鈴瑚が団子の食べ過ぎで喉を詰まらせて死んだという連絡が来た。
覚悟は済んでいたけれど。どうしようもない悲しみが、戸惑いが、怒りが。私を襲った。
それでもやっぱり、こんな笑い話を送ってくれたのだから。最期は笑って送り出してやりたいと思った。
鈴瑚も望んでいるだろうし、何よりも。私がそうありたいと思ったから。
☆
関節がボロボロになり、立てなくなった兎がいた。
皮膚を失い、体液を垂れ流す兎がいた。
頰と顎の骨が砕け、顔面が崩れた兎がいた。
そして又、私は。月より遥か遠く、幻想郷という極彩色の穢土で、床に臥す兎。
私が生まれて初めて玉兎通信に接続された時。最初にこなしたのは、結界修復の訓練であった。結界を直すことに対して何の疑問も持たなかったし、何のためにそんなことをするかも分からなかった。ただ、月の表と裏を隔てる大切な仕事だ、ということだけ伝えられた。
出身クレーターである東の海の北端に位置する駐屯地には、何百何千もの若い玉兎が集まっていた。そこに居た者は皆、軍人になるということがどういうことか知らなかったし、たとえ知っていたとしても玉兎にはそれ以外の生き方が無かった。
結界を貼り直す作業は、まだ子供と大差ない我々にとっても苦となるものではなかった。『薄い膜』を全身に被り、結界の外側に出て、用意された修復材で希薄部を覆う。自分が街を守る結界の一端を担っていると感じられることが誇らしかったし、何より結界の外側には今迄許されなかった自由があった。結界を通さずに見る星々は透きとおっていて、内側から見た何倍もの輝きを放ち、時たま時限を超過してまで結界の外側に留まる規則違反者が出たものだった。
そうして訓練生として生活して暫く経った頃、初めて脱走者以外の死者が出た。当時の私には、彼女に何が起きているのかさっぱり分からなかった。
彼女は、天体観測が趣味で、しばしば望遠鏡を結界外部に持ち込んでは訓練をサボりつつ星を眺めていた。時間超過の常習者の癖に、教官に目を付けられていなかったのが不思議で堪らなかった。星を丸く繫いでは、団子座が出来たよ、好きでしょこの星座。とか言い出す、阿呆な兎だった。
始まりは、頭痛だった。医務方で診てもらっても、今度は反対側の頭が痛い、痛いと。四六時中、彼女は苦しんでいた。そのうち頭部に痛まない部分がなくなり、彼女は壁や床に頭を叩き付けるようになった。額から血を撒き散らしながら暴れ回るので、ベッドに縛り付けて拘束しても、赤黒く固まった血の枕に、何度も何度も頭を打ち込んでいたのを覚えている。
医務方は群発性の頭痛だと言った。睡眠薬で眠っている時だけしか、彼女の安らかな顔を思い出すことが出来なかった。
数週間経っても、彼女を蝕む正体不明の病気は一向に快方に向かう気配を見せなかった。耳から後頭部にかけて大きな腫瘍ができ、首を振るだけでも頭蓋骨にヒビが入るほど、彼女の骨は脆くなっていた。歯がぼろぼろと抜け始めた数日後には、もう下顎を取り除かなくてはいけなかった。そして、そこからはもう長くなかった。首の骨が崩れて気管が潰れたのか、折れた肋骨が肺に刺さったのか。知る術は無かったが、彼女は咳と共に大量の血を吐き出して亡くなった。玉兎の寿命よりも随分と早い死だった。
彼女と仲が良かったものは大変悲しんだ。あまり親しくしていなかった者も、悲劇として悲しんだ。
私達は、まだ、事態の深刻さに気付くことが出来ていなかった。
私達が半人前の軍人に成長した頃、教官が、今日から結界修復の訓練は『薄い膜』無しでやってもらう、と言い出した。これも訓練の一環なのだ、と。
玉兎の身体は急な減圧にも極度の寒暖差にもある程度耐性があり、暫くの間生身で真空に晒されても死に至るということはないと学習していた。実際、初めて真空の海に沈んでみて、身体はその説明通り機能していたし、だから気楽という訳ではないが、私達はまるで水の中に飛び込むかのように、結界外部に身体を沈めた。何分息を止めていられるか、と競う余裕すらあった。
眼が痛む。皮膚の奥がずきずきする。生身での結界外活動を終えて、最初の感想。体調を悪くしたのかと思い、その日は早めに寝た。翌日の朝も、痛みはさらに沈み込み、頭痛として鈍く残っていた。その痛みは、異常に満ち溢れた、長きにわたる訓練の最初の警鐘だった。
