顔を見守った。
恥ずかしさが治ってくると、今度は温かな気持ちが雲山の胸を満たす。空を飛躍するのも、姿を変化させるのも、人間にとっては恐ろしい未知の力のはずなのに、一輪には魅力に映るようだ。
雲山にとっての一輪は何なのか。明るくて、聡明で、怖いもの知らずで、好奇心旺盛で、妖怪の雲山と同じ目線に立とうとしてくれる人間の娘。
悪行を懲らしめんと単身挑みにきた度胸に感服して、雲山は我が身が雲と消えても一輪を守りたいと願った。庇護欲、それは一輪の言うように決して男女の情を含むものではない。だが、妖怪と人間という歴然たる力の差を前にして、対等でありたいという一輪の願いに雲山は応えてやれるのだろうか。
雲山は静かに一輪を見つめていた。雲山も一輪同様に、はっきりした言葉は見つからない。けれど今は、一輪の花が開くような晴れやかな笑みをいつまでも守ってやりたいと強く思うのだった。

――二人はまだ知らない。絆を深める二人をよそに、一輪と雲山への冷たい眼差しは、日に日に増していることを。

「――入道を従えたとはいえ、いくらなんでも四六時中行動を共にするなど……一輪はどうにかしてしまったとしか思えない」
「若い女は狐憑きや神懸かりになりやすいというからなぁ。とっくに妖怪に乗っ取られてて、もう一輪の精神はまともじゃないかもしれん」
「いっそあの入道を連れて出て行ってくれないものかね。どうせみなしごだ」
「いいや、あの夫婦が許しやしないよ。あの夫婦も厄介な娘を引きとっちまったもんだね」
「なぁ、大声じゃ言えないが、千歳の婆様が臥せっているのは、やっぱりあの入道が村に来たせいじゃないか……」
「なんだ、あんたもそう思ってたのか」
「千歳の婆様は災いをもたらすって言ったんだぜ。まるで疫病神だな」
「ああ、あいつは気味が悪いよ、霞の中に入道の目玉だけがぼんやり光ってさ……そいつと当たり前のように話している一輪がどんなに不気味に見えるか、一輪は気づいてるのかね」



その日は朝から空が曇り、風が吹き荒れ、雨は降らないまでもどことなく不吉な予感が漂う晩夏だった。

「見える? ……そう。私の目じゃさすがに遠くまでは見渡せないわ。何か気づいたらすぐに知らせて」

緊張を孕んだ一輪の声に、雲山はうなずく。
雲山は一輪と二人、いつものように村の外へ見回りに出ていた。
いや、いつもと同じではない。もうじき、隣の村で市が開かれる。その賑やかな晴れの日を狙って賊が現れると噂が流れたのだ。
一輪の村ではどうやって賊の侵入を防ごうか、閉じこもろうかと連日騒ぎになる中、一輪が当たり前のように言い放った。

「もし賊が村の近くに現れたら、私と雲山で賊を退治してくるわ」

あまりに大胆不敵な宣言に、村の大人達はどよめいた。真っ先に「そんな危ないことはやめろ」と止めたのはあの気の弱い一輪の養父である。続いて養母も「入道退治の次は賊討伐かい、よしなよ、お前も女の子なんだから」と諌める。千歳の嫗は酷暑が落ち着いて小康状態を得たが、未だ起き上がるまではいかず会議の場にはいない。二人の反対を受けながら、一輪は毅然と返す。

「大丈夫よ、雲山ったらそこらの怪力自慢なんかよりよっぽど強い力を持ってるんだから。賊の一味を蹴散らすくらい大したことないわ」
「だけど、何もお前までついていくことはないだろう」
「いいじゃねぇか、行かせてやれば」

投げやりに言ったのは、壮年の男だった。軽蔑した目で一輪と雲山を見つめている。

「妖怪と小娘に何ができるか知らねえが、賊を追い払ってくれるなら万々歳、そうでなきゃそれまでの運だったってこったよ」
「おい、お前、そりゃあつまり……!」
「いいわ」

暗に一輪と雲山がどうなろうとかまわないと告げる男に、一輪は少しも感情を乱さず答えた。

「おじさん、おばさん、心配しないで。私はちゃんと帰ってくるから。雲山が一緒だもの、賊なんかにやられたりしないわ」

一輪は笑顔さえ見せて言い切った。そうして雲山は今、一輪と共に賊の訪れを警戒して見張っているのである。

「それにしても、雲山は反対しないのね」

反対したってどうせ聞かないだろうと告げれば、わかってるじゃないと笑った。それに、人の物を盗んだり集団で襲いかかったりという俗悪な者は雲山がもっとも嫌う類の輩だ。義心に狩られたのは一輪も雲山も同じ。この一点に対しては、雲山は一輪と気が合うようだ。

「雲山、これは好機なのよ。今まではただ見回りをするだけだったけど、もし雲山の力で賊を追い返すことができたら、みんなの雲山を見る目が変わるかもしれないじゃない」

一輪の面差しは真剣だった。一輪も、雲山と自分に向けられる悪意と嫌悪の眼差しを痛感しているのだろう。現状を打破したい。村を守りたい。そんな一輪の思いが、誰に頼まれたわけでもない賊退治へと向かわせた。
そんなにうまくいくだろうか、と懸念する雲山に、やってみなければわからないわと一輪は前向きである。
その時、雲山は向かい風の中に嗅ぎ慣れない臭いを感じ取って、神経を研ぎ澄ませた。

「雲山?」

一輪の体を引き寄せると、雲山は何者かがくると手短に告げた。一輪も眼下へ注意を払って見回している。
やがて、山道の向こうから物々しい一向が現れた。人数は十人ほどであろうか、身なりは武具などに包まれていかめしく、背中には弓、腰には刀と物騒なものを下げている。後方には牛に引かせた車があり、車には何をそんなに積んでいるのか、牛が鼻息荒く重たい牛車を引いて歩いているのであった。

「ほら、お出ましだわ。賊の類に容赦なし!」

一輪はいかめしい男達を見ても少しも気遅れすることなく、雲山に目配せした。あらかじめ一輪と共に段取りは考えてある。雲山は雲の体を普段よりいっそう大きく膨らませ、巨漢の姿となって一輪を連れ、村へと続く辻の中央に仁王立ちした。

「待ちなさい!」
「なっ、なんだ、あれは!?」

一向の先頭に立っていた男が、突然現れた雲山に驚いて腰の刀を引き抜く。他の者達もある者は動揺して腰を抜かし、ある者は無謀にも震える手で弓を引き絞って雲山に対抗しようとした。
一輪は雲山の手のひらの上に立ち、賊の一向を見下ろして勇ましく叫んだ。

「私の村に、賊なんて一人も入らせないわよ!」
「か、頭、あれが噂の見越入道か……?」
「いや、待て、あの化け物のそばにいるのは」

頭と呼ばれた男は、さすがに場数を踏んでいるのか、雲山を警戒しつつも冷静に観察している。そして雲山の傍らにいる一輪の姿に気づくと、鼻で笑った。

「なんだ、化け物はともかく、隣にいるのはよく見りゃただの小娘じゃないか」
「狐憑きってやつですかね。近づいたら俺達も操られちまうのかな……」
「狼狽えるな! 化け物一匹がなんだってんだ、あの娘も攫って売り飛ばしてやれ!」

賊の猛々しい遠吠えに、またか、と雲山は憤る。以前都の上空で遭遇した天狗もそうだが、一輪をか弱い小娘と見るや否や、恐怖から侮蔑の眼差しに変わる。卑劣な輩は人間も妖怪も同じだ。一輪を売り飛ばすなど冗談ではない。
雲山は怒りのままに右手を巨大な拳に変える。奈良の大仏の手のひらより大きな拳を振りかざした時、

「雲山!」

左手の中の一輪が叫んだ。

「一人でも殺しては駄目よ。うんと脅かして、恐怖をたっぷり植え付けて、この村には二度と手出しできないように帰ってもらうの。いい?」

一輪は不敵に笑った。一輪の意図を察して、雲山も笑みをこぼした。殺すなとは賊にかける慈悲ではなく、人間に手出しはしないと言った雲山の約束を違えぬためだ。そして、あえて賊を逃すことで村には恐ろしい妖怪がいて近づけないと噂を広めてもらおうという魂胆だ。
雲山は振り上げた拳を、地面に叩きつけた。大地震(おおなゐ)と錯覚するような地響きが辺りに広がり、賊の一味はまともに立っていられなくなる。

「雲山、地面はまずいわ、村にまで被害が出るかもしれない!」

一輪が即座に注意を促す。今の一撃で既に恐怖から戦意を喪失した者が三人ほど出たが、たしかに村に余波が行けば元も子もない。
めげずに矢を射る者がいるが、狙いが定まらず無辺世界を射抜いている。万が一を考えて一輪に届く前に指で叩き落とせば、下方から悲鳴が上がった。
後方を見やれば、地響きに驚いた牛が暴れ出し、牛飼童が賢明に宥めようとしている。

