――結局。私のような役立たずに出来る事はと言えば、酒を呷る事くらいしかないのだ。
青娥からかっぱらった度数の強い酒を胃袋に流し込んで、私は夜空を見上げた。月の無い夜天には、頼りない地上の灯りに照らされる雲が足早に過ぎゆく様しか映らぬという退屈。対象的に、轟々と風は唸る。神霊廟の夜は何故かいつも騒がしい。突き上げる風が酒の雫を舞い上げた。私の体ごと連れて行ってくれればいいのに、気の利かない秋風に悪態を吐いてみても、唸音に掻き消されて、自分の耳にすら届かなかった。
青娥の庵の方を見やると、丑三つ時もとうに回ったというのに、未だ煌々と光が灯っている。わずかの間に人死が出過ぎた。遺体を修復し、遺族に返してやれるのは青娥だけだ。人の尊厳を、生きた証を守るために青娥は戦っている、膨大な量の死送りと。普通の人間ならとっくに潰れてしまってもおかしくはない。何が彼女を支えているのか、先にぺしゃんこになってしまった私には、分かってやれそうもなかった。
揺らめく庵の灯を見ていると、胸のあたりがムカムカと痛む。これは青娥への罪悪感か。いや、単に酒で胃が焼けただけだろう、暗闇の中で毒を嘗める鼠がそんな高尚な感情を持ち合わせている訳が無い。
ふと雲間に走る小さな雷光。雨の匂いはしない。酒に淀んだ眼で空を見上げると、得体の知れない影が飛びゆくのが見えた。神霊廟を狙う有象無象か、はたまた私の幻覚か。酒と自虐で脳味噌が破壊されて、遂に廃人になってしまったのかもしれない。それもまた悪鼠にお似合いの末路だろう、構いはしない。胃へと一層酒を流し込んだ。
「……話には聞いていたけれど」
気が付けば、森の向こうに登る陽が見える。朝まで飲んでいたようだ。頭が重い、おまけに幻聴まで聞こえてきた。なるほど、これが二日酔いという奴か。齢幾千にして初めての経験だな。だが知ってるぞ、私は詳しいんだ。二日酔いには酒を飲むのが一番いいってな。迎え酒をしようと、徳利へ手を伸ばした。
注ぐ手が掴まれて、私は酒を溢してしまった。幻覚の癖に手を出すなんて、生意気な奴だな。
「酷い有様だね」
その幻覚は、多々良小傘の顔をしていた。
「過去の貴女が今の貴女を見たら、きっと軽蔑するよ」
そう言う小傘の顔には、何の表情も浮かんではいない。
「君もそうだろう? 小傘。軽蔑しろよ、さあ」
そう言ってへらへら笑って見せても、幻覚の小傘は首を振った。
「人の歴史にけちは付けない。それが付喪神の矜持」
「人、ね」
「人は惑い、うつろうものだからね。多少の迷いならお天道様も笑って許してくれるものだよ」
「手、離せよ」所詮、妖怪の私には関係の無い事だ。「酒が注げないだろ」
「霊夢さんが貴女を探し回っていたよ。幽鬼も怯えるほどの形相でね」
小傘は、手を離さなかった。
「悪鼠を退治するためか。それが里を救うことになると信じているんだな。熱心なことだ、感心するよ。だが無意味だ」
「霊夢さんはとても単純な人だよ。純粋と言ってもいい。その純粋さは、しなやかで弾力がある。まるで、刃金のように。その切っ先の向かう先が狂えば、人が傷つくの」
「大層な言だ。いつから人物評を始めた?」
「だから。向かう先を誤った人の手に、刃金があってはいけないの」
小傘は私の懐にさっと手を突っ込むと、布の小包――折れた輝夜の宝剣を奪い取った。
「今の貴女に、これを持たせておくわけにはいかない」
そう言い放ってから、ようやく私の手を離した。
私は自由になった手で、盃に酒を注いだ。そんな刀、どうでもいい。今の私には酒のほうが大事だった。
それを冷たい目で見下ろしてから、小傘は黙って踵を返した。
「ロッドは取り立てないのか? 十手は?」
嘲り混じりにその背に吐き捨てると、小傘は振り返って、優しく微笑んで見せた。そうして、そのまま白む天へと消えていってしまった。
私はそれを見送って、盃を空けた。小傘の残した微笑みに、肩が重い。飲み直そうと徳利を振るも、中身はすっかり胃袋へ収まってしまっていた。とっとと酒を調達してこい賢将……言いかけた言葉を酒の代わりに飲み下す。尻尾の籠には、もう賢将はいない。
自分で酒を手に入れなければ。ちらりと青娥の庵のほうを見やったが、どうにも戻る気になれなかった。
仕方なく、千鳥足で街を歩く。覚束ない足元に、覚束ない視界。早朝から開く酒屋などあるわけもなく、閉じた店の戸をガタつかせては、自分でもよく分からないような暴言を吐いたような気がする。私の奇行に人々が向ける奇異の目が、頭痛を激しくさせた。とうとう耐えられなくなって、流れる小川に向かい胃の中のものをぶちまけた。
欄干の上から小魚達にアルコール分を分け与えてやっていると、背後から、同じく吐き散らかす呻き声が聞こえてきた。どうせ朝まで飲んでいた酔っ払いだろう。早朝から何を馬鹿な事をやっているんだか。
私が非難を込めて振り返ると、そこに在ったのは、勾欄の上で大きな翼を広げる一羽の凛々しい木菟の姿……いや、欄干に持たれて息も絶え絶えの、豊聡耳神子だった。
「おや。ナズーリン女史か、奇遇だね」
顔面蒼白で言う。薄い色の唇を歪めて笑いかける様が、なんだか健気で情けなかった。
「……何してんだ、神霊廟の指導者が、こんなところで」
酒の匂いはしないようだが。自分にでも酔ってたのか?
