1
涼やかな日差しが降り注ぐ秋晴れの日だった。
博麗神社の境内は、枝を離れた色とりどりの落ち葉たちによって明るく彩られていた。訪問者は、それをパリパリと踏みならして巫女のもとへと歩みを進める。
「よう霊夢。来てやったぞ」
声の主を一瞥すると、霊夢はすぐさま自分がもとやっていた仕事──本殿の掃き掃除に戻る。いつものように、萃香はただ暇つぶしに来ただけなのだろうと考えていた。
「誰もあんたのことなんて呼んでないわよ。また酒盛りでも始めるつもりなの?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあなによ」
「……その逆だ」
「逆? 禁酒でもするわけ?」
「ご明察」
塵の行く先にばかり気をとられ、なかばうわのそらで受け答えしていた霊夢は、そこで顔を上げた。そしてもしかしたら聞き間違えかも知れないと、改めて萃香に問うた。
「いまあんた、禁酒するって言ったの?」
2
ふたりは縁側に場所をうつしていた。
「禁酒っていってもな、そんな大層な話じゃない。今日一日だけこいつを預かってもらえればいいんだ」
萃香はそう言って、携えていた伊吹瓢を顔の高さまで掲げた。
アルコール中毒者の神器をいっとき手放すことで、酒の呑めない環境に身を置こうとしているらしかった。
「今日だけでいいの?」
「うん」
「明日からはどうするの?」
「酒は天下の回りものだ。また呑むに決まってるだろ」
「そんなことわざ聞いたことないわ。それにそのセリフ、ついさっき禁酒するって言った口から出て良いものじゃないでしょ」
霊夢がほんのり辛辣なのはいつものことなので、萃香は気を害された様子もみせずに続ける。
「それで、預かってもらえるのかい」
「いいわよ。別に断る理由もないし」
「おぉ助かるよ。あとな、くれぐれも他の連中には秘密で頼む」
「別に良いじゃない知られたって。酒を断つ殊勝な心意気の鬼なんて、けっこう素敵だと思うけど」
「鬼としての威厳がなくなっちゃうじゃないか。人に預かってもらわなきゃ我慢もできないのかって馬鹿にされるのがオチだ」
「ふうん。ま、いいけどね」
霊夢は無理に反論しようとせず、萃香の意に沿い秘密にしてあげようと考えた。人には人の、妖怪には妖怪の価値基準がある。無理に枉げようとする者に博麗神社の巫女はつとまらない。
同時に霊夢は、秘密は守り切れないだろうとぼんやり直観してもいた。こういう面白いことは、当事者の意図がどうであれよくわからない経路からなぜか発覚してしまうものである。
「それじゃひとつよろしく」
「もう行っちゃうの? お茶くらい淹れるのに」
霊夢は辞去しようとする萃香を引き留めた。いきおい仕事を中断してしまったので、再開するよりはもう少しのんびりしていたいと思ってのことだった。
「今日は遠慮しておくよ」
言うが早いか、萃香は立ちあがって参道の方へ向かった。
いつもぶらさげている伊吹瓢がないせいか、酔っていないため足取りがふらついていないからか、その後ろ姿はどこか寂しげで物足りなさそうに感じられた。
「そうそう言い忘れてた。返すまでの間、その瓢箪は好きに使ってくれて構わないぞ」
見送る霊夢にそう言い残し、萃香は神社を後にした。
3
「鬼が酒を手放すなんて、今日はもしかしたら槍が降ってくるかもしれないね」
昼間から酒風呂に浸かることができ、針妙丸はみるからに機嫌が良かった。使われている酒はもちろん伊吹瓢のものである。
「いいんじゃない。地震で神社が潰れるよりマシよ」
霊夢もまた、伊吹瓢の酒を拝借して一杯やっていた。やるべき仕事を一段落させたことにより、日が沈む前から呑むことに対する心理的障壁はとりのぞかれているようだった。