「あれよ! 積荷を叩き壊して!」

一輪の指示に従い、雲山は車に狙いを定めて積荷を砕いた。中から賊が奪ったであろう食料や衣類、財宝が溢れ出す。一人また一人と恐怖にかられた賊が逃げ出してゆく。我を忘れた牛が賊達に突進するのを見て、雲山は潰されたら面倒だと、牛の尾を指でつまんで持ち上げた。丸々と肥え太った牛があっさりつままれるのを見て、牛飼童は腰を抜かしている。そのまま牛を遥か後方へ放してやった。雲山の慈悲である。
仲間が散り散りに逃げてゆく中、最後まで残った賊の頭が刀を盾のように構えて抵抗を試みている。ここまで踏みとどまるのは立派だが、そんなへっぴり腰では勇気とも強さとも呼べない。雲山が眼光鋭く賊の頭を睨みつけると、ついに観念した頭が、刀を捨てて逃げていった。辺りにはただ、置き去りにされた賊の盗品が散らばるばかりである。

「……もう誰もいない? どこかに隠れてたりしないでしょうね?」

一輪は警戒を怠らず、辺りを一通り見回している。雲山も賊の気配を探るが、誰も見つからない。一人残らず逃げていったようだ。

「――やったわ!!」

一輪が雲山の手の中で跳ねた。危ない、落ちるぞという雲山の小言も聞かず、無邪気に雲山の指に抱きついた。

「すごい、すごいわ雲山! 本当に賊を追い返しちゃった!」

頼りになるわ、と褒めちぎられて、雲山は照れ臭くなる。自分だけの力ではない、一輪が的確な指示をくれたからだ。

「何を謙遜してるの、私の細っこい腕じゃ大人の男を叩きのめすなんてできないのよ。紛れもなく雲山のお手柄よ」

すぐにでも村のみんなに知らせよう、と一輪は上機嫌だ。ちらばった荷物は、盗品ゆえに手をつけないことにした。元の持ち主に返せればそれが良いよいのだが、一つ一つ見当をつけるのも無理な話だ。
一輪は意気揚々と村へ帰還し、「賊は雲山が追い払ってくれたわ」と告げたのだが、村の人間達の視線は冷え切っていた。

「あの地鳴りは入道のせいだったのか。こっちはすわ大地震の前触れかと気が気でなかったんだぞ」
「嫌だね、そのうちそこらの山まで砕いて村を潰してしまうんじゃないかい?」
「そもそも本当に賊を追い返したなんて証拠はあるのか。一輪、お前わざと話を大事にしてるだけじゃないのか」

などと、雲山はおろか一輪にまで疑いの眼差しを投げかけるのである。あんまりな言いがかりに一輪が黙っているはずもなかったのだが、雲山が宥めてどうにか事なきを得た。

「わからずや、頭でっかち、雲山よりずっとずっと頑固!」

納得のいかない一輪は荒れに荒れている。雲山は冷淡な人間に憤りを覚えたものの、はなから自分は褒美や賞賛など求めていない、一輪の果敢な姿は他でもない自分がきちんと見ていたのだから、と慰めたが、一輪は怒って食ってかかる。

「私はどうでもいいのよ! 一番頑張ったのは雲山じゃない。頑張った人がそれを認めてもらえないなんて不公平だわ」

雲山は圧倒された。一輪は雲山が村の人間達に認められないことを何よりも怒っているのだ。一輪にとっては一大事なのだろうが、雲山はもはや村の人間達からの承認などどうでもいいと思ってしまった。自分のために心を砕き、本気で怒りを露わにしてくれる人間は、目の前に一人いるのだから。
雲山はそれからずっと一輪の宥め役に回った。賊の脅威も去ったのだ、隣の村の市も滞りなく開催されるだろう。市で買い物をしたら、めでたい行事が待っているではないか。
その後、一輪の元に文が届けられた。あの大人しい娘、一輪の友人である小鞠からだ。【一輪さんの言ってること、私は本当だって信じるよ】との文字を見て、一輪はようやく少し機嫌を直したようだった。

「小鞠ちゃん、まだ雲山を怖がってるみたいだけど、これをきっかけに少しでも見直してくれないかなぁ」

雲山は小鞠の目が変わるより、一輪の心から曇りが晴れたのに安堵していた。



初秋の風は爽やかで、夏の鬱陶しさを吹き飛ばしてくれる。緑の深山ももう少しすれば赤く色づくだろう。あの千歳の嫗もようやく起き上がれるまでに回復して、村の雰囲気は明るかった。
この度、村では一つの慶事が行われようとしている。一輪と同じ年頃の娘、小鞠が結婚するのである。婿となる相手は同じく村の若者で、雲山はよく知らないが名前は竹丸といった。
さて、友人の婚儀となればめでたい出来事であるはずなのに、一輪は浮かない顔をしている。小鞠の前では明るく振る舞っているが、準備の最中で周りに誰もいない時、一輪は時折ため息をつく。
どうしたのか、と雲山が問えば、ううん、と曖昧な返事が返ってくる。めでたい席で一輪が沈んでいたら小鞠だって気にするだろう、と雲山が諭せば、一輪は苦笑した。

「雲山も心配性の仲間入りね」

一輪は辺りに誰もいないのを確認してから、ぽつぽつと話し始めた。

「先に言っておくけど、小鞠ちゃんに嫉妬してるとか、先を越されたって悔しがってるとか、そんなつまらない悩みじゃないからね。私はそこまでみみっちい女じゃないつもりよ」

一輪の尖った口ぶりがおかしくて、雲山は笑いそうになるのを堪える。雲山に若い娘の心はわからない。ゆえに一輪の危惧もよくわからないのだが、人間の娘は男には理解できない悩みを抱えがちなのだろう。

「逆よ、逆。小鞠ちゃんに一輪さんももうすぐだよね、なんて言われちゃって。それがなんか引っかかってるのよね……」

雲山は首を傾げる。年頃からいえば、一輪も小鞠同様に婿を迎えてもおかしくない齢である。人間は単体で同族を増やせないし、成熟した男女が結ばれるのは自然の成り行きに思われた。――もしや、雲山が日がな一輪に付き纏っているせいで、一輪が縁談から遠のいてしまっているのだろうか……心当たりがありすぎて焦る雲山に、一輪は淡々と言い放った。

「あのね雲山、男の人って一度にたくさんの妻を持つのよ」

雲山を見つめる一輪の眼があまりにも冷ややかで、雲山は自分が責められているわけでもないのにどぎまぎした。
一輪は雲山の様子には構わず、ため息をついて話を続ける。

「前におじさんとおばさんが喧嘩したでしょう? あれはね、おじさんがよその女の人の元へ通っているからなの」

あの気弱な男が浮気を? 雲山は俄には信じられなかった。しかし雲山には青天の霹靂でも一輪には日常茶飯事のようで、一輪は顔色を全く変えない。養い親の事情をどこか他人事のように語る一輪の横顔は、今までで一番、大人びた表情だった。

「世間ではそれが当たり前。女が浮気に怒ったら、嫉妬深い、器量が狭いってなじられるの。そのくせ、男が飽きて通ってこなくなったら女はそれでおしまい。いつ捨てられるかもわからない。それで幸せになれると思う?」

口にしてから、言い過ぎたと思ったのか、別に小鞠ちゃんが不幸になるってわけじゃないのよと付け加える。
雲山はなかなか一輪の思考回路に追いつけなかった。要は友の結婚は素直に祝いつつも、自分の幸せと結婚は別だと一輪は考えているのか。雲山は迂闊な答えを口に出せない。一輪の冷淡さが少しだけ怖かった。

「だいたい、どうして小鞠ちゃんが結婚するからって、私まで結婚しなくちゃいけないみたいな雰囲気になるのよ。……いいわ。行き遅れでも不具があるとでも、なんとでも言えばいいわ」

一輪は終いには、愚痴めいた言葉をぶつぶつ呟いて一人で完結させた。
前から薄々勘づいてはいたが、一輪は昔ながらの慣習にこだわらず、古臭さに囚われない柔軟さがある。世間の当たり前や不条理をそのまま受け入れず、疑問を投げかけ自分で考える癖を持っている。怖いもの知らずな性格といい、現代的な思考の持ち主なのかもしれない。しかし周りから見れば、一輪は突飛な言動の変わり者だろう。一輪もその自覚があるからこそ、雲山に疑問をぶつけつつも、答えは求めずにただ不満を吐き出して終わりにしたのかもしれない。
雲山は悩んだ。答えが出なくとも、せめて一輪を元気づけるような何か気の利いた言葉をかけてやりたいのに、何も浮かばない。こればかりは自分の不器用さが恨めしくなる。雲山が困っているのを見かねて、一輪は不意に微笑みかけた。

「それを思えば、昔話のかぐや姫は賢い女人だったのよ。五人の貴公子に求婚されても跳ねつけて、帝から入内を求められても拒んじゃった。そうして最後は穢れのない故郷の月へ昇ってゆく」

これも千歳の嫗から聞いたのだろうか、一輪は巧みに要点をまとめて語りかける。かぐや姫はなぜ結婚しないのか? それは地上の人間ではなく月の民だからだ。物語の構造はわかりやすいが、一輪のように結婚に暗澹たる思いを抱えている女人からすれば、かぐや姫の気高さは憧れに映るのかもしれない。
不満を吐き出して満足したのか、一輪はいたずらっぽく雲山に笑いかけた。