神子は苦笑いしながらかぶりを振った。
「いや、お恥ずかしい。どうも昔から、牛車というものが苦手でね……」
酔は酔でも、どうやら乗り物酔いをしていたらしい。
「なら乗らなけりゃいいだろうが。阿呆か」
私がそう棘を吐くと、青い顔で首を振った。
「車上は人を凛々しく見せる。民に顔を見せる時には乗らなければならん」
「……見栄は結構だが、影で吐いているほうが情けないぞ」
「いやはや、返す言葉が無いな。どうか民には内緒にしておいてくれ給え」
そう言ってから、神子はおもむろに後ろを向くと、また呻き声を上げた。
肩で息をし、はみ出たよだれを手首で拭いながら、取り繕って神子は言う。
「ところで、探しものは順調かね? 女史よ」
「知るか、そんなこと。おい、それより酒を持っていないか。頭痛がして堪らん」
神子は私の様子に少しだけ眉を動かしたが、声色は変えなかった。
「酒、か。それもよかろう。一時、俗世を離れ、使命を忘れる事が出来る。現実に立ち向かう為には、そのようなものも必要だろう。人は迷う生き物だ。聖者ですらも、それは変わらん」
「幻覚と同じことを言う」
「ならきっと、それは幻覚ではないのだろう。それは世の理、真理と呼ばれるものだからな。人間の在り様と言っても良い。賢者ならば誰もが知るところだ」
「それは貴様らが勝手にそう信じているだけだろう。真理とは言わん。生憎、仏道では迷いを持たず悟りを得た者を聖者と言うんだ。覚えておけ」
豊聡耳神子はここで初めて表情を変えた。
鋭く目を細めて、私を睨む。それは、私を値踏みするような目だった。
「成程な。ようやく分かった。何故君が今、迷っているのかを」
「ああ?」
私は声を荒げた。
そのような瞳で見られることは、虫が好かない。
「何が分かったってんだ」
「君は今、仏道の解釈を誤っている」
「誤っている、だと?」
……よりにもよって、この女は。
「そうだ。君は君自身の根幹を成すものを今、捻じ曲げてしまっているのだ。そうさせたのは、永きに渡る自責か、信じた者に裏切られた怒りか、それは分からない。だが今、君の中にある仏道は歪み、君は仏典の意味を履き違えて解釈しているのだ」
「履き違えて解釈、か。ハッ、そうだろうよ。だが、仏典の意味を真に把握している者など、一体何処に居る? そんな者は終ぞおらん。悟りの意味など結局、シッダールタ一人にしか分からんのだ。もし他人が分かり得るものだとしたら、今頃この世は仏だらけだろうよ」
「いや。居る」神子は背筋を伸ばし、胸を張って言った。「私はそれを知る者を知っている。もちろん君もな」
その瞬間、自分でもなんだか分からない怒りがこみ上げて、私は舌鉾を神子へと突き刺した。
「まさかそれが自分自身だとでも言うつもりか? 大言壮語も大概にしろ、日出づる国の天子サマよお。聞きかじっただけで仏道を極めたつもりか、反吐が出るぜ。井の中の蛙が喚いたところで太陽に届くものかよ。滑稽だぜ。天道に焼き尽くされて灰になるのが、貴様にお似合いの末路だ!」
最後のほうはほとんど怒鳴って、枯れた喉にむせてしまった。
神子は涼しい顔で口を開きかけたが、奴の傲慢な反論など聞きたくない、私はそのまま踵を返し、早足で青娥の庵へと戻った。
「青娥、青娥、青娥! 酒だ! 酒をくれ!」
こみ上げる怒りのままに青娥を呼びつけ、私は酒をねだった。どの口で傲慢などとほざくのか、自分でも不思議なほどに。
奥から出てきた青娥は、徹夜明けで隈の出たその顔で、それでも嫌な顔ひとつせず、酒を持って来てくれた。
私はそれを乱暴に引っ手繰ると、杯にも注がぬまま、口の中に流し込んだ。そして、眼前の青娥にすら罵倒を浴びせた。羅列するのが憚られるほどの言葉で。
「……お酒ならいくらでもあげるわ。ナズちゃん」
私の暴言を黙って聞いていた青娥は、頭を垂れた。
「でもね、ごめん。貴女を酔わせてあげることは、私には出来ない」
見透かされて、私は自分の顔を手で掴んだ。
「妖怪は、辛いね。お酒に逃げることも出来ないなんて……」
青娥は苦い顔で、私に背を向けた。
……そうだ。
全て、嘘っぱちだ。
私はちっとも酔ってなどいなかった。
いくら飲もうと、酒は逃避をもたらしてくれなかった。
