博麗神社にはいくつか特徴的な決まりがあって、そのひとつに「午前のうちから参道の白御影に陽炎が立ち上るほど暑い日には、仕事なんぞはしなくてよい」というものがある。今日などはまさにその典型で、午前十時を待たず早々に店じまいした博麗 霊夢は縁側で液状化を決め込んでいた。
「おひるごはん、どうしようかしら」
よしずが作るまろやかな日陰でごろんと寝返りをひとつ。おそばかな、おうどんかな。決めかねて寝返りをもうひとつ。元の姿勢に戻った霊夢を再び怠惰な時が包む。じわじわという蝉の音さえも、この神社の内ではどこか遠い。
別に昨晩が遅かったわけでもないし、日ごろの疲れが溜まっていたわけでもない。霊夢が食むまどろみに、特にこれという理由はなかった。であれば、それはつまり、なによりも幸福な時間を、彼女は過ごしていたということである。
ぼん、と正午を告げる柱時計に起こされた霊夢は袖を手繰り寄せて身を起こし、猫のように伸びをして室内を見渡した。
気づけば、なんとも食欲をそそる香りが立ち込めているではないか。
「誰か知らないけど、気が利くじゃない」
ちゃぶ台にはいつの間にか、あるいは最初からか。カレーライスが用意されていた。ご丁寧にスプーンには紙ナプキンまで巻かれている。皿はふたつ並んでいた。果たして土間からこちらにトコトコと、足音を鳴らし歩んできたのは誰であろう。
「あら、おはよう。起こしてよいものか迷ってたのよ」
八雲 紫、そのひとであった。平時の道士服の上にエプロンを着け、両手にサラダを持っている。
紫が対面に座ると霊夢はひとつ手を合わせ、いただきますと言ってカレーを食べ始めた……様々な脈絡が置きっぱなしにされていたが、彼女たちの間ではそれで十分なのだった。
かちゃかちゃとスプーンを走らせながら、霊夢が紫に問いかける。
「あんたの作るカレー、美味しいんだけど。もう少しスパイスを利かせてもいいと思うな。むかしから甘口ばかりじゃない」
「カレーはね、甘口がいちばんおいしいのよ。それに、辛いと味が解らないでしょう」
二度のおかわりを経て昼食を終えた霊夢は皿を下げ、麦茶を注いでちゃぶ台に戻る。紫は相変わらずそこに居て、少し汗ばんだ首筋をハンカチでぬぐっていた。
「ねえ、霊夢。ちょっと髪を上げるの手伝ってくれない」
「夏になるたび思うのよねえ。いっそバッサリ切ってやりたい、って」
苦笑いする紫の背後に回り、髪留めでうなじを出してやる。幾分か涼を得た紫がさて、と前置きして霊夢に向き直った。
「去年から今年にかけて、積雪が少なかったのを覚えているかしら」
また急に何を言い出すんだろうなあと思いながらも霊夢は記憶を辿ろうとする。しかし肌にまとわりつく熱気が邪魔をした。うんまあ、そうだったんじゃないかなと、あいまいな返事をすることしかできない霊夢である。
「そして、梅雨に入ってからもいまいち降水量が少なくてね。里の方では水不足が懸念されているほどなのよ」
「あー。そうなの。なに、雨乞いでもしろって?」
「違う違う、今日の私はオフよ」
「じゃあ、なによ」
「実はね。あなたを温泉に誘いに来たの。どうかしら」
「あー? いやあ、悪い話じゃないけど……こんな暑いのに、わざわざ温泉なんて、ねえ」
「ふふ。そう言うだろうと思ったわ。だけど、聞いて驚きなさいな。実はね、わたしがあなたを招待しているのは、いましか入れない、幻の温泉なのよ」
「幻の温泉、だあ――?」
いかにも胡散くさげに声を濁らせる霊夢。紫はまあまあと宥めて、身振り手振りを交えてプレゼンを始めた。
曰く。
幻想郷の北東部、妖怪の山に連なる峻険な山裾に、ひっそりと岩を穿いて染み出している野湯こそが、紫のいう幻の温泉だ。肝心なのはその湧出位置である。なんとこの温泉、普段は堰止湖の底に沈んでしまっているのだ。ゆえに水量があるときは全くその姿を確認することはできないのだが、今年のように山からの河川水位が低下する年にのみ、その姿が現れるのだという。
