酒の席は無礼講が当たり前だ。
だけどこの世には席につく前から無礼な奴だっている。そいつは例えば、肴を引っさげて来なかったり、料理をつまみ食いしたり、──そもそも宴会に来なかったりする。
***
スズメの鳴き声が飛び交う朝。丸坊主になった桜の木々の下は降り積もった桃色のじゅうたんで埋め尽くされてる。いつもなら境内の掃除を始める時間なんだけど今日の私は乗り気じゃなかった。今はなにもしたくない。
毛布を肩にかけたまま居間のちゃぶ台に突っ伏して時間を無為に過ごす。腕まくらしながら眺める外の景色はだんだんと影の角度が移ろっていった。朝ごはんの支度も掃き掃除も賽銭箱のチェックも、何もかも無気力。
もちろん理由がある。
まずは昨晩やけ酒したこと。日が落ちた頃から酔いつぶれるまで飲み倒してたら見事な二日酔いを起こしちゃった。起きた時から痛かった頭はずっと治ってないし吐き気もある。
実は後ろのタンスの横に空の徳利とぐい呑みを寄せてあるんだけど片付ける腰も上がらない。不調がもたらす倦怠感がすべてを億劫にしていた。こういうのに限って退治できないのよね、めんどくさい。
そしてもう一つ、こっちがメイン。というかやけ酒に走ったのもこっちが原因なんだし実質理由は一つな気がする。
そもそもうちの桜は幻想郷でも絶景って言われてる花見の名所だし、そのせいもあって宴会も多いしみんな騒ぐし、要はネタだらけよね。
で、その絶好の機会をカメラに収めなかった新聞記者失格のバカがいる。あいつが悪いわ。
毎年恒例、桜が咲いたその日に宴会すると知っているはずが、あいつは現れなかった。それでも次がある、桜が満開になればと思ってた矢先の大雨大風で全部台無しよ。今日予定されていた宴会も中止だもん。
一昨日の夜半のうちに花びらはまとめて散ってしまって、若葉すら生えてない桜には風流の欠片も残ってない。だったら散った花びらなんて邪魔なだけ、なんだけど。
──「もうすぐ咲きそうじゃないですか! これは見事なスクープをものにするしかないですねぇ」
つぼみが膨らんできた頃、取材だーって押しかけてそう言ってたじゃない。あいつなら招待しなくても勝手に来るもんだと思って強く誘いもしなかったのにさ。やる気満々だったくせにどこプラプラ飛んでんのよあのバカは。
あいつが撮りたかった景色、私の気が変わらないうちに見に来たらいいのよ。……今だって気変わりしてないんだから。
ひゅうひゅうと風が鳴り、煽られた花びらは重そうに地面を転がる。すっかり水気を失う明日にはもっと派手に流れていくに違いなくて。春の証はひとつ、また一つと攫われて視界に広がる春色が褪せていく。それに合わせてあいつの翼の羽ばたきも遠ざかっていく気がした。
「そんな寝相苦しくないですか?」
「……」
「あのー聞こえてます?」
ちゃぶ台を挟んだ向かいにいた、射命丸文は、さも最初からいたかのように座っていた。怪訝な表情で首をかしげながらこっちに手を振っている。頬杖ついて顔を覗きこんでくる態度はふてぶてしさマックス。は? なんでいるの?
