夏の缶詰(Sunset Is Emotion Lump)
『朝』
くすぐったくて目を覚ました。でも本当は軒下の風鈴の音で起きたのかもしれない。蝉の声でもおかしくない。霧雨魔理沙が人さし指で、私の右手首にできた虫さされの回りをかりかりと掻いて、炎症を広げていた驚きに比べれば、起きた理由なんてどれでもよかった。
「何してるの」
魔理沙と目が合った。にも関わらずあいつはまだ平然と、無言で私の隣に寝ころんだまま虫さされを広げている。だから私の声は畳の網目に沁みていって、あとは風鈴と蝉だけが喋っていた。
「どうして畳で寝てるんだ」
ようやく喋った。でも問いかけは虫さされと関係がない。それが朝の訪れだった。
「昨日は独りで飲みすぎて、そのまま眠ったのよ」
体を起こして右頬に触れると、やっぱり畳の痕がついていた。掻かれた虫さされはとても痒くて、つめたい水で冷やしたら、薬箱にある軟膏を塗りたいと思う。
「どうして朝っぱらから来たの?」
「魔法の森が蒸しあつすぎてさ、それで来た。じつは本当のところ、私はおまえが蚊に喰われるのを見ていたんだ。神社についたとき、まさにその現場だったんだよ。
でも私は追いはらわずに、蚊が逃げないようにゆっくりと静かに寝ころんで、それを間近で眺めていた。蚊は満足すると、室の外に行ってしまった……どう思う?」
私は机の上の団扇を取ると、魔理沙の頬をぴしゃりと叩く。
「痛いよ」
「魔理沙。朝はもう食べた?」
「要らない。食欲ないよ、暑すぎて」
「そう。でも魔理沙、痩せすぎだからおにぎり一個ね」
「おまえ芳一か?」
「それと作ってるうちに薬箱の軟膏をだしてきて。場所は……」
「箪笥だろ知ってる」
魔理沙も私と同じで年ごと背が伸びている。でも夏場は何かと食事を面倒がって、もともと痩せているのがさらに痩せる。
だから今のあいつは夏の私の目からして、とても小さく見えていた。
おにぎりを作ってやっても魔理沙はまだ食事を渋っている。
「じゃあ何なら食べられるのよ」
と私は聞いた。
「じゃキュウリ!」
魔理沙は結局キュウリに味噌をつけてばりばりと食べて、それをまともな朝飯と言いはっていた。あいつが残してしまったので、私は自分のぶんと合わせて朝から三つもおにぎりを食べることになってしまった。でもおにぎりはおいしいから、別にいくつあってもいやじゃない。
さきにごちそうさまをした魔理沙は、暑そうに団扇で自分を扇ぐ。夏場にエプロン・ドレスなんて暑いに決まっている。巫女装束でも暑いのに。私たちはただ座っているだけで汗を流す。
「ごちそうさま」
「よし、何する?」
「何もしないわよ暑いのに」
「近ごろ退屈だよ。最後に異変が起きたのって……先週?」
「半年前」
「本当……馬鹿な妖怪が何かやらかさないかな」
不満そうな魔理沙を余所に私は軟膏を塗った。
「ハッカ飴でも舐めておけよ」
「なんでハッカ?」
「虫がきらうんだよ」
「そう……私も」
「ふん?」
「ハッカはきらい。いやな甘さだし、喉がスーってなるのも」
だから虫を始末するなら蚊取線香にする。魔理沙は苦手らしいけど私はきらいじゃないしむしろ好き。この世で一番なつかしい香りがするから、夏場は服に香りが染みるくらい焚いていたい。あの世の香りはこんなふうって、冥界に行くまでは信じていた。桜の香りとちがって除虫菊には生活に使える知恵がある。でも中にはいっているはずなのに、蚊取線香から除虫菊の香りはしない。
「なあ、水桶するか?」
「うん、する」
私は魔理沙の急な提案に乗る。
水桶はそのまま“素足を水に浸そうよ”の意で、私たちはその行為をただ“水桶”と呼んでいた。
私たちは大桶に水を入れて縁側に運んで一緒に足を浸す。スカートを膝の上までめくりながら。はしたないけれども、誰も見ていないから大丈夫。
水はすこしぬるい。でもそこは雰囲気と感じ々じ。太陽の位置がわるくて縁側が影にならないのはいつも残念だったけれども。髪が熱を吸って暑い。
「ほらよ」
「ん」
そう言うとき魔理沙は察して、自分の三角帽子を私の頭に乗せてくれる。
いつでも…………。