「だけど、雲山が結婚したくなったらいつでも言ってね。私がいい人を見つけてあげるから」

雲山は思いもよらぬ言葉に、頭に血をのぼらせる。何を馬鹿な、こっちだって急に結婚だの求められても困る。

「そうね、私もこの歳で姑なんて呼ばれるのは嫌かも」

雲山の反応がおかしいのか、一輪は腹を抱えて笑っている。この娘は、遙かに年上の妖怪である雲山すら子供を見ているような気分なのか。いや、一輪を継娘として扱うのもそれはそれで困るのだが。
ひとしきり笑って、一輪は気持ちを切り替えるように背伸びをした。

「さ、支度の続きを手伝ってあげなくちゃね。あんまり裕福な村じゃないけど、結婚にはできる限り新しい道具を用意するのよ」

こうした催事の指示は、千歳の知識によるところが多いのだという。村に一人でも知に長けた老人がいると重宝されるものだ。逆にいえば、老人がいなくなれば催事に関する指南も途絶えてしまう危険があるが。

「そうだ、おばあさまのところへ顔を出しましょう。おばあさまも小鞠ちゃんの結婚を気にかけていたから」

千歳は容態次第では祝いの席にも参列できるとのことだが、大事をとって今はまだ休んでいることの方が多い。一輪に連れられて、雲山も久々に千歳の嫗の顔を拝むことになった。
起き上がっている千歳は、頬こそ痩せこけているものの、夏にくらべればいくらか生気を取り戻したかのように見えた。一輪が小鞠や婿や婚礼の準備についてあれこれ語り聞かせると、千歳は重たい瞼を閉じたまま、一輪の話に何度となくうなずいていた。

「どうかお体をお大事にね。夏が過ぎたら、今度は急に朝晩が寒くなるんだもの、冷えは大敵だわ」
「一輪、千歳の婆様のお世話はこっちで滞りなくやってるんだから、余計な口を挟むんじゃないよ。お前は小鞠のところに戻りな」

世話役の中年女が、野良犬でも追い払うかのように一輪を邪険に扱う。この女もまた雲山と一輪を煙たがる者の一人だ。一輪は抗議しかけたが、一方で女の言い分ももっともだと思ったのか、しぶしぶ引き下がることにした。

「一輪や」

千歳の家を出ようとした一輪を、千歳がしゃがれ声で呼び止める。

「婿を取るとか、子を産むとかじゃなくてもいい。――私はお前にも幸せになってほしいと思ってるんだよ」

千歳の声は弱々しいのに、言葉ははっきりと雲山の耳にまで届いた。一輪はしばらく胸が詰まったように目を見開いていたが、やがて笑顔を浮かべた。

「ありがとう、おばあさま」

一輪は軽い足取りで千歳の家を出て行った。雲山は千歳が一輪にかけた言葉の意味を考えていた。一輪が結婚を渋っているのを知っていたのか。それとも、身内を亡くして一人になった千歳だからこそ、無理して結婚にこだわらなくともよいと思っているのだろうか。どちらにせよ、雲山より遥かに上手く一輪を励ましたのはたしかだった。
小鞠の家まで向かう途中で、一輪は一人の男とすれ違った。

「あ、小鞠ちゃんの……」

お父さん、と口にしたのを聞いて、雲山もこの男が小鞠の父だったと思い出す。大人しい娘とは違い、常にしかめっ面を貼り付けた気難しい大人だった。一輪が会釈をして通り過ぎようとしたところで、男が苦々しく口を開いた。

「一輪、祝いの場にそいつを連れてくるのはやめてくれ。不吉だ」

――針の筵に包まれるような心地がしたが、それは雲山が傷ついたのではなく、一輪が傷つきやしないかと恐れたためだ。一輪は何も答えなかった。何事もなかったかのように通りすぎて、男が遠ざかって、ようやく一輪はため息をついた。

「駄目ね、大人ってどうして頭が固いのかしら。雲山を村に連れてきてもうずいぶん経つのよ。雲山が何かしたわけでもないのに」

一輪はもはや怒りを通り越して呆れが勝るようで、爆発するより先に愚痴をこぼす。それに対して、雲山はやはりいつものように宥めるしかない。一輪が変わり者なのだ。普通の人間は妖怪を恐れるし、簡単に信用しない。志学にも満たぬ齢の娘と、見た目は歳を食った中年男の入道。どちらの言い分を信じるかなど、火を見るより明らかだ。一輪は悲しげな目をしたまま、口元をつり上げる。

「ねぇ、雲山。私が『それじゃあ私は露顕(ところあらわし)に行きません』って答えてたら、小鞠ちゃんは悲しむかしら」

一輪は半ば本気でそう思っている。雲山は一輪が気の迷いを起こさないように諌めた。自分は行かないから、せめて一輪だけは行ってやれ。元より自分はあの娘に怖がられているし、場違いなのはわかっている。仲のいい娘なんだろう、一輪が来なければ傷つくに決まっている。一時的に離れることになるが、祝いの場で何かあればすぐに駆けつけるから、と。
一輪は雲山の両頬に手を添え、額を寄せて静かにつぶやいた。

「ごめんね、雲山。雲山は悪くないのに、締め出すようなことになって、ごめんね」

今日の一輪は秋の空のように浮き沈みが激しい。千歳の願う一輪の幸せとは、果たして雲山の手で与えられるのだろうか。雲山は悲しげに目を伏せる一輪をどうすれば千歳のように慰められるのか、悩んでいた。



村は秋が深まりつつあった。小鞠の婚礼もつつがなく終わり、目立った風害もなかったために作物の収穫も予定通り行われそうな見込みで、村は活気に包まれていた。
ところが、村に野分の如き一陣の風が吹き荒れ、穏やかな空気は壊された。病が快方に向かっていたはずの千歳が、再び病をこじらせて床に臥せってしまったのである。夏に床へ着いた時よりも容態は悪く、村の人間達が総出で看病に当たっても一向に回復しない。次第に食事も受け付けなくなり、水を飲むのですらやっとの有様に、村の人間達は不吉な予感に苛まれた。
――このままでは、冬を待たずして、千歳の婆様は。言葉にこそしないが、村の人間達の心は一つだった。
千歳の有様に心を痛めているのは一輪も同じだった。なんとかして自分も看病にあたりたい、世話をしたいと懇願しても、すでに村の人間達は一輪を雲山と同じ不吉な存在とみなしている。一輪の懇願は無碍にあしらわれ、一輪は本当の祖母のように慕っている千歳と顔を合わせられないまま、ひたすら神仏に祈る日々が続いていた。

「雲山」

暗い顔をして突っ伏している一輪に、雲山は寄り添い続けた。なんと言って励ましていいのかわからないが、とにかく一輪を一人にしてはいけないと思った。

「命蓮様は、おばあさまの病を治してくれたわよね?」

雲山はいつか信貴山で見た僧侶の幻を思い出した。千歳の病を治癒してくれ、と祈る一輪の前に姿を現したのは、願いを聞き届けたからではなかったのか。一輪は雲山の体に縋り付く。

「おばあさまがお歳だから、季節が変わってちょっとまた別の病にかかってしまった……そうよね?」

一輪は命蓮への祈願が無意味だったと信じたくないのだ。千歳の命が消えかけていると、わかっていながら認めたくないのだ。
雲山は否定も肯定もせずに一輪のそばにいた。人間の命は、妖怪とは比べ物にならないほど儚い。人間の生き死にを、妖怪の雲山が語るのはお門違いだ。雲山は何も言わずに寄り添って、千歳の元へ行けない一輪の心をどうにか守ろうと思った。
――訃報が届いたのは、木々の葉が色を変え始めた頃だった。
人々は悲しみに暮れ、しかしいつまでも悲しみに浸ることを許されず、千歳の葬儀が行われる。皆墨染めの衣を着て、村は明かりが消えたように暗く寂しい空気が流れていた。

「わかっているのよ」

一輪もまたいつもの小袖を脱ぎ捨て、墨染めの衣に身を包んでいる。参列だけはどうにか許されたが、戻ってきてからも一輪の表情は暗く、重い。

「人はいつか死ぬの。避けられない定めなのよ。千歳おばあさまは大変お歳を召していたから、数年前からいつ死んでもおかしくないって繰り返していたわ」

一輪は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。こんな時まで訳知り顔で無理をしなくていい。雲山が一輪、と呼びかけると、一輪は袖で顔を覆い隠した。

「……それでも、つらくて悲しいのはどうしようもないわ」

一輪の墨染めの袖が、涙に濡れて濃さを増してゆく。
幼い頃から父に別れ、母に別れ、今度は祖母のように慕っていた嫗と別れ。一輪が今まで何度袖を濡らしてきたのだろうと思うと、雲山の胸にも悲しみが押し寄せてきた。
結局、雲山は千歳の嫗とはまともな言葉を交わせずじまいだった。千歳が雲山を認めてくれたのか、今はもはやたしかめようがない。けれど雲山は、初めて一輪に会った時よりも一輪の心を近くに感じているし、一輪の喜びも悲しみも雲山のそれであり、一輪を守りたいと以前にもまして強く思っている。
雲山は千歳の代わりになどなれはしない。だがこの身を賭してでも一輪を守り抜くから、どうか見守ってくれと、人間じみた思いを雲山は亡き千歳に馳せていた。
だが、千歳の死がもたらしたのは悲しみばかりではなかった。村の長老格の死。数多の人々にとっての精神的な支柱の喪失。千歳が教えた数々の知識は人々に残されたが、同時に彼女の残した言葉が、ねじ曲がって人々の心に影を落とした。