痛みを埋めるように、朝食の餅を隣の人が残した分まで食べながら、食堂でアンテナを立てた。どうも、妙だぞ、と。何か、可笑しな事が起こっているぞ、と。駐屯地の玉兎通信は加速し始めた。最初は、食事に毒でも混ざっているのか、はたまた施設にガスでも撒かれたか。等々、憶測が憶測を呼んでいたが、そんな想像力の範囲内である噂話こそが真実だったらどれほど歓喜したことであろうか。
2度目の真空に触れた時流した涙は、痛覚に因るものではなく、先が見えない絶望に因るものだった。あれだけ澄み切って感じた真空の闇は、何者が潜んでいるかさえ判らない恐怖の象徴に変わった。結界を介さずに見た美麗な星空は、束矢のような光で私の眼を焼き尽くす、灼熱の炎天に変わった。
身体中が針で貫かれるのを感じながら、私は必死で宙を飛び回った。眼球が無数の蛆虫に蝕まれるのを感じながら、死ぬ気で要補強箇所を探し当てた。とにかく早く、この死の空間から逃れたい。結界の中に帰りたい。死にたくない。心の中で、ただそれだけを思っていた。玉兎通信に、痛い、苦しい、怖いという悍しい数の悲歎が吹き荒れる一方で、月面の暗闇はただただ静謐を讃えていた。
教官は、玉兎達が訴える異常を全て否定した。訓練形態にも、『何ら問題は無い』と通達された。勿論、身体に残るその疼痛は紙っぺら一枚や問題ないという宣言で癒される事はなく。残された唯一最後の逃げ場であった医務方からも『訓練と諸君等に蔓延している病気は関連性が無い』との告知が出され、いよいよ兎達は決断を迫られた。
この異常が何に因って起きているか、さっぱり見当が付かなかった兎達は、真空の闇に棲む怪物に精神を喰われ、外の病院、と呼ばれる所へ搬送されていった。
この異常から逃げ出した兎達はいつも通り捜査網に捕らえられ、軍規違反として射殺された。
訓練を拒否した兎達は、射殺された。
結界外に出る際は、せめて『薄い膜』を被らせて下さい、と嘆願した兎達は、射殺された。
要領が悪かった兎達は、結界外で時間を浪費し過ぎて斃れた。当然、その死体は真空中に放置されたまま回収されなかったし、私もしようとは思わなかった。
そうして最後に残った兎達は。
最低限の身体を、頭脳を、精神を持ち、逃げず、サボらず、命令に逆らわない従順な玉兎。
玉兎通信に秩序が回復したことは、素直に喜ばしいこと、としたかった。それ以外に心を上向かせることなど存在しなかった。
月面は再び静かな海を見せ、波打ち際では物言わぬ道具がその身を着実に擦り減らしていった。
脱走者、結界外での死者が出なくなった頃。私達は、正式な軍属の軍人へ昇格できる試験を受けられる様になった、と通達された。その試験に合格すれば、晴れて地獄の訓練を卒業出来る。
それを聞いて真っ先に試験を受けに行った連中は、結界修復の試験で死んだ。試験内容は実技から筆記まで多岐に渡り、手抜きして速度を手に入れて生き残ってきた者を通過させてはくれないようだった。
精神に限界を迎えた者から絶え間ない苦痛に耐えられなくなり、試験を受けに行き、そして命を落とす。また、1人、又、一人。声の数が一つずつ減っていき、玉兎通信の同接人数が両手の指で数えられるようになった。たくさんいる兎のうちの一人ではなく、一羽、二羽、と、数えたその先にいる兎になった。
その時初めて、私達は自発的に動き出した。勇気に駆られた訳でも、探究心に押された訳ではなく。ただ、恐怖に圧されて。このまま、訳も分からず死の鎌に刈られたくなくて。闇雲に、月面を飛び跳ねた。
異常が起き始めたのは、私達の世界がおかしくなったのは。この駐屯地へとやって来た時か、はたまた生身で真空に足を踏み入れた時か。
ある兎は、『彼女が病気にかかった時から』だと言った。
最初の犠牲者と親しい仲だったというその兎は、日誌に彼女との日常や、病状の詳細な経緯を書き残していた。彼女の病気は、頭痛等の軽い痛みから始まり、骨が脆くなり、全身の皮膚が侵され、そして死に至る。医務方が何の処置をする事もなく、かと言って発狂者と同じように別の場所に搬送するでもなく、恐らく特別な理由があって此処で死んだ。それはきっと、私達のそう遠くない未来の姿だったから。
彼女は少なくとも『薄い膜』を着用出来ていた。しかし、天体観測を趣味としていて、他の兎よりも明らかに長時間の間、結界外に滞在していた。
