草むらの中に、乱れた金の髪が広がる。何が起きたのかわからないといった様子の目は、押し倒した星を戸惑いながら見上げている。
「藍は……私が虎だってこと、忘れてるんじゃない?」
細い手首を地面に縫い付けて、星は藍を見下ろした。瞳に宿るぎらぎらとした光は、獰猛な獣そのものだった。
◇
「この前の弾幕花火大会は面白かったね」
命蓮寺の星の私室で、藍はゆったりとくつろぎながら語りかけた。密教に関心を持つ藍は、時折個人的な目的で命蓮寺を訪れる。そのついでに星の私室に立ち寄って、たわいもない談笑をするのである。
「ええ。花火にしては物騒だったけど、それぞれの個性が見てとれて興味深かったわ。藍も参加すればよかったのに」
「紫様に貴方は観客席にいなさいと命じられていたからね」
藍の規則的な弾幕がどのような評価を下されるのか見たかったのだが、残念ながら藍の出る幕はなかった。藍の主人たるスキマ妖怪は、あのような事態が起こるのを初めから知っていたのだろう。
「見ているだけでも楽しかったよ。星の弾幕を三つも見れたし、それに」
目を細めた藍に、星は嫌な予感がして冷や汗を流す。三つのうち二つは当初の予定通りの、平和な花火大会の間に披露したものだ。しかし最後の一つは――。
「普段は温厚な顔をしていて、案外野性的な素顔も持ってるんだね?」
あまり触れてほしくなかったことに触れられて、星は慌てふためく。
「だ、だって、そういう催しだと思ったんですよ!」
「敬語が戻ってるよ」
言い訳をする星に、藍はのんきに笑っている。
最初は観客に被害の出ない安全な花火大会のはずだった。それが途中から小人と天邪鬼のコンビ、それに乗っかる妖怪達によってデンジャラスでスリルに満ちた弾幕大会と化したのだ。危うく負傷者が出るところだった……などと傍観者ぶって批判していられない。不殺生戒はどこへやら、星はてっきりそういう趣向だと勘違いして、思いっきり殺意を込めた弾幕を放ってしまったのだ。聖ですら『霊夢さん達が受け止めてくれるから』と楽観的だったのだから仕方ない。
いくら満月の夜で高揚していたとはいえ、さすがに僧侶としてどうなのか、と頭を抱える星へ、宥めるように藍は言う。
「紫様は弾幕をよく竹林の中の獰猛な虎に見立てていると褒めていらしたよ」
「……ええと、よかったのかしら?」
「結果的に怪我人も出なかったんだからいいんじゃないか? 人間達も盛り上がっていたし」
賢者の式神である藍に言われると安堵する。しかし八雲紫はやはり侮れない。見かけは一応法の光を装っていたのに、星が奥の奥に隠している虎の本性を看破してくる。
「やっぱり、満月の夜には虎になるの?」
「誓って人間に手出しはしないわ。人を喰らっていたあの頃には戻れないし、戻るつもりもないから」
決して人間は襲わないと断言しておく。聖と出会い、修行を積んで虎の本能はずいぶん小さく、大人しくなったが、完全に消えてなくなったわけではない。せめて普段は影の薄い、僅かに残った本能を忘れないようにと、自戒の意味を込めてスペルカードに名残を残した。弾幕ごっこになると気分が高揚するのであまり自戒になっていないが。あるいは普段抑えている本能を曝け出す自由が弾幕にはあるのかもしれない。
「星が披露した弾幕を分析するなら、財宝と、仏法と、猛虎か」
指折り数えて、藍は口元をつり上げる。
「毘沙門天の代理である財宝の妖怪。仏法を極めた僧侶、聖白蓮の弟子。今や滅多に拝めない獰猛な人喰い虎。……貴方は三界の女神のように、いや、阿修羅のようにと言うべきかな? 三つの顔を持っているんだね」
悠々とした笑みに、星は釈然としない思いを抱く。弾幕は自己表現のようなものとはいえ、一方的に訳知り顔をされるのは面白くない。せめて藍もあの日に弾幕を放ってくれればよかったのに、紫の命令となると藍は非常に大人しい。星は不満を口にした。
「私ばかり見透かされてるみたいだけど、そういう藍はどんな素顔を隠しているの?」
「何も隠してなんかないよ。貴方にあまり嘘はつきたくないからね」
片目をつむる仕草がいやに様になっている。きざったらしい文句も、つい本心なのかと信用しそうになってしまう。
方程式そのものである式神が憑依しているためか、藍の思考は理知的だ。加えて妖獣のおおらかな気質により、星からすれば余裕のある佇まいに見える。弾幕花火大会の件に限らず、そんな藍に翻弄されるのは、いつも星の方だ。
自分の式神をうまく扱えなかったり、命令以外となるとてんで駄目になるところもあるが、それすら星には魅力に見えてくる。これが惚れた欲目というものか。
「……ずるいわ」
藍に聞こえないように、星は小さな声で不満をつぶやく。
ほのかな憧れが、いつしか恋情へ変わり、結ばれてなお、藍は星にとって秘密を抱えたどこか遠い存在だった。両思いのはずがまるで片恋のようで、星は人知れず嘆息する。
◇
「――だからね、弾幕は美しさだけじゃなくてパンチも必要なのよ」
「一輪の弾幕は文字通りのパンチじゃない……というか、また弾幕の話?」
藍が帰ってから、星は今度は自論を熱弁する一輪に捕まった。どうやらムラサと弾幕談義を交わして、その熱が冷めやらないらしい。弾幕花火大会の余韻かどこもかしこも弾幕の話題ばかりだ。さすがにそろそろ弾幕アレルギーになりそう、とげんなりした星の顔を見て、一輪は目を瞬く。
「またって、ああ、藍さんと話してたのね」
理解が早い。一輪は藍と星の関係を知っているので気安い面はあるのだが、一方で何かと普段真面目な星の恋路をからかいたがるため深入りされるのは避けたかった。
一輪はさっそく、傍らの気遣わしげな雲山を無視してにやりと話しかける。
「恋人との逢瀬の後の割には浮かない顔じゃない」
「からかわないで。……恋人っていっても、私は藍のことをまだまだ知らないのよ。藍はなんだか謎めいてるっていうか」
「まあ、主人があの人だからねぇ。そりゃ影響も受けるでしょう」
一輪はしみじみ同意する。星の脳裏に紫の胡散臭い笑みが浮かんだ。幻想郷を作った賢者の一人、神隠しの主犯、二つ名は多いが何を考えているのか全くわからない不気味な妖怪だ。方や藍の謎は、紫と出会う前の過去を本人があまり語りたがらないゆえであり、紫のような底知れなさはさほど感じない。
せめてもう少し昔話に花を咲かせてくれれば……と思うも、当の藍がどうでもいい、忘れたと言い張るのだから埒があかない。かつて大陸にいて名を馳せた話は断片的に聞いたが、数々の傾国の伝説がすべて藍のものなのかまでは定かでない。
「いつも私ばかり藍に振り回されている。そんな気がするのよ」
星は愚痴をこぼす。
二人を繋いだ発端を思い起こせば、互いに敬愛する主人を持ち扱いづらい部下に悩むという共通点を見出し、親近感を抱いたことだった。些細なきっかけから交流を持ち、親交を深め、いつしか星は藍に恋をしていた。これはいけない、僧侶にふさわしくないと否定しようとしたものの、結局星は己の恋心を殺せなかった。紆余曲折の末に成就したのはめでたいことだが、致し方ないとはいえ、藍と星とでは恋愛経験に差があり過ぎるのだ。