かように尽きることのない酒の源を手元に置いておくことは、酒を断つことを困難たらしめる。あるいはそれは心地よい秋風が気分を盛り立てたからかもしれなかったが、いずれが主たる要因なのかの判断を、呑み始めてしまった者に期待すべくもない。
縁側の戸を開けっぱなしだったのをいいことに、そこに闖入者が現れた。
「どうもおふたりさん。こんな時間から結構なことですねぇ」
地面に降り立った文は、ささやかな宴の様子をしげしげと眺めた。針妙丸は、頭の上にのせていた手ぬぐいで慌てて身体を隠す。
「断りなしに入ってこないでっていつも言ってるでしょ!」
霊夢がその言葉を発したときにはすでに、文は所有者不在の伊吹瓢を目ざとく発見していた。そしてそれとほぼ同時に、記者のたくましい想像力で現状を説明する様々な可能性を夢想した。
「あの方はここにいらっしゃらないようですが、何かあったのですか?」
「別に。あんたには関係ないわ」
「あや、これは怪しいですね。ちょっと面白いものをお見せしようと寄っただけなんですが、望外の収穫の予感がしますよこれは」
まくしたてる文の背後に、さらに椛が姿を見せる。
「あんまりはしゃがないでくださいよ。かっこ悪いです」
霊夢の頭のなかはちょっとしたパニックになっていた。
こいつらが急に来た理由は何か、どうしていつも正面から入ってくることができないのか、恥ずかしがっている針妙丸の写真を挨拶代わりに撮影したのはなぜか、そしてなにより伊吹瓢がここにある理由がばれてしまわないか。いろいろな疑問符が霊夢の脳裏に浮かんでは消える。
針妙丸は不安げに赤ら顔の霊夢を見やる。
「この状況どうやって言い逃れよう? ていうか凄い恥ずかしいんですけど!!」針妙丸の顔にはそう書いてあった。
とはいっても、情況証拠が固められてしまったなか、判断力の鈍った酔っぱらいふたりに秘密が守り通せるわけもなく、ことのいきさつはすべて文と椛の知るところとなった。霊夢が白状し、針妙丸がせっせと服を着る様子を、天狗たちは交互に眺めていた。文は目を輝かせ、椛はめんどくさそうな表情を浮かべる。
「なんですかそれは。とっても面白そうじゃないですか!」
4
「私は反対したんだからね。鬼のプライベートを念写するだなんて。後で何されるか分かったもんじゃないわ」
急に文に引っ張り出されたうえ無茶な注文をふられたはたては、不機嫌な様子を隠そうともしない。
夜の闇が辺りを包み始めた頃、神社の居間はにわかに騒がしさを帯びていた。
「まあまあ。あなたと今の椛がいれば、幻想郷中のプライバシーは我々の手中にあるも同然なんです。もっと楽しみましょう」文は悪びれもせずに言う。
「忘年会用の一発芸に読唇術を勉強した椛さんが、千里眼と読唇術を組み合わせて発言を盗み見て、はたてさんがその様子の証拠写真を念写で撮影する……」計画を要約する針妙丸は、文の発想に対する恐怖の念を隠そうともしない。
「面白かろうと仕込ませた椛の一発芸ですが、これを使ってさらに面白いものが見れるかもしれない。海老で鯛を釣るとはこのことです」
「ほんと、天狗なんて碌なもんじゃないわね」霊夢は肩をすくめる。
椛は霊夢を一瞥し、隙あらばジャーナリズムを暴走させるような奴と一緒にしないでくれと心の中で声を上げる。
文の野次馬根性に根負けするかたちで、即興の計画はとうとう実行に移された。椛が千里眼で居所をつきとめ、さらにはたてが念写を始める。
写真に写っていた萃香は、ひとり山奥の川べりにたたずんでいた。背後に森が見えるが、足元は岩肌がむき出しになり、大小さまざまの砂利がごろついている。別の角度から撮った念写写真からは、すぐ近くに滝があることもみてとれた。
「おっ。なにか喋り始めました。独り言みたいですね」
椛は萃香が吐き出す言葉たちを複製しはじめた。
『朝に死し、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る……って言ったジジイ誰だっけ。まあいいや。
