朝は大きな入道雲が日射しを遮ってくれていたのだが、昼が近くなると雲は何処かへと去ってしまった。夏の蒼い空というものはひどく暑苦しく、見上げると目が眩みそうになる。
服が汗ではりついて気持ち悪い。何もしていないにも関わらず汗が滴ることに、少なからず怒りを覚える。いやいや、自然現象に怒ってどうするというのか。それより涼を求めて何かをした方がいい、と思い至る。となると、川にでも行こうか。いや、行こう。草鞋を履いて、近くの川に向かう。
———
覗いてみると、いかにも涼しげな模様が目に入る。川底に転がった岩が、流れる水にその身体を揺らめかせていた。脱いだ草鞋を両手にもって、そっと川に立つ。冷たい感触が、私の足を包んだ。
「ふひぃ~」
思わず情けない声を出してしまった。まぁそれも仕方ないだろう。こんなにも暑い日に、川に足を踏み入れたのだから。童心に帰り、ぱしゃぱしゃと踏み鳴らしてみる。顔や手に水がかかり、その部分から冷たさが拡がっていく。
「涼しい」
川の水はこんなにも優しく私を癒してくれるのか。これから暑くなったらまた来ようか、などと考えてみる。持っていた草履を突き出ていた岩におき、川の水を掬ってみる。手から零れてしまう前に、それを口に運んだ。特に何の味もしなかった。
そのまま暫く川に立っていて、遊び疲れて陸に上がった。川岸には座るのにちょうどいい岩があったので、ソレに座ってみる。
ふぅ、と一息つく。少し元気を発散し過ぎたかもしれない。ゆったりぼんやり、岩に腰掛けたまま景色を眺める。空は蒼く、薄い雲がいくつかの線をひいている。それが川にそっくり映って、なんともなく不思議な光景に見えた。
チチチ、と鳥が鳴いている。ザァザァ、と川は流れている。ポチャン、と水音が立つ。石が落ちたのかもしれない。魚が跳ねたのかもしれない。
陽がゆっくりゆっくり昇っていって、最高点までいってまたゆっくり下り始める。下りるにつれて、空が赤くなっていく。
ジャリ、と音が鳴る。砂利というものは、ジャリ、と音を立てるからそう言うのかもしれない。前にそんな莫迦な事を考えていた覚えがある。
「霊夢」
びっくりして岩から落ちそうになった。誰かが来たことにようやく気づいた。
「映姫」
「何をしていたのです?」
何をしていた、と訊かれても困る。私自身、今まで何をしていたのかよく解らないのだ。起きながら寝ているみたいに、ぼーっとしていただけだ。
「てっきり悟りの境地に達したのかと」
「巫女が悟ってどうすんのよ」
映姫は私の空言には答えず、川を見つめている。説教の内容を考えているようにも見えた。説教されるような事などしていないが。
「この川は今でこそこうですが、昔は違いました」
「ふぅん?」
ようやく口を開いたかと思うと、よく解らない事を口走り始めた。どういう話なのかを確かめるためにも、静かに聞いてみる。
「昔は水量が多く、流れも急で、死人がでる事もしばしば。上流を河童が整備し、水の流れは治まりましたが」
「それで?」
「それだけです。懐かしい、と思ったから話してみただけです」
それだけ。あの閻魔が無駄話を嗜むとは思っていなかったが、もしかしたらそういう一面もあったのかもしれない。そういえば、小町から映姫は喋り好きだと聞いた気もする。よくは覚えていないが。
懐かしい、という事は、前にここで何かあったのだろうか。死人がでた、とも言っていたし。
「あんた、前にここで何かあったの?」
映姫は黙ったままだ。もしかしたら話したくない過去だったりするのだろうか。しばらく沈黙が続いた後、口を開いた。
「もうどれだけ前かは覚えていませんが、あまりにも不作だった年がありました」
稗田の記録にも残っているから確かめてみなさい、と。言われたからといって一々そんな事をする者がいるのだろうか。
「とある夫婦は困窮し、一つの決断を余儀なくされました」
口減らしです。
その言葉は、映姫の口から出た瞬間に膨大な質量を持ち、私に重くのしかかった。口減らし。そんなおぞましい事が、かつて行われていた。
「夫婦には二人の子供がいました。妻の方はその考えを嫌がったようですが、夫には逆らえなかったのでしょう」
「……」
「そして、二人の幼子はこの川に投げ込まれました」