いくら呷ろうと、酒は現実を壊してはくれなかった。
せめて逃げられた振りをしただけだ。眼下に広がる、この無残な焼け跡から。
城郭の上に立ち、風を浴びる。
街を引き裂く黒の爪痕が、私の心にも食い込んでいた。マミゾウと神霊廟の人々を巻き込んだ罪悪感が、奴を止められなかった己の無能への憤りが、頭痛の津波に変わった。それを酒のせいにしてみても、心に平安など訪れない。訪れてはいけないのだ。この街を焼いたのは、私なのだから。
私が神霊廟に身を寄せなければ、ここは奴らに狙われなかったかもしれない。攻撃を止める唯一の機会も、己の半端な信仰の為にふいにしてしまった。私は数多の人の命より、己のちっぽけな自尊心を優先したのだ。きっと私は地獄に落ちるだろう。
齢幾千を数えようとも、私の生に陽は昇ることは無かった。いつだって、罪と無能が傘をかけて、天道を覆い隠してしまう。私の人生には、何の価値も無かった。纏わり付いた信仰が呪いとなって、他者にまで厄災を伝搬するのだ。
シッダールタよ。
貴方の説いた教えは、矮小愚鈍なこの鼠には、あまりにも大きい。
思う。私はここで自刃すべきなのかもしれない。そうすれば、この厄災の伝搬を断ち切れるだろう。より客観的に言えば、死体探偵というスケープゴートがなくなることで、奴らの活動を鈍らせることが出来るかも知れない。私の生命は費やされるが、この苦しみに満ちた生を終わらせることが出来るなら、それもよかろう。私の死が、誰か他の人を救えるのなら。
そう決意し、懐に手を伸ばして、気付く。
妖怪を滅する霊剣は、既に私の手の中に無かった。
嗚呼……小傘。君はなんて残酷な人だ。
私に生きて、まだ罪を重ねろというのか。
泣いて。呻いて。立ち尽くして。
死ぬ事も出来ず、生きる事もせず。それでも、刻は人を省みぬ。ましてや、鼠一匹……。
――結局。私のような役立たずに出来る事はと言えば、酒を呷る事くらいしかないのだ。
青娥からもらった度数の強い酒を掌の中で揺らして、私は夜空を見上げた。
空には雲一つなく、煌々と照る月が夜を欺いている。静まり返った神霊廟の街並みは、妙に厳かで冷たく、人間味を感じられない。私が情を解せぬ妖怪だから、そう感じるのだろうか。
太陽が頂上を過ぎ、姿を消し、月がその肢体を顕にする。その営みを幾度か繰り返す間、私は城壁の上に一人立ち尽くし、神霊廟の街を、私が焼いた街並みを眺め続けていた。酒を飲む気にもならなかった。街並みに残る黒い疵痕から、目を背ける事が出来なかった。生きるべきか死ぬべきか、仏道とはなんなのか。闇の中で一人、無意味な自問自答を繰り返していた気がする。
ふと、瞳の端に月影が揺れた。唸る風によるものではないと、私の本能が告げる。
瞳を走らせた先には、顔を奇怪に変形させた毛むくじゃらの化け物が、ぐわりと開いた口からだらしなく涎を垂らし、爛々と目を光らせて獲物を探っていた。見るからに妖力は低く、知能も低そうである。これは妖怪のなり損ない、いわゆる有象無象だろう。獣のルールから逸脱し、かといって妖怪のような強い力や知性を持つこともない。人や獣を襲って適当に食欲を満たし、そのうち自然の妖精に取り込まれて消えるような、半端で哀れな存在。
普段ならロッドの一薙ぎで霧散するような弱々しい存在だが、今の私は彼の目にも脆弱に映ったようだ。彼は私を睨みつけると、その胃袋を私の肉で満たすべくこちらへ飛び掛かってきた。相当腹が減っているのだろう、雷鳴にも似た腹音を響かせながら。
私はロッドを取り出すこともせず、じっとその様を見ていた……飢えに苦しみ形振り構わぬ彼の様子が、なんとなく、今の私と似たような気がして。
恐れは無かった。千年生きた妖鼠の最期にしては情けないな、それだけ思った。
むせ返る獣の臭い、大きく開けた口、並ぶ鋭い牙が光る。雲間に月の光が差して、映し出された彼の肢体が、私の眼前で突如爆発した。
その攻撃は見たことがあった。先日、私を撃とうとした雷の緑光は。
「蘇我屠自古……」
振り返ると、宙空に長い髪をなびかせ漂う、古の亡霊の朧気な姿がそこにあった。
「私を殺したいんじゃなかったのか? ……何故私を助けた」