「だいたい十年に一度くらい、こういう当たり年が来るのよね」
指折り数える紫を傍目に霊夢は腕を組んでううむと唸った。
「温泉ねえ。好きだけど……」
「ねね、いいでしょう? いまならヒヨコちゃんも一緒よ?」
どこからか浴室玩具を取り出した紫があまりにピヨピヨ言わせるものだから、ついつい霊夢も顔がほころんでしまう。こうなっては仕方がない。
「はいはい。解ったわよ。一緒してあげるわ」
「そう言ってくれると思ったわ。それじゃあさっそく、出発しましょうか」
この暑いなか外に出かけるのは億劫だったが、行く先でのんびりできるならそれも悪くないだろう。
「それじゃ、早速準備してくるわね。ええと、着替えに、タオルに、石鹸……あとは」
いざ行こうと決めてみると、なんだかテンションが上がってくる。ウキウキしながら持ち物をカバンに詰める霊夢に、紫は笑顔のままこう言った。
「シャベルとツルハシも、忘れないでね」
紫が霊夢を伴って足を運んだ先は、水量の払底した天然ダムの一角であった。
激烈な下方浸食の働く穿入曲流河川が流れ込んでいるためか、露出している湖床は泥地ではなく砂利である。そして霊夢はこの砂利を、えっちらおっちらと掘り起していた。
照り付ける陽射しを避けるため、頭からタオルを垂らしシャベルを砂利に突き立てる。ざくざくといくらか掘り起しては染み出した水に手を浸し、その冷たさにかぶりを振って場所を変える。そんなことを、もう彼女たちは、かれこれ三時間も繰り返しているのだった。
「少し、休憩にしましょうか」
不意に影が差す。顔を上げると、同じく軍手をはめて、シャベルを担いだ紫がいた。彼女がこんなに汗だくになっているのを見るのは初めてかもしれない。木陰に場所を移し、ばたばたとタオルで仰いで互いに風を送り合う。どこから取り出したのか、紫が差し出した炭酸飲料の缶はキンキンに冷えていた。
「ねえ紫さあ……」
「皆まで言わないで、霊夢。まさか十年でこんなに湖の形が変わってたなんて、思わなかったんだもの」
左様、紫とてわざわざ炎天下に肉体労働をしたくてしている訳ではない。温水を掘り当てるのにこれほど苦労したのは彼女とて初めてだった。
原因はいくつかある。もとより源泉としては湧出量がまばらであったことは確かだが、それ以上に遥か上流に当たる妖怪の山から、大量の石と砂が水により運ばれてきたことで、湖自体が大きく形を変えてしまったことが問題だった。
湖の床には、上流からの水流が起こす運搬作用により一定の地形が出来上がる。紫は今までこの地形を記憶し、それを頼りに熱を持った地下水の染み出る場所を探り当ててきたのだが、この地形が砂と石ですっかり変わってしまったのだ。湖自体も大きくその姿を変え、上流へ向かい谷に沿って細長く伸びている。これらはすべて、妖怪の山で施工された架空参道建設の影響である。東風谷早苗が主導した世界でも類を見ない大規模土木事業は、大なり小なりの影響を、周囲に与え続けているのだった。紫の千年に及ぶささやかな楽しみもまた、この影響からは逃れられなかったわけだ。ともあれ、こうなってしまっては流石の紫もお手上げである。
「ねえ、霊夢。やっぱり今日はやめておきましょうか。また今度、改めて招待するから。それでどう?」
空き缶を自身のスキマに投げ入れながら、申し訳なさそうに紫が目を伏せる。
「んー……」
霊夢は黙って首を振った――……なにも、べつに。そこまでして温泉に入りたいとか、ここまでやったのに投げ出したくないとか。そういうことを、彼女は考えている訳ではなかった。
ただ……ここで帰っても、紫はきっと。ひとりで作業を続けるだろうな、と。それが解ったから、霊夢は首を横に振ったのだった。