見えないけれど、でも確かに。私達は彼女の屍の上に立っていた。
彼女と、生き残っている私達の差異は何か。『薄い膜』はどんな効果があったのか。この様な段階を経て、この訓練では何を鍛えているのか。何故、玉兎の試験に組み込まれているのか。
私達は、文殊にもならない頭を幾つも寄せ合って。生きる為に必死になって知恵を絞り出して。ある仮説を立てた。その仮説が証明されれば、あの訓練はただの拷問処刑ではなく。闇の中を踠き苦しみ彷徨うのではなく。明確な目的地に向かう道導になる筈だった。
しかし、それに気づく迄にあまりにも時間を使い過ぎた。
私達は、遅過ぎたのだ。
宿舎には、髪の毛が落ちていた。
剥がれた爪が落ちていた。
歯が落ちていた。
耳が落ちていた。
鼻が落ちていた。
私達の身体は、取り返しの付かない所まで擦り減ってしまっていた。
私に安心を感じさせる、玉兎通信の暖かな波長。信じて受け入れる。
それ以外の、私に苦痛を感じさせる、冷たい波長。意識して逸らす。
その中に時折混じってくる、教官からの抜き打ち暗号。忘れずに記憶する。
これは、この通信は、ただの糸電話ごっこではなく、私が生き残る為の武器だった。これが、玉兎が軍人として生き残る為の力だった。
波長を察知し、識別し、操る。通信をはじめとして、玉兎という種族固有の、波長を操る能力の基礎を限界まで高めていく。
完璧とまでは行かないが、一度も痛みを感じずに訓練を終える事も多くなり、私は着実に試験へ近付いていた。
時折、ごめん、とか。私も手伝えれば、とか。とても弱々しくて、以前の私なら気付けないような通信が感じられるようになって、嬉しくもあり、辛くもあった。
玉兎とは、月人の手駒であり、奴隷のようなもの、幾ら死んでも代わりがいるものだと言葉では知っていた。しかし、実際にその身を削って、骨身に染み込ませて。ようやくその意味を知った。
私はここで、消波ブロックになったのだ。月の表と裏を結ぶ波止場で。波を止め、打ち消しては、また果てしなく広い海に返す。
そうして私がひいこら波に身を削られる中、月人様が欲しがっているのは波ではなく海を操る力なのだからますます救いようがない。
削れて、丸く小さくなって、波消しさえ出来なくなれば、また新しいブロックと入れ替えられる。その程度の存在なのだ。
いや、それどころか、波消しさえ必要ないのかもしれない。存在することさえ、ただの月人の人形遊びなのかもしれない。
それが、玉兎。
……いや。
それが、私だ。
「もうそろそろ、わたしの順番が回ってきたかな」
「……かもね」
改めて玉兎通信を使うようになってから、私は声帯を振動させて行う会話の機会を大切にするようになった。
余計な一手間が掛かるはずのその会話は、何故だかひどく懐かしく思えた。
「目も霞んで来たんだけどさ、上の階の2人はどうなったかな。完全に潰れる前に顔拝んでおきたいんだけど」
「もうとっくに死んだよ。1週間くらい前かな」
「あ、そうだっけ。ごめん、もしかして、何度も聞いてるかな?」
「ううん、いいんだ、べつに……何度でも聞いてちょうだいよ」
身体のあちこちに肉腫が出来ていて、もはや何処が痛む等の感覚も無いのだろう。ただただ苦痛という意識に記憶を刈り取られ、徐々にその兎は兎であった形を喪っていく。
「隊長は?」
「昨日息を引き取ったよ。どんどん脚が短くなって、最期は寝ているだけで骨が折れるくらいに脆くなってた」
「そうかぁ……じゃ、わたしが最後か。…………嫌なんだよなあ……湿っぽくなるから」
もう、何人の最期を看取って来たのだろうか。
「でも、まだ、死なないでよ。合格、1人くらい祝ってくれる人が居ないと寂しいでしょ」
「んー? ……うん…………そうだね……うん、良かったなぁ、君が残ってくれてて」
私。
残ったのは、私だけだ。
残されるのは、私だけだ。
「ねぇ」
「ん……」
「何で私が残ったの」
……駄目だ。
「何で私を残したの」
こんなんじゃ。こんな私を出したらいけない。
「最初にみんなを纏めてくれた隊長が残ってくれたら。私は何にもしていない。練習方法も提案していないし、波長の操り方に気付いたのは私じゃない」
「うん……」
駄目なのに。私の喉の震えは止まらない。