私は反射的に川を見た。澄んでいる。かつてあった穢れすら、呑みこんで流してしまったかのようだ。流れというものは、どれだけ無情で、どれだけ残酷なのだろう。
「女性は流される子供を見て、ごめんなさい、ごめんなさいと哭き叫びました。血が止まらなくなる程に頭を岸辺に叩きつけました」
そして。
「私はその時そこに立っていました」
悔悟の棒が、ぴたりと何処だかの地面を指す。よく見ると、草に紛れて、風化して崩れた石台があるようだ。
ここに映姫は立っていた。そして、それを見届けた。いや違う。見届けるしかなかったのだ。目を逸らすことすら、地蔵には許されなかったのだ。
「それから程なくして、私は今の立場に立ちました」
どうやらそれで映姫の話は終わったらしい。
私は何も言えなかった。口を開いても、何も言葉を吐き出せそうになかった。それでも多分、私は訊くべきなのだと思う。
貴女はその母親を裁いたのか。
でも。私はそれを訊いて、どうするのか。私がそれを知って、何が出来るというのか。閻魔という役職の、その想像もつかない苦しみなど、私には到底背負いきれないのだから。
そんな事を考えていると、映姫の方から声がかかった。
「もう帰りませんか、霊夢。日も暮れてきました」
言われて空を見上げる。確かに、ずいぶん赤々と染まっている。あとしばらくしたら、夜になるのだろう。私は岩から立ち上がった。
「私、二人分の晩ご飯つくる気力ないわ。蕎麦がきでいい?」
映姫は少しびっくりしたようだ。
「別に、私の分は用意しなくても」
「いいのよ」
もし、たったこれだけの行いで、少しでも貴女の苦しみが和らぐのなら。それなら、いくらでも話を聞いてやる。いくらでもそば粉を練ってやる。
「まぁ、それなら御馳走になりますが」
「じゃあ、帰るわよ」
日が暮れないうちに。
「それと、霊夢」
「何よ?」
「気をつけなさい。貴女、少しだけ憑かれていましたよ」
思わず、私は今まで座っていた岩を見た。特段何も見える事はない。
そんな事より、家に向けて飛び立つ。そば粉の期限が心配なのだ。
—おしかったね。
—またもどってくるよ。きっとね、きっと。
後ろから、そんな二つの子供の声が聴こえた気がした。
服が汗ではりついて気持ち悪い。何もしていないにも関わらず汗が滴ることに、少なからず怒りを覚える。いやいや、自然現象に怒ってどうするというのか。それより涼を求めて何かをした方がいい、と思い至る。となると、川にでも行こうか。いや、行こう。草鞋を履いて、近くの川に向かう。
———
覗いてみると、いかにも涼しげな模様が目に入る。川底に転がった岩が、流れる水にその身体を揺らめかせていた。脱いだ草鞋を両手にもって、そっと川に立つ。冷たい感触が、私の足を包んだ。
「ふひぃ~」
思わず情けない声を出してしまった。まぁそれも仕方ないだろう。こんなにも暑い日に、川に足を踏み入れたのだから。童心に帰り、ぱしゃぱしゃと踏み鳴らしてみる。顔や手に水がかかり、その部分から冷たさが拡がっていく。
「涼しい」
川の水はこんなにも優しく私を癒してくれるのか。これから暑くなったらまた来ようか、などと考えてみる。持っていた草履を突き出ていた岩におき、川の水を掬ってみる。手から零れてしまう前に、それを口に運んだ。特に何の味もしなかった。
そのまま暫く川に立っていて、遊び疲れて陸に上がった。川岸には座るのにちょうどいい岩があったので、ソレに座ってみる。
ふぅ、と一息つく。少し元気を発散し過ぎたかもしれない。ゆったりぼんやり、岩に腰掛けたまま景色を眺める。空は蒼く、薄い雲がいくつかの線をひいている。それが川にそっくり映って、なんともなく不思議な光景に見えた。
チチチ、と鳥が鳴いている。ザァザァ、と川は流れている。ポチャン、と水音が立つ。石が落ちたのかもしれない。魚が跳ねたのかもしれない。
陽がゆっくりゆっくり昇っていって、最高点までいってまたゆっくり下り始める。下りるにつれて、空が赤くなっていく。
ジャリ、と音が鳴る。砂利というものは、ジャリ、と音を立てるからそう言うのかもしれない。前にそんな莫迦な事を考えていた覚えがある。
「霊夢」
びっくりして岩から落ちそうになった。誰かが来たことにようやく気づいた。
「映姫」
「何をしていたのです?」
何をしていた、と訊かれても困る。私自身、今まで何をしていたのかよく解らないのだ。起きながら寝ているみたいに、ぼーっとしていただけだ。