「別に。夜警は私の担当だからな」
屠自古がおもむろに右腕を振るうと突風が巻き起こり、今しがた仕留めた有象無象の死骸を城郭の外の森へ吹き飛ばした。その仕草はまるで無造作で、石ころを投げるかのようだった。命に対する感傷というものを全く感じさせない。ほとんど人間と変わらぬ容姿を保ち、体温すら生前と同じように持つと言われる亡霊だが、その冷血振りには流石の私も眉を顰めた。彼に己を照らしていたというのもあった。
「流石は神子の木偶人形、だな」
「お前こそ、毘沙門天の木偶人形だろうに」
私は顔をしかめたが、屠自古は別段気にした風も無く、淡々とした口調だった。もしかしたら、「神子の木偶人形」という言葉は彼女にとって蔑称ではないのかもしれない。その鈍感に、何故か腹が立った。
そんな事を考えていると、闇の中からパキンという音が聞こえた。ある意味、それは私にとっても馴染みの深い音だった。乾いた木材が割れる音。そう、割り箸を割る音だ。
見やると、屠自古が割り箸を口に咥えていた。今気付いたが、その左手には湯気を上げる丼があった。私が困惑の視線を向けるのも気にせず、屠自古はずるずると丼の中身をすすり始めた。
「……何してんだ、君は」
「何って、夜食だ、夜食」
蕎麦をすすりながら何食わぬ顔で言う。食いながら何食わぬとはこれ如何に。
「亡霊だって腹が減る。夜警も割と大変だからな」
「君が一人でやっているのか? この広い神霊廟を?」
「最近は部下も使うけどな」
成程、夜半に度々目撃していた影は、彼女のものだったのか。
「お前こそ、こんな時間に何やってんだ」
「……風にあたっていたのさ」
私が言葉を濁すと、屠自古はちらりと神霊廟の方を見やった。そうして、ふわりと城壁の上に腰掛けると、横目で私の方を見やりながら語り始めた。蕎麦を口に運ぶその合間に。
「死体探偵、か。大変だな、生きている人間は考えなきゃならんことが多くて」
屠自古が何を考えているのか分からないが、明らかに私と会話しようとしている。私を殺すつもりだったはずなのに、その矛盾に眉根を寄せながら、私は聞いた。
「……同情のつもりか? それとも亡者の憧れか?」
「別に。ただ、以前は私もそうだったというだけさ。悩み苦しみ恨み妬み生きた。今のあんたみたいに。私は体を失って、そこから少しだけ純粋になった。今の私は己の欲と役割の為だけに存在している。私を冷血だと思ったろう? お前の言ったとおり、私は木偶人形だ。言葉にすれば汚い響きだが、それは心地よいものさ。私のすべてがあの人のために在れるということなのだからな。この言葉の意味はお前にも分かるはずだ。毘沙門天の使者を名乗るお前にも」
一口蕎麦をすすってから、屠自古は私の方を見つめて言う。
「なんとなく思っていた。お前は私と似ている」
それは、私も感じていた。
誰かのために自分の全てを捧げる。彼女の生き方は、聖が封印される前の私そのものだった。だから苛ついた。彼女がその生き方を肯定していることに。そして神子がそれに応えていることに。それは、毘沙門天が私には与えてくれなかったものだから。
今更気付く。込み上げるこの感情は、嫉妬だった。
だから私は、正直に言った。
「気に入らんな」
「似たもの同士は憎み合うとも言う。私もお前が嫌いだ」
屠自古は自嘲気味に笑った。
「だけど、私達が決定的に違うのは、私は既に死んでいて、お前はまだ生きているということだ。私は仏道を語る口は持たんが、これだけは言える。死は悟りではない、決して」
そうか。やけに絡んでくると思っていたら、この女、私の自刃を止めるために。
「……聖徳王の差し金か」
「いいや。だが、私の感傷というわけでもない。私は太子様の木偶人形なのだから。今、お前に死なれたら困る。それだけだ」
「そんなことはあるまい」
「分からんのか? 皆がお前の力を欲している。何故なら人は皆、その生涯をかけて大事な何かを探し求める、探索者だからだ」瞳を伏せて言う。「太子様は今、自分の道を見失っておられる。お前と同じなのだ。悔しいが、その答えを与えられるのは私ではない。それが出来るのは、どうやらお前だけらしい」