「少し、横になって休もうよ。そしたら再開しましょ」
「ええ……うん。そうね」
紫とて、霊夢の考えはお見通しだった。となれば、もはや。お互い、気の済むまでやるしかない。
事ここに居たり、ふたりの遊びは、新しい局面に到達しようとしていた。
ごろんと横になる。ふたりが腰を落ち着けた巨岩は、おそらく川がそうさせたのだろう。すべすべして寝転がるのにちょうどよかった。遥か彼方、山脈のてっぺんから風が吹き降りてきて、谷を抜ける。木陰が揺れる。
さらさらという葉擦れの音に、霊夢が耳を澄ませ――……やがて、別の音が混じっていることに気付く。
「…………」
ひたり、と。耳を当てる。どこに? 岩に。彼女たちがふたり掛けして、なお余裕のある、すべすべした巨岩に、である。
「なるほどね」
霊夢の浮かべた微笑の意味を計りかねた紫が、ころんと首をかしげて疑問を示した。足元の石をこつこつと叩いて、同じようにするよう促すと……すぐに、紫も気づく。
「ね、聞こえるでしょ。明らかに川のものとは異なる、水の音がするわ」
「ええ……ああ、なんてこと。私たちの温泉は、この岩の下にあったのね」
岩から降りて、その横っ面を押してみる。当然、びくともしない。
幅二メートル、奥行き三メートル半。重量にして、実に、七トンを超えようかという巨岩が、彼女たちが挑む相手だった。
東方地霊殿を引き合いに出すまでもなく、岩の相手をするのはこれが初めてではない。オーソドックスな手法だが、ふたりが採用したのはてこの原理だった。
まず巨岩の周囲に溝を作り、湖底から探してきた流木を差し込む。紫が体重をかけて出来上がった僅かなスキマに別の岩を差し込み、徐々に巨岩を傾ける。
この地道な作業は実に二時間以上続き、ふたりはすっかり泥だらけ、砂まみれになっていた。やがて巨岩がバランスを崩し、ずるずると斜面に沿って滑り落ちた――
――すると、待ってましたとばかり。砂を押しのけながら、自噴する地下水が現れたではないか。
「……紫!」
笑顔で紫を振り仰ぐ霊夢。だが、まだこれが温泉だとは限らない。ただの地下水かもしれない。
「さあ、どうかしら……」
軍手を外し、溜まり始めた湧水に手を浸す紫。その様子を、霊夢は固唾を飲んで見守った。
「ね、ねえ……どうなの? どうなのよ?」
手を引き上げた紫が、ぴたりと霊夢の頬に手をあてる。
「……あったかい!」
「やれやれ、けっきょく、丸一日かかっちゃったわね」
沈む夕日を眺めながら、紫は大きく息を吐いた。
巨岩がどいたことで出来上がったくぼみは、肩をぴったり並べさえすればふたりで入ることもできる、ぎりぎりのサイズだった。彼女たちの目の前でふつふつと沸き上がり、やがてお湯がくぼみ一杯に貯まる。
「こうしてみると、けっこうしっかり温泉じゃない!」
「そうでしょう。まさに秘湯だと思わない?」
ふたりそろって服を脱ぎ始める。スカートは簡単に外せたが、汗みずく泥みずくになってしまったため、シャツが脱げず四苦八苦する霊夢。
見かねた紫がばんざいしなさい、というと、霊夢は露骨に顔をしかめたが言う通りにした。裾を掴んで、ぺろんと服を脱がせる紫。昔を思い出すわね――とは。思っても、口に出さない彼女であった。
下着も脱ぎ捨て、髪の毛をまとめる。どうせふたりだけのお湯なのだ。身体も洗わず、彼女たちはざぶんとお湯に飛び込んだ。
「ううう、くふう、はああ」
「ふうーう、ふー、はあ」
肺の底から絞り出されるような声。実に染みる、染みわたるお湯ではないか。
ぱしゃぱしゃと首元に湯をかけながら、ふたりは揃って空を見上げる。
真っ暗な、山の中ではあったが。もとが湖というだけあって、梢は遠く、空への視界は存分に開けていた。
ああ、まさに。