藍はいつも余裕綽々で、悠然と構えていて、星の言葉一つに動揺しない。少々理不尽に思えて、無我の境地を求めて修行を積む星も、この不満はなかなか治りそうになかった。
星の話を聞いて腕を組んでいた一輪は、不意に声を上げた。
「だったら虎になっちゃえば?」
「……はい?」
唐突な提案に星は眉をひそめた。一輪はこないだの弾幕花火大会みたく、と語り始める。
「虎の威を借る狐っていうじゃない。虎は狐より強いはずよ」
「いや、狐といっても藍は九尾だし、あの八雲紫の式神よ」
あまりにも格が違いすぎる。毘沙門天の弟子、命蓮寺の御本尊と肩書きは立派だが、それらの立場を離れた星はただの一妖怪に過ぎない。対して藍は妖獣の最高峰、九尾の妖狐だ。おまけに紫の式神によって頭脳は超人的ときている。どちらが勝るかなど目に見えていた。
「そうかしら? 案外星の方からガブっといっちゃえば意表を突けるかもしれないわよ」
一輪のあけすけな言い様に、星は顔をひきつらせる。まさか藍を捕食しろとでも? それとも、そういう意味で“食べろ”というのか? ――想像した途端、顔中に全身の血が集まり出す。
「よ、よ、余計なお世話だってば」
「一線を超えても、聖様には内緒にしておいてあげるから」
「超えません!!」
いたずらっぽく笑う一輪に、星は強く抗議する。不邪淫戒はどこへ行った、とは、僧侶でありながら恋人を持った時点で言いっこなしだと口をつぐむ。そもそも女同士で何を超えるというのか。ふと星はト一ハ一なる言葉を思い出して、すぐに打ち消した。滅殺せよ煩悩。
とはいえ、このままではもやもやしてすっきりしないのも事実である。虎に戻らない、と藍には言ったが、星が噛みつきたいのは人間ではなく藍だ。満月の夜、人の形から獰猛な虎へ――あまりにベタなシチュエーションではあるが、たまには一輪の戯れに乗っかるのも悪くない。普段己をよく律する星も、まだ血湧き肉躍る弾幕花火大会の熱気が内側に残っていたのだろうか。あるいはどうせもう観衆の前であんな弾幕を披露したのだし、と開き直っていたのもあるかもしれない。やめとけばいいのに、と口うるさい理性を滅殺しきれない煩悩が押しのけた。
その後、星は『今度の満月の夜に逢いましょう』と手紙をしたためてナズーリンに渡した。星は藍の棲家を知らないが、ナズーリンなら藍本人か、藍の使役する式神を見つけて届けてくれるはずである。一応、寺の外へ出かけるので事前に聖へ許可を取ったのだが、聖は苦笑しつつ『決して羽目を外さないように、なんてまあ、今の私が言っても説得力はありませんね』と許してくれた。
果たして藍の返事は快諾だった。では迷いの竹林の前で、とは藍も趣向がわかっている。橋渡し役を任されたナズーリンは『こんな文使は二度とごめんですよ』と苦い顔をしていたが、星は黙殺した。
◇
満月の光は妖怪を狂わせる。迷いの竹林は、独特な地形と成長の速い竹のせいで訪れる者の方向感覚を狂わせる。二重の狂気を孕んだ場所で、星は藍の訪れを待っていた。竹林には入るなと固く言われていたから、星は竹林の入り口で鬱蒼と茂る竹林を眺めていた。
時折、竹林を棲家とする妖怪を見かけたが、星は今なら誰に藍との逢瀬を見られても気にならないと思った。早くも気分が高揚して、正気を失い始めているのかもしれない。
「こんばんは。待ったかな?」
「こんばんは。さっき来たばかりよ」
やがて、空の向こうから藍が一直線に飛んできた。地面に降り立った藍の金色の九尾が月よりも輝いている。藍を前にすると、ますます星は心穏やかでいられなかった。満月のせいか、一矢報いてやると意気込んでいるせいか、いつもより落ち着かない。
すぐさま星の異変を見抜いた藍が、気遣わしげに問いかける。
「何だかいつもと様子が違うね。もしかしてあの花火大会の時も、月の狂気にあてられた?」
「そうかもね。やけに血が騒ぐと思ったのよ」
「満月は恐ろしい。私もじっと見つめていると正気を失いそうになるんだ」
「月なんか見なくていいのよ。私だけを見ればいいの」
「おや、もしかして私は口説かれているの?」
「口説いてるわ」
お喋りはこのくらいでいいだろう。藍の腕を引いて、星は自分から唇を奪った。噛みつくような、とはこのことを言うのだろう。藍の目が一瞬大きく見開かれたものの、すぐに口付けに応じてきた。唇から藍の生温かい熱が伝わってきて、一枚、理性の皮が剥がれる音がする。
藍の腕が自然と星の背中に周り、星も自分の方へ引き倒すようにしがみついた。薄く目を開くと、藍は目を開けたまま星を見つめている。一瞬かち合った瞳の、余裕を残した色が気に食わない。自分から仕掛けたのだ、負けるものかと星はむきになって、角度を変え強く唇を押し当てる。
正しい作法なんて知らない。ロマンもムードも知らない。皮膚の表面を合わせるだけの単純な接触なのに、慣れないせいかすぐに息が上がってくる。不意に、星は唇をこじ開けようとする“何か”の感触を察して、噛むような勢いでいっそう固く唇を閉じた。受け入れたら、たちまち藍に主導権を奪われてしまう。つぶった目の向こうで藍が薄く笑った気配がして、急激に体温が上昇する。言葉にせずとも経験の差を語られているようで悔しい。
虚勢を張っても、慣れない口付けには限界がくる。これ以上は息が続かない、目眩を覚えた星は唇を離した。新鮮な空気が一気に肺へ流れ込んできて、星はむせ返りそうになる。藍の濡れた唇が月の光を浴びて艶かしく光っていた。
「……今日は、えらく積極的だね?」
「こういう、のは、嫌い?」
「まさか」
荒い呼吸を誤魔化すように、星は藍の胸に体を寄せた。どくどくと忙しく脈打つ心臓の音が、藍の胸からも聞こえてくる。よかった、自分ばかりが昂っているわけではない。勢いで藍の理性を引っぺがしてしまえればよかったのだけど、藍はまだ冷静さを残している。藍の胸元に顔を埋めたまま、星は問いかけた。
「ねぇ、藍。貴方にも獣だった時代があるの?」
「もちろん。私は妖獣だから、元はただの狐だった。長生きするうちにいつしか妖術を身につけて……まぁ、いろいろとあったね」
「美女に扮して国を傾けたり?」
「昔のことだよ。今は誰も知らない」
率直に尋ねても、やはり藍ははぐらかしてしまう。否定しないくせに、詳らかに教えてはくれない。長生きの妖怪は数えきれないほどいるのに、本当に過去の藍を覚えていない者などいるだろうか――胸の奥に青白い焔が立つ。足るを知る境地には遠いと、星は改めて思った。
これだけ近くにいても、藍の正体は謎に包まれている。神秘であるゆえに、暴きたくなる。また一枚、理性の皮が剥がれ落ちる。
「私自身、昔のことは普段は忘れているよ。式神であれば事足りるのだから」
「忘れている、ねぇ」
「貴方にもう嘘はつかないよ」