「みんな、みんな、凄かったのに。何で。こんな駄目な私が。卑怯な私が。狡い私が」
肩の震えも、止まらない。
波止場の兎が、自分勝手に波を立てたら仕事にならない。けれど、止めなければ、止めなければ、と思うほどに、身体の奥底からどうしようも無い衝動が沸いてくる。
「なんで、私が、残っちゃったの……?」
「……」
全身が震えて、つられて、ひっく、ひっくと。声帯も音を立てた。
私が最期に伝えたいはずの振動は、こんな醜いものではなかった。
「それはねぇ……なんでだろねぇ…………」
お陰で、最後の一人の最期が、こんなにも醜く飾りつけられてしまったではないか。
「……それはね…………」
ごめん、と、謝ることさえ、自己満足にしかならない。
「……」
上下階、何処にいっても空室しかないこの宿舎で、その沈黙はより大きく響いた。
これ以上、私が場を穢さないように、必死で嗚咽を抑えた。私に出来ることは、もうそれしかなかった。
「……強かったからだよ」
「強いって言っても、戦闘が。とか……じゃなくてね」
「覚えてるかな……3人死んで、もう何もしたくなくなった時にさぁ…………」
「君がいきなり……全員分の餅を搗き出して、団子を蒸して。喉に詰まらせるからさぁ」
「食材、全部お団子に注ぎ込のは……あんまり食事当番任せたくなかったけど…………それでも団子作りは……君が一番上手かったよ」
「団子を作って、食べてた君は……生の魅力に溢れていた。食欲ない日でも…………君の団子なら食べたいって思っちゃったもの」
「食事は……根源的に生物を死から遠ざける。血肉と心を養って」
「だから……三食食べていた君は…………強かった。そして。周りのわたしたちも……」
「それが……君の力…………君の強さ……」
「鈴瑚の……能力だよ」
私は、生きた。
生き残った。
「合格おめでとう。これでお前は都行きだ、鈴瑚!」
教官は笑顔を抑えきれない、という風に軽やかな口調で告げてくれた。
「いや、ウチの駐屯地から合格者が出るとはねえ。全く光栄なことだ。そうだ、妨害のジャマーは先程切っておいたから、そろそろ広めに通信を繋ぐといい」
玉兎通信。
……そう、これが、今までの閉鎖された通信ではなく。
月全域の玉兎が繋げる、本物の玉兎通信だ。
「今の、一人前の玉兎のお前なら……狂わずに、声を聴けるだろう?」
月の都。豊かの海。賢者の海。表裏問わず、各地から情報の奔流が流れ込んでくる。なるほど確かに、これを全くの子供に繋がせたら、数分で飛んでしまうだろう。
「今年の合格者はあと2人いるがこいつらは恐ろしいぞ〜。なにせ、月全域の波長を丸ごと操ったとか、極から極に異次元を通して遅延なしで通話したとか。トンデモな噂が流れてくるからな」
私は心の赴くままに、雑音を消し、心地よい声に手を伸ばそうとした。
「負けるなよ。なんたってお前は、ここの訓練生の代表なんだからなぁ?」
勿論。この駐屯地で聞いた玉兎達の声は、その中に2度と聞こえることはなかった。
それから色々。
本当に、いろいろなことがあって。
私の時間は過ぎていった。
あの駐屯地で過ごしたのは、今の私から見れば一瞬だったけれど。
症状が出てくれたお陰で、あの時間が夢ではなかったことを教えてくれた。
死に場所を選んでいたら、危険な地球行きの任務が回って来て。
丁度興味があったし、地球に降りてみて。
任務に失敗して。
鮮やかな穢れの中で……のんびり腐って朽ちていこうと思ってた。
私自身、最善は尽くしたし。
きっとみんなは、そんな終わりも許してくれると思う。
そう、思ってはいたんだけれど。
私も一緒に地球に残る、とか言い出した馬鹿のせいで、話がややこしいことになった。
「放射線障害ね。それも重度の」
ふうん、とサンプルの小瓶を回してサラサラ音を立てながら。XX様は告げた。
「ウドンゲも貴方の相方のあの子も全く問題無いのに。貴方もまぁ随分とギリギリで生き残ったのね」
「2人とも、優秀な玉兎でしたからね。あっちが頭抜けてるだけで、私は平均の方ですよ」
「……そう、そうね。どちらかというと驚くべきなのはここまで生き延びた貴方の努力のほうか」
最近、少し転んだり、ぶつけたりして骨折することが多くなったので、流石に清蘭に疑われるようになった。
