こんなにも神社が遠いなんて思わなかった。
人里からひとっ飛び。空中散歩をしていれば時間なんて気にならず、あっという間に神社についている。
それが普通だ。だというのに、今が感じているのは無限の時間だった。
否。終わりは見えている。景色は背後に流れていって、冬の寒空は行く手を阻む障害にはなり得ない。一分一秒一フェムト秒が経過するにつれ、確実に目的地に近づいていた。
普段は無意識で行っている転移の術も、今は意識的に行使し少しでも距離を稼いでいる。
「普通、無意識、うぐぐ」
思考した言葉が自然に口から出る。しかし、それを自分でどうにかすることはできなかった。感情は溢れて治まらず、理由不明の焦燥感がただただ前と身を進ませる。
無限ではない。しかし実際にどれだけの時間が経過したかなど、検討もつかなかった。
限りのない有限が過ぎ去ったのち、建物など何もない山道が続いて、漸く見慣れた我が家が視界に入り――。
果たして、霊夢は神社に辿りついた。七転しながら一度も起き上がることもできず、半ば倒れ込みながら居間へと滑り込んだのだった。
そしてそこで霊夢が見たものとは――、
「ほら魔理沙、あーんして。……うんそうそう、美味しい?」
「ああ、素材を生かした自然な味が最高だ。もう一つ貰えるか?」
「勿論! ほら、あーん!」
「――そこまでよ!」
見慣れた白黒と、見慣れぬ黄緑の姿があった。
それはだらしない表情でクッキーを頬張る霧雨魔理沙と。
べたべたと白黒に引っ付きながら甘い声を出す、古明地こいしであって。
つまりそれは、博麗霊夢の敵ということであった。
「ああ霊夢じゃないか。思ったより早かったな、買い出しはすんだのか?」
「あら霊夢じゃない。少しお邪魔してるわー。魔法使いさんをお借りしてるけど大丈夫よね?」
息を切らして登場した霊夢に驚くこともなく、二人はただ炬燵に入ってゆっくりとしていた。どうやら二人は炬燵の入り口が四か所あることを知らないらしく、一つの入り口に二人で座っていたりした。
なるほどこれはつまり、
「――説明、してくれるんでしょうね?」
「そうだな、全てを説明するには人生の余白はあまりにも少ない訳だが――」
「端的に言うとね、私達――こういう関係になったの」
こいしはそう言って、魔理沙の腕にしがみ付く。
そして魔理沙は抵抗もなく炬燵で暖を取っていて、
「……は?」
「……てへっ」
「はああああああっ!?」
霊夢の絶叫が空に響いて、屋根の雪が地面に落ちた。
◆◆◆
「ドッキリで霊夢を驚かすという密かな試みは成功したな。犠牲は大きかったが」
「うんうん。人にいきなり針をぶつけるなんて、教育が悪かったんだねー」
「あんたは人じゃないでしょうが!」
「それはそれ、これはこれ」
やれやれとでも言いたげに、こいしが肩を竦める。思わずぶっとばしてやりたい衝動に駆られるが、先ほどのように魔理沙を盾にされると厄介だ。
「くっ我慢よ我慢……」
「何ぶつぶつ言ってるんだ?」
「うっさい! こんな雑魚妖怪に負ける魔理沙なんて知らない!」
つまりは、魔理沙とこいしの間で賭けが行われていたらしい。
弾幕ごっこで負けたほうは、一日何でも言うことを聞く。そんな馬鹿げた約束をしたあげく、この魔法使いは無様にも悟り妖怪に負け散らかした。それだけの話だった。
出来る限り今日は一緒にいて欲しい。ついでに霊夢を驚かしてみたい。そんなこいしのお願いを、哀れ奴隷となった魔理沙は聞いていたのだった。
「むー、雑魚とは失礼しちゃうわ。というか確か私って、霊夢にも勝ったことあるよね?」
「あーあー忘れたわそんなこと。確か勝ち越してるからいいのよ!」
「覚えてるってことじゃんそれー」
「あーあーあー聞こえない―」
古明地こいしが実力者であることは、まぎれもない事実だ。妖力の強さもさることながら、その特異な能力は他に類を見ない。霊夢を持ってして、簡単に捉えられるものではない。
そんなこいしに偶然たまたま運悪く負けてしまうことは誰にだってある。自分にもある。仕方がない仕方がない。霊夢はそう思うが、しかし魔理沙の敗北は別の話だ。
よりにもよってこんな日に、そんな賭けをして負ける奴があるだろうか。
「魔理沙、あんたって奴は……」
「仕方ないだろ、負けちゃったものは。私が勝てば労働力が手に入ると思ったんだよ」
「今夜はパーティなんだってね? 私も混ざるけど、いいよね?」
「あー、それは好きにしなさい」
「わーい。じゃあ魔理沙のことも好きにするー」
「それは待ちなさい!」
バンと炬燵を叩いて霊夢が叫ぶ。未だに魔理沙とこいしはくっついて離れようともしない。その緩んだ表情をなんとかしなさい魔法使い。
「よーしわかった、こうなったら私と勝負よ!」
「え?」
「私が勝ったら魔理沙を開放しなさい。いいわね?」
「じゃあ当然、霊夢が負けたら霊夢も私の言うこと聞いてくれるのよね?」
「上等よ! そこの腑抜けた白黒なんて目じゃない本当の弾幕ってものを見せてあげるわ!」
何やら魔理沙が抗議の声を上げたそうにしているのが見えた。
しかし霊夢は無視した。所詮この世は敗者に厳しく価値は勝者に在るものだ。何か主張を通したければ、相手に勝つしか方法はないのだ。
だが、こいしの返事は予想だにしないものだった。
「うーんだけど、どうしよっかなー。まだ魔理沙とぬくぬくしていたいしー」
「は? 逃げる気?」
「うん逃げる逃げる。こわーい巫女さんの相手してたら、私の心が爆発しちゃうもん」
……ぐっ、挑発にも乗ってこないとは小癪な。
正直、売り言葉に買い言葉で弾幕ごっこになると思っていた。
しかし霊夢は忘れていた。如何に自身が相手より優れていようとも、相手を勝負のテーブルに乗せることができなければ意味がないということを。
そう、例え博霊の巫女がこんな奴に負けることが絶対にないとしても、相手が合意しなければ何も起こらないのだ――。
「んー、別に博霊の巫女相手だからって、負けるつもりは全然ないんだけどねー」
「逃げておいて説得力ないわよ! って、あれ……?」
霊夢は疑問した。何か今、おかしなことが起こらなかったかと。
しかしその疑問が言語となるよりも早く、魔理沙が口を開く。
「それより霊夢、ちゃんと食材は買ってきたのか? 今日のパーティに七面鳥は欠かせないぜ?」
「それなら大丈夫よ。ちゃんと買ってきてるはずだわ――早苗が」
「なんでだよ」
「仕方ないでしょ、この状況を早苗が教えてくれたんだもん」
霊夢が早苗に会ったのは、つい先ほどのことだった。
人里で出くわした早苗はこう言っていたのだ。今夜のパーティに先駆け早めに神社に行ったところ、魔理沙とこいしが居間を占領しておりとても入り込める様子ではなかった。もしかすると魔理沙が弱みを握られている可能性もあるので、急いで霊夢に伝えに来た。出来る限り早く帰った方がいいだろう、と。
持つべきものは親友である。早苗の助言を受け入れた霊夢は、そのまま早苗に買い物を押し付けると、大慌てで帰宅したのだった。
「いやそれ緑の巫女さんが可愛そう過ぎない?」
「いいのよ、どうせ早苗もパーティに来るんだから。後でお礼はするわ」
特別にケーキのろうそくを吹き消す権利をあげても良いかもしれない。実のところあれをやるのは結構楽しみなのだが、早苗ならば譲ってもいい。
いや、それはともかく、
「やっぱりなんかおかしくない? こいし、あんたまるで――」
「あーわかるー?」
そう言って彼女は炬燵から身を起こす。立ち上がった身体にまとわりつく第三の目。その閉じているはずの眼は、しかし、
「え……開いてる?」
「今日、目が覚めたら眼が開いていたのよね。これって神様からのプレゼントかしら?」
「……ふん、なるほど。魔理沙が負けたのもそれが原因ね」
悟りの持つ第三の眼。それは光ではなく心を視る妖の眼だ。
こいしの持つ眼は長らく機能を停止していて、今後も開くことはないはずだった。
けれども、その眼は確かに開いていた。今もこちらをじっと見つめている。
過去に読心者と戦った経験があろうとも、予想外の相手に読まれれば調子が狂うというもの。どこまで無意識を残しているのかは知らないが、強敵であることは間違いないだろう。