正座して二つ並んだ膝目がけてちゃぶ台の下の足を思いっきり突き出してやる。考えるより動く。鈍い音がした。
「痛った!? え? なんで私蹴られたんですか?」
「……本物だ」
「そりゃそうですよ、って寝ぼけてるんですか。もう昼前ですよ?」
交互に自分の膝と私に目配せしながら抗議の声をあげる文。妖怪の頑健さがあるくせに痛いなあって膝をさすってる。ちょっと小うるさい反応はよく見る新聞記者の文のそれで、凍りついていた私の頭はやっと満足に動き出した。出で立ちも白シャツにフリルつきの黒スカートと普段着で固めてるし、ほんと完璧なくらい普段通りの文。
そう分かってホッとすると同時に苛立ちも沸き上がる。いやまさか迷惑千万の鴉天狗に限って身に危険が及んでいたかもなんて、だから来れなかったのかななんて、本当にこれっぽっちも思ってなかったけどね? でも、ならどうして。
「あんたさ、なんで来なかったの」
「はあ、来なかったとは?」
「は?」
ずるりと毛布が肩から落ちる。いや、こいつ本気で言ってんの? あんなに楽しみにしてたくせに? 天狗ですから鳥頭なんかじゃありませんって毎度私に訂正入れてたのは誰よ。今日から自信持ってバカって言ってやろうかしら。
……いや違うか。バカは私ね。勝手に心の中で期待して待って、来なかったらやけ酒して、来たら来たでイラついちゃって。身勝手な子供と変わりない。私も春だ宴会だって浮かれてたのかもしれない。文も散った桜に面白いネタなんて期待しないだろうし、なら来ないのにも説明が──つかないじゃない。
「待って、じゃあ今日のあんたは何のために来たの?」
「今度は真逆の質問ですか? 話の飛ぶ人ですね」
「わ、悪いわねっ!」
言葉に若干トゲが混じる文。つんとした顔でコツコツと指でちゃぶ台を叩くあたりにもそれが滲み出してる。文は本気になるほどリアクションが減るから、これでも演技が入ってるんだろうけど。だからって自分の身勝手さをさっき痛感したばかりだ、素直に謝るしかなかった。
「あれ珍しい、まあ良いですよ。ここに来たのはもちろんネタのため、と言いたいところですが」
言葉を切った文は庭のほうに目をやる。何を言いたいのかはすぐに分かった。
「頼りのネタはなんと全滅! パーですよ、パー」
両手をパッと広げて文は笑った。振り返る一瞬、文の目に帯びる哀愁を見つけた。その色を見極める前に表情はころりと変わっていて、それ以上の詮索は叶わずじまい。文のこうした切り替えは無意識なのか、今日に限って私が変に意識しちゃっただけなのか。
「ところで私からも質問いいですか?」
「私をネタ代わりにする気?」
「いえいえ、確かにあなたはネタの宝庫ですけど。じゃあ別に一枚」
「却下」
「あやや」
身を乗り出して真っ赤なレンズを片手で塞ぐ。いつ取り出したかも見えなかったカメラを構えながら文は肩をすくめた。大方、自分の真後ろにカメラでもカバンでも忍ばせてたんでしょうけどね。選り抜いた写真に自称“真実”をくっつけるのは文の常套手段。勝手な撮影はそれこそごめんよ。
「で、質問って?」
そそくさとカメラを仕舞った文は揚々と告げる。えらく軽い口調で。
「いやあ単純な話です。なんで酔ってるんですか?」
「え」
「霊夢の乙女心を傷つけるのは良くないなと黙ってましたけど、だいぶ酒くさいですよ。気づいてました?」
急いで左右の袖を嗅ぐ。特に臭ってると感じないのは鼻が慣れていたのか。そろりと文に向き直る。
「……臭ってた?」
「かなり。二日酔いってやつでしょう? 私はあまり経験しませんがね。あとそれも片付けられてないですし」
空っぽの徳利とぐい呑みを指さす文。一個ずつ証拠を突きつけられて追い詰められる犯人みたいな状況だ。推理ものの探偵さながらに文の詰問は続く。
「意外と綺麗好きな霊夢が片付けを後回しにするほど不調」
「意外とは余計よ」
「それだけの量を宴会のない昨日に飲むのはおかしい」
「そりゃ二瓶空けちゃったけど……」
「記事にはしませんので正直に。ずばり、誰と飲んでたんですか?」
