日付: 2018/6/17
場所: 品川駅前、カフェ・リストマニア
氏名: 相沢 由一 (あいざわ よしかず)
年齢: 37
職業: 会社員
由一が祖父である相沢 和雄 (かずお) から聞いた体験談。和雄は元兼業農家で、既に故人。
和雄は、子供の頃、福島県にある農村 (具体的な地名は不明) に住んでいた。相沢の家系は豪農の分家の血を引いていた。分家の分家といった具合だ。和雄の家はあまり良い暮らしをしているわけではなかったが、子供たちの教育には熱心だった。勉強道具ならば何でも買い与えた。分家の分家なりのコンプレックスだったのかもしれない。両親は和雄を学者にするのが目標だった。十歳の時点で高校で習うような英語を教えようとしていたのだから、その意気込みはかなりのものだったと言える。
両親の期待とは裏腹に、和雄は毎日の勉強に嫌気がさしていた。その日は初夏で、だんだんと蒸し暑くなってきた頃だった。気候の変化が和雄の心境に影響を与えたのだろう。和雄はつまらないことで両親と口喧嘩になり、しまいには勉強の件が話題に上った。日頃の鬱憤が爆発し、和雄は持てる限りの勉強道具を抱えて家を飛び出した。そして、近くの森に入り、勉強道具を小川に投げ捨てた。教科書や辞書が川を流れていく様を見て、小気味よく思ったのも束の間。怒りが収まる頃にはむしろ青くなっていった。親の逆鱗に触れるようなことをしたのは明らかであった。
和雄の予感は当たっていた。和雄は追いかけてきた父親に殴られて、川に投げ捨てた勉強道具を拾い集めてくるように命じられた。すべて集めるまで、家の玄関に上がることは許されなかった。川が大河だったら、拾ってこいなどと言われず、さらに殴られただけで済んだだろう。しかし、捨てた場所が小川だったものだから、勉強道具はどこかに流れ着いている可能性があった。
和雄は悔しさに咽び泣きながら、勉強道具を集めてまわった。川沿いに打ち上げられた教科書や辞書は、濡れて重さを増していた。インクが滲んでもはや役に立たないのは明らかだったが、罰は罰。濡れた本を抱えて、見つけては拾い、見つけては拾いを繰り返していった。田舎の夜は早い。あっという間に日が暮れて、いつしか辺りは真っ暗。おなかも空いてきた。諦めて一旦は家に帰ろうかと思った頃、和雄の目に何かが飛び込んだ。
それはぼんやりとした光だった。それが一定の周期で明滅しているのである。
こんな森の中で何が光っているのだろう。和雄は興味をそそられて、光に近づいていった。そして、その正体を知り、愕然とした。
それは蛍の群れだった。夥しい数の蛍が一箇所に集まって、凄まじいほどの光を発していたのだ。当時、開発がまともに進んでいなかったその地域では、蛍そのものは珍しくなかった。蛍が群れること自体はおかしくない。しかし、数え切れないほどの数の蛍が川沿いの一点に集まっているのは異常だった。しかも、一匹一匹が電灯のようにまばゆく光っているのだ。光の色は蛍のそれなのだが、明らかに光り方が尋常ではなかった。
和雄はもう一つ異様なことに気が付いた。恐ろしいほどの数の蛍の群れの中に少女がいた。背を向けて顔は見えなかったが、眩しい蛍の光で姿自体ははっきりと見えた。年の頃は8歳か9歳くらいに見えた。筋張った腕。枝のように細い脚。骨の浮き出た華奢な背中。そう。少女は服を着ていなかった。幼い少女が素っ裸で夜の森の中にいること自体異常だが、その周囲を奇妙な蛍が取り囲み、飛び交っている。和雄はついに恐怖に堪えきれなくなり、うっかり手に持った勉強道具を落としてしまった。地面に落ちた勉強道具がベシャリと音を立てた。
すると、少女が和雄の方を振り向いた。
和雄は少女の顔を見て、弾かれるように逃げ出した。川沿いを走り、森を抜け、自宅の明かりが見えてきた。玄関の戸を必死に叩いた。父親が戸を開けて、泣き喚く和雄を訝しげに眺めた。和雄は懸命になって、自分が見たものが何かを説明したが、父親は信じてくれなかった。結局、和雄は森に戻り、怪異に驚いて取り落とした勉強道具を回収する羽目になった。さすがに父親もついてきてくれたが、勉強道具を全て拾い集めるまで家に帰してくれなかった。
父親が和雄の話を信じてくれなかった理由。蛍がたくさんいて、その中心に裸の女の子がいたというだけで十分に信じがたいだろうが、さらに大きな理由があった。
少女の頭には、蟲の触角としか形容できないものが生えていたのである。
和雄は少女の正体を蛍の化身ではないかと考えていた。父親に急かされて森に戻ったとき、少女がいた辺りには誰もおらず、ただ和英辞典が落ちているばかりだった。和英辞典は不思議とほとんど濡れていなかった。そのため、他の勉強道具は買い直すことになったが、和英辞典だけはそのまま使い続けた。ただ、その和英辞典は「う」の項の、あるページが抜き取られていた。和雄はあの夜に少女がそのページを抜き取ったのだと考えていた。しかし、少女がなぜそのページを持ち去ったのかは分からなかった。