星を見るには、うってつけの場所だ。
「あのさ、紫」
「なあに」
「一度しか言わないから、よく聞いてよ」
「うん」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
気恥ずかしさに耐えきれなくなった霊夢が、さぶんとお湯に頭を沈める。そして紫は、誰も。
左様、霊夢さえも見ていない、この瞬間だけは。
誰にも見せたことのない、満面の笑みを浮かべていたのだった。
ひとしきり湯を堪能し、身体を清め合ったふたりが神社に戻ったころには、もはや日付が変わろうとしていた。
「それじゃあ、わたしはこの辺で」
霊夢から離れ、昼間の熱を徐々に空気に逃がす参道の石畳の上を、紫はひとりで歩み去ろうとする。さもありなん、ここは神社だ。彼女のようなものが、気軽に屋根を借りていい場所ではない。もはや気にする者の方が少ないことだとしても、その境界をことさら守ろうとするのが八雲 紫という少女だった。
その足取りが不意に止まる。
霊夢が袖をつかんでいた。
「ねえ、紫……十年に、一度くらいは。そういうの、忘れる日があってもいいんじゃないかな」
じっと、霊夢が紫の背中を見つめていた……やがて、どちらからともなく、大きく息をつく。
「そうね。十年に一度くらいは。いいかもしれないわね」
ぱ、と表情を明るくする霊夢。そうと決まれば、とっておきのお酒があるのだと言い、彼女は紫の手を引いて神社へと招き入れる。
この翌日、十年に一度規模の二日酔いに悩まされることになるのだが、それはまた別のお話とする。
「おひるごはん、どうしようかしら」
よしずが作るまろやかな日陰でごろんと寝返りをひとつ。おそばかな、おうどんかな。決めかねて寝返りをもうひとつ。元の姿勢に戻った霊夢を再び怠惰な時が包む。じわじわという蝉の音さえも、この神社の内ではどこか遠い。
別に昨晩が遅かったわけでもないし、日ごろの疲れが溜まっていたわけでもない。霊夢が食むまどろみに、特にこれという理由はなかった。であれば、それはつまり、なによりも幸福な時間を、彼女は過ごしていたということである。
ぼん、と正午を告げる柱時計に起こされた霊夢は袖を手繰り寄せて身を起こし、猫のように伸びをして室内を見渡した。
気づけば、なんとも食欲をそそる香りが立ち込めているではないか。
「誰か知らないけど、気が利くじゃない」
ちゃぶ台にはいつの間にか、あるいは最初からか。カレーライスが用意されていた。ご丁寧にスプーンには紙ナプキンまで巻かれている。皿はふたつ並んでいた。果たして土間からこちらにトコトコと、足音を鳴らし歩んできたのは誰であろう。
「あら、おはよう。起こしてよいものか迷ってたのよ」
八雲 紫、そのひとであった。平時の道士服の上にエプロンを着け、両手にサラダを持っている。
紫が対面に座ると霊夢はひとつ手を合わせ、いただきますと言ってカレーを食べ始めた……様々な脈絡が置きっぱなしにされていたが、彼女たちの間ではそれで十分なのだった。
かちゃかちゃとスプーンを走らせながら、霊夢が紫に問いかける。
「あんたの作るカレー、美味しいんだけど。もう少しスパイスを利かせてもいいと思うな。むかしから甘口ばかりじゃない」
「カレーはね、甘口がいちばんおいしいのよ。それに、辛いと味が解らないでしょう」
二度のおかわりを経て昼食を終えた霊夢は皿を下げ、麦茶を注いでちゃぶ台に戻る。紫は相変わらずそこに居て、少し汗ばんだ首筋をハンカチでぬぐっていた。
「ねえ、霊夢。ちょっと髪を上げるの手伝ってくれない」
「夏になるたび思うのよねえ。いっそバッサリ切ってやりたい、って」
苦笑いする紫の背後に回り、髪留めでうなじを出してやる。幾分か涼を得た紫がさて、と前置きして霊夢に向き直った。