毎日嫌になるくらい晴れてばっかりだから、思い出しちゃったよ。
こっちに来てからは、こういうことはほとんどなかったんだけどな。
約束の日は毎回、こんなふうに星のよく見える夜だったな。
言い訳するわけじゃないが、約束を反故にしてきたわけじゃない。鬼は人間と違って、約束を違えたりはしない。いっとき忘れることはあっても、完全に反故にしてしまうなんてことはないんだ。
ただそのいっときを過ごすに、私はあまりに長生きで、お前はあまりに短命だった』
萃香は誰に語りかけるでもなくのんびりと独り言を口にしていたようだったが、そこでひとつの変化が生じた。
「勇儀さんが来たみたいです」
椛は短く告げる。
「ふたり分の読唇ってできますか?」と文が問う。
「はいはい、やりますよ」と椛が答える。勉強したことを実践で活用することについては、椛もまんざらでないようだった。
『懐かしい雰囲気してるじゃないか。あの頃のお前はそうやって、よくわからん親しみやすさとピリッとした殺伐さをうまく同居させてた。こっちにきてからずいぶん丸くなったが』
『懐かしいって言うほど昔じゃないだろ』
『昔だとも。年をとったんだよ、私もあんたも。そして年をとりすぎた連中は、みんないつのまにか忘れ去られていった』
『…………』
『また性懲りもなくあいつのことを思い出してるんだろ』
『別に』
『嘘は通じないぞ。お前が素面でいるなんて、よほどのことがないとありえない。くだらない誤魔化しはナシだ』
『……ふん。こう毎日青くて高い空を見てるとな、嫌でも思い出すんだ』
『正直でよろしい。別におまえをバカにしたいわけじゃない。私も頭から離れなくなっちまったから、こうして来たんだ。幻想郷のなかじゃ、ここが一番あの場所に似ている』
『あの日おまえは泣いたんだっけな』
『泣いてない』
『眼に塵が入っただけ、か?』
『…………』
『そのあとのこともよく覚えてる。「これがほんとの鬼の目にも涙だ」って私が言ったら、えらい形相で向かってきたっけな』
『…………』
『あんまり黙らないでくれよ、調子狂うな。べつに茶化すつもりなんてない。ただ前にはそういうこともあったなって、ちょっと懐かしくなっただけなんだよ』
『……あの頃は、いろいろなことが今とは違った。今ほど気楽でもなければ、面白くもなかったよ』
『だからこそあいつに入れ込んだんだろう。暗闇が濃ければ濃いほど、光も強烈に映るからな』
『ふふ、恥ずかしいセリフ回し』
『うるさい。実際そうだったろう。あいつに会ったばかりの頃のお前は、口を開けばその話ばっかりだ。暗記しちまうかと思ったくらい聞かされた』
『そうだったっけ』
『そうさ。そんでたしか……出会ったときは死のうとしてたんだったよな、そいつ』
『ああ。あいつに会うのはいつも今日みたいなさっぱりした秋晴れの日の夜。最初は死にたがりの命知らずだった。人生に価値なんてないと固く信じてる顔をしてた。そのくせえらい強くて、私が殺そうとすればするほど生き汚くもがいた』
『そんでお前と引き分けまで持って行った』
『引き分けにしてあげたんだ。私は死にたがりを望みどおり殺してやるほど優しくなかったからね。そしたら5年後の今日に雪辱を果たすとかなんとか言って、ズタボロの身体を引きずって帰っていった。そして律儀に5年後あらわれた。その5年後もあらわれた。年を経るごとに味の変わる上等な酒みたいに、毎度毎度私を愉しませてくれた。酒がなくても愉快な酔いを味わえるということをそこで私は学んだ。次の5年後を約束したとき、そいつが伴侶をみつけて子をこさえてることを知った。それでもあいつは、また来ると約束したんだ……』
『あいつだって約束を守るつもりが無かったわけじゃないだろう。流行り病でいつ死んじまうかなんて、只の人間にはわかりようもない。生きてたら、絶対に来てただろうさ』
