住処の近くでかわうそが泳いでいた。初めて、霧の湖にかわうそがいることを知った。
かわうそは人間に似た手で水を掻き分け、自由自在に泳いでいる。鰓はないから時々空気を取りに浮上していく。そして戻ってきて、魚や貝を食い散らかす。
「はじめまして」
折角なので友達になりたいと思って、声をかけてみた。かわうそは特に驚いた様子も見せず、気さくに応対してくれた。
「初めまして。おいら、この湖に人魚がいるなんて初めて知ったよ」
「私もこの湖でかわうそに逢ったのは初めてだわ」
「違うよ。おいらはまだ湖獺だよ」
「あら、そうなの」
「みんなは川に出て行って、川獺になったけど。おいらも今から川に行くんだ」
「どうして?ずっと湖に居たんでしょう。川に行く必要があるの?」
「湖にはもうおいら以外居なくなっちゃった。寂しいからさ」
そう言って湖獺は川の方へと泳いで行った。途中で何回か振り返って、私に手を振った。
こうして郷から湖獺はいなくなった。
/
―主治医である貴女が、この文を他の誰にも見せないことを信じる。私は左肘の経過観察とリハビリを併してこれを書くものである。
この日記帳はそんな一文から始まっている。
…
八月二十六日
今回の怪我の原因は、やはり書かないことにする。貴女には言わなかったけど、恐らく簡単に判ることだろうし、書いてもくだらないことだから。
左肘の固定は外されたものの、決して意のままに動くということはない。今こうして書いているのは右腕である。両利きであるが故に煩わしく感じることはない。
夏の終わりが近づいて来たのが判る。今日は昼に少し暑く感じた程度で、陽が暮れるにつれてどんどん冷えこんでいった。夜になればとても過ごしやすい頃合いである。
久しぶりに家のお風呂に入ろうと思っていたのだが、少しく不自由な左腕をさげて入るには危険であると判断し、止めておいた。あまり汗をかいていなかったのは幸いである。あうんに身体を拭いてもらい、着替えを手伝ってもらった。
今、蝋燭を消す段になって、お風呂の際にもあうんの手を借りればよかったと思う。今日の記録はここで終わる。
…
八月二十七日
ずっと風が強い日だった。今も雨戸を揺らし、音を鳴らしている。
風に目を覚まされた時は朝方だった。雲の後ろにある太陽の光が強くて、目を眩ませた。その雲もすぐに流れていった。
朝ごはん代わりに蕎麦がきを食べたあと、黒い雲が出てきたのでそこで雨戸を閉めた。あうんが注いだお茶を飲んでいると、外の方から引っ掻くような音が聴こえ始めた。雨戸を開いて確かめてみたところ、ちいさな木が枝で壁を掻いていた。風が吹くたびに木が揺れて、それで音が鳴っているのだった。
スコップを持ってきて、適当なところに植えなおした。ここらで左肘が大分よくなっていることに気づいた。
こんなところに小さな木どころか芽吹きすらも無かったのだが、あうんに訊くと、私がそちらにいた間にいつもの妖精どもが何かしたらしい。性質の悪いいたずらでなかったのは嬉しいが、家主のいない間に何かしてやろうというのはいただけない。
左肘の調子がよくなったのでお風呂に入ったのだが、へんに温めたのがいけなかったのか、また痛みがぶり返してきた。お風呂からあがったあとも痛みつづけ、蒲団で唸っている内にやっと治まった。
もう今日はこれ以上書くことがない。終わり。
…
八月二十八日
…
八月二十九日
昨日は魔理沙が泊りに来た関係上日記を認めることが出来なかった。今日に昨日の分も書こうと思っていたが、昨日のことなど忘れてしまった。
魔理沙の分のご飯は少なくよそったというのに、その意図も汲まずおかわりをするので、米櫃が軽くなってきている。次にあいつが来た時に米代を請求する所存だ。
前にも書いたいつもの妖精どもが、こそこそと何かを企んでいるようだったから、警告しておいた。今の私は左腕の調子が悪く、下手に刺激すると手加減などしない、と。震えて頷くので良しとしておいた。
そのあと妹紅が木炭を背負ってきた。とくに不足しているということは無かったのだが、一応ということで買っておいた。