「治そうにも治す部分が無いんじゃ、もう時間稼ぎ以外に出来ることはない。勿論、不死になるとか、身体を丸ごと入れ替えるとか。そういう処置は有るにはあるけど」
「このまま自然に死なせてください」
「ま、大方そう言うと思ったわ」
……今日の清蘭は、とうとう此処まで私を連れて来ちゃって。診療所の外で、兎達と遊びながら私を待っている。
「で、どうするの。別に覚悟してなかった訳じゃないんでしょ。いよいよあの子に告白するの?」
「それは……」
「他人の眼に見える症状が出るのは時間の問題。早めに伝えたほうが傷は浅いと思うけれど」
「……」
「とりあえず、ギプスを取る日は決めとくので、また来なさい。きっとその前に来ることになるでしょうけど」
「はい、じゃ、これが痛む時に飲む薬ね。なんか大袈裟過ぎる量な気もするけど」
お大事にー、と日常の業務通りに、鈴仙は私に薬を押し付けて来た。
「ありがとう。鈴仙。いつも清蘭が世話になってるらしいね」
「ええ、文字通り結構なお世話してるわよ。最近は介護の仕方を勉強したいらしくって余計な手間掛かってるけど。鈴瑚も一緒に来れば楽なのに」
「私は私で色々と工作に忙しくてね」
口の軽そうな兎が跳ね回っている場所には、あまり来たくなかった。
「なぁ、これからも清蘭が迷惑をかけて大変だと思うけど。宜しく頼むよ」
「……まあ。大変って訳でもないけどね、清蘭の子守くらい。なんたってほら、永遠亭は私の力でもってるようなもんだし…………」
鼻を高くした様子はまるで無能に見えさえするが、鈴仙は実際にそう言うだけの潜在能力は持っている。玉兎史上随一の天才兎なんだから、それ位やってもらわないと困るが。
多分。きっと。清蘭を守りきってくれるだろう。私よりもずっと上手に。
「あ、おかえり。診察大丈夫だった? 痛くなかった?」
「平気、へーきへーき。ギプスもすぐ取れるってさ」
「私がすっ転ぶなんて何時ものことなんだからさー。カッコつけて抱き止めなんかせずにそのまんま転ばせとけば良かったのに」
「あのまま清蘭が転んだら商品の団子の山に突っ込んでたでしょ。私はそれを止めたかっただけだよ」
「……鈴瑚って私と団子、どちらが大事なの?」
「それは勿論、団子」
「ひっどいなぁ!」
躓いた清蘭は、普通なら私の腕に抱えられる筈だったんだけれど。思った以上に私の足腰は弱っていて、踏ん張りきれなかった。
「はい。それじゃ、一緒に歩こうか」
「そんなことしなくても、1人で歩ける……おっと」
「あぶなっ。……ほら、本当に駄目だな鈴瑚は。私がついてなきゃ」
「……ありがとね」
「右脚から進むよー、ほら、いっち、にぃ……」
最近は仕事にも支障が出始めていて、杵を振ることさえ出来ていない。団子屋の仕込みは清蘭に任せっきりだ。
「これじゃあしばらくお店は休業だね。まぁ、久々の休みだと思って一緒に看病してあげるよ」
「いや、大丈夫。店番くらい立てるよ」
「嘘ばっかり! ……手の骨折ならまだしも、それじゃ1人で立つのも辛いでしょ」
「はは、バレバレか。でも、1人で家で留守番するくらい許してくれよ」
「でも……」
「大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫。私は、1人で大丈夫だ。だから……
どうかこれ以上、私を惨めな存在にしないで欲しい。
「私だけで切り盛り出来るかなぁ」
「清蘭なら平気さ」
「そっかぁ……鈴瑚様の太鼓判を押されちゃあ、質の落ちた団子は出せないね」
商売的に、人を誑かすことをしていない清蘭は、鈴瑚屋に売り上げさえ負けているけれど。私の技術を吸収して、生地もタレも一流になった清蘭屋の団子は絶品だ。
滅多に出回らない、鈴瑚屋と清蘭屋の合作団子。二人で一つの合わせ技。
けれどそれも、今となっては、清蘭一人で再現出来てしまう。
どうかな、美味しくなったかな、って不安そうな顔で聞いてくる清蘭と、私が費やした時間の差は。私だけが、知っている。
「すっかり暗くなっちゃったねぇ。もう月が明るいや」
私を竹林に送迎したり、店の後片付けで、今日はもうすっかり遅くなってしまった。
「ごめんね。私のせいだ」
脚を引きずり歩くその姿。なんと滑稽な兎だろうか。
「そうじゃない! ……そうじゃないよ、鈴瑚。それは違う」
何が、違うんだろう。
「謝らない、謝らない……それより、ね。もっと欲しい言葉があるんだけどな、私」