「……はあぁ?」
びしり、と指を突き刺してくる文に自分でも呆れるほど間抜けな声が上がった。
「なんでそんな突飛な話になるのよ! 私は誰とも飲んでないわ」
「どこが突飛ですか。私にはそうとしか思えませんよ。“宴会第二弾が潰れた巫女は秘密の誰かとこっそり飲み会”、それが事の顛末では?」
「だからさ……」
げんなりする。文はやたら思いこみが激しいところがある。真面目な顔して決めつけに近い話を押し通すんだからタチが悪い。むしろ一緒に飲みたかったのはこっちの方よ。やけ飲みの一人酒なんて悲しいこと、したくないに決まってる。
文はまだ納得がいかない様子でこっちを凝視していた。なにか説明しないとテコでも動かなさそうだけど、頭が回るから下手な取り繕いはきっと逆効果。文を頷かせるには私の全部を話すしかない。無駄に濁さず端的に、訊かれる前に全部答えを並べてしまえばいい。それすなわち赤裸々ってことだけど。
頭が痛む。包み隠さず語る羞恥とさっさと問答から解放されたい欲求を天秤にかける。秤が傾くのにどれほどの時間を要したのか、私にも分からないくらいの逡巡のすえ、腹を決めた。
「分かった、言うわ」
文の口が開く前に「ただし」と断りを入れる。ここにおいて最速は私だ。
「あんたも私の質問、逃げずに答えて」
「……いいでしょう」
意外にも文は迷いもせず応じた。思えば真っ先に尋ねたのは私のほうだ。対価の要求を文はどことなく予想していたのかもしれない。
さて、話さなくちゃいけない。無理やり吐かされるより絶対マシだと言い聞かせ、深呼吸と合わせて自分の背中を押した。
「……まず、昨日飲んでたのはほんとに一人きり。誰かといたわけじゃないし、あんなに飲んだのはヤケを起こしたからよ」
「ほう、ヤケを起こしたんですか?」
ブン屋の取材テクなのか、文は私の話を反復する。そのおかげか次の言葉はつっかえずに口から出てきた。
「そうよ、ムキになってうっぷん晴らしに飲んだだけ。宴会用に集めてたお酒を開けたの」
「あんたは思うんでしょ? なんでムキになったかヤケになったか、って」
握ったこぶしに爪が食いこんだ。
「そんなの決まってるじゃない、あんたが来なかったからよ! 一昨日に宴会あるって知ってたんでしょ?! あんたも楽しみにしてたのに、来ないし、そしたら桜は散っちゃうし、今日の宴会だって中止になるし」
声はみるみるうちに枯れていく。鼻の奥がツンと痛くて、まさか自分が泣きそうになってるなんて──混乱した。私らしくない。
ふと視線を上げると文の顔もだいぶ酷かった。茫然とした顔はなんだか間抜けで唇は動いても音を作れてない。パクパク上下する口は鯉みたいだ。なんだ、二人そろって醜態の見せ合いっこって、ますます恥ずかしいじゃないの。
「……ああ、霊夢」
ばつが悪そうに文は切り出した。かと思えば頬を掻いたり目が泳いだりとパッとしない。ああもう、何よじれったい。
「なに?」
「隣いいですか」
「え? うぅん、良いけど」
肩透かしを食らう。この流れとタイミングで、言うことそれなの? 不思議な申し出に首をひねっていると柔らかな感触に左肩が包みこまれる。ふかふかで真っ黒な文の翼だった。
「すみません。まさか、そんなに待っててくれたとは」
右からは文の声。温かさに左右から包まれて、文に抱きしめられてるって理解しちゃったら、もう駄目だった。目の奥がにわかに熱くなる。
からかい口調で発破をかけてくるいつもの文はどこにもなくて、羽先の震えだけがその動揺ぶりを語ってる。時々、変に不器用で優しいんだ。まともに顔を合わせられるわけなかった。羽の震えはいっそう増した。
「あんたのせいだからね」
「……すみません」
「勘違いしないで。お礼も含めてるわよ」
「お、お礼? 私に非があるとしか思えないんですが」
「いいの」
「いいんですか?」
「いいのよ」