『……たらればの話はいいんだ。あいつが来なかったことには変わりない。そのせいで、私は果たせぬ約束をひとつ余計に抱え込まされた』
『死にたがってるときには生き延びて、生きなきゃならないときには死んじまう。ままならないな』
『あいつはまだ私の記憶の中に生きてるけど、もう私たちのほかに覚えてる奴なんていないだろうな。行く川の流れうんぬん言ってたあのジジイは、いいとこ突いてる』
『まあそう難しく考えるなよ。覚えてる奴が減ったんなら、残った奴がより強く記憶すればいい。それだけだ』
『それじゃ久しぶりに付き合ってくれよ。より強い記憶のために』
『うん?』
『弾幕ごっこじゃない、何の変哲もない殺し合いに。昔みたく、地味に静かにやろう』
『いいとも。何もしないで明かすには、秋の夜は長すぎる』
はたてが念写したところによると、ひとしきり戦って一息ついた後、勇儀は一足先にその場を後にしたようだった。場面場面を切り取った念写写真でしか戦いの様子を窺い知ることはできなかったが、そこから判断する限り、それは命の取り合いをする気迫よりも児戯のような無邪気さをより強く感じさせるものだった。
萃香はというと、おあつらえ向きの大木を見繕い、その枝の上に寝そべって物思いに沈んでいる様子だった。ふだん見せないその神妙な面持ちは、霊夢たちに対してさえ、そこはかとない大妖怪の威光を感じさせた。
「マスコミ冥利に尽きますねぇ。こんな収穫があるとは。今日の朝には思いもよらなかったです」
文はそう軽口を飛ばすが、はたてはそれに対して少し非難がましげな視線を送る。
「あんたはそうかもしれないけど。なんか見ちゃいけないものを見ちゃった気分だわ」
うんうんと、霊夢と椛もうなずく。
「あや、これを記事にしてばら撒こうだなんて思っていませんよ。最低限の職業倫理くらい私だって持ってます。とても大切で、それでいていたずらに流布させるべきでないある種の事柄というのは往々にしてあるものです。今回のこれもその例に漏れない。そこで私に提案があります」
部屋の隅に鎮座する伊吹瓢を指さして、文は言った。
「乾杯しましょう、忘れられゆく記憶に。そして何を忘れたのかさえ忘れてしまうくらいに呑むんです」
5
明くる日、萃香は予定どおり博麗神社を訪れた。
すでに日も高く昇っていたが、外に霊夢の姿はない。
居間まであがりこむと、萃香は寝間着姿のまま寝転がっている霊夢をみとめた。目元にはうっすら隈が浮かんでおり、髪も無造作なままだった。
「こりゃどうしたことだ」
「あぁ、いらっしゃい……」
霊夢は水差しから湯呑みに水を注ぐと、砂漠の放浪者のような勢いで飲み干す。かと思うと、再び燃料が切れたように横になった。
「呑みすぎたみたい。うぇっ、気持ち悪……」
仰向けのまま手の甲を目元にかざす霊夢は、ささやかな光さえもしんどいと言わんばかりにぐったりとしている。
「どうやらちゃんと預かってくれてたみたいだから、私としては文句はないが」
萃香の視線の先には、預けたときと変わらぬ姿の伊吹瓢があった。さらにその隣には、針妙丸が椀をすっぽりかぶって気を失っている。
「一杯やらせてもらうよ。二日酔いの奴を見ながら呑む酒もたまにはうまかろうね」
「好きにして頂戴。あぁ、しんど…………」
「珍しいな、おまえがそんなになるなんて」あきれたような安心したような、気の抜けた微笑みを浮かべながら萃香は言った。
「あんまりよく覚えてないの。でもなんだか止まらなくなっちゃって……結局このざまよ」
「ふふん、まだまだ若いな。酒は綺麗に呑まないと。間違っても、大切な記憶を飛ばしたりしないように」
終
涼やかな日差しが降り注ぐ秋晴れの日だった。
博麗神社の境内は、枝を離れた色とりどりの落ち葉たちによって明るく彩られていた。訪問者は、それをパリパリと踏みならして巫女のもとへと歩みを進める。