どの辺りが、私のせいじゃないんだろう。
「……ぁ」
「……」
どの口が……
「……ありがとう、清蘭。また、元気になったら、一緒に…………やろうね」
「うん! ……楽しみに、待ってるね」
どの口を開いて、こんな馬鹿なことを言っているのだろう。
口はこうやって開けるくせに、辿れる足取りはとても小さくて。兎に付き添われながら、みっともない亀の足跡を付けていく。
「ほら、鈴瑚。……見てよ」
清蘭が指差したのは上空。正直、首を上向ける事さえ、今の私には辛かった。背骨が軋む中、空に浮かぶのは大きな黄色い団子。その海の中で、兎が跳ねて、楽しそうに餅を搗いていた。
「月があんなに大きく……」
どうして清蘭は、あの月から降りたのだろう。どうして、月から一番近いあの竹林に住んでいないのだろう。どうして、私と一緒に歩いているのだろう。
「2人でのんびり見るのも、随分久しぶりだよね」
清蘭は、出会った時からいつもそうだ。鈴仙のようにずば抜けた能力を持っていた訳ではなかったけれど。何故か近くに居たからこそ、よく見える。無理やり付いてきて、一緒に歩いたからこそ、よく分かる。
「ねぇ……」
卑下する訳じゃない。背負ってきた皆を投げ出す訳じゃない。
「鈴瑚」
そんなことをしても、どうにもならないくらい、清蘭は真っ直ぐな奴だから。
波で削られ、擦り減りきってしまった、小さな小さな石は、もう、どうすることもなく、波を通すことしか出来ない。
「月が……綺麗だね!」
時間も、力も、何もかも。
「ああ……ほんと…………本当に、綺麗だね」
この小さな石には残っていない。
どうにもならない現実を、私に突きつける。
だから私は、清蘭が嫌いだ。
心臓がどくどくと、送ったって意味のない血を無駄に押し出すものだから。もう、作られることがない血を大盤振る舞いするものだから。私の視界は真っ赤に染まった。
それに釣られて、私の目の前にある顔も真っ赤に染まっている。
「んっ、りん、ご……?」
清蘭の白い肌に、ぽつり、ぽつりと赤色の点が落ちた。雨でも降ってきたのだろうか。火照った身体を冷やすには、丁度良いかも知れない。
「どうしたの、大丈夫! ?」
清蘭の顔が真っ青になった。
「あ……なーんだ。へへ…………もぉ、いやらしいんだから」
清蘭の顔が真っ赤になった。
「……」
清蘭の顔が真っ青になった。
「ね、鈴瑚……どうしたの。なんで、鼻血、止まらないの…………?」
赤くなったり青くなったり、忙しい奴だ。
それからの意識はあまりハッキリはしなかったけれど、清蘭とXX様が何処か遠くで言い争っているような声が聞こえたのは覚えていた。
「思ったより早かったわね。安静にしててくれれば私の仕事ももう少し減っていたと思うのだけれど?」
「すみません、XX様……」
以前にここに横たわった時は、XX様の香の匂いや、昔嫌と言うほど嗅いだ薬品の匂いに包まれていたと記憶している。どうやら、私の鼻はもう完全に使い物にならなくなったようだった。
「もうあの子とは永遠亭では会わせないわ。どうなるか分からないから。痴話喧嘩は敷地の外でやって頂戴」
何となく、今生の別れかな、と思った。何事も、物語のように上手くはいかないものだ。
「文句があるなら、手紙でも遺書でも書い……と、手紙と言えば貴方に渡す物が」
XX様はそう言って、棚に収められていたファイルから、1枚の書類を取り出した。
「はい、守矢から貴方宛に」
「守矢、から……?」
「昨日の今日で、何処で知ったのか知らないけど。検討してみて欲しいらしいわ」
その書類には、地底の湯治ツアーの案内が記載されていた。
「これは……一見、湯治という名目ですが…………」
「そうね、一言で言うなら人身売買の証明書。炉の技術発展のために、放射線障害で亡くなった遺体の検体が欲しいらしいわ。今は放射線さえ問題ない旧地獄のメンバーで管理してるけど、いつの日かきっとデータが必要になるから、って」
「……なるほど」
「そんなに悪い話じゃないと思う。仮に……貴方が汚染源になっても…………適切に処理してくれるらしいし。勿論、貴方程度の被曝だとそんなこと起きないけどね?」
野山で崩れ落ちた私に、清蘭が寄り添っている絵が思い浮かんだ。