「どうでしょうね」
藍は嘘つきではないけれど、冗談は平気で口にする。この前は絆されかけたが、藍のような知に長けた者は特に信用ならない。素知らぬ顔をして、昔の恋人と比べていたりするんじゃないのか。
理性の皮が剥がれてゆくと同時に、星の中で眠りについたはずの虎が顔をのぞかせる。言葉にし難い感情を渦巻かせている星の頭上で、藍が笑った気配がした。
「貴方は可愛いね」
「何? 私にそういう“可愛い”を言うのは藍くらいよ」
「いや。貴方にやきもちを妬かれると嬉しくてさ。貴方が何を考えているのか当ててみようか。どうやって私の余裕を崩そうか、心を掻き乱そうか……そうだろう?」
藍が言葉を紡ぐたびに、星の中の虎が疼き出す。藍はわざと星の神経を逆撫でしているのだろうか。
自分ばかり余裕な表情をして、もうどうなったって知らない。星の埋み火を燃えさせた藍が悪い。いや、星は最初から理性の手綱を手放していたのではなかったか。
「みんなそうするのさ。何としてでも私の心を手に入れようと手管の限りを尽くして、やがて身を崩すんだ」
「……ひどい女じゃない。今まで何人泣かせてきたの」
「女は貴方しか知らないよ」
聞き分けのない幼子をあやすような答えが、星の最後の理性をぶち壊した。別に世の男が気にするような純潔なんてどうでもいいが、何もそんな形で馬鹿正直に白状しなくてもいいじゃないか。
胸を焦がす欲望が、抑えきれないほどに膨れ上がる。その澄ました顔を崩してやりたい。滅茶苦茶にしてやりたい。星のために困ればいい、煩わしく思えばいい。恐怖でも歓喜でもいいから私のために涙を流して泣けばいいんだ。
大陸の伝承にはこのようにある。人から虎になった男が、躊躇いながらも餓えに逆らえず、獣を喰らい、ついには人を喰らってしまう。それは月夜の出来事だった。
寅丸星という妖怪を生み出した、虎を恐れた人々の想像には、そんな伝承も組み込まれていたのか?
「――憎ッたらしい」
星の内なる獣が、牙を剥いた。
両肩をつかんで、藍の体を勢いよく地面に押し倒した。不意を突かれた藍は目を白黒させて、己の上にまたがって見下ろす星を見つめている。
「貴方はいつか、『自分が式神であるのを忘れている』と指摘されたようだけど、忘れているのはそれだけ?」
「……星?」
藍の髪が乱れて草むらに広がる。金色の見事な尾も、野分に倒された哀れな稲穂のように体の下敷きになっている。
肩に置いた手をそっと首筋へ滑らせる。鋭く尖った爪が藍の喉に食い込んだ。月明かりの下、細い喉が病的なまでに白く見える。
もっと深く爪を立てたら、赤い血が滴るのか。想像しただけで恍惚とした気分になり肌が粟立つ。満月のせいか、戒律なんてもはや頭から吹っ飛んでいた。
「藍は……私が虎だってこと、忘れているんじゃない?」
星は知らず知らずのうちに湧いた唾を飲み下す。藍は九尾の妖狐だ。妖獣の最高峰と謳われるその肉は美味いのか。喰らえば星も力を得るのか。甘美で生臭い血の臭いも、舌が蕩けるような肉の味も、きっと星の腹を満たしてくれるだろう。けれど、そんな一時の食欲を満たすものに興味はない。
今よりもっと、触れて、委ねて。二人の境界すらわからなくなるほど重なり合って、混ざり合えば、この心の飢えは満たされるだろうか?
言葉を失った藍の瞳に反射する星の瞳は、野卑で獰猛な虎そのものだった。もっと暴きたい。もっと押し入りたい。誰も知らないところまで、私だけが、藍を。昔のことをもう誰も覚えていないのなら、今この藍を知るのは星だけになる。余す所なくとまでは言わないから、独り占めしたい。
「どんな男が貴方に触れたの。どんな風に籠絡して、肌を合わせて、享楽を恣にしたの」
手のひらが藍の頬に触れる。燃えるように熱いのは自分の手のひらか、藍の肌か。
もう一度唇を奪おうか。胸元に噛み付こうか。それとも、もっと深いところに消えない痕を刻もうか? 考えるうちに、藍の吐息が耳元にかかる距離にあった。このまま顔を埋めて――星が口を開けた、その時だった。
ぐらり、と体が大きく傾いた。視界が半回転して、柔らかい土と草の感触が頭と背中に触れる。虚を突かれて何が起きたのかわけがわからない星の上に、藍の低い声が降ってきた。
「そうだね、私はいつも大事なことを忘れてしまう」
気がつけば、見下ろされているのは星の方だった。月の光が、ちょうど藍の影に隠れて見えなくなる。藍の顔も暗くてよく見えない。
「虎の威を借る狐、というように、狐は虎に弱いもの。思い出させてくれてありがとう。――貴方の知りたいことを教えてあげるよ」
「ら、ん……ッ!」
有無を言わせず、藍は呼吸を奪った。星が噛み付いた時よりも勢いは激しく、星はたちまち息苦しくなる。もがいても両足は藍の間に挟まれ、両手は藍の腕を叩いてもびくともしない。暴れる星の体を押さえ込んで、何もかもを根こそぎ奪い取る暴力的な口付けは続く。藍のきつい抱擁で、星の抵抗する力が次第に弱まっていった。
やわい粘膜を舌でかき回されて、星は反射的に(死ぬ)と思った。息を止められて、心を奪われて、藍に殺される。意識が薄らぐ中、恐怖とも恍惚ともつかぬ感情が星を満たした。
やがて呼吸を止められる苦痛に耐えかねて、どうにか爪を藍の腕に食い込ませる。ようやく藍は離れていった。数度激しく咳き込んで、星は必死に胸元を押さえる。妖怪は息を止められたぐらいで死なないが、苦しいものは苦しい。荒い呼吸で唾液に濡れた口元が冷えてゆく。藍はこれ見よがしに舌なめずりをして、うっすら微笑んだ。激しい口付けのためか、藍の唇が煽情的な赤みを帯びている。
静かに爪を研ぐ藍が恐ろしいのに、胸は不思議と高鳴っている。自分にそんな被虐的な嗜好があっただろうか。恥ずかしいのか、気持ちいいのか、悔しいのか、嬉しいのか、わけがわからない。一瞬のうちに何もかもをひっくり返されて混乱している星の耳元に唇を寄せて、藍は湿度を帯びた声でささやいた。
「心配しなくても、私だって貴方に心を揺さぶられるし、どうしようもないほど惚れている。……わからない?」
「あ……」
「私に火をつけた貴方が悪いんだ。ねぇ、星は考えたことがある? 貴方のそばにはいつも古い付き合いの仲間がいる。私には決して入れない、深い繋がり。たとえば私が時折、一輪だとかムラサだとかに妬いて、嫉妬の炎に身を焼かれている……とか」
「ぅ、あ……」
閨の睦言は空言に等しい。思いもよらぬ告白に目を見張った星は『嘘でしょう?』と返したかったのだが、息が詰まって声が出ない。藍も満月の狂気にあてられているのか。藍の鋭く尖らせた目には星を貫く殺気が感じられて、もしかして本気なのでは、と思わせる凄みがあった。胸の動悸が激しくなる。
こんな藍は知らない。こんな風に体をぴたりと重ねて、眼光鋭く目の前の獲物を見据えて、野蛮な肉欲を隠さない藍は見たことがない。式神でも狐でもない女が目の前にいる。――星が藍の理性を剥がしたというのか?