「よう霊夢。来てやったぞ」
声の主を一瞥すると、霊夢はすぐさま自分がもとやっていた仕事──本殿の掃き掃除に戻る。いつものように、萃香はただ暇つぶしに来ただけなのだろうと考えていた。
「誰もあんたのことなんて呼んでないわよ。また酒盛りでも始めるつもりなの?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあなによ」
「……その逆だ」
「逆? 禁酒でもするわけ?」
「ご明察」
塵の行く先にばかり気をとられ、なかばうわのそらで受け答えしていた霊夢は、そこで顔を上げた。そしてもしかしたら聞き間違えかも知れないと、改めて萃香に問うた。
「いまあんた、禁酒するって言ったの?」
2
ふたりは縁側に場所をうつしていた。
「禁酒っていってもな、そんな大層な話じゃない。今日一日だけこいつを預かってもらえればいいんだ」
萃香はそう言って、携えていた伊吹瓢を顔の高さまで掲げた。
アルコール中毒者の神器をいっとき手放すことで、酒の呑めない環境に身を置こうとしているらしかった。
「今日だけでいいの?」
「うん」
「明日からはどうするの?」
「酒は天下の回りものだ。また呑むに決まってるだろ」
「そんなことわざ聞いたことないわ。それにそのセリフ、ついさっき禁酒するって言った口から出て良いものじゃないでしょ」
霊夢がほんのり辛辣なのはいつものことなので、萃香は気を害された様子もみせずに続ける。
「それで、預かってもらえるのかい」
「いいわよ。別に断る理由もないし」
「おぉ助かるよ。あとな、くれぐれも他の連中には秘密で頼む」
「別に良いじゃない知られたって。酒を断つ殊勝な心意気の鬼なんて、けっこう素敵だと思うけど」
「鬼としての威厳がなくなっちゃうじゃないか。人に預かってもらわなきゃ我慢もできないのかって馬鹿にされるのがオチだ」
「ふうん。ま、いいけどね」
霊夢は無理に反論しようとせず、萃香の意に沿い秘密にしてあげようと考えた。人には人の、妖怪には妖怪の価値基準がある。無理に枉げようとする者に博麗神社の巫女はつとまらない。
同時に霊夢は、秘密は守り切れないだろうとぼんやり直観してもいた。こういう面白いことは、当事者の意図がどうであれよくわからない経路からなぜか発覚してしまうものである。
「それじゃひとつよろしく」
「もう行っちゃうの? お茶くらい淹れるのに」
霊夢は辞去しようとする萃香を引き留めた。いきおい仕事を中断してしまったので、再開するよりはもう少しのんびりしていたいと思ってのことだった。
「今日は遠慮しておくよ」
言うが早いか、萃香は立ちあがって参道の方へ向かった。
いつもぶらさげている伊吹瓢がないせいか、酔っていないため足取りがふらついていないからか、その後ろ姿はどこか寂しげで物足りなさそうに感じられた。
「そうそう言い忘れてた。返すまでの間、その瓢箪は好きに使ってくれて構わないぞ」
見送る霊夢にそう言い残し、萃香は神社を後にした。
3
「鬼が酒を手放すなんて、今日はもしかしたら槍が降ってくるかもしれないね」
昼間から酒風呂に浸かることができ、針妙丸はみるからに機嫌が良かった。使われている酒はもちろん伊吹瓢のものである。
「いいんじゃない。地震で神社が潰れるよりマシよ」
霊夢もまた、伊吹瓢の酒を拝借して一杯やっていた。やるべき仕事を一段落させたことにより、日が沈む前から呑むことに対する心理的障壁はとりのぞかれているようだった。
かように尽きることのない酒の源を手元に置いておくことは、酒を断つことを困難たらしめる。あるいはそれは心地よい秋風が気分を盛り立てたからかもしれなかったが、いずれが主たる要因なのかの判断を、呑み始めてしまった者に期待すべくもない。
