オトウトくんの泣き声で、その場にいた全員の目が覚めた。すだれの間を通って射した日に当たった床から、干したばかりの布団のような匂いがして、ああ、昼寝の時間が終わったんだな、と思った。
アニくんが、俺は嫌な起こされ方をしたぞ、と露骨に不機嫌がっているのを横目に、オトウトくんをあやした。体が動かなくて、大きい黒いものに迫られる夢を見たんだというオトウトくんに、猫が腹の上に乗っていただけさと私は言った。
このおうちは私を雇ってこそいるが、そこまで裕福というわけでもない。両親のテテさんとハハさんは共働きでいつも家に居ない。人を沢山動かす仕事で、畑のようには子供が手伝えないのだと言っていた。アニくんが、いつまでぐずってるんだよとオトウトくんに拳骨をかましそうになったのを止めた。
アニくんは多分、私がオトウトくんばかり構うのが気に入らないのだろうと思う。私が殊更自分に自信を持っているということではない。いくつか子供のお世話を任されてなんとなく思ったのだけれど、男の子は私くらいの(彼らにとっては)おねいさんにお世話されると、大体初恋がそれになってしまう。
二人ともできるだけ平等に構っているつもりだけれど、彼らは決してそれが平等だとは感じていない。それ自体はもう、仕方がない。どうしようもない。それに、どうしたところで、大人は大声を出して叫ぶ子供の方に問題を解決しに行く義務がある。
私はまあまあ、とアニくんを宥めて、おやつでも食べようと誘った。アニくんは頭を掻いて頷いた。
その日はテテさんがいつもより数刻早く帰ってきた。私はお礼を言って言われて、その日のお時給を貰っておうちを出た。
今日私はずっとそわそわしていたと思う。私はついに自分の工房を持つ。私の寝ているあばら家に師匠のツテとかなんとかで色んな人が関わって一式の工事をしてくれて、それが終わるという話を聞いていた。
あばら家、私のあばら家、もうあばら家じゃない。建てられていた足場なんかが全て片付けられていて、外から煙突が露わになっていた。おうちに入ると師匠とか先輩とか工事の人とかが居て、落成を祝ってくれた。私が使うためだけにある炉やら金床やらを見て、剥き出しの新鮮な石の香りがして視界がくらくらした。
私は顔を真っ赤にしてそこに居た皆にお礼を言った。その時、勢いあまって世界中にすら感謝をしていたと思う。師匠にはお金も要らないと言われていたのだけれど、元々私はそれを工面するためにあちこちで子守をしていたので、絶対に貰ってくれと言って譲らなかった。お前は娘みたいなもんだから、と言って渋っていたけれど、最後には師匠はお金を受け取ってくれた。
そのまま宴会のようになって、へべれけになった師匠を先輩がケツ引っ叩いて送っていったのを玄関口で見送って、寝て起きたら視界の左側が工房で、それは単に恍惚だった。
***
はっきり言って、私は子守として評判がいい。何処へ行っても愛想が良いと褒められる。恵まれていると思う。そも、命蓮寺が紹介してくれた場所にしか行っていないという事情もある。
子守の仕事は楽しかったし向いていたと思う。それでも私はしばらく鍛冶に集中したく、それを休ませてもらうつもりだった。
ひと段落、契約が残っているのはテテさんの処だけで、もう一月終わるまでお世話になって、そうしたら、師匠がいくつか仕事を斡旋してくれると言っていた。何から何まで周りにやってもらって申し訳ないなと思った。
その日は子守の予定はなくて、かといって工房で趣味に走ろうにも発注していた材料もまだ届いておらず、暇だったので茶屋で呆けていた。看板娘の赤さんが物珍しそうにしていた。地面を踏みにじる音がすぐ近くに聞こえて私がそちらを向くと、そこにはぬえが居た。
私はぬえのことを本当に愛らしく思っている。世界で一番可愛がりたい。そんなことを彼女には言わないけれど。彼女はあまり人前には、私の処を含めて、出ない。もっと会いに来てくれればいいのに、とぼやいて見せた時は、満更でもない顔をしながらも、お前の周りにはいつも笑顔の人がいるとだけ答えた。
だから私は多分、わざと一人で居た。ぬえは目と耳が良いから、こうしていれば来てくれるんじゃないかと、なんとなく思った。
遠目に私を見ていた赤さんはなんだか合点がいったような様子で、席に着いたぬえの注文を聞きに来た。ぬえはお茶と羊羹を頼んだ。ぬえは開口一番、私の近況について祝福してくれた。見透かしたような、悪戯っぽい顔だった。
「それで、今暇なんだろう。作ってほしい物があるんだけど」
と言ってぬえは机の上に石を置いた。手に取ってみても、何の石なのかよくわからない。何らかの金属らしいことはかろうじてわかる。パッと見は鉄に近いけれど、多分普通のものじゃない。この石には大きな力がある。
「これ、ちょっと前に私の口から出てきた石」
「おえって?」
「おえって」
曰く、これでカッコいい矢尻を作ってほしいとのことだった。私は、酔っぱらったマミゾウさんが、ぬえは昔、高名な武士に弓矢で以て討ち取られた噂が自分の処まで流れてきていたので、幻想郷から呼ばれた時は本当に驚いたし嬉しかったという話をポロっとしていたのを思い出した。
私はぬえに少し考えたような振りをして見せて、とりあえずこの石は預かっておいて、できそうかどうか調べさせてほしいと言ってみた。硬度も融点も分からないような初めて見る金属でそんな安請け合いは出来ないと説明した。
「うん、理屈は通ってるかな」
「あと、ぬえの体から出てきたなら実質私のものみたいな処があるし」
「屁理屈がまかり通ってんなあ」
師匠とか、もっと腕のある人に引き受けてもらえるように頼んでみようかと提案しようとしたけれど、すぐに思い直してやめた。ぬえは「ちょっと前」と言った。ぬえは多分、私に頼みたくてわざとこの時を選んだ。私の様子を遠くから知っていて、この石をとっておいたんじゃないかと、なんとなく思った。
私が、じゃあそれはそれとして遊ぼっか、と誘うと、ぬえはしょーがねえな、といった態度で頷いた。ぬえが頼んだお茶と羊羹が来た。私は子守のことなんかを世間話の肴にした。アニくんとオトウトくんのことが心配だった。元々あの家に居なかった私には些か傲慢な考えかもしれないけれど、私が居なくなった後大丈夫だろうかと、つい考えてしまうのだった。
ぬえは少し感嘆した様子で、お前のこと結構見下していたけど、お前は私よりずっと大人だねと言った。私は「見下していた」と歯に衣着せず思えて言えてしまうそういう処が、ぬえの自分自身に容赦がなくて、怯えてもいなくて孤高で強い処なんだよなと思った。
茶屋を出ると、ぬえは私の手を引いて一緒に空を飛んだ。ぬえは私に、「大体この辺でやれば驚かせるのはうまくいくんじゃねスポット」を幾つか私に教えてくれた。
***
工房が出来てから初めてテテさんの処に来た。オトウトくんは誰に対しても溌剌とした子なのに対して、アニくんはシャイで、ぶっきらぼうで自分の気持ちについて喋ったりするのが苦手な子だった。
アニくんは私がしている家事をよく手伝いたがった。洗い物をしてくれたり、取り込んだ洗濯物をたたんでしまってくれたりした。友達と限界まで遊んで、帰ってくるなり蝋燭を吹き消すように眠りこけたオトウトくんに布団をかけて、そのまま一緒に寝てしまうような子だった。
いつもならオトウトくんはこの時間家にいないのだけれど、近頃は人里のあちこちで、何の動物とも区別のつかない不気味な鳴き声が響き渡っているとかで人通りが少なく、するとオトウトくんもテテさんの要請で私によって家に謹慎させられていて、オトウトくんは余らせた元気をアニくんや私に発散させてもらいたがった。
アニくんは何度か、しきりに私に構ってもらいたがるオトウトくんに、仕事の邪魔をするんじゃないと拳骨を食らわせた。オトウトくんはその度に泣きじゃくって、私がまあまあ、と二人を宥めるまでが、最近のお決まりの流れだった。家事はそんなに多くないし、どちらかというと主な仕事は二人のお世話をすることだったので、実は邪魔も何もなかった。