一体何が原因で開いてしまったのか。幻想郷縁起曰く、悟り妖怪の眼など開いたところで誰も得しないと言われる程である。自分もそう思う誰だってそう思う。
「ひどいなー皆して。でもでも、私の眼が開いたのって魔理沙のおかげだと思うのよね」
「ん、どういうことだ?」
「ほらー、こころちゃんの事件のときも構ってくれたし、この間だって一緒に奴隷になったりしたりしてくれたし、魔理沙はたくさん私と遊んでくれたでしょ?」
「スレイブとマスターと言え。誤解されるからな」
「だからまあ、そのおかげで心を開こうと思ったというか? 自然に開いたというか? そんな感じなのよねー」
「だからってねえ――!」
何度目かわからない叫びが居間に響く。
霊夢は炬燵を何度も掌で殴打しつつ、二人に抗議の声を上げた。
「ど、う、し、て、魔理沙とくっつく必要があるの!」
「んーどうしてだろうね? 私正気に戻ったばかりだからわかんなーい」
「あんたねえー!」
「まあまあいいじゃないか」
そう言ったのは魔理沙だった。彼女は惚けているのを隠そうともせず、炬燵に身を預けながらぼやき始めて、
「こいしはまだまだ子供なんだから、一々目くじらを立てるようなことじゃないさ。そうだろ?」
「そうそう。私子供だからー」
「本人が言うな本人が! でも、まあ、うーん……?」
言われてみれば、こいしの年齢を霊夢は知らない。
妖怪ということで年齢も高く、自分達以上の歳月を生きた存在だと思っていた。しかしひょっとすると、本当に言動通りの幼い子供なのかもしれない。
とするならば、怒ってばかりいては大人げないというものだ。小さな子供に魔理沙という存在を――自分にとっての魔理沙を何と呼ぶべきかはわからないのだが――ともかく取られたからと言って、何がどうとなるものでもない。
「そう、私は大人こいしは子供。腹を立ててはいけないわ落ち着くのよ私……」
「ということで一緒に温泉入りにいこっか魔理沙。このあたりに沸いてるんでしょ?」
「こらあああああああ!」
最大級の絶叫が地を震わして、屋根から雀が飛んで行った。
◆◆◆
「それで本当に温泉に行っちゃったのよ? 信じられないと思わない? 思うでしょ?」
「そうですね霊夢さん。ああ、重い荷物を持ったせいで手が痛いわ」
「いやごめんってごめんって」
霊夢は言いながら、手元の木べらを動かした。ボウルの中のじゃがいもは未だ湯気を上げていて、まるで潰されるのを待っているかのようだった。
ガツンゴツンとマッシュしていると、自然と怒りも和らいでいく。しかし霊夢はそれを錯覚だと自覚していた。そんな幻想に頼るしかない自分が、ひどく惨めに思えた。
……うー。私、何に対して怒ってるのやら……。
「霊夢さんそれ力入れ過ぎです。力を入れつつもふわっとマッシュマッシュしてください」
「わ、わかってるって」
思わず力を入れ過ぎてしまうのも何もかも、魔理沙が悪いのだ。いや直接的に悪いのはこいしなのだが、とにかく悪いのは魔理沙なのだ。
「まあ、こいしさんも久々に眼が覚めて、はしゃいでいるんじゃないですか?」
「それはそうなんだろうけど」
「少しくらいは好きにさせてあげてもいいんじゃないですか?」
「そうなんだけどー」
「魔理沙さんもまんざらではなさそうですしね。ふふ」
「笑うなぁ――!」
木べらの腹でじゃがいもが弾け飛んだ。嗚呼ごめんなさいデンプン質、どうやら今夜のポテトサラダは少しばかり粘り気の強いものになりそうだ。
「はあ、とりあえず霊夢さんは引き続きサラダでも作っててください。肉料理はこっちでやりますので」
「あー助かるわ。持つべきものは親友ねー」
「……親友、ですか」
「一緒に料理を手伝ってくれるのなんて早苗くらいよ。ああいや、咲夜の奴もケーキを作って持ってきてくれるわけだし、あいつも同じくらいの親友ね」
「……ええそうですよその通り。霊夢さんは私達にもっと感謝していいんですよ?」
確かにもう少し感謝するべきかもしれない。澄ました顔で七面鳥を捌いている早苗を見て、霊夢は本気でそう思う。
早苗は手早く包丁を走らせ切込みを入れ、素手で内臓を掻き出していく。元現代っ子とは思えない動きに、霊夢はただ敬服するほかなかった。
「いやー、お願いしておいてこんなこと言うのもどうかと思うけど……上手いわね?」
「咲夜さんに仕込んでもらったんです。あの人すごいですよ、ミシュランで言うと星みっつの腕前ですよ」
「え、なに、ミシュラ?」
ミシュラなるものが何者かはわからないが、とにかくなにやら凄いらしい。
というより、そんな技術をものにしてしまった早苗もすごいと思うのだが。パーティの調理を一緒にやってもらえないかと頼んだのはつい一週間前のこと。あの日から今日の間にこんな技術を習得してしまうとは。
「……早苗、あんたってばパーティのことをそんなに大事にしてくれてたのね」
「はい?」
「皆のために高度な料理を覚えるなんて、とてもじゃないけど私にはできないわ」
「……ええ、そうですね。昨日は楽しみで眠れなかったくらいなので」
話している間にも早苗は手を動かしている。今肉の中に詰めたのは、ハーブか何かだろうか。今からどんな仕上がりになるか楽しみというものだ。
「いやあほんと、あんたは最高の友達よ。私は幸せ者ね……」
「ええ、はい。そう言って貰えると私も嬉しいですよ、ええ、そうですとも」
「確かに霊夢って、いつも頭が幸せそうよねー」
「う、その声は」
振り向くと、勝手口にこいしの姿があった。
温泉で火照った身体をどうやってここまで維持したかは謎であるが、どうやら寒さは感じていないらしい。
「良いお湯だったわ。さすが地底から湧き出ていることはあるわ」
「あんたね、ちゃんと玄関から入ってきなさいよね」
「こっちが騒がしかったからつい。あ、緑の方の巫女さんだ。どうもこんにちは」
「はいこんにちはこいしさん。風祝の東風谷早苗です」
ちょこんと頭を傾けて、こいしがおしゃまに挨拶をする。
しかし騙されてはいけない。自分が初めに会った時だって、こいしは礼儀正しかったのだ。この可愛らしさに騙されて、魔理沙も絆されてしまったに違いない。
「騙すだなんて人聞きの悪い。最初の挨拶は大切にしないと駄目かなーって思っただけだよ? 早苗って、霊夢と違って心が清らかな感じがするしー」
「く、落ち着きなさい私、あんな安っぽい挑発に……」
「あーさっきは魔理沙とくっつきながら温泉に入れて気持ち良かったなー」
「ああああ」
「二人とも、うるさいですねえ」
早苗は落ち着いた様子で、七面鳥をトレイに載せていた。蠅帳をかぶせて離れたところに置いたあたり、暫く寝かせてハーブの香りを馴染ませるつもりのようだ。
なんという手際。大人の風格。一々子供に煽られては反応してしまっている自分が恥ずかしい。いや悪いのはこいしなのであって自分は何も悪くないのだが。
「……早苗、貴方もそうなんだ」
「は? 何よそうって」
「霊夢さんなんかの為に、わざわざ時間を割く人間が他にもいるんだなあって、そう言いたいんじゃないんですか? 実のところその通りで、私は魔理沙さんの同類なのです」
「……そっか。そうなんだ」
「ぐ、言わせておけば……!」
一発小突いてみようかと思ったけれど、こいしはあっさりと台所から去ってしまった。
きっと魔理沙といちゃつきに行ったのだろう。ああ、こんな理不尽が許されていいのだろうか。いや良くない。今すぐ自分も居間に乗り込んで――。
「霊夢さん、次はトマトのカットをお願いしますね?」
「あああああああ」
笑顔の早苗が眩しくて、どうやら台所を離れることは叶いそうになかった。
まだまだ食材は豊富にあって、捌かれ待ちの行列は後ろが見えそうにない。
◆◆◆
あれから。
霊夢はいつ終わるとも知れない料理を作り続け、夕刻合流した咲夜に一部の作業を引き渡し、やっぱりスキンシップ(婉曲表現)をしていた二人を引きはがしたり、その様子を吸血鬼姉妹に爆笑されたりしていた。
そうこうする間にも無情に時間は過ぎ去っていき、それでも状況は進展しない。
霊夢がどう頑張ろうが、魔理沙とこいしの間で契約が締結されている以上、引き離すのは至難を極めた。
しかし、もはや解答の模索を霊夢が諦めかけたとき、思わぬところから救いの手が差し伸べられたのだ。