縁側の戸を開けっぱなしだったのをいいことに、そこに闖入者が現れた。
「どうもおふたりさん。こんな時間から結構なことですねぇ」
地面に降り立った文は、ささやかな宴の様子をしげしげと眺めた。針妙丸は、頭の上にのせていた手ぬぐいで慌てて身体を隠す。
「断りなしに入ってこないでっていつも言ってるでしょ!」
霊夢がその言葉を発したときにはすでに、文は所有者不在の伊吹瓢を目ざとく発見していた。そしてそれとほぼ同時に、記者のたくましい想像力で現状を説明する様々な可能性を夢想した。
「あの方はここにいらっしゃらないようですが、何かあったのですか?」
「別に。あんたには関係ないわ」
「あや、これは怪しいですね。ちょっと面白いものをお見せしようと寄っただけなんですが、望外の収穫の予感がしますよこれは」
まくしたてる文の背後に、さらに椛が姿を見せる。
「あんまりはしゃがないでくださいよ。かっこ悪いです」
霊夢の頭のなかはちょっとしたパニックになっていた。
こいつらが急に来た理由は何か、どうしていつも正面から入ってくることができないのか、恥ずかしがっている針妙丸の写真を挨拶代わりに撮影したのはなぜか、そしてなにより伊吹瓢がここにある理由がばれてしまわないか。いろいろな疑問符が霊夢の脳裏に浮かんでは消える。
針妙丸は不安げに赤ら顔の霊夢を見やる。
「この状況どうやって言い逃れよう? ていうか凄い恥ずかしいんですけど!!」針妙丸の顔にはそう書いてあった。
とはいっても、情況証拠が固められてしまったなか、判断力の鈍った酔っぱらいふたりに秘密が守り通せるわけもなく、ことのいきさつはすべて文と椛の知るところとなった。霊夢が白状し、針妙丸がせっせと服を着る様子を、天狗たちは交互に眺めていた。文は目を輝かせ、椛はめんどくさそうな表情を浮かべる。
「なんですかそれは。とっても面白そうじゃないですか!」
4
「私は反対したんだからね。鬼のプライベートを念写するだなんて。後で何されるか分かったもんじゃないわ」
急に文に引っ張り出されたうえ無茶な注文をふられたはたては、不機嫌な様子を隠そうともしない。
夜の闇が辺りを包み始めた頃、神社の居間はにわかに騒がしさを帯びていた。
「まあまあ。あなたと今の椛がいれば、幻想郷中のプライバシーは我々の手中にあるも同然なんです。もっと楽しみましょう」文は悪びれもせずに言う。
「忘年会用の一発芸に読唇術を勉強した椛さんが、千里眼と読唇術を組み合わせて発言を盗み見て、はたてさんがその様子の証拠写真を念写で撮影する……」計画を要約する針妙丸は、文の発想に対する恐怖の念を隠そうともしない。
「面白かろうと仕込ませた椛の一発芸ですが、これを使ってさらに面白いものが見れるかもしれない。海老で鯛を釣るとはこのことです」
「ほんと、天狗なんて碌なもんじゃないわね」霊夢は肩をすくめる。
椛は霊夢を一瞥し、隙あらばジャーナリズムを暴走させるような奴と一緒にしないでくれと心の中で声を上げる。
文の野次馬根性に根負けするかたちで、即興の計画はとうとう実行に移された。椛が千里眼で居所をつきとめ、さらにはたてが念写を始める。
写真に写っていた萃香は、ひとり山奥の川べりにたたずんでいた。背後に森が見えるが、足元は岩肌がむき出しになり、大小さまざまの砂利がごろついている。別の角度から撮った念写写真からは、すぐ近くに滝があることもみてとれた。
「おっ。なにか喋り始めました。独り言みたいですね」
椛は萃香が吐き出す言葉たちを複製しはじめた。
『朝に死し、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る……って言ったジジイ誰だっけ。まあいいや。
毎日嫌になるくらい晴れてばっかりだから、思い出しちゃったよ。
こっちに来てからは、こういうことはほとんどなかったんだけどな。