呆然と見上げる星に、不意に藍は目元を緩めて、うっそり笑った。
「でも、いいよ、星になら何をされても。私を食べたいんだろう?」
「あ、や、その……」
あからさまな言葉にされて、星は狼狽する。明らかに捕食者は藍の方なのに、藍は己の肢体をまるで餌の肉塊であるかのように、星の目の前に投げ出した。捨身飼虎。なぜかそんな言葉が脳裏をよぎって、目眩がした。
頭がぐちゃぐちゃになって、言葉が続かない。追い詰めたつもりで、先ほどの口付けでいとも簡単に籠絡された。星が藍を食べる――どうやって? 抵抗するそぶりを一切見せないのに、そのくせまったく隙がない。露出の少ない衣装の袖口から伸びる腕は細く、白く、艶めかしい。藍の腕に生々しく残る星の爪痕に、無意識のうちに釘付けになる。
「ひっ!」
「ほら、さっきまでの勢いはどうしたの? 今の貴方は澄ました毘沙門天じゃない、ただの虎なんだから」
首筋、頚動脈のあたりを藍の舌が這って、星は悲鳴を上げる。手は胸元の際どいところを弄っている。このままでは心臓を一突きにされるだろう。
色情と見せかけて殺気。殺気と見せかけて色情。藍は巧みな視線や指先の動きでその境界を行ったり来たりし、星を翻弄する。
虎になればいいじゃない――そう一輪は言ったけど、いざ噛みついたら、あっさり反撃されてしまった。陶酔の境地に押しやられて、藍に頭のてっぺんから、余す処なく貪られる。どうしたらいい? 羞恥と混乱で頭の中はとっ散らかっている。口を開いても、声はまともな言葉の形にならず、意味のない呻きと吐息だけが漏れてゆく。
狼狽える星を見下ろして、藍は妖艶な笑みを浮かべた。芙蓉のかんばせ、柳の眉。見る者すべてを骨抜きにするような、一瞬で魂を支配するような、ぞっとする微笑だった。藍はそのまま、歌うようにささやいた。
「星。私を好きにしてごらんよ?」
――脳が沸騰して、目の裏がちかちかする。星は血が昇って、首元まで真っ赤に染まるのを悟った。そんな顔で微笑まれたら、何もできやしない。
藍から滲み出る妖気は、できるものならやってみろと挑発するかのようで、それに値する力のない者への牽制でもある。ああ、負けだ。好きにして、なんて、それは星の台詞だったんだ。
藍に再び唇を押し当てられた時、喰われる、と星は目をつぶった。
◇
翌朝、ほうぼうの体で帰ってきた星を出迎えたのは一輪と雲山である。くたびれた様子に雲山は驚愕しているが、一輪は構わず真っ先に問いかける。
「ちょっと、どうだったの? ゆうべはお楽しみでしたね、ってやつ?」
「聖と毘沙門天様に誓ってそのようなことは一切ありません」
星は引き攣った笑顔できっぱり答えた。一輪は期待外れ、といった表情をしているが知ったところではない。
実際、一線を超えることなど何一つなかった。あの後、まな板の鯉と化した星に与えられたのは、生ぬるい触れ合いに子供の悪戯のような愛撫。もうどうにでもなってしまえと腹を括ったのに、ものの見事に藍にからかわれて終わりだった。おまけに星が理性を取り戻しかけた頃になって竹林に住む狼女と遭遇し、『あー、お邪魔しました、ごゆっくり』と言わんばかりの生暖かい視線で通り過ぎられたのは弱り目に祟り目としか言いようがない。
『そうだ。私のスペルカードに“憑依荼枳尼天”と名づけたものがあるんだけど……荼枳尼天については、私より星の方が詳しいよね?』
などと最後に藍は抜け抜けとのたまった。知っているとも。仏教の神で狐を使いにした女人の姿で、あるいは性愛を司ると見做されることもある。つまり昨夜の藍の振る舞いは、演技も混じっているということなのだろう。まんまと狐につままれた。
「何なのよ、もう……」
ようやく自室にたどり着いた星は、膝を折って座り込む。頭が冷えてくると、自分の大胆な行動があまりにも恥ずかしく、勢いに任せて過ちを犯さなくてよかったと猛省する。普段の自制的な星を慮って、藍はあのような戯れで終わらせたのだろうか。結果としてそれでよかったと思いつつ、やっぱりしてやられた悔しさが残る。
藍に貴方に心を揺さぶられる、なんてささやかれた気がしたが、ちっとも割に合わない。そもそもあれらの言葉のどこまでが本当だったのだろう。さすがに星を翻弄した藍の言動すべてが冗談だった、なんて思いたくないが。戯れで殺されかけたらたまったものではない。
それでも、星が求めていた、藍についてわかったことはいくつかあった。
かつて大陸で傾国の美女と謳われたのはおそらく本当だ。圧倒的な手練手管を持ち、言葉や仕草で相手を魅了する。美貌に頼らずとも見る者を虜にするだろう。
加えて、星が気圧されてしまうほど力のある妖獣だ。昨夜、藍が星を追い詰めた時に見せた殺気は本物だった。つくづく式神なんて器に収まっているのが信じられない。
そして何より重要なことが一つ。
「たとえ虎に戻っても、私に藍を喰らうなんてできないわ……」
これも一時の煩悩に身を委ねる勿れ、大人しく精進せよ、という御仏や毘沙門天様の思し召しか。後で聖に心ゆくまで説教してもらおうか。
次に藍と会う時は弾幕で挑もう。件の蠱惑的な荼枳尼天に対抗すべきは清廉な毘沙門天だ。どうせ幻想郷には弾幕ジャンキーしかいないのだ、そもそもの発端が弾幕だったのだし、すべては弾幕で語ればいいんだろう? せいぜい軌道の読めないレーザーに苦しめ。
藍が油揚げを好むので失念していたが、狐もまた肉食の獣である。標的に定められ、追い詰められ、魅了されたら、哀れな虎の子はそれでおしまい。星はため息と共に畳へ崩れ落ちた。
「藍は……私が虎だってこと、忘れてるんじゃない?」
細い手首を地面に縫い付けて、星は藍を見下ろした。瞳に宿るぎらぎらとした光は、獰猛な獣そのものだった。
◇
「この前の弾幕花火大会は面白かったね」
命蓮寺の星の私室で、藍はゆったりとくつろぎながら語りかけた。密教に関心を持つ藍は、時折個人的な目的で命蓮寺を訪れる。そのついでに星の私室に立ち寄って、たわいもない談笑をするのである。
「ええ。花火にしては物騒だったけど、それぞれの個性が見てとれて興味深かったわ。藍も参加すればよかったのに」
「紫様に貴方は観客席にいなさいと命じられていたからね」
藍の規則的な弾幕がどのような評価を下されるのか見たかったのだが、残念ながら藍の出る幕はなかった。藍の主人たるスキマ妖怪は、あのような事態が起こるのを初めから知っていたのだろう。
「見ているだけでも楽しかったよ。星の弾幕を三つも見れたし、それに」