「てっきり悟りの境地に達したのかと」
「巫女が悟ってどうすんのよ」
映姫は私の空言には答えず、川を見つめている。説教の内容を考えているようにも見えた。説教されるような事などしていないが。
「この川は今でこそこうですが、昔は違いました」
「ふぅん?」
ようやく口を開いたかと思うと、よく解らない事を口走り始めた。どういう話なのかを確かめるためにも、静かに聞いてみる。
「昔は水量が多く、流れも急で、死人がでる事もしばしば。上流を河童が整備し、水の流れは治まりましたが」
「それで?」
「それだけです。懐かしい、と思ったから話してみただけです」
それだけ。あの閻魔が無駄話を嗜むとは思っていなかったが、もしかしたらそういう一面もあったのかもしれない。そういえば、小町から映姫は喋り好きだと聞いた気もする。よくは覚えていないが。
懐かしい、という事は、前にここで何かあったのだろうか。死人がでた、とも言っていたし。
「あんた、前にここで何かあったの?」
映姫は黙ったままだ。もしかしたら話したくない過去だったりするのだろうか。しばらく沈黙が続いた後、口を開いた。
「もうどれだけ前かは覚えていませんが、あまりにも不作だった年がありました」
稗田の記録にも残っているから確かめてみなさい、と。言われたからといって一々そんな事をする者がいるのだろうか。
「とある夫婦は困窮し、一つの決断を余儀なくされました」
口減らしです。
その言葉は、映姫の口から出た瞬間に膨大な質量を持ち、私に重くのしかかった。口減らし。そんなおぞましい事が、かつて行われていた。
「夫婦には二人の子供がいました。妻の方はその考えを嫌がったようですが、夫には逆らえなかったのでしょう」
「……」
「そして、二人の幼子はこの川に投げ込まれました」
私は反射的に川を見た。澄んでいる。かつてあった穢れすら、呑みこんで流してしまったかのようだ。流れというものは、どれだけ無情で、どれだけ残酷なのだろう。
「女性は流される子供を見て、ごめんなさい、ごめんなさいと哭き叫びました。血が止まらなくなる程に頭を岸辺に叩きつけました」
そして。
「私はその時そこに立っていました」
悔悟の棒が、ぴたりと何処だかの地面を指す。よく見ると、草に紛れて、風化して崩れた石台があるようだ。
ここに映姫は立っていた。そして、それを見届けた。いや違う。見届けるしかなかったのだ。目を逸らすことすら、地蔵には許されなかったのだ。
「それから程なくして、私は今の立場に立ちました」
どうやらそれで映姫の話は終わったらしい。
私は何も言えなかった。口を開いても、何も言葉を吐き出せそうになかった。それでも多分、私は訊くべきなのだと思う。
貴女はその母親を裁いたのか。
でも。私はそれを訊いて、どうするのか。私がそれを知って、何が出来るというのか。閻魔という役職の、その想像もつかない苦しみなど、私には到底背負いきれないのだから。
そんな事を考えていると、映姫の方から声がかかった。
「もう帰りませんか、霊夢。日も暮れてきました」
言われて空を見上げる。確かに、ずいぶん赤々と染まっている。あとしばらくしたら、夜になるのだろう。私は岩から立ち上がった。
「私、二人分の晩ご飯つくる気力ないわ。蕎麦がきでいい?」
映姫は少しびっくりしたようだ。
「別に、私の分は用意しなくても」
「いいのよ」
もし、たったこれだけの行いで、少しでも貴女の苦しみが和らぐのなら。それなら、いくらでも話を聞いてやる。いくらでもそば粉を練ってやる。
「まぁ、それなら御馳走になりますが」
「じゃあ、帰るわよ」
日が暮れないうちに。
「それと、霊夢」
「何よ?」
「気をつけなさい。貴女、少しだけ憑かれていましたよ」
思わず、私は今まで座っていた岩を見た。特段何も見える事はない。
そんな事より、家に向けて飛び立つ。そば粉の期限が心配なのだ。
—おしかったね。
—またもどってくるよ。きっとね、きっと。
後ろから、そんな二つの子供の声が聴こえた気がした。
様々な想いがとても感慨深く、興味深いお話でした。面白かったです。
悲しげで、それでいて少し恐ろしげで良かったです
さぞかし無念だったのか、映姫にとって忘れられないことだったのだと思いました