それは皆が料理を食べ進み、霊夢が絶望に打ちひしがれていたころに起こった。それまで苦笑しながら静観していた八雲紫が、霊夢にこう助言したのだ。
「ふふ、どうやら魔理沙の左が空いているようだけど?」
その一言で、霊夢の覚悟は決まった。
決まってしまったと、言うべきかもしれなかった。
◆◆◆
一体自分は何をやっているのだろう。霊夢は自問した。
はっきりいって、こんなことをする必要性は全くない。
未だ爆笑冷めやらぬ姉妹に指を刺される必要も、三プラス一妖精にひそひそ声で囁かれる必要も、能面の上からでも解る心配の眼差しを向けられる必要もないはずなのだ。
しかし辞めたいかと言われると存外そうでもなく――この現状を、まあいいかと思ってしまう自分がいるのも確かだった。
「なあ霊夢、動きにくいんだが」
「仕方ないでしょ。私がしがみ付いてるんだから」
「仕方ないか。そうか……そうか……?」
霊夢のやっていることは単純だった。それは右腕を使って行うことで、魔理沙の左腕を借りながら行うことだった。
要するに、霊夢は魔理沙にしがみ付いていたのだった。
問題は、魔理沙の右腕はこいしにしがみ付かれていることであるが、こちらは霊夢が関与していない対岸の話である。霊夢にはどうすることもできなかった。
結果として魔理沙が――霊夢とこいしにサンドされた魔理沙の身体が、不自由になってしまうのは回避しがたい悲劇だと言えた。
その悲劇を悲しむのは、魔理沙本人しかいなかったが。
「なあ、私の両手はいつからお前達の物になったんだ?」
「うーん今朝から」
「ついさっきからよ」
「そうかー」
魔理沙が困り顔で呟くが、これも全部自業自得だ。
だって、だって仕方がない。全部魔理沙が悪いのだ。
「ねーねー霊夢、なんでも人のせいにしちゃ駄目だよ?」
「でも魔理沙が悪いんだもんー」
「……なんか私に似てきてない?」
何を失礼な。確かに今霊夢の身体は魔理沙に引っ付き、こいしと同じ格好をしているようにも見える。しかしこれはなんというか違うのだ。
「そう、魔理沙を救うためなのよこれは。極悪な悟り妖怪からね!」
「意味わかんなーい。だって魔理沙、今日一日嫌な思いしてないよね?」
「ああそうだな。だから早く二人とも腕を離して、私にも料理を食べさせてくれ」
要望がきたので肉を魔理沙の口に突っ込んでおく。遅れてこいしもチキンを突っ込んだので、肉と肉が合わさりなんともお得だ。
するとなにやら魔理沙が言葉を発せなくなってしまった。それをどうしてと思う間もなく、こいしの声が魔理沙を挟んで飛んでくる。
「ねえ霊夢、今の自分の状況わかってる?」
「なにがよ」
「魔理沙にぎゅーってくっついて、私は魔理沙から離れたくありませーんって言ってるのよ?」
「う、あ、別に私は……」
言葉が否定を作ろうとするが、既に心は理解していた。
こいしの言うことに間違いはなくて。
これは、とても恥ずかしいことであるわけで。
その全ての心を、こいしに読まれてしまっているということを。
「別に何でもいいでしょ! 私には魔理沙を助ける義務があるのっ!」
「私と魔理沙の関係も今日までなんだから、もう少しだけ放っておいてくれればいいのにー」
「そ、そんなわけにはいかないわよ!」
「えーどうしてー?」
「わからないけどどうしても!」
甘ったるい声を出しながら、こいしがしつこく問うてくる。何やら心がざわざわとしてきたので、手元にあったシャンパンを勢いよく呷った。
普段は飲まない西洋の酒が、今は胸に沁みわたる。勢いよく飲んだせいで、炭酸が少し痛かったけれど。
「ねえ霊夢、本当にわからないの?」
「わかんないわよ……だって、あんたと魔理沙が一緒にいると、何か知らないけど嫌なのよ」
こいしの雰囲気が一転して、まるでこちらを心配するかのような顔になった。
いきなりそういう顔をされても騙されてはやらない。きっと、今日何度もやられたように、煽って煽って煽り倒すつもりなのだ。
「騙されない、私は騙されないわ……」
「うーんやりすぎたかなー。ちょっと楽しむだけのつもりだったのに」
「人で楽しもうとするんじゃない!」
「うんうん。そういう反応されるとついねー」
底意地が悪いのは姉と一緒らしい。人をおちょくって何が楽しいのか。
「ん、もご、ああ。霊夢、水をくれないか」
魔理沙が復帰したので瓶でシャンパンを突っ込んでおく。きっと魔理沙なら平気だろう。
すると魔理沙が背後に倒れていったので、こいしと同時に腕を離すことになった。
「あーあ、倒れちゃった。まあいっか、私もお酒貰おうっと」
「まったくもう……」
無邪気にお酒と料理を口へと運ぶこいしからは、悪意はまるで感じられない。
目的など何もなくて。
ただ単に、今を楽しんでいるだけに思えた。
「ねえこいし。あんた、魔理沙といて本当に楽しいの?」
「もぐもご、もく、あー、これ美味しいね。早苗にお礼言っておかなきゃ」
「…………」
「顔が怖いって。んー、勿論楽しいよ?」
どこまで本気なのか、霊夢にはわからなかった。
こいしのやっていることはどこまでも子供で、深い意味はないように見える。
見えるの、だが。
「……本当に、私は何も考えてないよ。今日だって魔理沙に会いたくて来ただけだし」
「本当に?」
「ほんとのほんと。お姉ちゃんの魂をかけてもいいよ」
「……はあ、なら別にいいけど」
言って、ナプキンでこいしの口を拭ってやる。
「んむ」
「ソースが付いてるわ。そんな状態で魔理沙に引っ付いたら迷惑かかるでしょ、気を付けなさい」
「……ありがと」
不気味なほど素直に、こいしがはにかむ。
……こうしていれば、普通に可愛いんだけどねえ。
と、この思考も読まれてしまうのだった。気を付けなければいけない。
霊夢が改めて自分に注意を喚起するが、当のこいしはぽかんと口を開けていた。
「どうしたのよ」
「いや、なんというか、霊夢って意外とお人よしだよねーって」
「うるさい。ほら、野菜も食べる」
「うん食べるー」
先ほど自分の作ったサラダがこいしの口内に消えていく。
魔理沙に余計なことをしなければ、いくらでも宴会やパーティに参加してもらって構わない。このまま大人しくしてくれれば何も言うことはないのだ。
……魔理沙の眼が覚めたら、また暴れ始めるんでしょうけど。
それ以外なら、何をしたって別にいい。
そんなことを気にしていては宴会なんて開けないし。
そんなことを気にする奴なんて、一人もここにはいないのだから。
「……魔理沙に手を出すのだけは許さないけどね。いや理由は無いけど」
「大丈夫大丈夫。日付が変わったら、私も大人しくするから――ね?」
その言葉を信じる根拠は何もなかったけれど。
自分はどうしてか、その言葉を信じてもいいと思ってしまうのだった。
◇◇◇
「ああ、今日は楽しかったな」
夜風が気持ち良かった。
地底にはない透明な風は、身体から熱を奪っていく。火照った身体が冷める感覚が、今は快かった。
神社の屋根に座って、暗くも透明な空を見る。快いと感じたのは夜風だけではない。星の光も、神社から漏れ出る灯も、未だに続く騒ぎの声も、全てが快かった。
「昨日までは、感じなかったもんね」
今日は少しはしゃぎすぎた。気持ちの良い疲れが全身を支配していて、今は身体を動かす気になれなかった。
今は一体何時だろうか。神社の中から響く騒ぎの声は、きっと朝まで続くだろう。いつ日付が変わるかの基準には、なりそうもなかった。
……十分、良い思いはさせてもらったけどね。
霊夢には悪いことをした。楽しかったので後悔はしていないけど。
こいしはそう思いながら、今日のことを反芻する。
本当に、面白かったなと。
「でも、もう帰ろうかな」
「おいおい、夜はまだこれからだろ?」
「あ――」
背後から声をかけられる。反応を返す前に、真横に新しい姿がきた。
魔理沙が、隣に座っていた。
「……どうして?」
「お前が言ったんだろ。今日はなるべく一緒にいて欲しいって」
「それは、そうだけど」
「帰るなんて言うなよ。時間はあるんだからさ」
「そう、だけど、さ」
気軽な声で話す魔理沙を、視ることができない。
姉ならば、直視しなくても隣の心を視ることができるはずだ。心の視野角が広いのか、後ろにいる者の声すら拾えるのだから。こいしは、そう思う。