――あいつだ。あの入道さえ村に来なければ、千歳の婆様は……。
――あいつを連れてきたのは一輪だ。一輪は入道に取り憑かれて言いなりになっている。
――千歳の婆様だって言っていたじゃないか、あいつは災いをもたらすと。あの入道が千歳の婆様を殺したんだ。

やり場のない悲しみは、いつしか憎悪となって、恣意的に作られた標的に矛先を向けられる。
人間は妖怪を恐れた。襲いかかる姿を見なくとも、雲山が恐ろしくて仕方なかった。雲山に親しむ一輪も、雲山同様に疎まれていた。
ゆえに千歳の死を病だから、歳だからで割り切ることができずに、千歳への愛惜は雲山と一輪への憎悪に変わっていった。

「一輪」

まだ千歳の喪も明けない、曇り空のある日、一輪は雲山と共に村の暫定的なまとめ役となった養父に呼び出された。今は亡き千歳の家に、大勢の村の人間が押し寄せて一処に集められていた。
一輪は落ち着いていた。こうなると、心のどこかでわかっていたかのように。

「おじさん、まだおばあさまが亡くなって十日も経たないのよ。今は静かに弔いをしてあげましょうよ」
「お前、なぜ千歳の婆様が死んだのか、まだわからないのか?」

養父は普段の気弱さはどこへやら、高圧的に育ての娘である一輪にあたる。

「お前が入道なんか連れてきたせいだ。婆様がそいつが災いをもたらすと忠告したのを忘れたのか?」
「雲山のせいだって言いたいの? あんまりだわ! おばあさまの死は悲しいけど、何も雲山になすりつけることはないじゃない!」
「いいや、お前の親父さんだけじゃねぇ、ここにいる全員が決めたことなんだよ」

端にいた別の男が声を上げる。男が弓矢を携えているのを見て、一輪は目を丸くする。

「もう妖怪に怯えて暮らすのはうんざりだ。疲れちまってるんだよ、お前以外のみんなが。俺達の手で入道を仕留めれば、あの世で婆様も喜んでくださるだろうよ」
「雲山を退治するっていうの?」

一輪は立ち上がり、怒りを露わにして叫んだ。

「雲山は危険じゃないわ。雲山が一度でもみんなを襲った? 私に危害を加えた? 何もしていないじゃない! それどころか、村を狙う賊を追い払ってくれたのよ!」
「一輪さん……」

遠慮がちに声をかけたのは、小鞠だった。傍らには小鞠の夫もいる。一輪はか細い声を聞きつけるや否や、小鞠に駆け寄った。

「小鞠ちゃん、お願い、わかってよ。私のこと、信じてくれるんでしょう?」
「一輪さんは信じられるよ。だけど……妖怪は無理だよ」

一輪の表情が凍りついた。小鞠は気まずそうに目を逸らして、早口に告げた。

「妖怪は怖いよ。みんなそうなんだよ。一輪さんこそ、みんなの気持ちをわかってよ」
「そんな、思い出してよ、考え直してよ、雲山は……」
「この恩知らずが!」

突如、養父が顔を真っ赤にして一輪を怒鳴りつけた。雲山もまた呆気に取られた。この男がこんなに声を張り上げる様を見たことはない。一輪も初めて養父に怒鳴られた衝撃が大きいのか、目を見張っている。

「今まで誰がお前を育ててやったと思ってるんだ! 入道を退治するとか抜かしておきながら、今やすっかり入道の言いなりになっちまっている! 儂らの言うことより妖怪風情の肩を持つとは、なんたる親不孝者だ!」
「あんた、一輪に向かってなんてことを言うんだい!」

それまで沈黙を保っていた一輪の養母が、見かねて仲裁に入る。表情を曇らせる一輪と向き合い、悲しげに眉をひそめて淡々と話しかけた。

「一輪。あたしは本当にお前を信じているんだよ。お前が入道の言いなりだなんて思っちゃいない。だけど、やっぱりあたし達にはその入道を受け入れられないんだよ。……一輪、お願いだから、その入道と縁を切っておくれよ。そうすればみんな元の生活に丸く収まるんだ。わかるだろう?」

養母の眼差しは温かい。言葉も切実で、本心から血の繋がらない娘である一輪を心配しているのがひしひしと伝わってくる。けれど雲山は、一輪の心が砕ける音を聞いた。

「そんなの、絶対に嫌!!」

一輪は養母の手を振り払った。雲山の前に立ち、庇うように両手を広げて一輪はこの場の全員を睨みつけた。

「どうしても雲山を退治するなら、私を殺しなさい!」

一輪の啖呵に、雲山も仰天した。養父もさすがに気圧されて、何も言えずにいる。

「どうしたの、私は本気よ! その武器を納めるまで、私はどかないわ!」

一輪は足を踏み鳴らし、人間達を威嚇する。一輪の眼からは燃えるような怒りがほとばしっている。あまりの一輪の剣幕に皆たじろぐも、雲山は後ろの方で弓を構える人間がいたのを見逃さなかった。
――このままでは、一輪が本当に死んでしまう。雲山は咄嗟に雲の体を実体化させ、両手で一輪を抱き抱えた。

「雲山!? 何をするの、離して!」

人間達が気づくより早く、雲山は暴れる一輪を抑え込んで千歳の家を飛び出した。今にも泣き出しそうな空の下、雲山は一輪を抱えて雲の果てへと高く高く飛んだ。

「雲山、どうして逃げるのよ!」

人間の目では追えない高さまで来たところで、ようやく雲山は止まった。一輪が雲山の手の中で必死に抗議するも、雲山はそんなに暴れられたら落ちてしまう、と懸命に諭した。
一輪もろとも矢を射掛けようとする者がいた。一輪に温情をかける者もいるが、一輪ごと消えてしまっても構わないと考える者がいるのだ。もう説得は無理だ、あのまま村にいたら一輪が死んでしまう。
一輪は雲山を睨みつけて、猛々しく叫んだ。

「私は死ぬのなんか怖くないわ。雲山がいなくなってしまう方が嫌!」

その時、初めて雲山は怒りに身を任せて一輪を一喝した。
命が惜しくないなど馬鹿なことを言うな。一輪のような若者が簡単に死んでいいはずがない。
お前を死なせはしない。死なせてたまるものか。一輪が己を大切だと言ってくれるように、一輪もまた己にとって大切な存在だ。己が生涯をかけて一輪を守ると決めたのだから。
一輪は初めて雲山に叱られたのに驚いて目を丸くしていた。しかし養父に罵倒された時とは違い、その目に絶望の色はない。一輪はようやく落ち着いたのか、雲山の手の中にもたれて、ぽつりと言った。

「……ごめんね雲山。もう死ぬなんて軽々しく口にしないわ」

声には反省の色が滲んでいて、雲山も目元を緩めた。わかってくれたのならいい。雲山を思ってくれるのは嬉しいが、簡単に自分の命を差し出すような真似はもうしないでほしかった。

「私、もう村には戻れないね」

一輪は雲山の上から、眼下に遥か小さく見える故郷の村を見下ろしていた。今頃村は一輪が攫われたと大騒ぎだろう。養父は憤っているか。養母は嘆いているか。小鞠は悲しんでいるか。一輪は戻れないといったが、おそらく一輪はすでに故郷と訣別する覚悟を持っている。

「みんな、いい人だったのになぁ……雲山のことは、雲山と一緒にいたいっていう私の気持ちは受け入れてくれなかったのね」

一輪が故郷より雲山を選んだ理由はそれだ。雲山を受け入れてくれなかった。雲山に寄り添う一輪の心を理解してくれなかった。それが何より一輪を傷つけたのだ。

「私、もっとちゃんと話し合えばよかった。小鞠ちゃんの言う通りよ。わからずやなんて拗ねてないで、もっと丁寧に説明すればよかった。……今更遅いけどね」

その時、一滴の雫が雲山の体に落ちた。雨かと思ったが、一輪の頬を伝ってこぼれ落ちた涙だった。

「大丈夫よ、雲山」

涙は後から後から一輪の目から溢れて、雲山の体を濡らす。雲山が気遣わしげに声をかける前に、一輪は涙で歪んだ声で告げた。

「今は悲しくてたまらないけど、流れた涙は、私をまた浮かび上がらせてくれるんだから……」

一輪は袖で顔を覆って泣きじゃくった。それはいつか一輪から聞いた、千歳の励ましの言葉だった。
千歳は死んでしまったが、彼女の言葉が一輪の中で生きている。死してなお、一輪の背中を押し、立ち上がる力を与えてくれる。
雲山は一輪の背中を優しく撫でた。泣くな、とは言えなかった。涙を無理に堰き止めたところで、一輪の悲しみが消えてなくなるわけではない。ならばせめて、一輪の気の済むまで思い切り泣かせてやりたかった。空の上には一輪と雲山が二人だけ。誰も咎める者はいない。
しばらくして、泣き止んだ一輪は、最後に目元を袖で擦って雲山に明るく告げた。

「雲山、私と一緒に生きていきましょう。この世は広いのよ、もしかしたら、私のように雲山のことを大事に思ってくれる人が見つかるかもしれない。私は雲山と一緒ならどこまでだって行ける。みんなと離れたって、雲山がいれば怖くないわ」

