「え、小鈴のやつ、またいないんですか……?」
「ごめんね、あの子も会いたがってたんだけど」
「いえ、そんな」
「阿求ちゃんが来たって言っておくから……ああでも、今日は泊まってくるって言ってたから、明日の夕方に来てもらった方がいいかも」
「そうですか……」
こちらのことを阿礼乙女としてではなく、娘の友達として扱ってくれることに感謝を得るのはいつものことだ。とはいえ小鈴の母親がもたらした情報は、稗田阿求の顔を明るくさせるものではなかった。
先月から数えて、はや三度目の出来事だった。一度目は本の返却に来たときのことで、二度目は特に理由もなく遊びに来たときのことだった。
いずれの場合も小鈴は不在で、今日も又阿求の期待を外す結果になったのだった。
またいないんですか、なんて失礼な言い方をしてしまったなと阿求は思う。しかし理性は感情に追いつかず、ただ俯くことしかできなかった。
……いつも小鈴のことを子供なんて言ってる癖にね。
内心で独りごちるが、それを小鈴の母親に漏らすわけにもいかない。
挨拶もそこそこに手土産だけを渡して――来る理由を作るかのように買ってきたのが馬鹿みたいだ――鈴奈庵を立ち去ろうとした。
「ああそうだ、えーと、咲夜さん? のところに行くんだって言ってたから、阿求ちゃんも行ってみれば?」
「――、いいえ。また明日来ます」
今度こそ感情が抑え切れそうになかった。こんな思いをするのも三度目だ。
一度目は、小鈴は山の上の神社に出かけていて不在だった。
――これはいい。あそこの神様は人間の味方で、安全に日帰りできるロープウェイだってあるのだから。自分に声をかけてくれなかったのに一抹の寂しさを覚えはしたが。
二度目は、アリス・マーガトロイドのところに行っていたらしい。
――少し納得がいかなかった。恐らくは知り合いの魔法使いの繋がりで遊びに行ったのだろうが、一体そこにどういう経緯があったのやら。どう考えても自分に声をかけるべきであり、黙って行ってしまったことに違和感を超えて猜疑さえ浮かぶ始末だった。
もちろん、そんなものはただの偶然だと阿求は信じていた。それも、つい数分前までのことだが。
小鈴に紅魔館と繋がりがあるのは知っている。そのきっかけになった事件は自分が持ち込んだのだし、当然御阿礼の子の記憶からは消えるわけもない。
その後小鈴とレミリアが手紙をやり取りしていたのも知っている。交友と言っていい関係だ。
だから小鈴が紅魔館に行くことは何もおかしくはない。
おかしくはない、のだけれど。
「どうして私に、声をかけないかなあ」
漏れ出た言葉に、はっとして口を押さえる。
慌てて周囲を見渡して、誰もいないことに胸をなでおろした。
……本当、ばかみたい。
別にたまたま偶然が続いただけなのだから、気にすることはない。
別にあの子が遊びに行くのに、自分に声をかけなければいけないなんてルールは無いのだから。
別に、稗田阿求がいなくたって、本居小鈴は生きていけるし。
「あの子に友達が増えるのは、良いことのはずなんだから」
……うわ。
今代で初めて、得た感覚だった。果たして歴代の御阿礼の子は、眼の奥が熱くなったときはどうしていたのだろう。記録と化した記憶の中を探せば見つかるだろうが、今は頭を動かしたくなかった。
ぼうっとした思考のまま、歩みだけが止まらない。気が付けば自分は室内にいて、誰かに話しかけられていた。
「……阿求様、お腹が空いたら、いつでもお声がけくださいね」
いつの間にか家まで戻ってきていたらしい。玄関を通り過ぎたのに気が付かないばかりか、誰が何と言っているかも頭が認識してくれなかった。
一瞬の後に、話しかけてきたのが我が家の侍女であることがわかった。そして、彼女がこちらを気遣ってくれたことも、辛うじて認識することができた。
力なくお礼だけ言って、二階の自室に戻る。窓から見下ろす昼下がりの人里は、当然のように明るい。外の光から身を隠すように、雨戸を閉めて、内側の窓を閉めて、カーテンまでを閉め切った。
外から遮断された自分の部屋は、驚くほど寒々しかった。防寒という点で言えばむしろ暖かいはずなのに、だ。