「アフターケアに、清蘭への死亡告知と、ダミーの墓作りまで……至れり尽せり、ですね。なんでこんな話が私に回ってきたんですか?」
「前の侵攻分の取り立てらしいわよ。天狗は団子屋の取材で手打ちにしたけど、守矢への詫びがまだだって」
「ああ……」
そうか、そこもまだケジメを付けて居なかったか。死ぬ前に、出来るだけ面倒にはケリを付けておきたい。私には願ってもない有り難い契約だ。
「分かりました。署名します。ついでに清蘭に手紙……いえ、自分の遺書を遺しますので、紙と筆を」
もうまともな文字も書けないけれど、まだ握力は残っている。まだ、石は擦り減ってなくなってしまったわけじゃない。
遺志を。
強い意思を、まだ持っていたい。
ここで波の狭間に沈んでしまったら、もう、自分で死に場所を選ぶ力さえ残りそうになかった。
私は、署名と遺書を、自分の意思で書き終えるために、永遠亭で長い長い日数を費やした。
一度沈んでいった小石は、海面より遥か下、地底のマグマにより、ほんのりと最後の熱を放っていた。
最後は地の底で死ぬ。それが小石の選択だった。
私を助けてくれた兎がいた。
私と戦った兎がいた。
私と共に歩もうとした兎がいた。
そして又、私は。月より遥か遠く、幻想郷という極彩色の穢土。その更に下、穢れの坩堝で、床に臥す兎。
「こ……こ…………は……」
最期を飾るのは静かな海とばかり思っていたが、ここは遠くから叫び声や喚き声がばら撒かれていて、賑やかだ。
「あ、起きた。妬ましいわね、橋の上で行き倒れてるはずが、居酒屋の畳の上で雑魚寝なんて」
厚いコンクリートの壁の向こうから呼びかけられているように、私にかけられる言葉は不明瞭だった。もう、自慢の耳も千切れたも同然だった。
「で、パルスィ。似ているって、どういう意味なんだ」
「形容し難いけど、勇儀と似てるのよ。混ざってる感情が」
「この包帯女と、私が、か」
如何やら。酒のツマミとして居酒屋に連れ込まれたらしい。目の前の鬼に喰われて終わるのは勘弁だったので、有り難かった。
「妬ましいわね、ミイラみたいな見た目の癖に、眼だけはまぁ随分と輝かせちゃって」
這いずりから少しずつ上体を起こして、反応の鈍い手足を動かした。月面の遥か向こうに見えた月の都よりも、今は近くのテーブルが遠い。けれど、これで終わりだ。誰に決められた訳でもない。私が選んだ、最後の晩餐。
「座れるか?」
「蟲とかはお好きかしら。ここは天ぷらでいくのがお勧めだけど」
まったく、兎に勧めがたいモノばかりメニューに並べるんじゃない。どれをつまんでも最悪の酒になりそうだ。
……いや。
いや、そういえば、永遠亭を出る時に鈴仙が渡してくれた団子が一つだけ残っていたっけ。
「お、お? ……なんだいそりゃ、そんなナリして旨そうなもん持ってんじゃないか」
「本当、美味しそう。妬ましいわね……」
味覚も殆ど無くなっていて、舌触りや喉越しで味わうしか無いけれど。この団子は、何処か懐かしくって、それでいて、私の予想の付かないところから『好き』を持ってくる。
きっと、そんな味。
私の大好きな味だ。
「団子一つをえらく美味そうに食べるもんだねぇ、あんた」
咀嚼が上手く出来ず、食べカスや酒が破れた口の端から滾れ落ちてしまう。これは、私が食事ができなくなった証。死に追いつかれた証拠。私が強くなれるのも、これで最期。
「少しくらい気にしなさいよ……」
そんな時間は、もう無い。
「酒、ツマミと揃ったら、後は話の華か」
「そうそう。それで、似ているって話なんだけれど……」
「あ……ゆ…………」
「……うん?」
「ゆ……ぎ…………」
頭の中では猛スピードで空回りする言葉が、喉の振動では酷く愚鈍な波長として撃ち出される。
これが私の最期の会話。
顔を合わせたい奴ら、話したい奴らはまだまだ沢山いる。でも、これでいい。これで良かったんだ。地底で……電波の通りが悪いところで。
これでもし、玉兎通信が繋がる兎が居たら。名前を呼んでしまうから。何もかも曝け出して、ぶつけてしまうから。
みんなはあの時耐えてくれたけど。私はきっともう、耐えきれない。
「ゆ……う…………ぎ……」
勇儀。きっと貴方は強い人なのだろう。幻想郷の中なら……いや、私が直接会った人の中なら、もしかしたら、月時代を含めても一番強いかもしれない。
だからこそ、聞いてみたい。私がずっと疑問に思っていたことを。