だけど、眼が覚めたばかりのこいしにとっては、心は直視しなければ視ることができなかった。真っ直ぐに誰かを見据えて、心を視ようと思って視なければ、何も心の声が聞こえてくることはない。
今が、そうであるように。
「魔理沙は、さ。嫌じゃなかった?」
「――ああ、楽しかったさ。霊夢のあんな姿も見れたしな」
魔理沙が、意味を察して答えを返した。
これでは、どちらが悟られているのかわかったものではない。
否。きっと、わかっているのだ。
今日、魔理沙は一度も心の中に思い浮かべなかったけれど。
一日中、自分に付き合ってくれたけれど。
今朝は笑いながら被弾して、自分の言うことを聞いてくれたけれど。
……わかってるんだよね、魔理沙は。
「ねえ、それじゃあさ。またいつか、今日みたいに遊んでくれる?」
「私に勝ったらな」
「今度、魔理沙の家に行っていい?」
「汚くても良ければ。茸料理をご馳走するぜ」
「私のうちにも来てよ。歓迎するよ」
「なるべくさとりのいない時にな」
「じゃあ、じゃあさ。じゃあ――」
言いたいことを言おうと思って、けれど声が出てくれなかった。
だからこいしは、冷たい空気を肺に入れて、乾いた喉を鳴らして、唇を震わせて。
ただ、一言を告げようとして、
「――――」
昨日までは、何も感じていなかった。
ついさっきまでは、楽しさしか感じていなかった。
眼を閉じる前は、嫌なことも何もかも感じていたのだろう。
だけど今得ている感情は、そのどれでもなくて、
「――魔理沙」
「ああ、なんだ?」
「私と――私と、ずっと一緒にいてくれませんか?」
心臓が痛かった。
白い吐息が宙に昇って。
告げてしまえば一瞬だったけれど。
呼吸が荒くなっているのが感じられて。
言葉が震えていたなと頭が冷静な判断を下す。
声はちゃんと出ていたかな。そんなことを疑問する。
胸が鼓動を刻むたび、記憶にない感情が心の中で膨らんで。
魔理沙の答えを待つ時間が、無限に感じられて仕方がなかった。
あっという間もないはずの一瞬なのに、どうしてかそうは思えない。
この感情を自分はわかっていて、どうなるかだって覚悟していたのに。
「こいし」
声が聞こえた。
古明地こいしの、大好きな人の声が。
だけど。
「――私は、お前と一緒にいられない」
「……そっか」
答えを聴いて、こいしは魔理沙に向き直った。
すると、魔理沙もこちらを向いていた。
そこにあるのは笑顔だった。
屈託なく、後ろめたさもない、こいしのよく知っている笑顔が。
彼女は誰にだってその笑顔を向けるのだろう。
その理由は単純だ。きっと、いつだって楽しいのだろう。
こんな嫌われものの妖怪と一緒にいてもそうなのだから、どんな時だってそうに違いない。
……ああ、だけど。
姿が見えた。魔理沙の心の中いる、彼女の一番の姿が。
「やっぱり、そうなんだね」
「そうだな」
「でも、いいの? それなのに、私や、他の人と遊んでいて」
「私は普通で、嫌な奴だからな。興味があればどこにでも行くんだ」
「悪い人。いつか刺されないようにね」
「私は悪いことなんてしてないぜ。まあ、いざとなったら自衛はするさ」
笑い方が変わって、口調も軽くへらへらと肩を竦める。
それでも、こいしにはわかっている。最後の言葉だけ、嘘だと言うことを。
……ばか。
心の中で謝るくらいなら、最初から一人だけを見ていればいいのに。
「ひどい人ね、魔理沙って」
「ひどくはないさ。私はただ、自分が面白いと思ったことをするまでだ」
「――それに、嘘つきだわ」
「……そうだな」
「本当に、嫌な人間ね。でも――」
それでも、こいしはこう思う。魔理沙に出会えてよかったし、
「有難う、魔理沙。私の眼を、開かせてくれて」
心からの気持ちを伝える。
叶わないと、適わないと知っていたけれど。
「――魔理沙とも、皆とも、会えてよかったわ」
「ああ。私もだ、こいし」
これだけは、伝えたいと思ったのだ。
「……あーあ、もっと早く心を開いていればよかったわ。勿体ない」
「まあまあ。妖怪の寿命は長いんだから、いいじゃないか」
「うー、だってどんなに長くたって、魔理沙も霊夢もいないんじゃつまらないしー」
「妖怪の友達でも作ったらどうだ。吸血鬼の妹なんかがお勧めだ」
そういえば、パーティにも吸血鬼が混ざっていたような気がする。
爆笑しながら心の中で嫉妬心を燃やしている姿が印象的だったが、あの子も苦労しているのかもしれない。
「考えておくけど、どうかなー」
「考えればいいさ。考える頭があるんだからな」
「ま、これからはそうなるね」
そう言って、屋根の上で立ち上がった。
少しだけ、本当に少しだけ下を向きたくなかったから、そのあたりを散歩しようとこいしは思った。魔理沙には、一人になりたいとかそう言って。
けれど、
「――あー! そんなところにいたのね、また魔理沙とくっついてー!」
「おー霊夢、目が覚めたか。やけ酒で倒れるなんてお前らしくもない、嫌なことでもあったのか?」
「あーんーたーねー!」
一足飛びで霊夢が屋根まで上がって来る。彼女は空間からお祓い棒を、胸元からお札を取り出すと、
「どうせまたこいしに誑かされてたんでしょ? 性根を叩き直してあげるわ!」
「……ま、食後の運動には丁度いいな。じゃあ、こっちは二対一で一方的にボコらせてもらうぜ?」
「じょ、上等よ! かかってこーい」
「え? え?」
右手を取られた。引き上げられるように夜空に昇って、魔理沙を見上げながら飛んでいた。
「魔理沙、あの」
「まだ日付は変わってないからな。まだ契約は有効だ」
「――うん!」
本当にこの魔法使いの性質は変わらないらしい。
絶対どこかで痛い目を見るに違いない。というか、今まさにそうなろうとしているのだけど。
「このー離れろー!」
「ちょっと霊夢さん、真夜中にうるさいですよ」
「そうよ霊夢。そんな楽しそうな声を上げたら、迷惑で皆が起きてしまうわ」
お祓い棒を振り回しながら叫ぶ霊夢の元に、二つの姿が追加された。
「弾幕ごっこなら私もやりますよ! 暴れたい気分ですしね!」
「ふむ、今の時間は……二十三時五十分ジャスト、なんてね。日付が変わる前にやるのでしょう?」
「ふ、二人とも……! やっぱり持つべきものは友達ね!」
早苗と、紫だった。
「……魔理沙ほどじゃないけど、霊夢も大概気を付けてね」
「なにわけわかんないこと言ってんのよ。ほらこっちは三人になったわよ観念しなさい!」
「待って待ってー!」
更なる声が真下から上がった。声の主は直ぐにやって来て、
「どうやらピンチみたいだなこいし。ここは宿命のライバルたるこの私が助けに入ろう」
「こ、こころちゃん?」
「というかー、今日空気読んで話しかけなかったけど、こいしって魔理沙さんとそんなに仲良かったっけ? 心がもやもやするんだけどー」
「……前言撤回。私も気を付けなきゃだね」
魔理沙がにやにやと笑みを浮かべていた。
やっぱり、魔理沙は嫌な奴ということらしい。
でもこれは仕方がない。だって皆は魔理沙ほど、心の魔法に長けてはいないのだ。
「覚悟しなさいよあんた達!」
「あ、これに勝ったら明日は私が霊夢さん独占していいですよね?」
「ふふ、では私は明後日で」
「狸の皮算用は辞めた方が良いと思うがな」
「最強の三人に適うと思うなよー」
「冷静に考えて紫さんの分こっちが不利な気がする我々です。でもがんばるぞー」
いろんな感情が交差して、そのどれもが不快なものではなかった。
それどころか、なにもかもが心地良く思えて。
……有難うね、魔理沙。
もう一度魔理沙にお礼を言って、皆で弾幕の中に飛び込んだのだった。
人里からひとっ飛び。空中散歩をしていれば時間なんて気にならず、あっという間に神社についている。
それが普通だ。だというのに、今が感じているのは無限の時間だった。
否。終わりは見えている。景色は背後に流れていって、冬の寒空は行く手を阻む障害にはなり得ない。一分一秒一フェムト秒が経過するにつれ、確実に目的地に近づいていた。
普段は無意識で行っている転移の術も、今は意識的に行使し少しでも距離を稼いでいる。
「普通、無意識、うぐぐ」
思考した言葉が自然に口から出る。しかし、それを自分でどうにかすることはできなかった。感情は溢れて治まらず、理由不明の焦燥感がただただ前と身を進ませる。