ふと床を見てみると、朝畳んだ布団とは別の布団が敷かれていた。侍女が気を利かせて――帰りが夜遅くになると踏んで――敷いてくれていたのかもしれない。
その気遣いが有り難く、同時に心に靄をかけた。
「お土産、持って帰ってくればよかったかな」
先ほどは家に持ち帰ると惨めだと思った。けれど今にして思えば、鈴奈庵に置いてくるのも同じくらい惨めに感じられた。それならばいっそ、自分で食べてしまった方がよかったかもしれない。
あの包みは確か甘いものだったはずで、今の自分が食べれば少しばかりは元気が出るかもしれない。そんな意味の無い思考を、今更ながらに思い浮かべもする。
……何を買ったかすら認識してなかったなんて、余程必死だったのね。
里ではあまり見かけない洋風の包み紙だったが、さてあれはなんだったのか。甘味処で売っていたからには甘いもののはずなのだが。
阿礼乙女の記憶の中にないということは、それはすなわちこの世界のどこにも答えは残されていないということを示していた。
「ああ、もう、なんでもいいか」
本当に子供みたいと思いながら、阿求は布団に身を投じた。
少しの間だけ小鈴の顔が暗闇に浮かんで、けれどもすぐに消えていった。
◆◆◆
「……ん」
覚醒は穏やかだった。
ひんやりとした空気と、光の差さない闇。阿求が感じたのは、夜だった。
寝すぎたと思い、しかし予定もないのだから構わないとも思う。最後の記憶によれば掛け布団の上から倒れ込んだはずなのだが、今はしっかりと敷布団と掛け布団に挟まれていた。
きっと侍女の誰かがやってくれたのだろう。ふと机の上を見てみれば、おにぎりと水差しと、湯呑が二つが置かれていた。
……まったく、何から何まで。
何も食べる気にはならなかったが、喉の渇きは自覚できていた。きっと本当はお腹もすいているのだろう。今が何時かもわからないが、食べておくに越したことはないはずだ。
それに――何かをしていないと、嫌なことを思い出してしまいそうだった。
「って、私がそんなこと考えちゃ御終いね」
気怠い身体を起こして、もそもそと机に近づく。
――と。
「え」
がたん、と。音が響いた。
しん、と静まり返っていた部屋に、確かに物音が響いたのだ。
その音は、寝る前に閉めた雨戸から鳴っていた。その音はがたがたと大きさを増していて、今にも雨戸は開きそうだった。
そういえば鍵を閉めていなかったかもしれない。こんなときでも稗田の記憶は明瞭で、自身の不用心を直ぐに確信に至らせていた。
稗田の家へ泥棒に入る不心得者がいるとは思えないが、現実は目の前にある。人か、それ以外かはわからないが、もはや誰かが部屋の中に入り込もうとしているのは確実だった。
心臓が強く鳴っていた。誰かを呼ぼうとしたが、寸前で思い留まる。ここまで堂々と忍び込もうとしている相手なのだ。里のルールなど関係なく暴れようとしている輩だとしたら、誰かを呼ぶのは被害を広げるだけに思えた。
ならばどうするかと、阿求は思考を重ねて、しかし――
「――ちょっと阿求、あけてー。寝てるのー? おーい」
「……はあ?」
聞き覚えのある声が、嫌に耳に響いた。
「阿求ー。阿求さーん。あーきゅーうー?」
「…………」
完全に冷めた気持ちで、無言でカーテンと窓と雨戸を開けた。
そこにはあれほど頭に浮かんだ顔が存在していて、
「……はあ?」
「な、なによその反応は。ほら笑顔笑顔」
どうやら小鈴の頭からは常識という言葉が抜け落ちてしまったらしい。人外と親しんでいるからこういうことになるのだ。
「ばか小鈴」
「へ?」
「……とにかく入れば? 小鈴一人じゃないんでしょ?」
「うん。えーっと咲夜さんも……あれ、さっきまでそこにいたのに」
仕事ができるのも考え物である。何を考えてここまで連れてきたのだろうか。自分が眠りこけていたらどうするつもりだったのだろう。
「まいっか。お邪魔しまーす」
「はいはい、静かにね」
「ふふふ」
小鈴は何がおかしいのか、口元を右手で覆って笑いをこぼしていた。
にこにこと眼を弓にしている小鈴を見ると、昼間の自分がさらに馬鹿に思えた。
「……で?」
「でって?」