泣き腫らした目元は真っ赤に腫れていたが、一輪の表情は晴天のように澄み切っていた。雲山も強く頷いた。元よりこの身は一輪に預けたようなものだ。一輪の行くところに、雲山はどこまでもついて行く。



それから二人の旅が始まったが、決して楽なものではなかった。
人間は定期的に食べ物を腹に入れ、水を飲まなければ生きて行けない。眠る時間も必要で、安全な寝ぐらも適宜確保しなければならない。
一輪の懐には砂金がほんの少し残っていたが、すぐに尽きるだろう。それに買い物をするにしても、物乞いをするにしても、雲山は一輪から離れないと一輪は食べ物を手に入れられない。村の人間がそうであるように、人間は一輪が雲山と一緒にいると恐れる。一輪も妖怪だと思い込むのだ。

『寄るな、化け物め!』
『あの娘はいったい何を言っているんだ。まるで狐憑きじゃないか』
『縁起でもない。早くどこかへ行ってくれ……』

自分に向けられる悪意や罵詈雑言なら構わない。けれど一輪までもがまるで人ならざる者であるかのように恐れ蔑む人間達の目を見ると、雲山は行き場のない憤りに駆られるのである。
――どうして人間は自分と異なる者を恐れ、憎み、侮辱し、遠ざけようとするのだろう。一輪が何をした。日々を生き抜くのに必死で、雲山より他に頼る者のない娘に何を恐れることがある。あの村の人間達だってそうだ、雲山が気がつかなければ一輪は卑怯な不意打ちで殺されていたかもしれない。
雲山は元より人間への私怨は持っていない。過去に人間を襲っていたのも、妖怪としての本能や矜持ゆえであった。だが一輪を守ることを己の支えにしている今、一輪に仇なす者を見ると、雲山の胸に抑えきれない衝動が込み上げてくる。そんな時、一輪は雲山の憎悪や怒りを見透かしたように厳しい目で咎めるのだった。

「雲山、無闇に人を威嚇しては駄目」

雲山が食い下がろうとすれば、一輪は怒りに目を尖らせる。

「最初に私と交わした約束を覚えてる? もし雲山が私のために誰かを殺すようなことがあったら、私は雲山と縁を切らなければならない」

一輪の言葉には単なる脅しではない凄みがあって、雲山も思わず口を閉ざす。たしかに初めて会った時に約束をした、人間をもう襲わないと。一輪は不意に目を細めて、雲山の雲の体に寄り添った。

「大丈夫だから。これぐらい覚悟の上で村を出たのよ。……雲山。人間に手をかけたら、雲山は本当に誰にも信じられなくなってしまうわ」

そんなの今更だ。元より自分は数多の人間を喰らった身、今更罪を重ねるのが恐ろしいとは思わない。

「それでも駄目。過去はなかったことにできないけど、これからずっと身の潔白を保てば、まだ雲山は信頼を得られるはずよ。雲山を信じてくれる人を、私と一緒に探すの」

まっすぐに見上げてくる一輪に、雲山もそれ以上強くは言えない。一輪以外に信じてくれる人間を探すなど、それこそ雲をつかむような話なのに、一輪は決して諦めない。一輪が信じるものを雲山も信じようと決めた時、雲山の中の憎悪が和らいだ気がした。
食べ物が尽きても、幸いにも一輪が山育ちで野草の知識を持っていたため、雲山は一輪と共に野草の生い茂る山中に降り立ち、これは食べられるもの、これは薬になるもの、これは毒のある危険なもの、と教えられながら、一緒にどうにか飢えを凌げるだけの野草を摘んで集めるのだった。それでも苦しい生活に変わりなかったが。
夜は空の上にいられないかと一輪は提案したが、雲山が却下した。夜は妖怪の活動時間、人間の目には見えずとも暗躍する者が数えきれないほどいる。野盗や人攫いの類なら雲山が追い払ってやるから、一輪は洞穴にでも身を隠して安心して眠ればいい。

「一緒に逃げて、穴倉に籠って、まるでいつかの昔話みたいね」

日が落ちて、ようやく見つけた洞穴の中に一輪を導いて自分は穴の外にいると、一輪は笑って話しかける。縁起でもない、と雲山は怒った。その昔話では、女は鬼に食べられて死んでしまうのだ。

「わかってるわよ。大丈夫、私は死なないわ。入道退治の次は、鬼退治だってやってやるんだから。私ね、鬼の弱点知ってるのよ。鬼はお酒が大好きだから、毒酒を飲ませて動けなくするの」

一輪は疲れ果てているはずなのに、明るく振る舞っている。日々の食べ物は限られ、頼れる相手は雲山の他におらず、村から着の身着のままできた墨染めの衣はすでに泥に塗れボロ切れのようだ。雲山を安心させるための空元気なのか。
ほどなくして、一輪は泥のように眠った。若く健康な娘なのに、体は少しずつ痩せ始め、髪も細く少なくなってゆく。雲山はなるべく一輪を乗せて飛ぶようにしているが、妖怪とて無尽蔵の体力を持つわけではない。飛行を続ければ次第に疲れも見え始め、察しのいい一輪は「雲山、自分で歩けるから」と雲山の上から降りて自らの足で石や泥や草の中を歩くのだ。負担をかけたくないと言っても「それは私も同じ」と譲ろうとしない。履物はとうに擦り切れて裸足同然で、柔らかい足が傷だらけになり腫れ上がっても一輪は泣き言一つ言わない。雲山が心配して声をかけても、歯をくいしばって汗を滲ませて一歩一歩、歩み続ける。
決して死なせやしない――けれど、これから冬になって寒さが厳しくなればますます一輪の体力は削られるだろう。悪さをする妖怪や人間ならいくらでも撃退してやれる。だが、彼女の心身に限界が来た時、雲山は何をしてやれるのだろうか。
雲山は悩み悩んだ。せめて寒さの和らぐ南へ向かえば少しでも一輪のためになるだろうか。今まで、雲山は圧倒的な力さえあれば一輪を守れると思い込んでいたけれど、そんな甘い話ではないのではないか。雲山は一睡もせずに夜を明かした。

「ねえ雲山、お願いがあるんだけど」

ある日、一輪は雲山を見上げて提案した。

「私を乗せて、雲山が飛べる一番高いところまで連れて行ってくれない?」

雲山は首をかしげた。特定の地域や村を目指せではなく、高くへ飛べとはどういう意味だろう。伝説にのみ聞く極楽浄土や蓬莱山を空の上から探そうとでもいうのか。

「あっはっは、見つかったら素敵よね。でも見つからなくてもいいの。最近、私達ずっと妖怪や人間から逃げ回ったり、地面に這いつくばって草をかき集めたりしてばかりじゃない? たまには気晴らしに空を散歩したいと思ったのよ」

そう言って、一輪は当たり前のように雲山の背中に乗った。そうか、と雲山もようやく合点がゆく。生き延びることにばかり必死で、雲山も一輪も心のゆとりを失くしていた。極限状態の頭は余計な思考しか吐き出さない。そうなる前に息抜きをしようと一輪は思い立ったのだ。こういうのは頑固な自分にない長所だな、と思いながら、雲山はどこまで飛んでいいのかと尋ねた。

「どこまででも、雲山の飛べるところまで! 今更高い場所が怖くなんかないわよ、落とさないでいてくれるんでしょう?」

一輪のいたずらっぽい笑みにつられて、それならばと雲山はひたすら上へ上へ、しがみつく一輪をしっかり支えて昇っていった。
やがて雲の中にまで突っ込むと、視界は一面霧がかかったかのように真っ白に染まる。

「雲って、地上から見ると綿の塊みたいだけど、ほとんど霞みたいなものなのね」

一輪は興味深く手を伸ばして、つかめない雲をつかもうとしている。己と同じだ、雲は小さな水の塊だから特定の形を持たない。雲山が実体を持たせられるのは妖怪だからだ。

「そうね。だけど雲って、遠くから見れば空に浮かんで、風に乗って、日によって姿を変えて、自由気ままに見えるのよ。私から見た雲山と同じ」

雲の海を突き抜けると、鮮やかな蒼天が広がっていた。雲山は雲の上までやってきたのだ。辺りに広がる白い雲が白波のように見える。一輪は雲の群れを見て、感嘆の吐息を漏らした。
そんなに我が身が自由だと思ったことはないんだけどな、と雲山は顔をしかめる。一輪はくすくす笑って、古い和歌を口ずさんだ。

「“ひさかたの天飛ぶ雲にありてしか“――昔の人も、私みたいに雲になりたいって願っていたのよ。この後は恋しい人に逢いたいって続くんだけど、私が探している人はまだ見つかりそうにないわ」

雲になりたい? 一輪はそんなことを考えているのかと問えば、一輪は真面目な顔をしてうなずいた。

「そうよ。悔しいけど、人間の私は妖怪の雲山よりずっと無力なんだもの。私だって、雲山に頼ってばかりじゃなくて、自分の力で空を飛びたい。好きなように姿を変えてみたい。そうだったら、いつまでも妖怪だの賊だのから逃げ回らなくてもいいし、私だって、雲山を……」