聖徳王の不調は体調によるものではなく、精神的なものが原因だったのか。
城壁を愛おしそうに撫でて、屠自古は続ける。
「この神霊廟は太子様の夢。あの人の役割を果たすべき場所であり、大いなる道を往く為の足掛かり……。だけどそれだけでは、少し窮屈な気がする。太子様はもう少し自分の為に生きてもいいはずだ。自分達はあの時に一度終わった人間なのだから。死んだ後くらい、面白おかしく生きたっていいはずだろう」
その台詞はいつか聞いた。青娥がここに居る理由が分かった。彼女達は同じ道を行く同志なのだな。
「後悔しているのか? 尸解仙になったことを」
私が尋ねると、屠自古は首を振った。
「そんなことは無い。あの人のやるべき事の為には必要な事だった。だけど、仏道で千年鍛えたお前が今、惑うように。あの人も一人の生身の女なんだ。弱さはある」
弱さ。あの傲慢で天道をすら畏れぬ聖徳王の、か。
「だから、私も布都も青娥と芳香も、この神霊廟という城とその民も。そして、今はお前も。あの人の大いなる道のために、全て必要なものなんだ。まあ……」
屠自古は空を見上げた。
空には煌々と光る月が浮かぶ。その眩しさに目を細めながら、彼女は箸を置いた。
「あの人と月と蕎麦があれば、亡霊の自分はそれで満足だがね」
「我々の本当の敵は、時間だ。そう思わんかね?」
早朝。がらんとした霊堂の中に、豊聡耳神子の力無い声が木霊する。ドーム状のこの霊堂の中で反響したその声は幾重にも折り重なり、耳の奥を舐め回すように何度も何度も私の鼓膜を叩いた。
灯り無く、薄暗い霊堂の中。
明り取りの小さな窓から差し込む細長い光が、私と神子の後ろ姿との間に、壁のように横たわっている。私はあえてその壁を超えるようなことはしなかった。
「時間とは恐ろしき魔物だ。永すぎる時は、君ほどの求道者すらをも捻じ曲げてしまう。だが人の強さは、時の流れすら乗り越えることが出来る。そう私は信じている」
相変わらず天井画を見上げていた神子は、ゆっくりと私の方へ振り返ると微笑み、優雅に一礼してみせた。
「存外、早かったね」
私の無表情に、神子は笏を振ってはにかんだ。
「気に入らないかね? 私の言葉通りになってしまったのが」
私は、首を振った。
「いいや。これはただの、私の気紛れだからな」
そう。強いて言えばこれは、私に似た奴への当て付けと、義理。ただそれだけに過ぎない。
「聞かせていただこう。掛け給え」
神子は霊堂の中にポツリと置かれた無機質な角卓を指し示した。促されるまま、私は神子と対して座った。私と彼女の間には、古い机の木目と差し込む光の壁だけがあった。
私は託された札を尻尾の籠から取り出すと、神子の元へと放った。
「由来を探し出すまでもない。それは旧一万円札と呼ばれるもので、外の世界の通貨だ。今ではもう使われていないが、一時期はありふれていた。外界では偽造防止のために紙幣へ過去の偉人の肖像を描く慣習がある。そこに描かれているのは古代日本における古の賢者、聖徳王……つまり、君だ」
はらり、はらり。
半眼の神子の眼前を、札が揺れて落ちてゆく。
「その肖像は一般的に流通する聖徳王の肖像だ。しかし、その言説は間違っていたようだな。君とは似ても似つかない。第一、その肖像は男性画だが、君は女性だ」
神子は、机上に落ちた旧一万円札の上に手を重ねると、
「……そうか」
そう言って、息を吐いた。
「一つ聞いてよいかな、女史よ」
重ねたその手は震え、半眼がどこを見つめているのかは伺い知れない。その様子に、私は少し薄ら寒さを覚えていた。
「……なんだ」
「君は千年前から日本列島に滞在していたそうだな。私の時代にも、既に日本へやって来ていたのかね?」
「どうだったか。しかし、当時は日本への布教を始めたばかりで、私の活動の中心は中国大陸だった。随分前の事で記憶があやふやだが、これでも私は毘沙門天の使者として忙しかったからな。まだ信徒の少なかった日本に出向く暇はとても無かったと思う」
「私の噂は聞いていたかね」
「それはな。中華皇帝に無断で天子の呼称を使った傲慢な男として有名だった」
「そうか……」
私の言葉に、神子は半眼を固く閉じた。
「どうした? 何時にも増して顔色が悪いぞ」