肩に被さる翼を撫でればくすぐったい羽毛の感触が返ってくる。しばらく遊んでたら文はそろそろと視線を送ってきて、一つ飲みこめたんだと伝わった。促すまでもなく文は口を開いてくれる。なぜ一昨日の宴会に来なかったのか、そのワケを。
「──天狗のなかでもこの季節は宴会が恒例でしてね。今年は山の春が早くて運悪くこっちと日にちが被っちゃって。天魔様まで参加する席なもんで、抜けることが許されず昨日まで飲み明かすことになり。……どうしても顔を出せなかったんです」
「天魔……天狗のボスか」
天狗組織に暗い私でも文の話は覚えている。確か商売敵──早苗たちが越してきた妖怪の山に攻めこんだ時だっけ。自分の意思だけで動けなくなるのが組織に属することだと文は言っていた。私にはてんで想像つかないけど、今回もそんな組織の影響の一端が出たってことなんだろう。文にとっては仕方がなかった、それだけなんだ。
「ん、ならしょうがないじゃない」
「そうでしょうか」
悪意で花見の予定を蹴ったんじゃなかった。それだけで十分。──たとえ次の予定が潰れてたとしても。
「そうよ。今日の花見は来ようとしてくれたんだし。だったらチャラよ」
「……そのことですが、中止なのは知ってたんです。桜がほぼ散ってたのも飛ぶ道中で分かっちゃいますし」
「…………」
桜もない。酒もない。ネタもない。そうと知っていて、どうして。文の返しには不意を打たれっぱなしだ。
文は照れくさそうに微笑むとおもむろに手を伸ばした。そしてちゃぶ台の下に腕を突っこみ、掴んだカバンを引っ張り出す。文が新聞配達によく使ってる茶色のショルダーバッグだ。しかし何故だか底がいびつに膨らんでいた。
「霊夢とね、飲みたかったの」
取り出されたのは一本の酒瓶。
その瞬間に今までのすべてが繋がって、思わず吹き出してしまう。同じ気持ちを抱えてたくせに堂々巡りに食い違いなんて、滑稽でしょうがない。ほんと私も文も、根っこが素直じゃないわ。
でも、悪い気はしなかった。
「だったら早く言いなさいよね」
***
庭を眺めての酒盛りは昼下がりから始まった。おぼんを間に挟みながら並んで縁側に腰かける。つまみもない、シンプルで小さな宴会だ。
「はい乾杯」
「乾杯~」
陶器の軽やかな心地いい音が耳を撫でた。私がお猪口をすする傍ら、文は一升枡をぐびぐび喉に流しこむ。さすが酒豪、酒瓶のお酒は最初の一杯でごっそり減ってしまったわけだけど。曰く二日酔いの私に合わせるから飲む量はセーブするとのこと。本当かしら。
とは言え、文はあれから水分補給用のお茶や軽いお昼を作ってくれた。私のぶんがお猪口サイズなのも文がこれ以外許してくれなかったからだ。
そのおかげもあって頭痛も吐き気も収まり、すっきりした気持ちでお酒に口をつけられている。甘苦い風味と濃厚な香りが鼻をくすぐる、とても飲みやすい逸品だった。
だからこそ口惜しくて仕方ない。
「これでまだ咲いてればねぇ……」
叶わない願いと分かってても、つい求めてしまうのは人間の性ってもの。すると隣からわざとらしい咳払いが上がった。
「霊夢、私の種族をお忘れですか?」
「うわばみ」
「天狗です」
まったく、とぼやきつつ文は桜の根元を見据えて妖気を送り始めた。すぐに空気の流れが変わる。“風を操る程度の能力”だ。
積もり積もった桃色が少しずつ、少しずつ煽られる。巻き上がる。そして降ってくる。不規則な軌跡は花吹雪の言葉がよく似合った。
「ふふん。この射命丸文、演出にぬかりありませんよ」
「これは、確かに」
息を飲んだ。
風が桜を踊らせ、日差しを吸った花びらが星屑みたいに白く輝く。ここだけ時が巻き戻って世界から切り離されたような、幻想的な桜の雨。
文にしては目を疑うくらい粋な演出だった。それが私のためにと思えば尚のこと、胸の奥からこそばゆくなる。ありがとって小さく呟いたらすごく甘ったるい笑顔を返された。あんたってそんな顔できたのね。なんだか急に熱くなったわ、酒が回るにしては早いのに。
「そ、そういえば、あんた結局ネタ探しはごまかしでしょ? いつまでその口調なわけ?」
「お気に召しませんか?」