「去年から今年にかけて、積雪が少なかったのを覚えているかしら」
また急に何を言い出すんだろうなあと思いながらも霊夢は記憶を辿ろうとする。しかし肌にまとわりつく熱気が邪魔をした。うんまあ、そうだったんじゃないかなと、あいまいな返事をすることしかできない霊夢である。
「そして、梅雨に入ってからもいまいち降水量が少なくてね。里の方では水不足が懸念されているほどなのよ」
「あー。そうなの。なに、雨乞いでもしろって?」
「違う違う、今日の私はオフよ」
「じゃあ、なによ」
「実はね。あなたを温泉に誘いに来たの。どうかしら」
「あー? いやあ、悪い話じゃないけど……こんな暑いのに、わざわざ温泉なんて、ねえ」
「ふふ。そう言うだろうと思ったわ。だけど、聞いて驚きなさいな。実はね、わたしがあなたを招待しているのは、いましか入れない、幻の温泉なのよ」
「幻の温泉、だあ――?」
いかにも胡散くさげに声を濁らせる霊夢。紫はまあまあと宥めて、身振り手振りを交えてプレゼンを始めた。
曰く。
幻想郷の北東部、妖怪の山に連なる峻険な山裾に、ひっそりと岩を穿いて染み出している野湯こそが、紫のいう幻の温泉だ。肝心なのはその湧出位置である。なんとこの温泉、普段は堰止湖の底に沈んでしまっているのだ。ゆえに水量があるときは全くその姿を確認することはできないのだが、今年のように山からの河川水位が低下する年にのみ、その姿が現れるのだという。
「だいたい十年に一度くらい、こういう当たり年が来るのよね」
指折り数える紫を傍目に霊夢は腕を組んでううむと唸った。
「温泉ねえ。好きだけど……」
「ねね、いいでしょう? いまならヒヨコちゃんも一緒よ?」
どこからか浴室玩具を取り出した紫があまりにピヨピヨ言わせるものだから、ついつい霊夢も顔がほころんでしまう。こうなっては仕方がない。
「はいはい。解ったわよ。一緒してあげるわ」
「そう言ってくれると思ったわ。それじゃあさっそく、出発しましょうか」
この暑いなか外に出かけるのは億劫だったが、行く先でのんびりできるならそれも悪くないだろう。
「それじゃ、早速準備してくるわね。ええと、着替えに、タオルに、石鹸……あとは」
いざ行こうと決めてみると、なんだかテンションが上がってくる。ウキウキしながら持ち物をカバンに詰める霊夢に、紫は笑顔のままこう言った。
「シャベルとツルハシも、忘れないでね」
紫が霊夢を伴って足を運んだ先は、水量の払底した天然ダムの一角であった。
激烈な下方浸食の働く穿入曲流河川が流れ込んでいるためか、露出している湖床は泥地ではなく砂利である。そして霊夢はこの砂利を、えっちらおっちらと掘り起していた。
照り付ける陽射しを避けるため、頭からタオルを垂らしシャベルを砂利に突き立てる。ざくざくといくらか掘り起しては染み出した水に手を浸し、その冷たさにかぶりを振って場所を変える。そんなことを、もう彼女たちは、かれこれ三時間も繰り返しているのだった。
「少し、休憩にしましょうか」
不意に影が差す。顔を上げると、同じく軍手をはめて、シャベルを担いだ紫がいた。彼女がこんなに汗だくになっているのを見るのは初めてかもしれない。木陰に場所を移し、ばたばたとタオルで仰いで互いに風を送り合う。どこから取り出したのか、紫が差し出した炭酸飲料の缶はキンキンに冷えていた。
「ねえ紫さあ……」
「皆まで言わないで、霊夢。まさか十年でこんなに湖の形が変わってたなんて、思わなかったんだもの」
左様、紫とてわざわざ炎天下に肉体労働をしたくてしている訳ではない。温水を掘り当てるのにこれほど苦労したのは彼女とて初めてだった。
原因はいくつかある。もとより源泉としては湧出量がまばらであったことは確かだが、それ以上に遥か上流に当たる妖怪の山から、大量の石と砂が水により運ばれてきたことで、湖自体が大きく形を変えてしまったことが問題だった。