にわかに一輪の声が途切れて、雲山は慌てて一輪の顔を覗き込む。

「私も……雲居に住めたら……」

一輪の呼吸がどんどん荒くなる。喉元を抑えて苦しげにしている一輪を見て、雲山は即座に下降した。
雲の海を突き破ると、雲山の体は激しい雨に叩きつけられた。にわか雨だ。雲山はなるべく一輪の体が濡れないように注意を払いながら、雨脚の届かない木々の中に身を隠した。一輪の様子を見れば、体は濡れてしまったものの呼吸はすっかり落ち着いていて、雲山はひとまず安堵した。

「ごめんね、雲山。昇るにつれて、だんだん苦しくなってきちゃって。もう平気。高い山の上に登ると呼吸が苦しくなるって聞いたけど、人間は高いところでは生きられないのね」

木の葉を穿つ雨だれの音を聞きながら、一輪は名残惜しげに空を見上げた。くしゅん、とくしゃみが聞こえて、雲山は一輪が雨に濡れたままなのを思い出す。風邪をひいたら大変だ、今日はもう休もうと雲山は寝ぐらを探す。背中で一輪が寂しげに笑った気配がした。

「妖怪はいいわね。風邪もひかないし、空だって飛べるし、何にでもなれるし……寿命だって、人間よりずっと長い」

雲山の胸に不吉な予感が過ぎる。今日の一輪はどうしたのだろう。気晴らしをしようと言ったのはいい、けれど雲の海を見てから、一輪はまるで一輪の中の“人間”を疎ましく思うようなことばかり口にする。
疲れているのか。息ができなくなって、雨に打たれて、弱った体が悲鳴を上げているのではないか。

「そうね。疲れてるのかも。ちょっと早いけど休むね」

雲山が気遣うと、一輪は素直に頷いた。洞穴が見つからなかったので、仕方なしに木を少しだけ切り崩して、簡素な小屋を作る。一度濡れた衣を絞るというので、一瞬だけ一輪から離れる。衣だって一輪はあの墨染めの小袖しか持っていない、生乾きの衣をまた着るのだ。冬になる前にせめてあと一枚くらい調達できたらいいのだが。
もういいわよ、と一輪の声がして、雲山は一輪のそばへ行く。濡れた衣を着ている一輪の体が冷えないように、雲山は体の密度を上げて一輪を覆い隠す。「さすがに近すぎじゃない?」と一輪は苦笑するが、他に方法がないのだ、我慢してもらうしかない。決して邪なことはしない、と大真面目に告げれば、

「そんなのわかりきってるわ」

と、一輪はまっすぐに雲山を見つめた。
皮肉にも嫌な予感は的中し、夜の間に一輪は熱を出した。初めのうちは「平気よ、これくらいなんともないって」と強がっていたが、瞬く間に熱は急上昇し、一輪は高熱の苦しさにうなされて昏倒した。
全身が燃えるように熱く、汗が乾く暇もなくしとどに吹き出している。雲山は汗を拭ったり水を飲ませたりして、どうにか一輪の容体が回復するように努めた。だがそんなお為ごかしの対処では大した効果も得られず、一輪の呼吸は次第にか細くなってゆく。
雲山はひどく狼狽した。人間の体は脆い。このまま悪くなって、一輪が二度と起き上がれなくなってしまったらどうしよう。

「……大丈夫よ、雲山」

一輪は苦しいはずなのに、雲山を熱に潤んだ瞳で見上げて微笑みかけた。声は弱々しく、無理に喋るなと咎めるも、一輪は雲山を安心させるように手を伸ばした。

「一緒に生きようって言ったでしょう。雲山が私を守ってくれるのなら、私が雲山を守るから……。雲山を置いて、私だけ死んだりなんかしないから……」

力尽きたのか、一輪はまた眠りにつく。雲山に届く前に落ちた手を取れば、火がついたかのように熱を帯びていた。
妖怪は人間にとって妙薬となる力を持つ者もいるというが、雲山は病を治癒する力など持っていない。本物の人の身になれぬ入道では医師や薬師を連れてくることもできない。雲山にできるのは、せいぜい以前一輪から聞いた知識を元に薬草を集めてすり潰して飲ませてやるくらいだ。雲山は愕然とうなだれた。
……一輪の命がこのまま儚く消えてしまったら?
一輪は己を無力だと言った。しかし雲山もまた無力だ。守ると言っておきながら、苦しみ喘ぐ一輪をただ見ていることしかできない。
――神よ、仏よ。
そうだ、あの聖と謳われた僧侶、命蓮でもいい。
一輪を救ってくれ。
賢き帝の病を治したのだ、市井の民草を助けるくらい容易いことだろう。
あんなに祈りを捧げたのに千歳は助からなかったのだ、せめて一輪だけでも救ってくれ、聖命蓮よ。
雲山は藁にも縋る思いで、かつて見た僧侶の幻影に祈り続けた。
やがて、雲山の祈りが通じたのか、それとも若い一輪の体力が病に打ち勝ったのか、一輪の熱は二日ほど後に下がり始め、三日後には床から起き上がれるまでに回復した。

「雲山」

雲山は、水を汲みに行った間に目を覚まし、以前のようにしゃんと背を伸ばす一輪を見て、思わず涙をこぼしそうになった。

「心配かけてごめんね。もうすっかりよくなったから大丈夫よ」

雲山がすぐさまそばに寄り添うと、一輪もまた雲山の頬へ手を伸ばした。もう焼けるように熱くない、元の一輪の温かい手のひらだった。
よかった、無事に目を覚ましてくれてよかった。雲山が繰り返し言うと、一輪は得意げに笑った。

「そうでしょう。私、子供の頃から体はわりと丈夫なのよ。小さい時に疱瘡にかかったけど、あばた一つ残らず治ったんだから。……雲山、泣いているの?」

泣いてなどない。雲山は目頭の熱さを否定する。男が簡単に泣くわけがない。

「あら、人間の男の人は素直に泣くものよ。特に恋の駆け引きの時は、懐に水を入れた筒を忍ばせてまで泣き真似をするんだから」

一輪はそう言って雲山を慰めた。そんなに優しく声をかけられたら、ますます視界が曇って一輪の顔も見えなくなる。一輪は泣くのを弱さだと思っていないし、たとえ雲山が弱みを見せても気にしないでくれるだろうが、今はもう少し格好をつけさせてくれ。
雲山が落ち着いた頃、一輪はそうだ、と口を開いた。

「雲山、私、熱にうなされている間、夢を見たのよ」

一輪は神妙な顔つきで語り始めた。

「私の目の前に袈裟姿のお坊さんが立っていたの。お坊さんっていっても、お腹から上の方は紫雲が濃く立ち込めていて、足元しか見えなかったんだけどね。……ふふ、もちろん雲山みたいな見越入道じゃないわ。最初は命蓮様かと思ったけど、顔も見えないし、声も遠くて男の人なのか女の人なのか朧げで。だけど、たしかに私に向かってこう言ったのよ。『信貴山にいらっしゃい』と」

――まさか、命蓮が? 雲山は目を瞬く。一輪が病に臥せっている間、ずっと命蓮へ祈りを捧げていた。もしや命蓮が雲山の祈りを聞き届けて、一輪の夢枕に立ったのだろうか。

「雲山、もう一度信貴山へ行きましょう。命蓮様か、それとも他の人なのかわからないけど、きっとあの人は私達を導いてくれるのよ」

一輪の真剣な眼差しを受けて、雲山も同意した。
どうせ二人には行く当てなどないのだ。同じことなら、夢にでも何でも縋ってみるしかない。雲山は一輪を乗せて、再び奈良の信貴山を目指して飛んだ。



久々に訪れた信貴山は曇天の上に、何やら物々しく騒がしい雰囲気に包まれていた。
参道で行き交う人間の話に耳を傾けると、どうやら信貴山には一輪と雲山が訪れたお堂とはまた別に、新たなお寺が建っているらしい。白蓮なる若き尼僧が、あの命蓮の再来と言われるほどの優れた法力を発揮し、悪しき妖怪を退治して回っているという。

「雲山、前にそんな話、聞いた?」

雲山は首を横に振る。聞けば二人が以前本堂を訪ねた際にはすでに僧侶の噂は少しずつ広まっていたそうだが、本堂へ一直線に向かっていた二人は気づかなかったようだ。
これはまずいことになった、と雲山は唇を噛む。何も知らずに雲山はのこのこ山に入ってしまった。僧侶の噂が本当なら、雲山も退治されるかもしれない。

「雲山、早いうちに山を降りましょう」

一輪の言う通りにしたかったのだが、山にはあちこち妖怪封じの経文が書き付けられたり陣が張られたりしている。これも件の僧侶によるものか。あちらが駄目ならこちらへ引き返し、を繰り返すうちに、気がつけば雲山は同じ道を何度も歩まされているのに気づいた。

「駄目だわ、これ、どうやってもそこらの人間や妖怪に破れるような軟弱なものじゃない」

一輪が悔しそうに俯く。たしかに破るのは難い。陣の効果は空中にまで及んでいる。しかし、これらの陣が影響を与えるのは妖怪のみで、人間が触れても支障はないようだ。つまり、雲山は山から逃れられなくとも、一輪だけなら逃がすのは可能だということだ。
――もはやこれまでか。腹を括った雲山は、一輪を地面に下ろした。

「雲山? どうしたのよ」

雲山は一輪と目線を合わせ、真剣に告げた。
件の僧侶が来る前に、一輪だけでも山から降りろ。一緒にいればあの村の時と同様、一輪も妖怪とみなされて退治されてしまう。
一輪は顔を強張らせ、目を見張る。