魔理沙の髪は光を照りかえして、ひまわりの黄色よりきらきらと輝いている。と考えていたら、なんだか急に帽子を深く被りたくなって、目元までツバを降ろした。
「どうした?」
「なんにも。帽子さ、いつも助かってる」
「ん……そう」
「照れてる?」
「うるさい」
「うん」
「幻想郷に海ってやつがあったらなあ」
と言って魔理沙は足を水桶につけたまま縁側に寝ころんだ。私のほうは丁度あいつが寝ころんだとき現れた、宙空に静止して器用にスズメバチを六本足で掴んで貪っている、オニヤンマを凝視していた。
「でも海って塩が混ざってるらしいじゃない? 肌が荒れるかもしれないわ」
「それは困る。砂糖ならよかったのに」
「ありえないわよ貴重品だし」
それに砂糖の海なんかに浸かったら、出たあと虫に刺されそうでいやだった。
「ねえトンボがハチを食べてる空中で」
「それは愉快だ」
「トンボがハチを食べてるんだって空中でさあ」
「なんだよ押すなよその現象をさ!」
「だって珍しいし二度と見れないかもしれないわ」
「興味ない」
「嘘よあるでしょう」
と言いあっているうちにトンボはどこかに飛んでいった。魔理沙は寝ころびついでに人生を無駄にしたわけだ。貴重な場面をのがしたのだ。可哀想に。
それから私たちはしばらく無言で足を水に浸した。朝顔の根がそうするように、喜んで足をふやけさせた。
魔理沙が口をひらいたのは、日が今よりもすこし昇って、屋根が私たちにわずかな影を差してからだった。
「昼になったら人里にでも行こうか」
「奢ってくれる?」
私は猫なで声で言う。
「前提かよ。まあ構わないよ、何が食べたい?」
「かきごおり」
「人里に氷があるかよ」
「食べたあい」
「暑いなあ……」
つめたい足との温度差を知りたくなって、急に魔理沙の手に触れたら、汗ばんでいて不愉快だと思った途端に、意思が通じたように腕を振りはらわれた。
「照れないでよ」
と私は笑う。
「ふん、おまえ相手に」
魔理沙は起きあがって帽子を奪うと、目元まで深く被ってしまった。
空気をごまかすために私は蚊取線香を焚いてしまいたい。
汗の匂いを、なくすくらいに。
『昼』
「そら、走れ々れ!」
「分かってるわよ言われなくても!」
夕立は昼でもそう呼ばれるべきなのだろうか? 魔理沙と一緒に出かけたら、急に出てきた入道雲。晴れていると油断したら、出てくるのはいつの間にか。雨なんて河童くらいしか喜ばない。あいつと出かけているなら尚更だ。
鈴奈庵が近かったので、私たちは勢いそこに飛びこんだ。
可哀想な本居小鈴ちゃん。もし私たちが塗れた手で本に触れたら、その行為は彼女の人格を容易に歪ませてしまうだろう。
「よう小鈴」
「私は打水の手間が省けて喜んでいましたが、二人はそうでもないようですね」
「おまえ言うようになったよな……最近」
以前は皮肉なんて言わなかったのに、すっかり私たちの悪影響を受けてしまった。でもそう言いつつ手ぬぐいを渡してくれるところは優しい。
「ごめんね小鈴ちゃん。雨が止むまで冷やかしていい?」
「あなた方なら構いません」
と言って小鈴ちゃんは麦茶までごちそうしてくれる。ソファに座って落ちついたら、レコードってカラクリから流れる音楽が快い。
「落ちついた曲。なんて言うの」
「へえ。作者はビル・エヴァンスの、エミリーと言う曲です」
曲の善し悪しは知らないけれども、疎らなピアノの音が雨粒のように落ちる曲だった。
「雨っぽい」
と口にしてみると、小鈴ちゃんは関心するように言葉を繋げた。
「よく天気で私が決めたと分かりますね。じつは雨が降りだしたので、この曲に変えたところです。どうして分かったんです?」
「勘……」
「ふん、まあ勘だろうよ。何せ霊夢に音楽を分析する情緒があるとは思えないね」
「あんたが黙ってくれたら、よく音が聴こえて情緒がつくのにね」
「二人とも喧嘩するなら叩きだしますよ」
皮肉の飛ばしあいはいつものことで、カブトムシとクワガタの争いのような気軽さだ。
「枕に“痴話”を入れろよ、小鈴」
不意に目につく、机の上の金魚鉢。透明なガラスの中で、赤と黒の金魚がたゆたっている。それはなんだか私たちと似ている気がした。
