自分にしては、よくやった方だと思う。
ベッドに体を横たえたアリス・マーガトロイドは寝返りをうち、木目が並ぶ天井へ目を向けた。
それは興味をそそるものではなかったが、小一時間見つめ続けた自身の手の平よりは幾分か愉快に思えた。
敗北に打ちのめされるのは初めてのことではない。魔法も弾幕もそれなりに上手くやれる方だが、それぞれの分野で自分よりも秀でたものは常にいた。
別段それを妬ましく思ったことはないし、自分は自分の範疇で最善を尽くし、高みを目指していけばいい。
何事もそうだ。
シーツを掴んで泣きじゃくるほど私は子供ではなく、敗れることに親しみすぎていた。
とん、とん。
二回、扉を叩く音がした。短く一拍おくのはその訪問者の癖で、パチュリー・ノーレッジであることの証明。
今は誰かに会うのがひどく憂鬱だった。自分が呼びつけたのでなければ、このまま無視して留守を決め込んでいただろう。
天井に向き合ったまま「どうぞ」と声をあげる。普段なら指先で人形を操作して扉を開けてやるのだが、今は魔法の糸は何処にも繋がっていなかった。
「お邪魔するわ」
「いらっしゃい」
パチュリーは聡明で、よき理解者だ。彼女は部屋に立ち込める負の蒸気を嗅ぎ取って、黙ったままテーブルの椅子に腰掛けた。
私が横たわる寝室と彼女が座るリビングの間には開かれた扉一枚の距離があり、今日はそれが互いにとって最適な位置に思える。
「…………」
きっとパチュリーは私が口を開くまで待ってくれる。彼女はじっと待つことに慣れており、それに伴う沈黙と静寂を意に介さない。
けれど私は自分がするべきことを理解している。沈み込んだ心を浮上させるために、日常に残した楔を手繰るのだ。
まるで最初から何もなかったかのように。せめて未練が呪いに転じないように。
「駄目だった」
改めて声に出すと何かが決壊するような気がしていたが、不思議とそうはならなかった。
心理的な防衛が働いているのだろう。それはまるで天井に思い描いた非実在の物語のようで、往生際悪くも私は当事者であることを認められずにいた。
「魔理沙にとって、私はそういうんじゃないんだって」
それはきっと一種の絶望で、むしろ声をあげて泣くことができれば幾分か楽だっただろう。
「そう」
パチュリーは短く答えた。
「紅茶のひとつも出せなくてごめん」
「別に構わないわ」
「戸棚の上にあるから好きに使って」
そう言うや否や、胃の辺りがぎゅっと痛んだ。
咲夜や小悪魔に給仕される立場のパチュリーが自分から紅茶を淹れるなんてことがあるだろうか。
その台詞はきっと、私が申し出るよりも先に物色を始めるような人に使うべきものだった。
(墓穴を掘ったなぁ)
なおも他人事のように思えて、自分で自分を嘲う。
きっとこれからも、日常のあらゆる場面が欠けたものに見えることだろう。
それほどに魔理沙の存在は私の日常に馴染んでいた。
(それで十分だったのに)
戸棚の一番手前、星柄のティーカップは魔理沙が使うために仕入れたものだった。思惑通り、彼女はそれを気に入った。
解読が行き詰った魔道書。付箋を挟んだ頁に、魔理沙は私が思いつかないような角度からヒントを与えてくれるだろう。
試作中の人形。それは魔理沙の提案による星の術式を組み込むことで起爆の際に鮮烈な熱と光を放つ予定だった。
壁で逆さにして乾燥させている薬草。魔界由来の稀少なもので、それを物珍しそうに眺める姿が目に浮かぶ。
この部屋の、私にまつわる全ての物事が魔理沙と共にあった。
魔理沙がそこにいる限り、全てが正しく満たされていた。
その関係を壊してまで手に入れたかったものが何なのか、今となってはもう分からない。
「それじゃあ遠慮なくいただくわね」
戸棚の開く音がして、思わず縫い止められていた天井から視線を放す。
物臭なパチュリーが自ら紅茶を淹れるなんて意外だった。
背伸びをしながら戸棚から茶葉を摘み、器用にも片手の内に火と水のエレメンタルを宿して給湯を始める。
「さすがは七曜の魔女」
「簡単なことよ。貴女も魔法使いなら覚えてみたら?」
確かにエレメンタルの召喚は魔法使いにとって基礎的な技術で、難しい理論ではない。
パチュリーのように相反する属性を同時に扱うのでもなければ私にも修得できるだろう。
あっという間に、彼女の掌の上の水球は蒸気をあげ、沸騰に泡立ち始めた。便利なものだ。
「あくまで私は人形使いだからね」
だが、私はそれをしない。