「何をしにきたのよ」
「えー私と阿求の仲じゃない。理由が無ければ来ちゃ駄目?」
「少なくとも、深夜には駄目ね」
言外に日中なら理由がなくても来ていいと言っているのに気が付く。
……ああ私、さっき理由を作ってまで行こうとしてたのに……。
完全に自爆ではないだろうかこれは。否、自分だって普段は理由も無く遊びに行くのだから、今日が例外なだけのはずだ。
「いやいや例外って何よそれじゃ私が必死だったみたいじゃないまさかそんな」
「ぶつぶつ言っちゃってどうしたのよ。まあほら、私が今日こんな時間にやって来たのは理由があるんだから」
「理由?」
「うん。えーっと、今の時間は……」
小鈴が壁掛け時計を見る。暗闇に慣れた自分の目も、月光に照らされた時計に目を留めた。
そして阿求は認識する。今が長針と短針が重なる時間であり、すなわち日替わりの時間であるということを。
「よーし時間通り。それじゃあ、えーっとね」
言って、小鈴が背に隠していた左手を前に出す。
その手に握られていたのは、
「ハッピーバレンタイン。私の手作りチョコ、受け取ってくれるよね?」
「――――」
今日が外の世界で言う二月十四日であることに、漸く気が付く。
外の世界の定番で、近年幻想郷にも広まった風習。
バレンタインが外来の文化であること。チョコレートが洋菓子であること。それらのことが、ここ一月のことと重なって連想された。
「小鈴、あんたがこのところ家にいなかったのって、まさか……」
「そうそう。この間早苗さんの所で話を聞いて来たのよ、今日が好きな人に贈り物をする日だって。それで魔理沙さんとアリスさんにお菓子の作り方を教えてもらって、じゃあバレンタインの前日は紅魔館で皆でお菓子作りしようってことになってね」
「…………あー、もう。そういうことね」
「何よ阿求。なんてことのない話じゃない」
それはそうだけど、と納得しかけてしまった自分が悔しい。なんてことのない話で落ち込んでいた自分が馬鹿みたいじゃないか。
……それに、好きな人に贈り物って意味、わかってるかなあのこの子は。
「そんなことしてるなら、私にも教えなさいよ」
「いやーほら、こういうのは隠してた方がいいかなーって。でも阿求に隠してることを皆に言ったら、日が昇るのを待たずに帰って方がいいって言われたのよねー」
「それで、こんな深夜に?」
「そうそう。特に早苗さんが、絶対早く阿求さんのところに行った方がいいって」
うんうん、と一人で勝手に頷いているが、小鈴はこちらの気持ちをわかっていないに違いない。
きっと早苗は会いもしていないこちらのことを察したのだろう。あの現人神は、知り合いの中でも――こういうことに関しては――人一倍察しがいい。
……何を言っても溜飲が下がる気がしないわね。
さてどうしてくれようかと阿求は思うが、
「ちょっとちょっと、受け取ってくれないの?」
「え、ああ、ええっと、勿論貰うけど……」
小鈴の言葉に出鼻をくじかれて、素直に小包みを受け取ってしまった。
包みを握る自分の両手と比較してみても、それは小さかった。包装を止めているのは糊ではなく、小洒落たリボン。直ぐにでも開封することが前提の、飾りの色が強い包装だった。
「ほら、開けてみて」
言われるがままリボンを解いて、包み紙を剥がして、箱を開けた。
甘く香ばしい匂いが辺りに打ち薫る。しかしそれよりも、阿求の気を惹くものがあった。それは、
「どーお阿求、板チョコにメッセージを書いてみたの」
「これって……」
「普通はメッセージカードをつけるらしいんだけど、あんた相手ならこっちのほうがいいでしょ?」
「……“私の永遠の友達へ。これからもよろしくね”」
「読み上げないでよ恥ずかしいんだからー!」
「…………」
ハッキリ言って、正気では無い文章だ。読んでいるこっちが恥ずかしくなりそうだし、こちらはそちらと違って転生するまで記憶に残ってしまうのだから勘弁してほしい。
だけど、それに文句を言うことはできなかった。なぜなら、今代二回目になる、けれども真逆の感覚が、阿求の目の奥からわきあがって来たからだ。
ただ阿求にできたのは、絞り出すような文句を言うことだけで。