赤い金魚のほうが大きいので……。
「フフ、私の勝ち」
「なんだよ急に?」
「別に……ねえ小鈴ちゃん、どうして金魚を?」
「じつは金魚の霊譚を読みまして、それで飼いたくなったんです」
「おい、おい。この金魚は化生したりしないだろうな」
「まさか! 金魚が化ける条件は奇妙で、私の家ではとても」
と小鈴ちゃんがからからと笑うと、頭の上の鈴もなるので、この家に風鈴は不要かもしれない。
「どんなふうだ?」
「信濃国で妾として迎えられた女が、本妻に金魚鉢へ頭を押しこまれて死んでしまい、金魚の妖怪になると言う滑稽な条件ですよ」
たしかに滑稽だ。少なくとも怪談には向いていないし、化ける心配もないだろう。
「おまえの父親は器量よしなのか?」
「へえ、それなりでしょう」
「そうか。なら妾ができないように用心するべきだな」
「フフフフ……もしできたとしても母は怒って、妾よりも父の頭を金魚鉢に捧げるでしょうね」
小鈴ちゃんの母親が金魚の妖怪より危ないのはまちがいなかった。
「名前は“金魚の幽霊”で、江戸の妖怪ですが名づけたのはあとの人で……なんだっけ。そう、武良茂」
すこし経つと不意に窓から光が射した。外を覗くともう入道雲が小さくなっている。
「入道雲の一生は蝉より儚いな」
と魔理沙は立ちあがる。
「助かったよ小鈴」
「またいつでも来てくださいな」
「行こうか、霊夢」
「うん……あっ。待って!」
「どうした?」
「小鈴ちゃん。アガサクリスQの新刊って出てないっけ」
「へえ、昨日」
私はにやりと魔理沙を見る。
「魔理沙の奢りね」
「ふん? 本は食べものじゃないだろ!」
「だって夕立で何も食べられてないし埋めあわせ。それとも本の一冊も借りられないくらい貧乏なわけ?」
「……分かったよ、負けたよ。今日のおまえは口がうまいな……さては狸だな?」
「あんな老輩と一緒にしないで」
本を借りてもらってから、私たちは鈴奈庵を出た。
雨が降ってすこし涼しくなったけれども、入道雲がまったく消えてしまえばさらに蒸しあつくなるだろう。道の先で陽炎はかすか幻のように揺れている。
「ついでにスイカでも買ってやろうか」
「本当? うれしい」
「その代わり素麺の気分だから夕餉はそれで」
「うん。分かった」
雨に降られてしまっても今日と言う日はすばらしい。夜にスイカを食べられる日はすばらしいに決まっている。
【夕】
スイカを買ったあと私たちは人里はずれの小川で休んでいた。
洗濯にくる人もいるので見まわりのためもある。でも心の底から見まわりなんてしたがるわけもなく、私たちはただ近くの木陰で涼み、小川に半身を浸している紐で括られたスイカを見たり、取りとめもない話と皮肉を交えながら、夕焼を待っていたのだと思う。また夕焼の時間を見はからうような夕立がこないか怯えながら……。
そうして徐々に移ろいゆく空の色。太陽が山背に消えたあと、空に菫の色が添加される。魔理沙の焚いている虫よけの香の残りをちらりと見てから空に向きなおると、そんな瞬くような間で空にわずか赤色が乗りこんできた。私は今とても情緒で考えている。
「どうして夕焼を見ると“こう言う”気分になるんだろうな」
魔理沙は“こう言う”ってぼかしてしまって、私も言葉にしたいのに声が喉で引っかかる。
それは懐かしさなんかに通じていて、私は過去を振りかえらないほうだから、別に幼いころに戻りたいとは思わないのに、でも信じられないくらい懐かしい。
そう、信じられないくらい! ……。
私の信じられない心境と同じように、そのうち空も信じられない赤に染まって、だから急に“夕やけ小やけ”なんて歌ってしまうわけなのだ。
「夕やけ小やけで
日が暮れて
どこかに在りし
鐘が鳴る」
「子供かよ……」
私が急に歌うから魔理沙は冷笑した。
それでも構わず続けるので、魔理沙もそのうち笑うのを已めて、私の肩に頭を乗せたら楽しそうに歌いはじめた。
私もなんだかありえないくらい楽しくなってしまう。
私たちはありえないくらい楽しいこんなにも。
「子供が帰った