湖の床には、上流からの水流が起こす運搬作用により一定の地形が出来上がる。紫は今までこの地形を記憶し、それを頼りに熱を持った地下水の染み出る場所を探り当ててきたのだが、この地形が砂と石ですっかり変わってしまったのだ。湖自体も大きくその姿を変え、上流へ向かい谷に沿って細長く伸びている。これらはすべて、妖怪の山で施工された架空参道建設の影響である。東風谷早苗が主導した世界でも類を見ない大規模土木事業は、大なり小なりの影響を、周囲に与え続けているのだった。紫の千年に及ぶささやかな楽しみもまた、この影響からは逃れられなかったわけだ。ともあれ、こうなってしまっては流石の紫もお手上げである。
「ねえ、霊夢。やっぱり今日はやめておきましょうか。また今度、改めて招待するから。それでどう?」
空き缶を自身のスキマに投げ入れながら、申し訳なさそうに紫が目を伏せる。
「んー……」
霊夢は黙って首を振った――……なにも、べつに。そこまでして温泉に入りたいとか、ここまでやったのに投げ出したくないとか。そういうことを、彼女は考えている訳ではなかった。
ただ……ここで帰っても、紫はきっと。ひとりで作業を続けるだろうな、と。それが解ったから、霊夢は首を横に振ったのだった。
「少し、横になって休もうよ。そしたら再開しましょ」
「ええ……うん。そうね」
紫とて、霊夢の考えはお見通しだった。となれば、もはや。お互い、気の済むまでやるしかない。
事ここに居たり、ふたりの遊びは、新しい局面に到達しようとしていた。
ごろんと横になる。ふたりが腰を落ち着けた巨岩は、おそらく川がそうさせたのだろう。すべすべして寝転がるのにちょうどよかった。遥か彼方、山脈のてっぺんから風が吹き降りてきて、谷を抜ける。木陰が揺れる。
さらさらという葉擦れの音に、霊夢が耳を澄ませ――……やがて、別の音が混じっていることに気付く。
「…………」
ひたり、と。耳を当てる。どこに? 岩に。彼女たちがふたり掛けして、なお余裕のある、すべすべした巨岩に、である。
「なるほどね」
霊夢の浮かべた微笑の意味を計りかねた紫が、ころんと首をかしげて疑問を示した。足元の石をこつこつと叩いて、同じようにするよう促すと……すぐに、紫も気づく。
「ね、聞こえるでしょ。明らかに川のものとは異なる、水の音がするわ」
「ええ……ああ、なんてこと。私たちの温泉は、この岩の下にあったのね」
岩から降りて、その横っ面を押してみる。当然、びくともしない。
幅二メートル、奥行き三メートル半。重量にして、実に、七トンを超えようかという巨岩が、彼女たちが挑む相手だった。
東方地霊殿を引き合いに出すまでもなく、岩の相手をするのはこれが初めてではない。オーソドックスな手法だが、ふたりが採用したのはてこの原理だった。
まず巨岩の周囲に溝を作り、湖底から探してきた流木を差し込む。紫が体重をかけて出来上がった僅かなスキマに別の岩を差し込み、徐々に巨岩を傾ける。
この地道な作業は実に二時間以上続き、ふたりはすっかり泥だらけ、砂まみれになっていた。やがて巨岩がバランスを崩し、ずるずると斜面に沿って滑り落ちた――
――すると、待ってましたとばかり。砂を押しのけながら、自噴する地下水が現れたではないか。
「……紫!」
笑顔で紫を振り仰ぐ霊夢。だが、まだこれが温泉だとは限らない。ただの地下水かもしれない。
「さあ、どうかしら……」
軍手を外し、溜まり始めた湧水に手を浸す紫。その様子を、霊夢は固唾を飲んで見守った。
「ね、ねえ……どうなの? どうなのよ?」
手を引き上げた紫が、ぴたりと霊夢の頬に手をあてる。
「……あったかい!」
「やれやれ、けっきょく、丸一日かかっちゃったわね」
沈む夕日を眺めながら、紫は大きく息を吐いた。