目を細めた藍に、星は嫌な予感がして冷や汗を流す。三つのうち二つは当初の予定通りの、平和な花火大会の間に披露したものだ。しかし最後の一つは――。
「普段は温厚な顔をしていて、案外野性的な素顔も持ってるんだね?」
あまり触れてほしくなかったことに触れられて、星は慌てふためく。
「だ、だって、そういう催しだと思ったんですよ!」
「敬語が戻ってるよ」
言い訳をする星に、藍はのんきに笑っている。
最初は観客に被害の出ない安全な花火大会のはずだった。それが途中から小人と天邪鬼のコンビ、それに乗っかる妖怪達によってデンジャラスでスリルに満ちた弾幕大会と化したのだ。危うく負傷者が出るところだった……などと傍観者ぶって批判していられない。不殺生戒はどこへやら、星はてっきりそういう趣向だと勘違いして、思いっきり殺意を込めた弾幕を放ってしまったのだ。聖ですら『霊夢さん達が受け止めてくれるから』と楽観的だったのだから仕方ない。
いくら満月の夜で高揚していたとはいえ、さすがに僧侶としてどうなのか、と頭を抱える星へ、宥めるように藍は言う。
「紫様は弾幕をよく竹林の中の獰猛な虎に見立てていると褒めていらしたよ」
「……ええと、よかったのかしら?」
「結果的に怪我人も出なかったんだからいいんじゃないか? 人間達も盛り上がっていたし」
賢者の式神である藍に言われると安堵する。しかし八雲紫はやはり侮れない。見かけは一応法の光を装っていたのに、星が奥の奥に隠している虎の本性を看破してくる。
「やっぱり、満月の夜には虎になるの?」
「誓って人間に手出しはしないわ。人を喰らっていたあの頃には戻れないし、戻るつもりもないから」
決して人間は襲わないと断言しておく。聖と出会い、修行を積んで虎の本能はずいぶん小さく、大人しくなったが、完全に消えてなくなったわけではない。せめて普段は影の薄い、僅かに残った本能を忘れないようにと、自戒の意味を込めてスペルカードに名残を残した。弾幕ごっこになると気分が高揚するのであまり自戒になっていないが。あるいは普段抑えている本能を曝け出す自由が弾幕にはあるのかもしれない。
「星が披露した弾幕を分析するなら、財宝と、仏法と、猛虎か」
指折り数えて、藍は口元をつり上げる。
「毘沙門天の代理である財宝の妖怪。仏法を極めた僧侶、聖白蓮の弟子。今や滅多に拝めない獰猛な人喰い虎。……貴方は三界の女神のように、いや、阿修羅のようにと言うべきかな? 三つの顔を持っているんだね」
悠々とした笑みに、星は釈然としない思いを抱く。弾幕は自己表現のようなものとはいえ、一方的に訳知り顔をされるのは面白くない。せめて藍もあの日に弾幕を放ってくれればよかったのに、紫の命令となると藍は非常に大人しい。星は不満を口にした。
「私ばかり見透かされてるみたいだけど、そういう藍はどんな素顔を隠しているの?」
「何も隠してなんかないよ。貴方にあまり嘘はつきたくないからね」
片目をつむる仕草がいやに様になっている。きざったらしい文句も、つい本心なのかと信用しそうになってしまう。
方程式そのものである式神が憑依しているためか、藍の思考は理知的だ。加えて妖獣のおおらかな気質により、星からすれば余裕のある佇まいに見える。弾幕花火大会の件に限らず、そんな藍に翻弄されるのは、いつも星の方だ。
自分の式神をうまく扱えなかったり、命令以外となるとてんで駄目になるところもあるが、それすら星には魅力に見えてくる。これが惚れた欲目というものか。
「……ずるいわ」
藍に聞こえないように、星は小さな声で不満をつぶやく。
ほのかな憧れが、いつしか恋情へ変わり、結ばれてなお、藍は星にとって秘密を抱えたどこか遠い存在だった。両思いのはずがまるで片恋のようで、星は人知れず嘆息する。
◇
「――だからね、弾幕は美しさだけじゃなくてパンチも必要なのよ」
「一輪の弾幕は文字通りのパンチじゃない……というか、また弾幕の話?」
藍が帰ってから、星は今度は自論を熱弁する一輪に捕まった。どうやらムラサと弾幕談義を交わして、その熱が冷めやらないらしい。弾幕花火大会の余韻かどこもかしこも弾幕の話題ばかりだ。さすがにそろそろ弾幕アレルギーになりそう、とげんなりした星の顔を見て、一輪は目を瞬く。
「またって、ああ、藍さんと話してたのね」
理解が早い。一輪は藍と星の関係を知っているので気安い面はあるのだが、一方で何かと普段真面目な星の恋路をからかいたがるため深入りされるのは避けたかった。
一輪はさっそく、傍らの気遣わしげな雲山を無視してにやりと話しかける。
「恋人との逢瀬の後の割には浮かない顔じゃない」
「からかわないで。……恋人っていっても、私は藍のことをまだまだ知らないのよ。藍はなんだか謎めいてるっていうか」
「まあ、主人があの人だからねぇ。そりゃ影響も受けるでしょう」
一輪はしみじみ同意する。星の脳裏に紫の胡散臭い笑みが浮かんだ。幻想郷を作った賢者の一人、神隠しの主犯、二つ名は多いが何を考えているのか全くわからない不気味な妖怪だ。方や藍の謎は、紫と出会う前の過去を本人があまり語りたがらないゆえであり、紫のような底知れなさはさほど感じない。
せめてもう少し昔話に花を咲かせてくれれば……と思うも、当の藍がどうでもいい、忘れたと言い張るのだから埒があかない。かつて大陸にいて名を馳せた話は断片的に聞いたが、数々の傾国の伝説がすべて藍のものなのかまでは定かでない。
「いつも私ばかり藍に振り回されている。そんな気がするのよ」
星は愚痴をこぼす。
二人を繋いだ発端を思い起こせば、互いに敬愛する主人を持ち扱いづらい部下に悩むという共通点を見出し、親近感を抱いたことだった。些細なきっかけから交流を持ち、親交を深め、いつしか星は藍に恋をしていた。これはいけない、僧侶にふさわしくないと否定しようとしたものの、結局星は己の恋心を殺せなかった。紆余曲折の末に成就したのはめでたいことだが、致し方ないとはいえ、藍と星とでは恋愛経験に差があり過ぎるのだ。
藍はいつも余裕綽々で、悠然と構えていて、星の言葉一つに動揺しない。少々理不尽に思えて、無我の境地を求めて修行を積む星も、この不満はなかなか治りそうになかった。
星の話を聞いて腕を組んでいた一輪は、不意に声を上げた。
「だったら虎になっちゃえば?」
「……はい?」
唐突な提案に星は眉をひそめた。一輪はこないだの弾幕花火大会みたく、と語り始める。
「虎の威を借る狐っていうじゃない。虎は狐より強いはずよ」
「いや、狐といっても藍は九尾だし、あの八雲紫の式神よ」