頃合いを図ってアニくんに、私は今月で終わりなんだと伝えると、アニくんはふーん、と言ってそっぽを向いてしまった。オトウトくんにはアニくんから教えてあげてくれるかなとお願いしたら、アニくんはわかったよと言ってくれた。アニくんは今日、最後まで私の方を見てくれなかった。
工房へ帰ってきてぬえの石とにらめっこしていた。漆黒より暗く、深い色を保っている。まるで目の錯覚かと思うような。槌でぶっ叩いてみても欠けすらしない。炉にぶちこんでみた分には、とりあえず溶けてはくれたので、鋳造が良いんだろうなと思った。黄色でなく妖しい蒼色に輝いていた。蝋を彫って原型を作った。カッコいいものを、と言っていたし、殺し合いでの実用性とかはきっと考えなくて良いはずだと思った。
師匠に相談した方がいいかと考えた。直観ではあるが、これは一点物の鉱石で、世界中探してもここにしかないもののように思われた。それでもそういう珍しいものを扱うにあたって気を付けるべきことくらいは教えてもらえたかもしれないが、そのくらいは今まで教授された中にとっくに含まれているような気がして、いたずらに師匠の時間を奪うだけだと思ったのでやめた。
ちょうどよく様子を伺いに来たぬえに原型を見せてみたら好評だった。ぬえの羽の意匠をあしらった矢尻。ひとまずこれで作ってみようとなったので、原型を石膏で塗り固めて鋳型を作るところまでやって、またぬえと散歩に行った。
私は鍛冶の修行でお世話になったことなんかを世間話の肴にした。今もずっと、何でもやってもらってしまえるので忍びない気持ちであると愚痴っぽくこぼした。
ぬえは、女でしかも妖怪が職人の世界に入って、自分の工房まで持つなんて大抵のことじゃないし、皆お前のことを認めてるから良くしてくれるんじゃないのと、まるで見てきたみたいなことを言った。あんまり嬉しいことだったのでぬえを引っ叩きそうになった。ぬえはいつもしているような、悪戯っぽい顔をした。
途中、「あ、噂のやつはこれか」とすぐに判るほど、なんなんだか良くわからないおかしな鳴き声が辺りに響き渡った。私はこれに聞き覚えがあって、もしかしてこれはぬえがやってるのと聞いてみたら、ぬえはさあね、と言うだけで答える気がなさそうだった。
人里の外、道すがらでちょっと悪戯するくらいならまだしも、こんな街路で大手を振ったような真似はやめた方が良いと思う。ちょっと退治される程度では済まないかもしれない。そうなら心配だからやめなと言っても、関係ないねとつんけんするだけで、なんだか空気が気まずくなったので適当なところで別れて帰った。
***
ちょっと考えればわかったことだろうに、馬鹿馬鹿しい失敗をした。鋳型に石を流し込んで、さあこれでどうだと固まったものを見てみたら、あまりに真っ黒で意匠らしいものなど何も判らなかった。ぬえに作り直す旨を伝えたら、これでも良いと言われた。
私は少し考えて、やっぱりわがままを言って作り直させてもらうことにした。ぬえはしょーがねえな、と言って頷いてくれた。シルエットで判るようにする必要があったのだと理解して、新しく蝋の原型を作ってぬえに見せたけれど、これはもう矢尻じゃないと言われてしまった。やりすぎた。
あまり何度も鋳造し直す訳にはいかない。石の量が減って、最後には作れなくなってしまう。次には完成させないとまずい。
「もしかして、これって急いでる?」
「まだ大丈夫だよ。良いものを作ってくれようとしてるみたいだし、待つよ」
まだということは、伊達や酔狂でというよりは必要に迫られているのだろう。やっぱり次がラストチャンスだと思った方が良い。私は少し考える時間を貰うことにした。ぬえに納品日を決めてくれとお願いしたら、三週間後と言われた。それは丁度テテさんのところの子守が終わって、鍛冶の仕事が来始めるくらいの頃だった。それならしばらくは考える時間があると思ってその日は休むことにした。
次の日、アニくんとオトウトくんとおやつを食べていて、オトウトくんにいつもより元気がないと指摘され、アニくんに心配された。私は、空元気を振りまいた処で見抜かれるのだろうと観念して、鍛冶の仕事が上手く行っておらず、そのことに気を取られていたと白状した。
こんなことではいけないと自責の念に駆られていると、二人は私の仕事について興味深げに根掘り葉掘りと聞いてきて、矢尻のデザインなんて面白そうだから俺たちも考えようぜ、と言い出した。ごっこ遊び感覚でこんなのはカッコいいだろうと三人で紙に落書きを繰り返している内に、だんだん何とかなるんじゃないかという気がしてきた。
本当にありがたいなと思った。慰められて、元気付けられてしまった。今度何かお礼をしなければならない。
夜、あの奇妙な鳴き声が響き渡る頃と同じくして、辺りに黒い煙が立ち込めるようになった。マミゾウさんに相談してみたら、やっぱりこんなことが出来るのはぬえしかいないと言った。私が顔を顰めるとマミゾウさんは、ぬえが何事か脅かそうとするならもっと賢くやるだろうという処が腑に落ちないと続けた。
私は今、何か悪いことを手伝わされているのではないかと思えてきて、心の中で少しずつ不安が這い上ってくるのを感じた。友達の頼みをそんな風に疑うことに関しても、自己嫌悪の凄まじい思いをした。
***
助けになることが重なったこともあって、良い塩梅の原型が出来て満足していたのだが、ぬえに見せても評判はあんまり良くなかった。
「あの最初のやつ好きだったんだけど、お前が納得いってなさそうだったからさ。あれ、良くない? 触らないと何か彫ってあるってことも判らない辺りがさあ、良かった」
確かに、私は頭の中で勝手に納得していたけれど、それをぬえと共有はしていなかった。独りよがりな仕事とはこういうことを言うのだろう。それにしたって、もっとそれを早く教えてくれれば良かったのにと思ったのも、次にぬえが、何が好きなのかあの時はまだうまく言葉にできなかったんだよね、ごめんと言ってきて、やっぱり私がぬえとちゃんと話さなかったのが悪いと思った。納期は二週間後というところまで来ていた。
奇妙な鳴き声は昼夜問わず鳴り響いていた。蝋を削る音と合わさると、自分が今ここではない別の世界に居るかのような錯覚に陥った。ぬえは目の前に居る。ぬえは鳴き声が聞こえると、不愉快そうにしている。これを見ているだけで、やっぱりこれはぬえの仕業ではないんだろうという気になった。
ここ数日で病に伏せる人がかなり増えたと聞いた。療養も薬も効かない。皆あの鳴き声と黒い煙のせいだと口々に訴えた。それは至極自然で当たり前のことに思えた。
ぬえはこの話をしたがらなかった。普通だったら、まるで自分がやったかのような被害が方々で起きていて愚痴の一つでもこぼしたい処なんじゃないかしらと思うし、その辺りがまた私の猜疑をほのかにくすぐった。意識して他のことを喋ってみても、誤魔化して無理に明るい方に持っていこうとしている空気は払拭できず、ただただ気まずさだけが募った。
ぬえは珍しく、まだらに自分の近況を話した。命蓮寺の新入りの疫病神と聖さんが言い合っているのを見るのが面白いとか、墓を倒して回って遊んでいたらしこたまブチのめされたとか、小さな山を一つ丸ごと牛耳ってそこに居た反抗的な妖怪は皆食べちゃったとか、いかにも奔放な妖怪らしい、タチの悪い話が多かった。
そろそろ次の試作を見せられるかという処で、突然、玄関の方から私を呼ぶ声がして、応対すると霊夢さんだった。ぬえがここに居ないかと尋ねて来たのでぬえの方を見ると、霊夢さんの視線もぬえを捉えて、その瞬間に霊夢さんはもうぬえをひっ捕まえていた。立て掛けてあった私の傘が倒れた。
私はすぐに、最近の状況を考えれば当然の光景だという冷静な自分と、ぬえを擁護したい自分の板挟みにあって、少しの間固まった。床に叩きつけられたぬえは呻いて、口から黒い煙を吐いた。私に向かって、もう最後まで作っちゃっていいからと言って、屈曲するようにしていつの間にか部屋から消えていた。