どうだい調子は、などと言うので、本調子に戻り始めていると言うと、それは怖いなと言われた。なにか心当たりがないと怖いはずがないので、きっとやましい事があるのだろう。悪い事を見逃さないほど野暮ではないつもりだ。
ところで今これは左で書いている。とくに引っ掛かりもないので、完治といって差し支えないだろう。お風呂に入る時はあうんを呼んでおいたのだが、別に呼ぶ必要はなかった。一人でも何の問題もなく入れたから。やはりとっくに治っているということだろう。
眠いので今日はこれで終わり。
…
八月三十日
夜が暑かったせいで寝汗がひどかった。まだ夜が明ける前に水風呂に入って流した。
それからもう一度寝ようという気にならなかったので、朝がくるまで縁側でぼーっとしていた。植えなおしたちいさい木のことを思い出して、見に行ったら、特に成長した様子はなかった。木というものは成長が遅いのか、それとも特にこの木が遅いのかもしれない。
朝ごはんに納豆とご飯を食べ、歯を磨いてから賽銭箱を拭いた。誰もいれないにしろ、せめて見てくれを綺麗にしたかった。必死で磨いていると早苗が来た。
早苗は明日は三十一日ですね、何だか寂しいですねと言った。私は三十一日が特別寂しいとは思わない。そう言うと、それはあなたが夏休みを経験していないからですよ、と応えた。それから早苗は夏休みについて語った。夏休みの終わりとはすなわち夏の終わりと同じであり、ひどく寂しくどこまでも遠くに在るものであると持論を展開し、語り終えたあとは満足して帰っていった。
早苗が帰ったあとにあうんが何かを持ってきた。確かめてみると、金属製の入れ物だった。缶詰にとても似ているが、縦に細長い。上面に小さな穴が空いていて、飲み口だったのだろう、茶色い液体が付いている。
これはどうしたのかと訊くと、早苗と話している時に、変わった風貌の男の人が賽銭箱の近くに置いていったらしい。納品物かと確かめると、俺はこれからもカフェオレ臭い息を吐いて生くんだ、とだけ言って去ったらしい。いつか香霖堂に持って行こうと思って、洗っておいた。
明日でこの日記も終わりだ。日記ではないと貴女は言うが、日々を書き残したのならそれは日記だろう。
…
八月三十一日
今日でこの日記を書くのも終わりである。蝋燭の減りが早かったので、これ以上書かなくて済むのは非常に嬉しい。一応リハビリの結果を書いておくと、左腕は元のように動かせる。今のところ感じる異常はない。
今日はよく晴れた日だった。朝から夜まで雲を見ることが無かったほどだった。あうんは守矢に行っていたから、神社にはずっと一人でいた。天気もよかったし、誰かが来るだろうと思っていたが、いつまで経っても来客はなかった。
空が赤くなると、ツクツクボウシが鳴き出した。その鳴き声がどんどんと速くなっていくと、私もなんとなく焦りだした。もうすぐ夏が終わるんだ。いや、たった今終わったのかもしれない。ツクツクボウシが鳴いたのだから。
なんにせよ、八月三十一日の夕方はもう終わってしまった。秋の準備をしなくてはならない。こうなると、昨日に早苗が言っていたことも理解できる気がする。八月三十一日というものは寂しい。
もうすぐ蝋燭が融け切ってしまうので私はここで書くのを止めるが、この日記は惰性だけで続けられたものであるということを、貴女には知ってほしい。
…
九月一日
…
九月二日
…
経過観察帳を閉じると、ツクツクボウシが鳴いていることに気がついた。いつの間にか日は落ちている。此処はいつでも微暗いけれど、日が落ちるといっそう暗い。
「これじゃただの日記じゃないの」
まぁ、それでもいいか。完治はしたようだし。
目の前のブックスタンドにねじ込み、椅子に凭れかかる。机の端隅には患者からもらった線香花火が置いてあった。ゴミ箱に捨てるのも気が引けるので、火をつけてみた。すぐに燃え尽きた。
かわうそは人間に似た手で水を掻き分け、自由自在に泳いでいる。鰓はないから時々空気を取りに浮上していく。そして戻ってきて、魚や貝を食い散らかす。