あとからは
まるい大きな
おつきさん」
「妖たちが
出るころは
東できらきら
金の髪」
夕やけ小やけの歌言葉は外世とちがうと聞いたことがある。まえまで寺はなかったし、みんな鐘の音を聴かずに死んでゆく。それに“妖”って歌言葉は、外世にはないと思えるのだ。
なんの根拠もないけれども、私には……。
私たちはそう信じているはずなのだ。
暑いのはいつまでも好きになれない。それでも夏はなんて楽しいのだろう。なんて輝かしいのだろう。
こんな日があれば私たちはいつでも童になれる。
蝉がコオロギとスズムシを交えて歌いはじめているのに、赤色が薄れゆく空を惜しむから、私たちだけまだ夕焼のフリ。
でも山の向こうの地平線で、私の目には見えないけれども、空をいつも照らしている巨大な情緒の塊じみた光の輪が、今にも沈みこもうとしているだろう。
『夜』
素麺を食べて風呂で汗も流したら、スイカを切って皿に盛る。先のところが最も甘くておいしいのだ。
魔理沙は育ちがよいから丁寧に種を吐きだしていた。私は面倒だから種も飲みこむ。子供のころから胃に芽が出るなんて怯えたことは一度もない。
残りの半分はしまっておいて、これなら魔理沙の食欲にも優しいから、明日の朝に食べるのもわるくない。朝からスイカなんて贅沢だ。
スイカで満足してしまって飲む気分にはならなかったから、私たちは寝ることにした。押しいれから布団をだそうとして、そう言えばこのまえもう一組の布団を買ったと思いだす。近ごろは神社にくるやつが多いから。
でも私は布団をだすまえに魔理沙のほうに振りかえった。似あわない白い襦袢を着ているあいつを。
「どうした?」
魔理沙は首を傾げてきょとんとしている。
「なんでも」
私はそうほほえんで布団を一組だけ取りだした。
今日は魔理沙と一緒に一日中いたから夜も一緒。
一緒に布団へ寝ころんだら、蝋燭で魔理沙のきらいな蚊取線香に火を点ける。
「ねえ、ちょっとアガサクリスQを読んでいい?」
「うん」
私はうとついている魔理沙の横で蝋燭を頼りに本を読みはじめた。
「霊夢」
「うん……?」
「まだ腫れてる……」
「何」
「手首」
右手首を見たら確かにまだ肌色の海に赤い小島が浮かんでいた。
「寝るまえに軟膏を塗れよ」
「面倒だし……」
一度でも寝ころんでしまったら、もう起きあがれないに決まってる。
「悪化するぞ」
「じゃあ唾でもつけておいてよ」
本にかじりつきたくて私は魔理沙をあしらおうとする。
でも冗談で言ったつもりなのに、魔理沙は急に私の手首を掴んできた。そうして顔を近づけたら、あいつは勢い虫さされに接吻してきたのだった。
私は瞼を、しばたたいた。
「眩しいから火をけして」
もう何がなんだか。魔理沙がすぐに寝がえりを打って反対側を向くころには、本を読む気も失せてしまった。それに明かりをつけていたら、光で顔がよく照らされて、もしあいつがまたこちらを向いたら、こんな顔とても見せられない。
私が冗談を言ったから、魔理沙も冗談で返したのか、それともほかの意図があったのかと、心の芯がぐらぐらと揺れる。
だからすぐに火をけした。
溜息を吐いて寝がえりを打ち、薄らと見える天井のほうを向いて右手で顔を覆ったら、それで本当に眠るべき夜も来ていた。
虫の合唱が、耳に優しい。
今日の夏は私たちに何もかも優しいのだ。
【夢】
あとはその夜に私が眠っているとき見てた夢。
名前しか知らないサイダーって呼ばれるスイカ味の飲料。
八寸の蚊。
煙からハッカ飴の匂いがする線香花火。
忘れがたいのは夏の夕焼でしか会えない恋人。
夏の缶詰(Sunset Is Emotion Lump) 終わり
『朝』
くすぐったくて目を覚ました。でも本当は軒下の風鈴の音で起きたのかもしれない。蝉の声でもおかしくない。霧雨魔理沙が人さし指で、私の右手首にできた虫さされの回りをかりかりと掻いて、炎症を広げていた驚きに比べれば、起きた理由なんてどれでもよかった。
「何してるの」
魔理沙と目が合った。にも関わらずあいつはまだ平然と、無言で私の隣に寝ころんだまま虫さされを広げている。だから私の声は畳の網目に沁みていって、あとは風鈴と蝉だけが喋っていた。