約束の日は毎回、こんなふうに星のよく見える夜だったな。
言い訳するわけじゃないが、約束を反故にしてきたわけじゃない。鬼は人間と違って、約束を違えたりはしない。いっとき忘れることはあっても、完全に反故にしてしまうなんてことはないんだ。
ただそのいっときを過ごすに、私はあまりに長生きで、お前はあまりに短命だった』
萃香は誰に語りかけるでもなくのんびりと独り言を口にしていたようだったが、そこでひとつの変化が生じた。
「勇儀さんが来たみたいです」
椛は短く告げる。
「ふたり分の読唇ってできますか?」と文が問う。
「はいはい、やりますよ」と椛が答える。勉強したことを実践で活用することについては、椛もまんざらでないようだった。
『懐かしい雰囲気してるじゃないか。あの頃のお前はそうやって、よくわからん親しみやすさとピリッとした殺伐さをうまく同居させてた。こっちにきてからずいぶん丸くなったが』
『懐かしいって言うほど昔じゃないだろ』
『昔だとも。年をとったんだよ、私もあんたも。そして年をとりすぎた連中は、みんないつのまにか忘れ去られていった』
『…………』
『また性懲りもなくあいつのことを思い出してるんだろ』
『別に』
『嘘は通じないぞ。お前が素面でいるなんて、よほどのことがないとありえない。くだらない誤魔化しはナシだ』
『……ふん。こう毎日青くて高い空を見てるとな、嫌でも思い出すんだ』
『正直でよろしい。別におまえをバカにしたいわけじゃない。私も頭から離れなくなっちまったから、こうして来たんだ。幻想郷のなかじゃ、ここが一番あの場所に似ている』
『あの日おまえは泣いたんだっけな』
『泣いてない』
『眼に塵が入っただけ、か?』
『…………』
『そのあとのこともよく覚えてる。「これがほんとの鬼の目にも涙だ」って私が言ったら、えらい形相で向かってきたっけな』
『…………』
『あんまり黙らないでくれよ、調子狂うな。べつに茶化すつもりなんてない。ただ前にはそういうこともあったなって、ちょっと懐かしくなっただけなんだよ』
『……あの頃は、いろいろなことが今とは違った。今ほど気楽でもなければ、面白くもなかったよ』
『だからこそあいつに入れ込んだんだろう。暗闇が濃ければ濃いほど、光も強烈に映るからな』
『ふふ、恥ずかしいセリフ回し』
『うるさい。実際そうだったろう。あいつに会ったばかりの頃のお前は、口を開けばその話ばっかりだ。暗記しちまうかと思ったくらい聞かされた』
『そうだったっけ』
『そうさ。そんでたしか……出会ったときは死のうとしてたんだったよな、そいつ』
『ああ。あいつに会うのはいつも今日みたいなさっぱりした秋晴れの日の夜。最初は死にたがりの命知らずだった。人生に価値なんてないと固く信じてる顔をしてた。そのくせえらい強くて、私が殺そうとすればするほど生き汚くもがいた』
『そんでお前と引き分けまで持って行った』
『引き分けにしてあげたんだ。私は死にたがりを望みどおり殺してやるほど優しくなかったからね。そしたら5年後の今日に雪辱を果たすとかなんとか言って、ズタボロの身体を引きずって帰っていった。そして律儀に5年後あらわれた。その5年後もあらわれた。年を経るごとに味の変わる上等な酒みたいに、毎度毎度私を愉しませてくれた。酒がなくても愉快な酔いを味わえるということをそこで私は学んだ。次の5年後を約束したとき、そいつが伴侶をみつけて子をこさえてることを知った。それでもあいつは、また来ると約束したんだ……』
『あいつだって約束を守るつもりが無かったわけじゃないだろう。流行り病でいつ死んじまうかなんて、只の人間にはわかりようもない。生きてたら、絶対に来てただろうさ』
『……たらればの話はいいんだ。あいつが来なかったことには変わりない。そのせいで、私は果たせぬ約束をひとつ余計に抱え込まされた』