無限ではない。しかし実際にどれだけの時間が経過したかなど、検討もつかなかった。
限りのない有限が過ぎ去ったのち、建物など何もない山道が続いて、漸く見慣れた我が家が視界に入り――。
果たして、霊夢は神社に辿りついた。七転しながら一度も起き上がることもできず、半ば倒れ込みながら居間へと滑り込んだのだった。
そしてそこで霊夢が見たものとは――、
「ほら魔理沙、あーんして。……うんそうそう、美味しい?」
「ああ、素材を生かした自然な味が最高だ。もう一つ貰えるか?」
「勿論! ほら、あーん!」
「――そこまでよ!」
見慣れた白黒と、見慣れぬ黄緑の姿があった。
それはだらしない表情でクッキーを頬張る霧雨魔理沙と。
べたべたと白黒に引っ付きながら甘い声を出す、古明地こいしであって。
つまりそれは、博麗霊夢の敵ということであった。
「ああ霊夢じゃないか。思ったより早かったな、買い出しはすんだのか?」
「あら霊夢じゃない。少しお邪魔してるわー。魔法使いさんをお借りしてるけど大丈夫よね?」
息を切らして登場した霊夢に驚くこともなく、二人はただ炬燵に入ってゆっくりとしていた。どうやら二人は炬燵の入り口が四か所あることを知らないらしく、一つの入り口に二人で座っていたりした。
なるほどこれはつまり、
「――説明、してくれるんでしょうね?」
「そうだな、全てを説明するには人生の余白はあまりにも少ない訳だが――」
「端的に言うとね、私達――こういう関係になったの」
こいしはそう言って、魔理沙の腕にしがみ付く。
そして魔理沙は抵抗もなく炬燵で暖を取っていて、
「……は?」
「……てへっ」
「はああああああっ!?」
霊夢の絶叫が空に響いて、屋根の雪が地面に落ちた。
◆◆◆
「ドッキリで霊夢を驚かすという密かな試みは成功したな。犠牲は大きかったが」
「うんうん。人にいきなり針をぶつけるなんて、教育が悪かったんだねー」
「あんたは人じゃないでしょうが!」
「それはそれ、これはこれ」
やれやれとでも言いたげに、こいしが肩を竦める。思わずぶっとばしてやりたい衝動に駆られるが、先ほどのように魔理沙を盾にされると厄介だ。
「くっ我慢よ我慢……」
「何ぶつぶつ言ってるんだ?」
「うっさい! こんな雑魚妖怪に負ける魔理沙なんて知らない!」
つまりは、魔理沙とこいしの間で賭けが行われていたらしい。
弾幕ごっこで負けたほうは、一日何でも言うことを聞く。そんな馬鹿げた約束をしたあげく、この魔法使いは無様にも悟り妖怪に負け散らかした。それだけの話だった。
出来る限り今日は一緒にいて欲しい。ついでに霊夢を驚かしてみたい。そんなこいしのお願いを、哀れ奴隷となった魔理沙は聞いていたのだった。
「むー、雑魚とは失礼しちゃうわ。というか確か私って、霊夢にも勝ったことあるよね?」
「あーあー忘れたわそんなこと。確か勝ち越してるからいいのよ!」
「覚えてるってことじゃんそれー」
「あーあーあー聞こえない―」
古明地こいしが実力者であることは、まぎれもない事実だ。妖力の強さもさることながら、その特異な能力は他に類を見ない。霊夢を持ってして、簡単に捉えられるものではない。
そんなこいしに偶然たまたま運悪く負けてしまうことは誰にだってある。自分にもある。仕方がない仕方がない。霊夢はそう思うが、しかし魔理沙の敗北は別の話だ。
よりにもよってこんな日に、そんな賭けをして負ける奴があるだろうか。
「魔理沙、あんたって奴は……」
「仕方ないだろ、負けちゃったものは。私が勝てば労働力が手に入ると思ったんだよ」
「今夜はパーティなんだってね? 私も混ざるけど、いいよね?」
「あー、それは好きにしなさい」
「わーい。じゃあ魔理沙のことも好きにするー」
「それは待ちなさい!」
バンと炬燵を叩いて霊夢が叫ぶ。未だに魔理沙とこいしはくっついて離れようともしない。その緩んだ表情をなんとかしなさい魔法使い。
「よーしわかった、こうなったら私と勝負よ!」
「え?」
「私が勝ったら魔理沙を開放しなさい。いいわね?」
「じゃあ当然、霊夢が負けたら霊夢も私の言うこと聞いてくれるのよね?」
「上等よ! そこの腑抜けた白黒なんて目じゃない本当の弾幕ってものを見せてあげるわ!」
何やら魔理沙が抗議の声を上げたそうにしているのが見えた。
しかし霊夢は無視した。所詮この世は敗者に厳しく価値は勝者に在るものだ。何か主張を通したければ、相手に勝つしか方法はないのだ。
だが、こいしの返事は予想だにしないものだった。
「うーんだけど、どうしよっかなー。まだ魔理沙とぬくぬくしていたいしー」
「は? 逃げる気?」
「うん逃げる逃げる。こわーい巫女さんの相手してたら、私の心が爆発しちゃうもん」
……ぐっ、挑発にも乗ってこないとは小癪な。
正直、売り言葉に買い言葉で弾幕ごっこになると思っていた。
しかし霊夢は忘れていた。如何に自身が相手より優れていようとも、相手を勝負のテーブルに乗せることができなければ意味がないということを。
そう、例え博霊の巫女がこんな奴に負けることが絶対にないとしても、相手が合意しなければ何も起こらないのだ――。
「んー、別に博霊の巫女相手だからって、負けるつもりは全然ないんだけどねー」
「逃げておいて説得力ないわよ! って、あれ……?」
霊夢は疑問した。何か今、おかしなことが起こらなかったかと。
しかしその疑問が言語となるよりも早く、魔理沙が口を開く。
「それより霊夢、ちゃんと食材は買ってきたのか? 今日のパーティに七面鳥は欠かせないぜ?」
「それなら大丈夫よ。ちゃんと買ってきてるはずだわ――早苗が」
「なんでだよ」
「仕方ないでしょ、この状況を早苗が教えてくれたんだもん」
霊夢が早苗に会ったのは、つい先ほどのことだった。
人里で出くわした早苗はこう言っていたのだ。今夜のパーティに先駆け早めに神社に行ったところ、魔理沙とこいしが居間を占領しておりとても入り込める様子ではなかった。もしかすると魔理沙が弱みを握られている可能性もあるので、急いで霊夢に伝えに来た。出来る限り早く帰った方がいいだろう、と。
持つべきものは親友である。早苗の助言を受け入れた霊夢は、そのまま早苗に買い物を押し付けると、大慌てで帰宅したのだった。
「いやそれ緑の巫女さんが可愛そう過ぎない?」
「いいのよ、どうせ早苗もパーティに来るんだから。後でお礼はするわ」
特別にケーキのろうそくを吹き消す権利をあげても良いかもしれない。実のところあれをやるのは結構楽しみなのだが、早苗ならば譲ってもいい。
いや、それはともかく、
「やっぱりなんかおかしくない? こいし、あんたまるで――」
「あーわかるー?」
そう言って彼女は炬燵から身を起こす。立ち上がった身体にまとわりつく第三の目。その閉じているはずの眼は、しかし、
「え……開いてる?」
「今日、目が覚めたら眼が開いていたのよね。これって神様からのプレゼントかしら?」
「……ふん、なるほど。魔理沙が負けたのもそれが原因ね」
悟りの持つ第三の眼。それは光ではなく心を視る妖の眼だ。
こいしの持つ眼は長らく機能を停止していて、今後も開くことはないはずだった。
けれども、その眼は確かに開いていた。今もこちらをじっと見つめている。
過去に読心者と戦った経験があろうとも、予想外の相手に読まれれば調子が狂うというもの。どこまで無意識を残しているのかは知らないが、強敵であることは間違いないだろう。
一体何が原因で開いてしまったのか。幻想郷縁起曰く、悟り妖怪の眼など開いたところで誰も得しないと言われる程である。自分もそう思う誰だってそう思う。
「ひどいなー皆して。でもでも、私の眼が開いたのって魔理沙のおかげだと思うのよね」
「ん、どういうことだ?」
「ほらー、こころちゃんの事件のときも構ってくれたし、この間だって一緒に奴隷になったりしたりしてくれたし、魔理沙はたくさん私と遊んでくれたでしょ?」
「スレイブとマスターと言え。誤解されるからな」
「だからまあ、そのおかげで心を開こうと思ったというか? 自然に開いたというか? そんな感じなのよねー」
「だからってねえ――!」
何度目かわからない叫びが居間に響く。