「どうして畳で寝てるんだ」
ようやく喋った。でも問いかけは虫さされと関係がない。それが朝の訪れだった。
「昨日は独りで飲みすぎて、そのまま眠ったのよ」
体を起こして右頬に触れると、やっぱり畳の痕がついていた。掻かれた虫さされはとても痒くて、つめたい水で冷やしたら、薬箱にある軟膏を塗りたいと思う。
「どうして朝っぱらから来たの?」
「魔法の森が蒸しあつすぎてさ、それで来た。じつは本当のところ、私はおまえが蚊に喰われるのを見ていたんだ。神社についたとき、まさにその現場だったんだよ。
でも私は追いはらわずに、蚊が逃げないようにゆっくりと静かに寝ころんで、それを間近で眺めていた。蚊は満足すると、室の外に行ってしまった……どう思う?」
私は机の上の団扇を取ると、魔理沙の頬をぴしゃりと叩く。
「痛いよ」
「魔理沙。朝はもう食べた?」
「要らない。食欲ないよ、暑すぎて」
「そう。でも魔理沙、痩せすぎだからおにぎり一個ね」
「おまえ芳一か?」
「それと作ってるうちに薬箱の軟膏をだしてきて。場所は……」
「箪笥だろ知ってる」
魔理沙も私と同じで年ごと背が伸びている。でも夏場は何かと食事を面倒がって、もともと痩せているのがさらに痩せる。
だから今のあいつは夏の私の目からして、とても小さく見えていた。
おにぎりを作ってやっても魔理沙はまだ食事を渋っている。
「じゃあ何なら食べられるのよ」
と私は聞いた。
「じゃキュウリ!」
魔理沙は結局キュウリに味噌をつけてばりばりと食べて、それをまともな朝飯と言いはっていた。あいつが残してしまったので、私は自分のぶんと合わせて朝から三つもおにぎりを食べることになってしまった。でもおにぎりはおいしいから、別にいくつあってもいやじゃない。
さきにごちそうさまをした魔理沙は、暑そうに団扇で自分を扇ぐ。夏場にエプロン・ドレスなんて暑いに決まっている。巫女装束でも暑いのに。私たちはただ座っているだけで汗を流す。
「ごちそうさま」
「よし、何する?」
「何もしないわよ暑いのに」
「近ごろ退屈だよ。最後に異変が起きたのって……先週?」
「半年前」
「本当……馬鹿な妖怪が何かやらかさないかな」
不満そうな魔理沙を余所に私は軟膏を塗った。
「ハッカ飴でも舐めておけよ」
「なんでハッカ?」
「虫がきらうんだよ」
「そう……私も」
「ふん?」
「ハッカはきらい。いやな甘さだし、喉がスーってなるのも」
だから虫を始末するなら蚊取線香にする。魔理沙は苦手らしいけど私はきらいじゃないしむしろ好き。この世で一番なつかしい香りがするから、夏場は服に香りが染みるくらい焚いていたい。あの世の香りはこんなふうって、冥界に行くまでは信じていた。桜の香りとちがって除虫菊には生活に使える知恵がある。でも中にはいっているはずなのに、蚊取線香から除虫菊の香りはしない。
「なあ、水桶するか?」
「うん、する」
私は魔理沙の急な提案に乗る。
水桶はそのまま“素足を水に浸そうよ”の意で、私たちはその行為をただ“水桶”と呼んでいた。
私たちは大桶に水を入れて縁側に運んで一緒に足を浸す。スカートを膝の上までめくりながら。はしたないけれども、誰も見ていないから大丈夫。
水はすこしぬるい。でもそこは雰囲気と感じ々じ。太陽の位置がわるくて縁側が影にならないのはいつも残念だったけれども。髪が熱を吸って暑い。
「ほらよ」
「ん」
そう言うとき魔理沙は察して、自分の三角帽子を私の頭に乗せてくれる。
いつでも…………。
魔理沙の髪は光を照りかえして、ひまわりの黄色よりきらきらと輝いている。と考えていたら、なんだか急に帽子を深く被りたくなって、目元までツバを降ろした。
「どうした?」
「なんにも。帽子さ、いつも助かってる」
「ん……そう」
「照れてる?」
「うるさい」
「うん」
「幻想郷に海ってやつがあったらなあ」
と言って魔理沙は足を水桶につけたまま縁側に寝ころんだ。私のほうは丁度あいつが寝ころんだとき現れた、宙空に静止して器用にスズメバチを六本足で掴んで貪っている、オニヤンマを凝視していた。