巨岩がどいたことで出来上がったくぼみは、肩をぴったり並べさえすればふたりで入ることもできる、ぎりぎりのサイズだった。彼女たちの目の前でふつふつと沸き上がり、やがてお湯がくぼみ一杯に貯まる。
「こうしてみると、けっこうしっかり温泉じゃない!」
「そうでしょう。まさに秘湯だと思わない?」
ふたりそろって服を脱ぎ始める。スカートは簡単に外せたが、汗みずく泥みずくになってしまったため、シャツが脱げず四苦八苦する霊夢。
見かねた紫がばんざいしなさい、というと、霊夢は露骨に顔をしかめたが言う通りにした。裾を掴んで、ぺろんと服を脱がせる紫。昔を思い出すわね――とは。思っても、口に出さない彼女であった。
下着も脱ぎ捨て、髪の毛をまとめる。どうせふたりだけのお湯なのだ。身体も洗わず、彼女たちはざぶんとお湯に飛び込んだ。
「ううう、くふう、はああ」
「ふうーう、ふー、はあ」
肺の底から絞り出されるような声。実に染みる、染みわたるお湯ではないか。
ぱしゃぱしゃと首元に湯をかけながら、ふたりは揃って空を見上げる。
真っ暗な、山の中ではあったが。もとが湖というだけあって、梢は遠く、空への視界は存分に開けていた。
ああ、まさに。
星を見るには、うってつけの場所だ。
「あのさ、紫」
「なあに」
「一度しか言わないから、よく聞いてよ」
「うん」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
気恥ずかしさに耐えきれなくなった霊夢が、さぶんとお湯に頭を沈める。そして紫は、誰も。
左様、霊夢さえも見ていない、この瞬間だけは。
誰にも見せたことのない、満面の笑みを浮かべていたのだった。
ひとしきり湯を堪能し、身体を清め合ったふたりが神社に戻ったころには、もはや日付が変わろうとしていた。
「それじゃあ、わたしはこの辺で」
霊夢から離れ、昼間の熱を徐々に空気に逃がす参道の石畳の上を、紫はひとりで歩み去ろうとする。さもありなん、ここは神社だ。彼女のようなものが、気軽に屋根を借りていい場所ではない。もはや気にする者の方が少ないことだとしても、その境界をことさら守ろうとするのが八雲 紫という少女だった。
その足取りが不意に止まる。
霊夢が袖をつかんでいた。
「ねえ、紫……十年に、一度くらいは。そういうの、忘れる日があってもいいんじゃないかな」
じっと、霊夢が紫の背中を見つめていた……やがて、どちらからともなく、大きく息をつく。
「そうね。十年に一度くらいは。いいかもしれないわね」
ぱ、と表情を明るくする霊夢。そうと決まれば、とっておきのお酒があるのだと言い、彼女は紫の手を引いて神社へと招き入れる。
この翌日、十年に一度規模の二日酔いに悩まされることになるのだが、それはまた別のお話とする。
霊夢と紫がそうした何でもない作業を通じて、完全に息が合っていて、それにちょっとした二人の歴史も感じられて、すごく良かったです
とても良いゆかれいむでした
霊夢のうたたねの描写猫、
紫の髪、
霊夢と紫の関係性、
温泉にただはいるだけでなく、
シャベルとツルハシの文字で予想はつきましたが、
好きなシーンが、
霊夢がばんざいして紫におよふくを脱がしてもらうところで、
『昔を思い出すわね』とのことで、なんだか心がふんわりしました。
もちろん、満面の笑みでも、
裾をつかむところでも。
きゅんきゅんさせられる箇所が多くて、
よかったです。
>>「少し、横になって~
休もう?
紫の前では子供っぽい霊夢にほっこりします。
親子のような心を許し合っているからこその掛け合いが素敵でした。面白かったです。
完璧か?
こちらの心も温かくなった気がします
幻想少女たちの日常風景!!!!!
ゆかれいむ!!!!!!
最高でした。