『死にたがってるときには生き延びて、生きなきゃならないときには死んじまう。ままならないな』
『あいつはまだ私の記憶の中に生きてるけど、もう私たちのほかに覚えてる奴なんていないだろうな。行く川の流れうんぬん言ってたあのジジイは、いいとこ突いてる』
『まあそう難しく考えるなよ。覚えてる奴が減ったんなら、残った奴がより強く記憶すればいい。それだけだ』
『それじゃ久しぶりに付き合ってくれよ。より強い記憶のために』
『うん?』
『弾幕ごっこじゃない、何の変哲もない殺し合いに。昔みたく、地味に静かにやろう』
『いいとも。何もしないで明かすには、秋の夜は長すぎる』
はたてが念写したところによると、ひとしきり戦って一息ついた後、勇儀は一足先にその場を後にしたようだった。場面場面を切り取った念写写真でしか戦いの様子を窺い知ることはできなかったが、そこから判断する限り、それは命の取り合いをする気迫よりも児戯のような無邪気さをより強く感じさせるものだった。
萃香はというと、おあつらえ向きの大木を見繕い、その枝の上に寝そべって物思いに沈んでいる様子だった。ふだん見せないその神妙な面持ちは、霊夢たちに対してさえ、そこはかとない大妖怪の威光を感じさせた。
「マスコミ冥利に尽きますねぇ。こんな収穫があるとは。今日の朝には思いもよらなかったです」
文はそう軽口を飛ばすが、はたてはそれに対して少し非難がましげな視線を送る。
「あんたはそうかもしれないけど。なんか見ちゃいけないものを見ちゃった気分だわ」
うんうんと、霊夢と椛もうなずく。
「あや、これを記事にしてばら撒こうだなんて思っていませんよ。最低限の職業倫理くらい私だって持ってます。とても大切で、それでいていたずらに流布させるべきでないある種の事柄というのは往々にしてあるものです。今回のこれもその例に漏れない。そこで私に提案があります」
部屋の隅に鎮座する伊吹瓢を指さして、文は言った。
「乾杯しましょう、忘れられゆく記憶に。そして何を忘れたのかさえ忘れてしまうくらいに呑むんです」
5
明くる日、萃香は予定どおり博麗神社を訪れた。
すでに日も高く昇っていたが、外に霊夢の姿はない。
居間まであがりこむと、萃香は寝間着姿のまま寝転がっている霊夢をみとめた。目元にはうっすら隈が浮かんでおり、髪も無造作なままだった。
「こりゃどうしたことだ」
「あぁ、いらっしゃい……」
霊夢は水差しから湯呑みに水を注ぐと、砂漠の放浪者のような勢いで飲み干す。かと思うと、再び燃料が切れたように横になった。
「呑みすぎたみたい。うぇっ、気持ち悪……」
仰向けのまま手の甲を目元にかざす霊夢は、ささやかな光さえもしんどいと言わんばかりにぐったりとしている。
「どうやらちゃんと預かってくれてたみたいだから、私としては文句はないが」
萃香の視線の先には、預けたときと変わらぬ姿の伊吹瓢があった。さらにその隣には、針妙丸が椀をすっぽりかぶって気を失っている。
「一杯やらせてもらうよ。二日酔いの奴を見ながら呑む酒もたまにはうまかろうね」
「好きにして頂戴。あぁ、しんど…………」
「珍しいな、おまえがそんなになるなんて」あきれたような安心したような、気の抜けた微笑みを浮かべながら萃香は言った。
「あんまりよく覚えてないの。でもなんだか止まらなくなっちゃって……結局このざまよ」
「ふふん、まだまだ若いな。酒は綺麗に呑まないと。間違っても、大切な記憶を飛ばしたりしないように」
終
しっとりしながらもどこかくすりと出来る、素敵な作品でした。楽しませて頂きました。
最後の一文が特に良いですね。素晴らしいかと思います。好きです。
哀愁漂ういい話でした
鬼が昔話して面白くないわけないんですよ
哀愁に浸る鬼2人の姿にしんみりしました。とても良かったです。