「別にどっちでもいいけどさ」
半分は話を逸らす口実、もう半分は率直な疑問だった。口調を簡単に切り替えるわりには違和感があるというか、そんな気がした。取り立てて探りたい謎でもないけど企みの影が見え隠れしている。ま、勘だけど。
一方の文は膝に乗せているカメラを親指でなぞり、胸を張った。
「あれですよ、記者たるもの常にシャッターを切る心構えが必要なんです」
「ふーん」
「ちょっとお」
頬を膨らませる文は置いといて二杯目の酒を注ぐ。そこに花弁が一枚、お酒に浮いて波紋を作った。──なんて風流な。これも文の演出と思うと顔がゆるむのを感じた。
「あら霊夢」
驚きまじりの声につられて顔を上げる。同時に文の手が額に触れて図らずも声が漏れた。
「花びら、ついてますよ」
指で桜をつまみとった文は得意げに歯を見せる。片手に構えたカメラはもう撮影体勢に入っていて、
「あんたの仕業でしょ」
レンズに収まった顔が笑う。軽快にシャッターが切られた。
だけどこの世には席につく前から無礼な奴だっている。そいつは例えば、肴を引っさげて来なかったり、料理をつまみ食いしたり、──そもそも宴会に来なかったりする。
***
スズメの鳴き声が飛び交う朝。丸坊主になった桜の木々の下は降り積もった桃色のじゅうたんで埋め尽くされてる。いつもなら境内の掃除を始める時間なんだけど今日の私は乗り気じゃなかった。今はなにもしたくない。
毛布を肩にかけたまま居間のちゃぶ台に突っ伏して時間を無為に過ごす。腕まくらしながら眺める外の景色はだんだんと影の角度が移ろっていった。朝ごはんの支度も掃き掃除も賽銭箱のチェックも、何もかも無気力。
もちろん理由がある。
まずは昨晩やけ酒したこと。日が落ちた頃から酔いつぶれるまで飲み倒してたら見事な二日酔いを起こしちゃった。起きた時から痛かった頭はずっと治ってないし吐き気もある。
実は後ろのタンスの横に空の徳利とぐい呑みを寄せてあるんだけど片付ける腰も上がらない。不調がもたらす倦怠感がすべてを億劫にしていた。こういうのに限って退治できないのよね、めんどくさい。
そしてもう一つ、こっちがメイン。というかやけ酒に走ったのもこっちが原因なんだし実質理由は一つな気がする。
そもそもうちの桜は幻想郷でも絶景って言われてる花見の名所だし、そのせいもあって宴会も多いしみんな騒ぐし、要はネタだらけよね。
で、その絶好の機会をカメラに収めなかった新聞記者失格のバカがいる。あいつが悪いわ。
毎年恒例、桜が咲いたその日に宴会すると知っているはずが、あいつは現れなかった。それでも次がある、桜が満開になればと思ってた矢先の大雨大風で全部台無しよ。今日予定されていた宴会も中止だもん。
一昨日の夜半のうちに花びらはまとめて散ってしまって、若葉すら生えてない桜には風流の欠片も残ってない。だったら散った花びらなんて邪魔なだけ、なんだけど。
──「もうすぐ咲きそうじゃないですか! これは見事なスクープをものにするしかないですねぇ」
つぼみが膨らんできた頃、取材だーって押しかけてそう言ってたじゃない。あいつなら招待しなくても勝手に来るもんだと思って強く誘いもしなかったのにさ。やる気満々だったくせにどこプラプラ飛んでんのよあのバカは。
あいつが撮りたかった景色、私の気が変わらないうちに見に来たらいいのよ。……今だって気変わりしてないんだから。
ひゅうひゅうと風が鳴り、煽られた花びらは重そうに地面を転がる。すっかり水気を失う明日にはもっと派手に流れていくに違いなくて。春の証はひとつ、また一つと攫われて視界に広がる春色が褪せていく。それに合わせてあいつの翼の羽ばたきも遠ざかっていく気がした。
「そんな寝相苦しくないですか?」
「……」
「あのー聞こえてます?」
ちゃぶ台を挟んだ向かいにいた、射命丸文は、さも最初からいたかのように座っていた。怪訝な表情で首をかしげながらこっちに手を振っている。頬杖ついて顔を覗きこんでくる態度はふてぶてしさマックス。は? なんでいるの?
