本居小鈴の訃報が届いた。
朝から体調が悪く寝込んでいたが、夜になって容態が急変しそのまま亡くなったのだという。
空は青かったし、大地は日差しに焼かれていた。鈴鳴る風鈴も汗だくの氷水も、夏を相手取るには頼りない。
そんな日だから、人が死ぬのも当然なのかもしれなかった。
阿求の元に知らせを届けた小鈴の父は、足取りも話しぶりも胡乱なところはなく、ごく自然な様子に見えた。
語る言葉に現実感を見いだせなかったのは、その振る舞いにも原因があるだろう。そうですか、と返す阿求の方が、かえって心ここにあらずと見えたに違いない。その様子をむしろ心配されてしまい、阿求は曖昧に笑ってごまかそうとした。何をごまかそうとしたのかは自分でも分からない。
出された冷茶に手を付ける事もなく、小鈴の父は席を立った。関係各位にこの事を説明して回らなければならないのだと言う。
この暑さで里を練り歩くのは難儀だろう。もう少し休んではどうか。阿求の提案に小鈴の父は微笑んで首を振った。動いている方が良いのです。そう言って屋敷を後にした。玄関が閉じ、同じように見送った使用人たちは各々の仕事に戻る。
玄関に一人取り残されて、阿求は所在なく振り向いた。稗田の屋敷の長い廊下が目に入る。こんなものになんの意味があるのかと疑問に思う。御阿礼の子が務めを果たすまでのたかだか数十年を囲うための屋敷。何十もの使用人と、それらを食わすための台所。大仰に過ぎる。蔵書の管理はどうせここだけでは賄えないのだから、すべて他者の手に渡してしまった方が効率的だ。どうせ一回読めば事足りる。食うと寝るに困らなければ小屋一つでも充分のはずだ。
いっそ今生のうちに屋敷を整理などしても良いのかもしれない。阿求はそう思ったが、それは何十もの使用人や料理人、庭師らの仕事を奪う事でもある。
稗田の屋敷に勤める事は里人にとって大きな価値を持つ。稗田に権力など本来はないが、幻想郷の支配者である妖怪と交渉できるのは稗田だけなので、実質的には里の長と言って過言でない程にその影響力は大きい。
里の人間は孤立する事を何よりも恐れる。大半の者にとって、里に居場所を失う事は人間においての死と同義だからだ。権力のそばに身を置きたがるのは本能ですらあるだろう。妖怪と繋がりがあるというただ一点において、稗田は支配者側の存在だった。そしてその手綱を握るのが、妖怪たちだ。
そういえば、小鈴は随分と妖怪に近づきたがっていたように思う。家が貸本屋故に妖魔本とも近しく、それが故に実際に妖怪と交流を持つようにまでなっていったのだけど、その興味自体は里の若者に共通してある意識の一つだったろう。
恐れの薄い若者ほど妖怪に近づきたがる。時にはなりたいとさえ思う。妖怪が人間の上にあるために、人間同士の中で尊敬や憧れの情が持ちにくくなる。妖怪を恐れる大人を子供たちはまず軽蔑し、やがてその恐れが道理だと知れば、自分が妖怪を排除して里人を救い出すという物語に傾倒し始める。いずれはそれも夢想と知り、権力に寄り添う事が結局はもっとも安心を得られる手段なのだと理解する。多くの者がそうやって身の丈を決めるのだ。
小鈴は死んだらしい。彼女は妖怪を恐れなかった。
いや、恐れてはいたのだけど、好奇心の強いがために妖怪と近くありすぎた。結果として普通に交流が生まれてしまい、妖怪への恐れはほとんど無くなってしまった。
いずれ、彼女の名を幻想郷縁起に記さねばならなくなる。おそらくは英雄として。そのように予感していた。
でもそうはならなかった。らしい。
阿求は自室に戻り、幻想郷縁起を開いた。
これを完成させるのが今生の努め。遍参はまだまだ途中だ。小鈴の名を書く必要がなくなった事は、作業がほんの少しだけ楽になったと思うべきだろうか。
なぜ、自分はまだ生きているのだろう。
小鈴は死んだのに。
女中が夕餉を運んできた。氷水はもう冷えてすらいない。
ついぞ一文字も書かれる事のなかった原稿をしまい、阿求は机の上に並ぶ夕餉を眺めた。
自分の心の状態を把握する事は難しい。だけどまともではない事は、米のひと粒も口に運べないという事実が物語っていた。
目覚めは最悪の一言に尽きた。そもそも眠れていないので、目覚めたという表現は正しくないかもしれない。
誰にも顔を見られないようにコソコソと部屋を出て、厠を済ませて庭に出た。ひどく喉が乾いていたが、水を飲んでもすぐに吐きそうな気がした。