なんとなく、胸騒ぎがする。
光の壁の向こうの神子は、薄い色の唇を震わせて、声を絞り出した。
「……ナズーリン。私は、自分が女であることを偽ったことは無い。一度もな」
「そうか。しかし当時、女性が権力を持つ事は珍しかった。文書のやりとりだけでは男性に間違えられても仕方なかろう」
「間違われるはずがない。何故なら私はその時、国のため、女であることを武器にした。早い話が、中華皇帝に政略結婚を打診していたのだからな」
「政略結婚?」
なんだ、それは。そんな話、聞いたことがない。
誰かが恥じて隠蔽した? だが婚姻政策など珍しくもないだろう。第一、中国側がそれを隠蔽する理由もない。だが何故かその話は残っていない。何故残っていないのだ? そして何故、豊聡耳神子は男に間違えられたのか?
そこまで考えて、私は刮目した。
……間違えられていなかったとしたら? 神子の、歴史では。
「女史よ。もう一つだけ教えてくれ。君は過去の幻想郷の姿を垣間見たと聞いた。それがどんなものだったか、私にも詳しく教えてくれないか」
そうか。
神子は、いや神霊廟は……。
ようやく分かった。神子の精神を害していたのは、私と同じ、この疑念だったのか。力を失うのも分かる。これは、人々の怖れが源の妖怪にとって己の存在の根幹を揺るがされる事に等しい。尸解仙とてそれは変わらんだろう。
足が震えている。ずっと疑ってはいたが、まさかこんなにはっきりとした証拠を突きつけられるとは、私も思っていなかった。女性の聖徳王、そして城郭都市神霊廟に対して付き纏っていた違和感の正体は、これか。
少し迷った。だが、神子は既に答えを出しているように見える。だから私は頷き、言葉を選びながらゆっくりと語った。
「封印された夢想の中で、私は見た。過去の幻想郷には海があり、そして空には二つの太陽が輝いていた。それが現実に起こった光景だったのか、私には分からない。だが私が見たあの光景は、君の中の疑念を確信に変えるに足るものだと私は思う。そしてもう一つだけ付け加えるのなら。君の話は、私の中にあった疑念を、確信に変えるに足るものだった」
「そう、か……」
神子は大きく息を吐いた。疲れた、老婆のような溜息だった。
私は目を伏せて言った。
「心中、お察しする」
軽々しく言ったつもりは無かった。他人事でもなかった。私が彼女より平静を保てているのは、信じていたものが全て崩れ去る痛みを既に一度経験していたからに過ぎない。
「だが、ここでは誰もが異邦人だ。君も、私も」
そのために作られた場所なのだ、この幻想郷は、恐らく。
「依頼は果たした。後は君の問題だ」
私は椅子を引いて立ち上がろうとした。
「待ち給え」
去りかけた私を引き止めたのは、神子の言葉だった。その言の鋭さに、私は振り返らざるを得なかった。
「女史よ。礼を言う。君の偽らざる言により、私の疑念は確信へと形を変えた。君にはいくら感謝しても足りない」
天を見上げる。天井から見下ろす自らの姿、救世の天井画を見つめて、神子は顔を歪めた。何か途方も無い重荷に苦しむ人のようにも見えた。
「この異邦の地で私に何が出来るのか、何をするべきなのか、何をせざるべきなのか。それはまだ分からない。私も君と同じだ。迷いの只中にあり、己の在り様を見失っている。だが女史よ。それでも私は、義務を果たさねばならない。私は打算を持って君という窮鳥を囲った。君はその恩義を十二分に返してくれた。ならば、飛び立つ鳥へその道筋を示すのが我が義務」
そう言って私へと向き直った神子の顔は、先程までの苦しみや憂いが消え去り、穏やかで清らかでそしてたまらなく恐ろしい顔……例えるのなら、仏間に佇む星の顔にも似ていた。
「歪んでしまった君の仏道を、今こそ、この聖徳王が正そう。ナズーリンよ」
霊堂内に私の溜息が響いた。
「相変わらず、君は傲慢だな」
コツ、コツと音が響いた。
「傲慢? それは違う。最初に私は言ったはずだ。この神霊廟は水鏡だと。私が傲慢だと映るのなら、それは君が傲慢だからなのだ」
指先で規則的にヘッドフォンを叩きながら、神子は言った。
その異様に、私は眉を顰めた。
「仏道を極めたかのような君のその物言いが傲慢でなくて、何が傲慢か」