正座して二つ並んだ膝目がけてちゃぶ台の下の足を思いっきり突き出してやる。考えるより動く。鈍い音がした。
「痛った!? え? なんで私蹴られたんですか?」
「……本物だ」
「そりゃそうですよ、って寝ぼけてるんですか。もう昼前ですよ?」
交互に自分の膝と私に目配せしながら抗議の声をあげる文。妖怪の頑健さがあるくせに痛いなあって膝をさすってる。ちょっと小うるさい反応はよく見る新聞記者の文のそれで、凍りついていた私の頭はやっと満足に動き出した。出で立ちも白シャツにフリルつきの黒スカートと普段着で固めてるし、ほんと完璧なくらい普段通りの文。
そう分かってホッとすると同時に苛立ちも沸き上がる。いやまさか迷惑千万の鴉天狗に限って身に危険が及んでいたかもなんて、だから来れなかったのかななんて、本当にこれっぽっちも思ってなかったけどね? でも、ならどうして。
「あんたさ、なんで来なかったの」
「はあ、来なかったとは?」
「は?」
ずるりと毛布が肩から落ちる。いや、こいつ本気で言ってんの? あんなに楽しみにしてたくせに? 天狗ですから鳥頭なんかじゃありませんって毎度私に訂正入れてたのは誰よ。今日から自信持ってバカって言ってやろうかしら。
……いや違うか。バカは私ね。勝手に心の中で期待して待って、来なかったらやけ酒して、来たら来たでイラついちゃって。身勝手な子供と変わりない。私も春だ宴会だって浮かれてたのかもしれない。文も散った桜に面白いネタなんて期待しないだろうし、なら来ないのにも説明が──つかないじゃない。
「待って、じゃあ今日のあんたは何のために来たの?」
「今度は真逆の質問ですか? 話の飛ぶ人ですね」
「わ、悪いわねっ!」
言葉に若干トゲが混じる文。つんとした顔でコツコツと指でちゃぶ台を叩くあたりにもそれが滲み出してる。文は本気になるほどリアクションが減るから、これでも演技が入ってるんだろうけど。だからって自分の身勝手さをさっき痛感したばかりだ、素直に謝るしかなかった。
「あれ珍しい、まあ良いですよ。ここに来たのはもちろんネタのため、と言いたいところですが」
言葉を切った文は庭のほうに目をやる。何を言いたいのかはすぐに分かった。
「頼りのネタはなんと全滅! パーですよ、パー」
両手をパッと広げて文は笑った。振り返る一瞬、文の目に帯びる哀愁を見つけた。その色を見極める前に表情はころりと変わっていて、それ以上の詮索は叶わずじまい。文のこうした切り替えは無意識なのか、今日に限って私が変に意識しちゃっただけなのか。
「ところで私からも質問いいですか?」
「私をネタ代わりにする気?」
「いえいえ、確かにあなたはネタの宝庫ですけど。じゃあ別に一枚」
「却下」
「あやや」
身を乗り出して真っ赤なレンズを片手で塞ぐ。いつ取り出したかも見えなかったカメラを構えながら文は肩をすくめた。大方、自分の真後ろにカメラでもカバンでも忍ばせてたんでしょうけどね。選り抜いた写真に自称“真実”をくっつけるのは文の常套手段。勝手な撮影はそれこそごめんよ。
「で、質問って?」
そそくさとカメラを仕舞った文は揚々と告げる。えらく軽い口調で。
「いやあ単純な話です。なんで酔ってるんですか?」
「え」
「霊夢の乙女心を傷つけるのは良くないなと黙ってましたけど、だいぶ酒くさいですよ。気づいてました?」
急いで左右の袖を嗅ぐ。特に臭ってると感じないのは鼻が慣れていたのか。そろりと文に向き直る。
「……臭ってた?」
「かなり。二日酔いってやつでしょう? 私はあまり経験しませんがね。あとそれも片付けられてないですし」
空っぽの徳利とぐい呑みを指さす文。一個ずつ証拠を突きつけられて追い詰められる犯人みたいな状況だ。推理ものの探偵さながらに文の詰問は続く。
「意外と綺麗好きな霊夢が片付けを後回しにするほど不調」
「意外とは余計よ」
「それだけの量を宴会のない昨日に飲むのはおかしい」
「そりゃ二瓶空けちゃったけど……」
「記事にはしませんので正直に。ずばり、誰と飲んでたんですか?」
「……はあぁ?」
びしり、と指を突き刺してくる文に自分でも呆れるほど間抜けな声が上がった。
「なんでそんな突飛な話になるのよ! 私は誰とも飲んでないわ」
「どこが突飛ですか。私にはそうとしか思えませんよ。“宴会第二弾が潰れた巫女は秘密の誰かとこっそり飲み会”、それが事の顛末では?」