霊夢は炬燵を何度も掌で殴打しつつ、二人に抗議の声を上げた。
「ど、う、し、て、魔理沙とくっつく必要があるの!」
「んーどうしてだろうね? 私正気に戻ったばかりだからわかんなーい」
「あんたねえー!」
「まあまあいいじゃないか」
そう言ったのは魔理沙だった。彼女は惚けているのを隠そうともせず、炬燵に身を預けながらぼやき始めて、
「こいしはまだまだ子供なんだから、一々目くじらを立てるようなことじゃないさ。そうだろ?」
「そうそう。私子供だからー」
「本人が言うな本人が! でも、まあ、うーん……?」
言われてみれば、こいしの年齢を霊夢は知らない。
妖怪ということで年齢も高く、自分達以上の歳月を生きた存在だと思っていた。しかしひょっとすると、本当に言動通りの幼い子供なのかもしれない。
とするならば、怒ってばかりいては大人げないというものだ。小さな子供に魔理沙という存在を――自分にとっての魔理沙を何と呼ぶべきかはわからないのだが――ともかく取られたからと言って、何がどうとなるものでもない。
「そう、私は大人こいしは子供。腹を立ててはいけないわ落ち着くのよ私……」
「ということで一緒に温泉入りにいこっか魔理沙。このあたりに沸いてるんでしょ?」
「こらあああああああ!」
最大級の絶叫が地を震わして、屋根から雀が飛んで行った。
◆◆◆
「それで本当に温泉に行っちゃったのよ? 信じられないと思わない? 思うでしょ?」
「そうですね霊夢さん。ああ、重い荷物を持ったせいで手が痛いわ」
「いやごめんってごめんって」
霊夢は言いながら、手元の木べらを動かした。ボウルの中のじゃがいもは未だ湯気を上げていて、まるで潰されるのを待っているかのようだった。
ガツンゴツンとマッシュしていると、自然と怒りも和らいでいく。しかし霊夢はそれを錯覚だと自覚していた。そんな幻想に頼るしかない自分が、ひどく惨めに思えた。
……うー。私、何に対して怒ってるのやら……。
「霊夢さんそれ力入れ過ぎです。力を入れつつもふわっとマッシュマッシュしてください」
「わ、わかってるって」
思わず力を入れ過ぎてしまうのも何もかも、魔理沙が悪いのだ。いや直接的に悪いのはこいしなのだが、とにかく悪いのは魔理沙なのだ。
「まあ、こいしさんも久々に眼が覚めて、はしゃいでいるんじゃないですか?」
「それはそうなんだろうけど」
「少しくらいは好きにさせてあげてもいいんじゃないですか?」
「そうなんだけどー」
「魔理沙さんもまんざらではなさそうですしね。ふふ」
「笑うなぁ――!」
木べらの腹でじゃがいもが弾け飛んだ。嗚呼ごめんなさいデンプン質、どうやら今夜のポテトサラダは少しばかり粘り気の強いものになりそうだ。
「はあ、とりあえず霊夢さんは引き続きサラダでも作っててください。肉料理はこっちでやりますので」
「あー助かるわ。持つべきものは親友ねー」
「……親友、ですか」
「一緒に料理を手伝ってくれるのなんて早苗くらいよ。ああいや、咲夜の奴もケーキを作って持ってきてくれるわけだし、あいつも同じくらいの親友ね」
「……ええそうですよその通り。霊夢さんは私達にもっと感謝していいんですよ?」
確かにもう少し感謝するべきかもしれない。澄ました顔で七面鳥を捌いている早苗を見て、霊夢は本気でそう思う。
早苗は手早く包丁を走らせ切込みを入れ、素手で内臓を掻き出していく。元現代っ子とは思えない動きに、霊夢はただ敬服するほかなかった。
「いやー、お願いしておいてこんなこと言うのもどうかと思うけど……上手いわね?」
「咲夜さんに仕込んでもらったんです。あの人すごいですよ、ミシュランで言うと星みっつの腕前ですよ」
「え、なに、ミシュラ?」
ミシュラなるものが何者かはわからないが、とにかくなにやら凄いらしい。
というより、そんな技術をものにしてしまった早苗もすごいと思うのだが。パーティの調理を一緒にやってもらえないかと頼んだのはつい一週間前のこと。あの日から今日の間にこんな技術を習得してしまうとは。
「……早苗、あんたってばパーティのことをそんなに大事にしてくれてたのね」
「はい?」
「皆のために高度な料理を覚えるなんて、とてもじゃないけど私にはできないわ」
「……ええ、そうですね。昨日は楽しみで眠れなかったくらいなので」
話している間にも早苗は手を動かしている。今肉の中に詰めたのは、ハーブか何かだろうか。今からどんな仕上がりになるか楽しみというものだ。
「いやあほんと、あんたは最高の友達よ。私は幸せ者ね……」
「ええ、はい。そう言って貰えると私も嬉しいですよ、ええ、そうですとも」
「確かに霊夢って、いつも頭が幸せそうよねー」
「う、その声は」
振り向くと、勝手口にこいしの姿があった。
温泉で火照った身体をどうやってここまで維持したかは謎であるが、どうやら寒さは感じていないらしい。
「良いお湯だったわ。さすが地底から湧き出ていることはあるわ」
「あんたね、ちゃんと玄関から入ってきなさいよね」
「こっちが騒がしかったからつい。あ、緑の方の巫女さんだ。どうもこんにちは」
「はいこんにちはこいしさん。風祝の東風谷早苗です」
ちょこんと頭を傾けて、こいしがおしゃまに挨拶をする。
しかし騙されてはいけない。自分が初めに会った時だって、こいしは礼儀正しかったのだ。この可愛らしさに騙されて、魔理沙も絆されてしまったに違いない。
「騙すだなんて人聞きの悪い。最初の挨拶は大切にしないと駄目かなーって思っただけだよ? 早苗って、霊夢と違って心が清らかな感じがするしー」
「く、落ち着きなさい私、あんな安っぽい挑発に……」
「あーさっきは魔理沙とくっつきながら温泉に入れて気持ち良かったなー」
「ああああ」
「二人とも、うるさいですねえ」
早苗は落ち着いた様子で、七面鳥をトレイに載せていた。蠅帳をかぶせて離れたところに置いたあたり、暫く寝かせてハーブの香りを馴染ませるつもりのようだ。
なんという手際。大人の風格。一々子供に煽られては反応してしまっている自分が恥ずかしい。いや悪いのはこいしなのであって自分は何も悪くないのだが。
「……早苗、貴方もそうなんだ」
「は? 何よそうって」
「霊夢さんなんかの為に、わざわざ時間を割く人間が他にもいるんだなあって、そう言いたいんじゃないんですか? 実のところその通りで、私は魔理沙さんの同類なのです」
「……そっか。そうなんだ」
「ぐ、言わせておけば……!」
一発小突いてみようかと思ったけれど、こいしはあっさりと台所から去ってしまった。
きっと魔理沙といちゃつきに行ったのだろう。ああ、こんな理不尽が許されていいのだろうか。いや良くない。今すぐ自分も居間に乗り込んで――。
「霊夢さん、次はトマトのカットをお願いしますね?」
「あああああああ」
笑顔の早苗が眩しくて、どうやら台所を離れることは叶いそうになかった。
まだまだ食材は豊富にあって、捌かれ待ちの行列は後ろが見えそうにない。
◆◆◆
あれから。
霊夢はいつ終わるとも知れない料理を作り続け、夕刻合流した咲夜に一部の作業を引き渡し、やっぱりスキンシップ(婉曲表現)をしていた二人を引きはがしたり、その様子を吸血鬼姉妹に爆笑されたりしていた。
そうこうする間にも無情に時間は過ぎ去っていき、それでも状況は進展しない。
霊夢がどう頑張ろうが、魔理沙とこいしの間で契約が締結されている以上、引き離すのは至難を極めた。
しかし、もはや解答の模索を霊夢が諦めかけたとき、思わぬところから救いの手が差し伸べられたのだ。
それは皆が料理を食べ進み、霊夢が絶望に打ちひしがれていたころに起こった。それまで苦笑しながら静観していた八雲紫が、霊夢にこう助言したのだ。
「ふふ、どうやら魔理沙の左が空いているようだけど?」
その一言で、霊夢の覚悟は決まった。
決まってしまったと、言うべきかもしれなかった。
◆◆◆
一体自分は何をやっているのだろう。霊夢は自問した。
はっきりいって、こんなことをする必要性は全くない。
未だ爆笑冷めやらぬ姉妹に指を刺される必要も、三プラス一妖精にひそひそ声で囁かれる必要も、能面の上からでも解る心配の眼差しを向けられる必要もないはずなのだ。
しかし辞めたいかと言われると存外そうでもなく――この現状を、まあいいかと思ってしまう自分がいるのも確かだった。