霊夢さんは、もう、と不機嫌を露わにして、私に知っていることがないか聞いてきた。ぬえはここに居て、鳴き声が聞こえるとうるさそうにしていたと伝えた。先程の捨て台詞は何の話かとも聞かれ、余りに怪しすぎるし言い逃れもできまいと思ったので、頼まれて矢尻を作っていたと正直に話した。
なるほど、と霊夢さんは頷いて、その仕事を請けるのはやめておきなさいと言った。私は最後まで、絶対にぬえの仕業な訳がないとは言えなかった。
***
蝋を彫刻することばかりうまくなる。勿論上達するのは喜ばしいことなのだが、槌で鉄を鍛えるのが一番好きなので大分フラストレーションが溜まっている。完成した原型は正直、出来が良いと思った。ぬえは最初のやつが好きだと言っていたけれど、これは多分もっと好きだ。
今はテテさんのおうちに居た。ハハさんが病に伏せたので、アニくんとオトウトくんの元気は地下深くまで落ちたような調子だった。定時が近くなって、アニくんは力なく私の袖を引っ張った。私自身の心情としても、このまま帰りますなんて気にはとてもならなかった。
テテさんはハハさんを看病した。ハハさんは気丈な人で、布団の上に居ても不安がる息子二人を励ましていた。私は飯と寝床を勝手に拝借するような形で二人の世話をしていた。
私は焦燥と怒りだった。もしもこれをやったのがぬえでないのなら、知ったことではない。それは災害に近い他人事だ。でも、もしもこれをやったのがぬえなら、私はぬえを許せるんだろうか。人里には日が差さなかった。ただそれだけで、多く希望が奪われた。もはや目も覚まさず、呼吸も少しずつ浅くなってきている人間が散見された。それでなくとも、不安を煽るためだけにあるような鳴き声が絶えず聞こえてきて、一睡もできないような人は多かった。はっきりと限界がすぐそこまで近づいてきているのが見えた。
矢尻を作るのに必要な時だけ、工房に帰った。炉の火に腕を突っ込みそうになった。蒼い輝きを見ながら、もしこれがマミゾウさんの言っていた、昔ぬえを穿った矢の成れの果てならば、これはぬえにとって相当に大事なことなのだろうと思った。最高のものを作らなければならない。
鋳型から固まった石を取り出すと、それは確かに、漆黒なこと以外は普通の矢尻だった。触って初めておかしな形をしていることがなんとなくわかる。あとは仕上げと、研ぎをする。
憑り付かれたような情念を込めた末に、完成したそれからは何か「格」のようなものが感じられた。妖怪から産まれ、妖怪が創った矢尻。ここに頼政の弓はないけれど、これだけでも、害意を持って扱えばぬえを滅ぼすのに十分だという確信があった。なんて危ないものを作ったんだろう。約束の日まで、あと三日のことだった。
テテさんのおうちへ帰る途中で師匠の工房に寄ると、ぐったりとした師匠が居た。病に侵されてこそいないものの、ろくに眠れず飯も喉を通らないので酷い有様だとキレ散らかしていた。師匠は本当に困窮したことは喋りたがらない人なので、ちゃんと文句を垂れているということは、こう見えて少しは余裕があるのだろう。それでも見ていて気分の良いものではなかった。
先輩は自分の家で家族と大人しくしていると師匠が言った。先輩は所帯持ちだが、師匠は独り身だった。先輩がこの状況で師匠を工房に一人置いておくのは考えづらかったので、きっと師匠が世話になんかなれるかと突っぱねたのだろう。
私の顔を見て大分余裕が出来たと言って、師匠はお粥を啜り始めた。私は自分一人の仕事を師匠に認めて貰いたくなって、矢尻を見せた。師匠は大したもんだと私を褒めて、頭を乱暴に撫でた。材質があまりにも通り一遍でないことにはすぐ気付いて、私の目と矢尻を見比べて難しい顔をした。
師匠は矢尻を持って立ち上がり、作業場に入って直ぐに帰ってきた。矢尻は矢になっていた。頑丈に棒に固定されていて羽が美しく、射ればさぞ飛ぶのだろうと思った。私が、注文は矢尻なんですと言うと、まあいいじゃねえか、本当に矢尻だけ欲しいなら簡単に分離できるし、とはぐらかした。
少し前から人里にはいくつか避難所が設けられていて、あてのない人たちがそこへ集まって助け合っていた。師匠もそこへ行くべきだと提案すると、誰かも判らない奴らと集まって一緒に縮み上がってるなんざ本当は性に合わないと悪態をついたが、私と先輩に無駄な心配をかけるのも悪いと言って承諾してくれた。
***
矢尻を矢にしてもらって良かったかもしれない。これを見ていると気分が落ち着く。決意の固まる心地がする。それが私にとって本当に良いことかどうかはわからないけれど、少なくとも私の精神は今、僅かな頑健さを得た。それでも、ぬえに対する猜疑と比例するように、自己嫌悪が膨れ上がるのを感じて傘を掻き毟る手が止まらなかった。
当日、この依頼を受けた茶屋で待っていれば、ぬえは来てくれるだろう考えた。昔から変わらずそうであったように、通りは閑散として、お店は閉まっていた。地面を踏みにじる音がすぐ近くに聞こえて私がそちらを向くと、そこにはぬえが居た。ぬえからは黒い煙が立ち昇っていた。ぬえは私が持っている矢を一目見て、すごいよ小傘、ありがとうとはにかんだ。
私は彼女に何を言うべきかと思案した。一際大きな声が空から響いて、自分の顔が不愉快さに歪むのを感じた。風が強かった。色んなことが他人事に思えた。私はまず、友達が自分の仕事を褒めてくれたことに対して、お礼を言うことにした。
「ありがとう。でも、これは渡せないんだ、ぬえ。今起きてることがぬえの仕業じゃないとしても、大きく関係していることは確かでしょう。どうして何も話してくれないの? 納得できなきゃ、これは渡せない」
「私を疑ってるの?」
「何も疑うな、何でも受け入れろっていうの? こんなことになってるのに? そんなのひどいよ。話せない理由があるの? それすら答えられない?」
ぬえは大きくせき込んで、黒い煙を吐いた。よく見るとひどい顔色をしていて、目の隈がくっきりと主張していた。今の私にとってはそれすらも、同情を引くための作為のようなものが感じられて気持ち悪かった。ぬえの力なら、多少体調が悪くてもそう見せないことは容易いし、ぬえの性格なら進んでそうするはずだからだ。或いは、多少、ではないのかもしれなかった。
「ごめん。話したくないんだ。何も。話せないわけじゃない。話したくない。私にとって大事なことの、優先順位の問題で。そして……小傘からそれを無理矢理奪ってまで、この声と煙をどうにかしようだなんて思っちゃいない。だからその矢を私にちょうだい」
「なにそれ! 矢尻があればこの声と煙をどうにかできたってこと? だったらそれだけでも言っておいてくれたらよかったのに!」
「これはお前より上なんだよ、小傘! それに、お前のことは好きでも、お前の好きなものがどれだけどうなったって知るもんか!これは私の―」
最後まで言い終わることなく、ぬえはさっきまでと比べ物にならない量の煙を吐き出した。咳き込みながら苦しんで、のたうち回る様があまりに痛々しく感じられて、思わず傍まで駆け寄ろうとしたが、煙が質量を持ったように邪魔をしてきてそれも適わなかった。空に上った煙がいくらか集まって、少しずつ見覚えのある形を成していった。
それは鵺だった。封獣ぬえじゃない。絵巻なんかに描いてある、猿の顔に四つ這い、蛇の尾の。今回の騒動は、彼女の真意はともかくとして、なるほど彼女の仕業ではあったわけかと合点した。
ぬえは私に、こっちへ矢を投げろと叫んだ。すべてに納得がいった訳ではなかったけれど、少なくとも「あれ」がぬえの心ひとつで動いている訳で無いことは明らかだったので、言う通り矢を投げようとした。後ろから腕をつかまれて、それは失敗した。
「もうそんな必要はないわ」
私の後ろに居たのは霊夢さんだった。ぬえが霊夢さんを見て驚愕して、やめろと怒鳴った。霊夢さんは弓を持っていた。
「口寄。源頼政」
霊夢さんが頼政の名前を口にすると、展開された陣と共に私の体が蒼く光って、私の手は勝手に動いて霊夢さんの弓をひったくった。