「逃げるの? 雲山」

怒りを孕んだ低い声が雲山に突き刺さる。違う、こうなったらせめて一輪にだけでも生き延びてほしいのだ、と告げれば、目を尖らせた一輪が矢継ぎ早に言葉を浴びせかける。

「私との約束を破るの? 私を守ってくれるんじゃなかったの? 山を降りる途中で私が死んでも雲山は知らん顔をするっていうの?」

頼むから言うことを聞いてくれ、と雲山は叫ぶ。頑固なのは自分だけで充分だ、要領がよくて機転が効くのは一輪の方だったろう、と強い口調で告げれば、一輪は一歩も引かずに「嫌だ!」と叫んだ。

「今更私が雲山を見捨てて逃げられると本気で思ってるの? 元はといえば、私が信貴山へ行こうなんて言ったからこうなったんじゃない。どこまでも一緒よ。私は雲山のそばにいる。雲山が退治されるなら私だって、」

冗談じゃない、雲山は怒鳴る。自分の目の前で一輪が死ぬところなど見たくない。一輪の命は自分の命より重いのだ。どうしてそれがわからない。

「わからずやは雲山の方よ! 私は死ぬのなんて怖くない。生きとし生ける者はみんないつか死ぬの、顔も覚えてないお父さんも、お母さんも、千歳のおばあさまも、雲山、妖怪の貴方だって例外じゃない!」

一輪は雲山の体にしがみついた。絶対に離さないとでも言わんばかりに、強く抱きしめる。

「いつかみんな死ぬんだってわかっていても、これ以上、私の大切な人がいなくなるのは嫌。いくら怖いもの知らずの私だって耐えられなくなるわ」

……一輪。
雲山は、根負けして一輪を庇うように抱きしめた。いつも寡黙な雲山が、一輪に口で勝てるはずがなかった。たとえ雲山の死と引き換えに一輪が助かっても、一輪の心に一生消えない傷が残ってしまう。一輪から明るい性格が、晴れやかな笑みが失われたら、死んだも同然になってしまう。それでは一輪を守れたなんて言えない。
雲山はこの身に代えても一輪を守る。守る手段は、何も拳の怪力であらゆる脅威を弾き飛ばすばかりではなかった。雲山が感服し、敬愛し、付き従うあるがままの一輪の姿を守るのだ。
ほどなくして、足音が二つ、身を寄せ合う一輪と雲山の耳まで届いてきた。一人は間違いなく白蓮なる僧侶、もう一人は僧侶の供人か弟子か、とにかくただ者ならぬ気配をまとっていた。

「――おや」

覚悟を決めた二人は、真っ向から現れた僧侶と対峙した。右手には杖を携え、網代笠を深くかぶり、袈裟をまとった痩身の人物。声は思いの外高く、かなりの若者であると察せられた。僧侶はお互いを庇い合うように寄り添う一輪と雲山の姿を認めるや否や、深くかぶっていた網代笠を脱ぎ捨てた。

「おかしいですね。私は人間の娘が悪しき入道に拐かされたと聞いたのですが」

僧侶が口を開く。おっとりした、抑揚のある若い女人の声だった。網代笠を脱いだ僧侶の顔を見て、二人は息を呑んだ。

「まるで本物の親子のように寄り添っているのね」

髪は紫雲のたなびくように長く、末は金の砂子を散らしたように輝いている。肌は白く、張りがあって若々しい。垂れ気味の瞳は慈愛を湛えていて、匂うばかりの愛敬がある。噂の高僧がこんなにも若く美しい姿をしていたのかと、雲山は思わず我を忘れて見入っていた。僧侶は二人と目が合うや否や、菩薩のように優しく微笑んだ。

「聖、くれぐれも気をつけて。いざとなれば私も……」
「貴方は下がっていなさい。ここは私に任せて。ね?」

僧侶の後ろには袈裟姿に網代笠をかぶった、風変わりな娘が控えている。彼女の弟子だろうか、僧侶は後ろの娘に微笑みかけると、再び一輪と雲山に歩み寄った。
一輪はすかさず口火を切った。

「貴方、お坊さんなの? 雲山を退治しようったってそうはいかないわ。悪い妖怪だった時の雲山はもう私が退治したもの」
「それでは、今の入道は何なのですか?」
「雲山は……」

僧侶に尋ねられて、一輪は言い淀む。

『雲山は、私の……何と言えばいいのかしら。父親じゃない、お兄さんでもない、ましてや恋人や夫なんかじゃない』

まだ故郷の村にいた頃、一輪は雲山が自分にとって何なのか、明確な言葉にできずに悩んでいた。
やがて、一輪は僧侶に向き直り、まっすぐに見つめて毅然と告げた。

「雲山は、私の半身よ」

――なぜだろうか、雲山も一輪の言葉を聞いた途端、自分が一輪の半身で、一輪が自分の半身で、当たり前のように生きてきたように思われたのである。夫婦を表す比翼の鳥や連理の枝とは異なる、二人で一つの存在。
僧侶に届くかわからないが、雲山も声を上げた。同じく、この娘は己にとって半身も同然。あいにく見越入道としての生業はすでに破綻している、そちらが心ある僧侶ならお引き取り願おうか。
僧侶は二人の答えを聞いて、目を丸くする。

「……そう。やはり間違いなかったのだわ」

僧侶は目を細めて笑った。若い女人なのに、たとえば千歳の嫗のように長い人生経験を積んできた老人を彷彿とさせる、余裕のある笑みだった。

「人間と妖怪は、恐れ憎むばかりでなく、互いに手を取り合って生きて行けるのよ。貴方と入道のようにね」

僧侶が一歩、また一歩と二人に歩み寄る。雲山が咄嗟に一輪の前に出れば、即座に一輪も雲山を庇うように両腕を広げる。僧侶は声を立てて笑うばかりである。邪気というものがまったく感じられない。二人の目の前に来た僧侶は、穏やかな笑顔を浮かべて告げた。

「ねえ、もしよろしければ、私の弟子になってくれませんか? いいえ、むしろ私の方が貴方達に教えを乞いたいぐらいだわ」
「……へ?」

おおよそ理解のし難い言葉が飛んできて、一輪も雲山もそろって唖然とした。この僧侶は何と言った、これはこちらを油断させ懐柔するための罠なのか、しかし僧侶の微笑を見ると、到底嘘をついているようには見えないのである。

「たしかに私は僧侶として妖怪退治を生業としています。けれど一方では、力なく寄る方のない妖怪が人間と同じように存在していると知って、貴方達のような妖怪の保護もしているのです。貴方達を追い回す者がいるのなら、私が説き伏せましょう。身を隠すなら、私のお寺に居ればいいわ。これでも法力には自信があるのですよ」

僧侶はにこやかに話を続ける。そこでようやく、雲山より先に事態を咀嚼できた一輪が口を挟んだ。

「貴方、変だと思わないの?」

一輪は僧侶を真っ正面から鋭く睨みつけた。

「私が妖怪に唆されてるだけだって、騙されて一緒にいるんだって、雲山は悪いやつだって、そう思わないの?」
「思わないわ。貴方の曇りなき眼を見ればわかるもの」

僧侶にまっすぐに見つめられて、一輪も思わずたじろいだ。僧侶の瞳は深い紫色をしている。紫は高貴な色であり、また紫雲は御仏が乗るめでたい雲である。
次いで僧侶は雲山を見つめた。雲山は緊張で固まってしまう。すでに僧侶に対する警戒心はないが、雲山に向かってこんな優しい目を向ける者など、今まで一輪しかいなかった。

「よくこの子を守ってきたのね。数多の人間の悪意を受けながら、それでもこの子のために決して手を汚さなかった。立派なことですよ」
「……あ」

思わず声を漏らしたのは一輪である。一輪を見やると、一輪から僧侶への警戒や疑心が崩れてゆくのが見てとれた。
雲山は己に都合のいい夢を見ているのかと疑った。僧侶は紛れもなく雲山に向かって微笑みかけ、雲山の献身を労い、雲山の一輪を思う心を認めたのである。一輪が探し求めていた、雲山を受け入れ、正当に評価し、認めてくれる者が、目の前にいる。

「貴方達の間にあるのは、お互いを守ろうという強い意志。――どこに嘘偽りがあるというのかしら?」

僧侶は鮮やかに言い放った。雲山は改めて僧侶を見つめた。彼女の言葉に嘘偽りがないか、卑怯な企みが隠されていないか見定めるために。
雲山は僧侶の心を見た。雲山と対峙し続けてなお、僧侶は微笑を崩さない。果たして雲山の目に映ったのは――真っ白な蓮の花のように清廉な心だった。

「雲山!」

気がついたら、一輪が雲山に強く抱きついてきた。一輪もまた、この僧侶こそが探し求めていた人物であると思い知ったのだ。

「この世は広いのよ、いたんだわ、雲山を認めてくれる人が。妖怪の雲山と人間の私、両方を受け入れてくれる人が!」

一輪の声は涙ぐんでいた。雲山は一輪の流す涙を静かに受け止めた。初めて一輪が悲しみでなく、喜びの涙を流すところを見たのだ、心ゆくまで一輪の好きにさせてやりたい。そして雲山も緩む涙腺を無理に歪めようとはしなかった。男は素直に泣くものだと教えてくれたのは一輪だ。