あまりにも格が違いすぎる。毘沙門天の弟子、命蓮寺の御本尊と肩書きは立派だが、それらの立場を離れた星はただの一妖怪に過ぎない。対して藍は妖獣の最高峰、九尾の妖狐だ。おまけに紫の式神によって頭脳は超人的ときている。どちらが勝るかなど目に見えていた。
「そうかしら? 案外星の方からガブっといっちゃえば意表を突けるかもしれないわよ」
一輪のあけすけな言い様に、星は顔をひきつらせる。まさか藍を捕食しろとでも? それとも、そういう意味で“食べろ”というのか? ――想像した途端、顔中に全身の血が集まり出す。
「よ、よ、余計なお世話だってば」
「一線を超えても、聖様には内緒にしておいてあげるから」
「超えません!!」
いたずらっぽく笑う一輪に、星は強く抗議する。不邪淫戒はどこへ行った、とは、僧侶でありながら恋人を持った時点で言いっこなしだと口をつぐむ。そもそも女同士で何を超えるというのか。ふと星はト一ハ一なる言葉を思い出して、すぐに打ち消した。滅殺せよ煩悩。
とはいえ、このままではもやもやしてすっきりしないのも事実である。虎に戻らない、と藍には言ったが、星が噛みつきたいのは人間ではなく藍だ。満月の夜、人の形から獰猛な虎へ――あまりにベタなシチュエーションではあるが、たまには一輪の戯れに乗っかるのも悪くない。普段己をよく律する星も、まだ血湧き肉躍る弾幕花火大会の熱気が内側に残っていたのだろうか。あるいはどうせもう観衆の前であんな弾幕を披露したのだし、と開き直っていたのもあるかもしれない。やめとけばいいのに、と口うるさい理性を滅殺しきれない煩悩が押しのけた。
その後、星は『今度の満月の夜に逢いましょう』と手紙をしたためてナズーリンに渡した。星は藍の棲家を知らないが、ナズーリンなら藍本人か、藍の使役する式神を見つけて届けてくれるはずである。一応、寺の外へ出かけるので事前に聖へ許可を取ったのだが、聖は苦笑しつつ『決して羽目を外さないように、なんてまあ、今の私が言っても説得力はありませんね』と許してくれた。
果たして藍の返事は快諾だった。では迷いの竹林の前で、とは藍も趣向がわかっている。橋渡し役を任されたナズーリンは『こんな文使は二度とごめんですよ』と苦い顔をしていたが、星は黙殺した。
◇
満月の光は妖怪を狂わせる。迷いの竹林は、独特な地形と成長の速い竹のせいで訪れる者の方向感覚を狂わせる。二重の狂気を孕んだ場所で、星は藍の訪れを待っていた。竹林には入るなと固く言われていたから、星は竹林の入り口で鬱蒼と茂る竹林を眺めていた。
時折、竹林を棲家とする妖怪を見かけたが、星は今なら誰に藍との逢瀬を見られても気にならないと思った。早くも気分が高揚して、正気を失い始めているのかもしれない。
「こんばんは。待ったかな?」
「こんばんは。さっき来たばかりよ」
やがて、空の向こうから藍が一直線に飛んできた。地面に降り立った藍の金色の九尾が月よりも輝いている。藍を前にすると、ますます星は心穏やかでいられなかった。満月のせいか、一矢報いてやると意気込んでいるせいか、いつもより落ち着かない。
すぐさま星の異変を見抜いた藍が、気遣わしげに問いかける。
「何だかいつもと様子が違うね。もしかしてあの花火大会の時も、月の狂気にあてられた?」
「そうかもね。やけに血が騒ぐと思ったのよ」
「満月は恐ろしい。私もじっと見つめていると正気を失いそうになるんだ」
「月なんか見なくていいのよ。私だけを見ればいいの」
「おや、もしかして私は口説かれているの?」
「口説いてるわ」
お喋りはこのくらいでいいだろう。藍の腕を引いて、星は自分から唇を奪った。噛みつくような、とはこのことを言うのだろう。藍の目が一瞬大きく見開かれたものの、すぐに口付けに応じてきた。唇から藍の生温かい熱が伝わってきて、一枚、理性の皮が剥がれる音がする。
藍の腕が自然と星の背中に周り、星も自分の方へ引き倒すようにしがみついた。薄く目を開くと、藍は目を開けたまま星を見つめている。一瞬かち合った瞳の、余裕を残した色が気に食わない。自分から仕掛けたのだ、負けるものかと星はむきになって、角度を変え強く唇を押し当てる。
正しい作法なんて知らない。ロマンもムードも知らない。皮膚の表面を合わせるだけの単純な接触なのに、慣れないせいかすぐに息が上がってくる。不意に、星は唇をこじ開けようとする“何か”の感触を察して、噛むような勢いでいっそう固く唇を閉じた。受け入れたら、たちまち藍に主導権を奪われてしまう。つぶった目の向こうで藍が薄く笑った気配がして、急激に体温が上昇する。言葉にせずとも経験の差を語られているようで悔しい。
虚勢を張っても、慣れない口付けには限界がくる。これ以上は息が続かない、目眩を覚えた星は唇を離した。新鮮な空気が一気に肺へ流れ込んできて、星はむせ返りそうになる。藍の濡れた唇が月の光を浴びて艶かしく光っていた。
「……今日は、えらく積極的だね?」
「こういう、のは、嫌い?」
「まさか」
荒い呼吸を誤魔化すように、星は藍の胸に体を寄せた。どくどくと忙しく脈打つ心臓の音が、藍の胸からも聞こえてくる。よかった、自分ばかりが昂っているわけではない。勢いで藍の理性を引っぺがしてしまえればよかったのだけど、藍はまだ冷静さを残している。藍の胸元に顔を埋めたまま、星は問いかけた。
「ねぇ、藍。貴方にも獣だった時代があるの?」
「もちろん。私は妖獣だから、元はただの狐だった。長生きするうちにいつしか妖術を身につけて……まぁ、いろいろとあったね」
「美女に扮して国を傾けたり?」
「昔のことだよ。今は誰も知らない」
率直に尋ねても、やはり藍ははぐらかしてしまう。否定しないくせに、詳らかに教えてはくれない。長生きの妖怪は数えきれないほどいるのに、本当に過去の藍を覚えていない者などいるだろうか――胸の奥に青白い焔が立つ。足るを知る境地には遠いと、星は改めて思った。
これだけ近くにいても、藍の正体は謎に包まれている。神秘であるゆえに、暴きたくなる。また一枚、理性の皮が剥がれ落ちる。
「私自身、昔のことは普段は忘れているよ。式神であれば事足りるのだから」
「忘れている、ねぇ」
「貴方にもう嘘はつかないよ」
「どうでしょうね」
藍は嘘つきではないけれど、冗談は平気で口にする。この前は絆されかけたが、藍のような知に長けた者は特に信用ならない。素知らぬ顔をして、昔の恋人と比べていたりするんじゃないのか。
理性の皮が剥がれてゆくと同時に、星の中で眠りについたはずの虎が顔をのぞかせる。言葉にし難い感情を渦巻かせている星の頭上で、藍が笑った気配がした。