「頼政! 博麗の巫女! お前ら!」
ぬえは憎悪の表情で霊夢さんを見ていた。私は口を動かすことすらできなかった。呼吸が自由にできず苦しかった。私が弓を引き絞り矢を放つと、それは初めからそう決まっていたかのように鵺の方へ一直線に吸い込まれていった。ただ矢が刺さっただけにしては随分大げさな音がした。鵺はあの散々聞き飽きた不気味な声ではなく、猫が大岩にでもひねりつぶされたら丁度出すのかもしれない、普通の悲痛な声を上げた。
鵺は暫く苦しんで、丁度私の前まで落ちてきた。私の右手から光が伸びていき剣を形作った。鵺に飛び乗り、それで首を思い切り突き刺した。鵺は大きく光って、粉々に弾け飛んだ。黒い煙が、水面を穿つ波紋のように晴れていった。雹の如く降りしきる肉片の中で、ぬえの矢尻が見つけて欲し気に輝いていた。
***
「儂はなんにも知らんよ」
「うそぉ。口止めされてる?」
「憶測と邪推くらいはできる。例えば……鵺退治の時にあいつは本当に一度滅んでいて、今のぬえは矢の中に留まった本体の残響に過ぎなかったのだ、とかどうじゃ? 突っつきすぎて絶縁されても困るし、この辺で勘弁してくれ」
まず、ぬえはあんな退っ引きならない状況にあって、どうして私の矢尻作りをそんなにも悠長に待ってくれたのだろうと疑問に思った。あの時、優先順位の問題と言っていた。ぬえの中での私の優先順位。あるいは単に、込められた気持ちがより大きな力になることを期待しての打算だったのかもしれない。
でも本命で言うと、友達の私が独り立ちして最初にする仕事を大事にしてくれたんだろうと思っていた。私、あんまり友達友達言うなよと良く窘められていたっけな。多分、こういうところなんだよな。
マミゾウさんの言った通りなら、ぬえと頼政には何らかの奇妙な絆があったのかもしれない。邪推。確かにそう。あの時ぬえが二つに分かれた理由も、邪推で良いならいくらでも思いつく。
当のぬえは、以前話していた山の奥に祠を建てて、そのご神体に矢尻を置くのを私の前で見せてくれた。結局ぬえは何がしたかったのかと聞いても、一言「清算」とだけ言って飛び去ってしまった。私はぬえに好かれているということに関しては殊更自分に自信を持っていたので、それでもぬえが「お前より上」と言うなら、それはきっと何よりも一番上にあって、彼女が終わるその時まで誰も真相について知ることはないのだろうと思った。もしマミゾウさんにだけは喋っているとかだったらそれは二人とも殺すしかない。絶対に許さない。
今回の異変はぬえが人為的に起こしたものということになった。実際、殆どそんなようなものだったので、擁護のしようもなかった。もう、妖怪然として妖怪行為を働くなら、その報いを受けることまでが営みの内だと思った。身から出た錆で地獄に落ちるというなら、悲しくとも受け入れるしか道はない。
人里では騒ぎがようやく収まったあと、こんなになるまで博麗の巫女は何をやってたんだと批判が少し行ったらしい。でも私は思う。ぬえが自分から現れたならともかく本気で身を隠してしまったら、霊夢さんだろうが何だろうが見つけられるはずがない。あの後、私をずっと張っていたとわざわざ詫びてきてくれたので、霊夢さんもそう思っていたんだろう。
一応後日、事実として大きな出来事と共に「鵺」は退治され事態が解決したので、いつも通りなあなあになったという旨を、霊夢さんが気を利かせて教えてくれた。なんと死者はゼロだったらしい。胸を撫で下ろした。
子守契約の満了日になって、私はいつもの仕事を一通り済ませてテテさんから最後のお時給を受け取った。ハハさんは全快してすぐまた仕事仕事の生活へ戻ったらしく、私は結局病気していた時以外では顔を合せなかった。
お別れの挨拶はカラッとしたものだった。テテさんにこっそり教えてもらったが、私のいない時、息子二人は私との別れをかなり惜しんでくれていたようだった。二人は一緒に描いた矢尻の絵を全部私にくれた。私はその時のお礼も兼ねて、茶屋で買った羊羹を渡した。チョイスが他人行儀過ぎたかもという不安は杞憂に終わり、二人は喜んでくれた。
歳の頃を考えると、私がいつかまた暇を作って子守の仕事を始めたとしても、きっとこのおうちの厄介になることはないのだろう。アニくんは踏ん切りがついたようにオトウトくんの頭を一撫でした。靴を履いた私に向かって、小傘ねえちゃんは俺に、お兄ちゃんなんだから、とか、男の子なんだから、とか、そういうことを言わないでくれていたのが嬉しかったよ、オトウトの面倒はちゃんとするから心配しないでと言って俯いた。
アニくんが言ったことと裏腹に私は、男の子だなあと思った。二人はおうちの前で手を振ってくれていたので、後ろに向かって手を振り返しながら歩いていたら躓いて転んだ。恥ずかしかったのですぐ走って逃げた。
数日して、仕事を貰いに師匠の工房へお邪魔した。前に来た時は師匠のことばかり見ていて気付かなかったけれど、私が払った工事代のお金が、渡した時の包みのまま神棚の上に置いてあったので、この人は本当になんて人なんだろうと思った。
私がそれに気付いたのを見て、師匠はばつが悪そうにそっぽを向いた。私は照れまくって、使ってもらえないとお金がかわいそうでしょうと先輩に八つ当たりした。
先輩は呆れ調で、最初は師匠が一番小傘ちゃんを邪険にしてた癖に、ある日から突然にこんな溺愛し出すんだから小傘ちゃんも困惑するよ、ほんと距離感ぶっ壊れてんだよね昔からと吐き捨てて、師匠にぶん殴られていた。私の周りにはどうも性格の粉砕骨折した人が多い。
それから、割に忙しい日が続いた。鉄を鍛えるのは楽しい。師匠も先輩も好きだけれど、集中している時に突然聞こえてくる師匠の怒鳴り声も、しょんぼりする先輩の声も苦手だったので、一人でやれている今の環境ははっきり言って素晴らしい。子守を通して慕ってくれた子たちが、たまに職業体験の真似事をしにきた。それはそれで楽しかった。
時間を空けて、たまに茶屋でぬえを待ってみたりする。お会計の時に看板娘の赤さんが、次は会えると良いねと言ってくれることがある。ぬえとは祠で別れて以来だった。マミゾウさんが通りがかって、ぽつねんとして物憂げな私を見て心配になったのか、困り眉で話かけてきた。少し一緒に過ごしているとすぐに和やかな雰囲気が一辺を支配した。
取り巻く全ての人たちのことがちゃんと好きだった。私の周りにはいつも笑顔の人がいる。執着の重さを天秤に掛けなければならない時、きっと私はどちらも選べない。それを自覚した。封獣ぬえは私と仲良くするにはちゃんと妖怪過ぎたのかもしれなかった。多々良小傘はあの子と仲良くするには些か人間過ぎたのかもしれないし。
しかしそれでもせめて、次に会うのが十年後でも百年後でも、昨日の続きのようにその日を過ごせる私たちでありたい。一身上の都合により待ち時間の楽しみ方に詳しい私のことだから。黒煙が視界の端に映るのを。
アニくんが、俺は嫌な起こされ方をしたぞ、と露骨に不機嫌がっているのを横目に、オトウトくんをあやした。体が動かなくて、大きい黒いものに迫られる夢を見たんだというオトウトくんに、猫が腹の上に乗っていただけさと私は言った。
このおうちは私を雇ってこそいるが、そこまで裕福というわけでもない。両親のテテさんとハハさんは共働きでいつも家に居ない。人を沢山動かす仕事で、畑のようには子供が手伝えないのだと言っていた。アニくんが、いつまでぐずってるんだよとオトウトくんに拳骨をかましそうになったのを止めた。
アニくんは多分、私がオトウトくんばかり構うのが気に入らないのだろうと思う。私が殊更自分に自信を持っているということではない。いくつか子供のお世話を任されてなんとなく思ったのだけれど、男の子は私くらいの(彼らにとっては)おねいさんにお世話されると、大体初恋がそれになってしまう。