「だからさ……」
げんなりする。文はやたら思いこみが激しいところがある。真面目な顔して決めつけに近い話を押し通すんだからタチが悪い。むしろ一緒に飲みたかったのはこっちの方よ。やけ飲みの一人酒なんて悲しいこと、したくないに決まってる。
文はまだ納得がいかない様子でこっちを凝視していた。なにか説明しないとテコでも動かなさそうだけど、頭が回るから下手な取り繕いはきっと逆効果。文を頷かせるには私の全部を話すしかない。無駄に濁さず端的に、訊かれる前に全部答えを並べてしまえばいい。それすなわち赤裸々ってことだけど。
頭が痛む。包み隠さず語る羞恥とさっさと問答から解放されたい欲求を天秤にかける。秤が傾くのにどれほどの時間を要したのか、私にも分からないくらいの逡巡のすえ、腹を決めた。
「分かった、言うわ」
文の口が開く前に「ただし」と断りを入れる。ここにおいて最速は私だ。
「あんたも私の質問、逃げずに答えて」
「……いいでしょう」
意外にも文は迷いもせず応じた。思えば真っ先に尋ねたのは私のほうだ。対価の要求を文はどことなく予想していたのかもしれない。
さて、話さなくちゃいけない。無理やり吐かされるより絶対マシだと言い聞かせ、深呼吸と合わせて自分の背中を押した。
「……まず、昨日飲んでたのはほんとに一人きり。誰かといたわけじゃないし、あんなに飲んだのはヤケを起こしたからよ」
「ほう、ヤケを起こしたんですか?」
ブン屋の取材テクなのか、文は私の話を反復する。そのおかげか次の言葉はつっかえずに口から出てきた。
「そうよ、ムキになってうっぷん晴らしに飲んだだけ。宴会用に集めてたお酒を開けたの」
「あんたは思うんでしょ? なんでムキになったかヤケになったか、って」
握ったこぶしに爪が食いこんだ。
「そんなの決まってるじゃない、あんたが来なかったからよ! 一昨日に宴会あるって知ってたんでしょ?! あんたも楽しみにしてたのに、来ないし、そしたら桜は散っちゃうし、今日の宴会だって中止になるし」
声はみるみるうちに枯れていく。鼻の奥がツンと痛くて、まさか自分が泣きそうになってるなんて──混乱した。私らしくない。
ふと視線を上げると文の顔もだいぶ酷かった。茫然とした顔はなんだか間抜けで唇は動いても音を作れてない。パクパク上下する口は鯉みたいだ。なんだ、二人そろって醜態の見せ合いっこって、ますます恥ずかしいじゃないの。
「……ああ、霊夢」
ばつが悪そうに文は切り出した。かと思えば頬を掻いたり目が泳いだりとパッとしない。ああもう、何よじれったい。
「なに?」
「隣いいですか」
「え? うぅん、良いけど」
肩透かしを食らう。この流れとタイミングで、言うことそれなの? 不思議な申し出に首をひねっていると柔らかな感触に左肩が包みこまれる。ふかふかで真っ黒な文の翼だった。
「すみません。まさか、そんなに待っててくれたとは」
右からは文の声。温かさに左右から包まれて、文に抱きしめられてるって理解しちゃったら、もう駄目だった。目の奥がにわかに熱くなる。
からかい口調で発破をかけてくるいつもの文はどこにもなくて、羽先の震えだけがその動揺ぶりを語ってる。時々、変に不器用で優しいんだ。まともに顔を合わせられるわけなかった。羽の震えはいっそう増した。
「あんたのせいだからね」
「……すみません」
「勘違いしないで。お礼も含めてるわよ」
「お、お礼? 私に非があるとしか思えないんですが」
「いいの」
「いいんですか?」
「いいのよ」
肩に被さる翼を撫でればくすぐったい羽毛の感触が返ってくる。しばらく遊んでたら文はそろそろと視線を送ってきて、一つ飲みこめたんだと伝わった。促すまでもなく文は口を開いてくれる。なぜ一昨日の宴会に来なかったのか、そのワケを。
「──天狗のなかでもこの季節は宴会が恒例でしてね。今年は山の春が早くて運悪くこっちと日にちが被っちゃって。天魔様まで参加する席なもんで、抜けることが許されず昨日まで飲み明かすことになり。……どうしても顔を出せなかったんです」
「天魔……天狗のボスか」
天狗組織に暗い私でも文の話は覚えている。確か商売敵──早苗たちが越してきた妖怪の山に攻めこんだ時だっけ。自分の意思だけで動けなくなるのが組織に属することだと文は言っていた。私にはてんで想像つかないけど、今回もそんな組織の影響の一端が出たってことなんだろう。文にとっては仕方がなかった、それだけなんだ。