人形たちを操って、水を汲んで火を熾して、湯が沸くのを待つ。非効率的であろうとも、そんな格式張った過程が好きなのだ。
湯の中に茶葉を蒔くと瞬く間に褐色に染まり、役割を終えたエレメンタルは姿を消した。
「必要ならどうぞ」
ものの数秒で二人分の紅茶が淹れあがった。
私は苦笑する。ベッドから起き上がる理由ができてしまった。
けれど失意は私を強くこの場所に縛り付けており、隣の部屋へ辿り着くには未だ膨大な気力を要した。
代わりに口を動かす。それができるだけでもありがたいことだった。
「鮮やかなものね」
「エレメンタルは茶葉を好むわ。アグニは熱く、ウンディーネは湿ったものをね。労働と対価、法則とは鮮やかなものよ」
捨てるしかない茶殻をエレメンタルへ対価として与えているわけだ。茶漉しで濾過する手間も省いている。
驚くほどに効率的で、一切の無駄がない業は怠惰とさえ呼べた。
「お宅のお嬢様が嫌いそう」
「咲夜もね。彼女らの前でやると品がないって叱られる」
「複雑ね」
パチュリーはカップに指をかけて、すぐに戻した。
私を待っているのだとしたらすまないが、単に熱かっただけだろう。彼女はひどく猫舌だ。
「小悪魔はちゃんと淹れてるふりをして、実はこの方法を使ってる。そんなに味は変わらないからいいんだけど」
「エレメンタルが生成した水って飲めるんだ」
「契約する種類によるわ。私のはピレネーの清水、上物よ」
パチュリーは普段よりも饒舌に話していた。
彼女なりの気遣いだろう。私を失意の道からそれとなく逸らしてくれている。
「その方法、魔理沙は好きそう」
けれど、私は敢えてその名を出した。
どうせ忘れることなどできないのだ。心にぽっかりと空いた穴は埋め合わせるにも、見て見ぬふりをするにも大きすぎた。
私の自傷めいた発言に、パチュリーは何も答えなかった。
「……好きだったなあ」
再び天井を見上げ、既に見飽きた視界を腕で塞ぐ。
涙が溢れるのに備えたつもりだったが、やはり感情が限界を超えることはない。
悲しみを貫いた彼方が、こんなに暗いものだとは知らなかった。
「慣れなさい」
パチュリーは初めてこの件について口にした。
はっきりとした口調が真っ直ぐ私の心へ突き刺さる。
「これからは、星のない夜を生きていくのだから」
星のない夜。
自ら閉じた視界は、魔理沙との繋がりがない世界は、なるほどパチュリーが言うとおり。
誰にも渡せない荷物を背負って、進むことも戻ることもできない道を彷徨い続ける。
そんな暗い予感に満ちていた。
「慣れ……ね。できるかしら」
「難しいことではないわ、ずっとそうしているわけじゃない」
パチュリーは一呼吸置いて、続ける。
「ふと孤独を感じたとき、見上げた空に光がないことに気付く。それだけよ」
私は力なく頷く。
それはとても残酷で、だからこそ抗いがたい事実なのだろう。
「肝に銘じるわ、誰かの引用?」
腕を退けて、私はパチュリーの言葉を追った。
彼女はまだ熱い紅茶を小さく呷る。陶器の白い底がその表情を隠していた。
「誰かの経験よ」
†
結局私はベッドの上で干乾びることはなく、惨めにも空腹に負けて申し訳程度の料理を作って食べた。
すっかり冷めて、水位も下がってしまった紅茶はお世辞にも美味しいとは思えなかった。もちろん温かいうちに飲まなかった私に責任がある。
カップから一直線に排水溝へと消えてゆく紅茶を呆と眺め、この気怠さが間延びしたまま永遠に続けばいいと死んだ脳細胞で願った。
無論カップの底はあまりに浅く、私はなりそこないの永遠を排水溝に傾けたまま、無為な時間にしばし浸る。
夜は暗く、けれども澄んでいた。
昨日までなら、魔理沙が夜の散歩の誘いをかけてきたかもしれない。
その姿を探すわけではないが――そう自分に前置きして、窓を開けて夜を眺める。
冷たい風が熱った体を吹き抜けた。
「なるほどね」
見上げれば満天の星が瞬いている。
魔理沙の隣で見上げたそれらの、どんなに眩しかったことか。
パチュリーの言説を早くも思い知らされる。何もかもが精彩を欠き、何一つとして感情を揺らさない。
まるで最初から、あれほど滾らせた想いでさえも、全てがまがい物であったかのように。
「……さようなら」
目を閉じて、星空を捨てて暗闇へと沈む。
これはきっと暗くて深い旅のはじまり。
今さら空へ手を伸ばすほど、私は子供ではなかった。
ベッドに体を横たえたアリス・マーガトロイドは寝返りをうち、木目が並ぶ天井へ目を向けた。