縁側に座り、日が昇るのをただ待つ。
誰も声をかけてはこなかったが、いつの間にか自室で布団をかぶっていたので、知らぬ間に倒れてそのまま眠ってしまったようだ。
小鈴の父がまた来ていたらしい。葬儀は明日にやるが、無理して来なくても良いと言付けて帰ったそうだ。
何かの病気を持っていたかもしれないし、阿求にもしもの事があっては良くないからと、そういう話らしい。
今の自分に、いかなる事も成しえるとは思えない。
しかし、何かをしなければならないと思った。この頭に何も思わせてはならない。
心に取り返しのつかない傷を負う事があるとしたら、それをするのは己自身だ。阿求にはその確信があった。
阿求は紙を広げて漢字の書き取りを始めた。一度でも見た文字はすべて記憶している。頭に入っているすべての漢字を書き出すとどれほどの量になるのか、それを確かめてやろうと思った。
だが、すぐに筆の走りがひどく緩慢になった。頭は働くが腕が動かない。思えば昨日から何も口にしていない。肉体の方が限界を迎えようとしている。
女中らは阿求の様子をすぐに察したらしく、粥を中心に食べやすいものを揃えて持ってきた。気付けば日は落ちかけていて、程なく夕餉の頃合いだ。
今日はどうにか食べられる。阿求はゆっくりとだが、粥に漬物に煮物と完食した。食後に氷菓子もあると言うのでそれも食べた。
食後に少し休んでまた筆を取ったが、漢字の書き取りにはもう興味が失せていた。正しくは最初から興味などなかった。無理やり何かをしようと思ったに過ぎない。
どうせ筆を執るならと、幻想郷縁起の方を進める事にした。もっともすぐに眠くなってしまい、それも対して捗りはしなかったのだが。
目が覚めても部屋は暗かった。かなり早く床についたので、深夜の内に目が覚めたらしい。
日はもう跨いでいるだろう。今日、小鈴の葬儀がある。
人の声も物音もない。みんなまだ寝ている頃だ。だが、静寂と言うには虫の声が大きすぎた。夏の夜は暑いだけでなく煩い。こんな季節はみんなで冥界にでも居を移した方が良いのではないだろうか。幽霊が冷たいので、あそこは夏でもあまり気温が上がらない。
小鈴の魂は、もうそこにいるだろうか。行けば会えるだろうか。
多分、無理だろう。会えたとしても意味はない。幽霊と語らう術を阿求は持たない。そもそも冥界にたどり着く事自体が困難だ。
もう一度眠ろうとしたが、目が冴えてしまって叶いそうにない。それでも身体を起こす気にもならず、阿求はただじっと時が過ぎるのを待っていた。
阿求は孤独だった。それは生まれた瞬間からきっとそうで、今この時をもってしてもなお、変え難く存在する真実だ。
孤独でなかった時というのが、果たしてあったのだろうか。たとえば誰かと一緒にいる時は。
阿求のそばにはいつも人がいた。使用人とか女中とか十把一絡げに扱っているけど、彼ら彼女らの一人ひとりに名前があり、各々の人生がある。そしてその全てを阿求は記憶している。
今日――もう昨日だが、夕餉を運んできた幸恵は去年からここに勤め始めた。以前は別の家へ奉公に出ており、年若いのに隅々まで気の行き届いた世話をする娘だ。ただ、少しばかり気を張り詰めすぎるきらいがあり、息抜きが苦手なようだった。
厨房にいたのは柑太郎だろう。彼の父も稗田の厨房を預かっていた一人で、若い時分からここで修行していた。父が亡くなってからはその後を継ぐように腕前を振るっている。稗田お抱えの料理人はだいたいどこかの店で腕を磨いた職人たちなので、その意味では珍しい人物だ。気さくで快活な男で、阿求の事も赤子の頃から知っている。
縁側で寝入った阿求を自室に運んだのは、恐らく庭師の和茂。大柄で顔に傷を持つ強面だが、それは若い頃に大鋏を顔に落とした時のもので、実際は喧嘩の一つもした事がない。花をこよなく愛する朴訥とした優男だ。
誰の名前も、顔も、かけられた全ての言葉も、阿求ははっきりと思い出す事ができる。
その中には、記憶の中にしか存在しない者も多くいた。つい先日、それが一人増えた。
その事に特別な想いを抱く事は、ずっと前にもうなくなった。それこそ、今生よりも遥かに以前から。
たとえば、誰も彼もが阿求の心に寄り添う事はなくて、小鈴だけがその例外であったとしてみる。