「ありがとう。貴方は私の亡き母のように優しい人ね」

ほどなくして、一輪は照れ臭そうに涙を拭って僧侶へ向き直った。初対面の相手の前で泣いたのが恥ずかしくなったらしく、頬をかいている。ところが礼を言われた僧侶は、純粋な喜びでなく、苦笑の混じった複雑な表情を浮かべていた。

「私の行いは、ただの善行ではないのですよ。贖罪の意味でもあるのだから……」

僧侶が何事かをつぶやいたが、意味はよくわからなかった。しかし僧侶の顔に翳りが見えたのも一瞬のことで、僧侶はまた笑顔を浮かべた。

「改めまして、私は僧侶、白蓮。人々には聖と呼ばれています。貴方達の名前は?」
「私は雲居一輪。こっちの入道は雲山。あの、貴方の弟子になるって、出家するってこと?」
「ええ。修行僧はいつでも歓迎します。もし様を変えるのが躊躇われるなら、受戒だけを行うこともできますよ」

どうする? と尋ねるように一輪が雲山の顔を見る。元より入道は僧侶の別名だ。一輪が出家してもいいと思っているなら、雲山も本物の僧侶になってもかまわない。
雲山が目配せすると、それだけで通じたのか、一輪は笑顔を見せる。答えは出たようだ。

「なるわ、いいえ、なります。私も雲山も、貴方について行きます!」

一輪は深々と聖に頭を下げた。雲山も同様に頭を下げる。仏道に励むのがどういうものか、雲山はまだ知らないが、聖の庇護の元、一輪がこれ以上日々の暮らしに困窮しなくてよいのならそれでよかった。
そこで初めて、黙って聖達の成り行きを見守っていたもう一人の僧侶が口を開いた。

「さすがに鮮やかなお手並みですね、聖。それでは、貴方達がこれから私の妹弟子、弟弟子になるということでしょうか」

後ろに控えていた僧侶の娘が、初めて網代笠を脱いだ。露わになった金色に黒の混じった不思議な髪を見て、一輪と雲山は目を見張る。ただならぬ気配を放っているとは思っていたが、この娘、妖怪だ。娘は金色の瞳を細めて、にっこり笑った。

「はじめまして。私は寅丸星といいます」
「はじめまして。貴方、人間じゃないわね?」
「ええ。虎の妖怪です。私も聖に救われた妖怪の一人ですよ。今は聖の弟子として修行しています。もちろん人間の貴方に危害は加えません。一輪、雲山、共に聖の元で修行に励みましょう」

寅丸星と名乗った娘は穏やかな笑みを讃えていた。虎の妖怪といったが、獣らしい獰猛さはなく、温厚な雰囲気はどことなく聖に似ている。信頼の置ける相手だと即座に判断した一輪は、さっそく親しげな挨拶を交わした。

「よろしく、星!」

和やかな雰囲気に、雲山も胸を撫で下ろす。一輪は元より妖怪を恐れないし、女同士なら新しい場所での生活もいくらか気楽だろう。問題は、聖も星も雲山がまたろくに言葉を交わせそうにない相手だということだが、それも些末なことだ。雲山は生まれつきの無口なのだ、会話は社交家な一輪に任せればいい。
互いの自己紹介も済んだところで、聖は再び笠をかぶって先頭に立った。

「さぁ、一輪と雲山を私達のお寺に案内しましょう」
「けれど聖、入道退治の依頼はどう処理するのですか?」
「無事に調伏を終えているから心配ありません、と私から説明します。一輪と雲山も安心していいわよ」
「ああ……なるほど、たしかに今の雲山から邪気は微塵も感じられませんし、何も問題ありませんね。そうだ、隠岐の島に出没する舟幽霊の話はどうします? 信貴山から足を運べなくもありませんが」
「私の法力なら陸路でも海路でも容易いことです」

聖と星は道案内の傍らで盛んに妖怪退治の話をしている。隠岐とはまた遠くの地名が出たものだ。この聖白蓮、よほど高僧として名が知れ渡っているようだ。しかし妖怪退治の傍らで肝心の妖怪にまで慈悲を見せるとは、一体人間達の間でどのような立ち回りをしているのだろう。
二人の後を追いながら、雲山はふと気になったことがあって、一輪を呼び止めた。

「え? 何、雲山」

先ほど、一輪は聖に“雲居一輪”と名乗ったが、雲山は今までそんな名前は聞いたことがない。雲山と初めて会った時も一輪としか告げなかった。養い親二人も雲居とは名乗っていなかったし、故郷の村にも“雲居”なる人物はいなかったはずである。一輪に尋ねると、

「それは当たり前よ。さっき初めて名乗った、自分でつけたものなんだから」

あっけらかんと答えるものだから、雲山は空いた口が塞がらない。たしかに一輪の身元を知る者はもはやいないし、自称くらい好き勝手に名乗ってもいい気はするが、なぜ今になって“雲居”なる氏だか苗字だかを名乗ったのだ。

「だって、今日は私達の新たな門出なのよ? 名前しかないんじゃ格好つかないわ。雲山は相変わらず石頭ね」

呆れたように腰に手を当てて、一輪は雲山の目をまっすぐに見つめた。聖の称した通り、曇りのない、澄み切った眼だ。

「雲のある所――それが、私の居場所だから」

不意に雲の切れ間から日の光が差して、一輪の顔を明るく照らす。息を呑んだ雲山に、一輪は晴れやかに笑った。花が綻ぶような笑顔だった。
雲山は改めて思う。雲山の隣が一輪の居場所なら、雲山の居場所は一輪の隣だ。たとえ暮らす場所が変わっても、様を変え僧侶になっても、一輪が新たな名を名乗っても、この身を賭して一輪を守ってゆくと決めた雲山の覚悟は、決して揺るがない。

「さあ、行くわよ、雲山!」

一輪は高らかに呼びかけて、足取りが遅いのを気にして手招きする聖と星の元へ駆け出した。雲山は一輪にぴたりと寄り添って、光の差す方へ飛んでいった。
話の都合上オリキャラ出まくったのがちょっと申し訳ない一輪さんと雲山の過去話。なんとか平安っぽくしようとがんばりました。雲山とコンビの一輪さんはまだ人間で、聖さんはもう若返っていて、星ちゃんはまだ毘沙門天の弟子じゃない、ムラサとはこれから出会う、そんなイメージです。
一輪さんを書く時、どうしても雲山が空気になってしまうなーと雲山の目線で一輪さんと雲山の過去や絆を書いてみました。一輪さんは昔から明るく肝が据わったハイカラ少女だといいなと思っています。
朝顔
https://twitter.com/asagao_0710
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100サク_ウマ削除
めちゃくちゃ良かったです。やっぱり命蓮寺組の過去話はとても映えて良いですね。
3.100削除
文章はすらすらと読みやすいですし、二人の心情描写には心揺さぶられました。文句無しの満点です。
4.100疾楓迅蕾削除
時代に沿った描写がとても丁寧でよかったです。
一輪のさっぱりとした性格がとても鮮烈に描かれており、一輪とそれを見守る雲山をもっと好きになりました。
この先地底に封じられると思うと胸が痛いですが、そのもっと先での星蓮船での聖復活を果さんとする一輪たちの感情への解像度が上がった気がします。
面白かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
丁寧に綴られる出会いの物語、とても良かったです。
雲山との出会いで一輪が一つの転機を迎えて、経験を積みながら悩んでいく様が素敵でした。さらには、今後へと新たな展開へとつながる白蓮との出会いで物語の締めとされていたのが、美しくて感動的ですらありました。
6.100南条削除
面白かったです
穏やかな気持ちで読めました
好奇心旺盛な一輪がかわいらしかったです
7.100夏後冬前削除
100kbあることをまったく感じずスラスラと読めてしまいました。ストーリーがシンプルなところが一輪と雲山のコンビに素晴らしくマッチしていたのと、一輪の胆の座り方が展開を引っ張って行ってるところがすごく一輪らしいと感じて良かったです。聖が出てきた辺りの救われた感、お見事でした。
8.100名前が無い程度の能力削除
冒頭における一輪と雲山のそれぞれの独立した信頼が物語の中で溶け合って、最後に雲の半身となる構成が爽快に描かれていて素晴らしかったです。
9.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。長編にもかかわらずすらっと読むことできました。
文章自体の読みやすさもありますが、構成も王道かつしっかり書き上げられており、良い小説になっていると思いました。
原作のことを考えると最後にハッピーエンドが待っている、と最初から解っているため、途中の不穏な展開もストレスなく読むことができました。
心理描写も丁寧で、単に聖に会って救われた……ではなく、どういう心持と成長で原作に至ったかが細かく描かれており、大変読みごたえがありました。
有難う御座いました。
10.100モブ削除
どうか一輪に光があればと思ってしまいますね。なによりも一輪の人間としての強さに惹かれるお話でした。ご馳走様でした。面白かったです。
11.100めそふ削除
丁寧でとても読み易い文章で、すごく面白い話でした。
王道って感じの話の展開で、おおよその予測がつくからこそ読んでて安心できるんですよね。一輪と雲山というキャラクターに真っ直ぐさが感じられるからこそ、こういう爽やかな進み具合が良かったです。