「でも海って塩が混ざってるらしいじゃない? 肌が荒れるかもしれないわ」
「それは困る。砂糖ならよかったのに」
「ありえないわよ貴重品だし」
それに砂糖の海なんかに浸かったら、出たあと虫に刺されそうでいやだった。
「ねえトンボがハチを食べてる空中で」
「それは愉快だ」
「トンボがハチを食べてるんだって空中でさあ」
「なんだよ押すなよその現象をさ!」
「だって珍しいし二度と見れないかもしれないわ」
「興味ない」
「嘘よあるでしょう」
と言いあっているうちにトンボはどこかに飛んでいった。魔理沙は寝ころびついでに人生を無駄にしたわけだ。貴重な場面をのがしたのだ。可哀想に。
それから私たちはしばらく無言で足を水に浸した。朝顔の根がそうするように、喜んで足をふやけさせた。
魔理沙が口をひらいたのは、日が今よりもすこし昇って、屋根が私たちにわずかな影を差してからだった。
「昼になったら人里にでも行こうか」
「奢ってくれる?」
私は猫なで声で言う。
「前提かよ。まあ構わないよ、何が食べたい?」
「かきごおり」
「人里に氷があるかよ」
「食べたあい」
「暑いなあ……」
つめたい足との温度差を知りたくなって、急に魔理沙の手に触れたら、汗ばんでいて不愉快だと思った途端に、意思が通じたように腕を振りはらわれた。
「照れないでよ」
と私は笑う。
「ふん、おまえ相手に」
魔理沙は起きあがって帽子を奪うと、目元まで深く被ってしまった。
空気をごまかすために私は蚊取線香を焚いてしまいたい。
汗の匂いを、なくすくらいに。
『昼』
「そら、走れ々れ!」
「分かってるわよ言われなくても!」
夕立は昼でもそう呼ばれるべきなのだろうか? 魔理沙と一緒に出かけたら、急に出てきた入道雲。晴れていると油断したら、出てくるのはいつの間にか。雨なんて河童くらいしか喜ばない。あいつと出かけているなら尚更だ。
鈴奈庵が近かったので、私たちは勢いそこに飛びこんだ。
可哀想な本居小鈴ちゃん。もし私たちが塗れた手で本に触れたら、その行為は彼女の人格を容易に歪ませてしまうだろう。
「よう小鈴」
「私は打水の手間が省けて喜んでいましたが、二人はそうでもないようですね」
「おまえ言うようになったよな……最近」
以前は皮肉なんて言わなかったのに、すっかり私たちの悪影響を受けてしまった。でもそう言いつつ手ぬぐいを渡してくれるところは優しい。
「ごめんね小鈴ちゃん。雨が止むまで冷やかしていい?」
「あなた方なら構いません」
と言って小鈴ちゃんは麦茶までごちそうしてくれる。ソファに座って落ちついたら、レコードってカラクリから流れる音楽が快い。
「落ちついた曲。なんて言うの」
「へえ。作者はビル・エヴァンスの、エミリーと言う曲です」
曲の善し悪しは知らないけれども、疎らなピアノの音が雨粒のように落ちる曲だった。
「雨っぽい」
と口にしてみると、小鈴ちゃんは関心するように言葉を繋げた。
「よく天気で私が決めたと分かりますね。じつは雨が降りだしたので、この曲に変えたところです。どうして分かったんです?」
「勘……」
「ふん、まあ勘だろうよ。何せ霊夢に音楽を分析する情緒があるとは思えないね」
「あんたが黙ってくれたら、よく音が聴こえて情緒がつくのにね」
「二人とも喧嘩するなら叩きだしますよ」
皮肉の飛ばしあいはいつものことで、カブトムシとクワガタの争いのような気軽さだ。
「枕に“痴話”を入れろよ、小鈴」
不意に目につく、机の上の金魚鉢。透明なガラスの中で、赤と黒の金魚がたゆたっている。それはなんだか私たちと似ている気がした。
赤い金魚のほうが大きいので……。
「フフ、私の勝ち」
「なんだよ急に?」
「別に……ねえ小鈴ちゃん、どうして金魚を?」
「じつは金魚の霊譚を読みまして、それで飼いたくなったんです」
「おい、おい。この金魚は化生したりしないだろうな」
「まさか! 金魚が化ける条件は奇妙で、私の家ではとても」
と小鈴ちゃんがからからと笑うと、頭の上の鈴もなるので、この家に風鈴は不要かもしれない。