他の誰でもない、阿求にとってだけの特別。多くの人にはそういう相手がいる。それは恋人であったり、終生の友であったりするのだろう。
阿求にとっての小鈴は、そういう相手では、恐らくない。
自分より先に死んだという事に、いくらか意外だという思いがあるだけだ。
だけど同時に、そのように思い込む事で、心を守ろうとしているだけなのかもしれない――そんな事を考える。
小鈴にとってはどうだったのだろう。
彼女はしょっちゅう阿求の元に来ていたし、阿求もまた頻繁に彼女の元へ通った。恐らく両親の次に、彼女が生涯で目に映した時間が長かった人物であるはずだ。
そういえば、小鈴の父は何度か来ていたが、母の方は一度も姿を見せていない。
一人娘を亡くした悲しみがいかほどのものか、阿求には想像する事しかできない。父の方は普段と変わらない様子に見えたが、そんなはずはないのだ。気丈に振る舞っていたか、動く事で悲しみを遠ざけようとしていたか、そんな所だろう。
どうして、小鈴は死んだのだろう。
自分はまだ生きているのに。
阿求はふと立ち上がり、少し目を閉じてから開いた。
闇も慣れればいくらか目は利く。そのまま部屋を出ようと思ったが、襦袢の一枚だけで外に出るのは気が引けたので、羽織を探り当てて袖を通した。
できるだけ音を殺して歩く。使用人たちを起こしては悪い。
闇で見通せない廊下はひどく長く感じられた。
玄関までたどり着いて、阿求は少し困惑した。自分の履物がどこにあるのか分からない。
記憶を辿ってみるが、履物がしまわれる場所など意識して見た事がないので思い出しようがなかった。予測で探せない事はなかろうが、まごついている内に誰かが起きてきてはまずい。意を決して阿求は裸足のまま外に出た。
夜中ともなれば昼の暑さも鳴りを潜める。それでも寒いという程ではなく、地面は昼間の熱をなおいくらか保っていて、裸足で歩くのが何やら心地よくすら感じられた。
人里に夜灯は一部の区画にしか存在せず、月明かりだけが道を征く頼りだ。
しかし阿求には、その僅かの灯りさえも必要ではなかった。何度も何度も行った道だ。目を閉じていたってたどり着ける自信があった。
別に履物がなくても問題ないだろうと思ったのだが、裸足で外を歩くのは存外大変だった。普段は気にも留めないような小石でも、裸足で踏むとそれなりに痛い。阿求はいつになく慎重に足を運んだ。
夜は妖怪の時間。里に住む者は誰でも知っている。飲み屋の通りなど一部は活動している場所もあるが、殆どは水を打ったように静かだ。
自分の呼吸の音。合わせた羽織の衣擦れ。裸足で土を踏む僅かな音。そんなものでも、静寂を突き破ってどこまでも広がる騒音であるかのように思われた。
どうか。阿求はそう思った。
どうか、誰にも会いませんように。
程なくたどり着く店先に、鈴奈庵の文字。
妖怪なら夜に来たがるだろうから、夜灯を置いた方がいいかしら。そんな事を小鈴が言っていた事を思い出す。
妖怪たちと交流を持つようになってからは、小鈴はそんな事ばかりを口にした。自分が人間である事を忘れてしまったかのように。
店の入口は閉ざされている。阿求は裏手に回り、店の敷地と通りを隔てる塀の前に立った。
見えづらいがそこには裏口があり、番号式の南京錠で閉じられている。開けるための番号は、阿求の記憶しているそれと相違なかった。
この行動にどんな意味があるだろう。見つかったらどうなるだろうか。
多分、怒られはしないだろう。友人を亡くして気が動転していたのだと思われるに違いない。
実際、動転しているのかもしれない。夜中に他人の家へ忍び込むなど、年若い娘のやる事ではない。いわんや御阿礼の子になど。
庭先の戸は開きっぱなしだった。夏はどこの家でもそうしている。裏口さえ通れれば中に入るのは簡単だ。
どうか。阿求はもう一度思った。
誰の顔も見たくなかった。
見つかりたくないのではない。今日というこの日に、最初に顔を見る相手が、どうか、小鈴であってほしいと、そう思ったのだ。
何も確信などなかったが、阿求は厨房そばの小部屋に向かった。
遺体を安置しておくならそのあたりだろうと見当していた。
部屋に入った瞬間、冷気が阿求にまとわりついた。
瞬間的に冬が訪れたかのようだ。思わず身体を縮こまらせる。
小さな部屋の中央に寝台が設えられている。
その上で、大きな布に包まれるようにして、小鈴は眠っていた。
踏み込むと、足先が冷える感覚がある。