「……ばか。本当にばかなんだから」
「む、なによそれー」
「あんたは忘れれば済むかもしれないけどね、こっちは忘れることができないのよ。それを小鈴はもう……!」
「だ、だって、別にいいじゃない」
何がいいのよ、と阿求は思った。心の表面に浮かべるだけで死にそうになる記憶を、ずっと持てだなんていいわけがない。
だけど小鈴は、
「あんたって、今の思い出を、次のあんたへ遺せるんでしょう? ――だったらこれくらいのこと、持って行ってくれてもいいじゃないの」
「――――」
今の小鈴の言葉には、二つの訂正がある。
一つは、御阿礼の子の記憶は、転生の後には引き継げないということだ。
阿求は覚えている。かつて自分が見栄と、言い知れぬ感情のせいで、小鈴に嘘を付いたということを。
そしてもう一つは、
「これくらいのこと、じゃないわよ」
「へ?」
「――二度は言ってあげない」
小鈴が抗議と不満の声をあげているが、既に阿求は無視すると決めていた。
一枚板のチョコレートを手に取って、もう一度恥ずかしいメッセージを見る。念のために裏側を見たけれど、ごつごつとした不格好な平面があるだけだった。
表面がつるつると綺麗なだけに、その不釣り合いさに笑ってしまった。よく見ればメッセージだってどこか歪んだ文字であるし、記憶を辿れば箱を封じていたリボンだって皺が多かったように思う。
咲夜か誰か、手先の器用な相手に頼めば綺麗に整えてくれただろうに。それでも小鈴自身の手で作ってくれたのは、見栄かそれとも、別の感情のおかげだろうか。
……そういうところ、一緒かあ。
今度は愉快さで笑って、阿求はチョコレートを持ち上げた。そのまま歯に板を噛ませて、ぱきんと音を立たせる。
「……意外に美味しい」
「意外は余計よ」
「まあ美味しくなかったら困るからね、それも記憶されるんだし」
「感覚とか、感情とか、そういうのも保存されるの?」
実のところ、クオリアの保存は画に比べると記憶の解像度は落ちるのが現実だ。
それでも、と阿求は重ねて思う。ここで言うべきことは本当のことではない。自分の嘘を真に受けて、なんてことのないようにこんなことをしてくる相手には、それ相応の言うべき言葉がある。
「――そう、その通りよ。だから精々百年後も、千年後も思い出して貰えるように、頑張るといいわ」
「うーん、じゃあねえ」
「は? ちょっと――」
言葉が終わるのを待たず、小鈴がこちらの身体に手を回して、お互いの距離を縮めだす。腰を抱かれて、息がかかりそうなほどに近づかれれば、朗らかに笑う小鈴の顔が見えた。
「……何やってるの」
「こうすれば阿求が喜ぶんじゃないかって、皆に言われたのよ」
「皆?」
「早苗さんとか、魔理沙さんとか、紫さんも」
「……余計なことを」
本当に、余計なことを吹き込んでくれた。早苗は好意十割、他の二人は好意五割の面白半分だろうから尚更腹が立つ。
「え、嫌だった?」
「……別に」
何より腹が立つのは、実際のところは嫌ではなかったからだ。
いやこれは、むしろ嫌というよりも――。
「……やっぱり小鈴が全部悪い」
「え?」
「里から離れて、妖怪の家にお呼ばれなんてする小鈴が悪いって言ったの!」
「えー?」
「えーじゃない! 紫さんなんて一番危ない妖怪なんだから!」
「でも色々親切にしてくれるしー」
「悪いったら悪いの!」
形だけでも叫んでみるが、いくら大きな声で抗議しても、胸の内に生じた不快とは真逆の感情は無くなるはずもなかった。
「ああっもう、こんなことされても嬉しくもなんともないけど――仕方がないから、いつまで経っても思い出してあげるわ」
ただ阿求にできるのは、小鈴のせいにして全てを誤魔化すことと。
この嘘がばれないようにと、心の中で願うこと。
それに加えて、
……いつかちゃんと、私の真実を伝えるからね。
と、将来の自分に願いを託すことだけだった。
「ごめんね、あの子も会いたがってたんだけど」
「いえ、そんな」
「阿求ちゃんが来たって言っておくから……ああでも、今日は泊まってくるって言ってたから、明日の夕方に来てもらった方がいいかも」