二人ともできるだけ平等に構っているつもりだけれど、彼らは決してそれが平等だとは感じていない。それ自体はもう、仕方がない。どうしようもない。それに、どうしたところで、大人は大声を出して叫ぶ子供の方に問題を解決しに行く義務がある。
私はまあまあ、とアニくんを宥めて、おやつでも食べようと誘った。アニくんは頭を掻いて頷いた。
その日はテテさんがいつもより数刻早く帰ってきた。私はお礼を言って言われて、その日のお時給を貰っておうちを出た。
今日私はずっとそわそわしていたと思う。私はついに自分の工房を持つ。私の寝ているあばら家に師匠のツテとかなんとかで色んな人が関わって一式の工事をしてくれて、それが終わるという話を聞いていた。
あばら家、私のあばら家、もうあばら家じゃない。建てられていた足場なんかが全て片付けられていて、外から煙突が露わになっていた。おうちに入ると師匠とか先輩とか工事の人とかが居て、落成を祝ってくれた。私が使うためだけにある炉やら金床やらを見て、剥き出しの新鮮な石の香りがして視界がくらくらした。
私は顔を真っ赤にしてそこに居た皆にお礼を言った。その時、勢いあまって世界中にすら感謝をしていたと思う。師匠にはお金も要らないと言われていたのだけれど、元々私はそれを工面するためにあちこちで子守をしていたので、絶対に貰ってくれと言って譲らなかった。お前は娘みたいなもんだから、と言って渋っていたけれど、最後には師匠はお金を受け取ってくれた。
そのまま宴会のようになって、へべれけになった師匠を先輩がケツ引っ叩いて送っていったのを玄関口で見送って、寝て起きたら視界の左側が工房で、それは単に恍惚だった。
***
はっきり言って、私は子守として評判がいい。何処へ行っても愛想が良いと褒められる。恵まれていると思う。そも、命蓮寺が紹介してくれた場所にしか行っていないという事情もある。
子守の仕事は楽しかったし向いていたと思う。それでも私はしばらく鍛冶に集中したく、それを休ませてもらうつもりだった。
ひと段落、契約が残っているのはテテさんの処だけで、もう一月終わるまでお世話になって、そうしたら、師匠がいくつか仕事を斡旋してくれると言っていた。何から何まで周りにやってもらって申し訳ないなと思った。
その日は子守の予定はなくて、かといって工房で趣味に走ろうにも発注していた材料もまだ届いておらず、暇だったので茶屋で呆けていた。看板娘の赤さんが物珍しそうにしていた。地面を踏みにじる音がすぐ近くに聞こえて私がそちらを向くと、そこにはぬえが居た。
私はぬえのことを本当に愛らしく思っている。世界で一番可愛がりたい。そんなことを彼女には言わないけれど。彼女はあまり人前には、私の処を含めて、出ない。もっと会いに来てくれればいいのに、とぼやいて見せた時は、満更でもない顔をしながらも、お前の周りにはいつも笑顔の人がいるとだけ答えた。
だから私は多分、わざと一人で居た。ぬえは目と耳が良いから、こうしていれば来てくれるんじゃないかと、なんとなく思った。
遠目に私を見ていた赤さんはなんだか合点がいったような様子で、席に着いたぬえの注文を聞きに来た。ぬえはお茶と羊羹を頼んだ。ぬえは開口一番、私の近況について祝福してくれた。見透かしたような、悪戯っぽい顔だった。
「それで、今暇なんだろう。作ってほしい物があるんだけど」
と言ってぬえは机の上に石を置いた。手に取ってみても、何の石なのかよくわからない。何らかの金属らしいことはかろうじてわかる。パッと見は鉄に近いけれど、多分普通のものじゃない。この石には大きな力がある。
「これ、ちょっと前に私の口から出てきた石」
「おえって?」
「おえって」
曰く、これでカッコいい矢尻を作ってほしいとのことだった。私は、酔っぱらったマミゾウさんが、ぬえは昔、高名な武士に弓矢で以て討ち取られた噂が自分の処まで流れてきていたので、幻想郷から呼ばれた時は本当に驚いたし嬉しかったという話をポロっとしていたのを思い出した。
私はぬえに少し考えたような振りをして見せて、とりあえずこの石は預かっておいて、できそうかどうか調べさせてほしいと言ってみた。硬度も融点も分からないような初めて見る金属でそんな安請け合いは出来ないと説明した。
「うん、理屈は通ってるかな」
「あと、ぬえの体から出てきたなら実質私のものみたいな処があるし」
「屁理屈がまかり通ってんなあ」
師匠とか、もっと腕のある人に引き受けてもらえるように頼んでみようかと提案しようとしたけれど、すぐに思い直してやめた。ぬえは「ちょっと前」と言った。ぬえは多分、私に頼みたくてわざとこの時を選んだ。私の様子を遠くから知っていて、この石をとっておいたんじゃないかと、なんとなく思った。
私が、じゃあそれはそれとして遊ぼっか、と誘うと、ぬえはしょーがねえな、といった態度で頷いた。ぬえが頼んだお茶と羊羹が来た。私は子守のことなんかを世間話の肴にした。アニくんとオトウトくんのことが心配だった。元々あの家に居なかった私には些か傲慢な考えかもしれないけれど、私が居なくなった後大丈夫だろうかと、つい考えてしまうのだった。
ぬえは少し感嘆した様子で、お前のこと結構見下していたけど、お前は私よりずっと大人だねと言った。私は「見下していた」と歯に衣着せず思えて言えてしまうそういう処が、ぬえの自分自身に容赦がなくて、怯えてもいなくて孤高で強い処なんだよなと思った。
茶屋を出ると、ぬえは私の手を引いて一緒に空を飛んだ。ぬえは私に、「大体この辺でやれば驚かせるのはうまくいくんじゃねスポット」を幾つか私に教えてくれた。
***
工房が出来てから初めてテテさんの処に来た。オトウトくんは誰に対しても溌剌とした子なのに対して、アニくんはシャイで、ぶっきらぼうで自分の気持ちについて喋ったりするのが苦手な子だった。
アニくんは私がしている家事をよく手伝いたがった。洗い物をしてくれたり、取り込んだ洗濯物をたたんでしまってくれたりした。友達と限界まで遊んで、帰ってくるなり蝋燭を吹き消すように眠りこけたオトウトくんに布団をかけて、そのまま一緒に寝てしまうような子だった。
いつもならオトウトくんはこの時間家にいないのだけれど、近頃は人里のあちこちで、何の動物とも区別のつかない不気味な鳴き声が響き渡っているとかで人通りが少なく、するとオトウトくんもテテさんの要請で私によって家に謹慎させられていて、オトウトくんは余らせた元気をアニくんや私に発散させてもらいたがった。
アニくんは何度か、しきりに私に構ってもらいたがるオトウトくんに、仕事の邪魔をするんじゃないと拳骨を食らわせた。オトウトくんはその度に泣きじゃくって、私がまあまあ、と二人を宥めるまでが、最近のお決まりの流れだった。家事はそんなに多くないし、どちらかというと主な仕事は二人のお世話をすることだったので、実は邪魔も何もなかった。
頃合いを図ってアニくんに、私は今月で終わりなんだと伝えると、アニくんはふーん、と言ってそっぽを向いてしまった。オトウトくんにはアニくんから教えてあげてくれるかなとお願いしたら、アニくんはわかったよと言ってくれた。アニくんは今日、最後まで私の方を見てくれなかった。
工房へ帰ってきてぬえの石とにらめっこしていた。漆黒より暗く、深い色を保っている。まるで目の錯覚かと思うような。槌でぶっ叩いてみても欠けすらしない。炉にぶちこんでみた分には、とりあえず溶けてはくれたので、鋳造が良いんだろうなと思った。黄色でなく妖しい蒼色に輝いていた。蝋を彫って原型を作った。カッコいいものを、と言っていたし、殺し合いでの実用性とかはきっと考えなくて良いはずだと思った。
師匠に相談した方がいいかと考えた。直観ではあるが、これは一点物の鉱石で、世界中探してもここにしかないもののように思われた。それでもそういう珍しいものを扱うにあたって気を付けるべきことくらいは教えてもらえたかもしれないが、そのくらいは今まで教授された中にとっくに含まれているような気がして、いたずらに師匠の時間を奪うだけだと思ったのでやめた。