「……つよ…………さ……」
「強さ?」
「つよさ……って…………なん……だ……ろ……ね……」
私は強くあったのだろうか。そもそも、強さとは何だろう。最期に発された、私の強さとは。苦し紛れの餞だったのだろうか。
「強さとは、ねぇ……こりゃまた難しいことを言う」
「……何となく察しが付いたわ。これ、萃香への嫉妬にそっくり」
そうだ。私は、この黒い感情に蓋をする為に、地下で死のうとした。
「こらこら、勝手なことを言うんじゃ無い」
清蘭に、絶対に伝わることがないように。
「ネタはもう上がってんのよ。地底どころか地上の者にも広まってるんだから、堪忍しなさい」
「……さとりに読まれたのは反則だろう」
ああ、そうか、どれだけ取り繕っても、どれだけ自分を飾ろうと。最期に暴かれる意思は。
薄汚い、ちっぽけな石。
死にゆく者の前で、泣き叫んだ私と同じ。
ただの等身大の、弱い。弱い、自分勝手な私だ。
そうか……これで、終わり。
これで、終わりなんだ。
「けど。言っとくけどね、私の感情は、大体……嫉妬という文字で表せるもんじゃない。それだけで終わる訳じゃあないさ」
「へえ?」
「まぁ……萃香なら多分、『またなんかメンドくさいこと悩んでんな』とでも思ってるよ。だから、伝わったのも悪くはないかなと。恥ずかしいけど」
「鬼同士の癖して、みみっちい仲してんのね」
「だから、やめてくれってそういうのは。ああ、それで。強さか。うーん、そうだなぁ。私は学が無いから、問答が得意じゃあないけど」
「それを聞くって事は、絶対的な強さなんて、この世に存在しないのは知ってると思うが」
「目に見える強さというものがあったなら。それは上位存在の遊びであったり。或いはちっぽけな気休めだったり。そういう強さもあるだろう。それもまた、悪くない」
「一般的に、私は強いって評価されてる。もし私が強いって、言うなら。それは私が私であろうとした結果」
「本当は、ただ、私は鬼として強くあろうと生きてきた。それだけ」
「だから、心の中なんて曝け出せたもんじゃない。もう弱いのなんの、マイナスの感情の百鬼夜行だよ」
「バレなきゃ強く見えたのか? ……はっ、まったく卑怯な鬼だ。だけど、これが私の強さ、か」
「……その、なんというか、思わぬ事態でその心がバレることもあったけど」
「それでも私はここに立っている」
「自分を受け入れられたこと」
「それもまた、強さ。なのかもね」
「ああ、恥ずかし、恥ずかし。そういう青い言葉の方がよっぽど恥ずかしいと思わない?」
「いいだろう、たまにはこういうのも」
「真顔でそれを吐けるのが妬ましい所よねぇ……あら。ミイラの呼吸が止まってる」
「酒飲んで、食べて、畳の上で死ぬ。ま、幻想郷の住人としては上等な死に様だったな」
「ああ、妬ましい、妬ましい」
その消波ブロックとも呼べなくなった小石が、沈む直前に送り出した波。
それはきっと、高くもなく、荒くもなく。なんでもない波。
海岸では、普段通りの波高として記録されるような、意味のない波。
けれど。
その波を受け取る人が居たならば。
波止場で待っている人が居たならば。
それはきっと。
☆
「諏訪子。烏から連絡が上がってきたけど、あの子、死んだって」
「あの黄色い兎? ……どれどれ、随分長く生きたもんだねぇ」
「そんじゃ、早速遺言書開けちゃおうか」
「そうだね。さて、どんな無理難題が書かれて……る…………?」
「……?」
『死因:窒息死(団子のたべすぎ)
と、清蘭におつたえください。よろしくおねがいします』
「……なんだこりゃ」
「とんだ笑い話だねぇ」
☆
ただの悲劇は、もううんざり。
だから。
笑顔のあなたに、笑顔の私で送りましょう。
とても綺麗で、美しかったです。楽しませて頂きました。
三食ちゃんと食べてたから生き残ったという件がとてもよかったです
大した命じゃないと思いながら生きてきたでしょうに、最期に少しだけ報われたのだと思いました
素晴らしかったです
この丁寧さは得難いものだと思いますし。
削れ砕けた数多の名も知れぬ石と同じように。
けれど波に耐えるばかりだった彼女が、最期の最期で波を生み出した。
そしてその小さな小さな波が、待つ者に届いたのだから。
わたしもそう、この物語を笑顔で見送りたいと思うのです。