部屋中に無数の小袋が散らばっており、その中には氷が入っているようだった。
小鈴を包む布も大きく膨らんでいて、その中身もどうやら全て氷のようだ。遺体を腐らせないための措置とはすぐに分かったが、これほどの氷を準備するのも、氷が溶けないよう部屋全体を冷やすのも、明らかに人の御業ではない。
氷の妖精か、雪女か。誰かが彼女らに頼んだか。もしくは本人の意志か。
凍えそうな身体を掻き抱きながら、阿求は寝台のそばに立った。
小鈴の表情は、眠っている時と変わらないように思えた。外傷は見当たらない。別段苦しそうでもない。
自室で寝ている内に亡くなったのだというから、突発的な病気か何かなのだろう。別に知りたくはない。知る意味がないからだ。自分にも、彼女にも。
そっと手を伸ばし、小鈴の頭に触れてみる。とても冷たくて、体温が吸い取られているような感じがした。
吸い取られて、その温度が身体に宿ったなら、彼女は蘇るだろうか。もしそうなったら、代わりに阿求が冷たくなってしまうのだろうか。
見ただけなら、死んでいるとは思えない。だけど触れてみれば、生きているなどとは夢にも思わない。
そういう温度だった。
「そっか」
ぽつりと阿求は呟いた。何を納得したのか、自分でも全く分からない。
だけど不思議と、全ての事柄があるように収まり、正しい形を成したかのように感じられた。失くした鍵を見つけたような。止まっていた水車が動き出したような。
ここには正しい事しかない。冷たい身体。遺体を冷やす氷。奪われる体温。かじかむ足。友。私。
喉の奥が詰まるように痛むのを、阿求は感じ取った。
悲しいのか、悲しもうとしているのか、悲しいと思いこんでいるのか、それは分からない。
ただ、涙が出ようとするのなら、流れるに任せようと思った。
葬儀の席で、きっと多くの者が泣くだろう。小鈴の両親。霊夢や魔理沙。寺子屋の子どもたち。他にも妖怪や、彼女と親交のあった多くの者が。
阿求も泣くかもしれない。だけどその涙は、阿求だけのものではない。
みんなと共有する悲しみ、そのためのものだ。
今、この時、この場所で流れる涙は、阿求のもの。阿求だけのもの。
誰とも共有しない。誰にも分かち合わない。
阿求だけが、この涙を知っている。
部屋に戻った時、にわかに空は白み始めていた。
玄関でなるべく足の汚れを落としはしたが、廊下をいくらか汚したかもしれない。もっとも、深夜の外出が露見した程度でさほど咎められる事はないだろう。
風呂場で軽く水を浴び、ついでに足もきれいにしてから床に戻る。
寝て起きたら、喪服を準備して葬儀に向かう事になるだろう。
そこにいる誰かに会う。相手は悲しそうにしている。その時に自分はどうするべきだろうか。
稗田の当主としてやるべき事は、遺族の悲しみをいくらかでも和らげられるよう努める事だ。
小鈴と阿求の仲を知る者は多い。阿求自身も遺族と同じように扱われるだろう。両親の様子如何によっては、自分が人々の対応をした方が良いかもしれない。
葬儀の後も、できるだけ本居の家を支援できるように計らいたいが、露骨に過ぎれば反発を抱かれかねないので、うまくやるように言い含めておいた方が良いだろう。
時は過ぎる。悲しみは永遠ではない。
ましてや阿求は、恐らく小鈴の両親よりも鬼籍に入るのは早い。
この想いを、あの世には持っていけない。それどころか今生においてさえ、いつまで持っていられるか分からない。
阿求の記憶は永遠でも、想いはそうではないから。
正しい事は一つだけ。
あの時、あの場所に阿求がいた事。
手に触れた小鈴の温度と、瞳から流れた涙の温度。
失くしたくないとどれだけ願っても叶わない。
失われないのは、確かに在り続けるのは、記憶だけ。
愛しい温度の記憶だけ。
朝から体調が悪く寝込んでいたが、夜になって容態が急変しそのまま亡くなったのだという。
空は青かったし、大地は日差しに焼かれていた。鈴鳴る風鈴も汗だくの氷水も、夏を相手取るには頼りない。
そんな日だから、人が死ぬのも当然なのかもしれなかった。
阿求の元に知らせを届けた小鈴の父は、足取りも話しぶりも胡乱なところはなく、ごく自然な様子に見えた。
語る言葉に現実感を見いだせなかったのは、その振る舞いにも原因があるだろう。そうですか、と返す阿求の方が、かえって心ここにあらずと見えたに違いない。その様子をむしろ心配されてしまい、阿求は曖昧に笑ってごまかそうとした。何をごまかそうとしたのかは自分でも分からない。