「それだ! ナズーリン」
半眼の神子の指先に鋭く差され、私の心臓が跳ねた。
「何故君は、仏道を極められないものだと思っている。何故、自分には手の届かないものだと決めつける」
「仏道は君が考えているほど浅薄ではない。多岐に渡る仏典の、その広汎かつ深遠な意味を理解するには、人間如きの知恵と時間では到底足りんだろう。ましてや鼠では」
「だが、シッダールタはそれを得た」
「それはシッダールタが仏陀だからだ。いや。逆だ。それを得たからシッダールタは仏陀となった。我ら凡夫には到底為し得ないことだ」
「ならば何故、シッダールタは布教を始めた? 人々が悟りを得る事が出来ないのなら、彼は布教を始めなかったはずだ」
「それは」
神子の正論に、私は少し詰まった。
「……それはおそらく、シッダールタ自身ならば悟りを正しく教え広めることが出来たからだ。だがシッダールタ亡き後、もはやそれも叶わぬ。我々は彼の残した言葉から救いのかけらを拾い集めて、呻いているだけだ」
「いや。少なくとも、君は理解し実践していたはずだ。あの時。毘沙門天と袂を分かつその時までは」
顔が強ばるのを感じる。
「貴様、何故それを……」
神子には人の欲を聞く不思議な力があるというが、読心まで出来るのか? だが、何かおかしい。笏を握り、指先でヘッドフォンを叩く半眼の神子は、私と会話しているようで、していないような気がする。彼女の唇から滑り出す言葉が、どこか異次元から生み出された旋律のようにも聞こえてくるのだ。私の眼前にあるはずなのに、神子の気配が感じられない。
「君は毘沙門天への憎悪と、それ以上に自分への怒りから、己の道を見失った。そう思い込んでいるのだ。だがそれは誤っている。道は常に、君の中にあった」
その薄い背に光差す。窓から差し込んだ陽の光か? だがその光は次第に渦巻きうねり、周囲に天道が如く迸る。まるであの時の毘沙門天のように。
私はいつの間にか、刮目していた。
これは、この光はまさか、聖人が負うといわれる後光、光背……!
「ナズーリンよ。改めて問おう。悟りとは、一体何だ」
光背を負い、半眼で穏やかな涅槃の境地に在る聖者のような顔つきで。まさしく仏像が現実に舞い降りたかのような神々しさを放ちながら、神子は私に問いかける。
「さ、悟りとは……」
私の唇は震えていた。
私はなにか畏れるべきものを前にしている。
目の前にいる女は本当に聖徳王か? 豊聡耳神子なのか?
「悟りとは、正しき智慧を持って全ての煩悩を滅し尽くし、苦しみの消えた涅槃の境地へと至ることだ」
「違う」
静かに、神子は言った。
「悟りを得れば一切の悩みは生じないのか? あらゆる痛みや苦しみから開放されるのか? 眠りや飢餓といった全ての欲望が消え去るのか? 悟りとは、そんな魔法の力のことを言うのか? そんなことはありえない。三毒五蓋を滅し尽くすことなど出来はせぬ。なぜなら、あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質だからだ。涅槃もやがては苦に変わろう。だが私達は経験的に、その魔法の発現をたった一つだけ知っている、知っていると思いこんでいる。それは死と呼ばれる現象だ。故に、悟りを歪んで捉えた者は、悟りの終着を死であると履き違えてしまう。だが、思い出せ。シッダールタはあえて死を勧めはしなかった。この無常の世界で彼が説いたのは、あくまで人の生きる道だったはずだ」
「この私に仏道を騙るか、小娘!」
私は机を叩き、立ち上がって足を踏み鳴らした。それは、目前に現れた畏れるべき存在に対する、私の理性の最後の抵抗だった。
「違う」
静かに、神子は言った。
私は息を飲み、一歩下がった。足が当たってすぐ脇の椅子が倒れる。その音が、ひどく遠くのように聞こえた。
「私は水鏡だ。君を映す鏡だ。これは、君自身の中にある言葉なのだ」
神子の放つ光の奔流に、天道が霞んでゆく。
な、なんだ? 迸る光のその陰に、誰かの姿が垣間見える。あの姿、どこかで見覚えがある……。
正体を探ろうと光の渦を見つめた。
息が弾み、動悸が早まる。
あれは……あの姿はまさか、毘沙門天?