「そうですか……」
こちらのことを阿礼乙女としてではなく、娘の友達として扱ってくれることに感謝を得るのはいつものことだ。とはいえ小鈴の母親がもたらした情報は、稗田阿求の顔を明るくさせるものではなかった。
先月から数えて、はや三度目の出来事だった。一度目は本の返却に来たときのことで、二度目は特に理由もなく遊びに来たときのことだった。
いずれの場合も小鈴は不在で、今日も又阿求の期待を外す結果になったのだった。
またいないんですか、なんて失礼な言い方をしてしまったなと阿求は思う。しかし理性は感情に追いつかず、ただ俯くことしかできなかった。
……いつも小鈴のことを子供なんて言ってる癖にね。
内心で独りごちるが、それを小鈴の母親に漏らすわけにもいかない。
挨拶もそこそこに手土産だけを渡して――来る理由を作るかのように買ってきたのが馬鹿みたいだ――鈴奈庵を立ち去ろうとした。
「ああそうだ、えーと、咲夜さん? のところに行くんだって言ってたから、阿求ちゃんも行ってみれば?」
「――、いいえ。また明日来ます」
今度こそ感情が抑え切れそうになかった。こんな思いをするのも三度目だ。
一度目は、小鈴は山の上の神社に出かけていて不在だった。
――これはいい。あそこの神様は人間の味方で、安全に日帰りできるロープウェイだってあるのだから。自分に声をかけてくれなかったのに一抹の寂しさを覚えはしたが。
二度目は、アリス・マーガトロイドのところに行っていたらしい。
――少し納得がいかなかった。恐らくは知り合いの魔法使いの繋がりで遊びに行ったのだろうが、一体そこにどういう経緯があったのやら。どう考えても自分に声をかけるべきであり、黙って行ってしまったことに違和感を超えて猜疑さえ浮かぶ始末だった。
もちろん、そんなものはただの偶然だと阿求は信じていた。それも、つい数分前までのことだが。
小鈴に紅魔館と繋がりがあるのは知っている。そのきっかけになった事件は自分が持ち込んだのだし、当然御阿礼の子の記憶からは消えるわけもない。
その後小鈴とレミリアが手紙をやり取りしていたのも知っている。交友と言っていい関係だ。
だから小鈴が紅魔館に行くことは何もおかしくはない。
おかしくはない、のだけれど。
「どうして私に、声をかけないかなあ」
漏れ出た言葉に、はっとして口を押さえる。
慌てて周囲を見渡して、誰もいないことに胸をなでおろした。
……本当、ばかみたい。
別にたまたま偶然が続いただけなのだから、気にすることはない。
別にあの子が遊びに行くのに、自分に声をかけなければいけないなんてルールは無いのだから。
別に、稗田阿求がいなくたって、本居小鈴は生きていけるし。
「あの子に友達が増えるのは、良いことのはずなんだから」
……うわ。
今代で初めて、得た感覚だった。果たして歴代の御阿礼の子は、眼の奥が熱くなったときはどうしていたのだろう。記録と化した記憶の中を探せば見つかるだろうが、今は頭を動かしたくなかった。
ぼうっとした思考のまま、歩みだけが止まらない。気が付けば自分は室内にいて、誰かに話しかけられていた。
「……阿求様、お腹が空いたら、いつでもお声がけくださいね」
いつの間にか家まで戻ってきていたらしい。玄関を通り過ぎたのに気が付かないばかりか、誰が何と言っているかも頭が認識してくれなかった。
一瞬の後に、話しかけてきたのが我が家の侍女であることがわかった。そして、彼女がこちらを気遣ってくれたことも、辛うじて認識することができた。
力なくお礼だけ言って、二階の自室に戻る。窓から見下ろす昼下がりの人里は、当然のように明るい。外の光から身を隠すように、雨戸を閉めて、内側の窓を閉めて、カーテンまでを閉め切った。
外から遮断された自分の部屋は、驚くほど寒々しかった。防寒という点で言えばむしろ暖かいはずなのに、だ。
ふと床を見てみると、朝畳んだ布団とは別の布団が敷かれていた。侍女が気を利かせて――帰りが夜遅くになると踏んで――敷いてくれていたのかもしれない。
その気遣いが有り難く、同時に心に靄をかけた。
「お土産、持って帰ってくればよかったかな」