それは興味をそそるものではなかったが、小一時間見つめ続けた自身の手の平よりは幾分か愉快に思えた。
敗北に打ちのめされるのは初めてのことではない。魔法も弾幕もそれなりに上手くやれる方だが、それぞれの分野で自分よりも秀でたものは常にいた。
別段それを妬ましく思ったことはないし、自分は自分の範疇で最善を尽くし、高みを目指していけばいい。
何事もそうだ。
シーツを掴んで泣きじゃくるほど私は子供ではなく、敗れることに親しみすぎていた。
とん、とん。
二回、扉を叩く音がした。短く一拍おくのはその訪問者の癖で、パチュリー・ノーレッジであることの証明。
今は誰かに会うのがひどく憂鬱だった。自分が呼びつけたのでなければ、このまま無視して留守を決め込んでいただろう。
天井に向き合ったまま「どうぞ」と声をあげる。普段なら指先で人形を操作して扉を開けてやるのだが、今は魔法の糸は何処にも繋がっていなかった。
「お邪魔するわ」
「いらっしゃい」
パチュリーは聡明で、よき理解者だ。彼女は部屋に立ち込める負の蒸気を嗅ぎ取って、黙ったままテーブルの椅子に腰掛けた。
私が横たわる寝室と彼女が座るリビングの間には開かれた扉一枚の距離があり、今日はそれが互いにとって最適な位置に思える。
「…………」
きっとパチュリーは私が口を開くまで待ってくれる。彼女はじっと待つことに慣れており、それに伴う沈黙と静寂を意に介さない。
けれど私は自分がするべきことを理解している。沈み込んだ心を浮上させるために、日常に残した楔を手繰るのだ。
まるで最初から何もなかったかのように。せめて未練が呪いに転じないように。
「駄目だった」
改めて声に出すと何かが決壊するような気がしていたが、不思議とそうはならなかった。
心理的な防衛が働いているのだろう。それはまるで天井に思い描いた非実在の物語のようで、往生際悪くも私は当事者であることを認められずにいた。
「魔理沙にとって、私はそういうんじゃないんだって」
それはきっと一種の絶望で、むしろ声をあげて泣くことができれば幾分か楽だっただろう。
「そう」
パチュリーは短く答えた。
「紅茶のひとつも出せなくてごめん」
「別に構わないわ」
「戸棚の上にあるから好きに使って」
そう言うや否や、胃の辺りがぎゅっと痛んだ。
咲夜や小悪魔に給仕される立場のパチュリーが自分から紅茶を淹れるなんてことがあるだろうか。
その台詞はきっと、私が申し出るよりも先に物色を始めるような人に使うべきものだった。
(墓穴を掘ったなぁ)
なおも他人事のように思えて、自分で自分を嘲う。
きっとこれからも、日常のあらゆる場面が欠けたものに見えることだろう。
それほどに魔理沙の存在は私の日常に馴染んでいた。
(それで十分だったのに)
戸棚の一番手前、星柄のティーカップは魔理沙が使うために仕入れたものだった。思惑通り、彼女はそれを気に入った。
解読が行き詰った魔道書。付箋を挟んだ頁に、魔理沙は私が思いつかないような角度からヒントを与えてくれるだろう。
試作中の人形。それは魔理沙の提案による星の術式を組み込むことで起爆の際に鮮烈な熱と光を放つ予定だった。
壁で逆さにして乾燥させている薬草。魔界由来の稀少なもので、それを物珍しそうに眺める姿が目に浮かぶ。
この部屋の、私にまつわる全ての物事が魔理沙と共にあった。
魔理沙がそこにいる限り、全てが正しく満たされていた。
その関係を壊してまで手に入れたかったものが何なのか、今となってはもう分からない。
「それじゃあ遠慮なくいただくわね」
戸棚の開く音がして、思わず縫い止められていた天井から視線を放す。
物臭なパチュリーが自ら紅茶を淹れるなんて意外だった。
背伸びをしながら戸棚から茶葉を摘み、器用にも片手の内に火と水のエレメンタルを宿して給湯を始める。
「さすがは七曜の魔女」
「簡単なことよ。貴女も魔法使いなら覚えてみたら?」
確かにエレメンタルの召喚は魔法使いにとって基礎的な技術で、難しい理論ではない。
パチュリーのように相反する属性を同時に扱うのでもなければ私にも修得できるだろう。
あっという間に、彼女の掌の上の水球は蒸気をあげ、沸騰に泡立ち始めた。便利なものだ。
「あくまで私は人形使いだからね」
だが、私はそれをしない。
人形たちを操って、水を汲んで火を熾して、湯が沸くのを待つ。非効率的であろうとも、そんな格式張った過程が好きなのだ。