「はじめまして」
折角なので友達になりたいと思って、声をかけてみた。かわうそは特に驚いた様子も見せず、気さくに応対してくれた。
「初めまして。おいら、この湖に人魚がいるなんて初めて知ったよ」
「私もこの湖でかわうそに逢ったのは初めてだわ」
「違うよ。おいらはまだ湖獺だよ」
「あら、そうなの」
「みんなは川に出て行って、川獺になったけど。おいらも今から川に行くんだ」
「どうして?ずっと湖に居たんでしょう。川に行く必要があるの?」
「湖にはもうおいら以外居なくなっちゃった。寂しいからさ」
そう言って湖獺は川の方へと泳いで行った。途中で何回か振り返って、私に手を振った。
こうして郷から湖獺はいなくなった。
/
―主治医である貴女が、この文を他の誰にも見せないことを信じる。私は左肘の経過観察とリハビリを併してこれを書くものである。
この日記帳はそんな一文から始まっている。
…
八月二十六日
今回の怪我の原因は、やはり書かないことにする。貴女には言わなかったけど、恐らく簡単に判ることだろうし、書いてもくだらないことだから。
左肘の固定は外されたものの、決して意のままに動くということはない。今こうして書いているのは右腕である。両利きであるが故に煩わしく感じることはない。
夏の終わりが近づいて来たのが判る。今日は昼に少し暑く感じた程度で、陽が暮れるにつれてどんどん冷えこんでいった。夜になればとても過ごしやすい頃合いである。
久しぶりに家のお風呂に入ろうと思っていたのだが、少しく不自由な左腕をさげて入るには危険であると判断し、止めておいた。あまり汗をかいていなかったのは幸いである。あうんに身体を拭いてもらい、着替えを手伝ってもらった。
今、蝋燭を消す段になって、お風呂の際にもあうんの手を借りればよかったと思う。今日の記録はここで終わる。
…
八月二十七日
ずっと風が強い日だった。今も雨戸を揺らし、音を鳴らしている。
風に目を覚まされた時は朝方だった。雲の後ろにある太陽の光が強くて、目を眩ませた。その雲もすぐに流れていった。
朝ごはん代わりに蕎麦がきを食べたあと、黒い雲が出てきたのでそこで雨戸を閉めた。あうんが注いだお茶を飲んでいると、外の方から引っ掻くような音が聴こえ始めた。雨戸を開いて確かめてみたところ、ちいさな木が枝で壁を掻いていた。風が吹くたびに木が揺れて、それで音が鳴っているのだった。
スコップを持ってきて、適当なところに植えなおした。ここらで左肘が大分よくなっていることに気づいた。
こんなところに小さな木どころか芽吹きすらも無かったのだが、あうんに訊くと、私がそちらにいた間にいつもの妖精どもが何かしたらしい。性質の悪いいたずらでなかったのは嬉しいが、家主のいない間に何かしてやろうというのはいただけない。
左肘の調子がよくなったのでお風呂に入ったのだが、へんに温めたのがいけなかったのか、また痛みがぶり返してきた。お風呂からあがったあとも痛みつづけ、蒲団で唸っている内にやっと治まった。
もう今日はこれ以上書くことがない。終わり。
…
八月二十八日
…
八月二十九日
昨日は魔理沙が泊りに来た関係上日記を認めることが出来なかった。今日に昨日の分も書こうと思っていたが、昨日のことなど忘れてしまった。
魔理沙の分のご飯は少なくよそったというのに、その意図も汲まずおかわりをするので、米櫃が軽くなってきている。次にあいつが来た時に米代を請求する所存だ。
前にも書いたいつもの妖精どもが、こそこそと何かを企んでいるようだったから、警告しておいた。今の私は左腕の調子が悪く、下手に刺激すると手加減などしない、と。震えて頷くので良しとしておいた。
そのあと妹紅が木炭を背負ってきた。とくに不足しているということは無かったのだが、一応ということで買っておいた。
どうだい調子は、などと言うので、本調子に戻り始めていると言うと、それは怖いなと言われた。なにか心当たりがないと怖いはずがないので、きっとやましい事があるのだろう。悪い事を見逃さないほど野暮ではないつもりだ。