「貴方は可愛いね」
「何? 私にそういう“可愛い”を言うのは藍くらいよ」
「いや。貴方にやきもちを妬かれると嬉しくてさ。貴方が何を考えているのか当ててみようか。どうやって私の余裕を崩そうか、心を掻き乱そうか……そうだろう?」
藍が言葉を紡ぐたびに、星の中の虎が疼き出す。藍はわざと星の神経を逆撫でしているのだろうか。
自分ばかり余裕な表情をして、もうどうなったって知らない。星の埋み火を燃えさせた藍が悪い。いや、星は最初から理性の手綱を手放していたのではなかったか。
「みんなそうするのさ。何としてでも私の心を手に入れようと手管の限りを尽くして、やがて身を崩すんだ」
「……ひどい女じゃない。今まで何人泣かせてきたの」
「女は貴方しか知らないよ」
聞き分けのない幼子をあやすような答えが、星の最後の理性をぶち壊した。別に世の男が気にするような純潔なんてどうでもいいが、何もそんな形で馬鹿正直に白状しなくてもいいじゃないか。
胸を焦がす欲望が、抑えきれないほどに膨れ上がる。その澄ました顔を崩してやりたい。滅茶苦茶にしてやりたい。星のために困ればいい、煩わしく思えばいい。恐怖でも歓喜でもいいから私のために涙を流して泣けばいいんだ。
大陸の伝承にはこのようにある。人から虎になった男が、躊躇いながらも餓えに逆らえず、獣を喰らい、ついには人を喰らってしまう。それは月夜の出来事だった。
寅丸星という妖怪を生み出した、虎を恐れた人々の想像には、そんな伝承も組み込まれていたのか?
「――憎ッたらしい」
星の内なる獣が、牙を剥いた。
両肩をつかんで、藍の体を勢いよく地面に押し倒した。不意を突かれた藍は目を白黒させて、己の上にまたがって見下ろす星を見つめている。
「貴方はいつか、『自分が式神であるのを忘れている』と指摘されたようだけど、忘れているのはそれだけ?」
「……星?」
藍の髪が乱れて草むらに広がる。金色の見事な尾も、野分に倒された哀れな稲穂のように体の下敷きになっている。
肩に置いた手をそっと首筋へ滑らせる。鋭く尖った爪が藍の喉に食い込んだ。月明かりの下、細い喉が病的なまでに白く見える。
もっと深く爪を立てたら、赤い血が滴るのか。想像しただけで恍惚とした気分になり肌が粟立つ。満月のせいか、戒律なんてもはや頭から吹っ飛んでいた。
「藍は……私が虎だってこと、忘れているんじゃない?」
星は知らず知らずのうちに湧いた唾を飲み下す。藍は九尾の妖狐だ。妖獣の最高峰と謳われるその肉は美味いのか。喰らえば星も力を得るのか。甘美で生臭い血の臭いも、舌が蕩けるような肉の味も、きっと星の腹を満たしてくれるだろう。けれど、そんな一時の食欲を満たすものに興味はない。
今よりもっと、触れて、委ねて。二人の境界すらわからなくなるほど重なり合って、混ざり合えば、この心の飢えは満たされるだろうか?
言葉を失った藍の瞳に反射する星の瞳は、野卑で獰猛な虎そのものだった。もっと暴きたい。もっと押し入りたい。誰も知らないところまで、私だけが、藍を。昔のことをもう誰も覚えていないのなら、今この藍を知るのは星だけになる。余す所なくとまでは言わないから、独り占めしたい。
「どんな男が貴方に触れたの。どんな風に籠絡して、肌を合わせて、享楽を恣にしたの」
手のひらが藍の頬に触れる。燃えるように熱いのは自分の手のひらか、藍の肌か。
もう一度唇を奪おうか。胸元に噛み付こうか。それとも、もっと深いところに消えない痕を刻もうか? 考えるうちに、藍の吐息が耳元にかかる距離にあった。このまま顔を埋めて――星が口を開けた、その時だった。
ぐらり、と体が大きく傾いた。視界が半回転して、柔らかい土と草の感触が頭と背中に触れる。虚を突かれて何が起きたのかわけがわからない星の上に、藍の低い声が降ってきた。
「そうだね、私はいつも大事なことを忘れてしまう」
気がつけば、見下ろされているのは星の方だった。月の光が、ちょうど藍の影に隠れて見えなくなる。藍の顔も暗くてよく見えない。
「虎の威を借る狐、というように、狐は虎に弱いもの。思い出させてくれてありがとう。――貴方の知りたいことを教えてあげるよ」
「ら、ん……ッ!」
有無を言わせず、藍は呼吸を奪った。星が噛み付いた時よりも勢いは激しく、星はたちまち息苦しくなる。もがいても両足は藍の間に挟まれ、両手は藍の腕を叩いてもびくともしない。暴れる星の体を押さえ込んで、何もかもを根こそぎ奪い取る暴力的な口付けは続く。藍のきつい抱擁で、星の抵抗する力が次第に弱まっていった。
やわい粘膜を舌でかき回されて、星は反射的に(死ぬ)と思った。息を止められて、心を奪われて、藍に殺される。意識が薄らぐ中、恐怖とも恍惚ともつかぬ感情が星を満たした。
やがて呼吸を止められる苦痛に耐えかねて、どうにか爪を藍の腕に食い込ませる。ようやく藍は離れていった。数度激しく咳き込んで、星は必死に胸元を押さえる。妖怪は息を止められたぐらいで死なないが、苦しいものは苦しい。荒い呼吸で唾液に濡れた口元が冷えてゆく。藍はこれ見よがしに舌なめずりをして、うっすら微笑んだ。激しい口付けのためか、藍の唇が煽情的な赤みを帯びている。
静かに爪を研ぐ藍が恐ろしいのに、胸は不思議と高鳴っている。自分にそんな被虐的な嗜好があっただろうか。恥ずかしいのか、気持ちいいのか、悔しいのか、嬉しいのか、わけがわからない。一瞬のうちに何もかもをひっくり返されて混乱している星の耳元に唇を寄せて、藍は湿度を帯びた声でささやいた。
「心配しなくても、私だって貴方に心を揺さぶられるし、どうしようもないほど惚れている。……わからない?」
「あ……」
「私に火をつけた貴方が悪いんだ。ねぇ、星は考えたことがある? 貴方のそばにはいつも古い付き合いの仲間がいる。私には決して入れない、深い繋がり。たとえば私が時折、一輪だとかムラサだとかに妬いて、嫉妬の炎に身を焼かれている……とか」
「ぅ、あ……」
閨の睦言は空言に等しい。思いもよらぬ告白に目を見張った星は『嘘でしょう?』と返したかったのだが、息が詰まって声が出ない。藍も満月の狂気にあてられているのか。藍の鋭く尖らせた目には星を貫く殺気が感じられて、もしかして本気なのでは、と思わせる凄みがあった。胸の動悸が激しくなる。
こんな藍は知らない。こんな風に体をぴたりと重ねて、眼光鋭く目の前の獲物を見据えて、野蛮な肉欲を隠さない藍は見たことがない。式神でも狐でもない女が目の前にいる。――星が藍の理性を剥がしたというのか?