「なあ霊夢、動きにくいんだが」
「仕方ないでしょ。私がしがみ付いてるんだから」
「仕方ないか。そうか……そうか……?」
霊夢のやっていることは単純だった。それは右腕を使って行うことで、魔理沙の左腕を借りながら行うことだった。
要するに、霊夢は魔理沙にしがみ付いていたのだった。
問題は、魔理沙の右腕はこいしにしがみ付かれていることであるが、こちらは霊夢が関与していない対岸の話である。霊夢にはどうすることもできなかった。
結果として魔理沙が――霊夢とこいしにサンドされた魔理沙の身体が、不自由になってしまうのは回避しがたい悲劇だと言えた。
その悲劇を悲しむのは、魔理沙本人しかいなかったが。
「なあ、私の両手はいつからお前達の物になったんだ?」
「うーん今朝から」
「ついさっきからよ」
「そうかー」
魔理沙が困り顔で呟くが、これも全部自業自得だ。
だって、だって仕方がない。全部魔理沙が悪いのだ。
「ねーねー霊夢、なんでも人のせいにしちゃ駄目だよ?」
「でも魔理沙が悪いんだもんー」
「……なんか私に似てきてない?」
何を失礼な。確かに今霊夢の身体は魔理沙に引っ付き、こいしと同じ格好をしているようにも見える。しかしこれはなんというか違うのだ。
「そう、魔理沙を救うためなのよこれは。極悪な悟り妖怪からね!」
「意味わかんなーい。だって魔理沙、今日一日嫌な思いしてないよね?」
「ああそうだな。だから早く二人とも腕を離して、私にも料理を食べさせてくれ」
要望がきたので肉を魔理沙の口に突っ込んでおく。遅れてこいしもチキンを突っ込んだので、肉と肉が合わさりなんともお得だ。
するとなにやら魔理沙が言葉を発せなくなってしまった。それをどうしてと思う間もなく、こいしの声が魔理沙を挟んで飛んでくる。
「ねえ霊夢、今の自分の状況わかってる?」
「なにがよ」
「魔理沙にぎゅーってくっついて、私は魔理沙から離れたくありませーんって言ってるのよ?」
「う、あ、別に私は……」
言葉が否定を作ろうとするが、既に心は理解していた。
こいしの言うことに間違いはなくて。
これは、とても恥ずかしいことであるわけで。
その全ての心を、こいしに読まれてしまっているということを。
「別に何でもいいでしょ! 私には魔理沙を助ける義務があるのっ!」
「私と魔理沙の関係も今日までなんだから、もう少しだけ放っておいてくれればいいのにー」
「そ、そんなわけにはいかないわよ!」
「えーどうしてー?」
「わからないけどどうしても!」
甘ったるい声を出しながら、こいしがしつこく問うてくる。何やら心がざわざわとしてきたので、手元にあったシャンパンを勢いよく呷った。
普段は飲まない西洋の酒が、今は胸に沁みわたる。勢いよく飲んだせいで、炭酸が少し痛かったけれど。
「ねえ霊夢、本当にわからないの?」
「わかんないわよ……だって、あんたと魔理沙が一緒にいると、何か知らないけど嫌なのよ」
こいしの雰囲気が一転して、まるでこちらを心配するかのような顔になった。
いきなりそういう顔をされても騙されてはやらない。きっと、今日何度もやられたように、煽って煽って煽り倒すつもりなのだ。
「騙されない、私は騙されないわ……」
「うーんやりすぎたかなー。ちょっと楽しむだけのつもりだったのに」
「人で楽しもうとするんじゃない!」
「うんうん。そういう反応されるとついねー」
底意地が悪いのは姉と一緒らしい。人をおちょくって何が楽しいのか。
「ん、もご、ああ。霊夢、水をくれないか」
魔理沙が復帰したので瓶でシャンパンを突っ込んでおく。きっと魔理沙なら平気だろう。
すると魔理沙が背後に倒れていったので、こいしと同時に腕を離すことになった。
「あーあ、倒れちゃった。まあいっか、私もお酒貰おうっと」
「まったくもう……」
無邪気にお酒と料理を口へと運ぶこいしからは、悪意はまるで感じられない。
目的など何もなくて。
ただ単に、今を楽しんでいるだけに思えた。
「ねえこいし。あんた、魔理沙といて本当に楽しいの?」
「もぐもご、もく、あー、これ美味しいね。早苗にお礼言っておかなきゃ」
「…………」
「顔が怖いって。んー、勿論楽しいよ?」
どこまで本気なのか、霊夢にはわからなかった。
こいしのやっていることはどこまでも子供で、深い意味はないように見える。
見えるの、だが。
「……本当に、私は何も考えてないよ。今日だって魔理沙に会いたくて来ただけだし」
「本当に?」
「ほんとのほんと。お姉ちゃんの魂をかけてもいいよ」
「……はあ、なら別にいいけど」
言って、ナプキンでこいしの口を拭ってやる。
「んむ」
「ソースが付いてるわ。そんな状態で魔理沙に引っ付いたら迷惑かかるでしょ、気を付けなさい」
「……ありがと」
不気味なほど素直に、こいしがはにかむ。
……こうしていれば、普通に可愛いんだけどねえ。
と、この思考も読まれてしまうのだった。気を付けなければいけない。
霊夢が改めて自分に注意を喚起するが、当のこいしはぽかんと口を開けていた。
「どうしたのよ」
「いや、なんというか、霊夢って意外とお人よしだよねーって」
「うるさい。ほら、野菜も食べる」
「うん食べるー」
先ほど自分の作ったサラダがこいしの口内に消えていく。
魔理沙に余計なことをしなければ、いくらでも宴会やパーティに参加してもらって構わない。このまま大人しくしてくれれば何も言うことはないのだ。
……魔理沙の眼が覚めたら、また暴れ始めるんでしょうけど。
それ以外なら、何をしたって別にいい。
そんなことを気にしていては宴会なんて開けないし。
そんなことを気にする奴なんて、一人もここにはいないのだから。
「……魔理沙に手を出すのだけは許さないけどね。いや理由は無いけど」
「大丈夫大丈夫。日付が変わったら、私も大人しくするから――ね?」
その言葉を信じる根拠は何もなかったけれど。
自分はどうしてか、その言葉を信じてもいいと思ってしまうのだった。
◇◇◇
「ああ、今日は楽しかったな」
夜風が気持ち良かった。
地底にはない透明な風は、身体から熱を奪っていく。火照った身体が冷める感覚が、今は快かった。
神社の屋根に座って、暗くも透明な空を見る。快いと感じたのは夜風だけではない。星の光も、神社から漏れ出る灯も、未だに続く騒ぎの声も、全てが快かった。
「昨日までは、感じなかったもんね」
今日は少しはしゃぎすぎた。気持ちの良い疲れが全身を支配していて、今は身体を動かす気になれなかった。
今は一体何時だろうか。神社の中から響く騒ぎの声は、きっと朝まで続くだろう。いつ日付が変わるかの基準には、なりそうもなかった。
……十分、良い思いはさせてもらったけどね。
霊夢には悪いことをした。楽しかったので後悔はしていないけど。
こいしはそう思いながら、今日のことを反芻する。
本当に、面白かったなと。
「でも、もう帰ろうかな」
「おいおい、夜はまだこれからだろ?」
「あ――」
背後から声をかけられる。反応を返す前に、真横に新しい姿がきた。
魔理沙が、隣に座っていた。
「……どうして?」
「お前が言ったんだろ。今日はなるべく一緒にいて欲しいって」
「それは、そうだけど」
「帰るなんて言うなよ。時間はあるんだからさ」
「そう、だけど、さ」
気軽な声で話す魔理沙を、視ることができない。
姉ならば、直視しなくても隣の心を視ることができるはずだ。心の視野角が広いのか、後ろにいる者の声すら拾えるのだから。こいしは、そう思う。
だけど、眼が覚めたばかりのこいしにとっては、心は直視しなければ視ることができなかった。真っ直ぐに誰かを見据えて、心を視ようと思って視なければ、何も心の声が聞こえてくることはない。
今が、そうであるように。
「魔理沙は、さ。嫌じゃなかった?」
「――ああ、楽しかったさ。霊夢のあんな姿も見れたしな」
魔理沙が、意味を察して答えを返した。
これでは、どちらが悟られているのかわかったものではない。
否。きっと、わかっているのだ。
今日、魔理沙は一度も心の中に思い浮かべなかったけれど。
一日中、自分に付き合ってくれたけれど。
今朝は笑いながら被弾して、自分の言うことを聞いてくれたけれど。