出された冷茶に手を付ける事もなく、小鈴の父は席を立った。関係各位にこの事を説明して回らなければならないのだと言う。
この暑さで里を練り歩くのは難儀だろう。もう少し休んではどうか。阿求の提案に小鈴の父は微笑んで首を振った。動いている方が良いのです。そう言って屋敷を後にした。玄関が閉じ、同じように見送った使用人たちは各々の仕事に戻る。
玄関に一人取り残されて、阿求は所在なく振り向いた。稗田の屋敷の長い廊下が目に入る。こんなものになんの意味があるのかと疑問に思う。御阿礼の子が務めを果たすまでのたかだか数十年を囲うための屋敷。何十もの使用人と、それらを食わすための台所。大仰に過ぎる。蔵書の管理はどうせここだけでは賄えないのだから、すべて他者の手に渡してしまった方が効率的だ。どうせ一回読めば事足りる。食うと寝るに困らなければ小屋一つでも充分のはずだ。
いっそ今生のうちに屋敷を整理などしても良いのかもしれない。阿求はそう思ったが、それは何十もの使用人や料理人、庭師らの仕事を奪う事でもある。
稗田の屋敷に勤める事は里人にとって大きな価値を持つ。稗田に権力など本来はないが、幻想郷の支配者である妖怪と交渉できるのは稗田だけなので、実質的には里の長と言って過言でない程にその影響力は大きい。
里の人間は孤立する事を何よりも恐れる。大半の者にとって、里に居場所を失う事は人間においての死と同義だからだ。権力のそばに身を置きたがるのは本能ですらあるだろう。妖怪と繋がりがあるというただ一点において、稗田は支配者側の存在だった。そしてその手綱を握るのが、妖怪たちだ。
そういえば、小鈴は随分と妖怪に近づきたがっていたように思う。家が貸本屋故に妖魔本とも近しく、それが故に実際に妖怪と交流を持つようにまでなっていったのだけど、その興味自体は里の若者に共通してある意識の一つだったろう。
恐れの薄い若者ほど妖怪に近づきたがる。時にはなりたいとさえ思う。妖怪が人間の上にあるために、人間同士の中で尊敬や憧れの情が持ちにくくなる。妖怪を恐れる大人を子供たちはまず軽蔑し、やがてその恐れが道理だと知れば、自分が妖怪を排除して里人を救い出すという物語に傾倒し始める。いずれはそれも夢想と知り、権力に寄り添う事が結局はもっとも安心を得られる手段なのだと理解する。多くの者がそうやって身の丈を決めるのだ。
小鈴は死んだらしい。彼女は妖怪を恐れなかった。
いや、恐れてはいたのだけど、好奇心の強いがために妖怪と近くありすぎた。結果として普通に交流が生まれてしまい、妖怪への恐れはほとんど無くなってしまった。
いずれ、彼女の名を幻想郷縁起に記さねばならなくなる。おそらくは英雄として。そのように予感していた。
でもそうはならなかった。らしい。
阿求は自室に戻り、幻想郷縁起を開いた。
これを完成させるのが今生の努め。遍参はまだまだ途中だ。小鈴の名を書く必要がなくなった事は、作業がほんの少しだけ楽になったと思うべきだろうか。
なぜ、自分はまだ生きているのだろう。
小鈴は死んだのに。
女中が夕餉を運んできた。氷水はもう冷えてすらいない。
ついぞ一文字も書かれる事のなかった原稿をしまい、阿求は机の上に並ぶ夕餉を眺めた。
自分の心の状態を把握する事は難しい。だけどまともではない事は、米のひと粒も口に運べないという事実が物語っていた。
目覚めは最悪の一言に尽きた。そもそも眠れていないので、目覚めたという表現は正しくないかもしれない。
誰にも顔を見られないようにコソコソと部屋を出て、厠を済ませて庭に出た。ひどく喉が乾いていたが、水を飲んでもすぐに吐きそうな気がした。
縁側に座り、日が昇るのをただ待つ。
誰も声をかけてはこなかったが、いつの間にか自室で布団をかぶっていたので、知らぬ間に倒れてそのまま眠ってしまったようだ。
小鈴の父がまた来ていたらしい。葬儀は明日にやるが、無理して来なくても良いと言付けて帰ったそうだ。
何かの病気を持っていたかもしれないし、阿求にもしもの事があっては良くないからと、そういう話らしい。
今の自分に、いかなる事も成しえるとは思えない。
しかし、何かをしなければならないと思った。この頭に何も思わせてはならない。