先ほどは家に持ち帰ると惨めだと思った。けれど今にして思えば、鈴奈庵に置いてくるのも同じくらい惨めに感じられた。それならばいっそ、自分で食べてしまった方がよかったかもしれない。
あの包みは確か甘いものだったはずで、今の自分が食べれば少しばかりは元気が出るかもしれない。そんな意味の無い思考を、今更ながらに思い浮かべもする。
……何を買ったかすら認識してなかったなんて、余程必死だったのね。
里ではあまり見かけない洋風の包み紙だったが、さてあれはなんだったのか。甘味処で売っていたからには甘いもののはずなのだが。
阿礼乙女の記憶の中にないということは、それはすなわちこの世界のどこにも答えは残されていないということを示していた。
「ああ、もう、なんでもいいか」
本当に子供みたいと思いながら、阿求は布団に身を投じた。
少しの間だけ小鈴の顔が暗闇に浮かんで、けれどもすぐに消えていった。
◆◆◆
「……ん」
覚醒は穏やかだった。
ひんやりとした空気と、光の差さない闇。阿求が感じたのは、夜だった。
寝すぎたと思い、しかし予定もないのだから構わないとも思う。最後の記憶によれば掛け布団の上から倒れ込んだはずなのだが、今はしっかりと敷布団と掛け布団に挟まれていた。
きっと侍女の誰かがやってくれたのだろう。ふと机の上を見てみれば、おにぎりと水差しと、湯呑が二つが置かれていた。
……まったく、何から何まで。
何も食べる気にはならなかったが、喉の渇きは自覚できていた。きっと本当はお腹もすいているのだろう。今が何時かもわからないが、食べておくに越したことはないはずだ。
それに――何かをしていないと、嫌なことを思い出してしまいそうだった。
「って、私がそんなこと考えちゃ御終いね」
気怠い身体を起こして、もそもそと机に近づく。
――と。
「え」
がたん、と。音が響いた。
しん、と静まり返っていた部屋に、確かに物音が響いたのだ。
その音は、寝る前に閉めた雨戸から鳴っていた。その音はがたがたと大きさを増していて、今にも雨戸は開きそうだった。
そういえば鍵を閉めていなかったかもしれない。こんなときでも稗田の記憶は明瞭で、自身の不用心を直ぐに確信に至らせていた。
稗田の家へ泥棒に入る不心得者がいるとは思えないが、現実は目の前にある。人か、それ以外かはわからないが、もはや誰かが部屋の中に入り込もうとしているのは確実だった。
心臓が強く鳴っていた。誰かを呼ぼうとしたが、寸前で思い留まる。ここまで堂々と忍び込もうとしている相手なのだ。里のルールなど関係なく暴れようとしている輩だとしたら、誰かを呼ぶのは被害を広げるだけに思えた。
ならばどうするかと、阿求は思考を重ねて、しかし――
「――ちょっと阿求、あけてー。寝てるのー? おーい」
「……はあ?」
聞き覚えのある声が、嫌に耳に響いた。
「阿求ー。阿求さーん。あーきゅーうー?」
「…………」
完全に冷めた気持ちで、無言でカーテンと窓と雨戸を開けた。
そこにはあれほど頭に浮かんだ顔が存在していて、
「……はあ?」
「な、なによその反応は。ほら笑顔笑顔」
どうやら小鈴の頭からは常識という言葉が抜け落ちてしまったらしい。人外と親しんでいるからこういうことになるのだ。
「ばか小鈴」
「へ?」
「……とにかく入れば? 小鈴一人じゃないんでしょ?」
「うん。えーっと咲夜さんも……あれ、さっきまでそこにいたのに」
仕事ができるのも考え物である。何を考えてここまで連れてきたのだろうか。自分が眠りこけていたらどうするつもりだったのだろう。
「まいっか。お邪魔しまーす」
「はいはい、静かにね」
「ふふふ」
小鈴は何がおかしいのか、口元を右手で覆って笑いをこぼしていた。
にこにこと眼を弓にしている小鈴を見ると、昼間の自分がさらに馬鹿に思えた。
「……で?」
「でって?」
「何をしにきたのよ」
「えー私と阿求の仲じゃない。理由が無ければ来ちゃ駄目?」
「少なくとも、深夜には駄目ね」
言外に日中なら理由がなくても来ていいと言っているのに気が付く。
……ああ私、さっき理由を作ってまで行こうとしてたのに……。