「どんなふうだ?」
「信濃国で妾として迎えられた女が、本妻に金魚鉢へ頭を押しこまれて死んでしまい、金魚の妖怪になると言う滑稽な条件ですよ」
たしかに滑稽だ。少なくとも怪談には向いていないし、化ける心配もないだろう。
「おまえの父親は器量よしなのか?」
「へえ、それなりでしょう」
「そうか。なら妾ができないように用心するべきだな」
「フフフフ……もしできたとしても母は怒って、妾よりも父の頭を金魚鉢に捧げるでしょうね」
小鈴ちゃんの母親が金魚の妖怪より危ないのはまちがいなかった。
「名前は“金魚の幽霊”で、江戸の妖怪ですが名づけたのはあとの人で……なんだっけ。そう、武良茂」
すこし経つと不意に窓から光が射した。外を覗くともう入道雲が小さくなっている。
「入道雲の一生は蝉より儚いな」
と魔理沙は立ちあがる。
「助かったよ小鈴」
「またいつでも来てくださいな」
「行こうか、霊夢」
「うん……あっ。待って!」
「どうした?」
「小鈴ちゃん。アガサクリスQの新刊って出てないっけ」
「へえ、昨日」
私はにやりと魔理沙を見る。
「魔理沙の奢りね」
「ふん? 本は食べものじゃないだろ!」
「だって夕立で何も食べられてないし埋めあわせ。それとも本の一冊も借りられないくらい貧乏なわけ?」
「……分かったよ、負けたよ。今日のおまえは口がうまいな……さては狸だな?」
「あんな老輩と一緒にしないで」
本を借りてもらってから、私たちは鈴奈庵を出た。
雨が降ってすこし涼しくなったけれども、入道雲がまったく消えてしまえばさらに蒸しあつくなるだろう。道の先で陽炎はかすか幻のように揺れている。
「ついでにスイカでも買ってやろうか」
「本当? うれしい」
「その代わり素麺の気分だから夕餉はそれで」
「うん。分かった」
雨に降られてしまっても今日と言う日はすばらしい。夜にスイカを食べられる日はすばらしいに決まっている。
【夕】
スイカを買ったあと私たちは人里はずれの小川で休んでいた。
洗濯にくる人もいるので見まわりのためもある。でも心の底から見まわりなんてしたがるわけもなく、私たちはただ近くの木陰で涼み、小川に半身を浸している紐で括られたスイカを見たり、取りとめもない話と皮肉を交えながら、夕焼を待っていたのだと思う。また夕焼の時間を見はからうような夕立がこないか怯えながら……。
そうして徐々に移ろいゆく空の色。太陽が山背に消えたあと、空に菫の色が添加される。魔理沙の焚いている虫よけの香の残りをちらりと見てから空に向きなおると、そんな瞬くような間で空にわずか赤色が乗りこんできた。私は今とても情緒で考えている。
「どうして夕焼を見ると“こう言う”気分になるんだろうな」
魔理沙は“こう言う”ってぼかしてしまって、私も言葉にしたいのに声が喉で引っかかる。
それは懐かしさなんかに通じていて、私は過去を振りかえらないほうだから、別に幼いころに戻りたいとは思わないのに、でも信じられないくらい懐かしい。
そう、信じられないくらい! ……。
私の信じられない心境と同じように、そのうち空も信じられない赤に染まって、だから急に“夕やけ小やけ”なんて歌ってしまうわけなのだ。
「夕やけ小やけで
日が暮れて
どこかに在りし
鐘が鳴る」
「子供かよ……」
私が急に歌うから魔理沙は冷笑した。
それでも構わず続けるので、魔理沙もそのうち笑うのを已めて、私の肩に頭を乗せたら楽しそうに歌いはじめた。
私もなんだかありえないくらい楽しくなってしまう。
私たちはありえないくらい楽しいこんなにも。
「子供が帰った
あとからは
まるい大きな
おつきさん」
「妖たちが
出るころは
東できらきら
金の髪」
夕やけ小やけの歌言葉は外世とちがうと聞いたことがある。まえまで寺はなかったし、みんな鐘の音を聴かずに死んでゆく。それに“妖”って歌言葉は、外世にはないと思えるのだ。
なんの根拠もないけれども、私には……。
私たちはそう信じているはずなのだ。
暑いのはいつまでも好きになれない。それでも夏はなんて楽しいのだろう。なんて輝かしいのだろう。