心に取り返しのつかない傷を負う事があるとしたら、それをするのは己自身だ。阿求にはその確信があった。
阿求は紙を広げて漢字の書き取りを始めた。一度でも見た文字はすべて記憶している。頭に入っているすべての漢字を書き出すとどれほどの量になるのか、それを確かめてやろうと思った。
だが、すぐに筆の走りがひどく緩慢になった。頭は働くが腕が動かない。思えば昨日から何も口にしていない。肉体の方が限界を迎えようとしている。
女中らは阿求の様子をすぐに察したらしく、粥を中心に食べやすいものを揃えて持ってきた。気付けば日は落ちかけていて、程なく夕餉の頃合いだ。
今日はどうにか食べられる。阿求はゆっくりとだが、粥に漬物に煮物と完食した。食後に氷菓子もあると言うのでそれも食べた。
食後に少し休んでまた筆を取ったが、漢字の書き取りにはもう興味が失せていた。正しくは最初から興味などなかった。無理やり何かをしようと思ったに過ぎない。
どうせ筆を執るならと、幻想郷縁起の方を進める事にした。もっともすぐに眠くなってしまい、それも対して捗りはしなかったのだが。
目が覚めても部屋は暗かった。かなり早く床についたので、深夜の内に目が覚めたらしい。
日はもう跨いでいるだろう。今日、小鈴の葬儀がある。
人の声も物音もない。みんなまだ寝ている頃だ。だが、静寂と言うには虫の声が大きすぎた。夏の夜は暑いだけでなく煩い。こんな季節はみんなで冥界にでも居を移した方が良いのではないだろうか。幽霊が冷たいので、あそこは夏でもあまり気温が上がらない。
小鈴の魂は、もうそこにいるだろうか。行けば会えるだろうか。
多分、無理だろう。会えたとしても意味はない。幽霊と語らう術を阿求は持たない。そもそも冥界にたどり着く事自体が困難だ。
もう一度眠ろうとしたが、目が冴えてしまって叶いそうにない。それでも身体を起こす気にもならず、阿求はただじっと時が過ぎるのを待っていた。
阿求は孤独だった。それは生まれた瞬間からきっとそうで、今この時をもってしてもなお、変え難く存在する真実だ。
孤独でなかった時というのが、果たしてあったのだろうか。たとえば誰かと一緒にいる時は。
阿求のそばにはいつも人がいた。使用人とか女中とか十把一絡げに扱っているけど、彼ら彼女らの一人ひとりに名前があり、各々の人生がある。そしてその全てを阿求は記憶している。
今日――もう昨日だが、夕餉を運んできた幸恵は去年からここに勤め始めた。以前は別の家へ奉公に出ており、年若いのに隅々まで気の行き届いた世話をする娘だ。ただ、少しばかり気を張り詰めすぎるきらいがあり、息抜きが苦手なようだった。
厨房にいたのは柑太郎だろう。彼の父も稗田の厨房を預かっていた一人で、若い時分からここで修行していた。父が亡くなってからはその後を継ぐように腕前を振るっている。稗田お抱えの料理人はだいたいどこかの店で腕を磨いた職人たちなので、その意味では珍しい人物だ。気さくで快活な男で、阿求の事も赤子の頃から知っている。
縁側で寝入った阿求を自室に運んだのは、恐らく庭師の和茂。大柄で顔に傷を持つ強面だが、それは若い頃に大鋏を顔に落とした時のもので、実際は喧嘩の一つもした事がない。花をこよなく愛する朴訥とした優男だ。
誰の名前も、顔も、かけられた全ての言葉も、阿求ははっきりと思い出す事ができる。
その中には、記憶の中にしか存在しない者も多くいた。つい先日、それが一人増えた。
その事に特別な想いを抱く事は、ずっと前にもうなくなった。それこそ、今生よりも遥かに以前から。
たとえば、誰も彼もが阿求の心に寄り添う事はなくて、小鈴だけがその例外であったとしてみる。
他の誰でもない、阿求にとってだけの特別。多くの人にはそういう相手がいる。それは恋人であったり、終生の友であったりするのだろう。
阿求にとっての小鈴は、そういう相手では、恐らくない。
自分より先に死んだという事に、いくらか意外だという思いがあるだけだ。
だけど同時に、そのように思い込む事で、心を守ろうとしているだけなのかもしれない――そんな事を考える。
小鈴にとってはどうだったのだろう。
彼女はしょっちゅう阿求の元に来ていたし、阿求もまた頻繁に彼女の元へ通った。恐らく両親の次に、彼女が生涯で目に映した時間が長かった人物であるはずだ。
そういえば、小鈴の父は何度か来ていたが、母の方は一度も姿を見せていない。