ちょうどよく様子を伺いに来たぬえに原型を見せてみたら好評だった。ぬえの羽の意匠をあしらった矢尻。ひとまずこれで作ってみようとなったので、原型を石膏で塗り固めて鋳型を作るところまでやって、またぬえと散歩に行った。
私は鍛冶の修行でお世話になったことなんかを世間話の肴にした。今もずっと、何でもやってもらってしまえるので忍びない気持ちであると愚痴っぽくこぼした。
ぬえは、女でしかも妖怪が職人の世界に入って、自分の工房まで持つなんて大抵のことじゃないし、皆お前のことを認めてるから良くしてくれるんじゃないのと、まるで見てきたみたいなことを言った。あんまり嬉しいことだったのでぬえを引っ叩きそうになった。ぬえはいつもしているような、悪戯っぽい顔をした。
途中、「あ、噂のやつはこれか」とすぐに判るほど、なんなんだか良くわからないおかしな鳴き声が辺りに響き渡った。私はこれに聞き覚えがあって、もしかしてこれはぬえがやってるのと聞いてみたら、ぬえはさあね、と言うだけで答える気がなさそうだった。
人里の外、道すがらでちょっと悪戯するくらいならまだしも、こんな街路で大手を振ったような真似はやめた方が良いと思う。ちょっと退治される程度では済まないかもしれない。そうなら心配だからやめなと言っても、関係ないねとつんけんするだけで、なんだか空気が気まずくなったので適当なところで別れて帰った。
***
ちょっと考えればわかったことだろうに、馬鹿馬鹿しい失敗をした。鋳型に石を流し込んで、さあこれでどうだと固まったものを見てみたら、あまりに真っ黒で意匠らしいものなど何も判らなかった。ぬえに作り直す旨を伝えたら、これでも良いと言われた。
私は少し考えて、やっぱりわがままを言って作り直させてもらうことにした。ぬえはしょーがねえな、と言って頷いてくれた。シルエットで判るようにする必要があったのだと理解して、新しく蝋の原型を作ってぬえに見せたけれど、これはもう矢尻じゃないと言われてしまった。やりすぎた。
あまり何度も鋳造し直す訳にはいかない。石の量が減って、最後には作れなくなってしまう。次には完成させないとまずい。
「もしかして、これって急いでる?」
「まだ大丈夫だよ。良いものを作ってくれようとしてるみたいだし、待つよ」
まだということは、伊達や酔狂でというよりは必要に迫られているのだろう。やっぱり次がラストチャンスだと思った方が良い。私は少し考える時間を貰うことにした。ぬえに納品日を決めてくれとお願いしたら、三週間後と言われた。それは丁度テテさんのところの子守が終わって、鍛冶の仕事が来始めるくらいの頃だった。それならしばらくは考える時間があると思ってその日は休むことにした。
次の日、アニくんとオトウトくんとおやつを食べていて、オトウトくんにいつもより元気がないと指摘され、アニくんに心配された。私は、空元気を振りまいた処で見抜かれるのだろうと観念して、鍛冶の仕事が上手く行っておらず、そのことに気を取られていたと白状した。
こんなことではいけないと自責の念に駆られていると、二人は私の仕事について興味深げに根掘り葉掘りと聞いてきて、矢尻のデザインなんて面白そうだから俺たちも考えようぜ、と言い出した。ごっこ遊び感覚でこんなのはカッコいいだろうと三人で紙に落書きを繰り返している内に、だんだん何とかなるんじゃないかという気がしてきた。
本当にありがたいなと思った。慰められて、元気付けられてしまった。今度何かお礼をしなければならない。
夜、あの奇妙な鳴き声が響き渡る頃と同じくして、辺りに黒い煙が立ち込めるようになった。マミゾウさんに相談してみたら、やっぱりこんなことが出来るのはぬえしかいないと言った。私が顔を顰めるとマミゾウさんは、ぬえが何事か脅かそうとするならもっと賢くやるだろうという処が腑に落ちないと続けた。
私は今、何か悪いことを手伝わされているのではないかと思えてきて、心の中で少しずつ不安が這い上ってくるのを感じた。友達の頼みをそんな風に疑うことに関しても、自己嫌悪の凄まじい思いをした。
***
助けになることが重なったこともあって、良い塩梅の原型が出来て満足していたのだが、ぬえに見せても評判はあんまり良くなかった。
「あの最初のやつ好きだったんだけど、お前が納得いってなさそうだったからさ。あれ、良くない? 触らないと何か彫ってあるってことも判らない辺りがさあ、良かった」
確かに、私は頭の中で勝手に納得していたけれど、それをぬえと共有はしていなかった。独りよがりな仕事とはこういうことを言うのだろう。それにしたって、もっとそれを早く教えてくれれば良かったのにと思ったのも、次にぬえが、何が好きなのかあの時はまだうまく言葉にできなかったんだよね、ごめんと言ってきて、やっぱり私がぬえとちゃんと話さなかったのが悪いと思った。納期は二週間後というところまで来ていた。
奇妙な鳴き声は昼夜問わず鳴り響いていた。蝋を削る音と合わさると、自分が今ここではない別の世界に居るかのような錯覚に陥った。ぬえは目の前に居る。ぬえは鳴き声が聞こえると、不愉快そうにしている。これを見ているだけで、やっぱりこれはぬえの仕業ではないんだろうという気になった。
ここ数日で病に伏せる人がかなり増えたと聞いた。療養も薬も効かない。皆あの鳴き声と黒い煙のせいだと口々に訴えた。それは至極自然で当たり前のことに思えた。
ぬえはこの話をしたがらなかった。普通だったら、まるで自分がやったかのような被害が方々で起きていて愚痴の一つでもこぼしたい処なんじゃないかしらと思うし、その辺りがまた私の猜疑をほのかにくすぐった。意識して他のことを喋ってみても、誤魔化して無理に明るい方に持っていこうとしている空気は払拭できず、ただただ気まずさだけが募った。
ぬえは珍しく、まだらに自分の近況を話した。命蓮寺の新入りの疫病神と聖さんが言い合っているのを見るのが面白いとか、墓を倒して回って遊んでいたらしこたまブチのめされたとか、小さな山を一つ丸ごと牛耳ってそこに居た反抗的な妖怪は皆食べちゃったとか、いかにも奔放な妖怪らしい、タチの悪い話が多かった。
そろそろ次の試作を見せられるかという処で、突然、玄関の方から私を呼ぶ声がして、応対すると霊夢さんだった。ぬえがここに居ないかと尋ねて来たのでぬえの方を見ると、霊夢さんの視線もぬえを捉えて、その瞬間に霊夢さんはもうぬえをひっ捕まえていた。立て掛けてあった私の傘が倒れた。
私はすぐに、最近の状況を考えれば当然の光景だという冷静な自分と、ぬえを擁護したい自分の板挟みにあって、少しの間固まった。床に叩きつけられたぬえは呻いて、口から黒い煙を吐いた。私に向かって、もう最後まで作っちゃっていいからと言って、屈曲するようにしていつの間にか部屋から消えていた。
霊夢さんは、もう、と不機嫌を露わにして、私に知っていることがないか聞いてきた。ぬえはここに居て、鳴き声が聞こえるとうるさそうにしていたと伝えた。先程の捨て台詞は何の話かとも聞かれ、余りに怪しすぎるし言い逃れもできまいと思ったので、頼まれて矢尻を作っていたと正直に話した。
なるほど、と霊夢さんは頷いて、その仕事を請けるのはやめておきなさいと言った。私は最後まで、絶対にぬえの仕業な訳がないとは言えなかった。
***
蝋を彫刻することばかりうまくなる。勿論上達するのは喜ばしいことなのだが、槌で鉄を鍛えるのが一番好きなので大分フラストレーションが溜まっている。完成した原型は正直、出来が良いと思った。ぬえは最初のやつが好きだと言っていたけれど、これは多分もっと好きだ。
今はテテさんのおうちに居た。ハハさんが病に伏せたので、アニくんとオトウトくんの元気は地下深くまで落ちたような調子だった。定時が近くなって、アニくんは力なく私の袖を引っ張った。私自身の心情としても、このまま帰りますなんて気にはとてもならなかった。
テテさんはハハさんを看病した。ハハさんは気丈な人で、布団の上に居ても不安がる息子二人を励ましていた。私は飯と寝床を勝手に拝借するような形で二人の世話をしていた。