呆然と見上げる星に、不意に藍は目元を緩めて、うっそり笑った。
「でも、いいよ、星になら何をされても。私を食べたいんだろう?」
「あ、や、その……」
あからさまな言葉にされて、星は狼狽する。明らかに捕食者は藍の方なのに、藍は己の肢体をまるで餌の肉塊であるかのように、星の目の前に投げ出した。捨身飼虎。なぜかそんな言葉が脳裏をよぎって、目眩がした。
頭がぐちゃぐちゃになって、言葉が続かない。追い詰めたつもりで、先ほどの口付けでいとも簡単に籠絡された。星が藍を食べる――どうやって? 抵抗するそぶりを一切見せないのに、そのくせまったく隙がない。露出の少ない衣装の袖口から伸びる腕は細く、白く、艶めかしい。藍の腕に生々しく残る星の爪痕に、無意識のうちに釘付けになる。
「ひっ!」
「ほら、さっきまでの勢いはどうしたの? 今の貴方は澄ました毘沙門天じゃない、ただの虎なんだから」
首筋、頚動脈のあたりを藍の舌が這って、星は悲鳴を上げる。手は胸元の際どいところを弄っている。このままでは心臓を一突きにされるだろう。
色情と見せかけて殺気。殺気と見せかけて色情。藍は巧みな視線や指先の動きでその境界を行ったり来たりし、星を翻弄する。
虎になればいいじゃない――そう一輪は言ったけど、いざ噛みついたら、あっさり反撃されてしまった。陶酔の境地に押しやられて、藍に頭のてっぺんから、余す処なく貪られる。どうしたらいい? 羞恥と混乱で頭の中はとっ散らかっている。口を開いても、声はまともな言葉の形にならず、意味のない呻きと吐息だけが漏れてゆく。
狼狽える星を見下ろして、藍は妖艶な笑みを浮かべた。芙蓉のかんばせ、柳の眉。見る者すべてを骨抜きにするような、一瞬で魂を支配するような、ぞっとする微笑だった。藍はそのまま、歌うようにささやいた。
「星。私を好きにしてごらんよ?」
――脳が沸騰して、目の裏がちかちかする。星は血が昇って、首元まで真っ赤に染まるのを悟った。そんな顔で微笑まれたら、何もできやしない。
藍から滲み出る妖気は、できるものならやってみろと挑発するかのようで、それに値する力のない者への牽制でもある。ああ、負けだ。好きにして、なんて、それは星の台詞だったんだ。
藍に再び唇を押し当てられた時、喰われる、と星は目をつぶった。
◇
翌朝、ほうぼうの体で帰ってきた星を出迎えたのは一輪と雲山である。くたびれた様子に雲山は驚愕しているが、一輪は構わず真っ先に問いかける。
「ちょっと、どうだったの? ゆうべはお楽しみでしたね、ってやつ?」
「聖と毘沙門天様に誓ってそのようなことは一切ありません」
星は引き攣った笑顔できっぱり答えた。一輪は期待外れ、といった表情をしているが知ったところではない。
実際、一線を超えることなど何一つなかった。あの後、まな板の鯉と化した星に与えられたのは、生ぬるい触れ合いに子供の悪戯のような愛撫。もうどうにでもなってしまえと腹を括ったのに、ものの見事に藍にからかわれて終わりだった。おまけに星が理性を取り戻しかけた頃になって竹林に住む狼女と遭遇し、『あー、お邪魔しました、ごゆっくり』と言わんばかりの生暖かい視線で通り過ぎられたのは弱り目に祟り目としか言いようがない。
『そうだ。私のスペルカードに“憑依荼枳尼天”と名づけたものがあるんだけど……荼枳尼天については、私より星の方が詳しいよね?』
などと最後に藍は抜け抜けとのたまった。知っているとも。仏教の神で狐を使いにした女人の姿で、あるいは性愛を司ると見做されることもある。つまり昨夜の藍の振る舞いは、演技も混じっているということなのだろう。まんまと狐につままれた。
「何なのよ、もう……」
ようやく自室にたどり着いた星は、膝を折って座り込む。頭が冷えてくると、自分の大胆な行動があまりにも恥ずかしく、勢いに任せて過ちを犯さなくてよかったと猛省する。普段の自制的な星を慮って、藍はあのような戯れで終わらせたのだろうか。結果としてそれでよかったと思いつつ、やっぱりしてやられた悔しさが残る。
藍に貴方に心を揺さぶられる、なんてささやかれた気がしたが、ちっとも割に合わない。そもそもあれらの言葉のどこまでが本当だったのだろう。さすがに星を翻弄した藍の言動すべてが冗談だった、なんて思いたくないが。戯れで殺されかけたらたまったものではない。
それでも、星が求めていた、藍についてわかったことはいくつかあった。
かつて大陸で傾国の美女と謳われたのはおそらく本当だ。圧倒的な手練手管を持ち、言葉や仕草で相手を魅了する。美貌に頼らずとも見る者を虜にするだろう。
加えて、星が気圧されてしまうほど力のある妖獣だ。昨夜、藍が星を追い詰めた時に見せた殺気は本物だった。つくづく式神なんて器に収まっているのが信じられない。
そして何より重要なことが一つ。
「たとえ虎に戻っても、私に藍を喰らうなんてできないわ……」
これも一時の煩悩に身を委ねる勿れ、大人しく精進せよ、という御仏や毘沙門天様の思し召しか。後で聖に心ゆくまで説教してもらおうか。
次に藍と会う時は弾幕で挑もう。件の蠱惑的な荼枳尼天に対抗すべきは清廉な毘沙門天だ。どうせ幻想郷には弾幕ジャンキーしかいないのだ、そもそもの発端が弾幕だったのだし、すべては弾幕で語ればいいんだろう? せいぜい軌道の読めないレーザーに苦しめ。
藍が油揚げを好むので失念していたが、狐もまた肉食の獣である。標的に定められ、追い詰められ、魅了されたら、哀れな虎の子はそれでおしまい。星はため息と共に畳へ崩れ落ちた。
藍星は普段信奉していないのですが、異なる宗教を見るのもいいですね。
有難う御座いました。
いっぱいいっぱいの星と余裕綽々の藍様が素敵でした
ああ、藍星いいっすね、、、