一人娘を亡くした悲しみがいかほどのものか、阿求には想像する事しかできない。父の方は普段と変わらない様子に見えたが、そんなはずはないのだ。気丈に振る舞っていたか、動く事で悲しみを遠ざけようとしていたか、そんな所だろう。
どうして、小鈴は死んだのだろう。
自分はまだ生きているのに。
阿求はふと立ち上がり、少し目を閉じてから開いた。
闇も慣れればいくらか目は利く。そのまま部屋を出ようと思ったが、襦袢の一枚だけで外に出るのは気が引けたので、羽織を探り当てて袖を通した。
できるだけ音を殺して歩く。使用人たちを起こしては悪い。
闇で見通せない廊下はひどく長く感じられた。
玄関までたどり着いて、阿求は少し困惑した。自分の履物がどこにあるのか分からない。
記憶を辿ってみるが、履物がしまわれる場所など意識して見た事がないので思い出しようがなかった。予測で探せない事はなかろうが、まごついている内に誰かが起きてきてはまずい。意を決して阿求は裸足のまま外に出た。
夜中ともなれば昼の暑さも鳴りを潜める。それでも寒いという程ではなく、地面は昼間の熱をなおいくらか保っていて、裸足で歩くのが何やら心地よくすら感じられた。
人里に夜灯は一部の区画にしか存在せず、月明かりだけが道を征く頼りだ。
しかし阿求には、その僅かの灯りさえも必要ではなかった。何度も何度も行った道だ。目を閉じていたってたどり着ける自信があった。
別に履物がなくても問題ないだろうと思ったのだが、裸足で外を歩くのは存外大変だった。普段は気にも留めないような小石でも、裸足で踏むとそれなりに痛い。阿求はいつになく慎重に足を運んだ。
夜は妖怪の時間。里に住む者は誰でも知っている。飲み屋の通りなど一部は活動している場所もあるが、殆どは水を打ったように静かだ。
自分の呼吸の音。合わせた羽織の衣擦れ。裸足で土を踏む僅かな音。そんなものでも、静寂を突き破ってどこまでも広がる騒音であるかのように思われた。
どうか。阿求はそう思った。
どうか、誰にも会いませんように。
程なくたどり着く店先に、鈴奈庵の文字。
妖怪なら夜に来たがるだろうから、夜灯を置いた方がいいかしら。そんな事を小鈴が言っていた事を思い出す。
妖怪たちと交流を持つようになってからは、小鈴はそんな事ばかりを口にした。自分が人間である事を忘れてしまったかのように。
店の入口は閉ざされている。阿求は裏手に回り、店の敷地と通りを隔てる塀の前に立った。
見えづらいがそこには裏口があり、番号式の南京錠で閉じられている。開けるための番号は、阿求の記憶しているそれと相違なかった。
この行動にどんな意味があるだろう。見つかったらどうなるだろうか。
多分、怒られはしないだろう。友人を亡くして気が動転していたのだと思われるに違いない。
実際、動転しているのかもしれない。夜中に他人の家へ忍び込むなど、年若い娘のやる事ではない。いわんや御阿礼の子になど。
庭先の戸は開きっぱなしだった。夏はどこの家でもそうしている。裏口さえ通れれば中に入るのは簡単だ。
どうか。阿求はもう一度思った。
誰の顔も見たくなかった。
見つかりたくないのではない。今日というこの日に、最初に顔を見る相手が、どうか、小鈴であってほしいと、そう思ったのだ。
何も確信などなかったが、阿求は厨房そばの小部屋に向かった。
遺体を安置しておくならそのあたりだろうと見当していた。
部屋に入った瞬間、冷気が阿求にまとわりついた。
瞬間的に冬が訪れたかのようだ。思わず身体を縮こまらせる。
小さな部屋の中央に寝台が設えられている。
その上で、大きな布に包まれるようにして、小鈴は眠っていた。
踏み込むと、足先が冷える感覚がある。
部屋中に無数の小袋が散らばっており、その中には氷が入っているようだった。
小鈴を包む布も大きく膨らんでいて、その中身もどうやら全て氷のようだ。遺体を腐らせないための措置とはすぐに分かったが、これほどの氷を準備するのも、氷が溶けないよう部屋全体を冷やすのも、明らかに人の御業ではない。
氷の妖精か、雪女か。誰かが彼女らに頼んだか。もしくは本人の意志か。
凍えそうな身体を掻き抱きながら、阿求は寝台のそばに立った。
小鈴の表情は、眠っている時と変わらないように思えた。外傷は見当たらない。別段苦しそうでもない。