ところで今これは左で書いている。とくに引っ掛かりもないので、完治といって差し支えないだろう。お風呂に入る時はあうんを呼んでおいたのだが、別に呼ぶ必要はなかった。一人でも何の問題もなく入れたから。やはりとっくに治っているということだろう。
眠いので今日はこれで終わり。
…
八月三十日
夜が暑かったせいで寝汗がひどかった。まだ夜が明ける前に水風呂に入って流した。
それからもう一度寝ようという気にならなかったので、朝がくるまで縁側でぼーっとしていた。植えなおしたちいさい木のことを思い出して、見に行ったら、特に成長した様子はなかった。木というものは成長が遅いのか、それとも特にこの木が遅いのかもしれない。
朝ごはんに納豆とご飯を食べ、歯を磨いてから賽銭箱を拭いた。誰もいれないにしろ、せめて見てくれを綺麗にしたかった。必死で磨いていると早苗が来た。
早苗は明日は三十一日ですね、何だか寂しいですねと言った。私は三十一日が特別寂しいとは思わない。そう言うと、それはあなたが夏休みを経験していないからですよ、と応えた。それから早苗は夏休みについて語った。夏休みの終わりとはすなわち夏の終わりと同じであり、ひどく寂しくどこまでも遠くに在るものであると持論を展開し、語り終えたあとは満足して帰っていった。
早苗が帰ったあとにあうんが何かを持ってきた。確かめてみると、金属製の入れ物だった。缶詰にとても似ているが、縦に細長い。上面に小さな穴が空いていて、飲み口だったのだろう、茶色い液体が付いている。
これはどうしたのかと訊くと、早苗と話している時に、変わった風貌の男の人が賽銭箱の近くに置いていったらしい。納品物かと確かめると、俺はこれからもカフェオレ臭い息を吐いて生くんだ、とだけ言って去ったらしい。いつか香霖堂に持って行こうと思って、洗っておいた。
明日でこの日記も終わりだ。日記ではないと貴女は言うが、日々を書き残したのならそれは日記だろう。
…
八月三十一日
今日でこの日記を書くのも終わりである。蝋燭の減りが早かったので、これ以上書かなくて済むのは非常に嬉しい。一応リハビリの結果を書いておくと、左腕は元のように動かせる。今のところ感じる異常はない。
今日はよく晴れた日だった。朝から夜まで雲を見ることが無かったほどだった。あうんは守矢に行っていたから、神社にはずっと一人でいた。天気もよかったし、誰かが来るだろうと思っていたが、いつまで経っても来客はなかった。
空が赤くなると、ツクツクボウシが鳴き出した。その鳴き声がどんどんと速くなっていくと、私もなんとなく焦りだした。もうすぐ夏が終わるんだ。いや、たった今終わったのかもしれない。ツクツクボウシが鳴いたのだから。
なんにせよ、八月三十一日の夕方はもう終わってしまった。秋の準備をしなくてはならない。こうなると、昨日に早苗が言っていたことも理解できる気がする。八月三十一日というものは寂しい。
もうすぐ蝋燭が融け切ってしまうので私はここで書くのを止めるが、この日記は惰性だけで続けられたものであるということを、貴女には知ってほしい。
…
九月一日
…
九月二日
…
経過観察帳を閉じると、ツクツクボウシが鳴いていることに気がついた。いつの間にか日は落ちている。此処はいつでも微暗いけれど、日が落ちるといっそう暗い。
「これじゃただの日記じゃないの」
まぁ、それでもいいか。完治はしたようだし。
目の前のブックスタンドにねじ込み、椅子に凭れかかる。机の端隅には患者からもらった線香花火が置いてあった。ゴミ箱に捨てるのも気が引けるので、火をつけてみた。すぐに燃え尽きた。
日記、この夏の終わりのタイミングで書かれると夏休みの宿題感ありますね。夕焼け、蝉の声、線香花火とノスタルジーを誘う小道具・シチュエーションも、夏休みが終わるあの寂しい感じを思い起こさせます。
どこか寂しく弱々しい霊夢が新鮮でした
みずうみうその話が妙に印象的なので、そちらもそれだけで終わったのは一体何だったのかと思いました。