完全に自爆ではないだろうかこれは。否、自分だって普段は理由も無く遊びに行くのだから、今日が例外なだけのはずだ。
「いやいや例外って何よそれじゃ私が必死だったみたいじゃないまさかそんな」
「ぶつぶつ言っちゃってどうしたのよ。まあほら、私が今日こんな時間にやって来たのは理由があるんだから」
「理由?」
「うん。えーっと、今の時間は……」
小鈴が壁掛け時計を見る。暗闇に慣れた自分の目も、月光に照らされた時計に目を留めた。
そして阿求は認識する。今が長針と短針が重なる時間であり、すなわち日替わりの時間であるということを。
「よーし時間通り。それじゃあ、えーっとね」
言って、小鈴が背に隠していた左手を前に出す。
その手に握られていたのは、
「ハッピーバレンタイン。私の手作りチョコ、受け取ってくれるよね?」
「――――」
今日が外の世界で言う二月十四日であることに、漸く気が付く。
外の世界の定番で、近年幻想郷にも広まった風習。
バレンタインが外来の文化であること。チョコレートが洋菓子であること。それらのことが、ここ一月のことと重なって連想された。
「小鈴、あんたがこのところ家にいなかったのって、まさか……」
「そうそう。この間早苗さんの所で話を聞いて来たのよ、今日が好きな人に贈り物をする日だって。それで魔理沙さんとアリスさんにお菓子の作り方を教えてもらって、じゃあバレンタインの前日は紅魔館で皆でお菓子作りしようってことになってね」
「…………あー、もう。そういうことね」
「何よ阿求。なんてことのない話じゃない」
それはそうだけど、と納得しかけてしまった自分が悔しい。なんてことのない話で落ち込んでいた自分が馬鹿みたいじゃないか。
……それに、好きな人に贈り物って意味、わかってるかなあのこの子は。
「そんなことしてるなら、私にも教えなさいよ」
「いやーほら、こういうのは隠してた方がいいかなーって。でも阿求に隠してることを皆に言ったら、日が昇るのを待たずに帰って方がいいって言われたのよねー」
「それで、こんな深夜に?」
「そうそう。特に早苗さんが、絶対早く阿求さんのところに行った方がいいって」
うんうん、と一人で勝手に頷いているが、小鈴はこちらの気持ちをわかっていないに違いない。
きっと早苗は会いもしていないこちらのことを察したのだろう。あの現人神は、知り合いの中でも――こういうことに関しては――人一倍察しがいい。
……何を言っても溜飲が下がる気がしないわね。
さてどうしてくれようかと阿求は思うが、
「ちょっとちょっと、受け取ってくれないの?」
「え、ああ、ええっと、勿論貰うけど……」
小鈴の言葉に出鼻をくじかれて、素直に小包みを受け取ってしまった。
包みを握る自分の両手と比較してみても、それは小さかった。包装を止めているのは糊ではなく、小洒落たリボン。直ぐにでも開封することが前提の、飾りの色が強い包装だった。
「ほら、開けてみて」
言われるがままリボンを解いて、包み紙を剥がして、箱を開けた。
甘く香ばしい匂いが辺りに打ち薫る。しかしそれよりも、阿求の気を惹くものがあった。それは、
「どーお阿求、板チョコにメッセージを書いてみたの」
「これって……」
「普通はメッセージカードをつけるらしいんだけど、あんた相手ならこっちのほうがいいでしょ?」
「……“私の永遠の友達へ。これからもよろしくね”」
「読み上げないでよ恥ずかしいんだからー!」
「…………」
ハッキリ言って、正気では無い文章だ。読んでいるこっちが恥ずかしくなりそうだし、こちらはそちらと違って転生するまで記憶に残ってしまうのだから勘弁してほしい。
だけど、それに文句を言うことはできなかった。なぜなら、今代二回目になる、けれども真逆の感覚が、阿求の目の奥からわきあがって来たからだ。
ただ阿求にできたのは、絞り出すような文句を言うことだけで。
「……ばか。本当にばかなんだから」
「む、なによそれー」
「あんたは忘れれば済むかもしれないけどね、こっちは忘れることができないのよ。それを小鈴はもう……!」
「だ、だって、別にいいじゃない」