「ん、ならしょうがないじゃない」
「そうでしょうか」
悪意で花見の予定を蹴ったんじゃなかった。それだけで十分。──たとえ次の予定が潰れてたとしても。
「そうよ。今日の花見は来ようとしてくれたんだし。だったらチャラよ」
「……そのことですが、中止なのは知ってたんです。桜がほぼ散ってたのも飛ぶ道中で分かっちゃいますし」
「…………」
桜もない。酒もない。ネタもない。そうと知っていて、どうして。文の返しには不意を打たれっぱなしだ。
文は照れくさそうに微笑むとおもむろに手を伸ばした。そしてちゃぶ台の下に腕を突っこみ、掴んだカバンを引っ張り出す。文が新聞配達によく使ってる茶色のショルダーバッグだ。しかし何故だか底がいびつに膨らんでいた。
「霊夢とね、飲みたかったの」
取り出されたのは一本の酒瓶。
その瞬間に今までのすべてが繋がって、思わず吹き出してしまう。同じ気持ちを抱えてたくせに堂々巡りに食い違いなんて、滑稽でしょうがない。ほんと私も文も、根っこが素直じゃないわ。
でも、悪い気はしなかった。
「だったら早く言いなさいよね」
***
庭を眺めての酒盛りは昼下がりから始まった。おぼんを間に挟みながら並んで縁側に腰かける。つまみもない、シンプルで小さな宴会だ。
「はい乾杯」
「乾杯~」
陶器の軽やかな心地いい音が耳を撫でた。私がお猪口をすする傍ら、文は一升枡をぐびぐび喉に流しこむ。さすが酒豪、酒瓶のお酒は最初の一杯でごっそり減ってしまったわけだけど。曰く二日酔いの私に合わせるから飲む量はセーブするとのこと。本当かしら。
とは言え、文はあれから水分補給用のお茶や軽いお昼を作ってくれた。私のぶんがお猪口サイズなのも文がこれ以外許してくれなかったからだ。
そのおかげもあって頭痛も吐き気も収まり、すっきりした気持ちでお酒に口をつけられている。甘苦い風味と濃厚な香りが鼻をくすぐる、とても飲みやすい逸品だった。
だからこそ口惜しくて仕方ない。
「これでまだ咲いてればねぇ……」
叶わない願いと分かってても、つい求めてしまうのは人間の性ってもの。すると隣からわざとらしい咳払いが上がった。
「霊夢、私の種族をお忘れですか?」
「うわばみ」
「天狗です」
まったく、とぼやきつつ文は桜の根元を見据えて妖気を送り始めた。すぐに空気の流れが変わる。“風を操る程度の能力”だ。
積もり積もった桃色が少しずつ、少しずつ煽られる。巻き上がる。そして降ってくる。不規則な軌跡は花吹雪の言葉がよく似合った。
「ふふん。この射命丸文、演出にぬかりありませんよ」
「これは、確かに」
息を飲んだ。
風が桜を踊らせ、日差しを吸った花びらが星屑みたいに白く輝く。ここだけ時が巻き戻って世界から切り離されたような、幻想的な桜の雨。
文にしては目を疑うくらい粋な演出だった。それが私のためにと思えば尚のこと、胸の奥からこそばゆくなる。ありがとって小さく呟いたらすごく甘ったるい笑顔を返された。あんたってそんな顔できたのね。なんだか急に熱くなったわ、酒が回るにしては早いのに。
「そ、そういえば、あんた結局ネタ探しはごまかしでしょ? いつまでその口調なわけ?」
「お気に召しませんか?」
「別にどっちでもいいけどさ」
半分は話を逸らす口実、もう半分は率直な疑問だった。口調を簡単に切り替えるわりには違和感があるというか、そんな気がした。取り立てて探りたい謎でもないけど企みの影が見え隠れしている。ま、勘だけど。
一方の文は膝に乗せているカメラを親指でなぞり、胸を張った。
「あれですよ、記者たるもの常にシャッターを切る心構えが必要なんです」
「ふーん」
「ちょっとお」
頬を膨らませる文は置いといて二杯目の酒を注ぐ。そこに花弁が一枚、お酒に浮いて波紋を作った。──なんて風流な。これも文の演出と思うと顔がゆるむのを感じた。
「あら霊夢」
驚きまじりの声につられて顔を上げる。同時に文の手が額に触れて図らずも声が漏れた。
「花びら、ついてますよ」
指で桜をつまみとった文は得意げに歯を見せる。片手に構えたカメラはもう撮影体勢に入っていて、
「あんたの仕業でしょ」
レンズに収まった顔が笑う。軽快にシャッターが切られた。
よきよき
桜の花びらが舞い上がる美しい情景が目に浮かびました