……わかってるんだよね、魔理沙は。
「ねえ、それじゃあさ。またいつか、今日みたいに遊んでくれる?」
「私に勝ったらな」
「今度、魔理沙の家に行っていい?」
「汚くても良ければ。茸料理をご馳走するぜ」
「私のうちにも来てよ。歓迎するよ」
「なるべくさとりのいない時にな」
「じゃあ、じゃあさ。じゃあ――」
言いたいことを言おうと思って、けれど声が出てくれなかった。
だからこいしは、冷たい空気を肺に入れて、乾いた喉を鳴らして、唇を震わせて。
ただ、一言を告げようとして、
「――――」
昨日までは、何も感じていなかった。
ついさっきまでは、楽しさしか感じていなかった。
眼を閉じる前は、嫌なことも何もかも感じていたのだろう。
だけど今得ている感情は、そのどれでもなくて、
「――魔理沙」
「ああ、なんだ?」
「私と――私と、ずっと一緒にいてくれませんか?」
心臓が痛かった。
白い吐息が宙に昇って。
告げてしまえば一瞬だったけれど。
呼吸が荒くなっているのが感じられて。
言葉が震えていたなと頭が冷静な判断を下す。
声はちゃんと出ていたかな。そんなことを疑問する。
胸が鼓動を刻むたび、記憶にない感情が心の中で膨らんで。
魔理沙の答えを待つ時間が、無限に感じられて仕方がなかった。
あっという間もないはずの一瞬なのに、どうしてかそうは思えない。
この感情を自分はわかっていて、どうなるかだって覚悟していたのに。
「こいし」
声が聞こえた。
古明地こいしの、大好きな人の声が。
だけど。
「――私は、お前と一緒にいられない」
「……そっか」
答えを聴いて、こいしは魔理沙に向き直った。
すると、魔理沙もこちらを向いていた。
そこにあるのは笑顔だった。
屈託なく、後ろめたさもない、こいしのよく知っている笑顔が。
彼女は誰にだってその笑顔を向けるのだろう。
その理由は単純だ。きっと、いつだって楽しいのだろう。
こんな嫌われものの妖怪と一緒にいてもそうなのだから、どんな時だってそうに違いない。
……ああ、だけど。
姿が見えた。魔理沙の心の中いる、彼女の一番の姿が。
「やっぱり、そうなんだね」
「そうだな」
「でも、いいの? それなのに、私や、他の人と遊んでいて」
「私は普通で、嫌な奴だからな。興味があればどこにでも行くんだ」
「悪い人。いつか刺されないようにね」
「私は悪いことなんてしてないぜ。まあ、いざとなったら自衛はするさ」
笑い方が変わって、口調も軽くへらへらと肩を竦める。
それでも、こいしにはわかっている。最後の言葉だけ、嘘だと言うことを。
……ばか。
心の中で謝るくらいなら、最初から一人だけを見ていればいいのに。
「ひどい人ね、魔理沙って」
「ひどくはないさ。私はただ、自分が面白いと思ったことをするまでだ」
「――それに、嘘つきだわ」
「……そうだな」
「本当に、嫌な人間ね。でも――」
それでも、こいしはこう思う。魔理沙に出会えてよかったし、
「有難う、魔理沙。私の眼を、開かせてくれて」
心からの気持ちを伝える。
叶わないと、適わないと知っていたけれど。
「――魔理沙とも、皆とも、会えてよかったわ」
「ああ。私もだ、こいし」
これだけは、伝えたいと思ったのだ。
「……あーあ、もっと早く心を開いていればよかったわ。勿体ない」
「まあまあ。妖怪の寿命は長いんだから、いいじゃないか」
「うー、だってどんなに長くたって、魔理沙も霊夢もいないんじゃつまらないしー」
「妖怪の友達でも作ったらどうだ。吸血鬼の妹なんかがお勧めだ」
そういえば、パーティにも吸血鬼が混ざっていたような気がする。
爆笑しながら心の中で嫉妬心を燃やしている姿が印象的だったが、あの子も苦労しているのかもしれない。
「考えておくけど、どうかなー」
「考えればいいさ。考える頭があるんだからな」
「ま、これからはそうなるね」
そう言って、屋根の上で立ち上がった。
少しだけ、本当に少しだけ下を向きたくなかったから、そのあたりを散歩しようとこいしは思った。魔理沙には、一人になりたいとかそう言って。
けれど、
「――あー! そんなところにいたのね、また魔理沙とくっついてー!」
「おー霊夢、目が覚めたか。やけ酒で倒れるなんてお前らしくもない、嫌なことでもあったのか?」
「あーんーたーねー!」
一足飛びで霊夢が屋根まで上がって来る。彼女は空間からお祓い棒を、胸元からお札を取り出すと、
「どうせまたこいしに誑かされてたんでしょ? 性根を叩き直してあげるわ!」
「……ま、食後の運動には丁度いいな。じゃあ、こっちは二対一で一方的にボコらせてもらうぜ?」
「じょ、上等よ! かかってこーい」
「え? え?」
右手を取られた。引き上げられるように夜空に昇って、魔理沙を見上げながら飛んでいた。
「魔理沙、あの」
「まだ日付は変わってないからな。まだ契約は有効だ」
「――うん!」
本当にこの魔法使いの性質は変わらないらしい。
絶対どこかで痛い目を見るに違いない。というか、今まさにそうなろうとしているのだけど。
「このー離れろー!」
「ちょっと霊夢さん、真夜中にうるさいですよ」
「そうよ霊夢。そんな楽しそうな声を上げたら、迷惑で皆が起きてしまうわ」
お祓い棒を振り回しながら叫ぶ霊夢の元に、二つの姿が追加された。
「弾幕ごっこなら私もやりますよ! 暴れたい気分ですしね!」
「ふむ、今の時間は……二十三時五十分ジャスト、なんてね。日付が変わる前にやるのでしょう?」
「ふ、二人とも……! やっぱり持つべきものは友達ね!」
早苗と、紫だった。
「……魔理沙ほどじゃないけど、霊夢も大概気を付けてね」
「なにわけわかんないこと言ってんのよ。ほらこっちは三人になったわよ観念しなさい!」
「待って待ってー!」
更なる声が真下から上がった。声の主は直ぐにやって来て、
「どうやらピンチみたいだなこいし。ここは宿命のライバルたるこの私が助けに入ろう」
「こ、こころちゃん?」
「というかー、今日空気読んで話しかけなかったけど、こいしって魔理沙さんとそんなに仲良かったっけ? 心がもやもやするんだけどー」
「……前言撤回。私も気を付けなきゃだね」
魔理沙がにやにやと笑みを浮かべていた。
やっぱり、魔理沙は嫌な奴ということらしい。
でもこれは仕方がない。だって皆は魔理沙ほど、心の魔法に長けてはいないのだ。
「覚悟しなさいよあんた達!」
「あ、これに勝ったら明日は私が霊夢さん独占していいですよね?」
「ふふ、では私は明後日で」
「狸の皮算用は辞めた方が良いと思うがな」
「最強の三人に適うと思うなよー」
「冷静に考えて紫さんの分こっちが不利な気がする我々です。でもがんばるぞー」
いろんな感情が交差して、そのどれもが不快なものではなかった。
それどころか、なにもかもが心地良く思えて。
……有難うね、魔理沙。
もう一度魔理沙にお礼を言って、皆で弾幕の中に飛び込んだのだった。
ラブコメなのも切ないのもとてもとても素晴らしかったです、ありがとうございます。
こいしに揶揄われてる霊夢の狼狽え方が可愛らしくて、自分が何故それが嫌なのかも上手く言語化出来ないのが本当に最高なんですよ。
こいしもこいしで霊夢をいじりたいだけじゃなくてちゃんと魔理沙の事を想っているのがとても良かったです。
もうみんな好きです。ありがとうございました。
自分の想いを言語化出来ないままにヤキモチ焼いてる霊夢も可愛いし、自分の想いを魔理沙にぶつけるこいしも非常に良かったです。
ニヤニヤしながら楽しませて頂きました。
取り乱す霊夢がかわいらしかったです
早苗のおかげで人間関係に奥深さが出ている気がしました
ごちそうさまです
そんな二者の思いを侍らせながらも自由奔放に動いていける魔理沙のスケコマシ具合もズルで良くて。序盤の霊夢主点で進行していた時に何を思っていたのか色々と胸中を見てみたいし多分満更でも無さそうだし、だからこそのラストのトリプルバトルでこいしちゃんの腕を掴んで引き上げられる。そんなんズルですよ。白黒サンタクロースですよ。
あとちょこちょこっと霊夢や魔理沙やこいし以外の少女たちも色々な友情以上の感情があるのを匂わせてくれますし、そういう部分もまた楽しい話でした。面白かったです、ありがとうございました。