湯の中に茶葉を蒔くと瞬く間に褐色に染まり、役割を終えたエレメンタルは姿を消した。
「必要ならどうぞ」
ものの数秒で二人分の紅茶が淹れあがった。
私は苦笑する。ベッドから起き上がる理由ができてしまった。
けれど失意は私を強くこの場所に縛り付けており、隣の部屋へ辿り着くには未だ膨大な気力を要した。
代わりに口を動かす。それができるだけでもありがたいことだった。
「鮮やかなものね」
「エレメンタルは茶葉を好むわ。アグニは熱く、ウンディーネは湿ったものをね。労働と対価、法則とは鮮やかなものよ」
捨てるしかない茶殻をエレメンタルへ対価として与えているわけだ。茶漉しで濾過する手間も省いている。
驚くほどに効率的で、一切の無駄がない業は怠惰とさえ呼べた。
「お宅のお嬢様が嫌いそう」
「咲夜もね。彼女らの前でやると品がないって叱られる」
「複雑ね」
パチュリーはカップに指をかけて、すぐに戻した。
私を待っているのだとしたらすまないが、単に熱かっただけだろう。彼女はひどく猫舌だ。
「小悪魔はちゃんと淹れてるふりをして、実はこの方法を使ってる。そんなに味は変わらないからいいんだけど」
「エレメンタルが生成した水って飲めるんだ」
「契約する種類によるわ。私のはピレネーの清水、上物よ」
パチュリーは普段よりも饒舌に話していた。
彼女なりの気遣いだろう。私を失意の道からそれとなく逸らしてくれている。
「その方法、魔理沙は好きそう」
けれど、私は敢えてその名を出した。
どうせ忘れることなどできないのだ。心にぽっかりと空いた穴は埋め合わせるにも、見て見ぬふりをするにも大きすぎた。
私の自傷めいた発言に、パチュリーは何も答えなかった。
「……好きだったなあ」
再び天井を見上げ、既に見飽きた視界を腕で塞ぐ。
涙が溢れるのに備えたつもりだったが、やはり感情が限界を超えることはない。
悲しみを貫いた彼方が、こんなに暗いものだとは知らなかった。
「慣れなさい」
パチュリーは初めてこの件について口にした。
はっきりとした口調が真っ直ぐ私の心へ突き刺さる。
「これからは、星のない夜を生きていくのだから」
星のない夜。
自ら閉じた視界は、魔理沙との繋がりがない世界は、なるほどパチュリーが言うとおり。
誰にも渡せない荷物を背負って、進むことも戻ることもできない道を彷徨い続ける。
そんな暗い予感に満ちていた。
「慣れ……ね。できるかしら」
「難しいことではないわ、ずっとそうしているわけじゃない」
パチュリーは一呼吸置いて、続ける。
「ふと孤独を感じたとき、見上げた空に光がないことに気付く。それだけよ」
私は力なく頷く。
それはとても残酷で、だからこそ抗いがたい事実なのだろう。
「肝に銘じるわ、誰かの引用?」
腕を退けて、私はパチュリーの言葉を追った。
彼女はまだ熱い紅茶を小さく呷る。陶器の白い底がその表情を隠していた。
「誰かの経験よ」
†
結局私はベッドの上で干乾びることはなく、惨めにも空腹に負けて申し訳程度の料理を作って食べた。
すっかり冷めて、水位も下がってしまった紅茶はお世辞にも美味しいとは思えなかった。もちろん温かいうちに飲まなかった私に責任がある。
カップから一直線に排水溝へと消えてゆく紅茶を呆と眺め、この気怠さが間延びしたまま永遠に続けばいいと死んだ脳細胞で願った。
無論カップの底はあまりに浅く、私はなりそこないの永遠を排水溝に傾けたまま、無為な時間にしばし浸る。
夜は暗く、けれども澄んでいた。
昨日までなら、魔理沙が夜の散歩の誘いをかけてきたかもしれない。
その姿を探すわけではないが――そう自分に前置きして、窓を開けて夜を眺める。
冷たい風が熱った体を吹き抜けた。
「なるほどね」
見上げれば満天の星が瞬いている。
魔理沙の隣で見上げたそれらの、どんなに眩しかったことか。
パチュリーの言説を早くも思い知らされる。何もかもが精彩を欠き、何一つとして感情を揺らさない。
まるで最初から、あれほど滾らせた想いでさえも、全てがまがい物であったかのように。
「……さようなら」
目を閉じて、星空を捨てて暗闇へと沈む。
これはきっと暗くて深い旅のはじまり。
今さら空へ手を伸ばすほど、私は子供ではなかった。
最期の「さようなら」が素敵でした
部屋の静謐さや、作品自体の絶望にも希望にも寄らないフラットな視線が、非常に好みです。
傷心しているアリスに対するパチュリーの距離の取り方がとても好きでした。