「何度でも言おう。ナズーリン、君は悟りというものを履き違えている。悟りとは、樹海の奥に隠された秘宝ではない。悟りとは、神々から与えられた力ではない。悟りとは、太空を飛ぶ美しき白鳥ではない。悟りとは、金剛が如き絶対不変の知恵などでは断じてない」
違う、毘沙門天ではない。あれは聖?
いや、星、星なのか……?
「ナズーリン。世はまさに無常だ。あらゆるものに自性はなく、変化し続けることが存在の本質。知恵や智慧も同じだ。例え金剛不壊の真理を得ても、よしんばそれを理解し尽くしたとしても、それは悟りなどではあり得ない。知識や記憶はいつかその形を変え、消え去り散って失われる。だから人は戦い続けなければならない。移ろいゆく世界と、変わりゆく自分自身と。常に理法によって己を律し、正しき智慧をもって真実を見つめ続けることで」
……いや。
いや、違う。
似ているが、星ではない。あれは。
息が、息が出来ない。
「バラモンよ。悟りとは、為すことだ。為し続けることなのだ。為すべきことへと人を正しく導くための標が法であり、智慧と呼ばれるもの。バラモンよ。君の歩んできた道を、私は知っている。法と智慧とに依って人々の為に戦い、悩み、苦しみ、もがき続けたこの幾千年。それこそが悟りに他ならない」
あれは。
あれは。
馬鹿な。
そんな、まさか。ありえない。
あの方は……。
「バラモンよ。君の選んだ道は、私の歩んだ道よりも凄惨で、過酷を極めるだろう。だが行け、バラモンよ。みずからを島とし、みずからをたよりとして、他のものをたよらず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな。バラモンよ、正覚者よ。汝は常に己に打ち克ち、常に己に勝利し続けよ。いつの日か、一切衆生の消え去るその時まで」
光とともに、神子の指が突き出された。怒涛の如く押し寄せる光の煌めき。それに背を押されるようにして、私はふらふらと霊堂を出た。
進む足元は覚束ず、ようやく呼吸を取り戻しても、動悸がいつまでも治まらなかった。畏ろしくて、振り返ることが出来ない。瞳の奥で、未だ光が渦を巻いて。
なんだったんだ、今のは。
夢、なのか。
だが……だが、瞼に焼き付くあのお姿は……。
突然、目の前が真っ白になって、私は思わず目を閉じた。暗い霊堂の中に居すぎたようだ。不用意に朝日満ちる廊下の中に飛び出してしまったので、闇に慣れた目に日差しが眩しい。……ずっとあの輝きを目にしていたはずなのに、何故。
「やあやあ。ナズーリン女史」
薄目を開く。その白の中に、人影があった。影はもたれかかっていた壁から背を離して、右手を上げた。
「布都、か……」
「なんじゃなんじゃ、白昼夢でも見ておるような顔をしおって」
そう言って、朗らかに笑う。その能天気な笑い声が、私を夢から現へと引き戻した。
「いや……」
先程の現象はとても口では説明しつくせない。私が口ごもると、物部布都は眉を吊り上げた。
「なんじゃ、おかしな奴じゃのう」
「それより、何か用があるんじゃないのか?」
強引に話題を変えると、布都はぽんと手を打った。
「おっとそうじゃった。いやぁ、実はの。やっとこさ、あの火災被害の調査が終わったんじゃ。それでの、折角だから、被害の全容を女史にも教えてやろうかと思っての」
私は少し瞳を伏せた。
聞くのは恐ろしい。数多の人の死を負うには、私の背中は小さすぎる。
だが、不思議と心は落ち着いていた。
これも、私の業。
瞳を上げて布都を見つめると、私は言った。
「是非、私にも教えてくれ」
「うむ。心して聞くが良い。あの火事の犠牲者数は」
布都は懐手しながら微笑み、無造作に言った。
「ゼロじゃ」
そして小さく手を振ると、踵を返し、呆然とする私を置いて、光の向こうへ消えていった。
あいかわらずいい所で切れるので卯月が気になって仕方ありません