こんな日があれば私たちはいつでも童になれる。
蝉がコオロギとスズムシを交えて歌いはじめているのに、赤色が薄れゆく空を惜しむから、私たちだけまだ夕焼のフリ。
でも山の向こうの地平線で、私の目には見えないけれども、空をいつも照らしている巨大な情緒の塊じみた光の輪が、今にも沈みこもうとしているだろう。
『夜』
素麺を食べて風呂で汗も流したら、スイカを切って皿に盛る。先のところが最も甘くておいしいのだ。
魔理沙は育ちがよいから丁寧に種を吐きだしていた。私は面倒だから種も飲みこむ。子供のころから胃に芽が出るなんて怯えたことは一度もない。
残りの半分はしまっておいて、これなら魔理沙の食欲にも優しいから、明日の朝に食べるのもわるくない。朝からスイカなんて贅沢だ。
スイカで満足してしまって飲む気分にはならなかったから、私たちは寝ることにした。押しいれから布団をだそうとして、そう言えばこのまえもう一組の布団を買ったと思いだす。近ごろは神社にくるやつが多いから。
でも私は布団をだすまえに魔理沙のほうに振りかえった。似あわない白い襦袢を着ているあいつを。
「どうした?」
魔理沙は首を傾げてきょとんとしている。
「なんでも」
私はそうほほえんで布団を一組だけ取りだした。
今日は魔理沙と一緒に一日中いたから夜も一緒。
一緒に布団へ寝ころんだら、蝋燭で魔理沙のきらいな蚊取線香に火を点ける。
「ねえ、ちょっとアガサクリスQを読んでいい?」
「うん」
私はうとついている魔理沙の横で蝋燭を頼りに本を読みはじめた。
「霊夢」
「うん……?」
「まだ腫れてる……」
「何」
「手首」
右手首を見たら確かにまだ肌色の海に赤い小島が浮かんでいた。
「寝るまえに軟膏を塗れよ」
「面倒だし……」
一度でも寝ころんでしまったら、もう起きあがれないに決まってる。
「悪化するぞ」
「じゃあ唾でもつけておいてよ」
本にかじりつきたくて私は魔理沙をあしらおうとする。
でも冗談で言ったつもりなのに、魔理沙は急に私の手首を掴んできた。そうして顔を近づけたら、あいつは勢い虫さされに接吻してきたのだった。
私は瞼を、しばたたいた。
「眩しいから火をけして」
もう何がなんだか。魔理沙がすぐに寝がえりを打って反対側を向くころには、本を読む気も失せてしまった。それに明かりをつけていたら、光で顔がよく照らされて、もしあいつがまたこちらを向いたら、こんな顔とても見せられない。
私が冗談を言ったから、魔理沙も冗談で返したのか、それともほかの意図があったのかと、心の芯がぐらぐらと揺れる。
だからすぐに火をけした。
溜息を吐いて寝がえりを打ち、薄らと見える天井のほうを向いて右手で顔を覆ったら、それで本当に眠るべき夜も来ていた。
虫の合唱が、耳に優しい。
今日の夏は私たちに何もかも優しいのだ。
【夢】
あとはその夜に私が眠っているとき見てた夢。
名前しか知らないサイダーって呼ばれるスイカ味の飲料。
八寸の蚊。
煙からハッカ飴の匂いがする線香花火。
忘れがたいのは夏の夕焼でしか会えない恋人。
夏の缶詰(Sunset Is Emotion Lump) 終わり
夕焼け小焼けの幻想郷だけの歌詞とそれを一緒に歌うシーンいいですね
レイマリも安心できる仲で信頼し合っている様子がよく伝わって来ました
最後の手首ちゅーも可愛かったです、ごちそうさまでした
夏の空気感とレイマリのやりとりがとても良かったです
夏の風物詩を一つ一つ感じることが出来ながら、レイマリもしっかりと味わえる。優しい気持ちになれて良かったです。
夏の日の感覚が細やかに描かれていて、本当に一日を過ごしたような読後感がありました。ありがとうございました。
描写も丁寧で味わいがある。勝手に手首をカリカリする魔理沙ちゃん、口づけする魔理沙ちゃん。いずれも目に浮かぶようで、よく「見えて」いるなあと感心する次第です。
これは悠久の歴史に裏打ちされた由緒正しきレイマリ
夏を満喫している二人が素敵でした
レイマリをありがとう
どこか存在しない懐かしさとレイマリの関係性が見えて
素敵な作品でした。