自室で寝ている内に亡くなったのだというから、突発的な病気か何かなのだろう。別に知りたくはない。知る意味がないからだ。自分にも、彼女にも。
そっと手を伸ばし、小鈴の頭に触れてみる。とても冷たくて、体温が吸い取られているような感じがした。
吸い取られて、その温度が身体に宿ったなら、彼女は蘇るだろうか。もしそうなったら、代わりに阿求が冷たくなってしまうのだろうか。
見ただけなら、死んでいるとは思えない。だけど触れてみれば、生きているなどとは夢にも思わない。
そういう温度だった。
「そっか」
ぽつりと阿求は呟いた。何を納得したのか、自分でも全く分からない。
だけど不思議と、全ての事柄があるように収まり、正しい形を成したかのように感じられた。失くした鍵を見つけたような。止まっていた水車が動き出したような。
ここには正しい事しかない。冷たい身体。遺体を冷やす氷。奪われる体温。かじかむ足。友。私。
喉の奥が詰まるように痛むのを、阿求は感じ取った。
悲しいのか、悲しもうとしているのか、悲しいと思いこんでいるのか、それは分からない。
ただ、涙が出ようとするのなら、流れるに任せようと思った。
葬儀の席で、きっと多くの者が泣くだろう。小鈴の両親。霊夢や魔理沙。寺子屋の子どもたち。他にも妖怪や、彼女と親交のあった多くの者が。
阿求も泣くかもしれない。だけどその涙は、阿求だけのものではない。
みんなと共有する悲しみ、そのためのものだ。
今、この時、この場所で流れる涙は、阿求のもの。阿求だけのもの。
誰とも共有しない。誰にも分かち合わない。
阿求だけが、この涙を知っている。
部屋に戻った時、にわかに空は白み始めていた。
玄関でなるべく足の汚れを落としはしたが、廊下をいくらか汚したかもしれない。もっとも、深夜の外出が露見した程度でさほど咎められる事はないだろう。
風呂場で軽く水を浴び、ついでに足もきれいにしてから床に戻る。
寝て起きたら、喪服を準備して葬儀に向かう事になるだろう。
そこにいる誰かに会う。相手は悲しそうにしている。その時に自分はどうするべきだろうか。
稗田の当主としてやるべき事は、遺族の悲しみをいくらかでも和らげられるよう努める事だ。
小鈴と阿求の仲を知る者は多い。阿求自身も遺族と同じように扱われるだろう。両親の様子如何によっては、自分が人々の対応をした方が良いかもしれない。
葬儀の後も、できるだけ本居の家を支援できるように計らいたいが、露骨に過ぎれば反発を抱かれかねないので、うまくやるように言い含めておいた方が良いだろう。
時は過ぎる。悲しみは永遠ではない。
ましてや阿求は、恐らく小鈴の両親よりも鬼籍に入るのは早い。
この想いを、あの世には持っていけない。それどころか今生においてさえ、いつまで持っていられるか分からない。
阿求の記憶は永遠でも、想いはそうではないから。
正しい事は一つだけ。
あの時、あの場所に阿求がいた事。
手に触れた小鈴の温度と、瞳から流れた涙の温度。
失くしたくないとどれだけ願っても叶わない。
失われないのは、確かに在り続けるのは、記憶だけ。
愛しい温度の記憶だけ。
深い所から湧き出てくるような感情の描写が素晴らしいですね。
有難う御座いました。
そこから自分の感情がトレースされるように、小鈴の死に困惑する阿求と、その苦しみの中で、葛藤し、最後には凛として立ち上がる姿が印象的で、読んでいて自分の憑き物が晴れたかのような読後感の良さを感じました。
とても素敵でした。面白かったです。
阿求の生活リズムが徐々に狂っていくところに真綿で首を絞められるような悲しみを感じました
ただ、自分の方が先に死ぬとばかり思っていたぶん、彼女の驚きと悲しみは大きかったと思います。
それを綺麗に描写されていたのが素晴らしいと思いました。
それでも阿求は前を向き、記憶に縋って後ろ向きになるだけで無かったのがとても良かったです。ありがとうございました。
不寝番をしていたときの、あのなんともいえない涼しさを思い出しました。多分、明確に別れを感じるからこその恐怖とか哀しさとかがあるとは思うのです。
生きているから今後を考えてしまう、私自身そんな阿求の態度に微かな苛立ちを感じてしまうのは、もしかしたらフィクションのような展開をしなかった、出来なかった自分を重ねたのかもしれません。ご馳走様でした。