私は焦燥と怒りだった。もしもこれをやったのがぬえでないのなら、知ったことではない。それは災害に近い他人事だ。でも、もしもこれをやったのがぬえなら、私はぬえを許せるんだろうか。人里には日が差さなかった。ただそれだけで、多く希望が奪われた。もはや目も覚まさず、呼吸も少しずつ浅くなってきている人間が散見された。それでなくとも、不安を煽るためだけにあるような鳴き声が絶えず聞こえてきて、一睡もできないような人は多かった。はっきりと限界がすぐそこまで近づいてきているのが見えた。
矢尻を作るのに必要な時だけ、工房に帰った。炉の火に腕を突っ込みそうになった。蒼い輝きを見ながら、もしこれがマミゾウさんの言っていた、昔ぬえを穿った矢の成れの果てならば、これはぬえにとって相当に大事なことなのだろうと思った。最高のものを作らなければならない。
鋳型から固まった石を取り出すと、それは確かに、漆黒なこと以外は普通の矢尻だった。触って初めておかしな形をしていることがなんとなくわかる。あとは仕上げと、研ぎをする。
憑り付かれたような情念を込めた末に、完成したそれからは何か「格」のようなものが感じられた。妖怪から産まれ、妖怪が創った矢尻。ここに頼政の弓はないけれど、これだけでも、害意を持って扱えばぬえを滅ぼすのに十分だという確信があった。なんて危ないものを作ったんだろう。約束の日まで、あと三日のことだった。
テテさんのおうちへ帰る途中で師匠の工房に寄ると、ぐったりとした師匠が居た。病に侵されてこそいないものの、ろくに眠れず飯も喉を通らないので酷い有様だとキレ散らかしていた。師匠は本当に困窮したことは喋りたがらない人なので、ちゃんと文句を垂れているということは、こう見えて少しは余裕があるのだろう。それでも見ていて気分の良いものではなかった。
先輩は自分の家で家族と大人しくしていると師匠が言った。先輩は所帯持ちだが、師匠は独り身だった。先輩がこの状況で師匠を工房に一人置いておくのは考えづらかったので、きっと師匠が世話になんかなれるかと突っぱねたのだろう。
私の顔を見て大分余裕が出来たと言って、師匠はお粥を啜り始めた。私は自分一人の仕事を師匠に認めて貰いたくなって、矢尻を見せた。師匠は大したもんだと私を褒めて、頭を乱暴に撫でた。材質があまりにも通り一遍でないことにはすぐ気付いて、私の目と矢尻を見比べて難しい顔をした。
師匠は矢尻を持って立ち上がり、作業場に入って直ぐに帰ってきた。矢尻は矢になっていた。頑丈に棒に固定されていて羽が美しく、射ればさぞ飛ぶのだろうと思った。私が、注文は矢尻なんですと言うと、まあいいじゃねえか、本当に矢尻だけ欲しいなら簡単に分離できるし、とはぐらかした。
少し前から人里にはいくつか避難所が設けられていて、あてのない人たちがそこへ集まって助け合っていた。師匠もそこへ行くべきだと提案すると、誰かも判らない奴らと集まって一緒に縮み上がってるなんざ本当は性に合わないと悪態をついたが、私と先輩に無駄な心配をかけるのも悪いと言って承諾してくれた。
***
矢尻を矢にしてもらって良かったかもしれない。これを見ていると気分が落ち着く。決意の固まる心地がする。それが私にとって本当に良いことかどうかはわからないけれど、少なくとも私の精神は今、僅かな頑健さを得た。それでも、ぬえに対する猜疑と比例するように、自己嫌悪が膨れ上がるのを感じて傘を掻き毟る手が止まらなかった。
当日、この依頼を受けた茶屋で待っていれば、ぬえは来てくれるだろう考えた。昔から変わらずそうであったように、通りは閑散として、お店は閉まっていた。地面を踏みにじる音がすぐ近くに聞こえて私がそちらを向くと、そこにはぬえが居た。ぬえからは黒い煙が立ち昇っていた。ぬえは私が持っている矢を一目見て、すごいよ小傘、ありがとうとはにかんだ。
私は彼女に何を言うべきかと思案した。一際大きな声が空から響いて、自分の顔が不愉快さに歪むのを感じた。風が強かった。色んなことが他人事に思えた。私はまず、友達が自分の仕事を褒めてくれたことに対して、お礼を言うことにした。
「ありがとう。でも、これは渡せないんだ、ぬえ。今起きてることがぬえの仕業じゃないとしても、大きく関係していることは確かでしょう。どうして何も話してくれないの? 納得できなきゃ、これは渡せない」
「私を疑ってるの?」
「何も疑うな、何でも受け入れろっていうの? こんなことになってるのに? そんなのひどいよ。話せない理由があるの? それすら答えられない?」
ぬえは大きくせき込んで、黒い煙を吐いた。よく見るとひどい顔色をしていて、目の隈がくっきりと主張していた。今の私にとってはそれすらも、同情を引くための作為のようなものが感じられて気持ち悪かった。ぬえの力なら、多少体調が悪くてもそう見せないことは容易いし、ぬえの性格なら進んでそうするはずだからだ。或いは、多少、ではないのかもしれなかった。
「ごめん。話したくないんだ。何も。話せないわけじゃない。話したくない。私にとって大事なことの、優先順位の問題で。そして……小傘からそれを無理矢理奪ってまで、この声と煙をどうにかしようだなんて思っちゃいない。だからその矢を私にちょうだい」
「なにそれ! 矢尻があればこの声と煙をどうにかできたってこと? だったらそれだけでも言っておいてくれたらよかったのに!」
「これはお前より上なんだよ、小傘! それに、お前のことは好きでも、お前の好きなものがどれだけどうなったって知るもんか!これは私の―」
最後まで言い終わることなく、ぬえはさっきまでと比べ物にならない量の煙を吐き出した。咳き込みながら苦しんで、のたうち回る様があまりに痛々しく感じられて、思わず傍まで駆け寄ろうとしたが、煙が質量を持ったように邪魔をしてきてそれも適わなかった。空に上った煙がいくらか集まって、少しずつ見覚えのある形を成していった。
それは鵺だった。封獣ぬえじゃない。絵巻なんかに描いてある、猿の顔に四つ這い、蛇の尾の。今回の騒動は、彼女の真意はともかくとして、なるほど彼女の仕業ではあったわけかと合点した。
ぬえは私に、こっちへ矢を投げろと叫んだ。すべてに納得がいった訳ではなかったけれど、少なくとも「あれ」がぬえの心ひとつで動いている訳で無いことは明らかだったので、言う通り矢を投げようとした。後ろから腕をつかまれて、それは失敗した。
「もうそんな必要はないわ」
私の後ろに居たのは霊夢さんだった。ぬえが霊夢さんを見て驚愕して、やめろと怒鳴った。霊夢さんは弓を持っていた。
「口寄。源頼政」
霊夢さんが頼政の名前を口にすると、展開された陣と共に私の体が蒼く光って、私の手は勝手に動いて霊夢さんの弓をひったくった。
「頼政! 博麗の巫女! お前ら!」
ぬえは憎悪の表情で霊夢さんを見ていた。私は口を動かすことすらできなかった。呼吸が自由にできず苦しかった。私が弓を引き絞り矢を放つと、それは初めからそう決まっていたかのように鵺の方へ一直線に吸い込まれていった。ただ矢が刺さっただけにしては随分大げさな音がした。鵺はあの散々聞き飽きた不気味な声ではなく、猫が大岩にでもひねりつぶされたら丁度出すのかもしれない、普通の悲痛な声を上げた。
鵺は暫く苦しんで、丁度私の前まで落ちてきた。私の右手から光が伸びていき剣を形作った。鵺に飛び乗り、それで首を思い切り突き刺した。鵺は大きく光って、粉々に弾け飛んだ。黒い煙が、水面を穿つ波紋のように晴れていった。雹の如く降りしきる肉片の中で、ぬえの矢尻が見つけて欲し気に輝いていた。
***
「儂はなんにも知らんよ」
「うそぉ。口止めされてる?」
「憶測と邪推くらいはできる。例えば……鵺退治の時にあいつは本当に一度滅んでいて、今のぬえは矢の中に留まった本体の残響に過ぎなかったのだ、とかどうじゃ? 突っつきすぎて絶縁されても困るし、この辺で勘弁してくれ」