何がいいのよ、と阿求は思った。心の表面に浮かべるだけで死にそうになる記憶を、ずっと持てだなんていいわけがない。
だけど小鈴は、
「あんたって、今の思い出を、次のあんたへ遺せるんでしょう? ――だったらこれくらいのこと、持って行ってくれてもいいじゃないの」
「――――」
今の小鈴の言葉には、二つの訂正がある。
一つは、御阿礼の子の記憶は、転生の後には引き継げないということだ。
阿求は覚えている。かつて自分が見栄と、言い知れぬ感情のせいで、小鈴に嘘を付いたということを。
そしてもう一つは、
「これくらいのこと、じゃないわよ」
「へ?」
「――二度は言ってあげない」
小鈴が抗議と不満の声をあげているが、既に阿求は無視すると決めていた。
一枚板のチョコレートを手に取って、もう一度恥ずかしいメッセージを見る。念のために裏側を見たけれど、ごつごつとした不格好な平面があるだけだった。
表面がつるつると綺麗なだけに、その不釣り合いさに笑ってしまった。よく見ればメッセージだってどこか歪んだ文字であるし、記憶を辿れば箱を封じていたリボンだって皺が多かったように思う。
咲夜か誰か、手先の器用な相手に頼めば綺麗に整えてくれただろうに。それでも小鈴自身の手で作ってくれたのは、見栄かそれとも、別の感情のおかげだろうか。
……そういうところ、一緒かあ。
今度は愉快さで笑って、阿求はチョコレートを持ち上げた。そのまま歯に板を噛ませて、ぱきんと音を立たせる。
「……意外に美味しい」
「意外は余計よ」
「まあ美味しくなかったら困るからね、それも記憶されるんだし」
「感覚とか、感情とか、そういうのも保存されるの?」
実のところ、クオリアの保存は画に比べると記憶の解像度は落ちるのが現実だ。
それでも、と阿求は重ねて思う。ここで言うべきことは本当のことではない。自分の嘘を真に受けて、なんてことのないようにこんなことをしてくる相手には、それ相応の言うべき言葉がある。
「――そう、その通りよ。だから精々百年後も、千年後も思い出して貰えるように、頑張るといいわ」
「うーん、じゃあねえ」
「は? ちょっと――」
言葉が終わるのを待たず、小鈴がこちらの身体に手を回して、お互いの距離を縮めだす。腰を抱かれて、息がかかりそうなほどに近づかれれば、朗らかに笑う小鈴の顔が見えた。
「……何やってるの」
「こうすれば阿求が喜ぶんじゃないかって、皆に言われたのよ」
「皆?」
「早苗さんとか、魔理沙さんとか、紫さんも」
「……余計なことを」
本当に、余計なことを吹き込んでくれた。早苗は好意十割、他の二人は好意五割の面白半分だろうから尚更腹が立つ。
「え、嫌だった?」
「……別に」
何より腹が立つのは、実際のところは嫌ではなかったからだ。
いやこれは、むしろ嫌というよりも――。
「……やっぱり小鈴が全部悪い」
「え?」
「里から離れて、妖怪の家にお呼ばれなんてする小鈴が悪いって言ったの!」
「えー?」
「えーじゃない! 紫さんなんて一番危ない妖怪なんだから!」
「でも色々親切にしてくれるしー」
「悪いったら悪いの!」
形だけでも叫んでみるが、いくら大きな声で抗議しても、胸の内に生じた不快とは真逆の感情は無くなるはずもなかった。
「ああっもう、こんなことされても嬉しくもなんともないけど――仕方がないから、いつまで経っても思い出してあげるわ」
ただ阿求にできるのは、小鈴のせいにして全てを誤魔化すことと。
この嘘がばれないようにと、心の中で願うこと。
それに加えて、
……いつかちゃんと、私の真実を伝えるからね。
と、将来の自分に願いを託すことだけだった。
やきもきさせたがる妖怪たちがいい味出しています
芳醇なあきゅすずでした
裏表のない小鈴がかわいらしかったです
みずみずしくて良かったです
素直になれないけど小鈴のことが気になって仕方がない阿求ちゃんとっても可愛かったです。
もうちょっと雑味を抑えて苦味を足すくらいのほうが好みかもですが、
たまにはこういうのも素敵
王道には王道たる理由がある、そんな作品でした
まっすぐな小鈴とどこか素直になれない阿求、二人とも可愛い素敵なお話でした。