まず、ぬえはあんな退っ引きならない状況にあって、どうして私の矢尻作りをそんなにも悠長に待ってくれたのだろうと疑問に思った。あの時、優先順位の問題と言っていた。ぬえの中での私の優先順位。あるいは単に、込められた気持ちがより大きな力になることを期待しての打算だったのかもしれない。
でも本命で言うと、友達の私が独り立ちして最初にする仕事を大事にしてくれたんだろうと思っていた。私、あんまり友達友達言うなよと良く窘められていたっけな。多分、こういうところなんだよな。
マミゾウさんの言った通りなら、ぬえと頼政には何らかの奇妙な絆があったのかもしれない。邪推。確かにそう。あの時ぬえが二つに分かれた理由も、邪推で良いならいくらでも思いつく。
当のぬえは、以前話していた山の奥に祠を建てて、そのご神体に矢尻を置くのを私の前で見せてくれた。結局ぬえは何がしたかったのかと聞いても、一言「清算」とだけ言って飛び去ってしまった。私はぬえに好かれているということに関しては殊更自分に自信を持っていたので、それでもぬえが「お前より上」と言うなら、それはきっと何よりも一番上にあって、彼女が終わるその時まで誰も真相について知ることはないのだろうと思った。もしマミゾウさんにだけは喋っているとかだったらそれは二人とも殺すしかない。絶対に許さない。
今回の異変はぬえが人為的に起こしたものということになった。実際、殆どそんなようなものだったので、擁護のしようもなかった。もう、妖怪然として妖怪行為を働くなら、その報いを受けることまでが営みの内だと思った。身から出た錆で地獄に落ちるというなら、悲しくとも受け入れるしか道はない。
人里では騒ぎがようやく収まったあと、こんなになるまで博麗の巫女は何をやってたんだと批判が少し行ったらしい。でも私は思う。ぬえが自分から現れたならともかく本気で身を隠してしまったら、霊夢さんだろうが何だろうが見つけられるはずがない。あの後、私をずっと張っていたとわざわざ詫びてきてくれたので、霊夢さんもそう思っていたんだろう。
一応後日、事実として大きな出来事と共に「鵺」は退治され事態が解決したので、いつも通りなあなあになったという旨を、霊夢さんが気を利かせて教えてくれた。なんと死者はゼロだったらしい。胸を撫で下ろした。
子守契約の満了日になって、私はいつもの仕事を一通り済ませてテテさんから最後のお時給を受け取った。ハハさんは全快してすぐまた仕事仕事の生活へ戻ったらしく、私は結局病気していた時以外では顔を合せなかった。
お別れの挨拶はカラッとしたものだった。テテさんにこっそり教えてもらったが、私のいない時、息子二人は私との別れをかなり惜しんでくれていたようだった。二人は一緒に描いた矢尻の絵を全部私にくれた。私はその時のお礼も兼ねて、茶屋で買った羊羹を渡した。チョイスが他人行儀過ぎたかもという不安は杞憂に終わり、二人は喜んでくれた。
歳の頃を考えると、私がいつかまた暇を作って子守の仕事を始めたとしても、きっとこのおうちの厄介になることはないのだろう。アニくんは踏ん切りがついたようにオトウトくんの頭を一撫でした。靴を履いた私に向かって、小傘ねえちゃんは俺に、お兄ちゃんなんだから、とか、男の子なんだから、とか、そういうことを言わないでくれていたのが嬉しかったよ、オトウトの面倒はちゃんとするから心配しないでと言って俯いた。
アニくんが言ったことと裏腹に私は、男の子だなあと思った。二人はおうちの前で手を振ってくれていたので、後ろに向かって手を振り返しながら歩いていたら躓いて転んだ。恥ずかしかったのですぐ走って逃げた。
数日して、仕事を貰いに師匠の工房へお邪魔した。前に来た時は師匠のことばかり見ていて気付かなかったけれど、私が払った工事代のお金が、渡した時の包みのまま神棚の上に置いてあったので、この人は本当になんて人なんだろうと思った。
私がそれに気付いたのを見て、師匠はばつが悪そうにそっぽを向いた。私は照れまくって、使ってもらえないとお金がかわいそうでしょうと先輩に八つ当たりした。
先輩は呆れ調で、最初は師匠が一番小傘ちゃんを邪険にしてた癖に、ある日から突然にこんな溺愛し出すんだから小傘ちゃんも困惑するよ、ほんと距離感ぶっ壊れてんだよね昔からと吐き捨てて、師匠にぶん殴られていた。私の周りにはどうも性格の粉砕骨折した人が多い。
それから、割に忙しい日が続いた。鉄を鍛えるのは楽しい。師匠も先輩も好きだけれど、集中している時に突然聞こえてくる師匠の怒鳴り声も、しょんぼりする先輩の声も苦手だったので、一人でやれている今の環境ははっきり言って素晴らしい。子守を通して慕ってくれた子たちが、たまに職業体験の真似事をしにきた。それはそれで楽しかった。
時間を空けて、たまに茶屋でぬえを待ってみたりする。お会計の時に看板娘の赤さんが、次は会えると良いねと言ってくれることがある。ぬえとは祠で別れて以来だった。マミゾウさんが通りがかって、ぽつねんとして物憂げな私を見て心配になったのか、困り眉で話かけてきた。少し一緒に過ごしているとすぐに和やかな雰囲気が一辺を支配した。
取り巻く全ての人たちのことがちゃんと好きだった。私の周りにはいつも笑顔の人がいる。執着の重さを天秤に掛けなければならない時、きっと私はどちらも選べない。それを自覚した。封獣ぬえは私と仲良くするにはちゃんと妖怪過ぎたのかもしれなかった。多々良小傘はあの子と仲良くするには些か人間過ぎたのかもしれないし。
しかしそれでもせめて、次に会うのが十年後でも百年後でも、昨日の続きのようにその日を過ごせる私たちでありたい。一身上の都合により待ち時間の楽しみ方に詳しい私のことだから。黒煙が視界の端に映るのを。
でも小傘ちゃん『もしマミゾウさんにだけは喋っているとかだったらそれは二人とも殺すしかない。』って言うのは良くないと思う。そんなだから人柄良くても傘の柄は悪いんでしょうに(?)
あと単純に小傘の周囲の鍛冶の師匠や子守先のガキんちょ共も小傘という妖怪の人の良さを表現するのに一役買っていたのも、人里舞台の話としてこういう世界があっても良いなという優しさすら内包していたのかもしれません。性格の複雑骨折とは言うが小傘ちゃんだって性格面では傘の骨がバッキバキのボッキボキだぞ。妖怪の尊厳は大丈夫か。
緩急付けつつも柔らかで優しくも妖怪的な魅力も存分に盛り込んだ楽しい話でした。ありがとうございます、ご馳走様でした。
こがぬえの奇妙な関係性と、小傘の日常や人間関係と、複雑に混ざっていて面白かったです。
最後の終わり方も、決して暗くなく光を感じられてよかったです。
有難う御座いました。
小傘というキャラのはつらつとした一面がよく出ていて良かったです、面白かったです
小傘はぬえに友人としてある種の重さがあるほどに想い入れていて、ぬえもぬえでぶっきらぼうながらしっかりと信頼している。そんな少し歪ながらも素敵なこがぬえを堪能させて頂きました。
人里事情の描写も密で、妖怪と人間の関係をしっかり物語に組み込んでいるなと感じました。素敵な作品をありがとうございました。
ぬえと仲が良いと絶対的な自負をしているからこそ、小傘が自分よりぬえと親しい関係の者に嫉妬するのが可愛かったです。
人里での子守や鍛冶屋の人達との交流から、明るくて優しさを兼ね備えた小傘の人柄が見て取れました。ぬえもそんな小傘の人柄に惹かれた一人だったんだなぁと思います。
ぬえと頼政との間にある特別な絆の様なものを感じながらも、それでもぬえの事を想って前を向く小傘の姿が本当に素晴らしかったです。
有り難うございました。
一生懸命な小傘がとても魅力的でした。
めちゃくちゃ素敵でした!
自分はあんまり文学に馴染みがなく読むのが億劫かな~って思ってたんですけど、
なんていうかBGMで閉ざせし雲の通い路掛けながら楽しく拝読させていただきました。
とても楽しかった。
少し私には難しい作品だったと感じた上で
こがぬえの独特な距離感やお互いのじっとりと重い感情が素敵でした。